東方殴り巫女伝説 〜Bare Knuckle Players〜 2回戦 Aブロック第2試合 チルノ VS 風見幽香 ※ ※ ※ 「ふふふ……ついにあたいの時代が来たようね」 その試合のリングに立った時、まず最初にチルノが言ったのはそういうことだった。 曇りに曇った冬の空、下がりに下がった冷たい気温に、氷の妖精はまさにパワー百二十 八――フルパワーモードの仁王立ちで宣言する。 「二回戦にいるってことは、あたいは負けた他の連中よりも強い!」 「うう……」 「や、やっぱり言ったぁ……」 ミスティアにリグル、一回戦で負けた妖怪たちを思い切りへこませて、チルノは得意満 面の笑顔で赤コーナーを振り返る。そこでは一回戦で相対した大妖精が、対照的に心配げ な顔をしてセコンドスペースに立っていた。 「チルノちゃん、大丈夫? 相手は……」 「向日葵妖怪! 春だって大丈夫だったんだし、大丈夫大丈夫」 「え? チルノちゃん、確か逃げ出し――」 「大丈夫大丈夫! 幽香? ぼこぼこにしてやんよ!」 あははははは、とチルノは陽気に笑って両手でしゅばばと『ぼこぼこパンチ』を繰り出 してみせた。その笑顔に言葉を掻き消された大妖精は、何と言ってよいのかわからなくな って、結局チルノに合わせる形で曖昧な笑みを浮かべるハメとなった。 ――春の出来事。 自らの領域である湖を離れて物見遊山をしていたところ、偶然幽香が春を過ごしていた 向日葵畑に迷い込んだ彼女は、弾幕ごっこでぎりぎりの一勝を得たところで、まさに這う 這うの体でその場を逃げ出した。 その際に自分が「ひえ〜」という情けない悲鳴を上げたことなど、もはやチルノは覚え ていない。ただ、『春。弾幕ごっこで勝った』という省略された情報があるのみだ。 なので、 「ぼこぼこに……あれ、『向日葵にしてやる』だったかな?」 その言葉が何を意味するのかも、すでにチルノは覚えてはいない。 その言葉を誰に聞いたのか、覚えていない。 その言葉の危険性を、覚えていない。 その全てに気づく暇さえ無く、 「いっせ〜の、せっ」 「チルノ、がんばれ〜!」 「お?」 突然降ってきた大歓声に、チルノは驚いた顔でリングの周りを見回した。すると、赤コ ーナーを取り巻く観客席全てを埋め尽くす有翼の集団の存在に、彼女は再度目を丸くする。 「おお?」 「せっかく残ったんだから、玉砕覚悟でがんばれ〜!」 「湖代表よ〜!」 それはチルノが物理的に押されるほど勢いのある、妖精たちからの応援の声だった。大 人の妖怪の腰ほどの背丈しかない妖精たちが、身を寄せ合い一人分の席に二人で座るくら いの密度で並んでチルノに向かって声をかけている。 「死なない程度にね〜!」 「目にもの見せてやってよ〜!」 「ま、適当にね〜!」 「お、お、お?」 応援と、心配と、ただのひやかしと――とにかくたくさんの声。言葉が目に見えるとし たら、それは冬の妖怪が呼んだ吹雪のように、あっと言う間にチルノを埋め尽くすくらい の量。その五月蝿さときたら、キンキンした幼く甲高い声に霊夢が眉根を寄せて耳を塞い だくらいだ。 それだけの量を、チルノは一気に浴びた。 浴びて、ゴクリと唾を呑み込んだ。らしくなくブルッと身体が震え、強張った指がピキ ンと一直線に伸びきった。 (あ、緊張した) と大妖精は思ったのだが、それは違う。 チルノはしばしうつむき、そして顔を上げると同時に両腕を天に向かって突き上げる。 「おっしゃ〜!」 というのが、チルノからの妖精たちへの返答だった。 多くの注目を浴びながらもチルノは臆するどころか、ほとんど後ろに倒れるくらいに胸 を張って叫ぶ。 「よぉ〜し、全部あたいに任せときな! 妖精が妖怪を倒すところを、このあたいが見せ てやるよ!」 あたいが! と親指で自分を示す。その少女らしからぬ仕草に、しかし妖精たちはさら に盛り上がってきゃっきゃと騒ぐ。一斉に羽ばたいた羽根がバタバタと集団の足踏みのよ うな騒音を生み、今度は霊夢ばかりか妖怪たちまで耳を塞いで閉口する。 そして、放送を入れるまでもなく盛り上がりきった妖精たちの姿に、文はさらも追い討 ちをかけるかのように、マイクによる大音声を会場へと送り込む。 「さすがは妖精の期待の星であるチルノ選手! 二回戦にコマを進めた唯一の妖精だけあ って、同じ妖精からの絶大な支持を得ております。しかし、対する幽香選手も一回戦で強 敵である八雲紫選手との最強決定戦を勝ち抜いてきた強豪! こう言っては何ですが、チ ルノ選手には少々荷が勝ち過ぎていると見て間違いは無いでしょう。『妖精最強』は、果 たしてどこまで『妖怪最強』に通用するのか!? これもまた『最強』決定戦! 注目の 試合の始まりです!」 その煽りに、単純な妖精たちは頬を朱色に染めて拍手する。やんややんやと喝采を送る。 「すげー、最強だってさ!」 「何? チルノが勝ったら私たちも妖怪より偉いの?」 「私たちったら最強ね!」 実に幼く、能天気に盛り上がる。 その微笑ましい姿に、文と同じ放送席にいる慧音は、皺の寄った眉間を指で揉み解しな がら呻くように呟いた。 「お前……よくそこまで言えるものだな……」 「嘘は一つもついていませんよ?」 「この、天狗め」 しれっと言ってのける文に向けた慧音の揶揄。 それは、会場にいる全ての妖怪の気持ちを代弁していた。 ※ ※ ※ 一方、青コーナーの前に佇む四季のフラワーマスター。 畳んだ傘の先をキャンバスに突き、その柄に両手を重ねて体重をかける楽な姿勢をとっ ている彼女の姿に、リングサイドの妖怪少女たちは小さな違和感を感じて首を傾げていた。 「?」 霊夢もその内の一人だ。 別段、幽香の外見が大きく変化したわけではない。だが、微妙な印象の違いには何だろ うと探してみれば、それは幽香の顔にあった。 花に喩えられるその美貌――その陰り。 普段途切れない笑みを湛えている幽香が、今はわずかに俯き、遠目からはわからない程 度に唇を動かして何か呟いていた。 「ふむ?」 と興味を引かれた紫が、目の前に指を走らせて空間に切れ目を入れる。 そして。 「――――」 「……可愛い子ね」 小さなスキマから聞こえてきたそれに、紫は気持ちが悪いくらいに非人間的な笑みを浮 かべた。無貌の能面に横一本の朱線を引いたようなその笑みに、藍を挟んで反対側に座っ た橙がぎょっと目を丸くする。 (胡散臭っ!) 絶対にこの人何か企んでいるよ! という怪しい笑みに、橙は反射的に主である藍の横 顔を見上げた。しかし、藍は複雑な表情でリング上の幽香を見つめており、橙の視線に気 づくことはなかった。 (紫様を相手に身につけた関節技を、あいつがどう使ってくるか……。紫様も、余計な奴 に余計な技術を与えなくてもいいのにっ) 藍の懸念はそこに集中している。彼女は大会が終わればすぐにでも喧嘩を吹っかけてく るだろう相手の情報を、これから行われる試合から少しでも読み取らなくてはならなかっ た。 と。 「ねえ藍」 いかにも仕事中という感じの式に、紫は張り付いた笑みのまま声をかけた。観戦モード に入ろうとしていた藍は面倒そうに振り返ったが、そこに待っていた紫の人差し指に眉間 を押さえられると、戸惑ったようにその手の持ち主を見る。 「紫様?」 「藍。妖怪の原点って、何だと思う?」 「は……?」 金縛りのまま、藍は眉根を寄せた。質問の意味が、藍にはわからなかった。答えがわか らなかったわけではなく、ただその質問の意図がわからなかった。 (それは以前に――) 紫本人の口から教わったことだった。 だが、主の唐突な発言に慣れている藍は、優秀な式らしく従順に模範の回答を口にする。 つまり、 「恐怖です」 古の時代に人間が抱いた恐怖。 「原初、妖怪はそこからやって来たと私は理解しています」 「ご名答」 よろしい、と紫は藍の額に当てていた手を横へと振った。するとその手に畳まれた扇が 現れる。 「死に対する恐怖。良く知った隣人が妖魔に入れ替わっていることに対する恐怖。暗闇か ら忍び寄るものに対する恐怖。理解できないものに対する恐怖」 扇を広げると、そこに描かれているのは一風変わった百鬼夜行。妖怪や魑魅魍魎が行列 を作る様を描いたという点では従来のものと変わることはないが、その妖怪の題材が藍に とってもっと身近なものになっていた。 先頭を行く、月から来たと嘯く理解不能の力を持つ永遠亭の面々。 続くは、人の生き血を糧とする人間の天敵たる吸血鬼を筆頭とした、紅魔館の人魔たち。 続くは、その場にいるだけで死を振り撒く亡霊の姫と、それに従う冥界の悪霊集団。 続くは、死後に人間を地獄に落とすことを生業とする閻魔と死神。 続くは、闇の中に潜み人を喰らう夜の妖怪たちと、人の罪が生んだ最も忌むべき毒人形。 続くは、心を惑わし、自由自在に人里をかき乱すスキマ妖怪と、その邪悪なる式。 続くは、人から出でる裏切りの徒、魔女たる女たち。 続くは、かつて妖怪の山に君臨し、今は妖怪の手に落ちた神社にも度々顔を現す人攫い。 最後は、それら全てを眺めて嘲笑する、人の懊悩こそを悦楽と知る邪な妖精たち。 全て等しく『恐怖』たち。 でも、と紫は言うのだ。 「それら恐怖に共通する恐怖とは、何でしょう?」 「恐怖に共通する……恐怖?」 それは問いかけというよりも、謎かけと言ってよい紫の言葉だった。藍はそれに怪訝な 顔をすることだけしかできず、紫からの答えを待った。 しかし、それで簡単に答えを教える紫でもない。彼女は先ほどから変わらない、まった く動かない笑みの表情で、扇の先を傾けリングを示す。 「私の一回戦での仕込みが充分に効果があったと『確認』したわ。後は、それを育てた彼 女次第。――ああ、そうだわ。藍、あなたあの子の二つ名を覚えている?」 「確か、『四季のフラワーマスター』」 「もう一つ」 「古い奴は二つ名多いんですから……ええと、では『眠れる恐怖』」 「ええ。本当は、皆がそうなのよ」 「?」 要領を得ない主人の言葉に、藍は狐が狐に化かされたような妙ちくりんな顔をするのだ った。 そして、そのすぐ隣の茣蓙では、紫の友人である西行寺幽々子が同じように己の従者に 向かって謎かけを行っていた。 「妖夢。アレが食べたいわ」 「は? アレじゃわかりませんよ」 唐突な幽々子に、妖夢は藍とは違って考えることもなく即答した。すると、幽々子は実 に冷たい視線で繰り返す。 「アレよアレ」 「いや、だから。何が食べたいんですか?」 「妖夢は使えないわねぇ……」 「そんなぁ〜」 理不尽な物言いに、ついに妖夢が情けない声を上げる。それに幽々子はやれやれとため 息をつくと、やおら「おや」と首を傾げるのだった。 「ところで、アレってなんだったかしら?」 と。 ※ ※ ※ 「また会ったわね、このお花妖怪!」 試合開始のために立ったリング中央、ゆっくりと歩いて来る幽香に対し、チルノはびし っと指を突きつけて意気込んだ。 「今回もぼこぼこにしてやるわっ。覚悟しなさい!」 「ち、チルノちゃん、ノー! ノーモア挑発!」 「もう一回? ぼこぼこにしてやるわっ。覚悟しなさい!」 ワンモア違う! という大妖精の嘆きも知らず、チルノは幽香の前で先ほどの『ぼこぼ こパンチ』を再現した。 「ひ……っ」 と息を呑んだのは大妖精だ。 彼女はそれを目にした幽香が激怒するかと思ったのだが、 「?」 むしろ、幽香は怪訝そうな顔でチルノの小さな顔を見た。俯き足元を見ていた彼女が初 めて見せた表情は、言われていることがわからない、というその表情だ。 「ぼこぼこにされたことなんてあったかしら?」 最近の記憶を検索するが、思い当たる節が無い。 実際、チルノの脚色された『情報』などに付き合う必要はないのであるが、その話題は 妙に幽香の心の琴線に触れたようで、彼女は声を低めてもう一度尋ねる。 「『それ』、いつのことだったかしら?」 「んも〜、もう忘れたの!? 春! 春のいっぱい花が咲いていた時だってばさ!」 両腕を激しく振りながらチルノは言うが、そもそも事実が無いのでは仕方がない。 だというのに、 「……そう。私も忘れっぽいから、そういうこともあったのかもしれないわね」 「あったのよ、そういうことが。あたいの完勝ってやつね。今からリベンジを受け付けて やるわ」 声を低めてうなずいた幽香に調子に乗って、チルノは偉そうに平たい胸を張った。おい、 と妖怪たちが頬に汗を伝わせてしまうような不遜さである。チルノが背にした赤コーナー では、もう駄目だとばかりに大妖精が両手で顔を覆って絶望する。 しかし、 「リベンジ、ね」 思いもかけず、チルノの言葉は幽香の口元に笑みを浮かべさせることに成功した。 初めての笑み。 チルノが突然の悪寒に余裕の表情を固まらせたのも、その瞬間だった。 「え!?」 不意に伸びた幽香の手が、チルノの頭に触れていた。ポン、と撫でる程度に軽く叩かれ、 その手が次は両肩、両肘、手首と降りていき、ついに腰を左右から触れられたところでチ ルノはその手を振り払う。 「な、何よ、気持ち悪いわねっ」 「そうなの、リベンジを受け付けてくれるの……あなたはとても良い子ね」 若干の怯えの混じったチルノの言葉を聞かず、幽香は細く柔らかい妖精の身体の感触を 握り込むようにして拳を作った。 リングサイドからそれを見ていた橙は、幽香が一瞬だけ浮かべた笑みに思わず紫を振り 返る。 「何かしら?」 「な、なんでもないです!」 橙には言えなかった。 幽香と紫の笑みが、まるで写し取ったようにそっくりだった、とは。 「と、とにかく! あたいと当たったのがあんたの運の尽きよ! 一発で決めてやるんだ からっ」 自分が感じたゾッとしたものを消し飛ばすように、チルノは後ろに跳躍して構えた。ち ょあ〜、という見よう見まねの拳法スタイルに妖精たちが期待の眼差しを送り、そしてそ れを見た妖怪たちは一斉に思う。 (三回戦は、霊夢対幽香かぁ〜) 幻想郷の妖怪少女たちの心が一つになった、歴史的な瞬間である。 ともあれ、そういう大多数の予想のもと、舞い降りたリリーホワイトは残酷にも試合の 開始を告げるのだった。 「始まりですよ〜」 と。 ※ ※ ※ 秒の間の話だ。 リリーホワイトの言葉が終わると同時に、チルノはエセ拳法で前に出た。 その右手側を、右腕をラリアットのように伸ばした幽香が弾丸のような勢いで通り過ぎ る。 「あぐ……!?」 細い首に幽香の腕が絡みつき、跳ねた幽香に引きずられるようにしてチルノの身体が後 ろに飛んだ。そのまま二人の身体はキャンバスに倒れこみ、喉を圧迫されたチルノは息を 詰まらせて顔をしかめる。 「けほっ。や、やったわ――」 ね、とは言えなかった。 キャンバスに四つん這いになったチルノは、自分の背中に軽く重みがかかるのを感じた。 それが幽香の尻だと悟るよりも前に、 「きゃっ!?」 彼女は幽香に左腕を掴まれてバランスを崩して顔面から突っ伏した。両手足で作ってい た『椅子の足』のうち、左手の一本だけを奪われて斜めに傾いだのだ。 そうして出来上がったのは、両腕でチルノの左腕を抱え、両の太腿でそれを挟んでチル ノの背中に腰掛ける幽香の姿。 「ぎ……っ」 完璧に肩と肘の関節を極められ、チルノの顔が苦痛に歪む。 それに、すかさず映姫が笏を頭上に掲げた。 霊夢がお札を両手に立ち上がった。 魔理沙が八卦炉を懐から取り出してリングに向けた。 人間たちのそれらの動きに、スキマ妖怪が亀裂のような笑みを浮かべた。 そして、幽香は、 「待――!」 悲鳴じみた大妖精の叫びにも耳を貸さず、その身を真後ろへと倒した。 ボキリ、という音が、リングサイドにまで響き渡った。 ※ ※ ※ その音が聞こえた瞬間、盛り上がっていた会場はリングサイドからその周囲へと、時の 停止が波紋の形で広がるように静まり返った。 「え?」 という思いが氷の粒。 それを成したのが『幽香』であり、それを受けたのが『チルノ』である事実が、氷の粒 を尋常ではない寒波に成長させて会場の皆を凍りつかせた。 しかし、その完全なる凍結の中で、一人の確信犯のみが、言葉を紡ぐ。 「まあ、なんて『恐ろしい』」 と。 ※ ※ ※ 「チルノちゃん!」 大妖精の叫びで、時が動き始めた。 投げ損ねたお札を手にした霊夢が視線をキャンバスの上へと向けると、そこにある光景 は、衝撃の瞬間が生まれた時のままだ。チルノが四つん這いになり、幽香がその上に座っ ている。 しかし、「あれ?」と霊夢は思った。 予想していたものが、足りない。審判長である四季映姫・ヤマザナドゥの掲げた笏がど こにもなかった。 (あの馬鹿……っ) 映姫が笏を下ろしている理由は簡単だ。 チルノは悲鳴を上げていなかった。 腕が背中側に反り返り、あり得ない音を立てて左肩の関節が砕けた瞬間から、チルノの 目はこれ以上無いくらいに大きく見開かれている。ぶわっと噴き出した汗が真っ白な肌の 上を窓に浮いた水滴のように覆い、唇は震えて『開こう』と動く。 その動きを、チルノは唇を噛み締めることで、まさに『噛み殺し』ていた。 ただひとこえ、悲鳴を上げてしまえば、その場で試合は終わる。映姫は間髪入れずに幽 香の勝利を宣言するだろう。 だが。 「…………っ」 その敗北すら、チルノは『噛み殺し』た。視界が真っ赤に染まり、鼻の奥のツンとした 痺れが目元に伝達して涙の玉が膨らんでも、それでも限界地点のがんばりで『噛み殺し』 た。 (あたい……は……っ) そのチルノにあるのは、驚きだった。 あまりに一瞬に間に起きたことに、彼女はまだ自分が何をされたのか、どれほどの痛み を受けたのか理解してはいなかった。 『もの凄い衝撃が左肩から全身を突き抜けた』のを、彼女はただ不可解のままに、理解 できないが故に『噛み殺し』た。 だというのに、 「リベンジ、したわ」 低く、冷たい声がチルノの鼓膜を震わせた。もうそれ以上身体に『震え』を加えられて は限界を越えてしまうチルノは、頭に痛みの原因を理解させようとするその言葉に、塞げ ない耳の代わりに目をぎゅっと瞑る。 それでも、幽香は呟き続けた。 「肩を折ったから……あとは、腕をねじ切り、首をへし折り、それで終わり」 それはチルノに向けて言っているというよりも、自分に言い聞かせ、戦いの流れを確認 しようとしている言葉だ。そんな幽香の表情は声の冷たさに反して険しく、彼女はなおも その言葉を繰り返す。 「……腕をねじ切り、首をへし折り、それで終わり……」 そこに遊びの色は一切無く、彼女が本気でそれを行うだろうことが誰にでも容易に想像 できた。そしてその想像された結果に、チルノを応援していた妖精たちは声も無い。全員 が青ざめ、その場で起きたことを目にしたくないとでもいうように顔を覆っている者もい る。驚いて泣き出している者もいる。 ――恐ろしい。 沈黙した会場に向かって紫が放った言葉。それが妖精たちの心を縛ったようであった。 が。 紅魔館の面々と一緒に試合を観戦していたレミリアは釈然としない顔でそれを見ていた。 (……なんだ?) 妖精たちを支配している『恐怖』に、レミリアは疑問を覚えずにはいられない。 見せつけられた力に息を呑む妖精。 場の雰囲気に流され、あっという間に震えだす妖精。 その程度の、儚く取るに足らないありふれた存在――妖精。 『妖精のチルノ』。 (どうして、あいつは妖精に本気を出して挑んだ?) レミリアの疑問――それこそが、会場に居合わせた妖怪たちの驚きであり、そして妖精 の覚えた恐怖の本質であった。 別に、腕が折れる程度、この大会ではすでに驚くほどのことではない。だが、妖精―― 精神が未熟な子供そのものの存在に対し、いわゆる大人である大妖怪が、遊びではない本 気の攻撃を行うなど、あり得ないと皆が思っていた。 『まともな戦いがある』というのは、想像の範疇外であった。 幽香がチルノを軽くあしらって勝利。それが皆が想像していた結末であり、それだけの 力の差が二人の間にはあるはずだった。 しかし、結果はこうだ。 幽香は強敵から反撃の機会を奪うかのように、最初のワンチャンスに全力を注いだ。最 速で、最大の破壊力の攻撃を、躊躇いのない意志で実行した。 (もし私なら――) レミリアは仮定する。 もし自分が幽香の立場であれば、チルノの首筋に手刀を一発当てて終わらせる。デコピ ンでも良い。 『その程度の相手』だ。 (……これじゃ、自分から恥をさらしたようなものだ) どうしてそのようなことをするのか。 同じ疑問を、鬼も、天狗も、亡霊も、皆が抱いた。自分ならばそのようなことが絶対に しない。『シャレ』にもならず、場が白けるだけではないか、と。 そして、そのような周囲の疑問をよそに、幽香は次の行動に移る。 言葉通り、へし折ったチルノの腕を、今度はねじって引きちぎろうと力を込め始めたの である。 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」 まだ試合が始まって二十秒足らず。チルノは未だに状況を理解し切れていない。 観客たちも、試合とも言えないその凄惨な光景にまだ思考がまとまっていない。 (なんだ?) と。 だが、 「すっかり『眠った恐怖』たちには、難しかったかしら?」 ただ一人紫だけが、答えを口にする。 「彼女は『必死』なだけなのに」 ※ ※ ※ 「あれは……」 紫の言葉に幽香の状態を察したのは、やはり一回戦から幽香に注目していた藍だった。 彼女は、幻想郷に古くから――本当に古くから――存在する大妖怪のその姿に、懐かし い既視感を覚えていた。 「なんてタチの悪いものを……っ」 自らの主が狙って生み出したものに、藍は耳を丸ごと隠す大きな帽子を剥ぎ取った。ぎ ゅっと力を込めて帽子を握りこみ、危険を感じて毛羽立つ尻尾を落ち着かせる。 そう、冷静に『構成要素』を並べればわかることだ。 幽香は、間違ってもとるにたらない妖精を戯れに潰すような性格ではない。確かに彼女 は『攻撃』で物事を解決しようとするタイプだが、それは解決すべき物事がある場合に限 る。 普段の彼女は霊夢にも負けないのんびり暢気な少女であり、何を考えて生きているかも わからないその怠惰で気まぐれな生活は、藍としては羨ましいやら叱ってやりたいやらの、 まさに『余裕』の塊のような妖怪だ。 だが、彼女ももとから――最初から『余裕』に溢れていたわけではない。彼女だけでは なく、妖怪たちはもとから『今』の性格だったわけではない。 (長く生き、力を得て、やりたいことを少しずつこなし、やりたいことが減っていき、性 急に飛び回る必要を感じなくなり……) そして、妖怪は『余裕』を得る。丸くなる、とも表現できるが、四方八方へと向けてい た好奇心を着実に消化した彼女たちは、世の中の仕組みを深く理解し、自分にどれほどの ことが可能なのかを悟り、結果自分たちなりの世界への『納得』を得る。 それは、自分なりの生き方を得ることでもあり、歳を経た妖怪ほど定まった『ライフス タイル』があるのはそういうわけだ。 風見幽香は、その典型だった。 長生きをして膨大な力を蓄えた幽香は、同時に自分の『領域』を定め、それに触れる者 以外とは滅多に争わなくなった。争う場合も、長い経験で得た力の加減により、適度に相 手を虐め抜く。 そうした節度を失わない理性に制御された暴力の持ち主、良識ある紳士的な大妖怪たち の存在によって、幻想郷はパワーバランスを保っているのである。 ――そんな時に、紫は幽香に熟練度皆無のまったく新しい玩具を幽香に渡した。 幽香は一回戦で失ったプライドを取り戻すために、その新しい玩具を使っての格闘ごっ こ大会制覇を己に誓う。誓うように『わざとプライドだけを刺激する』ように一回戦を消 化させられた。 その結果生まれたのが、 (大妖怪のくせに妖精にも全力で襲い掛かる『自信の無い初心者』……っ!) 馬鹿な、と藍は帽子を地面に叩きつけて立ち上がる。橙が驚いたように見上げてきたが、 藍はそれに構わず十指それぞれの間にお札を挟んで待機する。 (下手をすれば『自信をつけるため』に会場の妖怪全部実験台にされますよ、紫様!) 自分の式である橙など格好の餌食だと考え、藍はついに抑えきれなくなった怖気に尻尾 どころか耳の毛まで逆立てる。 力のある自分は良い。だが、力の無い者が圧倒的な力で迫る幽香にどう対抗すればよい のか。いち早くそれを察した妖精たちなど、すでに皆が怯えて身体を震わせている。 それは、昨今の暢気な大妖怪しかいない幻想郷ではついぞ感じたことがない戦慄であっ た。弱者が強者から隠れて過ごした時代など、記憶すら曖昧になる遥か昔のことだ。 そして不意に気がつく。 (あ……) 既視感の正体。 組み敷かれてなすすべの無いチルノ。 妖精たちの震える瞳。 『遭遇したら絶対に助からないもの』に出会ってしまったと語るその瞳を、藍はかつて 多くの人間たちの中に見たことがあった。 まだ妖怪が活発に動いていた時代。 人間の持つ妖怪の知識が今よりずっと浅く、ほとんどの妖怪が弱点も知られず、好き勝 手暴れていた時代。 あんなものにどう対抗すれば、と人間はよく嘆き、恐怖したものだ。 それは死に対する恐怖。 それは良く知った隣人が妖魔に入れ替わっていることに対する恐怖。 それは暗闇から忍び寄るものに対する恐怖。 それは理解できないものに対する恐怖 それら全てに共通する恐怖とは、 (……『自分ではどうしようもないものに対する恐怖』ってわけね) 謎かけの答えなどなんてことはない。誰しも、自分が対処できることに対しては恐怖な ど抱かない。 『人間が対処できる』ように暮らしている幻想郷の妖怪が失っていた、その恐怖。 充分に気をつけて暮らしていようが、不意に現れて全てをズタズタに引き裂くその暴力。 『眠れる恐怖』から状況一つで古き妖怪の本質を引き出して見せた自らの主――心のス キマに入り込んで暗躍する対処できぬ魔性の大妖怪に、藍はさらなる畏怖を込めて言うし かなかった。 「なんて『恐ろしい』」 と。 ※ ※ ※ 「タオル!」 魔理沙が鋭く言うと、コーナーポストに張り付いていた大妖精はハッとして自分の手を 見た。そこにギブアップ用のタオルは存在しない。 慌てて自分のベストに手をかける大妖精に、魔理沙は我慢しきれずに自分が被っていた 毛布を引きずって赤コーナーへ向かおうとしたが、そこに霊夢がお札を袖にしまいながら 言う。 「……もう遅いわ」 リングの上では、幽香がさらに力を入れようと、チルノの反り返った左腕を自分の右腋 に抱え込んだところだった。幽香がより体重を後ろにかけたことで、チルノを支えていた 右腕がキャンバスに潰れ、ついに彼女は完全にうつ伏せになる。 そこから、幽香は左足を正座の時の形でチルノの裏腰に添え、右足をチルノの首に引っ 掛けた。そうして幽香が腰を浮かして海老反りになろうとすると、 「〜〜〜〜〜っ!」 押さえつけられた腰。 喉にかかった幽香の足。 引っ張られる左腕。 その三つの要因が、幽香だけではなくチルノにも海老反りを強要する。肩関節と背骨を 極める、変則のグラウンド式バックブリーカーだ。 (これで) と火照った息を吐きながら幽香は思う。 (『最終実験』も完璧) 実を言うと、一回戦の自分の試合からこの二回戦までの間、彼女は適当な相手を宴会の 外に求め、そのうち何人かの妖怪を『実験台』として関節技で葬っていた。だが、それら の勝負は純粋な『格闘ごっこ』ではなく、弾幕戦の間隙を縫っての仕掛けがほとんどだ。 だからこの試合、本当に久しぶりに幽香は戦いというものに緊張していた。 使えるかどうかもわからない技を、いきなり衆人環視の中で使うのだ。もしチルノ相手 に通じなければ良い恥さらしであり、一回戦で砕かれたプライドの建て直しどころではな い。完全に幻想郷から抹殺されるところだ。 それ故に、彼女は勝負を急ぎ、全力を尽くした。万が一の失敗も許されなかった。 そして今、チルノに脱出不可能の技をかけ、完全なる二択を得たことで、幽香はようや く安堵を得ることができた。 一つ、チルノが耐え切れずに悲鳴を上げる。 二つ、チルノが耐え切り、幽香の戦闘計画通り腕をもがれる。 (……どちらでもいいわ……) 選ぶほど、今の幽香には余裕がなかった。 早く結果が欲しかった。 早く保証が欲しかった。 (私は、『最強』なのよ……っ) 勝利こそが、それを証明してくれるはずだった。 また、その様を上機嫌で眺めるのは紫だ。 「良い勉強会になったわ」 風見幽香に仕込んだ『種』。それの咲かせた見事な花に、紫は大変満足していた。 「話で聞いたことがあるのと、実際に見たことがあるのとはまた別のもの。橙、覚えてお くと良いわ。あれが『古き妖怪』の姿。藍も一皮剥けばあんなものね」 「は、はい……っ」 しかし、むしろ橙はキャンバスの上の魔よりも、すぐ横にいるもう一人の魔に対してそ の二本の尻尾を硬直させていた。もし隣にいる藍が壁となっていなければ、すぐにでも尻 尾を巻いて逃げ出していただろう。 (こ、怖〜! は、早く参ったしちゃいなさいってば!) もう半泣きでリングへと目を向ける。 そのタイミングで、大妖精が脱ぎ終えたベストをリングに投げ込む――否、投げ込もう としたその時、声が漏れた。 「ぎ……っ」 チルノの噛み締めた歯が、ついに耐え切れなくなって弛んだ。悲鳴が顎の力を上回り、 唇を押し開いて漏れようとしていた。 霊夢の言う通り、タオルを入れるまでもなかった。 訪れた自信の復活に、幽香が暗い笑みを浮かべる。 楽しい見世物の終わりに、紫が意外な根性を見せたチルノに惜しみない拍手を送ろうと、 手を叩き合わせる。 ――それでも。 「う……んん!」 それを、チルノは『飲み込ん』だ。息を止めて、キャンバスに爪を立てて耐えた。 その最後のあがきは、しかし幽香と紫に言わせれば無駄以外の何ものでもない。次に息 を吸った瞬間が試合の終わる時だと確定したようなものだからだ。 (我慢するだけの状況は、何も変わらない。『何もできない』のが、風見幽香の恐怖) それは彼女の自信をより深めるだけなのよ、と紫はチルノにどのような残念賞をプレゼ ントしようかと考え始めた。 だから――。 「ぢどぅどぢゃんがんがっでーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」 大妖精が酷い声でそう叫んだことは、完全に紫の想定外だった。 「はい?」 思わず彼女は赤コーナーを見る。ベストを脱ぎ捨てたブラウス一枚の大妖精は、投げる はずだった上着を引きちぎりそうなくらい強く胸に抱き締め、もう一度叫んだ。 「がんばでーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」 「な……!?」 今度こそ、紫は絶句する。紫だけではない。チルノに技をかけている幽香も、まさかの 叫びに目を見開く。 (『がんばれ』!?) 直前まで怯え、タオル代わりのベストまで投げようとしていた大妖精がいきなり言い出 した『応戦』に、幽香は理解ができなかった。 しかも、それは大妖精だけではない。 「が……」 小さな口が、無数に開かれた。 「がんばれ〜!」 「チルノーっ!」 それまで黙りきっていた妖精たちが、一斉に声を上げた。羽ばたきを上げた。バタバタ と試合前のような大音声がリングを包み込み、その音にチルノが瞑っていた瞼を開ける。 さらに、妖精だけではなく、まだ幼い弱妖たち。 呆気に取られた紫が気配に横を見れば、橙までが立ち上がって大きく息を吸って叫んだ。 「がんっばれ!」 と抑揚をつけて。 「がんっばれ!」 と大声で。 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「あ、あら?」 声に重なる声に、紫は困ったように眉根を寄せた。あれれ、と取り出した扇子で口元を 押さえる。 (なに?) 何が起きた、とその表情は不可解を物語る。彼女にはいきなり会場が湧き出した要因が わからなかった。しかも、見れば声を上げているのは強い力を持たない弱妖ばかりで、紫 の考えていた『恐怖で動けない』はずの者たちばかりだった。 「いったい……」 「紫様」 そこに声をかけたのは藍だ。彼女は複雑な表情で口を開きかけ、しかしためらって言葉 を引っ込めかけてから、やはり主へとその真実を告げることにした。 つまり、 「幻想郷の未来を考えた紫様のご教授、感服いたしました。ですが、あれって結構遠まわ しですし、理解できたのはおそらく中堅止まりで……その……」 それ以下、つまりは『生徒』であったはずの若手妖怪たちにとっては――。 「あの子たちから見たら、今の状況は風見幽香の攻撃に『たかが妖精』が根性で耐えてみ せたというだけ。だから盛り上がっている……それだけです」 瞬間、ピシリ、と幻想郷きっての大妖怪八雲紫の笑顔は凍りついた。気持ち悪いとか胡 散臭いとかそういうものではなく、本気の本気で面白おかしく凍りついた。 そこに、それまで動向を黙って眺めていた幽々子がクスクスと笑って付け足す。 「紫はいつも肝心なところで抜けているのよねぇ〜」 そのひとことに、紫はガンと鈍器で殴られたような衝撃を受けた。一番言われたくない 人物に言われたそれは、予想以上にショックだ。 「あなたはいつも見てる側だからわからないんでしょうけど、最近の子たちはね、あなた が思っているよりもず〜っとお馬鹿なのよ?」 博麗大結界施行後のゆとり教育の結果かしらね、と幽々子は扇で口元を隠しながら目元 をほころばせる。それは愚かしいけれど可愛らしい、幼子たちを語る大人の言葉だ。 「紫の見せた恐怖を肌で感じてはいても、それを教訓として学習できないから、次の出来 事があればすぐに頭の中はそれで一杯になる。馬耳東風……っていうより、ところてん?」 紫はついに理解した。 彼女の想定していた『時代』とのズレ。 目の前の暴力の理不尽にさえ気がつかない、与えられるものを受け取るだけの楽園の子 供たち。学ばず、流され、全てはその時の状況次第。 過去や未来に影響されない現在を持つ、『その日暮らし』の結晶体。 「……そうしたのは私たちだったわね。畏怖から一番遠い、共存可能なめでたい頭の子供 たち……あ〜、失敗したわ」 教育も相手に合わせなければ意味が無い。むしろ、教える側が逆に気づかされることも ある。 つまり、そういうことだ。 「最強の恐怖でも折ることができない新しい時代の妖怪――本当の『無敵』、ね」 「そう、私はところてんが食べたかったのよ」 試合前の疑問をようやく思い出し、幽々子は催促の顔で妖夢に振り返るのだった。 ――そして。 「こいつ……っ」 幽香は足と腕に力を込めながら、焦りに表情を強張らせていた。バックブリーカーは完 璧と言ってよい形で極まっており、それは幽香が望んでいた『万が一の負け』すらあり得 ない理想的な試合運びの結果のはずだった。 だというのに、 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 声が、降ってきていた。攻めている幽香ではなく、耐えるチルノを応援する声が、そち らをより凄いと認める声が、リングを囲む四方全てから中央にいる幽香の身体に降り注い でいた。 (ふざけるな……っ) ギラリ、と幽香の目が凶悪な光を帯び、わざとバックブリーカーの力を緩める。それは ほんのわずかの時間ではあったが、喉を膝で締め上げられていたチルノに一瞬の呼吸の機 会を与えた。 「――はっ」 呑み込んだ悲鳴に圧迫されていた肺がチルノの口を大きく開かせる。 チルノの喉がようやく絶叫を生み出すのを許され、映姫がうなずいて笏を高く掲げた。 それが幽香の罠だ。彼女はチルノがもう限界であり、少しの気の緩みでその悲鳴が弾け ることを触れ合った身体の痙攣で悟っていたのだ。 その罠に、チルノは逆らわない。 逆らわずに、 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」 自由になった首を動かし、悲鳴を叩きつけるように幽香の足に噛みついた。 「つ……!?」 苦痛の声を上げたのはチルノではなく幽香の方だった。右足の膝の裏、チルノに引っ掛 けていたそこをガブリと噛まれ、そこから響いた激痛に幽香はチルノを見る。 チルノは両目を瞑り、これ以上無いという力を込めて幽香に噛みついていた。赤ん坊が そこしかすがるものがないというふうに親に抱きつくのにも似て、見た目よりも遥かに強 い力がそこに込められている。 「放しなさい……っ」 「っ!」 「いた……っ。この――」 幽香がチルノを痛めつけようと後ろに身体を反らすと、ぐっとチルノが苦痛を噛み締め るために力を入れる。それは幽香の膝の裏の肌に食い込み、赤い血の玉を浮かび上がらせ てなお圧力を増していく。 「はな……しなさい!」 ついに幽香はチルノの腕を腋の下から解放し、自由になった右手で寝転がったチルノの 横顔を殴りつけた。握りこんだ手を小指側を下にした拳槌で振り下ろす。 ガッと良い音がして、チルノの口が呻きと共に開きかけたその時、 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「がんっばれ!」 「ん〜〜〜〜〜〜〜〜!」 「つ……あぁぁ!」 大音声にチルノが再び歯を幽香の足に食い込ませた。打撃や絞め技とはまた違う、異物 が皮膚を破って侵入してくる痛みに、幽香は顔を歪めてその手を止める。今度はチルノの 顔を掌で押さえ込む。掌底でチルノの頬に圧力をかけ、彼女の意思に関係なく無理矢理に その口を開かせようとする。 幽香は本能的に察していた。そうでもしないと、この場の空気に後押しされたチルノは その口を幽香の足から放さない。 やがて、 「う、ぐぅ……」 呻き声を上げて、チルノは口を開かされた。うつ伏せの状態から横を向いて噛みつき、 さらに幽香と揉み合って今は仰向けの状態で彼女と向かい合う形だ。 ようやく解放された足に、幽香は改めてチルノに関節技を仕掛けようとその右手をチル ノから外す。 (もう一本の腕を――) そのように、幽香の意識がチルノの無事な右腕に向かった時。 チルノが上半身を起こし、思い切り幽香に頭突きした。 ガツン、という凄まじい音がして幽香の目が見開かれる。鼻が折れるのではないかとい う痛みが一瞬後に来て、気がついた時には彼女は顔を押さえて後ろに傾いていた。 「あ?」 何が起きたのか、幽香にはわからなかった。 だが、次に起きたことは現実だ。 幽香の背中が、キャンバスに着地した。 「ダ、ダウン!」 目を丸くした映姫の宣言に、会場が爆発するような嬌声を上げた。 ※ ※ ※ 「ダウーーーーーーーーーーーーーーーーーン! この試合、最初のダウンはまさかまさ かの幽香選手! 幽香選手が技を極めてから、まだたったの九十秒……試合開始からわず か九十秒! 時計が壊れたかと思うほど長かったこの一分三十秒で倒れたのは、圧倒的優 勢と思われていた四季のフラワーマスターですっ!」 「チルノーーーーーーーーー!」 「やったぁーーーーーーーー!」 「す、凄い凄い!」 「ぢどぅどぢゃぁーーーーーーーーーーーーん!」 それは幻想郷に台風が乗り上げたような絶叫の嵐だった。妖精たちが向かい合って両手 を叩き合せ、リグルが両拳を振り上げ、ミスティアが跳ね上がり、橙が無茶苦茶に手を叩 き合せ、鼻水を垂らした大妖精がコーナーポストによじ登る。 その中でチルノは体力を使い果たした顔で、のそのそと立ち上がった。立ち上がってか ら、彼女は状況を知る。 起き上がっただけで頭に響くほど痛い肩。 それこそ割れるほどに痛い、頭突きに使った額。 軋みを上げる背骨。 掲げられた映姫の笏。 自分に向けられた歓声。 目の前に倒れた幽香。 「ど」 と彼女は口を開いた。 試合開始後、つに彼女は悲鳴以外の言葉を許されて叫んだ。 「どんなもんよ! あ、あたいったら最強ね!」 全身の痛みに顔をしかめ、足元をフラフラさせながら叫んだその言葉は、打撃でのダメ ージ以上に幽香を打ちのめした。 ジンと痛む鼻を押さえてキャンバスに倒れた幽香は、小刻みに震える掌を見る。そこに はチルノの一撃の証が真っ赤に彼女の肌を染め上げて存在していた。 (う……そ、なんで……なんで……) 鼻血に濡れた手が、状況を嘘にしてくれない。 あり得なかった『万が一』が、歓声と共に幽香の周りを取り囲んでいた。 「スリー、フォー!」 映姫のカウントが耳に届き、幽香はようやく動き始めた。しかし、身体はまるで鉛でも 詰めたかのように重く、思考はさらに重かった。 (こんな……こと……) 真っ白だった。 一回戦で打ち砕かれたプライド。 そんなものではない。 その程度のものではない。 妖精であるチルノに受けたそのダウン宣告は、幽香の中にあった『プライドを取り戻そ う』という意志すら奪い去るに充分なものだった。 一回戦での敗退は、心の中でのもの。 二回戦での状況は、周りから見てわかるもの。 ――終わった。 幽香はそう自覚した。 (私の『最強』は……) 圧倒的な力を秘め、本気になればあらゆる妖怪を凌駕する。数多の列強妖怪の上に君臨 する最強妖怪。 その伝説が。 プライドが。 あらゆるものと『戦う』ことなく、『虐める』ことができる絶対の差が。 (終わ……った……) そして、『本気になって妖精一匹潰せなかった大妖怪』は、目の前に立つ瀕死の妖精を 呆然と見る。 妖精はもう立つのも辛いだろう真っ青な顔色で幽香を待ち構えていた。窮鼠猫を噛み、 起死回生のダウンを奪った意気込みで逆転勝利までも狙う瞳をしていた。 自分がもう戦える状態ではないことを、理解していないその前向きな瞳。 自分が成し遂げた『破壊』の意味をまったく理解していない、一回戦の試合後の紫とは 正反対の真っ直ぐな瞳。 その瞳を前に、幽香の敗北感は怒りへと変化した。 (なんで……っ) 自分の何が、目の前の妖精に劣っていたのか。 (全てで上回っていても負けることがあるなら……) 『最強』など、この世には存在しないことになる。 だから、立ち上がった幽香は、知らず吐き捨てていた。 「……死ねっ」 「んあ?」 審判による続行の声よりも先に、幽香はチルノの右腕を取っていた。その腕を真正面か ら外捻りしてチルノの肘を下に向けさせて、自分は素早く反転して背負い投げの形で潜り 込む。 「――――!?」 「チルノ、抵抗しないで投げられるのよ!」 咄嗟に声を出したのは霊夢だったが、チルノはその意味がわからずにその場で投げに対 して踏ん張ろうとした。 「いだだ!?」 チルノが重心を落とすと、持ち上げる幽香の動きで掴まれた右腕の肘が逆関節に極まっ た。ミシリ、と身体が響かせた警鐘に、チルノの足が意思に反してキャンバスを蹴る。 チルノの身体が幽香の動きに合わせて浮き、それに霊夢はホッと胸を撫で下ろす。だが、 幽香はそこから身体を丸めてチルノを『投げる』ことをしなかった。腰を九十度に曲げた 状態でチルノを担いだ彼女は、掴んだチルノの腕を真下に向かって思い切り引っ張った。 ガクンとチルノの頭が投げの曲線から真下への墜落に切り替わる。左肩を折られ、右腕 を極められたままチルノの頭が一直線にキャンバスへ向かう。 「やば、死――」 と幻想郷最速の文が放送席から飛び出そうとするが、遅い。 身を乗り出した鴉天狗の頭を踏み台にして、『彼女』はそこに飛び込んだ。 「――ぬぅ!?」 文が椅子ごとひっくり返り、その叫びに押されてキャンバスへと転がった『彼女』の上 に、チルノの頭が突っ込んだ。ゴスッと腹に受けた一撃に顔をしかめるその少女の姿に、 お辞儀の形でキャンバスに向き合った幽香が驚愕する。 「な……!?」 「あんた、いい加減にするんだね」 寝転がった悪霊少女が振った天井蹴りが、幽香の顔面を打ち抜いた。蹴りを受けて無理 矢理身体を起こされた幽香は、一歩、二歩と下がりながらそのまなじりを吊り上げてその 少女の名前を叫ぶ。 「み……まぁー!」 「魅魔様!?」 魔理沙の驚きの声が、それに重なった。 ※ ※ ※ 「い……たた、なんです、いったい……って、悪霊?」 魅魔に踏み飛ばされた文が頭を抱えてリングを見ると、そこではチルノを抱えた魅魔が 立ち上がっているところだった。 『魔法使い』と言われて想像される古めかしい大仰なマントに包まれて持ち上げられた チルノは、目を白黒させて目の前の魅魔の顔を見上げていたが、すぐに脳に届いた痛みの 感覚に半泣きになって言う。 「痛ぁ〜! もう、なんなのさぁ〜」 「ま、そこまで色々バキバキじゃね」 左肩、右肘、額、さらに背骨まで痛めたチルノから漏れた弱音に、魅魔は苦笑して彼女 を赤コーナーへと運んでいった。そこでずるずると鼻水を啜る大妖精を目撃すると、さら に眉根を寄せてひとこと。 「女の子の顔じゃないね」 「ふ、ふえ?」 「ぶっ、ははははは! いだぁあ!?」 「チルノちゃん!?」 魅魔に大変なことになっている顔に関して言われて大妖精が怪訝そうにすると、その顔 を見て吹き出したチルノが響いた痛みに悲鳴を上げる。 そんな彼女をコーナーポストの前に座らせると、魅魔はその耳元で囁いた。 「あんたの勝ちさ。良くやったね」 そうして、 「ハイタッチ」 「え? え?」 ポン、と魅魔はチルノの頭に手を乗せた。 それらの流れをリングサイドで見ていた魔理沙は目を丸くする。 「マジ?」 「ちょっと、冗談じゃないわよ」 トーナメント表の反対側でやってよ、と霊夢がボヤく。 だが、霊夢以上に待ったをかけたのは司会兼実況の文だった。彼女は踏まれて落とした マイクを慌てて拾い上げると、 「待ってください! 決着がつきそうな試合に割り込むだなんて……そもそも、あなたは 足が無いということで選手登録を拒否されて――」 「足ならあるよ」 「あ、あれ?」 魅魔が長いスカートの裾を持ち上げると、そこには確かに二本の足があり、文はあれれ と目をしばたたいた。そもそも文の頭を踏んだのもその足である。 「どういうことです?」 「思い出したら、そういえばこの前魔界に行った時には足があったのよね」 「あ〜、亡霊とかってその辺り適当ですねぇ、本当に……」 はぁ、と文はため息をつく。イメージ一つで姿が変わる者など、幻想郷では特に珍しく はない。その都合に振り回されるのも日常的なことだ。 そのようなわけで、魅魔は言う。 「勝者が負傷で次の試合に出れない場合、敗者と予備選手がリザーバー権を賭けて戦うの が妥当じゃないのかい?」 「『勝者』?」 その物言いにピクリと反応したのは幽香だ。彼女は震える手でチルノに頭突きされ、ま た魅魔に蹴られた顔を押えながら尋ねる。 「……勝者、ですって?」 「そこにいる人生の勝利者。ちなみに、あんたは見事な負け犬」 「っ!」 ぎり、と幽香は唇を噛んだ。顔に寄せた指の間から覗くその目の瞳孔が大きく広がる。 力の入った爪の先が肌に食い込み、彼女は呻く。 「だ……れ……が……!」 「お〜お〜、必死だ。あんたにも可愛いところあったんだね」 「ぐ……っ」 「って、なんでそこで睨まれるのが私なんですか!?」 狂犬のように血走った幽香の目が放送席へと向けられ、文はとばっちりだと首を横に振 る。その文に、幽香は憤りを抑え込んだ、低くかすれる声で告げる。 「始めなさい……」 「はい?」 「試合を……始めなさい……」 それは司会に判断を促すものではなかった。 ただ、幽香は文に向かって命令した。その鬼気迫る気配に、文は頬に汗を流しながらも いつも通りにヘラヘラ笑って応える。 「あ〜……本人たちが良いなら始めますが? 面白そうですし。じゃあ、連戦ですから五 分の休憩を挟んでからってことで――」 「試合を始めなさい……っ!」 あくまで公平に判断しようとする文に、幽香はくっと唇を歪めた。瞳孔を広げたまま、 すでに微動どころか大きく痙攣する手で自分を必死に抑えながら彼女は言う。 「今……私の頭の中がどうなってるか……想像してみなさい」 と。 玉のような汗が、その肌には浮かんでいた。 失ったものの『代償』を求めろ、自分を脅かすものを破壊してささやかな平安を手に入 れろと訴える心に流されそうになる自分を、幽香は必死で我慢していた。 「この状態で……今更……連戦の一つや二つが……何?」 『ルール』に反して途中で『止められ』ては困ると幽香は我慢する。 その『衝動のための自制』という矛盾したものに、文はゴクリと唾を飲んで笑う。その 強妖らしい反応に、隣でそれを見た慧音は次に何が起こるかの予想がついた。 果たして、やはり文はマイクに向かって言うのだ。 「――了解しました。双方の了承が得られましたので、チルノ選手の『棄権』を認め、選 手二人によるリザーブマッチを行いたいと思います!」 「やっぱりな……」 本当に自分たちが楽しめれば良い連中だ、と慧音は拗ねたように唇を尖らせるのである。 そして、 「ちょっと、あたいはまだ――」 「はい、それで結構です〜!」 「もが!?」 前に出ようとしたチルノは、大妖精に口を押えられて抗議を封じられたりした。 ※ ※ ※ 2回戦 Aブロック第2試合(リザーブマッチ) 魅魔 VS 風見幽香 ※ ※ ※ 「魔理沙。持っときな」 「おぉっと」 リングサイドに立っていた魔理沙は、魅魔がポイポイっと投げ捨てたマントやらとんが り帽子やらを受け止めながら、霊夢に尋ねる。 「魅魔様って格闘技とかできるのか?」 「ん〜そこそこ」 「お前の『そこそこ』はアテにならんからなぁ……」 「なら訊かないでよ。地獄で陰陽玉ぶつけてやった時は、足も無かったし」 付き合いは長くとも、人間そうそう殴り合いをしている場面を見るものではない。特に 魔法が基本である魅魔が近接戦闘しているところを見る機会など、それこそ陰陽玉を蹴っ たり避けたりしている時くらいしかない。 ともあれ、動き回るのに邪魔な装飾を脱ぎ捨てた魅魔は、真っ白なブラウスに紺色のベ スト。かつて幻想郷に魔界の住人が溢れた際に、その連中の世界に物見遊山に行った時と 同じ格好だ。ブラウスにチェック柄のベストを合わせた幽香とは好対照と言える。 そして、対照的なのはその服装だけではない。 薄く口元に笑みを浮かべた魅魔。 唇の端を噛み切り、気を抜けば即座に襲いかかろうとする自分を押さえ込んでいる幽香。 リリーホワイトはすでにこの試合の開始宣言を行っているため、代わりに審判長である 映姫が二人に告げた。 「よろしい。始めなさい」 その開始の合図によって、幽香の感情は解放された。 ※ ※ ※ 幽香が止まっている時間など一瞬たりとも無かった。 試合開始と同時に彼女は『右斜め前』へと歩を踏み出し、『左斜め前へ』と自分の身を 転がした。 「速い!」 天狗の文が舌を巻くほどのそれは、魅魔に対するフェイントを含む『足取り』だ。魅魔 は最初の動きに視線を誘導させられ、そこから幽香の姿が沈み込んで反対側に逃げたため に完全に目標の姿を見失った。 「ちっ!」 ゴロンと地面を前転しながら右足に触れた幽香の右手に、魅魔は舌打ちしながらその右 足を真後ろに蹴り上げた。掴みかけていた幽香の手がその勢いに弾かれる。 (さすが魅魔様!) チルノとは違うぜ、とニヤリと笑いかけた魔理沙は、しかし息を呑む。 初撃をかわされて魅魔の真横で前転を終了した幽香が、片足を後ろに持ち上げて不安定 となった魅魔の左足を狙って、蛙のように膝をたわめた状態から跳んだのだ。 グルンと前回りで飛び込み、そのまま今度は真横に飛んだ流れ。目まぐるしいその動き が魅魔を捉えたと思った瞬間――。 しなった竹のような勢いで振り戻った右足が、足元を横切ろうとした幽香の脇腹を直撃 した。 「ぐ……っ」 息を詰める一発に、幽香の身体がキャンバスの上に落ちる。 が。 「っと!?」 魅魔もまた、幽香に蹴り込んだ右足を腹に抱え込まれ、相手を蹴り飛ばした勢いで自ら も前につんのめった。 その抱え込んだ右足に、幽香は素早く真下から上へ向かって自分の両足を絡める。そう して右腋で魅魔の足首を極めてアキレス腱固めに持っていこうとするのを、魅魔は、 「……絶対に『右足』を狙ってくると思ってたよ!」 つんのめった前のめりの状態から、右の拳を真っ直ぐに幽香の顔面へと叩き込んだ。 ゴス、という幽香の後頭部が拳とキャンバスの間に挟まれた音が響き、その二重の衝撃 に幽香の視界が一瞬暗幕を下ろしたように真っ暗になった。 それでも、幽香は魅魔の足を放さない。 (勝った……!) 魅魔が打撃のために誘ったにしろ、幽香は相手の足一本を手に入れた。自分の関節技と いう玩具の破壊力は、相手の耐久力に関係なくその関節を直接使用不可能にする。 紫、藍、そしてチルノで実験した結果を、幽香は魅魔でも発揮するために力を込めた。 込めようとしたところに、再び魅魔の拳が顔面に落ちた。 「が……!?」 それは技をかけられているという躊躇いのない、魅魔の全力の攻撃だった。痛い、と思 った直後には、もう一発拳が降ってくる。 ゴス、と拳を喰らう度に視界が途切れ、幽香は悟る。 (こいつ……この位置……っ) 両手両足を魅魔の右足に絡め、自分では立っていない逆さまの状態の幽香は、打撃によ る衝撃をどこにも『逃がせ』ない状況だ。そこに、足の自由を奪われているとは言え、体 重を乗せられる『上から下』へと突き刺す拳が打ち込まれてくるのである。 (かわし――) 降ってくる拳に、幽香は首の動きだけで対応しようとしたが、その思考ごと潰される。 仮想肉体の悪霊とは言え、長年を経て練られた妖怪並の力と速度による打撃は、単純に速 く強い。鬼のように鉄槌とはいかないが、大きな石を連続で顔面にぶつけられるようなも のだ。 (かわせない……両腕が、使えない……っ) 両腕を魅魔への関節技に使っている今、幽香にその攻撃をかわすすべはなかった。魅魔 のアキレス腱を破壊するには身体を反らす必要があるのだが、その反らす動きをことごと く魅魔の拳によって邪魔される。 連続する。 途切れない。 『何もできない』。 その事実に、幽香は脳の奥が焼けるような感覚を覚えた。思考が白くなる感覚。紫に弄 ばれ、チルノ相手に恥をさらした時と同じ感覚。 「み……ま……ぁ……っ」 打撃の合間に口が開き、血を吐くような言葉が無意識に漏れたが、それすらも、 ――ゴス。 衝撃に叩き潰される。 (なん……で……どうして……!?) 前二つの戦いは、戦いとは関係のない『敗北』だった。紫には遊びという点で、チルノ には耐え切られたということで、彼女は敗北感を覚えた。 だが、それでも、プライドは崩されても彼女には残っていたものがあった。 『戦う力では負けない』。 例えチルノ相手に敗北感を覚えても、力で捻じ伏せることでほんの少しの心の平安を求 めることができるはずだった。 だというのに、 (う……そ……) 最初の、『幽香の腹を蹴る』という右足を幽香に取らせる誘導の『一手』。それが、大 した差が無いはずの二人の大妖怪に決定的な優劣を生み出したのである。 その『圧倒的』に、文は驚きを込めて言う。 「魅魔選手、これは『捨て身』! 一瞬でも気を抜けば足を壊される状況で、冷静に打撃 で幽香選手を封じていますっ! 自らもリングに転がされては不可能な、幽香選手が下を 選択したからこそ可能な迎撃! さすがは博麗神社の祟り神とさえ言われる悪霊さん、そ の経験値と決断力は凄まじいのひとことです!」 と、自分で言いながら文は「おや?」と首を傾げる。 目の前で見るような戦い方の『理念』を持つ者が、魅魔の身近にいることを思い出した のだ。 (自分の身体を『餌』にしたこの戦い方……) 思い至った時には、幽香が動いていた。 彼女は魅魔の足を取っていた腕を外し、その両腕を使って魅魔の拳を受け止めた。そし て、両足の裏で押すようにして魅魔を突き飛ばす。 (とにかく……体勢を……) 立て直す暇を、魅魔は与えてはくれなかった。 幽香がどうにか中腰に立ち上がった時、普段足が無いとは思えないほど鋭い魅魔の右の 回し蹴りが飛んできて、幽香はそれをどうにか左腕で受ける。殴られた顔を押さえようと 手を上げかけていたのが幸運に働いた。 そのまま幽香は後ろに下がる。 が。 「!?」 魅魔の蹴りが『幽香に後退させて距離を開けさせる』ためのものだったことに幽香が気 づいたのは、魅魔の不敵な笑みを見た、完全な手遅れのタイミングでのことだった。 「ボサっとしてると、すぐに終わるよ。飛べるのは、霊夢だけじゃないってね!」 霊夢を髣髴とさせる前方向飛びバック宙返り蹴り――昇天蹴が、幽香の顎を真下から跳 ね上げ、 最強を謳われた少女はその身体を傾かせ、 キャンバスへと倒れた。 宣告は、魅魔が着地する軽い音と同時だ。 「ダウン!」 どよめきと同量の歓声が、優雅に髪をかき上げる魅魔へと降り注いだ。 ※ ※ ※ 「よ、妖怪の腕力と耐久力を持った博麗の技使い……って、そういうの『あり』なのです か!? あれは人間が妖怪と戦うためのものであって――」 「魅魔だし」 「魅魔様だし」 「時代です」 ぶちぶちと納得いかなげにマイクに漏らす文に、リングサイドの霊夢と魔理沙はさもあ りなんとばかりにうなずいていた。ついでに、放送席では阿求も「私は最初からわかって いましたよ?」という色々嘘臭い笑顔で付け足したりしている。後付けで良いなら誰でも 言えるよな、とは誰も突っ込まなかった。 その『魅魔なら強いのは当たり前』という声に、ジッとリングを凝視していたレミリア が呟く。 「なるほどね。霊夢と魔理沙の『強さの象徴』ってわけ」 面白い、と彼女はトーナメント表を見る。 自然とこぼれるのは、挑発じみた笑みだ。 「『当たる』なら、潰してやるわ」 また、八雲一家の陣取る茣蓙では、橙が信じられないものを見たという顔で藍の袖を引 っ張っていた。 「ら、藍様、悪霊強いですよっ。知ってました!?」 自分の本能が絶対に避けろと警告する大妖怪をいとも簡単に――まさに一蹴した魅魔の 力に、しかし橙は疑問の方が先に立っていた。橙の感覚では、二人の妖力に差らしい差は 存在しない。一連の攻防で見ることができた『速度』や『筋力』ならば、むしろ幽香の方 が上に橙には見えた。 その二人に何故ここまでの差が出てしまったのか、その『悪霊の強さ』が、橙には理解 できていなかった。 そして質問された藍は、倒れる幽香という自分としても信じられない結果に、慎重に言 葉を選んで自らの式に応える。 「『自信の崩壊と妖怪の欠点』……その二つを、あの悪霊は見事に突いた。さすがに、元 人間ってことさね」 「?」 式に対して謎かけじみたことを言う点に関しては、彼女も主に似てきたのかもしれない。 ともあれ、藍が言ったことこそ、他の列強妖怪たちも気がついた魅魔の『戦い方』だっ た。 だが、それに気づかない列強が一人いる。 (なんで……なんで……) 倒れた幽香本人。 連続で殴られ、最後に縦に揺さぶられた脳へのダメージは、彼女にとっても致命的な域 に達していた。機能を低下させた脳のせいで思考は鈍り、抱いていた激しい憤りさえも、 新しい感情に取って代わられつつあった。 「なんで、私の力が……通じ、ない?」 情けなさに呻くように言いながら、幽香はキャンバスに手をついて四つん這いになる。 幽香は、魅魔の力量であれば把握しているつもりだった。侮れる相手ではないが、どれ ほど不利な状況であっても互角以下の戦いにはならないと踏んでいた。 だというのに、結果はこれだ。 情けない。 「ありえ……ない……」 情けない。 「私は、誰にも負けるはずが……虐められるはずが……」 ない、はずだったのに。 どういうことなのか。 それが疑問過ぎて、不思議過ぎて、幽香は映姫がカウントで八を数える時に立ち上がっ ていた。 (ふざ……ける……な……っ) 情けなさと怒りが入り混じった感情が彼女の足を支える。瞳に宿る暗いものは衰えず、 その光を見た映姫は幽香の続行の意志を汲み取ってうなずいた。 「続行!」 笏を下ろした映姫が、続行を促す。しかし、すでに満身創痍の幽香に対し、魅魔は肩を すくめて無造作に手を前に差し出すのみだ。 「…………!」 反射的に、幽香は魅魔が伸ばしたその右手を掴もうとした。幽香の左肩に迫るそれを、 大きく外側を回した左腕で巻き込んで肘関節を極めようとする。 その幽香の動きに対し、魅魔は左足での後ろ回し蹴りを放つために身を反転させた。す ると、伸ばしていた魅魔の右腕は蹴りのための身体の捻転に合わせて『回り』、掴もうと した幽香の腕から逃げる。 そして、足を小さく畳み込んだ靴裏を使った後ろ回し蹴りが、独楽のように鋭い回転で 左腕を上げて無防備な幽香の左脇腹に突き刺さった。 「ぐ……ぅ……っ!?」 幽香の身体がくの字に折れる。 明らかに力を失っている幽香に対し、魅魔は手を抜かない。痛みに身を折って下がった 側頭部に、もう一発の回し蹴り。弾けて揺らいだその身に、さらに一発。連続で、作業の ように回し蹴りが命中し――。 魅魔が、不意に足を止めた。 「え?」 と幽香が思った時、幽香の膝は彼女の意志に関係なく崩れ落ち、キャンバスに接地して いた。 「ダウ――」 「…………っ!」 幽香にとっての死刑宣告のようなダウンの宣言に被さるように、崩れ落ちた幽香の高さ に合わせた右の蹴りが、スパーンと綺麗に少女の顔面を捉え、そして問答無用の破壊力で 彼女の身体をキャンバスの上に一回転させた。 「――ン! ニュートラルコーナーへ!」 「決まった〜! 狙い済ましたダメ押しの一発っ。果たしてこれが決勝打になるのか、閻 魔様のカウントが入ります! って、それにしても容赦ないですね〜」 「魅魔だし」 「魅魔様だし」 「悪霊ですから」 順番に、霊夢、魔理沙、阿求の人間三人が実にテンポ良く文の感想に結論を述べた。ま あいいですけどね、と文は苦笑しながらキャンバスを見て――ほうと目を見張った。 「立ちます! 幽香選手、立ち上がりました!」 文の言葉通り、幽香は再び立ち上がっていた。ボロボロになり、すでにいつもの余裕の 欠片も無い汚れた顔で、膝を震わせながらキャンバスに両足を着ける。 が。 「シックス、セブン!」 映姫のカウントは止まらなかった。 観客たちが驚いて映姫に視線を向けると、閻魔はその視線などまったく意に介せずに冷 徹で正確なテンカウントを続ける。 それの意味することを、直後に皆は見る。 幽香の身体が動く。体重を支えられない足がもつれ、小走りの速度でリングサイドへ。 そこでロープに突っ伏して引っかかり、 「エイト、ナイン!」 「まだやるかい?」 「…………っ」 魅魔の言葉に、幽香はその視線に鋭さを取り戻した。ロープ際で身体をクルリと入れ替 え、ロープに寄りかかりながらではあったが確かに戦いの意志をもって魅魔を見る。 そこで、カウントは止まった。 「続行!」 「……私は、あなたを倒して……霊夢を壊して、もう……一度……」 さらなる続行の合図に、幽香がもうそれしか無いかのように言葉を紡ぐ。井戸よりも、 地獄よりも深い所から響くようなそれに、魅魔は苦笑いして言う。 「あ〜、そういう怨念とかは、本当は私の方が持った方がいいのかしらね?」 ロープ際にいる幽香と、ニュートラルコーナーの前にいる魅魔。ほんの数メートルの距 離は、しかし十秒経ってもまったく縮まることはなかった。 「わ……た……し……は……」 幽香の足は、前に出ない。 動けない。 それでも、瞳に怒りと、焦りと、情けなさを湛えて前に出ようと足を震わせる幽香に、 魅魔はついにため息をついた。 「あんたさ」 と。 気軽なその響きに、幽香が眉根を寄せる。その『幽香らしくない顔』に向かって、魅魔 は声とは裏腹に鋭い視線で言う。 「さっきも言ったけど、いい加減にしておくんだね。今のあんたは、私にしたらいいカモ さ。気づいてないのかい? 自分が今、どれだけワンパターンなのかさ」 「な……っ!?」 幽香を絶句させるそれが、そのまま試合の流れであり、今の幽香の欠点であった。 ある意味試合終了よりも余程残酷なそのひとことに、文は未だに理解していない観客に 伝えるために補足する。 「これはきつい。魅魔選手、幽香選手に対して痛烈なひとことっ。それもそのはず、幽香 選手は今大会、関節技というたった一つの『パターン』しか披露していないのです!」 それは、妖怪が自分たちを省みた時に初めて気づく事実だ。 大妖怪に限らず、全ての妖怪たちは己の力に特性を持っている。その特性に特化した戦 い方を――定番のスタイルというものを持っている。 それはレミリアのように速度と妖力に任せて相手を飲み込む戦い方だったり、ミスティ アのように相手を鳥目にして妖弾で取り囲む戦い方であったり、それぞれ種々様々だ。 「妖怪が『パターン』を持つのは、それが自分にとって一番自然で、爽快な気分で力が扱 えるからです。何せ、自分の根源に関わる能力の場合が多いですしね。ですが、その結果、 妖怪には一つの共通する弱点ができてしまったと言って良いでしょう」 そこで文はいったん言葉を切る。 興味深そうに聞いていた阿求にマイクを向けると、 「それに関しては、妖怪研究の権威、御阿礼の御子のお言葉をいただきたいと思います」 「あ〜、つまり、『パターン研究』さえしてしまえば、あらゆる妖怪は攻略できるという ことですね。悪く言えば、妖怪の戦い方は馬鹿の一つ覚えなんです。もちろん、そういう 『お約束』があるから、人間とのバランスが保たれているわけですが」 「――と、いうわけです。そういう事情があり、強力な妖怪というのは、一個でも絶対に 力押しで勝てるような『パターン』を持っていたり、数え切れないくらいの多くの『パタ ーン』を用意しているものなのですが……」 風見幽香は、と文は言葉を濁す。 気の毒で言葉を濁したのではない。ただ、言うべきことは全て言ったので、それ以上は 必要ないと彼女は思ったのだ。 (後は、リングの上での問題です) 魅魔の戦い方の種明かしをするなど、幽香に対する贔屓になってしまう。そういう文の 言外の言葉を察し、魅魔はその後を続ける。 「あんたが関節技だけを狙ってくるのなら、私としたら楽なもの」 何せ、と。 「かけてる本人が相手に効くかどうか自信が無い程度の代物じゃあね」 「う……」 その指摘に、幽香は息を呑んだ。それは、チルノと戦っている最中から幽香の胸にあっ た疑念だ。藍が紫の言葉で悟った事実でもある。 一回戦で新しく手に入れたばかりの技。それが実際に試合の中でどこまで使えるものな のか、幽香は把握していない。実験相手がチルノでは、今の魅魔戦が初めての実戦投入と 言って良いだろう。 だから、魅魔は指摘する。 「なんでさっき技を解いた? 最初の時、私が拳を落とすのに構わず無理矢理足を壊すこ ともできたはずでしょう? でも、あんたはそれをしなかった。私と『相打ち』の状況に なった時、あんたは引いたのさ」 さらに、指摘する。 「あの子の時もそう」 魅魔が指で示すのは、赤コーナーのポストに座り込んだままのチルノだ。痛みに顔をし かめたままの妖精との試合を、幽香は思い出す。 「チルノに噛まれた時、あんたはそのままチルノのギブアップを待たなかった。もう少し 痛めつけてやれば、さすがに口くらい放すでしょうに。なのに、あんたは技を解いて、チ ルノの口を開かせようとした」 それで、頭突きを喰らって倒れたのだ。 もしあの時、魅魔の足を放さなかったら? もしあの時、チルノの噛みつきに構わずに技をかけ続けていたら? ――何故、自分は技を解いてしまったのか。その答えに、幽香は愕然とする。 プライドの建て直し。それ以前の話がそこにあった。 つまり、 「チルノを倒せる自信が無かったんだね、あんたには」 「そん……なこと……」 「何にこだわってるんだか、関節技だけを狙ってくる。しかもその関節技には自信が無く て、ちょいと脅してやればすぐに放す」 そこまで条件が揃っていれば、幽香に劣る身体能力しかなくても、幽香を制することが できる。腕を近づければそれに喰らいつき、足を伸ばせばそれを抱え込む――実にわかり やすいカモだ。 「そんな……こと……」 呆然とする幽香。 同時にハラハラしているのは、幽々子の手にした小鉢にところてん突きで出来たてのと ころてんを繰り出していた紫だ。 (まだ……ね、まだ大丈夫。『鍵』はまだ出ていないわ) そんな紫を、幽々子は常通りのぽんやりとした笑顔で眺めている。その視線が、紫には 痛い。 「……幽々子は意地悪だわ」 「今回の紫ほどじゃないと思うわ」 その会話を他所に、魅魔は最後の詰めに入っていた。 そもそも、と言うのだ。 「これは、あんたの性格じゃないでしょうに。あ〜、なんだか犯人の見当はつくんだけど、 一応訊くよ」 年末の格闘ごっこ大会に持ち込まれた、闇の種。 とある『波乱』を起こすために仕込まれた、狂い咲きの花。 そんなものを用意したのは――。 「あんたにそんな後付けの『二次設定』を仕込んだのは、誰なんだい?」 「!」 「私の負け……ね」 幽香が目を見開いた瞬間、紫はそう苦笑してお見事と呟いた。 まさか自分の術が取るに足らない妖精と古臭い悪霊の二人に打ち破られるとは、と。 ※ ※ ※ パリン、と硝子が割れる音が響いたのは、幽香の頭の中だけの主観だった。 その主観の内側で、『種』の大きさに閉じ込められていたものが展開され、逆にそれま で頭にかかっていた『もや』が『種』に凝縮される。 それはごく短時間で幽香の『記憶』と『記録』を入れ替え――。 そして、『眠れる恐怖』は目を醒ました。 ※ ※ ※ 「!」 魅魔の言葉に目を見開いた幽香が次に示した反応は、まずその瞼を下ろすことだった。 一回閉じて。 一回開いて。 う〜ん、と彼女は腕を組む。 前に進めようとしていた身体を後ろに倒し、ロープにその身を預けると、彼女は参照し た脳の『記録』に眉を困った形に寄せる。 「……あらら」 というのは、自然に漏れた苦笑だった。 それは、普通ありえることではなかった。 長年を生きる妖怪たちは、長い年月を生きた間に積もった記憶を、一定量ずつ一気に『 記録』に移す。歳を経た妖怪ほど色々『忘れている』感じがするのは、すぐに活用できる 実感のある経験としての記憶から、箇条書きで表現される『誰それと戦った。向日葵弾幕 で勝った』程度の簡易情報に置き換わった『古い記憶』の引き出しが多くなり、その検索 に時間と手間がかかるようになるからだ。 学んだ叡智を残し、それでいて余分な情報はそぎ落として管理する。それ故に、妖怪は 常に脳が若々しく、そして成長限界が無い。 『そのシステムを利用された』ことに、幽香は『真上』を見る。キャンバスの上、ロー プに寄りかかって仰ぎ見たそこには、どんよりと曇った空以外何も無い。 何も無いそこに、 「ま、今回は私の負けね。なかなか楽しかったわ」 幽香はパチンと指を鳴らした。 すると、変化はリングサイドで起きる。幽々子と向かい合ってところてん抜きをしてい た紫――その目の前に開いていたスキマに花が咲く。 土も何も無い、まさに空間にいきなり根を張ったその花に、紫は慌てずに目を細める。 それが椿と福寿草であることに、結局彼女の手札は品切れになったのだ。 だから、紫は幽々子に向かって手を挙げた。 「お手上げ」 「『二回戦負け』ね、紫」 それが、『一回戦を勝ち上がった紫』のギブアップ宣言であった。 その声がスキマを通じて届き、幽香は空を見上げたままニッコリと笑みを浮かべた。晴 れ晴れしく、珍しいくらいに毒気の無いその笑みは、彼女が本当に目を醒ましたことを意 味していた。 『記憶と記録の境界』を歪められ、遥か以前に忘れてきた記録を記憶と入れ替えられ、 またそれに良からぬ『毒』を吹き込まれた。 それがいつからと問われれば、幽香ははっきりと言うことができる。 (ルーミアの闇に呑まれた時、ね) 一回戦、幽香と紫の試合の時、紫の手によってグラウンドに移った戦いは、閻魔の配慮 により暗幕の中で行われることになった。その際に幽香はまったく本気にならない――そ れこそ弱妖以下の力しか出さない紫に違和感を感じながら戦っていたが、実際には紫はふ ざけていたわけではなく、『細工をする』のに集中して、他の部分を疎かにしていたのだ ろう。 (あの時、仕掛けられたってわけね) そこからの記憶はすでに記録になってしまっているために断片的な情報しかなかったが、 改めて自分の身体を見下ろした幽香は頬を掻いて言う。 「なんて間抜け……う〜ん、さすがにこれは霊夢のことを笑えないわね」 「……なんで私?」 釈然としない霊夢が突っ込むが、他の誰も突っ込みはしなかった。そのことに思わずぷ っと吹き出した幽香は、今度はギシギシと痛む身体を我慢しながら魅魔を見る。 魅魔は幽香がそうして笑っている間、ニュートラルコーナーから一歩も動いてはいなか った。 そんな彼女に、幽香は思う。 (本当に……人間臭い) 自分の知っている他の人間よりも、ずっと人間臭い悪霊だ。 そして、幽香はよしっと腕を振り上げ、大きく伸びをした。 「じゃ」 色々痛い部分はあったりするのであるが、 「やりましょうか」 と。 ※ ※ ※ 「これは……幽香選手、試合の続行を要求! そして……って?」 重い足取りながらロープ際を出た幽香の姿に実況を会場に告げた文は、しかしすぐに怪 訝な声を上げることとなった。 リング中央に向かった幽香がいきなり前屈みになると、スカートの端を掴んで結い上げ 始めたからだ。 「幽香選手? あれは、カボチャですか?」 文が目を凝らすと、やはり幽香はスカートをカボチャ結びにしていた。スカートを中分 けにして結び、左右二つの大きな塊に分ける。簡単なキュロットといった感じの、運動し ても下着を隠したい時などに重宝する裏技なのであるが――。 「あちゃ〜」 「おいおい……」 それを見て、霊夢と魔理沙が同時に顔をしかめた。二人の知っている『風見幽香』なら ば、それが意味することは一つだからだ。 つまり、 「全力かよ」 「目は醒めたみたいだね」 「さすがに『パジャマ』じゃねぇ。ってことで、これで仕切り直し」 魔理沙の嫌そうな顔を土産に、幽香と魅魔はリングの中央で向かい合った。 しかし、仕切り直しとは言っても二人の状態はその服装以上に対照的だ。強がって出て 来たは良いが、すでに幽香の膝は今にも崩れ落ちそうに震えている。笑顔の頬にも汗の粒 が通り過ぎ、そのコンディションを魅魔へと伝えていた。 それでも。 「当然やる?」 「ま〜、最後のひと蹴り付き合っていってくれても、閻魔様の罰は当たらないわよ。ね?」 「ええ、まあ」 魅魔は幽香の答えを知っていながら尋ね、幽香は魅魔のその最終確認にもうなずいて映 姫にウィンクを飛ばす。その幽香の変化に、状況がよくわかっていない妖精を中心とした 観客たちは首を傾げる。 「なに、あれ?」 というのが、観客たちの正直な感想だ。 彼女たちは気づいていた。幽香から先ほどまでの強い剥き出しの『暴力』の気配が消え ている。それは彼女たち妖精からすれば『弱そうになった』に等しい。 だが、 (これは……) と、藍は真剣な顔でその二人の対峙を見る。 (面白くなってきましたね) と、文は放送席でついに本当の意味で揃った大妖怪二人の対決にカメラを構える。 一定以上の力を持つ妖怪たちは、そのリングの上での緊張感が増したのを感じていた。 それは、先ほどまで余裕だった魅魔が意識を集中しだしたことに起因する。 「博麗の技……ね」 見せてみなさい、とレミリアも知らず茣蓙から身を乗り出していた。 その注目の中。 「う〜、いたぁ」 チルノが呻いた声が、スタートの合図となった。 ※ ※ ※ 「う、ご――」 け、とは幽香は言わなかった。 魅魔が右の回し蹴りを放つ。それは、幽香に届くはずが無い、間合いの一歩遠くからの 一撃だ。 そのことが、幽香に凄絶な笑みを浮かべさせる。 そして、幽香は最後の言葉を吐き出した。 「――ける!」 当たり前に動いた足がキャンバスを蹴り、幽香は当たり前のように魅魔の『蹴りの間合 い』へと飛び込んだ。そこには幽香が飛び込んでくること前提の蹴り足があり、それをか わす体力はもはや幽香には残されていなかった。 まさに、最後の『一歩』。 そこに蹴りを置いた魅魔。 (あなた、最高よ!) 高揚感が、彼女に『もう一歩』を刻ませる。 踏み切りは右足で、幽香はその場で身体を後ろに倒し、横に捻りながら跳躍した。ちょ うど陸上の高跳びのように、蹴りという『棒』に対して水平に跳ぶ。跳び越すハードルは、 「!?」 魅魔の蹴り足。 幽香の余力を見切り、そして幽香ならばそれでも一歩を踏み込んでくると読み切ってい た魅魔は、それを越えて動いた幽香に初めて驚きの顔を見せた。 だが、跳躍が足りない。 魅魔に足を向ける形でキャンバスに水平に跳んだ幽香は、ぎりぎりでその蹴りをかわせ なかった。 ゴッ、と音がして蹴りが幽香の身体に対して股間から喉元まで一直線になる形で直撃す る。 が、魅魔は息を呑む。 それは一瞬の中のさらに一瞬の出来事。 幽香の身体と魅魔の足。その二つが触れた刹那に、幽香の両手両足は赤子が枕に抱きつ くようにして魅魔の右足へと絡み付いていた。 ヤバイ、と魅魔が思うよりも早く、幽香は身体を海老のように反らす。 「最高の気分よ、魅魔!」 「つぁ!?」 ベキッ、と周囲にも聞こえる音を立てて、真正面から抱きかかえられた魅魔の膝が逆関 節に砕けた。その衝撃と幽香の体重に魅魔がバランスを崩してつんのめると、幽香は素早 く魅魔の足を放してキャンバスに転がった。 「ちょ……ええ!?」 「なん――!?」 「なんだ今のは!?」 「そんな!?」 マイクに向かって文が動揺の声を上げ、レミリアが思わず立ち上がり、藍が信じられな い思いで叫び、永琳が目を丸くした。 だが、その驚きを追い越す早さで魅魔は両手でキャンバスを突き飛ばし、痛みに耐えて 立ち上がっていた。 (ダメージは、まだ……!) 幽香の方が上だった。 それでも。 「あはっ!」 幽香は笑う。 魅魔の懐で。 「は……」 大妖怪と悪霊の身体能力の差を生かしたその出入りの速度に、魅魔は言葉を発する機会 すら奪われた。 (速過ぎでしょうが!) 幽香の動きに躊躇いは無かった。 何をすればどれだけのことができるか、全てを理解した動き。経験に裏打ちされた破壊 のために、幽香が魅魔の目の前で勢い良く上半身を前へと振り下ろす。 (足はここまでで限界!) 代わりに、幽香は先ほど魅魔がそうしたように両手をキャンバスについた。そうして振 り下ろしの半弧の勢いを利用し、逆立ちの要領で両腕の力のみで『弾け跳ぶ』。 伸身一回転の、両足による前回り踵蹴り。 「づ……っ?」 高速でぶつかってきた両肩への衝撃に、魅魔は耐える。予想に反して、それは痛みを生 む硬い踵ではなく、幽香のやわらかい膝の裏だ。 打点を間違えた――のではない。 魅魔の視界は幽香の腹に覆われていた。前回りで魅魔の肩の上に正面からの肩車の形で 足を引っ掛けた幽香が、その足をあぐらをかくように魅魔の首に回して固定し、腹筋の力 のみで自分の上半身を起こして魅魔の顔を抱え込みながら『自分の前』――魅魔からすれ ば後ろへと体重を投げ出した。 弧を描き、遠心力に乗った力が魅魔の上半身を後ろに倒す。折れた右膝では踏ん張りが 効かず、風車のような勢いに耐えられないで下半身が地面を離す。 魅魔の身体が浮く。 浮いた魅魔の身体が幽香の回転に逆らえずに、その頭をキャンバスに向けて落下する。 幽香が両手を頭上に掲げ、跳ね上がった魅魔の左足を掴む。 そして。 魅魔の頭が二人分の体重でキャンバスに叩きつけられると同時、幽香は掴んだ左足を思 い切り真下へと引き下ろした。 ズダンッ、という衝撃の音と、バキンッ、という音が同時に響く。 「……は?」 とはマイクが拾い上げた文の呆けた声だ。 どうにか絞り出たのはそれだけで、会場にそれ以外の声は無い。 リングの上にあるのは、後頭部をキャンバスに埋めて倒れる魅魔と、その魅魔の首にあ ぐらを絡め、魅魔の左足を肩越しに掴んで、バズーカでも構える砲兵のような姿で動きを 止めた幽香。仰向けに『つ』の字に折れた魅魔の内側に幽香が座ったその形。 結果は――。 「そこまで! 勝者、風見幽香!」 映姫の掲げた笏が、沈黙の後の大喝采を生んだ。 ※ ※ ※ 「か、かっこいい〜!」 「な、なに今の、ぐるぐる〜って!」 「ゆ〜かすご〜い!」 それは最初幽香に怯えていた赤コーナー裏の妖精たちの爆発だった。少女たちは目を輝 かせて小さな両手を叩き合せ、ついには喉を枯らして叫びだす。 「ゆ〜か!」 「ゆ〜か!」 「ゆ〜か!」 「ゆ〜か!」 「さ、最後に全部持って行きましたね、あの人は……」 その大声援。目の前で『凄いもの』を見せられた妖精たちの素直な反応に、文は知らぬ うちに渇いていた舌を少量の酒を舐めて潤す。 そして、慧音と目配せをして、その試合の総評を述べる。 「え〜、苦戦した幽香選手ですが、最後は見事な力を見せつけ逆転の勝利! 三回戦への 進出を決めました。それにしてもこの試合、チルノ選手のがんばりだとか、魅魔選手の乱 入だとか色々ありましたが、それの語ったことは一つでした」 「ああ。どんなに力の差があろうと、どれほどに有利な能力を持っていようと、戦いとい うのはそれだけのことで決するわけではないということだな」 「そうですね。『自信』……それがどれほど戦いにおいて重要であるか、それを教えてく れる試合でした。とにかく、ひとこと言うのであれば――」 文は思い切り息を吸い込み、マイクに言葉を叩きつける。それが放送席に務める者の義 務であるとばかりに、大きな声で、 「風見幽香、強い!」 と。 「一回戦最強妖怪対決、二回戦最強妖怪と最強妖精対決、そしてリザーブファイトとして の最強妖怪と最強悪霊の対決、全てを乗り越え、最後に見せてくれたのはまさに幻想郷最 強の所以! どんな体勢からでも相手を破壊する変幻自在の技は、まさに蔓(カズラ)! どのような地形にも対応する無形の植物のごときその技を見せるは、その名も四季のフラ ワーマスター風見幽香です!」 「ゆ〜か!」 「ゆ〜か!」 文の煽りに合わせ、妖精たちも唱和する。 そうした周りの盛り上がりに、しかし幽香は反応できるほど余裕は残っていなかった。 「い、たた……酷い顔よぉ」 「う〜、私はもう足はいらない〜」 勝者である幽香も、敗者である魅魔も、顔が痛いやら足が両方とも壊れているやらで、 すっかり泣き言のオンパレードだ。特に魅魔は有利に試合を進めておいて最後に逆転され たので、唇を尖らせて早々に両足を『消す』。 そうして、痛みを手軽に消してから魅魔はへたり込む幽香に手を伸ばし、 「それじゃ、ま、ご苦労さん」 「はい」 と、二人はポンと軽く手を触れ合わせた。 本当に軽く、それだけのことであったが、幽香はなんだかそれで満足した。魅魔も同じ で、二人は同時に『符丁』を言い合った。 「おはよう」 という、幽香と紫に対する皮肉の合言葉。それにリングサイドで知らん顔していた紫が いじけるのに、ところてんを啜っていた幽々子が「わかった!」と明るく指を立てて言う。 「負け犬?」 「……やっぱり幽々子は酷いと思うわ」 「結局、紫様が何もしなければこんなにややこしい話にはならなかったんじゃ……」 藍も胃が痛くなる今日この頃だ。そろそろいじけそうな顔で彼女は腹をさすったが、ふ と会場に満ちる幽香への賞賛の声に気づく。 「あ」 「藍?」 その響きに、幽々子といじけごっこをしていた紫が振り返る。思いがけず大きな声を出 してしまった藍は、「大したことではありません」と前置きしてから、言う。 「ただ、今回のことで思うことが一つ」 「言ってみなさい」 「『古い』恐怖を見せつけられて怯えていた妖精たちが、今の風見幽香の圧倒的な『どう しようもない』力を見てこれだけ沸くというのは――」 そうなのかな、と自問しながら藍は呟く。 「彼女こそ、正しく『今の幻想郷』に適応した妖怪、ということになるんでしょうか?」 「あ〜……」 強く。 恐ろしく。 目の前に立てば絶体絶命。 だけれど、離れて見ている分には――あまりに美しいその力。 『触れてはいけない畏怖がありつつ、眺めるには大変よろしい』その存在。 「まあ、妖精たちには畏怖は残らないでしょうけど、人間にはあれで充分では?」 若い妖怪が手本としていく、『今流の恐怖』の象徴。 無理に太古を再現する必要など、もしかしたら今の幻想郷にはないのかもしれない。 しばし考え、それを吟味し、やがて紫はうなずいた。 「そうね」 簡潔に、そんな応えと、珍しい怪しくない微笑みで。 そして、再び紫がリングの上を見れば、幽香もようやく立ち上がったところだった。 彼女はリングを降りようとする魅魔のふよふよと浮いた幽霊姿にひとこと。 「次は、言い訳できないようにハンデ無しね」 「りょ〜かい」 本来格闘など得意ではない魔法を使う悪霊の返事に、幽香は不敵な表情で「リベンジ了 解」と手を振った。 で。 「さて、苺? メロン? 花の咲くものならなんでも出してあげられるんだけど?」 「チ、チルノちゃん、苺が、こんなに大きなメロンが!」 数分後、赤コーナーの周辺は幻想郷一の果物畑もかくやという大収穫祭に突入していた。 幽香が指をくいくいと動かすそばから新芽がキャンバスから生えては花をつけ、立派な果 実を実らせる。 そんな幽香の『謝罪』に大妖精は素直にはしゃいでいたが、チルノは痛めつけられた恨 みにぶすっと彼女を睨みつけるばかりだ。 そこで幽香は一つ考え、 「はい、あ〜ん」 「むぐっ」 手近に実っていた苺を一つ、チルノの口に放り込んだ。 それは実に美味しい。 美味しいのであるが、チルノの心は頑なだった。 「こんなものじゃ騙されないわよ!」 憤慨して、 「一個じゃ駄目よ。もっとよこしなさい!」 そんなチルノの『無敵』な言葉で、その試合は締めくくられたのである。 『Aブロック第2試合』――決着!