「ウロボロス」 人編 死が世界を埋め尽くしていた。 五年前のウロボロスの門の開門より人の住むことの適わなくなった場所、世界の中央、 聖地デ・ダナーン。遠くから見たそこはまさに闇の城と言って過言ではなかった。かつて 繁栄を極めた街は全て廃墟と化し、至る場所に闇の柱が立っていた。 そこに近寄る者など、いないはずだった。 だが今、そのような場所を一人の女が疾風の速さで駆け抜けていた。 月光を束ねた髪、子供の頃に見上げた蒼天を宿した瞳、成熟した肢体は黄金律と例えら れる妙なるもの。フェデルであり、ブリュンヒルデであった。すでに人のいない場所を人 の姿で歩き回る必要もなく、瞳と同色の鎧に身を包み背の半ばからの長い三つ編みを背後 に伸ばしての風の疾走だ。 「邪魔だ!」 時折銀光が煌めき、手にしたミストルテインの槍が進行を妨げる闇の化け物を蹴散らす。 まさに颶風。 止めることの適わない戦乙女は、ほどなくして目的の神殿に辿り着いた。巨大な柱が林 立する神殿は、かつて守護聖と呼ばれた人々が守り通してきた場所だ。 「…………」 神殿に足を踏み入れると、フェデルは目を細めた。 「出てくるがいい、闇の者たちよ」 その言葉が引き金だったのか、神殿の各所に潜んでいた闇の化け物たちが一斉にフェデ ルの前に現れた。以前もこの場所で似たような状況があったことを思い出し、フェデルは しばし瞼を下ろした。 「だが、今貴様らの相手をしている暇は無い──戦乙女たちよ!」 フェデルの声が世界を震わせた。それは美しい鈴の音色にも似た感覚で大気を伝わり、 天への呼びかけを届かせる。 直後、フェデルの身体が蒼い光を発した。光は一瞬にして巨大な球となり闇の化け物た ちの闇を押し流していった。 悲鳴。 追い打ちをかけるかのようにその光が大きく九つに分裂した。もちろん一つはフェデル だが、他の八つの光の球には別の女たちが存在していた。フェデルと同じように蒼天映す 鎧に身を包んだ、美しい女戦士たちだ。 「ゲルヒルデ、召喚に応じたり」 「オルトリンデ、召喚に応じたり」 「ヴァルトラウテ、召喚に応じたり」 「シュヴェルトライテ、召喚に応じたり」 「ヘルムヴィーゲ、召喚に応じたり」 「ジークルーネ、召喚に応じたり」 「グリムゲルデ、召喚に応じたり」 「ロスヴァイセ、召喚に応じたり。──我らヴァルキューリ、これを正義の闘いと認め、 加勢する」 最後にフェデルが槍を振り上げ、言った。 「同じくブリュンヒルデ、参る!」 万の閃光が闇を引き裂いた。猛烈な勢いで蒼い光が走り、銀色の刃がひるがえる。闇の 悲鳴が世界を埋め尽くし、光が世界を覆い尽くした。 「浄罪」 「浄罪」 「浄罪」 「浄罪」 「浄罪」 「浄罪」 「浄罪」 「浄罪」 「浄罪」 九つの声が重なり、その中からフェデルが駆け抜けた。 目指すは──ウロボロスの門。 「はあ!」 道を塞ぐ闇に、フェデルは白銀の槍を真っ直ぐに投げつけた。槍は闇を貫通し、さらに 奥の闇まで貫通する。槍の通った後に闇は無く、勢いを緩めない槍に疾走で追いついたフ ェデルはそれを掴んで強く地面を蹴った。 両側の柱が途切れる。 そして、フェデルは辿り着いた。 ※ そこは祭壇だった。巨大なホールの中はもともと華美なほどに装飾が施されていたのだ が、今は崩れ見る影もない。一際高くなった舞台のような場所があり、その上にウロボロ スの門はあった。 喰らい合う二匹の竜を頂点とする、人の背丈を遙かに越える大きさの門。何百年も閉じ られていた門は、五年前から暗い内側を見せ開いていた。 門の向こう側は、闇。 闇とは何だろう、とフェデルは不意に思った。ウロボロスの門は闇を閉じこめるために 存在しているという。 いつから? 誰が? 忘我の時間は一瞬だった。 「──オルディン」 門の前に立つ影に、フェデルは呼びかけた。ゆっくりと振り返ったその姿に、フェデル は無言で槍を向けた。 オルディンは、何一つ変わってはいなかった。 漆黒の髪は背にした闇の色。瞳はフェデルの蒼天とは違うより深い蒼の色。冷徹とさえ 見える端正な顔の造作、炎躍る紅の鎧を苦もなく着込んだ戦士の身体。 ──伝説とさえなった紅い聖戦士。 「……五年ぶりだが変わらないな、お前は」 「あなたも」 「今は闇よりローゲの名を与えられている」 「我は神よりブリュンヒルデの名を」 互いが一度死に、新たな名を得て再び相まみえた。その数奇な運命に思いをはせること も出来ず、二人はそれぞれの得物を手に取った。 闘いが始まった。 ※ 「何故あなたは我を育てた……こんな運命に巻き込むのなら、何故」 「……わからない。ただ気づいた時にはお前がいた。鎖に繋がれたお前が。私ではない。 お前が私を選んだ──神の娘」 「神の娘だとか、そんなことはどうでもいい。我はあなたと一緒でなら、どこにでも行く というのに……一人になるように育てたのはあなただ!」 「お前は私の何だ」 「我は……」 「お前は私の後継者。我が後を継ぎ、生きよ!」 それは誤算だったのか。 あの日、自分だけではなく彼女まで命を失ったことは。 「違う!」 フェデルは叫んだ。全身で否定の意を表した。 「我は違う……我は……あなたの恋人だ!」 「ならば、なおのこと生きよ!」 彼の肯定に涙を流す。 欲しかったものは何だろう。 「ウロボロスの門は開かれた……世界には闇が広がり、人々は希望を求めた。そのことに より、神々による崩壊の計画は消え去ったはず」 「それはどういう──」 「神聖力は神への道を開く術……お前にはまだ気づけなかっただろう、希望無き腐敗した 人類を神々が消し去ろうとしていたことを」 「それでは……」 「全ては大きな崩壊を避けるため。喪われた罪無き命に許しを乞おうとは思わない。…… ウロボロスの門も、闇も、そして守護聖も今日ここで終わる!」 「では、何故我を」 「闇を祓うのは英雄でなければならない。守護聖ではない、守護聖を越える者。お前は、 人々を正しい方向へ導いていけ」 「……勝手だ」 ※ ウロボロスの門が閉じた。 世界を闇に覆った門が、あっさりと。 そして闘いの中、フェデルが槍を脇に抱えて颶風の突進を見せた時、オルディンはその 剣を下ろした。 それは、五年前の鏡のような出来事。 白銀の槍は、オルディンの脇を通り過ぎた。 「フェデ──」 「我はあなたの人形なんかじゃない……」 彼女の腕は彼を抱き締め、彼の腕は彼女を抱き留めていた。 直後、八本の槍が二人の身体を貫いた。 ※ 「許さん……お前は……」 「ブリュンヒルデは闇のローゲを討ち取った……そして、フェデルはオルディンと共に行 きます──」 鮮血が、ウロボロスの門を濡らした。だが、その門が開かれることはない。 「あなたを愛した我の夢……今度こそ──」 「馬鹿が……」 強くなった抱き締めてくれる腕に、フェデルは微笑みを浮かべた。 ──そうして二人の命は終わった。 終編 その日は祭りが行われていた。世界を覆った闇が祓われて十五年、人々は闇という闇を 祓った戦乙女に感謝する祭りを毎年欠かさずに行っていた。特に八人の戦乙女が世界中に 飛び立ったという聖地デ・ダナーンでの祭りは華やかで、毎年多くの人々がそこを訪れて いた。 その少女も、そんな外来客の一人であった。船乗りである兄の船に便乗する形で内陸ま でやってきた少女は、ふと目にしたものに眉根を寄せて駆け寄った。少女に付き添ってい た子犬もそれに従い、小さく首を傾げる。 「お祖父さん、大丈夫ですか?」 「おお、すまんな……連れがどこかに行ってしまってな」 ひっきりなしに人の往来がある中でうずくまっていた老人に手を貸すと、少女はどこか 人気の無い所はと探したが、初めて来た場所では思いつくはずもない。すると、老人がす まなそうに綺麗に揃った白い歯を見せて言った。 「神殿に連れていってくれんか。そこに向かう途中じゃったんじゃ」 「神殿……わかりました」 にっこりと微笑むと、少女は老人を支えて人波に乗って歩いていった。神殿こそ、中央 のさらに中央。人々が感謝する戦乙女も、そこから飛び立ったという。 少女は、足元の子犬を踏まないように注意しながら老人に尋ねた。 「でも、神殿だと余計に人がいるから、待ち合わせ出来ないんじゃ……」 「大丈夫じゃよ。わしらが向かおうとしていたのは、神殿の奥の方じゃからな」 「奥?」 訝しがった少女は言われるままに神殿に向かうと、そこで人波を押さえていた衛兵が老 人に敬礼して道を譲ってくれたことに目を丸くした。老人はそんな少女に楽しそうに笑う と、両脇に巨大な柱が何本も並ぶ長い長い廊下の先を指差した。 「わしはここで待っているでな。先に言ってわしの連れを呼んできてくれんか。あんたと 同じくらいの、十五、六の男じゃよ」 「お孫さんですか?」 「そんなもんじゃよ」 「じゃあ、待っていてくださいね」 そう言って少女が廊下を抜けると、そこは広い空間になっていた。神殿の中とは思えな いくらい至るところに瓦礫が転がり、装飾らしきものも見当たらない。ただ、舞台のよう に一段高くなった場所に喰らい合う二匹の竜を頂点とした門が存在していた。 「あれって……ウロボロスの──」 「お師匠か?」 「きゃっ」 突然の声に、少女が悲鳴を上げる。主人のその声に、子犬は守るようにひゃんと鳴いた。 子犬が毛を逆立てたのは、門の方向だ。 そこに、少年が立っていた。少女と同じくらいという話だったが、もう少し年上に見え る大人びた少年だった。 驚きはしたが相手のことを少しでもわかっている少女は、胸の高鳴りを押さえて言った。 「あの、お祖父さんが廊下にいるから……」 言いかけた言葉が、消える。 少年の背後にある門が、完全に目に入ったためだった。それに気づいたのか、少年が舞 台を降りる。 「……あれは、戦乙女とは別に闇を祓った人たちなんだって、お師匠さまが言っていた。 お師匠さまの息子と、その嫁だってさ」 「どうして……」 少女は信じられないものを見たという顔で目を大きく見開いていた。 門には二人の男女が八本の槍に貫かれ、貼り付けられていた。 思わず目を逸らそうとした少女の手を、その時少年が掴んだ。 「見ろよ」 「やっ」 「笑ってるから、見ろよ」 「え?」 少年の言葉に、少女は目を開き、もう一度門を見た。確かに二人の美しい男女は微笑み、 抱き締め合っていた。 「本当……だ」 「本当に二人は幸せなんだって、お師匠さまが言っていたんだ。だから、俺は信じる。お 前も信じろよ」 「……うん」 信じられた。何よりも、それを信じずにはいられない二人の笑顔であった。 と、少女は顔を赤くした。気づいた少年は慌てて少女の手を放して頭を掻いた。 「あ……っと。ええと、師匠が呼んでいるんだっけ?」 「う、うん……こっち」 「俺の名前、ロキって言うんだけど、お前は?」 「私?」 少女はまだ頬を赤くしたまま、少年の顔を上目遣いに見て自分の名前を伝えた。 「私は、ヒルデっていうの」 子犬がひゃんと鳴き、二人は揃って歩き出した。途中、一度だけヒルデは門を振り返り、 二人のために小さく祈った。 「祝福を」 それは小さな、小さな祈りであった。 終