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              「ウロボロス」

                天編


 世界に絶望あれ。
 その言葉を宿しているのか、闇が世界を覆うのに五年の歳月は充分すぎるものであった。
すでに闇は人々の生活を脅かすものとして世界に定着し、抗うことの出来ない天災として
人々はその脅威から逃げまどうことしか出来なかった。
 そのような時代でも、人は生まれ生きていく。今日も、今にも生まれようとする一つの
命が存在していた。
「よう、ルフィーさん。どうだいまだかい?」
「まだだよ。だけど、すぐに産まれるさ。お空が少し曇っちまってるのが残念だけどね」
「ああ、この雲は濃くなるなあ……」
 産婆を務めることになるルフィーの言葉に、新聞屋のアドモは帽子の鍔に手をやって雲
が集まり始めている空を見上げた。黒い雲は雨の前兆か、わずかに渦を巻いているように
も見えた。
 が、アドモは今年四十歳になるルフィーに視線を戻すと、にっかりと笑った。
「ま、おせっかい産婆のルフィーがいれば、心配ない。元気な赤ん坊をとりあげてくれよ」
「あいよ、任せときな」
 放るようにして渡された新聞を手にルフィーが妊婦のいる家に向かうと、ルフィーは視
界に入った見慣れぬ女の姿に目を丸くした。
「おやおやおやまあまあまあ」
「ルフィーさん、おはようございます。今日はよろしくお願いしますよ」
「こちらこそだよ、リゲル。こちらさんは?」
「船を出したいと言うんだがな……」
 そうよく日焼けした口髭のリゲルが言葉を濁すと、彼と玄関を挟むようにして立ってい
た女が訝しげな顔をした。
「船は出せないのですか? タリオまでの便は貴方の船だけと聞いて来たのですが……」
「それがね、この旦那の可愛い奥さんが二人目の子供を今日か明日に産む予定でね。その
間、船は出ないのさ」
「それに、今からじゃ雨になるかもしれない。どちらにしろ、今日は船は出さんよ」
「そうですか、子供が」
 失望の色を浮かべるかと思えば、女はむしろ優しい笑みを浮かべて頷いた。それを見た
ルフィーは女の美しい容姿を眺め、感嘆の息をもらした。
 幼い日に仰ぎ見た蒼天を宿した瞳は宝石を収めるに相応しい切れ長の目に飾られ、月光
を束ねた白銀の髪は細かな波を作って背に流れ半ばから三つ編みに編み上げられている。
北方の生まれなのか驚くほど白く触れたいと思わせる肌も同じ女として魅力的で、さらに
は鼻梁、顎の曲線、それだけではなく数枚の布を組み合わせて着る旅装束の上からでもわ
かる豊かな膨らみを見せる胸、そこから細く変化した腰など黄金律にも例えられる妙なる
美女であった。
 その美しさに、他人の子供を愛でる心までがあれば、ルフィーでなくても心を傾けてし
まうのだろう。だから、ルフィーはためらうことなく言葉を口にした。
「どうせ船は子供が産まれるまで出ないのさ。せっかくだから、上がっておくれよ。あん
たみたいな綺麗な娘さんが場末の宿になんか泊まっちゃいけないよ。ねえ?」
 同意を求められ、リゲルは口髭を指でなぞり頷いた。入り口を塞いでいた身体を退ける
のが、意志の表明だ。
「どうぞ。何分忙しい時でね、大したおもてなしは出来んが……」
「ありがとうございます」
 ひゃん。
 犬の声に、ルフィーは女の足元を見た。すると、女に目を奪われて気づかなかったが、
栗毛の小さな子犬がその足にじゃれついていた。視線に、女はルフィーに小さく微笑んで
応えた。
「私の旅の連れです」
「ああっと……もう一ついいかい。あんた、名前は?」
 心を捕らえる美女の名前を知りたいとルフィーは切に思った。だから、怖々と尋ねたの
だが、女は当然のように自分の名前を口にした。
 ただ、その名前は一つではなかった。
「フェデル……もしくはブリュンヒルデと呼んで下さい」

                 ※

 フェデルことブリュンヒルデが迎えられた屋内では、暖炉にくべられた薪が爆ぜる音に
重なるように歌声が静かに流れていた。優しく命を慈しむ、生まれる前から捧げられる歌。
 子守歌だ。
「フェデルさんは、どちらから?」
 ゆったりと流れる冬の時間の中、妊婦であるリゲルの妻よりも重要事であるかのように
ルフィーがソファに座る美女に尋ねる。揺り椅子に揺られ子守歌を唄う夫人を膝に乗せた
子犬の背を撫でながら眺めていたフェデルは、蒼い瞳をルフィーの方へと向けて応えた。
「この街へは東から。もともと内陸の生まれでしたので、そちらに帰ろうと思いまして」
「まあ……でも、今は内陸は大変だよ」
 内陸、とは大陸の海岸から離れた内側のことではない。現在この家族が暮らす環状大陸
の中央にある海──湖と呼ぶのが正しいのだろうが、人々はそこを海と呼んだ──のさら
に中央にある陸地。六つの大都市を抱える内側の大陸を、人々は内陸と呼んでいた。
 内陸は古くから王朝が生まれ、世界の中央貿易航路、または神々の世界に通じる古の聖
地を有する場所として繁栄を極めたが、ここ百年余りはその聖地デ・ダナーンにおける腐
敗──見せ物と化した聖戦士闘儀などが目に余るほどとなっていた。それでも経済的信仰
的中心地の座は保持し続けていたのだが、それも五年前までのことであった。
「何でも闇は聖地からわいて出てるって話じゃないか。あの話は本当なのかねえ……」
「どのような話ですか?」
 と、ルフィーの呟きにフェデルが興味を示した。それが嬉しいのか、ルフィーは顔を輝
かせて言う。
「大したことじゃないさ。聖地で闇を放ったのは、守護聖さまなんだって話だよ。馬鹿げ
ているよねえ、聖地を守護するお方がそんなまねするわけないのにさ」
「わからないですよ。守護聖と言っても確か五年前はちょうど守護聖の入れ替わりがあっ
たはずだ。新しい守護聖の仕業だっていうならあるんじゃないか」
「嫌だよ。リゲル、めったなことは言うもんじゃないよ」
 ルフィーは自分がフェデルの気を引くために話を始めたことも棚に上げてリゲルをたし
なめたが、フェデルの顔が微かに強ばっていることに心配げな顔をした。
「ごめんよ、何か気に入らなかったのかい?」
「……その、新しい守護聖の名前を教えてもらえませんか?」
「え? ああ……何だったかな」
「オルディン。確か、そんな名前だったな」
 ひゃん、と子犬が鳴いた。思わぬ力が込められていたらしいフェデルの手は、すぐに謝
罪するかのように子犬の背を再び優しく撫で始めた。

                 ※

 リゲルの妻が産気づいたのは昼も半ばを過ぎた頃であった。急に慌ただしくなった屋内
で一人所在なげにしていたリゲルの幼い息子は、知らぬうちにソファに座っていた美しい
女の横に腰を下ろしていた。
 いつも明るい母親が苦しげに顔を歪め、父親が必死に励ます声に子供は耳を塞いでいた。
子供は変化に敏感だ。本能的に、この家で行われていることが運が悪ければ母親の命を奪
いかねないことを理解していた。
 それは、子供が初めて抱いた自分以外のものを心配する心だったのかもしれない。
 喪いたくなどないと、心の底から思った初めての経験だったのかもしれない。
 と、頼りない震える肩に冷たい指が触れた。フェデルに引き寄せられるままに、子供は
その身体に必死に腕を回した。
「恐いよ……」
「ああ、我も恐い」
 それは父親たちと話していた時の口調とは随分と違っていたが、子供は気にはしなかっ
た。
「人としての記憶を喪う前、我も同じように苦しんだことがあるのか、それとも無いのか
……それすらもわからないことが、恐い」
「きおく?」
「お父さんのこともお母さんのこともわからない、ということだ」
「……そんなのやだよ……」
 何故かとても悲しくて、子供はさらに抱き締める腕に力を込めた。
 フェデルは、続けた。
「ただ一度壊れた心に焼き付いたものを……会いたいと、憎いと思う気持ちだけをもって、
我は旅をしている」
 何を言いたいのかはわからない。ただ、とても大切なことを自分に伝えようとしている
のだとはわかった。
「そんな我の恐いと違い、お前の恐いは他人のための恐いだ。……その恐いを誇りに思い、
そして恐いと思った分だけ母親を、そして産まれてくる子供を愛しなさい」
 それは、と。
「それは、愛するが故の恐怖なのだから」
 フェデルが立ち上がった。
 同時に、警鐘が鳴り響いた。
「何でこんな時に……っ」
「これは、闇ですか?」
 フェデルが尋ねると、ルフィーが顔を青くして頷いた。闇が来たならば逃げるしかなく、
産気づいた夫人を抱えて逃げることは出来ない。
「……闇だってここに来るとは限らない。警鐘は闇が見えたら鳴らすことになっているか
らな。大丈夫……大丈夫だ」
 祈るようにリゲルが言い、夫人の手を取った。そんな夫を夫人は逆に励ますように汗の
玉の浮かんだ顔で微笑んだ。
 その微笑みを見たフェデルは、小さく呟き、背を向けた。
「祝福を」
「あ、どこへ行くんだい!」
「海岸へ、闇の様子を見てきます……危険ならば、知らせます」
 そうして、屋内からフェデルの姿は消えた。子供と子犬は、強く抱き合ってそれを見送
った。

                 ※

 疾風が町を駆け抜けた。たん、とフェデルが地面を一度蹴る度に彼女は低い姿勢のまま
驚くほど長い距離を進む。長い三つ編みが勢いに背後に伸び、その速度を物語っていた。
 防波堤の上に立ったフェデルは、海と言って差し支えない対岸も見えない湖を眺め、目
を細めた。波が荒くなり、空は黒い雲に覆われていた。そして、水平線の彼方から黒い何
かが迫ってきている。
 闇だ。水上ではなく、水中を移動している。その進行方向を見定めたフェデルは、ため
らわずに防波堤を蹴って足場の無い湖へと飛び出していた。
 直後。
 服は幻だったのか、フェデルの身体は蒼天映す蒼い鎧に包まれていた。湖の水面に着地
したフェデルは、再びそこを蹴って走り出した。今度は疾風を越え、人ならぬ速度で闇を
目指す。
 相対速度により、遭遇は一瞬。
「ミストルテインの槍よ!」
 銀光が弾けた。巨大な闇と交差したフェデルの身体が投げ出され、彼女にとって足場た
る水面を二度三度撥ねる。
 そして水の下、闇をまとい進行していた巨大魚は真っ二つに分断され、その闇より深い
水底へと沈んでいった。

                 ※

 その屋内には、誕生の声が響き渡っていた。
「おーおー……よく産まれてきたね。ほら、こっちがお前のお父さん、こっちがお母さん、
それでこの生意気なのがお前の出来の悪いお兄さんさ」
 夫と息子に手を握られて微笑む夫人に布に包まれた赤ん坊を渡し、ルフィーは静かに言
った。
「こんな時代だけどね、産まれて損は無いさ。不幸ばかりの世の中だけどね、本当に小さ
なことで人は幸せになれるもんさ。そう、あんたは偉い子だよ……あたしたちを、もうこ
んなに幸せにしているんだ。──あんたは、幸せの子供なのさ」
 その言葉を、フェデルは玄関の扉に背を預け一人聞いていた。
 闇に触れた手で新しい命を抱くことは出来ない。それでもその声だけは聞きたく、耳を
傾ける。
「…………」
 赤ん坊の泣き声は、どこか扉を叩く音に似ているように思えた。

                 ※

 翌日、フェデルはリゲルの船に乗り湖へと旅の場所を移していた。内陸の港町タリオま
では往復で一日かかるので、フェデルはリゲルの子供を思う心に遠慮して数日待つと言っ
たのだが、夫人が仕事も大切だと口添えし、出航となった。子犬を船に乗せることはさす
がに出来ず、大切にするという約束でリゲルの息子に託した。
 商業船以外でタリオまでの往復を行う船はリゲルの船だけであり、船内にはフェデルの
他にも数人の乗客がいた。フェデルは他の乗客と話すわけでなく一人湖を眺めていたが、
他の船員に舵を任せたリゲルがやって来て小さく会釈した。
「そうだ、娘の名前、決まったんだ。ルフィーさんがどうしてもって言ってな。勝手にあ
んたの名前をいただいたんだ」
 訝しげな顔をすると、リゲルが笑って頭を掻いた。
「娘が美人になるようにってな。フェデルじゃまんまなんで、ヒルデって名付けたんだ」
 ブリュンヒルデのヒルデ。
 静かに、フェデルは瞼を下ろした。
 ブリュンヒルデ──人としてではない、神の娘の名前。その名前の一部ならば、きっと
リゲルの娘には神々の祝福があるだろう。
「祝福を」
 赤ん坊のために言った言葉を、もう一度フェデルは呟いた。
 それは、自分の罪を一つ一つ消していくための呟きでもあった。


                                終


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