東方殴り祝伝説 〜Bare Knuckle Prayers〜 幕間2→3 『東風谷来たりて何思う』 ※ ※ ※ 凪の時間というものがある。 加熱に加熱を重ねた特設リングの上から選手の姿が消えた休憩時間、博麗神社の境内は それまでの羽虫の跳ね回るような騒々しさとは打って変わった、さざなみのような穏やか なざわめきに包まれていた。 その二つは同じように「静寂の逆」でありながら、しかし意味合いはまったく異にする ものだ。 試合中は誰もがリングに視線を向け、二転三転する試合模様に鋭く強い悲鳴や怒号をあ げていた。それは居並ぶ妖怪少女たちの感情が暴風のように吹き荒れる『動の音』と言え るだろう。 対して、二回戦と三回戦の間のわずかな時間に漂っているのは、「二回戦のあの試合っ て面白かったね」と振り返って談笑するやわらかい『静の音』であった。 その『静』を、感情の暴風に対して、感情の凪とするならば、それは緊張の連続で疲弊 した心への休憩時間とも言えるかもしれない。 試合中の『叫び』が客同士、違う選手に賭けた者同士の殴り合いであるとするならば、 現在の『談笑』はお互いの痛んだ心への適度な刺激――マッサージというわけだ。 実際、それぞれの試合に対して喜怒哀楽を繰り返した妖怪たちは、かなりの興奮状態に 陥っていたりする。酔っ払いがそうであるように、極度の躁状態の者は何をしでかすかわ からない。特に力を持て余した妖怪であれば、その興奮のままに自らがリングに飛び込む ような者も出てくることだろう。 なので、各回戦ごとに挟まれる休憩時間とは、選手たちの体力回復を意図したものとい うよりも、どちらかというと熱され過ぎた会場の空気を適温に戻すために存在しているの が実情だ。 そして、その凪の時間、紅魔館のメイド長であるところの十六夜咲夜の姿は、急ごしら えのバーカウンターの内にあった。 境内に設置されている仮設調理場の端にある、二、三人が並ぶのがやっとのカウンター。 配膳されるつまみが待ちきれずに自ら皿を求めてやってくる妖怪たちが、気軽に「ついで に一杯もらっていくか♪」と唇を舐めて訪れるような、そんな場所だ。 そこで黙々とグラスを磨く咲夜の足元には、この大晦日の格闘ごっこ大会の観戦料とし て持ち込まれた大量の酒瓶が並んでいる。和洋問わずに豊富な品揃えは、そのまま博麗神 社の境内に集まった妖怪たちの出身地の豊富さをも物語っているようだ。 ちなみに、その場所の主よろしく居座っている咲夜であるが、実は別に『お酒配膳担当』 というわけではない。 二回戦が終わるや否や、 ・お嬢様たちのおやつの補給(赤いもの入り) ・二回戦で消費された食器の洗浄 ・有志の妖怪たちと共に三回戦で消費されるおつまみの用意 という三つの仕事をそれこそ時間を早送りする勢いで――いやまあ――こなした彼女が、 「ちょっとひと休み」と逃げ込んだのが、「二、三人しか相手にしなくていい」カウンタ ーであっただけである。 皆が息抜きの凪状態になる休憩時間にこそ大立ち回りするのがメイドたちの使命である 以上、咲夜にも休憩などしている暇は無いはずであったが、二回戦では選手として戦い、 さらにKOまでされたことを考えると、むしろ良くもそこまで平然とした顔で仕事ができ ていたものだと感心するしかない。外から見た限りでは疲れなど微塵も感じさせない、定 規でも入ったかのように背筋が伸びたその佇まいは、まさにパーフェクトメイドの名に相 応しいと言えるだろう。 もっとも、 (ま、本当に休みたくなったら、時間を止めて三時間くらい仮眠をとればいいでしょ) 欠伸を噛み殺しながらグラスをきゅっきゅっと鳴らす本人は、その程度にはアバウトだ ったりもするのだけれど。 ――ともあれ。 チルノが幽香の出した季節はずれの桃の汁に顔をベタベタにしていたり、 レミリアが小腹が空いたと納豆かけご飯と味噌汁で一杯やっていたり、 霊夢が壊れた賽銭箱の中から御札や瓶の王冠と小銭を選り分けていたり、 プリズムリバー三姉妹がそれぞれにリクエストを受けて快い演奏を繰り広げていたり、 そんなごくごく平和な宴会の時間。 周囲の喧騒を子守唄代わりに『磨く』という単純作業を半分眠りながら続けていた咲夜 の目を醒まさせたのは、不意に訪れた見慣れぬ二人組からの注文であった。 「私に駆けつけ三杯。あと、こっちの子にも何か用意してあげて」 と、そのごくごく普通の注文に眠気も吹き飛ぶほどの驚きを覚えたのは、その二人のう ちの片割れが明らかに『人間』であったからだ。 一人は注連縄に鏡を組み合わせたネックレスという奇抜極まりないファッションで胸を 張る変人――変妖怪?。 もう一人は、何やら博麗の巫女の偽物のようなコスプレもどきの人間の少女。 それらの格好も奇妙であったが、それくらいならば幻想郷には日常的にありふれている 『奇妙さ』だ。しかし、人間と妖怪の組み合わせというのは……やはり人里の外ではなか なか目にする機会の無いものだ。 だが、彼女はすぐに自分が『カウンターの内側』にいることを思い出し、湧き上がる好 奇心を抑えながら、自らのメイドとしての責務を果たすために行動する。 つまり、 「いらっしゃいませ、お客様。幻想郷は『初めて』でいらっしゃいますね?」 二人の珍客を、十六夜咲夜は完璧なる笑顔で迎え入れたのであった。 ※ ※ ※ 「……ほら、やっぱりバレてるじゃないですか」 「う〜ん、これだけ妖怪いれば紛れると思ったんだけどなぁ」 咲夜にあっさりと初顔であることを看破されたエセ巫女服の少女――東風谷早苗は、カ ウンターの前でぺろっと舌を出す注連縄の少女――八坂神奈子の悪気の無い言いっぷりに 軽くため息をつく。 ため息はツキを逃がすとは言うが、それでも出てしまう愚痴というものはあるものだ。 「大晦日で忙しい時に『二時間だけ、二時間だけでいいから』ってつれてこられた私の身 にもなってください。と言うか、八坂様がいなくて年末年始の祭事はどうするんですか」 大声を張り上げるわけでもなく、ぶちぶちと怒る。 しかし、そのように早苗が唇を尖らせても、神奈子のあっけらかんとした明るい表情は 崩れない。むしろ、早苗のお小言を楽しむようにして彼女は言うのだ。 「大丈夫大丈夫。ちょっと見たらすぐ帰るから。それに、もうあそこのお祭は私無しでも 問題ないわよ」 と。 その言葉がどれほど深い意味を持つのか、理解できない早苗ではない。結果、そのひと ことは早苗の続くお小言を封じ、その場で視線を漂わさせる。 「そ、それはそうかもしれないですけど……」 そのことを認めるのは、早苗にとっては辛いことだ。そして、早苗が神奈子を前にして 明言することを避けていた話題でもある。 現在、自分たちの神社がどのような状況に陥っているか、早苗はもちろん承知している。 早苗たちの神社は多くの氏子たちに愛され、毎年例大祭には町ぐるみで祭が執り行われ ている、『現代』では珍しいほどに生きた信仰を得ている神社だ。 だが、その一方で地元神話に支えられた信仰は内に強く外に弱い傾向を持ってしまって おり、土地外の信者の不足というジレンマをも抱えている。 そこに来て、昨今の人間の神様離れだ。 『狭く深く』を体現した彼女たちの神社は土地の老人たちからの支持は厚いけれど、新 世代の若者たちの信仰を獲得することができず、信者層の高齢化という現象を引き起こし てしまっていた。 それはつまり『今後絶対に増えることはなく、徐々に減り続ける』現状の誕生というわ けだ。古い信者たちの他界と共にゆるやかに死滅に向かいつつある信仰というこの流れの 絶体絶命さを表現するには、次のひとことで足りる。 (『時間の問題』……よね) そして、信仰の消滅は神奈子の神徳の消滅であり、それは神にとっての死と同義だ。 要するに、近い未来の死を告げられた患者――それが八坂神奈子という神様の現状なの である。 だからこそ、早苗は『余命宣言』された神奈子のために精力的に動き回っていた。あと 何回あるかわからない神奈子自身が参加する正月祭事に向けて、後に悔いが残らないよう、 滞りなく準備を進めていた。 それこそ、『平成風祝細腕奮闘録』という自伝にして出版しても良いくらいのがんばり っぷりであった。 だというのに――。 「いきなりこんな場所に散歩だなんて……どういうおつもりなんですか?」 その話題に触れていいのかと心配しながら、思い切って早苗はそう尋ねてみた。 十二月の末になって、師走という言葉が自分の二つ名になりそうな勢いで年末年始の行 事のために走り回っていた早苗は、ようやく手に入れた数時間の仮眠のために自室に下が ろうとした。そこを神奈子に掴まり、神社の裏手に連れ込まれたと思ったら……いきなり 見たことも無い山奥だ。 幻想郷という妖怪が跋扈する秘密の隠れ里の説明を聞いた時はさすがに驚いたが、自分 自身現人神であるところの早苗は柔軟にその事実を受け入れた。 受け入れて、「納得がいかない」と憤慨した。 神奈子が直面している問題が大変だからこそ、覆せない未来があるからこそ今を大切に しようと祭事を充実させようとしていた矢先の、まさかのサボリだ。現状の危機を理解し ているからこそ、早苗は強引な神奈子の誘いに苦虫を噛み潰す思いをせずにはいられない。 正直、早苗は神奈子が能天気すぎると感じてしまう。何せ、自分が消えますよと言われ てもいつも通りに快活に笑っているのだ。 (私たちに残された時間は……もう少ないのに) もちろん、二年や三年で信者が尽きるとは思わない。神奈子が『死んだ神』になるまで はまだ十年以上の余裕があるだろう。 だが、十数年など、彼女たちの神社が存在し続けてきた長い歴史に比べれば、瞬きのよ うなものだ。 (その後に残るのは、神様のいない神社?) それを想像して、早苗は冬の寒さ以上に背筋が凍るのを感じた。なんて恐ろしい。いか に外観が立派であろうと、そこがもぬけの殻では、なまじ形が神聖な建物であるだけにお ぞましい。 そんなたくさんの思いを遠慮がちに向けてきた早苗に対して、やはり神奈子は持ち前の フランクな態度で言うのだ。 「どういうおつもりって訊かれれば、今後のためって答えるしかないわね」 カウンターの向こうから無言で咲夜が差し出してくる大ジョッキのビールを受け取りな がら、神奈子は良く聞きなさい、と唇を舐める。 そして、 「早苗は私が神徳を無くすのを惜しんでるけど、私はもっと色々惜しんでるわけなのよ」 「?」 怪訝そうな顔をする早苗を横に、ほとんど垂直に近いくらいにジョッキを傾けて一気に 中の琥珀を流し込む。ゴクゴクゴクではなく、ゴクン、ゴクン、と数少ない音で、見る間 にその酒は目方を減らして神奈子の胃の中へと消える。 「ぷはぁ〜!」 すると、それに合わせたようにもう一杯のジョッキがカウンターに置かれ、神奈子はそ れも、 「くはぁ〜!」 さらにもう一杯が置かれ、 「ぷはぁ〜。う〜ん、『外』より少し美味しいかも。ちょっとぬるいけど」 あっと言う間に飲み干した。一杯あたり三秒もかけない、神がかり的な早飲みだ。まる で蛇が酒樽を丸呑みするような速度である。その細い喉のどこをどうやればそれほど大量 の液体が短時間で通り抜けるのか、早苗は常日頃から疑問に思っているのだが、ともあれ 今は素朴な疑問よりも死活問題への質問の方が優先だ。 「色々惜しんでいる、ですか?」 その質問は愚鈍にも神奈子の言った言葉を反復するだけというものだったが、それでも 神奈子は気を悪くした様子もなく大仰にうなずいてみせる。 「そう。早苗はさっきから私がいなくなる話ばっかりだけど、残念ながら私はそう簡単に 消えるつもりはないってわけ」 「え? そ、それって――」 意味深な言葉に早苗が思わず椅子から腰を浮かすと、その頭にぽふんと神奈子の手が乗 った。 で。 「あうっ!?」 ぐいっと、強引に押さえ込まれて、早苗の尻は再び椅子に着地した。 「詳しい話は後。それより、お酒はまだなの、バーテンダーさん? このままだとこの子、 身体を冷やしちゃうわ」 「畏まりました」 二人の話がひと段落するのを待っていたメイドは、しかしビールを出した手早い動きと は違い、今度はその場で直立したまま動かない。 一秒、二秒と経過して、二人がさすがに訝しむと、まるでそうして自分に注目を集める ようにして、そのメイドは尋ねるのだった。 「銘柄のご指定はありますか?」 と。 ※ ※ ※ その咲夜の質問は、酒を用意される早苗ではなく、場の主導権を握っている神奈子へと 向けられたものだった。 すると、神奈子はその咲夜の質問に何か感じるところがあったのか、ニヤリと面白げに 唇を笑みの形にして、粗末なカウンターの上に頬杖をつく。 「ふ〜ん、こんな田舎にいるわりには良く出来た子ね。そうね、この子の名前、東風谷早 苗って言うの」 「承知いたしました。では――こちらのお酒などいかがでしょう?」 神奈子の言葉を受けて、咲夜がカウンターの裏に並ぶ酒瓶から一本を選び出す。それを 見て、神奈子がクスクスと肩を揺らす。 「うん、面白いわ。これなら、お酒が苦手な早苗でも飲めるんじゃない?」 「『東風の梅』?」 銘柄が見えるように咲夜がラベルを向けてくれると、早苗はそこに書いてある酒の名前 に目を丸くした。 「へぇ〜。こういうお酒があるんですね」 「はい。お酒と同じ名前というのも縁ですし、一杯いかがですか?」 「あ、じゃあ……ちょっとだけ」 本当にちょっとだけ、と早苗は親指と人差し指を使って小さな隙間を作ってみせる。 お酒は二十歳を過ぎてからとは言いつつ、早苗だって神社の務めでしょっちゅう酒を扱 う身だ。神奈子につきあって一回二回くらいは日本酒を舐めたことくらいはある。だが、 その時はあまりに強いアルコールに喉が焼けてむせてしまい、また後日「これならアルコ ール度数低いから」と飲まされたビールの苦さに顔をしかめた経験が、彼女に『お酒は美 味しいものじゃない』という思いを抱かせている。 (飲めなくても困らないし) それとも、嫌いだった野菜をいつの間にか美味しく食べられるようになっているように、 大人になればお酒の味が美味しく感じられるようになるんだろうか。 そのように漠然と考えていたりもしていた。 だから、「ちょっとだけ」というのは、酒の苦手な早苗なりに『自分の名前の一部を使 った酒への興味』と、『酒をすすめてくれたメイドさんへの申し訳なさ』が言わせた妥協 のひとことだ。 そのおずおずとした物言いに、咲夜はまだ未開封だった『東風の梅』の封を解きながら 頬を緩める。 「そう構えなくて大丈夫ですよ。このお酒は、お酒というよりもジュースのようなもので すから」 言いながら、咲夜は金属でできた徳利のようなものをカウンターの上に置く。それがシ ェイカーという器具であることくらいは、酒に疎い早苗でも知っていた。 (え〜と、カクテルを作るのにシャカシャカするやつよね) テレビで見た程度の知識でそう判断すると、しかし早苗はすぐに気がついた。 カウンターの上に置かれた酒は『東風の梅』のみだ。 シェイカーがあっても、混ぜ合わせるべき他の酒も、またシェイカーの中でシャカシャ カ音を立てる氷も用意されていない。 「それ、何に使うんですか?」 「何に使うと思います?」 さらっと質問に質問を返され、早苗は面食らう。そうしている間にも咲夜はシェイカー の蓋を開け、その口にすり鉢状の漏斗を添えて『東風の梅』を注ぎ込む。トクトクトク、 と適量が瓶からシェイカーに移動すると、咲夜は手早く酒瓶の口を封じ、シェイカーを両 手で掴むと流れるような仕草でそれを文字通り『シェイク』した。 「え? え?」 「うんうん」 混ぜ合わせるわけでもなく酒単品のみをシェイカーに入れて振るという行為に目をぱち ぱちさせる早苗と、好対照に訳知り顔でうなずく神奈子に見つめられる中、咲夜はひとし きりシェイクするとシェイカーの口を開け、中身を早苗のために用意されたグラスへと移 動させる。 「どうぞ、お試し下さい」 「は、はあ」 瓶からシェイカー、シェイカーからグラス、と二度己の住処を変えた酒は、琥珀よりも 薄く優しい色合いで、早苗の見たままで言えば『梅酒』だ。『東風の梅』という名前から、 梅を使った酒が出るのだろうとは予想していたが、その『出し方』は早苗の予想を大きく 外れており、まさに困惑以外のなにものでもない。 「え〜と。これ、飲んでいいんですよね?」 「はい。できればお早めにどうぞ」 にっこりと幻想郷のメイドさんにすすめられ、早苗は恐る恐るグラスを手に取った。チ ラリと神奈子の方を見ると、まるでそれがわかっていたかのようにウィンクしてくる。 (どういうこと?) 早苗に酒を出すだけなら、そのまま酒瓶からグラスに注ぐだけで良かったはずだ。それ なのにわざわざ形だけのシェイクをしてみせたのは、何かのパフォーマンスなのか、それ とも何か――。 (魔法でも使ったのかしら?) 神奈子から聞かされているのは、幻想郷という場所には本物の『魔法』があるというこ と。早苗が持っている奇跡の力と同じようなものを持っている者がたくさんいる、奇跡の 世界だということ。 興味がわいた。 早苗がグラスに口をつけるのを笑顔を絶やさず待っているメイドさんが、いったいどん な魔法を使ったのか。 「……いただきます」 果たして、早苗は興味津々にグラスに唇をつけた。とりあえず味だけみてみようと軽く 傾けて口に含む。 で。 「あ、梅ですね」 「そりゃ梅だし」 「梅ですわ」 キンコンカンと打って響くように三つの声が連続した。 『東風の梅』はその名の通り梅を使った酒――梅酒だ。咲夜がジュースのようなものと 言うのも道理で、梅酒は日本人に馴染みの深い梅の風味がアルコール独特の苦味や臭みよ りも強く感じられる、子供でも飲みやすい初心者の酒の定番だ。 しかも、 「この梅酒、普通の梅酒よりも梅の部分が強いんですね。全然お酒の味がしないです。確 かにこれなら私でも飲めます。美味しいです」 というわけだ。 普通の梅酒が「梅」ならば『東風の酒』は「梅梅」という感じで、アルコールが苦手な 者にはありがたい。さらに、普通の梅酒ならばそれでもやはりアルコールの後味が残るも のだが、この梅酒の場合は舌に感じる梅らしい酸味と苦味が「あ、梅ですね」と言わせる くらいアルコールを包み込んでいる。 かつて日本酒でむせた早苗でも飲めるくらいの、実に口当たりの良い、飲みやすい酒だ。 「これ、アルコールほとんど入ってないんですか? ビールよりもずっと飲みやすいです」 「入ってますよ。十三度、ですね」 「じゅ、じゅうさん!?」 自分が一気に半分飲み干した酒の度数を聞いて、早苗はすっとんきょうな声を上げた。 それも当然で、早苗が「これは無理」とギブアップしたビールのアルコール度数が五だっ たからだ。 「で、でも全然アルコールを感じないんですけど? 梅酒だから、ですか?」 「それもありますが、こちらもお試しになりますか?」 首を傾げてグラスを見る早苗に、咲夜は新しいグラスに瓶から『東風の梅』を注いでカ ウンターに置く。 「どうぞ」 「はい。いただきます」 促されるままに早苗は新しいグラスの酒を無防備にゴクリと喉に流し込み、すぐさまそ のあまりの違いに眉根を寄せた。 「な……!? こ、これ、アルコールじゃないですか!」 「そりゃアルコールだし」 「アルコールですわ」 トンテンカンと階段を転がるように三つの声が連続した。 早苗が飲んだ新しいグラス。そちらの中身は早苗が想像するアルコールそのままの、喉 を焼くような『大人の飲み物』だったのだ。梅の強さはそのままに、今度は確かに十度を 越えるアルコールを感じさせる。 「これって同じものなんですか!? 梅の味は確かにしますけど……最初のものの方が、 ずっと飲みやすいですよ!?」 いったい何が起きたのか、早苗は理解ができなくて声を張り上げる。早苗は咲夜の目の 前にいたが、彼女が何か酒瓶に細工する様子はなかった。間違いなくグラスの中身は同じ 『東風の梅』のはずだ。 違いがあるとするならば、一つ。 「さっきのシェイク……ですか?」 「ご名答です」 したりとうなずくと、咲夜は早苗の前に先ほどのシェイカーを差し出した。早苗はそれ に何か仕掛けがあるのかと訝しんだが、咲夜は隠すことなく正解を教える。 「魔法でも何でもありません。シェイクして空気を混ぜることで、アルコールの角が取れ て飲みやすくなるんです」 それはバーでは珍しくもない技術の一つだと彼女は言う。 「失礼ですが、そちらのお客様が最初のビールを飲んでいる時、お客様はそれを見ながら 憂鬱そうな顔をしているように見えたもので、アルコールが苦手なのではと思いまして」 「は、はい。当たってます!」 まだロクに会話すらしていないメイドの洞察力に感心し、早苗は両手を胸の前で合わせ て拍手した。 「凄いですね。私、メイドの方とお話しするのは初めてなんですけど、皆さんそんなに注 意を払っているものなんですか?」 「そうですね……全てのメイドがそうとは言いませんし、私も常に気がつけるわけではあ りません。今日は三つの幸運が重なりましたので、お客様に今の一杯を楽しんでいただけ ました」 「三つ、ですか?」 ええ、と咲夜は人差し指を立てる。 まず一つは、 「お客様が、初めてお会いした方だったこと。必然的に、どのような方か注目する機会が 多かった」 中指を立てる。 二つ目は、 「お連れ様がお客様の飲むお酒の指示を出されました。それで、お客様がお酒に詳しくは ないのではと想像できます」 薬指を立てる。 最後の三つ目は、 「ここがバーカウンターであること。それが一番目と二番目の幸運を活かし、説得力を与 えます」 「??」 咲夜の説明に、早苗は頭がこんがらがって怪訝の表情を浮かべた。咲夜は三番目の幸運 が前述二つを活かすと言うが、早苗にはむしろ逆に思えた。 お酒を飲むバーカウンターにやってきた客ならば、酒を飲めると考えるのが普通なので はないだろうか。 そう思うのだが、その早苗の困惑が予想できていたのか、咲夜は付け加える。 「バーのカウンターに来るお客様は、常に二種類です。一つは、様々な理由でお酒を求め て足を運ぶお客様。もう一つは――」 『お酒を飲む誰かに連れてこられたお客様』。 「ああ!」 それは盲点だった早苗は、再び胸の前で手をポンと叩き合せる。 つまり、咲夜はまず最初に『積極的に飲むつもりの客』と『積極的には飲むつもりでは ない客』を振り分け、そこから『どうして積極的に飲むつもりではないか』を早苗と神奈 子の様子から読み取って『アルコールが苦手』と割り出したのだ。 「タネをバラしてしまえば魔法もただの手品。今日のタネは、こちらのカウンターという わけですわ」 カウンターとは不思議なもので、それがあるだけでサービスを『する者』と『される者』 を分ける。 「もしカウンターを挟まなければまた別の出会いがあったかもしれませんが、今の私はた だのメイドではございません。この会場のお酒を管理させていただいております、バーメ イドですから」 目端が利いて当たり前。そう咲夜は謙遜するが、それでもその洞察力は見事なものだと 早苗は思う。 が。 「それに、少しヒントもいただいてしまいました」 「は?」 唐突にチロッと小さく舌を出した咲夜に、早苗は何度目かわからない怪訝の顔を返す。 咲夜の視線は頬杖をついたまま面白げに二人の会話を見守っていた神奈子へと向かう。 「実は、そちらのお客様にヒントをいただきました。『東風谷早苗』という名前から連想 できるお酒はあまり多くはありませんから、梅酒を選ぶのは難しくはありませんでしたわ」 「いや、それは銘柄を私に尋ねたことで誘導したんでしょ。たいしたものよ」 「う〜ん……」 神奈子に向かって綺麗に腰を折る咲夜という構図に、早苗は目の前の梅酒の入ったグラ スを見つめる。それは咲夜と神奈子の連携によって生まれた、早苗が飲むためだけに作ら れた一杯だ。 だから、改めて早苗は言う。 「いただきます」 残りの半分を一気に飲み干す。 飲める。 うん。 「とっても……美味しいです」 自然と紡がれた言葉に、神様が一柱とメイドが一人微笑んだ。 しかし、その微笑のまま神奈子は言うのだ。 「でも、口当たりが良くなってもアルコール度数は変わらないから、そんなに一気に飲む と酔うわよ?」 「へ? あ、あら?」 言われた途端、早苗は自分の胃がカッと燃えるのを感じた。空きっ腹に酒。しかも年末 作業で疲労の溜まったところへのそれは、一気に少女の顔を真っ赤に染め上げた。 「はらら?」 茹で上がったタコではないが、まるで劇薬のような効果に早苗は両手で自分の頬を押さ える。それを見て、神奈子はくっくっくと笑う。 「どうやら、『魔法』が切れたみたいね」 「手品ですわ」 早苗が梅酒を抵抗なく飲めたのには、シェイカーによる空気混入の他に『未知の飲み物 への興味』というものが強く作用していた。 アルコールに弱い者というのは、多かれ少なかれ『アルコール』を特別なものとして意 識している。自分が苦手だと思っている上に、これからアルコールを飲むぞ、酔うぞ、と 強く思っているため、ほんのちょっとのアルコールの匂いにも過敏に反応してしまうのだ。 シェイカーでの一工夫は、そのアルコールへの注目を『謎の飲み物』への注目に置き換 えた。だから、早苗もジュース感覚で口をつけることができたのだ。 そして、その暗示を神奈子のひとことが解いた。そうなれば、口の中にわずかに残るア ルコール臭や、酔いによる身体の火照りは、早苗にとって『酒!』という現実だ。 それを承知しながら意地悪半分に暗示を解いた神奈子に、咲夜は浮かんでしまいそうな 笑みを噛み殺し、初々しい巫女もどきの少女のための新しいグラスを用意し始めるのだっ た。 ※ ※ ※ 「お水いかがですか?」 「ど、どうも」 咲夜が酒に弱い者の最大の味方――ただの水を差し出すと、早苗は恐縮してその厚意を 受け取った。その棘の無い仕草に、咲夜はついに堪えきれなくなって肩を揺らしてしまう。 「ふふっ。あいつらにも少し見習わせたいわね」 「はい?」 「あ、いえ、失礼しました。こちらの話です」 コホン、と一つ咳払い。 ――そこが何かの分岐点だったのかもしれない。 その咳払いがとてもわざとらしく、だけれど不思議と親しみが持てるものであったこと に、早苗は自らも頬を緩める。 それから、頬を緩めることができた自分にハッとした。 ほんの一杯の酒を飲む前には、神奈子の信仰の喪失などの問題で彼女の心は常にピリピ リしていたのだ。だが、今はその焦燥自体を飲み込んでしまったかのように、喉のつっか えが消えていた。 そんな早苗の戸惑いの顔を見て、咲夜はうんうんとうなずいて言う。 「お客様は、良い主をお持ちですわ」 「え? はぁ、まあ、主と言うか何と言うか……」 実はウチの神様なんです、とはさすがに言えず、早苗はチラリと隣の神奈子の方をうか がう。その神奈子は、目を細めて唇の前に人差し指を一本立てていた。 ナイショ、だ。 もちろんそれが目に入らないわけではないだろうが、咲夜は気にせずに早苗に続ける。 「この境内で最初にこのカウンターを見つけてやってくる。お客様は先ほど私の観察眼を 褒めてくださいましたが、お連れ様も見事な目をお持ちです」 「酒飲みってそういうものじゃないんですか?」 酒飲みは酒のある場所に敏感だ。 神社で幾ら儀式用の酒を隠しても見つけてしまう神奈子を知る早苗はそう答えたのだが、 「お酒を飲むだけなら、その辺りですませることもできます。給仕がいますので」 言われてみればその通りだ。 会場にはつまみの皿や酒瓶を手にした妖精メイドたちが溢れており、神奈子が酒を飲み たいだけならそれに声をかければ事足りる。 「わざわざこのカウンターを選んだのには、それなりの意図があったのではないでしょう か?」 「意図……」 神奈子に視線を向けると、彼女は早苗が残したシェイクしていない方の『東風の梅』に 口をつけていた。もし神奈子に何か考えがあったのだとしたら、その鍵は間違いなくその 『東風の梅』だろう。 妖怪たちの輪に入らず、真っ直ぐにバーカウンターに向かった神奈子。早苗は彼女の背 中についてきただけで、「酒を飲む」という考えすらなかった。 だとするならば――。 「私に、お酒を飲ませたかった?」 「ええ。私もそのように思います」 早苗の呟きに咲夜も同意して、二人が同時に神奈子を見る。 すると、神奈子は飲み干した『東風の梅』のグラスをカウンターに戻し、指先でチンと 弾いてから蛇のように細めた目で咲夜に言う。 「美味しいけど、私には少し軽いわね。ビールと梅酒の後だし、少し強いものをちょうだ い。あと、つまみも欲しいわ」 「畏まりました」 「八坂様〜」 そこまでの少女二人の会話を無かったものにするようにそ知らぬ顔で注文する神奈子に、 早苗は唇を尖らせてその袖を引いた。 説明してもらいますよ、というその顔に、神奈子はひょいっと手を伸ばして、少女の小 さな鼻を指先で摘まむ。 「ふわ!?」 「大丈夫、間違いじゃないわよ」 酒のせいか子供っぽいことをした早苗を、さらに子供っぽい対抗手段で神奈子は引き剥 がす。袖を離してようやく解放された鼻をさする早苗をニヤニヤと眺める姿は、とてもで はないが偉大なる神の一柱には見えない。贔屓目に見て、妹分をからかう近所のおねーち ゃんといったところだろう。 が。 「美味しかったでしょ? どう? 詳しい話を聞く準備、できた?」 「あ……」 その言葉が万の言葉よりも早苗の心に納得を与えたのは、やはり彼女が早苗の祭る神で あるが所以だ。 早苗が『東風の梅』を飲んだことによって得た落ち着きを、神奈子は横にいてしっかり 感じ取っていたのだ。そして、それは神奈子が狙って生み出した効果に他ならない。 「本当に、良い主をお持ちですわ」 もう一度咲夜はそう言い、グラス八分まで注いだ酒を神奈子の前へと差し出した。その 中身が何かは早苗にはわからなかったが、一瞬漂った強烈な芋の香りがクセの強さを感じ させる一杯だ。 それと共にすぐ横の厨房から失敬した焼き鳥の皿をカウンターに置き、咲夜は確信を持 った質問――確認の言葉を早苗に向ける。 「思うに、お客様は幻想郷に来られて少し気が立っていたのではありませんか?」 「う……」 図星で、早苗はアルコールと鼻つまみで赤くなった顔をさらに朱に染める。 忙しい年末。 神奈子の今後のことで不安になっていた日々。 突然の異世界への散歩。 理由を教えない神奈子。 確かにイライラし、神である神奈子にすら不平をもらすような精神状態だった。 (なんでいきなり妖怪の里!?) そのように憤慨していた。 物珍しい風景に感動を覚えないでもなかったが、それも普通の状況だったらの話だ。少 しの時間も惜しい時に強引に連れこまれては、楽しむものも楽しめない。 そう、と咲夜は言う。 「一人の疲れたお客様がいます」 口を動かしながら、彼女はカウンターの裏から林檎を取り出す。 「年末の忙しさによる疲労、主への気疲れ、それと……初めて訪れた異郷の地の宴会に流 れる慣れない空気。一つなら我慢できることも、運悪く二つ三つと重なると不機嫌になっ てしまうこともあるでしょう」 それはどれもこれもが早苗には悪条件。 主導権は主に握られ、目的もわからないまま後ろを歩くだけの自分。 そんな状態で神奈子が妖怪の輪に入って酒盛りでも始めたらどうなるか。想像したくも ない。 「そのような状況に追い込んだのは、間違いなくお連れ様なのだと思います。ですが、不 機嫌にするのはお連れ様にとっても本意ではない。だから、気持ちを落ち着かせるために このカウンターを選んだ。身体を温めるための一杯と、それから何より、緊張を解す適度 な会話を期待して」 その一杯を宴会の場に求めたらどうだろう? 気の良い妖怪たちは神奈子の求めに応じて酒を振る舞っただろうが、皆が酒を楽しむそ こで早苗が「お酒なんか美味しいんですか」と不機嫌丸出しに言い出せば、そこには致命 的なトラブルが発生していたかもしれない。 だから、神奈子は『文句の無い酒が出る場所』に早苗を連れ込んだのだ。 咲夜はサク、サク、と小気味良くナイフで林檎を切り分けながら、その意味を語る。 「カウンターとは、普通のテーブルとは違う、特別なテーブルなんです。先ほども申し上 げましたが、このカウンターは一緒に座って談笑するテーブルとは違い、サービスを『す る者』と『される者』を明確に線引きします。――こんなふうに」 皮を兎の耳の形にカッティングした林檎を皿に乗せ、咲夜は早苗と神奈子のちょうど中 間に滑らせる。 咲夜は食べることが許されない、『客』である二人だけがつまめるデザートだ。 一つのカウンターテーブルの上にある林檎だというのに、カウンターの手前と奥のどち らにいるかで、その林檎の意味すら変わってくる。 咲夜は出した方。 早苗と神奈子は出された方。 「宴会は基本的に楽しさの共有です。そこに無理をして入り込もうとすれば、時に追い出 されることもあるでしょう。ですが、カウンターはお客様を拒むことはありません」 例え相手が新参者だろうと。目の前で口論を始めようと。咲夜は黙ってそれを眺め、会 話の途切れた時にタイミング良く注文された酒を出すだけだ。 積極的に客の会話に口を挟むことなく、だれけど求められれば『東風の梅』ほどの手品 はこなしてみせる。その姿勢は、神奈子風に言うのならば「良く出来た子」ということだ ろう。 「とある高名な妖怪が、幻想郷は全てを受け入れると口にしたことがあります。カウンタ ーも、そういう意味では居場所を探す客人を迎えるための、小さな幻想郷なのかもしれま せんね」 それはそれはとても残酷なことですわ、と咲夜は最後に付け足した。 その最後の言葉の意味は幻想郷に疎い早苗にはわからなかったけれど、それでも早苗は 神奈子に言われた言葉、咲夜に言われた言葉を噛み締める。 (確かに、カウンター越しだと初めての人にも声をかけられる、かな?) 境内にたむろする妖怪に呼び止められて酒を進められれば、早苗は気後れして断ってし まう。それに対し、カウンター越しだと無料だと言われてもそれを『サービス』だと受け 入れてしまう自分がいる。 この寒空の下、たかだか木製のテーブル一つで、そこまで早苗の反応が変わるのだ。 (八坂様は、そこまでして私を落ち着かせたかった。逆に言えば、そこまで読める八坂様 が私を幻想郷に連れて来たのは――) イライラさせるとわかっていながら連れて来たのは――。 (『そこまでしても連れて来たかった』) それに尽きる。 『幻想郷を見せてからでないと話せないこと』があるのだ、神奈子には。 ようやくそこまで合点がいき、早苗は静かに深呼吸をした。少し酒臭い息が鼻を抜ける が、咲夜にもらった水のおかげで堪えられないほどではない。 「大丈夫、です。わかりました。暮れの神事よりも大切なお話があるんですね?」 「ええ。一人で決めてしまっては申し訳ないくらい面白い相談があるの」 早苗が姿勢を正して尋ねると、神奈子もまた頬杖をやめてうなずくのだった。 ※ ※ ※ (ふぅん、面白そうな話ね) 酒の一杯から始まった一連の流れ。 その後は咲夜などいないかのように開始された二人の異邦人の真面目な会話にそれとな く耳を傾け、咲夜は早苗の目がこちらに向いていないことを確認してから、その寒そうな 剥き出しの白い肌に舐めるような視線を這わせる。 細い。 (これだけの『ごちそう』が幻想郷に来るなら、お嬢様も大喜びだわ) 伊達に紅魔館でメイド長をしていない咲夜だ。人間の血の良し悪しくらい、その外面か らでも容易に見立てができる。 そして、咲夜から見て早苗はこれ以上無い極上の――それこそ霊夢に勝るとも劣らない ほどの良質な『血袋』に見えた。 もちろん、咲夜とて人の子だ。紅魔館に忍び込んだ魔理沙をレミリアやパチュリーから 匿う程度の人情はあるし、今年の春の四季の花が咲き乱れる異変を経てからは、できる限 りの『優しさ』を周囲の人間に配るようにしている。 だが、それはあくまで『幻想郷の人間』に対してだ。 まだ『幻想郷入り』していない早苗という人間は、咲夜にとって稀な客人であると同時 に、主が望めば狩りの対象となる存在でしかない。 (ちょっとしたダイエットと思ってもらえれば、ね) 本人の首筋にナイフでも突きつけて笑顔で「ケーキに赤い華やぎを加える素敵なソース をいただけるかしら?」だ。レミリアとフランドールのケーキに必要な量など、たかがし れているので罪悪感の欠片も覚えない。ただ、レミリアは自分に恐怖を覚える人間の血し か口にしないので、それなりに怖がらせるのが面倒と言えば面倒なのだが。 ――そのようなことを咲夜が考えていると、不意に神奈子の蛇の目が咲夜を見る。いき なりのそれに咲夜はドキリとするが、見れば神奈子のグラスはすでに空だ。 心得ている咲夜は、すぐに次の酒を用意することにする。かなり強い芋焼酎をあっさり 飲まれてしまったので、今度はもっと強いものを、と背後の酒瓶の山に振り返ると、そこ に神奈子が声をかける。 「ありがとう、おかげで話がまとまりそうよ」 「お礼には及びませんが、楽しい時間を過ごせていただけているのでしたら幸いですわ」 咲夜は慎重に言葉を選ぶ。 外面だけでは誰にも悟られなていないはずだが、最初から咲夜は神奈子の言動にはいち いち必要以上の注意を払っていた。彼女にはわかるのだ。早苗が極上の血袋であると同様 に、カウンターを挟んだ場所で気さくな笑顔を浮かべる神奈子という少女が、強力過ぎる ほどに強力な力を持っていることを。 だから、気を遣う。 まだ『幻想郷入り』していないイコール、『幻想郷のルール』に縛られていない相手だ。 下手に不興をかって暴れられては、それこそ幻想郷の一大事になりかねない。 (でも、変な感じよね。妖気を感じないし) この格闘ごっこの会場には、絶大な妖気を持つ者がたくさんいる。 ストレートでわかりやすい、肉体自体が妖気の塊のようなレミリア・スカーレット。 同じく、生身の肉体が無いが故に存在自体に禍々しい妖気を漂わせる西行寺幽々子。 その友人にして、妖気がとぐろを巻くような強烈な威圧感を持つ八雲紫。 そして、地上の妖怪たちよりも一回り規模の大きな妖気を放つ蓬莱山輝夜。 他にも例を挙げればきりがないが、幻想郷で名のある妖怪少女はほぼ全てこの神社の境 内に集まっていると言っても良いだろう。 しかし、そうした妖怪たちに匹敵――むしろ凌駕するほどの力を感じさせながらも、目 の前の神奈子からは妖気を感じないのだ。 (どちらかというと、閻魔様?) 説教好きの四季映姫の顔を脳裏に描く咲夜に、彼女の狙い通りに神奈子は上機嫌のまま の顔で新しいグラスを受け取る。 そうして言うのだ。 「そうね。なかなか楽しませてもらったし、お礼にありがたいお言葉をあげる」 「……ありがたくちょうだい致します」 機嫌を損ねないよう、咲夜はあくまで『カウンターの奥の者』として、主であるレミリ アに対するような慇懃な態度を貫く。 そんな咲夜に、神奈子はニッと白い歯を見せて言を預ける。 「凪の後には、絶対に風が吹くことでしょう」 ……それは実に当たり前のことで、ふむ、と咲夜はその言葉を黙して受け取った。 (凪が終わるから風が吹くのかしら? それとも、風が吹くから凪が終わるのかしら?) 神奈子の言葉の意図を測りかね、咲夜が一瞬対応に困った瞬間だ。 「あ〜、テステス。え〜、会場にお集まりの皆様にご報告致します。今しがた取材に回っ てみたところ、三回戦進出を決めた選手の内、一部の選手のダメージが思った以上に深い ことがわかりましたので、その体力回復を待つ時間を使っての、サプライズゲームを催し たいと思います」 声が、空から降ってきた。 穏やかに流れていた凪の空気の中に、天狗のマイクパフォーマンスが聞こえてきて、咲 夜はおやと驚いてリングの方へと視線を向けた。すると、そこは予想外に空っぽで、声の 発生源が正確にはリングの上空であることがわかった。 そこでは、大会進行役の射命丸文が大量の新聞を抱えてマイクに口を寄せている。 「ゲームの参加者は、すでに承諾を取った一回戦敗退の選手たち! 足りない分はこの会 場に集まった皆様の中から適当に選ばせていただきます。はい、一、二、三、四!」 口早に言いながら、文がリングを中心にグルンと三百六十度に新聞の束を投げる。 その束は少し笑えないくらいの勢いで咲夜のもとへ真っ直ぐと飛んできて――。 「……危ない!」 「あ」 咲夜の前、カウンターのラインを越える手前で、早苗の手によって掴み止められた。 思わず声を上げてしまった咲夜に、神奈子がいかにも滑稽なものを見たという顔で含み 笑いを浮かべる。それに、咲夜は自らも苦笑いを浮かべるしかない。 「……お客様の仰る通りでしたわ」 「はい?」 自分が言葉をかけられたと思って首を傾げる早苗に、咲夜は指でリングの方を示してみ せる。 そこからは、当然のような顔をしてお祭好きが叫ぶのだ。 「ゲーム参加決定された四名様、おめでとうございます! それでは、リングの方へどう ぞ! これより、格闘ごっこ大会特別バトルロイヤル戦を開始いたします!」 「あ、あら?」 いきなりのその展開に困惑するしかない早苗。 その顔に、咲夜はやれやれと肩をすくめる。 (逃げられてしまったわね) 未だ幻想郷に属さない極上品。周りに見つからないうちにこっそりといただこうと思っ ていたのだけれど、それもぎりぎりのところで『風』にかっさらわれてしまった。 仕方ない。 ならば、せいぜいその実力のほどを見せてもらおう。 「がんばってください、お客様。こちら、私からの景気づけの一杯ですわ」 気分を高揚させるにはやはり酒の一杯。 彼女に飲める唯一の酒である『東風の梅』をシェイクするため、咲夜はシェイカーの蓋 を開けるのであった。 ※ ※ ※ で。 「ふ〜ん、いい機会よ。『こっち』でやっていくには、あなたには少し自尊心が足りない と思っていたの」 「はぁ?」 しめた、というふうに、神奈子はまだ困惑している早苗の肩をポンと叩く。ナイショ話 のために相手の耳に口を寄せると、神奈子は酒臭い息で囁く。 「人間が幻想郷でやっていくには、二つのものが必要よ。一つは『お酒が飲めること』。 もう一つは妖怪に化かされない『強い心』。一個目は、さっき経験させたわね。『東風の 梅』が、お酒の上でのあなたの幻想郷入門編」 だから。 「早苗。今から経験してくるといいわ。それがあなたの足りないものを補ってくれる」 神奈子という神聖なものが近くにいるからこそ宿らないもの。 『外の世界』という、偉大な力を振るえない場所にいては宿らないもの。 それは――。 「『あなたがいかに特別な存在か』。妖怪を凌駕する現人神の力、思う存分に振るい、そ して確信してくるといいわ。この世界は、そういう力で君臨できる、力ありきの世界であ ることを」 その力を見て、周りがどのような目であなたを見るか。 その力を見て、周りがどのようにあなたを讃えるか。 「この世界は、少し傲慢なくらいがちょうどいいみたいだから、ね」 「か――」 なこ様、と続けようとした早苗の唇を、神奈子は人差し指一つで押さえ込む。 そして、会場中に響き渡る神鳴る声で宣言するのであった。 「現人神、『神の子』東風谷・キッド・早苗、発進よ!」 「な、なんですかそのリングネームはぁ〜!?」 現人神――格闘ごっこ大会参戦決定である。 ※ ※ ※ そして、咲夜は一つ勘違いをしていた。 先ほどの神奈子の預言。 それは対象が『今』のことなのか、来年以降のことなのかは、八坂神奈子は明言しなか ったのである。 バーデンダー咲夜――決着!