吸血街 〜魔物たちのレイムスタン〜 こつこつこつこつ。 遠くから足音が聞こえる。 こつこつこつこつ。 一定のリズムで。 こつこつこつこつ。 探しているはずだ。だが、足音は慌てた様子もない。 こつこつこつこつ。 わかっているのだ。こちらに逃げる術など無いことを。 血を分けた兄弟。 昔二人で遊んだ地下室で、今弟は恐怖に身を震わせていた。 こつこつこつこつ。 狩猟者は、兄だ。 こつっ。 ぎい……っ。 覗いた二つの赤い瞳は、あまりに優しくて。 「アード、一緒に行こう。お前は……私のものだ」 微笑みは、弟の心を捕らえた。 そして……。 第一章 1 「アードさん。もう、お店閉めますよ」 「……あ?」 良く通る声と同時に身体を揺さぶられ、アードは自分がカウンターに突っ伏しているこ とに気がついた。 顔を上げると、目の前でやわらかそうな金色の髪をした少女が、心配そうにアードを覗 き込んでいる。 作り物のように整った容姿を、浮かんだ表情でやわらかいものに変えている、宝石のよ うな緑眼の少女だ。年の頃は十六歳ほどか。 「うなされてましたよ?」 「ああ……朝か?」 「夜です」 腕時計を見ると、十一時四十八分。ため息をついてアードは席を立った。 立ち上がると、長身のアードの顔は少女の遥か上にまで持ち上がった。 こざっぱりとした黒いスーツ姿の、二十歳過ぎくらいの青年だ。彫りの深い容貌をして いて、髪は漆黒、その瞳の色は血に濡れたような紅。 この店の常連の一人である吸血鬼だ。 アードが見回すと、他に客の姿はない。 「ユーゴ。今日は早いのか?」 カウンターの向こうにいる店長は真剣な顔でグラスを磨きながら頷いた。店長と言うよ り、用心棒と言った方が良さそうな長身の中年だ。 「今日は満月だからな。可愛いアイリーンを傷物にされたらかなわん」 「なるほどね……」 魔物たちの街レイムスタンの中でも一番の大通りであるミュンスター通りに面するバー 『BB』は、月に一度、満月の日だけ閉店時間が早くなる。 夜を好む魔物が多いレイムスタンのこと、客は不満顔をするが、『BB』に出入りする 客層に狼男や虎男をはじめとする満月派が多いことから店長の判断は正しいと言える。 「満月のお前たちときたら、一度飲ませりゃつぶれるまで騒ぎ続けるからな」 じろりと睨みつけてくる店長に肩をすくめてみせ、アードはズボンのポケットから財布 を取り出した。それを見てアイリーンが伝票を取り上げる。 「ええと……あら、アードさん今日は二杯しかお飲みになってませんね」 「ほらアイリーン」 「はい、ちょうどです」 「これからどうするんだ?」 店長が声をかける。 アードは隣の椅子に立てかけておいた刀を取って鞘から抜いた。 と、 「もちろん、これから家に帰ってお楽しみのベッドタイムよ」 黒髪が宙に舞った。遠く日本から伝わった破魔の刀、雲涯に宿る精霊アンジュだ。鮮や かな茜色の着物の裾が軽やかに揺れる。 アンジュは刀身の上に座った形でアイリーンにウインクした。 「え? え?」 とてつもない美女の精霊の言葉に一瞬思考したアイリーンは、常人からすると少々遅れ た頃に頬を朱色に染めた。 「冗談よ。こいつ相手じゃ、そんな気にもなれないもん」 「アンジュ。アイリーンをからかうなよ」 「だって、可愛いんだもの」 アードは苦笑もせず刀をぶんと振った。アンジュの姿がかき消える。再び姿を現した時 には、アンジュは床にうずくまって口を押さえていた。 「も……お! いきなり振らないでよ。酔っちゃうじゃない!」 そのつもりで振ったのだが。 アードは鞘だけを腰の金具につけ、刀身はむき出しのまま肩に担いだ。 「お帰りですか?」 「また明日な」 「はい!」 2 「何の夢を見てたか、当ててあげましょうか?」 夜のミュンスター通りを歩きながらアンジュが言った。 歩いているとは言っても、歩いているのはアードであって、アンジュは担がれた刀の上 に座っているのだが。 アードは応えない。アンジュはつまらなそうに周りに視線を巡らした。 ミュンスター通り。 魔物たちの街レイムスタンで一番の大通りだ。昼間よりも夜の方が人通りが多いともっ ぱらの評判である。そして、それは事実だろう。 夜は魔物たちの時間なのだ。 そもそもレイムスタン市が造られたのは十九世紀の始めらしい。近代化が進み、住みか を失った魔物たちを見かねた市長が土地を提供したのだという。 オーストリアの北部に造られたレイムスタン市は、それ以来魔物たちの楽園として現在 にまで至っている。 面積が限られているために自動車などの所有は禁じられているが、古風な馬車が走れば 用を足せる趣ある街だ。。 もちろん、レイムスタンの住人になるにはそれ相応の資格がいる。 過去五年間に人間に何の危害も与えていないことだ。いたって簡単だが、ある種の魔物 たちにとってはとても難しい注文である。 例えば、アードのような吸血鬼にとっては。 「あ、警部だ」 「何?」 何気ないアンジュの呟きにアードは顔を上げた。 「あそこ」 示され、アードは呆れた顔になった。 溜息を一つ。 「警部。こんな所で何をしているんですか」 小走りに近寄ると、歩道の脇にしゃがみ込んでいるウィブ警部が赤い顔で振り返った。 背丈はアードより頭一つ大きく、身体の厚みは二倍に近い筋骨隆々とした男だ。渋みを 感じさせる、髪をオールバックにしたウィブの顔は、今はだらしなく赤くなっている。 「おう、アードか。んん、アンジュは今日もべっぴんさんだな。なになに。ちょいとこい つに仏法を説いている所なんだ」 こいつこいつ、とウィブが抱え上げたのは確かにただの犬である。これは完全に酔って いる。 「アード。警部って満月派だっけ?」 「俺は狼男だよ。がおう!」 「きゃっ」 「がはははははははは」 がははははははははははははは、と。 笑いが大きくなるにつれて、ウィブの身体に変化が起こり始めた。 一秒で顔や手に薄茶色の毛が生え始め、二秒目にはくたびれたスーツの破ける音が喧騒 の中に響いた。 「あらら」 「がははははははははははははははは!」 アンジュが楽しそうに手を叩く。 すっかり本来の狼男の姿に戻ったウィブは野良犬を頭の上に乗せてくるくる回り始めた。 「け、警部!」 「あ、警部だ」 「あら、本当。楽しそうね」 「アードも大変だな」 くすくすと通行人たちが親しみある自警団に微笑みを送る。 自警団巡査アードはこの場合どうしたらよいのか。 簡単だ。 走って逃げた。 「アード、アード。警部、いいの?」 「訊くな」 ミュンスター通りを出ると、人通りは目に見えて減る。 まったく、とアードは小さく呟いた。 「警部も、昼間は頼りになるんだがな……」 「お酒が入ると回るからね」 「……あれだけはやめてほしいな」 少し歩くと、ハルレーテ公園が目に入る。 名物の大噴水の池に一瞬閃いたのは、人魚の尾だろう。 目をこらすまでもない。夜の闇の中でもアードの紅い瞳は昼間と変わらない明瞭さで情 報を脳に伝える。 吸血鬼。 夜に生きる魔物たちの中でも、その能力は特別に高いものとされている。 その視線はあらゆる生き物の魂を捕らえ、生み出す霧は武器となり鋼鉄さえも切り裂く。 もっとも、それは生まれながらの吸血鬼の話で、アードのような吸血鬼に噛まれて吸血 鬼になったような『噛まれ者』はそれほどの能力は持っていないのだが。 それでも、アードの能力は魔物の街レイムスタンで自警団員が勤まるほど強力なものだ。 本物の吸血鬼。 源吸血鬼と呼ばれるそれには、まだアードも一度しか出会ったことがなかった。 「話を戻していい?」 「話?」 「夢の話よ」 「ああ……」 先程黙殺した話だ。アードはおもしろくなさそうに公園のベンチに座り込んだ。 「俺が血を吸われたときの夢だよ。わかってるんだろ?」 「ええ。ワイアケットね」 ワイアケット。 アードは刀の柄を握る手に力を込めた。 そう、ワイアケットだ。 あれは、もう七年も昔の話……。 うつむいて考え込んでしまったアードを、アンジュは心配そうに見下ろした。わかって はいたが、こうまで予想通りの反応をされるとは。 (やっぱりまだワイアケットは禁句かな) ワイアケット。 アンジュの知る限り、ただ一人の源吸血鬼。 直接面識があるわけではないが、その噂は嫌でも耳に入ってくる。 レイムスタン市の魔物たちにとってのA級指名手配犯として。 「忘れろとは言わないけど……あまり思い詰めないでね? 少なくとも、ここにいる間は あっちだって何もしてこないんだから」 「わかってる。そのためにアンジュは俺をここに連れてきたんだろ」 五年前、アードはアンジュに説得されてレイムスタン市の住人となった。 その理由としては、ワイアケットから逃れるためというのが多分だ。 別段ワイアケットがアードに干渉してきたことはない。 だが、常にワイアケットに怯えていたアードには、安心して眠れる場所が確かに必要だ ったのだ。 「苦労をかけるな」 「いいのよ」 アンジュは軽く肩をすくめた。 と、アードが弾かれたようにベンチを離れた。アンジュの姿が消え雲涯に黒い炎が浮か ぶ。 アードは気合いと共に視界の端にひっかかった黒いモノに刀を一閃させた。 「ぎゃっ!」 短い悲鳴を上げて消えたのは、醜悪な猿のようなモノに蝙蝠の羽が生えた生き物だった。 「悪魔?」 「半分正解。使い魔ね。悪魔の『目』よ」 再び姿を現してアンジュが言う。 アードは辺りに視線を送ったが、離れたところに何人かのカップルや暇つぶしの者がい るだけで、それといった相手は見つからなかった。 「だから『目』だって。遠くから偵察してたのよ」 「ワイアケット……!」 「違うわね。源吸血鬼に『目』を使う力なんて無いから。使うなら蝙蝠でしょ」 後半は冗談だ。 気を遣わせてるな、とアードは目を伏せた。感謝するなら無理をしてでも笑えば良かっ たのだろうが、アードにはそう言うマネはできない。 (ワイアケットが絡んでると、冗談でも笑えない、ね。まったく……) アンジュなどは呆れてしまうのだが、アードにとってそれだけワイアケットが特別なの だろう。 アンジュは肩をすくめると、ふわりと刀から地面に降り立った。腰よりも下に伸びてい る黒髪が夜風にサラサラと流れる。 「早く帰りましょ。明日は非番なんだし、ゆっくり眠るといいわ」 「……待て。何か聞こえないか?」 「え?」 不意にアードがアンジュの口を押さえた。黙っていろ、だ。 アンジュは自分も耳を澄ませてみた。 すると、 「猫の鳴き声?」 「赤ん坊だよ」 言うが早いか、アードは歩き始めていた。本体の刀に引きずられてアンジュもその後に つく。 公園の木陰に近づくと、なるほど、その泣き声は確かに赤ん坊のものだった。 木の根元に、捨て子よろしく布に包まれて赤子が泣いていた。 「赤ん坊……何の赤ちゃんかしら? 尻尾とかはないわよね?」 応えずに、アードは赤ん坊を冷たい地面の上から抱き上げた。 すると、赤子は泣くのをやめ、驚いたように大きな目でアードを見上げた。 「金色の髪に、緑色の瞳か。お前、どこの子供だ?」 問いかけに答えられるはずもない。 アードは赤ん坊の顔に鼻を近づけてその匂いを嗅いだ。 知り合いの匂いはしない。 レイムスタン市に捨てられているからには、人間の子供ではあるまい。 アードは魔物の常識にそれほど詳しくはないので、もしかしたら少しここに寝かされて いるだけなのかもしれない。 しかし、放っておくわけにもいかない。 「どうするの?」 「一晩預かるしかないだろうな。明日届け出ればいい」 「あら」 「どうした?」 「その子、もう寝てる」 赤ん坊は、吸血鬼の腕の中で気持ちよさそうな寝息を立てていた。 3 アードの住むアパートはミュンスター通りを一つ外れた通りにある。 『BB』店長のユーゴが紹介してくれた所で、レイムスタン市に来た当時ほとんど無一 文のアードに部屋を貸してくれた大家が営んでいる。 部屋の中はアードの性格が反映されていて質素だ。例外的に明るい内装の部屋もあるが、 それはアンジュの私室である。 アードはアンジュの部屋のベッドの上に刀を放り投げると、自分の部屋のベッドに赤ん 坊を下ろした。 赤ん坊は安らかな寝顔をしている。 アードはその額にそっと手を当てた。 「…………」 温かい。 思えば、赤ん坊に触るのは初めてだ。 アードにも赤ん坊の時代はあったはずだ。 そして、その隣には今の自分のように赤ん坊を見下ろすワイアケットの姿があったはず だ。 ワイアケット。 アードの二つ年上の兄。小さい頃から兄としての誇りを持ち、いつもアードをかばって いてくれた。 どんな時でもアードの前にいて、アードに進むべき方向を教えてくれた。 狂ったのは、いつだったろう? 瞼を下ろせば、七年も前のことが鮮明に浮かび上がる。 始まりは、鮮血。 ※ その日はアードの結婚式だった。 相手は同じく街の豪士の娘で、アードとの結婚はその娘の強い希望のもとに決定した。 娘の名前は、リデルといった。 「アード!」 リデルがアードを呼ぶ時はいつも怒鳴り声だった。 美しい娘だったし、幼ななじみでもあったのでアードにも結婚を反対する理由はなかっ たが、その呼びかけだけはよして欲しかった。 「なんだよ」 「なんだじゃないでしょ。また衣装あわせから逃げたんですって? そんっなに私と結婚 するのが嫌なの?」 「嫌なわけないだろ」 「そうよね」 軽口の後、リデルはいつもアードの言葉に嬉しそうに微笑んだ。 その微笑みが好きだった。 そうワイアケットにも教えた。 「リデルの笑顔が好きなのか?」 「ああ。結婚してあの笑顔を毎日見られるなら、俺は幸せ者だな」 「のろけるな、弟」 「はは。ワイアケットも早く結婚しろよ」 「そうするよ」 やれやれ、と苦笑するワイアケット。その手がアードの肩を軽く叩いた。 「じゃあ、私もリデルのようにお前に素敵な贈り物をしようか。結婚記念にな」 「楽しみにしてるよ」 そして、ワイアケットの贈り物は鮮血と共に贈られたのだ。 教会で花嫁を待つアードのもとに。 ワイアケットは現れた。 赤いバージンロードを花嫁の血で紅く染め直し。 悲鳴を上げたのが誰だったのか、アードにはわからなかった。 とにかく、始まってしまったのだ。 死との結婚式が。 「受け取ってくれ、アード。私からの贈り物だ」 そうして差し出されたのは、小柄なリデルの身体。 呆然としながらリデルを抱きとめたアードは、冷たくなったその身体が微笑んだ時に凍 りついた。 「アード」 伸ばされる、リデルの指。 開かれた瞳は血のような紅。 気がついた時には、考えることを放棄して自分の家に逃げ込んでいた。 リデルをどうしたかは覚えていない。突き飛ばしたのか、それとも? どれくらいの時間を地下室で過ごしたのかもわからない。 だが、相当な時間はたったのだろう。 ゆっくりと扉を開いたワイアケットが、 「ここまでだ。もう、いいだろう」 そう言ったので。 「隠れんぼはもう終わりだ」 そう言ってアードに手を差し伸べたので。 「アード。一緒に行こう」 アードは……。 ※ 苦しくて、アードは目を開けた。目の前に何かがいる。 (赤ん坊?) 緑色の瞳がアードを覗き込んでいた。 「あー。あー」 「なんだ? 俺、寝てたか?」 「あー」 苦しいはずだ。赤ん坊はアードの顔に覆い被さっている。 苦笑してアードは赤ん坊を掴み上げた。 腕時計を見ると、夜中の二時。いつの間にか、アードは眠ってしまっていたらしい。 ベッドの上に服を着たまま倒れ込んでいる。 起きあがって赤ん坊を寝かせると、アードは服を脱いで椅子の背に掛けた。 「あー。うー」 赤ん坊は寝かされた状態で手足を何かを掴むように動かしていた。 「なんだ?」 「あー。あー」 「……悪いな。赤ん坊の言葉はわからないんだ」 「あー。うー。あー」 手は、アードに向かって伸ばされている。 「あー」 「…………」 ワイアケット。 彼がどうしてあのような凶行に及んだのかはわからない。 そもそも、兄が源吸血鬼だったとはアードは知らなかった。 全てはあの日に始まったのだ。 アードが全てを失ったあの日から。 「あー」 赤ん坊に手を伸ばすと、赤ん坊はアードの中指を掴んだ。 「ん?」 「あー。あー」 何が楽しいのか、赤ん坊はアードの指を掴んだまま放さない。アードはそっと赤ん坊の 頭を撫でた。 「俺も、昔は人間だったんだぞ? もしかしたら、お前の種族から見たらただの食べ物だ ったのかもしれないな」 「あー」 「俺は吸血鬼なんだが、血を吸わなくても生きていける。だからこの街にいられるんだ。 不思議だろ? ワイアケットっていう俺の兄が俺をそういうふうにしたんだ」 「うー」 赤ん坊は意味のある言葉を返さない。だから、アードは気晴らしのつもりで言った。 「俺のような『噛まれ者』は、本当は自分の意思さえも無いんだそうだ。アンジュの受け 売りだけどな。俺は色々と規格外れなんだとさ」 「あー」 「お前、親がいなくても落ち着いてるな。いい子だ」 「あー」 「おやすみ」 「あー」 赤ん坊はアードの指を放さない。 目を細めて、アードはベッドに横になった。 冷たい吸血鬼の肌に、赤ん坊の体温はとても心地よかった。 4 ハルレーテ公園には霧が満ちていた。 夜中の二時をまわった頃だ。夜行性の魔物たちも漂い始めた霧に帰路についていた。 レイムスタン市の霧には魔物が住むという。 それはそうだろう。 ここは魔物たちの街なのだから。 その霧のハルレーテ公園を歩く者がいた。 黒い修道服を着込んだ神父だ。清貧な雰囲気を身にまとい、その動作には一分の隙もな い。 だが、レイムスタン市にいる者が普通の人間であるはずがない。 「この辺りですね」 神父は独り呟いた。そこは、数時間前にアードたちが座っていたベンチだ。 神父は辺りを見回し、使い魔が切り捨てられた場所に歩み寄った。 そして言う。 「おみごと」 アードの手並みを褒めているのか。言葉は霧に吸い込まれ、誰に向けられたものでもな い。 が、 「私のアードだからな」 応えはあった。 神父のすぐ後ろに、もう一人の人物がいたのだ。声を発するまで神父もその存在を感じ ることはできなかった。 「……そちらでしたか」 「見当違いの方向に声をかけるな。私と話したいなら、まず名前を呼べ」 「悪魔に名前を連呼されたいんですか、ワイアケット?」 神父が笑顔を作ると、吸血鬼のものによく似た発達した犬歯が覗いた。ワイアケットは 無表情にそれを見るだけだ。 霧の一部が薄れ、ワイアケットの姿が神父の視界に入る。 長身の青年だ。吸血鬼のイメージに合わない白いコートを着込んでいる。肩幅が広く、 よく似合っていた。 頬は少々こけ、目だけが異様に鋭いが、それを美しいと思わせる魔性の吸血鬼。 ワイアケットは紅い瞳を神父に向けていた。 気づいて、神父が身を退ける。 「これは失礼」 ワイアケットの視線は、アードの座っていたベンチに注がれていた。 ワイアケットは神父の方を見もしないで口を開く。 「ここでお前の『目』は壊されたか」 「はい。破魔の剣で一刀両断でしたな」 「厄介か」 「いえ。ですが、あなたの弟が使うとなると、人間が使う時とは比べものにならないでし ょうね」 ワイアケットはしばらく無言でベンチを睨み付けた。その顔には表情と言うべきものは 見られない。 風が吹き、霧が大きく移動した。二人のたたずむ場所から霧が無くなり、満天の星と、 人間の街で見るものより二周りは大きい満月が天然の街灯となって公園を照らした。 「満月ですね。感覚の鋭くなる日に『目』を飛ばしたのは失敗でしたか」 「五年も働いてもらえば、充分だ」 ワイアケットの左手が、すっと頭上に挙げられた。 風が吹き、再び公園は霧に包まれる。 5 珍しく朝は快適だった。 「早く起きなさーい!」 自分では刀から五メートルも離れることのできないアンジュの怒鳴り声に起こされるま でもなくアードは覚醒していた。 だが、ベッドから起き上がろうとはしない。 吸血鬼になってから初めてだろうか、ベッドの中が温かいというのは。 掴まれた中指が、アードに苦笑を浮かばせる。結局、一晩放さなかったわけだ。 「アード!」 さて、とアードは目を瞑ったままベッドの上に上半身を起こした。 温かい傍らを見る。 そして、アードは絶句した。 さすがは魔物たちの街レイムスタン。 赤ん坊は、十歳ほどの少女へと姿を変えていた。 第二章 1 「なるほどねえ」 朝食のパンをかじりながらアンジュは向かいに座るアードに何度も頷いた。 「まあ、そういうこともあるわよ」 「そうか?」 アードは半信半疑の顔で、即席に用意された椅子に座ってパンを見つめている少女を見 た。 少女はアードの大きなシャツを着せられて外見よりも幼く見えた。 少女の肩口までの金髪や宝石のような緑の瞳は確かにあの赤ん坊と合致する。 アードが自分を見ていることに気がついて少女は微笑んだ。 「可愛い!」 あまりの愛らしさにアンジュが歓声を上げた。横からのそれに、少女がビクッと身体を 震わせる。 「ああ、怯えないでね。大丈夫。私は破魔の刀だけど、無闇に魔物って理由で斬ったりし ないから」 少女に微笑みかけ、再びアードに向き直る。 「結構あるのよ。パターンとしては一晩過ごした美女がお婆さんになるとか、実は幽霊だ ったとか」 「赤ん坊が一晩で大きくなるとはな……。親を捜すのが大変だな」 「そうね。警部に頼むしかないかしら?」 「二日酔いで寝込んでないといいんだがな」 その間も少女はずっとパンを見つめていた。 気づいてアードがパンを千切って食べやすい大きさにしてやる。 「ほら」 「あー」 少女は嬉しそうにパンを受け取った。 アンジュが眉をひそめる。 「言葉……話せないのかしら?」 「普通は話せないだろ。……おい」 「あー?」 「……みたいね」 納得して紅茶を含む。 少女は呼ばれたのに何も言われないことに不安を覚えたのか、アードの服の袖を小さな 手で引いた。 「あー。あー」 「いや……美味いか?」 「あー」 こくこくと少女は頷いた。 「こっちの言葉は通じるみたいね」 「ああ」 「あー」 「それで、どうするの? すぐに親の捜索願いを出す?」 アードはパンを飲み込んで頷いた。 「そうだな。親も心配しているだろう」 捨てられたのでなければ。 あえてアードは言葉にしなかった。少女はこちらの会話を理解している。 大きなマグカップを両手で口元に運んでいても、その緑色の目はアードに注がれていた。 真っ直ぐな瞳。 思い出の恋人に似ていた。 何となくアードは目をそらし、椅子に立てかけてある刀を掴んで立ち上がった。 「何にしても、まずはここにお前がいることを知らせてこないとな」 「?」 「お出かけよ」 アンジュの姿が消える。アードは鞘に刀身を収めた。チン、と意外なほど大きな音が鳴 る。 姿を現していなくても注目を集めるようになってるのだ、アンジュは。 少女は席を立った理由がわからないのか、中身の無くなったマグカップをテーブルに置 いてアードを見た。 「あー」 「行くぞ」 簡潔なアードの言葉だったが、少女は頷いて椅子から降りた。そしてゆっくりとアード のもとまで歩み寄る。 「あー」 「…………」 アードはしばらく沈黙し、差し出された小さな手を取った。 2 昼も夜も賑やかなミュンスター通りの人通りがまばらになるのは、夜中の二時頃から明 け方までだけだ。 その間だけは元気に騒いだ魔物たちも静かな眠りについている。 魔物に必要な睡眠は多くの場合短時間ですむ。一部例外的に数年の眠りを必要とする者 もいるが、大抵の魔物の睡眠時間は長くても五時間程度だ。短い者なら小一時間も眠らな いで健康を維持できる。 アードのような吸血鬼は一日二時間も眠れば充分だ。そう考えると、今朝のアードは少 々眠り過ぎた方に入る。 「ミュンスター通りはわかるか?」 アードが尋ねると少女は首を横に振った。 ここに来るまでも何度か似たような質問をした。もしかしたら昨日の赤ん坊の姿が何か の擬態ではないかと思ったのだが、どうやら本当に赤ん坊だったらしい。 少女を連れたアードはミュンスター通りにある自警団の本部、通称『交番』にやって来 ていた。 交番は四階建てのビルディングだ。 一階は受付になっていて、猫耳の受付嬢が眠たそうにあくびをしているところだった。 アードと変わらない外見年齢の、やや小柄な猫娘だ。ショートの髪に、大きいが形の良 い目をしている。 受付嬢はアードを認めると涙を拭いながら空いた手で挨拶をした。 「サーニャ、警部は?」 「あの人がこんな朝早くから出勤してるわけないよ。それよりどうしたの? 非番だよ」 「迷子を保護した?」 「迷子?」 サーニャはまだ半分寝ぼけている目で、アードの袖口を掴んでいる少女を見、あや、と 小さく呟いた。ごそごそと書類一式を取り出す。 「ほいほい。見つけたのはいつ? どこ? その子何族?」 「見つけたのは昨日の夜の十二時過ぎくらいだな。場所はハルレーテ公園。一晩俺の家に 泊めた。種族は知らない」 「知らない?」 サーニャは少女をじっと見た。 魔物の本性を耳だけ現したサーニャに見つめられ、少女は照れたようにはにかみ笑いを した。サーニャの頬がポッと染まる。 「何照れてるんだ」 「あれ? れ? ……確かにわからないね。ほい不明、と」 続いて。 「その子何歳?」 「……俺の方が知りたい」 「なら、訊けばいいのに。何歳かな?」 「?」 「生まれてから何年経ちましたか?」 もともと愛想の良いサーニャの子供相手用の笑顔と声音。 だが返ったのは、 「あー」 という言葉にならない声。 疑問符を浮かべるサーニャに、アードは少女が今朝起きるまで赤ん坊であったことを話 した。 「ん……じゃあしょうがないか。でも、そんなに珍しい子なら、すぐにお父さんお母さん 見つかるよ」 アードに言いつつ、少女に安心感を与えるよう計算された言葉。だてに受付嬢はやって いない。 「じゃあ、名前もわからないんだね」 「ああ」 「じゃあ、とりあえずアード名前つけてあげて。アードのことだから、おい、とか言って るんでしょ?」 その通りなのでアードは何も言わなかった。 しかし、名前? アードは眉をひそめてサーニャに目で訴えた。 もし少女に名前がなかった場合、見ず知らずの他人が名付け親になってしまうではない か。 「名付け親なんて誰だっていいよ。何気にしてるの」 「……そうだな」 アードの生まれ故郷では命名にそれなりの意義があったのだが、それは別の地方、しか も人間の話だ。 人間であった頃の価値観はこの際問題にならない。 アードが名前を考え始めたのを見て、サーニャは少女を観察した。 金色の髪。大きな目。瞳の色は宝石のような緑。 少女は黙り込んだアードを期待する顔で見上げている。会話の内容は理解しているよう なので、どんな名前をアードが口にするか、わくわくしているのだろう。 金髪はそう珍しくはない。レイムスタン市はあらゆる魔物の集まってくる所だ。緑色の 瞳も、ありふれている。 可愛らしい少女だが、種族を特定するような特徴が全くないのは困りものだ。 もちろん魔物たちはウィブ警部やサーニャのように、姿形の違いによる衝突を避けるた めに普段は人間の姿をとるようにしている。 それはレイムスタン市の不文律だ。 だが、まだ能力の低い子供は親が変化させているにしろ、種族の特徴の濃い姿をしてい ることが多い。 少女のように完璧に身元のわからない子供は非情に珍しい。 (話だと、赤ん坊の姿でも人間の姿をとっていたみたいだし) だが、さすがに人間ということはあるまい。 「人間そっくりな種族の人を捜せばいいんだね」 カチ、と雲涯が音を立てた。アンジュが賛成したのだろう。 やがて、アードが顔を上げた。サーニャがペンを取る。 「ミルク……でいいか?」 「わたしじゃないでしょ」 言われて、アードは少女を見た。おざなりに頭を撫で、訊く。 「お前のとりあえずの名前はミルクだ。それでいいか?」 「あー」 見ている方が微笑みたくなるほど満面の笑顔を少女は見せた。決まり決まり、とサーニ ャはさっそく書類に『ミルク(仮)』と記す。 判子をポンッ。 「じゃあ調べておくから。アードは帰っていいよ。親が見つかったら連絡する?」 訊かれてアードは首を横に振った。自分のする事は終わった、と意思表示する。 サーニャはカウンターをまわってミルクと名付けられた少女の前に来ると、目線を合わ せるためしゃがみ込んだ。 「じゃあ、お父さんお母さんが見つかるまで、お姉さんと一緒にいよっか」 「あー」 にっこりと笑ってミルクはサーニャの伸ばした手に自分の小さな手を乗せた。 いい子いい子、とサーニャが頭を撫でてやっている隙に、アードは回れ右をして出口へ と向かった。 ミルクが気がついて振り返る。 「はい、お兄ちゃんにバイバイして」 と、 「あ!」 ミルクが駆け出した。そして、扉を開けようとしたアードの腰に勢いよく抱きついた。 「なんだ?」 「あー。あー。あー」 「ほら、お前はあっちだ」 「う……」 ミルクの瞳が揺れた。あまり子供に縁のないアードはその理由がわからなかったが、さ すがにサーニャの反応は早かった。 「ああ、はいはい、泣かないで。わかりました、ミルクちゃんの面倒は自警団巡査のアー ドくんにお願いしようね」 「サーニャ?」 「もう……わからないのかなっ」 サーニャの手が雲涯を鞘からわずかに抜いた。 同時に長い黒髪を舞わせてアンジュがアードの頭上に現れる。 「その子、あなたになついちゃってるのよ。もうあなたが面倒見るしかないでしょ」 「ほい、わたしもそう思うよ」 「なついた?」 アードは腰に抱きついて離れないミルクの金色の髪を見た。 「どうして?」 「何もわからない状況で朝起きたら一緒にいて、御飯まで食べさせてくれた人に子供がな ついちゃ変?」 「ああ……」 なるほど、とアードは呟いた。確かに親が見つかるまではそういう相手がそばにいてく れた方が安心するだろう。 特に、ミルクの場合は今朝まで赤ん坊だったのだ。 せっかくの休日だが、まあ仕方ないだろう。 アードはレイムスタン市の自警団に所属する者なのだし。 「わかった。ミルク、放してくれ。俺と一緒に親を待とうな」 「あー」 ようやくミルクはアードの身体を放した。それでも袖は掴んだままだったが。 サーニャが刀を放そうとした。と、それを制してアンジュが言う。 「服も買ってあげるのよ」 チン、と鞘に収まる。 ミルクはアードのシャツ一枚という格好だった。子供だとはいえ、女の子に対してこれ はないであろう。 アードはサーニャの目配せをした。 「ほい。経費で落とすから、ミルクちゃんの服を買ってきて。こっちは親捜しの手配をし ておくから」 領収書忘れないでね、とつけ足す。 アードは服屋などが開く時間になるまで待ってから交番を出た。 もちろん、その袖口はミルクに掴まれたままだ。 3 アイリーンはメモを片手にミュンスター通りを歩いていると、不思議なものを見た。 養父の店の常連であるアードとその腰に吊られた破魔の刀雲涯、そしてアードの袖を掴 んでいる小さな少女だ。 気がつかないので見ていると、アードたちは開店したばかりの服屋に入ってしまい、ア イリーンの視界から外れてしまった。 「……アードさんの娘さん?」 そんな話は聞いたことがない。誰か友人の子供か何かだろうか。 好奇心に負けてアイリーンは金髪を揺らして小走りに服屋に向かった。 扉を開けるとチリンチリンと耳に快い鈴の音が鳴る。 「いらっしゃい」 出迎えてくれたのは優しそうな老婆だ。同じ通りの店の人だが『BB』に来たことが無 い人なので、アイリーンは面識がない。 店の奥を見ると、やはりアードが少女を連れていた。 「アードさん」 「ああ、アイリーン」 「おはようございます」 微笑んで言うと、黒髪の青年は軽く頷いた。 実は、アイリーンはアードに「おはよう」を言ってもらったことがない。アードがレイ ムスタン市にやって来てから、もう五年は経つのだが。 「あなたも、おはよう」 「あー」 近くで少女を見たアイリーンは驚きに目を丸くした。 「え?」 思わず口から声が漏れる。 「あー」 「可愛い!」 なぜかアイリーンの頬が朱色に染まった。 アードはサーニャもそうだったことに苦笑した。女の子というものはこういう反応をす るものなのだろうか。 アイリーンは熱い頬に手を当てた。 「あれ? 私?」 「あー」 ミルクが微笑むと、アイリーンは心の底から温かいものがこみ上げてくるのを感じた。 温かい、とても温かい何か。 知らないうちに、しゃがみ込んでいた。 「見ない子ですね。お友達のお子さんですか?」 「いや、迷子だ。今サーニャが親を捜す手配をしている」 「そうなんですか……」 迷子と聞いて、アイリーンの顔に悲しみが浮かんだ。 アイリーンは他人の喜びを自分の喜びに、他人の悲しみを自分の悲しみにしてしまう娘 だ。アードは五年間のつきあいでそのことを良く知っていた。 悪い意味でなく、馬鹿にしているのではなく、アードは評価している。 いい子だ、と。 どういう育ち方をしたらこのような娘になるのか。アードはアイリーンの養父であるユ ーゴを本当に尊敬している。 アイリーンの形の良い指が、そっとミルクの髪に触れた。 「私たち、髪の色も瞳の色も同じね。お名前は?」 「あー」 「ミルクだ。しゃべれないから俺がつけた」 すると、アイリーンはくすくすと笑った。優しい目でアードを見上げる。 「可愛らしい名前をつけるんですね。意外です」 「……そうか?」 「はい」 言われてアードはばつの悪い顔をした。 「アードさんて、時々恐い顔をしますよね? だから、何か思い詰めていることでもある のかと思っていたんです。こんな可愛らしい名前が思いつくのなら、大丈夫ですね」 心が。 しかし、アードの方でも少し意外だった。 アイリーンにはワイアケットのことなどは話していなかったのだが、そんなふうに自分 が見られていたとは。 「少し、心配だったんです」 微笑み。 なぜかわからないが、アードはアンジュに感謝したい気持ちになった。 「あー」 「服を買うの? 私が選んであげるね」 「頼む。そうしてくれ」 アンジュに頼もうと思っていたが、アードとしてはアイリーンでも問題はない。 待つこと三十分。 試着室から出てきたミルクは可愛らしいピンクのエプロンドレスを着ていた。 スカートの長さは膝下数センチで、二つ折りにした白い靴下が微笑みを誘う。お人形さ んのような、とはこういうことだろう。 「あら、やっぱり可愛い!」 アンジュが花丸をつけた。着物の懐から何かを取り出して駆け寄る。 「このリボンつけてみて」 「可愛い……アンジュさんがつけていたんですか?」 「昔ね。一度つけて似合わなかったから、その後使ってなかったの」 楽しそうな二人と、されるがままにされているミルク。 アードが近づくと、ミルクの顔がぱっと輝いた。 「あー。あー」 「ん?」 アードはアンジュを見た。アンジュは知らんぷりをする。 アイリーンを見ると、アイリーンが何か言いかけて、アンジュに止められる。 「あー。あー」 「……よく似合ってる」 「あー」 とても嬉しそうにミルクはアードに頷いた。 アンジュが正解、と満足げに笑う。 アイリーンは他にもミルクの服を選んでいた。全部で四着。親が見つかるまでどれくら いかかるかわからないからだ。 服屋を出るとアイリーンはアードに訊いた。 「昨日お店を出た後にミルクちゃんを見つけたんですか?」 「ああ。ハルレーテ公園で。その時は赤ん坊だったけどな」 「赤ん坊?」 一通り説明すると、アイリーンは納得した。 「そんな種族があるんですね。新しく来た人でしょうか?」 「それならすぐに届け出があるはずだ。来て早々の問題なら、死神が出てくるしな」 「そうですね」 「あー?」 袖を引かれ、アードはミルクに説明した。 「死神はレイムスタンの市長だ。魔物のために土地を提供した人だな。何族かはわからな いが、とても強い力を持っていて、死神と呼ばれている。本名は俺も知らないな」 「私も」 「あー」 アードは交番へ向かっていた。 そういえば、とアイリーンはおつかいの途中であることを思い出した。 満月の次の日は『BB』で出す料理の材料を注文する日なのだ。 交番の前でアイリーンはアードにちょこんとおじぎをして別れた。 ミルクもそうだが、アイリーンも十六歳ほどに見える少女だ。日頃子供と縁のないアー ドは不思議な気がした。 人間であった頃も、周りにいたのは同年代かそれより上の者ばかりであった。自分より 幼い者とほとんど接さずにアードは成長したのだ。 そのようなことを考え、アードは交番の扉を開けた。 4 ウィブ警部が出勤してきたのは時計の針が四時を示した頃だった。 アードは失念していたが、今日はウィブは夜勤の日だったのだ。待てども待てども来な いのは当たり前である。 「よお、今日は非番じゃなかったのか」 「警部。そのことですが」 サーニャの差し入れのクッキーをウィブにも勧めながらアードが説明すると、ウィブは 感心したように頷いた。 「はっはっは。お前は子供受けは悪い男だと思っていたがな。まあ今から子育てを学んで おけば将来の役には立つだろう」 「警部……笑い事じゃないんですが。親も捜しているでしょうし」 「さて、それはどうかな」 意味ありげにウィブは笑った。 アードが怪訝そうな顔をするのを見て、 「捜索願も出ていないんだろう? なら、捜しているという線は薄いだろう。そもそも、 公園に自分の子供を置いていく親などいないぞ」 「魔物でも?」 「お前な……」 気分を悪くしたようにウィブはアードを軽く睨む。 「まあ、お前は元は人間だからそういう偏見もあるだろうがな。あまり魔物と人間が違う ような発言はつつしめ」 「はい……」 「魔物ならそういうこともあるだろう、という考えは危険だぞ」 「まあまあ。アードの分のクッキーをまわすから、許してあげて」 アンジュの手がアードの取り分を数個ウィブのもとに移動させる。アンジュのウィンク に、ウィブは深く息をついた。 ウィブとてアードを責めているわけではないのだ。ただ、アードが『噛まれ者』である ことを知らない者がアードの言葉を聞いたなら、おそらく気を悪くして怒っただろう。 アードの発言は『人間』としてはまことに当たり前のものだ。もしここが人間の街だっ たならアードは迷うことなくミルクを捨て子だとして報告しただろう。 だが、アードは親もミルクを探しているという方向性で行動した。 ここが魔物たちの街だという理由で。 アードの考えはわかるのだ。 アードは魔物としての常識が足りないところがある。だから、常に人間の常識とは違う かもしれないことを想定して行動するのだ。 たまに、それが魔物全般に対する偏見のように見えるだけだ。 『噛まれ者』は人間として育った魔物だ。 二つのギャップが『噛まれ者』を混乱させる。 その辺りの事情を、ウィブたちはよくわかっていた。 「難儀なものだな。普通は無いことだからな、自我のある『噛まれ者』なんて」 「そうよね。いい趣味してるわ」 ワイアケットは、と口にはしない。 それでも、空気は変わる。アードの気が張りつめたのだ。 不思議そうにミルクがアードを見上げた。 「息苦しいから力を抜きなさい」 「ああ」 憮然とした顔のままアードは茶を啜った。 その袖をミルクが引く。 「あー。あー」 「クッキーが欲しいんじゃない?」 「ほら、俺のをやろう」 どうせアードのクッキーである。節くれだったウィブの指がクッキーをつまみ上げてミ ルクの小さな口に運ぶ。 ミルクは嬉しそうにそれにかじりついた。 「美味いか?」 「あー」 こくこくと頷くミルク。う、とウィブはガラでもなく赤くなった。 「うう、こんな孫が欲しいな」 「あ、その気持ちわかる」 アンジュも頷いた。 おいおい、とアードが呆れた視線を頬の筋肉のゆるんでいる二人に送る。 「女の子じゃあるまいし、それくらいで騒がないでくださいよ」 「おお、今馬鹿にしたかね?」 「今のは女を馬鹿にした発言と思っていいわね?」 アードは溜息をついた。 それからいくら待ってもミルクを捜しているという届け出はなかった。また、どこかで 子供がいなくなったという情報も入っては来なかった。 これは意外なことだ。 アードたちはレイムスタン市の情報で、交番で手に入らないものは無いと思っている。 それだけ強力な情報網を自警団は持っているのだ。 焦れたアードは席を立って一階のサーニャのもとを尋ねた。 「何もないか?」 「何もないよ。わかってたけど、捨て子だね。でも、子供がいなくなった人の情報も無い のは変だなあ……。普通近所とかに知られてるよね」 「そうだな。……しかし、親が見つからない場合、ミルクをどうする?」 「わたしに訊かないでよ。警部に訊けばいいでしょ」 「警部の所には今ミルクがいる」 「あら」 感心したようにアードを見る。 「アードにもそんな気配りができたんだ」 アードは沈黙するしかなかった。受付を去りかけて、だが振り返る。 「本当に何も無いのか? ミルクに関係なさそうなものも」 「なんだ、さっきの何もないのかって、他の情報も合わせて? ええと……夜中の二時過 ぎくらいからハルレーテ公園に濃霧発生……異常気象だね。他には喧嘩があったりとか、 市長がここに来てエルダー教会の建て直しをするからって言ったとか」 「あの教会、まだ壊してもなかったな。建て直しの話が出たのは三年前だろ」 「市長ものんびりしてるからね」 まったくだ。 エルダー教会はそこに住んでいた神父が死んでから何十年も放っておかれたので、すで に廃屋と化している。 教会は他にもいくつかあるので壊すのだとアードは思っていたが、いつの間にか建て直 すことになって、だが何をするまでもなく今に至っている。 「それに、教会壊すのには勇気がいるじゃない。その辺の決心がようやくついたんじゃな いかな」 建て直すためとはいえ、教会を破壊するのは信者にとって恐ろしいことだ。そして、魔 物たちのほとんどは神の実在を信じている。 魔物がいるのだから、神がいてもおかしくはない。正直言って、人間などより魔物の信 仰は切実である。 何せ、人間すらそうそう救ってはくれない神だ。あらゆる教義で悪とされている魔物が 救われるには、人間以上の信仰が必要となるだろう。 ちなみに、アードは神の実在は信じているが、神の救いは魔物になると同時に諦めてい る。 アードはサーニャに背を向けて言った。 「神なんて怖がることはない。……どうせ、何の手出しもしてこないんだ」 5 ウィブに連れられて市長の家にやって来たアードは、以前見た時と調度品の位置が変わ っていないことを確認した。置いてある物も何も変わってはいない。 以前来た時は二年も前なのだが。 「こちらでお待ちを。主人は仕事中なので、少々遅れるかもしれませんが……」 という執事の言葉は嘘だっただろうか。市長の死神はすぐに姿を現した。 「お仕事中だったのでは?」 「仕事をしていたけど、切り上げてきたのだよ」 ソファーから腰を上げて挨拶をするウィブにアードもならい、あらかじめ言っておいた ミルクもそれにならう。 可愛らしいミルクのおじぎに、死神の顔に笑みが浮かんだ。 死神の見た目は二十代の後半くらいだ。黒髪に、はっとするような金色の瞳。美しいと いうのになぜか印象に残らない顔も以前見た通りだ。 アードは直感的に感じる。 これは、偽物だ。 本物の身体ではない。本物の死神は別の所にいてアードたちを見ているのだ。 『噛まれ者』とはいえ、たぐいまれな力を持つ吸血鬼だからわかることだ。 いくら優れていても、真眼を持たない他の者は気づけないだろう。 と、 「あー?」 ミルクが首をひねった。死神を緑色の瞳でじっと見つめ、とうとう指でさして騒ぎ始め た。 「あー。あー」 「どうした、ミルク。市長の死神さんだよ? すみません、市長。今日はこの子のことで お話がありまして。……アード」 「あ……」 アードの手がミルクの口を塞いで、ソファーに腰を下ろした。楽しそうに死神が笑った。 「ははは。なるほど、真眼を持っている子か。珍しい子だね。それで、用件は何かな?」 「ああ……真眼?」 ウィブがアードを見るが、アードは座ったらどうですか、と無視した。 アードもよくは知らない。アードの知識は全てアンジュの受け売りなのだ。 「実はアードが迷子を保護しましてね。親の情報は一切無し。それで、街の外の子ではな いかとうかがいに参ったんですよ」 「なるほど。市民以外の街への侵入は常に私に報告されるからね。……しかし、そんな子 供が街に入った話は聞かないな。そもそも、その子は見かけ通りの年齢ではないだろう」 「わかるのか?」 反射的にぞんざいな口調で尋ねたが、死神はアードに頷いてみせた。 「どこから見ても赤ん坊だね」 「はあ……」 さすがと言うか何と言うか。吸血鬼の真眼を遙かに越える性能の眼を持っているらしい。 死神が呼ぶと、執事が人数分の茶と菓子を運んできた。ミルクは喜んだが、クッキーな どを食べてきたアードは眉をしかめた。 「あれ? マフィンは嫌いかい?」 「いえ……そんなことないよな、アード」 「頂きます」 「欲しければおかわりもあるから、マルクトに頼むといい。……少なくとも、お嬢さんに は必要みたいだね」 その通りだった。 満足したミルクは執事のマルクトに笑顔を見せて赤面させ、死神の方を見て困った顔を した。 「あー」 「私でいいよ」 アードはともかく、ウィブにとっては不可解な言葉。だが理解して、ミルクは死神に笑 顔とおじぎを送った。 「どういたしまして」 その時の死神の微笑みは、何と言ったらいいのか、とてもふんわりとやわらかいものだ った。 かつて誰も見たことがないほど。 その後、ウィブから最近の警備状況などを聞かされた死神は、不意にアードに言った。 「ワイアケットという名前に聞き覚えはあるね?」 「!」 アードの顔がこわばった。腰が浮きかけるのをウィブが制す。 アードが見ると、死神はなるほどという顔をした。 「やはり君を吸血鬼にしたのは彼か。確かA級指名手配されていたな」 「奴が……どうかしたんですか?」 まさか、という思いがした。死神の口からワイアケットの名が出るということは。 ワイアケットがこの街にいるということ。 ワイアケットが。 「アード!」 アードは耳元で呼ばれて身体を震わした。 いつの間にか、アンジュが現れていた。 刀はウィブによってわずかだけ引き抜かれていた。 「いい? 落ち着きなさい。まだ決まったわけじゃないんだから」 「ああ……」 「はい、市長どうぞ」 「アンジュは優秀だね。アード、私は昨夜から不穏な気を感じていてね。君によく似た、 つまり、市民以外の吸血鬼族の力を街に感じているのだ。そして、自由に動ける吸血鬼は 源吸血鬼以外にはいない。君のような例外を除けばね。源吸血鬼となると人数にも限りが ある。感じないか? ワイアケットの気を」 「そんなものは全く」 アードは肩をすくめた。ワイアケットが来たわけではないようだ。 もっとも、まだ可能性は残っているが。 「ふむ、『噛まれ者』は親である源吸血鬼の気配に敏感だそうだから、もしかしたらと思 ったが……アードにわからないとなると他の源吸血鬼か、その命令で動いている『噛まれ 者』か……」 死神は顎に手を当てて考え込んだ。ウィブも同様だ。 ワイアケットでないにしても、源吸血鬼やその配下の『噛まれ者』がレイムスタン市に いるのは好ましくない。 自警団が追い払うしかないだろう。 「もしワイアケットだった場合は?」 アードが訊くと、死神はこともなげに言った。 「相手は犯罪者だ。君たちの出番になるだろうね」 6 「アード、しばらくミルクを預かってくれるか?」 ミュンスター通りを歩きながらウィブはアードに言った。 ミルクの手を引きながら後ろについていたアードは仕方がない、と頷いた。 「費用はこちらで持つ。しかし、市長にも情報が行っていないとはな。この街の子でも外 から入ってきた者でもないとすると、ミルクはいったい何だ?」 「さあ。人間というオチはつかないと思いますよ。何か特別な方法で送られてきた子供か もしれない」 「使い魔ね」 アードの肩に担がれた刀に座って、アンジュがアードの言いたいことを先に言う。 「使い魔? そんなものを見かけたのか」 「昨夜警部と別れた後、ミルクを見つけた公園で斬りました」 「それは失敗したな。もしかしたら、その使い魔はミルクの世話を命じられた奴かもしれ ない」 「ああ、なるほど」 そう考えれば、公園に使い魔がいた説明にはなる。 なにせ、とアンジュ。 「見かけるなり斬っちゃったからね」 「その辺りはアードの悪い癖だな。投降を呼びかける前に攻撃する。自警団にあるまじき ことだぞ」 「はあ……」 常日頃から言われていることなので、アードも反省した。もし使い魔がミルクの保護者 のものだったら、アードはとんでもないことをしたことになる。 だが、アードは袖を引いてミルクが微笑んだので安心した。 ミルクは、気にしていない、と微笑んだように見えた。 と、ウィブが対向者にぶつかった。身長百九十を越える大男に体当たりされたその修道 服の男は見事に尻餅をつく。 「おっと……すまないな、神父さん」 「いえ。あ、どうも」 人の良さそうな神父はウィブの手を借りて起き上がり、服をはたいて礼を言った。 アンジュはくすくすと笑っていた。視点が高いアンジュはウィブと神父が双方ともよそ 見をして歩いているのを見て、ぶつかるだろうと予想していたのだ。 神父が不思議そうにアンジュを見る。 アンジュが笑っている理由に気づいたアードはややこしくなる前に刀を鞘におさめた。 「何を笑っていたんでしょうね」 「さあ」 「おや」 神父は少し驚いた顔をしてミルクを見た。 珍しいものを見た、という顔。 反対に、ミルクはアードの後ろに隠れてしまった。アードは怪訝に思った。ミルクがこ んな反応をするとは。 「恥ずかしがり屋さんですね。では」 会釈して去っていく。 アードの目には普通の神父にしか見えない。何族かはわからないが、それは道行く人々 皆がそうだ。 とりわけミルクが怯えるような相手には見えない。 「ミルク? どうした?」 「あー。あー」 何かを訴えようとしているのはわかる。しかし、ミルクの口から出るのは声であって、 言葉ではない。 アードとウィブは顔を見合わせた。 雲涯が震えてカタカタと音を立てた。 「今の神父、ミルクの天敵の種族なんじゃないかしら」 「ミルク、今の奴が恐いのか?」 「あー」 いつもより強くアードの袖を取る。どうやら、肯定しているらしい。 魔物たちの街レイムスタンだ。もちろん中にはアードやウィブの天敵もいるだろう。 だからこそ、魔物たちは人間の姿をとる。 それは、お互いの平穏のためだ。 『BB』に入ると、すでに中にはかなりの数の客がいた。 見回したアードは、カウンター席しか空いていないのを見て、ウィブを左に、ミルクを 右に自分も座った。ふわりとミルクの右にはアンジュが姿を現す。 「いらっしゃい。あら、アードさん。子供をこんな所に連れて来ちゃ行けませんよ」 たしなめる声で、しかし笑顔でやって来たのはアイリーンだ。 ミルクが着ているようなエプロンドレス姿でお盆を胸に抱えているのは愛らしく、バー に相応しくないようで不思議と溶け込んでいる。 ここで育ったのだから、それも頷けるか。 「よお、アイリーン。二日ぶり」 「おじさま! もう、満月の日は来てくれないんですから」 「いいんだ、そいつは。昔暴れたあげくに吐いて倒れたんだからな」 「はっはっは。ユーゴが満月の日に店を早く閉めるのはそれからだったな」 「いい教訓になったよ」 カウンターを挟んでユーゴとウィブは笑い合った。二人は子供の頃からの親友だという。 生まれもレイムスタン市の二人は、街の人口がまだ数千の頃からの変遷を見てきた。五 年前にやって来たアードなどは二人から見ればまだまだ新参者である。 何かとアードの世話を焼きたがるのも、その辺りに由来している。 大男二人の会話を無視してアードはワインとホットミルクを注文した。アイリーンが愛 想良く注文を繰り返す。 「アード、その子がミルクちゃんか。可愛い子じゃないか」 「アイリーンに聞いたのか」 「お前によくなついているそうだな。珍しい子だ。アードが子供を見捨てられない奴だと 見抜いているのかな」 「あー」 ユーゴがいきなりミルクの桜色の頬を摘んだのでアードはびっくりした。 しかし、ミルクの方は驚きもせず、むしろ喜んで微笑んだ。 「うんうん。可愛い子だ」 手慣れている。アイリーンの幼い頃と重ねているのだろう。ウィブの注文のカクテルを 作りながらもユーゴの頬はゆるんでいた。 「アイリーンによく似ている。あの子も天使のようだったからな」 「お養父さん、褒めてもお酒の量は増やしてあげませんからね」 「はっはっは」 笑ったが、ユーゴの顔は少し残念そうだった。 「あー」 「少し熱い? じゃあ、お姉さんがふーふーしてあげるね」 姉妹のように似ている二人は、微笑ましい。 それとなくうかがっていた他の客たちにも微笑みが浮かぶほどに。 それから一時間ほどはミルクのことを話して過ぎた。ユーゴや他の常連たちがこぞって 聞きたがったからだ。 話し手となるはずのアードは一歩退き、代わりにアンジュが得意気に語っていた。 ミルクには不思議な魅力があった。 最初は物珍しげに寄ってきただけの者も、自分にミルクの微笑みが向けられた途端、ま るでミルクが自分の娘や妹であるかのように優しい顔をするようになるのだ。 「本当に可愛い娘だな」 「ああ」 ユーゴの言葉に、ウィブは頷いた。アードも、頷きはしなかったが、心の中では肯定し ていた。 すると、その心の肯定が聞こえたかのようにミルクはアードを振り向いた。 笑顔が、アードの心をくすぐった。自然と、アードの顔にも笑みが浮かぶ。 こんなに優しい気分になったのはどれだけぶりだろう。 ワイアケットによって全てが奪われ、アードから心の底からの笑みは失われたはずだ。 どんなに嬉しくても、人間であった頃のそれを上回ることはなかったはずだ。 静かにミルクを見るアードを、保護者としてアンジュは嬉しく思った。傍らに立つアイ リーンにそっと囁く。 「ミルクには悪いけど、あの子がアードに拾われて、あたしは嬉しいわ。ちょっと昨日夢 見が悪かったみたいでさ。アードって、夢見が悪いと二、三日機嫌が戻らないじゃない? いい気晴らしになっていいわ」 「本当にお母さんみたいですね」 「放っておいて」 くすくすと女二人は笑う。 同時にドッと店内がわいた。ミルクが自分で水を汲もうと立ち上がったアードの腰に張 り付いて離れなかったのだ。 仕方なくミルクを抱え上げてコップに水を注いだアードは、一口それを飲みながら思っ た。 (悪い気分じゃない) と。