魔導探偵アレフ・ゼロ 前編 序 ケイオスシティの夜は酷くまぶしい。 ニューヨーク州の北部に位置するこの町は、マンハッタンの港からマーカーズラインで 一時間ほどの内陸部にある。 一九五十年代まで、まだその当時多くの町がそうであったように、ケイオスシティの夜 も大部分の人にとっては仕事に疲れた身を家路に向け、再び陽の昇るまでの時間をささや かな休息に使うだけのものであった。 しかし、五十年代に入り、後にマーカーズラインと呼ばれることになる線路が敷かれ、 この町がマンハッタンとごく近しい関係になったことが、ケイオスシティ――当時のユー イットシティの夜の姿を大幅に変えた。 連夜続く深夜の工事に次ぐ工事。いったい何を作っていたのか、昼間から夜中まで、そ れこそ一年中ケイオスシティから土木作業の音が絶えることはなかった。もちろん住民は 辟易して、騒音公害だのなんだのと騒ぎ立てたものだったが、地方新聞の一面まで占めて 問題になったその工事は、始まって五年目で唐突に終了した。 ――特別、何が出来たというわけではなかった。 目に見える場所に何も真新しいものはなく、閉鎖されていた区画に人々が足を踏み入れ ても、あれだけの騒音を立てて建造していたと思われるものが、何一つなかった。 むしろ、それは住民の興味を駆り立て、様々な噂が飛び交った やれニューヨーク市長が自分のために地下核シェルターを作ったのだ。 やれ作っていたのは建物ではなく新兵器で、完成と同時に運び去ってしまったのだ。 やれいやいやあれは騒音で我々をノイローゼに追い込む何かの実験だったのだ。 ――噂というのは、無節操で荒唐無稽なものである。 しかし、どの噂も真実の荒唐無稽さには追いつくことができなかった。 真実が世に知れ渡り、老域に達した当時のニューヨーク市長が大いにマスコミに取り上 げられることになるのは、一九九六年になってからのことだ。 おりしも、それはケイオスシティの夜が酷くまぶしい、爆発と炎上にばかり染め上げら れ、もとの名前からケイオスと変名される直前のことであった。 おりしも、それはその混乱の代名詞、荒唐無稽の最たるものである実践魔導集団による 宣言によってであった。 おりしも、それは誰もが疑いようのない、事実によって証明されたことであった。 「この町には、直系一キロに及ぶ巨大な魔法陣が隠されていた」 人々が踏みしめる、古きよき煉瓦の地面の下に。 車が行き交う、近代的なアスファルトの地面の下に。 一度地面を引きはがし、ほんの数メートルの地下に魔法陣を仕込み、そして再び同じ地 面を貼り付ける。地面の上にあるものならば、建物すら同様に。 ――なんて荒唐無稽。 それでも、人々は信ぜざるを得なかった。 その魔法陣を使い、魔導集団が彼らの『神』を召喚してみせては。 世界が変容していく様を目撃した人々は、信ぜざるを得なかったのである。 そして世界は魔導に侵された 物語はそれから十五年を経た騒がしきケイオスシティの夜に始まる 1.夜に吠えるもの 探偵業務の成果とは地道な調査の果てに得られるものであると、生意気にも狩野零(か りの・れい)は考えていた。 例え自分が三流であろうと、どうしようもないくらいに生活に困っていようと、正直こ こ一週間スーパーマーケットの試食コーナーで恥をさらして餓えを凌いでいようと、その 持論は正しいものであると信じていた。 自分が探偵として成功できていないのは、地道な調査をしてこなかったからではない。 (俺はしたい。そうさ、地道な調査をしたいさ) 問題は、自分に地道な調査を許さない、毎回急展開する事件の方にあるのだ。 キィィィィィィィィィィ! 「あぶなっ」 高速で頭上に迫った虎もかくやというかぎ爪を、零は身を地面に投げ出して転がること によって回避した。 獲物を狩り損ねた襲撃者は、口惜しそうにUの軌道を描いて星の見えない空へと上昇し ていく。 「星の見えない夜に紅く輝く二つの瞳には気をつけろ……爺さんの言う通りだよっ」 舌打ちし、零は茶褐色のコートの中に両手を差し込む。両脇に装備したホルスターから 二丁の拳銃を抜き放ち、左手に持った方を上空へと向けた。 それは、大の大人の手にも余るほどの五十口径の巨大な自動拳銃だ。真っ白なフレーム に描かれた金色の魔術文字が発光し、零がトリガーを引き絞る。 「ホワイトライトニング!」 ズガァン、と消音器を介さない大音響が夜の工場地帯に轟いた。同時に、銃口から白い 魔法陣がマズルフラッシュし、そこから弾き出された銀の弾丸が闇を裂いて疾る。 キィ!? 夜空に上昇する途中であった襲撃者――いびつな人型に猿と猪を混ぜたような顔と蝙蝠 の翼を備えたガーゴイルが驚愕の鳴き声を上げる。 まさに白い雷光のような光の粒子の軌跡を残し、銀の弾丸は右の石で出来た蝙蝠の羽根 を貫き、そして、直後に「逆Vの字」に軌道を変えた。悪魔像の右翼を後ろから破壊した 弾丸が、今度は正面からその左翼を打ち砕く。 キィィィィ!? 超自然的な力で身体を支えていた翼を失い、ガーゴイルの進行方向が上昇から落下へと 転化した。自由に空を駆けた姿が、今は地球の重力に支配されて地面へと迫る。 「地球とディープキスでもかましてろ」 零が言うと同時に、二メートルあまりの石像が地面に跳ねた。むき出しの地面に衝突の 勢いを物語るくぼみが生まれたが、土に威力を吸収されてガーゴイル本体はまだ破壊にま で至らない。 ゆっくりと膝をついて起きあがろうとする翼を失った魔物に、零は今度は右の拳銃―― 黒いフレームに銀色の魔術文字が描かれたリボルバーを向けた。その指がすっぽり入って しまうような凶悪な銃口のサイズは、やはり五十口径。 零は腰を落とし、白い自動拳銃を持った左手で右手の肘を固定するように抱え込む。自 然、身体は半身で左側に身をよじったような、独特の射撃体勢になる。それは、桁外れの 反動を相殺するための、魔銃のために存在する構え――。 「ブラックハウリング!」 ズガァーン! 夜を破壊する、それは銃声ではなく砲声。黒い魔法陣のマズルフラッシュが広がり、吐 き出された弾丸は一直線に起きあがりかけたガーゴイルの身体の中心を捉える。 キ――。 断末魔さえ最後まで許さず、死のつぶては襲撃者を粉微塵に粉砕した。弾痕を穿つどこ をではない、まさに砲弾が対象を吹き飛ばすかのような完全な破壊だ。 それを見届けて、零は対魔銃用射撃姿勢を解除した。ふう、と安堵の息をついて両腕を プラプラさせ、首を回す。そして、不意に顔をしかめた。 「いつつ……だから無茶なんだよなあ、こいつ」 痛めたのは右腕だけではなく、反動を受け止めた身体全身だ。ミシミシと言いそうな身 体を屈伸して誤魔化し、零は自分が走ってきた後ろを振り返る。 「さて、もう追っ手はない……かな?」 そう、追っ手だ。 思い出して、零はまた心がヘコむのを無理矢理無視した。俺が悪いんじゃない。俺のと ころに転がり込んでくる仕事が悪いんだ。そうに決まっている。そう決めた。例え、かな りヤバげな仕事だとわかっているのに仕事を受けてしまったのが自分でも。例え、まとも な食事が摂れるという誘惑に負けて請け負ってしまった仕事でも。 (俺が悪いんじゃない。俺は『普通』に『地道』に『くだらなくないすげえ探偵の仕事』 をして世間に認められて金が入ってきて女にモテモテ? そんな感じ? ……になりたい だけなんだっ) ムシの良いことを心の中で呟きつつ、もう一度背後確認。 そもそも、今回の仕事は『普通』の殺人事件の調査だったはずだ。なんで三流というか 世間に探偵として認知されてる、俺? というレベルの自分にそういう仕事が舞い込んで 来るのかはわからなかったが、基本的に『事件は名探偵を求める』という持論を持つ彼は 胸を躍らせることはしたが怖じ気づくようなことだけはなかった。 その時点で、普通怪しいと思うべきだったのだろう。 気がつけば、『夫が娘を殺した』という事件は、被疑者である夫の周辺捜査を開始して 二日目――それだけで『殺した娘を使って怪しい儀式を行っている魔導師の調査』に置き 換わっていた。 「なんでかなあ……」 なんの変哲もない星の無い夜空。 そこを埋め尽くす、石の翼で羽ばたく無数の紅い瞳を前に、三流探偵はため息をついた。 ――爺さん、きっとあんたのせいだ。 ケイオスシティでもすでに有名人。 大魔導師ハンティング・ロウ――狩野正(かりの・ただし)を祖父に持つ、へっぽこ三 流『魔導』探偵。 二丁拳銃を持つ男、通称アレフ・ゼロは、もうかなり泣きたい気分で化け物の集団に銃 口を向けた。 かくして、今夜もケイオスシティの夜は騒然と盛り上がる。 さて、そんな騒動を醒めた目で見下ろす一人の少女がいた。 「無様だな」 白い自動拳銃を放って翼を撃ち抜き、また隙あらば黒いリボルバーで粉砕するという戦 いを繰り広げる青年を、立ち並ぶ工場の屋根の上から見下ろして少女は呟く。 傲然と腕組みをし、いかにもくだらないものを見るという視線を、ガーゴイルたちを無 視してただ一人だけの人間に注いでいる。 それは、超然とした少女だ。 歳の頃は十五、六で、まず腰までもある長い黒髪が目に入る。まるで闇を束ねたかのよ うなその髪の見事さに光は吸い込まれて視界を奪うが、その試練を越えればさらに驚くべ き少女の容貌を目にすることができる。 聖女か。 はたまた魔女か。 語り継がれるべき美女は歴史に数多いが、その地位や成し遂げた功績、巻き込まれた政 変によらず、ただそこに在るだけで語りぐさになる美女など、そのうちの何人だろうか。 黒い髪に相反する白い肌は、一級の職人が編み上げた絹のきめ細かな滑らかさにも似た、 触れた時のこの上ない手触りと、それに触れることを恐れさせる高級感を感じさせるもの。 聖女にも似た清純そうな面立ちは、まだ幼さを残してなんとも嗜虐心をそそるもの。 冷徹な瞳は常に人を見下ろし、その酷薄そうな唇はむしろ年齢にそぐわないミスマッチ をもってアクセントとなり、なんとも屈服したくなる『格』を漂わせている。 成熟の息に達していない肢体を包むのは、腕や足のむき出しになったドレス。そのくせ、 覆っている部分の布の量は豊かで、ウェディングドレスさながらだ。もっとも、漆黒で染 め上げられたウェディングドレスが存在するならば、だが。 ――その聖女? 魔女? が戦う零を見つめている。 見つめて、酷評している。 「くれてやった『白き閃光』と『黒き咆哮』も未だに使いこなせていないな。あれでグラ ンドマスターの後継者だというのだから、呆れてものが言えん」 美麗な唇が歪む。 苛立ちの形だ。 「今では貴様が私のマスターなのだぞ、零。アレフ・ゼロ。グランドマスターの与えた魔 導名(マスターネーム)に恥じない戦いをしないか」 組んだ腕の端で、人差し指が落ち着かなげに二の腕を叩く。 零が、上空から後ろに回り込んだガーゴイルの足に背中を蹴られて乾いた土の上に転ん だ。 そこに一斉に群がる魔石像たち。 ピク、と少女のこめかみが震えた。 が。 「我はどこに。我はここに。我はそこに。我はどこにでも!」 零が地面に這いつくばりながら声高らかに唄う。 ほう、と少女が口元が微かな笑みを刻んだ。 「『我はどこにでもいる(イグジスト・ミー・エヴリウェア)』――展開(アクセル)!」 直後、ガーゴイルたちが零の身体を押し潰した。 ように見えた。 少女は目撃した。 コンマ一秒の間もなく、少女の眼前の中空に『この宇宙で自分が存在する座標』を書き 換えて出現した青年を。 否、それは出現ではない。零は『はじめからそこにいた』と世界を魔導によって書き換 えたのだ。ただ、それが瞬間移動のように見えてしまうだけだ。 地面に、今度は彼と入れ替わりに這いつくばっている魔物どもを見下ろし、零は叫ぶ。 必殺を決める台詞。 ――のはずだったのだが。 「じ、地面じゃねえし!?」 「座標間違えたな、貴様ー!?」 思わず少女がこめかみに血管を浮き上がらせて叫んだ。 ともあれ、それでも零はホワイトライトニングを三連発する。銀の弾丸が羽虫のように ガーゴイルたちにまとわりつき、その翼を連続して撃ち抜いていく。 「う、うああああああああ落ちるうううううう!?」 「この馬鹿……っ」 舌打ちして少女が腕組みから右腕を抜き取って大きく払うように振るう。すると、地面 直撃寸前に見えない衝撃波に真横から殴り飛ばされて、零の身体が直角に曲がる。 空中で二転三転して、そのまま地面についてさらに数回転。真下への落下ではなく横へ の回転にダメージが拡散し、零は汚れたコートを嘆きつつ身を起こす。 「くそ……新調しないと」 すかさずブラックハウリング専用の射撃スタイル。左腕で右腕を抱き込む姿勢で、零は トリガーを引いた。 ズガァーン! 密集していたガーゴイルが一発の弾丸でまとめて吹き飛び、後には不自然なくらいの石 くれが工場地帯に転がるのみだ。 残敵ゼロ。 深く、深く息を吐いて、零はその場に腰を下ろした。 「無様だな」 やはり、少女は酷評する。 と、不意に少女の視線がガーゴイルたちの出てきた工場に向けられる。そこは、先日新 しい所有者になってから活動を停止していた工場で、零の調査では中にあったのは――。 「ふん……安易に魔導に頼る気狂いどもが。ロクな理(ことわり)も知らず、ただ使える からという理由だけでそれを状況打破のために活用し、あげくにその世界を書き換える快 楽から抜け出せなくなり、目的を忘れ魔導のための魔導を求めるとは愚かの極み」 少女の見守る中、工場が揺れる。資材が倒れる音がして、バリバリメキメキと局地的な 地震で崩れ落ちるかのように工場が破壊されていく。だが、地震が起きているわけではな い。 内側から、巨大なものが外に出ようとあがいている結果だ。 零も気がついたのか、「マジかよ……」と泣きそうな顔で呟いて重い腰を上げる。 やがて、工場の屋根を突き破って巨大なものが顔を覗かせる。 星のない夜に輝く紅い瞳。 凄絶なほどに巨大な、黒みのかかった緑色の鱗の、蛇の頭。 眉間の間に人骨で出来た十字架をはめ込んだ、それは異形の化け物だ。その化け物の十 字架の中央には、白目を剥いたやせ細った男の顔が存在している。 その顔に、零は眉根を寄せ、少女は吐き捨てる。 「魔導熱狂者(フリーク)め」 ついに、工場の全てが倒壊した――。 ※ 「さて、これをどうしよう……」 機材を廃し大小様々な魔法陣で埋め尽くされていた工場を破壊して現れた化け物を前に、 零は困った顔で呟いていた。 確か、祭壇には無数の蛇の蠢く水槽があり、その中に埋まっていたのは確かに彼が依頼 された『夫』の娘の死体だったのだが。 (なんで、父親の方が化け物になっている?) 疑問の暇もあったが、すぐに思考を乱される。工場を潰して完全に姿を現した蛇の姿に、 零は言いようのない悪寒を感じたのだ。 巨大なのは、頭部だけだった。 その一つの丘にも匹敵するよな二十メートルにも及ぶ蛇の頭部。 しかし、その頭を支えるのは、無数の蛇の胴体。 一つの頭の下に数千数万の胴体があり、それがうぞうぞと蠢いて、なんとか頭部を支え ているのだ。 『化け物』。 自然ならざる、魔導によって生み出される狂気の存在。自然界で生活するための利便性 など考えない、進化の基本から外れた存在。 『生きることを考慮していない存在』。 故に、それらは総称して言われるのだ。 「化け物(クリーチャー)が」 「ここは退くぞ、零」 「ジャンヌ!? お前、どこ行ってたっ」 ふわりと自分の隣に舞い降りた少女に向かい、零が怒鳴る。少女――ジャンヌはそれを 意に介さずに腕を組んで怪物を視察する。 「ふん、あれは『神魔列伝』の五十二頁『這いずるもの』ムールだ。イョ・カュマの眷属 相手は今の貴様では手に余る」 「ち……出てくるなりいいこと言ってくれるぜ。だけどな、いいか」 「なんだ」 唇を噛みしめ、零は言う。 「ここであいつを放り出して逃げたら、この一帯の人がかなりマズイだろうが」 「知ったことか。弱者が強者に踏みにじられるだけだ。そうされたくなければ逃げればい いし、逃げ切れなければ死ねばいい。それとも、貴様、あれと戦うつもりか?」 辛辣な視線をジャンヌは向ける。その視線に、零は息を飲む。 (あれと戦う? 俺が?) それを見た時にまず感じたことは「やばい」であった。 次に思ったことは「勝てるはずがない」だった。 結論したことは「逃げるしかない」だった。 心と理性、両方が「無理だ!」と叫び、零はふと疑問に思った。 (あれ? なら、逃げない理由はないよな?) くっと笑う。 感情が逃げをうち、そして現状を把握する理性もそれを推奨した。ならば、迷うことは ない。 「よし、逃げる」 戦おうなどとは、思わない。 それが、三流魔導探偵の狩野零。アレフ・ゼロだ。 ジャンヌも、満足そうに頷いた。 「よし、では脇目もふらず走れ。ある程度は私がフォローしてやる。こんなところでグラ ンドマスターとの約束を破るわけには――」 ジャンヌの言葉は、最後まで紡がれなかった。その前に、零が走り出したのだ。 ――巨大な、蛇の頭へと向かって。 「な」 少女の口がポカンと開いた。次の瞬間、その顔が怒りに染まる。 「何をしているか貴様ぁ!」 「安心しろ、戦わねえよ!」 言いつつ零は左のホワイトライトニングを乱射した。連続六発の弾丸が蛇の横面に突き 刺さる。 フィィィィン! 蛇が、この世ならざる鳴き声を上げた。その鳴き声が空間を震わせ、目に見えるほどの 歪みを放射状に発生させる。その歪みの中を走り抜け、零はいきなり汗でびしょ濡れにな った身体に鞭打ってもう一度ホワイトライトニングを三発。今度も弾丸は真っ直ぐに蛇に 着弾する。目標が大きすぎるので、軌道を変える必要もない。 その様に、ジャンヌはさらに怒鳴る。 「戦ってるぞ!」 「逃げてんだよっ。このまま、こっちに注意を向けさせながら、逃げ回るっ」 「ええい、貴様の勝てる相手ではないと言っただろうが!」 「だから警察なり軍隊なりが来るまで時間稼ぎに逃げ回――っとぉ!?」 そこで、ようやく蛇の注意が零に向かった。 蛇――ムールは、眼下の地面を走る小さな生き物の姿に紅い目を細め、フィンと鳴いた。 すると地面から土を弾けさせて無数の通常サイズの蛇が現れる。小さな牙に毒液の光るの を見た零は、さらに怖気を増してホワイトライトニングを乱射した。 ズガァンズガァンズガァンズガァン! 一発の弾丸で数十匹の蛇が弾け飛ぶ。渦巻きのように周囲の蛇を一掃した拳銃の威力に、 ムールの上に生え出てきた女が顔を歪める。 「フィィィィン!」 ムールのものに良く似た金切り声が女の口から発せられる。今度は上空からバラバラと 蛇が降ってきて、零は「ああ、もうわけがわからねえ!」と叫びつつ、己に使用できる数 少ない魔導を展開する。 「『我はどこにでもいる』!」 「!」 ムールの上の女と、ジャンヌが同時に視線を動かして消えた零の姿を求めた。 求めて――。 「どこ行った、あの馬鹿……っ」 零の姿は、戦場から綺麗さっぱり消え去っていた。 ※ 「もしもし、警察ですか? ――ああ、なんか怪獣の鳴き声聞こえるだろ? プロスト地 区のカリニー。そう、そこで化け物が暴れてるから、速攻で来てくれ。正直、魔導師の一 人や二人じゃ無理そうだから、そこのところよろしく」 ガチャ。 受話器を下ろし、ふうと零は一息つく。瞬間移動した彼が目指したのはまだ無事であっ た工場の一つで、その中で警察への出動要請を優先したのだ。 「これで十分もすれば正規の魔導師の五、六人は来るだろ。さて、化け物は、と」 フィィィィィィィィィン! 零の姿を見失ったムールは、怒りに身を任せたように辺りの工場を破壊していた。その 巨体を支えるには短すぎる無数の足を動かし、まさに這いずるようにして体当たり。 ズドォォォォン。 単純な質量を威力として、工場が一撃で倒壊する。ちょうど零に背を向ける形になって いる。 「チャンス」 素早くホワイトライトニングのマガジンを取り出し、弾倉交換する。リボルバーのブラ ックハウリングにも、最大数の六まで弾を込める。 そして、独特の構えからブラックハウリングの引き金を引く。 ズガァン! フィィィィィィィィィィィィン!? 『砲撃』に殴られ、二十メートルもあるムールの顔が傾いだ。その顔の右半面は無残に もクレーターのように抉れ、真っ赤な筋肉が決壊したダムのように血を噴き出させた。 が、その血液が地面に落ちるなりジュウと音を立てたのには、零も顔を引きつらせた。 「硫酸かよっ」 フィィィィィィィィィィィィィィン! 悲鳴のような叫びと共に振り返るムール。零は、射撃姿勢をまだ崩していない。 射撃! フィィィィィィィィィンッ! 「フィィィィィィィィィンッ!」 振り返ったその喉をブラックハウリングの銀弾が貫く。ズガァンと蛇の後頭部から肉と 脳が噴水のように吹き出し、零は必殺したかと期待した。 しかし、まだだ。 大きくのけぞったムールの上で、両目両耳鼻口全てから燃える血を垂れ流した女が両手 を振り回す奇怪な舞を行なうと、上空で、地上で、それぞれで生まれた蛇たちがムールの 傷口に入り込んでその肉を補っていく。 あの肉は偽物だ。 あれをいくらぶち壊そうと、体力を削るだけでとどめは刺すことは出来ない。 探偵らしく推理──というか本能で察した零は、左手のホワイトライトニングで精密射 撃。数十メートルを一気に疾り抜けた弾丸が、微妙な軌道修正をしながらムールの眉間を 狙う。 瞬間、ムールが顔をそらした。 (ドンピシャリ!) 目標優先順位を定められているホワイトライトニングの弾が、曲がる。そらしたムール の顔の正面に回りこみ、さらに眉間──骨十字の中央の顔を狙う。 「フィィィィィィン!」 「そう来たかっ」 骨十字の前に女が生えてきた。そのさらされた豊かな乳房に弾痕が穿たれ、もろくも千 切れ飛ぶ。弾丸は宙を舞う乳房に絡みとられ、動きを封じられていた。 弱点を見て取り、零は間髪を入れず攻めに転ずる。 「なら、これはどうする!」 ホワイトライトニングを単発ではなく連射に切り替える。自動拳銃の利を生かして、フ ルオートで引き金を引く。 合計十四の魔法陣が輝き、その数だけの閃光が闇夜に無数の軌道を描いた。 多角。あらゆる角度からそれらはムールの骨十字を狙う。 フィィィィィィン! 「っだぁ! 今度はそう来たかっ」 零が驚愕する。 ムールは大口を開けて甲高い鳴き声を上げると、その口を常識の限界を越えて『逆側に 噛み合わせ』た。口を後頭部側で閉じた、とでも言うのか、つまり口の中が外になり、口 の外がすっぽりと中に収まる形になる。 ――裏返った。 結果として銀弾は全て緋色の肉に突き刺さるに終わり、裏返ったことにより外側に配置 された無数の鋭い牙が、地面をスパイクシューズのように噛む。 ギュルン。 「そんなのありか!?」 生々しい肉のボールとなったムールが、牙をキャタピラのように回転させて走り出す。 どういう原理で回転するのかはわからないが、動いているのは牙周辺のみ――やはり戦車 のような機構になっている。 急発進して自分に突っ込んできた肉鞠に、零は慌てて逃げ出した。たやすく方向転換は 出来ないのか、零の逃げた後の工場にムールが体当たりをかまし、騒音をまき散らして建 物は崩壊した。 肉戦車の上部から女の半身が生えると、彼女は白目を辺りに走らせて零を見つけると、 牙を剥きだしにして吠えた。 「フィィィィィン!」 「やっぱり逃げるしかねえな、こいつは……弱点内側に抱え込まれちまった」 ぼやきつつ、零は肉鞠の上に生えた女に視線を向ける。写真で見覚えがあるし、蛇の詰 まった水槽の中でも見た顔だ。 「……やっぱり、化け物になってるのは娘の方か? なら、父親の方は……」 「あれは、楔だな」 「くさび?」 いつの間にか隣にやって来た黒をまとう少女に、零は眉根を寄せた。理解していないマ スターに侮蔑の視線を送り、ジャンヌは説明する。 「娘は神の眷属を宿らせる器。父親は元の場所へ還ろうとする神をこの世に留め続ける楔。 あれは死んではいないぞ。人間性は失っているが、ムールが脳に作用して無尽蔵に近い憎 悪を……ムールが欲しがる感情を垂れ流し続ける『生産機』だ」 それは、人の感情を生み出す人ではないものだ。 そんなものが成立するのか? まともな意識もなく、だけれど感情だけは生み続けるなどという存在が。 「グロいな……なら、感情ってなんだよ。生きた人間の特権じゃねえのかよ」 喜びも悲しみも、全ては生きているからこそ生まれるものではないのか。 だからこそ成立する生命賛美ではないのか。 問いかけた零に、ジャンヌは「ふん」と傲然と口元だけで笑った。 「それが魔導。それゆえに魔導。認めたくはないだろう? あれは魔だ。魔を導くもの。 貴様ら人間の認めてはならない化け物だ。早く理解しろ、零。貴様はもはやアレフ・ゼロ。 私がおしめを替えてやったあの頃とは違うのだろう?」 「それを――」 苦虫を噛みた顔になる零に、肉鞠が再び迫る。 ――『我はどこにでもいる』。 「言うなっ」 ジャンヌの腰を抱きかかえて『座標』を入れ替えた零が、少し離れた工場の屋根の上で 怒鳴る。 ふむ、とジャンヌは至近で怒鳴られて素知らぬ顔で耳を押さえつつ、 「座標修正だけは得意だな。だから逃げればいいだろう」 「何度も言わせるなっ。ここであいつを放っておいて、一般家庭様にご迷惑がかかったら」 「かかったらなんだというのだ」 「……なんとなくイヤな気分だろ?」 ジャンヌは皮肉げに唇を歪めて見せた。 「全然そういう気分にはならないがな、私は」 「俺にはお前のそういうところがわからねえよ」 「私には貴様のそういう甘ったるいところがわからないぞ。貴様の生業(なりわい)が探 偵だというのなら、すでに貴様の仕事は終わっている。戻ってあの女から報酬を受け取れ ばいいはずだ。違うか?」 「……アフターケアも何もいらず、最初の依頼内容だけこなすっていうなら、それでいい んだろうけどな」 ちっ、と零は舌打ちする。 少女の腰に回していた手を放し、コートからマガジンを取り出してホワイトライトニン グの弾倉を入れ替える。 「……なんと言うか、割り切れたら苦労しねえよ、だ」 どことなく憂いを含んだ低い声で言って、青年は右手の最強の武器を撃ち放つべく、屋 根の上でその射撃姿勢をとる。 あくまで時間稼ぎを続けようとする姿に、少女はついにため息をついて肩をすくめた。 「お人好し(チェリー)」 「ほっとけ、雌犬(マイ・ドッグ)」 砲声が轟いたのは、直後のことだ。ブラックハウリングの放った音ではない。もっと大 きな、物理的に大きな兵器から発せられた自然的な音だ。 同時に、肉鞠の腹(?)に大きな穴が穿たれる。間を置かずにそれは爆発し、大きなク レーターと化した。 「おお?」 良い感じに盛り上がってきたところに割り込んできたそれに、零は射撃姿勢のまま固ま った。 舗装されていない工場地帯の一角にタイヤを収めているのは二トントラック級の装甲車。 ケイオスシティの警察が有する『法の戦車(タンク・オブ・ロウ)』だ。 「よし、勝ち目が出てきたっ。このままあちらの魔導師より先にトドメ刺して、金一封も らおうぜ!」 「……貴様、先ほどの格好つけとそちらのどっちが本音で時間稼ぎしてた」 ジャンヌが呆れ、零がニッと笑みを見せる。 その間にも『法の戦車』による砲撃は続いていた。『法の戦車』は、側面に三門の機関 砲が装備され、その一つ一つが規格外の口径を誇っている。魔導師が魔導を使って放つそ の機関砲『正義の雨(ジャスティス・レイン)』は、名前はともかくとして威力は超一流。 暴力的な破壊力の連続という視点だけならばケイオス・シティで並ぶものの無い最強の兵 器だ。 一発一発が魔導の力を持って、十割の命中率で化け物の身体に突き刺さる。 あっと言う間に肉鞠はその体積を減らして、半身の女が悲鳴を上げた。 「フィィィィィィィィン!」 叫びによって現れる蛇。蛇。蛇。凄まじい速度で蛇が生まれ、肉を埋め、再生する。だ が、そこにさらに無数の砲弾が撃ち込まれ、彼女はさらに身悶える。 破壊。再生。破壊。再生。破壊。再生――。 秒単位で繰り返される不条理。 不条理な破壊力と、不条理な再生力。 では、最終的にどちらが残るのか。 ――軍配は、太古から息づく『化け物』の方に上がるものと決まっているのだ。 「魔導師、出ろ!」 無限に近い化け物の再生力に対し、人間の武器は弾数の制限がある。その制限があって なお砲を使うのは、倒すことではなく動きを封じることがその主な目的だからだ。 砲弾で足止めし、魔導師による『送還』。 それがケイオスシティの対化け物マニュアル。 「いや」 装甲車の上に顔を出して戦況を見ていた金髪をオールバックに撫でつけた青年警官が、 仲間の指示を却下した。 「魔導師なら、すでに『いる』。それも、すこぶる馬鹿で危険な奴だ」 「それは――」 いかつい巨漢の警官を制し、青年は叫ぶ。 「魔導師アレフ・ゼロが前線に出た! 援護しろ!」 「ま、またあの民間人ですかっ!」 話題となった零は、『法の戦車』とは違い、肉鞠の横方向の屋根から射撃していた。ホ ワイトライトニングが一発ずつ魔法陣を生み、その弾丸は半身を生やした女の顔を狙い撃 つ。 その度に女は腕を犠牲にし、時には肉鞠の中に姿を隠してやり過ごすが、その非力な攻 撃をどうしても無視できない。圧倒的に『法の戦車』の破壊力の方が高いのだが、零の攻 撃は蛇を生み出す声を上げる女の顔を狙ってくるのだ。 「フィィィィィィィン!」 ついに零の方を先に始末することにした女が、その右腕を突き出してくる。嘘のように 数十メートルの距離を伸びた腕が零を襲おうとし、肩口から断ち切られる。 「フィィィィィィン!?」 「ふん、囮にくらい気づけ。この程度の策が成り立つようでは、未熟者が図に乗る」 ガシ、と半身のみの女の肩口を踏みつけ、傲然と言い捨てるのは、黒いドレスに身を包 んだ少女だ。 少女は、短いドレスの裾から下着が見えるのも構わずに女の肩に足を置いたまま、自分 より低い位置にある白目を剥いた顔に、その美貌を近づける。 「次にこちらの世界に来る時までには、イョ・カュマにもっとマシな頭脳をもらってこい」 「フィ――!」 鮮血が散った。 女の髪を掴んだジャンヌが、一気に首を捻ってそれを引き抜いたのだ。異界の声を生み 出す『口』を失った肉鞠は、砲撃に肉体を損なわれて、たまらず『裏返し』だった身体を もとに戻した。 ぐるん、と肉鞠が巨大な蛇の頭に戻る。 その動作に巻き込まれないように飛びすさっていたジャンヌは、ブラックハウリングを 手にする零の前に着地する。 肉鞠に向かって、二本ずつ立てた両手の指を×字に合わせて真っ直ぐに突き出す。その ×字に零はブラックハウリングの銃身を乗せ、射撃姿勢をとる。位置的にジャンヌの細い 首を締め上げるような形になるそれは、聖女を人質に神を脅す姿なのか。それとも、魔女 を楯に悪魔を追いつめる姿なのか。――どちらでもあるし、どちらでもない。 蛇が憎々しげに咆哮を上げながら屋根の上の零たちを睨む。眉間の十字を真正面に捉え、 零とジャンヌは唱和した。 「「ブラックハウリング・ブラストーーーーーー!」」 ――引き金を引いた。 ※ 黒い咆哮。 火薬の炸裂では生まれるはずもない音が、零とジャンヌを中心にして世界を引き裂いた。 音とも言えない音が、あまりにも狂気に近すぎて人の耳が捉えない音が、しかし『大音 量』として全ての者の耳を打ち、意識を奪い、次の瞬間にはその意識を復活させる。 気絶すらさせない、魂に刻み込まれる、咆哮。 いたぶるように、蹂躙するように、気絶などで逃がさないように。 傲慢で、どこまでも自己主張の激しい、それは――。 一発の弾丸に集約され、海神イョ・カュマが眷属である蛇魔ムールの『力の源』を撃ち 抜いた。 ※ 消(ショウ)と空気が巻いた。 銀の弾丸の着弾点。ムールの額の十字架にはまった『顔』。その『顔』の眉間にぽっか りと空いた弾痕が『黒い渦』を巻いた。 またしても消と終(シュウ)と空気が巻く。 その渦に、巨大な蛇の頭が『巻き込まれて』いく。 自らに空いた穴に、内側へ、内側へと吸い込まれていく。 歪み、引き伸ばされ、三次元的な立体ですらなくなった化け物が消滅していく。 ※ そして、青年と少女はその身体を解く。 少女は腕を組む。 渦を巻く一点を侮蔑の瞳をもって見下す。 青年は銃を構える。 左の銃を渦巻く一点に向け、トドメのひとことを告げる。 「さようなら、だ(グッバイ・フレンド)」 バン、と彼の口が紡いだ。 それが、破裂の合図となった。 ※ 穴へと流れ込んでた全てが破裂した。 外側へと向かった力が大爆発を生み、その余波は暴風として周囲をなめ尽くす。 一瞬、『法の戦車』すら傾きかけたその爆風に堪えながらオールバックの警官が薄目で 見ると、もはやそこには化け物の欠片すら見ることはかなわない。 完全な消滅。 魔導師のみに可能な化け物の返還。 「見事」 賞賛は、自然と彼の口から漏れたものだった。 2.昼に笑うもの 探偵、狩野零の朝は遅い。 例え前日の夜何時に寝ようが昼近くまで惰眠を貪り、その瞼が動いたと思えば、寝ぼけ まなこで抱き抱えた枕をジッと見つめる。 うつぶせで寝るのは、癖のようだものだ。子供の頃のとあるトラウマのせいである。 そんなことをボーっと考えつつ、部屋の時計は主人に似ないで律儀に時間を刻んでいく。 ピ。 とデジタル時計が○一:○○を示すと同時に、今日もその部屋の扉は乱暴に開け放たれ た。 「お昼ですよ〜。ご飯ですよ〜。美味しいご飯の時間ですよ〜」 連呼されるのは、人の本能に訴える単語。 ご飯? ご飯ですか? 俺もご飯食べていいんですか? 零の意識が覚醒していく。 「ランチタイムのお時間ですよ〜。あと一時間で終わっちゃういますよ〜」 「!」 それがトドメだった。 ベッドの中から両腕だけで身を起こす。 「くっ」 失敗。両腕に力が入らず、半端に持ち上がったところでカクンと肘が折れ、青年の顔は 枕に突っ伏した。 唇を噛みしめ、もう一度。 「くぅ……」 寝起きの過負荷に、筋肉が悲鳴を上げる。破裂するほどに腕の血管が膨れ、汗が額にに じむ。 ダメか? ダメなのか? 俺にランチタイムは過ぎたものなのか? 「ぐう……」 心が折れそうになる。 本気で力が入らない。 そう思った瞬間、腹が鳴いた。 ぐぅ〜。 腹が、減った。 そうさ、減ってるさ。 何せ、もう二週間は満足にものを食べていないんだ。スーパーの試食コーナー荒らし? 好きなように呼べ。好きなだけ嘲ればいい。それでも人は生きているんだ友達なんだ。 ――思考が闇に堕ちかけた。 ぐぅ〜。 また腹が鳴った。 せつない音だ。 ものを食える状況の奴は、腹が鳴れば笑えるだろう。お腹が鳴っちゃったよ、と。 だけど、ものが食えない状況の奴にとって、腹の音は死への合図だ。 (くそっ。なめるな……っ) 死への恐れが思考をクリアにし、半ば朦朧としていた彼の瞳に光が宿る。明確な意志の 輝きだ。 (動くか?) 突いた両腕を伸ばしていく。要は腕立て伏せと同じだ。ゆっくり伸ばせばゆっくりほど 筋肉負荷は増していく。一気に、勢いよく上げてしまうのが、筋トレではない今は必要な のだ。 「う、あ、あ、あ、あ」 彼は呻く。 今の彼に出来る最速で、しかしそれは他人の目からは酷くゆっくりなのだけれど、身体 を持ち上げていく。 そんな彼に、応援がある。 「がんばれ〜。もうすぐですよ〜。美味しいご飯にありつけますよ〜」 (ああ、わかってる) 彼は笑いたくなった。 彼女、ああ、彼女だ。 決まってこの時間に彼を起こしに来る彼女――少女。 日だまりのような笑顔を浮かべた彼女は、とても可愛らしい。 十五歳にしてはちょっと胸がねえなあ、むしろある? とか言いたくはなるけれど。 というか、言ってしまったこともあるけれど。 そんな時にむくれて文句も言ってくる姿も可愛らしい、思わずいたずらしたくなってく る少女。 背中の半ばまでの、少し癖のある金髪。ほっそりとした、少女から大人へと変わってい く最中の肢体。小さな頼りなげな肩。 十人中九人は美少女だと言い切るだろう、素朴で世間擦れしていない容貌。 悪意の欠片もない、その不可思議な紫色の瞳。 全体的にちまい、小美人。 立場的には、彼の世話になっている行きつけの喫茶店のウェイトレス。さらに言うなら、 その喫茶店は彼の部屋の下の階にあるのだけれど。 ――そう、彼女がどういう人間か、彼にはよくわかっていた。 そうでなければ「零さんのお世話はわたしがしますっ」と言い出した彼女に、三つしか ない部屋の鍵の一つを渡したりはしない。 だから――確信した。 (美味いんだな? 今日のランチタイムメニューは相当美味いんだな? しかも、かなり 安いと思っていいんだな?) 意欲とは、目標がはっきりすることによって燃え上がる。 顔を上げる。横を見る。 ちょっと幼めな彼の天使が微笑んでいる。フリフリとした、フリルの多いウェイトレス のユニフォームも、彼女の健康そうな腕や足を良く引き立てている。膝上までのスカート の中をなんとか覗こうと努力している客だっているのだ。それくらい魅力的なのだ。 ――涙が出そうになった。常日頃、真っ黒な服装で傲慢な表情で彼に「未熟者」だとか 「馬鹿が」だとか「恥を知れ」などとばかり言ってくる相棒がいるだけに、彼にはその存 在がありがたい。 力がわいた。 (生きる力だ。俺に必要な力だ) 心の中で独白し、彼はついに身を起こした。起こした勢いでぶっ倒れそうになり、慌て て窓際の壁に背を預ける。ベッドの上に座った形。彼女に身体の正面を向けて座った形。 ――素っ裸なのだけれど。 彼女は目を丸くしていたのだけれど。 気にしない気にしない。 「おっはー」 旧時代の挨拶をかましてみたりした。 彼女は――。 「お父さんのより、ずいぶん小さいんですね」 「うわあああああああん、お前は魔女だぁぁぁぁぁぁぁ!」 純粋に、彼をぶち殺した。 ※ (死のう) 三流魔導探偵、狩野零は喫茶店『狐の尻尾(フォックステイル)』のカウンター席に座 り、真っ白になっていた。 基本的に人生後ろ向きな彼であるが、そこまで落ち込んでいるのは珍しく、意味もなく グラスを磨いていた店のマスターであるところのマイスン氏は、思わず声をかけた。 「どうしたね」 「あ、い、う、が、ぎじじじじじじ」 「ああ、わかったわかった、無理しないでいい」 空虚な目で意味不明なことを垂れ流し始めた青年に、マイスンはそれ以上の追求を諦め た。 ふふ、と五十年を越えてきた大人の笑みで元気づける。 「まあ、嫌なことは綺麗さっぱりと忘れることだ。忘れるのは得意だろう? うちの店へ のツケとか」 それは、彼一流の冗談だったのだろう。だが、少しは効果があったようで、肩を落とし てうつむいていた零がチラリと彼を見上げる。 「マイスンさん……」 「ん?」 「男の価値って何ですか……」 「ふむ?」 いきなりな若者からの質問に、マイスンはグラスを磨く手を止めた。見れば、若者はす がりつくような瞳で、人生経験豊富な男の意見を求めている。これは、彼の歩んできた道 を表す、重要な答えになるだろう。 「なんとも難しい質問をしてくれるな。そういう質問をしたのは、君で二人目だ」 「はあ」 「私が思うに、男の価値とは『どれだけ他人を幸せにできるか』だと思うのだがね」 しみじみと、五十男は言う。瞼を下ろし、過去を懐かしむような顔で、彼は続ける。 「自分が幸せになることなんざ、その気になれば誰にでも出来るものさ。幸せの基準をち ょいと修正してやればいんだからな。だがな、零。他人を幸せにすることは、それはもう 難しいものさ。この世で一番難しい。それをいかに成し遂げるかが、男として生まれ落ち た者全てに与えられた永遠の命題なのさ」 「べ、勉強になります」 意外にも真面目な答えが返ってきて、むしろ零は恐縮した。真っ白になっていた瞳に活 力が戻り、ううむと口をへの字にする。 (うむ、そうだ。ナニが小さかろうと、男の価値はそれではかれるものではない。マイス ンさんは正しい。っつーか、格好いい人だなあ、おい) 一種の羨望を抱いて、零はカウンターを挟んだ場所に立つ熊のような大男を見上げた。 近所でも『熊おじさん(ベア・マイスン)』と呼ばれる彼は、カウンターの他には四人 がけのテーブルが四つしかない小さな喫茶店にいるのが窮屈なくらいの巨漢だ。 シャツにジーンズ、その上にエプロン。頭には星条旗のバンダナをしており、顔は表情 がわからないくらい髭で埋め尽くされている。だが、覗いた目の穏やかさが、彼の歩んだ 人生を物語っているようで、実に社会的に信頼の厚い、好人物である。 ――ゴロツキ同然の三流魔導探偵とは対極にあたる信頼度かもしれない。というか、そ の三流魔導探偵もすっかり彼のシンパである。 「マイスンさん、あんたいい人だぁ……」 そもそも、大学で苦学生をしていた頃から、零はマイスンには世話になりっぱなしであ る。 『狐の尻尾』の二階にある部屋も、マイスンの好意で格安で借りることが出来ている。 そこが、かつての彼の息子の部屋なのだというから、恐縮せざるを得ない。 そう、狩野零にとって、まさにマイスンとは現代に生きる大聖人なのだ。 だからこそ、彼は進言した。 「マイスンさん……悪いことは言わない。被害が及ぶ前に、あの魔女をクビにした方がい い」 「……何を言われたね」 「う、う、う、ううううううううう」 心が軋んだ。 痛みよりも、心がねじれていく感覚に零は恐怖した。 自分がどうにかなってしまいそうだった。 「あ、あばばばばばばばばばばばへかて・へかて・さるもあ・なん・へかて」 「人の店で地獄女王のサバトを行う気なら、他の客のいない時間にしたまえ」 「うぐ、ひっく……」 ついに泣けた。 想像以上に、彼は『ダメ』になっていたらしい。 その時である。 「零さん。何を騒いでいるんですか」 ちょっとむくれた顔で『魔女』がやって来た。グラスを磨く店主に代わって料理をし、 ついでに自分で給仕までして立ち回っていた少女は、注文の一つもせずに奇行に走ってい る零に向かってたしなめるように言う。 それに対し、零はさらに泣けた。 「ナニで騒いでいて悪かったなあ……ぐす」 「もう……どうしたんですか。ほらほら、大丈夫。ご飯食べれば、怖いことなんか何もあ ありませんよ」 それは、どういう理屈なのかわからないが、ともあれ『魔女』は『天使』の微笑みを浮 かべて、突っ伏した零の頭を撫でた。 細い指が、零の髪を梳いて彼になんとも言えない心地良さを与える。心地よさと、同時 に恐怖。満席の席を埋める男共の視線が自分に集まっている恐怖。 「やめろって……」 まだ半分いじけつつ、零は彼女の手を取って自分の頭から外す。顔を上げると、ほら元 気出ましたか? とばかりの微笑みが彼を出迎えてくれた。 ――だから、そういう顔をしていると、俺が他の野郎共にいびられるから。 言えばいいのに、言えないのは、まあ、そういう立場が嫌いではないからで。 この笑顔を、自分から遠ざけるのも、なんとなく損な気もして。 零は、ピシッと彼女の額をデコピンして、今朝の恨みは忘れることにした。 「あうっ」 「それじゃ、ミラ。腹減ったからランチ頼む」 「もう……じゃあ、少し待っていてくださいね」 『狐の尻尾』の看板娘、『天使』のミラ・エリオットは、日だまりのような笑顔で厨房 へと入っていくのだった。 そして。 「できましたよ〜って、なんで胡椒まみれなんですか!?」 店を出て行く客が一人一回ずつ頭に振りかけていったからだよ、と言う気力は零にはな かった。 ※ 「それで、お金は入ったんですか?」 「ぐさっ」 食事の後のティータイム――という名の「お冷やおかわり(ウォーター・プリーズ)」 を繰り返していた零は、隣の席に座って覗き込んでくるミラのひとことに、少しばかりダ メージを受けた。 ミラが言っているのは昨夜解決した事件に関しての依頼で、魔導に傾倒したとある男の 妻から夫の調査を頼まれていたものだ。 最終的に、零は真相にたどり着きはしたものの、それは調査と言うよりも『殺害』であ り、彼は依頼主から罵詈雑言を浴びせられることになった。 人殺しだとか。 人非人だとか。 このことはマスコミに流すなだとか。 (へえへえ、そりゃあ、旦那が魔導にかぶれて娘まで生け贄にして化け物になって暴れて 警察まで出動して殲滅戦やらかしたなんてこと、世間様には言えませんな。っつーか、こ っちだって言いふらそうとは思わねえよ) さも被害者じみた様子で一方的に騒ぎ立てた依頼主の顔を思い出し、零は嫌な気分にな った。 (夫が娘を殺した証拠を得て、色々ふんだくろうとしてた人の言うことじゃないぜ……) だから、金でどうとでも出来そうな貧乏探偵を使ったのだろう。今更ながらにそうした ところに気がついた自分に、零は呆れてしまう。 零は、その悪どい夫人のギラギラした目と「零さんに必要なのはお金です。お金がない と生きていけないですよ」と注意してくるミラの紫の瞳を比べ、鼻で笑った。 「わ。失礼ですね。わたしは心配して言ってるんですよ?」 「いやいや……。まあ、とりあえず警察から金一封が出るし。とりあえず、しばらくはス ーパー通いはしなくてすみそうだよ」 「金一封くらいで生きていけるんですか?」 「今回四千万出るし」 「よん……!?」 ミラの目が、これ以上ないくらいに大きく見開かれた。ポカンとしたそれは、金額の大 きさを実感出来ていない。「凄い大金」くらいの感覚だ。 しかし、すぐに少女は表情を輝かせる。零の手を取り、ぶんぶんと上下に振るう。 「おめでとうございます! これで毎日ランチにデザートまでつけられますよ! 貧乏脱 出ですよ!」 「いや、まあ、ありがと……」 まるで自分のことのように喜んでくれるミラに、不思議と申し訳ない気持ちになって零 は実際を教えてやる。 「ええとな、ミラ。お前が思っているより、魔導って金がかかるんだよ」 「はい?」 それがどうかしたのか、というミラの顔。 零は、コートのポケットからホワイトライトニング用のマガジンを取り出した。 「これ、魔導儀式施した銀の弾丸。ヘイゼルの火薬っていうのを炸薬にしていて、弾頭に はヤフカ鳥の羽根で作ったペンで極小の魔法陣が金で描かれてる」 「?」 わけがわからないというミラに、零は具体的に告げる。 金額だ。 「これ、一発二万。マガジン一つで十五発で、三十万」 「…………」 ミラは、信じられない顔で零の手に乗せられたマガジンを見ていた。マガジンを手に取 り、何故か明かりに透かしてみようとしてみたりしながら、充分に吟味する。 ややあって、ミラは難しい顔でマガジンを零に返した。 「で、でも四千万ですよ?」 「昨日何発撃ったかも覚えてないくらいだし、その前からのツケの分もあるし、金が無く て修理に出してなかった道具も一気に直すとなると……まあ、十万くらい残りそう?」 「はあ……」 ミラは、心底感心したようだった。 「世の中、わたしの感覚じゃ追いつけない大金の世界があるんですね。でも、その世界に 零さんがいるのは嘘みたいです」 「言うなっ」 「魔導師って、資格があれば大学で先生をしたり、警察に雇ってもらえたりするじゃない ですか?」 「だ、だから言わないで……いや、マジで」 「零さんも、探偵じゃなくてそういうまっとうな職につけばいいんじゃないですか?」 まさに良い提案です、と胸の前でポンと手を合わせるミラに、零は深いため息をついて 脱力した。 「言うなって……そりゃ、俺だって色々誘われたりしたけど……ほら、夢だってあるわけ だし」 「素敵なお嫁さん」 「違うっ」 「わたしの夢ですよ」 「あ、そう」 冷静に考えればそうだよなあ、と零はさらに脱力した。やはり、自分は探偵には向いて いないのだろうか。 夢が、あるのだが。 沈黙した零を、ニコニコとミラは見守っている。それに促されるようで、零は肩をすく めて出来るだけニヒルに言った。 「難解な事件の謎を明晰な頭脳で解決し、容疑者を集め、その中で犯人を指摘する。しか し、もちろんそれは一方的な断罪じゃない。犯人には犯人なりの理由があり、その理由を 組んだ上での推理劇……」 誰も死なないうちに、事件解決。名推理。 そういうのに憧れる馬鹿が、いるのだ。 憧れて、その場のノリで探偵事務所を設立してしまった馬鹿が、いるのだ。 せっかくの祖父の遺産だったのに「馬鹿が」、と言われた気もするが、気にしない気に しない。 三流魔導探偵誕生秘話に、ミラは――。 「似合わないですよ、そういうの」 「がーん!」 純粋に、彼を殺した。 本日二度目の白紙化しようとした彼に、ミラは微笑んで言う。 「わけがわからなくても事件を追って、謎を一個解いたらまた新しい謎が出てきて……そ うやってバタバタしているうちに、誰にもたどり着けない答えにたどり着く。それで、犯 人が悪い人ならこらしめて、どうしても可愛そうな人だったら、悩んで、悩んで、きっと その人にとって最善の何かを見つけてくれる……」 深い、信頼のまなざし。 「ね?」 と彼女は小首を傾げて確認するのだ。 「そういうのの方が、零さんには似合ってると思いますよ」 「…………」 零は、答えられない。 やさしいまなざしが、妙に居心地が悪くて、熊のような巨漢に救いを求める。 「マイスンさん、お宅のウェイトレスが俺の夢にケチをつけた上にいじめるんです」 「仕事もしていないように見えるがね」 「あ」 マイスンに指摘され、ミラが「そうでした」と手を叩く。折しも、そのタイミングで来 客を告げるベルが鳴り。 「いらっしゃいませ!」 ミラの百点満点のかけ声が、店内に華を咲かせるのであった。 さすがマイスンさん、従業員の扱いは上手い。 拍手を送りたい気分で、しかし零はミラの語った言葉で覚えたくすぐったさを、もう少 し感じていたいとも思っていた。 実に平和だ。 そして、これが狩野零の日常である。 師匠と仰ぐ『熊おじさん』。 笑顔で世話を焼いてくれる『看板娘(マイ・エンジェル)』。 『行きつけの店(マイ・ホーム)』でだらりと笑って、時には真っ白に燃え尽きて。 後は、あいつがいて――。 「ん?」 そこで、零は気がついた。 今更であるが、気がついた。 とりあえず手近なマイスンに尋ねることは、 「うちの犬、知らない?」 というものであった。 3.思い出に還るもの 偉大なる魔導師『ハンティング・ロウ』の墓は、マーカーズ大学の敷地内の墓地にある。 大学にて多大な功績を残した者で、希望者のみが入る墓であったが、ハンティング・ロ ウはそのどちらをも満たしていたので、異存の入る余地はない。 文句をつけるとしたら彼の親族くらいであったが、その唯一の肉親である狩野零は、そ ういう墓だの何だのということに関しては一切興味を持たなかったので、問題外だ。 生まれは日本であるハンティング・ロウは、しかし日本人ではなかった。星条旗の下に 帰化した彼の娘、そして孫も、生粋のアメリカ人――ケイオスシティの人間だ。 大学で民俗学の教壇に立っていた狩野正がハンティング・ロウとして世にその名を轟か せたのは、ちょうど十五年前の出来事になる。 十五歳を越えるものならば、当時赤児であった者ですら『覚えて』いる、忌まわしい事 件――それとも、新時代の到来を告げた素晴らしい事件。 その中で、彼の名は災いなる者に恐怖を。弱き者たちに希望を与えたのだ。 そう、ケイオスシティの上空を埋め尽くした巨大なる『神』! 千の瞳と千の口と千の耳を持ち、千の腕と千の足を蠢かす、全知全能なる『虚神』。 虚(うつ)ろなその目は見た者全ての心に『恐怖』を刷り込ませ、屈服させた。 我々は知っている。絶対の恐怖。現在出現する化け物など眷属に過ぎないのだと笑い飛 ばすことができるほどの恐怖。 ――ああ、しかし恐怖を打ち払う存在もまた知っているのだ。 ハンティング・ロウ。 偉大なる、今をもっても最大にして最強の魔導師。 その力は『虚神』を召喚した『悪の法』の最凶なる魔導師アルカナ・ナイトたちをも一 蹴し、ついには『虚神』をあるべき世界へと還した救世主。 その名は『大魔導師(ザ・グレート)』ハンティング・ロウ! (以上、なんだかはっちゃけるほどに心酔した、狩野零の学友の書いた大学新聞より抜粋) ※ 偉大なる魔導師『ハンティング・ロウ』の墓は、マーカーズ大学の敷地内の墓地にある。 そのことをその犬はよく知っていたが、『彼女』に言わせれば墓などただの飾りに過ぎ ない。 『先代(グランドマスター)』は、そんな墓の中にはもういないのだから。 墓など、物忘れの激しい人間共が作り出した『メモ帳』みたいなものなのだから。 ――しかし。 煉瓦敷きのマーカーズ大学の敷地内を、驚くほど大きな黒犬がその四本の足で歩いてい る。少し犬に詳しい者ならば、それがこの世のどのような犬とも違う種類に属すると気が つけただろうが、だがそれを言ってもそれがどうしたと他の者は笑うだろう。 赤茶色の煉瓦で組まれた校舎を見上げる道を、黒犬は傲慢に、我がもの顔で堂々と中央 を進む。時には学生が向かいからやってくることもあったが、そうした場合は学生の方が 決まって道を譲ることになる。 そういう時、学生の顔には巨大な犬に対する恐怖はない。どちらかというと親しみを込 め、『彼女』の名を呼んで、時にはその背中を撫でていく。 「今日もお参りかい? 偉いね、ジャンヌ」 いたわってくれる白衣の教授にも、黒犬――ジャンヌは一瞥を加えるだけでワンのひと ことも返さない。 なんとも無愛想。 だが、それはハンティング・ロウが存命の頃から変わらないことだ。 ハンティングロウの最強の従者。 黒い狩人。 またの名を『黒き咆哮』。 彼女もまた、ハンティング・ロウと同様に語られるべき英雄なのだ。 やがて、花の柵に覆われた墓地にたどり着いたジャンヌは、犬の鼻には少々強すぎる花 の香りに鼻をスンスン言わせ、真っ赤な舌でその鼻の頭を一回舐めとってから足を踏み入 れた。 そこは、天国の絵に近しい花畑だ。 人工的で効率的な墓の配置はなく、ただ死者が生前好んでいた花の近くに、彼らは埋め られる。 ――ハンティング・ロウの墓は、魔導に欠かせない青い薔薇の中だ。 そこまでの道のりを一切ためらうことなく進んだ黒犬は、地面にはめ込まれた墓石に書 かれた文字を確認するように、顔を近づける。 と。 犬が、振り返った。 「よ」 「――零か」 呟いたのは、黒衣の少女。狩野零の相棒ジャンヌだ。 少女は皮肉げな苦笑を口元に浮かべ、片手で前髪をかき上げて零に問う。 「何か用か? 今日は仕事は入っていないはずだな。それとも、昨日の今日で早くもまた 魔導を引き寄せたか、『後継者(フェイク)』」 「毎週金曜はいないと思ったら、こんなところにいたのかよ。爺さんの墓、ね」 「悪いか」 「悪くねえよ」 吐き捨てるジャンヌに、肩をすくめる零。 二人は、しばし向かい合ったまま、無言で立ちつくした。 微妙に互いに困惑する。 「あれ?」 「む……」 零がいぶかしげな顔をし、ジャンヌが眉根を寄せる。 果たして、二人は同時に言う。 「で、なんだっけ?」 「何か用があったのではないのか?」 そして、同時にポカンと間抜けな表情を浮かべ。 「この馬鹿がっ。何をしに来たっ」 「う、うあ、何も考えてなかった!」 犬が主人を罵倒する、世にも珍しい場面となった。 呆れて額を押さえたジャンヌは、滅多にないため息などを漏らし、現在の飼い主から過 去の飼い主に振り返った。 口元を引きつらせ、膝を折って墓石に屈み込むと、墓の表面の埃を手で払いながら言う。 「グランドマスター。貴様の後継者はなんとも『こういう輩』だが?」 「う、すげえ居心地わりぃ……」 「祖父に挨拶でもしたらどうだ。人間であれば、な」 零を促し、身を脇に退ける。 自然、祖父の墓の前に立つことになった零は、うーむと考えてから手をシュタッと額に 当てて敬礼の形をとる。 「よ」 「……それだけか、貴様」 「別に、爺さん生きてる頃からこんなものだったし」 「…………」 さらりと言った孫に、飼い犬はさらに皮肉げな表情になる。それこそ、痛みを堪えるか のように。 「そうだったな。そうだ。何も特別なことはない。それが人間というものだったな」 「墓参りしてる奴の言うセリフか?」 「私のは、墓参りではなく確認だ」 「確認?」 「偉大なるグランドマスターがもはやこの世にはおらず、この墓というものがただの飾り でしかないことを」 青年とすれ違うと、少女はすでに黒犬の姿で、首だけを彼に向けていた。そして、彼を 強く睨みつけると、後は何も言わずに走り去る。 その黒い姿を見送って、零はボソリと呟いた。 「そういうのも、墓参りって言うんじゃないか? なあ、爺さん」 墓は答えない。 孫もそれ以上は言わない。 ただ、祖父の好きだったドーナツを一つ墓の前に置くと、袋に残った大量のドーナツを 一つずつ口に運びながら、彼も去っていく。 後には、死者を収めた墓だけが残される。 それを静かな光景と見るか、グロテスクな光景と見るかは、人それぞれなのだろう。 ※ 二人の主のもとを去った黒犬は、大学を出ると古き町並のノーリッチ地区から彼女の住 まいのあるニューガリバー地区へと足を向ける。 背後から主が追ってくる気配も無い。 (ふん、小僧が) 人間のための歩道を我が物顔に歩きながら、ジャンヌは心の中で現在の主人である青年 に毒づいた。大学の中でとは別の意味で人々は彼女を避け、道路の脇を歩く。それに、黒 犬は視線を鋭くする。 (零。貴様も、こうすればいい。恐れれば避け、恐れれば逃げ、恐れれば従えばいい。そ れを──馬鹿がっ) グルルルルと唸りながら進む狂犬に近づきたがる者などいるはずもない。皆が遠巻きに 彼女を迂回し、散歩途中の犬は尻尾を巻いて震えて動けなくなる。 恐怖に対し、生き物はなんとも賢い判断をするものなのだ。 (だからこそ馬鹿なのだ、アレは) ジャンヌが苛立っているのは、昨夜の零の行動に関してである。ジャンヌは、零が探偵 という生業を越えて厄介ごとに首を突っ込みたがるその性質を、激しく嫌悪している。 仕事は仕事。ならば、それを果たすのは悪いことではない。 しかし、その職分を越えたもの──それも恐怖、危険、触れてはいけない、そういうも のに対し、あろうことか、あろうことか、だ。 (関係の無い者が危害にさらされるのが嫌だから、だと!?) 別に、誰かを守るのが悪いことだとは思わない。 身近な誰かのために身を張るのは、人として例外的な行動ではない。むしろ当然と言わ れるべき行動だ。 だがあれはどうか。 関係の無い──そう、自分に関係の無い人々であると、奴自身が認めているではないか。 どこかふざけた態度だった。 余裕を失っていなかった。 だから、それほど危険ではないような雰囲気を作ってたが、そんなことはない。 あれは、生き残れたのは紙一重の運でしかない。 (ムールが最初から狙いを貴様だけにつけていれば、一分も経たずに貴様は死んでいたぞ) 相手の力のわからない男ではないはずだ。 何せ、『偉大なる』彼女の初めのマスターの血を継き、愛弟子であり、彼女は未熟と言 うが充分に天才に位置する魔導の使い手なのだから。 心は逃げようとしていたはずだ。怖気づいていたはずだ。 理性は認めていたはずだ。逃げなければと。 なのに、なのにあの男は──! (『正義感』を優先した!) 憤りが爆発し、思わず真正面でビビって動けなくなっていた犬の横っ面を前足で打ち払 う。 ギャッと悲鳴を上げた犬が車道まで吹き飛び、ブレーキ音と肉が弾かれる鈍い音が響い た。 (恐怖を『正義感』で抑え込んだ……強い男とは言えるが、あれは賢い男ではない) 背後で騒ぎが起こっていたが、ジャンヌは完全に無視。犬を殴りつけた前足を数回路面 に叩きつけると、また彼女は歩き出す。 ザザーっと人波が割れた。 (子供の頃から、いつもアレは『ああ』だ) そう、子供の頃。 赤児の頃。 生まれた時から、彼女は彼を知っている。 彼女がグランドマスターの『従者』となり、もう十数年も経った頃に生まれた、主の血 を継ぐ孫。 今は亡きグランドマスターの娘の胸に抱かれた彼を見た時は、胸を高鳴らせたものだ。 ──ようやくなのか。 ──ようやく私は彼にたどり着いたのか。 ──自然ならざる魔導によってこそ成り立つ再会の時が来たのか。 だというのに。 (『はずれ』だ、アレはっ!) ガァ! ジャンヌが吠え、通りがかった保育園のお散歩集団がいっせいに泣き出した。それに対 し、ジャンヌはうるさいとばかりに睨みつけて吠える。 ワン! その一括で、園児たちの泣き声は止まる。 というか、ひきつけを起こして倒れる園児が続出し、保母たちが慌てて携帯電話で救急 車を呼ぶ。 もちろんジャンヌは責任を取る気などさらさらなく、あわただしい人間どもを残して歩 を進める。 やがてたどり着くのは、民家の中にポツンと存在する山吹色の喫茶店。 『狐の尻尾』だ。 カランカラーンと鐘を鳴らして店内に入った黒犬は、店主が振り返った時には黒いドレ スの少女となってそこに立っている。 「いらっしゃい」 旧知の店主に声をかけられるが、黙殺。 黙ってレジの前に立った彼女は、店主から新聞紙で包装された、彼女には一抱えもある 塊を受け取って店を出る。 ──いつも通り、この店には従業員が店長しかいない。 零に聞くところによると、たいそう人気のウェイトレスがいるそうなのだが、ジャンヌ はそのウェイトレスを見たことがない。 よほど間が悪いのだろう。 そういえば、そのウェイトレスは、店主のマイスンが──こちらは聞きたくもないのに 教えてくれたことによると──零に気があるらしい。 哀れな女だ、とジャンヌは思う。 ジャンヌが彼に苛立つ理由が、その少女を哀れと思う理由にもなる。 (『長生きできない』……零は) 彼は、危険から逃げない。 彼は、どうでもいい『正義感』にこだわる。 どうして彼がそう『正義感』にこだわるようになったかの原因の一部は彼の祖父にある のだが……大人になってもその子供じみた見栄を持ち続けているのは零自身の責任だ。 『正義感』で、毎回危険に飛び込めば、いつかは死ぬ。 そうでなくても、怪我を重ね、故障を重ね、まともな身体ではいられなくなるだろう。 『正義感』で戦って。 次に何かあれば、また『正義感』で戦って。 また次に何かあれば──。 『正義感』とは、一度でも逃げてしまえば、成り立たなくなるものだ。 一度でも逃げてしまえば、『正義』ではいられなくなる。 逃げず、見過ごさず、心の正義のままに。 (無限地獄だ。人の情というものが生んだ、魔物の与える苦痛よりも酷い『英雄幻想(ヒ ロイック・ファンタジー)』だ。折れず、違えず、ただ真っ直ぐなだけの、英雄という名 の馬鹿。強迫観念に追われる地獄の戦鬼) その道に零はいる。 誰も傷つかない名推理──そんなものに憧れて商売始めるような馬鹿が、その道にいる。 『彼に死なれては困る』というのに。 「…………」 喫茶店の外を回って、二階に上がる。 三つしかない鍵の一つを使って扉を開け、包装された荷物の新聞紙を引きちぎる。 ドス、と重い音を立てて床に転がったのは、生肉の塊、羊肉の塊だ。 ぺロリ、と少女は自分の唇を桃色の下で潤す。 ──羊肉を見れば、思い出す。 彼との思い出。 愛した彼を。 愛してくれた彼を。 「……グランドマスター。私は、約束をたがえません。グランドマスターの子孫に確かに 彼が生まれ変わるのならば、私はその血統を守り続けます。零はそうではないけれど、零 が子を作り、その子が子を作り、いつか私の愛する人が戻ってくるまで──」 ──守り続けますから。 ──従い続けますから。 ──無茶な生き方をする零を、彼の意にそわないでも危険から遠ざけますから。 ──ああ、だから……。 「だから……せめて少しでも早く、あの人に会わせてください……」 ──『偉大なる』グランドマスター、どうか、私の願いを叶えください。 ひざまずき、四つん這いになって顔を羊肉に近づけ、少女は祈った。 幾度と無く墓に向かい、約束の大魔導を施行してくれた大恩あるグランドマスターがそ こにはいないことを確認し、だからこそ理解して魔物である彼女は彼が『いる』場所に向 かって祈りを捧げる。 「どうか、どうか……」 ──『天』へ。 そうして祈りを終えてから、彼女は羊肉にかぶりつく。 美しい顔を肉塊に押しつけ、両手も使わずに不器用に咀嚼する。 懐かしい味に。 ──少しだけ、涙を流した。 結 夜が来ると、人は素直になる。 また、一人になると、人は素直になる。 昼に素直になれないことは、悲しいことだ。 また、他人といる時に素直になれないことは、悲しいことだ。 だけれど。 魔物が、夜だけ素直になることは幸いである。 魔物が他人といる時でも素直であることは禍いである。 それは、悲しいことだ。 人と魔物は、かくも違うのだから。 「零」 三流魔導探偵の足元で、彼の犬が囁いた。ケイオスシティの警察署から出てすぐのこと だ。 駅前に当たるバーガニッツ通りの歩道を歩いていた零は、人の往来する雑踏の中での囁 きにいぶかしげに下を見る。 「なんだよ……こんな場所でしゃべるなよ」 「つけられてるぞ」 「はあ」 生返事。 緊迫感の無いそれに、ジャンヌがグルルと喉を鳴らして苛立った。 「貴様、真面目にならんか」 「だってなあ……今は金も持ってないし、取られて困るもんないしなあ。でも、全額口座 振込みとは、警察もケチくさい。今夜は久しぶりに百ドル分くらい喰って豪遊したかった んだがなあ」 「貴様に倹約という概念が無いのは今に始まったことではないが、いいのか?」 「何が?」 あまりにしつこいジャンヌに、零はようやく背後の空間に気を止め始めた。雑踏の中、 確かに自分に視線を向ける者が一人──二人、三人、四人? 「おや?」 「言っておくが、多いぞ、かなり」 そのひとことが引き金になった。 視線の主がいっせいに懐からナイフを、スタンガンを、拳銃を、取り出した。 「はあ!?」 それは、『周囲の人間全て』。 仕事帰りの中年や、駅に向かう学生、その他女子供からあらゆる全て。 百人あまりの視線に同時にさらされ、零はコートのポケットに手を突っ込んだまま絶句 した。 「零、脇目もふらず走れ!」 「りょぉぉかいぃ!」 真夜中の鬼ごっこが始まる。 ※ それを見つめるのは、一際高いビルの上に立つ四対の瞳。 闇にまぎれる、四人の男女。 ある者は楽しそうに。 ある者は不満そうに。 ある者は興味なさそうに。 ある者は感情すら読み取れず。 四者四様の魔人たちの視線の先で、青年が二丁の拳銃を抜き放つ。 それを見てギリと歯の根を軋ませる男は、先ほどからの不満をついに言葉にした。 「もう我慢できん。オレは行くぞ。殺す。殺す殺す殺す殺す!」 「ブラガ!」 楽しそうに眺めていた女が制止したが、止まらずに男は裸の上半身の盛り上がった筋肉 をメキリとさらに膨張させ、叫ぶ。 「『超人化(アクセラレーター)』──展開(アクセル)!」 二十階建てのビルの屋上から飛び降りる。ゴウ、と巨体が空気を揺るがし、その身体が 倍近くまで膨れ上がる。肉が、骨が、全てが異常な速度で成長し、四メートル近い巨躯の 背中、肩の辺りから大きなコブが伸びる。 瞬く間に形成されるもう一対の腕。 四本腕の魔人が、遥か眼下の『鬼ごっこ』へと舞い降りる。 あちゃー、と呟いたのは翠を基調としたチャイナ服──腿へのスリットもきわどい、身 体のラインのくっきりと浮かぶそれを見事に着こなした美女だ。 手にした扇を閉じて唇に当て、チラリと横の二人を見る。 「──で、筋肉おバカは行きましたけれど、残りのお二人はどうなさります? ヴァレリ ーさんは?」 「我が剣を向けるに値するとは思えぬ」 「でしょうね。なら、我らが盟主さまは?」 「好きにさせろ。『百腕鬼(ヘカトンケイレス)』が始末すれば良し。もし後れをとるよ うであれば、その時にはヴァレリー。お前の出番だ。不服はあるまい?」 「御意」 言葉遣いほどに歳を重ねていない、二十にもようやくなるかどうかの青年の言葉に、三 十歳前後の男が胸に手を当てる礼をもって応えた。 ふうん、とそれを横目で見た女は、次の瞬間にはケラケラと笑い出した。 「ブラガが死のうと知ったこっちゃない、ですわね。ええ、そうでしょう。できれば、そ の後にヴァレリーさんも後れをとってくだされば、私的には大満足なのですけれど」 浮かべるのは、少女のようにあどけない、楽しそうな笑み。 「さあ、零さん。大魔導師の孫。せいぜい私を楽しませてくださいな。私の『虚神』が起 きるまで。『虚神』を、あなたの血で起こすまで。最後の一滴までその血が滴り落ちるま で」 ケラケラと、笑い続ける。 「あなたは、その最後まで、いったい何回私をイカせてくれるのかしら」 ※ 夜は人を素直にする。 人は夜に魔物になるのだ。 その少女は、魔人たちとは別の場所から青年を見つめていた。 ──異様。 肘までを覆う革の手袋。 革のニーソックス。 それに宙に浮いている肌に触れない漆黒のマントを身につけ、一つ眼の描かれた目隠し をしている。 ──他は何も身につけておらず、胸から秘部まで全てさらけだしている。 そう、まるで、サバトの夜の魔女のように。 「うふ、ふ、ふふふふふふ」 魔女は笑っていた。 真っ赤な唇を明らかな笑みの形にし、自分のささやかな胸のふくらみに押しつけるよう に手を当てて、爪あとが残るくらいに握りこむ。 「ふ、うふふ、ふふふ、う、ふ、ふふふふふふ」 狂人のごとき姿で、少女は笑う。 人はそれを見れば恐れるだろう。人はそれを見て人とは思わないだろう。 それは虚ろな笑い 笑っているのに笑っていない。 楽しくて笑っているわけではない。 ──人なら笑う時に、笑ってみただけ。 ただ、それだけの笑い。 少女の形をした『虚ろ』が、そこには存在しているのみであった。 『虚ろ』が。 「──アレフ……ゼロ!」 青年の名を、呼んだ。 かくして、今夜もケイオスシティの夜は騒然と盛り上がる──。 終