「ウロボロス」 地編 世界は闇に支配されていた。 環状大陸の内側にあるもう一つの大陸、内陸と呼ばれる場所に立った女──フェデルは 眉根を寄せて足元を歩いていた子犬を抱え上げた。 港町タリオを出てわずかも歩いてはいなかった。古くから王朝が存在し世界の中央とし て聖地を有する場所、内陸。その街道の有様に、フェデルは足を止めたのだった。 そこにあったのは死。だが、それは人の死だけではなかった。 闇。 牛頭の巨人、獅子の手足を持った猿、翼を生やした蛇──闇をその身にまとう化け物た ち。 闇の死がそこにはあった。もちろんそれに数倍する人の死体も放置されていたが、化け 物を相手にしてその人数で済んでいることは異常と言ってよい。 「何が……」 「ここで死んだわけではないからじゃよ」 街道の脇、鱗に覆われた魚人の身体の上に座っていた老人がフェデルに言った。パイプ に葉を摘め、指を鳴らして火をつける。 「闇は闇の死を恐れる……闇の化け物をここに捨て置けば、町に闇がやって来ることはな いんじゃ」 「お前──あなたは?」 フェデルの誰何の声に、老人はしっかりと全て揃った白い歯を見せて笑った。 「憶えておらんか。わしの名はレキア。先代の守護聖じゃよ、オルディンの弟子よ」 ※ レキアがフェデルを連れていったのは、タリオから一時間ほど歩いた場所にある東屋で あった。どれだけの年月使用されていたのか、すでに支柱すら腐りかけている建物の中で、 二人はそれだけは新しいテーブルを挟んで座っていた。 レキアは、まずフェデルを上から下まで眺めた。かつての守護聖の瞳は人としてのフェ デルのさらに奥にあるものまでを見通しているかのようであった。 「……なるほど、一度死んだか」 「そのようです」 「ならばフェデルと呼ぶか新しい名前で呼ぶか……どちらがよいんじゃ?」 「新しい名前はブリュンヒルデと。ですが、どちらでも構いません」 「ではフェデル。お主、どこまで憶えている」 「…………」 その問いかけに、フェデルは美しい顔を曇らせた。 「では、事情にどこまで通じている」 「だいたいのことは」 「……複雑じゃな。状況はわかっているが、記憶はない、か。わしはてっきりお主が復讐 のために聖地に向かうのだと思っていたのじゃが、ではこれは神の意志か」 「いえ、我の意志です」 矛盾することがそこにあった。レキアがパイプから紫煙を立ち上らせながら考え込む。 「つまり、記憶はない。神の意志で強制されたことでもない。しかし、お主はオルディン に辿り着こうと言うのじゃな?」 「はい」 「何故じゃ」 記憶が無ければオルディンにこだわる必要はない。だというのに聖地を目指す理由を老 人は求めた。そして、その答えをフェデルは最初から用意していた。 「心の求めるままに」 「……難儀なことじゃな」 白いため息がもれた。 「神々も酷なことをなさる。確かに聖戦士の魂は死すれば神に捧げられるが、その魂に宿 った心のみをそのままに送り出すとは……」 記憶も無く、ただ心の訴えかけることにフェデルは突き動かされている。 愛しいと。 憎いと。 全てを見てきたレキアには彼女の心の動きが手に取るようにわかった。 「わしはな」 と老人は口を開いた。 「オルディンに全ての秘技を教え込んだ時、その才能に狂喜した。過去にあやつを越える 者は無く、これからもあやつを越える者は現れないと、信じた。そして、その期待にあや つは応えた。瞬く間に聖戦士の頂点に立ち、わしの片腕としてその力を振るってくれた。 あやつがどこからか小さな子供を連れてきて、自分の後継者として育てると言った時も、 ちと早すぎるとは思ったがわしは反対しなかった」 「子供?」 「お主じゃよ、フェデル」 フェデルの表情が強ばった。 「我はオルディンの……弟子だったのですか」 「弟子であり、親子のようでもあり……いや、十も離れていないお主らじゃ、兄妹と言っ た方が良いかもしれんな。父には若過ぎ、兄には大きすぎる存在じゃったがな」 そうして、レキアはフェデルの額に指を寄せた。訝しむフェデルに、レキアは静かな口 調で言った。 「わしの見てきたことなら、今すぐにでも渡してやることが出来る。お主には必要なもの じゃ……どうする、辛いかもしれんぞ」 「──お願いします」 ※ フェデル。姓は無い。その名のみが子供の持つ全てだった。 姓を重んじる社会のこと、姓が無いことはそれだけで脱落を意味する。自分を生み出し た歴史、育む家族、頼りにする親族、全てがそこには無い。 ただ独り。ただの『フェデル』。 もしも捨てられた場所が人情厚い田舎の村であったのなら、フェデルにも家族というも のを得る機会があったかもしれない。だが、彼女が捨てられたのは内陸──聖地デ・ダナ ーンであった。 人の行き来が絶えない腐敗の聖地。連日のように聖なる聖戦士闘儀が行われ、無実の人 々が聖戦士に殺され、あるいは互いに殺し合う世界の中央。命を賭して運命と闘う姿が素 晴らしいものだというのはフェデルにもわかった。しかし、そこでの闘いが美しいものだ と思う孤児たちは一人もいなかった。 この世界はおかしい。 それが、孤児たちの総意であった。 フェデルは同じように姓の無い子供たちと一緒に生活し、何とか日々の糧を得ていた。 自分が食べるものを得ることが出来なくても、必ず他の子供が分けてくれた。皆で生きて いこうと、兄弟だからと。フェデルに温かさを教えてくれたのは同じ孤児であり、決して 大通りを歩く裕福な人々ではなかった。 その日の食べ物を探すために大通りを歩く時の人々の目。 目。 目。 それは蔑みの、汚いものを見る目であった。 その目が微妙に変わり始めたのは、フェデルがそういった中で九年の歳月を過ごした頃 であった。 その頃から、歩く度に蔑みよりも奇異の目をフェデルに向ける者が多くなった。不思議 と自分から食べ物をくれる旅行者も現れ、孤児たちの食料はフェデルが稼げるようになっ た。 同時に、フェデルをさらおうとする人さらいも現れた。実際にフェデルがさらわれたの は、十一歳の時である。 何が起こったのか、幼いフェデルにはわからなかった。自分に近づこうともしなかった 人々が、大人が、彼女に触れ、彼女を連れ去ったのだ。 彼女の世界が覆った。 世界は狂っていて、彼女たちを排斥し、綺麗な服を着た人々と彼女たちは決して交わる ことはないはずであった。 それは彼女にとって『おかしい』ことだった。 だが、フェデルの人生はそこで大きな変革を迎えることになる。 鎖に繋がれた、店先に並べられた彼女を一人の男が買い取ったその時に──。 ※ 「オルディンは人を買うなど聖戦士にあるまじきことだと言ったわしを気にも止めず、自 分のマントにくるんだお主の身体を撫でておった。あの頃のお主の筋は、今のやわらかな 身体が信じられぬくらい路上での生活で強ばっていたのじゃな。──そして、あやつはお 主を自分が育てると言いおった。後継者だとな……わしは後継者というのはお主を育てる ことを納得させるだけの方便だと思っておった。だが、あやつは本気じゃったのじゃな」 ※ 武器を取れ、とオルディンが言った。 無数に床に置かれた武器の中、フェデルは恐る恐るもっとも持ちやすそうな槍を手に取 った。 すると、オルディンは言った。 「日が落ちるまでそれを持っていろ」 奴隷として売られ、何をさせられるかと怯えていたフェデルは、何度も頷いてそれに従 った。言うことを聞かなければ叩かれるのだと、短い鎖に繋がれていた日々で思い知らさ れていた。 槍は重かったが、我慢できないほどではなかった。だが、余裕を持っていられたのはほ んの数時間だけであった。一度も下ろすことなく常に重みのある物を持ち続けることは、 意外に辛いものだ。ことに剣や槍などと腕により重みのかかる物を持っていると、わずか な傾きを訂正する度にかかる負担で、まず手首が耐え難い苦痛に見舞われる。そこで得物 を揺らせば、その負担の積み重ねはさらに襲いかかってきた。緊張させっぱなしの筋肉が 悲鳴をあげ、普段使わない筋肉、身体のバランスがフェデルを苦しめた。 一日をそのままで終えることは、出来なかった。 泣いて許しを乞うフェデルの腕を、彼女を買い取ってから毎日していたようにオルディ ンは揉みほぐした。 「苦しみたくなければ、一日でも早く慣れることだ」 ※ 「厳しい師じゃった。わしがあやつにやらせたことを、それ以上の密度でお主にさせてい た。別にお主をなぶっていたわけではあるまい。一日でも早く、お主に槍を持たせたかっ たのじゃろうな」 「……何故?」 「お主が後継者じゃと、周りに納得させるためじゃよ」 ※ その日もフェデルは槍を持って立ち続けていた。数日が経つとオルディンも同じ部屋で 見張ることはなくなっていた。 不意に、聞こえた声があった。 「奴隷を買ったって本当なの?」 フェデルが聞いたことのない女の声だった。いかにも自信にあふれ、輝くばかりの張り を感じさせる声だ。 陽の場所に育った声。薄汚れた路地には、いない。 「次の守護聖が何てこと……お父様にどう申し開きするつもり!?」 前後の関係はわからなかったが、自分のことを話していることだけはわかった。怒られ ているのは誰か考え、自分を買ったオルディンという男だと理解する。 槍を持たせ、毎日身体を撫でてくれるよくわからない人。 オルディンの声は、しばらくしてから聞こえた。 「あれは私の後継者だ」 「何をふざけたこと言ってるのよ。そんなことでお父様が納得すると思って!? あなた、 自分が今何て言われているかわかってるの? ああ、あの男が独り身なのは相手が子供じ ゃなければ駄目だからだって──」 女の声が途切れ、同時にフェデルも扉の向こう側からの震えがくるような何かに槍を取 り落とした。 ややあって、声が続いた。 「お父上が心配するだろう。帰れ」 「何よ!」 軽い足音が遠ざかっていき、扉が開いた。自分が槍を取り落としたことを思い出したフ ェデルは慌てて持ち直したが、それはオルディンの視界に入っていた。 「落としたか」 「は、はい……」 「今日はもういい。食事をとったら寝ろ」 疑問を挟まない。 自分は買われた存在であり、オルディンの言葉は絶対なのだから。 そして翌日、フェデルは前日までとは違う内容の言葉を初めてオルディンの口から聞い た。 槍を振れ、と。 言われる通りにすると、どのように動かせばよいのかはわからなかったが、とりあえず 槍は動いた。数日間持ち続けた柄は手に馴染み、手首は槍の動きをしっかりと受け止めて いた。 それを認め、オルディンは次の課題を与えた。 槍を持ったまま走る練習をするように、と。 ※ 「驚くべきことじゃった。オルディンのもと、お主は信じられぬ早さで槍の扱いを学んで いった。わしが訪ねる度に次の段階へと。特に、オルディンはお主を客人によく見せた。 それは、自分のためというよりも、お主のためじゃったな」 「我の?」 「フェデルという存在を、買われた娘ではなく、オルディンの後継者というやがての守護 聖と周りに認識させるためじゃよ」 ※ オルディンさま。一年が経つ頃、フェデルは自然と師のことをそう呼ぶようになってい た。別にオルディンが強制したわけではなく、オルディンの世話をする使用人たちがそう 呼んでいるのを覚えただけだった。 槍の扱いを一通り覚えると、オルディンはフェデルに文字を教えた。世界がどのような ものであるのか教えた。あらゆることを、フェデルはオルディンに学んだ。そして、オル ディンが守護聖という偉大な存在の後継者であることを知った。 「オルディンさま。オルディンさまは、レキアさまのお手伝いをされなくてもよいのです か?」 「私には他にすることがある」 オルディンには何を考えているかわからないところがあった。全て自分の内で結論づけ、 外に出るのは完成されたものだけ。そしてそれが間違うことは無い。 時折、フェデルはオルディンが聖戦士闘儀で闘う姿を見せられた。オルディンほどにな ると相手は奴隷などではなく同じ聖戦士でかなり位が高い者になるのだが、大抵は勝負に もならずオルディンの一太刀で全て終わった。 その時の歓声、目眩のするほどの人の波。 全てがオルディンのために集まった人々。 全てがオルディンのための声。 偉大な師、オルディン。 オルディンさま。 オルディンと連れだって闘儀場を後にする自分に鋭い視線が向けられているのを感じる ことはあったが、フェデルはそれに怯えることはあったが意味するところはわからなかっ た。 一度、わからないことはオルディンに訊く癖から尋ねてみたが、彼は相手にもしなかっ た。 「醜いだけの者たちに流されることはない。お前は私の何だ」 「で、弟子です」 「違う。お前は、私の後継者だ」 その言葉の、何と甘美なことか。多くの弟子の一人などではなく、ただ一人の弟子で後 継者。約束された守護聖への道。孤児であったフェデルには手の届かないものだったはず の世界。 しかし、だからこそフェデルはオルディンに捨てられないために修行に打ち込んだ。失 望されたくはないから、不用意な言葉も言えない。オルディンと共にいることは、フェデ ルにとって緊張の毎日でもあった。 だが、緊張と同時にやすらぎもあった。 孤児であったフェデルにとって毎日の食事の心配をしないでよい生活は心のやすらぐも のであった。命の心配なく修行に打ち込める毎日。夜には強ばった筋をオルディン自らが ほぐし撫でてくれる。 父のように。 兄のように。 憧れた家族のように。 それは仲間の孤児たちが与えれくれた温かさとは少し違う、やわらかさというものだっ た。肌に心地よい毛布のやわらかさ。 昼間は厳しい師として、夜は包み込む家族として、オルディンはフェデルの内にゆっく りと浸透していった。 尊敬します。 敬愛します。 偉大なる聖戦士。 お師匠さま。 ──オルディンさま。 ※ 「お主のオルディンへの傾倒は相当なものであったな。──フェデル?」 老人がふと顔を曇らせた。テーブルの向かいに座るフェデルが、額を押さえ顔を歪めて いたからだ。 「お主、戻りかけている記憶に……。──時間を置こう」 しかし、フェデルは静かに言った。 「続けて下さい……」 ※ フェデルがオルディンに引き取られ四年が経つと、修行は槍や学問ではなく、より高次 なものへと変わっていった。 「お前は聖戦士として充分な力をすでに持っている。だが、それでは私の後継者にはなれ ない。わかるか」 「はい。私にはオルディンさまのような神聖力は使えません」 「神聖力とは何だ」 「守護聖としてウロボロスの門を閉じ続けるために必要な力です。闇を祓る力ですが、人 に向けることも出来ます」 「その力はどこから引き出す」 「神々から授けていただきます」 「その通りだ。神聖力は己のものではなく、あくまで神の力。神への道を通じさせること がこれからの修行の目的となる」 知識はすでにフェデルの内にあった。オルディンはその知識を束ね、活用する術を彼女 に教える。 そんなある日、聞き覚えのある声がフェデルの耳に入った。 ずっと以前、数年も前に聞いた声だ。 「ごきげんよう、オルディン。次期守護聖さま」 彼女が聖地デ・ダナーンの大貴族の娘だということをフェデルはすでに聞かされていた が、同時にオルディンの元恋人だという話も使用人たちに聞かされていた。どうして別れ たのかと尋ねると、使用人たちは意味深な顔をしてフェデルを見るのだ。今オルディンに 恋人はいないのかという問いにも。 オルディンの私事に口を出せるほど自分が偉いとはフェデルは思っていない。彼がどこ の誰と恋人同士でもフェデルはよいと思うし、もちろんそれがデ・ダナーンの大貴族の娘 ならば弟子として鼻が高い。 ──なのだが、フェデルはオルディンの部屋の扉の前に足を運んでいた。 失礼だ。 失敬だ。 だが、気になった。また以前のように彼女にオルディンを侮辱するようなことを言われ てはたまらない。 ほんの少しでもオルディンを傷つけようとするのは許せない。もちろん、オルディンが 多少のことで心を揺るがさない強さを持っているのは承知していたが。 だが。 「わかっているの? 周りがどう思っているか。どう言っているか。私がどう言われてい るか。子供に負けた女って……次期守護聖の恋人は買い取った子供だって! どこかの国 ではあなたが守護聖の後継者の資格を失うと思って、あの子と同じ年頃の奴隷をたくさん 用意してあなたを将軍に迎えようって話しもあるそうなのよ!?」 「何なんですか、それは!」 衝撃のあまり、フェデルは扉を開いていた。 侮辱だ。 酷い侮辱だ。 誰が恋人だろう。 誰が──! 女はフェデルが扉を開いたことに一瞬驚いたようだったが、すぐに目を吊り上げてフェ デルの頭を掴んだ。 「!?」 「よく見なさい、この子は十五の女なのよ。しかも……何よ、これは」 その部屋には鏡があった。オルディンが鎧を着る時などに使用する鏡だが、今それはフ ェデルの姿を映しだしていた。 月光を束ねた髪と、蒼天を映す瞳を持つ少女がそこにはいた。身体の線もすでに少女と いうよりは女となり、それが来年には、さらにその次の年にはさらに美しくなっているだ ろう予感を抱かせる。 見た者は思うだろう。ただ、美しいと。 「これが今のこの子なのよ。ええ、あなたの目には感服するわ。あんな薄汚れた子がこん なに綺麗になるなんてね。噂は本当なのかしら?」 否定だ。 女は、オルディンに否定を求める問いを放っていた。 そして、静かにオルディンは言うのだった。 「フェデル、お前は私の何だ」 「私は、オルディンさまの後継者です」 ためらったりなどしない。髪を掴まれた痛みに、悲鳴を上げるようにフェデルは言った。 すると、女はフェデルを乱暴に突き飛ばして叫んだ。 「勝手にしていなさい!」 「大丈夫か」 「はい……」 女が走り去ると、何事もなかったかのようにオルディンが言い、フェデルは頷いて立ち 上がった。小さな衝撃がその胸に残っていたが、オルディンの前でそれを殺し、立ち聞き していた非礼を詫びて修行に戻る。 しかし、それは確かにフェデルにとって二つめの転機であったのだ。オルディンという 保護者を得た時以来の──。 ※ 「我は彼を……師でも親でもなく、一人の男として見るようになっていった……」 「わしは不幸とは思わなかった。いや、それを望んでいたんじゃな、わしは。日に日に美 しくなっていくお主を見て、あやつの伴侶にと夢を見るようになった」 ※ 「レキア師が来ていたようですが、何をお話に?」 「お前が知る必要はない」 「それは聞かなければわかりません」 オルディンの言葉に、フェデルは冷静に応えた。二人が共に暮らすようになって五年も 経つと、フェデルは十六の歳を数えるようになった。 最近のフェデルは、オルディンの言葉にただ従うだけの存在ではなくなっていた。オル ディンの自己完結的なもの言いに、彼に習った通り正しい意見を持って言い返す。否、正 しいかどうかはわからない。一般的に正しくても、心情というものが混じった時、強引な 論法も正しいものになるのだから。そして、オルディンの強引な論法は、おそらく常に正 しかった。 「お前が知ってもどうにもならないことだ。守護聖として聖戦士に依頼があった」 「そうですか」 そう言いつつも、言葉の後半で何故語る必要がないのか言ってくれる。それでフェデル は今回も自分が余計な問いをしてしまったことに気づくのだ。 「駄目だな……」 フェデルは自室にいる時は悩むことが多くなっていた。悩みの主は、オルディンに反発 をしてしまう最近の自分であった。 知識もある。槍の扱いも、オルディンに彼に次ぐ腕前と認められていた。神聖力さえ、 すでに彼女は使えるようになっていたのだ。 だというのに、オルディンの扱いは昔の彼女が幼かった頃と変わらない。否、むしろ間 を置くようになった。そのことに対する不満が、オルディンへの反発として現れるように なっていた。 弟子であるのに。 後継者であるのに。 「どうして、私に触れてくれないの……」 ※ 「慣れとは恐ろしいものじゃ。お主はすでに敬愛に染め抜かれ、それ以上の想いがその中 に混じり始めても気づくことはなかった」 すでにフェデルは頭を抱えてテーブルに突っ伏していた。老人が語る以上の記憶がその 内で荒れ狂い、全ての体験を今彼女は繰り返していた。 「不憫な……」 小さく、レキアは呟いた。 ※ そして、ついにフェデルが聖戦士として聖戦士闘儀に参加する日が来た。フェデルが十 七歳の時だ。その日は屋敷の使用人たちが全員でフェデルを励ましてくれた。 「がんばってください、フェデルさま」 「これが終われば晴れて……ですから」 「私たちも、ずっと待っていたんです」 口々に言う使用人たちに、フェデルは訝しげな顔をした。そんなフェデルに、使用人た ちは昔も見た意味深な顔で言うのだった。 「聖戦士として一人立ちすれば、オルディンさまと添い遂げるのでしょう?」 「そのような男性の服を着せられて……私はずっとフェデルさまのために服を仕立てたか ったんですよ」 「今日が終われば」 「今日が──」 フェデルは混乱した。 使用人たちまでそのような目で自分たちを見ていたのか。 否。 自分たちは、そう見えるのか──。 その日、フェデルは闘儀場での初勝利を収めた。相手は新しい聖戦士に戒めを与える意 味で上級の聖戦士が当てられていたが、オルディンの弟子の相手では不足だった。 斬殺。 まさに、鮮烈の勝利であった。 闘儀場の歴史で二人目の、初陣で勝利し、そして初陣で人を殺した聖戦士の誕生だった。 フェデルは、かつて狂っていると自分が断じた場所で歓声と拍手を受ける自分に、不思 議に思った。 おかしい。 そう、その場所はおかしかった。 「何がわかった」 儀式の後、オルディンはフェデルにそう言った。まるで、全てを見通しているかのよう に。 ──オルディンは、きっとずっと以前からそのことを知っていたのだ。 「おかしい……です」 「そうだ。──お前は、染まることなく生きろ」 その言葉に、どれだけの意味があったのか。 短い口接けの方が、フェデルの記憶には焼き付けられた。 そこから、蒼い戦乙女の伝説が始まった。 ※ 「勝利に次ぐ勝利。誰も気づかなかったじゃろうな。それが、儀式の名を借りた腐った聖 戦士狩りじゃったとは」 「あの人は……許せないと言った。聖戦士とは名ばかりで、神聖力も使えない雇われの戦 士が貴族同士の試合に使われているのが」 「わしも、わしの前の守護聖も、それを見て見ぬふりをしてきた……それで貴族たちが満 足しているのならそれでもよいと。だが、オルディンはもっと先を見ていたんじゃな」 「腐敗の行き着く果ては破滅……誰かがそれをわからせないといけないと」 「そのために、ウロボロスの門を支配しようとした」 「平和は絶対のものではないと思い知らせ、その後に我らは姿をくらませようと……守護 聖という存在すら消してしまおうと……」 ※ 「人々の生活は守られるべきではなく、自ら守るべきものだ……違うか」 「その通りです」 オルディンの部屋、オルディンの腕に抱かれながら、フェデルは微睡みに引き込まれそ うな意識を引き止めて応えた。 フェデルは孤児だ。聖地の貴族たちのような約束された安全は無く、日々が戦いだった。 食べるために思考をこらし、それでも食べるものが手に入らなければ仲間が分けてくれた。 その分けてくれる者も孤児であることを思えば、そのわずかな食料にどれだけの価値があ るのか計り知れない。皆で一つのパンを分け合って食べたこともある。茶などの嗜好品な ど、オルディンに引き取られるまでフェデルは知らなかった。 「みんな……優しい。大通りで私たちを嫌な目で見る人たちがみんなみたいだったらよか ったのに」 「聖地の加護のもとにいる者は、それを忘れている。人は与え合って、支え合って生きて いるということを。守護聖のもと、ウロボロスの門のもと、与えられるだけの時代は、腐 敗を生むだけだ」 「はい……」 そこに怒りはなかった。ただ危惧があった。未来を見据えた、大切な人の瞳にフェデル は無条件に頷いていた。 「どこまでもついていく……オルディン」 そしてフェデルが二十歳になった年、オルディンはレキアから守護聖の地位を譲り受け た。 それは二人の計画の発動を意味していた。 ※ 「それが、あの日か……」 「──はい」 ※ 伝説の二人の聖戦士が剣と槍を持って屍の山を築き上げた。 血風が駆け抜け、フェデルの駆け抜けた後に生は残らない。 死。 死。 死。 「これは新たなる始まりだ」 輝かんばかりの蒼天の美しさを誇るフェデルが白銀の槍を手にして大量の死をばらまい ていた。屍となったのは、ウロボロスの門の異変を知り駆けつけた聖戦士たちだった。聖 戦士闘儀で不敗のフェデルであったが、すでに幾つもの傷を受け、肩で息をしていた。今 まで相手にしてきた雇われた名ばかりの聖戦士ではなく、ウロボロスの門を守る真の聖戦 士は強い。 「蒼い戦乙女よ……狂ったか!」 神聖力が込められた光の斬撃を槍を持って受け止め、フェデルは視線に力を込めた。 発火。 紅の炎が発現し、聖戦士を一瞬にして飲み込んだ。悲鳴を生み出す空気を糧に燃える炎 はまさに煉獄の炎。その炎に身を包まれながらも剣を振り上げようとした聖戦士に、フェ デルは敬意を込めて槍を一閃させた。 「狂っているのはこの世の中だ……我らの鳴らす警鐘に、さあ、聖戦士たちよ集まれ!」 集まる聖戦士の数だけ。 自分が殺す聖戦士の数だけ。 腐っていない人の心がある。聖戦士たちの使命に燃える心が。 だから、傷つきながらもフェデルは微笑むことが出来た。闘うことは、希望を見ること だ。見て見ぬふりをせずやってくる聖戦士たち。 「皆、立派だ」 その想いを受け止めてみせる、とフェデルは次の気配に槍を向けた。 「……レキアさま」 「フェデル、お主、そこで何をしている」 「滅びを避けるために」 「違うな」 師の師。さすがにそのような相手に向かうのはためらうフェデルに、レキアは鋭い視線 を叩きつけて言葉を放った。 「お主は滅びを避けるためでも何でもなく、ただオルディンの言葉に従っているだけじゃ」 「……そうかもしれません」 「フェデル?」 「我は彼を……愛しています」 「違う。わしが望んだ未来はこのようなものではないぞ、フェデル!」 「お許しを」 蒼い戦乙女と先代守護聖の闘いは熾烈を極めたが、その震動が始まった時に立っていた のは蒼い鎧を身にまとったフェデルだった。 地面の下から震える大地。思わず顔をオルディンがいるはずの神殿の奥に向けたフェデ ルは、背にレキアの言葉を受けて振り返った。 「フェデル、行くんじゃ。あれはウロボロスの門の開く前兆……あやつ、本気で門を開く つもりじゃ」 「何を──」 「行って己の目で確かめよ、フェデル! お主はオルディンの人形では無いのじゃぞ!」 その言葉に押されるように、フェデルは走り出していた。 突然の、実感さえわかない状況の変化に対応しきれない心のままに。 そう。 それは、フェデルに訪れた、三つめの転機であった。 神殿を駆け抜けたフェデルは、そうして二匹の竜が喰らい合うのを頂点とする門の前に 紅い鎧を着込んだオルディンの姿を見つけた。 破滅が、起きた。 ※ 「あやつは……脅威として見せつけるだけのはずだったウロボロスの門を開こうとしてい た。多くの血を代償に。そして、それは自分の血をもって開いた」 「我は彼を……オルディンを殺した」 両手で顔を覆い、フェデルは呻くように告白した。頷いたレキアは、フェデルの頭をそ っと撫でようとした。 と。 「そして──我はもう一度彼を殺そうとしている」 「フェデル?」 椅子が軋んだ。 フェデルが立ち上がったのだ。 言葉をかけようとしたレキアは、しかしその言葉を飲み込んで静かにフェデルの次の言 葉を待った。 静寂の中に、フェデルの震えだけが動作として行われて時間が過ぎ去る。 「──レキアさま、ありがとうございました。我の記憶、確かに」 「フェデル、お主……」 「全ては我と彼の紡いだ糸。決着は、この手で」 「違うぞ、フェデル。わしが望んでいた未来は、望んでいる未来は──」 「きっと我の望んでいた未来も、一緒です」 レキアはハッと息を飲んだ。顔を上げたフェデルは、嗚咽すらもらさずに涙を流してい た。いつの間にかその身には蒼天を映す蒼い鎧をまとっている。 フェデルは、レキアに背を向けて最後の言葉を口にした。 「さようならレキアさま。あなたに祝福を」 そうして東屋を出ていったフェデルの背中に、レキアは小さく呟いた。止めることなど 出来ない。だからこそ、その呟きを。 「オルディンを……息子を頼んだぞ」 「ミストルテインの槍よ!」 銀光が弾け、フェデルの手に白銀の槍が現れる。直後、フェデルは銀髪をなびかせて疾 走を開始した。 聖地デ・ダナーンへと。 終