東方殴り巫女伝説 〜Bare Knuckle Players〜 2回戦 Dブロック第1試合 藤原妹紅 VS 西行寺幽々子 ※ ※ ※ 二回戦が最終のDブロックに至ると、会場はそれまでとは一味違った緊張感に包まれた。 もちろん、残る二試合分の勝敗を予想する楽しげな声は、これまでの試合とまったく同 じものだ。一回戦の戦いぶりから選手たちの戦力を分析し、打撃ならばどちら、組み技な らばどちらと観客ならではの無責任さで妖怪たちは語り合う。少女ばかりの観客席なので、 それは群れた小鳥の囀りのようにリングの上の幽々子と妹紅の鼓膜をくすぐった。そうし たことも、これまでの試合と変わるところではない。 違うのは、その囀りの端々に現れる一つの単語だ。 「それでさ、三回戦のDブロック、どうなると思う?」 「三回戦なら、冥界の姫とお医者さんじゃないの?」 「うんにゃ、私は三回戦は竹林の忍者少女と永遠亭の懐刀だと思うね」 「あ、私はお化けと鬼。他二人、よくわからないし。三回戦の組み合わせはそれで決まり かな」 「あいつ、竹林の火の鳥使う奴でしょ? 相性悪いよ、幽霊じゃ。だから、あたしはあい つと医者に一票。三回戦はこれにおつまみ賭けるよ」 『三回戦』。 二回戦が終わる前から、妖怪及び妖精の少女たちの話題はそこに集中していた。別に二 回戦の残り二試合に興味が薄いわけではなく、実態はその逆である。 ――死を操る冥界の姫。 ――不死鳥を背にした蓬莱人。 ――永遠亭二大巨頭の片割れ。 ――幻想郷最強の力、鬼。 四人が四人とも、幻想郷最強クラスと言って良い実力者が揃ってしまったこのDブロッ クの二回戦。ここで勝利しても、続く三回戦も再びその最強クラス同士の激突が待ってい る。当事者の四人にとっては、最悪の強敵二連戦である。 そして、だからこそ興味深い、と観客たちは注目する。これまでの試合は、そのほとん どで『格上と格下』が決まっていた。それは肉弾戦での戦闘力ではなく、妖怪としての『 格』での話だ。 例えば、吸血鬼対魔法使い。 例えば、永遠の姫対メイド長。 それぞれ戦ってみるまで肉弾能力の差は不明であっても、そこには少なからずの先入観 がある。吸血鬼は魔法使いに勝っても誇れないが、魔法使いが勝てば吸血鬼は面目丸潰れ という、幻想郷での普段の地位に比例する――異変の際に巫女と戦う順番に比例する―― 『格付け』だ。 そうした格付けが、試合を見る際にある種の『妥当な予想』を作っていたのも、また事 実である。結果、吸血鬼が魔法使いに劇的に勝利しても、観客たちは心のどこかで思って いた。 (ま、妥当な結果だよね) と。 それ故に、このDブロックは貴重なのである。何せ『全員が異変の主犯級』という物騒 さで、それだけに勝者の予想が実に難しい。 二回戦は、誰と誰が勝つのか。 三回戦は、誰が勝つのか。 この四人の中で、Dブロックの代表として準決勝に進むのは誰なのか。 これまでの試合のように、一つ一つの試合に対して『どちらが強い?』ではない。Dブ ロック全体に対しての『誰が一番強い?』なのだ。それは、強妖たちの勝ち抜き戦がこれ から始まるという期待感となって――そして、最低三人の列強妖怪がDブロックだけで敗 退するという大事件に対する緊張感となって、観客たちの心を刺激して止まらない。 その思いを代弁するのは、やおら強く吹き始めた風に乗った天狗のマイクパフォーマン スだ。 「さあ、やってきましたDブロック! この格闘ごっこ大会でも各回戦の最後に位置する このブロック! 一人は皆さんご存知、あの世に行ったらご挨拶必須っ。居心地の良い冥 界にご興味のある方はいつでもお声をおかけください、冥界は白玉楼の主――西行寺幽々 子選手!」 「あら」 まるで宣伝のような文の語りに、青コーナーにいた幽々子が一斉に集った会場からの視 線にクスリと口元をほころばせて、まるで誘うように優雅に手を振り返す。 文は続けて、その反対側の赤コーナーにいる妹紅に手を向ける。お、と妹紅が目を見開 くと、 「もう一人は、竹林の守り神!? 最近は人里近くにも出没するので、痛い目にあった方 も多いはず。噂の忍者の子孫とは私のことだ!? 肝料理にも詳しい死なない人間、藤原 妹紅選手!」 「最先端忍法の火の鳥を使うというお話ですし、今度見てみたいですね」 言葉尻にかかった阿求の声に、それは河童たち曰く科学忍法というのです、と文はマイ クから口を離して教えてやる。 さらに、 「三人目は、同じく竹林に潜んでいた永遠亭の名医! 彼女が幻想郷の歴史に現れてまだ 二年足らず。しかし、その医療技術は幻想郷の常識を覆しましたっ。お身体の調子が優れ ない時は、人妖問わずに無料で治療いたしますのでご来亭ください、毒持ち妖怪は特に歓 迎いたします。さあ名医の名を聞け、八意永琳選手!」 段々と文の舌の回転も良くなり、指差したその手は賭けの胴元として兎たちが忙しく出 入りする永遠亭の一団の占める一角に皆の視線を誘う。 最後に、 「四人目は、もう言うことはありません。鬼は何故強い? そんなこと、今さらいったい 誰が訊く!? 腕力、筋力、妖力、力と名がつけば最上位っ。殴り合い、呑み比べ、勝負 ごとなら最上位っ。それは何故か、鬼だから! その姿は小柄ながら、間違いなくこの大 会の大本命――伊吹萃香選手!」 「お〜」 よっしゃよっしゃと拳を突き上げたのは、リングサイドにいる他の列強たちとは違い、 一人観客たちに混じって酒盛りをしている子鬼の少女だ。すでにその周りには酔い潰され た妖怪たちが山となっている。 「以上四名、最強の四名によるサバイバルマッチ、その第一戦っ。藤原妹紅対西行寺幽々 子、開始となります!」 ※ ※ ※ 文の煽りに沸き立つ会場をよそに、青コーナーの裏では妖夢が鋭い視線を赤コーナーに 立つ主の対戦相手へと向けていた。 (蓬莱人か。嫌な相手だな) かつて竹林での肝試しの際に遭遇した妹紅の強さ。その無限に復活を続ける不死身の肉 体に苦戦した覚えがるだけに、妖夢はむうと難しい顔をせざるを得ない。 (あの時は、二人がかりだったし) 幽々子と交替しつつ、妹紅のスペルカードと体力が尽きるまで弾幕ごっこを行った。勝 利はしたが、終わった時には幽々子も妖夢も残りのスペルカードなど一枚も無い状態だっ たのだ。 なので、 「一回戦の動きを見るに、長生きしているというだけあって格闘技もかなり出来るようで す。攻撃力は相手がプリズムリバーの三人でしたので強弱はわかりにくいですが、少なく とも一撃で人間並みの相手なら気絶させられるくらいはあるはずです。あと、要注意なの は、何度か見せた下段回し蹴りです。あれを足に受けると、幽々子様の生命線である足の 『捌き』が使えなくなりますから、喰らわないようにしてください」 口すっぱいくらいに、妖夢は幽々子に向かってそうアドバイスしたのである。 が。 「ん〜……大変よ、妖夢」 「はい?」 「そんなにたくさん言われても覚えられないわぁ」 「う〜」 悩みなど無さそうな笑顔で返され、妖夢は口をへの字にして拗ねた。うふふっと笑う彼 女の主には、庭師の助言を聞くつもりなど毛頭無いのが見え見えだったからだ (自分で蓬莱人は苦手とか言っていたくせに) 真の満月に中てられた妖夢の目の治療のために永琳が冥界にやってきた時など「ひえぇ」 と情け無い悲鳴を上げたくらいだ。 妹紅に相対していた時には、その理由を蓬莱人の肝を食することで新たな蓬莱人が生ま れるという一種の『命の流れ』に言及し、亡霊がかの肝を食した際にその輪廻が終わりを 迎えること――何も新しいものを紡ぐことが無い『死なない幽霊』というものの誕生に絡 めて説明していたが、ともあれ難しい話は横に置いて彼女がかなり根深い部分で蓬莱人を 恐れているのは事実だろう。それが茶化した通りの内容なのか、絶対に近い自分の力が及 ばない相手という意味での苦手意識なのかは不明であるが、妖夢は『幽々子様は蓬莱人が 苦手』と判断している。 だからこそ……だからこそ妖夢は心配して言葉を重ねるのであるが、 「天下無敵の幽々子様の数少ない天敵が相手なんですから、真面目に聞いてくださいよぉ」 「ま、失礼ね妖夢。私は真面目に聞いているわよ。覚えられないだけで」 やはり、幽々子には馬の耳に念仏であった。むしろ、話を聞いてもらおうと必死になっ ている妖夢をからかうのがたまらないという顔だ。 自ら苦手と言う相手との試合に、どうしてそれほどに余裕を持っているのか。 答えは、妖夢が尋ねるよりも前に幽々子自身の口から告げられた。 「この試合では、さすがに肝を食べるのは禁止よねぇ。だったら大丈夫だわ」 「結局そんな理由ですか!」 ふざけた言葉に、妖夢はうあ〜と小さい手で額を押さえた。この危機感の無い主にある のは、どのように助言したらよいか悩む従者をいかに言葉遊びで翻弄するか、ということ だけだったのだ。 「あ〜もう! どうなっても知りませんからね、もうっ」 「うふふっ。大丈夫大丈夫」 「そりゃあ幽々子様は何事もお強いですから。でも、もう一回戦のような奇襲は通じませ んよ。今度は相手も組み技を警戒してくるでしょうし」 「ま〜、大丈夫大丈夫」 「大丈夫大丈夫じゃなくて」 「大丈夫大丈夫」 「だから」 「だいじょ〜ぶだいじょ〜ぶ、なのよ、妖夢」 「?」 何度も言葉を繰り返し、伸ばされた扇の先がツンと妖夢の額を突いた。それでようやく 妖夢が幽々子が言外に秘めた『含み』の存在に思い至ると、主はやはり変わらぬ笑顔で言 う。 「いい、妖夢。こういうお祭りだとね、人間は妖怪には負けないように出来ているのよ?」 その、まるで春を象徴する満開の桜の枝に掌を寄せた時に感じるようなふわりとした柔 らかい感触。 うっとりと心に染み入る言葉。 あくまで優しいその響き。 伸ばされた幽々子の着物のたもとから漂う冬を象徴する蝋梅(ろうばい)の香りが、そ の幽々子の心の春をより引き立て、妖夢をとろけさせる。 それは人の魂すら肉体から引き出すような――。 「って、力使うのやめてください、私は半分人なんですから! それに、幽々子様だって 幽霊でしょうに。今は人じゃなくて『元人間』じゃないですか」 幽々子の魔性の力に魂ごと奪われそうになって、妖夢は冷や汗をかいて彼女の扇の先端 から身を退いた。すると、惜しい、と剣呑なことを呟きながら幽々子はその扇を自分の顔 に寄せ、 バッと勢い良く、言葉通り扇形に開く。 それを待っていたかのように、風はいよいよ強くなってリングの上を通り過ぎ、幽々子 の色の薄い髪の毛を弄ぶ。彼女はそれすらも面白がるように目を細め、まるでこれから舞 踊を始めるかのような姿で、静かに言った。 「まだまだ私は人のつもりよ?」 と。 それは決して激しくはなかったが、何故だか妖夢が口を挟むことを許されない深い意味 が込められており、 「……ご武運を」 妖夢は結局自分の助言も届けることが出来ないまま、年中春頭の主を試合へと送り出す ことになったのである。 その言葉に満足し、幽々子はさらに「人だからね」と言う。 「人をやめた不老不死の化け物には、負けないのよ」 鼻歌交じりのその自信に、もしかしてこれから凄いものが見られるのではないかと、妖 夢はゴクリと喉を鳴らした。 ※ ※ ※ 幽々子が妖夢相手に話している一方で、赤コーナーでは妹紅がロープに寄りかかってリ ングサイドに向かって身を乗り出していた。 放送席からやってきた慧音が何事かと思うと、妹紅は観客席の間を縫うようにして歩い ている永遠亭の兎の一羽に声を飛ばす。 「お〜い、そこの。兎、兎!」 「ん〜?」 ピン、と耳を立てて反応するのは、片手には金を受けるザルを、もう片方の手には金額 に応じて渡す賭札の束を持った因幡てゐだ。彼女は自分を呼んだのがこれから試合を行う 妹紅であることに一瞬怪訝そうな表情をしたが、すぐにその顔をにんまりとした笑顔に変 えて本家本元の兎のステップで近寄ってきた。 「はいはい、ご用件は? 自分の勝ちに全財産? 金額が多い時は、こちらの白紙の紙に 金額とお名前を〜♪」 「うんにゃ。今の賭け率どうなってるかと思っただけ」 「な〜んだ、残念。あ〜……七、三、であっちの亡霊有利だってさ」 妹紅の返事に失望のため息をついたてゐだったが、すぐに賭けの本陣である永遠亭の兎 たちに手を挙げて合図し、即座に返ってきた『白兎の耳七本』『茶兎の耳三本』の結果に 妹紅にそう告げる。 その対応に慧音が、 「賢い兎たちだな」 と感心すれば、 「教育が良いから」 とてゐが振り返ってウィンクする。実際、永遠亭の兎たちはてゐの小間使いが出来る程 度には頭が良い。その辺りは、やはり普段人型をしていなくても妖怪兎は妖怪兎というこ とだろう。人里の者が永遠亭で病気を診てもらった際に驚いてそのことを永琳に尋ねたら、 「ちょちょいっと」 と冗談なのか茶目っ気のある言葉が返ってきたという。何が「ちょちょいっと」なのか、 慧音には恐ろしくて本人に確認することができなかった。 (まあ、彼女なら兎に知恵を授ける程度、簡単なのだろうが) 底知れない、と慧音は永遠亭の医師を評価する。そうして、うむ、とうなずいてからリ ング内の妹紅を見れば、 「う〜ん、ちと負けているな。さすがに天狗が盛り上げても、人間よりは妖怪の方が賭け やすいのかしらね」 「あ、でも、他の試合に比べて賭金は少ないわよ」 「冒険はしない、ね」 七対三もの大差の賭け率だ。さぞ皆勝者に確信があるのだろうと思ったが、実際に動い ている金の量は大したものではない。てゐなどは不満であるが、勝者の読めない試合にそ れでも『参加したい』のであれば、少ない金額で賭けるのは妥当な判断と言えるだろう。 そうやって、選手として試合に出る以外にもこの格闘ごっこ大会に『参加』している者 たちがいることに、横で聞いていた慧音は思わず口元をほころばす。 「しかし、金額は少なくとも盛り上がっているようだな。この熱気も、お前たち兎が賭け の胴元として駆け回っているおかげか」 「えへへ〜、偉いでしょ? ささ、あなたも今回は放送席じゃないんだし、積極的にこち らで参加してもらわないと!」 ぐいっとザルを突き出してくる白兎に、慧音は「ちゃっかりしてる」と苦笑いしながら 懐から紙幣を一枚取り出した。交換で受け取る木製の賭札は、真面目な彼女には馴染みの 薄い手触りだ。 試合をするのは選手だが、それが年末の宴会として機能するには観客という存在が不可 欠だ。もし観客の応援の声、悲喜こもごもの反応がなければ、この大会もただの殴り合い で終わってしまっていたはずである。 (戦う『選手』に、見世物を見て賭けをする『観客』、料理を担当する『メイド』たち、 さらに『放送席』、『審判』……様々な立場で皆がこの大会に参加し、それぞれの楽しみ 方をしている、か) 慧音は最初に選手としてリングの上に立ち、次に解説として放送席に座った。そして今、 セコンド兼観客の一人として妹紅の勝利に賭けた賭札を手にしている。そんな自分に、彼 女は自分は幸運だとうなずいた。 (私は幾つも経験させてもらっているな) それは一回戦で試合に負けたから経験できたことだ。それ故に、またもう一つの『もし も』も考えてしまう。 「私も一回戦を勝っていたなら、また違うものが見えたかもしれないな」 「あ〜? まあ、眺めはいいけどね」 どれほどに周りが盛り上げようと、やはりこの宴会の主役はリングの上で戦う選手たち だ。少しうらやましそうに慧音が言うと、妹紅は唇の端をくいっと持ち上げて視線を会場 へと向けた。ぐるっと見渡せば、期待に目を輝かせた少女たちの顔がそこにはある。 「うん、可愛い顔がたくさん見える。若いっていいことね」 「ほんとほんと」 「お前ら歳いくつだ……」 しみじみと言う妹紅に、同じようにしみじみうなずく白兎。一見少女にしか見えない一 人と一羽の言葉に、慧音はこちらも永琳と変わらず底知れないなぁ、と胡散臭いものを見 る目を向ける。慧音は幻想郷内の歴史に一番詳しいという自負があるが、それでも個人個 人の情報となるとあやふやなところが多い。特に、自分より長生きしていたり、あまり人 前に出てこない大物妖怪となると、お手上げだ。 そんな慧音の様子に妹紅はカラカラと笑い、 「さて、じゃあ、今回も良い勝ち方して三回戦の賭け率につなげるか!」 一回戦の時からそうだが、緊張の欠片も無くそう言って両肩をグルグルと回して準備運 動を始める。その不敵な言動は、これから戦う相手が幻想郷の妖怪少女たちの最強の一角 である西行寺幽々子だとは思わせないものだ。 その余裕は長い年月を生きてきた者独特のもので、さらに言うのであればこの大会が行 われている博麗神社の境内に集まった妖怪たちの中でも、この『人間』である妹紅よりも 長く生きている者はほとんどいない。 肩の関節をほぐす妹紅の背中を見ながら、慧音は思う。 (……不思議なものだな) 短命な人間。 長命な妖怪。 脆弱な人間。 強大な妖怪。 それははっきりと決定された境界のはずなのだが、妹紅はその定められた範疇の外にい る。 (妖怪よりも長く生き、妖怪よりも大きな力を持った人間、か) もちろんただの人間ではなく、蓬莱の薬を服用して不老不死になった妹紅は『蓬莱人』 と呼ばれる特殊な存在だ。仙人や天人に並ぶ存在と言って良い。 (確かに、妹紅が自分の力に自信を持っているのもわかる。だが――) だが、生物としての悟りを得て通常の生命の枠組みを越える仙人たちに比べ、薬を服用 すれば誰でもなることが可能な蓬莱人はあまりに特殊で例外的である。 精神を磨き上げ、人外の高みに辿り着くことで成り得る仙人や天人たち。 精神は未熟な人のまま、ただ不滅の肉体と魂を得た蓬莱人。 前者は正しく『人を超えている』と言えるが、後者はどうだろう。 前者は疑いなく偉大であり、尊敬に値する存在であるが、後者はどうだろう。 それは不滅なだけで、まだ『人間と同じ高さ』にいる存在ではないだろうか。 そして、人間は妖怪の餌なのである。 (――人間のまま辿り着ける力には限界がある) それは、図らずもかつて妹紅が肝試しが終了した時に幽々子に言われた言葉だ。 だから、その考えに行き着いた慧音は、自分よりも遥かに力を持つ大胆な先達に対して、 まだまだ若輩で小心者だからこそ出来るアドバイスを送った。 「油断するなよ。相手は何をしてくるかわからない亡霊だ」 が。 肩の柔軟運動の次は膝の屈伸運動に入っていた妹紅は、その言葉を受けても動きを止め ることなく、「はいはい」と簡単にあいづちを打つのみだ。 それに眉を顰めて慧音はさらに言うが、 「こら、真面目に――」 「真面目真面目。だいじょ〜ぶだいじょ〜ぶ」 妹紅は相変わらず、のんびりと返す。 慧音はそれに眉根を寄せるが、てゐはほほぅ、と目を細める。 「自信満々?」 「ま、ね」 「ふぅん。じゃあ『買い』かしら」 ふんふん、と何かに納得したようにてゐは手にしていた無地の賭け札をザルの中に放り 込むと、そこに先ほど慧音が支払ったよりも遥かに高い金額を筆でサラサラと書き込んだ。 そして、 「それじゃ、私はこれで。姫様にも『買い』勧めておくから、がんばって〜」 「あははっ。せいぜい高い金賭けさせなさいよ」 「はいはい」 そうしててゐは来る時と同じ兎のステップで観客の席の中に戻っていった。「胴元から のお得情報〜♪」という声に、妹紅は唇の両端を吊り上げる。そのニヤリと擬態語のつき そうな笑みに、慧音は「胡散臭っ!」と思いつつも妹紅の自信に注意を促す。 繰り返しになるが、 「もう一度言うが、気をつけてな」 「ん〜、しつこいわねぇ。将来髪の毛が心配よ、お嬢ちゃん。色薄いし」 「な!?」 ようやく振り返った妹紅に、ツンと髪の毛の生え際を指でつつかれて慧音は絶句する。 親切からの忠告を冗談であしらわれるのは良いが、その冗談が自分の髪に及んではたまっ たものではない。 ともあれ、お前の方が色が薄いだろうに、という慧音からの切り替えしが発せられるよ りも前に、妹紅はずっと浮かべている笑みのまま言うのだった。 「私の経験上、こういう場ではね、人間は妖怪には負けないように出来ているのよ」 「……あのなぁ」 さんざん引き伸ばした答えがそれか、と慧音は膨れるよりも呆れる。だが、妹紅は立っ たまま上半身を前に倒して、掌をキャンバスにぺたっとくっつける前屈運動に入りながら 「いやいや」と気心の知れた友人にでも語るように教える。 「ほんとほんと。『差』が無い場合にはね、そういう『お約束』というものが、意外に有 効だったりするのよ」 だからね、と。 「とうの昔に人をやめた亡霊には、負けないのよ」 「!」 瞬間。 リングの中央を向いた状態で前屈――つまり、頭を逆さまにしてコーナーポストの慧音 の方を見ていた妹紅の、左右に吊り上がっていた唇が『裂けた』。 それを目にした慧音は、直後にゾクリと背筋に奔った悪寒にその理由を察する。推理を 裏付けるのは、悪寒に続いて届いた高圧的な月の兎の声だ。 「ほら、そこ退いて場所を開けなさい、邪魔よ」 その声が聞こえれば、悪寒の正体は間違いない。 「あら、いいじゃない。みんな何を食べているのかしら? お菓子でもいただきながら、 一緒に観戦しましょ」 コロコロと鈴が転がるように耳に快い、好奇心に溢れた明るい声が赤コーナーの妹紅の 応援用リングサイドに移動してきた。 (うわっ) と慧音が思った時にはもう遅い。 白兎の宣伝効果か。 それとも永遠の姫自身が最初から考えていたことか。 閉口する慧音の前で、どんどん増えていく兎たち。その中に混じる二つの桁違いの妖気 に、慧音は妹紅のやる気が今最大値を迎えたことを確信する。 結果、 「行ってくるわ」 そう笑みに肩を震わせ、妹紅はリング中央へと歩き出す。その背中を見送り、もしかし てこれから凄いものが見られるのではないかと、慧音は『観客』としての期待と『セコン ド』としての不安に胸を高鳴らせるのだった。 ※ ※ ※ 同時刻。 「それで、どっちなのよ姉さんたち」 「それで、どっちなの姉さん」 「それで、どっちにしたいの、メルラン、リリカ」 リングの上空、湿気をたっぷりと含んだ黒色の雲に触れるような高みで、三人の騒霊た ちは額をつき合わせて相談していた。そこには身も切るような冷たい風が吹き荒れていた が、もとより肉体などに依存しないポルターガイストたちには関係ない。 そのような場所で、 「どっちでもいいよ〜」 「そうそう。決めるのは姉さんのお仕事でしょ?」 「そうね。ならここは、賭け率の高い方。それから一番のお得意様へのサービスを兼ねて」 三人が視線で意思確認し、一斉に三方に散る。 空に生まれる、大きな三角配置。 長女がバイオリンを。 次女がトランペットを。 三女がキーボードを。 それぞれに身近に浮かし、片腕を天へと伸ばし。 雲の隙間から舞い降りる春告精がそのトライアングルの中央を通って大きく口を開いた 時にルナサの合図でその腕を振り下ろした。 「始まりですよ〜」 そして、試合と音楽が同時に始まった。 ※ ※ ※ 「さあ、始まりました、Dブロック第一試合! プリズムリバー三姉妹の奏でる楽曲が戦 いの序章をどう彩るか!? 注目ですっ!」 そう言う文の頭上から、これから戦いが始まるとは思えない緩やかで穏やかな曲が降っ て来る。 それは優雅で、リング中央で扇を片手に妹紅を待ち受ける幽々子に相応しい曲だ。 それを聴き、妹紅は「ふむ」と大幅二歩分の距離で一回戦と同じ空手の構えを取ろうと したが、 一瞬後、曲が止まる。 「お?」 気勢を削がれ、妹紅は上空を見上げた。 (演奏を間違えた?) そう思った直後、 幽々子がその場で横一回転した。クルン、と両腕を広げて一回転。その手から畳まれた 扇が矢のように飛び、青コーナーの裏に控えた妖夢の伸ばした手にパシンと収まる。 同時に、曲調を一転させて音楽が再開される。 「!」 優しげですらあった出だしから、今度は激しく力強さを感じさせる曲へ。静かに座する 少女に似合う曲から、死を誘う幻の蝶を振り撒く亡者の支配者の圧倒的な力を示す曲へ。 力を誇示しながらも、それでも気品を失わない美しい曲へ。 これから始まる戦いの五分間を彩る曲へ。 ――BGM:幽雅に咲かせ、墨染の桜 〜Border of Life〜 (4:30) そうして、 「いらっしゃい、永遠に生ける化け物」 「ふん……行くわよ、永遠に死せる化け物」 試合は、動き出した。 ※ ※ ※ 先に動いたのはどちらだったのか。 妹紅が前に出た。 幽々子が前に出た。 一回戦では右拳を身体の脇に溜め、突き刺すような正拳を中心とした戦いを見せた妹紅。 一回戦では待ちの構えを好み、相手の攻撃をいなす戦いを見せた幽々子。 妹紅の打撃が通るか、幽々子がその打撃をいなして関節技を極めるのか。 会場の皆が、その二人の『最初に一手』を見逃すまいと、客席から身を乗り出した。 その中で、妹紅は皆の意表をついて、踏み出した足でキャンバスを力強く蹴って宙へと 身を投げ出した。 相手に背中を見せながら、大きく回転して放つ奇襲技――飛び後ろ回し蹴り。 その中で、幽々子は皆の意表をついて、身を前傾させながらその身体を反転させた。 両腕を開き、竜巻のような回転で相手の頭と足を同時に刈る打撃技――終わらない宴会 の日々の弾幕格闘ごっこで見せたこともある、胡蝶夢の舞。 前に出ながらの横の回転と、同じく前に出ながらの斜めの回転。 二つが同じ速度でお互いに激突し、右足による後ろ回しの回転の途中で幽々子の腕で宙 空の左足を払われた妹紅の身体が、グルンと縦に回る。技の速度というよりも、技の発生 位置の差による幽々子の『当たり勝ち』だ。 そして、浮かした棒の下を横に弾けばそうなるように、妹紅が腹を中心として逆さにな る。 よし、と妖夢が拳を握る。 空中でのバランスの崩壊は、絶対的な隙だ。 危ない、と慧音がロープを強く握る。 幽々子による第二撃がすぐ来ると思った。 が。 そもそも、片腕で人一人を回転させられるのは、幽々子が身体全体で飛び込みながら回 転しているからなわけで。 その突進がいきなり停止するわけもないわけで。 結果、 「え?」 「あら?」 幽々子の打撃を受けて扇風機のように縦一回転する妹紅の頭。 打撃の勢いのまま、傾いた独楽のように直進する幽々子の頭。 その軌道が奇跡のように一箇所で交差し、ごちん、と重苦しい音が会場に響き渡った。 鈍く、決定的な音だった。 続けて、 「きゃっ」 「きゅ〜」 ドスッと一人がキャンバスに落下する音と、バタンと一人がキャンバスに倒れこむ音が 連続で響き、 「……え〜」 それを見た閻魔様がコホンと咳払いし、 「ダウン!」 勢い良く宣言しちゃったりなんかした。 ※ ※ ※ 「だ、ダブルノックダウーン! こ、これは前代未聞、試合開始と同時に、お互いがお互 いに奇襲攻撃! 必殺を狙った技同士がぶつかり、絡み合い、そしてお互いに想定外の一 撃――頭突きでの相打ちという形で沈め合いましたー!」 なんだかやけくそ気味に天狗が叫ぶ。同じように観客たちは「なんだそりゃ!」「この オチはないでしょ!」と悲鳴を上げて茣蓙をバンバンと叩く。 すると、その音に急き立てられるように、蓬莱人の少女と亡霊の少女は両方とも額を押 さえて起き上がる。 「スリー、フォー――続行!」 「いたた……火花出た」 「う〜……亡霊でも痛いわぁ」 映姫が掲げていた笏を下ろして試合の続行を告げるが、世界が二重三重にブレて見えて いる妹紅と幽々子はそれどころではない。急所でありつつ、拳と当たれば拳の方を骨折さ せるほどに硬い頭蓋骨同士が激突したのだ。普通に殴られるよりも遥かに深いダメージが さっそくお互いに刻まれてしまった。 しかし、収穫はある。 「な、なるほど」 ふらふらと危なっかしい足取りでロープまで下がった妹紅は、弾力に富む硬いロープに 背中を預けながら、肌を震わすプリズムリバーの曲に納得していた。 「『こっち』が本性ってわけね」 初見では優しくたおやかに見える冥界のお嬢様の、『当たればラッキー』的な大振り奇 襲に巻き込まれてしまったことで、妹紅の中での幽々子の印象がようやくプリズムリバー の曲と重なった。 それは暴風のような力だ。 特定の何かを狙っているのではなく、辺り一帯を薙ぎ払いながら移動し、通り過ぎた後 には多くの被害を生み出しているような、避けられぬ天災のような力。 打撃に始まって関節技に終わった幽々子の一回戦の試合を思い出す。 (離れていれば打撃。近づけば関節。とにかく、使える力は出し惜しみしないで使ってく るタイプね) そう言えば弾幕ごっこでもそうだったな、と四方八方に狙いもつけずに幻の蝶を乱射す る姿が脳裏をよぎる。 「なんでもやってくるっていうのは、何をやってくるかわからないってことよねぇ」 う〜ん、と呟きながら、妹紅は同じようにようやく眩暈から復帰したらしい幽々子を見 る。亡霊少女は思い切り打ち付けた額を気にするように撫でさすってから、改めてリング 中央で構えを見せていた。 妹紅に対して完全に右半身を向ける極端な横構え。両腕は自分の身体の前で肘を直角に 曲げ、右腕は顔の高さ、左腕は胸の高さで上下平行に並べる。ちょうど両腕でイコールと いう記号を形作るような構えだ。そうすると、右肘と左手の指先が妹紅を指す形になり、 妹紅からはただでさえ半身で狙える箇所が少ない上に、その肘が顔面への攻撃を受け止め、 左手が腋を庇って――と実に攻めにくい打撃有効部位の少なさを主張してくる。 (しかも、ハラがある) 真っ直ぐに立つ幽々子の姿には、舞踊独特の安定感があった。頭頂部から足元まで、一 本の線が通っているのが他者にもわかる姿勢の良さ。それはすなわち、重心が安定してい て、いかなる状況にも対応できるということでもある。 (長生きしてるだけはあるわね) 思わず妹紅が舌を巻くほどに隙が無い。そう考え、しかし彼女は次の瞬間ぷっと吹き出 した。 「あはは! いやまあ、そうか。『長生き』か。うん、じゃあこっちもそれっぽく行こう かしら」 よし、と方針を固め、妹紅はロープ際を離れる。 それを見て、放送席からは文が安心の声をマイクに向けた。 「どうやら、両選手とも試合続行可能のようです。いやぁ、こんな事故のような決着です とさすがに盛り上がりに欠けますので、ホッとしました」 「……相変わらずだな」 文の選手よりも会場の盛り上がりを優先するその言葉に、赤コーナーのセコンドスペー スにいる慧音が仏頂面を作る。天狗たちの作る新聞の傾向でもあるが、彼女たちは何事も とにかく『盛り上げれば勝ち』と考えている節がある。根っからのお祭体質と言い換えて も良い。その結果が事実を面白おかしく修飾、改竄した娯楽重視の新聞だ。 文は天狗の中では珍しく新聞に娯楽以上の価値を見出し、情報の発信者としての自覚を ――微々たるものだが――持っているのだが、やはり天狗は天狗、宴会の余興のためなら 他者を見世物にすることくらい朝飯前の性分は変わらないようであった。 (まあ、生まれついての妖怪なら、こんなこと気にならないんだろうが) 人間として生まれ、人間としての価値観を持った上で後天的に半人半獣となった慧音に は、どうしてもそこが馴染めない。妖怪とはそういうものだと受け入れはするが、積極的 に好きにはなれない。 仙人のように人里を離れて生きることも、天人のように悟りを開いて天に昇ることも出 来ない慧音には、そういう意味で今リングの中にいる二人の戦いには、試合の勝敗以上に 興味深いものがあった。 (現在は並の妖怪以上の力を持ちながら、もともとは普通の人間だった二人、か) 死して冥界に君臨している亡霊。 生きてこの世でひっそりと身を隠して生活している蓬莱人。 寒気のする霊を身の回りにじゃれつかせる幽々子。 大気を焦がす火の鳥を従えた妹紅。 どこまでも正反対。 どこまでも対照的。 (だが、もとは同じ、ただの人間だ) その二人が今、異能の力を封じて肉弾戦で雌雄を決しようというのだ。近しい立場であ る慧音が感情移入しないわけがない。 だから、 「最初から、飛ばすな……」 進み出た妹紅――幽々子に向かって真っ直ぐに歩を進める彼女が、その両手を御札がペ タペタと貼られた差貫の左右の隠しに入れている、いわゆるハンドポケットの形であるこ とに、慧音は戦慄せざるを得ない。 「お〜っと、妹紅選手、手をポケットに入れて、無防備に前進! これはどういうつもり です?」 「まずは土台作り、いってみましょうか」 困惑する文の声に気分を良くし、妹紅は鼻歌混じりに大股で幽々子との距離を詰める。 それはあまりに無造作で、そのままならばほんの二秒足らずで彼我の打撃の間合いに入り 込む。 両拳を構えもしない妹紅がどのような攻撃を行うつもりなのかがわからず、会場の観客 たちは瞬きも忘れてリングに見入っていたが、格闘の知識に長けた一部の者たちは皆が同 じ結論に達した。 (前蹴りでしょ。お嬢様たちじゃあるまいし、あの構えからじゃ威力のある打撃は打てな い) と熱々の五菜春巻きを頬張りながら紅美鈴が唇をペロリと舐めて断定し、他方では、 (注目をポケットに集めて、最後の一歩で前蹴り) 紅魔館のメイド長が作った匂いの強烈な豆腐ようを端で削って食べている八雲藍がフェ イントも分析する。 言葉に出さないのは、食事中ということもあったが、それが幽々子に対する騙まし討ち だからだ。うっかり口にして妹紅の作戦の邪魔をしてはいけないと、美鈴も藍も興味津々 に後の展開を見守る。 そして、妹紅は躊躇いもせずにお互いの手が届く位置に向かっての最後の一歩を踏み出 した。同時に妹紅がポケットから両手を引き抜き、腰の後ろ側へと大袈裟に翼のように振 り払う。それを見て、幽々子もまた動こうとする。 そこに妖夢が叫んだ。 「幽々子様! 脇腹に前蹴り来ます!」 半身になった幽々子の一番相手に近い場所を庇うようにするためのアドバイスだ。 しかし、幽々子の動きは次のようなものだった。 平行に構えていた両腕のうち、胸の前を通していた左腕を刷り上げて、両腕で作ってい た『イコール型』を閉じ、両腕をくっつけて『一本の太い線』にする。そうすると、妹紅 が真っ直ぐに殴っても右肩を持ち上げて顔を庇うことができ、巻き込むように横から打っ てもその合わせた両腕で拳を受け止めることができる。 それは妹紅の蹴りを度外視して拳による打撃を警戒した守りの構えで、 (フェイントに引っかかった!) 妖夢はそのように唇を噛んだのだが、果たして、 「!」 ゴッ、という音と共に打撃を受け止めた幽々子の上半身が揺れた。妖夢をはじめ、美鈴 や藍が予想したのとは違い、前蹴りではなく馬鹿正直に妹紅が放った右腕の横振りの結果 だ。 「え?」 「あれ?」 熟練者たちが目をまるくする前で、さらに妹紅は顔を隠したまま退こうとした幽々子の 足に下段回し蹴りを叩き込む。その連続攻撃は早く、右手の横振りと右足での蹴りがほぼ 同時に幽々子に命中するほどだ。 「これは意外っ。妹紅選手、ポケットに手に入れるなど、あからさまに『誘い』を見せた というのに、仕掛けたのは超正統派、教科書通りの上下打ち分けです!」 「どういうこと? 幽々子様も……」 『ここは前蹴り!』と思っていた妖夢は、それに反して非効率な――腕の振りだけで体 重も乗らない打撃と、地味な下段蹴りという展開に小首を傾げてしまう。わざわざハンド ポケットというフェイントを仕掛けたのだから、前蹴りを脇腹に打ち込んでの一撃KOを 狙うのが正道というものだ。そうでないと、最初の一撃はポケットから手を引き抜く動作 で注目させた分、ただ単に『顔を打つぞ』と教えただけになってしまう。 「??」 不可解。 だが、それとは逆の顔をしているのが、攻撃を仕掛けた妹紅本人だ。 「やっぱり狸ね。正直者なら、今ので死んでるところ――よ!」 そして、妹紅は足を打たれて下がった幽々子に向かって間合いを詰める。ポケットには 入れていないが、今度も両手は左右にダラリと垂らしたままで、妖夢は今度こそと幽々子 に蹴りへの防御を叫ぼうとしたが、それより早く再び妹紅の右手での横振りが幽々子の固 い防御の上を叩く。 それは突き出す正拳突きや、横からの巻き打ちのような『拳』を当てるものではなく、 翼のように腕を伸ばしての、正真正銘の『振るだけ』の打撃だ。 なのに、 「つっ」 「幽々子様!」 受け止めた幽々子の腕に響く音は鈍く、拳のような硬いものが激突する音だ。さらに、 「よっと」 再度妹紅の下段回し蹴りが無防備な幽々子の足を打ち据える。上段での攻撃の後とあっ てそちらの音は一撃必殺に遠い軽いものだが、それでも特に鍛えているわけでもない幽々 子の細い足にはきつい一発だ。 「あら、ら?」 右半身を向けている関係で蹴られたのは右足。その右足の膝がカクンと折れかけ、幽々 子は綺麗に正中線に通していた体重を、わずかに後ろ足である左足に傾けた。 瞬間、妹紅が一気に身体ごと前に出た。蹴り終えた右足をそのまま幽々子の真横に下ろ し、後ろに残した足でグッとキャンバスを蹴る。グン、と音もなく妹紅の顔が幽々子のそ れに触れそうな位置に達し、『イコール型』にしていた幽々子の守りの構えの、その右肩 に妹紅の左掌が触れ、 「せ……あ!」 前進の勢いを使って思い切り押し込んで、幽々子の身体をロープに向かって突き飛ばし た。 あ、と妖夢が思った時には、幽々子の背がロープに触れる。そこは、摺り足による微妙 な位置調節と足の『回し』により瞬間的に前後してみせる幽々子にとっては避けなければ いけないはずの、間合いの微調整が前方向にしか許されない僻地だ。 (やられた……でも、どうして!?) 自分がアドバイスを飛ばす暇もない展開の早さに妖夢が混乱していると、 「お〜!」 最初に前蹴りを予想していた美鈴と藍が声を上げて感心する。そこまでの攻防の意味を 理解しているのはその二人くらいだった。 否、マイクを持った一番おしゃべりな天狗もまたその試合展開に叫ぶ。 「速い速い! 妹紅選手、二度の『手首打ち』と下段蹴りの連続攻撃から、わずかな軸の ブレを見抜いての即断速攻! 幽々子選手をあっという間にロープ際に追い込みました!」 「私が聞いていた限りでは、妹紅選手は一回戦空手の技を使ったということだったんです けど、あれは空手……とは違いますよね?」 「いえ、空手ですよ。こういう真正面で向き合う形で使われることはあまりない技なので 最初気づきませんでしたが、最初の横振りは、こう――」 と、文は疑問を口にした阿求に自分の『九十度に曲げた手首』を見せる。 「――手首を曲げて、三角を作って相手を打つ打撃法です。拳のように構えて打つ、とい う流れが必要なく、棒立ちからいきなり打てる……まあ、不意打ち専用と言っても良い打 撃ですね。体重の乗らない手打ちになりますが、手刀とかに比べてずっと『硬い』ですか ら、とにかく痛いです。そして、肘ほど尖ってはいないのですけど、代わりにより相手に 当てやすい。定石としては、これで斜め下から顎を刈る。上手く入れば、一撃で相手を気 絶させることもできます」 でも、何よりの特徴は、と文は言う。 「これを執拗に狙われると嫌なのは、『有効と言える防御方法』が無いことです。何せ、 構えが無いところから打て、技の発生から技の命中までの時間がとにかく短い。拳闘のジ ャブは速いと言われていますが、個人の速度差を抜きにすれば今の『手首打ち』の方が技 としては速いですよ。もちろんジャブの方が『移動速度』は速いですけど、構えた状態か らの技ですからね。ジャブが来るとわかる構えからのジャブと、そもそも何を使うかわか らない状態からの手首打ちの方が、受ける側からの『体感時間』だといきなり目の前に現 れたように感じるはずです」 ちなみに私ならそれでも止まったように見えますけどね、と最後に自慢を付け加えるこ とも忘れない天狗少女だ。 ともあれ、文の言いたいのはその先である。 「しかし、妹紅選手、やってくれますね。手首打ち一つで、まず最初に幽々子選手の見極 めをしてきました!」 そう、美鈴や藍――そして妖夢がそうであるように、格闘技術の保持者であれば妹紅の 『ハンドポケット』を見ればまず最初に『前蹴り』を予想する。 だが、実際に繰り出されるのはフェイントのはずの手からの打撃だった。彼女たちの頭 から手首打ちという技が抜け落ちていたのは、それがまさに『不意打ち』の技だからであ る。 構えが無いところから打つ技。それをわざわざ、ポケットに手を入れるという『手を目 立たせる』状態から打つはずがないと思ったのである。と言うか、そこから普通に手首打 ちを狙っても、普通に防御されるだけだ。 「……ですが、その考えが落とし穴! 何せ、私を含め、前蹴りを予想した者は誰一人と して『普通に防御しない』からです!」 文は、苦笑せずにはいられない。 自分たちが幽々子の立場であったら、『前蹴りが来る』から脇腹を庇う。『フェイント だから来ない』と判断した顔面は無防備にしていただろう。 『素人とは違って、フェイントが理解できるから本命の脇腹を守る』だ。それは自分の 経験に裏打ちされた、合理的な考え方である。 「なのに、正直者は馬鹿を見る!? 妹紅選手は捻くれ者! なんとその『当たり前』の 流れを無視し、わざわざ『打つぞ』とオーバーアクションをしてみせた腕での手首打ちを、 不意打ちの技を、真っ正面から打撃敢行! 幽々子選手が受け止められたのは、果たして フェイントが理解できなかったからか? それとも、幽々子選手も妹紅選手並みに捻くれ ているのか!? ともあれ、妹紅選手の一撃ではっきりしました!」 この二人、とロープ際に幽々子を追い込んで笑う妹紅を眺めて文はマイクに向かって叫 ぶ。 「この二人、この試合を教科書どおりの綺麗な技術戦にはしないようです!」 そうした文の解説により、ようやく会場の妖怪たちも理解する。 正直者の死。 意地の悪い妹紅の張る罠に、さしもの妖怪たちも言わずにはいられなかった。 「性格悪〜」 「ふふん。あたいはわかってたよ、手でぶつって!」 「うん……チルノちゃんだけは、正直者でも生き延びたよね、たぶん……」 呻いたリグルに自慢げに胸を張るチルノに、大妖精はじめ多くの妖怪たちがさわやか過 ぎる笑顔を浮かべたりもした。 笑えないのは、青コーナー裏の妖夢だ。 (最悪だ!) 回転を中心とした幽々子の持ち味をまったく生かすことができないロープ際。 それでいて相手は直進しながらの打撃という、相手が後ろに逃げられない時こそ真価を 発揮する『突き刺す』技を中心とした妹紅。 (どうアドバイスする!?) その焦りが汗となって頬を伝った時だ。 追い詰められた幽々子は、従者とは対照的にその顔にニコリとした笑みを浮かべた。拳 を腰溜めにして低く構えた妹紅が「お」と目を見張ると、幽々子は右半身の構えを解いて、 妹紅に対して真正面に向き直る。 そして――。 「……なんです?」 放送席で文が呟いた言葉が、同じように首を傾げた会場の面々の上を通り過ぎる。面食 らったのは彼女たちだけではなく、幽々子に相対する妹紅も同様だ。 「は?」 「うらめしや〜」 その言葉がまったく似合わない優美な微笑みで、幽々子は両肩の前で両手を力無くぷら ぷらさせた、いわゆる『幽霊ポーズ』を取ってみせていた。脱力した、緊張感の無い構え だ。 だが、妹紅が呆けたのは一瞬だけで、すぐに彼女は自分を取り戻す。へぇ、と面白そう に自分も白い歯を見せて笑う。 「あはは! うん、『らしい』わ。本当、茶化してるだけなのか、本気なのかわからない」 妹紅から見て、幽々子の『ポーズ』は決してただの無防備な姿ではなかった。それは両 肘を絞って肩の前に手を置いた、『正面からの打撃全てに対応する防御の構え』だ。 妹紅が真正面から拳を打てば、幽々子はその拳を左右の手どちらでも弾く、ないしはす り上げて軌道を逸らすことができる。 また、左右の脇腹を狙って拳、蹴りを出しても、打撃された方の肘を下ろし、さらに逆 側の手を使って庇うことで直撃を避けることができる。 そうやって『一手』分のダメージを回避し、その際に妹紅と身体を入れ替えてロープ際 を脱出することは、それほど難しくは無いだろう。 (もちろん、大振りじゃなくて小さな打撃なら、あの構えを崩すことはできるけど……) それじゃあつまらないわよね、と妹紅はすぐにその作戦を切り捨てた。 何故なら、 (『こういう戦い』を仕掛けたの私の方からだしね) 妹紅が最初の攻防で投げたメッセージを、幽々子は正しく受け取った。これが妖夢など であれば気づきもしなかっただろうが、妹紅ほどではないにしろ長生きな幽々子はそれを 受け取り、そして――応えている。 だから、妹紅は腰に添えた拳にぐっと力を込める。 「了解。今度は『そっちの番』だしね。しっかり『受け』てやるわ」 「な……真正面から行くのか!?」 妹紅が口火を切ると、幽々子の構えが明らかに誘いと思った慧音が顔色を変える。だが、 お構いなしに妹紅はひゅっと鋭く息を吸ってから、右足で一歩踏み込む。 その動きに合わせ、赤コーナー側のリングサイドで輝夜が。青コーナー側のリングサイ ドで紫が。それぞれに唇をほころばせて呟いた。 「良い余興ね」 「さあ、どっちがより狸さんなのかしら?」 妹紅の正拳突きが、弾丸のように打ち放たれた。 ※ ※ ※ その妹紅の突きを表現するなら、一直線という言葉が一番似合っていた。 左前、右後ろの足構えから右足で踏み込むということは、右足が腰の位置を通り過ぎる 過程で右に開いていた腰を左側に捻る動きと連動する。時計の針で言うならば五時の位置 にあった右足を、一時の位置に移動させ、逆に十一時にあった左足が七時の位置に移動す るのだ。 クルン、と左右が反転する。 その際の腰の回転と、前方向へと移動する勢い。それらを利用して、自然な流れで右の 拳を真っ直ぐに突き出す。 相手に一番近づいた場所を、近いから当てるためにさらに伸ばすという、無理の無い、 ごくごく普通の『一打』。 狙いはやはり真っ直ぐ、真正面に立つ幽々子のど真ん中。『真』が三つ並ぶ、幽々子の 着物の胸の合わせの胸骨だ。 その打撃に対し、幽々子は『幽霊ポーズ』の両手を掌を開いて胸の前で、手芸の蟹のよ うに手首を合わせて揃えた。それは見事に妹紅の拳を包み込み、掴み取る。 ――はずだった。 幽々子の手に触れた妹紅の拳が『回る』。掌を上に向けて突き出されていた拳が、掌を 下に向けるためにグルッと百八十度回ったのだ。 身体ごと前に出る小さく重い拳という塊の半回転。それが受け止めたはずの幽々子の両 の掌を後ろに押し込み、そしてその二つの手の合わせ目を、 「あら?」 滑るように、貫いた。 それは、幽々子が『手を重ねて』いたならば起きなかっただろう貫通だ。 『幽霊ポーズ』を取った時点で、妹紅は幽々子が一手凌いで逃げるなどという消極的な 作戦を取るはずがないと思っていた。この狸な幽霊少女は、妹紅の『二重の騙まし討ち』 を見破った性格の悪さで、必ず何か仕掛けてくる。 そしてそれはこの追い詰められた状況であれば一回戦で見せた関節技の類であろうと目 処を立て、ならばと妹紅は大きく強い一撃を放り込んだのだ。 『拳が受け止められても、掴まれても、幽々子の次の行動よりも前に身体ごとぶつかっ てそれを潰す』――そんな痛いけど死なないからまあいいや作戦。 もし幽々子が掴みに来なかったらどうするんだという内心のツッコミを妹紅は気にしな い。 (その時はその時) ヤケクソとも言うが、妹紅はその辺りの割り切りはかなり良い。 『罠』がある場所に踏み出す時は、そろそろと慎重に足を踏み出すよりも、思い切りジ ャンプして罠地帯そのものを跳び越えてしまった方が気楽であることを、彼女は経験的に 知っているのである。 ジャンプする距離――『力』が相手よりも上回っているのならば、賭けに勝てる。 下回っているのならば、罠に掛かる。 単純な力関係。 そして。 (私が下回るはずがない!) 結果、千年を越えて生きる蓬莱人の自信は、亡霊嬢の手を貫いたのである。 もちろん空手流の拳を『捻る』動きがあってこその貫通であったが、それは見物する妖 怪たちにすらわかる、明快過ぎるほどにあからさまに示された、藤原妹紅の『己への絶大 な信頼』の一撃であった。 その一撃が、 ――しかし、幽々子に届くことは無かった。 「え?」 強引に幽々子の手を乗り越えた妹紅の拳が伸びきった先に、幽々子の胸は無かった。手 を貫かれた幽々子がそのまま即座に後ろに倒れこみ、背中をロープの最上段に乗せて『場 外にひっくり返って』いたからだ。 さらに、 「な!? ちょ……!」 幽々子の両手は、『自分の手を貫いてほど良い位置に伸びてた妹紅の肘の辺り』をしっ かりと掴み、ぐいっと自分の方に引き寄せていた。もともと身体ごと幽々子に当たるつも りだった妹紅は、その勢いもあって、ロープの向こうに落ちようとしている幽々子に『引 きずられ』る。 「こ、の!」 妹紅の胸がロープにぶつかり、そのまま落下する幽々子に引っ張られて自分も落ちそう になるのを、残った左腕でロープを掴んで必死に食い止める。 そのがんばりのおかげか、幽々子の身体が半分――腰の辺りまでズリ落ちかけた辺りで 落下が止まる。 直後。 「ほいっと」 「!」 妹紅の右腕を肘の辺りで掴んで抱きしめて『逆さ』になっていた幽々子。その両足が、 はしたなくも着物の裾を跳ね上げて動いた。 右足が大蛇が巻きつくように大外を回って妹紅の首に絡み、九十度よりもきつく『絞ま る』。妹紅の左肩側から首の後ろを通って右肩側に抜けたその自分の足を、幽々子は左膝 の裏を使ってロックする。そうすることで、妹紅の首は中心に円い穴の開いた三角定規の ような形で幽々子の足で絞め上げられる形となる。 途端に圧迫された自分の首――気管と頚動脈への攻撃に、妹紅がぐっと息を詰める。 それはあっという間の出来事であったが、文が瞬時に理解して叫ぶ。 「三角締め〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜! 幽々子選手の太腿が妹紅選手の首の血管を絞 め上げる! これは一発逆転、抜け出しほぼ不可能の大技がここで炸裂! 秘密のベール に隠されていた幽霊嬢の白い素足が今白日の下に晒されましたーーーーーーー!」 「妹紅!」 一秒にも満たない時間で成立してしまった絞め技に、慧音が応援のための声を飛ばすが、 そんなものが気休めにもならないことは慧音本人にもわかっていた。 (十秒あればオチる!) 完璧に決まった足による絞め技。腕の何倍もの力がある足で頚動脈の血が塞き止められ れば、ものの数秒で人間は失神する。どのタイミングで意識を手放すかは個人差があるが、 そう何秒もある差ではない。 「さすが……!」 ぐっと小さな握り拳でガッツポーズを取るのは、ハラハラと展開を見守っていた妖夢だ。 彼女は自分がアドバイス云々などと悩んでいたことも忘れ、 「信じていました、幽々子様!」 適当にそう口走ったりもする。 一方、見事な『罠』で大技を成立させた幽々子は、妹紅の身体一つを支えに逆さまにな りながらも、その口元には余裕の笑みを浮かべていた。 だが、その笑みほどの技術差が二人に無かったことを、セコンドとして見ている妖夢は 知っていた。 (つまりは、『本気で騙すつもりがあったか』どうかの差!) まず最初、あくまで『挨拶代わり』に手首打ちの騙しをしてみせた妹紅。 それに対し、追い詰められた状況を利用して、『この一回の騙しで試合を終わらせるつ もり』の幽々子。 お互いに一個ずつ騙し技を使ったわけだが、その力の入れ具合は大きく違っていた。妹 紅はそうしたやり取りを数回繰り返すつもりだったのだろうが、幽々子はそこまで付き合 うつもりはなかった。 何故なら、 「幽々子様は、冥界一のぐーたら者なのよ!」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」 あっさりと、『楽に勝てる手段があるならそれを選ぶ』という幽々子の性格を叫ぶ妖夢 に、顔を真っ赤にしながら妹紅が目を吊り上げる。 それはまさに二人の『似ているが対照的』の表れだ。 目まぐるしい現世で永遠を生きる妹紅はお互いをぶつけ合う『勝負』を求め、のんびり とした幽世で永遠に死ぬ幽々子は疲労を嫌って『勝利』を求めた。 まだまだ肉体の使用に開放感を覚える少女と、とうの昔に肉体を捨てた少女。 お互いに狸は狸。だけれど、その狸度の使う方向が少しだけ違ったのが――。 「――試合を決めてしまいましたね」 文がマイクで会場に伝えるまでもない。 十秒を経た妹紅はそれでもまだ歯を食いしばって気を保とうとしていたが、ロープの向 こうにズリ落ちそうな身体を支えていた左手は、すでに小指以外がロープを離れている。 力が抜ける。それを肌で感じ、幽々子は告げる。 「お休みなさい」 それは幽々子の浮かべた笑顔に相応しい優しい言葉だった。 ――が。 え〜と、言っていいのかな、と上空で騒霊三姉妹の末っ子が姉たちに向かってボソリと 呟く。 「一回戦の経験上言うんだけど。あいつさ」 と言葉が音楽の流れに乗ってリングに届く。 「オチないよ?」 「?」 そうして、怪訝そうに幽々子が空を見上げた時だった。 妹紅の左手がロープを完全に手放す。だが、その身体は前に倒れることなく、自由にな った左手で妹紅は幽々子の着物の腰の部分を掴む。 「あら?」 上へ向けた顔を、今度は妹紅へ。上下移動させた幽々子の疑問の表情に答えることなく、 火よりも顔を赤くした妹紅が、 「う……りゃあああああああああああああああ!」 一瞬幽々子の身体ごと沈み込み、ぐんとたわませたロープの反動を利用して、幽々子の 身体を持ち上げた。 ざわ、と会場が揺れる。 「あらら?」 もう一度幽々子が首を傾げたその瞬間。 妹紅が、ロープの反対側、リング中央に向かって振り返り、そして――。 ――力尽きたように、幽々子を真下に振り下ろした。 呆気に取られた幽々子はそのまま視界の中で風景がぶぅんとスライドするのを眺め、直 後にごち〜ん、と後頭部をキャンバスに叩きつけられ、目から火花を出して悲鳴を上げた。 「い、ったぁ〜っ」 それは痛いのが大嫌いな少女の上げた、大ダメージの宣言であった。 ※ ※ ※ 「こ、これは……ええと、パワーボム? ですか? と、ともあれ、妹紅選手起死回生の 一発〜! 勝利を確信していた幽々子選手、リング中央で頭を抱えてのた打ち回る〜!」 「いたたた〜。あ、あなたなんでオチないのよぉ?」 妹紅にキャンバスに叩きつけられ、その拍子に思わず手を離して頭を抱えてしまった幽 幽子は、目に涙を溜めて腰をペタンと下ろした姿で少し恨みがましく妹紅に尋ねる。 すると、妹紅はぜぇぜぇと中腰で荒い息を繰り返しながら、こちらも苦しさに半泣きに なった潤んだ瞳で言う。 「わ、わた、私……を、落とせる、絞め技は……な、ないんだって……っ」 顔をしかめて、しゃべりにくそうにしている妹紅に幽々子が小首を傾げると、彼女は口 を押さえて「うべっ」と口の中のものを吐き出した。 なんだろう、と幽々子が目を細めると、 「……歯?」 「お、奥歯折っちゃったじゃない。うう、噛み締めすぎた〜」 「な……」 一拍の間を置いて、会場中の妖怪が叫んだ。 「何それー!?」 それは肉体の再生がある程度可能な妖怪でも普段やらないような――と言うか、肉体的 な痛みに強い妖怪だからやらない――暴挙だった。 唇を噛み締めたりして痛みで我慢することの上位版と言えばそれまでだが、妹紅は自分 の『気付け』のために奥歯を斜め方向に噛み締めてズラす痛みで意識を保っていたのだ。 そのことを知った霊夢などは、自分の頬を押さえて「いたぁ」と嫌な顔をした。そのよ うな『熱血』は、彼女の美学には反するところだ。 そして、幽々子もまた、霊夢と同じくそのような美学は持ち合わせていない。否、妖怪 たちよりもさらに『肉体から遠い』彼女の発想にそのような手段は存在していなかった。 だから、彼女はその一瞬「ぽえ?」っとした。 目の前の出来事を感覚で理解できなくて、知識というものから『熱血』というものを引 き出して納得するまでの、そのわずかな時間。 映姫によるダウン宣言が無いことに気づいて動いたのは、妹紅の方が早かった。 なので。 幽々子に、そこからの妹紅の連続攻撃を捌くだけの余裕は存在しなかった。 ※ ※ ※ 「幽々子様!」 妹紅の右の蹴りが飛んできた時、幽々子はようやく『抜けられないはずの三角締めを抜 けられてしまった理由の理解』を得たところだった。 座り込んだままの自分の顔面に飛んできた回し蹴りを、幽々子は両腕を交差させてどう にか受け止める。ベチン、と重い一撃を受け、幽々子の身体がキャンバスに横倒しに倒さ れる。 幽々子がその倒される流れを利用して身体をローラーのようにゴロンと転がすと、寸前 まで彼女の身体があった場所にドスンと妹紅の大きな踏み込みの足が通り過ぎた。 その必殺の踏みつけがかわされた妹紅は、しかしさらにその場で横半回転。強く踏み込 んだ足を軸としたコマのような後ろ回し蹴りで、身を起こした幽々子の脇腹狙いで追撃す る。 「つ……っ」 防御が遅れた幽々子は、垂らしていた左腕にその後ろ回し蹴りを受け、滅多に見せるこ とがない苦痛を顔に浮かばせる。立ち上がったばかりで不十分な体勢だった彼女は振り切 られた後ろ回し蹴りに身を弾かれ、数歩後ろにたたらを踏む。 トン、と背中にニュートラルコーナーのポストが触れ、間髪いれずに妹紅がそこに向か って突進する。 (正拳突き!? 前蹴り!? 全部まずい!) 何をアドバイスすべきか。何を警戒すべきか。妖夢が言葉も用意できない時間で妹紅は、 妖夢の予想全てを裏切るように両拳を腰溜めに構える。 前進しながら、両拳。 なんだそれ、と妖夢が目を丸く前で幽々子はそれでもその両拳に対する守りを固めよう としたが、 「幽――」 ようやく妖夢が口を開いたタイミングで、妹紅が跳んだ。 腰に溜めていた両手をバッと横に振り払い、それを支点の横棒にするようにして、幽々 子の目の前の空中で前回り一回転。鋭い回転で放たれた踵蹴りが、無防備にさらされた幽 幽子の頭を帽子ごと引っ掛け、ガツンと派手な音を立ててその顔面をキャンバスへと叩き つけた。 ※ ※ ※ その強烈な一撃を喰らった幽々子の頭は、キャンバスに炸裂した後に跳ねたりはしなか った。『当てた』というよりも『押し潰した』妹紅の踵がその後頭部に乗っかり、その反 動すらも押さえ込んでキャンバスにめり込ませる。 シン、と一瞬会場が静まり返り、 膝を折り、土下座するかのような形でキャンバスに突っ伏した幽々子と、 その頭を勝者然と踏みにじる妹紅の姿、 それらの構図を理解し――そして会場は一気に沸騰した。 「前回り蹴り〜! 火の鳥少女が空中大回転〜〜〜〜〜! 博麗の巫女のお株を奪うよう な飛翔蹴りが、本来打撃無効の幽霊嬢を――」 「ダウン!」 「――深々とキャンバスに沈めました〜!」 文の叫びと映姫のダウン宣言が重なり、ほんの数秒の間に起きたダウン劇に観客たちが 思わず腰を浮かして驚愕の声を上げる。 「た、倒れた、倒れた!」 「嘘!?」 「初めて見た!」 皆が皆、目を丸くしてリングの上の光景を指差した。その騒々しさの中で審判である映 姫がカウントを数え始め、妹紅は幽々子から離れてニュートラルコーナーに悠然と背を預 ける。 そして、 「……ふん!」 赤コーナー――そこに陣取る竹林に住まう姫に向かって、自分の親指で喉を掻き切るジ ェスチャーをしてみせる。 それを見た輝夜は、手をパチパチと叩き合せて笑う。 「凄い凄い。なかなかの動きよ。ね、永琳」 「ええ。洗練されているとはとても言えないけれど、流れに乗る勢いだけは充分にあった わね。ね、ウドンゲ」 「はぁ……って、睨まれてる睨まれてる、私が睨まれてるっ」 ギロリとした妹紅の真っ赤な視線が輝夜から永琳、永琳から鈴仙とたらい回しに送られ てきて、次に渡す相手がいない彼女は口元を引きつらせて愛想笑いを浮かべる。 そうしたやり取りの中で続く映姫のカウントが、 「ファイブ、シックス!」 後半に差し掛かっても、幽々子はピクリとも動かない。 そこに至って、文はいよいよ声を張り上げる。 「好機と見るや、霊峰富士の大噴火にも似たその一瞬の爆発力! 一回戦、プリズムリバ ー三姉妹をものの数秒で三KOした姿を再現した、藤原妹紅――その真骨頂が炸裂しまし た! 凄まじい! 見たか、これが幻想郷最強クラスの人間の力! 見たか、これが藤原 妹紅です!」 「幽々子様、起きていますか!?」 まるで妹紅の勝利が決まってしまったかのような文からの大音声を掻き分けるようにし て、青コーナーから身を乗り出した妖夢の声が飛ぶ。その声は確かに幽々子に届いていた が、彼女は土下座姿でペタリとキャンバスに張り付いたまま、反応しない。 無理もない、と美鈴は隣に座る咲夜に囁く。 「いい動きでした。攻撃の一発一発の速度は人間並なんですけど、その技の『繋ぎ』がス ムーズで無駄がないです。一番最初の手首打ちから下段蹴りの繋ぎの時にも感じたんです けど、騙まし討ちとかで『遊ぶ』戦い方よりも、あの連続攻撃が本来の姿ですね。相当身 体を使いこんでいますよ、アレ。奇特だなぁ」 「あなたがそれを言う?」 せっかく火を操る能力があるのに、と美鈴が呆れると、咲夜はその美鈴の言葉に呆れて しまう。妖怪だというのに日々鍛錬を欠かさない奇特者のくせに、だ。 しかし、美鈴の言うことにも一理ある。妹紅のように妖術に長けた者が、何故このよう に武術の類まで身につけているのか、咲夜にも疑問だ。以前弾幕ごっこで見たあの強大な 力に比べれば、弱い人間の身体での攻撃手段など不必要のひとことだ。 と。 「?」 叫びのような盛り上がりをみせていた会場が唐突にその『音のテンション』を変化させ、 咲夜は視線をリング上に戻す。先ほどまでの飛び交うようだった驚きの音が、一瞬にして 低く唸るような別種の驚きの音にとって変わったのだ。 「ま、そうでしょうね」 あっけらかんと言うのはダウンを奪った当の妹紅で、その視線の先にはいまだ立ち上が らないで土下座した幽々子がいる。顔も上げていない。 だが、だ。 「これは……カウントが止まりました。カウントナイン! 妹紅選手の勝利まであと一つ を数えるだけというところで、審判長である閻魔様がカウントを停止! なんです、もし かしてこれは、閻魔と白玉楼の主の癒着の表れなのでしょうか!?」 「失礼な」 文の言葉に、映姫が眉をピクリと上げて不機嫌になる。彼女はうずくまったままの幽々 子を一瞥し、笏を天へと掲げてひとこと。 「続行!」 「続行の合図が入りました〜! しかし、幽々子選手はいまだダウンして――」 「ダウン、していないんじゃないでしょうか、もう」 「――え?」 います、と続けようとした文は、目を細めた阿求の言葉にしばし考える。 そして、 「では、あれが『構え』……ということですか?」 訝しげに、『土下座』状態の幽々子を見遣る。だが、ダウンそのままの姿だとしても、 映姫が試合の続行を宣言した以上、選手たちが取る行動は一つだけである。 「……さて」 妹紅が赤く痕になった首筋を軽く撫で、再び拳を軽く握って、やや左前右後ろの構えを 取る。特徴的なのは、その腰から上を前のめりにして、小さな子供に手を貸そうとでもい う形になっていることだ。 それは、傍目には実に滑稽な構図である。 土下座して、もはや力尽きたようにキャンバスに突っ伏している幽々子を前に、まだ充 分に余力を残した妹紅が警戒の面持ちで『全力で下に向かって殴る』構えで近づいていく のだ。 もしこれが普通の弾幕ごっこであったり、幽々子以外の誰かであれば、勝負ありと周り はすぐに妹紅を止めていただろう。だが、これが選手や観客に勝者決定権の無い格闘ごっ こであり、続行を決めたのが誰も逆らえない閻魔であり、さらに言えばそこにいるのが他 でもない幽々子であったがために、会場の少女たちは口をつぐみ、知らずのうちにその顔 を真剣なものにしてリングに注目していた。 幽々子は戦えるのだ、あの体勢からでも。 映姫が保証しているのだ、そのことを。 (あそこから、何ができるの?) (だって……逃げられないでしょ、あれじゃ?) (でも、幽々子でしょ? 絶対にタダじゃ終わらないわよ) 疑問が募る。 期待が募る。 試合前に妖夢と慧音が感じていた『何かもの凄いものを見れる予感』が、妖怪少女たち を呑み込んでいく。 「……なるほど」 静まり返った中、呟いたのは永琳だ。 変わってしまった空気。 変わってしまった少女たちの顔。 ――本当に、それはおかしなことなのだけれど。 「明らかに負けているのに、この反応ってわけ」 ――圧倒的に有利の、立った位置から攻める妹紅の方が慎重になり、顔すら上げない幽 幽子が何かを起こすと皆が信じている。 妖怪たちと関わるようになってまだ日の浅い永琳にはわからない、妖怪少女たちの幽々 子への『予感』。 皆のそれを肌で感じるから、永琳は三回戦で戦うことになるかもしれない幽々子に対し て次のような納得を得る。 「『これ』が西行寺幽々子なのね」 「――さあ、妹紅選手、じりじりと間合いを詰める! その気配を感じないのか、幽々子 選手ピクリとも動かない! これはなんです!? 幽々子選手が動かない以上、妹紅選手 が近寄るしかないこの構図。動かず相手を引き寄せる死出の誘蛾灯! ただで終わるはず がない冥界屈指の実力者……ここからいったい何を見せてくれるのか、注目ですっ!」 先ほどこれが藤原妹紅だと叫んだ天狗が、今度はこれが西行寺幽々子だと口にする。 妹紅が歩を進める度に緊張感は高まり、妹紅が正面からの対決を避け、土下座する幽々 子を迂回して『真後ろ』に至ってついに足を止めた時、それは最高潮を迎えた。 (打つ!) 切腹の介錯人の位置から、妹紅は無防備な幽々子の背中に向かって拳を突き出した。瓦 割りを模す一撃が幽々子に入る――直前で、幽々子の身体が真横に『吹っ飛んだ』。 「!?」 土下座という、両手両足をキャンバスに設置した状態で『溜め』を作っていた幽々子が 身を横に投げ出すと、妹紅の右拳はそのままキャンバスを叩き、前のめりになった妹紅は 右に逃げた幽々子を視線で追う。 と。 幽々子は、妹紅と互いの視線が交錯するほどの近く――まさに真横にうつ伏せに倒れて いた。 (逃げて……ない!) 横にズレただけの幽々子が、左手でキャンバスに突き刺さった妹紅の手首を掴む。それ は、先に布団に入った子供が早くと親を掴むような位置関係であったが、直後に起きたこ とはそれほど可愛らしいものではない。 ぶん、と幽々子が妹紅の手を掴んだまま左手を頭方向へと振る。寝転がったまま万歳す るようなそれに、ぐんと身体を引かれて妹紅の身体がキャンバスへと突っ伏する。 「ぐっ!?」 「妹紅、首だ!」 慧音の警告の声が耳を打ったが、思いがけない幽々子の怪力でキャンバスに引き込まれ た妹紅はその一瞬に対応することができなかった。 うつ伏せで万歳した幽々子が『妹紅側に回転して仰向けになろう』と動き、その動きが そのまま回転肘打ちとなって妹紅の後頭部に叩き込まれる。 「つ……ぁ!?」 ゴッという鈍い音と共に、首と頭の接合部から顎まで突き抜けるような激痛が走り、妹 紅の視界を無数の星が飛び散った。 だが。 「ま……だまだ!」 常人ならば気絶していてもおかしくはないその一撃を受けても、妹紅は歯を食いしばっ て耐えた。予測できない攻撃であったならば危なかったが、慧音の声のおかげで我慢の態 勢だけは整えることができていた。 両腕でキャンバスを押して起き上がる。 ――起き上がろうとした。 「え?」 上半身が持ち上がらず、妹紅は首を捻って自分の背中を見る。そこには、妹紅の身体に 腰掛けた幽々子の後姿があった。 そこから、 「つ、ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」 妹紅の大絶叫が響き渡った。 ※ ※ ※ それは実に単純な技だった。 妹紅の背中に後ろ向きに座った幽々子。彼女が妹紅の両足を自らの両脇に抱え込み、そ して真後ろ――妹紅の頭側に向かって自分の身体を反らした。それだけの技だ。 うつ伏せの状態で上半身を持ち上げる背筋のトレーニング運動があるが、それを上下逆 にした形で、『下半身側が反って持ち上がる』――要は、車輪が回転する動きを想像する と話が早い。結果、進行方向にされてしまった上半身が『キャンバス側に回転しようとし て、キャンバスという壁に突き当たって塞き止められる』現象が起きる。 簡単に言うと、 「ぎ……ぎぃ……っ!」 身体を前屈とは反対側に――背中側に『折り畳まれる』形で、妹紅は上半身をキャンバ スに押し付けられて顔を歪めた。身体が自然では許されない方向に『つ』の字に曲がる。 「極まった〜! 土下座の状態から、まさかの逆転劇っ。そうです、土下座とは左右に身 を投げ出すこともできれば、前に回転することもでき、身体を折り畳んでいるために横か らの打撃にも強い一つの『構え』! しかも、その態勢の低さ故に、有効打を狙う相手は 『上から下』への打撃必須。そして、腕、足、どちらを下に突きつけても、それは幽々子 選手にとっては格好の的! 狙い済ました逆エビ固めが、妹紅選手の下半身に極まりまし た〜!」 「下半身というより、潰された上半身が苦しそうな技ですね、あれ」 「ええ。逆エビ固めは、固め技には珍しい、極めた箇所ではなく位置的にその反対側であ るお腹から胸が圧迫される技なのです。痛みもかなりありますが、それ以上に呼吸をさせ ないで窒息させる技ですね」 そうした文と阿求のやり取りを体現したのが、今の妹紅の状態であった。反り返った下 半身に腰が悲鳴を上げ、それを口からの悲鳴として吐き出した妹紅は、直後にその重大性 に気がついて自由な両手でキャンバスの表面に爪を立てた。 (い、きが……) 吸えない。胸がキャンバスに押し付けられ、吐くことはできても、吸おうとしてもそれ が適わない。立ったまま身体を後ろに反らす運動をした際に息が詰まるが、それを何十倍 にも増幅させた圧迫感だ。 自覚した途端、全身から汗が噴き出し始める。必死に両手でキャンバスを押すが、幽々 子の尻に押さえ込まれてビクともしない。 「ぐ……ぇ……!」 腰と背中に激痛が走るが、それは痛みに耐えることに関しては百戦錬磨の妹紅にとって 大したものではない。だが、息ができないことは、痛みや首絞めによる苦しさとはまた違 う種類の苦しみとなって妹紅に嫌な汗を流させる。 妹紅はこの程度の痛み、苦しみでギブアップしない自信がある。自信があるのだが――。 血液から、酸素が減っていく。 キャンバスに触れた指先から力が抜けていく。 加えられ続ける苦痛に硬直した二の腕の筋肉に乳酸が溜まり、引きつるような痛みが増 えていく。 徐々に、徐々に末端部から痺れが身体へと忍び寄ってくる。 それに抗おうと暴れるから、汗が途切れない。顔が真っ赤に膨れ上がり、噛み締めた歯 に顎の筋肉も引きつる。 苦しいのはもちろんだが、これは――。 (き、つ……っ) 霞み始めた視界で、妹紅はもはや悲鳴も上げられない酸欠の中で呻きの思考を漂わせた。 「面白いわね」 ふむ、と苦しむ妹紅を眺め、永琳は呟く。 「蓬莱人殺し……とでも言うのかしら? 偶然なのか、狙っていたのか、あの子を相手に するのなら理想の形に技が極まっているわね。呼吸は横隔膜の上下運動……それを、身体 を反らすことで『縮めさせない』だなんてね」 「嫌ね、あれは」 その永琳のひとりごとにしては長い台詞に、輝夜も肩をすくめて同意する。 その理由は、 「息ができないままでずっとあの姿勢……死なないけど、体力なんかすぐにゼロだもの」 というものだ。 蓬莱人は、怪我をしてもすぐに回復する。怪我が治るということは、痛みも消えるとい うことだ。だから、蓬莱人は痛みを恐れない。我慢すれば、すぐに痛みは無くなると思え るから、痛みに慌てない。 だが、そんな蓬莱人でも避けられないものは、体力の消耗だ。どれほどの大怪我をして も復活する彼女たちだが、肉体の疲労まではその能力は回復してくれない。どういう理屈 か不明だが、それが蓬莱の薬で得られる不滅の肉体の仕組みなのだ。 故に、蓬莱人が戦いに負けるというのは、戦闘不能のダメージを追うということではな く、戦闘不能になるまで疲れてしまうことを言う。そして、疲労は身体を動かすことや、 苦しい状況に長い時間置かれることで蓄積するもので――。 「一瞬でオトされる。強烈な打撃を加えられる。そういうのなら、いくらでも耐えられる んでしょうけど、体力すり減らしを受け続けるのは……致命的ね」 私も気をつけましょうっと、と永琳はクスリと笑う。『この形』になってしまっては、 妹紅の脱出はまず不可能だ。それがわかるから、隣で輝夜も残念そうに言う。 「残念ね。蓬莱人対決って触れ込みなら、あの天狗が盛り上げて――」 ――くれたでしょうに。 そう輝夜が口にするよりも早く、それは起きた。 「…………っ」 妹紅が両手を『挙げた』。 まるで自らエビ反りするように、うつ伏せ状態から後ろにあたる空方向へと、つまり自 分の背中方向へと両手を伸ばす。その先には、身体全体を限界まで反らして妹紅の下半身 を極めている幽々子の首があり、妹紅の十本の指がその首にかかる。いきなりのそれに幽 幽子の目が大きく見開かれ、 「!?」 がり、という爪が肌を引っ掻く痛みに、西行寺幽々子は悲鳴を上げて妹紅の両足を手放 した。 ※ ※ ※ 「痛ぁ〜い! 妹紅選手、引っ掻いた〜! これは幽々子選手も堪らないっ。身体ごと反 る大技を深く極めていたことが災いし、妹紅選手の手の届く位置に肌を晒した首を置いて しまっていました! でも、酷い抜け出し方ですね、これ」 「うわぁ……真っ赤になってますね」 これは痛い、と阿求が顔をしかめて、思わず自分の首に触れる。 幽々子から両足を取り戻した妹紅は、即座に相手の下から転がり逃げ、大きく口を開い て酸素を求める。先ほどの三角締めでついた赤い痕が痛々しい喉だったが、それでも後ろ で立ち上がる幽々子の喉よりはよほどマシであった。 「もう……無茶をするわねぇ」 幽々子がしかめっ面で撫でる首には、くっきりとミミズ腫れになった十の爪痕がある。 もとが透けるほどに白い肌だけに、それはあまりに痛々しいものとして観客たちの目に映 った。 「ひどっ」 「美しくな〜い」 そういう不満も出る中、妹紅は滝のように流れる汗を袖で拭いながら、ふらつく足取り でロープによりかかる。 (や……ば、これは……) 吐く息が熱い。技を受けている間硬直させ続けていた身体がだるく、重い。 技を抜けたのは良いが――。 「さすがに……騒霊娘どもとは違うわね」 ――今の攻防のダメージは、首を引っ掻かれただけの幽々子より、妹紅の方が遥かに大 きい。 三体一の戦いよりも、この幽々子との一対一の戦いの方がよほど辛いことに、妹紅はも う一度大きく酸素を吸い込む。 そして、肺が目一杯膨らんでいるのを胸の奥に実感してから、ぐっと呼吸を止める。循 環器の振動を止め、無理矢理に身体の痙攣も止める。 顎を引き、 「さあ、今度はこっちの番よ!」 気合いを入れて、溜めた息を吐き出した。 一方、青コーナーでは妖夢が手に汗を握りながら主の背中を見守っていた。 (何、この流れ……) 妖夢の目から見て、幽々子が受けたダメージは下段蹴りによる足へのもの、パワーボム による後頭部へのもの、それから一番大きいものが前回り蹴りによる頭頂部へのもの、そ れから今しがた受けたばかりの首への引っ掻きの四つだ。 それぞれのダメージは大きいにしろ、まだ幽々子の動きを止めるほどではない。足への ダメージのせいで素早い動きがもう無理とは言え、逆エビ固めで致命的なほどに体力を削 られた妹紅の方が総合的な『ダメージ』としては大きいはずだ。 (なのに……なんで、幽々子様の方が追い詰められてる感じがするの?) 自問しながら、妖夢にはすでにその理由がわかっている。 お互いのダメージの『喰らい方』の種類。 妹紅は、技を『喰らって』ダメージを受けている。 幽々子は、技を『抜けられて』ダメージを受けている。 (罠を張り、相手が仕掛けてくるのを利用して決定的な技を何度も極めているのに、どう しても最後にそれを捲くられるっ) ここまでの戦いを見て、妖夢は技の点では幽々子に一日の長を感じた。一個一個の攻防 で技を成立させているのは幽々子の方で、妹紅はそれを根性だのなんだので辛うじて抜け 出しているにすぎない。 (なのに、なんで、幽々子様の戦いにこんなに不安を感じるの!?) 再び『なのに』を使い、妖夢は嫌な予感に唇を噛む。 何を仕掛けても最後に技を返される不安がつきまとって消えない。 とにかく、飛ばすアドバイスは決まっていた。 「幽々子様、相手ももう体力的にきついはずです! 攻撃の速度も落ちるはずですから、 冷静に捌いて、組み技に持っていってください!」 だが、妖夢の声に幽々子が反応することはない。相も変わらず緊張感の無い主は、唇を 尖らせてぶつぶつと文句を言う。 「酷いことをするわね」 ぷんぷん、と頬を膨らませる。 それは妖夢にとっては「本気になってください」とやきもきするような態度だったが、 相対した妹紅にとっては苦笑いの種だ。 (まだ余裕なわけね……) こちらはもう一杯一杯だっていうのに、と。 しかし、周りから見えるほど幽々子にも余裕があるわけではなかった。彼女も妖夢と同 じ疑問を抱いて、内心首を傾げているのだ。 (う〜ん、どうしてかしら?) 技の一つ一つを、不思議と返されてしまう。 痛いことが嫌いな幽々子が、一回の技で試合が終わるように決着を狙った大技を極めて いるというのに、妹紅はそれを幽々子が想像もしない方法で抜け出してみせる。 歯を折ることといい、爪で引っ掻くことといい、それは幽々子の選択肢には無い。 『我慢』『勝ち目が無いのに足掻く』――そんなもの、幽々子の心の中にはないものだ。 (でも……) そうね、と彼女は妹紅を眺めておぼろげながら思い出す。 (昔は……そうだった、のかもしれない? わね) 何かを耐えるために、身体のどこかを痛めつけることは、人間であれば誰もが経験する ことだ。それは転んで膝をすりむいた痛みを爪を腕に立てて誤魔化した経験かもしれない し、とても悲しい想いをした時に唇を噛む経験かもしれない。 例えば、幽々子の経験では――。 「なんだったかしら?」 思い出せるような辛い経験は、幽々子には無い。そして、楽しいことしか思い出せない ことをわかっているので、幽々子は考えるのを止めて、ふむ、とひりひりと痛む首から手 を離した。 それだけの動作で、脳裏に浮かんだ少しの『昔』は消え去る。白玉楼の主になって以来、 楽しいことしかないのが幽々子の自慢である。 だから、奥歯を折ってまでがんばっている目の前の少女を、幽々子は少し気の毒に思っ た。 「肉体を持ったまま長生きするのは大変ねぇ」 「そ。大変なの。まあ、それもこれも、あそこにいる輝夜のせいなんだけどね!」 ビシッと妹紅は自軍応援組が席を並べる赤コーナーのリングサイドを指差した。すると、 そちらでは話を振られた輝夜がお姫様よろしくたおやかに手を振り返す。それを見て、妹 紅は体力のが残り少ないことも忘れて、顔を真っ赤にしてその場で地団駄を始める。 「むきー! 舐めやがって舐めやがってー! え〜い、待ってなさいよ、この幽霊を倒し たら、次はあんたのところのヤブ医者よ!」 がう、と噛み付きそうな勢いで妹紅が赤コーナーへと吠える。それにコロコロと上品な 笑いを返す輝夜という構図を眺めながら、幽々子はなるほどと納得する。 (彼女は、まだずいぶんと『人間』なのね) 蓬莱人など、長く生き過ぎてもっと厭世的でスレた生き物だと思っていたのだけれど、 妹紅は捻くれながらもまだ充分に喜怒哀楽を素直に出す少女らしさをその心に保っている。 何と言うか、少女のまま経験値だけを膨大に積んだような印象がある。 それが、彼女の掴みどころの無さ――千年を経た老獪さと少女じみた悪戯っぽさの融合 した、一見妖怪風にも見える妖しい立ち振る舞いを生み出しているのだろう。経験値の量 と性情の若々しさが混在する現在の幻想郷妖怪少女としては実に適した性格だと思える。 だから――。 (気の毒なのよねぇ) う〜ん、と幽々子は地団駄に夢中でこちらに注意を払わない妹紅を見遣りながら、乱れ た裾を手で直し、必要の無い深呼吸を一つ。 (歯、痛いでしょうにねぇ?) 感情豊かなまま、痛覚で意識を保てるような人間度合いのまま、妹紅は経験値で感情を 抑えるすべを得ているのだ。普通、どれほど試合で負けないように歯を食いしばろうとし ても、己の歯を折るほどがんばることはそうそうできはしない。感情で『歯が折れたら嫌』 と考えるからだ。元が人間なら、それは逃げられない感情だと思う。 そして、妹紅にとってこの試合が『歯が折れる痛み』と引き換えにしても良いほど重要 なものだとは幽々子には思えなかった。 なのに、妹紅は躊躇わずに歯を折った。気付けを行った。それは、妹紅が『嫌だな』と いう感情を『くだらない宴会の余興』程度のもののためにでも押し潰せるくらいに経験豊 富――『慣れっこ』だということに他ならない。 (歯を折るのに慣れっこって……まあ、なんて不憫) ああ、不憫。 かつて妖夢と二人がかりでリザレクションが何度も必要なくらいボコボコにしたことも 忘れて、幽々子はそのように同情する。 そう言えば、妖夢もそうだなぁ、と幽々子はチラリと青コーナーを見る。あの自分のお 付きの少女も、そうした肉体の痛みに対してずいぶんと寛容だ。痛みを得ても交差法で勝 てれば良いという思い切りの良い戦い方をしてみせる。先ほどの対魔理沙戦など良い例だ。 「いけないわ、それじゃあ。あなたたちも、女の子なんだから」 「へ?」 唐突にため息混じりに意味不明のことを言われ、一人輝夜に対して感情を昂ぶらせてい た妹紅は怪訝そうな顔で地団太を止めた。その右の頬が腫れはじめているのを目ざとく見 つけ、幽々子は彼女の再生能力が試合中は封じられていることを再確認する。それでも平 気な顔をしているのは、やはり彼女がその痛みにも慣れているからだろう。 (経験で我慢できるのを知っちゃったから、我慢しちゃうのよねぇ) 難儀な生き物だ、と幽々子は思う。 生きるのって大変だなぁ、と幽々子は思う。 私なら、もっと楽しいことだらけの生活を与えてやれるのに。 「うん、そうね。それがいいわ」 「……なに一人で納得してるのかしら、亡霊のお嬢ちゃん?」 「ねぇ、あなた」 「なに?」 「冥界にいらっしゃい。いいところよ〜?」 「は?」 冥界ほど心安らかな場所は無いと信じる幽霊嬢の言葉に、妹紅は一瞬きょとんとした。 ぷっと噴き出したのは、そのやりとりを聞いていた紫だ。 彼女は親友の思考を理解して言う。 「幽々子は優しいわねぇ」 そして、妹紅もまた幽々子の言葉の意味を把握すると、苦笑いを深めて頭をガリガリと 掻いた。 「あ〜。そんなに不吉な言葉も他に無いわね」 なるほど、これは変人だわ、と。 まあ、たまには生きたまま冥界でバカンスするのも悪くはないのだけど。 「私が勝ってから、考えるわ」 「あら、残念。じゃあ、お呼びできないわぁ」 せっかく誘ってあげたのに、と幽々子は両手を『幽霊ポーズ』に構える。それは、先ほ ど妖夢がアドバイスした通り、組み技に集中する意志の表れだ。 対して、妹紅は棒立ちで右腕を腋の下に小さく畳み、そこで握り拳を作り、さらに左手 をそこに添えた。 その構えに、ほうっと文がマイクに口を寄せる。 「妹紅選手、ここに来て初めて見せる構えです。右手の位置を見るに、それを使った打撃 技でしょうか? それとも、それを幻惑にした蹴り技が飛び出すのでしょうか? お互い に狸っぷりを比べてきたこの試合、ついに最終局面に入りました!」 「正念場です、幽々子様!」 「決めてこい、妹紅!」 それぞれのセコンドも叫び、先に動くのはやはり妹紅だ。足のダメージで自ら進めない 幽々子のために、妹紅は躊躇わずに距離を縮める。 身体は重く、汗で服が肌に張り付いて気持ち悪かったが、それでも口先だけは軽く言う。 「見てなさい!」 と。 「これから見せる一撃は、この大会が決まった時に決めていた一撃!」 背後に向かって。 「輝夜!」 叫ぶ。 「これは、あんたに叩き込む予定だった技よ!」 もはや奥の手を隠す必要も無い。 勝てなければ三回戦も無い。 何より、直前の幽々子との会話で妹紅は察していた。 おちゃらけているように見えるが、間違いなく西行寺幽々子が本気になったことを。 『本気になった西行寺幽々子は輝夜と同じくらい恐ろしい相手』であることを。 「はは!」 笑ってしまう。 最後まで狸合戦よ。 見せてやろう。 ――人間技をね! その妹紅を待ち受ける幽々子は、細めた目で彼女の五体全てを視界に収めていた。手と 足、どちらが最後の一撃に使われるのか。 腰に溜めた右拳か。それとも他の部位か。 どの部位での攻撃であろうと、幽々子はそれを捌いて組み技に入る自信があった。 最後の体力を振り絞って小走りに向かってくる妹紅の姿が段々大きくなり、それが攻撃 の間合いの一歩外になった瞬間、幽々子はピクリと両手を震わせた。 (どっち?) 攻撃を待つ。 待っている間に。 「!?」 妹紅は拳も蹴りも使わずに、幽々子の懐深くに飛び込み、勢いを殺さずに――。 お互いの胸を、正面からぶつけ合わせた。 「な」 「に!?」 妖夢が、慧音が目を見張る。 ドン、と正面からぶつかった幽々子と妹紅の姿。妹紅の打撃が無かったために、待ち構 えていた幽々子の組み技も発生せず、ただただ胸を合わせ、抱き合ったような二人の姿。 一瞬時間が止まったかのようになり、しかし走っていた妹紅の勢いは胸で幽々子を押し 込み、幽々子の身体が後ろに傾く。 (倒される!?) さすがに予想外のことに驚いて、幽々子は両足でその場に踏ん張った。突進してきたと はいえ、肩や頭からの体当たりではなく、胸でのそれだ。体重にもそれほどの差は無い二 人のこと、その場で受け止めるのは難しくない。 が。 『押し返す抵抗の無さ』に幽々子の身体は前につんのめった。 「あら?」 そこに妹紅の身体は無かった。 否。 胸がぶつかり、一瞬幽々子へと押し込んだ妹紅が、急激にブレーキをかけて上半身をわ ずかに後ろに傾けたのだ。 結果、幽々子は妹紅を押し返そうとした力のまま、今度は自分が妹紅に胸を押し付ける 形――妹紅に身体を『預ける』形になった。 そして、トン、と左脇腹に触れたのは――。 妹紅が対輝夜――つまり『対組み技用の奥の手』として用意していたのは――。 「喰・ら・え!」 密着状態。 距離ゼロという組み技の使い手が自ら飛び込んでく距離での、最大の力を込めた一発。 もはや身体を逃がしようの無い体勢で、妹紅の拳が幽々子の身体に抉りこむように、 「でもね、幽々子の手癖の悪さは、すっかり醗酵済みよ?」 炸裂する寸前に、スキマ妖怪の言葉は言霊となって響く。 それに応えるように、幽々子の左右の『胸の高さに揃えているために妹紅の身体との間 でサンドイッチ状態になっていた幽霊ポーズの手』が二人の間をこするように移動し、妹 紅の両腋の間に差し込まれた。 「なっ!?」 両腋に腕を通されて、『抱きつかれた』妹紅。 それは、脇を締めて幽々子に押し付けていた右拳が強引に捻じ込まれた相手の腕によっ て『開いて外された』ことであり、 そのまま前のめりの勢いで足を引っ掛けた幽々子によって、妹紅はキャンバスに背中か ら倒れこむしかなかった。 ※ ※ ※ そして、バターン、という二人が一緒にキャンバスに落ちる音が会場に響き渡り。 押し倒された形の妹紅が顔をしかめ。 押し倒した幽々子が、即座に動く。 妹紅を抱いていた両腕を引き抜き、幼児のような四つん這いで妹紅の頭側に一歩進み、 そこで、 くてん、と力無く、妹紅の上に被さるように、倒れた。 「……は?」 常に余裕を崩さないスキマ妖怪の目が、これ以上無いくらいに丸くなった。 ※ ※ ※ その一瞬の技を予想していた者は、会場には一人もいなかった。 何が起きたのか把握できた者も、その時点では一人もいなかった。 流れを言うのであれば、次のようになる。 幽々子が妹紅の両腋に腕を指し込み、彼女の拳を脇腹から外し、足をかけて押し倒す。 そこで、妹紅は後ろに倒れながら、自分の両腋に腕を通した幽々子――つまり、『自分 の胸に抱きついている幽々子』の両肩に、自分の両手を置いた。 これは、幽々子の肩が妹紅よりも下にあるから容易にできることだ。 普通にしていれば、二人の肩の高さは変わらない。だが、幽々子は妹紅の拳を外すため に、自ら『下から』妹紅の両腕を跳ね上げた。 『幽々子が選んだその姿勢』で、妹紅は彼女の両肩を思い切り下に『押し込んだ』。 それはほんの少しのズレだ。 幽々子が妹紅の胸に抱きついている状態から、やや腹寄りに抱きついている状態になる 程度の、少しのズレ。 幽々子としては二人して倒れて組み技に入れればそれで良かったので、その『押し込み』 に抵抗する理由は無い。 そうして二人はキャンバスに落下し――その瞬間に、妹紅の右の膝蹴りが、幽々子の鳩 尾にカウンターで炸裂したのである。 なるほど、とそう『推察』し、永琳は彼女にしては珍しく感心する。 (倒れこみながら膝なんて……って思うけれど、自分の背中がキャンバスに触れるタイミ ングと蹴りを合わせるわけね) 幽々子側にしたら、キャンバスに突き立った棒に急所を晒して飛び込んだに等しい。形 だけを見れば、立ち技状態で鳩尾に膝蹴りを喰らう姿を、天頂方向に九十度回転させたよ うな技だ。 組み技主体で戦う者の心理をついた、二手三手先を読んで仕掛けた自爆スレスレの一撃。 あまりに複雑なので『見えた』者は多くないだろうが、永琳のように状況から想像でき る者もまた少なくはない。 「確かに、見せてもらったわ」 死に態からの逆転の一打。 空中で相手と重なりながらの一撃。 (この大会風に表現するなら、憑依の一撃――『パゼストバイフェニックス』といったと ころかしら) 挑発に乗って『待ち』の構えになるだろう輝夜なら、確かに引っかかりそうな技だ。 そう考え、永琳は笑う。 ここで見せなければ、彼女にも少しは三回戦で自分に勝ち目があったかしら、と。 ※ ※ ※ いつの間にか、プリズムリバーたちによる演奏も停止していた。 何が起きたのかわからず呆けていた観客たちが顔を見合わせ、それからそれを理解し、 「あ」 と口を開いた時だ。 映姫が笏を頭上へと掲げる。 それを見て、文もまたうなずいて席を立って叫ぶ。 「決っ――」 「いえ!」 映姫が目を見開いて笏を下ろす。 文も口を開いたまま言葉を飲み込んだ。 そして、絶句したのは妹紅だった。 「な、ちょ……っ!?」 四つん這いで妹紅の上に倒れたはずの幽々子。彼女の腕が、妹紅の首の裏側を通って絡 みつく。ぐっと、幽々子の右脇に頭が抱え込まれ、妹紅は仰向けの体勢から、腹筋運動で 上半身を持ち上げるような形で引き上げられる。 「つ……っ」 そこから、幽々子が折っていた膝を伸ばす。強引に身体を持ち上げる。 そうして立ち上がると、二人が向かい合い、身体を屈した妹紅の首を幽々子が脇に抱え た構図が――技が出来上がる。 それを見た紫は一瞬前の焦りを歓喜に変えて詠う。 「『完全なる墨染のフロントネックロック ――開花――』!」 同時、上空で音楽が再開される。 しかしそれは先ほどまでの曲ではない。 より恐ろしく、台風が一瞬の『目』に入って通り過ぎた後にやってくる最大級の暴風域 を奏でる曲。 死霊の悲鳴のような旋律から始まる絶対の死への葬送曲。 ――BGM:ボーダーオブライフ (1:56) 最短最悪の魔曲が爆音のように会場を蹂躪した。 ※ ※ ※ 首に圧迫を感じた瞬間、妹紅は『何故自分の奥の手で倒れなかった』という疑問を全て 消し去った。 折れた方とは逆の奥歯を噛み締めた。 腰を落とし、腹に力を込めた。 それは一つの矜持。 多くの苦しみを『我慢してきた』故の矜持。 (私をオトせる絞め技は存在しない……っ!) ミシリ、と奥歯を軋ませながら、妹紅は自由な両手を自分を絞め上げる幽々子の腕に添 えた。 (はず……せる!) 二人の間にさほどの腕力の差は無い。首と絞める腕の間に指先を捻りこんで……と妹紅 は思ったのだが、 (なんだ……この力……!?) 幽々子の絞め上げの力が強い。隙間が無い。隙間が無いどころか、 「ぐ……っ」 さらに、妹紅の首に幽々子の細腕が食い込んでくる。 苦しい。 身体を前傾にして、キャンバスを目の前に見つつ、妹紅は拳を振るう。 ゴツ、パスン、と力の無い拳が幽々子の腰に触れる。首を極められ前傾しているような 形では、力のこもった打撃など、使えるはずがない。 ならば引っ掻く。 幽々子の腕に爪を立て、思い切り引っ掻く。 がり、という痛烈な手応え。 妹紅はそれに合わせて大きく上半身を振って振り払おうとしたが――。 動かない。 自分の上半身が、まるで固定されたかのように動かない。 いや、自分の上半身ではない。 幽々子が動かない。 幽々子が揺るがない。 幽々子は技を――外さない! (こいつ……なんだ!?) それは優雅な細木のようだった幽々子に触れる感触ではなかった。まるで、千年を越え る巨木のようにキャンバスに根を下ろした、別の何か。 恐ろしい何か。 妹紅の首に喰いつき、噛み千切ろうという強烈な意志の持ち主。 「こ……の……っ」 そういうものをどう表現すればいいのか、妹紅は長い人生で知っていた。それは幻想郷 にはありふれたもののはずで、だけれど近年とんと見なくなっていた『本物』。 最後の力を振り絞って幽々子の身体を押し退けようとしながら、彼女は叫ぶ。 「ばけ、もの、があああああ!」 文もまた、凄まじい曲の音に耳を塞ぎながら叫ぶ。 「幽々子選手、大ダメージからの最後の反撃……絞める、絞める、絞める! 妹紅選手、 これを外せるのか!? 耐える、耐える、耐え……る?」 不意に、文は目をパチパチとさせる。 ざわり、と揺らいだのは会場。 うげ、と顔をしかめたのは博麗の巫女。 ひぃ、と悲鳴を上げて頭を抱えて丸くなったのは、弱妖たち。 ぽかん、と口を開けてそれに見入ったのは、死から遠い妖精たち。 最後に、死に近い転生少女は頬に汗を伝わせながら疑問を口にする。 「なんです?」 リング中央、妹紅の首を締め上げる幽々子の背中に、巨大な『もや』が浮かび上がる。 それは最初細い何かを中に潜ませていたが、皆がそれに気がついた瞬間にバッと畳まれて いた全てを展開させる。 『もや』を弾き飛ばして現れるそれはリングよりも大きい絵巻物。否、あまりにも、リ ングを覆い尽くすほどに大きいために一瞬そうとは気づかないが、離れた位置からそれを 見た妖怪少女たちはすぐにその単語に思い至る。 「……おう、ぎ?」 掠れた阿求の呟きこそが、真実だ。 直後、その意味を知る天狗が、この大会最大の音量をマイクに叩きつける。 「扇が開いたぁあああああああああああああ! 西行寺幽々子、その力、ついに、ついに、 ついに――!」 限界の近づいた妹紅が腕に力を込める。 幽々子を全力で押す。 叩く。 腕が震える。 それでも、幽々子はピクリとも動かない! 「か……っ」 すでに空っぽになった肺から、何かが抜け落ちた声が漏れる。 噛み締めた奥歯がバキン、と割れる音が小さくリングの上を転がり、真上から降り注ぐ 死の旋律に掻き消され、妹紅の手が幽々子の身体から滑り落ちる。 「――ついに全開ーーーーーーーーーーーーーーー!」 ガクン、と。 妹紅が膝を屈した瞬間、映姫の笏が天を突いた。 「そこまで! 勝者、西行寺幽々子!」 それが、決着の宣告となった。 ※ ※ ※ 「狸対決けっちゃーーーーーーーーーく! 一進一退の攻防、最後の最後に勝負を決めた のは、幽々子選手のギロチンチョーク! 前方裸絞めが、不死身の蓬莱人の意識を見事絞 めオトしました〜!」 文の声と同時、幽々子が腕を解いて妹紅の首を解放する。妹紅の身体が膝を折った正座 の形でキャンバスに崩れ落ち、そして幽々子もまた、たたらを踏んでその場に尻餅をつく。 「はぁ〜。疲れるのは嫌だわ」 「幽々子様、お見事です!」 その幽々子の試合直後とも思えないのん気な言葉に会場が呆れ混じりの拍手とおひねり を投げるのを器用にかわし、妖夢は勝利した主に駆け寄って賛辞の言葉を贈る。例によっ てその口から出るのは、 「幽々子様が勝つと信じていました!」 という結構適当なものである。 それに対して幽々子は汗が出ないために綺麗な顔のままうなずいて、 「試合前に言ったでしょう、妖夢」 「はい」 「人間は妖怪に喰われるもの。こういった試合だとね、人間は妖怪に勝てないのよ」 「はい! ……って、試合前に言っていたことと逆じゃないですかぁ〜!」 やっぱりからかわれる妖夢なのであった。 で。 「妹紅、大丈夫か?」 「……い、たい、痛い痛い!」 慧音に背筋に膝を入れられて『活』を入れられた妹紅がその痛みに悲鳴を上げてのけ反 って目を醒ます。 彼女は自分が座り込み、正面にはぽややんとした幽々子と、何故か自分が自慢げな顔を している妖夢を目にして、すぐに状況を理解した。 そして、カクンと肩を落として言う。 「あちゃ〜、負けちゃったのね。首には自信あったんだけどねぇ」 う〜ん、と赤く痕のついた首をひと撫でする。それだけで傷は消え、妹紅は動きを確認 するかのように首を一回ぐるんと回す。 「はい、全快」 すると、幽々子も対抗するかのように、 「はい、全快」 自分の足をツンツンと指でつつく。霊体である幽々子もまた、足のダメージくらい瞬時 に消せる身体なのだ。 そうした二人を眺め、妖夢と慧音は顔を見合わせて肩をすくめ合う。 (……この人たち見てると、痛い思いしている自分の方が少数派なんじゃないかって思う なぁ) というのが、二人の共通した感想だ。 なんとも『肉弾戦が意味の無い』二人なのである。 と。 「お二人とも、見事な試合でしたわ。我が紅魔館当主自慢の紅茶、いかがかしら?」 不死身属性の二人がそうではない二人の顔にケラケラ笑っているところに、予想外の人 物が声をかけてきた。それは湯気を立ち上らせるティーカップの乗ったお盆を手にした紅 魔館のメイド長で、さすがに幽々子と妹紅もその登場に小首を傾げる。 不思議そうな顔をする彼女たちに、「いえ、実は」と咲夜は妹紅の方を見て言う。 「あなたがどうして武術を修めているのか、賭けになっているのよ。必要なさそうなんだ けど、どうして?」 「あ、そんな話題なのね……って、ドクダミ茶じゃない、これ。紅くない!」 「濃い口紅茶ですわ」 前の試合でパチュリー用に淹れたものがレミリアに不評で少し余ってしまったので、温 めなおして持ってきたものだったりする。 ともあれ、そんなものでも寒空の下でありがたくいただき、ホッと一息をついて妹紅は 答える。 「別に深い理由は無いわよ。最初、妖術はロクに使えなかったし、必要は修得の母ってや つよ」 「最後の蹴りもですか?」 いかにも「当たり前のこと」というふうに言う妹紅に、妖夢が試合の最後に見た『必要 じゃ無さそうな技』について尋ねる。 だが、妹紅はそれに対しても簡単にうなずき、 「押し倒された時に、急所を狙うのに覚えたのよ、アレ」 「?」 女の一人旅だったもの、と言う妹紅に、妖夢が顔に疑問符を浮かべ、慧音がちょっと頬 を赤くして「ん、ん〜」とわざとらしい咳払いをする。咲夜はなるほどと自分の手の内で ナイフをクルリと回転させ、 「私なら、刺すわ」 「お、度胸あるね〜」 言葉そのものすらも刃物のように言い切った咲夜に、妹紅が「偉い偉い」と拍手する。 ちなみに幽々子は、 「私ならちゃんと遊んであげるわよ?」 と手を動かして『おいでおいで』の仕草をしてみせる。その意味するところは明白で、 眉を潜めた慧音以外は「ですよね〜」と同意した。物騒な会話である。 そこまで話が進むと、今度は妹紅が尋ねる。 「あ、そう言えば私も質問。あんたさあ、私の最後の膝、効かなかったわけ?」 「痛かったわよぉ? でも、ほら」 疑問を口にした妹紅に、幽々子は自分の鳩尾の前を指差す。妹紅が首を傾げると、さら に彼女はそこに巻かれた『帯』を指で摘まんでみせる。和洋ごちゃまぜにした洋服にも着 物にも見える服をまとめる、丈夫そうな帯だ。 もしかして、と妹紅が眉根を寄せると、幽々子はええとうなずく。 つまり、 「うわぁ〜、帯一枚かぁ!」 参った、と妹紅は両手を挙げてその場にゴロンと寝転がった。 多重に重なった着物の帯は刃物も通さないとは言うが、それがちょうど自分の決めの技 ――鳩尾の前にあったことは、妹紅にとってはまさに想定外だ。 その彼女の嘆きに、幽々子はしたり顔で言う。 「だから、言ったでしょう? あなたたちも、女の子なんだからって」 「あ〜」 試合中のひとこと。 幽々子が、妹紅に対して言ったこと。 妖夢に手渡された扇を開きながら、幽々子は目を細めて微笑むのだった。 「『女の子らしい服装』をした私には、あなたは勝てなかったのよ」 「私はこの格好が気に入ってるの!」 そんな、他愛の無い会話。 先ほどの人の死すら笑い話にするような物騒さから一転した会話に、慧音はひっそりと ため息をついた。 (まったく、どいつもこいつも……) 人間らしかったり、妖怪らしかったり。 それがあまりに自然で、慧音は試合前に考えていた『元人間たちの相違』に関して考え るのをやめた。 何故なら、そこにいるのは『元人間の蓬莱人』と『元人間の亡霊嬢』というよりも――。 (『藤原妹紅』と『西行寺幽々子』……なのよね) それは、彼女たちが己の境遇に流されることなく、自分自身として歴史を刻んできた証 なのではないかと、慧音は思ったのである。 そして。 「列強妖怪戦線、まず最初に勝ち抜いたのは、西行寺幽々子! 次の試合、二回戦最終戦 はいったいどちらが三回戦へとコマを進めるのか……注目です!」 「さて、次は私の試合ですね」 「永琳、がんばってね。誰かさんのせいで損をしてしまった分を取り戻したいわ」 「悪かったわね!」 赤コーナー、リングを降りようとしたところにあからさまに嫌味に言われ、妹紅は永遠 亭の主に向かって地団太を踏んで悔しがったりしたのだった。 『Dブロック第1試合』――決着!