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『レディ・エセルドレーダ』


 僕は犬を飼っている。
 名前を『レディ・エセルドレーダ』という。
 名前からわかる通り、もちろん雌だ。
 彼女は、僕が六歳の時に父の牧場に現れた。僕が大好きだった、そして父にとって大切
だった、普通の羊の倍近くの毛を採取できる『アイツ(という名前だった)』を食い殺し、
生意気にもゲップをしてくつろいでいたところを、当時の僕が発見したのだ。
 彼女は当時から人間の成人近くもある大きな犬で、狼もかくやの俊敏そうな身体と獰猛
な金色の瞳を持っていた。だけどその時僕が一欠片も恐怖を感じなかったのは、満腹だっ
た彼女が「グルル」ではなく「クゥン?」と小首を傾げてみせたからだろう。
 胸が高鳴った。
 父が手塩にかけ、僕が大好きだった『アイツ』の白い毛だけを残し、まるでそれが最初
からそのためにあるかのように絨毯にして寝そべる巨大な黒犬。
 その犬が、幼子にとって絶望的な暴力を持った存在が、僕に対し可愛げを見せたのであ
る。
 気がついた時には、僕は彼女に手を差し伸べていた。
「エセルドレーダ」
 まるで彼女の名前を知っていたかのように、その瞬間に僕はそう言っていた。
 そして、彼女は――エセルドレーダは満腹な身体をおっくうそうに立ち上がらせ、僕の
指を嘗めたのだ。
 その日から、彼女は僕の犬になった。
 始め、『アイツ』を喰らったエセルドレーダに対し父親は激怒したが、すぐにその怒り
はおさまった。
 エセルドレーダは羊たちが牧場の柵に入るように追い立てるのが非常に上手く、彼女が
一声吠えるだけで羊たちは逃げるように柵に飛び込んだ。また、近隣の牧場が皆狼の集団
に悩まされた時も、エセルドレーダはそいつらをなんと返り討ちにし、父の牧場だけは何
の被害もなく無事であったからだ。
「こいつはすげえ犬だ。『アイツ』を喰っちまったのは頭にくるが、長い目で見りゃ、こ
れは拾いもんかもしれねえな」
 ただ、エセルドレーダは僕の言うことしか聞かなかったので、僕はその頃から牧場の仕
事を手伝うハメになった。友達と遊ぶ機会も減ったが、代わりにエセルドレーダがいたの
で寂しくはなかった。
 彼女は、常に僕のそばにいた。
 食事の時は僕の足下で好物の鳩を貪り、昼間は僕と一緒に牧場の仕事。僕が学校に行っ
ている間だけは別行動で、その間は家からも消えてしまってどこにいるのか父たちにもわ
からない。そして、一緒に風呂に入って一日の汚れを落とし、彼女は僕のベッドの横で身
を休ませる。
 そんな僕と彼女を見て、友人は言った。
「まるでお前の保護者みたいだな」
 僕はそれに激怒した。
 生まれて初めて本気で友人を殴った。
 僕と彼女は対等なのだ。どちらが上でも、どちらが下でもない。
 そんな僕と彼女の関係を、誤解して受け止められたことが許せなかった。否、誤解され
た認識を「そうかもね」とその場だけの軽さで受け流してしまうことが、彼女への裏切り
のように感じられて仕方なかった。
 それほどに、僕は彼女との関係を大切にしていたのだ。
 その友人とは険悪な日々が続いたが、結局友人が僕に謝罪する形でまとまった。
「お前とあの犬が小さな頃から一緒にいるって聞いたよ。お前にとって、あの犬は凄い大
切なもんだったんだな。悪かったよ」
 その友人とは、学校を卒業した今も親友であり続けている。
 さて、そんな「犬偏愛者」だとか言われている僕であるが、一応恋の一つや二つはした
ことがある。二十歳を越えるまで恋人の一人もいなかったのは、なんというか運命の巡り
合わせが悪かったからだ。
 ほろ苦い話になるが、初恋の話。
 十歳の時、クラスで気になる女の子がいた。猫っ毛で笑顔の可愛い女の子で、僕の右手
斜め前の席だった。忘れ物の多かった僕に色々と貸してくれた――貸して欲しいと誰かに
頼む前に自分から持ってきてくれたのだ!――心優しい女の子で、女子の噂では彼女は僕
のことが好きだったらしい。
 初恋が叶うのが嬉しくて、その晩はエセルドレーダと、その女の子と一緒に遊びに行け
たらとても嬉しいという話をした。
 だけど、悲しいことに、その女の子はそれからすぐに暴漢に襲われて死んでしまった。
犯人は彼女のよく利用していた本屋の店主で、僕も知っている親切なおじさんだった。お
じさんは捕まった時には気が触れてしまっていて、動機も何も不明なまま彼は病院に連れ
ていかれた。
 僕は当時ただ彼女が死んでしまったことに驚いて、悲しくて泣いたけれど、大人になっ
た今は別の意味で悲しみを感じる。当時は理解できなかった『暴漢に襲われる』というこ
との意味がわかったからだ。
 彼女が短い人生の最後にどれほどの絶望を味わったのかを考えると、胸が重くなる。
 それが、僕の初恋の女の子の思い出だ。一生忘れることはないだろう。
 他にもある。
 十六歳の時、幼なじみだった隣の牧場の女の子に恋をした。それまで特別に意識したこ
とはなかったのだけれど、両方の家族で集まってバーベキューをした歳に、父たちが二人
が結婚してくれたら助かるという話をしたことがきっかけだった。
 それ以来、顔を合わせるのも恥ずかしくて、だけどたまに顔を合わせると、彼女は「や
っぱり、いずれそうなるのかな」と顔を真っ赤にしてはにかんだ。
 ああ、どうして僕は身近にこんな可愛い子がいるのに放っておいたんだろう。自分の馬
鹿さ加減に呆れながら、僕は彼女へのラブレターを徹夜でしたためた。そうして、こっそ
りと彼女の家のポストに入れておいたのだけれど、彼女がそのラブレターを読んでくれた
かどうかは定かではない。
 何故なら、彼女はその日のうちに失踪してしまったからだ。
 捜索隊が組織され、彼女の家の周りで大量に見つかった狼の足跡を追跡した。そして見
つかったのは、狼の集団の中で一欠片の肉も残さず骨になった彼女の変わり果てた姿だっ
た。
 どうして羊がいるというのに狼が人間を襲ったのかはわかっていない。だけれど、そう
いうこともたまにはある、という専門家の結論が、僕らの結論にもなった。
 彼女は不運にも腹を空かせた狼の前に――なんでそんな夜中に外に出ていたかもわかっ
ていないが――出てしまい、襲われたのだ。
 二度目の恋した人との死別は、一度目よりも酷く悲しかった。何より幼い日から一緒に
過ごしてきた相手の死であり、もしかしたら僕はそこで後追い自殺くらいはしていたかも
しれない。
 僕が生きているのは、エセルドレーダがいたからだ。
 彼女は、泣いている僕を慰めるかのように涙に濡れる頬を嘗め、いたわってくれた。
 幼い日から一緒にいる大切なものという点では、エセルドレーダも同様だ。そう、彼女
を残して死ぬわけにはいかない。冷静になれば、父も母も自分が死ねば悲しむだろう。
 大切なものを無くしても、人には他にも大切なものがある。彼女はそれを教えてくれた。
 それから数年。
 僕が二十歳を越え、本格的に父から牧場の権利を譲られるという話が出た頃だ。
 幼なじみの彼女がいた牧場は、おじさんたちが悲しみを思い出すというので人手に渡っ
ていたのだけれど、その所有者がまた変わったというので、僕は父の代わりに挨拶に行く
ことにした。
 いきなり大きな犬を連れて行くと驚かれてしまうかもしれないので、エセルドレーダに
少しだけ待つように言って隣の牧場へと向かった。いつもならば学校でもない限りついて
来たがるエセルドレーダが、その日ばかりは素直に従った。不思議に思ったけれど、早く
いけとばかりにエセルドレーダが吠えたので、僕は頷いてそれに従った。
 牧場は、酷い有様だった。長年牧場の子供として育った身としては、羊が好き勝手に喰
い散らかされた牧場など、信じられない。芝は伸び放題で手入れの様子もなく、そもそも
柵の一つもない。ただ違和感があったのは、喰い殺された羊の中に、同じように骨になっ
た狼の死骸もあったことだ。狼を喰う生き物が、いるのだろうか。
 とにかく、牧場の荒れ果てた姿に憤慨しながら、僕はかつての幼なじみの家の扉をノッ
クした。
 そして、僕は三度目の恋をした。
 黒い少女、というのが第一印象だった。腰まで伸びた艶やかな黒い髪。まるで黒犬の毛
皮のようになめらなか黒絹の衣服。華美でなく、むしろ慎ましい装いで佇んでいたその少
女は、黒い佳人とでも言うべきだったろう。その黒の中で、浮き出るように白い肌。鮮や
かな金色の瞳。
 そう、僕は一目でその人に恋をしたのだ。
 その少女は、惚れ惚れとする艶やかな笑みを見せて、まるで貴婦人がそうするかのよう
にスカートの裾をつまんで広げ、言った。
「はじめまして。エセルドレーダと申します」
 それ以来、僕は暇さえあれば彼女の家に通うようになった。まず、自分の飼っている犬
の名前と彼女の名前が同じこと。荒れた牧場を立て直すのに自分も協力すること。あらゆ
る口実を使って、彼女のそばにいようとした。
 彼女も、それを望んでくれた。
 昼間は自分の牧場と彼女の牧場を行き来して仕事に精を出し、夜は彼女の家に通った。
彼女ともっと親密になる機会はいくらでもあったが、どうにも最後の一歩に躊躇した。
 家に帰れば帰ったで、今度は犬のエセルドレーダの相手。以前は長い時間放っておくと
不機嫌になってたものだが、最近の彼女は僕が隣の牧場に行っていても上機嫌だ。僕のい
ない間に、恋人――恋犬?――でも作ったのだろうか。
 そんなことを漠然と思い、やはりいつものように仕事あがりに彼女の家で一服しながら
話題にしていると、人のエセルドレーダがいたずらっぽく微笑んだ。
「エセルドレーダを他の何かに取られるのが寂しいの?」
 彼女が自分の名前で犬を呼ぶのにおかしさを感じながら、僕は正直に頷いた。犬のエセ
ルドレーダは僕にとってかけがえのないもので、それは、悪いが人のエセルドレーダと同
じくらいの重みがあるのだ。
 犬と一緒にされて彼女は怒るかと思ったが、彼女はいつも通りの意地悪な笑みを浮かべ
て僕に言った。
「大丈夫。エセルドレーダはずっとあなたと一緒よ」
 それは、まるで「わたしはずっとあなたと一緒よ」と言われたようで、僕は照れた。そ
して、続けざまに彼女は言ったのだ。
「わたしが、あなたの犬になってあげる」
 「え?」と呆気にとられた僕に、彼女は可愛らしく小首を傾げて『吠え』た。
「わん」
 その夜、僕は自分の家に戻らなかったが、次の日にも犬のエセルドレーダは上機嫌だっ
た。
 数年が経ち、僕とエセルドレーダが結婚し、彼女が僕の家で過ごすようになると犬のエ
セルドレーダは僕の前から姿を消した。
 それはとても悲しいことだったけれど、エセルドレーダは僕を抱いて囁いてくれる。
「いいえ、それはとても幸せなことなのよ」
 六人もの子宝に恵まれ――彼女曰く「多産系なの」――、確かに僕は幸せだった。牧場
も彼女の持っていた分を足して倍になり、多くの羊を子供たちが追いかけ回して柵に入れ
ている。
 うん、羊たちは、まるで子供たちが犬であるかのように恐れているのだ。将来、牧場を
経営する上でそれは好ましくない資質だけれど、僕と彼女の子供ならば、まあ、なんとか
やっていけるだろう。
 時折、犬のエセルドレーダを思い出して涙が出る時があるけれど、そんな時は人のエセ
ルドレーダが涙に濡れた頬を嘗めて慰めてくれる。
 そういう時、彼女はいつも意地悪な笑みで『吠え』るのだ。
「わん、わん」
 と。
 ああ、犬のエセルドレーダはもういないのだけれど。
 ――僕は犬を飼っている。


                                   終


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