東方殴り巫女伝説 〜Bare Knuckle Players〜 2回戦 Dブロック第2試合 八意永琳 VS 伊吹萃香 ※ ※ ※ 「来るべき時がやってきました!」 と天狗は言った。 それが何を意味しているのか、居並ぶ妖怪少女たちは痛いほどに良くわかっていた。幻 想郷――否、日本に生れ落ちた妖怪であれば気にせずにはいられない、とある重大な『時』 が今やってきたのだと。 そう、言うまでもないほどに、皆はそれを理解している。 言うまでもない……のだが、 「さあ!」 実況役たる山の天狗、射命丸文は高らかに言い放った。 「日本最強の力は、果たして月の民に通用するのか!?」 遥かな昔、それこそ御伽噺の時代より連綿と続いた不文律。 人間を脅かす妖怪たち。 人間の上に君臨し、神や仏の世界の住人とさえ言われて崇められた月の民たち。 人間の伝承の中、妖怪よりも上の存在として描かれ続けてきたそれと、日本妖怪の代表 である鬼が対峙するのだ。 「それってさ」 と誰かが呟く。 「鬼が負けたら、アレだよね」 「そうよね」 「アレよね」 明言を避けたひそひそ話。 言い知れぬ不安の中、誰かが不意に形にしてしまう。 つまり、 「鬼が負けたら、妖怪より月の連中の方が強いってことになるよね」 ということだ。 それは、誇り高い妖怪たちにとって実に悔しいことだ。例えば閻魔のような、実際に次 元の違う神や仏に敵わないのならばまだ納得できるのだが、月の民――普段目にしない、 噂ばかり先行しているような『よくわからん連中』よりも格下にされてしまうのは、実に 面白くない。悔しい。耐え難い。 (そんなの、ムカつくじゃない!) そういう方向で、妖怪たちの意見は一致していた。 そして、一致しているだけに、この試合、これから始まる試合には、彼女たちにとって 重大なものが賭けられてしまう。鬼が負けてしまえば、認めがたいその事実を認めざるを 得ない状況が発生してしまうからだ。 他の妖怪だったら、それは別に構わない。 「他にももっと強い妖怪いるし!」 と捨て台詞も吐くことができるだろう。 だが、鬼はマズい。 鬼が負けてしまうのは、マズいのだ。 全ての妖怪は、鬼が種族平均の戦闘力において幻想郷最強であると認知している。歳若 く、実際の鬼を知らなかった世代の妖怪たちですら、妖怪の山を統べていたという昔話を 聞くだけでそれを肯定する。幻想郷のパワーバランスの一角を担う妖怪の山の支配者―― それは、現在の紅魔館や白玉楼、果ては永遠亭の主を務めるよりも遥かに大きなステータ スなのだ。 そう、妖怪の山に君臨する。それは『妖怪の上に君臨する』ということ。 その鬼が、もし負けたら? 認めざるを得ない。 月の民の、妖怪に対する絶対の優位性を。 ……まあ、もっとも、 「彼女たちが月からやってきたなんて、眉唾ですけどね〜」 マイクで煽り立てた文自身は、そう慧音たちに向かってカラカラと軽い笑いを浮かべて みせていた。とりあえずネタになるから言ってみただけ、そういう顔だ。実際、永遠亭の 面々が月の民だなどというのは、巫女や魔法使いが面白半分に口にする程度の『噂話』で しかない。 しかし、同じ放送席に座った慧音はそれに笑い返すことはできなかった。彼女は、実際 に永琳たちが月からやってきたのであろうと、かなりの確信を持って考えている。 同じく、その隣の阿求も、博麗の巫女から伝え聞いた『永夜異変』の内容から、それは ほぼ確実であると見ている。 故に、 (本気で『格付け』決まるぞ、この試合) と慧音は歴史に関わる者として、これから起こる『歴史的瞬間』を見逃さないように真 剣な視線をリングに注ぎ、 (この試合の結果で幻想郷縁起の書き換え……あ〜、でも月の民のことは詳しく書いちゃ 駄目だからな〜) と阿求は情報の取捨に頭をフル回転させながらその試合の始まりを待っていた。 そして、待っているのは彼女たちだけではない。リングサイドに陣取った各勢力の代表 者たちもまた、二回戦最後の試合にこれ以上無い好奇の視線を向けていた。 紅魔館では紅茶片手のレミリア・スカーレットが。 白玉楼では前の試合を終えたばかりの西行寺幽々子と、その友人である八雲紫が。 永遠亭では特等席とばかりに戦う永琳のセコンドとして赤コーナーの裏にいる輝夜が。 それぞれに、それぞれの興味で試合の開始を今か今かと待ち望んでいた。 その一方で、 「これ終わったら休憩時間なんだから、さっさと始めてくんない?」 どうでもよさそうにしている巫女も一人ほどいたりするのであったが。 ともあれ。 「それでは、いよいよ第二回戦最終Dブロック最終戦、トリに控えし『永遠亭のお医者さ ん』と『帰ってきた鬼』、八意永琳選手と伊吹萃香選手の試合を始めたいと思います!」 試合の開始は、迫っていた。 ※ ※ ※ 「七、三といったところね」 赤コーナーを背にした永琳は、青コーナーの頂上に腰掛けて瓢箪から酒を浴びるように して呑んでいる幼い鬼を眺め、そう断定した。それがお互いの戦力の比だとわかった輝夜 は、あらまあと永琳に言う。 「そんなに有利なのね」 すると、 「逆です」 返ったのはそんなにべもないひとことだ。その「私不利です」と珍しい発言をした永琳 に一瞬きょとんとした輝夜は、それからしばし思考してから、 「ふふっ♪」 実に楽しそうに、広い袖を口元に寄せて絹が擦れ合うような上品な笑みを浮かべた。 その輝夜の笑みを一段低いリング下から目撃した鈴仙は、うわぁと思わず顔をしかめて 閉口する。 (可愛らしいけど……何で笑ってるのかまったくわからないから怖い……) 永琳の発言のどこに笑う要素があったのか、鈴仙には理解できない。だが、輝夜の笑み に呼応して永琳もまたクスクスと肩を震わせて笑い出したのだから、そこには二人だけに 通じる何かがあったのだろう。 (雲の上の会話だなぁ) それがどういう会話であるのか知りたいとも思わない鈴仙には、リングの上とリングの 下という永琳たちとの距離が、実際にはもっと離れているように感じてならなかった。物 理的な距離ではなく、力であったり、精神であったり、そういうものの『立ち位置』の距 離だ。 (その師匠が、『自分が不利』?) 馬鹿な、と鈴仙は首を横に振る。 彼女は一回戦の最終戦を見た永琳が何と言ったか、良く覚えている。 (『相性の問題だけど、私や姫が戦うのであれば、アレはそれほど怖い相手ではないわ』 ……ね) 私じゃお話にならないけど、と鈴仙は萃香がリグル相手に見せたその破壊力の片鱗を思 い出してゾッと背筋を凍らせた。 拳を振る。 蹴る。 その全てが、この大会最大級の破壊力。派手さだけならば紅魔館の門番や悪魔の妹の方 が上かもしれないが、萃香の恐ろしいところは特別な準備など必要なく、『普通の攻撃』 が他の参加者の最大攻撃並の破壊力を持っているということだ。 図にするならば、 美鈴の鉄山靠 = フランドールのクレイドル = 萃香の小パンチ といったところだ。 (うわ、化け物じゃない!) 脳内で整理してさらにその恐ろしさを噛み締め、鈴仙はブルッと身体を震わせる。正直、 相手の戦力を想像すると次のように考えてしまう。 (一回戦、勝たなくて良かった〜) それは実に情けない思考であったが、例えそれが音声になってしまっても、大多数の妖 怪はそれに賛成したことだろう。 『鬼と正面から殴り合う』など愚の骨頂なのだ。 だが、それでも確信めいたものが鈴仙にはある。 戦うのは鈴仙ではなく、『八意永琳』なのである。 (師匠なら、あの化け物が相手でも……!) 震える拳をぐっと握り締め、鈴仙は顔を上げる。ロープ越しにある悠々と佇む師匠の姿 が頼もしい。 鬼の戦闘力が規格外だというのならば、永琳の力もまた鈴仙からは限界が見えないほど に規格外だ。近接戦闘が専門外であっても、その『格』は一回戦で鈴仙をあっさりと切っ て捨てたほどに圧倒的である。 (負けるって言葉がこんなに似合わない人も珍しいし) ルールによって誰からも必勝が奪われる弾幕ごっことは違い、この大会はこと無手での 近接戦闘に関してはルール無制限の状態だ。永琳が一回戦で鈴仙に見せつけたような圧倒 的な技術を思う存分に振るえれば、相手が鬼であろうと吸血鬼であろうと、永琳側の分が 悪いということはまず無いであろう。 なので、 「あの、師匠。七、三の戦力差でも師匠が負ける気がしないのは、一回戦の時に言ってい た相性の問題でしょうか?」 鈴仙は思い切ってそのように尋ねてみることにした。 すると、その質問が鈴仙から出るのは意外だったのか、永琳は輝夜と顔を見合わせてか ら、ふむと目を細めて満足げにうなずく。 「少しは考えてから発言するようになったわね、良い傾向よ」 「あう……」 まるで分別の足りない子供のように扱われ、鈴仙は耳をペタンと垂らして気落ちした。 反論できないのは、この大会が始まってからの自分がすっかり『教えて君』になってしま っているのを理解しているからだ。 だから、せめてその汚名を返上しようと、鈴仙は改めて自分に振り返った師匠に言う。 「一回戦を見る限り、あの鬼の攻撃力は相当なものです。師匠でも、耐えられて三発…… 下手をすれば一発でKOされてもおかしくありません」 「そうなの?」 「ええ」 月の兎の言葉に輝夜が永琳を見ると、永琳はさもありなんと肯定する。その様は良回答 を口にしている最中の学生を見る教師のもので、発言を止められないことにホッとしなが ら鈴仙は続ける。 「ですが、師匠は私ならば相性最悪、姫様と師匠ならば相性的に有利と言いました。『打 撃でアレに対抗するのは愚策』とも。逆に言えば、打撃以外で対抗するしかない。それで、 打撃以外を主にしているのがお二人です」 調子が出る。舌が良く動く。ついでに耳も段々と起き上がる。 「姫様は言うまでもなく、絶技『永夜返し』! あの打撃を倍返しされれば、さしもの鬼 もたまらないでしょう。そして、師匠には私の打撃を無効化した『捻り避け』と、超至近 距離での関節技があります。そうなれば、もう後は鬼の破壊力よりも、鬼と師匠との技量 の比べ合いが試合の焦点になるはずです。鬼は、いかに師匠に『捻り避け』を使わせない 状況を作り出して一発当てるか。師匠は、それを捌いていかに関節技を極めるか」 そこまで導き出せば、もう簡単だ。 確かに鬼も接近戦に関してはかなりの技量の持ち主であるが、 「そういう構図なら、技量において師匠が後れをとるはずがありません。技術戦に持ち込 んだ時点で、師匠の方が絶対に有利! 戦力差は七対三でも、それを埋めて、さらに逆転 させる戦術が師匠にはあるはずです」 あるのですか、とは質問しなかった。あるはずです、と断言した。それは鈴仙がどれほ ど八意永琳という傑物の『凄さ』を確信しているかの表れで、それは黙って聞いていた彼 女の二人いる主にも通じたはずだった。 果たして、永琳は何度目かのうなずきを返して「なるほど」と呟く。その反応は悪くな い。鈴仙はついにこの大会で自分の推論が的中する日が来たか、と瞳を輝かせた。 が。 「永琳、イナバには何点をあげるの?」 「姫がお好きな点を」 「なら六十点ね」 「六十点よ、ウドンゲ」 「えー!?」 なんだか酷く適当に点数を決められて、鈴仙は悲鳴じみた声を上げた。 さらに、 「ちなみに、合格点は九十点」 「高っ! 高いですよ、師匠っ。八十点とかにしてくださいってば〜!」 結局泣き言を言うハメになった鈴仙がリング下からロープに詰め寄ると、永琳はそれを 一瞥してから、コーナー裏にいる輝夜に問う。 「では、姫。姫はウドンゲの推論に欠けているものは何だと思います?」 「永琳が美人ってことと、あの鬼が小さくて可愛いことかしら」 「さすが姫。九十五点」 「うわっ。凄い贔屓!?」 悩むことなく言う輝夜と、間髪を入れずに高得点を宣言する永琳に、鈴仙は我が耳を疑 った。永琳の姫様贔屓はいつものことだが、それにしても今回の贔屓は酷い。 「た、確かに師匠は美人ですけど……」 それって関係ないんじゃ、と口にしかけた言葉を飲み込む。輝夜と永琳はペットから批 判されて怒るような性格ではないが、批判を種に「可愛がる」ことはあるのだ。 しかし、その『飲み込み』は少し遅かった。 「……『確かに』?」 「え?」 永琳がため息をついてこちらに視線を向けたことに、鈴仙は意表を突かれた。 あれ? と。 (『そこ』に反応するの?) 永琳が先ほどまでとはうって変わって、『やっぱり駄目だった落第生』を見る目になっ てしまっていることに、鈴仙は萎縮よりも先に驚きを覚えた。永琳は実に合理的な考えの 持ち主で、それこそ数十年前に鈴仙が永遠亭に転がり込んだ時も最近の月の情報を引き出 すだけ引き出した後に殺そうとしていた――永琳の波長はそう言っていた――はずだ。輝 夜のとりなしがなければ、鈴仙が今こうして生きていることなどなかったであろう。 それくらい合理的な永琳が反応したのが『確かに』という言葉なのだ。 「?」 その理由がわからなくて、鈴仙は戸惑ったままの顔で、見下ろしてくる永琳を見つめ返 した。そうしていると、永琳は仕方ないというふうに答えを返してくれる。 「だから、少しは自分で考えなさい。姫は九十五点。五点の減点の部分を、あなたは『確 かに』と言ったのよ」 「あ」 「それでは両選手、リング中央へ!」 鈴仙がハッとした時、放送席から規定の台詞が飛んで永琳が視線を外す。それだけの動 作で語る言葉を奪われた鈴仙は、とっさに師匠以外の『正解を口にできる者』である輝夜 の方へと目を向ける。 輝夜はそれがわかっていたかのようにひとこと。 「ちなみに『可愛い』も削るのよ」 「は、はい?」 永琳先生の減点五。 『永琳が美人』。 『可愛い』。 そんなヒントに疑問符を浮かべて首を傾げる鈴仙に、輝夜は「ん〜」と少し考えてから 一つ思いついた顔で、わざとらしくため息をつく。 「少しは自分で考えなさい」 「あはは、似てる、似てる〜」 「うさーっ」 「うささー!」 輝夜の永琳のマネに、リングサイドに並ぶてゐたち地上の兎たちが拍手喝采して爆笑す る。その反応に、輝夜姫はたいそう満足したのだった。 ※ ※ ※ 一方、青コーナーの伊吹萃香はと言うと、こちらは一回戦と変わらずに試合前だという のに酒を飲む手を止めず、無尽蔵に湧き出る鬼の瓢箪をほとんど垂直に持ち上げて、空を 仰ぎ見るようにして文字通り酒を煽り飲んでいた。 「んぐ、んぐ、んぐ……ぷは〜! この一杯のために生きてるのよねぇ〜♪」 近くに誰かがいれば「お前の一杯はどこからどこまでだ?」とツッコンでくれただろう が、幸いにも彼女にはセコンドなる者が存在しない。大会に参加している少女たちそれぞ れがお互いにアドバイザー役を兼ねているというのに、萃香だけにはそういう『味方』が いない。 もちろん萃香が呼べば、密着取材ができると文は飛んでくるだろうし、文句を言いなが らも霊夢だってセコンドについてくれだろう。だが、萃香はそうしたセコンドの存在自体 を必要とはしていなかった。 「余裕ですものね、萃香」 「ん〜? ま、ね」 とそういう会話が発生しているのは、リングの上ではなく、そのコーナー横の白玉楼の 面々が陣取る一角――そこで幽々子と並んで座る八雲紫の膝の上であった。突然の独り言 に妖夢がぎょっとして紫の方を見ると、彼女の膝の上では小さな、青コーナーの上に座り 込んだ萃香をそのままミニチュアサイズにしたような『手乗り萃香』が自分の身体より遥 かに大きいスルメ相手に格闘している最中であった。 「ゆ、紫様、それは?」 「見ての通り、萃香ですわ」 「ですわ」 紫がさらりと言うと、膝の上の萃香もゲソを噛み千切りながら声マネをする。ケラケラ 笑うその小さな鬼に目をパチパチさせた妖夢は、念のためにリングの方を振り返り、 「いる……わよね?」 「ええ。私はこの会場のどこにでも『いる』わよ」 例えば、と萃香はキランと目をきらめかせる。 と。 スカートの中にもぞっとした感触を得た妖夢は一瞬怪訝な表情をしてから、直後にそれ を理解して顔を真っ赤に染めて飛びあがり、自分の股間や太腿辺りをバシバシと手で叩く。 「潜るな!」 「あはははは!」 盛大な笑い声が響き渡り、妖夢のスカートの中から一匹、二匹と、次々と手乗り萃香が 地面に落下する。何匹かは叩かれて目を回していたが、他の萃香が引っ張って観客席の妖 怪たちの間へと紛れていってしまう。 「このっ」 「妖夢、立ったならついでに熱燗を追加してちょうだい」 「ぐ……わ、わかりました」 思わず妖夢が小鬼を追いかけようとすると、幽々子が酒の入っていた徳利の首をつまん で行儀悪く左右に振って催促し、冥界のお庭番は口惜しげにそれを受け取って境内の特設 調理場へと歩き出した。 その背中をキシシと意地悪く見送ると、紫の膝の上で萃香はどっこらしょっと寝転がる。 「ま、そういうこと。私にセコンドなんかいらないこと、紫なら良くわかってるでしょ?」 「ええ。私がセコンドについても、困るし」 「困るでしょ」 まさに以心伝心。付き合いの長い二人は、語る言葉も少なく納得しあう。だが、それで はついていけないのが周りの者たちだ。なので、その代表として幽々子が「ん〜?」と不 思議そうな表情で尋ねる。 「何が困るの?」 鬼及び大妖怪相手にこれほど前置き無く一直線に尋ねる資格を持っている者は、やはり 同じ大妖怪の幽々子くらいのものだ。 紫も、その気安さに応えるように同じようにあっけらかんと言う。 「困ったことに、アドバイスするところがないのよ」 だって、と紫は手にしていた扇子を畳み、路上販売の寄せ手よろしくペシンと萃香の頭 を叩く。 「あだっ!?」 「この子が勝つための方法は究極的に一つ。それで本人がそれをわかってるんだから…… つまらないわぁ」 「ま。本当につまらない子ね。どうしようもなくつまらないわ」 「なんだか傷つくからつまらないとか言うなよぉ〜!」 紫と幽々子に「あらまあ面白みの無い子!」という視線で見られたミニ萃香のピンチに、 リングの上の『大きな萃香』が振り返って文句を言う。 すると、いじめっ子二人は同時に扇子を開いて顔を隠してしまい、小鬼はぷうっと頬を 膨らませる。 そして、 「それでは両選手、リング中央へ!」 天狗のかけ声で、彼女は腰を下ろしていたコーナーポストからぴょんと飛び降りた。両 手首と長い髪に結びつけた鎖がじゃらりと細かく固い音を立て、リング下からワラワラと 現れた大量の手乗り萃香がその鎖に張り付いては枷を外していく。 「じゃ〜ん、自前セコンド〜!」 紫の言うようにセコンドいらずであることを証明して、軽くなった両腕をぶんと一回振 り回す。最後の一杯と瓢箪から酒を煽ると、そこに降りかかるのは、雨のような応援の声 だ。 「がんばれ〜!」 「妖怪の意地を見せて〜」 そういう声。 それを、萃香は鼻で笑う。 何を言うか。 私が『人間以外』に負けるはずがないじゃない。 でも――。 「この空気は、悪くはないわね」 自分に会場の妖怪たちの期待が萃まってくるこの感じ。 自分がお祭りの中心にいるという実感に、幻想郷でたった一匹しかいない鬼はニッと鋭 い牙を見せて笑い、対戦相手の待つリング中央へと進み出るのだった。 ※ ※ ※ 「さあ、両選手並び立ちました! 背丈は永琳選手が頭二つ分は高いですが、腕力が強い のは小兵の萃香選手というこの矛盾。『技術』とは普通体格差を考慮して作られるもので すが、果たして永琳選手の技は、自分よりも小さく、それでいて自分よりもパワーのある 相手というものを想定しているのでしょうか? 興味深い対戦です!」 「……って言ってるけど?」 「問題ないわ」 責任感の欠片も無い天狗のマイクパフォーマンスに乗って萃香が正面に立つ永琳に言葉 を向けると、永琳は何でもないようにその視線を萃香の顔、首、肩、胸から腰、足の付け 根から爪先へと順番に動かして続ける。 「いつも通り。全部『見える』から」 「ふぅん?」 スッと細められた目の奥、その瞳に萃香の服の下の素肌、果ては皮膚を通り越して骨格 までも見えるかのように永琳が言うと、萃香は彼女が言外に告げたそれに唇の端を歪ませ た。 歪みの名前は笑みと言うが、同じ名前でも和やかな友好のためのものとは違う、どちら かというと危険な部類に入るそれだ。 その表情で、萃香は永琳の挑発に対抗して囁く。 「私にも、色々見えるわ。あなたはとっても優れた人。大抵のことは一人でできる。他人 の手なんか必要は無い、本当に完成された孤独な生き物。あなたは頭が良過ぎて、あなた の生の言葉をそのまま理解できる人なんか、身近にはいないんでしょう? だというのに、 周りはあなたが難し過ぎる言葉を使っていると文句を言ってくる。ううん。誰も文句を言 わないけど、あなたは賢くて、相手の表情からその文句を読み取ってしまう。その度にあ なたは思ってきた。面倒だなぁって」 「ふぅん?」 今度は、永琳が「ふぅん」と唇の端を歪める。それはまるで萃香のものを鏡映しにした かのようで、その感情の変化に萃香はより笑みを深めて毒蛇のような言葉を向ける。 「この大会にだって、本当は出たくなんかなかった。だって、あなたにはすでに誰が優勝 するか、きっとわかってる。それくらいあなたは頭が良い人。でも、大事な姫様と、新し く関係を作らないといけない妖怪たちへの付き合いのため、面倒くさがりながらも参加し ている。本当にあなたは賢いのね。それは本当に正しい選択。だから、そういうのを予想 して、予想通りに今ここに立っているんでしょう? 自分でも気がついているはずよ。先 の先まで読め過ぎるその頭脳は人生をつまらなくしているだけなんだって。あなたの心を 打つ新鮮な出来事なんて、この先もあるはずがないんだって」 そんな人生。 まったくもって。 「お酒でも飲んでなきゃ、やってらんないわよね〜? なんなら、私の瓢箪を貸してあげ てもいいわ。あなたでも酔える、神秘と怪奇の鬼の酒。お近づきの印にさぁ!」 蛇の毒は、牙を突き立てなくとも、その牙から噴射して相手にかけるだけでも効果はあ る。 だが、永琳は毒を受けてなお揺らぐことなく、その場で唇を動かす。 「でも、あなたが無いと言う『私の予想外』が無ければ、私はここにはいなかったでしょ うね」 と。 その発言に、萃香はピクリと眉を震わせる。 未来を見通せる月の賢者が犯した一つの過ち。可愛い教え子の姫が、地上に興味を持っ ていると知りながら、「結果的に地上に降りることができる手段となる薬」を渡してしま ったこと。 (もう少し姫を……輝夜を見ていてあげるべきだった) 故に、自分は『ここ』にいる。 ええ、と永琳は笑みを崩さずに萃香を見下ろして言うのだ。 「お褒めに預かり、光栄だわ。『天然物』の妖怪の代表から、そんなに評価していただけ るとはね。大丈夫よ、そんなに怖がらなくても。私の手術は痛くないから」 そうして最後ににっこりと微笑む。患者の不安を取り除く計算づくの笑顔は、リングの 上という異質なものでも観客席から「お〜」と思わず声が上がるほどに美しい。 実に美人だ。 そして、 「あっはは! ま、ね。そっか、天然物かぁ。それは値段が高くて美味しいってことよね。 さすが、『養殖』の連中とは見る目が違うわね、あなた」 腹を抱えて笑う萃香の姿は――実にちんくしゃだ。 はぁ、と誰かがため息をついた。 「駄目だ、負けた」 「うん、圧倒的に負けてる」 「明らかに差がついた」 「と言うか、あのチビより私の方がイケるでしょ」 「他の誰かが地上代表の方が良かったんじゃない?」 お年頃の妖怪少女たちの歯に布着せぬ評価である。 地獄耳である萃香は、しかしそれを聞いてはいなかった。そんな瑣末なことよりも重要 なことが、彼女の目の前にはあったからだ。 表面上は和やかに。だけれどその視線は決して笑うことなく、空間を緊張感で塗り替え ていく正面に立つ医者の姿。 なるほど、と萃香は納得したのだ。 (こいつ……違うなぁ) 同じように、永琳も笑顔の裏で納得していた。 (七、三というか八、二でも甘いくらいね、これは) 遠くからでも相手の力量を知ることができる二人だが、正面に立って初めてわかること もある。『敵意』を向けて初めてわかることもある。 故に、なるほど、だ。 その緊張感がリングの四方に及び、ロープを乗り越えてリングサイドに及ぶと、美鈴の 差し出したスプーンの先に乗った素敵な赤いものを食べようと大口を開けていたフランド ールがビクッとその背の翼を垂直に立てる。隣ではレミリアが同じように翼をピンと硬直 させて伸ばし、少し離れたところではチルノが小首を傾げて自分の剥き出しの腕をさする。 「何これ?」 『寒い』ということを生まれて初めて経験する少女の言葉が、暖を呼び込む春告精をそ の場へと誘う。雲を掻き分けるようにして現れたリリーホワイトの姿。 「では――」 といよいよ迫った『その瞬間』に、文は雪の気配が濃厚となった湿気に重そうな雲を見 上げて宣言した。 「二回戦、Dブロック第二試合――最終戦!」 瞬間、申し合わせたように萃香と永琳が大きく後ろに飛びすさる。 青コーナーを背にした萃香が未練たらしく手にしていた瓢箪から、今度こそ最後の一口 をごぶりと口に含み、コーナーポストの上に設置する。落ちないように固定するのは手乗 り萃香たちの仕事だ。 対して永琳は帽子を手で整え、服の皺を綺麗に伸ばす。 お互いに準備完了のそのタイミングで、 「始まりですよ〜」 二回戦最後の試合が始まった。 ※ ※ ※ 「始まりました注目の一戦! この試合は、最強決定戦と言うよりも、頂上決戦という方 が似合うかもしれません。鬼が勝利し妖怪の力を月面に轟かせるか、それとも月の力が我 我妖怪の夢を無残にも打ち砕くのか……勝負は一ラウンド五分、合計十分待ったなし!」 試合開始と同時に文がマイクを通してこの試合の持つ意義を会場に再確認させる声を飛 ばす。それを受け、慧音は手にした湯飲みをぎゅっと握り締めながら早くも放送席から身 を乗り出して、食い入るようにリングを見つめる。 「最初の一手だ。鬼の一撃が当たるようならば、この試合、鬼の一方的な勝利になるぞ」 まず最初の焦点はそこにあった。 果たして、萃香は永琳の防御技術を上回る攻撃力を持っているのか。 逆に言えば、永琳は萃香の破壊力を捌くほどの防御技術を持っているのか。 皆の思考はそこに寄っていたが、しかし鈴仙だけはそれに付け加えた。 「それだけじゃないわ」 「なに?」 呟きに、会場中から集めた賭け札を数えていたてゐが尋ねる。鈴仙はリングに目を向け たまま、皆が見落としていることを答えた。 「師匠の攻撃力も桁違いよ。あの鬼がその一撃を喰らって耐えられるのか……それも重要 なはずよ」 自分が一回戦の最後に喰らった『顎弾き』。一瞬脳を揺らすことによって十秒間の行動 停止を強制されるあの技は、一撃で相手を行動不能にする萃香の破壊力と『攻撃力』とい う点では互角のはずだ。 「鬼がそのことを忘れているなら――」 と鈴仙は思う。 あれは耐久力でどうにかなるものではない。『喰らえば終わり』だ。リグルの蹴りを顔 面で受けてダメージ無しだった萃香でも、ひとたまりもない。 もし、自分の耐久力を過信して無防備に『受けてみせる』なら――。 「――最初の攻防で勝負はつくわ!」 どちらとも、試合を一瞬で決定する攻撃力を有している。さらに、永琳は防御技術、萃 香は耐久力と、同じレベルの防御力をも揃えている。 技術と天性、それは真逆のようで、しかし同じように『戦力』なのだから、不思議なも のだ。 そして、鈴仙には互角に思える武器と防具を手にした二人のうち、どちらが最初の一手 を狙っているかと言うと……萃香と永琳、お互いがお互いにそれを狙っていた。 試合開始の合図から、酔っ払いそのものの動きでその場でくにゃくにゃと身を揺らし始 めた萃香をしばらく眺めていた永琳は、そこにある種の規則性があることを見出す。 ふら〜り、ふらり。 ふら〜り、ふらり。 大きく頭まで揺らし、身体の軸さえもブレているように見える揺れだったが、良く見れ ば彼女の最初の立ち位置から半歩の距離、半径半歩で描く円からは『足』が出ない。激し く動く上半身に騙されそうになるが、萃香は『間合い』を崩してはいないのだ。 そのことは、彼女がただ酔っ払っているのではなく、『戦う』ことを考えた攻撃姿勢で あることを示している。 (酔拳、ね。酔えば酔うほど強くなる……というのは宣伝で、酔った際の動きを取り入れ た戦法のはずなんだけれど、本当に酔っ払っているのは興味深いわね) 常に酔っているという鬼が戦う際、何をしても普通に酔拳になってしまうのかもしれな いが、と苦笑する。 (そうやって、隙があるように見せて、その実万全の態勢で待ち構えて相手を倒す。後の 先を取るには実に理にかなかった戦法だけれど、さて) なら、と永琳は試合が始まって最初のアクションを起こした。 その動作――両腕を後ろに回し、腰の後ろで手を組むというそれに、会場が一斉にどよ めく。 「ちょ……っ」 「鬼相手でしょ!?」 萃香を応援しているはずの妖怪たちですら顔をしかめてしまうのは、無防備なままで萃 香の拳を受ければどうなってしまうのか容易に想像がつくからだ。 だが、永琳はさらにその無防備のままで大きく足を一歩踏み出した。しかも一歩で止ま らない、明らかにそのまま歩く足の踏み出しだ。 「う、うわ〜! 死ぬ気だぁ〜!」 「ちょっとちょっと、少しは試合してくれないと駄目じゃない!」 まるで試合を投げたような永琳に、ついにブーイングの声まで飛び交い始めるが、放送 席の慧音は、むしろ呻くように言う。 「後の先に対して、『より後の先』を作った……っ。正気の人間のやることじゃないっ!」 「こ、これはいきなり見せてくれます、永遠亭の懐刀! 隙を見せ、相手に攻撃させるこ とによって相手に隙を生み、そこを突く……つまり相手に攻撃させながら主導権は自分が 握るという酔拳に対し、なんと永琳選手は攻撃に使う手を後ろに回す『自分からは仕掛け ない』宣言!」 「お互いに『先の一手』が欲しい試合の立ち上がりに、両方が『後の先』戦法を選択する ……それに何か良い点があるんですか?」 盛り上がる慧音と文に対して一人わかっていないのは格闘技に疎い阿求だ。「先に当て たいなら先に攻撃すればいいのに」という彼女に説明するために、文は無言でいきなり阿 求の顔に向かって裏拳を放った。 真横から突如目の前に現れた拳に、阿求は椅子から飛びあがるほどに驚く。 「ひゃ!? な、何をするんですか!?」 「見えましたか?」 「は?」 「もう一度やりますよ。裏拳ですからね、よく見ててください」 そう言って、文はもう一回同じ裏拳を振るう。速度は同じ、阿求にもどうにか影くらい は目で追える速度だ。 ピタ、と顔面スレスレで止まった文の拳に、阿求はゴクリと唾を飲み込みながらうなず く。 「み、見ました」 「見えるでしょう? そういうことなのです」 「はい?」 「不意に出された攻撃は見えずに喰らうこともあるが、同じ速度でもよく見て来ることが わかっているなら対処のしようもある、ということだ」 「あ〜」 文が行動で示したことを慧音が補うと、ようやく阿求にも実感できた。 要するに、と両手を叩き合せる。 「お互いに相手の防御力が高いのを承知していて、『自分から何かして』その態勢を崩す より、『相手に何かさせて』楽に態勢を崩したいわけですね?」 「序盤からいきなり駆け引きが始まったな。基本の戦い方そのものが酔拳だった鬼に対し て、駆け引きをしかけたのは永遠亭の医者だ。鬼はそれに対し、どう動くか」 阿求の推測を肯定しながら、慧音は興味深そうに萃香に視線を向ける。萃香は別に『後 の先』だけしかできないわけではない。基本姿勢がそうなだけで、リグル戦で見せたよう に次々と変則の動きで相手を追い詰めていく戦い方もできるのだ。 果たして――。 萃香はその場で酔いどれ姿で身体を揺らす動きを変えることはなかった。 あっちへフラフラ。 こっちへフラフラ。 今にも倒れてしまいそうな身体の揺れで、しかしその場からは動かない。間合いを削る のは永琳の歩みのみだ。 邪魔が入らないことを幸いに、永琳はコーナーポストからコーナーポストの直線を一気 に進んでいく。そうすれば、自動的に萃香はコーナーとロープの三角州に追い詰められる 形になる。 自ら前に出ないならば、袋小路。 自ら前に出れば、永琳の『後の先』の餌食。 後ろに手を回すという永琳の仕草が何のためか、萃香はその大きな目で観察して把握し ていた。 (な〜るほど。普通『後の先』を狙うならなかなか自分からは前に出られない。それは、 前に出るっていうのがそもそも『後の先で攻撃する』っていう攻撃意思の表れだから) それでは、いくら防御を固めていても相手が攻撃してくれない。『後の先』を狙ってい ると主張しているのと同じだからだ。 (でも、出ながらでも、手を後ろに回してるなら反射的に手を出してしまう『事故』も防 げるし、なんとなく……こっちから殴りたくなるなぁ) やっぱり頭が良い。萃香のような圧倒的な破壊力の持ち主がフェイントを仕掛ければ、 思わず恐怖からそれに引っかかって半端な間合いでカウンターの攻撃を出してしまい、結 果カウンターを失敗して返しの一撃でやられる可能性があることをしっかり想定している。 さらに、そこまではっきりと無防備で前に出てこられると、『今なら攻撃が当たる』と 思ってしまう。それは、萃香が酔拳という形で見せている隙と同質のものだ。 (……で、そういう構えで来るってことは、その手の位置でもどうにでもできる技がある わけね) 鈴仙が考えたように萃香が永琳の攻撃力をナメているということは、決してなかった。 鈴仙は萃香が実力に任せ情報に大雑把な方だと思っているが、どちらかと言うとその逆だ。 萃香ほどこの幻想郷の少女たちの『基本性能』を把握している者は、そうはいない。何 せ、誰かが弾幕ごっこをしている時、宴会で喧嘩が始まった時、果ては何かしらの異変が 起きた時、彼女は霧となってその様子を眺めていたこともあるし、現在のように手乗り萃 香を放って遠くから情報を収集することもできた。 寝ている時以外、その気になれば全てを知ることができる。 それが伊吹萃香の持つ能力だ。 (何せ、人間の相手をする時、手加減の程度を決めるにはこういう能力必須だからねぇ〜) 淀みなく永琳が近づくのを視界の中に確認しながら、萃香はニヤリと笑う。 その笑みに、永琳もまたにっこりと笑う。 リングの上とは思えない不相応な笑みを交わし、二人の距離が詰まる。 残り五歩。 残り四歩。 残り三歩。 「間合いです」 熱燗を乗せたお盆を持って幽々子たちのもとへ戻ってきた妖夢が呟く。 残り二歩。 永琳は変わらず腕を後ろに回したまま前へ出る。 萃香も変わらず一歩も進まず、腕もその場で遊ばせたまま、ただ頭をフラフラと揺らす。 お互いに手と足、武器になるものは何も動かさない。 ただ笑顔のままお互いに『後の先』を続け――。 直後、萃香の口から水鉄砲のように噴き出た酒が永琳の顔面に炸裂した。 ※ ※ ※ 「な!?」 バチーン、と液体が当たったとは思えないような音が響いて、永琳の顔面が後ろに弾け た。萃香がすぼめた口から一直線に伸びた酒の『レーザー』が細いながらも滝のような勢 いで物理的な『打撃』になって永琳の眉間を打ったのだ。 「つ……っ!?」 「ク、クリーンヒットーーーーーーーーーーーー!」 「んな、ありなのか、あれは!?」 永琳が苦痛の声を上げて、一歩を進めようとしていた足を滑らせる。それを見て文がマ イクに向かって叫び、慧音がリング上の閻魔を見る。 すると、映姫は笏を頭上に掲げて、天を突いたまま大きくグルリと一回転。それの意味 するのは、 「『試合をそのまま回せ』! 試合開始直前に口に含んだ酒は鬼にとっては必需品。審判 である四季映姫・ヤマザナドゥの裁定は試合続行ーっ!」 「師匠ー!」 文もまた映姫に倣って腕をぶんぶんと回転させ、マイクに言葉を叩きつける。いきなり の急展開に鈴仙が師匠の名を叫ぶが――遅い。 よろけた永琳が、半ば尻餅をつくような形でロープにもたれる。尻がロープの中段に引 っかかり、そのまま落ちそうになる身体を永琳は慌てて右手でロープを掴んで支える。 そこに、 「ひゅっ!」 酒で濡れた唇もそのままに、萃香が拳を振りかざして突進する。短い足が高速でキャン バスを蹴り、短距離で最大加速する瞬発力で一瞬にして自分と永琳の間合いを『潰す』。 それはまるで瞬間移動したような速度で、ようやく目を開けた永琳の視界をまず最初に埋 めたのは、その小さな、しかし凶悪な破壊力を持った拳だ。 不意打ちの『酒鉄砲』が生んだ効果は二つ。 一つは、相手の意表をついて構えを崩すこと。 もう一つは、永琳の態勢が崩れたことにより、『永琳の顔が萃香の手の届く位置まで下 がってきた』こと。 その二つ目が、永琳には致命的だ。 「!」 萃香が斜め上から振り下ろした拳が、中腰の永琳の顔面をまさに斜めに切って落とす。 グルンと勢い良く永琳の首が捻れ、その威力でロープが大きくたわむ。拳を全力で振り切 った萃香の身体も捻るように横反転し、 その横顔に、ロープから跳ね返ってきた永琳の左手が触れた。 「あ、れ? 手応えが……っ」 「診察開始よ」 目を丸くした萃香の顎を摘まんだ永琳の手が、その顎を左右に『弾いた』。 が。 次に目を丸くしたのは永琳だった。 (動かない!?) 一回戦で鈴仙にそうしたように脳を揺らそうとしたというのに、萃香の顎は永琳の手で ピクリとも動きはしなかった。 それはつまり、 (なんて筋力……っ) 単純に、萃香の首の筋力が強過ぎて、永琳の力では僅かの動きも与えられなかったとい うことだ。リグルの飛び蹴りをまともに受けてもビクともしなかった首の強さは、永琳の 細腕でどうにかできるレベルではなかったのである。 「それで力を入れているつもり?」 すぐに驚きから復帰した萃香は、頭をブルンと振って永琳の指を外すと、振り切った右 拳を振り子のように裏拳で斜め上へと切り上げる。しかしその拳は、軌道上にあった永琳 の身体が後ろに退いたことで空を切る。ぎりぎりで避けた風圧が永琳の前髪を突風に煽ら れた野草のように吹き上げ、永琳の背中はロープを押して『リングの外』へと傾く。 その、不必要なほどに『思い切り後ろに下がった』ことによるロープの反動、弾力その ものを利用して、永琳は右の掌を真っ直ぐに萃香の左目へと突き出した。追い詰められた 短い間合いでも身体全体で前に押し出されるそれは充分な速度が乗り、また『技の出し始 め』に予想されるよりも遥かに伸びる。 萃香が上半身を仰け反らしてその掌打から逃れようとするが、萃香の頭が下がる距離よ りも、永琳の身体が進む距離の方が長い。 「ふっ!」 永琳の呼気と共に、掌打による衝撃が萃香の眼球を直撃するかに思えた瞬間、永琳の掌 打の軌道が上に逸れた。萃香が残っていた左腕を折り畳み、下から掌を使って永琳の肘を 押し上げたのだ。それは相撲で相手の張り手を真上に逸らすために用いられる擦り上げの 技術だ。 そうすると、萃香が両腕で万歳し、永琳が右腕を上げられた状態で二人の身体が接触す る。 萃香が、斜め右上に振り切った拳を、再び握り締める。 永琳が、自分の肘を擦り上げた萃香の左の手首を素早く右手で掴む。 ――そこで二人が停止する。 身体を隙間無く密着させた状態でお互いに真下と真上に首を傾けて見合い、一方は必殺 の拳を振り下ろす直前で、もう一方はあと一捻りで手首と肘の関節を極めることができる 直前だ。 解説が追いついたのは、その時点だ。 「す……ごい、凄い凄い、萃香選手、永琳選手、どちらもロープ際での凄まじい攻防を見 せてくれましたっ。まさかの不意打ちから間髪入れずに見事な瞬発力でとどめを刺しに行 った萃香選手の一撃を、永琳選手はあの不完全な形から首捻りで脱出! 柔軟な筋肉とリ ラックスを必要とするこの防御技術……永琳選手には萃香選手の破壊力に対する恐怖は無 いのでしょうか!?」 「確かにそれも見事だったが、その後の攻防ではっきりしたな。医者の『顎弾き』は鬼に 通用しない。私は吸血鬼と戦った経験でわかるが、吸血鬼や鬼は打撃を入れても頭が揺れ ないから、脳にダメージを与えにくい。やるならば、人形遣いがそうしたように、他の部 分で弱らせてからでないと駄目だ」 「と言うか、鬼とお医者さんが組み合ってるって、凄い構図ですね……」 文、慧音、阿求がそれぞれの観点で実況と解説を加えていく。 文は永琳の防御技術の見事さを。 慧音は萃香の耐久力の凄まじさを。 阿求は絵巻物でも見ないような組み合わせの珍妙さを。 その解説に会場の妖怪たちが自分なりの感想を述べようと口を開いた瞬間、永琳が向き 合ったダンスのような態勢から、まさにダンスそのままに右手で萃香の左手首を掴んだま ま、そこを回転の中心にするようにして左一回転した。左足を浮かして、身体の後ろ側を 通して右足の右横に接地して、クルンと身を回す。 「づっ!?」 真正面から向き合っていた形から、あっと言う間に二人が背中で向き合う形に変化する。 後ろから手首を掴まれた萃香の肘関節が逆側に極まり、キシリと痛んだ肘に萃香が思わず 顔をしかめて自由な右腕を使おうとするが――。 「あ」 「関節の稼動範囲診察――人間と変わらないわね」 「ちっ!」 寸前までお互いがお互いに打撃か関節技を加えられる状態だったというのに、永琳は簡 単な一回転で、萃香の拳が届かない位置に移動していた。『安全を得てから関節技を極め る』のではなく『関節技を極めて安全を得る』攻防一体の永琳の動きに、萃香は舌打ちし て拳ではなく右腕での肘打ちを背中側に打ち込もうとするが、その肘に永琳の左手が蓋を するように被さってくる。 「上手い上手い! 永琳選手、萃香選手の肘の尖った場所を完全に手で覆いました! 永 琳選手の筋力では腕の振り自体は防げませんが、この至近距離で尖った場所を封じられて は、肘はただ押すだけの効果しかありません。攻撃力は……ゼロ!」 やはり技術勝負では永琳選手の方が一枚上か、と文が続けようとしたところに、萃香が すっと深く息を吸い込む。 そして、 「ふんっ!」 気合いを入れて、上半身を前に倒すと同時に両腕を前方向に向かって振る。それだけで 萃香の左手首を掴んでいた永琳の手が振り切られ、前屈みになった萃香の突き出した『尻』 に太腿の辺りを押されて永琳が前のめりにつんのめってリング中央に向かう小走りになる。 「あら、ら」 「師匠、後ろ!」 「!」 そこに鋭く飛んだ鈴仙の声に、永琳は後ろも見ずにその場に膝を折った。その頭上を弾 丸のような勢いで背面飛びをした萃香の頭が通り過ぎていく。 「萃香選手、強引に腕力で関節の自由を取り戻し、お辞儀の体勢から一気に後ろに身体を 倒して弾丸突進! しかし永琳選手、それも避けるっ」 しゃがみこんだ永琳の目の前のキャンバスに、萃香が仰向けに落下する。ドン、と一回 跳ねて、その勢いのまま萃香は後転して起き上がる。 そうして萃香は永琳が立ち上がる前に右腕を風車のようにぐるぐると振り回して、真上 からハンマーのように振り下ろす。永琳が身を退きながら立ち上がると、その髪の毛を掠 めて小さな拳がキャンバスに打ち込まれ、ズダンと地面が揺れるような衝撃が彼女の足の 裏をくすぐった。 その背筋が凍るような萃香の攻撃に、永琳は呟く。 「筋力、反射速度、瞬発力診察」 こんなものかしら、と。 一連の萃香の攻撃を眺めながら永琳は思う。 (早くて強いけれど……まだそれだけね) 伊吹萃香の本気の『強さ』がこの程度ではないことを永琳は承知している。圧倒的な力 に自信を持つ者に良くある傾向だが、萃香は戦いの中で段々と自分の力を底上げしていく タイプだ。前のリグル戦でも、その気になれば最初の一手で強引に拳を当てることもでき ただろうに、序盤ではリグルに自由に動かせてその持ち味を充分に発揮させる戦い方をし ていた。 (確か鬼は人間との互角の勝負を望むそうだけど……悪い癖ね) 永琳が相手の力を分析しながら戦っているように、萃香もまた同じように相手の力量を 量りながら戦っているのだろう。その辺りは、さすがに馬鹿力だけの単細胞妖怪とは違う。 理知的で、常に『戦いを楽しむこと』を考えながら戦っているように見える。 その証拠に、永琳が八対二ほどの戦力差と考えている正面からの戦いで、不意打ちを喰 らいながらも永琳は五分の戦いを繰り広げることができていた。 対して、萃香もまた永琳の見せる力にペロリと唇を舐める。 (あっちもまだ様子見? だったら……次はこれくらいでどう!?) 永琳の攻撃に「これで仕留めよう」という殺気がうかがえず、まだまだこちらの技を観 察している段階だと踏んだ萃香は、次なる一撃を放とうとキャンバスにめり込ませた拳を 引き抜き、その低い姿勢から地を這うようなタックルで永琳の懐へと飛び込んだ。 (そっちの得意な寝技につき合ってあげる!) 永琳の腰に抱きつくつもりで両腕を伸ばす。関節技が得意な永琳の間合いで組み合って も、萃香には先ほどのように腕力で抜け出す自信がある。 「観察したいなら、いくらでもしなさいよ!」 観察しきった時には、あんたは倒れてるだろうけどね! だが、勢いに乗った萃香の突進に永琳は冷静に対処する。自らも重心を低くして、突っ 込んでくる萃香の手を無視してその間にある頭を自分の腹で受け止め、両腕で萃香の頭を 抱え込む。首を抱えるのではなく、ちょうど萃香の角の付け根辺り、萃香の両目を塞ぐよ うに腕が回りこむ。 そのまま体重をかければ完璧なタックル潰しなのだが、萃香の馬力は牛の突進を止める よりも厳しい。彼女を受け止めた身体が後ろに流れ、永琳がキャンバスについた足の裏が 摩擦抵抗を無視したように滑り出す。 そして、 「あっと言う間にコーナーポスト〜! 萃香選手、永琳選手をいとも簡単に逃げ道の無い 場所に追い込みました!」 リング中央からニュートラルコーナーまで滑った身体は、それ以上の後退を許されず、 前屈みに萃香を押さえ込んでいた永琳の上半身を無理矢理『起こす』。胴に腕を回され、 腹に顔を押し付けられた状態でコーナーポストに背をつけた永琳は、今度は両手を解いて から萃香の頭を両手で左右から挟み込む。 ガシッと頭を掴まれた萃香は、永琳の右膝がピクリと動いたことに、永琳の腰に回した 腕に力を込めた。密着距離での膝蹴りは必殺の威力を持つが、萃香が両腕で抱きついてい る限り、その膝は萃香の腹や胸にしか当たらない。それより上、顎や顔面への道は、抱き ついた腕が閉じてしまっているからだ。普通の手合いであれば腹や胸でも充分に有効だろ う。しかし、膝蹴りの気配を感じた萃香は腹筋に力を込めてさあ来いと気合いを入れる。 (跳ね返す!) 打撃を警戒した鬼の身体は、並の攻撃など軽く跳ね返す。無意味な膝蹴りで片足を浮か した不安定な永琳を、萃香はすぐに押し倒す。 皆がそう思った。 直後。 「いだぁ!?」 『掴まれた耳を左右に引っ張られた』萃香は、慌てて永琳の腰から手を放して引きちぎ られそうな耳を押さえた。そこに、真下からの膝が萃香の顎を痛烈に跳ね上げる。 「ぐ……っ!?」 「何が起きた〜!? 萃香選手が自ら組みつきを解除っ。しかも両手を頭に寄せて、無防 備になった顎に強烈な一発〜! この試合最初の『肉弾』クリーンヒットは、永琳選手の 膝蹴りーーーーー!」 背の低い萃香の身体が、永琳の突き上げた膝蹴りの分だけ真上に浮き、トスンと足の裏 がキャンバスに着くと同時に萃香はしかめた顔で永琳を見上げようとして、 「あ!?」 再び永琳に耳を掴まれ、両手をそれに添えて、 「ぐぎっ!?」 膝蹴りが、連続して萃香の顎を打ち上げる。目から火花が出そうなそれに、脳が揺れる 揺れない以前に膝という鋭角な部分が当たることに痛みを感じて萃香が半歩後ろに下がる。 「お、鬼が下がった〜! どうやらこれは、耳を引きちぎられるか膝蹴りを食らうかの究 極の二択攻撃! 女医八意永琳、本能に訴えるエゲつない攻めです!」 「そ、それがあったか!」 文が嫌そうに自分の耳を押さえながら叫び、一回戦で吸血鬼を怯ませるために太陽の光 まで計算していた慧音はあまりにも簡単な永琳の『回答』に驚愕の声を上げる。 そうした驚きのどよめきが客席から生まれる中、永琳は止まらなかった。 顔をしかめた萃香に向かって右の掌打を打ち込む。迫るそれを、萃香は左腕を盾のよう に使って受け止める。 「え?」 その打撃の軽さに、萃香が目をまるくする。鬼の攻撃力に比べて一撃の威力が無いのは 当たり前だが、その掌打は本当に『触っただけ』の感触しか萃香の腕に与えることはなか った。 (フェイント!?) そう思った途端、右手が引かれ、入れ替わるように今度は左の掌打が顔に迫ってくる。 同じように萃香は右腕を盾にして受け――やはり同じようにその軽さに確信する。 (フェイント!) 次こそ本命、と思う萃香に、永琳が右足を鋭く一歩進める。否、それは歩みとはいって も大きく振り上げ、真下に突き落とす、萃香の左足を踏みつけようという一歩だ。それを 萃香は左足を退いて、身体を半身にすることで避ける。 右半身になった萃香と右足同士を交差させた形になった永琳は、先ほど左の掌打と入れ 替わりに戻していた右手で、自分の左掌打を受け止めている萃香の右手首を掴む。直角に 肘を曲げて盾にしていた腕を掴まれた萃香は、力任せに腕を外側に振ってそれを振り払う。 (!?) だが、振り払ったはずの腕に何の抵抗も感じなかった萃香は、自分の腕を掴んでいた永 琳の手が『その空間』に残っていることに再び目をまるくするハメになった。永琳はわざ と抵抗せずに手を放したのだ。 萃香の顔の目の前に、永琳の両手が突き出された形。そこから永琳は右手で拳を作り、 裏拳で萃香の顔面を狙う。それを、萃香は顔を反らしながら永琳から見て奥側にある左手 を顔の前に差し出して、掌で受け止める。パシン、と挨拶程度の軽い音がして、続いて永 琳は残った左手を自分の拳を受け止めた萃香の手首に添える。 「こ、の!」 またしても手首を取られた萃香は、今度こそ関節技かと左腕を振り払い――またしても 抵抗無く『わざと手放された』ことに、自分の失策を悟る。 「あ」 右半身で、右手を右側に、左手を左側に、それぞれ大きく振り払って、誰かを抱きしめ るかのように両手を開いた体勢。 対して永琳は両手を萃香の顔の高さで重ねて浮かしている体勢で――。 「あなたから『全力』を奪わせてもらうわ」 その言葉と同時に、永琳は重ねた両の掌を、自分に向けられた萃香の『右脇腹』に向か って上半身自体を傾けて斜め下へと突き下ろした。 「しま――!」 トン。 「へ?」 想像していた、今度こその重い打撃は無かった。それまでとほとんど変わらない、軽く 叩く程度の両手突き。 何? 疑問に思いつつも、萃香は背の低い自分に合わせて頭を低めた永琳を捉えようと、広げ ていた両腕を鋏のように閉じようとした。それで捕まえれば、最初にコーナーに追い込ん だ時と同じ、タックル成立の形になる。 が。 キリッ! 「い、だだだだだだだだだだ!?」 脇腹から刺すような痛みが腹部全体に広がって、萃香は思わず身体を硬直させた。その、 悲鳴を上げて『空気』を身体から抜いて弛緩した顎を、 ――永琳が斜め下から掴み、ガクンと瞬間的に左右にブラす。 「か!?」 それは見た目には何か効果のある『攻撃』ではなかった。 しかし、その場から永琳が半身の萃香の横を掠めるようにして通り過ぎ、リング中央で 振り返るに至った時。 萃香が、コーナーに向かって一歩前に出た。 震える足で、もう一歩。 そして。 コーナーポストにすがりつくようにして、幻想郷最強の鬼はその場に崩れ落ちた。 同時。 「ダウン!」 映姫が笏を掲げ、そう宣言した。 ※ ※ ※ 「嘘だあああああああああああああああああ!?」 「お、鬼おにおにおにおにおにちょっと〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」 そういう悲鳴が観客席から上がったのが早かったか、 「だ、ダウーン! 鬼が、まさかまさかの一撃ダウーーーン! え、ちょっと、どうした んですか、え?」 「脳を揺らされた……あれは立てないぞ!」 放送席の文と慧音の叫びが早かったか、 「し……っしょぉ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」 「うさーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」 鈴仙が両腕を空に向かって突き上げ、永遠亭の兎たちが一斉に飛び上がったのが早かっ たか、 どれが一番早かったかは、定かではない。 だが、はっきりしていることが二つだけある。 「十秒間、身体の自由を奪わせてもらったわ」 萃香が本気を出す前に、速攻で勝負を決めにかかった永琳の決断力の正確さと、 「ワン!」 「……うぷっ」 顔をしかめ、口を押さえながらあっさりと萃香が立ち上がったことである。 ※ ※ ※ 「あら?」 というのは、永琳にしては珍しい驚きの声だった。彼女の前で立ち上がった萃香は確か にフラついてはいたが、それはどう見ても膝の力が入らないというものではなく、上半身 が揺れる――酔拳独特のそれだ。酔っ払いの動きだった。 その、あまりにも『なんでもない』というような立ち上がり方に、大声を上げていた会 場が一瞬にしてシンと静まり返る。特に、大はしゃぎしていた鈴仙たちは、時間が凍りつ いたように笑顔のまま固まった。 「……え?」 嘘、という気持ちが鈴仙にはある。 鈴仙は永琳の『顎弾き』が脳に与える影響を実体験として知っている。身体のどこにも 苦痛は無く、しかし足だけに力が入らず、泣きそうになって、必死になって立ち上がろう としても反応しない身体に情けなさばかり募っていったあの屈辱を覚えている。 なのに。 「続行!」 閻魔の声は、萃香が試合続行可能であることを伝えていた。フラフラと揺れながら、萃 香は言う。 「効いたぁ〜。なるほど、そういう技もあるのね」 言いながらさするのは、弾かれた顎ではなく叩かれた右脇腹だ。多くの者は萃香が言っ ているのは『叩かれて動きが止まった』ことだと思っていたが、意味を正確に受け取った 者もわずかだがいた。 一人は美鈴。彼女は主であるレミリアが指をパチンと鳴らして解説を要求すると、即座 に興奮気味の口調で言う。 「鬼の動きが止まったのは、これ以上無く正確に肝臓に衝撃を通されたからです。内臓の 動きが鈍ったところにいきなり動こうとしたから、相当痛かったはずです。それで、凄い のはあの打撃を当てるまでの過程です。あれは『七手』と言う中国拳法の技術で、簡単に 言えば、フランドールお嬢様が一回戦で狐に受けたのと基本的には同じですね」 「?」 その言葉にフランドールが首を傾げる。 つまり、と美鈴は説明する。 同時に、同じ言葉を藍もまた橙と妖夢に向かって告げていた。 「『七手』は私が使った『八雲式』と同じで、攻防の組み合わせで最終的に相手の『回避 不可能な体勢』を生み出す技法だ。中国拳法には数多くの型練習があるけど『七手』はそ の『練習相手』として作られたものなのよ」 いい? と藍は幼い橙にもわかるように噛み砕いて話す。 「最初に型がある。それに対し『七手』側は型の隙をつく攻撃をする。型側はそれを捌く。 捌いた姿勢に対し、『七手』側はまたその隙をつく攻撃をする。それを繰り返すことで、 型をより隙の少ないものに進化させようという試みよ」 だがしかし、だ。 「その積み重ねで型が進化したのはいいけど、型側の隙が無くなってくるにつれて、練習 相手としての『七手』は、今度は型側に『隙を作る』ことを求められるようになった。隙 をつくのが練習相手の存在意義だから、隙が無いと困るわけね。その研究はあらゆる型を 相手に進められ、その結果――」 練習相手に『七手』という名前がついたその由来。 「どのような型を相手でも、理論上七手――七回の攻防があれば、『絶対に対応できない』 隙を作ることができることがわかった。故に、その行為を『七手』と呼ぶようになった。 つまり『七手』というのは一つの技のことではなく、相手に隙を生むまでの過程とその行 為についた名前ね」 『突き』だとか『投げ』だとかと同じレベルでの単語の意味で『七手』なのだ。 もちろん、と美鈴はレミリアたちに言う。 「相手の構えによって、七手がどのような内容になるのかも変わります。ここまでの短い 攻防で鬼の動きを見切って完全に七手で打撃を加えるなんて、普通できませんよ」 一手目の右の掌打で萃香の左手を使わせる。 すると、二手目の左の掌打に対して萃香は右手を防御に使う。 すると、三手目の右の足踏みの際、『永琳の左手と萃香の右腕』が触れているため、萃 香は『右腕側を残して』半身になるしかない。要するに、右半身になる。 そうなると、萃香に残されたのは右腕一本。四手目で永琳はその右腕の手首を掴む。関 節技を嫌う萃香は嫌がって振り払って『右腕も外側に振ってしまって使えなくなる』。 そこに五手目で永琳が右の裏拳。すると、萃香は無理矢理遠い左手でそれを受けざるを 得ない。 六手目で永琳が左手で萃香の左手首を取れば、四手目と同じく振り払うしかない。 結果、右半身という肝臓のある右脇腹をさらして両手を使えなくなった萃香が出来上が る。 七手目は言うに及ばず肝臓への掌打だ。 八意永琳の明晰な頭脳あっての、完璧な流れであった。 ようやく硬直から解放された鈴仙も、他の面々の解説にうなずく。 「私も月で習ったことあるけど……実戦で使えるものだとは思わなかったわ、『七星』」 「しちせー?」 「うん。月だとあれ北斗七星になぞらえて『七星』って言うのよ」 新たな単語に首を傾げたてゐに、鈴仙は『七手』の月での名称を教える。鈴仙は月の綿 月家のペットとして――つまり地上への使者兼月の軍隊として――訓練を受けている際に 永琳が使ったのと同じ技を学んだが、それは『相手の動きを知っている』こと前提の絶技 であるために、ただの型訓練用の技術だと思い込んでいた。 (凄い……想像以上に師匠は凄いっ) 実戦で使えるならば、これ以上に恐ろしい技も無い。何せ、絶対に相手の隙を作ること ができるのだ。 が。 「どうして北斗七星になぞらえる必要があるの?」 「へ? さ、さあ?」 てゐの純粋な疑問に、鈴仙は初めて抱いた疑問に自らも首を傾げた。そうした会話に、 コーナーポスト裏のセコンドスペースに立つ輝夜はクスリと笑う。 そして言う。 「簡単よ。作ったの、永琳だもの」 ほら、と輝夜が永琳のスカートを指差すと、そこには北斗七星をはじめ、多くの星座を 模した飾り刺繍が入れられている。 「永琳が作った技術には、星の名前がつけられるの。七回の手順を必要とする技だから、 北斗七星で、七星。簡単でしょう?」 「え? ……って、えー!?」 当たり前のように教えられ、鈴仙は両の耳で天を突いて驚いた。師匠が作ったんですか、 という鈴仙の質問が即座に輝夜に飛んだが、しかし輝夜はそれを無視して目を細めて、今 度は永琳ではなく萃香の方を眺める。 そう、『七星』は永琳が生み出した技。完璧で、無敵の絶技。そこからの『肝臓破壊』 と『顎弾き』――立てるはずがない組み合わせ。 間違いなく、永琳は『萃香が本気を出す前』に仕留めにかかったのだ。 だというのに――。 「立つのね」 呟き、輝夜はダメージの欠片も感じさせない萃香の赤ら顔を見つめる。 これは……。 「少し、時間がかかるかもしれないわね」 「――百点満点」 輝夜の呟きが聞こえたのか、永琳は試合中だというのに満足そうに微笑んだ。それに萃 香が片眉を上げる。 (何?) その永琳の笑みに、萃香は訝しげなものを感じた。 萃香は平気な顔で立ち上がりはしたが、ダメージが無かったわけではない。倒れたのは 本当だし、閻魔のダウン宣言は『萃香がダメージで倒れた』と判断したからに他ならない。 それでも萃香がカウントワンと同時に立ち上がれたのは、永琳の『顎弾き』によるダメ ージ――つまり、足に力が入らない状態というものに他の者よりも遥かに慣れていたから にすぎない。経験で得た技術があったのだ。 十秒以内のダメージ回復の不可能を悟った萃香は、即座に『立つ』ことを諦め、両腕で 身体を起こすと足の裏をキャンバスにつけ、それから身体を起こした勢いを使って『キャ ンバスの上を滑った』。あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、足に力が入らない酔っ払 いがそうするように、千鳥足で自分から一定の距離で円を描くように体重移動の遠心力の みで『滑る』。その際、起き上がるのに使用した『腕の力』を自分の動きから逃がさない。 そうやって、十秒を酔っ払いの踊りのように滑って乗り越え、今は回復した両足で、見 た目は変わらない千鳥足の酔拳の『後の先』の構えを開始している。 会場の妖怪たちには萃香が『立つ』のにどれほど高度な技術を駆使したか、まるでわか っていないだろう。おそらく、耐久力や根性で立ち上がったと思っているに違いない。 だが、目の前にいる八意永琳は違う。 萃香が馬鹿力だけではない、『近接戦の専門家』としての――それこそ永琳の『七星』 に匹敵する絶技を見せたことを理解し、その上で輝夜の言葉に口元をほころばせてみせた のだ。 (引き出しはまだまだあるってわけね) それでも、萃香は不気味さは感じても危機を感じることはなかった。確かに相対して永 琳の力の凄まじさのある程度は実感できたが、それも『輝夜以下』である以上、萃香は最 終的に自分の地力さえ発揮できれば問題がないと考えている。 (この二回戦で、輝夜の格闘能力は見せてもらったわ。もし決勝で当たるなら、あの技の キレは尋常じゃないから警戒しないといけない) 永琳は、少なくともあの輝夜より技がキレるということはないだろう、と萃香は判断す る。永琳は永遠亭の顔役だが、あくまで輝夜を姫と仰ぐ従者の一人だ。従者が主より強い はずがない、という簡単な、しかし妖怪的には説得力のある方程式を萃香は採用する。も ちろん、それでも油断してよい相手ではないことを充分に承知した上でだ。 故に、 「じゃあ、今度はこちらから行くわよ!」 『強さの把握』とズレた不吉な予感を振り払うようにして、萃香は勢い込んで『後の先』 から自ら前に出る『先の先』の攻撃に切り替えてキャンバスを蹴って駆け出した。 駆け出したと同時に、 「つ……あ!?」 右脇腹から脳天にまで響いた電撃に、萃香は苦痛の声を上げて硬直した。その硬直に合 わせて、すでに自らも前に出ていた永琳が萃香の『額』に左手を乗せる。 「!」 それに萃香が両手で彼女の腕を掴むと、永琳は自由な右手の指で「つ」の字を作る。影 絵の狼のようなその手の形で、永琳の腕を掴もうと持ち上がった萃香の左肘をコツンと叩 く。 と。 萃香の左腕に、肘から小指の先にまで一気に強烈な痺れが走る。感電したようなその痛 みに萃香が思わず手を開いてしまうと、今度は永琳が素早くその小指を掴み、ぐりっと外 側に捻る。 「ぐ……っ」 小指をへし折られそうになり、萃香が呻き声を上げる。左腕で振りほどこうとしても、 痺れた腕は使い物にならない。 仕方なく永琳の右手を掴んでいた残りの右手も放せば、 「急所がお留守よ?」 「ぎっ!」 永琳の左の掌打がスパーンと音を立てて萃香の左目を打った。掌の根元の硬い部分では なく、中央の『平』の部分を使った打撃は、皮膚というよりも萃香の眼球に衝撃を通す。 眼球が破裂するようなそれに、萃香が歯を食いしばって、それでも小指を取り戻そうと永 琳の右手首を掴む。 ――輝夜が言う。 「五手目」 永琳が萃香の目を打った手をそのまま肌に沿って下げる。頬、顎、そして――。 トトン、と軽い衝撃が二回萃香の首の左側を叩いた。 「え? 指で……」 実況の文の間の抜けた声が会場の上を滑る。 永琳がしたのは、萃香の首に、人差し指と中指の腹を使って触れただけ。 それだけで。 伊吹萃香は動きを止めた。永琳の手首を取ろうとした形のまま、顔に驚きを張り付かせ る。その顔に、ぶわっと一気に汗の粒が浮かび、永琳はニッコリと微笑んで萃香の小指を 解放する。 それでも、萃香は動かない。 動けない。 「不整脈を起こしたわ。今動いたら、死ぬわよ」 「こ……のっ」 「なんですかそれはーーーーーーーーー!?」 余裕の永琳の言葉と、萃香の憎々しげな呻き、そして文の驚愕の声が連続した。 ※ ※ ※ 「ど、どうやら永琳選手、萃香選手の首の左側……頚動脈に打撃を当てた模様! って、 だからといって、不整脈、突然死の原因の一つとか聞きますが、それを任意に引き出した とでも言うのでしょうか!? わかりません、お恥ずかしながら、私には何をしているの か全然わかりませんでしたっ。八意永琳、永遠亭の名医の試合運びは謎過ぎます、難し過 ぎます!」 「……その前、鬼の腕をどうにかしていた場面も、おそらく肘にある腕神経叢をいじった んだろうが……できるのか、それを!?」 動きを止めた鬼。その事実を引き出した技の前に、文がマイクパフォーマンスではなく 本気で理解不能の声を上げた。その隣で慧音も脱帽の意志を口にするが、同じ席に座って いる阿求は、それがどれだけ凄まじいことか理解できずに、何故かうんうんと一人納得し てうなずいた。 「お医者さんらしい戦い方ですね」 その言葉に、文がハッと顔を上げる。 「そ、そうですね。医者らしい……ええ、医者らしい戦いぶり。そうです、忘れていまし た、戦いの専門家である鬼の目の前に立つこの女性、彼女の職業は――医者! 鬼が全て を破壊するのであれば、お医者さんは治すのがお仕事! 人体だけではなく、妖怪の治療 もこなすこのお医者さんの前では、我々の身体の弱点などお見通しなのでしょうか!? 恐るべし永遠亭の懐刀、恐るべしスーパードクター八意永琳ーーーーーーー!」 「すでに格闘の試合でも何でもないな、これは……」 慌てて会場を盛り上げようとする文だったが、静まり返った会場の皆の意見を代弁して いたのはむしろ慧音の言葉の方であった。 『不整脈』というわけがわからない単語と、動けなくなった鬼という現実。その二つが どうしても繋がらなくて困惑を隠せない妖怪少女たちは「これは何なの?」「格闘ごっこ じゃないの?」と囁きあう。 わからない。 わからないが。 「わかりやすくしてあげなさい、永琳」 「御意」 そこからの永琳の戦いは、とてもわかりやすかった。 ※ ※ ※ 実際に萃香が動きを止めていたのは、ものの数秒程度のことだっただろう。 不整脈が身体を巡ったことによる強烈な眩暈と嘔吐感に耐え切った萃香が身体の自由を 取り戻すその寸前、永琳の手が萃香の顎を掴んだ。 「あ!」 と観客たちが思った時にはもう遅い。 萃香の頭が左右に揺れる。 「――――!」 ガクン、と萃香の膝が崩れ、力を失ったその身体がキャンバスに落下するよりも前に、 永琳は萃香の腕を掴んで自分に引き寄せる。 釣った魚から針を抜き取る時のように右手で萃香の左腕を掴んで釣り下げ、そこに永琳 の左手が平手で萃香の右脇腹をパシンと叩く。 「っ!?」 悪戯をした子供を叱る母親の尻叩き程度。 その程度の打撃で、萃香の肝臓の機能は完全に停止した。 大酒呑みの鬼。 アルコールを分解する肝臓の機能が止まると、何が起こるのか。 「後でお薬出してあげるわ」 手を放す永琳。 ズルリ、とキャンバスに落ちる萃香。 力の抜けたその姿に、会場全体が唖然とする。 そして。 「う――」 と萃香が一声放ち、 「――げえええええええええええええええええええええええ!」 その場で、嘔吐した。 ※ ※ ※ 「吐いた〜! 萃香選手、吐いた、吐いた、大嘔吐! 会場のお食事中の皆様申し訳あり ません!」 会場がどよめくと同時に文が叫ぶのも無理はなかった。キャンバスに四つん這いになっ た萃香が、その場で口から大量の『液体』を吐き出したのだ。 それは普通に嘔吐と言われて想像する消化途中のものが混じったものではなく、ほぼ純 粋に、独特の香りがする透明な液体のみの嘔吐だ。 大きく開かれた萃香の口から、キャンバスの上にビチャ、と最初のソレが垂れたと思っ た直後には、それは萃香の口と同じ太さを持つ滝のような、滂沱の流れとなって一気にキ ャンバスの上に広がった。ボダボダボダというあまり気持ちよくない音が響き渡り、萃香 を中心とした水溜りが段々と広まっていくにつれて、会場の皆は何が起きたのかをようや く理解した。 ――酔った。 ――悪酔いした。 それは、それだけのことだったが、鬼という種族の特性を知る者たちはそれに驚かずに はいられない。 「鬼が悪酔いって……嘘でしょ?」 鬼ほど美味しそうに酒を飲む種族を、彼女たちは知らない。また、鬼ほど酒に強い種族 もまた彼女たちは知らない。 目の前の光景は『妖怪の常識』に反している。 それは異様であり、異常であり、恐怖ですらあった。 それは空を飛ぶ妖怪が空を飛べなくなるのと同義。 それは酸素を吸える生き物がある日突然吸えなくなるのと同義。 戦いで『相手の弱点をつく』ことは納得できる。目にしか刃が通らない甲羅の硬い妖怪 の目を狙うのはわかる。 だが、『甲羅が硬いから甲羅を軟らかくする』などということが可能だとは、思わなか ったのだ。 「酒が強い鬼を『酒に弱くした』……ってこと、だよね?」 「妖怪の特性を変えたってこと?」 「それって……」 全ての妖怪が、背筋に走った冷たいものに全身の産毛を逆立てた。 皆の視線がリングに集まる。 皆の視線が、悠々と立つ永琳に集まる。 その姿はまさに――。 「圧倒的ー! まさかまさかの瞬殺劇っ。幻想郷最強の力、鬼が、二分足らずの間に二度 目のダウン! いえ、ダウン宣告はありませんが、これはもう戦闘不能でしょうか!?」 盛り上がりにかける会場に文は全力で声を響かせつつ、しかし自らも頬に汗の筋を一本 垂らして「ちょっとちょっと」と内心焦っていた。 (萃香さん……何してるんですか!) 鬼がこれほど簡単に負けるはずがないのだ。 だというのに、萃香は嘔吐を続ける。広がった『酒の海』は薄く広がり、すでに永琳の 足元さえも濡らしていたが、永遠亭の医師は意に介さずに観察者の視線で萃香を見下ろし 続けている。 それはまるきり勝者と敗者の姿であり、それはまるきり強者と弱者の姿だ。 はぁ、と深いため息をついたのは、萃香側のコーナーで応援についていた紫である。彼 女はチラリと熱燗を手に立ったままの妖夢を見ると、バッと扇を開いて言う。 「幽々子、妖夢を借りるわね」 「返さなくてもいいのよ?」 「幽々子様ぁ〜」 冗談だとわかるが嬉しくないことを言う主に、妖夢が情けない声を上げる。そんな妖夢 に、紫は扇で口元を隠しながら、 「妖夢。『敗因』を言ってごらんなさい」 「は、はぁ」 いきなり課題を出して、彼女を面食らわせた。 妖夢は言われるがままに一回リングを見遣ると、次に紫の膝の上でのん気にスルメをか じる手乗り萃香に視線を落として「そうですね」と神妙な顔で答える。 「『余裕負け』だと思います。実際、昨年戦った鬼の力はあんなものじゃありませんでし たし、『相手の持ち味を発揮させて競う』という鬼独特のルールの隙を相手がついたよう に見えました」 終わらない宴会の日々に妖夢が戦った時など、後半は巨大化したり、ブラックホールみ たいなものになったり、まさにやりたい放題だった。 その力を、今回は妖夢は見ていない。 「彼女は『鬼の力』を箱に入れたまま、取り出す前にやられた。鬼と戦うとしたら、まず その力を使わせないのが一番ですし、私でも同じことを狙ったと思います」 もちろん萃香はそうした『力の調整』には慣れているので、今回これほど綺麗に永琳の 攻撃で倒れたのはその調整に失敗したとしか思えない。 永琳の力をナメたのだとしたら、それは不注意以外の何ものでもないだろう。 そのように妖夢は語る。 (あの人も、幽々子様や紫様と同じで、良くわからない人だからなぁ〜) 萃香が、例えば「輝夜よりは下」だと力を見誤ることも仕方ないと思う。幽々子や紫も、 彼女たちが自分から妖力を威圧に使わなければ、ただの亡霊などにしか見えないのだから。 (逆に言えば、『そのくらい恐ろしい化け物』ってことよね) 力を誇示することで身の安全と誇りを守れる幻想郷で、人当たり良くのんびりとした気 配のままで生き残れるなど、大妖怪級の力を秘めている証拠に他ならない。 「戦えば『強い』のは萃香だと思います。ですが『勝った』のは永琳。それだけのことだ と思います」 結局は、それだけのこと。 二人の大妖怪が戦い、近接戦で強い方が二分の力で戦っているうちに、分が悪かった方 が全力で勝ちにいった結果というだけのこと。 妖夢の答えに、紫はうなずき、 「だ、そうよ、幽々子」 「だ、そうね、紫」 妖夢よりも遥かに年齢を重ねた二人は、少女らしく頭を寄せ合ってクスクス笑い出した。 そして言う言葉は、二人同時に同じ言葉なのだ。 「妖夢は本当に駄目ねぇ」 と。 一方、輝夜もまた、あまりの戦いの結果に絶句する鈴仙に話しかけていた。それは試合 前と同じ、『永琳のマネ』の続きだ。 なので、 「ウドンゲ」 と彼女はイナバのことを呼んだ。 「『勝因』を言ってみなさい」 「は、はい!」 滅多に無い姫様からの質問に、鈴仙はびしっと背筋を伸ばして答える。 「たぶん最初の一撃――『肝臓打ち』にあると思います。鬼が本気になる前に打ったあの 一撃で、あらかじめ肝臓の機能を弱らせていたのではないかと思います。師匠はあの一撃 を入れる際に鬼から『全力を奪う』と言いました。実際、彼女は痛みで全力どころじゃな かったですし。その結果、最後の一発を入れることができたんじゃないでしょうか?」 最初の攻防の後、警戒を深めた萃香が攻撃に転じようとした時に右脇腹からの痛みで動 きを止めたのを鈴仙は目撃している。今思えば、あの段階ですでに萃香の肝臓はアルコー ルの分解に限界を迎え、彼女の動きを鈍らせていたのだろう。 そう鈴仙は分析するのだが、輝夜はさらに問う。 なら、と。 「なら、その最初の肝臓への一打を入れられたのは、どうして?」 「へ? それは『七星』で――」 「だから、どうして永琳の『七星』は成立したの?」 「は、はい?」 執拗な輝夜の質問だったが、鈴仙はそもそもその質問の意味がわからなかった。 『七星』は『七星』だ。七手で相手の隙を生む、永琳の絶技である。 それをどうやってやるかなど、鈴仙のような未熟者にわかるはずがない。それは輝夜も 承知しているはずだ。 が。 「『七星』全部を理解しろといっているんじゃないの。『今回の七星』に関して、永琳が 多用しているものがあるでしょう? それに気づいてる?」 「師匠が……多用?」 言われても、困惑するしかない。 すると、 「わからない?」 「も、申し訳ありません……」 図星を突かれ、鈴仙は首をすくめて小さくなった。しかし輝夜はあまり気にしていない ように説明してくれる。左手を右手の肘にあて、右手では人差し指を立てて「いい?」と 説明する姿は、そのまま永琳を模したものなのだろう。実に楽しそうに輝夜は言う。 「永琳はね、関節技を封印していたの。ううん、正確に言うと、関節技を見せ技に使って いたのよ」 「……あ!」 言われて、鈴仙も思い出した。永琳は何度も萃香の手首を取ったり、頭を取ったり、関 節技の『気配』をちらつかせていた。萃香は当然永琳が関節技を得意としているのを知っ ているため、ある程度打撃を無視してでもそれを阻止しようとして、最後に『肝臓打ち』 を喰らったのだ。 つまり、 「師匠は、一撃必殺の関節技を囮に使って……一撃じゃ倒せないけれど、有効打になる打 撃を繰り返していた?」 小さな打撃を一つ一つ。 鬼の豪腕の前でなら、誰もが一気に勝負を決めたいと思う。鬼が実力を発揮する前に、 自分の最大の技をぶつけて勝利したいと思う。――先ほど妖夢がそう言っていたように。 だけれど、永琳はそうしなかった。 あえて一撃で倒せる大技ではなく、『弱らせる』技を幾つも積み重ねた。 そうして、階段を上るように一つ一つ過程を経て、最後の一撃に辿り着いたのだ。 「一撃も受けていない綺麗な勝利なのは当然ね。だって、一撃もらったら、永琳の負けだ もの」 見た目ほど圧倒的な勝利というわけじゃないのよ、と輝夜は呟く。 それから、 「強大な力は見せるだけでいいの。それだけで人は畏れてくれる。月の民が地上に干渉す る際は、時の権力者を介してであることを思い出しなさい」 月の力は表面的なものではなく。むしろ、見えないところから、内部からじわりじわり と侵食し、気づいた時には手遅れになる、そんな力だ。 「その力を体現してみせたのが、今日の永琳。私やあなたに対する授業のつもりかしらね」 一回戦で見せた『圧倒的な関節技の力』を鬼に警戒させ、それを囮にする。 まさか、と鈴仙は青くなる。 「も、もしかして……『だから』一回戦で打撃を使わないで、私が踏み込むまでほとんど 無抵抗だったんですか!?」 鈴仙の遠い間合いからの打撃に抵抗することなく、首捻りだけで対処していた永琳。そ の気になれば、この試合のように内臓を打つ打撃で鈴仙を沈めることもできたはずだ。 なのに、あえて彼女は関節技と『顎弾き』という大技だけを使った。考えてみれば、そ んな大技を鈴仙相手に使う必要は無い。温存して二回戦に進んでも良かったはずだ。 (トーナメント表の二回戦で鬼と当たりそうだったから、師匠はあえてそうしたの!?) 思い当たってしまったその事実に、鈴仙は喜ぶべきはず『味方側』の自分もまた居並ぶ 妖怪たちと同じように背筋を寒くする。 同時に感謝した。 (師匠が私の師匠で、本当に良かった〜!) 絶対に敵に回したくはない相手というのは、存在するものなのである。 そうして周りが騒いでいる間、萃香は小さな身体からは想像もつかないほどの『水分』 をキャンバスに撒き散らし続けていた。二十秒、三十秒と途切れることなく口から吐き続 け、その量に応じて身体を支えていた腕が折れ曲がっていく。 徐々に力が失われていく。 強大な鬼の力が、そのまま酒の形で萃香の身体から抜け落ち、キャンバスを浸す。 その流れが止まった時。 「……はぐ、う……」 一つ呻いて、萃香は自らの吐き出した酒の海に、沈んだ。 「ダウン!」 無情な閻魔の言葉が、状況をこれ以上無く正確に観客たちに伝えた。 伝えたと思った途端――。 「ワン!」 「ううううううう!」 最初の一カウント目で、伊吹萃香が顔を上げた。 ※ ※ ※ 震える腕で腕立て伏せのように上半身を持ち上げた萃香は、普段の赤ら顔からは誰も考 えたことがない青白い顔で、口をへの字にして言う。 「……冗談じゃないわ。試合で負けるのはいいけど……」 恨みがましく。 「こんなにまずい酒を味わわされて、寝てらんないわよ……っ」 酒臭いキャンバス上、萃香は歯を食いしばって立ち上がる。それだけの動作で右脇腹が キリキリと痛み、揺さぶられた脳に膝がすぐに砕けそうになるが、彼女はロープを支えに してどうにか立ち上がる。 「――スリー、フォー」 「こういうダメージの喰らい方は初めて……よ」 「ファイブ、シックス」 「おおっと、止まらない! カウントが止まりません! これは……」 萃香は立ち上がったというのに、映姫はカウントを数えるのをやめない。文は試合続行 可能に見える萃香の姿に拳をぐっと握り締めていたが、まだ喜ぶのは早いと気づく。 萃香はコーナーポストに背を預け、大きく息を吐く。 「セブン」 真上に首を傾け、今度は限界にまで口を大きく開く。 「エイト」 すうっと平らな胸が膨らむほどに空気を吸い込み。 「ナイン」 「かああああああああああああああああ!」 身を前に折り、両手で自分の両足を思い切りバチンと叩いた。 叩かれた太腿からジ〜ンと痺れが足全体に走り、硬直した足がビンと伸びる。棒のよう に硬くなる。 硬くなった両足が、キャンバスを踏みしめて身体を支える。 そこで、 「続行!」 閻魔はカウントを中止して笏を振り下ろした。 お〜、と観客席から喜びの声と、拍手が生まれる。今度こそ、技術でも何でも無い根性 のみのダウンからの復活だ。 しかし、その姿は酷いものであった。半病人のように白い顔、水分を失って乾いた唇、 荒い息に上下する肩――幻想郷最強の力の、無残な姿。 無残で、弱々しい姿。 否。 「こんなものじゃないのに……っ」 と誰かが呟いた。 そう、と誰かが同意した。 「鬼が力を発揮できれば、こんな試合!」 「力を使わせないなんてずるいじゃないっ」 「おもしろくなーい!」 派手でお互いの力を誇示しあうような戦いが好みの妖怪少女たちは、相手の力を完封す る永琳の一方的な試合運びに不満の声をリングへと投げつける。それは一箇所から始まっ て段々と観客席を伝播し、やがて大きなブーイングとなって四方八方から永琳に降り注い だ。 周囲からの敵意に、しかし永琳は涼しい顔で言う。 「あなたの言った通りね。少し難しすぎたかしら?」 身近では、輝夜くらいしか理解してくれない永琳の絶技の数々。それが萃香相手にどれ ほどに細心の注意を払って実行したのか、圧勝に見える状態も綱渡りのようなギリギリで 手に入れたものであるのか、皆は理解もしないで彼女に文句を突きつける。 でも、と永琳はチラリと周りを見回した。 「『最初』はだいたいどこでもこう。そうでしょう?」 「……ま、ね」 批難が少しも堪えていない永琳の様子に、萃香は「これは本当に完璧だなぁ」と青い顔 のままで苦笑いする。 永琳はわかっているのだ。この文句ばかりの妖怪たちも、何度も何度も説明すれば、い ずれ永琳の技を理解する時がくることを。その時、彼女たちは自分が口にした文句の分だ け永琳の技の深さに感動し、逆に褒め称えるようになるのだと。 それを『予想できる』が故に、彼女の心は揺れない。 本当に賢く、強い。 (輝夜以下だなんて、とんでもない……かな) 従者ぶってはいるけどこいつは違うな、と萃香は今更ながらに認める。 (こいつ、下手をすれば輝夜や紫よりも、だ) 以下の可能性から、以上の可能性に評価を修正する。皆を観察するのが性分の萃香の目 すら欺いたのであれば、よほど日常から力を輝夜以下に見えるように調節しているのだろ う。 (とんだ狸……は幽々子だから、狐かしら?) それでも、と萃香は思う。 (一発当てられれば、私の勝ちよ) すでに足は素早い動きを期待できず、両腕も鉛を仕込まれたように重くだるかったが、 自分の細腕に秘められた破壊力に、萃香は絶対の自信を持っている。何より、 (私が負けるはずない……っ) 鬼としての矜持が、萃香の身体を前に動かす。 一歩、と右足がリング中央にいる永琳に向かって動いた。 二歩、と左足も動いた。 (よし、動く!) 相変わらず右脇腹から脳天に響く痺れがあったが、萃香は膝の調子を確かめるように一 回浅く折り曲げる。わずかだが、力は入る。 ならば、狙うのはただ一つ。 (一発!) 最後の力を振り絞り、萃香はキャンバスを蹴って飛び出した。鋭く、だけれど最初の突 進に比べればあまりにも遅い速度。それは真っ直ぐな、もはや酔拳ではないごくごく普通 の前進だ。 それでも、 「いく……わよ!」 萃香の声には、そこまでにはない真剣なものが、『全力』が込められていた。 その姿に、周りのブーイングに負けじと鈴仙は叫ぶ。 「師匠、一発狙い来ます。気をつけて!」 やぶれかぶれの突進は単純だが、鬼の破壊力ならばそれ以上恐ろしいものもそうは無い。 だが、弟子の言葉を背中で受けた永琳は言うのだ。 「『次の授業』よ。見ていなさい」 言い終わるや否や、永琳は右手を開いて腰の高さでやや前に、左手は開いて腰の高さで そのまま腰に肘を押し付けるような形の、小さく窮屈な構えを取る。 だが、永琳の独特の構えも気にせず、萃香は右拳を真っ直ぐに突き出した。萃香の身長 での右拳での真っ直ぐ――永琳が腰に添えた左掌に向かって。それは、減力したとは言っ ても、まだまだ並の妖怪ならば屈服させることができる、凶悪な一撃だ。 しかし――。 拳が命中する音は、しなかった。 ※ ※ ※ トン、というのは、永琳の主観だった。 防御の構えで、予定通りに左掌で萃香の拳を受け止めた永琳は、『利用』するつもりだ った強烈な衝撃が伝わってこなくて目を見張った。 一撃必殺を狙った萃香の打撃。それは、速度と迫力ばかりの、拳を『当てる』だけの、 虫も殺せないような弱々しいものだったのだ。だから、トンというのも実際に音として生 まれたものではなく、拳が掌に触れた感触をそのように感じただけだ。 そう思った瞬間。 「!?」 永琳は後ろに『ズレ』た。 何が起きたのか考える暇も無く、今度は萃香の左拳が伸びてくる。鋭く早く、永琳の前 に出した右の掌にそれが触れ、 トン、とやはり軽い感触が返る。 そして、 「あ……ら?」 またしても、永琳は後ろに『ズレ』た。 リング中央にいた永琳が、半歩の半分、四分の一歩ずつ後ろに後退していた。それを本 人が確認するよりも早く、今度は右拳、左拳、右拳、左拳、右拳、左拳、右拳、左拳、右 拳、左拳、右拳、左拳、右拳、左拳、右拳、左拳――萃香は連続して、チョコチョコとい う表現が似合う小さな連打で拳を『押し付ける』。 それは『打撃』ではない。 ただ拳を相手に近づけ、接触させ、固定してから、「ぐっ!」と力を込めて押す。それ だけのことだった。 鈴仙が警告したような大振りではなく、威力を無視した素早く回転の良い拳の連撃。永 琳が構えを解くよりも早く、連続して、小さく小さく繰り返す。 トントントントントントントントントントントントントントントントントントントント ントントントントントントントントントントントントントントントントントントントント ントントントントントントントントントントントントントントントントントントン――。 四分の一歩が、四回繰り返して一歩に。八回繰り返して二歩に。十二回繰り返して三歩 に。永琳の身体がどんどん押されて後退し、ついには赤コーナーの三角州まで運び込む。 その間、永琳は何度か萃香の拳に反撃を加えようとしたが、 (これは……速過ぎるっ) ダメージを考えていない分、萃香の拳は『突き』と言うよりも、子供が電車ごっこで拳 を腰に構えた状態から小刻みに前後に震わせているような『細かさ』だ。永琳が守りに使 っている両腕を動かすよりも、萃香の拳が離れて再び触れる方が早い。 つまり、 「抜け、られない!?」 永琳は自分の動きが『固められている』ことを悟った。そうこうしているうちに背中が コーナーポストに触れる。 その目の前に迫った永琳の姿に、輝夜は美しい眉を悩ましい仕草で寄せた。 「試合前の九十五点、気づかれたみたいね」 同時、幽々子と頭を寄せ合った紫も言う。 「『敗因』は」 と。 「誰かに見せるつもりの内部破壊の『授業』に専念し過ぎて、萃香を倒した後に関節技を かけなかったこと、ね」 そうしてから、何度目かのコーナー状態の展開となった試合に、彼女はニヤリと、胡散 臭い笑みを浮かべる。 「なりふり構っていない、勝つためだけの戦法。まったく鬼らしくない、『勝つための究 極的な結論』ですわ」 大人が赤ん坊を転がす時、わざわざ勢いをつけて押す必要は無い。ただ触れて、指先の 力でコロンと転がしてやれば良い。それが可能なのは、大人と赤ん坊の間に絶対的な『体 重差』と『膂力の差』があるからだ。人が歩いて空中の虫に触れた時、意図しなくても虫 は弾かれてしまうのと同じである。 『それくらい鬼と並の妖怪の間には大きな膂力の差がある』。 技の一つも使えなくなった今、萃香が頼ったのはその単純な『パワー差』。腕力が強い という、鬼の『種族特性』。 本当に、と。 「あの子も、すっかり必死ね」 ※ ※ ※ そんな馬鹿な、と鈴仙は目の前――赤コーナーという自陣のコーナーでポストを背にし た永琳を見上げていた。 永琳の背中がポストに触れ、それ以上後退できない状態だというのに、萃香の拳は止ま らない。 トントントントントントントントントントントントントントントントントントントント ントントントントントントントントントントントントントントントントントントントント ントントントントントントントントントントントントントントントントントントン――。 それは新しい音を生む。 ギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギ シギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギ シギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシ――。 永琳の身体がポストに押し付けられ、『ポストが押され』て軋む音だ。何故軋むのか。 『ポストをリングから引き剥がそう』という力が加わっているからだ。 (それって……) ありえない話だけれど、と鈴仙は呆然とその音を聞く。 軋みを上げているのは、ポストを固定する金具。 小さく、細かく、だというのに、永琳に押し付けられた拳は、それほどの圧力で永琳を コーナーポストに押し込んでいる。 永琳を――押し潰している。 打撃? パンチ? そんなものではない。 これは……。 「圧……殺?」 「…………っ」 鈴仙の呟きに応えるかのように、永琳が声の出ない悲鳴を上げる。萃香の拳に押された 手が、手に押された腹が、腹に押されてポストとの間に挟まれた背中が、鈍痛に鈍痛を重 ねるようにして、徐々に、徐々に重くなっていく。 痛いというよりも、苦しい。 だが、苦しさよりも致命的なことが起こっていることを、永琳は理解していた。 と。 突如、萃香の連撃が止まった。 「し、師匠、脱出!」 鈴仙が叫ぶが、半ばコーナーに崩れ落ちた永琳はそれが不可能だと顔をしかめて自分の 両腕を見下ろす。 圧殺され続け、『もはやピクリとも動かない』両腕を。 そして。 「い……けええええええええええええええええええ!」 伊吹萃香の『一撃必殺』の拳が、永琳の無防備な腹へと突き刺さった。 ※ ※ ※ その瞬間に生じた音がどんなものであったのか、正確に表現できた者はいなかった。 身体を反転させて巻き込んだ萃香の右の拳が永琳の腹にめり込み、永琳の身体がコーナ ーポストと一緒に『ぶっ飛んだ』。 あまりにも大きな音過ぎて無音にすら感じられる衝撃が弾け、ロープが千切れる。 キャンバスが揺れる。 リング全体が震える。 永琳とコーナーポストが観客席に、悲鳴を上げる妖精たちのど真ん中にぶち当たり、そ こで跳ね、受け止めようとした妖怪少女を轢き、転がり、 ごがらがっしゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん! 「うぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」 ど派手な音を立てて博麗神社の賽銭箱を破壊してようやく止まり、博麗の巫女のかつて 無い悲鳴を生産した。 ※ ※ ※ 「は……」 一瞬呆け、しかし文はすぐに自分の仕事を思い出し、マイクに口を寄せて叫んだ。 「入ったーーーーーーーーー! 今大会、ついに、ついに鬼の拳がクリーンヒット! そ の破壊力、ご覧になったでしょうか!? そして、これはさすがに――」 赤コーナーポストが消滅してロープの外れたリングの上、笏を掲げる閻魔の姿に文は注 目する。 映姫はそれにうなずき、宣言した。 「そこまで! 勝者、伊吹萃香!」 「――決着! 当たれば一撃、問答無用の鬼の破壊力が、起死回生の一発として永琳選手 をKOしました! 繰り返します!」 文は、思い切り酸素を補給する。 「鬼対月の民、けっちゃあああああああああああああああああああああああああく!」 珍しく熱く、放送席の上に乗って文が振り上げた拳が、会場全体からのおひねりの大爆 発を誘発した。 ※ ※ ※ 歓声と拍手に盛り上がる会場を余所に、放送席の慧音は手で額を押さえて唸っていた。 「これのどこが……格闘技の試合だ?」 不整脈を叩き込んだり、圧殺したり、およそ自分が考える『格闘技』とは重ならない戦 いを見せられ、真面目な彼女は「これを認めていいのか?」とぶつぶつと呟く。 対して、同じようにこの試合に注目していた阿求の方は、 「結構面白かったですよ?」 とあっけらかんとしたものだ。その辺り、格闘技をかじっていない彼女の方が、純粋に 『凄いものを見た』と楽しめたようだ。 「これなら幻想郷縁起を書き直すこともないですね」 鬼の力――その底力を見せ付けられた気分の阿求だ。 放送席の彼女たちがそのように話していると、一方では萃香がキャンバスの上をバタバ タと『泳いで』青コーナーへと向かい、もはや立ち上がる気力もないうつ伏せの姿のまま ポストをこつんと手で叩く。 すると、ポストの上に乗っていた瓢箪がコロリと転がり落ち、素早く駆け寄ったミニ萃 香たちがそれを受け止めて栓を抜く。 萃香はその瓢箪の口に顔を寄せて――不意に次々と投げ込まれるおひねりの一つがその 萃香の顔の前を掠め、キャンバスに落ちたことに一回目をまるくする。 まるくして、 「えへへ」 少し嬉しそうに、瓢箪を口に含んだ。 そうして、 「んぐんぐんぐ……げぼっ!?」 勝利の美酒をと思った萃香は、肝臓から響いたアルコール禁止令に、その場で盛大な噴 水と化して目を回すのだった。 それを見た藍は呆れて言う。 「自分で自分にトドメを刺しましたよ、あいつ。そこまでして酒が呑みたいんですかね」 「藍」 「はい、拾ってきますよ」 言われるまでもない、と藍は紫の膝の上の小さな萃香を摘み上げると、小さく呟いてか ら歩き出す。 「……それにしても、結局鬼を気絶させたか。月の民、恐ろしいわね」 呟きは当然紫の耳にも入ったが、彼女はそれに関しては何も口にはしなかった。ただ、 彼女は雑談のように隣の幽々子に言うのみだ。 「萃香を――鬼を『苦戦させる』のではなく『倒したい』のなら、不可欠なものがあるわ。 残念だけど彼女、八意永琳が格闘ごっこに使える範囲には、それがなかった」 それは――。 「それは、鬼でさえ呑みこむ、嵐のような、心も技も命でさえへし折り、刈り取る、単純 で絶大な、『力』」 ねえ、幽々子。 「あなたには、それがあるかしら?」 萃香が勝利したことにより彼女と三回戦で戦うことが決定した友人に、紫は問いかけた。 それは少し意地悪な表情での言葉だったかもしれない。 そして、問いかけられた亡霊嬢は「そうねぇ」と応える。 「呑み比べなら勝てそうよ?」 熱燗をきゅっと一口で飲み干しながら、リング上でおひねりに埋もれて何故か笑顔で目 を回している萃香を指差すのであった。 で。 「永琳、生きてる?」 「……明日までは寝ていたい気分ですよ」 最後の瞬間、ちゃっかり自分だけはコーナーポストの被害を免れていた輝夜に声をかけ られ、バラバラになった賽銭箱の残骸の中に寝転がった永琳は苦笑いを浮かべた。 が、すぐ近くに心配そうに自分を覗き込む鈴仙の姿があることに気がつくと、彼女はあ っさりと身を起こす。 「ウドンゲ」 「は、はい!」 いきなり『教師モード』の声音を向けられ、鈴仙が背筋を伸ばす。そんな彼女に永琳は 厳かに問う。 「『姫の九十五点』の意味、わかったかしら?」 「は、はい。ええと……最後の攻防を見てわかりました。背が低い鬼が相手の場合、腹部 への攻撃が中心になるので、『首捻り』のような回避ができない、ということです」 最初の攻防では、永琳が不意打ちによってよろけたため、萃香が顔面への突きを行った。 もしあれが腹部への攻撃であったならば、試合は一瞬で終わっていたかもしれない。 鈴仙の答えに、永琳は「よろしい」とうなずき、 「正解。でも、遅過ぎね」 上半身だけを起こした姿のまま、左手を右手の肘にあて、右手では人差し指を立てる。 その隣では、輝夜も楽しそうに同じ姿勢を取り、二人は同時に鈴仙に言うのだった。 「少しは自分で考えるようになりなさい」 「うう……」 鈴仙の耳がペタリと垂れるのは、そろそろ仕様になりつつあるのであった。 『Dブロック第2試合』――決着!