東方プロジェクト・ネタバトルSS 東方殴り巫女伝説 〜Bare Knuckle Players〜 1回戦 Dブロック第4試合 伊吹萃香 VS リグル・ナイトバグ               ※ ※ ※ 「ラストバトル!」  と、マイク片手に実況天狗は切り出した。 「ものごとには、始まりがあれば終わりがあります。例え一回戦と言えども、そこには二 回戦へと続く前にその区切り、一回戦の終わり、『始まりの終わり』の最終試合が存在す るのです!」  彼女は声高に語りながら、境内の中央に用意された四角いリングへとその指先を向ける。  だが、今そこにリングは無い。  昼の最中に生まれた宵闇の渦が、今年最後の曇天を越えて地上を照らそうというか細い 陽光を最後の一筋まで遮り、そこに地上唯一の真なる闇の空間を顕現させていた。  屋根も。  木々も。  何も遮るものがない場所での闇は、つまりは夜の闇。空の下で生まれる闇は、太陽を知 らぬ闇。知らぬが故に、影響を受けぬ闇。  音さえも呑み込むそれがリングを隠すその様は、まるで幾多の激戦で傷つき疲弊した舞 台を憐れんで、その深い懐を貸しているかのような幻想を見る者の胸に抱かせる。  次の試合までのわずかな一時を抱擁で癒し、眠りにつかせているような、そんな下らな いロマンチストの感傷だ。  しかし――。 「それは、一回戦全十六試合の締め括りとなる、特別な一試合! 二回戦へと勝ち上がる、 最後の選手を決定し、一回戦の激戦を乗り越えた猛者たちが激突する二回戦への狼煙を上 げる、とっておきのラストバトル!」  拳を振り上げ、振り下ろした先にある放送席が上げるダンッという音に合わせて、彼女 は言うのである。 「それでは、お待たせしました。本日の歳末格闘ごっこ大会一回戦しんがりを務めますの は、まずは青コーナー」  ――しかし、夜の闇が眠りに誘うものだと、癒しを与えるものだと、誰が決めたのだろ う。  リングの上、コーナーポストの上、皆に見えぬ闇の中に佇みながら、その少女は頭上に 腕を掲げてパチンと指を鳴らすのだった。 「『季節の風物詩を楽しむなら彼女に頼め?』妖怪蛍こと、リグル・ナイトバグ選手!」  文が少女の名を告げたその瞬間、宵闇が星空に変化した。  リング一帯を覆う闇。その闇の中に小さな煌めきが一つ点灯し、それに気づいたと思っ た時には、煌めきは夜空を切り取った暗幕全体に広がっていた。  空気の澄んだ冬の空に望めるそれは、古代の知識人たちが競って描いた天文図――星座 のラインを際立たせる。  冬の訪れを告げる御者座。  御者に引き連れられ現れる牡牛座。  二列の星の並びが仲睦まじい双子座。  三ツ星を挟んで巨星が向かい合い、源平合戦にも例えられるオリオン座。  オリオンが従える子犬座。  夜空に最も強く輝くシリウスを抱えた大犬座。  一部を結べば、ベテルギウス・プロキオン・シリウスで『冬の三角形』。  弓を求めるならば、シリウス・プロキオン・ポルックス・カストル・カペラで『シリウ ス大円弧』。  それら一等星全てを結べば、六角形を描く『冬のダイヤモンド』。  誰もが知っているものから、目では見つけにくいものまで。描き方一つで無限の物語を 生み出す点絵の世界。  それは地上に置かれた天球儀そのものの、季節はずれの蛍の煌めきだ。 「ほ〜……」  と感嘆のため息をついたのは誰か、特に誰も確認しようとはしなかった。その時は、誰 もが突然の催しに見惚れ、目を丸くしていたのだから。  そして。  数度の瞬きの後、地上の星々は流星と変化した。  定められた位置から流れ、各々がとある一点を目指して光の尾を引いて走る。  星が、闇が、引き抜かれる暗幕のようにリングの端へ、青コーナーの上へ、リグル・ナ イトバグの掌へ。  それにつれて、現れていくリングの姿。現れていく、リグルの姿。  闇と幻想の光が流れ込むその手を握り、リグルは癒しの闇から陽光の下へと引きずり出 されたリングを見下ろし、威勢よく咆える。 「夜の闇が、私たち妖怪の蠢く時間!」  ――闇でリングに休みなど与えはしない。夜の闇こそ、リグルが呼吸し、戯れる場所な のだから。  その幼い妖怪少女の、幼いが故の堂々たる啖呵に、しかし文は好意的にうなずいてマイ クに口を寄せる。  大変結構、と。 「やはり妖怪はかくあるべきですね。ええ、大変良い見世物でした。――では、リグル選 手の最後の見せ場も終わったところで、赤コーナーの選手の紹介です!」 「ちょ……ええ!?」  思わず抗議の声を上げるリグルに構わず、文は今度はグッと拳を握り締め、下腹に力を 入れて語り出す。  そう、それは彼女たち天狗にしか口にできない最強伝説。 「赤コーナーからは、まさかこの方が来てくれるとは! まさかまさかの、思いもよらな かった大物参戦! 遥か昔に幻想郷を去り、この地では伝説となって久しかった古の力。 最も『力』が純粋だった時代に君臨した荒ぶる王! 多くの『力』が細分化し、数多の『 妖怪』として分化する前に存在した、この東の国の大地に根差したアヤカシの原種族!」  若い妖怪は、今こそ知ると良い。  歳月を経た妖怪たちは、今こそ思い出すと良い。 「曖昧ではない、競争ではない、ただただぶっちぎりの最強と言う言葉の意味を、とくと 噛み締めてください会場の皆々様! それでは『鬼』――伊吹萃香選手の入場です!」  その言葉が生んだのは、影。  不意に翳った冬空の陽射し。  さすがに陽が暮れるには早いと空を見上げた観客たちは、大口を開けて絶句した。  そこに空は無かった。  空を覆う雲すらなかった。  ただ、あったのは、巨大な天井。観客席を一跨ぎにし、覗き込むような前のめりの態勢 で片足を上げた少女の姿。牛馬も一刺しの槍のような角が、それが誰だか皆に明確に教え てくれた。 「どぉ〜れ」  用心棒の先生よろしく、体長二十メートルを超えるジャイアント萃香が、ズシンとその 片足をリングの上に下ろしたのである。 「でかぁぁぁぁぁい! 説明不要っ! この巨人相手に、リグル選手はどう戦うのか!? 会場の皆様、一同揃って期待しましょう!」 「ひ……ひぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」  蛍の絶叫が、寒空に響いた。               ※ ※ ※ 「――って、冗談、冗談よぉ〜」  ケタケタと笑いながら、伊吹萃香は『二歩目で縮んで』キャンバスに降り立った。一歩 で観客席の外から踏み出し、キャンバスに乗せた足に寄せるようにして縮むことで、一気 に移動距離を稼いだのである。  で。 「んぐ、んぐ、んぐ……ぷはぁ〜!」  呆気にとられる周囲に構わず、彼女は手にしていた瓢箪をひょいっと呷る。  そうして喉を鳴らし、満足げに息を吐き出してから「ひっく」と赤ら顔でしゃっくりを 一つすると、途端にもぁっと酒臭い匂いがリング中に広がり、リグルに身をのけ反らせて 鼻白ませる。 「うわ、酒くさっ」 「何よぉ。お酒くらい、みんな飲んでるじゃない」  萃香とリグル、二人がいるのは共にリング上だったが、距離は赤コーナーと青コーナー なのでそれなりに離れている。それでも伝わってくる強烈な酒気に、リグルは「こいつど んな酒飲んでるのよ?」と呆れてしまう。  そして、そのような混沌とした状況をとまとめるのは、やはり司会を兼ねる文であった。 「――それでは、両選手揃ったところで、そろそろ試合を開始したいと思います。両選手、 リング中央にお願いします」 「はいはいは〜いっと」  召集の呼びかけにすぐに応えて、萃香はやや千鳥足気味に歩き出す。一歩足を踏み出せ ば、その膝がガクンと崩れて角の生えた頭が傾く。二歩足を踏み出せば、足の踏ん張りが 利かなくておっとっととつんのめる。 「危ない……っ」  ギランと凶悪な輝きを放って萃香の角が飛び込んできて、映姫が慌てて腕を伸ばして子 鬼の頭を受け止めた。 「あ〜、こりゃ失礼。恥ずかしいなぁ」  てへへ、ともとから赤い頬をさらに濃く色付かせて少女が照れる。しかしそれは実に陽 気で明るい、いわゆる悪びれない照れ方で、その印象は会場全体に一致する見解を持たせ るに至った。  つまり、 (完全な酔っ払いだ)  というものだったりするのである。  その感想は相対するリグルも抱いたもので、彼女は少しだけホッとして平たい胸を撫で 下ろした。 「なんだ……あれだけ酔ってれば怖くないわね。ミスちーはどう見る?」 「鬼は酒呑み大酒呑み〜、酒にゃ呑まれぬ酔って生く〜♪ 蟲は珍味でかなり好き〜♪」 「うわ、不吉な歌っ。それどこの歌よ!?」 「蟲ムシコロコロ団子ムシ〜♪ ――って、私の歌はみんな私のオリジナルよ」  セコンドに入ってくれたミスティアに尋ねれば、夜雀はしれっと何でもない顔でそう応 えてきた。その返事にリグルは――例えが悪いが――苦虫を噛み潰した顔になって、映姫 の隣でケタケタ笑っている『伝説の鬼』を見遣る。 「強いのかな〜。鬼って言ったら強いんだろうなぁ……」  そのように自信無さげなリグルだったが、それも仕方ないと言える。例え妖怪であって も、いきなり巨大怪獣がリングに入ってくればビビるものなのである。  が。  額に手でひさしを作ってその鳥目を細めたミスティアは言う。 「でもほら、私たちより小さいよ?」 「え?」  そこに来て、初めてリグルはその事実に気がついた。言われてもう一度萃香を確認する と、確かにそこに立つ少女は小さかった。  リグルも弾幕ごっこに参加する少女たちの中では背丈が小さい方であるが、明らかにそ のリグルよりも小さい。リグルを『少女の最低ライン』とするのならば、萃香は世間的に 『幼女』と言って差し支えない程度の背丈しかなかった。人間で言うのならば、間違いな く十の齢に達していない。 「んぐ、んぐ……ぷぅ。どうしたの〜? 早くおいでってば〜」  その外見の子鬼がいかにも強そうな酒を呷る姿には違和感があったが、そこは『飲酒は 物心ついてから』が基本の幻想郷では気にするところではない。  リグルにとって重要なのは、明らかに萃香が『チビ』であるということであった。  うむ、とリグルとミスティアは顔を見合わせる。 「いけるかしら?」 「いけるんじゃない?」 「チビよ」 「チビね」 「私負けたら、チルノだけ二回戦進出?」 「そうなったら……」  二人は想像した。 『あたいったら、最強ね!』  同時に二人は両腕を持ち上げ、そして頭上でパァンと叩き合せた。 「行ってくるわっ」 「がんばってね〜。私も応援の歌を唄うわ! ラララ、鬼の一撃は金棒〜、今日の肴は蟲 の佃煮よ〜♪」  世の中、見ている観客の方が泣きたくなってくる光景もあるものなのである。               ※ ※ ※ 「鬼は所詮廃れた力。今日は現役の妖怪の力を見せてあげるわっ!」 「へぇ?」  準備運動代わりに両肩をグルグル回してやってきたリグルに、リング中央で向かい合っ た萃香は面白げに頬を緩めた。  萃香が酒を呑んで赤ら顔であるのに対し、リグルは無理矢理高揚させてきた気分と寒さ で頬を林檎のよに赤く染めている。二人とも体温がかなり高いのか吐く息は真っ白で、寒 気の中でぶつかった互いの息がその白さを交じり合わせて曇り空へと上っていく。  そして、その勢いのまま、リグルはビシッと萃香を指差して言うのだ。 「覚悟しなさい、このチビ!」 「チ〜ビ〜?」  その言葉に、さすがに萃香の眉が跳ねた。さらにダメ押しとばかりにリグルの後ろの青 コーナーでミスティアが「ちーびちーび鬼はちび〜♪」と唄いだしては、緩めた頬を引き つらせて激怒しても無理はない。  少なくとも、挑発したリグルはそう思っていた。  だが。 「ふぅん」 「あれ?」  予想に反して萃香が鼻で笑ったので、リグルは虚を突かれた形になった。その意外の表 情に向かい、萃香は瞳を妖しく輝かせる。  そうして、不意に萃香は告げた。 「私はあなたを見ていたわ」  と。 「……え?」 「あなたは、かなりうかつな妖怪ね。宴会でも、最初は分をわきまえて弱いもの同士で固 まって身を守っているくせに、ちょっと調子に乗ると相手を見ないでちょっかいを出して、 痛い目を見る」 「み、見てたってどこで……っ」  つい最近、師走になってから何度も行われた忘年の宴でのことに、リグルは身をのけ反 らした。その失敗をした宴会の日、目の前の鬼がいなかったことは確認済みだ。  だけれど、萃香の口は止まらない。酒に濡れた唇は軽く、真っ赤な舌はさらにリグルの 秘密を暴き立てて突きつける。  そう、あの失態。 「その中でも去年の秋は格別だったわ。紅白の巫女にスキマ妖怪、吸血鬼にメイド、亡霊 に半人半霊、最後におまけで普通の魔法使いに人形遣い。どれもこれも自分から手を出し て……あなたはいったい一晩で何度負けたのかしら? 何度悲鳴を上げて逃げ回ったのか しら?」  忘れられない、屈辱の夜。  弾幕ごっこ、一日連続四連敗。それはいわゆる一つの『大記録』だ。  でも、それすら前座でしかない。下から覗き込んでくる鬼の瞳に、その幼い姿に不似合 いな叡智の色に、リグルはもっと心の奥深く、矜持に関わる重要なところまで見透かされ ているような気がして、背筋がゾクリとした。  果たして、萃香は言う。 「終わらない夜に浮かれて? 違うわね。あなたは終わらない夜の、偽りの月に、いつも とは違う月に戸惑っていたの。だから、通りすがった誰かに声をかけた。あなたがあの吸 血鬼をどうにかできるはずがないのは、あなたにもわかっているでしょう? でも、あの 時のあなたにはそうは見えなかった。そう見たいと思う願望が、あの時のあなたには見え ていたんじゃないかしら?」  ねえ、と萃香の言葉は蒼白になるリグルの耳に絡みつく。ごくごく小さな悪意の粒子が 鼓膜の合間をすり抜けて脳に至るように、毒を込めて囁いた。 「それで、真実を知れば悲鳴を上げる。そうよ、あなたに吸血鬼に手を出す勇気なんかは ない。分をわきまえないで、勘違いして盛り上がって、いつもあなたは失敗する。本当は 自分でも気づいているんでしょう? 自分がただの弱虫であることに。『妖怪だから』だ なんて嘯いて誰かの前に立ちふさがってるけど、それはただ『うかつ』なだけに。勇気を 出して誰かの前に立っているわけではないことに」  過去の行動の全てを否定する、その言葉。 「あなたは、『相手の強さに気づいた』上で相手の前に立ったことなんて、一度もないっ てことに」 「う、うるさい、うるさい、うるさいーい! そ、そんなの全部あなたの想像じゃない! 勝手に覗いて、勝手に想像でものを言わないでよっ」 「ま、そうなんだけどねぇ〜」  ついに呪縛を振りほどくようにリグルが頭を振って叫ぶと、萃香は拍子抜けするほどに あっさりと肩をすくめて引いた。  全ては想像なのだと。  自分が勝手に考えたことなのだと。  でも。 「でもね、あなたが今私の力を理解して目の前にいるとは思えない」  そのひとことに、リグルはゴクリと息を呑んだ。  否、リグルだけではない。 「鬼の力がどれほどのものか、理解しているとは思えないわ」  萃香の語りに目を細めたのは、むしろリングサイドで観戦している者たちだった。  紅魔館の面々が座る一角では、吸血鬼が。  白玉楼の二人がくつろぐ席では、亡霊嬢が。  永遠亭の一同が揃った一面では、永遠の命を持つ者たちが。  それぞれがそれぞれの感慨で、幻想郷唯一の鬼の姿を見る。  その中で、 「理解して、それでなお私の前に立つのであれば、私はそれを褒めてあげる。だけど、そ れを理解しないで私の前に立っているというのなら――」  萃香は左右の手首、そして背中に手を回して髪に括りつけられた鎖を外す。  最後に瓢箪の口の部分をひと舐めして、彼女はその命の水瓶を鎖と一緒にひょいとリン グの外へと放り投げた。飛んできたそれを承知の顔で受け取ったのはマイク片手の文で、 その天狗が空を見上げれば、ちょうど春を告げる妖精が姿を見せる。  映姫がそれに合わせて笏を掲げ、リリーホワイトは一回戦最後の試合の開始を告げた。 「始まりですよ〜」 「――これから行われる格闘の遊戯。その中で己の及ばぬ太古の力を目にして、怯え逃げ 出すがいい!」  その叫びが、世界を壊す。一瞬高密度の『空気』が萃香の身体から広がったと思うと、 それは神社の境内を瞬きの間に呑み込んで変容させた。 「あ」  とまず言ったのは文。  彼女が見つめる空は、黒い雲が渦を巻き、 「あの馬鹿」  と眉根を寄せたのは霊夢。  彼女が見る周囲には、妖しい霧が漂いだしていた。 「え、何これ?」  ざわめく観客たちは、それぞれが違う幻を目にする。空気に混じる粒子の量が変動し、 その中にいる『何か』がケタケタ笑いながら光を屈折させる。  赤、青、黄色、まるで出鱈目な光線がリングを覆い、しかしそれでも選手たちの姿はは っきり見える。  妖魔夜行。  妖怪を凌駕する化け物が作る異形の世界。  響きだすのは、不安を駆り立てる恐怖の曲だ。  BGM:御伽の国の鬼が島 「鬼が!」  文が声を張り上げる。音の伝達さえ阻害できる粒子に負けないように、大きく勢いをつ けて早口に。 「鬼が戦う姿、今こそご覧ください! これが頂点! これが幻想郷で最高位に位置する 純粋なる『力』の姿です!」 「う……あ」  三人の騒霊たちの奏でる曲が会場を支配し、リグルは一人キャンバスの上で足をすくま せていた。  それは異様な雰囲気であった。  鬼が空間を上塗りし、観客たちが一斉に一つの期待に目を輝かせる。意味の取れない叫 ぶだけの嬌声がリグルを取り巻き、そのありえないほどの熱狂が彼女の背筋を寒くさせる。 (な、なに!?)  ただ見るだけならば『鬼VS弱妖』という、盛り上がる要素の無い試合だった。  だが、萃香の放った『何か』が、会場の雰囲気全てを一変させた。まるでどこかからか 『熱狂が萃められた』かのように。 (こ……この化け物〜!)  カチカチと耳障りな音を立てる自分の歯に、リグルはキュッと唇を硬く結んだ。身体が 硬直する。高揚していた気持ちが冷えていく。  いつもは『うかつ』と言われるほどに鈍い危機回避能力が、このような時に限って警告 するのだ。  ――この相手はヤバい。  ――この鬼は『違う』。  目の前にいる笑顔の小娘が、これまでリグルが怖いと思ってきた『吸血鬼』や『天狗』 と同等かそれ以上の力を持っていることを、教えてくれるのだ。  しかし。 「ざ……」 「ん〜?」  リグルは、声を捻り出す。カラカラに渇いた喉を通して、彼女は精一杯の不敵な表情を 作って言ってみせた。 「残念だけど、私の蟲たちに、『弱虫』の蟲は一匹もいないのよ……っ」 「それが私が最後に聞いたぁ〜、彼女の言葉でした〜、べべん♪」 「だから不吉な歌を唄わないでってば! ええい、もうっ」  ミスティアの歌声に背中を押される勢いのみで、リグルはキャンバスを蹴って動き出し たのである。               ※ ※ ※ 「おおっと、これは……!」 「へぇ」  リグルが萃香を中心にして回りだすと、それだけで文が目を見張った。萃香自身も意外 そうな顔をして、自分の後ろに回りこんだ蛍の妖怪に振り返る。 「ふぅ〜ん、なかなか」 「鬼が何よ。どんな力持ちでも、要は掴まらなければいいんじゃない!」 「それは正解だけどさ〜」  なるほどなるほど、と萃香は酒臭い息を吐く。一瞬その息にボッと火が点るが、映姫は それに対し無言で流す。  観客が驚くほどの速さでリング内を駆けるリグルを視線で追いながら、萃香は両腕をダ ラリと垂らしたまま、その場で頭を揺らしていた。フラリ、フラリ、という左右のリズム は重度の酔っ払いそのもので、目は思いのほか良い動きを見せる相手に楽しげに細められ ている。 「さて」  そして、萃香はリグルが自分の前を通るタイミングを狙って一歩を踏み出した。それは 何気ない一歩だったが、次の一歩でリグルの行く手を遮って掴まえるに充分なタイミング だ。  が。 「あら?」  しかし、驚きの声を上げたのは萃香の方だった。  萃香の右肩側から左肩側へと通り抜けようとしていたリグルの姿が、不意に霞んだ。タ ン、とキャンバスを蹴ったリグルが萃香の右斜め前、左斜め前と連続して短距離を『ジグ ザグ』に瞬間移動し、 (予想以上に速い!?)  そう萃香が思った瞬間、少女の身体が弾丸のように『前回りしながら突っ込んで』きて いた。 「うりゃああああああああああああああああああああああああああああ!」  ガツン、と鈍い音がした。  目で終えないほどの速度から身を投げ出しての『前回り踵蹴り』が、無防備に進み出た 萃香の額にまともにカウンターでぶち当たり、リグルは会心の笑みを浮かべる。  ――のだが、 「え? あれ?」 「つーかまーえた〜」 「う、嘘!?」  萃香はそのまま構わずに前に進んでいた。両手を頭上に振り上げ、まるで子供が親元に 駆けるかのように走り出して青コーナーのポストを目指す。 「や、やだ、こっち来ないでってば!」  リグルを『顔に引っ掛けて』突進してくる萃香の姿に、気持ちよく唄っていたコーナー 裏のミスティアが顔を引きつらせる。  しかしそれで止まる萃香ではなく、 「ミ、ミスちーごめんっ!」 「へ? ぎゃっ!」  自らの身体がコーナーポストに叩きつけられる寸前、リグルが萃香の顔を地面にして斜 め後ろ――ミスティアの顔に向かって跳んだ。コーナーポストを挟んで立っていたミステ ィアは突然のそれに反応できず、飛んできたリグルに顔面をさらなる踏み台にされて悲鳴 を上げて吹き飛んだ。 「リグル選手、三角飛び〜!」  その背後でどがぁ〜んという凄まじい音が響き渡り、リグルは空中で身を翻しながらそ れを見る。  真正面から萃香の体当たりを受けたコーナーポストは金具を弾け飛ばして無残に傾き、 つい直前まで夜雀がいたセコンドスペースを押し潰していた。ミスティアはリング外に落 ちて顔を押さえ「また鼻〜!?」とのたうち回っていたが、もしあのままその場にいれば、 実に美味そうな『夜雀のコーナーポストサンド』が完成していたことだろう。  だが、リグルにとって重要なのはミスティアの安否ではなかった。 (き、効いてない、効いてない、私の一番威力をこめた一発が効いてないってば〜!)  身体全身を使って打ち込んだ必殺の蹴りをあっさりと無視され、リグルはコーナーから ゆっくりと振り返る萃香から再び距離をとった。  一方、萃香は萃香でリグルの動きに感心する部分を見出していた。その気持ちは放送席 の文が代弁してくれる。 「リグル選手、危うく難を逃れましたが、驚くべきはその直前! 萃香選手に一撃を叩き 込んだあの左右に身体を振っての踏み込みは、恥ずかしながらこの私でも真似することは できませんっ!」 「そうだな。あれは天狗のように高速で長い時間飛ぶものとは違う、短い距離を『跳ぶ』 動きに見えた」  同じように、慧音もうなずいてそう言った。  リグルは文のような天狗に比べて、それほど空を飛ぶのが速いわけではない。しかし、 ごく短い距離を移動する先ほどのような場合には、天狗に匹敵、もしくは凌駕する速度を 出してみせることもある。  つまり、 「瞬発力が極めて高いため、移動し始めてから最高速度に達するまでの時間がごく短い。 しかも、それをストップアンドゴーで連続で繰り返せる」 「まさに蟲ですねぇ。昔から蟲の妖怪はそういうのが得意なのです」  最高速度では文の半分少々であっても、ほんの数歩の距離を移動する速度は、リグルの 方が速い。その速度でジグザグに懐に入られれば、並の妖怪の動体視力では捉えられるも のではない。  人間を遥かに越える身体能力が売りの妖怪の中でリグルが特に秀でたのはその瞬発力で あり、彼女自身も他の妖怪を相手に格闘ごっこをするのならば、その小回りを十二分に生 かして、ヒットアンドアウェイの『出入り』を中心とした戦いをするつもりだった。  一気に懐に飛び込まれた場合、手足の短いリグルに対して、体格の勝る少女たちは打撃 に充分な間合いを作ることができない。その『間合い潰し』を利用して、入っては打ち、 掴まれる前に逃げ、を繰り返すつもりだった。  ――『つもり』だった。  その算段を実行した一回目の接触を終え、リグルは自分の作戦の誤りを悟っていた。 (無理っ)  ジンと痺れる右足を意識し、リグルはケロリとした萃香の顔を見て心の中で舌打ちした。 自分の全力攻撃でダメージが通らないのであれば、後は何をしようが萃香を倒すことはで きない。  弾幕ごっこで、時折偶発的に巫女や魔法使いを打ち落とすことすらできる自分の奇襲の 蹴りだっただけに、リグルはいきなり行き詰まった状況に頬に汗を伝わせた。 (まだこちらにもダメージは無いけど……)  コーナーから進み出てくる萃香に、それをリング中央で待ち受けるリグル。お互いにま だ無傷ではあったが、最初の攻防で早くもその試合の趨勢は決まってしまったと言って良 い。  ちなみに、この試合で一番ダメージが深いのがリング外に落ちたミスティアであること は、すでに観客の眼中にもなかったりするのであるが。  ともあれ。 「でも、これは『格闘ごっこ』!」  一つの開き直りで、リグルは小さな拳を握り締めた。  考える。 (まともな戦いじゃ無理でも、この『お遊び』なら私でも充分に勝てるはずっ)  そして、 「来な」  伊吹萃香を、手招きして誘った。  それは沈黙を生んだ。 「は?」  という文の呆けた声が会場の総意であり、また本音であった。まさか、弱妖に並べられ るリグル・ナイトバグが、最強とさえ言われる鬼を相手に余裕の挑発をすることなど、予 想の範疇外だったのだ。  と言うか、 (う、うわ〜、わ、私すげぇーーーーーーーーーー!)  本人が一番驚いていた。  手招きしながら、全身の毛穴という毛穴からぶあっと汗の玉が噴き出した。こちらを見 る萃香の目が一回キョトンとし、そうしてからいかにもニヤリというふうに笑ったことに、 今度は産毛まで逆立つほどに怖気づく。  しかしそれでも、彼女は自分がまずしなければいけないこと――自分が生き残るために 必要な作業のために、必死だった。  その誘いに乗り、萃香はのっそりと緩慢な動きで一歩を踏み出し、  両足が絡まってつんのめった。 「ぶっ」  観客全員が吹き出す中、転びかけた萃香が慌てて足をキャンバスにつける。それでも転 倒の勢いは殺せず、萃香は両足を交互につきながら角の生えた頭をリグルに向けた状態で 『すっ転んで』いった。 「――いや、違う。速いっ!」  慧音が気づいた時には、萃香は先ほどのリグルにも負けない速度で相手に接近していた。 両足を交互につくとは、つまりは走っているのと同じことだ。萃香は転ぶのに見せかけ、 『傾きながら走って』いた。  それはまさにリグルを轢き殺す速度であり、萃香はリグルに触れるほどに近づいた距離 で大きく右拳を竜巻のように横振りに振り回した。 「っ!」  間一髪、リグルはそれを避けてバックステップする。拳ではなく腕全体で巻き込むよう な萃香のラリアットが顔面スレスレを掠めて行き、風圧がリグルの前髪を一気に持ち上げ る。 (う、あ〜!)  目の前に『空気』が根こそぎ消し飛んだのを、リグルは体感した。  理解する。 (ま、まともに喰らったら、私の顔も消し飛ぶ……っ)  しかし恐怖している場合ではない。萃香が大振りを打ち終わったわずかな時間で体勢を 立て直そうとしたリグルだったのだが、萃香は腕と腰を振り切ったほとんど背中を向けた ような状態から、 「ほいさ!」  キャンバスを蹴って、後ろ向きにかっ飛んで来た。 「う、嘘!?」  それはまさに『萃香ミサイル』とでも言うような代物で、尖った角が目の前に迫ったリ グルは反射的にその場でお辞儀した。頭を下げたその場所をもの凄い勢いで鬼の身体が通 り過ぎ、キャンバスに落下したズダーンという音と、何より足元に響いた振動がその破壊 力を知らせた。 (避けたっ。次は――)  萃香の次の攻撃に対応すべくリグルは振り返る。  が、予測したキャンバスの上に萃香はいない。  萃香は、 「ばぁ〜!」  真下にいた。  寝転がったままリグルの爪先の前にまで回転してきた萃香が、おどけるように真っ赤な 舌を見せ、両手をキャンバスについて『逆立ち』して両足をリグルの顔面に向かって突き 上げた。  リグルはそれに対して真後ろにバック転し、距離を置いて着地する。 「これは良い攻防! 萃香選手の変則な動きに対し、リグル選手の反射速度が冴えに冴え 渡る! 萃香選手、持ち前のパワーも当たらなければ意味はありません! ……って、あ の反射速度は、完全に逃げに徹しているからなんですけどね」  最後の部分のみ、文はマイクから口を離して慧音に告げた。半人半獣の少女はそれに苦 笑しつつ、しかしとリグルのその行動を評価する。 「私はあれは正しい判断だと思う。鬼の力に正面から対抗するのはやるだけ無駄だ。速さ でかく乱し……」 「判定に持ち込む、というわけですね」  慧音が濁した結果を受け取り、文はうなずいた。  なるほど、と。 「確かに、正しい判断かもしれませんね。勝ち目があるならそれに賭けるのは『遊び』と して正しい姿です。正しいのですけどね」 「なんだ?」  さらなる萃香の追撃を見事な動きで回避するリグルを眺めつつ、文はため息をつく。そ の様子に慧音が不思議そうに尋ねるが、文はそれに応えずに再びマイクに口を寄せた。 「さあ、萃香選手の拳が空を切る! リグル選手も速いですが、萃香選手もその動きは俊 敏にして変則! いつ命中してもおかしくはありませんっ! そして、命中したその時が 試合の終わる時! 果たして、リグル選手は試合終了まで全ての被弾を逃れることができ るのか。それとも、萃香選手の圧倒的な力が残酷な結果をもたらすのか!」  『その瞬間』を期待する観客たちを煽るように声を上げたが、しかし必要はなかった。 意外なほどに善戦するリグルの姿に、萃香圧倒的有利という下馬評で始まった試合に新た な応援の形式が作られつつあったのだ。 「リグル、そこ避けて!」 「危ない、うわ、よぉし!」  妖精や弱妖、いわゆる『弱い』観客たちを中心に、リグルを応援する声が多くなってい た。皆が皆噂でしか『鬼』の力を知らず、その噂だけの強妖に対抗する自分たちの代表に、 手に汗を握って声をからしている。  そして、リグルもその応援の声に乗って集中力を高めていた。もともと調子に乗りやす い性格もあり、声援の後押しは彼女にもありがたかった。そうでなければ足がすくんで動 けなくなりそうな緊張が身を支配していたからだ。 (死ぬ……死ぬ……当たれば絶対に死ぬ……っ)  それは弾幕ごっこではなかった。  野球選手のように振りかぶった拳を萃香が振り下ろす。  大きく飛び上がった萃香が、爆音のするような飛び蹴りでキャンバスを揺らす。  どれもこれもが『弾』どころではない『鬼のパワー』で自分に迫ってくるのだ。妖怪は 頑丈かつ適当に作られているので八つ裂き程度ならば復活は可能であったが、あの破壊力 で一撃喰らえば昏睡したまま新年を迎えるハメになるのは間違いなかった。  だから、リグルは一定の距離を置いて萃香の周りを回る。最初のように不用意に踏み込 んだりはせず、自分が相手の攻撃に反応できるだけの距離を常に用意する。 (できることは全部してやるわ。私を馬鹿にして……私だって妖怪だってことを、見せて やる!)  もし判定にまでもつれ込めば、一撃とはいえ綺麗に一発を当てた自分の方が有利なはず、 とリグルは考えていた。萃香の攻勢を映姫が評価しても、判定にまで持ち込まれた段階で 萃香の評価はがた落ちだ。 (恥をかかせてやる!)  逃げ回ることだけなら、自分にもできる。そして、逃げ回ることが最終的に自分の勝利 に繋がるのが、この大会での試合ルールであった。そのためにわざわざ挑発までして『リ ングの中央』までおびき寄せたのである。 (鬼の攻撃は変則だけど、攻撃の動き自体は大きいし、リング中央に釘付けている間は避 けられる。勝てる確率が少しでもあるなら、そこを徹底的に突く!)  『倒してやる』、ではなかった。  『馬鹿にしてやる』、『見返してやる』、それがリグルの目的であり、勝利であった。 リグルの考える妖怪像とは、そうした可能性が少しでもあるのならば、例えリスクが大き くともそれを実行する。それで痛い目にあうのは、ある程度お約束のようなものだ。 (妖怪……妖怪!)  試合前に萃香に言われたこと。  自分自身の矜持を傷つけられたことが、『妖怪らしさ』というものをリグルに意識させ ていた。 「ふぅん?」  萃香はそのようなリグルの遠巻きな動きに片眉を上げ、それまで精力的に動かしていた 追撃の手を止めた。  そうして、グルグルと回るリグルの動きを観察し、 「よっ」 「!」  リグルが萃香とコーナーポストの間を通過した時に、萃香がその先回りをするように左 足を斜め左前に踏み出した。  例によって萃香の右肩側から左肩側に移動していたリグルは、その一歩から距離を取る ために、持ち前の飛び跳ねる動きで自分の右前に現れた萃香の足から左後ろに飛びすさっ た。  すると、萃香が左足でキャンバスを蹴って、二歩目の動きでリグルに向かって一歩出る。 それはリグルの着地する左足よりもさらに左側に回りこむ動きで、リグルはそれから距離 を取るために、今度も真逆に自らの右後ろに飛びすさる。  そうやって左、右、と順番に下がったところに、萃香が再度自分に先回りする位置に一 歩出てきたので、リグルはやはり再度真逆に左後ろに――下がることは、できなかった。 「え?」  トン、とリグルの左側面に触れたのは、コーナーポストと繋がって三角州を作るロープ だった。 「え? え?」  何が起きたのか、リグルには一瞬理解できなかった。  だが、目の前に迫る萃香の姿に、自分がまんまとそこに追い詰められたということだけ はわかった。 「なんで!?」  悲鳴を上げるリグルをよそに、文はため息混じりにそれを解説する。  仕方ないですね、と。 「『ジグザグに蓋をされた』のですよ」  コーナーというロープが作る三角州。そこにリグルを追い詰めるため、萃香はリグルの 右前、左前、右前、の順番で『蓋』をした。それから逃げるために、リグルは左後ろ、右 後ろ、左後ろ、と下がった。  コーナーポストの前で、左右の当幅移動をしながら後ろに下がれば、どうなるのか。  答えは、 「理詰めで、真っ直ぐ後ろに下がらされたってことです」  文が呟き終わる時には、リグルもそれを把握していた。背中に触れたコーナーポストの 感触が、それを教えてくれたのだ。 (こ、こいつ、馬鹿力だけじゃない!?)  思った瞬間、拳が飛んできた。  小さな、リグルよりも小さな拳に秘められた破壊力に、リグルは顔を引きつらせて上半 身を目一杯横に傾けて逃げた。  直後、轟音が弾ける。  リグルの代わりに萃香の拳を受けたコーナーポストが、何の抵抗も見せずにドミノの積 み木のように『倒れた』。一発で金具が弾け、ロープが千切れ、威力に耐えられなかった リングから外れたポストがリングサイドの地面に叩きつけられる。地面で跳ねたポストは そのまま観客席に飛び込み、暢気に観戦していた妖精たちを押し潰す。 「むぎゅ〜!」 「うきゃ〜!」 「ひえぇ!?」  思い切り――それこそ横のロープに張り付いてまでその致命的な一撃を避けたリグルは、 支えになっていたロープが千切れてリングからつんのめる。  そのまま地面に落ちたリグルに、映姫は宣言した。 「場外! ワン、ツー、スリー!」 「鬼の一発さくれーーーーーーーーーーつ! 目標には不発ながら、その破壊力はコーナ ーポストを破壊してさらにあり余る! 新ルールである場外カウントの響く中、リグル選 手はどのように状況を打開するのか!?」  悲鳴と驚きの声が会場を埋め尽くす中、文はその単純な破壊力に尊敬の念を覚えずには いられなかった。  絞め技や極め技、果ては相手の打撃力を投げ技に変化させる技まで、この大会では様々 な攻撃方法が見られてきたが、単純な『見た目の破壊力』の大きさとして今の萃香の拳は 最大級のものだ。しかも、それを特別な手順無く、『ただのパンチ』として繰り出すこと ができることは、鬼という種族の恐ろしさを観客たちに知らしめるには充分に過ぎるほど であった。  もっとも、 (やっぱり『ただの殴り合い』なら鬼が一番ね。まあ、私にはあんなものかすりもしない のですけど)  鼻が伸びる程度に、文はそう考えていたりする。  そうこうしているうちにカウントは十を越え、文は呆然とリングサイドに尻餅をつくリ グルに視線を移した。 (恐怖に憑かれた。これで終わりですね。まあ、馬鹿力なだけの鬼なら、少しくらいは勝 てる可能性もあると思って、勝負を仕掛けたようですけど)  そもそも、その認識が甘いのだ。  それこそ『うかつ』と言われても仕方がない。  文は辛辣な言葉を隣にいる慧音に漏らす。 「『勝てる見込みが無い相手』と見抜けずに仕掛けるのは、妖怪らしさでも勇敢さでもな いのです」  それは、 「無謀という愚かしさですよ。ああいうタイプは、長生きできません」  はい残念、と文は締めくくった。  だが、勝手に締めくくられてなお、リグルは足を震わせて立ち上がろうとした。 (だ、駄目駄目、今の絶対にまずいって……で、でも、私は妖怪……妖怪だし……っ)  譲れない何かが心の中で葛藤を起こし、彼女はそこから一歩も動けない。その様子をリ ングの上から見下ろし、萃香は「あ〜あ」と肩をすくめてリグルに背を向けた。 「お〜しまい」  もはや興味も無いとばかりに、放送席の文に向かって手を差し伸べる。すると、文も良 くわかったもので、軽いスナップで彼女の瓢箪を投げ返す。  後はそれを呷り飲めば、それでこの試合は終わり。  萃香はそう思っていたのだが、 「ん〜?」  瓢箪が萃香の手に辿りつくことはなかった。見れば、萃香と文の間に入った映姫が瓢箪 を途中で受け止め、咎める視線を彼女に向けている。 「『試合中』に武器になり得るものを持ち込まれるのは困りますよ」 「!?」  それに萃香が反応できたのは、まさに映姫の『忠告』のおかげだった。背後からの刺す ような気配に、萃香が右手で顔を庇いながら振り返る。  パシン、という音は、萃香の掌にリグルの飛び蹴りが命中した音だ。 「おや、こりゃまた失礼」  止まっていたカウントの意味を知り、萃香は口元から牙を覗かせて、掴んだ足の先にい る蛍の妖怪を見た。  真っ青な顔。  だけれど義務感のような何かに取り憑かれたような顔。  『それ』が、萃香の瞳に軽い失望の色を浮かばせる。 「無駄ってわかっても戦うの? 本当に、幻想郷の妖怪も堕ちたものね」  失望と、苛立ちを浮かばせる。  そのささくれた心のままに、萃香は掴んだリグルの足を腕の一振りで真後ろに放り投げ た。それはかなりの勢いがあったが、リグルはさすがに身軽さを発揮してキャンバスに手 をついて難なく着地する。 「私の知っている『妖怪らしさ』なんて、もう無いのかしら?」  ならば、もう用は無い。  萃香は『時間の無駄』を終わらせるために、キャンバスを蹴って踏み出した。リグルが どこに逃げようがその後の追撃で仕留めるつもりで、拳に力を入れる。  しかし、そこで一つ予想外があった。  リグルは逃げず、唇が白くなるほどに噛み締めながら萃香を睨みつけていた。  逃げない。  リングの下に落ち、リグルは自分がどう足掻いても試合終了まで立ってはいられないこ とを理解した。萃香相手では、『馬鹿にする』ために逃げ続けることすら、不可能なのだ。  では、何故自分はリングへと戻ったのか。そのまま二十カウントを待たなかったのは、 何故なのか。  それをこれから証明するつもりだった。  例え鬼が相手であろうと、退かないその瞳。弱妖らしからぬその強い視線に、萃香は思 う。 (『妖怪らしくない』わね)  無慈悲な一撃を、叩き込んだ。               ※ ※ ※ 「っとぉ?」  だが、萃香の拳は空を切っていた。寸前でリグルが身を沈め、かわしたのだ。  大振りをすかされた萃香は、だが慌てない。リグルが虚をついて至近距離での回避を行 うのであれば、今度はそれを『潰す』のみだ。  彼女は即座に両拳を組んで頭上に振り上げ、 「甘――」  それを見て、とどめのひとことを呟く唇ごと固まった。  リグルは身を屈めるだけではなく、両膝をキャンバスにつけていた。さらに両手すら使 って四つん這いになっており、ぐっと屈せられた肘によって、触覚の生えた頭が額がキャ ンバスに擦りつくほどに下げられている。  そして、ぽかんとした萃香の足元で『土下座』したリグルは全力で叫んだ。 「さすがに無理!」  それの意味することは一つで、戸惑う萃香が反応できないうちに、映姫が笏を頭上に掲 げてうなずいた。 「ギブアップを認めます。勝者、伊吹萃香!」               ※ ※ ※  勝負の幕は、誰もが首を傾げるタイミングで下ろされた。  しかし、その決着宣言に観客が反応することはなかった。突然の終わりに「え?」とい う呆けた空気が会場に漂い、そしてそれは萃香や文といった『リグルの心理状況』を分析 していた面々も同じだ。彼女たちは、まさかリグルがギブアップするとは思っていなかっ たのだ。 (あれれ?)  萃香は未だに土下座を続けるリグルの後頭部を見下ろし、小首を傾げていた。振り上げ た両拳もそのままに、自分の『読み』がどこで間違ってしまったのか検証する。 (?)  わからない。  仕方なく、萃香は腕を下ろして後ろに下がろうとした。  その瞬間、リグルが跳ね起きた。  萃香には反応できないタイミング。  観客の誰もが予想しなかったタイミング。  そのタイミングでリグルは、 「いつか絶対に嫌がらせしてやるっ。来年は蚤と虱に気をつけなさいよっ!? ばーかば ーか!」  映姫の後ろに回りこんで、その横から顔だけを萃香に突き出して叫んだのである。  さすがにそれには、萃香も目を丸くした。  目を丸くして、 「ら、来年って……来年の話なんかしてやんの〜! あはははははは!」  全てを悟り、腹を抱えて笑い出した。  そして、その笑い声が、今度こそ本当に試合終了の合図となった。境内全体に広がって いた霧が一瞬にしてリング上の萃香に向かって流れ込み、その身体に浸み込むように消え ていく。  萃香は目尻に涙まで浮かべて「なるほど〜」と納得の顔で、映姫の後ろから睨みつけて くるリグルに視線を向けてひとこと。 「やるわね」  そう言ってから、映姫から祝杯用の瓢箪を受け取った。               ※ ※ ※ 「これは……決着、したようです? 予想外に長引いた試合の決着は、リグル選手のギブ アップという形となりました。結局パンチ一発も当てずに勝利した萃香選手、その活躍は 二回戦に持ち越しとなりそうです!」  未だに戸惑いの隠せない観客に試合の決着を告げながらも、文は苦笑いを隠しきれてい なかった。もっとも、それは苦笑いの中でも予想を良い意味で裏切られた『降参』の笑み だ。  そんな文に、慧音は思わず意地悪に尋ねる。 「あれはどうだ?」 「……意外と長生きするかもしれませんね。最近の妖怪も、なかなか逞しいものです」  軽く両手を挙げ、文は素直に『参った』をしてみせる。  リグルがしてみせたのは『どうせギブアップするなら一発蹴って嫌がらせしてからルー ルに守ってもらおう。あと、へらず口もついでに』ということだった。  つまり、二十カウントを待って負けることを受け入れなかったリグルだったが、逃げ切 ることも不可能と理解した彼女が選んだのは、逃げ切らないで一発だけ嫌がらせをして、 そこで試合を終えてしまうこと、ということだ。 「美味しいところだけ手に入れて、逆襲される前に安全圏に入りましたよ」  文は自分がリグルに関して思い違いをしていたことを思い知らされた。  彼女がリグルが試合前の萃香の挑発に乗り、『臆病ではない妖怪』を証明するために戦 い切ると考えていたのだ。実際、リグルは彼我の戦力の確認もできず、『妖怪証明』とい う義務感だけで戦っているように見えた。  だから、一度リングから落ちた後のリグルもそれを引きずって、実力差を理解してなお 可能性を『妄想』して挑んだのだと思った。  だが、リグルは文が考えているほど『愚か』ではなかった。 「どうやら、私が考えていたよりもずっと――」 「『子供』だったようだな」 「ええ。ずる賢さは子供の常なのです」  そういうことなのである。  リグルは『かなわないから素直に降参する』などという、『分別のある大人の妖怪』で はなかった。  幻想郷の最高神である龍が相手でも、おそらく平伏せずにその鬣の毛を二、三本頂戴し て雷を落とされるような……いたずら好きで、奔放で、懲りることを知らない弱妖だ。  大人と子供では、考えも結論も違って当然のこと。リグルは文のように賢く立ち回るこ とはできず、しかし文もリグルのように本能のままに鬼に『来年逆襲宣言』することはで きない。 「確かに『大人の妖怪らしく』はないですけど……立派に『子供の妖怪らしい』ですね、 彼女は」  『うかつ』なんて当たり前だ。実際、萃香が試合前にリグルに言ったことなど、ほとん ど全ての妖怪の子供に当てはまる。それを繰り返し、学習し、妖怪たちも成長していくの である。  ケタケタと笑う萃香に頭から酒をかけられて地団駄を踏んでいるリグルや、彼女たちに 挟まれて困った顔をしている映姫の姿を目を細めて眺め、文は昔に比べ弱体化した蟲の妖 怪に心の中で呟く。 (若いですね〜)  そして、 「私も若いのですけどね」  一応、言い訳しておいた。  また、文がそのように試合を考察している一方で、心配そうな顔をしている者もいた。 それは二回戦で萃香と戦う永琳の隣に座る鈴仙だ。 「あ、あれと戦うんですか?」 「みたいね」  対して、萃香と戦う張本人である永琳は平然としたものであった。彼女は試合中からず っと鋭い観察の目で萃香の動きを追っていたが、その破壊力を知っても顔色を変えること はなかった。 「相性の問題だけど、私や姫が戦うのであれば、アレはそれほど怖い相手ではないわ。逆 に、あなたが戦うのであれば相性は最悪ね。打撃でアレに対抗するのは愚策の愚策。わか るわね?」 「え? あ〜……ああ! はい、わかる……ような気がします」  ほとんど答えを目の前にぶら下げるようにして言われ、さすがに鈴仙にも永琳の言いた いことがわかった。  そうしてホッと胸を撫で下ろす鈴仙の視線の外、リングの上では、 「蛍の佃煮、つっくだに〜♪」 「やべ、ぶばばばばば」 「鳥の酒蒸しというのも素敵ねぇ、紫」 「しょうがないわね。だって、幽々子の頼みだもの」 「だずげ……だんで私ばでー!」  鎖でグルグル巻きにされたリグルとミスティアが、瓢箪から湧き出る無限の酒に溺死寸 前にまで追い詰められているのであった。  こうして、一回戦最後の試合は終了したのである。                         『Dブロック第4試合』――決着!