東方殴り巫女伝説 〜Bare Knuckle Players〜

1回戦 Dブロック第3試合 八意永琳 VS 鈴仙・優曇華院・イナバ


              ※ ※ ※


(最初から全力で行く)
 Dブロック第三試合の開始を控え、青コーナーに立つ兎耳の少女は真っ赤な瞳で作戦を
考えていた。
 すでに対戦相手である師匠――八意永琳も向かい側の赤コーナーへと姿を現しており、
その普段とまったく変わらない柔和な微笑みを見ていると、鈴仙は自分の不利を意識せざ
るを得なかった。
 何せ、相手は自分の手の内を知り尽くし、指導する立場の人物である。鈴仙がどの程度
のことをできるか把握している永琳に対し、鈴仙の方は彼女がどのような技を使うのかさ
え知らなかったりする。
 しかし、肩書きだけを見れば兵士たる月の兎と、天才とはいえただの医者の対決だ。荒
事慣れという点で言うならば、鈴仙は永琳よりも遥かに場数を踏んでいる自信はある。
 あるのだが、
(師匠の腕前がどの程度かはわからないけど……まさか私より弱いってことはないんでし
ょうね)
 ため息混じりにそう考えてしまう部分が、鈴仙にはあった。
 そもそも弾幕ごっこ一つを見ても、永琳の『力』は相当なものだ。しかも、自分などよ
りよほど長生きである彼女が、護身術の一つも学んでいないことはあり得ない。そう鈴仙
は思っている。
(それに)
 と、結論はそこに行き着く。
 鈴仙の中にある、絶対的な基準。
 それは、
「師匠だし」
 その呟きに集約されていた。
 つまり、
『八意永琳が自分より弱いはずがない』
 鈴仙にわかるのは、そのくらいなのだ。
 そのくらいの格の違い、なのだ。
 だが、だからこそ開き直れるものもある。それが最初に考えた作戦であり、鈴仙に考え
られる唯一の『自分が有利な点』だ。
(試合の立ち上がり、師匠が油断しているところを討つ)
 『師匠』という立場から、永琳は確実に鈴仙を格下扱いして対応する。弾幕もそうだが、
圧倒的な『技』で囲い込んで、そこから真綿で首を締め付けるようにじわじわと相手の領
地を占領して行くのが永琳のスタンスだ。
(師匠に『先手必勝』は無い!)
 何より、師弟の立場の違いが永琳を慎重にさせてくれるはずだった。
 弟子である鈴仙は良い。教えを乞う立場であり、『負けて当然』の立場だ。周りの観客
もそう考えているだろうと鈴仙は考える。
 対して、師匠である永琳は逆だ。鈴仙に教える立場であり、『勝って当然』の立場。そ
れがもし負ければ、観客への体面どころか、鈴仙に対しての威厳すら失う可能性がある。
そうした『絶対に勝たなければならない』状況で永琳が少しでも緊張してくれるのならば、
鈴仙の勝機は格段に上昇するというものだ。
「……よし」
 考えがまとまり、鈴仙は息を一つ吐いた。
 冬の寒気に白い息が煙のように立ち上り、そしてすぐに消える。それを意識的に目で追
う――見えにくく動くものを負う――ことで、彼女は自らの根源的な部分にシフトする。
 白兎。
 何故に白いか白兎。
 雪の中で目立たぬためさ。
 月の上で目立たぬためさ。
 逃げるの上手な白兎。
 生き延び上手な白兎。
「脱兎と言うけれど」
 瞳の赤が、狂気に染まる。深い、地上の赤とは掛け離れた赤。赤過ぎて、視認できなく
なりそうな赤。
「逃げる兎は、勝つ戦いのみを行う賢い動物だってことを、地上の妖怪連中に教えてあげ
るわ」
 赤外線の狂気を纏い、頬に高揚した紅を散らした兎がリング中央へと向かって歩を踏み
出した。


 そこに、後ろから抱きついた者がいた。


「!」
「へ?」
 それは一瞬だった。
 真後ろから両腕を腰に回された鈴仙は、自分の両手の指をピンと伸ばし、それをお好み
焼きを返すヘラのように使って、腋の下から真っ直ぐに突き下ろした。すると、隙間がな
かったように見えた腰に回された腕の間に、魔法のように鈴仙の腕が滑り込む。
「ふっ」
 そこからは一呼吸分の動作だ。
 両腕を突き下ろした、いわゆる『気をつけ』の姿勢から左右に肘を張る『列の先頭の人
の小さく前へならえ』を行うと、いとも簡単に抱きつきの腕が跳ね除けられる。さらに肘
はそのまま先端を後ろに向けられ、見えない襲撃者の腹へとコンパクトな振りで叩き込ま
れた。
「ぎゃっ!?」
 悲鳴が上がるが、鈴仙は聞いてはいない。その場で右足を軸に大きく時計回りをして相
手の右肩側に回りこむ。スナップを利かせた右手の平手打ちで相手の目の位置を打ち、同
時に左膝で相手の右足を『膝かっくん』して転ばせる。
 ――で。
「てゐ?」
「いったぁ〜」
 顔を押さえて呻いているのは、永遠亭の兎の長である因幡てゐであった。倒れた彼女の
顔に右手で作った『銃』を突きつけていた鈴仙は、意外な顔の登場にきょとんと目を丸く
してその幼い同僚を見る。
「どうしたのいったい?」
「それはこっちの台詞! 思いっきり顔ぶったし……っ」
「あ〜、ごめんごめん」
 弾かれて真っ赤になった顔を押さえて言うてゐに、鈴仙は肩をすくめて『銃』の手を握
手の形に切り替えて兎少女を引き上げた。
 てゐは不満たっぷりの様子でワンピースの埃をパタパタと叩き、唇を尖らせる。
「あ〜あ、せっかく姫様からの激励を持ってきたのにな〜」
「え、本当? なになに!?」
 途端、ぱぁっと鈴仙の顔が明るくなった。まさか、永琳応援団の中心人物からお言葉が
もらえるとは思ってもみなかったのである。
 果たして、てゐはコホンと咳払いをしてから不自然なほどの笑顔を作り、
「『永琳に怪我をさせたらお年玉抜き☆』」
「ひどっ!? 何よ、やっぱり贔屓なのよね、あの――」
「『捕縛の極意。あなたの力量を見せてもらうわ』だって」
「――素敵な姫様は!」
 セーフ! と鈴仙は冷や汗を掻きながら、可愛らしく笑うてゐに視線を送った。てゐは
その鈴仙の必死の瞳を受け止め、
「じゃあ、鈴仙が『とても励みになりました』って言ってたって伝えておくね〜」
 両手をお皿のようにして、鈴仙の前へと差し出した。
 その意味するところは明白で、鈴仙は仏頂面でブレザージャケットの隠しを漁る。だが、
出てくるのはハンカチーフやら鏡、小指ほどの化粧水の小瓶、果ては乾燥対策の色の目立
たない口紅に外来の硝子の爪やすりといった、女の子必需のコスメ関連が大半だ。目立っ
て金目のものといったものは無い。
 が。
「これこれ。これ貰ってあげてもいいんだけどなぁ?」
 目を輝かせて、てゐは手ごろなサイズの爪やすりを指差した。その憧憬の色に、鈴仙は
そう言えばと思い出す。
「あ〜、前から欲しがってたものね。……って、じゃあ狙ってたわね!?」
「うふふ〜。がんばってねぇ〜」
 ひょいっと鈴仙の手から目当てのものを奪い去り、てゐは跳ねるような兎のダンスの足
取りで赤コーナーへと帰っていった。直後にドッと笑い声が上がったのは、おそらく赤コ
ーナーではてゐが鈴仙から品物を奪えるかどうか賭けていたに違いない。
「楽しそうだなぁ……」
 首を回して自らのコーナーを振り返り、そこにセコンドがいないことに鈴仙は少しの寂
しさを覚えた。
 まあ仕方ないか、と思いつつ、
「ん!?」
 違和感を覚えて、今度は身体ごと後ろを振り返った。
 そこには、
「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!?」
 誰一人、観客がいなかったのである。

              ※ ※ ※

「さあ〜、Dブロック第三試合、これは面白いことになりました」
「いや、単純に悲惨だろう」
「なんと、今回の試合の賭け率は一対零、十対零、百対零、千対零! 零に幾ら掛け算し
ても零は零! ご理解できましたでしょうか!? 永遠亭の懐刀こと八意永琳選手、そし
てそのお弟子さんである鈴仙・優曇華院・イナバ選手のこの試合! なんと、会場の全て
の方が永琳選手の勝利に賭けているのです! いやぁ〜、賭けが成立しませんね」
 それはもう愉快そうにマイクに向かって語るのは、放送席でクスクスと笑う射命丸文だ
った。対照的に苦虫を噛み潰したような顔をしているのが慧音で、彼女は自分とレミリア
の試合の賭け率を思い出して、笑えない気分だ。
「しかし、これだと賭けはどうなる?」
「パチュリー選手とサニーミルク選手の試合の時もそうでしたけど、どちらが勝っても元
金を返金という形になるのでは? しかし、相手が妖精でもないのに、よくここまで差が
つきましたねぇ」
 思い込みとは怖いものだ、と文は笑いを隠さずに思う。
 多くの者は永琳の有利を疑っていないが、文が予想するに二人の格闘技の技量にそれほ
どの差はない。
「鈴仙選手は永遠亭の皆さんの中では弾幕ごっこの回数が特に多いです。その動きを見て
いればわかりますが、彼女はかなり体系立てられた正規の格闘技を学んでいると思うので
す。先ほど、てゐ選手を相手に見せてくれましたが、組み技の類でしょうか? もともと
見よう見まねの格闘技を使っている選手が多いですし、鈴仙選手並の技量を持っている選
手は、ごくわずかでしょうね」
 永琳を含めて、と文は言う。
 そうして、私ならばと続けるのだ。
「私なら、この賭け率なら大穴を狙って鈴仙選手に賭けますね」
「儲けを考えるなら、私もそうするな」
 慧音も論理的に考えて同意だった。そもそも、実力も知れない永琳に、何故皆はここま
で期待するのか。永琳自身が弾幕ごっこで遊んでいる姿を目撃した者も少ないので、その
実力すら未知のままの――まさに『名前ばかりの強者』なのである。
「皆の判断基準は、何だ?」
「そう難しいことじゃないと思うけどね。むしろ、この結果が当然だと思う」
 そこに、不意に霖之助が横から口を挟んだ。
 彼はふむと顎を撫でながらリング上の両者を眺め、
「君たちは全員、自分より弱い者に従おうとはしないだろう? だから、二人を比べれば
永琳の方が強いと考えるのが妥当だと思うんだが」
「まあ、それは」
「そうだな」
 納得してしまう、文と慧音なのであった。

              ※ ※ ※

「戦利品〜」
「あら、いいものをもらってきたわね」
 ホクホク顔で戻ってきた兎の少女に、永琳はぷっと吹き出しながらその頭に手を当てた。
スキップを受け止められたてゐは、ほらほらと手の中の爪やすりを永琳に見せびらかす。
「お師匠様、どうですか? 今ならお勉強しますよ〜」
「それで、売り文句はどうなるのかしら?」
「それはもう、『月の兎が持ち込んだ、月の石で作られた爪やすり』。ご利益あります!」
 鈴仙が憧憬の眼差しと感じたてゐの瞳は、新しい詐欺の種に大満足の色だ。もちろん今
さら月の小道具――しかも偽物――に興味は無い永琳が笑顔のまま手を離すと、てゐはピ
ョンとロープを飛び越えてリングから下り、紅魔館の面々の座る一角を目指してスキップ
していった。
 某吸血鬼は『面白い曰く』のあるものならばほぼ無条件で買い取ってくれるので、てゐ
としても誇大広告の叩き甲斐があるのだろう。あれこれと尾ひれ背びれを付けて『月の宝』
を紹介するに違いない。
「相変わらず賑やかな子ね」
 そして、てゐと入れ代わりにセコンドスペースに入ってきたのは永琳の主である輝夜だ。
その主が歩み寄る際の『音』に、永琳は心地好さげに目を細めて会釈する。
「姫の伝言、確かにてゐに届けさせました」
「え? ああ、あれ。そうね、多少は期待しているところもあるのよねぇ。永琳もそうで
しょう?」
「ええ。多少は」
 輝夜が首を傾けて問いかけてくれば、やはりそこには妙なる『音』が鳴る。それはごく
ごく小さく、注意しなければ聞こえないほどに幽かな、砂時計の砂が落ちるのにも似たサ
ラサラという音だ。
 その音が、まったく癖というものがない輝夜の長い髪が流れる音だと気づくことができ
るのは、幻想郷広しと言えども永遠亭に住まう者だけだろう。
 だが、音の正体を知らないでも、自然と妖怪少女たちの視線は輝夜に集う。櫛を通す必
要がない髪質というものは、会場に集まった妖怪少女たち全員が羨むものだったりするの
だ。コスメ用品を揃えていた鈴仙もそうであるが、やはり美貌というのはいつの時代も少
女たちにとって最大のステータスなのである。
 ちなみに、そのように注目される輝夜であるが、彼女はそうした視線にいかにも「慣れ
てます」という態で、まるでそれが当たり前かのように受け止めていた。それはレミリア
や幽々子、そして紫などにも共通する、強妖独特の気質だ。
 その輝夜を、永琳は目の前に独占する。
 応援する者がいない青コーナーで鈴仙が羨ましそうにするのは、輝夜がわざわざセコン
ドにまで足を運ぶ相手は永琳しかいないとわかっているからだ。鈴仙にはてゐ伝え、永琳
には自らというそのいかんともしがたい差に、しかし月の兎は己の師匠を誇らしくも思っ
てしまう。
(さすが師匠)
 全力を尽くさせてもらいます、と鈴仙がリング中央に進み出るのを見て、そのわかりや
すい表情に永琳と輝夜は揃って微笑む。
「イナバの技はなんだったかしら。あの組み手」
「本人はフェアバーン・システムを月面で進化させたLSSと言い張っていましたけど、
まあ月面CQCですね、あれは」
「あ〜、『月面無音戦闘術(ルナティックサイレントシステム)』だったかしら。……と
ころで、なんであの子は変な名前をつけたがるわけ? スペルカードとか」
「さあ?」
 肩をすくめる永琳に「ウドンゲ」などという妙な『あだ名のあだ名』を付けられた抗議
行動だとは、二人とも考えない。
 ともあれ。
「じゃあ、永琳。『最近の流行り』にうつつを抜かすイナバに、真正の月の技を教えてき
てあげなさい」
「ええ。姫の仰るとおりに」
 輝夜の言葉に背中を押され、永琳は鈴仙の待つ場所へと気軽に歩を踏み出した。それを
見送りつつ、輝夜は「さて、期待通りのものは見れるのかしら?」と興味津々で試合開始
を待つのだった。

              ※ ※ ※

「師匠、よろしくお願いします」
 リングの中央で向かい合うと、鈴仙はさっそく永琳に向かって挨拶をした。それに相づ
ちを返し、永琳は握手のために手を差し出す。
「お手柔らかにお願いするわね」
「は、はい!」
 恐縮しつつも、鈴仙はその手を握る。戦闘モードに入っているためにやや熱の入った自
分の肌に対し、触れた永琳の掌の温度は普段の鈴仙よりやや低い程度の『平常温』。
(これなら……狙えるかな?)
 まるで常通りの永琳の体温に、鈴仙は汗ばむ身体とは対照的に冷静に分析していた。考
えていた勝機に一歩近づいたことを確信する。
(師匠のローギアよりは、私のトップギアの方が絶対に速いはず!)
 永琳が身体を温める前に攻め込むことを決意し、鈴仙は握手の手を離そうとした。
 と。
「良い状態ね。だけど、少し気負い過ぎ。身体が温まっているのは良いけど、脈まで早い
わよ」
「え……わぁ!?」
 知らぬうちに永琳の人差し指が手首にかかっているのに気づき、鈴仙は慌ててその場を
飛び退いた。握手の状態で指を一本だけ伸ばしていた永琳は、そのままの指の形で鈴仙を
差し、
「『臓器』と『精神』は『肉』と『精神』よりも密接な関係にあるわ。いくら肉を熱して
も構わないけれど、心臓の鼓動が早いと容易く精神の均衡は崩れる。心臓の動きは、直接
精神を動かす作用を持っているのよ。注意しなさい」
「っ!」
 その忠告は、千の威圧よりも鈴仙を気押して退かせた。最初のバックステップからさら
に二歩、三歩と下がり、そのタイミングで映姫が笏を天へと掲げる。
 曇天の切れ間からリリーホワイトが姿を現し、
「始まりですよ〜」
 試合開始を告げた時、鈴仙は背中にロープの硬い感触を覚えて戦慄した。

              ※ ※ ※

「お〜っと、これは鈴仙選手、試合開始と同時に早くもロープ際へと下がりました。まず
は距離を取っての攻防を狙っているようです!」
 放送席からのんきな文の実況が聞こえてくると、鈴仙はとんでもないと自分の汗を拭っ
た。
(し、心臓が撥ねた……)
 充分に温まり、いつでも戦闘開始できる状態だった鈴仙だが、今その頬を流れる汗の温
度は冷たい。握手一つで一気に心理戦に持ち込まれた彼女は、自分の立ち位置を確認して
思わず唇を噛む。
 ロープ際。
 試合開始と同時に油断する永琳の懐に入って攻め立てるつもりが、逆に自分から間合い
を広げる行動を取ってしまった。
 そこに、永琳は微笑むのだ。
「あら。組み技中心と思ってたけど、優しいのね」
「〜〜〜〜〜っ」
 完全に見抜かれてる、と鈴仙はさらに動揺し、しかしその直後にむしろ腹を括った。一
回ぐっと全身の筋肉に力を入れ、一瞬の後にその硬直を解く。
(そうよ。どうせ、師匠が相手なんだし、これくらい当然!)
 硬直後の弛緩は、全身が宿していた緊張を脱力感という程良い疲労感で流し去る。そう
して軽くなった両足で、鈴仙はとりあえずロープ際から軽快に前へと踏み出した。
「ここは、やはり鈴仙選手が先に動く! 軽く……って普通に歩いていますか?」
 文の言う通り、鈴仙は特別に構えるまでもなく、両腕をだらりと下げたまま歩いていた。
さすがに速度だけは早足といったところだが、そのまま永琳から大股で一歩の距離まで詰
めて、チラリと永琳の顔をうかがう。
 すると永琳はうなずいて、
「いつでも来なさい」
 余裕を持って、こちらも無構えのまま促した。それは二人が無防備な姿で向かい合う、
リングの上とは思えない光景だ。
 だが、すぐに均衡は崩れる。特に構えたというわけではないが、鈴仙が永琳を迂回する
ように斜め右に歩き始めた。やはり同じように両腕を上げず、普通の歩みで移動する。
「ふうん?」
 それを観察していた永琳は、自らの視界の外に出て行く鈴仙の姿に、身体をゆっくりと
旋回させてついていく。鈴仙は永琳の正面側に自らの横身をできるだけ晒さないように、
やや斜めを向くようにしながら歩いている。そのため、二人の視線は常に絡んで離れない。
 一見膠着状態にも見えるそれを、文は次のように表した。
「鈴仙選手、回る回る、これで二周目! まるで置物の様子を確かめるかのように、永琳
選手の隙をうかがいます!」
「攻めあぐねているな。まだ構えてもいないし、まずは様子見から――」
 と、慧音が分析を始めた直後だ。
 本当に何気なく、鈴仙は永琳を中心に渦を巻くようにその距離を縮めた。反時計回りの
回転の真円を、少し内側にずらしたのだ。
 そして、ごく普通に、歩くままの速度で、鈴仙は永琳の左斜め前の位置から、彼女の左
肩にポンと左手を置いた。左足を前に出した状態で、左手で永琳の肩に触れた形。永琳が
それに「あら」と反応して自らの左手で跳ね上げようとした瞬間、
(自信を持って行くの。私の技は、この幻想郷で一番実戦に最適化されてる!)
 鈴仙が加速した。
 鈴仙は永琳に触れた左手をフェイントとして、左足の爪先でキャンバスを強く踏んで右
足を永琳の後ろの位置へと踏み出した。自分の左手を振り上げ、一瞬で永琳の後ろに回り
込みながら、右腕を内側に巻き込んで永琳の細い首へとあっと言う間に絡み付ける。
「上手い!」
 そのCの字を描くような流れる動きに文が感嘆の声を上げるが、鈴仙の動きは終わらな
かった。
 永琳の首に腕を絡めたまま彼女は身体を一歩後ろに動かし、永琳の上半身を斜め後ろに
傾斜させると共に、振り上げていた左の腕を真っ直ぐ縦に振り下ろす。腕全体を使って、
永琳の肩、胸、腹までを潰して永琳の身体をキャンバスへと引き倒した。
 ――引き倒すつもりだった。
 しかし、誰もが鈴仙が永琳の首を絞めての勝利を確信したその流れで、鈴仙は自ら動き
を止めていた。後ろに倒れかけた永琳の背を、わざわざ自分の身体で受け止めて停止した
彼女の姿に、観客たちは一斉に顔に疑問符を浮かべる。
「なんです?」
 放送席の文もその中の一人で、彼女は背伸びして二人の様子をどうにか見れないかと努
力したが、ちょうど鈴仙に背中を向けられる形になっており、二人の表情すら見ることは
できなかった。
 そうして、鈴仙が動きを止めたまま数秒が経過した時だ。
「惜しかったわね」
 永琳が右手で握りこんだ『鈴仙の左手の小指』に力を加えながら、そう言った。見れば、
永琳は肩から腹までに当てられた鈴仙の左腕に自らの左腕を絡めて固定した上で、右手で
彼女の小指を取っていた。
 そのまま鈴仙が永琳を倒していれば、勢いで鈴仙の小指が『ぽきり』と折れていたかも
しれず、兎耳の弟子は咄嗟に思いとどまった自分の判断に、改めて青ざめた顔で震える息
を吐いた。
「安心するのは早いわね」
「え!?」
 言うが早いか、永琳が棒立ちになっていた足の片方、右足を後ろに下げた。鈴仙の股の
間を通してキャンバスを踏み、後ろに傾いていた身体を重心低く安定させる。そこから、
小指を掴んでいた右手で鈴仙の手首を取って一気に上半身をくの字に折った。
「!?」
 左腕を取られた状態で永琳に一本背負い投げをされた鈴仙は、低重心の永琳の腰に自ら
の腰を押し上げられて、テコの原理で一回転する。
「……だっ」
 スパーン、と小気味良い音がして、鈴仙の背中がキャンバスに落ちる。腰から落ちれば
KOの勢いだったが、受身のために鈴仙は躊躇無く永琳の首から腕を放して生き残ること
を優先していた。
(こ、これでいいわ。無意味になった攻撃手にはこだわらないっ)
 鈴仙はすぐに身体を左反転しながら膝立ちになり、掴まれた手首を振り放った。永琳が
左手で鈴仙の右手首を掴んでいたため、正面から向き合おうとするとお互いの手首と肘が
一緒に極まってしまうので、自動的にそうなってしまうのだ。
 鈴仙にダメージがほとんど無いのは、永琳の投げが腰から落ちなければ致命傷にならな
い、大きな弧を描く模範的なものだったからである。
 それが、鈴仙に一つの確信を与えた。
(師匠は私を倒しに来てない!)
 それこそ、師匠としての立場から鈴仙の力を試そうとした永琳の最大の隙だ。
 一度鈴仙を投げた永琳は、仕切りなおしとばかりに鈴仙を見下ろして言う。
「ほら、もう一度――」
 その言葉が途切れた。
 膝立ちから鈴仙が短距離走のクラウチングスタートのように飛び出し、二人の間にあっ
た数十センチの間合いを腰へのタックルで潰し、左腕を永琳の腰にかけたのだ。
 だが、永琳はそれにも慌てず、その速いが軽いタックルを上から押し潰す。


 鈴仙の右の拳が永琳の顔面を捉えたのは、次の瞬間だった。

              ※ ※ ※

「つ……!?」
「師匠、勝たせてもらいます!」
「クリーンヒットー! 矢継ぎ早な組み技の攻防から、よもやの超近距離打撃ー!」
 それは鈴仙が初めて聞く永琳の苦痛の声だった。
 左腕で腰に抱きつくタックルをしながら、右腕で頭の遥か上を通るぶん回しの一撃を叩
き込む。それだけの話だが『相手が組みつくのを許してくれる』のであれば、回避などほ
ぼ不可能な一発だ。
 もし永琳が鈴仙を警戒して、組み技で戦う彼女を突き放して戦ったとしたら、この展開
は無かった。
 もし永琳が鈴仙を試す気などなく、本気で彼女の組み技に対処していれば、この展開は
無かった。
 だが、結果として永琳はその強烈な一撃をまともに喰らってよろめいた。それでも腰に
回された鈴仙の左腕の肘を極めようと永琳の右腕が絡みついてくるのを、鈴仙は素早くバ
ックステップすることで逃れた。
(ここしかない!)
 永琳が打たれた左目の辺りを押さえてふらついている姿に、鈴仙は己の速度を最大限に
引き上げて、右半身の構えから、身体ごと相手にスライドする踏み込みで永琳の鳩尾へと
右拳を突き出した。
 それを永琳は左手で受け止めるが、身体ごと打ち込むその『押す』打法に、永琳の細身
の身体が後ろにズレる。そして凄まじい速度で引き戻された鈴仙の右拳が、今度は永琳の
顔面で弾けた。
「速い速い、目の覚めるような二連発! 永琳選手またしても顔にもらうっ!」
 そのまま鈴仙は、右の拳を繰り返し永琳の顔に向かって速度重視の連打で打ち込んだ。
永琳は左手でそれを捌こうとするが、鈴仙の拳はその全てをすり抜ける。
「速度では圧倒的に鈴仙選手有利! 永琳選手の防御が間に合わないその拳の速さ、連打
の回転、永琳選手体勢を整えられない!」
 鈴仙の右半身は、相手により自分の拳を近づける形だ。真正面に構えた場合、拳は自分
の肩幅の分だけ相手の顔より『横』から出ることになる。その場合に拳が通るのは、どれ
ほどに打ち方を矯正しても『斜め』の軌道だ。
 対して、完全に右半身になった場合には、攻撃は『真っ直ぐ』のものとなる。突きとい
うのは腕の先にある拳を相手に叩き込むものだが、この『真っ直ぐ』の場合、相手の視界
からこの腕が消える。拳、腕、肩が一直線に並んでしまうために、まず突きが飛んでくる
ことを察知するための『肩の動き』が目に入ってこないのだ。さらに、突き出された棒を
真っ直ぐに見た時の様に、攻撃が『点』の動きであることは、たとえ相手が永琳であって
も一つの錯覚を起こさせる。
 それは、
(これは……着弾が、半拍早い!?)
 相手にもっとも近い位置から、真っ直ぐに見えにくい打法で拳を放つ。普通は動きの『
初動』を見て『拳が来る』と認識するところを、拳が動き出して初めて『拳が来る』と認
識させる。その『半拍のズレ』が、永琳に避ける暇を与えてくれなかった。
 もちろん、喰らい手が左右に避ければその前提は崩れる。実際、永琳は細かく左右に足
を動かして鈴仙の右半身からの『正面』を外そうとしていた。
 が。
「逃げ……られない! 永琳選手、鈴仙選手から距離を取ろうとしておりますが、鈴仙選
手が何かで測ったかのように距離を、角度を、全てを固定しています!」
 むしろ、拳での打撃よりもその事実の方が文には驚きだった。『遠距離・近距離』程度
の大雑把な距離感で行われる妖怪たちの格闘ごっこの中で、鈴仙の間合いの取り方は、頭
一つ抜け出ていた。
「言うならば『絶対距離感』! そこから、目では捉えられない虚像の拳が永琳選手に突
き刺さる!」
 ならば、と永琳が真後ろに大きく跳びすさった。最初の一撃から、連続で攻撃を受け過
ぎている。速さ重視の打撃はそれほどダメージにはなっていなかったが、もらい過ぎれば
その限りではない。
 そこに、鈴仙が右半身のまま距離を詰めた。永琳がそこからの初弾をまず捌こうと思っ
た時、
「ひゅっ」
 鋭い呼気と共に左足を前に出し、鈴仙がクルリと右半身と左半身を入れ替えた。永琳が
目を見開き、そこに左足の踏み出しと一緒に繰り出していた巻き込むような左の大振り側
頭部打ちが炸裂する。
「大技入ったー!」
 身体を入れ替える勢いをそのまま叩き込んだ巻き打ちに、永琳の首がグルッとねじれる。
脳震盪を起こさせるその一発に、しかし鈴仙は納得しない。
(まだっ。回復させないで、一気に組み技に入る!)
 永琳の油断から始まったこの攻勢を、鈴仙はそれだけで終わらせる気はなかった。これ
だけの好機を逃せば、もう自分の『攻撃順番』はやってこないかもしれない。
 だから。
 ダメージに棒立ちになっている永琳を左肩で押し、左半身から正面向きに切り替える動
きで右の巻き打ち。さらに、掌を上にした掌底打ちで永琳の顎を跳ね上げた。
「肩で体当たりして、そこからさらに右! 下から突き上げる左! 全てまともに入る!
さらに――」
 膝から崩れ落ちそうになった永琳の左腕を、鈴仙は真横から左手で掴んだ。そして、右
手で彼女の左肩を押さえつつ、右足で永琳の膝の裏を蹴る。
 倒れかかったところへの駄目押しに永琳がガクンと膝をつき、鈴仙は彼女の左腕をねじ
り上げながら肩に置いた自分の右手に力を込めた。
「――封殺〜! 素晴らしい!」
 キャンバスにうつ伏せになって鈴仙に腕を極められた永琳の姿に、文が、観客たちが爆
発的に沸いた。観客はほぼ全員が悲鳴であったが、それでも目を丸くするような鈴仙の技
の見事さだった。
 しかし、その展開にうわっと顔をしかめたのがリングサイドにいたてゐだ。
 彼女は慌てて輝夜に視線を向け、主が張り付いた笑顔のまま秘宝の枝を服の袖から取り
出すのを見て、
(うわ〜、空気読め〜……)


 ざんねん!! れいせんの いっしょうは これで おわってしまった!!


 心の中で、そう鈴仙に突っ込んだ。
 が。
「――もう一度言うわ。惜しかったわね」
「はい?」
 キャンバスに伏した永琳。
 彼女が言った言葉に、鈴仙は我が耳を、そして我が目を疑った。
 永琳がうつ伏せのまま右手で自らの左肩に触れ、指先を食い込ませる。途端、鈴仙の左
手が手応えを失って、永琳の左腕が『ふにゃり』と折れた。
「!?」
 極められていた左腕を肩関節から外した永琳は、時計回りに身体を回して仰向けに入れ
替える。回転ついでに振られた拳槌で鈴仙のこめかみを打ち、打撃というよりもその行動
自体に怯んだ鈴仙を引き剥がす。
「え? なんです? 今の、肩が……自分で外したんですか?」
 文も目を丸くして実況する。そのようなもの、長く生きている妖怪でもそう何度も目撃
するものではない。
 だが、鈴仙も怯んでばかりはいられなかった。永琳が自ら左腕を外したということは、
その腕はもう使えないということだ。立ち上がろうとする永琳に、鈴仙は今度こその決着
を狙って近距離からの打撃を繰り出す。
 右拳の巻き打ちが永琳の頬を打ち、再び首がねじれる。左腕での防御は無いと、鈴仙は
徹底的にそちらを狙って、膝を伸ばす永琳にもう一度拳を叩きつける。
「鈴仙選手、右、右! これで決ま――って、あら?」
 文が訝しげな声を上げ、鈴仙が疑問に首を傾げたのは、その時だ。何が起きたのか、観
客の大半は気がついていなかったが、事実は一つだ。
 殴られながら、普通に永琳が立ち上がった。
 それのどこがおかしいのか、鈴仙は自分の中に答えを求め、そして理解して唖然とする。
「あ、あれ? 師匠、効いてない、ですか?」
「効いてないわよ?」
 尋ねてくる弟子に、永琳はニッコリと微笑んで応えた。その顔には、何度も受けた打撃
による傷らしい傷は無い。
 半身からの軽い突きはともあれ、完全なタイミングで叩き込んだ巻き打ちの連続が効い
てないということに、鈴仙は絶句した。
(あれが効いてないんじゃ……)
 鈴仙の打撃など、何一つ効かないことになってしまう。
 しかも。
「し、師匠」
「何?」
「効いてないのに……なんで私に組みつかせたんですか?」
「だって、あなたは組み技に自信があるんでしょう?」
 何を今更、という永琳の心外そうな言葉に、鈴仙は眩暈を感じて一歩退いた。そこに、
永琳が右手を内側に捻って親指を下にした形で鈴仙の左手と握手する。
「はい」
「い……っ!?」
 『握手』から永琳が今度は手を外側に捻る。それだけで肘関節を極められ、鈴仙が電撃
が走るような痛みに顔を引きつらせる。さらに、永琳は腕を真下に引き下げながら、『手
を真上に立てよう』とした。つまり、握手した形から指を伸ばした時に『指先』になる方
向を真上にしようとした。
「ったたたたた!」
 鈴仙が悲鳴を上げる。肩から腰の高さまで腕を真っ直ぐに伸ばされ、肘と手首の関節が
極まった状態で、さらに自分の肩の関節と永琳の手の間で縦向きの力を加えられて三つの
関節が同時に軋む音が聞こえたのだ。
 しかも、
(手がバラバラになる……っ)
 永琳に握られた手そのものが、五指がバラけるような痛みを訴えていた。ただ握られて
いるだけのその状況に、リングサイドにいた美鈴が感心した様子で隣の咲夜に耳打ちする。
「見事な擒拿です」
「きんな?」
「関節技。あれは掌の神経ごと押さえてるんで、動けないですよ」
 打撃も大きいのは全部流していたし、と美鈴は呟いた。
 つまりは、そういうことだ。
 永琳は鈴仙の巻き打ちを全て『首をひねって』受け流していた。頬や顎にもらいながら、
首を回し、もしくは逸らし、さらに上半身を同じ方向にしならせることによって『無効化』
していたのだ。
「本当にリラックスして力を抜いていて、それで軟らかい上半身――特に捻りに強い腰が
必要な、珍しい防御ですね。咄嗟だと『軽減』が限界だけど、あれは最初から受ける気満
満だったから、完全に『殺し』てたと思います」
 受け流された拳を、鈴仙はそうとも知らずに連続で叩き込んでいた。普段であれば手応
えでそうと気づくはずだったが、『勝機』という言葉がその感覚を失念させていた。より
速く、より連続で攻撃するのに夢中だったのだ。
 そして、それは鈴仙が永琳と戦うという『状況』に呑まれていたことに他ならない。
「だから最初に言ったでしょう? あなたの脈は早過ぎなのよ。それに、認識も甘い」
「いたた……え?」
 痛みを少しでも逃がそうと、背伸びして『肩と手の距離』を広げようとしていた鈴仙は、
永琳に言われて脳内を検索する。だが、何の認識のことなのかは、わからなかった。
 鈴仙が理解していないと察すると、永琳はさらに腕を捻って彼女に悲鳴を上げさせる。
 果たして、言うのだ。
「『組み技なら私に勝てる』。……組み技は、私の得意分野なのに?」
「教えてくださいよぉ〜!」
 鈴仙は自分の扱う戦闘術が接近戦でこそ生かせるものなので、その距離に身を置こうと
した。打撃では速度はあっても威力に劣る自分が身長に勝る永琳をKOできるかわからな
かったし、組み技であれば『技』さえ極まれば確実にギブアップが取れると確信していた
からだ。
 しかし、それも永琳の掌の上だったことを鈴仙は思い知らされた。自分の攻勢でさえ、
永琳に演出されたものだったのである。
「ぜん、ぶ……いたた……演技だったんですか?」
「まさか」
 鈴仙には意外なことだったが、永琳はそれを否定した。
 いくつかね、と彼女は言う。
「最初の体当たりしながらのとか、あと小さな突きは良かったわね」
 まるで採点するかのように、永琳はそれらを挙げていく。
「打撃の始点から目標地点までの最短距離――エコノミーラインを通せる位置を奪い合う
のが格闘技の最重要課題。あなたはそれを良く実践していたわ。八十点」
「は、八十点ですか」
 なかなか良い数字に、鈴仙が痛みに顔をしかめながらも反応する。
 さらに、
「勝機を見つけたらそこを徹底に攻める決断も悪くない。プラス十点」
「いた……九十点ですかっ」
「それだけ打撃ができるのに、打撃を繋ぎに使って組み技にこだわった。マイナス百点」
「うあ」
 それが最終点数となった。
 そうして、鈴仙が情けない顔をした瞬間だ。
「い――!?」
 永琳が右手に力を込め、鈴仙が爪先が浮くくらいに背伸びする。そこに足払いが入り、
鈴仙はあっさりと前方へと引き倒された。
「つ……う?」
 膝立ちになり、不意に顎に触れるものがあって視線を向ければ、それは永琳の手だ。彼
女は低い位置にいる鈴仙の顎を指でつまみ、口接けでもするかのように覗き込む。
「し、しょう?」
「失格よ」
 クン、と永琳が手をスナップさせた。つままれたままの鈴仙の頭が凄まじい速度で左右
に振り子し、

「……あれ?」

 手を放された鈴仙が、倒れた。
 何が起きたのか、鈴仙にはにわかに理解できなかった。わかるのはいきなり世界が暗転
し、自分が前のめりに倒れたということだけだった。
(あれ?)
 そして、
「ダウン! ワン、ツー、スリー!」
 映姫の宣言が、その答えとなった。

              ※ ※ ※

「ダウーーーーン! この試合初めてのダウン宣言は、永琳選手の一発――いえ、ひとひ
ねり! 永琳選手、たったの指二本で愛弟子をキャンバスに沈めましたー!」
「ちょ……っ」
 驚いて沸き返る場内で、しかし一番驚いたのは鈴仙だった。彼女は自分が永琳にダウン
させられたことを知ると、すぐに両手をついて身を起こそうとした。
 身を起こそうとしたのだが、
「あ、あれ?」
 キャンバスについた肘が、力無く折れ曲がる。それどころか、頬がキャンバスに張り付
いて、少しも持ち上がろうとはしなかった。首、腕、そして腹にもまったく力が入らない。
「なん……で……!?」
「十一秒だけ、運動機能を麻痺させたわ」
 解答を与えたのは、もちろん永琳だ。
 その間にも、映姫によるカウントは進んでいく。
「ウドンゲ。あなたの悪い点は、こうしたリングでの試合に、武器前提、捕縛前提の技を
持ち込んだこと。自分より力量のある相手に勝つつもりなら、腕を取った瞬間に折るくら
いのことはしなさい」
 そして、それができるのが『打撃』なのだと永琳は言う。組み技は彼我の力の差によっ
ては、仕掛けた方が逆に技を極められてしまうことがある。だが、打撃ならば少なくとも
相手が『見』に専念している間はその心配が無い。ラッキーパンチという言葉もある通り、
運が良ければ永琳が防御を失敗する可能性もあったのだ。
「いい? 戦いというのは、状況によって何が有効か変わるもの。その判断をあなたは誤
った。反省しなさい」
 鈴仙は歯を食いしばって膝だけを立てた。相変わらず頬はキャンバスにつき、両腕も動
かないので、うつ伏せで尻だけを突き上げた無様な格好だ。
 無様だが、必死な格好だ。
 そんな彼女の師匠は、それに、と付け加える。
「打撃の精度を考えれば、あなたは生粋の打撃系。それ一本で攻めれば、私でも危ういく
らいのね」
「シックス、セブン!」
 全力で起き上がろうとする鈴仙をよそに、カウントは無情なほどに正確に刻まれていく。
 永琳は、もはや結果を見届けることなく背を向けた。
「その瞳の力も加えれば、あなたの打撃をかわせる者はいない。今度からは、そちらを中
心に鍛えてあげるわ」
 これまであまり教えていなかったのがいけなかったわね、と永琳はボヤく。その永琳の
正面、赤コーナーにいるのは、彼女たちの仕える永遠の姫――輝夜だ。
 そう。
「その力で、これからも姫に尽くしなさい」
 そのことを胸に刻んでおけば。
「あなたは、もっと強くなれるわ」
 映姫のカウントは、もう鈴仙には聞こえていなかった。
 ただ、彼女は永琳の言葉だけを聞き、
「――テン! 勝者、八意永琳!」
 身近にいるとても高い山の、まだ麓にさえ辿りついていない自分を認識し、少しだけ泣
けた。

              ※ ※ ※

「師弟対決けっちゃーく! 会場の大半の予想を裏切り、弟子の鈴仙選手に優勢な試合展
開! しかし、最後に勝利したのはやはりこの人、師匠の面目を保った永琳選手でした!」
「見た目には接戦だったが、結果だけを見れば完全な実力勝ちだな、これは。結局永琳は
自分の手の内はほとんど見せないで二回戦進出だ」
 どうせ賭けも全額払い戻しということで、会場は大きな盛り上がりもなく落ち着いたも
のだった。だからせめても、というわけではないだろうが、文はことさら声を張り上げて
会場に響かせ、それに慧音が冷静な感想を付け足した。
「組み技が得意というだけで、打撃が使えるのかどうかも謎のままだし」
「まあ、その方が二回戦が楽しみで良いのです。何せ、次の相手は鬼ですからね〜。私な
ら絶対に御免です」
「……いや、一応子鬼はまだ一回戦の試合があるぞ?」
「あはは。またまた〜」
 酷いことを、会場放送でしっかりお届けしたのであった。
 そして、試合を終えた永琳であったが、赤コーナーに戻るなり「ふむ」と自分の左肩を
撫でた。そうすると、後はもう外したという事実すらなかったように、そちらの腕で輝夜
が差し出してくれたタオルを受け取る。
「ありがとうございます」
「なかなか良いじゃない。面白い見世物だったわよ? 永琳があんなに打たれるんだもの」
 クスクスと袖で口元を隠して輝夜は笑う。そこに皮肉なものはなく、彼女はようやく立
ち上がった鈴仙の姿を永琳越しに眺めて続けた。
「月がどうして丸いのか、イナバも早く理解してくれると助かるわね」
「ヒントは出してきましたよ」
「あら、永琳が甘いわ」
「甘い薬を出さないと飲まない患者もいますからね、姫」
「誰のことかしら?」
 私は知らないわ、と輝夜がとぼけると、永琳は自らも笑って後ろを振り返る。すると、
そこではてゐが鈴仙をからかっている最中で、
「タオル持ってきてあげたわよ〜。顔拭いてあげる」
「い、いいわよ。タオルちょうだい」
「え〜? どうして〜? もしかして、目がどうかしたのかしら?」
「こ、こいつ……」
「まっかっか、まっかっか、兎のお目々がまっかっか〜♪」
「こ、の! 待ちなさい、てゐ〜!」
 それは実に賑やかで、実に日常的で、もう見飽きるくらいに繰り返し見てきた光景で、
永琳は思わず吹き出しながら輝夜に告げるのだった。
「先ほどの難題、兎たちに解かれるのは随分先かもしれませんね」
「まあ、時間はいくらでもあるし」
 逃げる脱兎に、追う狩兎。ちょうどシーズンのラビットレースに目を細め、輝夜は横か
らの冬の風にその長い黒髪を押さえた。そうして聞こえてくる『サラサラ』という音に、
永琳は自分が鈴仙に告げた言葉を思い出す。
(その通りね)
 遊び惑う兎たち。
 今はそれでも良いが。
(これからも姫に尽くしなさい)
 自分も含めた全ての者に永琳はそう約束させる。佇むだけで美しい我が姫には、それだ
けの価値があるのだから。
「何か顔についてる?」
「いえ」
 視線に気がついた輝夜が尋ねても「絶世が」とは永琳は言わなかった。しかし、その微
妙な表情の変化を見逃さなかったのか、輝夜は訝しげに永の時を生きる従者を見遣る。
 ジロジロと見遣る。
 ジッと見遣る。
「何か顔についていますか?」
「い〜え」
 同じ言葉を引き出し、してやったりの表情で輝夜がうふふと笑う。そうやって笑いなが
ら、彼女は言うのだ。
「それより、次は地上の原種族。無様な戦いは許さないわよ、永琳。もし負けたらその時
は……」
 代償が必要よ、と輝夜は語尾に匂わせる。
 濁された先を知る永琳は、もちろんとうなずいた。
「その時は、甘い薬をご用意させていただきますわ」

 こちらでは、子鬼の二回戦進出が決定していないと突っ込む者はいなかったのである。



                        『Dブロック第3試合』――決着!