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 初雪娘



                 序


 芙柚(ふゆ)は、どんよりと曇った夜空を見上げていた。
 電柱の上、複雑に絡み合う電線の迷路を見下ろせる高みから見える空は、驚くほど近い。
夜で、さらに分厚い雲であることが遠近感を狂わせるのか、まさに今日の夜空は手が届き
そうと表現できるものだ。
 そのような夜だけに、月明かり一つない。
 分厚い雲の上には明るい月が存在しているのだろうが、地上の者にそれをうかがうすべ
はない。あったとしても、人は無理に月の淡い光を求めることはないだろう。地上は電気
の明かりに満ち、生活する上ですでに月の光は必要不可欠のものではなくなっている。
 だから、このような夜でも、芙柚の姿を見分けることは不可能ではなかった。
 人がその姿を見れば、何と思うだろう。
 電柱の上に危なげなく立つ、和服姿の女──否、少女。
 整った女物の着物ではなく、時代劇の浪人が着るような、ラフな代物だ。
 黒い髪は短く、しかし顔の左右の一房ずつだけが長く伸び、冬の鋭く速い風になびいて
いる。
 時代錯誤であり、異様であり、それでも冷たい瞳が印象的な、美しい少女である。
 と、一際強い風が芙柚の和服をはためかせた。長く白い足が露わになるが、芙柚は気に
しない。むしろ、鋭い目をさらに細めて、黒い雲の塊を見据える。
「寒太郎、報告ご苦労。今日はもう休むが良い。あの子が、自分の望んだ場所に降り注げ
るように。少し早い初雪が、どこか別の土地に飛んでいってしまわないように」
「承知」
 ひゅん、とつむじ風が芙柚に返事をした。
 芙柚はそれに驚きもせず、やや硬質さを感じさせる表情の中、口元だけを笑みの形に動
かした。
「来るが良い、初雪の娘。私は、今年もお前を歓迎しよう。この土地の、冬を司る者とし
て」
 それが合図だったのか。
 月の見えない夜、一粒の白いものが空から舞い降りた。
 否、一つ、二つ、と時間と共にそれは数を増し、翌朝までにはその街は白い雪で覆われ
ていたのである。





                 1


 今年の初雪は、驚くほど早い時期であり、また驚くほど積もるものであった。
 十二月も半ばを過ぎた十九日のこと、もしかしたらそれは「今年の初雪」と言うのでは
なく、「今回の冬の初雪」と言うべきかもしれない。
 ともあれ、雪国でもないこの街で雪が積もることは珍しく、またそれが思いがけず早い
時期であったことは、地元の子供たちにとっては嬉しい誤算である。前日あれほど曇って
いた空が嘘のように晴れ上がり、冬のどこか薄く清い青の空には、最近忘れていた暖かな
太陽が輝いている。そのような天気であれば、学校へと向かう子供たちがはしゃぎ回らな
い方がおかしいのだ。
「あはははは!」
 今も、笑い声を上げた子供たちが長靴をばたばたさせて、雪に埋もれたアスファルトの
上を走っていた。車が通った後の、アスファルトが顔を出した場所を歩けば良いものを、
わざわざ道路の端の、誰も踏んでいない雪を選んで走っていくのは、やはりそれに特別な
価値を認めているのか。
 新雪を踏んで、蹴って、丸めては投げる。
 雪遊びが出来るほど積もることなど、一年にほんの数日しかない土地では、それはまさ
に貴重な体験だと言えた。
 そんな楽しげな子供たちを眺める、白い和服姿の少女がいたことに、子供たちは気づか
ない。
「みんな、楽しそうですねー」
 少女は、どこかの誰かが作ったのだろう雪だるまの頭の上に座っていた。道端にあるに
しては立派な、モップの腕や、バケツの帽子まで被った一人前の雪だるまだ。そのバケツ
の上に腰を下ろせばバランス云々以前に、重さで雪だるまが崩れそうなものだが、その雪
だるまは平然として少女の重みを受け止めていた。
 否、少女の重みが無いのかもしれない。
 不自然なそれを思わせるほどに、不自然な格好をした少女であった。
 まず、髪はボリュームのある黒髪で、肩を過ぎた辺りから白い布で棒のように一つに束
ねられ、腰まで垂れている。
 純和風の、目鼻立ちの小さな造作をしているが、その瞳は黒なのに角度によっては金色
の輝きを見せる不思議なもの。
 新雪のような色合いの和服は、振り袖に似ているが、明らかに振り袖とは違うラフな、
カットの多いものだ。身体は服の生地でしっかりと締め、それでいて肩や腿などのよく動
く部分の布は大幅に削られた、少々冬に見るには寒々しい格好だ。
 雪だるまに座ってぶらぶらと揺れる爪先も素足の、まるで雪の精のような少女である。
 と。
「楽しいのだろう。思いがけぬ、初雪の娘よ」
「あ、冬さん?」
 つむじ風と共に雪だるまの前に現れた、十五、六歳──同じ年齢ほどの少女に、雪だる
ま上の少女はパッと顔を明るくした。
 その呼びかけに対して、新たな少女はひとこと。
「芙柚」
「芙柚さん……ですね。今年も冬のお仕事、ご苦労様です」
「同じくご苦労だな、初雪の娘。少々早いが、今年も何も憶えていないか?」
「もちろん!」
 自信満々に、少女は応えるのである。
 芙柚は、小さくため息をついて、高い位置にいる少女に言った。
「初雪の娘。お前は数多の雪の精の中でも、この街の初雪として生まれてくるものだ。毎
年、初雪としてこの街に降り注ぎ、初雪の終わりと共に眠りにつく。融けて消える雪ゆえ
に、全ての記憶と姿を無くし、毎年新しい心と姿を持ってこの街に帰ってくる」
「さ、さすがにそれくらいは基本記憶として持ってますよ。傷つくなあ……」
「お前は毎年基本記憶を無くすような娘だから、一応だ」
「う、わたしってそういう子なんですね……」
 憶えていない、過去の自分に情けない顔をする少女だ。そんな少女に、芙柚は微かに目
もとを優しいものにする。
「今年は去年よりはしっかりしているようだな。毎年お前には苦労させられる。とても初
雪が降るはずもないこの時期に降ってくれたりだとか……な」
「え? だって、今は一月……」
「十二月だ」
「十一ヶ月遅かった!?」
「一ヶ月早いんだ」
 芙柚は真面目に訂正した。
 少女は、愕然としたようである。
「は、早い……それって『今年』になっていないじゃないですか」
「『今回』ではあるから、私は別に構わない。暦の上で去年今年が分かたれようと、私は
どちらにも跨いで『冬』なのだから──」
 その語尾が途切れた。
 少女が不思議に思うと、芙柚は足跡一つ残さずに、雪の上を跳ねた。茶色の和服の裾が
ひるがえり、軽々と近くの家の屋根の上に着地する。
「芙柚さん?」
「嫌な者が来た。お前も気をつけることだ」
「え? え?」
「随分な嫌われようだな、芙柚」
 瞬間、雪の上を滑るように紅い炎が奔った。炎は芙柚がいた場所を薙ぎ、少女の髪を熱
風で舞上げた。
「あ、熱ー!?」
 人間なら何でもない熱風で、思い切り悲鳴を上げた少女は、まるで火の粉を消すかのよ
うに前髪を叩く。否、実際そこはチリチリと焦げていた。
「悪い」
「な、なんですかいきなり!」
 抗議の声を上げると、少女は詫びを入れた青年を見た。青年──ブレザーの制服を着て
いるからには、高校生、つまりは少年だろうか。少年臭さの無い、大人びた容貌の少年だ。
やや目つきが悪いかもしれない。
 悪い、という台詞を皮肉げな口元で言う辺りが、その性格を表しているように少女には
思われた。
「い、いきなり火なんて……火?」
 はたと少女は気がついて、まじまじと少年を見た。少年は右手に細い木の枝を持ってい
る。その木の枝が、燃えている。それはよい。だが、燃えているはずの木の枝自体はまっ
たく炭化する兆しもなく、木の枝の形を保っているのだ。
「木の枝が……燃えているんじゃなく、火を出している?」
「檜(ひのき)だから、火くらい出るさ」
 ニヤリと、何でも無いことのように笑い、少年は少女ではなく屋根の上の芙柚を見た。
 何やら二人の間に火花が散ったように、少女には感じられる。
「今年も冬が来たな。俺に会いたかったか」
 と、少年が口元を歪めた、タチの悪い表情で言えば、
「別にお前に会いに来たわけではない。私は巡るもの。私は必ずここに来るもの」
 と、芙柚は冷たい瞳で少年を見下ろす。
「もう私につきまとうな」
「こちらも家業なんでな」
 少年が木の枝をヒュンと横に一閃する。すると、一気に炎が燃え盛り、剣のように伸び
る。
 芙柚が、その瞳を凍てつかせる。すると、周囲の空気が比喩ではなく凍りつき、キラキ
ラと輝くダイヤモンドダストが漂い始める。
「我、魔を滅する者──藤堂耕治、参る」
「人ならぬ者を認めぬ、古き愚か者の末裔が」
 緊迫無比。
 まさに少年が一歩踏み出そうとした時だ。
「やめてください!」
「ぐあっ!?」
 少年の頭に、大量の雪がなだれ落ちてきた。
 いきなり空間から現れたそれに、少年は押し潰されて雪積もる道に倒れる。
 が。
「お前……邪魔をするなっ」
「け、喧嘩はいけませんよ。特に火はいけません!」
 雪の中から這い出た少年が睨むと、少女は雪だるまの上に立って真っ青な顔で言ってい
た。しかし、少年はすぐに屋根の上に視線を向ける。
「……逃げられたか」
 そこには、すでに芙柚の姿は無かった。
 ブスッと不機嫌な顔になった少年に、少女は言う。
「いきなり攻撃するなんて、どういうことなんですか。芙柚さんは冬の精……芙柚さんが
いなくなったら、冬がまともに機能しなくなってしまうんですよ」
「知ったことか。魔を狩るか、自分の家に従わせるのが、先祖代々の仕事なんだ」
 ちっ、と舌打ちして、少年──藤堂耕治は身体についた粉雪を払った。チラリと手の枝
を見ると、雪ですっかり炎は消えてしまっている。
 少女も、耕治に武器が無くなったのを知り、幾分表情を和らげた。
「家業……他の理由は無いんですね。わたしたち精が、それが役目だからと自然を司るの
と同じように」
「まあな」
 サバサバとした少年である。
 ふと、少女は気になって尋ねた。
「魔を狩る……って言っていましたけど、わたしには攻撃的じゃないですね」
「小物に用はない」
「ひどーい!」
 いきなり侮辱されてしまった今年の初雪である。あまりにもな台詞なので、雪だるまを
飛び降りて、少年に詰め寄った。
「初雪は、大切なんですよ。雪はたくさん降っても、初雪は最初の一回なんです。毎年、
一回しかないんですよ! 次の雪の精が降りてくるために、初雪は絶対降らないといけな
いんですからっ」
「あー、わかったわかった。それくらい俺も知っている。こっちは爺さんの爺さんのその
また爺さんの時代から、お前らのことを研究しているんだからな」
「なら、訂正を求めます。わたしは小物なんかじゃありません。大切な、初雪です!」
 先程までの少女ではない。
 強く、自分の誇りを主張する。
 それは、自分の存在意義だからだ。
 自分の存在意義を、小物扱いされたくはない。
 それで笑っていられるような、そんな恥知らずではない。
「わたしたち精には自分の役目以上のものは無く、わたしたちは自分の役目がこの世に並
ぶもの無い、貴いものであることを理解しているんですから!」
 その剣幕は、瞳は、まさに初雪のような汚れ無きもの。
 真っ白に、打算もなく、己の心のみで言葉を向ける。
 それに対し、耕治は唇を歪めた。
「へえ」
 意地悪な笑み。
「なら、お前を小物とは言わない。そして、小物でないなら、俺の獲物になるわけだ。そ
の覚悟はあるな?」
「覚悟なんて関係ありません。これは決定事項です。わたしは小物じゃない。小物の精な
んていない。そのことを──」
 叩きつける。
「わかりなさい。『あなたが』!」
 馬鹿は自分ではないのだと。
 馬鹿はお前なのだと。
 真っ正面から、少女は告げた。
 強い言葉を受けた耕治は、目を細め、そこに危険な光を宿した。攻撃的な、短絡的な光
だ。
 そして、少年は腕を動かした。
 短絡的に。
「はははははっ。生まれたばかりにしては大したもんだ。改めて名乗るぞ。俺の名前は藤
堂耕治。お前の名前は?」
 少女の頭を撫でて爆笑したのである。
 目をぱちくりさせた少女は、耕治の笑いに圧倒されるように、呆気にとられるままに口
にしてしまった。
「白雪」
 しらゆき、と。





                 2


「耕治さんは、毎年こんなことをしているんですか?」
 白い和服の少女──白雪が耕治の後をついて来て尋ねたのは、そんなことだ。
 ヒュン、と炎をまとわせた木の枝で、半透明の気体状のものを切り裂いた耕治は、白く
弾む息を口から出しながら振り向いた。
「家業だからな」
 言いつつ、腕をしならせるように、力ではなく速さを主眼においた動きで枝を振る。木
の枝を振り回している姿は、はた目には滑稽かもしれないが、そこから吹き出ている炎が
見えている白雪には剣呑極まりない姿である。
 また、半透明のものが切り裂かれた。
 初雪の精である白雪には、それが何であるかわかる。
 雪牙と呼ばれる禍物だ。雪の災害の象徴とでも言おうか、それに噛まれると雪の上で転
んだりするという、それこそ小物の魔物である。
 人間には見えないだろうその禍物を、耕治は精すら焼き尽くす炎を持って、いとも簡単
に焼滅させる。
「いくら弱点だからって、火は酷いと思うんですよ」
「なら、もっと効率の良い方法を教えてくれ」
 同じ雪に属する者として白雪が言っても、耕治はどこ吹く風だ。
 むう、と白雪は頬を膨らませるが、炎を操る耕治の近くに寄ることは出来ない。
「それに、雪牙を処理するのは『冬』のお仕事です。雪牙は、わたしたち雪の精に便乗し
て街に降りてくる禍物なんですよ」
「何度も言うが、俺もそのくらい知っている。だが『冬』も雪牙の処理に手が回っていな
いのが現実だ」
「どうしてですか?」
「『冬』を俺の一族が殺しすぎたからな。自動車のスリップ事故が増えたのは、おそらく
俺の一族のせいだな」
 サラリと、とんでもないことを言い出す少年だ。まったく悪びれる様子がないこととい
い、先程芙柚に剣を向けたことといい、白雪でなくても呆れたくなる少年だ。
 思わず、言いたくもなる。
「なら、芙柚さんに何かするのをやめればいいじゃないですか。状況が悪くなるのはわか
っているんですから」
「そうもいかない。家業だからな」
「呆れました……」
 白雪はため息を一つ。
 笑って頭を撫でてくれた時は「実は良い人なのかも」と思ったが、結局無差別殺人──
否、無差別殺精者には違いないのだ。
「……ここの通りはもういいな。この辺りは小学校が多いのに、車の通りも多い。一匹で
も雪牙を逃せば、子供が危険だからな……次の通りに行く」
 独り言のようにそっぽを向いたまま言う。
 一瞬、何のことかわからなかったが、それが自分に対する説明だとわかって、白雪は自
分の答えを返した。
「わたしもついて行きます。どうせ暇ですし、少しはお手伝いしますよ。芙柚さんには毎
年お世話になっているみたいですし」
 雪牙を減らすのは、芙柚さんのお手伝いになりますね、と。
 大股で歩く耕治のはためくコートを追いかけ、白雪は雪に足跡を残さずに小走りに駆け
た。
 道路は、すでに昼も近いということもあって、雪が融けだしている。朝に子供たちが登
校したために、雪にはかなり泥がつき、少々綺麗とは言い難い状況だ。
「この融けかけが一番転びやすいんですよね」
「転びやすい状況にしているのは、初雪のお前だろう」
「そうなんですけどね」
 クスクスと笑う。
 今ここに精として姿を現しているが、言うなれば今街を覆い尽くしている雪は全て白雪
である。どこで何が起きているかもわかるし、その気になれば消えて好きな場所に現れる
ことも出来る。
「わたしたちが見える人は貴重ですし、暇つぶしにつき合ってくださいね」
「なら、炎には近寄らないことだ」
「もちろんです」
 白雪はもちろん、耕治の炎の剣も、普通の人間に視覚することは出来ない。端から見れ
ば、耕治は一人で雪の街を闊歩する少年である。
 ふと耕治の格好を思い出して、白雪は尋ねる。
「学校はいいの?」
「家業だ」
 どうやら、優先順位があるらしい。
 話していると、耕治が駆け出した。白雪もすぐに気づく。雪牙が、今にも雪遊びをする
子供に覆い被さろうとしていた。
 雪の上を、耕治が苦もなく走り抜ける。
「斬……っ」
 まさに一閃。
 雪だるまを作る子供の頭の上を掠るようにして振られた炎の剣が、『もや』のような雪
牙の断末魔を生んだ。
「やった!」
 白雪が感嘆の声を上げた。
 対照的な悲鳴が上がったのは直後だ。
「え?」
 追いついた白雪が見る中、飛び出してきた女性が、子供を抱えて座り込んだ。一つ二つ
耕治に対する非難がその口から放たれ、耕治はペコリと頭を下げてその場を去っていった。
「え? え?」
 軽やかに耕治に並ぶと、白雪は疑問を口にした。
「どういうことですか?」
「いきなり子供に向けて木の枝を持って襲いかかる奴がいれば、驚くだろう」
 さも当たり前のように耕治が言った。
 ああ、そうかな、と白雪は納得しかけ、
「で、でも……耕治さんは、あの子を助けたんですよね?」
「まあ、雪の上で転ぶのを防ぐ程度にはな」
 関心無さそうに耕治は応える。
 白雪は、まだ不可解な顔だ。
「お礼を言われてもいいのに……」
「見えない奴に何を言っても無駄だ。それに、俺がやっているのは金にも礼にもならない
家業だからな」
 どうやら、耕治は本当に気にしていないらしい。おそらく、よくあることなのだろう。
「うーん……」
 それでも、白雪は首を傾げてしまうのだが。

                 ※

 それからの耕治の『家業』は、白雪が顔をしかめるようなものばかりであった。
 老人が道を歩いていれば、雪牙を切り伏せて罵倒される。
 集団下校する子供たちを雪牙が狙っていたので、その集団の中に飛び込んで、引率の大
人たちに怒られる。
 極めつけは、同級生と思わしき学生たちに「よ、雪男。今年もがんばれよ」などと、雪
牙と戦っている真っ最中に言われたこと。
 すっかり日も落ちた頃に白雪が口に出来たことと言えば、
「な、なんなんですかこれは!」
 というものだ。
 とにかく、白雪が許せないのは、耕治が──彼の家の自業自得とはいえ──『冬』を助
けて雪牙を退治しているというのに、被害を免れた人々が耕治の行動に悪口をぶつけてく
ることである。
「なんなんですか、あの奇人変人を見るような目はっ!?」
「傷つくようなことを言うな」
 ボソリと耕治が言うが、白雪は取り合わない。
「良いことには良いことが返らないとおかしいじゃないですか。耕治さんは家業……働い
ているんですから、何かしらのお礼があっても良いと思いますよ」
「たまにそうは思うけどな、俺が俺のような奴を見たら、俺は危ない奴だと思うぞ」
「ただ、雪の中で真面目に木の枝を振り回しているだけじゃないですか」
 かなり危ない人間である。
 酷い言われようだが、耕治は肩をすくめるだけだ。否、そこから唇を歪めて言うのが、
彼の性格の悪さだろう。
「まあ、見えない奴らからすれば、雪牙なんか関係ないからな。転ぶのは自分の間抜けだ
し、交通事故は交通事故だ。俺がこうしてお前と話しているのも、俺が幻でも見ているヤ
バイ奴だということで説明されるしな」
 意地悪に。
「いや、もしかしたら、本気で俺は幻を見ているのか? 昔から家業とか言われて、爺さ
んに昔話を聴かされていたからな。その気になって存在しないものを見ているのかもな」
「な、な、な……なんてことを! わたしはここにいますよっ。あ、目を逸らさないでく
ださい。い、います。ここにいるんですから!」
 うーん、と考え込むようにして先に行ってしまう耕治の周りを、白雪は必死になって回
る。自分の存在を知らしめるように、手をバタバタと動かす白雪がおかしくて、耕治がプ
ッと吹き出すに至り、自分がからかわれていることを理解した白雪は顔を真っ青にした。
「ひ、酷い……」
「真っ赤になるんじゃなくて、真っ青になるんだな」
「……雪ですから」
 熱くはならないのである。
 ともあれ、からかわれた白雪は頬を膨らませて拗ねた。誇り高い初雪の精は、少々子供
臭い性格である。
「それで、今日はこれからどうするんですかっ」
 声を荒げて尋ねると、耕治が応える。
「家に帰って寝るんだよ。今日は一日出ずっぱりだったからな」
「なるほど。では、家の前でお別れですね」
「そうだな」
 一分。
「……家に泊まっていけとか言えないんですか? わたしは家も何も無いんですよ? 芙
柚さんの家に厄介になりたいんですけど、気配がありませんし……」
「別に泊まりたければ泊まればどうだ? 死ぬかもしれないぞ」
「え?」
 その意味は、ごく普通の一軒家である藤堂家の玄関に入った瞬間に理解された。
「あっっっっっっっっつーい!」
 暖房が強烈に効いた家屋内であったのだ。
 そうして、白雪がほうほうのていで逃げ出した玄関に、奧の襖を開けて顔を見せたのは、
ポニーテールの少女である。
「お兄ちゃん、誰か来てた?」
「ああ、初雪の精が熱いと言って逃げていった」
 その答えに、妹は思いきり嫌そうな顔をした。
「お兄ちゃん。毎年思うんだけど、冬になると変だよ。お爺ちゃんの影響受けすぎ。今日
も道端で変なことしてたんでしょ? お母さん、泣いてたわよ」
「悪いって言っておいてくれ」
「自分で言いなよ」
 唇が尖る。
 その方がいいでしょ、と。
 だが、耕治は皮肉げに言う。
「俺がよくても、あの人はよいと思わないさ。変人の息子なんか、顔も見たくないそうだ
からな」
「お兄ちゃんっ」
 鋭く、妹が叱責する勢いで言う。
 耕治は、二階への階段に足をかけ、妹を見下ろして言った。
「俺は面と向かって言われたぞ。お母さんが悪いなら言って、ってな。だから、真名」
「……なに」
「お前は、俺に同情するなよ。お前は、母さん好みの普通の子供でいてやれ」
「馬鹿っ」
 ニヤリと笑い、耕治は二階へと昇ってしまう。それを見送った真名は、唇を噛みしめて、
玄関に視線を向けた。
 そこには、玄関の扉をわずかに開けて中を覗き見る、白雪の姿があった。
「やだ……お兄ちゃん、ちゃんと閉めないんだから」
 ぶつぶつ呟き、真名は扉を閉める。
 そして、誰にも聞こえない声で言った。
「私は、見えない。聞こえない。この家で変なのはお兄ちゃんだけなの。この家が変なわ
けじゃないの。だから、お母さんやお父さんが気にすることないのよ。お兄ちゃんはお爺
ちゃんっ子で、だからそうなっちゃったって、お爺ちゃんの責任にすれば、生きている誰
の責任にもならないんだから」
 でも、と。
「それじゃ、お兄ちゃんばかりが……」
 それ以上は、声にならなかった。

                 ※

 二階にある自分の部屋に入った耕治は、家の中で唯一暖房の入っていない場所で、ベッ
ドに身を投げ出していた。
 窓すら開け放たれた部屋は、寒い。
 一日雪の中を駆け回り、すっかり湿気を帯びた制服も、身体に染み込むような悪寒を彼
に与えていた。
 それでも、窓を閉めない。
 服も替えない。
 ただ、この冷たさを味わう。
 どれだけの時間が過ぎたのか。
「風邪をひくぞ」
 窓縁に、茶色い和服の少女──芙柚が腰掛けていた。
 その事実に笑った耕治は、寝転がったまま言う。
「俺の爺さんは、窓を開けっ放しの部屋で寝ていて死んだ。他殺じゃないのかって、近所
は騒いだもんだがな。まあ、冬に窓を開けっ放しにするのは、爺さんの習慣だったんだ」
「知っている」
「爺さんを殺したのは、お前か?」
「今年も訊くのだな、お前は」
「慣習ってやつだ」
 その言葉通り、耕治は答えを知っていた。だから、笑っていられたのだ。初めて訊いた
時など、とても笑える状況ではなかったのだが。
 果たして、芙柚は応える。
「お前の祖父を殺したのは、もう一人の『冬』だ。かつては幾人もの『冬』が、交替で様
様な冬を生みだしていたものを……今では私一人が、毎年同じ様な冬を生みだしている」
「俺の一族のせいか?」
「そうだ」
 芙柚の声は冷たい。
 寝転がる耕治を、温かみの欠片もない瞳で見る。明かりのない部屋の中、星を背景に従
え窓縁に座る芙柚は、美しいと同時に恐ろしい少女であった。
「お前の一族は、私の仲間を次々と減らしてくれた。『冬』の持つ、冷たき魔性のみに着
眼し、我らを魔だと言い切った。愚かな、神狩りの一族」
「まあ、その一族も、もう俺くらいしか実働部隊はいないんだが。変人扱いだしな」
「お笑いだな」
「ああ、お笑いだ」
 静かに、二人は笑みを浮かべた。
 自嘲気味の、遺された者同士の笑みを。
「それはそうと、白雪が外で座っていたぞ」
「なに?」
「あの子は私にとって特別な子だ。無体に扱えば、許さないと思え」
 最後にそれだけを言い、芙柚は窓縁を蹴って隣の家の屋根に飛び乗った。そして、すぐ
に見えなくなってしまう。
 一人残された耕治は、口だけの笑みを浮かべて、ベッドから上半身を起こす。
「特別な子、か」
 玄関を出た耕治は、いつの間にやら出来ていた雪だるまに目を止め、その大きさに呆れ
た。さらに、その横に白雪が膝を抱えて座っているとなれば、製作者が誰かもわかるとい
うものだ。
「あれ、どうしたんですか? すっかり寝ているものかと思っていました」
「腹が減っているんじゃないかと思ってな」
 耕治が盆の上に載せてきたのは、真名作のカレーライスだ。湯気を立てるそれを前に、
白雪は無言になる。
「どうした?」
「……湯気が出るほど温かいものを、わたしにどうしろと言うんですか」
「食え」
「融けてしまいますっ」
「ちっ。退治失敗か」
「ひ、酷い。優しさのふりをした悪意だったんですね!」
 うるうると瞳を潤ませる白雪に、耕治は肩をすくめる。
 そして、少女の前に盆を置いた。
「熱いのが駄目なら、冷めてから食べろ」
 クルリと背を向ける耕治に、慌てて白雪は言う。
「あ……ありがとうございます」
「一応、泊めると言ったからな。食事くらい出すさ」
 ぶっきらぼうな、関心無さそうなそのもの言いが、耕治独特のしゃべり方なのだと理解
した白雪は、胸が温かくなるような思いと共に、言った。
「本当に、ありがとございます。お礼を言われなくても人を助けたり、耕治さんはいい人
ですよ」
 胸の温かさで、少しくらいは融けてもよいかな、と考えながら。





                 3


 白雪が耕治と行動を共にするようになって三日も経つと、白雪に耕治の周辺事情という
ものがわかってきた。
 耕治が雪牙を倒す度に聞こえる陰口が、彼女の情報源だ。
「耕治さんは、子供の頃からずっとこうしたことを続けていたんですね。色々言われて、
辛くはなかったんですか?」
「別に」
 耕治はそっけない。
 だが、そっけないから本当にそうというわけではない、ということを理解できる程度に
は、白雪も耕治のことがわかってきた。
「本当にそうですか? 本当に? 本当に?」
 しつこくまとわりつくと、根負けした耕治が語り出すのだ。
「小さな頃は、木の枝を振り回していても誰も笑わなかった。子供のすることだからな。
中学の頃から、結構変人扱いされるようになったな。さすがに、そういう時は嫌にもなっ
た。だが、まあ、家業だからな」
 結局、家業という点に落ち着くのである。
 それが腑に落ちない白雪がさらにまとわりつくと、耕治は追加で言う。
「それに、誰か一人でも礼を言ってくれれば、やる気になれた。単純だったからな」
「わあ、お礼を言ってくれる人がいたんですね! 嬉しかったですか?」
「……嬉しかった、な」
 その時、耕治がくすぐったそうな、白雪が初めて見る表情を浮かべた。
 ドキ、と白雪の胸が跳ねた。
「なんです?」
 なんでしょう、今の表情は、と。
 何やら、ムカッと来ると共に好奇心も膨らんで、不思議な気持ちで白雪は耕治を覗き込
んだ。
 しかし、耕治はいつも通りの皮肉げな口元で言うのみだ。
「その一回の礼のせいで、俺は調子に乗って、人生失敗街道を突っ走ったわけだ。今考え
ると、あれは良かったというより、悪かった出来事だな」
「……わけもわからずムカッと来ますし、好奇心を刺激してくれる嬉しげな話でもありつ
つ、ひねくれたもの言いをしますね」
「なんだそれは」
「なんでしょう?」
 はあ、と白雪は胸を撫でて自分を落ち着かせた。
 深呼吸。
「耕治さんとはまるで以前からのお知り合いのようです。わたしは初雪ですから、そうし
た記憶はあるはずがないんですけどね」
 その台詞に、耕治は足を止めて白雪を見下ろした。
 は? という顔になった白雪は、耕治がまじまじと自分を見ていることに、顔を青白く
させた。
「そ、そんなに見ないでください……」
「ナンパなら、北風小僧にでもしたらどうだ。去年何かの氷に告白してフラれて、傷心ら
しいぞ」
「ナンパの常套句じゃありません!」
 気恥ずかしさもどこに行ったのか、白雪は頬を膨らませて怒鳴った。その様子に、耕治
は笑って少女の頭をバシバシと叩く。
 人間の手は初雪には少し熱くて、髪の毛が少し融けそうになったが、白雪は逃げない。
 心地良い。
 しかし、ふと思うのだ。
(女扱いされていませんよね……)
 少し、不満だ。
(別に特別に女の子として意識しろとかではなく、いえ、そうならそれで嬉しいですけど、
この明らかに幼児に対する扱いは違うと思います。わたしは一人前の初雪の精なんですか
ら!)
 さしあたって白雪が取った行動は、道行き同年代の少女の格好を真似ることである。
 それも、通学路を中心にした耕治の行動範囲のため、同年代の少女の、制服姿を。
 いきなり服を替えた白雪に、耕治は少しだけ目を見張った。
「どうした? 熱くないか?」
「言うに事欠いて、そういうことを言いますか……」
 落ち込みそうになった白雪は、頬を膨らませながらも全身が見えるように一回転した。
どうですか、と。
「時代のTPOに合わせて見ました。これで、どこから見ても現代っ子ですね」
「まあな」
 そっけない。
 似合っているくらい言ってもらいたい白雪である。
 だから、まとわりつく。
「どうですか? この服装どうですか?」
 そうすれば、耕治は答えてくれるのだ。
「前の格好の方が似合っていたんじゃないか?」
「う……」
 本音は嬉しいこととは限らないが。

                 ※

 芙柚は、屋根から屋根を跳躍して移動していた。
 人ならざる精ならではの速度で、迫る雪牙から逃げていた。
 それは、雪牙としてはあまりに大きな、『もや』が十数メートルにも及ぶ禍物だ。大雪
牙とでも言うべきものだろう。
 大雪牙は、同じ精を相手にとする時にだけ具現化させる巨大な牙を芙柚に向ける。そこ
に毒のぬらりとした照りを見て取った芙柚は、舌打ちして、前進しながら空中で背後を振
り返った。
「凍れ!」
 言葉がそのまま力となり、巻き起こったダイヤモンドダストの渦が大雪牙を呑み込む。
 が、大雪牙は蜥蜴の尻尾切りのように、自分の一部を犠牲にして凍らせ、その本体を氷
漬けから逃れさせた。盾になった前面だけが凍り、残った部分が真正面から芙柚に襲いか
かる。
「しま……っ」
 牙が、芙柚の左腕を肩口から噛み切った。
 表現しがたい音が芙柚の鼓膜に響き、冬の精は悲鳴を上げて落下した。
 白雪の上に、鮮血が散った。

                 ※

 白雪が、雪──自分の上に落ちた芙柚のもとに辿り着いたのはすぐだ。瞬間的に移動し
てきた白雪は、芙柚の怪我に息を飲み、すぐにその傷口に雪を当てた。熱を持っていた傷
口が雪に触れてジュッと音を立て、芙柚が呻き声と共にまぶたを上げる。
「白雪か……すまない、不覚を取った」
「ふ、芙柚さんがこんな目にあうなんて……相手は雪牙でしょう?」
「少しは、知恵の回るものもいる。一匹で適わぬなら集団でという、な」
 その、集団が一つになった大雪牙が、芙柚を追って屋根の上から移動してくる。すでに
こちらに抵抗する力が無いと見ての、緩やかな動きだ。
「来ます……ね。で、でも大丈夫ですよ。すぐに耕治さんも来ますし……って、あああ、
耕治さんは芙柚さんを狙っているんでした!」
「……そうだな」
 芙柚は、動転する白雪を横に、痛みを堪えて立ち上がった。震える足を叱咤し、残った
右手を大雪牙に向ける。
 その時だ。
「どけっ」
 怒声と共に、耕治がその場に駆け込んできた。
「耕治さ──」
「斬!」
 白雪が声を上げる間もない、即座の一閃。状況確認も無しの、まさに不意打ちも不意打
ちなその一撃に、大雪牙は蜥蜴の尻尾切りを行う間も無く焼き尽くされた。
 場が状況に追いつけないほどの、早技だ。
「こ、耕治さん、凄いです! で、でも芙柚さんに酷いことをしたら──」
「芙柚!」
 白雪の感嘆は、耕治の剣幕にかき消された。
 耕治は、白雪を無視して芙柚の傷口を見て、顔をしかめた。その顔に、芙柚が安心させ
るように言う。
「……大丈夫だ。数時間もすれば、治る」
「そうか……」
 心底、耕治はホッとした顔になった。
 その、あまりに無防備な表情に、白雪は驚いた。
 そして、気づく。
 耕治が無関心そうに、当たり前そうに言うことは、あまり信用できない。ならば、芙柚
を狩る云々も、信用できないのかもしれない。
 そう考えると、白雪は笑いたくなった。実際にクスクスと笑い出した白雪に、耕治は訝
しげな顔になる。
「なんだ?」
「だって、耕治さん、芙柚さんのことを狩るとか言っていたのに、実際には心配している
んですもの。あはは、わたしたちの長を救っていただいて、ありがとうございます」
 ペコリ、とニコニコ顔で頭を下げる白雪に、耕治は憮然とした顔でそっぽを向いた。
 そして、彼がそっぽを向いていたため。
「……ありがとう、耕治」
 静かに、深みのある声で芙柚がそう言った時に、耕治が見せた照れたような顔を、白雪
が目にすることはなかった。





                 4


 四日目になると、白雪は自分の心に芽生えた淡い感情について、自分なりの解釈をする
ようになっていた。
「うーん……」
「どうしたんだい、初雪の」
「あ、寒太郎さん」
 ひゅん、とつむじ風が、雪だるまの上に座る白雪の前で巻き上がった。それは一人の少
年の姿になる。北風の精、寒太郎だ。
 人生の大先輩に、白雪は相談することにした。
「何か、こう、耕治さんのことを考えると胸がぎゅーっとなったり、融けちゃいそうにな
るんだけど、熱いってわけじゃなくて、ほんわーって温かい感じなんです」
 支離滅裂であるが、赤裸々な告白でもあった。
 雪に跡を残さない下駄を履いた寒太郎は、ふむふむと頬を染めて頷き、青春だねえ、と
呟いた。
「俺たちは冬に属する精だが、青い春の恋をしちゃあいけねぇってわけじゃあねぇ。ここ
は一つ、その幸せ者の野郎に、自分の気持ちをスパンとぶつけちまったらどうだ? 俺は
失敗したけどよ、初雪のならきっと大丈夫よ」
 へへ、と寒太郎はつむじ風に姿を変えて去っていった。
「なるほど、思い切って言ってしまうのが一番なんですね」
 なかなか参考になったようだ。
 耕治が雪牙狩りを始めるのは、朝の登校時間──彼らが狙う人間が動き始める時間から
なので、白雪はそれまでの時間を藤堂家の前で待つことにしていた。
 今日は、待ちながら、少し考えてみる。
「好きです! 真っ正面から、これですね。わたしには雪が融けるまでしか時間が残って
いないのですし、直球勝負です」
 初雪の精は、その辺り決断が早かった。
 やがて、時間が来て玄関から耕治が姿を見せる。よし、と決意を固めた白雪は耕治のも
とへ向かい、
「おはようございます」
「おはよう」
「今日はどちらへ向かいますか?」
「昨日と同じだ」
「では、行きましょう」
 当たり障りのない会話しかできなかった。
 そのようなものである。
(な、なんでです? 練習だと簡単じゃないですか。そうです、わたしには時間が無いん
ですから、早く言わないと……)
 二人が歩く道も、すでに雪は道路端に残るのみとなっている。泥のついた、汚い雪。子
供たちも、すでにそれから興味を失ったのか、真っ直ぐに学校に向かっている。
 意を決して、白雪は足を止めた。
 が。
 耕治は足を止めなかった。
「こ、耕治さん、普通は一人が足を止めたら、何かと思って足を止めるものじゃないです
か!?」
「……お前が勝手に俺について来ているだけだろう」
 まったくもってその通りなのだが、少し面白くない白雪である。ともあれ、彼の足を止
めることには成功した。
 では、次である。
「あ、あの……あの……あの……あの……あの……って、一人で行かないでくださいー!」
「家業がある」
「せめて一分、時間をください」
「一分な」
 白雪、深呼吸。吸う、吐く、吸う、吐く、吐く。
「苦しいです……」
「二回吐けばな」
 相当緊張しているらしい。
 とにかく。
「耕治さん、わたしは──」
「一分だ」
「もうちょっと待ってくれてもいいじゃないですかぁ……」
 そろそろ半べそ状態になっている白雪だ。
 えぐえぐと制服姿の袖で目元を拭う白雪に、耕治は呆れるやらわけがわからないやらで、
結局首を傾げることしか出来なかった。
「言いたいことがあれば言えばいいし、どうでもいいなら、俺は行くぞ」
「言いたいこと、あります!」
 強く、白雪は言った。
 反射的に伸ばした手が耕治の手を掴み、その熱さに白雪は顔をしかめた。もちろん、凍
りそうな冷たさに耕治も顔をしかめた。
「放せ」
「嫌です……わたしも我慢しますから、耕治さんも我慢してください」
 すがりつくような姿で、半べその情けない顔で、吐き出すようにして白雪は叫んだ。
「わたしは耕治さんが好きです!」
 告白というよりも、ただの悲鳴だった。
 格好悪い、無様な告白だ。
 白雪ですら、したことに後悔するような、最低の告白だ。
 それでも、告白には違いない。
 白雪は好きだと伝えたのだから。
 残り少ない時間で、伝えたのだから。
 答えて欲しい、と手の中の、耕治の熱さを逃がさないようにしながら白雪はギュッと目
を瞑った。
 その答えは。
「ありがとう」
 信じられないくらい優しい、耕治の声だった。
 嬉しくなって、白雪は閉じていた目を開けた。両手で耕治の手を握り締め、子犬のよう
に、耕治の顔を見上げる。
 耕治は、力の抜けた笑みを浮かべていた。皮肉げではない、本当の笑みだ。まるで、仮
面を脱いだようで、白雪は喜びに有頂天になった。
 もしかして、耕治さんもわたしのことを好きだったんでしょうか。
 わたしのように言い出せなくて、困っていたんでしょうか。
 わたしが想いを伝えたから、耕治さんも嬉しくて笑ってくれているんでしょうか。
 耕治は、期待を向ける白雪の目を真っ直ぐに見下ろして答える。
「俺もお前のことが特別だよ。……というか、何度もこうして言われれば、そういう気に
なってくるだけなのかもしれないが」
「何度も?」
「まあな」
 微笑ましいものを見るような笑顔は、そこまで。
 いきなり皮肉げな笑いを浮かべた耕治は、半ば凍傷になっている手を白雪から取り戻し、
無事な方の手で撫でた。
「お前は憶えていないかもしれないが、俺は去年もその前も、お前にこうして好きだと言
われたぜ」
「ほ、本当ですか!?」
 白雪は動揺した。
 過去のことはわからないが、その白雪は性格も姿も違っていたはずだ。過去の白雪は耕
治に受け入れられたのだろうか。そして、受け入れられていたのなら、今度の違う自分は
どうなのだろうか。
 そんなことをグルグル考え始めた白雪に、耕治は肩をすくめて背を向けた。
「その時どう答えたかは、秘密だ。だから、今はお前に言うぞ。──さっさと行くぞ」
「え? え?」
 いきなり歩き出してしまった耕治に、さらに白雪はわけがわからなくなった。
 いきなりが多すぎて、しかしとりあえず一つずつ片づけていく。
「行くぞ、ですか」
 口の中で反芻し、白雪は照れた笑みを浮かべた。
「ここからは、勝手について行っているわけじゃ、なくなるんですね」
 初雪の娘は、アスファルトの上を小走りに駆けていくのだった。

                 ※

 その様子を屋根の上で見ていた芙柚は、雲一つない空と、照りつける太陽を見上げ、し
ばし思考するかのように動きを止めた。
 動きの再開は、唇からだ。
「寒太郎」
「は、ここに」
 つむじ風が応えるのに、芙柚は尋ねる。
「もし、私が雪を降らせたら、どうする?」
「それは……」
 つむじ風に、冬の総括たる芙柚に逆らうことは出来ない。だが、今の芙柚は明らかに尋
ねていた。
「あの娘のためだけに、今年だけ少々早い雪を降らせてしまっても、良いだろうか?」
「それは、正しい冬の営みからは、外れるんじゃねぇでしょうか」
「……そうだな」
 馬鹿なことを、と芙柚は唇を固く結んだ。
 冷たい表情が、微かに揺らいだ。
「私の我が儘で、まるで冬の精がいないような異常気象を起こすわけにはいかないな」
「困りますねぇ。あの、神狩りですか。自分たちが何をしているのかもわかっていない、
愚か者たち」
「いや、自分たちが何をしているかは、彼らもわかっている。自分たちの過ちにも、気づ
いている」
「詳しいですねぇ。さすがは、冬の精」
「そうか?」
 芙柚は、静かに歩を進めて、屋根の縁から隣の家の屋根へと移動した。
 チラリと道を歩く耕治たちを見て、呟く。
「そんなことばかりに詳しくなった、困った冬の精かもしれないぞ」

                 ※

「お弁当を作りましょう!」
 恋人宣言をした白雪の提案は、そのようなものだった。
 今日も今日とて雪牙の相手をしていた耕治は、その数が明らかに減っていることに眉根
を寄せた。
「雪が、無くなって来ているのか……」
「耕治さん、お弁当を作りましょう!」
「ああ」
 覗き込んできた白雪を、サラリと流す。
 白雪は、少し傷ついた。
「酷い……恋人宣言をした途端にこんな扱いを受けるなんて……」
「あー、わかったわかった。弁当だな」
 地面に『の』の字を書き始めた白雪の姿に、耕治はどうでもよさそうに応えた。それで
も白雪が不満そうに上目遣いなので、
「食べたいな」
「任せてください!」
 棒読みに対し、白雪はドンと胸を叩いて請け負った。
 その姿が陽光に揺らいでいることに気がついているのは、耕治だけではないはずだ。
 それでも、白雪は満面の笑顔を浮かべる。
(だって、せっかく恋人になれたのですし、残り少ない時間だからこそ、精一杯やらない
と)
 きゃ、と白雪は頬に手を当てて悶えた。
「駄目ですよ、耕治さん。わたし融けちゃいますから、抱き締めたりは駄目です! ここ
は愛妻弁当で我慢してくださいね!」
「時間が無いとわかってるなら、さっさとしろ」
 とことん、耕治はそういう人間であった。
 そうして二人が向かったのは、藤堂家である。
 まず耕治が家に入り、誰もいないことを確認する。両親は共働きであるし、妹の真名は
学校に行っている。
 暖房も全てスイッチを切り、窓を開けて、服を着ていても寒気を覚える状態にする。そ
こまでして、白雪にとっては適温ということになる。
「では、ここはわたしの料理の腕前を披露します」
「ああ」
「まずは、キーンと冷えるかき氷」
「やめろ」
「では、冷たくて美味しいアイスキャンディ」
「やめろ」
「それなら、芸術性爆発、氷の熊の彫り物。徐々に舐めて融かしてください」
「絶対に作るな」
「耕治さん、我が儘です」
「お前は確実に俺を殺そうとしているだろう」
 そんなこと無いのに、と白雪はエプロンの裾をはためかせてよよよと泣き崩れた。
「媚びるな」
「では仕方ありません。氷のお皿の上に、お刺身が。いつまでもひんやりと美味しく食べ
られます」
「それで頼む」
「では耕治さん、お刺身を注文してきてください」
「お前帰れ」
「こんなに、こんなに一生懸命なのにー!」
 白雪は膝を抱えて拗ねた。
 頬を膨らませ、そりゃあ、と呟く。
「どうせわたしは火を使えないから、寒い日に好まれる熱々の料理なんか作れませんよ。
基本記憶の中にお料理なんか無いんですから、どれもここ数日で本で読んだものですし、
どうせ実践は出来ませんよ。いいじゃないですか、お刺身くらい注文しても。わたしなん
か、初日に熱いカレーを出されたんですよ」
「……それに関しては謝る」
「なら、お刺身……」
「注文すればいいんだろう、注文すれば」
 何か、性格が変わってきたな、と耕治は肩をすくめて電話に向かった。
 すると。
「さむー!」
 真名が、玄関で叫んでいた。
 学校指定のコートを着込んだ優等生の真名は、玄関前の電話に手を伸ばしている兄の姿
に、まなじりを吊り上げた。
「お兄ちゃん、家の中をこんなに寒くして……またあの女を連れ込んでいるんじゃないで
しょうね!?」
「お前、今日は早いな」
 妹の剣幕を無視し、耕治は目を細めて尋ねた。真名は、相変わらずの兄の反応に唇を噛
みしめる。
「今日から学校は冬休みよ。お兄ちゃんの学校だって一緒でしょ」
「行ってない」
「行きなさい!」
「昼、刺身でいいか」
「うん……って、そうじゃなく! 私は、お兄ちゃんが魔を滅する仕事をしていても構わ
ないけど、今しかできない学生生活も、私のお兄ちゃんとしての生活も、してもらいたい
のよ!」
「はい、そのセット、三人前でお願いします」
「聞いてないしっ」
「着替えてこい。お前は自分の部屋で食べろ。母さんが帰ってきた時、三人前の刺身の前
に二人じゃ、怪しまれる」
 一方的に言いつけてくる兄に、真名は拳を握り締めた。こういう言い方をする時、兄は
とてつもなく自分が傷つくことを言うのだ。
「俺だけなら、二人前の刺身を前にして、もう一人いるんだ、くらい言っても怪しまれな
いからな」
 皮肉げな笑み。
 泣きたくなって、真名はわざと音を立てて階段を昇った。
「馬鹿っ」
 その騒ぎは、台所の白雪にも聞こえていた。ある程度耕治のことを知り、妹がいるらし
いことも知っていた白雪は、固い表情で耕治を迎えた。
「今の……妹さんですよね。どういうことですか、お母さんがって……」
「刺身なら、すぐ来るぞ。近所の、美味いところだ」
「どういう、ことなんですか?」
 本当に知りたい質問は、必ず繰り返す。そうしないと、耕治は答えてくれないからだ。
 真剣な白雪の瞳に、耕治は口を開きかけ、しかし肩をすくめて結局何も言わなかった。
(本当に、この人は秘密主義ですね)
 ズケズケと言うかと思いきや、その実大切なことは言わない。
 悪びれていても芙柚にも優しいし、我が儘を言う白雪にも、最終的にはつき合ってくれ
ている。
(もしかして、この性格のせいで、かなり損をしていませんか?)
 この人は、自分が傷つくことで、丸く収める人なのかもしれません。
 だからこそ、その傷をなんとか出来ないかと、白雪は思ってしまう。
「……そういうのも、好き、なのかもしれません」
「なに?」
「その人が傷つくのが嫌だと思うのは、好きという気持ちなのかもしれません。耕治さん
のことを考えると、融けそうなくらい胸がほんわかします。そのほんわかが、わたしは好
きというものだと思っていました。だけど、もしかしたら、耕治さんが傷つくと思って胸
が痛くなるこれも……好き、なのかもしれません」
 照れることなく、胸の痛みを押さえるように手を当てて、白雪は耕治を見る。
 真っ直ぐなそれに、耕治は静かに頷いた。
「そう、思う」
 と。
「そいつが傷ついたら嫌だと思うのは、そいつのことが好きな証拠だと、思う」
 耕治の方は、少し照れた。
 照れて、笑った。
「ありがとう」
 その礼がくすぐったくて、白雪は、はにかんだ。
 残り少しの時間でこんなに幸せな気持ちになれるなんて、自分はなんて幸せなんだろう
と。
(このまま融けちゃってもいいかも……)
 そう思えるくらいに、彼女は幸せだったのだ。





                 5


 五日目には、家の前の雪だるまが融けてなくなった。
「結構立派だったのに、もったいないわね」
 呟いたのは真名で、耕治は何も言わなかった。白雪も何も言わなかった。
 陽射しがきついと白雪が言うので、耕治は日傘を買ってきて白雪に与えた。一応、白雪
が持てばそれは普通の人間には見えなくなるらしい。
 だが、日傘を買っても別に外に出ることもなかった。
「今日は、いいんですか?」
「もう雪牙も出ない」
 その通りで、人が転ぶような雪は、もう無いのだ。空は曇り気味だが、一両日中には、
街の全ての雪が融けるだろう。
 だから、白雪は耕治の部屋の縁に腰掛けて微笑んでいた。
「わざわざ陽に当たるな」
「でも、せっかく日傘を買っていただいたんですし。わたし、他に何ももらっていないで
すから」
 意地悪っぽい言葉も、それなりに出る。
 耕治は、窓縁で日傘をさす白雪を、ベッドに腰掛けて眺めていた。時折口を開きかけ、
しかし閉じる耕治を、白雪は不思議そうに見ている。
「なんですか?」
「いや」
 さらにしばらくの時間が経ち、日が落ちかけた頃になって、耕治は口を開いた。
「どこか、行きたい場所はあるか?」
 パッと顔を輝かせた白雪は、即座に言った。
「ディズニーランド」
「電車に乗ったら、お前死ぬぞ」
「ハワイ」
「俺も行ったことがない」
「南極」
「全体的に遠い」
「わかってますよ、彼氏を焦らす、というやつです」
 おそらく違う。
 白雪は得意そうに言った後、クスリと笑って次のように告げた。
「そうですね、やっぱり、二人が最初に逢った場所……なんてどうですか?」
「今度は近いな」
「わたし、他に場所なんて知りませんから」
「なら、行くか」
「はい!」
 手を差し伸べられ、白雪は嬉しそうにその手を取った。
 ジュッ、と音がするほどに、熱い。
(だけど、これは耕治さんも同じくらい冷たいんですよね……)
 そう考えれば、我慢する気にもなれる。
 きっと、好きじゃないと、我慢できない痛みだから。

                 ※

「去年のわたしは、どんなふうに耕治さんと一緒にいたんですか? もしかして、フラれ
ちゃったりしました?」
「さあな」
「教えてくれたっていいじゃないですか」
「知ってどうする」
「参考にします」
「何の」
「この後、去年のわたしがしていることをしておかないと、わたしが損じゃないですか」
 冗談めかし、白雪は夜のアスファルトの上を歩いた。夜だというのに日傘をさしたその
姿は滑稽だが、可愛らしくもあった。日傘にブレザーの制服姿という、違和感はあったが。
「それにしても、わたしも損な娘ですね。こんなに早く降らなければ、次の雪、次の雪っ
て降り積もって、わたしも他の雪の精と一緒にこの冬の終わりまでいられたかもしれなか
ったのに」
「そうだな。去年のお前も、そうだった」
「そうなんですか?」
 複雑な顔になる。
「わたし、本当に損な……好きな人と、こんな短い時間しか一緒にいられないんですから。
あ、でも」
 白雪は良いことを思いついた、というふうにクルリと回転した。
「もしかしたら、少しでも早く耕治さんに会いたいから、こんなに早く降ってきてしまっ
たのかもしれませんよ。責任、取ってくださいね」
「ああ」
「あ、素直ですね」
「責任は、取る」
 妙に真面目に耕治が頷いたので、白雪はむしろ慌ててしまった。
「嘘です、嘘! わたしがドジなのがいけないんですよ。耕治さんは気にしないでくださ
い。本当に、ドジで、損な娘なんです」
 えへへ、と白雪は笑った。
 これでこの話は終わりにしましょう、と。
 責任なんか、傷なんか、自ら負って欲しくないのだ。
「耕治さんは、初めて逢った時くらいに明るい人の方が、いいですよ」
「明るかったか?」
 耕治が尋ねると、白雪は頷いた。
「芙柚さんに、俺に会いたかったか、とか言っていましたよ」
「あれは、慣習のようなものだ。俺の爺さんが冬の精相手に言っていたから、マネだ」
「そうなんですか?」
 耕治が吹き出すように笑い始めたので、白雪は畳みかけるように訊いた。笑っていて、
欲しいのだ。
 ああ、と耕治は語り出す。
「俺の前の魔を狩る者は爺さんだった。母さんは爺さんや俺みたいに『見える』方じゃな
かったから、一気に俺まで飛んだんだな。そのせいか、母さんは昔から俺を胡散臭そうに
見ているんだ。冬の精が見えるだなんて言う、気味の悪い子供ってな」
 まあ、と肩をすくめる。
「見えないんだから、それも仕方ない。他の人間だって見えていないんだ。親だから見え
ろ、理解しろって言うのは、我が儘だ。むしろ、母さんが俺や妹みたいに『見える』方で、
下手に俺のこと庇う方が怖い」
 あの妹は、貧乏くじを引いているんだ、と耕治は呟いた。
「俺のことを無視して、普通に暮らせばいいのに」
「……それは、妹さんも、耕治さんに対して思っていることだと、思います」
 耕治が見ると、白雪は途方に暮れた顔になっていた。
 笑ってもらうための会話で、まさか、耕治にいつもの皮肉げな笑いをさせてしまうなん
て。
 だが、耕治は皮肉げでも、しっかりと言う。
「そう思われても、俺はもう戻れない。母さんは真名が普通なら納得するだろうから、俺
は爺さんがそうしたように、家業を続けるだけだ」
 どうして、と白雪は思った。
 どうして、そこにこだわるのだろう。
「どうして家業にこだわるんですか!?」
「終わりにしたら、終わるからだよ」
 遠回しな言い方。
 説明を求める白雪の表情に、耕治は懐から小さな檜の枝を取り出した。
「爺さんたちが続けてきたものを、俺が勝手にやめていいわけがない。俺は、この家業が
辛いことをわかっている。辛くて、だけど爺さんは死ぬまでこの家業をやめなかった。そ
れくらいの意地は、俺も見せないと駄目だ」
 可愛がってくれたのは、爺さんだけだったしな、と。
 耕治が鋭い視線を向けた先──白雪が彼と出逢った場所。
 そこには、芙柚が佇んでいた。
「芙柚さん?」
「異常気象はさすがに駄目だったが、これくらいは良いだろう」
 芙柚が示したのは、白雪が腰掛けていた雪だるまだ。バケツを頭に乗せたそれは、まだ
白く、そして大きな姿を保っていた。
「わあ……」
「無理をさせた分、朝までには融けてしまうが……喜んでもらえたか?」
「はい!」
 白雪の笑顔に、芙柚は口元だけの笑みを浮かべた。冷たい表情の中で、どこか満足げな
動きだ。
「では、私は──」
「待てよ」
 跳び去ろうとした芙柚を呼び止めたのは、耕治だ。耕治は、木の枝を一振りして炎の剣
を生み出すと、手で白雪を下がらせて自分は前に出た。
 剣呑な雰囲気に、芙柚が視線をスッと細めた。
「私を狩るか」
「家業だからな。傷は、治ったか?」
「無論」
「だ、駄目ですよ。なんでいきなり喧嘩になるんですか!?」
 白雪が尋ねれば、
「家業だ」
「私は、それにつき合わされているだけだ」
 硬質な二つの声がぶつかり、双方が同時に動いた。
 鮮血を散らしたのは、耕治の剣を持つ右腕であった。
「ちぃっ」
「もう駄目です!」
 舌打ちした耕治が、背後に回った芙柚に向かうために振り返った時、二人の間に白雪が
飛び込んだ。
 思わず白雪を焼きそうになった炎を、耕治が慌てて消失させる。
「芙柚さん、お願いです。行ってください!」
「……白雪に、感謝するが良い」
 恐らく、自分を脅かす相手を倒す絶好の機会を、芙柚はそう言って見逃した。軽い跳躍
で屋根に乗り、駆けていく。
 それを見送って、白雪は耕治に振り返った。
「なんてことを……なんてことをするんですか! 芙柚さんとは仲が良かったんじゃない
んですか? あの雪牙からも、芙柚さんを助けたじゃないですかっ」
「別に、あいつを助けたわけじゃない。俺は魔を狩る者として、あの雪牙を滅ぼした。そ
れだけだ。それに、別に俺は芙柚が嫌いだから戦うわけでもない。家業だからだ」
 当たり前のように耕治は言った。
 その当たり前の台詞が、あまりに納得できなくて。
 知らず、白雪は耕治の身体に腕を回していた。
「お前!?」
 舞い上がる白煙。まさに、身が焼かれるような熱さに、白雪は悲鳴を上げそうになった。
 しかし、放さない。
「放せ、お前……大丈夫か!?」
「放しません!」
 痛い痛い痛い。
 身体全体で痛い。
 なのに、どうしてこの人は痛いと言わないんでしょうか。
 わたしと同じくらい痛いはずなのに、私に大丈夫かと、そう言うのでしょうか。
「耕治さんは、優しい人です」
 だけど、と。
「だけど、悲しい人です」
 この痛みを、わたしがつれていくから。
「もう、やめてしまいましょう。耕治さんは、凄いじゃないですか。こんな痛みに堪えて
いるじゃないですか。お爺さんも、怒ったりしません。だから、もうやめましょう。嫌い
でもない芙柚さんと戦う必要なんて、どこにもないんですから……っ」
 最後は、悲鳴に紛れた。
 白雪の力が弛んだ隙に、無理矢理彼女を引き剥がした耕治は、白雪の服が焼け焦げてい
ることに顔をしかめた。
「無茶をするな」
「あはは……これくらいはしないと。せっかく恋人なんですし……」
 弱々しく笑い、白雪はふらつきながらも自分の足で立っていた。耕治が手を貸そうにも、
触れれば痛みを与えるだけでは、それもできない。
「本当に……」
 と白雪は微笑んだ。
「わたしは、耕治さんを好きになれて、恋人になれて、こんなふうに、あなたの痛みも知
れて……」
 なんて、幸せなんでしょう。
「だけど、思うんです。耕治さんにも、幸せになってもらいたいって。わたしばかりが幸
せなんだって」
 もう時間がない。
 時間がないから。
「恋人として、わたしは、耕治さんに何かをしてあげたいと──」
 白雪が言いかけた時だ。
「耕治?」
 声に、耕治は弾かれるように振り返った。白雪も目を見開く。家を出るのを何度か見た
ことがあるその女性は、耕治の母親だ。
 母親は、耕治の凍りついた服を見て眉根を寄せて吐き捨てる。
「あなたは、こんなところで何をしているの? またおかしなことでもしているの? そ
んな女の子まで連れだして」
「あ!」
 白雪が、息を飲んだ。
 白雪は近くの学校の制服姿。確かに、耕治の学友のようにも見える。
 しかし。
 白雪は──。
「母さん……」
 呆然と、耕治は訝しげな母親の顔を見た。
「あんたは……見える、のか?」
「!」
 今度は、母親が息を飲む番だった。

                 ※

 芙柚は、屋根から屋根を移動している途中、ついに堪えられなくなって足を滑らせた。
 だん、と屋根の上で転び、そのまま転がって地面に落ちた芙柚は、血にまみれた自分の
右手を見て、口を押さえた。
「う……っ」
 庭先の植え込みに、吐く。
 物を食べる習慣の無い芙柚には吐くものなど無いが、胃のむかつきは胃液を吐いても収
まらなかった。
「こんな……」
 べっとりと、口を押さえたために顔までを血に濡らし、芙柚は自分の震える手を見つめ
た。
「傷つけたくないものを自分で傷つけただけで、この始末か……」
 大きな達成感と同時に、してはいけないことをしてしまった喪失感。
 近くに冬に属する精の気配がないことを確認し、芙柚は和服の袖に顔を埋め、その場に
うずくまった。
「これで良い……これで良い……私は間違っていない……これで良い……っ」
「何してんの、あんた」
「!?」
 思いがけない声に、芙柚は驚いて顔を上げた。すると、そこには彼女を見下ろしている
ポニーテールの少女がいた。
「真名!?」
「人の家の庭に凄い音をして落下しておいて、何よ。間抜けな泥棒かと思えば、冬の精さ
ま? 珍しいことをしてたけど、何かあったの?」
「いや……」
 ふう、と芙柚は息をついて立ち上がった。すでに、その顔は常の平静さを取り戻してい
る。べったりと顔についた血痕に、真名が心配そうな顔をしたが、それは芙柚を心配して
のものではない。
「その血……お兄ちゃんのじゃないでしょうね?」
「耕治のものだ」
「あんた!」
「耕治の……っ」
「え?」
 激昂しそうになった真名は、繰り返した芙柚がその場に膝を着いて口を押さえたことに、
目を丸くした。
 冬の精は、苦しげに、普段なら有り得ない涙さえも目に浮かべて、身体を震わせていた。
 あまりなその様子に、真名は自らもしゃがみこんで尋ねる。
「どうしたの……あんたがそんなになるなんて、よほどのことでしょ? 昨日は、やたら
と高い刺身を食べに来てたくらい元気だったじゃない」
「……それは、私ではない」
 芙柚は、苦笑を浮かべた。それも、珍しいことで、真名は混乱した。
「昨日いたのはあんたじゃなくて? でも、お兄ちゃんが他に冬の誰かを連れてくるなん
て……」
「お前が関わることではない。母上が心配する。家に戻っていろ」
「お母さんは、出かけてるわ。じゃなけりゃ、ここに顔を出したりはしないわよ。それよ
り、今私の思考を邪魔しようとしたでしょ。その辺り、本当にお兄ちゃんにそっくりなん
だから」
 それから、思い出したわ、と真名は立ち上がった。
 それまでの同情的な態度をやめ、冷たい目で芙柚を見下ろす。
「初雪の娘……あんた、まだあの娘にこだわってたの? あんな……あんたにとっては、
あの娘は──」
「特別だ」
 弱々しく、芙柚は言った。
「あの娘は、初雪は……私が傷つけた。何度も何度も傷つけて……だから、今度こそ幸せ
に……」
 再び、芙柚は言葉を詰まらせて吐いた。
 誇り高い冬の精の醜態に、真名は眉根を寄せる。
「そんなに吐くくらい嫌なことを、その娘のためにしたの? 自分が傷ついて丸く収めよ
うって……本当に、馬鹿なんだから。さっきも言ったけど、お兄ちゃんにそっくりよ」
 でも、だからこうして話せるんだけど、と真名はぼやく。
 火の手が上がったのは、その時だ。
「なに!?」
「……耕治の炎だな」
 人には害の無い、そして見えない不思議の炎が、夜を照らすほどに高く、空を貫いてい
た。それを確認した芙柚は、汚れた口を袖で拭って、立ち上がった。
「すまなかった。今の姿は、忘れろ」
 跳躍。
 慌てたのは真名だ。
「ちょ……あれは炎よ? あんたの弱点でしょ!」
 叫ぶが、芙柚はあっと言う間に見えなくなってしまう。
「もう……っ」
 仕方なく、真名も駆け出していた。母親のことがチラリと脳裏を掠めたが、足は止まる
ことはなかった。
 何故なら、母親よりも、兄や芙柚の方が傷ついているように、真名には思えたのだから。

                 ※

 燃え盛る炎の柱──木の枝を持ちながら、耕治は怯えた顔をしている母親を見ていた。
その瞳が、はっきりと炎の柱に向いていることを知り、耕治は手で顔を覆う。
「見えていた……そうか、あんたには見えていたのか」
 皮肉すらない、大きく開かれた瞳。
 震えているのは、唇だけではなく、身体全身だ。
「俺は、あんたは見えないんだと……だから仕方ないんだと……」
 身内だから自分のことをわかってくれる、という御都合論など無いのだと、思っていた。
 自分と同じものが見えないのだから、仕方ないのだと、思っていた。
 見える自分が悪いのだから、見せない人に迷惑をかけてはいけないのだと思っていた。
「なのに、あんたは、見えていたのに、俺を気味悪がって……真名みたいに俺に普通に生
きろと言うこともなく、俺を否定して……っ」
 怒りたい。
 耕治は、自分の震えが怒りによるものだと思った。
 しかし、怒りが沸き上がって来ない。
 あるのは、情けないほどの、喪失感だった。
 怒りたいのに、母に怒りたいのに、何故そんなものを味わなければならないのか。
 ただ、見えないから理解出来ないだけだと思っていた母親が、見て見ぬふりをしていた
だけという事実を知らされただけだというのに。
 少し、泣きたかった。
 その気持ちを、今そこでわかっていたのは、白雪だけであった。
 白雪は、恐怖の色を瞳に宿して耕治を見る母親を一瞥し、悲しい気持ちになった。
(駄目だ)
 あの人では、駄目だ。
 あの人は、耕治の何もわかっていない。否、他の何もわかろうとしないで、目を逸らし
ていた人だ。
(わたしが、行かなくちゃ……)
 しかし。
 熱い。
 耕治の胸に飛び込んだ時とは比較にならない熱量を、今の耕治は持っていた。冬に属す
る者であれば一瞬で融かすような、白雪すらためらわせる、炎だ。
 自分が、消えてしまうかもしれない。
 それでも。
「耕治さん!」
 白雪は駆け出そうとした。
 その白雪を追い越した者がいた。
「耕治!」
 芙柚だった。
 芙柚の声に、耕治は顔を上げた。
 そして、芙柚は、耕治が自分を確認するよりも早く、彼の身体に腕を回し、思い切り抱
き締めたのだ。
 猛烈な蒸気が二人の間から生まれた。一気に広がった白い蒸気が、まるで芙柚を融かし
きるかのような蒸気が、立ちのぼっていく。
 その中で、芙柚はひたすらに耕治に囁いていた。
「大丈夫。大丈夫だ。私がいる。私がいるよ、耕治」
 痛みに震える声で、それ以上の強い意志を持った声で。
「お前が私たちを見て、魔を狩ることが、わたしは嬉しい。何度お前に命を助けられただ
ろう。何度一人戦う孤独をお前に癒してもらっただろう」
 優しい、万感の思いを込めて。
「私が一緒にいるよ。私が褒めるよ。お前がいて良かった。お前が異能で良かった。だか
ら、大丈夫だ……」
 彼の痛みを知り、彼と出逢って良かったと語り、彼を肯定したいと願う心。
 それがわかるから、白雪は立ちすくんだ。
「なん……です?」
 何が起こっているんですか?
 芙柚さんが飛び込んできて、確かに芙柚さんくらいの力の持ち主ならあの炎の中でもあ
る程度はどうにかなるでしょうが、それでも痛みは凄いものがあって……。
「好きじゃないと、堪えられないと思うくらいに、痛くて……」
 芙柚の囁きは、あまりに白雪のものに似ていて、それでいて長い時間を感じさせて。
「芙柚……」
 耕治が、痛みと悲しさを抱え込んだような顔で、助けを求めるように芙柚の身体に腕を
回した瞬間、白雪は悟ったのだ。
「わたしは……」
 負けたのだと。
 否。
「うら……ぎられた、んですか?」
 耕治に素っ気ない態度を取っていた、芙柚に。
 色々と助けてくれた、冬の精に。
 雪だるまを守ってくれた、優しい人に。
「芙柚さんに……裏切られた……」
 一番大切な人を、自分の最後の瞬間の直前に奪われるという形で。

                 ※

 耕治は、祖父が死んでから一人で冬の禍物を狩っていた。
 妹の真名は耕治ほど祖父に傾倒しておらず、木の枝で剣を作る方法を教わったのも、耕
治だけだったからだ。
 毎年冬が来ると、雪が降ると、耕治は木の枝を持って家の外に飛び出ていった。
「元気ね」
 と口にしていた母親が次第に、
「もう中学生なんだから」
 と言うようになり、ついには、
「馬鹿なことして、恥ずかしい子」
 蔑むように言うようになった。
 痛くないと言ったら、嘘になる。
「僕、冬の精が見えるんだよ」
 そう言って、凄いね、と母親が喜んでくれた子供の頃。
 木の枝を振り回すのが誇らしく、自分が皆を守っているのだと、そう思えた頃。
 周りの目が段々と変化し、奇異なものを見る目になり、嘲笑や苦笑が皆の顔に浮かぶよ
うになっても、耕治は構わなかった。
「俺だけは、俺が正しいことを知っているから」
 感謝されるためにやっているわけではない。これは家業だ、と祖父がいつも口にしてい
た通り、耕治はそれをしたのだ。
 続いていたからには、きっと意味がある。
 祖父は、笑って死んでいたのだから。
 美しい、冬の精と身を寄せ合うようにして死んでいたのだから。
 他の誰にも見えない、寄り添っていた冬の精の姿が、自分には見えていたのだから。
「爺さんは、正しいことをしていた。俺はそれを知っている。俺だけは、知っている」
 雪牙が見える。
 人を襲う。
 どうして放っておけるだろう。
 被害にあうのが目に見えて、それを見過ごして、気持ちよく眠れるだろうか。
「これは、人の役に立つ、立派な家業なんだよ」
 祖父の言葉が、耳に残っていた。
 その言葉を耕治は胸に刻んでいた。
「俺は正しい。誰が何と言おうと俺は正しい。俺は知っている。俺だけは知っている」
 冬が来る度に馬鹿にされる。
 冬が来る度に母親が嘆く。
 もうやめようと、と言ってくる妹に首を振り、耕治は自分を貫いた。
「俺は間違っていない。俺は正しい。俺は間違っていない」
 雪牙によって傷つけられ、それ以上に同年齢の子供たちに投げられる石や言葉に傷つけ
られ、友達もいなくて、外を歩けば皆が自分を遠巻きにしていて──。
「俺は間違っていない。俺は正しい。皆も間違っていない。皆も悪くない。誰も悪くない。
仕方ないだけだ。俺も、皆も、誰も悪くない……っ」
 怒りをぶつける相手もいない憤りが、押さえられないくらいになっていた時に、その言
葉はかけられたのだ。
 雪の上でうずくまる耕治に、静かに、冷たい声で。
「わかっている」
 と。
「私は、わかっている。お前が間違っていないことも、お前が正しいことをしていること
も、お前の周りの誰も悪くないことを」
 私はわかっている、と。
 説得力のある、確かな声がそう言ったのだ。
「他の誰が違うと言っても、私にはわかっているよ。私の姉を連れていった神殺しの、そ
の孫よ」
 声の主は、芙柚と名乗った。
 耕治が欲しくて欲しくてたまらなかった、耕治と、そして周りを肯定してくれる言葉を、
倒すべき冬の精はくれたのだ──。

                 ※

「大丈夫……」
 炎の収まったその道で、芙柚は胸に耕治の頭を掻き抱いて泣いていた。身体は焼け焦げ、
腕を震わせながらも、それでも立っていた。
「結局──」
 呟きは、自嘲を含んでいた。
「私には、お前を見捨てることなど出来ない。姉を失った悲しみで雪牙を放っておいた私
の代わりに傷ついた、ひたむきな子供。見て見ぬふりをしていた私を知らず、誰も自分を
理解してくれないと泣いていた悲しい子供」
 溜め込んだ罪を吐き出すように。
「私は、あの時もお前を見捨てることが出来なかった。私よりも傷ついた子供。もう、お
前は傷つかなくて良い。これ以上お前が傷つくと、私が苦しい……」
 傷ついて欲しくないものなど、この世には他にはないのだ。
 自ら傷つけただけで身体に変調をきたすような存在は、他にはないのだ。
「私は、お前が大切だよ、耕治。だから、傷つかないで。幸せになれ……それが、私の願
いだ」
 それら全ての言葉を、白雪は聞いていた。聞きたくなくても耳に入ってくる、芙柚の苦
悩に満ちた想い。
(負けた?)
 違う。
 それは違う。
 想いは、炎の中に飛び込んでも耕治のもとに行きたいと思った想いは、白雪にもあるの
だ。彼の心を理解し、彼に傷ついて欲しくないと願う想いも、白雪にもあるのだ。
 それでも、耕治が芙柚にすがりついているのは。
 何よりも愛しいものを抱くようにしているのは。
「耕治さんが傷ついた、その時に、一番大切なその時に、芙柚さんがやって来たから……」
 卑怯だ、と白雪は思った。
 白雪にはわからない。芙柚と耕治は、対立していたではないか。なのに、何故ここで芙
柚が飛び出してくるのだろう。いや、芙柚が耕治を嫌っていないのはわかる。だが、身体
を投げ出してまで耕治のために何かしようなどと、想像もしなかった。
「わた……しは……」
 焼け焦げの残る自分の身体を、白雪は抱き締めた。
 痛みがある。
 耕治と分け合った痛みだ。
「芙柚さんの前で、耕治さんに出逢って……一緒にいて、好きになって……聞いた話だと、
去年のわたしも耕治さんを好きになっていて……」
 芙柚がそれを知らないはずがなくて。
 ──気持ち悪かった。
「どういうことなんですか……」
 ──胸が焼けつくほど、気持ち悪かった。
「なんなんですか、これは……っ」
 芙柚は、白雪を裏切ったのだ。彼女の想いを知っていながら、彼女の先手を取って耕治
のもとへ行ったのだ。
 ──芙柚という冬の精の存在が、厭わしく感じた
「そこにいるのは、わたしのはずなのに……どうしてあなたがそこにいるんですかっ」
 消えてしまう前の、恋人として出来る最後のことを、打ち砕かれた。
 ──いつもいつも、関心が無いような顔をしておきながら、彼の心を握って放さない。
「答えてください、芙柚さん!」
 白雪は叫んだ。
 頭の中でうるさいほどに響くもう一つの声を聞きながら。
 ──この人は、わたしと同じものを奪い合う、恋敵だ。
「白雪……」
 芙柚の声は、白雪が対してきた今までのどれよりも弱々しいものだった。
 常の冷たい仮面を取り払い、途方に暮れた、見られてはいけないものを見られた顔をし
ている。
 失敗。
 罪悪感。
 どう誤魔化そうか。
 そんな心の動きが、白雪にはわかる。これまでの、繰り返してきた年月を思えば、彼女
の性格を思えば、芙柚の思考を読むことなどたやすいのだ。遥かな昔より、二人は顔見知
りなのだから。
「すまなかったな、いきなり。耕治も、もう大丈夫だ。白雪、お前の恋人を、返そう」
「ボロボロの顔で、そんなことを言うんですか?」
 白雪の声は硬かった。芙柚の顔が、歪む。泣き出しそうな顔だ。
「また、わたしにそういう声を向けるのか」
「また、ですか。じゃあ、芙柚さんはわたしに同じことを何度もしたんですね。わたしか
ら、耕治さんを奪っていったんですね」
「違う」
 芙柚は耕治を放し、よろける足で白雪に向かった。
 一歩、二歩、と。
 その足を止めるのは、白雪のひとことだ。
「来ないでください」
「白雪。私は、お前に幸せになって欲しい。お前に幸せに眠りについて欲しい。それだけ
なんだ……」
 焼けた裂傷の走った腕を、白雪に向けるが、白雪は一歩下がってそれを避けた。
 明らかな拒絶に、芙柚は行くあてのない手をさまよわせた。
 唇が震える。
「私は……また間違えたのか? お前は耕治と恋人になれれば幸せだと、言ったはずだ。
耕治も、お前と恋人になれれば楽しいと言った。ほんの短い時間でも、私たちのせいで傷
ついた初雪の娘が微笑んでくれるなら、それが嬉しいと」
 何が、と芙柚はうつむいた。
「何がいけなかった。完璧だったはずだ。お前は以前のように耕治を好ましく思い、耕治
もそれに応えた。今度こそ、五回も早かった悲しい初雪ではなくなるはずだったのに」
 何故。。
「何故、お前は回を重ねるごとに、早く降ってくる。他の雪を待たず、一人きりで降り、
一人きりで融けていく!?」
 叫ぶ芙柚とは対照的に、白雪は冷静だった。
 冷静でありながら、心は焼けていた。
 明かされる芙柚の想いに、焼かれていく。
「芙柚さん、きっと、去年のわたしはこう思ったと思いますよ」
 残酷に、相手に突き刺さる言葉を選べたのは、余裕ではなく、本能だ。
 女として、同じ女を痛めつけるためなら、蹴落とすためなら、これくらい言える。
「早く降ってしまいたい。他の雪のいない時期に降ってしまいたい。そうして──」
 きっと、それが真実なのだ。
「そうして、苦しみを長引かせずに、早く融けてしまいたい」
 だから初雪は早く降る。
 自分の想いを打ち砕く存在がいることがわかっているから。
 初雪の真っ白な心を奪う存在と、その存在を握って放さぬ存在がいるから。
「わたしは、正しいですね」
 駄目で損な初雪などではない。
 狙った通り、望んだ通り、優秀ではないか。
 先の展開まで見越した、その気配り。
「わたしは、去年の自分に感謝します。芙柚さん、あなたはわたしに優しいです。だけど、
あなたはわたしを傷つける人です」
 何故でしょうね。
 あなたの優しさを感じるのに、あなたに感謝できない。
「あなたが憎らしい。あなたが嫌いです。あなたなんて、いなければいい。何様のつもり
ですか? わたしに耕治さんを貸したつもりになっていたんですか。ほんの短い時間だか
らって……その時間が終われば、耕治さんはまたあなただけのものになるから、その間だ
けわたしに気づかせずにいればよかったと?」
 酷いです。
 酷すぎます。
 酷いから。
「わたしは、あなたを傷つけます」
「しら──」
「何を勝ち誇っているんですか、あなたはっ」
「!」
 涙と共に叫び、白雪は身を翻した。
 芙柚が止める間もなく、初雪の少女はその姿を消していた。
「う……あ……」
 残された冬の精は、虚空を見つめて呻き、涙した。
「私は、何故……何故……何回もあの子を……遥か昔から一緒に過ごしてきた子を傷つけ
て……あの子の想いを微笑ましいと思いながら、耕治が傷つけば自分で救おうとして……」
 二人の仲を取り持ちながら、横から浚っていく。
 五年前も、初めての年も、そうだったのだ。
「う……あぁぁぁぁぁっ!」
 雪の降らない夜空に向かい、冬の精は慟哭した。
 二人の精が泣いた日に、全ての嘘は崩れ落ちたのだ。





                 6


 真名によって家に連れ帰られた耕治は、すでに本来の彼の調子を取り戻していた。
「悪かった」
「いいのよ。あのまま道に立たせていたら、悪い噂が立つもの」
「そうか」
 関心無さそうに相づちを打つのもそのままで、真名は唇を尖らせて肩をすくめるのだ。
(ま、こういう人よね)
 母親は、放心していたので部屋に放り込んでおいた。
 その放心を長引かせているのが、現場に駆けつけた真名によるひとこと。
「お母さん。私は、あなたを軽蔑します」
 であることは、間違いない。
 少女も、人を傷つける言葉というものを持っている。そして、彼女にとって母親は傷つ
けるに値する相手だったらしい。
「あーあ、せっかくのクリスマス・イヴに、友達の家にも行かずに兄の怪我の世話をして
いる妹って私くらいよ」
「友達の家じゃなく、恋人の家じゃないのか?」
「いないもの」
「情けないな」
 この兄は、絶対に口が悪い。真名はこめかみを震わせながら再確認した。
 その耕治であるが、意外なほどに元気だ。さすがに気落ちしてはいたが、心の整理はつ
いたのか、迷いらしきものは見えない。
「……お兄ちゃん、いいの? お母さんのこと」
「ああ。俺には、芙柚がいるからな」
 そこだけは皮肉の抜けた、照れたような笑み。
 これでは消えた白雪が浮かばれないな、と真名は初雪の精に同情した。
 が。
「じゃあ、俺は白雪を探してくる。お前は家にいろ。夜中に歩き回ると、怪しいからな」
「は? ちょ……何考えてるの? 初雪の娘は、もう融けてるわよ、きっと。それに、今
更お兄ちゃんが行くと、嫌味よ、嫌味」
「なんでだ?」
 あっさりと、今度は皮肉げな笑み。
 やはりこの兄の秘密主義は変わらないし、この後言い出すだろう、自分が傷つく姿勢も
変わらないのだろう。
「俺は、あいつの恋人だからな」
「嘘がバレた今、それは最低の台詞よ」
「嘘……って、俺は別に白雪を騙してないぞ」
 心外な、と見下ろしてくる兄に、真名は冷ややかな視線を向けた。騙されないわよ、と。
「だって、お兄ちゃんは芙柚のことを好きなのに、それを隠してあの子とつき合ってたん
でしょ?」
「ああ、二股だな」
 どこまで冗談なのかわからない耕治の台詞に、真名は座っていたソファからずり落ちた
のだ。

                 ※

 白雪が耕治に初めて出逢ったのは、五年前の冬であった。
 その時、耕治は十三歳だった。
 傷ついて、それでも雪牙と戦い、芙柚にすら戦いを挑むひたむきな子供。
 毎年新しい姿と心を手に入れる雪の特性上子供っぽさを持つ白雪にとって、耕治は格好
の遊び相手であったのだ。
 最初は、弟にかまう程度のつもりで接していた。自分にとって毎回教育係になる芙柚に
突っかかっていく耕治が危なっかしくて、何度か無茶をいさめたりもした。
 その時は、初雪が全て融けるまで、一ヶ月もの時間があったのだ。
 白雪は、誰にも理解されない少年を自分だけが理解していると誇っていた。
 彼を中傷する人間たちに腹を立て、彼を慰めて、わたしはあんな人たちとは違うよ、と
優しく囁いた。
 悪いのは理解できない周りの人間。
 あなたは正しい。
 あなたは良い人間。
 ああ、しかし、そうして惹かれたからこそ、白雪にはわかってしまったのだ。
 彼が、芙柚の名前を呼ぶ時、彼女には向けないとてもくすぐったそうな顔をすることを。
 彼に対して冷たい態度しか見せない芙柚が、実は彼にとても優しい言葉をかけたことが
あることを。
 その一度の言葉が、彼の中で彼女よりもずっと大きなものになっていることを。
「どうしてだろう?」
 彼の痛みを知ったのは二人とも同じなのに、どうして芙柚が選ばれて、自分は選ばれな
かったのだろう。
 その理由も、わかる。
 一番彼が必要とした時に、芙柚はその言葉を言ったのだ。
 白雪が、彼と出逢う前に。
「少し、悲しいなあ……」
 それを理解した時に白雪の口から洩れたのは、そのような呟きだった。
 時間で負けるのは、楽しくない。
 もう少し早く降っていれば、良かったのかもしれない。
 そう考えて少し早く降った二年目も、白雪は耕治に恋をした。
 三年目も、同じだ。
 その頃になって、ようやく芙柚は白雪の想いに気づいた。そして、芙柚は自分が知らな
いうちに白雪を傷つけていたと思いこんだ。
「別に、芙柚さんの責任というわけじゃないんだけど」
 口調も違う当時の白雪なら、そうボヤきそうな出来事だ。
 決定的な亀裂は、その時に生まれたのだ。
「ふざけないで……っ。あなた、何様のつもりよ!?」
 いつもの通りに耕治に恋した白雪に対し、芙柚は言ったのだ。『耕治と恋人になりたい
と言っていただろう? 耕治もまんざらではないだろう。申し込んでみてはどうだ?』と。
 恋に有頂天になっていた白雪は、しかしその言葉に込められた親愛の情に気づいた。
 芙柚は、耕治を好ましく思っているのだ。同時に、耕治を見ていれば、芙柚に想いを寄
せていることはわかる。
 そうした一連の中で暴露された、過去の自分のこと。
 不器用な芙柚は全てを話すしかなく、それを受けて白雪が冷静でいられるわけもない。
「わたしたちは、友達じゃなかったの? わたしたちは、対等じゃなかったの? 同じ人
をかけて争うこともさせないで……あなたは、わたしが耕治を貸してもらって喜ぶと思っ
ているの!? あなたは、自分が耕治を好きだって、自分は耕治に好かれているって、そ
ういう自信にあふれている姿を、わたしに見せびらかして、楽しいの!?」
 本当に、初雪の娘というのは激情家で、そして冬の精というものは不器用だった。
 毎年記憶を一新し、純真で、想いのままに生きる者。
 長い時間を記憶し続け、内向的で、責任者である自分が傷つけば良いと考えて生きる者。
 二人は長く、本当に長い時間を上手くやってきたはずだったのに、ほんの小さなきっか
けでそれが壊れてしまった。
 恋とは、何と不自由なもの。
 本当に──。

                 ※

「ここにいたな」
 自分を発見した耕治に、白雪は目を丸くした。
 思わず感嘆の声も出る。
「よくわかりましたね」
「恋人だからな」
「それは、少し痛いですね」
 苦笑。
 白雪は、先程の出来事があった道にいた。あの炎の中でほとんど融けてしまった雪だる
まが、手のひらほどの大きさの塊として、そこに残っていた。
「実は、この街にはもうここしか雪が残っていないんです。他に行くあてがなくて、結局
ここです」
「悪かったな」
「そう思うなら、愚痴を聞いてください」
「わかった」
 サバサバとした、テンポの良い会話だ。
 耕治は、小さな雪を挟み、白雪の隣に腰を下ろした。膝を抱えた白雪は、そこに顔を埋
めるようにして、口を開く。
「色々ありましたね」
「あったな」
「そもそも、今回のことは芙柚さんが悪いと思うんですよ。身を退くならスパンと退いて
しまえばいいんです。なのに、耕治さんが困ったら思わず出てしまう、お茶目さんなんで
すね」
「そうだな」
「今回のことって、耕治さんは芙柚さんに相談されていました?」
「いや」
「でも、芙柚さんと仲が悪いふりをしませんでしたか?」
「あれは、慣習だ。爺さんも、冬の精と仲が悪そうにしていた」
「……本当にお爺さんっ子なんですね」
「俺の親だからな」
「お母さんのことは、どうするんですか?」
「まあ、真名がどうにかするだろう。俺は知らない」
「……いいんですか、それで」
「俺には芙柚とお前がいれば、それでいい」
「…………」
 はあ、と白雪はため息を一つ。
 膝に頬をつき、横目で耕治を見てひとこと。
「心にも無いことを言っていませんか?」
「いや。それから、俺は芙柚とはつき合っていない。俺の恋人は、お前だ」
 目が丸くなる。
 開いた口が塞がらない、という顔。
「あの……だって、芙柚さんのこと、好きですよね?」
「ああ」
 ちょっと照れる。
 ほら、と白雪は指差す。
「そういう顔。芙柚さんのことでしか、しないじゃないですか」
「そうだな。でも、今の恋人はお前だろ?」
「……男の人って、卑怯ですね」
 なんだかなー、と白雪はうなだれた。
 そう言えば耕治は、何度も告白されればそんな気にもなる、などということを言ってい
たような気がする。
 それでも、こんなことを言っていても、耕治は最終的に芙柚のもとへ行くのだ。
 それはつい先程証明されたではないか。
「……まあいいです。耕治さんは女ったらしですけど、耕治さんがわたしに振り返らない
のは芙柚さんのせいです。この点に関して、わたしが耕治さんを責めることはありません」
 気を取り直した白雪は、顔を上げて意地悪そうに言う。
 耕治は肩をすくめ、
「あんまり、虐めるなよ」
「わたしにはその権利がありますから」
 かなり、傷つけられたのだ。
 おそらく、前回よりも深く、とても深く。
 それでも笑っていられるのは、耕治と話していられるのは、どうしてだろう。
「……なるほど、そういうことですか」
「なんだ?」
「わたし、今気分がいいですよ。何せ──」
 嫌味な笑いは、始めの頃の白雪では絶対に出来なかったものだ。
「何せ、思いっっっっきり逆襲しましたから。わたしの受けた心の痛みには及びませんが、
かなりの打撃を芙柚さんに与えましたね。ざまあみろです」
 遠慮も何もない台詞だ。
 毒を吐くような台詞を白雪は続ける。
「あの女は、一度痛い目を見るべきだったんですよ。思いっきり痛い目にあってないから、
自分が傷ついてみようかな、とか思えるんです。今回くらい痛かったら、次は自分が傷つ
こうなんて思わなくなるでしょう?」
 毒でありながら、楽しそうに笑う。
「本当に、耕治さんも芙柚さんも自分に無頓着で、ひたむきで、馬鹿みたいです。芙柚さ
んは今回味わいましたけど、耕治さんも今度もっと痛い目にあいましょう」
「母さんのは、痛かった」
「序の口です」
 キッパリと白雪は言う。
 あまりのそれに、耕治でさえ唖然としたくらいだ。
 白雪は人差し指をチッチッと左右に振りながら、
「恋の痛みに比べれば、あんなもの屁でもないですよ。それに、耕治さんにはわたしや芙
柚さんがいるじゃないですか。わたしや芙柚さんは、誰にも助けてもらえないんですよ」
 白雪を助けようとして失敗しているのが、芙柚なのだから。
 あの、不器用な冬の精なのだから。
「本当に、恋は難しいものなんですよ」
 ほう、と息を吐いても、白い息にはならない。
 チラリと見れば、雪だるまの残りは、親指ほどになっていた。時間も、無いですね、と
白雪は呟く。
「そう言えば、今日はクリスマス・イヴなのですけど、恋人らしい行動は、すっかり芙柚
さんにとられちゃいましたね」
「座って話しているだろう」
「それは見事なクリスマスプレゼントです」
 クスクス笑いは、決して演技ではなかった。ここまで来ても変わらない耕治の態度が、
おかしかったのだ。
 この人は、芙柚さんのことを好きな人。
 だけど、こういう人を、わたしは好きなんですね。
「まあ、あの女の傷つけられて泣き叫ぶ姿を見れただけで、今回は大収穫としましょう」
「……何か性格が悪くなっていないか?」
「そうですか? じゃあ、性格悪いついでですけど」
 瞬間的に、白雪が動いた。
 素早く膝立ちになり、耕治の顔に自分のそれを寄せる。
 と。
「危ないな。頭突きか」
「よ、避けたー!? さ、最後の思い出を避けたー!?」
「ああ……悪い」
 そういう男だった。
 かなり傷ついた白雪は肩を落として、座る彼の前でクルリと背を向ける。腰の後ろで手
を組み、ブラブラと散歩でもするかのように一歩二歩と離れる。
 そこで、もう一度回転し、向き直る。
「そうそう、あと二分分ほどですから、残りを一気にいきますね」
「二分か」
「二分です」
 二人の視線が、今にも消えそうな雪に落ちた。
 ほんの一握りの、しかし真っ白な雪だ。
「お前そのままだな」
「ええ、わたしですから」
 にっこりと満面の笑みを見せ、白雪はまぶたを下ろした。
 数秒。
 開けば、そこには変わらない耕治が座っている。
 彼女なりに考えたことを、口にする。
「去年のわたしは、本当に深く傷ついていたみたいで、こんなに早く初雪が降ったのは、
間違いなく早く融けるためだと思います。それに関して、わたしはひとこと言いたいです。
──馬鹿だな、って」
 白雪は、早く融けたくなどない。
 心は、確かに苦しいかもしれない。
 だけど、同じくらいの打撃を芙柚に与えたのだ。意趣返しは済んだと言える。
 さっぱりとした、晴れやかな気分で、言う。
「だから今度は、わたしは思いっきり遅く降ろうと思います。それで、姿は思いっきり綺
麗なものを選んで、性格も思いっきり可愛いのになろうと思います」
 その理由は、何だと思います?
「そうして、わたしは、今度こそ耕治さんを誘惑しきります。芙柚さんがどんなにいいと
ころで飛び出してきても、耕治さんがわたしの名前を呼ぶような、そんな女の子になって
みせます。こればっかりは芙柚さんにもできない、わたしの特権ですからね」
 さすがにどういう顔をして良いかわからない耕治だ。
 楽しげに自分の計画を話す白雪は、その身の半ばを透けさせ、それでも最後に言う。
 残された時間で言うべきは、
「本当に、わたしはあなたの恋人になれて、嬉しかったですよ。最後はちょっとあれでし
たけどね」
 さようなら、と。
 屋根の上で見守っている、芙柚に対しても。
「芙柚さんがこんなに不器用だってこと、初めて知りましたよ」
 初雪の少女が消える。
「あんまり不器用だから、教えてあげます。──わたしは、今はあなたが大嫌いですけど、
本当は大好きですから、今度は同じ立場で耕治さんを取り合いましょうね」
 それが。
「以上、初雪の娘からの、クリスマスプレゼントでした〜」
 白雪の、最後の言葉であった。





                 結


「それで、結局何も変わりなし、ね」
 冷たく言ったのは、真名だ。
 彼女は自宅の屋根の上にいて、その隣には夜空を見上げる冬の精がいた。
 ──何故か、あまり親しくもなかったこの二人は、いつの間にかよく話すようになって
いたのだ。
「お兄ちゃんは相変わらず、今度は風牙を退治していて変人をキープ。あんたはあんたで、
ここ最近ずっとここで空を見上げてるし……もしかして暇?」
「暇ではない」
「暇そうじゃない」
「空と、こみ入った話をしていた。だが、今終わった。なるほど、私の失態だな」
「何かあったの?」
 寒がりの少女はモコモコと着膨れした格好で寝転がり、尋ねる。
 芙柚は真名を感情の読めない冷徹な表情で見下ろし、次のように応えた。
「お前に話す理由はない。部屋に入って寝ていろ」
「……お兄ちゃんにそっくり」
 ボソッと呟き、しかし真名はニヤリと笑って芙柚に言う。
「でも、忙しいみたいね。残念ねー、これじゃあ、お兄ちゃんと仲良くする時間も無いじ
ゃない」
 ざまあみろ、と舌を出す真名に、芙柚は冷たい一瞥。
「何故私が耕治と仲良くしなければいけない」
 芙柚が屋根を移動しようと、跳躍の気配を見せる。
 相変わらずな芙柚がそれ以上何も言わないと思っていた真名は、彼女が跳び様に言った
台詞に、目を丸くした。
「あれとのことを進めるのは、来年の初雪が降ってからだ。白雪が、最後に抜け駆けする
なと釘を刺していったからな」
「はあ?」
 すっとんきょうな真名の声を背後に聞きながら、芙柚は冬の夜空を駆けながらボソリと
呟いた。
「まったく、私は困った冬の精だ」
 空には分厚い雲が漂い、きっと翌日には雪が降るだろう。
 芙柚はそれを確信して、口元に小さな笑みを浮かべるのだった。




                                   終

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