東方殴り巫女伝説 〜Bare Knuckle Players〜

1回戦 Cブロック第3試合 八雲藍 VS フランドール・スカーレット


              ※ ※ ※


「ふ〜ん、結構いい眺めね」
 その言葉は、青コーナーのポストの上に居座るフランドールが呟いたものだった。次な
る試合で戦うことになる彼女は、館の入り口を守るガーゴイルのように屈みこみ、鋭い観
察の目で観客席に視線を巡らせて言葉を続ける。
「こんなにいっぱいの生き物を見たの、初めてよ。神社っていつもこうなの?」
「そうですね。これだけ多いのは珍しいですけど、たいてい二、三人くらいは巫女以外に
も溜まってますよ」
 セコンドについた美鈴がそう応えると、フランドールは「ふ〜ん」ともう一度繰り返し
た。集まった妖怪一人一人を記憶しようとしているかのように真剣なその瞳は、純粋な好
奇心の輝きだ。
「たまにウチに遊びに来る顔もあるわね」
 普段は紅魔館の地下にいるフランドールであるが、客がやって来るようなイベントの際
には常に館内に探知の網を張り、状況を把握している。紅霧の事件の際に霊夢と魔理沙が
攻め込んできた時然り、天狗の文が弾幕取材に来た時然りだ。
「なんだか、ちょっとホッとするなぁ」
 知らない者だらけの中に見知った顔を見つけ、フランドールはその紅の目の色をやわら
げる。
 そうしてすっくと膝を伸ばして悪魔の妹はコーナーの頭を蹴り、バック宙の要領でキャ
ンバスの上に降り立った。
「でも、やっと神社にこれたのね。お姉様にずっと止められてたから……あ、霊夢〜!」
「お〜、寒いのに元気ねぇ」
 リングの上からブンブンと両手を振られ、リングサイドで豆炭を仕込んだアンカを掻き
抱いていた霊夢が白い息を吐きながら手を振り返す。冬は深い雪に閉ざされる幻想郷のこ
と、今年も例に漏れずとにかく寒いのであるが、そのような気温の影響など小動物のよう
に元気な吸血鬼にはないようであった。
 そもそも、フランドールが吐く息には白い色すらついていない。
「魔理沙は〜?」
「ん」
 霊夢が自分の後ろを親指で示したので、フランドールは小首を傾げて目を凝らした。そ
うして見てみると、霊夢の背中に張り付くようにして毛布の怪物がいる。
「?」
 あんなの図鑑でも見たことないなぁ、とフランドールはロープの間から身を乗り出して
確認し、そしてそれが何であるかを理解してぷっと吹き出した。
「あははは! 新種発見! 人間ってひ弱ぁ〜」
「う〜……ジ、ジュネーブ条約でも保護されているくらいなんだぜ?」
 そう言うのは、霊夢の背中に寄り添った毛布怪獣――霧雨魔理沙だ。こちらは例年と同
じレベルの寒さに対し、例年以上の不適合っぷりを見せて、文字通り丸くなっている。
「自業自得」
 と、それが彼女が使用した丹の副作用であることを知るパチュリーは冷淡に呟いた。世
の中、薬というものは強ければ強いほど副作用も強いのが常識なのである。
 それにしても、とパチュリーは隣に座るレミリアの横顔を一瞥する。
「レミィがあの子を連れてくるとは思わなかったわ」
「まあ神社には来たがってたし。今日は私もパチェもいるから大丈夫でしょ」
 外に出てみたいだなんて一度も言ったことなかったのにね、と楽観的に笑うレミリアに、
パチュリーは再び複雑な文字の羅列に目を落としながら、ひとこと。
「あなたの真似をしたいだけよ、あれは」
 それに対し、レミリアは無言のままでリングの上のフランドールを眺めるのだった。

              ※ ※ ※

 もう一方のコーナーである赤コーナーでは、スキマ妖怪の式である八雲藍がその足に履
いた靴を脱ぎ、自らの式である橙に手渡していた。
「預かってなさい」
「あら、脱ぐのね。スパッと」
「脱ぎますよ。たぶん、あの相手ならこっちの方が都合良いと思いますよ」
 主の紫がコーナーポストの上に浮かんだ空間の亀裂――スキマから上半身を乗り出して
尋ねてくるのに、藍は普段陽に当たらない白い足の肌を見せながらうなずく。
 ペタペタと何度かキャンバスを踏んで確認するのは、自分が踏みしめる足場の強度。
「どういうことです?」
 一人だけ理解できていない橙が疑問を口にすると、
「『殴られて吹き飛ぶ』のを堪えるのには、素足の方がいいでしょう? 相手はどうせ馬
鹿力なんだから」
「あ〜」
 納得して、橙はうんざりした視線を青コーナーへと向ける。そこにはリングサイドの巫
女たちを相手にはしゃいでいる悪魔の妹の姿があった。
 悪魔の中でも、彼女たち吸血鬼は肉体的能力に定評のある種族だ。子供の姿であっても、
その腕力は並の妖怪を軽く凌駕している。長い年月生きているとは言っても、しょせんは
化け狐でしかない藍とは、まずその破壊力の点で大きな差がついていた。
(藍様も、妖術専門だしなぁ)
 自由に姿を変えたり、人を道に迷わせたり、呪い殺したり、はたまたボロ屋を豪邸に見
立てたりと、藍の妖術は妖怪として実に古典的で優秀だ。橙も『筱舎漫筆』に登場した狐
に二本足での歩き方を教わる猫のように、藍に人の姿での身体の使い方、有効な妖術の使
い方を伝授され、そのことを誇りに思っている。
 だが、そうした優秀さを粉砕するほどに吸血鬼――あのスカーレット姉妹の肉体能力は
桁違いなのである。
 正直、分が悪いと言わざるを得ない。
 が。
「でも藍様ならどうにかしちゃうんですよね?」
 クルリと青コーナーから顔を向け直し、橙はぷくくとおかしそうに片手を口に当ててそ
う言った。
 肉体の基礎能力が違う?
 破壊力が違うから分が悪い?
 何を仰る。
「紫様と藍様より強いものなんかこの世にいないですよね〜」
 ねえ奥様、というふうに橙は空いた手の手首から先を振る。そうだな、とそれに苦笑を
返し、藍は紫をうかがった。
 すると、紫はスキマのふちで頬杖をついて、ひとこと。
「藍。あなたに完成された八雲の『式』を見せてもらいましょうか」
「――は」
 胸の前で両手を組み合わせ、藍は自らの主に一礼した。
 そこに、真横から伸びた手があった。
「え?」
 と藍が怪訝に思う暇すらない。その小さな手の持ち主――ひょこっと赤コーナーに顔を
覗かせたフランドール・スカーレットは、無防備な紫に向かって宣言したのだ。
「どかーん!」
 瞬間的な妖力の炸裂に、スキマそのものが発破されたかのように爆砕した。

              ※ ※ ※

「な……っ」
 唖然としたのは藍だ。大音響を立てて空間の亀裂が弾けとび、その破壊力の余波に彼女
は二、三歩後ろに退かされる。突風に帽子が飛ばないように手で押さえながら、藍は主の
名を呼んだ。
「紫様!」
「は〜い」
 そしてコケた。
 キャンバスに尻餅をついた藍が見上げると、カッターで切れ込みを入れるかのように真
っ直ぐな亀裂が空間に走り、そこを貝殻よろしく開いて紫が現れる。その無事な姿に藍は
ホッと胸を撫で下ろすが、
「あ、橙は!?」
 すっかり存在を忘れていた自分の式に青ざめる藍に、紫はスキマの中からひょいっと化
け猫を取り出して放ってみせる。
「ちゃんと自分で管理しなさい」
「は、はい」
 橙を胸に受け止め、今度こそ完璧な安堵のため息。
 そこまで黙っていた騒動の主犯、フランドールが口を開いたのは、そうしたやり取りが
終わってからだ。
「へぇ〜。お姉様たちから聞いていた通り、本当に神出鬼没なのね。面白い」
「こいつ……っ」
 感心したというふうに言うフランドールのあどけない表情に、藍は普段温厚なまなじり
を吊り上げて立ち上がる。
 が。
「あ、猫だ猫! これ猫でしょ、そうでしょ!?」
「あ? え、ええ、そうだけど」
 唐突に目の前に詰め寄られ、藍はその勢いに押されてうなずいてしまった。そこに藍が
反応すべき攻撃的意志は無く、純粋な好奇の瞳がそこにはあったからだ。
(な、なんだ?)
 その世間知らずを絵に描いたような瞳に、藍は毒気を抜かれた形になって橙をキャンバ
スに下ろす。そうしている間に、フランドールは橙の頬やら鼻やらを摘んで盛り上がる。
「こら〜、やめなさいよ〜!」
「あははっ。私のところの猫はこの前死んじゃったのよ。あなた、うちの猫にならない?」
「ならない!」
 藍の抱えた橙と、それに張り付くフランドール。子供たちのかしましい会話に、藍は肩
をすくめて呆れを表現しようとし、
「ん。じゃあ、いらないや」
「にぎゃっ!?」
「ば――」
 馬鹿な、という言葉は最後まで言うことができなかった。無造作に振られたフランドー
ルの平手が橙の頬を打ち、吸血鬼の腕力はそれだけで化け猫の身体を吹き飛ばす。コーナ
ーの三角地帯であったために橙はロープにぶつかり、そこから跳ねてキャンバスに転がっ
た。
 そして、絶句した藍の横をフランドールは何食わぬ顔で通り過ぎる。
「あ〜あ、スキマ妖怪じゃなくて、その手下が相手か〜」
 とても残念そうなひとことを残して。
 当然、藍はそれに文句を言ってやろうと振り返ったのだが、
「大人気ないわよ〜?」
 いかにも面白そうに笑う紫に耳打ちされ、思いとどまった。紫が動くなと言うのなら動
かないのが、式である藍に課せられた義務だ。
 しかし。
(大人気ない? どこが?)
 主である紫への無礼。
 式である橙への攻撃。
 目を回している橙に大した怪我が無いことを確認しつつ、藍はもう一度心の中で呟いた。
(どこが?)
 対して、青コーナーに戻ったフランドールは美鈴に嬉しそうに報告する。手をにぎにぎ
と動かし、
「猫触ってきた〜」
「い、いきなり喧嘩売ってどうするんですか〜」
 美鈴に嘆かれた。
 選手を紹介する文の放送が入ったのは、そのタイミングだ。

              ※ ※ ※

「さ〜てこの寒空の下、今回も注目の一戦です! 初めて目にする方も多いはず。さきほ
どBブロックで試合を行ったレミリア選手の妹さん。その名もフランドール選手の登場で
す! その能力のほどは謎ながら、悪魔ならば弱いはずがないと、その賭け率は全体の五
割! 早くも実力派の狐と会場の人気を二分する勢いです!」
 そういう文の言葉に、慧音もうむと首肯する。
「私はスキマ妖怪に使われた狐と紅い悪魔、それぞれと手合わせしたことがあるが……速
度だけなら狐も悪魔に負けてはいないだろうな」
「動きが単調で読みやすいですけどね」
 経験から出た慧音の言葉に、同じく両方と弾幕ごっこの経験がある文が肯定を返す。
 他者に従う式であるとはいえ、長い年月を生きてきた化け狐もまた幻想郷では名の売れ
た強妖だ。三途の川の幅を求めたりなど、文の発行する新聞にも度々登場する存在である。
「自らも式を使いこなす稀有な式に、悪魔の妹! 肩書きは互角、どちらも優勝候補! 
しかも先ほどハプニングもあったようです。これはいったいどういう試合になるのか……
それでは選手中央へ!」
 文の掛け声に背を押され、フランドールと藍はそれぞれコーナーを出る。同時に賭札を
握り締めた観客たちの応援の声が大きくなり、それにフランドールは目を丸くする。
「悪魔の妹がんばれー!」
「あなたに賭けてるからねー!」
「フランにゃんがんばってー!」
「わわっ!?」
 思わず首をすくめてしまう。妖怪たちは悪魔嫌いであるが、とりあえず賭け事にはその
常識は通用しないらしい。
 声援の大きさは、館の外を知らなかったフランドールを一瞬だが怖気づかせたが、
「フラン」
 知らない声ばかりの中、誰よりも聞き慣れた声が、フランドールにリングサイドを振り
返らせた。そこにいるのは姉であるレミリアであり、彼女の挑発的な視線にフランドール
はすぐに自分を取り戻してそっぽを向いた。
「ぜーんぜん驚いてなんかいませんわ、お姉様」
「ふぅん? なら、フラン」
 と、レミリアが言葉を続けるのに、フランドールは少しだけ胸をどきりとさせた。
(がんばれ、とか言うのかな?)
 ちょっと言われてみたいかな、と期待したりもしたのだが、残念ながらレミリアの口は
違う言葉を紡いでいた。
「私の顔に泥を塗らない程度にお願いね」
「うぅ〜……わかりました!」
 特別優しい言葉が欲しかったわけでもないが、フランドールは自分でもわからない不快
感に、牙をごりっとすり合せてから荒い声音で返事をした。
 そこに、
「あ、フラン」
「……なに?」
 不機嫌に自分を見る妹に、レミリアは付け足すようにして言った。
「リングの上なら何を壊しても許すわ」
 追加のお言葉があり、フランドールは素直にうなずいた。それはつまり『壊してしまえ』
という指示に他ならない。
「はい、お姉様」
 それで終わりかと思ったら、
「あ、フラン」
「なに?」
 さらにレミリアはフランドールを呼び止めた。
 次はどういう注意か、それとも指示か、と待っていると、
「がんばりなさい」
「っ!」
 不意打ちに、フランドールは帽子を引きずり下ろして顔を隠した。そして、セコンドの
位置でぺかーっと笑った美鈴に問答無用で手にした杖を投げつける。
「つぁ!?」
 額に一発受けた美鈴がひっくり返り、フランドールは肩をいからせ、早足でリングの中
央へと進み出る。
 そして、
「壊すよ!」
 すでにそこに待っていた藍に、頬を染めた顔で言葉を叩きつけるのだった。
 それを受けた藍は「まあ微笑ましいことで」とうなずいた後、
「あなたにそれができるとは思えないわね、お嬢ちゃん」
 鋭い視線で、先ほどの報復を行うつもりでそう告げるのであった。
 そうして早くも二人の間に視殺戦が始まると、文が最後に一つと解説する。
「前の試合の教訓を生かし、ルールの追加をお知らせします。試合はリリーホワイトの試
合開始宣言のみをもって開始されるものとし、それ以前に攻撃が行われた場合、そのダメ
ージが回復するのを待ってから試合を開始することとします」
 これまで慣習法として行われていたことを明文化しただけのことだが、ともあれ不意打
ちは無しということである。
 それを踏まえ、
「それでは」
 と映姫が笏を掲げれば、そこは太陽が見えるはずもない分厚く黒い雲。そこから白い衣
装のリリーホワイトが舞い降り、試合は始まるのだ。
 つまり、
「始まりですよ〜」
 ということである。

              ※ ※ ※

「始まりました、Cブロック第三試合! まずは双方どのような形で戦いを立ち上げるの
か、注目しましょう!」
 文が声を張り上げ、盛り上がった観客の歓声がリングの上の二人の妖怪を打つ。
 まず最初に動きを見せたのは藍で、彼女はその場で左足を浮かした。後ろ足とした右足
に体重をかけたまま、ほんの少しだけ左半身を相手に向けた形。左足の爪先をわずかにキ
ャンバスにつけたその一見中途半端な下半身の状態で、両手は前に突き出した開手で肘を
やわらかく曲げる。
 簡単に言えば、ごく普通に左足を前に踏み出して構えた状態から、その左足を自分の身
体へと思い切りひきつけた構えだ。窮屈だが、小さくまとまった隙の少ない立ち姿である。
 それに、文がおやと目を見張る。
「狐が猫足立ちですか……では、フランドール選手は――って!」
 視線を移して、今度は絶句した。
 フランドールは両足を肩幅に広げ、身体をやや前のめりに倒した状態で、両腕を真っ直
ぐ下に垂らしていた。そのままの姿勢で身体をゆっくりと左右に揺らし、鋭い視線を正面
の藍へと向ける。
「ノーガード! 狐相手に防御など必要ないとでも言いたいのか、これはあまりに挑発的
です!」
「お、お嬢様っ。私の教えた拳法は……」
「こっちの方が強かったじゃない」
「うぐっ」
 青コーナーから美鈴が慌てて叫んだが、それに対するフランドールの返答は冷たかった。
だが、そのやりとりが無条件で藍にその構えを危険なものと認識させる。
 そのまま、頭一つ分以上の身長差のある二人はリング中央で睨み合った。距離をジリジ
リと詰めるのはフランドールで、彼女は両腕をブラブラ動かしながらすり足を進める。ま
るで獣が獲物に襲い掛かる瞬間を見定めているかのような、ミリ単位の移動だ。
 一ミリ。
 また一ミリ。
 ズ、ズズ……と。
(面白い)
 大胆な構えにして、繊細な動き。フランドールのその姿に、藍は自分の中で戦いの流れ
を計算し始める。
(八雲の戦いは、パターンの戦い)
 予め相手の動き一つ一つに対して自らの動きを決定しておき、そしてその一つ一つを確
実に潰していく。手数、圧力、作戦、全てを用い、相手の動き全てを封じ込めて敗北へと
押し込んでいく『戦いのパターン』が、八雲の戦術だ。
 すなわち、大切なのはその『パターン』であり、戦いの中で藍はそのパターンを無心に
実行する駒として動く。自分の行動に迷いが無いからこそその動きは速く、力強いものと
なる。
 ――だから。
「あ」
 藍の雰囲気が目に見えて変わり、文が不覚にも無意味な声をマイクから会場への放送に
乗せる。それだけ周りから見てわかりやすい変化だった。
 青コーナーのセコンドの美鈴は「あと十分の一歩」と確信した。
 赤コーナーのセコンドの紫は「最初の布石が出る」と確信した。
 藍は自ら『パターン』の最初の一手となる初段を打ち込むことに決めたのだ。
 当然、フランドールもその気配は感じ取っていた。
 ただ、
(来る……のかな?)
 会場にいる全員が藍の攻撃意志を感知した中で、フランドールだけが自分の感覚に半信
半疑だった。
 彼女には、まず様子を見ようなどという戦いの定石に関する常識は無く、また経験不足
はそのまま自分の感じ取った『敵の動きへの予測』への不信にも繋がる。
 結果、
(ま、いいや)
 彼女は、ジリ、とさらに自ら間合いを詰めた。自分が攻撃するためだ。
 その瞬間。
「ふ!」
「きゃっ!?」
 藍が体重をかけていた後ろ足でキャンバスを思い切り押し、飛ぶような勢いで左足で踏
み込んだ。同時に左手は掌底打ちとしてフランドールの顔面めがけて繰り出される。
 フランドールはそれを吸血鬼生来の反射速度で、上半身を前に折り畳んで避けた。それ
は本能だが、打撃は伸びる後ろに向かって避けるより、通り過ぎてしまった後は怖くない
斜め前に逃げる方が安全だ。
 ――かわした。
「い……!?」
 直後、フランドールは右足に走った痛みに顔を歪めた。見れば、藍の素足による踏み込
みは親指を下に向かって立て、フランの右足を踏みつけていた。靴が無ければ肉を抉りそ
うな、足による鉤爪のような攻撃だ。
(あ、あれ、手じゃなくて、足!?)
 一瞬の混乱がフランドールを襲い、そこに美鈴が警告を発する。
「お嬢様、横!」
「え?」
 それはまさに死角だった。
 死角を作る一つ目の要素は、藍が大きく踏み込んだこと。
 二つ目の要素は、藍の左腕での突きをフランドールがその場でかわしたこと。
 三つ目の要素は、藍の足がフランドールの右足を踏み、彼女の視線が逸れていたこと。
 四つ目の要素は、藍が踏み出した左足に引きつけるように右足を進めていたこと。そう
することで、藍は最初の一歩を踏み出す前と同じ足の形となる。
 そのお互いの吐く息にすら触れられそうな近距離で、藍は完全にフランドールの死角に
なるように右手で彼女の左側頭部を狙って掌底打ちを繰り出していた。そうなると、フラ
ンドールの頭は先に突き出した藍の左腕と右掌で挟まれる形となる。
(『詰み』だ)
 回避不能。
 そう藍は判断した。
 そして。

 そのコンビネーションを、フランドールは凄まじい速度で上半身を真後ろに倒すことで
回避した。

「な!?」
 藍が驚愕の声を上げる。右手の掌底打ちが目標を外して藍の左の上腕を叩く。
 そこに、
「あは」
 子供の笑い声。
 同時に、藍は常識外れの衝撃を左肩に受けて真横に『ズレ』た。攻撃が終わった姿勢の
まま、足が浮いて無理矢理位置をずらされる。
 何が起きたのか、藍には瞬時には理解できなかった。ただ、すぐに気持ちを入れ替えて
彼女はそこにいるだろうフランドールに振り返る。
「あはは、そっか、お姉さん結構強いんだ!」
「!」
 そこに――先ほどよりも近い、まさに目の前で悪魔の妹は紅の瞳を爛々と輝かせていた。
反射的に、藍は『パターン』通りに両の手でフランドールの頭を左右から挟み打とうとし
する。
 それを、フランドールは再び上半身を後ろに反らして避ける。
(ここだ! この後、何が起き――)
 考えるよりも早く藍は左脇腹に重い一撃を受け、息を吐く。今度は視界でその正体を捉
え、しかしむしろそのことで藍は舌打ちする。
(この……っ)
 ほとんど直角になるほど身を反らした状態。そこから、フランドールは真っ直ぐに伸ば
したままの腕を棒のように無造作に横に振って藍の身体に叩き込んでいた。
(なんて出鱈目っ)
 腹を打たれた衝撃に、藍が思わず身をくの字に曲げる。身体を反らしたフランドールに
覆いかぶさるようになったその横顔に、
「ぐっ!?」
 真横からフランドールの小さな拳が突き刺さった。身体を寝かした状態から腕力だけで
振るわれた左拳は、目の前の蚊を払うようなさりげなさだったが、その一発は藍の首をも
げそうになるほど回転させた。
 視界が暗転し、それでも藍は滑り止めになる素足でキャンバスを踏んで堪える。消せな
い勢いを数回たたらを踏むことで流し、同時に間合いを取る。
 そこまでが、二人の最初の攻防となった。
「な……」
 と唖然とした声を上げたのは文だ。
「なに今のは……寝っころがりながら打った!? 慧音さん、今の打撃についてひとこと
お願いしますっ」
「知らない。突きでもパンチでもない、身体の捻りも足の踏み出しも無い、ただ――」
 それを表現するのならば、と慧音は言う。
 あまり認めたくは無い事実だが、
「『ぶん殴った』だけだ」
「フランドール選手、常識外れの回避! そして反撃! 子供ならではのやわらかい身体
が可能とするのか、これはまったくのセオリー無視! 一回前におじぎしてから身体を後
ろに倒し直すやら、その状態から殴るやら、もう好き勝手やっております! この理不尽、
藍選手はどう対処するのか!」
「そのまま行くわね」
 放送に対し誰に聞かすまでもなく応えたのは、赤コーナーの紫。それに呼応するように、
藍は頭をぷるんと振ってから再び元の構えへと戻った。
(『パターン』を修正……大丈夫、多少の変則は対応できる)
 ただ、と自分の左脇腹を一瞥する。身じろぎした瞬間、そこから脳天に響くような痛み
が生まれ、顔をしかめる。
(あの顔……ヒビが入った。まあ、そりゃそうなんだけど)
 そう判断したのは、同じ高さで全てを見ている美鈴だ。彼女は自分も覚えがある痛い思
い出に、藍と同じ表情で脇腹を押さえた。
(お嬢様に叩かれると痛いのよねぇ……)
 そして同じ状況に立ったことがある経験者として、藍のとった『そのまま行く』作戦に
同情する。
(それじゃ駄目なのよ。まず根本的に認識を変えないと)
 多少の作戦の変更だとか、フランドールの動きの変則を考慮に入れた対応だとか、そう
いうレベルの話ではない。
 今度は、藍は浮かしていた左足でフランドールの鳩尾を狙って蹴りこみながら進み出た。
猫足立ちの特徴は、片足を浮かしていることによる前進と後退の容易さだ。
 その蹴りを、藍はフランドールが変則避けすると思った。
 しかし、
「っと」
 フランドールは飛び込んできた藍の足を平手で横に打ち払った。そうして交差方で懐に
入ってくるフランドールに、藍は掌底を打ち出す。
(本当に出鱈目なっ。だが)
 後ろに反る避け方は『待ち』だからできることであり、自ら踏み込んだフランドールは
前屈みに避ける。そこからの攻撃はない。そう確信した。
 が。
「!?」
 前屈みに藍の攻撃を避けるフランドール。その頭上を背中側から通り、羽根のように伸
ばした少女の拳が藍の顔面を殴打する。その一撃は、巨人に殴られたような衝撃となって
藍の意識を一発で弾き飛ばした。
「が……っ」
 後ろに崩れ落ちる藍の姿に、美鈴は「ご愁傷様」と両手を合わせる。
(お嬢様の攻撃パターンは無限。だってあれは『変則』でもなく、状況に合わせて動くだ
けの、ただの『てきとー』なんだから)
 フランドールは『前に屈む』と『腕を後ろに振る』を同時に行い、『かわしながら殴る』
を実行してみせたのだ。
 だからこそ、その一連の光景に絶句するのは、己の身につけた技術に自信のある者たち
ばかりだ。
「嘘」
 と呟くのは放送席の文。
「あんな無茶苦茶な……っ」
 と拳を握り締めて腰を浮かすのは観客席の妖夢。
「信じられないでしょ。でも、あれがフランドールお嬢様。本能だけで最短距離を通る攻
撃を当ててくる――生まれついての壊し屋よ」
 美鈴の言葉が締めくくりとなり、大妖怪八雲紫の最強の式は力無くキャンバスに身を沈
めた。

              ※ ※ ※

「ダウン!」
 笏を掲げた映姫の宣言に、会場が沸いた。それは歓声と悲鳴の入り混じったもので、五
分の賭け率がそのまま表れた形だ。
「つ……ぅ、なにを……あれ?」
 その声に叩き起こされるようにして目を覚ました藍は、映姫がすでにカウントを四まで
入れていることに驚きながら、キャンバスに手を突いた。打撃を受けた鼻から後頭部に向
かって刺すような痛みが残っていたが、我慢できる程度だ。むしろ先に受けていた肋骨の
痛みの方に難儀しながら、重い身体を持ち上げる。
(何をもらった?)
 自分が倒れるきっかけとなった『顔面への攻撃』が、藍の記憶には無かった。最後に拳
が見えたのはわかったが、それがどういう軌道で視界に飛び込んできたのかは把握してい
ない。
 威力としてはそこそこ程度の打撃で意識を刈り取られたのは、殴られる気構えさえでき
なかった『思いも寄らぬ被弾』故だ。
「ら〜ん」
「紫様?」
 呼ばれ、藍は赤コーナーを振り返る。すると、そこで紫が目を覚ました橙の頭を押さえ
込んで前屈みにさせ、橙は「やー!」と不恰好に背側を通して腕を頭上に掲げていた。
「……なるほど」
 こういう時にはセコンドのいる『試合』というのは助かるなぁ、と藍は指で真っ赤な鼻
血を拭った。妖怪というのは便利なもので、それだけでもう次の鼻血は出てこない。脳に
響く鈍痛は消すことはできないが、呼吸を邪魔されることがないのは人間よりも有利だ。
(変則でも、ないか)
 再び両腕を垂らしノーガードで自分を見上げてくるフランドールの姿に、藍は自分の認
識が甘かったことを認めた。
 変則とは、定石とは違うことをして相手の虚を突く一つの理だ。だが、フランドールの
動きにはその理がない。もっと合理的な攻撃方法はあっただろうに、わざわざ腕を羽根の
ように振り上げるなど、ふざけすぎている。
「天衣無縫、ね」
 扇を広げ、天晴れと幽々子がフランドールに賛辞を送る。それに振り返り、妖夢は険し
い口調で否を唱えた。
「あんなもの、ただの素人の無茶苦茶じゃないですか! それに対し、あの人が行ってい
るのは高度に計算された格技そのものです。悪魔の腕力が多少強くても――」
「いやいや妖夢。ただの腕力とは違うのよねぇ」
 あれは、と幽々子は笑いながら妖夢の視線を扇で遮る。興奮しすぎ、というメッセージ
に妖夢が鼻白んだところに、放送席からの文の言葉が降ってくる。
「認めたくはありませんが……これは、吸血鬼の身体能力だけの問題ではありません。プ
ラスその戦闘本能――才能とでも言いましょうか、それが生み出す、『技術』を凌駕する
力……言うなれば『暴力』! 最強の素人フランドール・スカーレットの暴力が、八雲藍
の技術を一方的に追い詰めております!」
 一方的、というのは言い過ぎではない。事実、ここまでの攻防で藍はフランドールにダ
メージらしいダメージを一つも与えてはいないのだ。
 それに比べて、フランドールはすでにKOになってもおかしくはない打撃を幾つも入れ
ている。例えばセコンドにいる橙であれば、最初の左脇腹への一発でキャンバスの上をの
た打ち回っていたことだろう。
 それでも。
「それでも、そのまま行くわよね?」
 確認するように紫が呟くと、応えるように藍は再び猫足立ちで構えた。フランドールは
ふぅんと目を細めてそれを見て、
「そのままだと、もう終わらせちゃうよ?」
「フランドール選手、今度は大きく前へ出ました!」
 文が言う通り、それまですり足で前に出ていたフランドールが大きく足を開いて前に出
る。大振りな弧を描いて右腕が横薙ぎに繰り出され、丸太の威力のあるそれを藍は後ろに
下がることで避ける。
 類稀な身体能力を持つフランドールの欠点らしい欠点は、その小柄な身体故の四肢の短
さだ。遠い間合いからでは、大きく踏み込んでも藍がわずかに下がるだけでその攻撃はす
かされることになる。
(もっと近くに行かなくちゃ、かな)
 切り返しで左拳を打ち放ちながら、フランドールは藍の戦闘力について自分なりに考察
を進めていた。
(動きはそれなりに速い。お姉様よりは遅い。力はそこそこ。お姉様よりは弱い。拳法も
それなり。でも、美鈴の方が上手かった……ような気がする)
 うん、と結論を下す。
 お姉様の許可も出てることだし。
 迫るフランドールへの、藍の起死回生の左肘打ち。猫足立ちの左構えから真っ直ぐに突
き出してくるそれをあっさりと右掌で受け止め、その軽さにフランドールは鼻で笑った。
「もういいや。壊れちゃえ」
 必殺の左拳を繰り出そうとした、その瞬間。
「――調子に乗りなさんな、お嬢ちゃん」
「? ぎゃっ!」
 『受け止められた肘』を支点にして折り畳まれていた腕が伸ばされ、鞭のような手甲打
ちの一撃がフランドールの眉間を打った。一時的に視界を奪われたフランドールが涙目で
悲鳴を上げると、ツンと藍の右手の指がその腹に触れる。それに反応してフランドールは
慌てて手を打ち下ろす。
 しかし、そこに藍の手は無く、それがフェイントだと気がつくよりも先にフランドール
は本能で顔を後ろに反らして、顎を狙った刷り上げるような藍の右掌底打ちをかわした。
 と。
「あ?」
 足に軽い衝撃を受けて、フランドールは宙に浮いた。
 右手で肘を受け、眉間を打たれて視界を塞がれ、腹へのフェイントで右手を下ろし、さ
らに上半身を後ろに反らした――そこへのごくごく普通の足払い。
 その瞬間、フランドールは完全に『死に体』となった。
 そして、眉間を打った藍の左手、刷り上げた右手は、空中で交差する。
 交差した腕は、
「八雲式、完成」
 紫の言葉と同時。
 身体を反らして浮いたフランドールの喉へ向かって落ちる、左右からの十字手刀という
形で振り下ろされた。
「!?」
 それは声も立てさせずにフランドールをキャンバスへ叩きつけ、
「ダウン!」
 間をおかず映姫が笏を掲げるだけのダメージを、フランドールに与えていた。

              ※ ※ ※

「ぎゃくてーーーーん! 今度は、フランドール選手のダウン! 藍選手、まるで相手の
反射性能の高さに付け入るかのような巧みな連続攻撃で、フランドール選手をまさに手玉
に取りましたー!」
 もはや贔屓丸出しのようにぎゅっと拳を握り締め、文がマイクに言葉をぶつけた。それ
で湧き上がるのはやはり五分の歓声と五分の悲鳴だ。
 慧音もやや興奮したようにうなずいて言う。
「あれは最初の肘打ちをわざと手加減していたな。そうやって『上体反らし』を使わせな
かったことであの流れを作った。そこまで計算していたのか、あの狐は」
「でも、立つみたいだね」
 一人冷静にコメントしたのは、格闘技にあまり興味がない霖之助だった。周囲の全員が
藍の技巧に酔いしれる中、彼は眼鏡のレンズの奥で目を細め、倒れたフランドールがびっ
くりしたように目を丸くしているのを見る。
「目が覚めたみたいね」
 人差し指を唇に当てて微笑むのは、フランドールの姉のレミリアだ。彼女は妹の失態を
目の当たりにし、しかしむしろそれに対して愉快そうに言う。
「雑魚とは違うわよ。良い経験をさせてもらいなさい」
「シックス、セブン、エイト」
「お嬢様、カウント!」
 美鈴の叫び。
 だが、言われるまでもなくフランドールは跳ね起きていた。大の字から、腕の先だけで
キャンバスを叩いて、反動で起き上がる。
 ダウンを逆再生するかのようなそれに、藍は失笑した。
「姉もそうだけど、妹も派手好きね」
 羽根とか、とひとこと付け加える。
 その言葉を受けるフランドールは、映姫の「続行!」の合図の後も打たれた自分の喉を
さするのをやめなかった。そして、へぇ、という笑いがその唇に浮かぶ。
「お姉様以外に打たれたの、初めてよ」
「おや、それは失礼」
 それは自慢なのか、それとも経験不足を露呈しているだけなのか。フランドールの言葉
に、藍は適当に相槌を打ちながら肩をすくめた。
 さらに、フランドールは秘密を打ち明ける子供の顔で、
「お姉様とチェスをして、二百五十六回連続で私が勝ったところで『弱っちぃですわね、
お姉様』って言ってあげたら、襲いかかってきたの。そのまま喧嘩していたら咲夜に叱ら
れて、その日はデザートがいつもよりワンランク下だったわ」
「まあ、私でもそうするかも」
 橙が将来の部下候補の猫たちと格闘して引っかき傷だらけ、泥だらけで帰ってくる度に
頭を痛めて叱っている藍だけに、咲夜の気苦労が想像できて吹き出してしまう。
「まったく、子供の相手は大変よ」
 そのような藍に、フランドールもにっこりと微笑む。
「うん。だから、私の遊び相手はお姉様ばかり。霊夢や魔理沙とした弾幕ごっこも面白か
ったけどね!」
 だけど!
 びっくり!
「あは」
 二本の牙が唇から覗く、最高の微笑で。
「なんとここには、壊れるまで遊べる狐の玩具!」
「っ!」
 唐突に叫んだフランドールに真正面から殴りかかられ、藍はとっさに両腕で身を守りな
がらも真後ろに吹き飛んだ。
 そしてそれを宣戦布告として、フランドールはノーガードで前に出る。
「あはは! それなりに強いと思ってたけど、もっともっと強かったんでびっくりしちゃ
った。あなたは何分私と遊んでくれるの!?」
「……あと三分くらいさね」
 残り時間を嘯いて、藍は衝撃で切れた唇の血を舐めて三度猫足立ちに構えた。フランド
ールは先ほどと同じように、大股でこちらの陣地を侵そうと歩を進めてくる。
 その怖いもの知らずの少女に対し、藍は言う。
「こちらも、いい加減頭に来てるのよ。紫様への無礼。橙への一撃。それから」
 ――私をナメたこと。
 血の味が、藍の瞳を獣のものに変える。ここまでの『お試し期間』は終わったと、お互
いにもう理解している。
 二人が叫んだのは、似たようなひとこと。
 さあ。
「遊びましょ!」
「お仕置きの時間だ!」
 強妖同士が、本気で戦うために拳に力を込めた。
 一直線に歩いていたフランドールが唐突に背中を向け、身体を渦巻きのように回転させ
て右手での裏拳を放つ。藍はそれを猫足立ちからの前進を行いながら、逆腕である左手を
フランドールの右背肩に当ててその回転を止める。
「あ」
 腕や足といった末端部ならともかく、中核である胴に力を加えられれば、いかにフラン
ドールとはいえ動きを封じられる。つっかえ棒を入れられて中途半端に終わった回転状態
で、フランドールは藍に斜め後ろから肩を押さえられた形になった。
 そこに、横から藍の掌底がこめかみよりもやわらかい耳の裏を打つ。ついでに鼓膜を刺
激されてキーンと脳に快音が響いたフランドールは、目をチカチカさせながらもバックス
テップした藍を追おうとしたが、
「れ?」
 足元がふらついて、その場で足をもつれさせた。同時に視界の中で地面が斜めに揺れる。
 そもそも生身の生物とは違って精神力で肉体を形作っている吸血鬼だが、蝙蝠にも化け
ていない今はさすがに『形式的』な構造の影響下にある。視覚、味覚、触覚――もちろん
三半規管もだ。『二本足で歩く』ための機能を司る部分を藍の耳裏打ちで狙撃され、フラ
ンドールは一時的に自分の居場所を見失った。つまり、目を回したのだ。
(それなら出鱈目な避け方もできないでしょう!)
 バランスを崩させるためにあえて後ろに下がった藍は、目的を達成して再び前へ進んで
右の掌底を突き出した。今度こそ真正面からフランドールの顎を狙う。
 しかし、フランドールは言うことをきかない視界を無視して、大振りの拳でその攻撃を
払う。歩くことができなくても、ぐるぐる回る視界の中でも、自分を狙ってくる攻撃は一
つだ。妖夢のように正確に打ち落とすことはできなくても、身体の前面を振り払うように
すれば、腕のどこかに引っ掛けて払い落とすことができる。
「大振り――打ち終わり狙えます!」
 思わず妖夢が身を乗り出す。
 藍は腕を振り払われた勢いを逆に利用して、踵を支点としてフランドールのような回転
攻撃を放つ。ただし、藍の攻撃は裏拳ではなく鋭角な肘打ちだ。
 そこに、今度は逆方向からフランドールが腕を振るう。あてずっぽうの横振りは藍のコ
ンパクトな動きの速度を凌駕し、藍の上腕に命中して吹き飛ばす。
「切り返しまで早い……っ」
 妖夢が唇を噛んで悔しがる。フランドールの恐ろしさは、大振りを連発できるその動き
の速さそのものだ。それは単純に隙が少ないということとイコールだ。
 フランドールの連続攻撃は短い時間で開け閉めされる襖にも似ている。確かに穴は空く
のだが、それが閉じるのが早すぎるのだ。下手に手を入れれば、挟まれるだけなのである。
「なのに、よく接近戦を挑みますね」
 冷や汗を流して、文が藍の無謀を賞賛する。
 本気を出した藍の動きは、フランドールにも負けるものではなかった。腕力一つでは及
ばなくても、『八雲式』で迷い無い定められた動きをする化け狐は、一つ一つの動作に『
行動の選択肢』が存在しない分だけ、むしろ『アクション』という点ではフランドールよ
りも早く動いていた。
 藍が右肘を右外側を通すようにして打ち出す。フランドールが得意の上体反らしでそれ
を避けながら反撃の拳を繰り出すと、藍はそれに構わずに右肘を展開して右拳を小指側を
下にした拳槌で相手の額を強打した。
 不安定な体勢でそれを受けたフランドールは、背中から落ちて「いたっ」と短い悲鳴を
上げる。
「上体反らしの弱点は、その状態で少しでも押されればバランスを崩すこと。完全にその
タイミングを掴んだようだな。ああなると、吸血鬼が相手を捕まえるのは至難だぞ」
 藍の順応性の高さに慧音が舌を巻く。
 フランドールはすぐに後転して起き上がると、蛙のような姿勢で藍を睨み上げ、そこか
ら飛び上がるようにして藍に突っ込んだ。野球の投手のように拳を頭上から回してオーバ
ースイングで叩きつけようとするが、さすがにそのような大振りは藍には通用しない。
 むしろ、拳に勢いがつき過ぎて前につんのめり、フランドールは半回転して藍に向かっ
て転ぶ。
 その背中を腹で受け止め、藍は右の肘を振り上げた。
「つかま」
「えた!」
 瞬間、フランドールが背中を藍に密着させたまま、右の拳を自分の左脇腹を通して藍の
腹部にめり込ませた。
 ズンッ、という鈍い音が会場に響き渡り、
「が……ぁっ」
 藍の膝が落ちる。腹を押さえ、くの字に折れた身体が弱々しく後退し、それに対してフ
ランドールは背中を向けたまま後ろに跳んで追いすがった。
 そして、
「ぐ、あ……!」
 二発目――今度は一発目よりも身体の捻りを加えた致命的な『後ろ殴り』が、藍の口か
ら呻き声を絞り出させた。拳が肋骨を陥没させそうなくらいに埋まり、ヒビの入った肋骨
が砕けるイメージが藍の脳裏を走る。
「なんて近づき方をっ。そんな手があるのか!?」
 寸前の自分の意見をいきなり覆され、慧音が信じられないと声を荒げる。対照的に、リ
ングサイドのレミリアは愉快そうに手を叩き合せた。
「いたずらっ子はこういう知恵が回るのよ」
 レミリアはそう言うが、フランドールの一撃を受けた藍からすれば『いたずら』などと
いう可愛い言葉で済むことではない。噴き出した脂汗に、藍は痙攣しそうな下半身をどう
にか押さえてダウンを拒否するのがやっとだ。
 対して、それだけの打撃を加えたフランドールは、藍を打つことで拳に返った衝撃にゾ
クリとした快感にも似た確信を得た。
(効かせた――狐にヒビを入れた)
 実戦経験の少ないフランドールは、自分の打撃でどのくらい相手にダメージを与えたの
かを知る術を持たない。だが、今の一撃で相手の身体に『亀裂』が入るのが拳を通して視
えた。
 思いのほか頑丈な狐。最初はかなり侮っていたが、実際に戦ってみればかなり強いこと
はわかった。
(面白い!)
 この強敵との『遊び』を、フランドールは気に入り始めていた。
 つまり。
「あはは! 狐さん、『何回の被弾で壊れるのかしらゲーム』しよ!」
 大振りの右が、棒立ちの藍の左脇腹に無条件に炸裂した。
 めき、という音がフランドールの拳に伝わり、藍が顔を歪めて後退する。
「もう一本ちょうだい!」
 藍の後退に合わせ、フランドールは一歩を詰める。今度は左の一撃が向かうが、からく
も藍はそれを右腕を畳んで受ける。
「こっちはまだ元気!?」
 小さな拳の威力に耐え切れずにズレる藍は、完全に足の動きを封じられていた。肋骨が
折れたことにより足の震えが止まらなくなっており、身じろぎするだけで走る激痛が彼女
の動きを阻害する。
「くそ……っ」
 最初に肋骨にダメージを受けた数分前の自分に悪態をつきながら、藍は後ろにたたらを
踏むように小走りに下がりつつ自分の構えを変化させる。左手を前に出す左半身から、負
傷した左脇腹をフランドールから遠ざけるために右半身。
(動け!)
 唇を噛み切る勢いで、藍の痙攣する左足が伸ばされる。右足を腰に貼り付けるように折
り畳み、一本足で立つ藍は滑空する燕のように両腕を広げた。
 その動きに美鈴が「うわっ」と驚く。
「ここに来て劈掛拳(ひかけん)!?」
 会場の誰にもわからないが、美鈴だけにはわかる。身体全身の遠心力を使って、鞭のよ
うに腕を振り下ろす劈掛拳の打撃にはフランドールの上体反らしは通用しない。横に向か
のではなく、弧を描いて縦に向かう力だからだ。
 また、横にかわしたとしても、振り下ろしたところから横回転して薙ぎ払う動きに転化
することが容易い劈掛拳は、フランドールとの相性が悪過ぎる。
(天敵だ!)
 大きな動き、当たるまで途切れない連続攻撃。相手を寄せ付けないで倒すその闘法は、
遠距離と近距離の違いはあれどフランドールの動きにも近い。
(お嬢様にはかわせない遠距離攻撃が来るっ)
 そう美鈴が思い、警戒心の欠片もなく突っ込んでくるフランドールに向かって藍が浮か
した右足で踏み出そうとした瞬間。
「デーモンロード――」
 まったくの不意打ち。
 それまでの両腕振り回しとはまったく異なるリズムで。
「クレイドル!」
 フランドールの身体がミサイルのような巨大な矢となって、藍の顔面を頭突きで打ち抜
いた。
(反則だーーーーーーー!)
 そんなの予測できるか、と美鈴がもう投げやりに両手を挙げた。『お手上げ』だ。
 それは藍もまったく同じ気持ちだった。
 『八雲式』。
 正しく計算された『パターン』で相手を追い詰める、その最初の布石の一手を、藍はフ
ランドールの『予測不可能』に打ち砕かれたのだ。
 その理由が、後ろに下がった藍を『追いかける』ためだけだったというのは、本当に理
不尽に過ぎる。
 クレイドルで藍の頭を跳ね上げたフランドールは、宙を飛んだそのままの勢いで、後ろ
に倒れかけつつもどうにか踏ん張った藍の上に逆向き肩車の形に着地する。
 トス、と羽根のように軽い体重が藍の肩に乗り、フランドールは両足であぐらをかくよ
うに藍の頭を絡めとった。
 向かい合う形の肩車で、強烈な一発を受けて意識の半分飛んだ藍と、幼い顔にクスクス
笑いを浮かべたフランドールが視線を絡める。
 八雲藍の『理』が真正面からの『暴力』に屈したのが、その瞬間だった。
「それじゃ、ゲームスタート!」
 そうして、フランドールの『何回の被弾で壊れるのかしらゲーム』が始まった。

              ※ ※ ※

「これは、さすがに……」
 ゲームが始まるや否やそう呻いたのは文だった。
 藍の上に座ったフランドールが、自分が足で拘束した藍の顔面を左右の拳で殴る。それ
は、ただそれだけのことだった。
 右の拳が命中すれば藍がその威力で右に傾き、ふらついた足がキャンバスをどうにか踏
んで後退する。
 左の拳が炸裂すれば今度は左に傾き、やはり藍は後退することで上に乗るフランドール
とのバランスを保って立ち続ける。
 一発、二発、三発、四発、と重ね、ついにロープを背負って後退できなくなると、フラ
ンドールは白い肌を上気させ、歓喜の表情で白い歯を見せて笑う。
「凄い、凄い凄い! まだ? まだ壊れない!? まだ……まだ!?」
 フランドールの手には、一発ごとにかつてないほどの手応えが返ってきていた。それこ
そ並の妖怪であれば一発であの世にいきそうな破壊力がそこにはあったのだが、今彼女が
相手をしている『式』の耐久力は格別だ。
 一発拳を入れる。藍の身体がロープに沈み込む。
(倒した)
 と思う。
 だけれど、藍は手でロープを掴んで倒れることを拒否する。
(凄い!)
 嬉しくなって、フランドールは二発目を入れる。藍がガクンと膝をつきかける。
(壊した)
 と思う。
 手応えは明らかに頬骨を砕いている。フランドールの拳の方が痛いくらいだ。
 だけれど、藍は両手でロープを掴み、背中をロープの上に乗せるようにして、倒れるこ
とを拒否する。
(凄い凄い!)
 感心して、フランドールは三発目を入れる。
 四発目を入れる。
 五発。
 六発。
 七発。
 八発。
 九発。
 そこまで叩く。叩く度に、フランドールが激しく身体を動かして近距離にある藍の顔を
殴打する度に、吸血少女の額の汗の玉が左右に揺れる。汗の一筋が額から頬に流れるまで
のほんの二秒足らずで、十発。
「これで……!」
 だが、それでも藍は倒れない。当の昔に口の中は裂け、唇からはかなりの量の赤いもの
が溢れて顎に伝っていたが、それでも彼女は唇を引き結び堪える姿勢を崩さなかった。
 その姿が、フランドールを感動させる。
 これでは、いつ壊せるかわからない。
 わからなくて、ワクワクする。
(ゲームはこうでなくっちゃ!)
 生まれて初めて、フランドールは夢中で生き物の破壊に取り組んだのである。

 そして。

「……なん、だ……これ?」
 その合間に藍が途切れ途切れに呟いた言葉。
 開いた口から大量の血が吹き出すことも気にしないで言葉にした思いが、文や妖夢、果
てはレミリアまでを含める妖怪たちの、統一した一つの思いであった。
 全力で攻撃するフランドールをよそに、藍は実際にはそれほどのダメージは受けてはい
なかった。
 周りで見ている者たちも、皆がそれに気がついている。わかっていないのは、楽しげに
拳を振るうフランドールだけだ。
 あれは、と文が額を押さえる。
「なんというか……あれですか?」
 躊躇いがちな文の代わりに、妖夢がため息混じりに言う。
「本当の本当に、何も知らないのね」
 フランドールは、自らの足を藍の頭に回して固定している。そこに思い切り勢いをつけ
た拳を叩き込んでいる。
 藍はそれを受ける度に左右に揺れるが、それもそのはずだ。
 何故なら、肩の上に乗っているフランドールが拳を振るう度に身体を大きく動かす。身
体を大きくよじって、右拳を藍の頬に打ち込む。そうすると、フランドールの体重と打ち
込みの勢いは打ち込んだ藍の身体を突き抜けて移動し、それに『引っ張られ』て藍は右に
傾く。フランドールが左拳で打ち込めば、それとは逆方向に同じことが起こる。
 つまり、藍は殴られた衝撃でふらついているのではなく、フランドールが肩の上で暴れ
るのでバランスを取ろうとしているのに過ぎない。それは元気の良い子供を肩車する親の
状況に大差ない。
 また、フランドールは藍を叩いて満足するだけの手応えを得ているが、それも藍に大き
なダメージを与えている証拠にはならない。殴る度にガツンと手首に返る重い衝撃は、フ
ランドールが藍の頭を足で固定しているが故だ。
 逃げられないように固定された首は、殴られても決して揺れることはない。その分力が
余すことなく骨に伝わり、藍の頬骨は甚大な被害を受けていたが、それは激痛を伴いはす
るが結局はそれだけの『負傷』だ。
 固定されているために脳が揺れないそれは、腕にも、足にも、身体にも、どこにも響く
ことがない、『ノーダメージ』の攻撃でしかない。そして妖怪とは、そうした単純な痛み
には人間などより遥かに順応してできている生き物なのである。
 もちろん、直接頭蓋を打つ攻撃は繰り返せば藍を殺すこともできるだろう。ただし、そ
れもこめかみなどの急所を狙った時に限る。藍からすれば、「頬くらいいくらでも殴らせ
てやる」という感じだ。
 相手の上に乗り、『自らの重心』を相手に委ねた状態で『横方向』の攻撃をするという
ことは、そのくらいダメージとは縁遠い行為なのである。
(『縦』に肘を落とせば、一発でオチる)
 美鈴はやきもきしながらその光景を見ていた。事実藍がそこまでに受けたダメージは深
刻なもので、肋骨を庇う彼女相手ならばどのような打撃でも無条件に入るだろう。フラン
ドールであれば、五秒もあれば立ち技でノックアウトできる状況である。
 だが、フランドールはより『殴りやすい』ように、『逃がさない』ように、藍に組み付
いてしまった。肘を落とすなり真正面から突くなりすれば充分にダメージを与えられると
いうのに、より『思い切り殴る』ために遠距離と同じフルスイングの攻撃を選択してしま
った。
 そのことに、フランドールだけが気がつかない。思いもつかない。ほとんど初めてと言
ってよい部外者との試合を、暗室の中を手探りで進むような予備知識無しの状態で行って
いるというのに警戒心や疑問が浮かばないのは、暗闇の中にあるのがプレゼントのぬいぐ
るみだと思っているからである。
 そこに楽しみ以外のものがあるとは思っていないのだ。
 藍をそれなりの実力者と認めながら、それでも『自分が勝つまでの過程を楽しむ玩具』
としか認識していないのである。
 そして、ぬいぐるみを探す過程であるからこそ、彼女は注意深くない。自分の状況を確
認しない。どんどん手探って、どんどん進んでいく。一度通った場所は、振り返らない。
自分のやりたいことだけに熱中し、相手の状態を見てもいないのだ。
『良い手応えが返ってきているから、ダメージを与えているに違いない』
『たくさん殴っているから、ダメージを与えているに違いない』
 そのように考える。妖怪と戦うということがどういうことなのかも知らない少女だ。
 ――なのに、強い。
 何も知らない悪魔の妹は、『悪魔の妹』というだけで強い。
 ある程度自分の『強さ』にこだわりのある者たちにとって、それは将来性という意味で
背筋が寒くなるほど驚くべき事実だ。末恐るべし、というところだろう。
 しかし。
「あは。壊れろ、壊れちゃえ!」
 左右交互に殴るという単調な作業に熱中し、どんどんテンションの上がっていくフラン
ドールの姿を眺め、知識の魔女は手にした分厚い本を静かに閉じる。
「レミィ。今度天井からバナナを吊るして、踏台と棒を与えてみたいわね」
 知識の宝庫だからこそ、彼女はそう評価した。
 声をかけられたレミリアはそれに振り返らず、
「咲夜。あと何分?」
「一ラウンドの終わりまでは、一分少々といったところですわ」
 側に控えるメイド長が懐中時計を開いてそう答えると、レミリアは不敵に笑う。なら、
と提案するのだ。
「今から賭けましょ。残り一分のところから、何秒耐えられるか」

              ※ ※ ※

 我慢の限界というのは、誰にでもある。
 例えば、理不尽なほど強い破壊力で肋骨を砕かれ、さらにまるでその負傷を虐めるかの
ように肩の上で暴れられた時、人はどういう感想を抱くだろう。
(くそ……っ。いい加減にしろよ……っ)
 藍は素直にそう思った。顔面に打撃をもらい、その勢いで身体が左右に揺れる度に、腹
の内側で骨が蠢き、こすれあう。
 また。
 例えば、どうやっても外せない力で組み付かれ、残り時間の間ひたすら殴られ続けるこ
とを強いられる場合、人はどういう感想を抱くだろう。
(なんだ、この拷問は……? こんな、戦いとさえ言えないような……っ)
 藍にとって、見世物のようなその状態は恥以外のなにものでもなかった。自分は証明し
てしまったのだ。フランドールの馬鹿げた戦い方でも、自分の理詰めの戦法を打ち砕くこ
とができるのだと。
 自分が――『八雲』が敗れる瞬間を集まった妖怪たちに見せてしまったのだと。
 また。
 例えば、可愛がっている式を目の前で殴られた場合、人はどういう感想を抱くだろう。
(こんなことなら……)
 藍は後悔する。
 あの時自分は紫の制止を振り切って、フランドールに対して報復を済ませておくべきだ
ったのだと。
 そうすればこれほど少女を調子づかせることもなかったのだと。
 また。
 例えば、誰よりも敬愛する主に対し目の前で攻撃を仕掛けられた場合、人はどういう感
想を抱くだろう。
(……大人気ない?)
 誰がそんなことを言う。
 何様がそんなことを言う。
 例え紫様がそのようなことを言おうと。
 ――否。
(紫様がそう言うのであれば、私は……っ)
 己自信のプライドなど、藍にとってはちっぽけなものだ。
 八雲紫の言葉に比べれば、自分の感情など一時的で刹那的で愚かなものに決まっている。
 だから、藍は憤慨を腹に飲み込んで耐えた。
 そう、今受けている辱め――幾ら喰らっても倒れることのない『いたぶり』でさえも、
藍は自分の失態として飲み込むこととした。
『あなたに完成された八雲の『式』を見せてもらいましょうか』
 それを果たせなかったのは、自分の責任。
 それを果たさせなかったのは、フランドールの暴力。
 ここから再び『八雲式』で挑んだとしても、結果は変わらないだろう。
 しかしそれでも、藍は紫の言葉に従って理詰めで動くことをやめない。それが恥だとし
ても、このままの状態で残り一分少々を過ごせば、一ラウンドが終了して藍は『逃げる』
ことができるのである。
 ルールに助けてもらうことができるのである。
 そうして態勢を整え、第二ラウンドに挑むのが『八雲式』の理であり、藍に許された戦
い方だ。
 だから。
 言い訳はせず、藍は『大人げよく』自分のプライドを飲み込んだ。
 そして。

「あはは! 式でこれなら、あのスキマ妖怪はもっと楽しませてくれるのかしら!?」
「――っざけるなこのクソガキがぁぁあああああああああああああああああああああ!」

 一秒とせずに吐き出した。

              ※ ※ ※

「い――」
 ゴン、という音が何であるか、目から火花を飛び散らかしたフランドールには咄嗟にわ
からなかった。
 それまで大人しく殴られていた藍が突如ロープ沿いを走り出したと思ったら、フランド
ールは後頭部にあり得ないほどの衝撃を受けたのだ。
「ったぁ〜!」
 藍の肩の上で振り上げられ、前に倒れこむ勢いでコーナーポストに後頭部を打ち付けら
れたことを理解する。
 直後。
「下りろ!」
「ぎ……っ」
 もう一度後頭部に衝撃があり、堪らずフランドールは頭を抱えて丸くなった。その拍子
に組んでいた足が解け、少女の小さな身体がキャンバスの上に転がり落ちる。ちょうど首
と頭の付け根の部分を痛打した状態から、コーナーポストに背中を預けるように尻餅をつ
いた。
 涙目を開けて見れば、頬を真っ赤に腫らし口の周りを血糊で彩った藍が、脇腹を押さえ
額に脂汗を浮かべながら彼女を見下ろしている。
 きつい視線。
「お前なんかに……っ」
 それまでの藍とは違う瞳。『獣じみた』よりももっと獣に近い、感情を爆発させた素の
怒り。
「お前なんかに紫様の前に立つ資格があると思っているのか、この未熟者が!」
 藍が足を持ち上げ、フランドールを踏みつけようとする。その怒りに対し、フランドー
ルはむしろ笑いを浮かべて跳ね起きる。
「きっとね、あると思うわ!」
 コーナーポストに追い詰められた状況。踏みつけようとした足の裏を藍がキャンバスに
つけたとほぼ同時に、フランドールは膝を伸ばし両手を突き上げる『万歳』の拳で藍の顎
を撥ね上げた。
 ゴッ、という吸血鬼の筋力が藍の顎を叩き割った確かな手応えが、頭上に上げた拳から
足の爪先にまで痺れるくらいに響き渡る。それは組み付いて乱打していた無駄打ちとは違
う、フランドールの持ち味を生かした最高のカウンターだ。
「私に壊せないものはないんだもの!」
 金色の髪から汗の玉を散らす会心の笑みで、フランドールはそう言った。
 その言葉がとどめだ。
 ――ブチ。
 何かが切れる音が聞こえ、フランドールは笑顔を怪訝なものに変えた。
 と。
 そのフランドールの顔が、パァンと藍の左手甲に弾かれて傾いだ。
 文が放送席を立った。
 紫が珍しく眉根を寄せた。
 レミリアが酷薄な表情で、試すように呟く。
「残り一分、どこまで保つかしら?」
「なに!?」
 確実に倒したと思ったフランドールは、相手がまだ立っていることにも驚いたが、そこ
からの動きにさらに驚いた。藍の身体が霞むほどの速さで動いた。それは考える時間の入
らない『八雲式』。
 コーナーを背負ったフランドールから見て真右方向に、藍が深く膝を曲げて左足の裏を
つける。右足の位置はフランドールの正面方向であり、彼女が斜めに大きく踏み出したこ
とがわかった。その姿勢は屈した左足、伸ばした右足と、準備運動のアキレス腱伸ばしを
さらに深くしたものに近い。
 その二人がすれ違うような状態から、フランドールが藍の上半身を視界に入れようと顔
を右に振った瞬間だ。
「がぁ!」
「っ!?」
 右肩を大きく回した藍のフルスイングの掌打が、フランドールの左の死角からそのこめ
かみを捉えた。左耳から右耳に突き抜けるようなその豪快な一発に、フランドールがその
背をコーナーに叩きつけられる。
 文が慌ててマイクを口に寄せて叫ぶ。
「クリーンヒットー! 劈掛拳の交差からの一発ーっ」
 そこに、藍が後ろに残していた右足を勢い良く『発射』させた。鋭角の膝蹴りが鳩尾に
突き刺さり、コーナーポストに挟まれ吹き飛ぶこともできずにフランドールが息を吐く。
「か……ぁっ」
「連続で入る! 大陸は泰国国技ムエタイ、ピンポイントで鳩尾に膝ぁー!」
「お嬢様、止まらないで!」
 堪らず身を折るフランドールに、美鈴が悲鳴を上げる。
 その言葉が飛ぶ音速よりも藍の動きの方が早かった。前屈みになったフランドールの金
の髪を両手で鷲掴みにし、藍はそれを引き寄せると同時に、今度はキャンバスを蹴って跳
ぶ勢いで右膝を打ち上げる。
「ぎゃ!?」
「さらに跳び膝、これは痛烈っ!」
 歯を食いしばるなどフランドールはしなかった。驚きに口を開いた状態で顎に強烈な膝
を喰らい、一瞬足がキャンバスから離れる。
 それが決定打だった。
 藍の膝蹴りによって打ち上げられたフランドールが、キャンバスに足が着くと同時に膝
を折った。
「……え? あ」
 一瞬の暗転から目を醒まし、反射的にフランドールは手をロープに伸ばす。しっかりと
ロープを掴み、そのまま倒れることを免れた少女は、しかし疑問符を浮かべて呆然とする。
「あ、あれ?」
 膝から力が抜け、身体が沈む。その感覚がいったい何であるかわからず、戸惑いの色が
浮かんだ。
 前を見る。
 そこに、顎の前に揃えて構えた両拳にうつむくような藍の姿があった。それを認識した
瞬間に眉間に電撃が走るような痛みが走る。
 脇をしっかりと締めた小さな構えから、藍が閃光のような左右のジャブを一発ずつフラ
ンドールの顔面に決める。硬く握り込まれた拳は中指の関節のみをせり出して立てる形で、
相手の鼻の上根元――眉間にピンポイントで突き込んだ。
「…………!?」
 その頭蓋が眉間を中心に割れるような傷みは、フランドールがこれまで味わったことが
ない激痛としてその身に刻まれた。
「速い速い! スナップのジャブと握力の中高一本拳が同居する!」
「う、あああああ!」
 痛みはフランドールの戦意を喪失させるのではなく、パニックの引き金となってその場
を薙ぎ払うような単純な一撃を繰り出させる。目の前を水平に通る腕は至近に迫った藍に
は回避不可能。最低でも両腕で防御をさせるはずだった。
 しかし、腕は空振る。両足でキャンバスを蹴って垂直に跳び上がった藍の遥か下を拳が
通り過ぎ、空中でたわめられた身体は空気を入れられた棒型風船のように一気に伸張する。
「米国原産ドロップキーーーーック!」
 藍の両足がフランドールの顔面を捉え、杭打ちのように後頭部が再びコーナーポストに
打ちつけられる。衝撃の瞬間帽子がリングの外に吹き飛び、手足が跳ね、指先まで硬直す
る。
 そこまで来て、ようやくフランドールは理解した。
(やられ、てる?)
 それが『効いている』と呼ばれる状態であること。視界が妙にぼやけ、四肢から自然と
力が抜けていくこの状態が『ピンチ』であること。
 それを、理解した。
 やばい、とタオルを手に取ったのは美鈴だ。
「お嬢様! とにかくコーナーから出て!」
「あ……れ……?」
 耳に届いた声に、フランドールは言われた通りにしようとして、それが不可能であるこ
とを知った。ドロップキックを加えた藍は、左足で着地しつつ、右足の裏でフランドール
の頭をポストに押しつけていた。
 その素足が不意に動いてフランドールの金髪に絡みつき、ぐいっと『足の指で頭を引っ
張られ』て彼女はリング中央に向かって放り出される。藍の力に逆らえず、彼女の股の下
をくぐる屈辱の形。
 二人の間に距離が開き、
「遠距離、そこに劈掛拳ー!」
 両腕を翼のように開いた藍が、踏み込みとスイングを合体させた頭上からの右の鞭打を
フランドールに打ち込む。フランドールは反射的に身を反らして避けようとするが、真っ
直ぐ突くのではなく上から降ってくる攻撃に鼻面を叩かれる。
 さらに藍は踏み込んだところから身体全身を横に捻るように左の鞭打を放つ。それをフ
ランドールは避けるのが不可能と悟り右腕で受けようとしたが、腕に防御した感触を得る
と同時に、藍の揃えられた指先に耳の裏を叩かれて悲鳴を上げる。腕と腕どうしがぶつか
ったそこから、藍の手首から先だけが竹のようにしなって打ったのだ。
「劈掛拳連打! 腕を止めても、そこからしなる手首から先に逃げられない! 先ほどか
ら何が起こっているのか!? 突如生き返った藍選手に、フランドール選手がまるで追い
つけない!」
 しなるほどに脱力し、それでいて指先だけでこめかみに風穴を空けるような威力の鞭打
に、フランドールはその試合初めて自分から後ずさる。ただひたすら相手に接近し、殴る
ことだけを狙っていた吸血少女が、初めて敵から逃げようとする。
 だが、無意識の行動をフランドールの意識は否定する。
「なに……よっ。あと少しで壊せるはずなのに、邪魔をしないで!」
 フランドールにとって、藍は『歯ごたえのある破壊対象』であったはずだ。遊びの道具
が、いきなり牙を剥いて噛みついてきた。自分の楽しみの邪魔をしてきた。
 ――不愉快だった。
「私に壊せないものなんか、この世にないんだから!」
 それは癇癪だ。子供の感情の爆発が前進の力となり、退きかけていたフランドールが猛
烈な勢いで前に出る。そうして自然なフェイントとなったその動きで、右から、左から、
そして身体を横に寝かせて直接真下から藍の顎を狙って拳を突き上げる。
 だが、その攻撃が一つも当たらない。
 左右からの攻撃は、劈掛拳独特の腕全体を使った払い上げで逸らされる。目で追えない
はずの身体を寝かせてのアッパーに至っては、身体を寝かした時点で前蹴りで腰を突かれ、
距離を開けられて不発する。
(なんで!?)
 好きなだけ命中していた自分の攻撃が、今になって通じない。フランドールにはわから
ない理由が、周りで見ている者たちには明白だ。
「フランドール選手、巻き返しを狙いますが、その動きは遅い! 打ち疲れ、ダメージ、
その相乗効果は思った以上です!」
「なんでよっ!」
 大振り。今度はそれに合わせて藍は右掌を突き出した。振る劈掛拳から、最初の突き出
す猫足立ちへ。その最短距離を通る攻撃が、目に見えて速度の落ちたフランドールの攻撃
よりも先に正確に顎を打ち抜いた。
「う……そ……」
 揺れた脳に、身体が傾ぐ。視界が回る、暗転する、その混乱でわかったのは、速度で負
けたということ。そのことが、フランドールにもついに事実を認めさせた。
(私より……強い……?)
 トス、と背中がキャンバスに接地した。
 笏が上がる。
「ダウン!」
「カウンター直撃、ジャストミーーーーーーート!」
「きたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 文の叫びよりもさらに大きく会場が叫びを上げ、歓喜の声が半分の万歳となり、信じら
れないという悲鳴が空を舞う賭札となった。
「凄まじい……これは凄まじい八雲藍! 完全にダウンかと思われたそこから、まさかの
大逆転! そこまでの落ち着いた試合運びから一転、フランドール選手を髣髴させるフル
スイングの打撃、精密なピンポイント攻撃、防御を上回る拳法の技――まさに『暴力』と
『技術』の集大成! パワー・アンド・スピード・アンド・経験値! これぞ戦う妖怪の
理想形、完成された妖怪の姿です!」
 興奮を抑えられずに放送する文に、同意するようにレミリアがうなずく。そうして彼女
は必死に立ち上がろうとするフランドールの姿に言う。
「腐っても――」
 と、横を見る。すると、咲夜が懐中時計をレミリアに掲げて見せながら、
「鱚(きす)ですわ。EXTRA」
「腐ってもEXTRAってことよ」
「そうね。違うけど」
 突っ込みをいれる権利を持っているのは、パチュリーだけだ。
 その漫才に付き合わず、セコンドの美鈴はタオルを持ってコーナーポストに身を乗り出
した。
(私の責任だ! 最初にもっと強く教えた拳法を使うように言っておけば良かった……っ)
 フランドールは強い。だから、並の妖怪であれば――それ以上であってもその天性の暴
力だけでどうにかなると思っていた。
(とんでもなかった……!)
 相手は、フランドールにも負けない化け物だ。
 天狗や鬼のような強妖が、何故自ら武術を生み出して人間に教えた歴史があるのか、そ
れを藍の姿は物語っている。妖怪本来の『暴力』を制御し、より効率的に身体の急所に叩
き込むそれは、力や速度で遜色のない妖怪同士で戦い、勝つための術なのだ。
 そう、フランドール・スカーレットは、力と速度で勝るうちは誰にも負けることはない。
だが、力と速度で自分に勝る相手、もしくは互角の相手には勝つことができない。
 彼女は『何も知らない』のだから。
 だから、美鈴はタオルをリングに投げ入れた。後でフランドールに叱られるだろうが構
わない。これ以上やっても勝ち目がないことは客観的に明白だ。
 だが、次の瞬間美鈴はリングサイドの咲夜を振り返る。咲夜の手には、彼女が投げたは
ずのタオルが乗せられていた。
「咲――」
 という美鈴の言葉が途切れたのは、主であるレミリアが席を立ってリングに歩み寄った
からだ。
「フラン」
「お姉……様っ」
 震える手をキャンバスにつき、どうにか起き上がろうとしていたフランドールは、声を
かけてきたレミリアにその表情を驚かせ、そしてわずかにほころばせた。応援してくれる
んだ、という安心感。
(『がんばりなさい』……だよね)
 試合前の言葉。
 そのひとことでフランドールは膝を伸ばして立ち上がる。カウントが八で止まり、試合
再開の声が対峙する二人にかかる。
「すぐに、壊すから……っ」
 フランドールは藍ではなくレミリアに宣言する。そのような妹に、レミリアは立派立派
と拍手をし、ロープの合間から顔を覗かせて言う。
「そう。なら、せいぜい壊されないようにね」
 と。
 それに「え?」と姉を見たフランドールの側頭部を、藍の右回し蹴りが強かに打った。
いきなり大技を受けてしまったフランドールがふらつくと、レミリアは変わらぬ笑顔のま
まリングの中に言葉を送る。
「だってそうでしょう? 負けているのはフラン、あなただもの。それくらいはわかるわ
よね。狐は強い。容赦も無い。ほら、壊れるのは」
 あなたじゃない?
 その言葉に、フランドールは目を見開きながら藍のローキックを膝に受ける。腿ではな
く膝に真横から入る蹴りに、関節が悲鳴を上げるのをフランドールは意識する。
(痛……っ。この、やり返して壊して……あれ?)
 壊れるのはどっちだったっけ、と少女は疑問に思った。それでも本能は拳を繰り出させ
るが、すでに鉛のように重い身体は簡単に藍に懐への侵入を許す。
 自分が支配するはずのその近距離で、
「藍選手、左の肘で横殴り! 返しの動きで右の肘で頭部を袈裟斬り! さらに切り返し
で――左肘でのアッパーカットー!?」
 三連撃の超至近距離打撃がフランドールを打ち据えた。一撃一撃がフランドールにもわ
かる『急所』を狙っており、その全てが正確に叩き込まれている。
 このままそれを打ち込まれ続ければどうなるのか、理解できないはずもない。
 壊すのは私だけど。
 今壊されてるのは。
(――私、なんだ)

 その瞬間、フランドールの『遊び』は終わりを告げた。

「あ……」
 きゅ、と心臓を鷲掴みにされる感覚を覚えた直後、その感情をどこにぶつければ良いの
かわからないフランドールはレミリアに助けを求め、
「…………っ」
 姉が愉快そうに笑みを浮かべているのを見て、絶句した。視線は無意識に同じ紅魔館で
暮らす者たちを映し、姉妹に仕えるべきメイド長がその手の中でタオルを燃やしているの
を見た時、フランドールの中で何かが切れた。
「う」
 初めて遭遇した感情――恐怖が、『意識していなかった』という無邪気で無敵な壁を乗
り越えたのだ。
(私、これから……)
 想像力が、働く。
 短い時間の想像で見える自分。
(壊され、ちゃう、の?)
 それが『痛い』ことくらい、フランドールだって知っている。脳裏に浮かんだ自分の無
惨な姿に、思わず足がすくんだ。後ろに下がった。
 それにも構わず、藍が肘の連撃で後退したフランドールを追ってキャンバスを蹴る。
「藍選手、跳んで」
 空中で横回転した後ろ回し蹴りが、
「仏国伝来、ソバット一発ー!」
 フランドールの頭を薙ぎ払う。右回し蹴りの際に響いた左側頭部の反対、今度は右のこ
めかみがミシリと音を立てて、フランドールは藍の振り抜く足の勢いに押されて尻餅をつ
いた。
(い……た……)
 棒で殴ったような脛での回し蹴りとは違い、ソバットは足の裏で叩く掌底にも似た衝撃
を直接脳に伝える一撃だ。それは直撃することによって、フランドールの最後の戦いの気
力を奪い去った。
 手足が、動かない。
 そして、先ほどの心臓を掴まれる感覚がさらに強くなる。その感覚は胸から全身に波の
ように及び――。
「ひ……っ」
 立ち上がることができない自分に対し拳を振り上げる狐の妖怪を目にした時に、爆発し
た。
「もうやだ……帰るっ。もう私帰る! おうちに帰る〜!」
 それと同時。
 カーン、という甲高い音が寒空に響いた。
「第一ラウンド終了です。双方、自分のコーナーへ」
 無慈悲なほどに平然とした映姫の言葉を、フランドールはキャンバスの上で丸くなって
聞いたのである。

              ※ ※ ※

「お嬢様!」
 ラウンド終了の鐘が鳴ると、美鈴は血相を変えて倒れるフランドールに駆け寄った。そ
して会場の皆の視線から隠すように自分の胸に抱え込み、コーナーに用意した椅子に座ら
る。そのまま真正面に立つのは、やはり少女の姿を隠しておきたいからだ。
「うぅ……ぐすっ。もうやっ。帰る。帰るっ。帰る……っ」
「う、うわぁ〜」
 その有様に、美鈴は思わず声が出る。
 無邪気ではあるが、それでいて高圧的。自らがレミリアと同じ悪魔という強妖であるこ
とを十二分に承知し、『圧倒的な強者』のオーラを自然に醸し出していたような、そんな
少女のはずだった。
 それが、今はその面影すらなく頭を抱え、目から涙をこぼして怯えていた。
 否、それだけではなく、
「おね……っ……おねえ、さまは……わた、しが……嫌い、なのよ。笑ってた、笑ってた、
笑ってた……っ!」
 嗚咽に言葉を詰まらせ、元から紅い目をさらに紅く染めてフランドールは言う。生まれ
て初めて迎えたピンチに、頼るべき身内に見捨てられた衝撃はかなりのものがあったのだ
ろう。
 これではもう戦えない。
 美鈴はタオルを失ったが、ならば上着でも投げて、と振り返ったところで、リングサイ
ドのレミリアと視線が合った。正確には、振り返る途中で視界に入ったレミリアの気配に、
強制的にそこに目を合わせさせられた。
(お嬢様?)
 きょとんとする美鈴に、レミリアはニヤッと長い牙を見せて一度だけ笑った。そうして、
咲夜とパチュリーの座る観客席へと戻ってしまう。
 つまり、
(続行!?)
 主の無言の命令に、美鈴は顔を引きつらせてフランドールを見る。
 泣いている。
「えぐ……えぐ……お姉様……お姉様……」
 幼児退行も起こしている。
 椅子の上で膝を抱えて慕う姉を呼び続けている悪魔の少女に、美鈴は自分の方こそ頭を
抱えてぐちゃぐちゃと掻き回した。
(あ〜、もう!)
 今のフランドールに必要なものなど、考えなくてもわかるのだ。だが『それ』を容易く
与えられるはずのレミリアはここにいない。いるのはセコンドの美鈴一人きりだ。
 だから、美鈴はレミリアの代行としてその言葉を言うしかなかった。
(私だって恥ずかしいんですよ、こういうの!)
 大きく深呼吸して、美鈴は『それ』を口にする。
「大丈夫ですよ、お嬢様。レミリアお嬢様が、お嬢様のことを嫌いなわけがありません!」
 決死の覚悟で言う美鈴に、しかしフランドールは首を横に振った。嘘よ、と呟く。
「嘘よ……っ。お姉様は私が嫌いなんだわ。だから、いじめて楽しんでるのよ……っ」
「レミリアお嬢様はそんな方じゃありませんよ。ちょっと子供っぽくて、たまに凶悪で、
しょっちゅう意地悪したりしますけど……あれ? いやいや……だから!」
 ええい、と美鈴は自分の帽子を手に取り、
「あのですね、お嬢様!」
 うつむいたフランドールの、帽子を失った頭にやや乱暴に被せる。その行為に、初めて
フランドールの目が美鈴の方を見た。その隙を美鈴は見逃さない。
「とにかくレミリアお嬢様が、お嬢様のことを嫌いなはずはなんですよ。この紅美鈴が保
証します!」
「なん……でよ……」
「それはですね」
 真剣な顔で。
 正面からフランドールの顔を覗き込んで。
 重大な秘密を打ち明ける芝居臭さで、美鈴は告げた。
「お嬢様が可愛いからです」
 とても臭く、告げた。
「もし私にお嬢様みたいな妹がいたら、嫌いになんかなりませんよ。口では何と言っても、
絶対に可愛く思っています。だから、レミリアお嬢様もお嬢様が可愛いんです。嫌いじゃ
ないんです!」
 それは、とんでもない理論ではあるのだが、フランドールはそれに目を丸くして美鈴を
見つめ、
「そう……かな?」
 小さく、確認するように尋ねた。
 その弱々しい声に、美鈴は力強くうなずく。美鈴の躊躇いの無さに、頼もしさすら感じ
させる態度に、フランドールは少しだけその表情を明るくしかけたが、
「でも……」
 すぐにまたうつむいてしまう。
 無理よ、と。
「私じゃ勝てないじゃない……っ。もう痛いのなんか、やっ」
「勝てます!」
 1ラウンドというほんの数分の時間で自信というものを失ってしまったフランドールの
両肩を、美鈴は掴んだ。いいですか、と言い含めるように囁く。
「今は流れが相手に傾いているだけです。相手はお嬢様より速く動いているように見えま
すけど、実際にはお嬢様が打ち疲れていただけで、今はもう回復しました」
「してない……っ」
「してます。動けます。三十秒!」
 三本の指を、美鈴は立てる。それをフランドールの眼前に突きつけ、
「三十秒でいいんです。怖いかもしれませんけど、三十秒だけ私の言う通りに動いてくだ
さい。三十秒全力で動ければ、お嬢様に勝てる妖怪なんて――」
 その身体能力の前に、格闘で勝てる相手など、
「――いないんですから」
「…………」
 自信を無くしたフランドールに、美鈴はことさら自信たっぷりに言う。「これは私のキ
ャラじゃないなぁ」と思いつつも、しかし言っていることは真実だ。
「これから教えるのは、お嬢様にしかできない『必殺技』です。必殺です。凄いですよ。
使えば、絶対に相手は三十秒以内に倒れます」
「……『必殺技』で、一発?」
 疑わしげに、だが少しだけ興味を引かれてフランドールが訊くと、美鈴は違うと首を横
に振った。
「『一発』じゃないです。いいですか、試合再開と同時に――」
 そして、美鈴は『必殺技』を説明した。
 繰り返し言うのは、
「これはお嬢様が使う以上、誰にも抵抗できません。レミリアお嬢様にも教えていない『
必殺技』ですよ」
「……お姉様、にも?」
「ええ」
 何せ、それがなくてもレミリアは充分以上に強く、また魔法を使う彼女たちが『格闘』
だけで戦うような機会など、これまでは一度もなかったのだから。
 だから。
「この技なら、この大会中ならレミリアお嬢様が相手でも倒せます。さっきも言った通り、
お嬢様が使った場合に限りますけど」
 ね? と美鈴はフランドールを励ます笑みを浮かべる。
 最後に言うべきは、一つだ。
「それとも、あの狐がレミリアお嬢様よりも強いと思いますか?」
 それは卑怯な確認。
 フランドールは答えるしかないのだ。
「思わ、ない」
 思うはずがなかった。
 そうして、フランドールは上目遣いに美鈴を見遣る。
「三十秒で、いいの?」
「ええ。それでダメだったら……って、そんなことはないんですど、私が責任をもって試
合を止めますから」
 お仕置きされるんだろうなぁ、とちょっと困ったようにつけ足す美鈴に、フランドール
はまだ自信は無さそうに、だけれど一つの決意を込めてうなずいた。
「じゃあ……やる」
 すがるように美鈴の服の裾を掴み、彼女の緑色の帽子を被った悪魔の妹は立ち上がった
のである。
「美鈴がそこまで言うなら……ちょっとだけ、やってみる」
「はい!」
 よし、と美鈴は思わず拳を握ってガッツポーズを取る。フランドールにやる気さえあれ
ば、逆転は充分に可能なのだ。フランドールは気づいていないかもしれないが、美鈴が見
る限り対戦相手の八雲藍はすでに『限界』である。
 そこに、
「セコンドアウト!」
 放送席からの声がかかる。
 美鈴がフランドールの前を退き、自然と少女はリングサイドにいる姉の姿を求める。す
ると、レミリアはその視線を受けて、満足そうに『我が意を得たり』の笑みを浮かべた。
 言うのは、
「がんばりなさい」
「……うん」
 それだけで良かった。
 それだけでフランドールの瞳に、力が戻る。気弱で、試験に挑むような緊張をはらみな
がらも、姉の愛情に対する疑問という一番大きな不安が掻き消える。
 それに、かなわないなぁ、と苦笑した美鈴はコーナー裏のセコンドスペースに戻って振
り返り、
「あれ?」
「え?」
 美鈴の間抜けな声に、フランドールもリングの中央に視線を移した。
 そこでは、映姫が笏を掲げてこう宣言していたのだ。
「第二ラウンド開始に伴い、セコンドからの棄権を認めます。勝者、フランドール・スカ
ーレット!」
 藍は赤コーナーに戻ることもできずに、リング中央でうつぶせに倒れていたのである。

              ※ ※ ※

 つまり、と言ったのは、やはり実況を務める文であった。
「フランドール選手の『万歳カウンター』で顎を撥ねられた時点で、藍選手の意識は失わ
れていたのですね。まあ、わかってましたけど」
 さんざん実況で盛り上げておきながら、彼女は残念がる様子もなく説明する。それを見
れば誰もが「わかってるくせに藍の応援中心の放送していたのかよ」と突っ込みたくなる
ほどだが、文はそ知らぬ顔で言葉を続ける。
「そこからは、もう無意識で動いていましたね。藍選手は肋骨をやられて動きが鈍かった
ですが、無意識になると同時に痛みを感じる部分が眠って、のびのび自由に……『自分流』
の妖怪らしい戦い方をみせてくれました。最初からあの動きができていれば、また試合の
流れは違っていたと思います」
 フランドールは前半一方的に攻め込んでいたが、それは藍がスピード・アンド・パワー
よりも『技』を中心とした試合運びをしていたからだ。また、後半は藍が有利な展開にな
っていたが、それはフランドールの体力切れというのが理由に大きい。
 そういう意味で、フランドールに無駄打ちをさせた今回の藍だからこそ後半の圧倒的攻
め込みがあったと言える。序盤から二人が共に出し惜しみしなければ、フランドールも充
分な残り体力で藍の動きに順応し、互角の戦いが展開していたかもしれない。
「まあ、あくまで仮定の話なのですけどね」
 どちらにしろ、今回の試合結果は八雲藍のTKO負け。それだけは変わらない事実だ。
 嘆いたのは両人に賭けていた観客たちで、藍に賭けていた者は単純に賭けに負け、フラ
ンドールに賭けていた者たちは最後の劣勢の際に大半が賭札を放り投げてしまっていた。
 皆が皆損をして、誰一人得をしなかった。
 そう思われる中、ほくそ笑む悪魔が一人だけいた。
「狐も美鈴も思った以上の仕事をしてくれたわね。パチェ、あなたの二回戦フランだけど、
どう?」
「どうも何も……なんで私の名前があるのかしら?」
 ため息をつくパチュリーは、リングの上で放心したように佇むフランドールを眺め、た
め息をついた。
 なるほどこれがレミィの目的ね、と友人の意地悪さを理解しつつ、
「いいわ。『仕上げ』はしてあげるけれど……難しいわよ」
「獅子は我が子に旅をさせよ――よ」
「そうね。違うけど」
 そして、そんな紅魔館組とは逆に、叱責が飛んでいるのが紫たち八雲一家だ。
 試合が終わると同時に藍に駆け寄った橙は、背筋に走った悪寒に慌ててその場を飛び退
る。そのすれすれの所を通り、痛烈な傘の一撃が藍の背中に入ったりしたのだ。
「ぐげっ!?」
 蛙が潰れるより酷い声を上げ、藍が目を覚ます。彼女は背中をさすりながら膝立ちにな
ると、
「……はて?」
「ら〜ん」
「ゆか――ぎゃ!」
 スパーン、と今度は横振りで傘が藍の顔面を打つ。「紫ホームラン!?」と橙がさりげ
なくそれが初めてではないご家庭の事情を口にしたりしたが、紫はそんなこと歯牙にもか
けずに、仰向けに倒れた藍に連続で傘を振り下ろす。
「いた、痛いっ! ゆ、紫様、ごめんなさい!」
「ゆ、紫様。藍様負けちゃいましたけど、肋骨――」
「黙りなさい」
「ひぃ!」
 まったく目が笑っていない笑顔で言われ、橙は尻尾を毛羽立てて固まった。その間も紫
は傘で自らの式を打ち据え、藍は涙目で丸くなってそれを受けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「私の言ったことをまったくわかっていなかったようね。私は『八雲式』を使えと言った。
それを何かしら、あれは?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「負けるのはあなたの未熟で良いでしょう。でも、私に逆らうことは決して許されない。
わかるわね?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 圧倒的な力を見せつけた妖怪狐のその痴態に、それを見る周りは唖然とするばかりだ。
だが、他の誰がどう思おうが、自分が悪いことをしたと一番理解しているのは藍本人だっ
た。反論などあろうはずもなく、彼女はひたすら謝罪する。
 例え主を『舐めた』発言をされたからといって、それに激するのは藍本人の私情でしか
ない。
 そして、私情を認めず、一つの『プログラム』として動くものこそ『式』という存在な
のである。藍は頭が良く、自らの力も強いため、その『式』の範疇を越えた行動を取って
しまうことがあるのだが、今回はまさにその悪癖が出た形となった。
「もう、二度と、絶対に、紫様の命令に逆らわないと誓います!」
「よろしい」
 まったく、と紫はそこで怪しい笑顔を終えて、難しい表情を作る。殴打が無くなったの
を確認して藍が顔を上げると、
「あなたは私の言う通りに戦えば良い。今回も、あのまま堪えていれば次のラウンドで普
通にあなたが勝っていたはずよ。好き好んで自分を危険にさらすのはよしなさい?」
「はい……っ」
 言い含めるようなそれに、藍は本当に反省してキャンバスに額をこすりつけるのだった。
 で。
「……あれ?」
「さすがお嬢様!」
 状況についていけないフランドールが歓声の中で棒立ちになっていると、美鈴がその首
に腕を回して歓喜の声を上げる。
「私が言うまでもなく、もう勝ってたんですよ! 最後の一分、良く堪えました!」
 そう、と。
「お嬢様は、お嬢様が強いと思った相手より強かったんですよ!」
 その言葉が心に浸透するまでには数秒間が必要であったが。
 その意味を把握したフランドールが自分の小さな手を見つめ、次に自分の首に回された
美鈴の腕を見下ろし、そして最後に――。
「勝てたんだ」
 と神妙に呟いたことは、無邪気に喜んで跳ね回るよりもずっと大きな意味があると、そ
ばにいる美鈴には思えた。『フランドールの方が強いから勝った』などという美鈴の言葉
が、半分以上慰めであることを彼女は理解しているのだ。
 だから、心はまだ晴れることはない。少女は課題を残したまま次に進まされたこととな
る。
(でも、いい経験だったわ。さすがはレミリアお嬢様)
 フランドールはこの試合を通じ、妖怪同士の戦いに関するとても大切なものを学んだ。
それだけは間違いないと、美鈴は確信するのである。
 ついでに、
(あ、でも『必殺技』を使ってもらえなかったのは残念かな?)
 結構自分勝手な感想を抱いたりもする、セコンド妖怪なのであった。

 ともあれそういうことで、フランドール・スカーレットの二回戦進出は決定したのであ
る。



                        『Cブロック第3試合』――決着!