東方殴り巫女伝説 〜Bare Knuckle Players〜

2回戦 Cブロック第1試合 霧雨魔理沙 VS 魂魄妖夢


              ※ ※ ※


「ターニングポイント」
 と、勢いを抑えた落ち着いた声が会場に流れた。
 ルーミアの生み出した闇に包まれた博麗神社は、幻想郷の山の中に生まれた大きな暗闇
のドームと化していた。外界からの光を受け付けず、そして内側の光もまた喰らい尽くす、
そんな極東の大地に生まれた闇の国。
 隣に座る者の顔を見ることもできない状況で、しかし妖怪たちは慌てない。夜の時間を
己の住処とする少女たちは、闇を恐れることはない。闇は彼女たちの領域であり、古く先
祖の時代から、人に追われた際に逃げ込む最後の安全地帯なのだ。
 だから。
 その闇の黒が視界の全てを覆い尽くした時、妖怪たちはそれまで続けていた仲間同士の
おしゃべりを止めていた。曇った空の合間から太陽が顔を覗かせた瞬間に思わず人がその
光の源へと視線を向けてしまうように、とても自然にその身を闇の深みへと融けこませ、
沈黙を生み出した。
 そのシンと静まり返った会場――そこに、一人の天狗の声が通り抜けたのだ。
 マイクを持つのは当然のように放送席の射命丸文であり、居並ぶ妖怪と妖精を主とした
観客たちは、毎回の試合ごとに行われる彼女の口上に耳を傾ける。
「二回戦もその試合をBブロックまで終え、ついに折り返し――このCブロックの初戦を
迎えることとなりました」
 それは賭札の販売も終わり、いよいよ試合が近づいた時に出された合図のようなものだ。
文のこの語りがこれまでいくつもの戦いを導き、そしてリングの上での激戦を約束してき
た。
 故に、
「激戦につぐ激戦となったトーナメントの半分。残りもう半分のこれからを占うこととな
るこの試合、その意味合いは私が思うよりも……いえ、選手が思うよりも遥かに重いこと
でしょう」
 闇の中で紡がれる文の言葉を、皆は聞く。黙っていることこそ、自分たちの望む試合が
始まるための最良の条件だと、そこにいる全員がわかっているからだ。
「何故なら、この試合の勝者は、三回戦でも、そして準決勝でも次のように言われるので
す」
 そうして邪魔されずに続けられる文の言葉は闇。
 これまで高く高くテンションを上げ続けてきたものとは違う、落ち着け、沈め、妖を隠
す幕。
「『折り返し地点となりました』……そのように。それがトーナメント半分の初戦を担う
者の宿命。大会進行のために課せられた大きな『責任』なのです。この試合は、ただの試
合ではない。そうした役割をどちらが引き継ぐか、トーナメント半分の『主人公』を決定
するための特別な試合なのです」
 その、姿が見えないからこそより注意して聞いてしまう声。しみじみとこれから始まる
試合の難しさを語るその口調。
 皆の注目を集めた上で、天狗は言う。
「ですが――」


「そんなこと、知ったことではありません!」


 一転してマイクに叩きつけるような大音声が、まさしく会場を打った。直後に闇に覆わ
れた空が『開き』、そこからの強烈な光が暗闇に慣れた妖怪たちの目に突き刺さる。
「うわ、まぶしっ!」
 だが、それは陽の光ではない、もっと鮮烈で、しかし本来であれば夜の空でこそ輝く、
天蓋に開いた小さな穴から射し込んでくる特別な光源からの光だ。
 それは、
「星?」
 誰かが呟いた。
 闇の上空、博麗神社の上を円を描くような強烈な光の帯。西欧の神が頭上にいただく光
輪のようでもあり、東洋の仏が背にする後光のようでもあるその円の軌跡。
 その光の円が『解け』る。目を凝らすと、小さなステッキを手にした星の妖精――上海
人形をはじめとする民族色豊かな格好の人形たちが、愛らしくせーのと『輪』を叩いて細
かく砕く。
 そして変わる。線から、無数の点へ。
 砕け、散り、境内へと舞い降りてくるその光は、少女たちが弾幕ごっこで良く知る一人
の職業魔法使いだけが使う特別の属性魔法――星に属する大魔法、魔空「アステロイドベ
ルト」だ。
 そうして輝く魔法の星が流れると、その部分の闇が消える。星が空から闇を削りながら
大地へと降り注ぐその様は、無数の流れ星の筋を描く天文写真のように幻想的な光景だ。
 いきなりの出来事に会場の皆が目を丸くしていると、そこに文は放送席で拳を振り上げ
る。
「勝者と敗者、三回戦進出と二回戦敗退という明暗を分ける、選手二人にとっての『ター
ニングポイント』! しかし、私たちにすれば、楽しければそれで良い! 騒げればそれ
で良い! さあ、今年最後のこの宴、次なる試合も盛り上げてもらいましょう!」
 それが開始の合図。


「選手、入場!」


 パァン、と音を立ててアステロイドベルトが破裂した。光輪を構成していた星が一気に
四方八方へと飛び散り、最後まで残っていた闇を駆逐する。
 空から星を追うようにして舞い降りるのは、無数の人形を従えて頭上に浮かんだ箒を右
手一本で掴んでいる、黒地の服に白いエプロンの一人の少女。
「赤コーナー、霧雨魔理沙選手!」
 それと同時、リングサイドから飛び出す二振りの刀を手にした少女。空中で一回転して
青コーナーへと着地するのは、魂の抜け落ちたような白髪の庭師だ。彼女は抜き身の刀を
鮮やかに回転させながら鞘に収める。
「青コーナー、魂魄妖夢選手!」
 そして、魔理沙の爪先がキャンバスにトンと着地すると、文は言うのだった。
「以上二名による、二回戦Cブロック第一試合を開始したいと思います!」

              ※ ※ ※

「ちなみに、この入場演出は魔理沙選手のたっての希望で執り行わせていただきました」
「半人半霊もまんざらでもなさそうだな」
「ノリノリでしたね」
 順番に文、慧音、阿求によるツッコミに、妖夢は顔を真っ赤にしてコーナーポストの上
で丸くなった。

              ※ ※ ※

「余計な体力使っていいの?」
「今のか? 今のなら、身体を温める準備運動だぜ」
 魔理沙がトレードマークである鍔広の帽子を渡すと、彼女の寒がりを知る霊夢はふむと
うなずいた。そうしてから、
「私からは何もないけど……あんたは何か言う?」
 赤コーナー下にいる七色の人形遣いに話を振った。今回の魔理沙の試合には、コーナー
ポスト裏のセコンドスペースに立つ霊夢の他に、二名のセコンドが魔理沙についている。
 一人は、前述した通りにアリスだ。二つ前の試合でレミリアから受けたダメージが回復
し切っていない彼女は、ぎしぎし軋む身体に顔をしかめながらもリング上の魔理沙に言う。
「お望みどおり『大道芸人』してあげたんだから、ちゃんと後で報酬払いなさいよ? そ
れから、一応応援してあげるから」
 さんはい、とアリスが合図をすると、魔理沙と一緒に空から降りてきた人形たちが一斉
にその場でジャンプした。
「マリサガンバ!」
「マリサガンバ!」
「マリサガンバ!」
「マリサガンバ!」
「ほ〜」
 どう耳を凝らしてもそれぞれの人形が発しているとしか聞こえない応援の声に、魔理沙
はさすがと感心する。
 そして、
「正直過ぎるのも考えものだとは思わないか?」
「まあ、あんなものでしょ」
 人形たちがアリスに渡された妖夢の勝利に賭けた賭札に対して魔理沙が唇を尖らせて言
うが、アリスはむしろ当然というふうに両手を肩の横に広げる。
「賭け率で見て、より利益になりそうな方に賭けただけよ。正直なのは、私じゃなくて会
場ね」
「同じ分だけ私に賭けていれば、大儲けさせてやったぜ?」
 当たり障りない賭け方をするアリスに、魔理沙は永遠亭の面々が座る方へと目を向ける。
すると、そこで兎が掲げているのは魔理沙三、妖夢七という会場の賭け率の表示だ。
「ほら、会場の三割は私に分があると思ってるじゃないか」
「前向きなのはいいけど、あれは単に大穴狙いでしょ。そう思わない?」
 そうやって魔理沙をからかいながらアリスが横を見ると、そこには彼女以外にもう一人
の追加セコンドがいる。の試合で放送席から魔理沙に拉致された森近霖之助だ。
 彼はアリスの問いかけに無言のままに肩をすくめ、おもむろに懐から取り出した小さな
袋を魔理沙へと放り投げる。
「っとっと。お〜、香霖にしては珍しく注文通りだぜ!」
「何?」
 その袋――赤茶けた袋を魔理沙がありがたそうに受け取ると、シャカシャカという豆か
砂でも入っていると思われる音に興味を引かれ、霊夢とアリスも顔を近づけた。
「薬……じゃないわよね?」
「極楽極楽♪」
 首を傾げるアリスに、魔理沙は片目を瞑ってウィンクしながら寒さにかじかんだ手で袋
を揉みしだく。しばらくそうしていると、血の気を失っていた手に赤味が戻り、少女はこ
れ以上の宝は無いとばかりにその道具に頬ずりした。
「これでまともに試合できるぜ」
「霖之助さん、あれは?」
「使い捨てカイロというものだよ。名前の通り、一回しか使えない懐炉だ。普通の懐炉み
たいに金属の入れ物ってわけじゃないし、これなら、試合中に懐に入れていてもルール違
反にならないはずだ」
「へぇ……一回で捨てちゃうだなんて、もったいないわね」
 肉体強化の丹の副作用で寒さに弱くなっている魔理沙に頼まれたと霖之助は説明するの
だが、それに対する霊夢の感想は期待に反して感動に薄い。
「でも、手軽だし便利だよ」
 その反応に対し、霖之助はどうにか自慢の一品の優れた箇所を理解してもらおうとした
が、
「便利なものが使い捨てだなんて、それじゃあたくさん作ってゴミだらけになっちゃうじ
ゃない」
 逆に霊夢の言葉に腕組みをさせられる。それは考えていなかったのである。
 しかし、
「ということは、外だとそういうゴミを処理するための何かしらの方法があるのかもしれ
ないな」
 まさかそのまま焼却したり埋めたりしているわけでもあるまい、と思う。物持ちが良く、
それこそ懐炉であれば一生に一つあれば足りてしまうような幻想郷の人々のように原始的
な集合ゴミ捨て場――貝塚以来の日本の伝統だ――を継続しているのであれば、日本の国
土は使い捨てカイロ一つであっと言う間に埋まってしまう。
 そのように一人頭の中で考察を始めてしまった霖之助に、アリスは横から言う。
「私は興味あるわ。一ついただけるかしら?」
「ん? ああ、在庫はまだまだあるよ。値段は――」
「捨てるようなものを売りつけるつもりなの? 酷いお店ね」
「…………」
 幻想郷の少女たちは、絶対に『良い客』になり得ないと霖之助は再度実感するのであっ
た。
 ともあれ。
「ありがたく使わせてもらうぜ」
 掌の暖をとった魔理沙は、カイロをポイッと上着の中に放り込む。腹の辺りを叩いてカ
イロの位置を定めると、
「で、香霖はどっちに賭けたんだ?」
 少しの期待を込めて視線を向ける。すると、霖之助は先ほどアリスにそうしたように、
肩をすくめて「残念ながら」と応えた。
「僕はもともと放送席だし、賭けはしないよ。でも、賭けるなら青コーナーに賭けただろ
うね」
「ほら」
「む〜!」
 結局セコンド二人に賭け人気を否定されてしまった魔理沙は、最後の望みをかけて霊夢
に尋ねる。
「じゃあ、霊夢はどうだ? 当然私だよな?」
「ええ、魔理沙に賭けたわよ」
「正しい選択だぜ」
 うっし、と両拳を握り締めてガッツポーズをとる。
 が。
「一枚だけだけど」
「……貧乏自慢は格好悪いぜ、霊夢?」
 霊夢が袖から取り出した一枚だけの賭札に、魔理沙が拍子抜けしたようにため息をつく。
すると、それに憤慨するのは霊夢だ。
「違うわよっ。賭けごとでお金を稼ごうだなんて思ってないし、どちらが勝つか楽しむだ
けなら、賭ける金額は関係ないでしょう?」
「それで一枚だけ、か?」
 賭け事というのは賭けた金額に見合った『スリル』を楽しむものだと魔理沙は思ってい
るのだが、霊夢の楽しみ方はそれとはまた違うようだった。
(確かに、金には興味無さそうだし……大金だろうと小金だろうと、スリルに違いがない
なら、これもありか?)
 霊夢にとっての賭札の購入は、賭け事のための購入ではなく、自分の応援する選手への
『応援の意思表明』に近いのかもしれなかった。
 そういう考えに思い至り、魔理沙は頬を緩めてクスリと笑う。
(なら、『大金を賭けた』と同じってことだな)
 それは賭けられる対象の選手としては、山のような賭札と同等かそれ以上の価値のある
購入方法だった。一と百が同じ価値の人物が賭けたということは、百に乗せられたのと同
じ分だけの勝利への期待がそこに乗っているのと同じということだからだ。
 だから――。
 無言で、もう一度魔理沙は胸の前で両拳を握り締めてガッツポーズを決めた。思わずニ
ヤけてしまった顔を隠すように、彼女は赤コーナーに背中を向ける。
「それでは、両選手中央へお願いします!」
「じゃあ、そのご期待に応えてくるとするぜ」
 ちょうどタイミング良く文の放送が入り、照れた魔理沙は赤コーナーから逃げる勢いで
走り出す。
 そこに霊夢は慌てて声をかけた。
「魔理沙!」
「ん?」
「箒、置いていきなさい」
「……バレたか」
 『恥じらってうっかり作戦』――失敗。

              ※ ※ ※

 一方。
「ふふふ。格好良かったわよ〜」
「わ、笑っているじゃないですかぁ!」
 青コーナーのポストから下りた妖夢を待ち構えていたのは、主である幽々子のクスクス
笑いだった。実は結構「この登場シーンは格好良いかもしれないわ!」と自分で思ってい
ただけに、放送席や幽々子からの突っ込みには顔から火が出る恥ずかしさだ。
「うう……引き受けるんじゃなかった」
 魔理沙め、と妖夢は毒づく。今回の入場演出を大会進行役の文に提案したのは、他でも
ない対戦相手の魔理沙なのだ。
「で、でも、このくらいで私を動揺させられると思ったら大間違いよ!」
「そうかしら?」
「幽々子様ぁ〜」
 気合いを入れて赤コーナーに振り返ったところに後ろから幽々子に言われ、妖夢の膝が
ガクンと崩れる。そののんびりとした疑問の声に、妖夢は自分はそれほどに精神的に未熟
に見えるのかと情けなくなってくる。
(でも!)
 萎えそうになる気合を、妖夢はどうにか立て直して視線を上げた。そこでは、こちらに
背を向けた魔理沙が霊夢たち相手に談笑している。その手にはしっかりと箒を持ち、リン
グ内でも手放そうとはしていなかった。
 そのことに、妖夢は感謝を覚える。
(……ありがたい)
 妖夢にとって、武器とは自分の使命に近しいものだ。それを目にすれば、彼女の脳は動
きを取り戻す。鞘に収めた楼観剣と白楼剣に無意識に手を当て、妖夢は乱れてしまった呼
吸を整える。
「すーはー……すーはー……」
 一定のリズムを刻むその呼吸は、彼女が祖父から学んだ数息法という独特の深呼吸だ。
一呼吸――つまりは『吸って吐く』を一つの塊として捉え、それの回数を数えていく、精
神集中のための呼吸法である。
(一……二……)
 一回一回呼吸を深く行い、冬の冷たい空気を肺に入れていく。新鮮な空気の交換は脳の
活動を活発化し、一から十へと進めていく数字は、単純な作業だけに心を段々と鎮めてい
ってくれる。
 そうして呼吸を繰り返し、一から十までの流れを意識せずにスムーズに行えるようにな
ると、妖夢はそこにさらに一つの要素を加えた。 
(三……四……)
 阿・吽、阿・吽。
 息を吸った時に梵字の『阿』を、吐いた時に『吽』を脳裏に描く。空気が気管を通る流
れに合わせるようにして、意識の筆で文字の書き順を正確になぞる。
 『吸って吐いて』で『一』を数えていた一塊が、『一を数えながら』『吸いながら阿、
吐きながら吽』という一塊に変化し、さらにその『十回』が一つの塊に。
「すーはー……すーはー……」
(五……六……)
 阿・吽、阿・吽。
「すーはー……すーはー……」
(七……八……)
 阿・吽、阿・吽。
 あくまでリズミカルに。
 あくまでゆったりとしたペースで。
「――ふぅ〜」
 そうして最後に深く深く息を吐いた時には、妖夢からは呼吸の乱れというものが消え失
せていた。普段瞑想の際に行っている呼吸法は、彼女に落ち着きを取り戻させるに充分な
効果があった。
(大丈夫……ペースは乱さない。そうよ、魔理沙が『何か』してくるのは最初からわかっ
てるんだから)
 どちらかと言うと、調子を崩したのは幽々子のひとことのせいだったのだが、それはそ
れだ。一回戦の試合で学んだことを、妖夢はまだ忘れてはいない。
(リングに上がったら『試合開始』、ね)
 魔理沙がメディスンを倒した一撃、そして自分がルーミアに苦戦したこと、その両方は
突き詰めれば同じ理由から導き出された結果だ。
 それは――油断。
 リングの上という『真剣勝負の場所』で、あろうことか余所見をしたり次の試合のこと
を考えたりした気の緩みが、正しく答えを出したに過ぎない。
 だから、先ほど自分の膝を砕いた幽々子に対し、妖夢は振り返って言った。
「大丈夫です」
「妖夢?」
 唐突な言葉に怪訝そうにする彼女に、楼観剣と白楼剣を差し出す。自分の『力』を主に
預けて『弱く』なりながら、少女は決意していた。
 頭を空っぽにして、惑わされずに戦おう。
 武器を持たずとも、全力で戦うことができれば自分が負けることはあり得ないと妖夢は
確信している。魔理沙は色々な意味で強敵かもしれないが、素手での殴り合い――格闘の
技術では、妖夢の方に一日どころか千日の長がある。
 故に、戦う時には、何も考えない。
(世の中の真実は、眼では見えない、耳では聞こえない。真実は斬って知るもの、だもの
ね)
 祖父から学んだ言葉を舌の上で転がしてから、妖夢は刀を手にしていない自らの小さな
拳を見下ろした。
(今回は、これが私の刀だ)
 魔理沙が試合の中で投げかけてくる全ては、『魔理沙が勝つため』の仕掛けだ。それに
対して裏があるかなど一々考えるのはやはり不利だと妖夢は思う。メディスンのように聞
き入れば、視線を外したところに強烈な一撃を喰らっても文句は言えない。
(難しいことは考えない。難しいことは全部幽々子様が考えてくれるから、私はただ斬っ
て――殴って、真実だけ知ればいいわ)
 知るべき真実は『素手ではどちらが強いか』ということだ。その真実に到達する方法は、
『考える』ことではない。
(……うん)
 もう一度、妖夢は拳をぎゅっと握り締める。
 黙って次の言葉を待つ幽々子に、妖夢は言った。
「魔理沙が何をしてきても、私は気にしません。何を言ってきても、試合中は考えません。
倒せば全部わかりますから」
 首だけを傾けて再び見れば、そこにいるのは紅白の巫女に七色の人形遣い、それから香
霖堂の店主と揃いも揃ってひと癖もふた癖もある連中ばかりだ。彼女たちが魔理沙にどの
ような入れ知恵をしているのかも謎だったが、それも気にしない。無視だ。
 その妖夢の乱れの無い透明な横顔を、幽々子はふむと目を細めて見つめる。
 なるほどなるほど、とその口元が微笑みの形になってしまうのを、彼女は抑えることが
できなかった。
 これは、と。
(なんとも真っ直ぐな若木)
 手渡された宝刀をいつも付き従っている幽霊に持たせながら、幽々子は緩んだ口元を隠
すために着物の袖を寄せる。妖夢が顔を幽々子の方へと戻した時には彼女の笑みはその袖
に隠され、それが幼い従者の目に止まることはなかった。
「それは楽しみねぇ」
「はい。幽々子様の試合の前に、私が勝って弾みをつけますから。だから――」
 お命じ下さい、と妖夢は最後まで言うことはできなかった。
 伸ばされた幽々子の人差し指。それが、妖夢の紅も差していない素のままの唇に触れ、
その動きを抑え込む。
 そして、
「妖夢。あの黒い魔を倒してきなさい」
「っ! ひゃい! ひひょーの名にかけひぇ!」
「食べてる食べてる」
 下された命令に一瞬目を丸くした妖夢は、しかしすぐに覇気のこもった瞳でうなずいた。
ついでに勢い余って開いた口に幽々子の長い指をくわえこんでしまったりもしたが、欲し
かったひとことをもらえた妖夢は、気にせずに「両選手中央へお願いします!」という文
の声に応えてコーナーへと背中を向ける。
(これで完全だ!)
 平常心にして、胸に抱いた使命感。
 前の試合で十六夜咲夜が言った従者の心得に、彼女も同意したい気分だった。
(幽々子様が期待してくれる限り、私に『負け』の選択肢は無いわ!)
 そうして、『負け』の無い戦いへ、少女は赴くのだった。

 で。
「まるで池の鯉」
「最近の鯉も、滝を昇れば竜になるのかしら?」
 試合へと向かう従者を見送る主は、頭上に開いた空間のスキマに驚くことなくそう尋ね
ていた。友人の言葉に、スキマに肘を乗せた紫はふむと目を細め、応える。
「池にある滝じゃあ、蛟がいいところね」
「まっ。残念」
 心底がっかりしたふりをして、ギブアップ用の手拭いで指先を拭う幽々子なのであった。

              ※ ※ ※

「今、箒持ち込もうとしなかった?」
「目の錯覚だぜ」
 リング中央で顔を合わせるなり、二人はそうやって軽口を叩く。魔理沙が霊夢に箒を没
収されるのを見ていた妖夢は、一回戦の試合に続いてのその厚顔さに呆れてしまう。
 そこに文のノリノリの実況が重なってきた。
「それでは、両者揃いましたので、そろそろ試合を開始したいと思います! 二人とも身
長もほぼ同じとあって、その間合いもほぼ同じ。自分の手の届く範囲は相手の手の届く範
囲でもあるというこの状況で、それぞれどのような戦いを見せてくれるのか、期待しまし
ょう!」
「――だとさ。ブン屋の言うことももっともだし、最初からガンガン行かせてもらうぜ」
「望むところよ」
 文の煽りは、観客を盛り上げるだけではなく、舞台の上にいる選手の心さえも高揚させ
る。その高揚を抑えつけながら、妖夢は「よっ、ほっ」とかけ声を上げながら屈伸する魔
理沙から、すっかり曇りきっている天へと視線を移した。
(降るかな?)
 どんよりとした雲は今にも雪を降らしそうなほどに重く湿ったもので、例えば観客席で
くつろいでいる冬の妖怪がくしゃみの一つでもすれば、それはすぐに実現しただろう。だ
が、妖夢の視力が捉えたのは白い冬の精ではなく、同じ白でも暖気の宿る白――春を告げ
るリリーホワイトの姿であった。
 妖夢の様子に気がついたのか、魔理沙も首を傾けて真上を見遣り、そして口元を笑みの
形にする。
「来たな。それじゃあ、悪いがさっき言った通りガンガン行かせてもらうぜ。後がつかえ
てるんでな」
 三回戦、準決勝、それから決勝、と魔理沙は三本の指を立ててみせた。
 その早速の挑発に赤コーナーの霊夢などは「よくやるわね」と呆れるが、妖夢は最初の
予定通りそれに取り合わない。
 否、取り合わないつもりだったのだが、
「後がつかえてる……ね」
 やっぱり言われっぱなしは悔しいので、思わず口を開く。これが最後、と自分に言い聞
かせつつ、彼女は言う。
「後のことは考えなくていい、どうせここから先には進めないし。魔法使いに勝ち目はな
い」
 言いながら、妖夢は構えを取った。左足を前に、右足を後ろに開いて、膝を曲げる。両
拳をそれぞれ腰の横に添え、上半身を前に躍り出るようにやや前傾姿勢に。
 それを見て、魔理沙も両肩をグルンと回す。こちらは構えらしい構えなど存在しない。
格闘技のど素人そのままの棒立ちで、妖夢の真正面に立つ。
 距離は正しくリング中央大股一歩分。
 その距離で、魔理沙はさらに妖夢に言葉を返した。
「別に困らないぜ。今日の魔理沙さんは魔法使いじゃなくて研究家な気分だ。一回戦から
研究しっぱなしの、対魂魄妖夢の専門家だ」
 実際、色々と面白い戦い方を見ることができたと魔理沙は満足している。百聞は一見に
しかず、さらに百見は一度の実践経験に及ばないが、それでも試合にある程度の目算を立
てて挑むだけの『知識』は手に入った。
 冗談めかした言い方でもその自信は妖夢にも伝わり、しかし半人半霊の少女はそれをぶ
った切る。
「それで幾つ奇策を用意しているかは知らないけど、残念だけど私には通じないわよ」
 断定して、妖夢はその薄い色の瞳で真っ直ぐに魔理沙の目を射抜いた。
「私は私が身に着けてきたものを信じるだけ。魔理沙がどんな奇策を使ってきても、私は
日頃の努力で身に着けたものでそれを叩き潰すわ」
 地道な修練で身に着けた力が一夜の発想に負けるはずがないという妖夢に、魔理沙は肩
をすくめてその強い視線を受け止める。
「自分で努力家って言う奴で努力している奴は見たことがないぜ?」
 そのやり取りは、互いを行き交う真剣な軽口だ。妖夢は自分の有利を威圧的な口調で伝
え、魔理沙はそれを茶化しながら受け流す。
 そして、試合の序章とも言える言葉遊びが途切れた瞬間――。
「始まりですよ〜」
 リリーホワイトの羽ばたきが、二人を舌戦の場から格闘の場へと引きずり出した。開始
の合図に、少女二人が同時に動く。
「!」
「!」
「さあ始まりました、魔法使い対白玉楼の庭師っ。戦いの定石を崩す突飛な発想が持ち味
の研究家と、堅実に技を修めた努力家という対極のこの対戦、立ち上がりはどういう展開
になるのか!」
 文が注目するその動きは、両腕を垂らした状態から左手を前に振り出した魔理沙と、刀
の抜き打ちの速さで右拳を腰から『抜いた』妖夢という構図だ。
 そしてそれは、
「っと!?」
 魔理沙の左手に反応して迎撃しようとした妖夢に、急ブレーキをかけさせる。手首のス
ナップを効かせて放たれた右拳が、魔理沙の『ただ前に出しただけ』の左手に激突する寸
前で止まり、硬直する。
 え? という妖夢の驚きの顔は、魔理沙が差し出した左手に注目している。下から持ち
上げられたその手は、力を抜いて指を伸ばした無防備な形だ。
「……? あ〜なるほど」
 『まず手をパチンと叩き合せる』要求に、妖夢は納得して自らも左手を引っ込めて右手
を出す。うむ、と魔理沙がうなずいて、二人はパチンと手を合わせた。
 その一呼吸の『仕切り直し』に、リングサイドの強妖たちも調子を狂わせてガクッと肩
を落とす。放送席で文も苦笑し、改めて次のように宣言する。
「え〜、ここは妖夢選手が少し慌て過ぎたようです。一度手を合わせ、お互いに健闘を誓
ってから、もう一度試合開始となります!」
「じゃあ、やるかっ」
「ええっ」
 魔理沙が気合を入れて言い、妖夢が縮まってしまった距離を元に戻すために後ろにステ
ップをする。

 ――そこに、魔理沙は踏み込んだ。

「へ?」
 後ろに小さく跳んだ妖夢のわずかだけ浮いた身体。宙に浮いた『それ以上動きようがな
い』妖夢を追いかけるように、魔理沙が弾丸の勢いで前に出た。頭上に振りかぶった右拳
は、先ほど妖夢と手を合わせたばかりの『最初の一手』だ。
「しま……っ!」
 妖夢が自分の失態を悟った時にはもう遅い。
 咄嗟に十字に組んだ両腕の守りを打ち抜いて、強烈な一発が妖夢の顔面を捉えてその頭
を真後ろに弾き飛ばした。


              ※ ※ ※


(入った!)
 真上から弧を描くようにして身体ごと叩きつけた『ぐー』の右拳に返ったガツーンとい
う手応えに、魔理沙は会心の表情を浮かべた。全力疾走のおかげで勢い余って前に倒れこ
みそうになった身体を、大きく踏み出した右足の裏で受け止める。
 ダン、というキャンバスが足で叩かれた音がすると、それが後押しするように殴られた
妖夢の身体が後ろに傾き、
 しかし、倒れない。
 宙で殴られた妖夢は、その拳の威力に身体をのけ反らせながらも、右足を斜め下に突き
出しつっかえ棒にするようにして自らの身体を支えた。
 吹き飛ばない。
 妖夢は、それ以上後退しない。
 結果――。
「お?」
 魔理沙はつんのめった自分の顔の前に妖夢の緑色のベストがあることに目を丸くした。
魔理沙が突っ込んだのは妖夢の位置。妖夢がそこから下がらなかったために二人の距離は
重なり、つまりはゼロだ。
 そしてその距離は、魔理沙が一番避けなければならない妖夢の必殺の間合いだった。
「やば――っ!」
 一瞬前に妖夢が口走ったものと同種類の声を上げ、魔理沙はそこから退こうとした。だ
が、それよりも唇から血の筋を垂らした妖夢が動く方が遥かに早い。
 頭上から振り下ろされた妖夢の手刀ならぬ『腕刀』に、魔理沙の身体が背中から押し潰
されてキャンバスに激突した。


              ※ ※ ※


 ビダーン、という平べったいものがキャンバスに叩きつけられた音に、観客たちはそこ
までの一瞬の攻防に目を見張るよりも前にうわっと顔しかめた。その音が高い所から水に
飛び込んで腹打ちした際の比ではない『酷い音』だったからだ。
 両腕を上半身の前傾に合わせて振り下ろした妖夢の腕刀は、まさに蛙を踏み潰すイメー
ジで魔理沙を『叩き潰した』。
 そして音の余韻が消えるよりも素早く天を貫いたのは、試合の決着をつける権利を持つ
閻魔の卒塔婆の笏であった。
「ダウン!」
「直撃! また直撃! そしてダウーーーーン! 魔理沙選手の先制打撃の振り終わりを
狙った妖夢選手の大上段一閃っ。一発ずつのダメージの交換は、妖夢選手に軍配が上がり
ました!」
「弱っ!」
 文の放送に叫んだのは、魔理沙側のリングサイドに座っていたチルノだ。彼女は魔理沙
の勝利に賭けた赤い賭札を握り締めながら、不満げに漏らす。
「何よ、全然弱っちぃじゃないのさ。いつもはもっと強いのに!」
 それは正直過ぎる感想だったが、多くの観客が抱いた感想でもあった。彼女たちが普段
相対する霧雨魔理沙の印象からは想像できないほどに呆気ないダウンだ。
 だが、それも無理もないと放送席の面々は思う。それは魔理沙が『弱い』からではなく、
ほんの短い間の攻防がそれだけ密度に濃い内容だったということでの納得だ。文などは自
らも一回戦での美鈴との試合で握手直後の攻撃を仕掛けただけに、うつ伏せに倒れる金髪
の少女を見遣りながら、やや気の毒そうに言う。
「下がりそうもない相手を『下がらせた』のは見事だったのですけど、少しだけ腕力が足
りませんでしたね」
「そうだな。相手の攻撃方法の特性を『正しい構え』にあると見切って速攻で仕掛けたの
は良かったんだが……ここは、完璧に近かった一発を受けても耐えた庭師を素直に褒めた
いところだな」
 文と慧音の言葉に観客たちがリングの上に視線を戻せば、そこにあるのは一撃のもとに
魔理沙を斬って落とした妖夢が切れた唇の血を手で拭っているという光景だ。
 マイクの放送で会場に告げられた通り、妖夢は別に楽勝で魔理沙を迎撃したわけではな
い。むしろその反撃は狙ったわけではなく、ダメージに耐えたと思った瞬間、間近にいた
魔理沙に対して反射的に『流れ』として繰り出された一発が命中したに過ぎない。
(効いた……あれだけ注意していたのに、これ?)
 叩かれた顎から唇にかけてと、そこを突き抜けて脳に叩き込まれた衝撃が、軽い眩暈を
視界の中に生み出して、ダウンを奪った事実を素直に喜ばせてくれない。魔理沙の奇策と
いう『卑怯』など意に介さないで戦うつもりが、最初の最初から『挨拶という紳士的態度
を使った奇策』に引っかかってしまった自分に、むしろ苦虫を噛み潰した思いだ。
「未熟者……っ」
 自戒を込めて、呟く。
 もし魔理沙の攻撃力がもう少し高かったならば、初撃で倒れているのは魔理沙ではなく
妖夢の方だっただろう。そういう意味で、妖夢は魔理沙が人間であることに助けられたと
も言える。
(腕力は、ルーミアよりちょっと上くらい? どうせ何か薬でも使ってるんでしょうけど、
これがもし……)
 レミリアやフランドール、または萃香であったなら。
 直撃を食らった自分の顎がどういう被害を受けていたかを想像し、妖夢はピクリとも動
かない魔理沙に自分の姿を重ねて眉根を寄せた。

 ――否。

「シックス、セブン!」
「つ……たた」
「おおっと、魔理沙選手、どうやら立ちます。完全に足が震えていますが、それでもどう
にか立ち上がるようです!」
 派手に叩きつけられた魔理沙であったが、カウント六で身体を震わせ、そこから両手両
足を使ってどうにか膝立ちまで自分の身体を起き上がらせた。
 つ〜、と頭をプルンと振るうのは、キャンバスに激突した際にこれでもかと言うくらい
に強烈に額をぶつけたからだ。
「エイト、ナイン!」
「う〜……まだやれるぜ。始まったばっかじゃん」
 赤くなった額を押さえながら、魔理沙は膝を伸ばして立ち上がる。そこで映姫によるカ
ウントは止まり、ほうと妖夢は感心の声を魔理沙に向けた。
「意外に頑丈ね」
「茸で健康生活しているからな」
 なんでもないように魔理沙は言うが、しかし伸ばされたその足が細かく震えているのを
妖夢は見逃してはいなかった。
 打撃によってキャンバスに叩きつけられるというのは、投げ技によって投げられるのと
は意味が違う。打撃というそれだけで完結したダメージを受け、『効いた』上でさらに追
加で叩きつけられるのだ。背中に痛烈な一撃を受け、さらに最低限の受身もとれずにキャ
ンバスに弾んだ魔理沙が立ち上がってきたこと自体、感心に値する。
(勝機!)
 感心はすれど情けをかけるつもりはなく、妖夢は映姫の再開の合図よりも先にその身を
前傾させて両拳を腰に寄せた。自分の受けた頭部へのダメージなど、魔理沙の受けたそれ
に比べれば微々たるものだ。
 そして、
「続行!」
 その言葉が音として周囲に広がりきるよりも速く、妖夢は音の波を突き破る矢のような
勢いで魔理沙に向かって飛び出していた。

              ※ ※ ※

(効いたぁ……)
 というのは、どうにか立ち上がった魔理沙の感想だった。実際、妖夢の打ち下ろしの痛
みが背中から腹へと突き抜けた時にはそれで負けかと思ったのだが、特性の丹によって強
化された身体は想像以上の耐久力を発揮しており、そのダメージは『頭を鷲掴みにされて、
思い切り木の幹に叩きつけられた』程度のものだ。
(いやいや、それってKOだろ……)
 自分の分析に、魔理沙が喰らったダメージの甚大さを再確認した瞬間――。

 魔理沙の眩暈に歪んだ視界の中、白髪の少女が真っ直ぐに飛び込んできた。

「!? ちょ……っ」
 ちょっと待て、と言う暇も無かった。言いかけた言葉ごと、魔理沙の顎が下から繰り出
された妖夢の拳で跳ね上がる。ゴッという硬い音がしたその一発に、魔理沙は先ほどの妖
夢がそうであったように顔を大きくのけ反らせたが、
「つぅ……っ」
 顎先に石をぶつけられたような痛みを感じながらも、その場から後退することはなかっ
た。
 妖夢の腰からの抜き打ち――『二刀流』による一撃は、妖夢の手が届く限界ぎりぎりの
間合いである『近距離の中で一番遠い距離』から放たれたものだ。楼観剣と白楼剣を操る
妖夢の常人離れした握力での拳は硬く、充分に凶器と言えるものだったのだが、
「あれでは『痛いだけ』ですね」
 『打ち抜く』のではなく『腕を伸ばしきってようやくぶつかる』距離での打撃を、文は
そう表現した。
 ――が。
 妖夢はそこから半歩踏み出してさらに両拳を振るう。身体を前に倒した右構えも左構え
もない真正面向きの前傾姿勢。そこから左右の腰から放たれる拳が最短距離でのけ反った
魔理沙の顔面を『追いかける』。
 最初の一発で、痛いだけでダメージにはならないと判断した魔理沙は、そのことで妖夢
を挑発しようと口を開こうとしたが、
「効か」
 ゴッ。
「な」
 ゴッ。
「い」
 ゴッ。
「ぜ!?」
 ゴッ。
 まともに左右二発、合計四発を連続で喰らって、さらにのけ反るハメになった。それは
一発目と同じ『妖夢から魔理沙の顔』へのぎりぎりの間合いからの攻撃だったが、それ故
に魔理沙は叩かれる度に少しずつ顔を後ろに押し込まれる。
 そしてそれは、
「これは……魔理沙選手、『身を起こせない』! 妖夢選手の手数が多過ぎる! 顔を戻
す前に顔に打撃が入る! その場にとどまっていては、体勢を整えることができません!」
「うぐ……っ」
 文の言葉の通りだった。魔理沙はすでに顔だけではなく上半身までのけ反り、もはや反
撃などと言える状態ではなかった。
 そこに、妖夢は再び半歩の距離を詰める。左足の爪先が魔理沙の両足の間に入り、お互
いの足が交差するという超至近距離で、妖夢は両腕を頭上に振り上げた。
 その上段の構えの意味を悟った魔理沙は、うげっと顔を引きつらせて身を後ろに倒す。
今度は『反らす』のではなく、自ら地面を蹴って斜め下へと向かって跳んで、
「これなら……どうだ!」
 思い切り右足を振り上げる。
 妖夢から離れながらの蹴り上げは、妖夢の緑色のスカートの端を引っ掛けて、それをぶ
わっと大きく跳ね上げた。すると、妖夢のもこもことした白い下着が露になって会場がど
よめいた。
「め、目隠し!? 魔理沙選手、これは上手い手を使って危機脱出! 姿を隠すと同時に、
妖夢選手の攻撃の範囲内から逃げ切りました!」
 カメラのファインダーを覗く文が言うように、広がったスカートの布地は妖夢と魔理沙
の間をカーテンのように区切り、逃げる黒白の魔法使いの姿を狩人の目から覆い隠した。
 しかし。
「ふっ!」
 妖夢は、そんなこと気にはしなかった。恥らうこともなく気合を入れて、『二刀流』の
際に打撃の衝撃を受け止めるための『後ろ足』としていた右足を、大きく前に振り上げる。
 グン、と膝が胸元に届くくらいにまで持ち上げられた妖夢の右足。そして両腕を振り上
げた大上段の構えのまま、妖夢はその右足で、

 魔理沙の仰向けの腹を、思い切り踏みつけた。

「はぐ……!?」
「踏みつけー! キャンバスに逃げた魔理沙選手、しかしその無防備な身体を俊足の妖夢
選手の脚力が一撃必殺!」
「おい、あれはっ!」
 あくまで『真っ直ぐ』に進んだ妖夢の踏みつけに対して魔理沙が発した呻き声に、慧音
が顔色を変えて身を乗り出した。
「あれは死ぬぞ!」
 一撃必殺というのは伊達ではない。衝撃を逃がすことのできないキャンバス上で腹を打
ち抜かれた魔理沙は、激痛よりも先に全身に奔った電撃に顎をのけ反らせて唇を噛んだ。
ほとんど脊髄反射の動きだ。
 そして、
「〜〜〜〜!」
 一瞬遅れての『逆流』にこじ開けられそうになった口を、魔理沙は両手を使って押さえ
込んだ。
 直後に映姫が宣言する。
「ダウン!」
「足を退けろ!」
 鋭く言ったのは慧音で、ダウンによって戦闘を停止させた妖夢がそれに従う。すると、
魔理沙が口を押さえたままリングの上をゴロンと横に転がり、片手を使って身を起こそう
として、手を滑らせてリングサイドの一番下のロープに頭から突っ込んだ。
 ドッと少女一人がキャンバスに落ちる音の後、
「うげ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 聞きたくもない音が、会場の皆の耳に飛び込んできた。
 ボタボタという、半ば液体と化したものがリングの高さから境内の地面に落ちる音に、
最初観客たちはそれが何の音かわからなかった。しかし、魔理沙の喰らった一撃と状況を
見て、すぐに察して顔をしかめる。
「うわっ」
「きたなっ」
「掃除するの誰よ?」
「巫女でしょ」
「スリー、フォー!」
 無責任なざわめきの中に、映姫によるカウントが混じった。十を数えるまで止まらない
規則正しいそれに、魔理沙が目尻に涙を浮かべながらロープに手をかけ、ゆっくりと自分
の身体を引き上げる。
 ――引き上げようとするが、
「こ……のっ」
 腕はともかく腹から下にまったく力が入らず、魔理沙は左手で左膝を掴んで、剥き出し
の膝小僧に爪を立てる。そうすると、長時間の正座の後のように痺れていた足に、わずか
ながらだが感覚が戻ってくる。
 だが、カウントは非情に進み、与えられたわずかの猶予が消えていく。
「ファイブ、シックス!」
「魔理沙選手、一ラウンド開始一分足らずにして、早くも二度目のダウン! ただ叩き潰
されただけの一度目のダウンとは違い、今度は正確に急所を射抜かれた、これは致命的な
ダウン! 果たして立てるのか、それともこれで終わってしまうのでしょうか!?」
「無理だ。大事には至らなかったが、普通の人間なら内臓破裂して死んでいたところだ」
 カウントが半分を越えても未だに膝の感覚を取り戻しかけただけの魔理沙に、放送席か
らも声が飛んだ。その両方に悲観的な響きがあるのは、それだけ寝転がった相手への踏み
つけという技に『必殺』のイメージが強いからだ。
「勝った後のオマケに見えるかもしれないけど、アレって効くのよね」
 うんうん、とうなずくのは、他人を足蹴にすることにかけてはプロ中のプロとも言える、
花を操る大妖怪――幽香だ。その言葉は博麗神社の屋根の上で一緒になって観戦している
もう一人の大妖怪――魅魔へと囁いたものであったが、言われた方はそれを振り返ること
なく眼下のリングへと真剣な視線を注いでいた。
 その厳しい視線は魔理沙の受けたダメージを見極めようとするものであったが、
「……いや、あれは立つね」
「ふぅん?」
 不意に魅魔がその目元を和らげて言ったことに、幽香も面白げに屋根の上から身を乗り
出した。見れば、確かに魔理沙がロープに身を預けながらもその両の足で立ち上がったと
ころであった。
「ふ〜……」
 というのは、頬に一筋の汗を流した魔理沙のため息だ。無様ではあったが立ち上がった
おかげで映姫のカウントは止まっていたが、ガクガクと揺れる膝は気を抜けばすぐにカク
ンと落ちそうなくらいに頼りない。
 そして魔理沙がロープ際から動けないでいると、
「行くわよ」
 再び妖夢が両手を腰に当てて、前傾姿勢の構えを見せる。その生真面目な姿に、魔理沙
は苦虫を噛み潰す思いで確信する。
(こいつ、冗談抜きでつえぇ……っ)
 妖夢の戦い方は、実に単純だ。
 『二刀流』の途切れない連続攻撃によって相手を押し込み、頃合を見計らって上段から
の腕刀による強烈な一発。もし腕刀の範囲外に逃げられれば、それが地面ならば踏むし、
そうでなければ再び『二刀流』から仕切り直し――それだけだ。
 それだけのことだというのに、それを前にした魔理沙は何をする間もなく、その『流れ』
に乗せられてしまう。
「手詰まり、ですね。紫様」
「そうね。単純な『一』は、時に無数の公式を凌駕することもある。そんなところかしら」
 自ら複雑な『式』を生み出す藍と紫もまた、妖夢の『外連味(けれんみ)の無い力』に
は感心せざるを得ない。それは妖夢が毎日修行をして手に入れた、『斬り合いに強い、殴
り合いに強い』という、しっかりと血肉となった『戦闘力』だからだ。
 対して、魔理沙の『戦闘力』は、丹による『打撃力と耐久力』、それから『魔法使いと
しての頭脳』という変則的なものである。戦闘のための技術が無い以上、『打撃力』を生
かすためには『頭脳』でどうにか攻撃を当てられる状況を作らなければいけないため、戦
闘スタイル的にどうしても『二度手間』となってしまっている。
 試合開始早々の不意打ち。
 自ら転びながらの目隠し。
 そうした『頭脳』によって作ろうとした『流れ』を、妖夢の『戦闘力をぶつけるだけ』
という単純明快さは打ち砕き、妖夢側の『流れ』を押し付けてくる。
 藍の言う通り、それは手詰まり以外のなにものでもない状況であった。
 ――だが。
「さっき食べたもん、全部出しきったぜ。おかげで身体が軽くなった」
 それでも、魔理沙は妖夢に向かってそう言った。
 多分に強がりの含まれたそれに、しかし妖夢は変わらない『平静』の視線で魔理沙を見
るのみだ。その沈黙の前傾姿勢こそ自分がロープ際から動いた瞬間に飛び込んでくる布石
だとわかっている魔理沙は、伝う汗を拭うこともできずに引きつった笑みを浮かべる。
(つけこめるところが無いってのは……やりにくいな)
 魔理沙の予想では、妖夢は一回戦のメディスンを除けば、この大会で一番組みし易い相
手だったはずだった。妖夢の持ち味はその真っ直ぐな戦い方であるが、その真っ直ぐさを
『歪ませる』ことはたやすいことだと彼女は思っていた。
(もっと流されやすい奴かと思っていたんだが……)
 いつもの宴会の、周りの皆にからかわれる姿からは想像できない、その不動の瞳。膝を
曲げた低い位置から見上げてくるその目に、魔理沙は妖夢の今の『状態』を悟る。
(『本気』ってわけだ)
 妖夢は一回戦の最初に見せていた『宴の余興』モードから、すっかり『本気の戦い』モ
ードに移っていた。そうなった時の妖夢の厄介さを、魔理沙は過去数度の弾幕ごっこで嫌
というほど思い知らされている。
(こうなったら、人の話なんか聞きやしない)
 単純故に弛んだ時には騙しやすく、しかし単純故に張り詰めた時には騙しにくい。
 妖夢の極端な性情に、彼女の精神的な甘さ突こうとした魔理沙の当ては完全に外れたこ
とになる。
(さて、どうしたもんかな。とりあえず『きっかけの一発』が欲しいところだが……)
 ふ〜、と深呼吸を一つして、魔理沙は仕方なく左の爪先を半歩分、ロープ際を沿うよう
にして横へとすり足で移動させた。
 すると、
「!」
「くっ!?」
 妖夢がギラリと視線を走らせて前足を踏み出そうとして、その動きに魔理沙は右足を引
っ込めるハメになった。それならばと逆に右足を進めれば、
「う……っ」
 その動きに反応して、妖夢が首をそちらに巡らせる。二人の間の距離はほんの三歩ばか
りであり、膝の力の抜けた魔理沙がどちらに動こうと妖夢は一足飛びにその距離をゼロに
することができる。つまり、二人の距離は実質は『一歩』だ。
 自分が今どれほど絶望的な『位置』にいるかを理解した魔理沙は、妖夢の『真っ直ぐさ』
のさらなる恐ろしさに戦慄した。
 思わず硬直してしまった魔理沙の代わりに、文がそれを解説する。
「動けない! 魔理沙選手、ロープ際に詰められた状況から抜け出すことができません!
動けばいつでも飛び込めるぞという、妖夢選手の強烈な視線のアピール! そしてそれは
事実っ。妖夢選手の最大の特徴は、実はその手数よりも一瞬にして十を零にする踏み込み
の速さなのです。『二刀流』が生きる『一定の距離の確保』は、その俊足があってこそ!
相手を逃がさない追い足の速さにかけては、おそらくこの大会でも一、二を争うその脅威
の瞬発力!」
「そうだな」
 ちなみに一番は私ですけど、という文の言葉を聞き流しながら、慧音は魔理沙が陥った
『それ以上下がれない位置』という状況に目を細める。
「一回戦のルーミアも、『二刀流』の弾幕でコーナーに追い込まれて上段からの一撃、と
いう流れだった。魔法使いの変則に惑わされずに自分のスタイルを貫き通した、戦いのお
手本のような試合運びだ」
「変則を打ち破るのは超正統派――教科書通りのことを高い技量でこなる者、ということ
ですか。色々あるんですねぇ」
 私は正統派を翻弄するのが変則だと思っていたんですけど、と門外漢である阿求もお茶
を啜りながら感心した。
「弾幕ごっこ風に言うなら、誘導して大砲で狙い撃ち、というわけですか」
 それは弾幕ごっことは無縁の少女が聞きかじった知識のみで呟いた言葉だったのだが、
「……なに?」
「今、なんて言いました?」
 その言葉にギクリと反応したのは、調子良く解説していた慧音と文だった。それだけで
はない。会場の妖怪たち――ある程度弾幕ごっこをたしなんだ少女たち、特に『霧雨魔理
沙』と弾幕ごっこ経験のある者たちの視線が、一斉に放送席の阿求へと集まった。
「え? え? で、ですから、誘導して狙い撃ち……ですよね?」
 突然の注目に阿求が驚いてしまうと、その言葉が終わる前に妖怪たちは勢い良くリング
へと視線を戻す。
「な、なんですかいったい!」
 説明のない理不尽さに阿求が不満の声を上げると、それを合図に魔理沙が動き、妖夢も
それに合わせて初動した。

              ※ ※ ※

 魔理沙が移動先として選んだのは、結局真正面――妖夢の方向だった。妖夢は冷静にそ
れを見据え、前傾姿勢で構えながらも魔理沙の判断の正しさに舌を巻く。
(さすがに研究家とか言うだけはあるわね)
 妖夢としては、ロープ際で左右どちらかに移動してくれた方が追撃は楽だった。妖夢の
『二刀流』と腕刀の最大の欠点は攻撃範囲の狭さであり、その間合いは相手が半歩一歩退
けば有効なダメージを与えられなくなる程度のものだ。故に『後ろがない』ロープ際にい
てくれた方が、より確実に『二刀流』から腕刀への攻撃の流れを作ることができた。
 だが、
(もう、ヘロヘロじゃない)
 前へ踏み出してきた魔理沙の足は、誰が見てもわかるほどに震え、ただ歩くだけでも辛
そうであった。それだけ腹への踏みつけは少女の身体に試合中では消えない痛手を刻み込
んでいる。
 状況を言うのならば、まさに『最後の追い込み』のひとことだ。
(それにしても、よくここまで振り回してくれたわ)
 予想していたとはいえ、こうまで奇策を連発されてしまうと先ほど巻いた舌でそのまま
舌打ちの一つもしたくなる。動揺とは別で腹が立ってしまうのは、手合わせしてわかった
格闘における魔理沙の『弱さ』のせいだ。
(魔法を使えない魔理沙相手にこれだけてこずるだなんて、後で幽々子様になんて言われ
るか)
 実際に戦ってみてわかったことは、魔理沙が本当に格闘技に関して素人だということだ
った。身のこなし自体はその豊富な弾幕ごっこ経験によるものか悪くはないが、殴る蹴る
といった、いわゆる格闘専門の技術があまりにお粗末過ぎる。
 例えば、拳での打撃一つをとっても、今回の試合で魔理沙が使ったのは風車のように腕
を頭上まで振り上げての『ぶん回し殴り』のみだ。丹で増強した破壊力を生かすための全
力打撃なのだろうが、もし魔理沙に妖夢のように小さく細かく打つ手技の技術があれば、
試合の流れはまったく違ったものになっていただろう。
(パワー頼りの一点突破……っていうのは、魔理沙らしいけど)
 結局、そのような魔理沙の弱さ――技術不足が、彼女に奇策という戦法を必然的に取ら
せることとなる。
 『まともにやっていては勝てない』からだ。
 そして、それが妖夢には納得できない。
(つまり、それって私の方が強いってことじゃない!)
 お互いにどちらが上かわからない『強さ』という要素をぶつけ合い、その中で策を練る
のなら、それはわかる。相手の動きを研究し、その弱点をつく。そういう作戦の大切さが
わからない妖夢ではない。
 が。
 魔理沙の『奇策』。その根源にあるものは、妖夢が考える『策』とはまた違う。
 その違和感が、どうしても妖夢の胸にムカムカとした不愉快なものを生み出して仕方が
ない。
 ぎりぎりの勝負の決定打となるものが、妖夢の考える『策』だ。
 お互いの力が伯仲している場合、戦いはともすれば千日手――互角故に気軽に動けない、
相手の出方を伺うような消極的なものになってしまうことがある。また、双方の攻撃力と
防御力が噛み合い過ぎて、どちらかが倒れるまでの打ち合い――体力の削り合いになって
しまうこともある。
 そういう止まってしまった戦況を動かすために、もしくは体力切れで共倒れになるかも
しれない戦いに早期の決着をつけるために一石を投じるのが、妖夢の考える『策』だ。
 『強さ』だけでは決着が怪しい、戦いが煮詰まった時にこそ使う『とっておき』とも言
い換えることができるかもしれない。
 それに対し、魔理沙のそれは『策のみで勝つ』という、妖夢の『策は補助』という考え
とは真逆に位置するものである。思想の違いと言ってしまえばそれだけだが、その違いが
どうにも妖夢には気持ち悪い。普段の魔理沙の弾幕ごっこでの『強さ』を知っているだけ
に、奇策に頼りきりで戦うその姿に、口惜しさすら感じる。
(格闘ごっこなら私の方が強いって、もうはっきり結果が出てる。魔理沙が奇策で勝つこ
とがあっても、それは『強い』からじゃない。そういう『間違い』よ)
 妖夢はもはや魔理沙の破壊力にも恐怖は感じてはいなかった。警戒は解かないが、妖怪
並程度の力であれば、妖夢を一撃でKOするようなことはできない。そして、連撃を打ち
込める打撃技術も、魔理沙にはない。
 だから、
(あと一手!)
 自分の完全な一撃をあと一発叩き込めば、さしもの魔理沙も戦闘続行不可能になると妖
夢は確信していた。
 そして、肩で息をする魔理沙が大振りに繰り出してきた右拳を、自らの左の拳で受け止
める。ガツン、と小さな二つの拳がぶつかったが、
「つ……っ」
 苦痛の声を上げて弾かれたのは、まさかりよろしく振り下ろしてきた魔理沙の拳の方だ。
歩幅を前後に広くとり、衝撃をキャンバスを踏んだ後ろ足で受け止める妖夢に打ち込むこ
とは、地面に固定された棒の先端を殴りつけることに等しい。『動くもの』と『動かない
もの』がぶつかれば、『動くもの』が弾かれるのが道理だ。
 魔理沙の攻撃を跳ね返した妖夢は、即座に左右の足の前後を入れ替える。それは構えを
崩さずに進む一歩となり、そこから放った『相手を後退させるため』の右拳が、弾かれた
右手のせいで無防備となった魔理沙の顎を斜め下からガツっと叩き、

 いとも簡単に、魔理沙を大の字にひっくり返した。

「え?」
 と妖夢がその手応えの無さに眉を潜めてしまうほどの、その潔い倒れっぷり。バターン
と良い音を立ててキャンバスに倒れた魔理沙に、妖夢は思わず審判である映姫の方へと首
を振り向ける。
 と。
「試合中ですよ、魂魄妖夢」
「!」
 ダウン宣言無しに告げられた映姫の言葉に、妖夢は慌てて振り返る。すると、ダメージ
で倒れたとばかり思っていた魔理沙は手足を上下に伸ばした数字の一の形でキャンバスの
上をローラー状にゴロゴロと転がり、すでに自陣である赤コーナーの前まで避難し切って
しまっていた。
 そうして、呆気にとられる妖夢を余所に、魔理沙は悠々と立ち上がってエプロンの埃を
払いながら言う。
「昔取った杵柄ってやつだ」
「あ〜、これは上手い。魔理沙選手、ダメージが無ければ倒れてもダウンとはならないこ
の大会のルールを利用! 昨年の弾幕格闘ごっこで練習した転がり逃げを駆使し、ロープ
際を脱出! 弾幕が絡むごっこ遊びだと、転んだところにどんどんオマケの弾が飛んで来
るんで、アレは死に物狂いで覚えますね、実際」
「ああ。しかし、ロープ際からの左右移動ではコーナーに入るのが精一杯だったな。あの
位置では、状況を悪化させたとも言える」
 文が納得して苦笑いし、それに慧音が厳しい意見を続ける。逃げ場の無いコーナーの三
角地帯は妖夢がルーミアをKOした必勝の場所であり、妖夢の戦いは相手をそこに追い込
むまでの過程のようなものだ。
 そのことに、チルノは呆れたようにリグルに漏らす。
「転がって足元抜けちゃえば良かったじゃない」
「無理でしょ。さっき踏まれたばっかなの忘れたの?」
 こいつは何もわかってないんだな〜、とリグルはジットリとした半眼でチルノに教えた。
リグルのように小回りの利く身であればチルノが言うようなことも可能だろうが、リング
の上で戦っているのは箒という機動力を手放した魔理沙なのだ。転がった状態で妖夢の足
元を抜けて広いリング中央に逃げようとしても、その途中で妖夢に気づかれて潰される可
能性は実に高い。
 その結果、
「逃げたつもりが、また袋小路ってわけね。あんたさっきからそればっかりじゃない」
 と霊夢がコーナーポストに背中を預ける魔理沙にのんびりとした口調で言うような状況
だ。
 う〜ん、と困り笑いの魔理沙は、それでも寄りかかれる後ろを得たことで多少は立つの
が楽になったのか、冗談めかして尋ねる。
「いやまあその……何かあるんなら、採用はしないが聞いてはやるぜ?」
「いい位置だから、カウンター」
「採用はしないぜ」
「……おしゃべりは終わり?」
 打てば響くように言葉を交換する魔理沙とセコンドの霊夢に、妖夢はつり上がってしま
いそうな眉を必死に抑えながらその腕を上段に構えた。
 背丈的には小さな妖夢の、背筋を伸ばしたその大きな構えに、魔理沙はふむとその表情
を消す。素早く視線が動き、正面の妖夢とその左右――自分が移動できる方向を確認する。
 その視線の動きを、妖夢は『無駄』と判断する。
(今度こそ、逃げ場は無い!)
 魔理沙の移動範囲を彼女を中心とした円で考えるとすると、その円の根元――背後と左
右は三角のコーナーで切り取られた形となっている。つまり、現在の魔理沙の移動範囲は
正しく扇形であり、それは『妖夢の攻撃範囲』と完全に重なるものだ。
 妖夢の上段からの腕刀。それは、真横を抜かした左右方向と、真正面への『振り下ろし』
攻撃である。振り下ろし故に力を乗せるには相手が近い位置にいないといけないし、放っ
てから相手に後退でもされればその威力は半減する。手先を『当てるだけ』『引っ掛ける
だけ』ではただの手刀になってしまって意味がなく、手首から肘までの間を使って『叩き
潰して』こそ必殺の一撃になるのだ。
「さあ、一ラウンド二分が経過し、状況は大詰め! 試合当初から圧倒的な優勢で進めて
きた妖夢選手、ここで王手です!」
 その文の言葉に背中を押されるように、妖夢はリングの隅にいる魔理沙に向かって踏み
出し、
「これで終わりだ!」
 気合いと共に、最後の一発を魔理沙の眉間へと振り下ろした。


 その時。


 狭いコーナーで二人の身体が重なった瞬間、魔理沙の身体が斜め下へと『沈み込ん』だ。
背を預けていたコーナーポストを『尻』で押し、その勢いで前進の力を得た魔理沙が、そ
の水平方向への力に反比例するように膝の力を抜き、崩れるように『屈み込んだ』のだ。
「!」
 直立状態からまさかの『尻』を使って高速で飛び込んできた魔理沙に、必勝を確信して
いた妖夢は目を見開くが、しかしすぐに決意する。
(叩き潰す!)
 自分の胸の高さにまで落ちた魔理沙の脳天に、そのまま腕刀を叩きつければそれで良い。
――そう思った直後、その『腕』に衝撃を受けて妖夢は今度こそ驚きに目を丸くした。
「え?」
「『おしゃべり』か。随分と見損なってくれたみたいだが」
 それは、両拳を耳を押さえるように左右のこめかみに添えた魔理沙の頭だ。振り下ろそ
うとした妖夢の腕刀の根元、肘から腋の部分に真下からの魔理沙の頭突きが入り、『つっ
かえ棒』のように妖夢の腕の動きを阻害していた。
(振り下ろせない!?)
 至近距離でこそ威力を発揮する自分の腕刀が止められたことに、妖夢は絶句する。魔理
沙が飛び込んだのは、妖夢の『前』どころではない。立ち上がればお互いの身体が擦れ合
い、唇が触れそうな超々至近距離――密着状態だ。
 そこから何が起きるのか、妖夢は本能的に悟って後ろに向かってキャンバスを蹴ろうと
した。
 否、蹴ろうとしたが、遅い。
「私はいたって普通に、真面目だぜ?」
 魔理沙の嘯きが、たわめていた膝の屈伸を利用した伸び上がり突きとなって妖夢の顎を
これ以上無い破壊力で打ち上げ、その爪先をキャンバスから浮かしたのだった。

              ※ ※ ※

「が……っ!?」
 がちーん、という、開かれていた妖夢の下顎が上顎へと叩きつけられた音が響き渡り、
半人半霊の庭師が後ろへとたたらを踏んだ。カエル跳びのような強烈な突き上げを喰らい、
その目からは本気で火花が散って、口の中に一気に鉄の味が染み渡る。
 そして、
「……った!」
 勢い余って後ろに倒れそうになった妖夢は、慌てて両足を前後に開いてそのふらついた
身体をしっかりと固定した。
 固定して、
 その膝が折れ曲がり、後ろ足にした右足の膝がキャンバスにストンと落ちる。
 と。
「ダウン!」
「入ったー! 魔理沙選手、起死回生の一発、これは効いた〜! そうなのです。誘導し
て撃ち落とすのは、どちらかと言うと魔理沙選手の十八番! 狙いどころにカウンターを
合わせられた妖夢選手、堪らず膝をつき、そこに閻魔様のダウン宣告が入りました!」
「来たーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 映姫の笏が持ち上がり、文が興奮気味に叫び、最後に赤い賭札を握り締めたチルノたち
の歓声がリングの上を飲み込んだ。
 叩きつけられたその大音声に、だが妖夢は反応しない。貫いた顎への一撃は、試合開始
直後のものとは比べものにならない衝撃で彼女の視界を真っ青に染めていた。青はリング
のキャンバスの色で、膝をついた彼女はがっくりと頭を落として真下を見つめ、
「ワン、ツー!」
「え? あ、や、やれます、大丈夫です!」
「――続行!」
 その朦朧とした状態でも脳裏に直接届いた映姫のカウントに、妖夢は我を取り戻して慌
てて顔を上げた。
 その『反射で続行を求めた』妖夢に、「あら」と幽々子が眉をひそめた時には、魔理沙
は妖夢の目の前に突っ込んで来ていた。
「『それしか来ない』とわかってりゃ、私でもカウンターの一発くらい入れられるぜ!?」
「!」
 それは魔理沙自身が最初にダウンした時に妖夢に仕掛けられた『ダウン回復直後の奇襲』
だった。カウント九まで休む権利もあったというのに即座に試合を続行させてしまった妖
夢は、歪んだ視界の中に迫る黒と白、そして金色でできた色の塊の突進に、血の味のする
奥歯を噛み締めて両膝に力を込めた。
 妖夢には、相手のそういう前進を止めるための技がある。
(効いたけど、単発じゃ私は倒せない!)
 魔理沙が繰り出してくる『右腕での攻撃』に、妖夢は左拳を腰から跳ね上げた。真っ直
ぐに突き出してくる魔理沙の打撃に妖夢の左拳の打撃が重なり、
「つぅ!?」
 今回弾かれたのは、妖夢の拳の方だった。馬鹿な、と丸くなる妖夢の視界のピントが合
うと、眼前に迫るのは右肘を突き出し、その右腕の拳を自分の胸に当てて三角形を作って
いる魔理沙、という映像だ。
 目論見が見事に成功した魔理沙は、萎え切って自分では止まることができない足で走り
ながら威勢良く叫ぶ。
「ここからは、私の研究発表会だぜ!」
 『固定して動かない拳』で相手の攻撃を受け止める妖夢の『二刀流』を、魔理沙は『固
定して動かない肘』で受け止めたのだ。弾かれないもの同士がぶつかれば、幾ら卓越した
握力で硬さを維持しようと、より鋭角で硬い肘が打ち勝つのは道理と言える。
 そうして、
「いた!」
「づっ!?」
 両足を前後に広げてダメージの受けた身体を支える白髪の少女と、支えるもの無しに飛
び込んだ金髪の少女が真正面からぶつかった。形としては、腰を低くした妖夢が飛び込ん
でくる魔理沙を受け止めた形だ。
 密着状態。
 それでも、妖夢の身体は反射で状況に対応する。試合開始直後の魔理沙をそうしたよう
に、背中を押し潰すために腕を上段に振り上げる。
 が。
(背中が……無い!?)
 腕を振り上げたところで、妖夢はその『理屈』を悟った。しかし悟ったと思ったら、
「ぐ……っ!」
 再び目から火花が出るような一撃が妖夢の顎を突き上げ、その思考を弾き飛ばす。また
しても魔理沙がゼロ距離で膝を伸ばし、天へ向かって杭を打つような拳を叩き込んだのだ。
その威力は、打たれた妖夢の足の裏がキャンバスを離れるほどに強い。
 そして、それだけの威力があるが故に、その一撃は妖夢に『下がる』ことを要求した。
殴られ、一瞬身体が浮き、斜めに傾いだ状態で着地する。バランスを取るために一歩たた
らを踏み、
 そこにさらに魔理沙が飛び込み、体当たりしてくる。ドスッと胸に密着してくる魔理沙
の突進に、妖夢は押し倒されないように腰を低くして受け止めるしかない。
 だがそうして受け止めれば、
「はぐ……っ!?」
 強烈な真下からの打撃が妖夢を揺さぶる。妖夢は後ろに下がらされる。背伸びして突き
上げる一撃は、キャンバスという足場と妖夢の顎の間で魔理沙が膝を伸ばし、その空間を
押し開こうという行為だ。それは妖夢の『二刀流』と同じ理屈で、『動く妖夢』の方がキ
ャンバスに負けて、どうしても浮かざるを得ない。
「連発〜! 入る入る、これは弾幕格闘ごっこで箒を使って見せてくれた打ち上げ技、ミ
アズマスウィープ! 箒が無くともなんのその! 霧雨魔理沙選手、その戦いっぷりは弾
幕ごっこと何一つ変わることはありません!」
「く、そっ」
 ゼロ距離という自分の土俵で押し負け、妖夢は火花でチカチカする頭をぶるんと大きく
振るう。振るうそばから、魔理沙は前へ前へと進んで距離を詰める。
 その魔理沙に、
「何度も同じことが――」
 妖夢は自らも前傾を深め、『後ろ足』と構えの一体化を深めた。そして、寺の鐘を突く
撞木になったつもりで、
「通じるか!」
 左右の拳を連続で突き出した。ゴッと硬い音を立てて弾かれたのは突進する魔理沙の肘
にぶつかった妖夢の右拳だったが、それでも妖夢は気にしない。右、左、右、左、と矢継
ぎ早に拳を繰り出し、固定された魔理沙の肘を斜め下から連続四発『上方向』へと受け止
める。
「おお!?」
 魔理沙が驚くそれは、突き出された剣をその切っ先ではなく腹を叩いて受け流そうとす
る動作に近かった。
 そうやってわずかだが魔理沙がその場に押し留められると、
「つ……たたっ」
 思い切って前に出た妖夢の拳が一発ずつ魔理沙の顔面に入る。唇の下と鼻の下という急
所に打撃を受けた魔理沙は顔が左右に割れそうな痛みに涙腺が弛みそうになったが、
「それがどうした!」
「な!?」
 構わず、額を前に振り出して妖夢に向かって前進した。魔理沙の頭が『一番前』に出さ
れると、妖夢の右拳がそれにカウンターで叩き込まれる。眉間に中指の付け根の骨がゴリ
ッと命中し、
「あ――」
 前進を続けてきた足元がついにキャンバスを踏み外し、魔理沙の身体がガクンと前のめ
りに妖夢の腹に突っ込んだ。
 その打ち込んだ右手に返った確かな手応えに、だが妖夢は満足しない。
(とどめ!)
 自分の腹に顔を埋めて『斜め』に立った魔理沙の、滑り台のようにして目の前にある背
中に、妖夢は今度こそ上段の一撃を加えようとする。
 その時だ。
「魔理沙、前!」
「!」
 霊夢の声が飛び、それに反応して魔理沙が妖夢に顔を埋めたまま、『足だけを前に出し
た』。すると、魔理沙の頭の位置は変わらないが、『斜めの棒』が『天に向かって真っ直
ぐな棒』に変化し、結果として、
「ま、また……っ」
 妖夢の打ち込むべき背中――『的』が消滅する。それこそが、魔理沙が実行している『
研究発表』そのものだ。
 妖夢の上段からの腕刀は、例えば試合開始直後の時のように、お互いの爪先が触れ合う
ような超至近距離で目の前の空間を丸ごと叩き潰す技である。だが、今魔理沙が選択した
居場所は、さらにその内側――肌と肌が完全に触れ合い胸を押し付け合う『密着状態』だ。
そこには、妖夢が当てるべき『肘から手首』への最低限必要な空間である『肩から肘』ま
での距離が存在しない。
 それでは無理に腕を振ろうとしても、途中で『肩から肘』が魔理沙の頭に当たって動き
が止まってしまうし、折り畳んで『肘から手首』を当てても、それはただ当てるだけの行
動になってしまう。それは、すでに『打撃』ではない。
 腕を振り上げて硬直してしまった妖夢の姿に、文は『打撃の理』を見た思いで言葉をマ
イクに乗せた。
「なるほど、つまり腕を振ることもできない、また身体の前傾で肘から手首までを当てる
こともできないあの抱きつき状態が、対妖夢選手でもっとも安全な位置――打撃有効距離
の外ということなのですね。自分の胸に張りつけた米粒を日本刀で斬れないのと同じです」
 打撃有効距離とは『自分から腕の届く場所まで』ではない。
 『打撃に威力が乗る距離から、腕の届く場所まで』だ。
 そういう意味で、妖夢の腕刀の打撃有効距離は、『肘から手首まで』という、ごく自分
の身体に近い距離だった。故に、妖夢は魔理沙との距離を詰めるために『二刀流』を駆使
し、ゼロ距離の戦いを望むものとしていた。
 しかし、それを見切った魔理沙はさらにその内側に入った。そこから強引に力任せに放
てる技が、魔理沙にはあったからだ。
「な〜んだ」
 と拍子抜けするのは、チルノである。彼女は文の解説にケラケラと笑いながら隣に座る
リグルに言う。
「あれならあたいでも勝てそうよ。この調子なら後は魔理沙の楽勝ね」
「こ〜のお馬鹿!」
「うぎゃ!」
 そのチルノに、思わずリグルは怒りの平手打ちをその額にペシンと打ち付けていた。お
でこに一発喰らったチルノが驚いて悲鳴を上げると、リグルは冷や汗をかきながらリング
の上を指差した。
「どこが楽勝よ。簡単に言うけど、あんたにアレができる!?」
「う〜、何すんのよ……って、アレ?」
 文句を言いかけたチルノだが、リグルの真剣な視線にその言葉を飲み込まされる。首を
傾げる彼女に、リグルはうなずいて言う。
「あの辻斬り庭師のやたら速くて痛いげんこつに飛び込んで、あんなふうに顔殴られても
前に出て、速さが足りなくて途中で上段で潰されるかもしれないって無謀な作戦、あんた
にやれるの!?」
「……あ〜」
 納得の声を上げたのは、チルノを挟んで反対側に座っていた大妖精だ。彼女は『もし自
分に羽根が無くて飛べなかったら』を仮定して考え、妖夢の連撃に飛び込むことを想像し
てあっさりと手を左右に振った。
「無理無理」
 それは、想像が及んでも「あたいだったらやるね!」と言うに決まっているチルノの代
わりにリグルに応える『普通の答え』だ。
 それに、リグルはうんうんと何度もうなずく。
「自分より攻撃力のある相手に近づくのって、凄く怖いのよ? ナメないでよね!」
「一回戦、鬼だったもんね……」
 魔理沙に自分を重ねて半泣きになるリグルに、大妖精は深く深く同情した。同時に、妖
怪でもないくせにリグル同様の特攻を仕掛ける魔理沙に呆れもする。
「滅茶苦茶だなぁ」
 と。
 その感想は、奇しくも妖夢が抱いたものと同じものだ。
(め……滅茶苦茶だ。幾ら他に手が無いからって、いきなりこんな強引に……っ)
 魔理沙は奇策で妖夢に隙を作ってからでしか攻撃してこないと思っていただけに、一発
目のカウンターからの流れは妖夢にとって驚きの連続だ。
 身体を預けてくる魔理沙を突き放そうにも、足を前後に開いて腰を低くした妖夢よりも
さらに低い姿勢で魔理沙は前に出てくる。妖夢が押すことができるのは魔理沙の頭と肩だ
けで、現在の馬力自体は魔理沙の方が遥かに上だ。
 そして、
「!」
 ピク、と魔理沙が頭の左右に置いた拳が動いたことに、慌てて妖夢は両腕で顎を庇って
半歩後ろに下がった。真っ直ぐに突き上げてくる動きに対して、わずかでも空間を空けて
反応のための猶予を作る。
(これ以上喰らい続けるのは、さすがにまずい!)
 そういう妖夢の考えを、
「はは! ボディが甘いぜっ!?」
 嘲笑うかのように、魔理沙の拳が妖夢の腹に突き刺さる。腰の高さで肘を曲げて腕を直
角にしたまま前に出るという『技術も何もいらない体当たり殴り』に妖夢の内臓が圧迫さ
れる。
「ぐ……は!?」
 身体の中身が飛び出すような重い一撃に、妖夢の身体がくの字に折れる。否、折れよう
としたその身体が、間に入った魔理沙という杭で邪魔をされる。結果、倒れることがなか
った妖夢はそれを幸いに、吐き出してしまった酸素を補給しようと大きく口を開けてひと
呼吸しようとした。
 ――それが、これまで全身で魔理沙を受け止め、あくまで後退を拒んできた妖夢が見せ
た、初めての『魔理沙に身体を預けた状態での脱力』だった。
 その脱力は身体を密着させている魔理沙に素早く伝わり、彼女は両腕を真後ろに引いた。
肘を完全に折り畳み、真後ろに肘打ちでもするように勢い良く引いたその構えは、位置こ
そ違えど妖夢の『二刀流』を模したようなものだ。
 その構えから、魔理沙は両の拳を順番に妖夢の腹に向かって押し込んだ。二人の身体の
間に距離がないため『叩き込む』とはいかないが、その増強した腕力を利用して妖夢の左
右の腹に連続して拳をめり込ませる。
「〜〜〜〜!?」
 腹の力を抜いていた妖夢は堪らない。下腹を思い切り突き上げられ、息を吸うどころか
肺の中身が空だというのにさらに息を吐かされる。
(い、息ができない……っ)
 妖夢の顔が苦悶に歪み、その苦悶にさらに苦悶を重ねさせるように魔理沙が短い距離で
の腹打ちを繰り返す。ドッドッドッドッと細かく『腹をへこんだままにさせる』拳が連続
で命中し、声も無く妖夢が表情だけで喘ぐ。後退して逃げようにも、回復する間もなく喰
らい続けた顎への攻撃で、すでに妖夢の足にも力は無い。
 後ろに下がれば、倒れる。
 その思いが、顎を庇っていた両腕を腹部へと下げさせる。
 そこに待っているのは、魔理沙の会心の笑みだ。
「だよな?」
「――――!」
 両腕を下げ、無防備となった妖夢の顎。それが魔理沙の言葉と同時に跳ね上がる。くの
字に折れようとしていた少女の背が弓反りに弾け、大きく後ろに傾ぎ、
 そしてついに――。
 その背中が、ロープに触れた。コーナーポストまで魔理沙を追い詰めた妖夢が、魔理沙
の反撃にリングを横断して逆に追い詰められた形だ。
 そこに至り、放送席では文が拍手する。
「上手い! 上と見せかけて下っ。下を連発してから今度は上! この二人の試合で、格
闘技のお手本のような攻撃の組み立てを見ることになるとは思いませんでしたね」
「研究云々も伊達ではないということだろう。格闘技術とは学業と同じで、基本的には先
達からの伝達の歴史だ。優れた攻防の組み立て、有効な動作が淘汰されて残るものだが、
彼女もこの大会では充分に『見る』ことができたはずだからな」
「多くの先生に学んだということですね」
 上下の打ち分けも、一回戦で文が美鈴相手に見せたものだ。そうした情報から、対妖夢
で使えそうなものを抽出して実践しているのが、今の魔理沙の攻勢である。
 ひとことで言うならば、
(付け……焼き刃の、力くらいで……!)
 ということになるのだが、妖夢の口は開けど、言葉が紡がれることがなかった。それど
ころか、妖夢は背をロープの弾力に預けて、真上を見るようにして顎を上げて大きく口を
開き、むさぼるように酸素を補給する。
「はあ……はあ……っ」
 まさか、という思いがあった。
 コーナーポストに追い込んだところに受けた狙いすました、カウンターの一発。その『
きっかけの一発』を起点に、そこまで構築していた自分有利の『流れ』を全て魔理沙に奪
われてしまった。
 しかも、それはずっと警戒していた奇策などではなく、真正面からまっとうに妖夢の技
の隙を突いた『研究成果』によってなのだ。
(これは……勝負を急いで隙を作った私の失敗だ……)
 コーナーに追い詰めてから、細かな打撃で反撃を不可能にしてから上段打ちを行えば、
このような事態にはならなかった。そのことを認めざるを得ない。
 それは反省点であり、そして「まさか」なのは次の部分だ。
(まさか、その一瞬の隙をここまで生かすなんて……最初から狙っていたとしか思えない
っ)
 誘導された、というのが妖夢の口惜しい心境だ。文も言っていたが、誘導して狙い撃ち
するのは魔理沙の十八番だ。マスタースパークしかり、ブレイジングスターしかり、大砲
以外の弾幕はそのための布石にしか過ぎない。
 その弾幕ごっこを格闘の場で再現してみせた魔理沙に、妖夢は寄りかかっていたロープ
から身を離しながら、小さな拳を思い切り握り締める。
(最初の二回の奇策も、ダウンも――)
 格闘技の素人でも、弾幕ごっこの百戦錬磨である魔理沙の掌の上で。
(全部、私に『奇策でしか戦えない』と思わせる準備だったわけね……っ)
 踊らされていた。
 その代償が、現在のダメージだ。
 この時点で、妖夢のダメージはかなりのものだった。顎を何度も打たれ、脳の奥にまで
響いた衝撃にすでに視界はブレ始めている。目の前にいる魔理沙が二人に分身して見え、
口の中を切ったせいで鼻にツンと抜ける鉄の匂いが眉をひそめさせる。直前に連撃を受け
た腹はズンと鉛でも抱えたように重い。足に至っては、気を抜けばカクンと折れ曲がって
しまいそうだ。
(やられた……『何もできないフリ』だなんて!)
 それこそ、魔理沙一世一代の『奇策』だ。その大きな奇策を隠すために、他の小さな奇
策はあったと言っても過言ではない。――そう妖夢は思う。
 だが。
 それでも、妖夢は握り締めた拳に力が入ることを確認する。
(腕はまだ動く)
 妖夢をロープ際に追い詰めた魔理沙が、最後の攻撃のためにじわりじわりと慎重に距離
を縮めてくるのを睨みつけ、妖夢は自らも反撃の力を蓄えるために大きく深呼吸をした。
(ここからは奇策は無い。一気に仕留めに来る。でも、まだ戦える。戦えるなら――)
 魔理沙の奇策に引き出された自分の失敗、そこからの魔理沙の見事な猛攻撃、それら全
てを受け入れた上で、
(私の方が『強い』!)
 最終局面、正面からの勝負になった以上、例え一歩も動けずとも自分に負けは無いと妖
夢は確信していた。

              ※ ※ ※

 一方、魔理沙は魔理沙で、震える足を必死に押さえ込んで妖夢への間合いを詰めていた。
ともすればキャンバスに吸い込まれそうになる下半身を叱咤し、足の裏全体でズリズリと
すり足で前へと進む。
 肩で息をしながらうかがうのは、ロープ際にまで追い込んだ妖夢の状態だ。
(さぁ〜て、どれだけダメージを与えた?)
 踏み抜かれた腹部から全身に広がっている電流の走るような痛みを必死になって噛み殺
しながらも、彼女の明晰な頭脳だけは未だに元気に働いている。その彼女の目から見て妖
夢に与えたダメージは、今の自分とほぼ同じくらい、というところだった。
 普通の人間より丈夫とはいえ、やはり半人半霊の妖夢は肉体的に妖怪には劣る。実際、
彼女は一回戦で実質ルーミアにKOされているのだ。ルーミアよりも破壊力のある魔理沙
に連続で殴られて無事なはずがない。
 しかし、
(まだ分が悪いな……)
 いかにも身体を重そうにしている妖夢を前にしても、魔理沙はまだま楽観はしていなか
った。『ダメージが五分』では、『五分の戦い』にはならないのだ。
 妖夢は勘違いしているが、魔理沙は別に『何もできないフリ』などしていない。コーナ
ーでのカウンターの際に言った通り、彼女は最初から一撃で勝利するつもりで妖夢に奇策
の数々を仕掛けている。
(最初の一発でダウン取れなかったのが痛かったな)
 丹で増強した腕力を十二分に叩き込んだ、魔理沙にとって最大級の打撃だったはずだ。
それで妖夢は倒れず、それどころか返しの一発で魔理沙からダウンを奪ったのである。
 ――そこで、全ての『流れ』を持っていかれた。
(その流れを取り戻すために『切り札』使ったのもなぁ〜)
 攻めに回ったことで研ぎ澄まされた妖夢の集中力。それの前に全ての奇策を迎撃された
魔理沙は、仕方なく『試合に勝つための一撃』の予定だったコーナーでのカウンターを早
い段階で使うハメになった。
 結果、妖夢にここまでのダメージを与えることができたのだが、本来の予定であれば、
もっと弱らせた妖夢にカウンターからの連撃を叩き込み、KOしていたはずだったのだ。
 上手く行かない。
 練りに練ったはずの作戦が綺麗に『流れ』にならず、あくまで単発でしか妖夢に通用し
ていない。
(ま、それが地力の差ってやつか)
 このまま同じ残り体力で戦えば、負ける確率が高いのは自分の方だ。妖夢六割、魔理沙
四割といったところだろう。その事実に、魔理沙はむうと難しい顔になるのだが、
「っ!」
 それを見て、妖夢がロープ際で構えを取る。それはお馴染みとなった『二刀流』のもの
であったが、明らかに魔理沙の表情に反応しての動きに、魔理沙は内心おやおやと口笛を
吹く。
(警戒してるな……こっちに都合のいいように何か誤解したか?)
 リング中央側から、魔理沙、妖夢、そしてロープ。あなどれない敵と試合場の壁に挟ま
れた妖夢は、魔理沙が思っている以上に動揺しているようだった。
 その最たるものは、
(正面からやりあうつもりか……って、そう思われてるのか)
 構えた妖夢の視線は、魔理沙に「さっさと来い」と催促するものだった。魔理沙の初動
を決して見逃さないという鋭いその眼差しに、彼女は冗談じゃない、と呆れてしまう。
 妖夢が思うよりも魔理沙のダメージは深く、すでに体力的にも限界が近い。先ほどまで
の愚直な前進攻撃も、ただ単に『前に進んで妖夢に寄りかかる』ことをしないとまともに
立っていられなかったからに過ぎない。身体が後ろに傾いてしまえば、それを支える足の
力が魔理沙には残ってはいなかった。
 それに、
(五分の状況になったからここからが本当の勝負だ、とか思ってるなら、大間違いだぜ)
 殴り合いで不利なのは魔理沙の方だ。
 故に、妖夢も苦戦は覚悟しながら充分勝つ気満々の構えで魔理沙の動きを待っている。
それこそ、日頃の修行で身につけた技術と体力、それらが生み出す自信が支える気力なの
だろう。
 ならば、魔理沙がすることは一つだ。
(その気力を全部削り取ってやる、だな)
 まるで水が川を流れるように、すんなりとその結論に達する。それはすでに予定を前倒
しして奇策を使ってきた魔理沙にとって予定外の――今思いついた奇策であったが、それ
が『有効である』と魔理沙は確信することができた。
「……いい感じだ」
 思わず呟きが漏れるほど、追い詰めた妖夢の状態がわかる。弾幕ごっこの時に感じる戦
いの『リズム』。『何をすれば勝てるのか』。経験が裏打ちするそうしたものを、魔理沙
は今格闘ごっこの中からも感じることができていた。
(なるほど。近くでやり合うっていうのは、それだけわかりやすいってことでもあるな)
 遠い間合いで撃ち合う弾幕ごっこでも感じられる『戦いの状況』だ。お互いの息のかか
るような距離で手を出し合い、その表情を探っていれば、感じられないはずがない。ここ
までの戦いの中でも、無意識にそれを読み取って行動していた部分もある。
(さっきの腹へのパンチも、それが読めたから……だな)
 顎を叩かれ続けた妖夢の『弱気』が彼女の腹部を無防備にすると自然に読めた。その事
実に、魔理沙はなるほどともう一度うなずく。
(メイドになれそうだぜ)
 殴り合い蹴り合いという、友好とは一番かけ離れたように思える行為の中で、自分が熟
練の召し使いになったかのように相手を『察する』ことができるようになってきている。
比喩無しで、肌で触れ合うごとにその感覚は鋭くなっていっている。
(う〜ん、これはなかなか)
 ――格闘ごっこというのも、面白いものだ。
 そのように思う。
「はは!」
 『決勝まで行きたい理由』が増え、魔理沙は自分の背中を見ているだろう赤コーナーの
セコンドの顔を脳裏に描く。これでより一層魔理沙は負けられなくなった。それは魔理沙
の独り善がりのとても単純な理由なのだが、彼女にとってはそれで充分だ。
「あいつとは、私が遊んでやらんとな」
 呟きを聞く者はいない。誰に聞かすつもりもない。だが、その時の魔理沙の強い意志だ
けは、妖夢の下腹に力を入れさせるほどに強烈なものだ。
 その妖夢の反応に、いつまでも見合っていても彼女が気を抜く瞬間など来ないことを確
認し、しかし止まった試合を決着に向けて動かすのは自分の仕事だとも魔理沙は理解して
いた。動くのは自分の仕事だ。
 故に、口火を切ったのは次の瞬間だった。
 さて、と。
「付き合ってもらうぜ。ここからは研究発表会改め――」
 格闘ごっこというものを多少は理解した普通の魔法使いが生み出す、
「スーパーマリサワールドだ!」
 そして勢い良く、真正面から魔理沙は飛び込んでいった。
 それが彼女の萎えきった足で動ける、文字通り最後の一歩だ。

              ※ ※ ※

 その最後の一歩に込められた死力を、妖夢もまた感じ取っていた。
(小細工は無い!)
 疲労し、速度の衰えた魔理沙ならば密着させる前に迎撃できる。否、迎撃できなければ
自分の負けだと、妖夢は最速の打ち込みのために腰から頭上へと両拳を振り上げた。
(どちらがより速いか――勝負だ!)
 死力という名の気合い比べで負けるわけにはいかない。
 自らもその一撃に全ての体力を捧げるつもりで、妖夢は飛び込んできた魔理沙に向かっ
て必殺の腕刀を振り下ろした。

 ――まさか。

 魔理沙がその最後の一歩で、本当に力尽きてキャンバスに崩れ落ちるとは、思いもしな
かったのである。

              ※ ※ ※

「……え?」
 踏み出した魔理沙の右足。その膝が彼女の体重を支えることができなくてガクンと折れ
た時、呆気に取られたのは妖夢だけではなかった。会場の全員が「あら〜?」と脱力し、
その場に膝をつくハメになった魔理沙に視線を注ぐ。
 その魔理沙が、
「――なんてな」
「!」
 べっと舌を出し、妖夢の左足を取る。同時に両足を揃えて妖夢の右足の膝を蹴り、妖夢
の足を股割きのように八の字に押し開く。
「きゃっ!?」
 意表を突かれて悲鳴を上げた妖夢に、魔理沙はさらにその足を抱えたままグルンとロー
ラーのように横回転した。
 すると、両足を広げられて腰が落ちる途中でその回転に巻き込まれ、妖夢の身体が後ろ
に薙ぎ倒される。ゴロン、と尻、背中という順番でキャンバスに触れ、後頭部をロープに
打ちつけた妖夢はいったい何が起こったのかと目を白黒させた。
「あ、あれ?」
「さあ、正面から殴り合ってやるぜ?」
「へ? ぎゃ……っ!?」
 声にロープに引っかかった首を持ち上げた瞬間、自分の上に馬乗りになった魔理沙の拳
を喰らって妖夢の頭が後ろに弾ける。その頭は再びロープに引っかかって弾み、前後から
の二重の衝撃に妖夢は目玉が飛び出したかのような錯覚を覚える。
 何より、
「そん……な……っ」
 真正面からの決着、という予想を覆された妖夢は、自分の感じていた『霧雨魔理沙像』
を完全に破壊されて混乱した。真っ赤に染まった視界の中で金髪の少女が右拳を振り上げ
るのを確認しながらも、防御よりも先に口が開いてしまう。
「ちょ……魔理沙! あなた――づっ」
 ダメージ的に互角まで妖夢を引きずり下ろした以上、後は力と技の五分のぶつかり合い
で勝負を決するのではないのか。二人の間にあった差を『奇策』で埋め、後は一気に仕留
めに来るのではなかったのか。そう言いかけた妖夢を、魔理沙は殴って黙らせる。
 そして、魔理沙は尋ねられるまでもなく答えを口にした。
「『二刀流』でも上段でも、なんでも好きな技使っていいぜ!?」
「そう来ましたかーーーーーーーー! 魔理沙選手、追い詰めた妖夢選手相手に、まさか
まさかの馬乗りを敢行! 立ち技一辺倒だった試合が、いきなり寝技あり、関節技ありの
なんでもありへ! そしてそこでは――」
「『二刀流』も上段斬りも使えない。あの状態での殴り会いなら、腕力で上回る側が圧倒
的に有利だ」
 笑顔さえ浮かべて魔理沙が言った言葉に、文がバンと机を叩いて腰を浮かす。その言葉
の最後を慧音が受け取り、おそらく自分が一回戦で見せた馬乗りを参考にされたことに満
足げにうなずいた。
 そんな彼女たちの中で、妖夢と同じく『決着シーン』に入るとばかり思っていた阿求は、
予想を裏切る魔理沙の行動に悲鳴じみた叫びを上げるしかない。
「空気まったく読みませんね、あの人!」
 と。
 さらに、
「紫様のマネまでするか……!」
 リングサイドでは、藍が魔理沙の『変則足取り』に一回戦の紫の技を思い出す。あの風
見幽香の意表さえついた『真剣な試合の中へのおちゃらけの投入』に、彼女は複雑な気持
ちで言う。
「この局面でアレをやるなんて、どういう神経!?」
 紫、そして魔理沙の使ったその『技』は、藍から見れば自爆の可能性の高い危険極まり
ないものだ。普通にタックルしても転ばせられない相手に対し、『タックルを仕掛ける前
に失敗する』ことによって、先に『タックル失敗』という結果を刷り込み、そこから再度
タックルを行うことでタックル迎撃の無い無防備な瞬間を狙う――つまりは相撲における
猫騙しのようなフェイントである。それだけに、相手が引っかからなければ自分が無防備
な姿を晒すことになる、得も多ければリスクも多い博打的な要素が強い。
(あんなもの、まともな神経の持ち主が使えるか!)
 自らの主と同じことをしてみせた人間に対し、藍はそのような評価を内心で叫んだ。そ
の叫びは多くの妖怪たちの共感するところであり、会場全体の『決着』を前にした緊迫し
た空気を蹴散らした魔理沙の行為に一斉に非難の声が上がる。
「あそこまで盛り上げたら普通行くでしょ、真っ直ぐ!」
「もう時間無いでしょ、一ラウンド終わっちゃうよ〜?」
「寝技見えにくいから立ってってばー!」
 だが、そうした観客の声など魔理沙は意に介さない。両腕を交差させて顔面を庇う妖夢
に、ぶん回すようにして左右の拳を連続して叩き込む。上から下という、座っていてもあ
る程度体重を乗せやすい打撃に、妖夢は自分の腕がギシリと軋むのを感じて唇を噛んだ。
(未熟者、未熟者、未熟者!)
 試合前に決めていた『奇策を無視して実力をぶつける』という前提を、自ら破ってしま
った。これがもし試合開始直後の妖夢であれば、転がった魔理沙を踏みつけてKOという
結果が出ていたはずだ。
 なのに、
(なんで考えた……っ。なんで魔理沙が真正面から来るはずだなんて決めつけた……!)
 ハンマーで叩かれるような衝撃は腕を貫通して顔面を押し潰す。拳を受け止めた自分の
腕に鼻を叩かれて、涙腺が刺激されて目にジワリと涙が浮かぶ。視界が塞がれる。
 ――惑わされた理由は簡単。劣勢になって、弱気になったからだ。魔理沙が次に何をし
てくるのか、それを気にしてしまったからだ。
「く……そ……っ」
 『このまま劣勢が続いたら、まずいのではないか』。
 『今のままの戦い方で、良いのだろうか』。
 そういう不安がほんの少しでも胸に宿ってしまった瞬間、妖夢は『自分の実力をただ発
揮する』よりも、『魔理沙の動向に合わせて実力を発揮する』方を選んでしまっていたの
だ。そして『相手の次の行動』を予測して戦おうとした途端、この状況だ。
(……情けない!)
 同時に、
(結局、最後まで真正面からは来なかったかっ!)
 情けなさと憤りが白い妖夢の肌を朱色に染める。カッと頭に上った血が、魔理沙の大き
な腕の振りの隙をついて、反撃の拳を繰り出させる。
 が。
 完全に寝転がり、後頭部のみを最下段のロープに引っ掛けているという妖夢のやぶれか
ぶれの突きは、いとも簡単に魔理沙の手に内から外方向へと弾かれる。そうして守りに使
っていた腕が無くなると、
「ほっ!」
「!」
 ガツン、とキャンバスに向かって突き刺すような拳が妖夢の額にまともに入る。その痛
みに、妖夢はこれでは駄目だと早々に今の態勢に見切りをつけた。
(こんなんじゃ……勝負にならない! 勝負をさせてもらえない……っ)
 自分の攻撃が機能しない姿勢のまま叩かれ続けてはジリ貧と、妖夢は仰向けになった自
分の身体を思い切って横に回転させた。ちょうど殴りかかろうとしていた魔理沙もその寝
返りに巻き込まれ、二人は並んでキャンバスに横倒しとなる。
 そこから妖夢はすぐに膝立ちになって立ち上がろうとしたが、
「おっと、逃がさないぜ!」
「った!?」
 先に半身を起こした魔理沙がキャンバス面ギリギリの高さで横に払った手が、妖夢がキ
ャンバスについた右腕を草を刈るように払って、少女の上半身をガクッと落下させた。支
えを失った上半身を背筋力で支えることもできず、妖夢は鼻からキャンバスに突っ込んで
顔をしかめる。
 そこに、横から魔理沙が覆いかぶさってきた。うつ伏せに倒れた妖夢に対し魔理沙が再
び馬乗りになって、背後から妖夢の耳の辺りを打つように横振りに左拳を放つ。妖夢はそ
れを両腕で頭を抱えることでどうにか回避するが、地震や雷に怯えて床で頭を抱える時そ
のままな自分の姿に、反撃の手段が無いと絶望的に自覚する。
 その妖夢の左右の腕の守りと後ろ首の辺りに、魔理沙の拳がゴスゴスと連続で入る。ぎ
ゅっと力を込めて頭をキャンバスに向かって押し付けているため、それは痛いだけで『脳
が揺れて効く』といった決定的なダメージにはならなかったが、後ろから殴られ続けると
いうのは妖夢にとって精神的に辛いことだった。
 『見えない』。
 左耳を庇った左腕を叩かれたと思えば、今度は右。右の次に、また右。左が入って、次
は後頭部。
 次にどこを叩かれるのかがわからない。それがわからなければ、先ほどのように魔理沙
の攻撃の合間に反撃することもできない。
(……最悪っ)
 どう戦えば良いのか。
 どうやって起き上がれば良いのか。
 妖夢には、それがまったくわからなかった。
「妖夢選手、寝転がった状態ではさすがになすすべが無いのか、完全防御態勢! 一ラウ
ンドの残り時間も一分少々といったところなので、魔理沙選手もこの好機を逃がせば自動
的に決着は次のラウンド――再び立ち上がった状態からとなりますっ。どうにかここで仕
留めたい! そして、妖夢選手はどうにかここを凌ぎたい!」
 文の放送が聞こえても、妖夢には残り一分の時間がとてつもなく長いものに思えた。魔
理沙が一秒間に二発殴れるとするなら、単純計算で残り百二十発の攻撃がその間繰り返さ
れるのだ。
 それは実に痛い。
 痛いのだが、
(ただ痛いだけだ。一発耐えられるなら、あと何発だって耐えられる!)
 どうにか自分を奮い立たせ、妖夢は自分にできる最善の道を見つけ出す。それは口惜し
いことではあったが、このままでは自分には何もできないという納得が生み出す答えだ。
(このまま耐え切って、次のラウンドで勝負をかける)
 試合を諦めるのではなく、今の反撃のみを諦めて少しでもダメージを少なくするという、
前向きな判断だ。自分にも寝技の技術が無い以上、腕力で適わない相手に腕力のみが有無
を言う状況で対抗するほど、妖夢は無謀ではない。
(ここは耐え切って、真正面から戦える状況を作る……!)
 それは痛みに耐えられるという自分の根性に対する自信が選択を可能にした、忍耐作戦
だ。
 だが、
「……あれ?」
 自分の『正論』に、妖夢は不意に引っかかるものを感じた。
 感じた瞬間、
「ぐっ!?」
 後ろから、魔理沙の左腕が妖夢の首に絡みついた。頭を抱え込んだ妖夢の腕にも構わず、
それらも全て含める形で首に対して直角に細い腕が入り込む。
 それは大雑把ではあったが、
「絞め〜! 魔理沙選手、打撃では埒が明かないと、妖夢選手の首を絞めにかかりました」
 妖夢の気管を狙った、早期決着を狙った攻めだった。そして不完全な技の入り方であっ
ても、その圧倒的な腕力差の前に妖夢の腕と首は悲鳴を上げる。
「ぐ……うぐ……」
 魔理沙の左腕は、妖夢の左腕と首を横切って、自分の胸に押し付けるように力を込めて
いる。右腕はそれを補強するように、横切った左腕と交差していた。
 そして、
「!?」
 左腕と交差した右手が、妖夢の顔を鷲掴みにする。さすがに魔理沙の手の大きさでは顔
全体というわけではなかったが、口周りに掌を押し付けられ、指先に頬や目元に刺されと
ばかりに力が込められては妖夢も笑ってはいられない。
「〜〜〜〜〜!」
 抱え込まれた左腕――その腕のおかげで生まれている、魔理沙の腕と自分の首との間の
わずかな隙間。そこに、妖夢はそこだけは自由となっている右手の先を捻り込む。手刀の
ように指をピンと伸ばし、ぎちぎちと絞め上げてくる圧迫の力に左腕で対抗しながら、ゆ
っくりと右腕を進めていく。
 絞められているところに、自ら余計な『厚み』を入れるのだ。そのことは妖夢の喉にさ
らなる痛みを与えたが、気にしてはいられない。右腕を肘の辺りまで通すことに成功し、
ちょうど両腕を首の左側に揃えた形にした妖夢は、ぐっと奥歯を噛んで気合いを入れ、
「う、あああああ!」
 全力で、魔理沙の腕を跳ね除けた。
 が。
 その跳ね除けてブンと横に振られた左腕を、魔理沙は見逃さない。逃げた魚を追うよう
に反応し、妖夢の左腕に『抱きつく』。
「な!?」
「いただき!」
 妖夢が自分の背から魔理沙の重みが消えたと思った時には、魔理沙は妖夢の腕の『下』
に潜り込んでいた。うつ伏せになって横に伸ばされた妖夢の腕――それを、仰向けになっ
た魔理沙が両手両足で抱え込む。
 妖夢の手首を両手で持ち、腕に絡みつくように両足を交差。足は妖夢の左肩を上から押
し潰す。
「しま……っ」
「裏十字固め、入りました〜!」
 手首、肘、そして肩を同時に極める関節技に、妖夢が顔を歪め、文が歓声を上げる。し
かしそこに言うのは先入観無しで試合を見ている素人の阿求だ。
「あれ? なんだかアレ、変じゃないですか?」
 そのひとこと。
 一瞬会場が「ん?」と首を傾げ、それからしばしの沈黙の後――。
 気づく。
「……仕掛け方、逆よ」
 ボソッと呟いた鈴仙の言葉と、妖夢が右手でキャンバスを押して強引に上半身を持ち上
げたのが同時だ。妖夢がうつ伏せになっている状態で、魔理沙は『妖夢の肘の内側を下』
にしたまま十字固めを仕掛けていたのだ。それでは関節は極まらず、ただ単に腕に抱きつ
いただけである。
 一回戦で橙が見せた腕ひしぎ十字固めを模倣した魔理沙だったが、それの表と裏の違い
を知らずにそのまま使用してしまった。裏から肘を極めるには、抱え込んだ妖夢の腕を横
に捻って反対側を向かせなければならなかったのだ。
「見よう見真似だから……っ」
 言いながら、妖夢は自分の肩にかかった魔理沙の足の間に、右手を差し込んだ。スカー
トの中に手を突っ込まれた魔理沙は驚いた顔をしたが、妖夢の狙いは『足の付け根』だ。
魔理沙のドロワーズの股間に自分の右拳、太腿までに自分の腕を乗せ、それを思い切り下
に引き下ろすと同時に左肘を曲げて肩を持ち上げる。
「うわ!?」
 色気の無い声を上げて、魔理沙の両足が大股開きに広がった。強引に両足を広げられ妖
夢の肩への『極め』が解除され、さらに妖夢が上半身を起こしたために、寝転がった魔理
沙の広げた両足の間に妖夢が膝立ちになった状態が完成する。
 妖夢に有利な形になった。
 会場の皆は一瞬そう思ったが、しかしそれでも妖夢の左手首は魔理沙の両手に掴まれた
ままだ。
 さらに、
「!」
 危機を逃れて一息をついた妖夢の左右で、魔理沙の両足が動いた。自分の前にいる妖夢
の腹に、下から魔理沙の足がカニバサミに絡みつく。その圧迫に妖夢が息を詰めると、
「ふっ!」
 妖夢がそうしたように、身体を横に回転させて妖夢を巻き込んでキャンバスに横倒しに
なる。
 そうして、状況は再び『二人ともキャンバスに倒れている』だ。
「魔理沙選手、そのまま下から腕を極めることもできそうでしたが……あくまで妖夢選手
に『立てそう』な姿勢を与えない! 膝立ちも阻止するその徹底ぶり!」
「ははっ! ここは、最後まで付き合ってもらうぜ!?」
「魔理沙ぁ……っ」
 力任せに自分を振り回す魔理沙に、妖夢はようやく自分が『次のラウンドに逃げる』こ
とを考えた時に感じた違和感の理由を悟った。
(私は真正面から戦える状況を作るために立ち上がらないとって思ってたけど……)
 それは妖夢の考える『真正面』でしかない。
 妖夢の『立ち技』での戦闘力を生かせる『真正面』でしかない。
(魔理沙は……攻めてきてる!)
 横倒しになった途端、また魔理沙が妖夢の左手を引き寄せようとする。それを妖夢は素
早く左手を引いて取り戻し、ゴロンと魔理沙とは反対側に転がって逃げようとした。
 その妖夢の緑のベストの腋の部分を掴み、魔理沙は逃がさない。
 逃がさないのは、妖夢を立たせないためであり、そして魔理沙が攻めるためだ。寝技で
妖夢からKOをもぎ取るために、魔理沙は首締め、裏十字と連続して仕掛けてきている。
とても褒められた技術ではない、正直下手糞な寝技であったが、それでも仕掛けてくるの
は――。
(立ち技よりも、そっちの方がずっと勝ち目があるから……よね)
 立ち技なら妖夢が圧倒的に有利。妖夢の方が圧倒的に『強い』。だから、魔理沙は彼女
が『真正面』から戦える位置に勝負の場所を移したのだ。
(私と魔理沙、お互いが下手糞な領域……!)
 魔理沙が妖夢の服を掴んだまま引っ張ると、妖夢はいとも簡単に引き戻される。仰向け
にされた彼女の上に、魔理沙が腕を自分の喉の高さで水平に構えて覆いかぶさってきた。
その腕の高さはそのまま妖夢の喉の高さでもあり、
「…………っ!」
 リングの中央、逃げ場の無い場所で、魔理沙の腕がギロチンのように妖夢の喉を押し潰
した。
 その苦しさに、妖夢は必死に魔理沙を押し退けようとするが、魔理沙の腕はビクともし
ない。
(勝負させてもらえない? 反撃の手段が無い? この状況で対抗するのは無謀?)
 これまで考えてきた全てのことが、喉への圧迫になる。息ができず、妖夢は顔を真っ赤
にして両腕に力を込める。寝転がったままどうにか右膝を立て、魔理沙の腹を下から押し
上げていく。
「ま……り……さぁ……っ」
 魔理沙は寝技に入った時に言った。
 『さあ、正面から殴り合ってやるぜ?』と。
 それは確かに妖夢の『立ち技の強さ』を封じるものではあったのだが、
(私の『寝技の強さ』は、何一つ封じていないじゃない……!)
 立場は変わったかもしれない。
 『技』が優れて立ち技で有利な妖夢。
 『力』が優れて寝技で有利な魔理沙。
 だというのに、
(『立ち技じゃないと強さの比べ合いにならない』だなんて、どうして思ったりするの)
 それではただの我侭ではないか。
 確かに『努力して身につけた技こそ強さ』と思う妖夢の本望ではないが、魔理沙の戦い
方も邪道というわけではない。
 より相手との差が縮まり、自分にも勝ち目がある戦いに妖夢を引きずり込んだだけなの
だ。
(そこまでやってきた)
 魔理沙は『勝ち』にきた。
(『何をしてでも勝つ』……奇策はその気持ちの表れ……)
 決して、『楽をして勝つ』ためではない。魔理沙が研究するのは、相手との間にある差
を失わせる方法だ。
 その証拠に、魔理沙はもう逃げない。
 自分がより有利な状況を作り、『かつて有利だった妖夢』を圧倒し、攻め立てている。
妖夢が注意しなければいけなかった奇策など、魔理沙の方が『強い』ならば使う必要など
ないのだ。
 そう、
(『強い』……っ)
 妖夢はついに認めた。寝技に引きずり込まれた時点で、お互いの強弱は入れ替わってい
た。
 ここでは、攻めるのは魔理沙であり、守るのが妖夢だ。
 そしてそういう状況で逃げ回り、奇策を使う魔理沙を軽蔑していたのが、妖夢である。
(とんでもない)
 魔理沙が腕に力を込めてくる。妖夢は血が頭に溜まって破裂しそうな錯覚を覚えながら、
両手だけではなく膝も使い、徐々に、徐々にだがその腕を引き剥がしていく。魔理沙の腕
一本よりも、妖夢の手足三本の方がやや強い。
(これが、魔理沙の受けていた苦しみか……)
 どうやって逃げたらいいのか。
 どうやってこの状況を打開すればいいのか。
 そればかりが脳裏に浮かぶ。
(その『弱気』を捻じ伏せて、戦ってきたってわけ)
 凄いことだ、と妖夢は素直に感心する。
 今自分が窮地にいるからこそ、実感として理解できる。
 『強者の視点』ではわからない、素のままでは相手に適わない立場だからこその勇気。
 ならば、と妖夢は思う。
「私も、それを乗り越える……!」
「お!?」
 魔理沙の腹に当てた膝――その膝を一気に伸ばしながら、押し退けた魔理沙の両肩を自
分の頭方向へとスライドさせる。巴投げの失敗作のようなその投げならぬ『ズラし』技に、
魔理沙が顔面からキャンバスに突っ込んだ。
「だ……っ」
「はぁ……は……こ、来い、魔法使い!」
 無様でもいい。
 残り時間を全力で『真正面』から戦い抜いてみせると妖夢は決意した。

              ※ ※ ※

「残り一分! 妖夢選手、腹をくくったのか魔理沙選手を挑発。魔理沙選手もそれに応じ
て再び攻め始めます!」
「正面からやり合うつもりか? あの誇り高さは見事だが、無謀だ」
「無謀結構! あえて不利を受け入れた妖夢選手! これで勝負はどちらが勝つかわから
なくなりました。力で上回る魔理沙選手ですが、寝技の技量はどうやら皆無。お互いにダ
メージも深く、妖夢選手にも充分にチャンスはあります!」
 顔を打ってさすがに動きを止めた魔理沙の上に妖夢が馬乗りになり、彼女は刀の柄で相
手を殴る時のように、小指側を下にした拳槌を魔理沙に叩き込む。
 しかし、魔理沙が背を反らしてブリッジすると、軽い妖夢の身体は簡単に持ち上がる。
魔理沙の上でバランスを崩し、必殺の拳も威力を半減させて魔理沙の顔を掠めただけだ。
 そうして、魔理沙はブリッジによって自分の胸の辺りに妖夢が座るように位置調整する
と、今度は両足を持ち上げて、反動をつけて振り下ろした。すると、起き上がり小法師の
ように魔理沙が『座った』状態になる。あっさりと上に乗った状態を跳ね返された妖夢は
逆に後ろに転がり、逆立ちを失敗したような姿でキャンバスに後頭部と肩をつけた。
 それを見て、辛口の評価をつけていた慧音がさらに渋い顔になる。
「二人の体重はほとんど同じはずだが……まるで巨漢と子供だ。勝負にならない」
「どちらにしろ残り一分! 勝負はここで決まるのか、それとも妖夢選手が有利な立ち技
で第二ラウンド開始か、その答えが出るのは、すぐです!」
 文が放送席の隅に置いてある砂時計に視線を向けると、その中身はすでに残り五分の一
を過ぎていた。
 そして、妖夢の『真正面』に顔をしかめるのは慧音だけではない。妖夢側の青コーナー
のリングサイドに座る面々も、あちゃ〜と額を押さえる者が大半だ。
「どういう試合だ、これは」
 と呟くのは、藍だった。
 勝負を寝技に持ち込んだ魔理沙の『紫のマネ』も普通ではなかったが、不利を承知で戦
おうという妖夢の『間違った判断』も普通ではないと彼女は思う。
「愚策だ」
 それにうなずいて、妖夢とは顔なじみの騒霊三姉妹の長女も言う。
「相手のペースに乗るのは……良くない」
「そーそー。何考えてるんだか」
 姉のルナサのテンションの低い言葉に相づちを打つのは三女のリリカで、彼女はしっか
りと妖夢の勝利に賭けた青い札を手にしている。
 応援している以上は勝ってもらいたいのにさ、と言う彼女は、隣に座る次女のメルラン
にも同意を求めて振り向いた。
「メルラン姉さんも、そう思うよね?」
「ん〜? そうね〜」
 しかし、メルランはリリカを見てはいなかった。その目はまるで子供のようにキラキラ
と輝き、頬を桃色に染めてリングの上の愚かと言われた戦いを見つめている。
 そうして言うのは、
「とってもHighだわ♪」
 そのひとことだ。
 それは一つのきっかけだった。
 騒霊の中でメルランだけがそう言ったように、藍の隣では橙がその身をムズムズさせ、
ついには立ち上がる。
「橙!?」
「妖夢、がんばれ〜!」
 応援。
 いきなり席を立った自らの式に藍がぎょっとしていると、橙の叫びが会場内に響き渡る。
さらに、
「勝負勝負! 魔理沙、あたいあんたに賭けてるんだからね!」
 赤コーナー側からチルノの声が青コーナーにまで貫いてくる。それに呼応するように、
赤コーナー、青コーナーから一斉に妖怪、妖精たちの声が上がり出す。
「乗っかってて! 首、首、首狙えばKOできるってば!」
「魔法使い下手だよっ。隙つける隙つける!」
「妖夢もう弱ってるから、そのまま押し込んで! パンチでも終わるよ!」
「腕一本関節取れればパワー差関係ないわよ! 止まらないでまず魔法使いを転がして!」
 応援とアドバイスが入り乱れ、それぞれが混ざり合って大音声になってリングの上に飛
び込んだ。少女たちの声は甲高く、疲れきった魔理沙と妖夢の耳にも良く届く。
 その声に押され、魔理沙が馬乗りから右手を妖夢の首に伸ばす。
 その声に押され、妖夢が自分の首にかかった魔理沙の腕を『外側から自分の腕を回して』、
まるでクロスカウンターのように腕を交差させてその肘関節を極める。
 魔理沙が肘を折り曲げて腕力でそれを外す。
 揉み合う。
 絡み合う。
 押し合う。
 二人の動きがさらに早くなり、その回数が増していく。
「な、なに?」
 その盛り上がりに驚くのは、妖夢の行動に否定的だった藍たちだ。彼女たちは戸惑った
表情で周りを見ていた。
 そんな彼女たちを横目で見遣り、少し意地悪げに紫は言うのだった。
「結局、盛り上がるのに必要なのは高度な技量じゃなくて『互角の戦い』ってことね。藍、
少し歳を取り過ぎじゃないかしら?」
「……紫様に言われたくはありません」
 魔理沙と妖夢。
 稚拙で、だけれど技と力が噛み合った、白熱した戦い。
 それを素直に楽しめる若い妖怪たちの声の中、藍は憮然として肩をすくめるのだった。
 そうして歓声は会場を埋め尽くし、二人の健闘を讃え、


 一本の笏が天を突いた時、その流れは終了した。


「……決まりましたね」
 文がボソリと呟いた。自分の仕事を果たすため、右手を振り上げる。
 つまり――。
 カ〜ン、と一ラウンド終了の鐘を天狗は鳴らし響かせたのである。


              ※ ※ ※


 鐘の音が鳴り響いた瞬間、二人の少女たちはお互いに膝立ちになり、向かい合ってそれ
ぞれの襟首を掴んでいた。魔理沙は妖夢を引き込もうと、妖夢はそれに対抗しようと。
 その姿勢で固まった二人は、身に染み入るような音が通り過ぎると、顔を見合わせてか
ら手を放し、その場にトスンと尻餅をついた。
「はぁ……はぁ……」
「ふぅ……ふぅ……あ〜、疲れたぁ〜」
 二つの荒い息が交互につかれ、魔理沙がため息をついてその場に大の字になる。それを
見ながら、妖夢は身に満ちる達成感に自らも全身の力を抜いた。
(凌ぎきった……!)
 魔理沙に有利な領域で、妖夢はその戦いを乗り越えた。
 真正面から正々堂々、魔理沙が奇策の果てに築き上げた『互角』の戦いを引き分けた。
結果は引き分けであっても、それは妖夢にとって勝ったも同然の、とても意味のある『引
き分け』だ。
(寝技で負けなかった……あとは)
 同じように疲労した身体での、立ち技での決着しかない。そして、殴り合いは妖夢の領
域だ。
(今度は、私の『強さ』を発揮させてもらう番)
 しかし、そうは思いつつも、妖夢は魔理沙に立ち技のみでロープ際まで追い込まれたこ
とも忘れてはいない。
 あくまで『互角』だ。魔理沙が『二刀流』や腕刀の弱点を熟知している以上、有利では
あっても一方的な勝負にはならないだろうと妖夢は自覚している。
(全力で……勝つわ!)
 それが寝技で全力を尽くした魔理沙に対する返礼だと、妖夢は力の入らない拳を握って、
一分間の休みのために青コーナーへ戻ろうと、立ち上がろうとした。

 ――が。

 妖夢は、立つことができなかった。
「あ、あれ……」
 力に勝る魔理沙相手に一分間揉み合った妖夢は身体の芯まで疲れきっており、その手足
はマラソンを完走した走者のように重く、それ以上動くことを拒んでいた。
(疲れた……)
 というのが妖夢の一番の感想であったが、そうも言ってはいられない。震える手で無理
矢理身体を押し上げ、どうにか足の裏をキャンバスにつける。
 そうして、一度深呼吸。
「ふぐ……っ」
 歯を食いしばり、妖夢は自らの膝を伸ばし、立ち上がった。
 立ち上がれた。
(よし)
 と彼女は満足する。
 満足したその目の前で、
「よっと」
「へ?」
 魔理沙がごくごく普通に立ち上がったことに、妖夢の目は点になった。

              ※ ※ ※

「あははっ。あ〜、これは参考になるなる。凄いわ、魔法使い!」
 リングの上の妖夢の間抜けな顔を見た瞬間、ついに耐え切れなくなって一羽の兎が大爆
笑した。
「て、てゐ?」
 隣にいた鈴仙が目をパチパチとさせて驚いていると、その師匠である永琳も今気づいた
のか、クスクスとおかしそうに笑って「なるほど」と肩を震わせる。
「詐欺師……というのは、業が深い職業ね」
「はい?」
 一人だけわかっていない鈴仙が首を傾げると、永琳はクイクイとその兎――因幡てゐを
指差してそちらに訊けと促した。
「てゐ。あなたは最初から気付いていたんでしょう?」
「え、そうなの?」
「ま〜そうなんですけど、言ったら面白くないかなって……あはは! 魔法使いは、寝技
で決着つける気なんてなかったのよ。だって、下手だもん。あれで勝てるだなんて、さす
がに思わないでしょ」
 ついにてゐは目尻に涙まで浮かべてそれを拭う。
 てゐはおかしくて仕方なかった。
 皆が盛り上がれば盛り上がるほど。
 妖夢が真面目に挑めば挑むほど。
「タネがわかってると、おかしくてたまらないわ。ロープまで追い込んで、明らかに試合
は自分の勝ちの『流れ』なのに、わざわざ寝技でしょ? あれを見たら、すぐにわかった
わ。あ〜、慎重なんだなって」
「慎重?」
「うん。だって、足が動かないでも手が動く相手なら反撃されるでしょ? それなら、手
も動かないようにしたら安全だもの」
「え? いや、まあ、そうだけど……そこまでする、普通?」
 スラスラと解説してくれるてゐに、鈴仙はリングの上の魔理沙に視線を戻して首を傾げ
る。
 もし自分なら、と。
「私なら、多少危険があっても、あそこは突っ込んだけど」
「それは普通に殴り合っても負けない人の台詞。魔法使いは『当てれば勝ち』の状況でも、
上手くいなされて反撃される可能性が充分にあったし。私でもああする」
「は〜」
 ようやく鈴仙にも魔理沙の寝技の意図がわかった。それは要するに、残り一分少々だっ
た時間の全てを寝技に費やし、妖夢の体力を完全にゼロにすることだったのだ。
 お互いに寝技の技量に拙い場合、当然見よう見真似で揉み合う状況が多くなる。のしか
かり、それを返す、それだけで体力は消耗するものだが、力で劣る妖夢はその作業に常に
魔理沙の倍以上の労力を必要とする。
 対して、魔理沙は『妖夢にとってはきついが、自分にとってはほどほど』の力で寝技を
続け、
「むしろ、回復したってわけね」
 寝技に入る前は揺れていた魔理沙の膝が今は真っ直ぐに伸びている。しっかり一分間の
間足を休めた魔理沙と、魔理沙を引き剥がすことで体力を失った妖夢。
 てゐが笑い、鈴仙が戦慄するその魔理沙の『奇策』――その細かい部分を、最後に永琳
が補足する。
「途中何度か相手の口を押さようとしていたけど、あれを思い出すと確かにKOを狙って
いたとは思えないわね。呼吸をさせないで、消耗を狙っていたのがわかるわ」
 お見事、と永琳は魔理沙も妖夢もどちらも応援していない中立の永遠亭という立場から
賞賛を送る。
 まさに――。
「これぞ、スーパーマリサワールドね」

              ※ ※ ※

(全部……全部嘘かああああああああああああああああ!)
 赤コーナーに戻る魔理沙を見送り、それを悟った瞬間、妖夢は目の前が真っ暗になった。
足元がふらつき、傾いた身体を近くにあったロープを掴むことでどうにか支える。
(や……)
 やられた、というのが妖夢の正直な感想だ。『立ち技』の要となる拳に力が入らない。
ついに妖夢は、自分が頼るべき『修行で身につけた力』までも封じられた。
 お互いに苦しいという思いがあるからどうにか立ち上がることができた身体の重さが、
『自分だけ苦しい』という自覚になった途端に倍以上の重さになり、彼女をキャンバスへ
と引きずりこもうとする。
「ぐ……」
 それを、妖夢は奥歯に、そして瞼にまで力を入れることで拒否した。すがるようにして
ロープに抱きつき、その弾力に身を任せながら、妖夢は呻く。
「つ……『強い』……」
 魔理沙の『奇策』。それを卑怯と軽蔑する気持ちはもはや妖夢にはなかった。しかし、
その強さは寝技の際に認めた『強い』とは意味合いが違う。妖夢が不得手な寝技で相対的
に強いと感じることと、試合全体を振り返り純粋に戦闘力として『強い』と評価するので
は、妖夢にとっての深刻さが違いすぎる。
(結局、私が上回っていたものは、何もなかったってわけ……っ)
 頼みの綱の『立ち技』ですら、もはやまともには対抗できない。それはつまり、試合を
通して『魔理沙が立ち技で上回った』ということだ。
 信じていた『身につけた強さ』を完全に凌駕され、妖夢は試合開始時には見つけること
ができなかった魔理沙の『強さ』がどういうものであるかを身をもって理解した。
(浮ついたその場限りの思いつきにやられたんじゃない。奇策は、私で言う拳みたいなも
のでしかない)
 それは奇策を生み出す魔理沙の観察眼、発想力、何より――。
(『創造力』!)
 格闘ごっこという自分の不慣れな分野との溝を埋めるために、魔理沙は様々なものを取
り込み、融合させ、そうして妖夢の想像を上回る『戦い』を創造してみせた。
 既存のものを組み合わせただけではそうはならない。
 この大会で見聞きしたもの、自身の弾幕ごっこの経験、それに分析した妖夢の弱点、さ
らにはその場の状況――臨機応変に『融合』させたからこそ、それは『強さ』というもの
にまで昇華されたのだ。
(お見事……)
 そう言うしかない。
 自分の悔しさと引き換えの賞賛を、妖夢は魔理沙へと送った。
 と。
「魂魄妖夢。コーナーへ戻りなさい」
「は、はい」
 そうした思いを噛み締めていると、映姫に促されて妖夢はロープを伝って青コーナーへ
と歩んでいった。
 しかし、足がもつれないように一歩一歩ゆっくりと歩むその足取りは重い。青コーナー
で待っている自分のセコンド――幽々子にどういう顔を見せれば良いのか、彼女にはわか
らなかった。
 彼女は試合前の自分の大言を思い出す。
 『幽々子様の試合の前に、私が勝って弾みをつけますから』。
 『師匠の名に懸けて』。
 そう言っておきながら、結果はどうなのか。
(負けてるのは、私の方じゃない……!)
 悔しさと、情けなさ、恥ずかしさ、それらが胸から溢れ、顔の表皮に集まってボッと火
が点いたように熱くなった。その熱は重みを持ち、妖夢の頭を引きずり下ろし、足元を見
つめさせる。
 一歩。
 また一歩。
 見つめた足元がコツンと青いコーナーポストに触れた時、
 正面にいるだろう幽々子に向かって、妖夢は口を開いた。
 ――その口が「無様な試合をお見せしました」と言葉を紡ぐよりも前に、それは妖夢の
耳に届く。
「妖夢は本当に駄目ねぇ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 見えない場所から届いた手痛いどころではない直接的な言葉に、妖夢は親に拳骨を振り
上げられた子供のようにビクッと肩を震わせた。
 が。
 妖夢のうなだれた頭、そのつむじにツンと押し当てられたのは、硬く無粋な拳骨ではな
く繊細で優雅な扇の先端であった。最初にツン、もう一度ツン、さらにもう一回ツン、と
それは妖夢に顔を上げるように催促し、
 それでも妖夢が顔を上げないでいると、おもむろに場所を移して、下からすくい上げる
ようにして妖夢の顎をパシンと打った。
「痛っ。ゆ――」
 さすがにそれには顔を上げざるを得なかった妖夢の言葉が止まる。その唇には寸前まで
自分を叩いていた扇が添えられ、それ以上の発言を封じられてしまっていた。
 そして、妖夢は幽々子と向かい合うことになる。コーナーポストを挟んでセコンドスペ
ースに立っている幽々子の顔を見た妖夢は、予想に反して怒っていない主の様子にホッと
胸を撫で下ろしかけたが、
「ずいぶんやられたわねぇ」
 やはり容赦無く言われて大いにへこんだ。その妖夢の一喜一憂に、幽々子はクスクスと
おかしそうに笑い、続ける。
「黒い魔を斬ってみた感想はどう?」
「…………」
 質問に、妖夢は即座に応えることができなかった。堂々と奇策を無視して戦うと宣言し
た手前、やっぱり奇策を無視はできませんでした、ではあまりに情けない。
 が。
「ひゅよいれす」
「食べてる食べてる」
「……『強い』、です。正直、私が思っていたよりずっと強かったです」
 しばし考えて、やはり妖夢は正直に自分が思ったままを幽々子に告げることにした。そ
のことで無様となじられるのも仕方ないと覚悟する。悔しいが、すでに妖夢の心は魔理沙
を自分と同等か格上の相手と認めてしまっている。
 そんな妖夢の告白に、だが幽々子は彼女を蔑むことはなかった。指の代わりにくわえら
れてしまった扇を取り戻しながら、目を細めてうなずいて言う。
「なら、ここまでにしましょう。それ以上怪我をしてもつまらないし」
「ゆ……!」
 あっさり言って幽々子が取り出した手拭いに、妖夢は反射的に手を伸ばしていた。持ち
上げようとした手をパチンと叩いた妖夢の小さな手に、幽々子は静かな口調で確認する。
「妖夢、この手は何かしら?」
「え? あ……」
 そこで、妖夢は自分が何をしたか気がついた。慌てて幽々子の手から自分の手を退ける
と、再び手拭いが妖夢の顔の高さまで持ち上がり、
「妖夢?」
「あ、その……」
 またしても、妖夢は幽々子の手を掴み取っていた。そうなってはさすがに妖夢も無言で
手を放すわけにはいかず、自分の行動に対する適切な説明を探した。そして、それはすぐ
に見つかる。妖夢にとっては一番の『終わりを拒む』理由だ。
「まだ、私は魔理沙を倒していませんし――」
 試合開始直前、幽々子に命じてもらったこと。
 黒い魔――霧雨魔理沙を倒すこと。幽々子の試合の前に、景気づけとして勝利すること。
 口に出し、そうだと妖夢は思い出した。
(……私にだって、勝たなくちゃいけない理由はある……のに)
 奇策に陥り、屈辱に弱気になっている自分に、妖夢は唇を噛む。
 幽々子を見る。
 幽々子は手拭いを持つ手に力を込めることなく、妖夢がそれを押さえるままにしていた。
妖夢の意志を無視せず、彼女が答えを口にするのを待っている。
 だから。
「――このままじゃ……終われません……っ」
 萎えかけていた気持ちから戦意を搾り出すようにして、妖夢は言っていた。
 それを聞いた幽々子は、しかし切り返す。
「気にすることないわよぉ? あなたはしっかり彼女を斬って、手の内を全部見せてくれ
たんだから」
 前座としての役目は完璧よ、と幽々子は言うのだ。だが、妖夢の試合前の『理由』を奪
うようなその言葉にも妖夢は怯まない。
「私が、嫌なんですっ」
 思い切り、妖夢はそう叫んでいた。それはいつも笑顔の幽々子が目を丸くしてしまうよ
うな大声で、だけれど妖夢は『それ以上の理由』があるからこそ、幽々子の棄権という提
案を受け入れられなかった。
「だって……」
 魔理沙にやられて。
 魔理沙に負けて。
「このままじゃ……っ」
 魔理沙に試合を支配され、何も結果を残せずに終わってしまう。
 妖夢の脳裏には、一回戦でルーミアにKOされた時のことが浮かんでいた。ルーミア相
手に油断し、何もできなかった妖夢の敗北。あの時の、扇の裏に顔を隠して辛辣な言葉を
投げつけてきた幽々子の姿。
 『妖夢に心底呆れた幽々子』の姿。
 それを前にして味わった絶望感を、妖夢は忘れていない。身の置き場が無くなり、捨て
られた犬のように途方に暮れた思いを忘れていない。
(あれをまた味わうのなんて、そんなの……っ)
 ――嫌だ。
 幽々子に見捨てられる以上に妖夢に怖いことなど、この世には存在しない。
(そうだ……っ)
 それがある限り、絶対に負けられない。幽々子の命を果たせない以上に、自分があのよ
うな感情を味わいたくはないが故に、終われない。
(戦いもしないで棄権負けだなんて、そんなのありえない!)
 それは『情けない戦いで負けた後に待つもの』を見た経験があるからこそ出た、妖夢の
本音だ。
 その本音は、
「幽々子様に格好悪いところ見られたまま終われませんっ」
 目尻に涙を溜めて言ったその言葉に結晶した。


 それで、幽々子は満足した。


「んふふ〜。あらぁ、私は妖夢が自分からやりたいって言う分には止めないわよぉ?」
「……はい?」
 不意に手拭いを持った手を下ろして意地悪に微笑んだ幽々子に、妖夢はポカンと口を開
けたまま静止した。その目の端から昂ぶった感情の証がポロリと一つ零れ落ちると、幽々
子は扇をバッと広げて自分の顔全てを覆って隠れてしまう。
「妖夢は本当に駄目ねぇ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 その幽々子の『からかい完了』の言葉に、妖夢は頭を抱えてその場にうずくまった。

              ※ ※ ※

 一方、
「とんでもないことするわね、あんた」
 赤コーナーに戻った魔理沙を迎えたのは、セコンドの霊夢の呆れ顔だった。霊夢だけで
はない。リングの下では頭痛を堪えるように額を押さえたアリスと、やはり同じように呆
れた様子の霖之助もいる。
 そのような面々に、魔理沙はふふんと平らな胸を張って言ってみせた。
「格闘ごっこも、なかなかいけるぜ?」
 と。
 そこに突っ込むのは、アリスだった。
「被弾覚悟の前進、極めるつもりのない寝技――信じられないわよ」
 前者は魔法使いの常識として、後者は人としての発想として。
 同時に、霖之助がリングの上の魔理沙にタオルを持った手を伸ばす。すっかり霊夢が持
っているとばかり思っていたので魔理沙が不思議そうに受け取ると、それは冷たい水に浸
した濡れタオルだ。
「なんだ、香霖のわりに気が利くな」
「別に押し付けるつもりはないんだが?」
「残念だが、返さないぜ」
 ありがたく、魔理沙はそのタオルに顔を押し付けた。動き回って火照った顔の熱がひん
やりとしたタオルと熱交換し、癒されていく。
「はぁ〜」
 極楽極楽、と頬を緩め、
「魔理沙」
「……あ?」
 一瞬意識を失っていた魔理沙は、霊夢の声にタオルから顔を上げた。気がつけば、傾い
でいた身体を霊夢の手が肩を押さえて止めていてくれている。
(やば……っ)
 と魔理沙が焦った時には、霊夢は魔理沙の手からタオルを引き抜いていた。そして彼女
がタオルをリングに向かって投げようとするのを、魔理沙は慌てて霊夢の手首を掴んで止
める。
「っと、待った待った! 起きてる、起きてるってば!」
「ん〜?」
 必死に言う魔理沙を、霊夢は疑わしそうにジト目で見る。その何でも見透かしそうな黒
い瞳に、魔理沙は自分が抱えた疲労とダメージは隠し切れないだろうと半分諦めていた。
 なので、
「あ〜……元気だぜ?」
 控えめに、そう言った。
 実際、魔理沙は体力の限界などとうの昔に越えていた。試合中にも考えていたことだが、
妖夢に腹を踏まれた時点でそう簡単には消えないダメージが刻まれているのだ。そのダメ
ージは、たかが一分少々寝技で休んだからといって回復するものではない。
「よ〜するに、やせ我慢なわけね」
 体力を使い果たした妖夢により心理的圧力をかけるために、魔理沙は自分の体力が完全
に回復したフリをして赤コーナーに戻ってきていた。
 その辺りを察した霊夢は、呆れの色をさらに濃くする。根性論者なら感心もしてやると
ころだが、残念ながら霊夢は努力否定派である。
「あんたねぇ……身体壊すわよ? この辺りでやめておきなさい」
「なんだよ。霊夢だってダウンしても続けただろ? 私だって決着がつくまではやるぜ?」
「あ〜もう……霖之助さん、霖之助さんだって、止めるわよね?」
 タオルを持った霊夢に魔理沙が食い下がると、霊夢はついに処置なしとばかりに霖之助
に話を振った。変人ではあるが武闘派ではない彼ならば魔理沙を止めると思ったのだが、
その返答は霊夢の予想外のものであった。
「僕はやってもいいと思うよ」
「な!?」
「お〜!」
 サラリとした霖之助の言葉に、霊夢が眉根を寄せ、魔理沙が顔を明るくする。霊夢が頬
を膨らませて睨みつけると、霖之助は苦笑いして言った。
「ここで魔理沙を止めても、後々愚痴を言われるだけだよ。それなら、思い切りやらせて
やった方が後腐れがなくていい。タオルは霊夢が持っていて、もし魔理沙が少しでも危な
いと思ったらすぐに投げ込んでいいってことで、どうだい?」
「……そうね。魔理沙に愚痴られるのは嫌だし、霖之助さんがそう言うなら、それでいい
わ」
「酷いぜ……」
 結局自分の身体よりも愚痴の心配をされ、魔理沙は一瞬前に歓声を上げた顔を今度はぶ
すっとしたものに変えて霖之助に向かって唇を尖らせる。そのような魔理沙の不満に対し
て、霖之助はやれやれと肩をすくめるばかりだ。
(恩を売っているつもりなんだがなぁ)
 希望を叶えてやって睨まれるとは、損な役回りだとため息をつく。
 ともあれ。
「なら、一発も喰らわないで、簡単に仕留めてくればいいってことだな」
 改めて、魔理沙はそう言ってクルリと青コーナーへと振り返った。向かい側では、妖夢
が幽々子に扇で突かれて弄ばれている。
(あれなら、復活してくるか)
 幽々子が関わった際の妖夢の粘り強さを、魔理沙は彼女たちが起こした異変を通して知
っている。だが、魔理沙のここまでの『奇策』はその妖夢の短時間での精神的復活も織り
込み済みだ。
(最後の一手……使うぜ)


 第二ラウンドの開始を告げる文の声が会場に響いたのは、その瞬間だった。


「じゃ、行ってくるぜ」
 放送に促され、魔理沙は赤コーナーの三角地帯を出発――しようとして、「そうそう」
と懐に手を差し入れて小さな袋を取り出した。
 それは試合開始直前に霖之助から渡された使い捨ての懐炉だ。すっかり身体が温まった
今、それは無用の長物である。魔理沙はそれをどうしようかとしばし考え、
「霊夢、持っててくれ」
「預かってればいいの?」
「ああ。後で返してもらうぜ。また次の試合で使うからな」
 黒白の魔法使いが投げたその小袋を、紅白の巫女は受け止めた。

              ※ ※ ※

「ほらほら妖夢、呼んでるわよ」
「うう……聞こえてます」
 最終的に幽々子にとどめを刺されて座り込んでいた妖夢は、文の声と幽々子の声に二重
に急かされる形で立ち上がった。
 そうして妖夢の中で緊張の糸が解れているタイミングを見計らって、幽々子は言う。
「妖夢」
「?」
 呼ばれ、妖夢は扇で隠された幽々子の顔を見上げた。視線を遮断する扇は一回戦の敗北
の時と同じで、幽々子の柔和な顔に足りない『硬質さ』を演出する道具としてそこにある。
 その裏で、彼女はどのような顔をしているのか。
(笑ってる……のかな?)
 一瞬前にからかわれたばかりの妖夢はそう憮然と考えていたのだが、彼女は幽々子の次
の言葉で目を丸くした。
「がんばってきてね」
 と。
 その、当たり前のように気軽に言われた言葉は、砂漠にバケツの水を撒くよりもすみや
かに妖夢の耳にから身体に染み渡り――。
「……はい。お任せください、幽々子様っ」
 少女の拳に、力を取り戻させた。
 単純かもしれない。
 わかりやすすぎるかもしれない。
 しかしそれでも、奮い立つものというのはあるのだ。
(負けは……無い!)
 幽々子から与えられた汚名返上の機会に、妖夢は躊躇い無く『最後の手段』を使うつも
りで対戦相手へと振り返るのだった。


              ※ ※ ※


「両選手、リング中央へお願いします!」
 文の放送が魔理沙と妖夢を促すと、しかしリングの中央へと進み出てきたのは黒白の魔
法使いだけであった。白玉楼の庭師は、重い身体に閉口して青コーナーのポストに自らの
背を預けて動かない。
「……なるほど」
 文はそれで妖夢の意図を理解し、映姫に目配せで問題無しの合図を送った。それを確認
し、映姫が笏を掲げて宣言する。
「第二ラウンド、始め!」
「さあ、始まりました、第二ラウンド! 残り五分の試合時間ですが、見る限りお互いの
体力は共にあとわずか。今のところ魔理沙選手の方が余裕がありますが、その差は微々た
るものでしかありません! 五分を待たずにKO決着の期待は大です!」
 開始と同時に文の煽り放送が会場に響き渡り、観客たちが座った席からぐっと身を前に
乗り出した。
 その自分が望んだ通りの誤解放送に、魔理沙は顔を引きつらせながら小さく一歩を踏み
出す。それが青コーナーで待つ妖夢への最初の一歩であり、魔理沙がバランスを崩さない
で進むことができる大苦労の一歩だ。
(きつ〜!)
 本当は、魔理沙もまた妖夢のようにコーナーポストに寄りかかって『待ち』に徹したい
ところだった。だが、妖夢に対して『魔理沙は体力を回復させている』と思い込ませてい
る以上、魔理沙が身体を重そうにしている姿を見せるわけにはいかない。
「出てこないなら、こっちから行くぜ?」
 余裕の口振りで言い、魔理沙はすり足でじわりじわりと妖夢との距離を詰め始めた。
 妖夢の武器は、打ち負けない連打による前進の圧力と、その俊足による追撃の速さだ。
妖夢が前進に回った場合、魔理沙にはもはやそれを捌く力は残されていない。
(さて、あちらはどこまで回復した?)
 残り五歩。
 未だ棒立ちの妖夢の様子を観察しながら、魔理沙は最後の仕掛けのタイミングを計って
両腕を頭へと寄せた。額の前で×の字を作るように腕を交差させ、その部分を強調するよ
うに上半身を傾けて前のめり。両足は歩幅が狭く、膝をやや深めに曲げた不恰好な構えだ。
 それを見て、文は思わず口笛を吹きそうになりながら言う。
「魔理沙選手、勝負に来ました! 両腕で前面からの攻撃を完全に遮断っ。狭い歩幅はダ
ッシュの予兆! 低い姿勢で妖夢選手に突貫か!? 今度こそ、小細工は無いでしょう!」
「最後がここまで一方的になるとは意外だったが……妖夢の方もこの状況で引かないとい
うことは、何かしらの対策を用意しているということだろう。位置的にも、不用意に飛び
込めば、一ラウンドの妖夢の二の舞だ」
「確かにそっくりですね」
 慧音の分析に、阿求もまたうなずいた。通常の打撃勝負で劣る側がコーナーポストに追
い込まれ、もう一人が仕留めるために間合いを詰めている状況は、一ラウンドで魔理沙が
妖夢に逆転した場面そっくりだ。
 そっくりなので、そこで有効な作戦が何であるかは阿求にもすぐにわかった。
「カウンターですね」
「カウンターね」
 違う場所で阿求と同時に言ったのは紫だ。紫は短い時間で戦意を取り戻し、深呼吸を繰
り返して魔理沙を待ち構える妖夢の姿に、彼女自身よりもむしろその後ろに控えている幽
幽子に向かって賛辞を送る。
「スーパーユユコワールド、見せてもらったわ」
「さすがに幽々子様は妖夢の扱いが上手い……とは思いますけど、さすがにアレは分が悪
いですよ。確かにカウンターなら今の体力でも相手を落とせるかもしれませんけど、その
くらいあの黒いのだってわかっています」
 警戒されていますよ、と藍は付け加えた。
 さらに、
「状況が同じ……というのは語弊があるわね」
 別のリングサイドでは、永琳が弟子の兎たちに語っていた。
「大技でカウンターを入れなければいけなかった一ラウンドに対して、今回はもう何でも
いいわ。『二刀流』の片方だけでもまともに入れば、『流れ』はまた変わる。インターバ
ルで気力を取り戻したのは大きかったわね」
「なら、やっぱりカウンター狙いですか?」
「でしょうね。一番有効なのは、速度重視の打撃――あの子の得意分野ね」
 そうした様々な状況予測の中、妖夢はコーナーポストを背骨とするような直立の状態で、
少しずつ迫る魔理沙との距離を測っていた。
(あと四歩半……)
 一分間のインターバルを挟んでも、妖夢の体力が回復することはなかった。幽々子との
やり取りは、気力こそ回復させたが、体力についてはより削られたような実感すらある。
 が。
(気力があれば、身体は動かせる!)
 幽々子からの失望への恐怖。
 幽々子からの期待への喜び。
 その二つは、失われた体力を補うに充分な力を妖夢に与えてくれていた。
 体力があっても、気力がなければ身体はまともには動かない。重い身体を引きずり、反
撃の準備も整わなかっただろう。しかし、気力があれば、ゆっくりとなら身体を動かすこ
とはできる。疲労もあったしダメージも深かったが、別段骨が折れているとかそういうこ
とはないのだ。
 燃料は無いが機能はまだ生きているのであれば、正規の燃料以外の代用品――気力で埋
めてやれば良い。
 気力で動かすのは、素手の戦いでの『刀』と信じる自らの拳。
(――カウンターだ)
 大方の予想通り、妖夢はその一撃に全てを託すつもりだった。永琳の考えるような『一
発当て試合を立て直す』体力すら、妖夢には無い。最初の一交差で倒す以外に自分には勝
利が無いと理解しての、背水の陣だ。
「ふ〜……」
 呼吸を整え、妖夢は魔理沙が残り四歩の距離にまで爪先を進めたところで、ようやく自
分も迎撃の構えをとる。右足を前に出し、両腕を頭上に構える大上段。
「妖夢選手も、ここで構え! 最後に使うのはやはり上段打ちっ。魔理沙選手にとっては、
この技をどうくぐり抜けるかが常にこの試合での課題でした。ゆっくりと間合いに入れば
その打ち込みの餌食です!」
「前のラウンドと同じ戦法で充分だ。内側に入れば、もう一撃で妖夢は落ちる」
 放送席からの声が聞こえ、妖夢は確かにと同意する。迎撃、攻撃共に優れた腕刀での上
段打ちだが、その攻略法はすでに魔理沙によって確立されている。
 そのため、勝負の決め手になるのは一つの要素だ。
(問題は、魔理沙がどこまで回復しているか……か)
 妖夢は魔理沙が普通に立って歩けるくらいにまで回復しているのをその目で見た。果た
して、その回復は『妖夢の振り下ろしに対抗できる』くらいの踏み込みを可能とする段階
なのかどうか。それがカウンターの成否を分ける。
 しかも、魔理沙が腕刀をくぐり抜けたのは、妖夢に対するカウンターからの一連という
『前へ出る勢い』に乗った時だけだ。妖夢が『待ち』に徹する以上、その際に必要な踏み
込み速度は最低でも一ラウンド以上のものが必要となる。
 それだけの課題――『攻略が必要な条件』を突きつけるのが、妖夢が身につけた『技』
だ。
 故に、
(充分カウンターは可能のはず)
 勝算はあった。
 否。
(絶対にできる!)
 動けない自分という状況を打破し、勝利する。
 魔理沙がこの試合実践し続けた『状況の打破』――それに、妖夢も挑戦する。
(私にも……ようやくわかってきた)
 試合開始時、素手での戦闘力では妖夢が圧倒的に有利だった。しかし、試合が進むにつ
れその差は縮まり、今ではお互いの立場が逆転して第二ラウンドへと突入している。
 妖夢八、魔理沙二。
 妖夢六、魔理沙四。
 妖夢二、魔理沙八。
 入れ代わった力関係。それの意味することは一つ、『戦闘力は変動する』ということだ。
それは疲労もあるだろうし、精神的重圧もあるだろう。力を発揮できなければ、戦闘力な
ど試合の決定打にはならない。
 つまり、
(勘違いしてた。試合っていうのは『戦闘力』を比べる場所じゃなかったのね)
 狭いリングの上、時間制限つき、ダウンなどのルール有りの『格闘ごっこ』。
 ただ単に戦闘力だけで良いのであれば、最初にダウンを奪った際に妖夢が連撃を加えて
おしまいだ。それを不可能にするのが、ダウンのひとことである。元来『追撃で押し込む』
戦い方をする妖夢にとって、窮屈なルールだ。
 では、何故そのような窮屈な決まりごとを作るのか。
 戦闘力のある方を決めるだけならば、そのような決まりごとは必要ない。そもそも、妖
術を封じられている時点で、妖怪たちにとってそれは『実際の全力』にはまったく及ばな
いお遊戯のようなものだ。
 もちろん、お遊戯とは言っても力には自信のある妖怪たちのこと、負けるのは誇りが許
さずにその『均等に窮屈』な条件で力を比べ合う。
 それは『弾幕ごっこ』と同じことだ。
 ルールの存在により、強大な力も直接的には振るえず弾幕として使用する。時には圧倒
的な力を持つ幽々子ですら人間や弱妖に後れを取ることがある、その公平性故に幻想郷の
少女たちに広まった流行のお遊戯。
 それと等しく、
(『そのルールがある上でどっちが勝てるか』を比べるのが、このリング上!)
 そういう競技なのである。
 そして、『ルール上で勝てる方』が、よりこの競技――格闘ごっこの『強い方』なので
ある。
 その競技性を理解せず、妖夢は何の工夫もせずに『戦闘力をぶつければ勝てる』と思い
込んでいた。結果、その素のままの力を魔理沙に攻略され、現在の状況だ。
 妖夢が苦戦せずに勝ちたいなら、それなりに『戦闘力を生かす戦い方』をするべきだっ
たのだ。
 だから――。
「ここからは……『格闘ごっこ』っ」
 狙うのは魔理沙の突進の大振り。
 残り三歩半の距離を妖夢は待ちわびた。
 ――待ちわびていたが、
(ぜんっぜん有利じゃないっ!)
 周囲の皆が『魔理沙が詰めて妖夢が迎え撃つ』という状況だと思っている中、霧雨魔理
沙の有利を一番否定しているのが、他ならぬ魔理沙本人であった。
 そもそも下腹部が痛いやら、頭がクラクラするやらで歩くのも辛い今、歩いて距離を詰
めるということがどれだけ大変なことか。悠々とコーナーポストで待っていれば良い妖夢
が羨ましくなってしまう魔理沙だ。
 歩かずにすり足で進んでいるのは、別に妖夢のカウンターを警戒しているわけではない。
足を持ち上げて浮かすことが、もうできないのだ。もし持ち上げれば、ベタンベタンと足
の裏全体を下ろす無様な歩き方になり、妖夢にもこのハッタリが一発でバレてしまうだろ
う。
 正直、辛いのだが、
(いつだって私は……普通だぜ)
 自分に言い聞かせて、魔理沙は少しずつ歩を進める。前傾姿勢で頭を庇ったまま、いつ
妖夢が攻勢になって飛び込んできても良いように構えながらだ。
 そうやって魔理沙がズズ、ズズ、とキャンバスの上を移動すると、その度に妖夢は瞳を
輝かせる。魔理沙の動きを見逃さず、奇策を無視せず、むしろ奇策をこそ打破して汚名を
返上する意志がそこにはある。
(格闘ごっこで勝つ!)
 そういう意志だ。
 良い気力だ、と魔理沙は思う。
 魔理沙から見て、妖夢は幽々子に何か言われたのか魔理沙が与えたはずの敗北感、苦手
感を振り払ったようだった。自分を追い詰めた魔理沙を素直に評価し、それを打ち砕くた
めに姑息であろうとあらゆる手を使ってくるつもりだ。
 その『姑息』の一つが、コーナーポストの前から動かないことだと魔理沙は見抜く。例
え疲労が濃くても、前のラウンドまでの妖夢であれば今の魔理沙のように自ら前進してい
たはずなので、それだけ妖夢が『勝ち』にこだわりにきたということだ。
(あそこにいられると『正面から行く』しかなくなるしなぁ〜)
 一つ、自らが動かないことで休むことができる。
 二つ、自らが動かないことで相手の動きを観察できる。
 三つ、狭い場所にいることで、魔理沙の『入り口』も制限できる。
 妖夢の腕刀の攻撃範囲は扇形――コーナーの形作る三角地帯と同じだ。そこならば魔理
沙がどのように奇襲をかけても、必ず妖夢の攻撃範囲に入り込むことになる。
 そのため、魔理沙が前のラウンドと同じようにその攻撃範囲を乗り越えるには、できる
だけ妖夢の攻撃範囲ギリギリの場所からいかに意表をついてダッシュをかけるか、がポイ
ントとなる。
 ……のだが、
(ところがどっこい)
 足腰がギリギリなのは、魔理沙も同じだ。
 今の魔理沙に『一瞬で踏み込む』だの『勢いをつけてダッシュする』など要求する方が
無駄である。
 故に、ゆっくり、ゆっくりと彼女は間合いを詰める。
(来い……来い……っ)
 間合いが詰まるのを、妖夢は待ち続ける。
 徐々に詰まる距離。
 徐々に高まる二人の間の緊張感。
 空気が見えるなら、魔理沙がわずかに進む度に彼女とコーナーポストの間の空気は歪む。
膨らませた風船を手で左右から押し潰すように、破裂に向かって魔理沙が進む。
 二歩分。
 一歩と半分。
 そこで魔理沙が動く。
 それがわかっている妖怪たちが、真剣な顔でぐっと席から身を乗り出した。
 そんな妖怪たちは――。
「ところでさあ」
 空気を読まないあっけらかんとした氷精の声に。
「魔理沙だけど、どうしてもっとぶちやすい構えしないのさ?」

 この試合を通じ『見たまま』でしか判断していない彼女に、絶句させられた。

「……え?」
 そこで、妖夢の顔にも怪訝の色が浮かんだ。
 魔理沙の突進に備えていた振り上げた腕がピクリと動く。
 魔理沙の爪先が進んだ先は――。
 妖夢から、一歩分。
 妖夢の攻撃範囲。
 はぁ、と霊夢が赤コーナーでため息をついて呟いた。
「最後の最後まで……ロクでもないわね」
 打撃に備えるように頭を守った両腕の隙間から、魔理沙の瞳は妖夢が彼女を見るのと同
じ『相手の出方をうかがう』輝きを放っている。
 その理由は簡単。
「カウンターを狙っているのは、魔理沙の方なのよ」
 防御を固め、妖夢に『狙う箇所』を失わせたまま、妖夢の懐に入る。普段の妖夢であれ
ば小さな連続攻撃の繰り返しで崩せる防御だが、今の『カウンターしかない』妖夢にはそ
れができない。
 逆に、攻撃態勢ならぬ防御態勢のままの魔理沙に不用意に妖夢が仕掛ければ、それは魔
理沙にとっての絶好のカウンターの機会だ。
「これが……本当に最後の一手だぜ」
 積み上げに積み上げた奇策の最後の仕上げ――『妖夢に対抗手段を無くす』ことを、魔
理沙は成功させていた。それは固い防御で『二刀流』を封じ、カウンター狙いという妖夢
の考えを利用しての『速度無しでも腕刀にカウンターを合わせられる位置取り』の確保と
いうものだ。
 そのためには『カウンター以外で対抗しようとしても、元気な魔理沙相手には無理』と
思わせる必要があった。
 『攻撃範囲』に入ったと同時に表情を崩し、引きつった笑顔で言う魔理沙の肌に浮かん
だ汗の玉に、妖夢はその全てを教えられて唇を噛む。
「研究家どころか……」
 その根性論に、妖夢は魔理沙を睨みつけた。
「大した努力家じゃない。足揺れてるわよ」
「ははっ! 本当の努力家は自分から言ったりはしないんだぜ!?」
 それが二人の最後の会話だ。
 面白い、と妖夢は『努力家』を前に爪先に力を込めた。
 彼我の距離は正しく一歩。今の体力で妖夢が走ることなく、ただ一歩の踏み出しで魔理
沙を打てる距離。
 打てば当たる。
 だが、打てば魔理沙のカウンターが飛んでくる。
 打ってこい、と魔理沙は交差させた両腕の先にある拳を強く握る。
 打ってくれば、カウンターを成功させる。失敗すれば即負け決定だ。
(……打ち勝てる?)
(カウンターいけるか?)

 迷いが一瞬生まれ。

(打つ以外無いか)
(……いく以外ないよな)

 開き直りが顔を上げさせ。

(打たなきゃ勝てないっ)
(当てなきゃ勝てないよな!)

 そして背中を押したのは――。

「妖夢!」
「魔理沙!」

 『二人の戦う理由』だった。
 そして二人は同時に叫んでいた。

「行く――」
「ぜ!」

              ※ ※ ※


 正真正銘の決着のために、二人の少女が動き出した。


              ※ ※ ※


 妖夢が指先を一瞬後ろに傾けてから、それを反動とするかのようにスタートした。後ろ
足でキャンバスを蹴り、霞むような速度で前に出る。衰えるどころか、一ラウンドよりも
速いくらいのその一歩。
 最速の一歩だ。
 それに魔理沙は反応しない。腕刀に対抗するための内側に入り込む踏み込みが間に合わ
ず、前傾姿勢のままぐっと腹に力を込める。
「せ……ああああああああああああ!」
 妖夢の気合いが一閃し、全力の腕刀が振り下ろされる。実際に刀を持つように構えられ
た二本の腕刀が、手首の位置で魔理沙の頭に振り下ろされる。
 そこで。
 魔理沙はそこから『一歩下がった』。
 ほとんど前後が無いくらいに歩幅を狭めていた足。その前足でキャンバスを押し、その
勢いで後ろ足を浮かして、前足とした左足だけをその場に残して身体ごと魔理沙は後ろに
『ズレ』た。
 結果。
「っ!」
 ぎりぎりだった妖夢の腕刀の『攻撃範囲』から魔理沙が外れる。空を斬る音を立てて腕
刀の指先が魔理沙の目の前の空間を丸ごと削る。その腕の振りは凄まじく、振り下ろした
腕の『威力』に引っ張られて妖夢がそのまま前のめりに膝をつく。全身を使った一打。弾
かれた空気は風となって魔理沙の金色の髪を揺らし、その揺れの中で彼女の身体が海老反
りに反る。
 それは、妖夢の腕の振りと入れ替わりの、正反対の動き。
 腕を振りかぶるよりも大きな、身体全体を振りかぶる一番大きな大円弧。頭の上で交差
させていた腕がそのまま指を絡み合わせ、『見えない箒』を掴んで、その後ろへの傾きで
前に残していた左足がぐいっと持ち上がる。
 そうして、腕刀を振り切った妖夢に向かって魔理沙は、振り子のように持ち上げた足、
そして頭上の『見えない箒』を振り下ろした。
 それは魔理沙の手持ちの技の中で、相手の防御すら打ち抜く最強の一撃――。
「マスィヴブルーム!」
 弾幕格闘ごっこの時の名前で、放送席から文がその技を叫んだ。
 ブン、と足、身体、腕、と魔理沙の全てが武器となって体勢を低くした妖夢へと向かう。
 その組み合わせた拳が妖夢の頭に直撃して、

 突き抜け、

 魔理沙が打ち抜いた『半透明の妖夢』の後ろにいる『疲労のあまり一歩も進めずに、そ
の場で腕刀を振り下ろした妖夢』の眼前を通り過ぎて、空振った。
「は?」
 それは――。
「半幽霊!?」
 結果、全力のお辞儀殴りで前のめりになった魔理沙と、片膝立ちの妖夢の顔が至近距離
で向かい合う。
 半人間と同じ動きをする半幽霊を真正面に放った妖夢は、腕刀を振り抜いた後に左膝を
キャンバスにつき、上半身を左側に捻るようにして右の腕を左の脇腹に巻き込んだ次なる
攻撃姿勢。
「ありかそんなのーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 絶叫を、妖夢が左腰から抜いた拳の『居合い斬り』が横殴りに吹き飛ばした。

              ※ ※ ※

 バァーン、と凄まじい音を立てて魔理沙の顔面が横に弾かれた。妖夢が竜巻のように上
半身を捻って放った裏拳が、小指側から炸裂する拳槌となって魔理沙のこめかみに直撃し、
魔理沙の身体が横倒しに――。
 倒れない。
 頭部を薙ぎ払われて左に傾いた身体を、魔理沙は振り下ろしていた左手をキャンバスに
ついて、受け止めた。
 それを一番間近――戦場となった青コーナーの真後ろであるセコンドスペースから見て
いた幽々子は閉じていた扇をバッと開いて言う。
「お見事」
 真正面からの攻撃を遮り、結果的に『横』からの打撃を喰らったために『前進する魔理
沙の力を利用するカウンター』を喰らわず、最後の最後の意識の欠片を残した――霧雨魔
理沙。
 その魔理沙が半ば閉じた両目の間から妖夢を見る。身体を捻りきった妖夢の横顔がそこ
にあり、魔理沙は左に傾いた状態から、自らも身体を捻るようにして右の拳を斜め上から
妖夢に向かって打ち放った。
 『キャンバスに倒れる』つもりの最後の一発。
 しかし。
 ――左肘を引いて妖夢が逆回転する。
 右膝を伸ばして妖夢の身体がコルク抜きの要領で持ち上がる。そこから放った斜め下か
らのすくい上げるような右の拳が、魔理沙の渾身の一発よりも一瞬早く、カウンターの一
撃として彼女の顎を斜め上へと跳ね上げた。
「が……っ!?」
 強烈な二発目に、魔理沙の視界が灰色に染まった。それは跳ね上げられて視界に入った
冬の雲の色。
 足が浮く。
 後ろに倒れる。
 その雲の色の中に、伸び上がった妖夢が頭上に組み合わせた拳――『三発目の拳』が飛
び込み、その真下へと打ち下ろす衝撃が頭部を直撃し、


 今度こそ、魔理沙の身体を大の字にキャンバスへと叩きつけた。


              ※ ※ ※


「魔理沙選手、ダウン――いえ」
 映姫の笏が天を突く。
 それを見た文は次の言葉を待たずに大きく息を吸い込み、
「そこまで! 勝者、魂魄妖夢!」
「けっちゃーーーーーーーーーーく! 勝者は、妖夢選手! 逆転に次ぐ逆転の結末は、
『二刀流』でも『腕刀』でもない、格闘外っ。『剣技』である生死流転斬――その三段階
が全て炸裂するという劇的な幕切れとなりましたー!」
 会場全てに届けとばかりに、全力で決着を告げた。


              ※ ※ ※


 決着の声が響き渡った瞬間、妖夢の視界に入ったのは赤と青の爆発のような会場の噴火
だった。魔理沙と妖夢、赤と青の賭札が一斉に宙を舞い、それを追うようにして観客たち
の歓声がリングを叩く。
「妖夢キターーーーー!」
「凄い凄い! 勝った勝った、魔法使いに勝った!」
「魔法使いもがんばったー!」
 それは強烈な音の波で、それを受けた妖夢は今度こそ体力が完全にゼロになり、そして
気力も尽きてその場に膝を折って崩れ落ちた。
 トスン、と正座の形。
 そのまま上半身は後ろに流れ、少女は軟らかい身体が受け入れるがままに『正座寝』と
でも言うような微妙な姿で瞼を下ろす。
 自然、
「か……勝ったぁ……」
 言葉がこぼれた。
 張り詰めていた全てが断ち切れた妖夢は、もはや安堵を隠しもしないでため息をつく。
その横では、同じようにキャンバスに転がった魔理沙が目を回してノビており、二人の少
女はまるで両方ともKOされたかのようにボロボロだ。
 最後の攻防――半霊を使ったフェイントが通用しなければ、こうしてため息をついてい
るのが魔理沙でノビている方が妖夢と、お互いの立場は入れ替わっていたことだろう。
 と。
 パシッと額に軽いものが触れ、妖夢はびっくりして閉じていた目を開いた。
「え? あ……幽々子様」
 そこに見えた空――ではないぽやんとした穏やかな笑みに、妖夢は自らの主の名を呼ん
だ。慌てて身を起こそうとする妖夢だったが、額の扇に押さえ込まれて浮きかけた背中を
もう一度キャンバスに落とす。
「いたぁ!」
 そうして妖夢の頭の横に屈みこんだ幽々子が言うことは、
「お茶が飲みたいわ。もらってきてちょうだい」
 実に一方的かつ、妖夢の状況を考えないものであったりした。そのことに、試合後には
何かを言われると心配していた妖夢は拍子抜けする。
(あれ?)
 怒られるかな、褒めてもらえるかな、という両方の不安と期待を裏切られ、困惑した顔
でお手上げする。
「動けませんよ」
「その大きな半幽霊は何の為についているの?」
「……幽々子様のお茶運びのためじゃないですよ、たぶん」
 いつかどこかで聞いたようなやり取りに、妖夢はリングの上に浮かんでいる自分のもう
半分に目を遣った。普通の幽霊よりも一回り大きい半霊はその形をすでに普段の白くて丸
丸としたものに戻しており、気力を使い果たしたヘロヘロとした動きで妖夢の仰向けの腹
の上に着地する。
 すると、それを眺めて幽々子はふむと言う。
「私のお茶は運べないのに他人を騙すのには使うだなんて、妖夢も悪人ね」
「う……そ、それは必死でしたからっ」
 その言葉にはさすがにバツが悪いものを感じて、妖夢は言い訳じみた声を返した。
 だが、無様にも反則スレスレの奥の手を使ったことに恥ずかしさを感じつつも、それを
まったく後悔していない自分の心に妖夢は少し驚く。
 それは、開き直りのような一つの思いだ。
 だから。
「それしかありませんでしたから」
 自分の上にある、空を背景にした幽々子の顔に、妖夢はそう自分なりの『理由』を告げ
た。
 最後の交差、カウンターを封じられた妖夢に残されたのは、半幽霊を囮にした『騙し討
ち』しかなかった。吸血鬼の翼や、化け猫の爪のように、いわゆる自分の身体の一部なの
だから使うこと自体は反則ではないとはいえ、やはり他とは一線を画して特殊な己の半身
を使うという発想は、その段階に追い込まれるまで妖夢にはなかった。
(『格闘』だと思ってたから)
 己の身につけた素手で戦う技量を比べ合う場所だと。
 だが、妖夢は悟ったのだ。
 自分が身を投じているのが格闘ではない。これは『格闘ごっこ』なのだと。
 そう考えた瞬間、妖夢の中にあった大きな大きな枷が外された。
 そして、『刀が使えない時』に使用するために身につけていた素手での技が通じない場
面で妖夢の身体が自然に選択したのが、自分がのびのびと実力を振るうことができる技。
 つまり『半幽霊との連携と、幼い頃から修行し続けた剣技』だった。
 それらを『格闘ごっこで生かす』ため、妖夢は一歩を進む力すら託した半幽霊をフェイ
ントで放った。絶対に成功させるために半人間も同じ動きをなぞり、気迫そのものを飛ば
して魔理沙に叩きつけた。騙せなければ体勢を崩した無防備な妖夢に魔理沙の攻撃が直撃
する、まさに全身全霊の奥の手だ。
 気持ちを振り絞った。
 故に、
(奥の手を使うところまで追い込まれたのは恥ずかしいけど、使ったことは後悔しない!)
 自分の『何をしてでも勝ちに行く』気持ちが表れただけなのだと、妖夢は思っている。
 その姿勢はこの試合ずっと魔理沙が見せ続けたものであり、それを目の前で見続けた妖
夢もまたそれを知ることができた。
「本当に……勉強になりました」
「ふぅん?」
 さっぱりとした面持ちで言う妖夢に、幽々子は面白げにその目を細める。そうして彼女
が確認するように尋ねたことは、次のようなことであった。
「楽しめたかしら?」
 と。
 その言葉に、妖夢はしばし思考を必要とし。
 その意味を理解し。
「……はいっ!」
 主を相手に寝転がったままだとかそういうことも忘れるくらいに爽快な気分で、力強く
首肯するのだった。

 一方。
 その妖夢の明るい声を、魔理沙は寝転がったまま聞いていた。
 KOされた三連撃のせいでこめかみやら顎やら鼻面やらが色々と痛かったが、それでも
意識だけははっきりと妖夢の言葉を噛み締める。
(楽しめたか……か)
 今回初めて触れた、弾幕を使わないバトルごっこ――『格闘ごっこ』。苦手な分野で作
戦を練り、状況を打破していく中で抱ける達成感。
 辿り着きかった場所がある。
 遊びたかった相手がいる。
 『そういう目的を胸に遊んだこと』。
(ま)
 楽しかったよな、と魔理沙は唇の端を緩めた。悔しさは後から幾らでもやって来るだろ
うが、今はこの全てが底を尽きた倦怠感に身を任せていたかった。
 そして魔理沙は、瞼を開けた場所で自分を覗き込んでいる紅白の少女に言うのだ。
「DEAD END……だぜ」
「まあ、また来年ね」
 その魔理沙の第一声に、霊夢は微笑んでその顔に使い捨てカイロを落としてやるのだっ
た。


              ※ ※ ※


 で。
「池の鯉は水面の星空を餌と思って食べてしまいましたとさ?」
 和んでいる冥界の主従をリングサイドから眺め、紫は自分の友人の思惑に想像を巡らせ
て含み笑いをしていた。
「幽々子らしいやり方ね。池の中のまま、天を取らせてしまうんですもの」
 そこに浮かぶのは、邪推と言うのもおこがましいほどに妖しい笑みだ。隣にいる藍だけ
に聞こえるように、彼女は言う。
「幽々子はこの大会で何を作ろうとしているのかしらね?」
 白玉楼の池の中――鯉が転じた大きな卵から生ま