覇皇伝ストライク・セブン
2話
「英雄の条件」
1
男は、独り狭い部屋の壁に寄りかかって瞼を下ろしていた。地下に作られた部屋であり、
明かりと言えば正面の鉄の扉にある鉄格子つきの窓から入り込んでくるものだけ、という
場所だ。
牢獄である。
一つの姿勢でいるのに疲れ、身体を動かすとそのわずかな動きに四肢の枷と鉄球を結ぶ
鎖がジャラリと音を立てた。
嫌な音だ、と男は思う。
だが、自分には似合いだとも思った。
「……亡命者に何の用だ」
「大したものだな」
顔も上げずに言った男に、鉄格子の間から目を覗かせた男が感心した声を洩らす。やっ
て来たのは、背中の中程までの波打った銀髪に青眼の、美青年という言葉がよく似合う容
貌の男だった。しかしその容貌はとても男性らしい魅力に溢れたもので、弱々しさは全く
感じられない。肩幅が広く、礼服を着こなした男だ。
対して、牢屋の中にいる男は、目に濃い隈を作り、飢えた狼のような目をしていた。座
っているだけで狭い部屋を圧迫するような存在感を持つ筋骨隆々とした身長百六十五ミル
(約百九十八センチ)の体躯。まだ余り濃くなっていない無精髭、ざんばらな黒髪の大男
だった。
「ディラック・フォーマンス……ウルグアン王国の革命団体の元構成員。革命団体が解体
させられた後、ロモス王国に亡命……だが、そこでも指名手配され、五日前に捕縛。間違
いないな?」
「ああ」
顔も上げずに男──ディラックは肯定した。
銀髪の青年は、手にした書類を眺めながら、静かな声音で言った。
「君の処分は明日にも決定しよう。ウルグアンに引き渡すか、こちらで処分するかはわか
らないがね」
その言葉に、ディラックは応えなかった。ただじっと座り続ける亡命者の姿に、青年は
そっと息を吐いてその場を後にした。
がしゃん、と重い鉄の扉が閉まる音が耳に届き、ディラックは誰も聞く者がいない場所
で呟いた。
「解体か。対外的には、そうなっている……か」
隈に彩られた目の光は、周りの闇よりも暗く、深いものだった。
※
「処分に困るな……」
「彼……ディラックがですか?」
地下牢から上がってきた青年に、見事にはげ上がった頭を持つ細目の老人がその書類を
受け取る。頷いた青年は、頭を垂れる番兵に軽く手を挙げながら応えた。
「ディラック・フォーマンス。ウルグアンの奴隷解放運動の力として働いた男だ。ゲリラ
戦では随分と活躍したらしく、団体内では英雄と呼ばれていたらしい」
「ほう、それほどの男が、何故」
「幾ら個人の力が優れていようと、数の差は絶対的だからな。ディラックの所属していた
団体は一年と少し前に解体させられている」
「解体ですか」
執事が意味深に青年を見ると、青年は感慨も無さそうに頷く。
「解体だ。例え軍を投入して壊滅させたというのが事実だろうとな。それでもディラック
は生き残り、逃亡生活の果てにロモスへ……つまり、私の領地へと亡命してきたわけだ」
「それで、何をお悩みですか」
「人気だよ」
と、今年二十七歳になる若きドノヴェ公、ハイマン・アーツ・ドノヴェは眉根を寄せた。
「ウルグアンの民のディラックへの同情心は無視出来ない。だが、ディラックを放置すれ
ばウルグアンから文句を言われる……いい迷惑だ」
「ドノヴェ公としての考えはどうですかな?」
「当たり前だ。今ウルグアンとつまらないことでもめる気はない」
即答したハイマンに、続いて執事は問いかける。
「では、ハイマンさま個人としては?」
「私が奴隷制が嫌いだということは知っているな?」
「なるほど」
複雑なものだ、と執事は苦笑を浮かべた。ハイマンも苦笑を返し、ふと気づいたように
尋ねる。
「それはそうと、ウリックはどうだ。予定ならもうとっくに帰っているはずだが……」
「それについては私の方に連絡がありました」
「それで、クレストは?」
「手紙が届いています。読みますか?」
「読んだのなら、要約してくれるか」
「『色々とあってクレストは駄目でした。少し遅れて戻ります』」
「遅れて?」
訝しげな顔をする青年に、執事は手紙をハイマンに渡しながら言うのだった。
「どうやら、路銀が底を尽きたようです」
2
『平和のダイヤ』と呼ばれる四国のうち、東の大国ロモス王国。その西端のドノヴェ公
領は、北のヒシュハ王国、南のウルグアン王国と国境を接している重要な土地である。
以前から国境付近での小競り合い、不法侵入者などは絶えない土地であるのだが、しか
しその代わりと言っては何だが貿易が盛んな土地でもある。
北のヒシュハ王国の毛織物、南のウルグアン王国の豊富な鉱山資源と、他国の物を仕入
れるには最適な場所がドノヴェ公領だ。
ドノヴェ公がロモス王国外交長官であることもあり、ドノヴェ公にはとりわけ外交手腕
に優れた者が就任するのが好ましいとされている。
現在のドノヴェ公、ハイマン・アーツ・ドノヴェはまだ二十七歳と若年ではあるものの、
幾つかの難しい外交問題を就任数年のうちに解決し、その問題を逆手にとって自国に有利
な条約を他国と結ぶなど、才能の非凡さを示していた。
他にも、ハイマンは現在の流行である喪失技巧の研究にも力を入れていて、自ら歴史博
士の称号も持っている。自然の力を凝縮して内に持つ印貨であるクレスト研究でも一目置
かれる、才能の人である。
そのドノヴェ公のお膝元の街が、公都ファームだ。
数百年前の古代人の時代からあった街を元に発展したファームは、主要な道が全て煉瓦
敷きされ、たたずまいも優雅な文化都市だ。図書館、美術館、公共浴場などの設備も良質
で、商人の出入りも多い。
街からしばらく歩いた所には領主であるドノヴェ公の城が存在し、治安という点でも領
内最高水準を誇っている街だった。
近年では、ファームから馬車で数十分のところに蒸気機関車の駅も出来、さらに人々が
訪れやすくなった。
そのような街に、徒歩でやって来た者がいる。
一人は青年で、背丈が百五十ミル(約百八十センチ)ほどで、やや長めのざんばらな黒
髪。顔の線が太く、頼りがいを感じさせる男臭い顔立は、美形というほどではないが人好
きのする顔だ。
厚手服、両腕には肘までの革の腕当て、指の先が出たグローブ、使い古されたブーツ、
腰と肩に帯びた二本の剣、といかにも旅の剣士風の男である。
もう一人は少女だ。背丈は百二十六ミル(約百五十一・二センチ)ほどで、癖のある黒
髪を短くまとめ、よく日焼けしていていかにも健康そうだ。はっきりとした目鼻立ちがど
こか微笑ましい。顔につけるべきゴーグルが今は額の上にまで押し上げられている。
厚手の上着にズボン、手には皮のグローブをしているが、左手のグローブは右手のもの
に比べて作りが特殊で、甲の部分に赤い宝石で出来た六角形の印貨がはめ込まれていた。
それが不可思議の力を持つクレストだと、わかる者にならわかるだろう。
さらに、もう一人。否、もう一匹がいた。
鷲の頭、鷲の翼、四肢の前足、馬の身体を持つ獣、グリフォンだ。
ウリック、アリエス、そしてギューイである。
三人とも埃にまみれていたが、ようやく前にしたファームの街並みにホッと胸を撫で下
ろした。
「ここがファーム。公領で一番大きな街さ」
「やっと……」
「大変だったね。カガルーンに行く何倍もかかったよ」
「元はと言えば、ウリックがいけないんだよ。お金をスラれた子供に切符代全部上げちゃ
うんだから」
「だって親に会いにファームまで行くはずだったのにって泣いてて……可哀相じゃないか」
「お金はお金がある人が出せばいいのに……切符代ぎりぎりだったって知ってたら、わた
し止めてたよ」
ぷうっと頬を膨らませるアリエスに、ウリックは申し訳なさそうに頭を掻いた。結局、
そうして路銀が底をついたウリックはアリエスと共に線路の横を歩いてきたのである。
だが、それも問題であった。ファームに来るのならば街道を歩けばよいのであって、煙
を吐き出して走る蒸気機関車の通り過ぎる横を歩く必要はない。どうやらウリックには蒸
気機関車に乗れなかった、ならば歩こう、蒸気機関車の横、という構図がいつの間にか出
来ていたらしい。
おかげですっかり汚れてしまったアリエスは、すすのついたギューイの毛を払ってやり
ながらウリックに訊く。
「ここでクレストを渡すんでしょ?」
「ああ。ここの領主なら、しっかりとクレストを保管してくれる」
「知り合い?」
「一応」
「ふーん」
何となく面白くなく、アリエスは上目遣いにウリックを見た。
だが、ウリックは「ん?」と微笑んで首を傾げるだけだ。
(子供扱いだ……っ)
殴ってやろうかと思ったが、アリエスは理性で自分を押さえつけた。ウリックの行動一
つ一つに腹を立てていては、やはりいけないと思うのである。
だけど、とアリエスは街を見た。
「行こ」
「ああ」
歩き出し、正面からの風に髪を揺らしながらアリエスは斜め前を歩くウリックの横顔を
見上げた。
いつか、追いつこう。
不可能な願いではない。ウリックは特別だ。
ウリックは歳をとらない人間なのだ。
アリエスはファームにたどり着くまでの数日間の間にウリックから色々なことを教えて
もらった。
国、街、村、世界の仕組み、歴史。ほとんどのものはカガルーン山から出たことが無い
アリエスに必要な最低限の知識であったが、その中にウリック自身のことも含まれていた。
ストライク・セブン。
女神の七つの武器、剣、弓、槍、斧、鎌、戦輪、鎖は古代人が作りだしたという伝説の
武器だ。その力は凄まじく、手にした者に覇皇となるだけの力を与えるという。
五十年前、ストライク・セブンを持つ七人の戦士の集団がその名も『ストライク・セブ
ン』を名乗って世界大戦を終結させた。ウリックは、その中の一人だったという。
「だけど、ストライク・セブンは古代人だけが使える武器だった」
焚き火に薪を入れながら、ウリックは苦笑のような、寂しそうな顔で言った。
「俺たちは、ストライク・セブンの力を引き出すために、自分たちを喪失技巧で作り替え
た」
ウリックが呪うように言葉を吐くのを、アリエスは初めて訊いた。ウリックは言った。
「『反転の呪法』」
と。
「その日から、俺は古代人でも何でもない、ストライク・セブンを使う力だけを持った何
かになってしまったんだ……」
※
ファームに向かうように進みながら、だがウリックはファームの街から少し離れた場所
にある城へと向かった。
訝しんだアリエスは、しかしすぐに合点がいって頷いた。
「領主さまに会うんだっけ?」
「街に寄ってからでもいいんだけど……ギューイがいるからね」
「あ、そうだよね」
名前を呼ばれ、ギューイが首を傾げて鳴いた。訓練された動物は街に入ることが許され
ているが、それでもグリフォンはカガルーン山などの渓谷の生き物だ。珍しがられること
は目に見えている。
ドノヴェ公の城は、低い城壁を持つ広大な城だった。城壁にはやや古典的な彫り物がさ
れ、アリエスは目を輝かせた。
「見て、凄い!」
「あれは、もともとはしっかりとした城壁だったんだけど、今の領主が仕事が無くて困っ
ていた職人たちに彫らせたんだ。城自体ももともとはもっと小さくて実用重視だったんだ
けど、同じ理由で何度も建て増しされて、今みたいになったのさ」
「へえ……偉い領主なんだ」
正直な感想を言うアリエスにウリックは目を細めて微笑んだ。だが、アリエスは気づか
ずに段々と近づく城の姿に目を奪われていた。
三階建てほどの建物は、むしろ横幅が広く奥行きもある。個別に建っている建物もあり、
アリエスが質問するとウリックは「喪失技巧の研究所だよ」と応えた。
「研究所って、街にあるんじゃないの?」
「あそこにあるのは領主が特に目をかけた研究者のために、あと自分で使うために作った
研究所だよ」
そうこう言っている間に二人は城の門に到着した。
絡み合う蔦を意匠した門の横に立っていた番兵にウリックが手を挙げると、番兵は笑っ
て手を挙げ返した。
「お帰りなさい、ウリックさん。そちらのお嬢さん……と、グリフォン、ですか、は?」
「それについては俺から領主さまにね。グリフォンは人に慣れているから、大丈夫」
「はあ……まあ、あなたがそう言うなら構いませんがね」
チラリと自分を見てくる番兵に、アリエスは精一杯胸を張ってお澄まし顔をした。その
様子に、番兵がぷっと吹き出した。
「はい、わかりました。お通り下さい」
門が開き、さらに番兵が門の裏側にあった紐を引く。すると、しばらくして奥にあった
木製の両開きの扉が開いた。
「ありがとう」
「し、失礼しますっ」
ギューイも鳴き、二人と一匹は城の敷地内へと足を踏み入れた。奥の扉まではしばらく
あるが、果たしてギューイを屋内に入れてよいのかどうか迷い、ウリックの袖を引いたア
リエスは、ちょうど扉から一人の青年が執事らしい老人を連れて出てきたのにウリックの
袖を放した。
長く波打った銀髪の青年は、ウリックを見て小さく目元をほころばせた。
「予定より随分と遅かったな」
「色々とね」
「ねえ、誰?」
何となくわかったが、一応アリエスはウリックに訊いた。すると、それが聞こえた青年
は胸に手を当てて綺麗な礼をして言った。
「お嬢さんには初めまして。私はハイマン・アーツ・ドノヴェ。……立ち話も何だ。上が
りたまえ……いや、その前に湯の用意をしようか?」
そう言って、ハイマンは埃だらけのウリックたちに笑いかけるのだった。
3
ウリックが風呂に入っている間に厩舎でギューイを洗ってやったアリエスは、ハイマン
と話があるというウリックと入れ替わりに公爵家の広い浴場へと入った。
本来ならアリエスのような者は使用人用の浴場へ通されるのが普通なのだが、ハイマン
はウリックとアリエスに特別な待遇を用意した。もっとも、アリエスにはその辺りのこと
はわからないが。貴族の風呂だから大きいに決まっている。その程度の知識しかない少女
である。
浴場は角を丸められた大理石の浴槽を中心とした、ちょっとした公園ほどもある豪勢な
ものだった。脱衣場で服を脱ぎ捨てたアリエスは、他に誰もいない浴場に恐る恐るといっ
た様子で踏み入る。
すぐに強い湿気が身体を包み、アリエスは気圧されたまま浴槽へと向かった。
見たこともない浴場に心が高揚するよりも、アリエスは何か心細さのようなものが込み
上がってきて身を小さくして桶に湯を汲んで頭から被った。
湯の風呂、というのはアリエスにとって馴染みの無いものであった。渓谷の村であるム
ンサでは基本的に山の中の泉などで水浴びして汚れを落とした。冬だけは大きなたらいに
湯を入れて入ったが、それはあくまで汚れを落とすためのもので、浸かるというほどのも
のではなかった。
そのようなわけで、アリエスはおっかなびっくり大量の湯を桶に汲み上げる。
「いいのかな?」
疑問に応える者はいない。結果、アリエスは自分風に結論を出した。
「ウリックが入ったんだし、いいんだよね」
簡単なものである。
そうなると現金なもので、アリエスは有り余る湯を遠慮なく使う。
「えい!」
桶に汲んだ湯を、意味もなく浴場の床に撒く。村では絶対に出来ない贅沢に、アリエス
はふるふると肩を震わせた。
「気持ちいい……っ」
だが、そこで我を取り戻したアリエスは、今度は楽な気分で身体を洗い、湯に浸かった。
湯の中で手足を伸ばし、ゆっくりと瞼を下ろす。
「ふう……」
息が漏れ、頬が上気する。一連の意味の無い心細さや高揚感が湯の中に融けていく。
それは、そのまま旅の疲れでもあったのだろう。
しばらくして湯から上がったアリエスは、脱衣場に自分のものではない服があるのを見
て、しかしそれを着ろという意図がわかり、着用した。
それは黒く薄い、身体にぴったりとした伸縮する素材で出来た服だ。上は袖無しで、下
は足首まである。だが、身体にぴったりなその服だけでは身体の線がはっきりと出てしま
い、少々恥ずかしい。そのためか、緑色の貫頭衣が用意され、アリエスはそれを被った。
貫頭衣は濃い緑色で、丈は膝上辺りまでのスカートだ。つまり、ワンピースである。袖
の部分は短く、肩の部分だけに布が無い切れ込み様式となっている。
そのような服に、残っていた自分のグローブとクレスト、それからブーツを履いたアリ
エスの姿は、装飾的に可愛らしく、また一種機能的な美しさを持っていた。
「えっと、ウリックはどこだろ?」
呟くとアリエスは脱衣場から出て歩き出した。
城の中は、広い。
※
「なるほど、お前が向かっていて幸いといったところか」
「ああ。でも、まさかあんな辺境でちょうどかち合うとは思わなかったよ」
「それこそ運命とでも言うか」
城の庭、色とりどりの花が生い茂る場所でウリックと青年貴族ハイマンは語っていた。
ウリックがムンサ村でのことを報告したところ、ハイマンは苦笑してウリックを見た。
「こちらからあちらを探さなくても、全てはウリック、お前に集まってくる」
「偶然だよ」
「偶然にしては出来過ぎだ。お前はいつもそうだ。どんなことでも、お前は必然に取り巻
かれているような気がする。……それが英雄の条件か?」
「やめてくれ」
と、ウリックは少々固い声で言う。
「俺は英雄なんかじゃない」
「英雄さ。歴史が証明している」
「俺が英雄なら『ストライク・セブン』は皆英雄さ。……『ストライク・セブン』は英雄
なんかじゃない」
低く、ウリックは言った。
「ただの殺人集団だ」
「……なぜ英雄という言葉を嫌う。『ストライク・セブン』は世界大戦を終わらせた功績
で英雄に相応しいはずだ。歴史学者として言わせてもらえば、そこに本人たちの意図は関
係ない」
背中を向けたウリックに冷たく言い放ち、ハイマンは波打った髪を掻き上げた。陽光に
輝く銀髪を邪魔そうにしながら、ハイマンは歩き出した。それに気づき、ウリックも振り
返って従う。
庭を散歩しながら、二人の会話は続いた。
「ここ最近の私の領土での『ストライク・セブン』を名乗る集団の活動は段々と活発化し
ている。連中の目的はクレストらしいが……理由の見当はつくか?」
「さあ……クレストなら、有効利用の方向がありすぎて逆にわからないな。クレストを集
めることが目的というより、クレストを集めてする何かが目的じゃないかな」
「同感だ。……あのお嬢さんにクレストを渡したそうだな」
「いや……それは話の流れというか、勢いでクレストを受け取らないで帰ろうとしたら、
彼女がついてきたわけで……」
「泣かれたか」
ズバリとハイマンが言い、ウリックは額に手を当てて頷いた。ハイマンは、花壇を向き
ながらウリックを横目で見る。
「いずれ、また泣かせることになる。わかっているのか?」
「……わかってる」
呻くように、ウリックは額に手を当ててうつむきながら応えた。そうか、とハイマンが
頷くよりも先に続ける。
「俺の時間は彼女とは重ならない……彼女は俺についてきたが、俺は彼女に何も返せない。
ずるいんだ、俺は。彼女がいればしばらくは寂しくないと……そう思ってる」
「私はよかった。兄と思い、親友と思った男が年下の男になっていくことを……私は、受
け入れた。男だからな。だが彼女は女だ。いずれ、女になる。その時、お前はどうする」
「わからない……その時までに彼女の心が変わるかもしれないし……」
「随分と都合のよい話だな」
ウリックは顔を上げない。ハイマンはふっと表情を和らげると、ウリックを見て笑った。
「帰ってきて早々、悪いな。しかし、友人の忠告を一つ聞いてくれるか」
「?」
「先程から聞いているが、お前自身は変わるつもりはないのか。あのお嬢さんに応えられ
るようにな」
「無理だよ」
ウリックは寂しそうに笑った。
「もう、無理なんだ」
そう言って、空を仰ぎ見たウリックを、ハイマンはジッと見つめていた。
アリエスが迷子になっているという知らせを聞いたのは、このすぐ後の話である。
※
執事のメイスンに見つかったアリエスは、ハイマンの書斎に連れていかれ、あろうこと
かハイマンの机に座らされて二人の青年を待つことになった。
字がろくに読めないアリエスは、部屋の壁を彩る書棚の本を手に取る気にもなれず、出
されたカップの中身を静かに啜った。
書斎は広く、そして高さがあった。どうやら二階の天井までの高さがあるらしく、背の
高い梯子が設置されていた。
なかなかやってこないウリックに、アリエスが退屈を感じ始めた頃、声が降ってきた。
「溢れる知識の泉も、文字を解さぬ小鳥の羽根を止めることは出来ないかえ?」
「──わっ!?」
突然の声に、アリエスはびっくりしたが、それは立て掛けてある梯子の上からのものだ
った。慌てて見上げると、天井付近、かなりの高さの場所で一人の人物が本棚の縁に腰掛
けていた。
女、だ。大きな眼鏡をかけ、長い栗色の髪を首過ぎ辺りで束ねて垂らしている、白いド
レスの上に同色のマントを羽織った二十歳前後の女性だった。膝の上に一抱えもある本を
広げ、口元に笑みを浮かべてアリエスを見下ろしている。端正な、高い知性を思わせる深
い眼差しの持ち主だった。
「驚かせたか。鳥は鳴かずとも沈黙しているわけではないこと、それを驚きに沈黙させる
は我が失態。許せよ」
「…………」
ウリックを待っていたところ、まったく違う人物に声をかけられた驚きもあるが、アリ
エスは別な意味でも驚いて口をぱくぱくさせた。
「い、言ってる意味がわからない……」
「うん? 意思を伝え合うためのものでありがなら惑わしの源、ここに刻まれし文字へと
発展せし絡み合う糸のごとき言語なるものは遙か五十の歳月の前に束ねられたはず。小鳥
よ、そなたどこの大地、もしくは空に生を受けし者か」
「え? え? あの……ムンサ」
「彼の鷲馬の民や。汝らの言語は何か。それとも、我の知らぬ間に言語の糸は違えたか?」
不思議な響き。呆気に取られたアリエスは、自分が遠い異国にやって来たかのような錯
覚に陥った。
すると、アリエスの困惑がわかったのか、女性はパタンと本を閉じると、意外な腕力で
簡単にその本を書棚に入れ、梯子を伝ってアリエスの前に降り立った。
背が高い。百四十四ミル(約百七十二・八センチ)の長身に前に立たれたアリエスは、
椅子からずり落ちそうになった。
「我が名はワレイアナ・クルアン。世界の糸を解きほぐす役目を己に課せし者」
「あ、アリエス・ファイン……です」
「アリエス。その手にしたるはグノー(炎)なるクレスト。ならば汝を我に引き合う運命
に導いたは長命者ウリック・イモータルに違いあるまい。如何?」
「ウリックを知ってるの?」
「彼の者は長命者。彼の者は強き弱き孤独の使徒。導き手にして導かれし者」
「あーもう! 普通にしゃべってよっ」
ついに癇癪を起こし、アリエスがワレイアナに人差し指を突きつけた。ワレイアナは目
を見開くと、意外そうに言う。
「小鳥や何を鳴く。我が言語は──」
「変!」
「む……」
ぷうっと頬を膨らませたアリエスが断言し、ワレイアナは端麗な眉を寄せ、二人はしば
し正面から見合った。
そこで、アリエスは気づく。ワレイアナは、本気で困惑していた。
「何をしているんですか、ワレイアナ」
ようやくウリックがやって来ると、苦笑して手を挙げて挨拶する。アリエスはホッとす
ると、ワレイアナもウリックに小さく会釈した。
「予期せぬ長旅に不審に思えば小鳥を連れ帰ればそれも道理。領主殿も来られた、互いに
ついて語るのもよかろう」
「ウリック、街の人ってみんなこんなしゃべり方なの?」
「いや、これはかなり特殊な例だと思うけどね。……ハイマン、いいか?」
「私が紹介しよう。お嬢さん、こちらはワレイアナ・クルアン博士。この若さで幾つもの
喪失技巧を復活させ、学会では天才と呼ばれている」
「そのような語りで何を小鳥に届けようか。我はただの学士の徒。気軽に博士と呼ぶが良
いぞ」
「うん……博士」
気さくに手を差し出したワレイアナのそれを握り返し、アリエスはまだ首を捻りながら
ハイマンを見た。
「それから……領主様?」
「ハイマン・アーツ・ドノヴェ。領主と呼んでくれても構わないがね」
こちらも気さくに握手を求め、アリエスはやはり握り返した。その段階でようやくアリ
エスは自分だけが椅子に座っていることに気づき、慌てて立ち上がった。
年長者が常に上座に座るのがムンサ村の風習である。そのことを知っているのか、ハイ
マンはアリエスの行動に小さく笑って席についた。
一番年上なのはウリックだが、二十三歳で加齢が止まっているウリックよりも二十七歳
のハイマンの方が感覚的にアリエスにとって最年長者なのだ。
そうして、改めてウリック、ハイマン、ワレイアナを順番に見たアリエスは、そこにあ
る程度以上の美形ばかり揃っていることに小さな引け目を感じた。
と、
「アリエス、その服、似合っているよ。ハイマンが見立てたのか?」
「いや、浴場まで案内したメイスンのはずだ。本当によく似合っている」
褒められ、アリエスはうつむいて耳を真っ赤にした。
(うわ……わっ)
耳が熱くなるのを必死に押しとどめようとするが、努力は虚しく耳や頬は火照るばかり
だ。
故郷では、外見を褒められたことなど無い。しかも、ウリックに言われたことは、思い
の外自分に効果があったようだとアリエスは自覚した。
だが、やはりよくわからない。ハイマンに言われた方はあまり気にならないのに、どう
して親しいウリックに言われると耳が熱くなるのだろう。普通、親しければ親しいほどに
褒め言葉などは気軽に受け止められるようになると思うのに。
ハイマンは赤くなるアリエスを見下ろし、ふっと表情を優しくした。普段は穏和だが領
主らしい強さも込めた表情をしているハイマンだが、アリエスのあまりに素の反応に胸を
打たれたのだ。
(なるほど)
ハイマンは内心で呟いた。
(ついてくる者がいても、ウリックは拒んだだろうが……)
アリエスが、顔を上げる。
退かない瞳だった。
自分の感情は何だろう、と考える瞳だった。日焼けした肌は健康を感じさせ、恥ずかし
がりながらもそれを表に出さないようにと口をへの字にしたおかしな表情は、活力という
ものを溢れさせている。
「おなごが何という顔をしておる……」
ワレイアナがアリエスの頭を両手で挟んで自分の方を向かせる。接近するとワレイアナ
の身体から柑橘類の仄かな香りがして、アリエスは心が落ち着いた。
「いい匂い」
「後で同じものを使用してみるかえ?」
頷きかけ、しかしアリエスはギューイの鼻が効かなくなるのは困るので首を横に振った。
残念そうな顔をしたワレイアナだが、すぐに理解したのか、アリエスの頬を放す。
「賢き小鳥よな。して領主殿よ、我をここに呼びし理由は何ぞ?」
「ウリックの持ち帰るクレストを見ていただこうと思っていたのだが……どうですか?」
「アリエス」
ウリックに促され、アリエスは左手を前に出した。手甲に張りついた赤いクレストに皆
の視線が集まった。手にむずむずする感覚を覚えたが、アリエスはワレイアナが手を取っ
たことに意識を引かれた。
ワレイアナは、もう片方の手で眼鏡を直しながら言う。
「グノー・クレストはもっとも発見されるクレスト故、急ぎ調べることも無かろう。ただ
クレストであることは変わりなし。つまらぬ盗人の目につかぬよう持ち運ぶよう」
「グノー……」
「アリエス、クレストの種類はわかるね?」
「当然だよっ」
ちょっとむっとして、アリエスは指を立てて一つ一つ数えながら言った。
「グノー(炎)・クレスト。ルナル(水)・クレスト。ユナ(風)・クレスト。ディノ(地)
・クレストの四つ。常識じゃない」
「自然の力を凝縮された印貨……では、その力の使い方は?」
「お父さんが冬を越すのに使っていたから、少しはわかるよ」
「ふむ、文字の知識よりも生活で得た経験がありしは貴重よな」
そう言うと、ワレイアナは赤い印貨に優美な指を乗せると、小さく幾つかの言葉を紡い
だ。今度は古典的な言い回しではなく、本当に理解でき無い言語でのそれに、アリエスが
目をぱちぱちとさせると、クレストの上の小さな空間に文字で出来た円が発生した。
ワレイアナはその円を形作る複雑な文字を流し読みし、頷くと再び言葉を紡ぎその円を
消した。
「此なるクレストの名は《火蜥蜴の息吹》。力が必要な折りは其の名で呼びかけるが良い。
必ず汝が力になるであろう」
「《火蜥蜴の息吹》……クレストにも名前があるの?」
「剣と同じよ。名あるものもあり、名なしのものもあり、ただ名付けるは人の意志なり」
「名をつけられるのは優れたクレストのみということだ。優れた剣に名が付けられるよう
に」
訳すようにハイマンが言うと、アリエスは訊いた。
「ストライク・セブンみたいに?」
ピクリとハイマンとウリックの眉が動いたが、応えたのはワレイアナだった。
「ストライク・セブン。女神の祝福を受けし其は失われし技術の産物。我らが古代人と呼
びし者が生み出した究極の武具の名前」
「……剣だけの名前じゃなく、他の六つの武器の名前もストライク・セブンだから、正確
には剣の名前じゃない、かな? 称号みたいなものだと考えれば近い、か」
少し考えてウリックも言い、背中の長剣を鞘ごと外してアリエスに見せた。柄に巻いた
布もぼろぼろな剣は、鞘が薄汚れて盗人も目にかけないような代物だ。だが、抜けばそこ
に紫色の宝石で出来た剣身があるのをアリエスは知っていた。
目の前に出された伝説の武器に、アリエスは顔を輝かせて手を伸ばした。
「抜いていい?」
「怪我をしないように!」
慌ててウリックが言うが、アリエスは気軽に鞘から剣を引き抜いた。長い剣を鞘から抜
くにはアリエスの腕は短く、苦戦して抜くと、意外にも剣は軽かった。
「あ、そうか……鉄じゃないんだ」
薄い宝石の刃は軽く、アリエスにでも振り回せそうだった。しかし、あくまで石剣であ
るのであまり切れ味は良さそうには見えない。
ただ、美しさだけは指折りのもので、アリエスはその剣に見惚れた。ただでさえ宝石の
剣だ。装飾品としてもかなりのものである。
「……綺麗だね」
「アリエスが使ってもただの宝石の剣だよ。痛いけど、あまり切れない。……俺以外には
ね」
くしゃり、とウリックは自分の髪を掻き混ぜる。美しい剣身に見入っていたアリエスは、
横からハイマンが剣を取るのに抵抗しなかった。
「ストライク・セブン……ドラゴンさえ一太刀で屠る伝説の武器だ。これについて、私た
ちは一つの説を考えている」
「巨大なクレストよな」
剣身は、妖しいほどの紫に輝いていた。
扉が叩かれたのは、その時だ。
「ハイマンさま。ウルグアンへと護送中の馬車が何者かに襲われ、囚人……ディラック・
フォーマンスが脱走しました!」
4
ディラックは村のあちこちから立ち上がる黒い煙を眺めながら、血に濡れた斧状槍の刃
を一振りした。
血は、ディラックに向かってきた『ウルグアンの兵士』のものだ。
ディラックは今や囚人服ではなく、かつて使用していた血にまみれた服に、革製の胸当
てという姿だった。剥き出しの腕には筋肉が発達し、重い斧状槍を棒きれのように振り回
す。
ディラックは、自分に交渉を持ちかけた者たちのことを思い出していた。彼らがディラ
ックに接触を持ったのは、ウルグアンへの引き渡しのための馬車に乗せられる前日だった。
独房に入ってきた小さな蜥蜴は、背に巻き手紙をくくりつけられていた。そこには手紙
を書いたのが『ストライク・セブン』を名乗る団体であること、彼らがディラックを高く
評価し、受け入れる姿勢があることが記されていた。
『鉱山の奴隷たちのために立ち上がった英雄よ。命を失った同志たちのためにも我らと協
力し、この間違った世界を正そうではないか』
そうして、ディラックの護送車が現在の村に通りかかった時、黒衣の一団が現れ、ディ
ラックを解放したのである。かつて使用していた斧状槍を渡されたディラックは、自分を
捕まえようとする『ウルグアンの兵士』を薙ぎ払った。いつの間にか村には火が放たれ、
その光景がディラックをさらに過去の記憶へと引き込んでいく。
ウルグアンの国軍によって壊滅させられた、自分たちの革命団体を。皆殺しにあった仲
間たちを。自分を英雄と呼んでくれた人々を。
「おおおおおおお!」
ディラックは雄叫びを上げた。
兵士たちは次から次へとやって来る。
斧状槍は、止まらない。
※
「こうまであっさりと堕ちてくれるなんて……楽な仕事ですね」
鼻歌混じりに言ってのけたのは、丸眼鏡をかけた銀髪の青年だ。小柄で猫背気味の青年
は、カガルーン山でドラゴンを操ったアミト・クラウスに違いない。
そのアミトに明らかな嫌悪の顔を見せて振り返ったのは、白い布製の被りものを頭に被
った、特に意志の強そうな黒い瞳をした青年だ。
「なんです? まさかリダイル・カドモンとあろう者が、僕のやり方が気に食わないとい
う理由だけで作戦の中止を?」
「それはない。それはないが……気に食わん。俺たちはディラック・フォーマンスがウル
グアンに引き渡されない場合、奴を殺すためにやって来たのではなかったか? ドノヴェ
公が奴の引き渡しを受け入れた以上、俺たちは何もする必要が無かったはずだ」
「一石二鳥という言葉を知っていますか?」
リダイルにアミトは眼鏡を指で正しながら言った。
「ディラック・フォーマンスには死んでもらわなければならない。ドノヴェ公も、ウルグ
アンのそうした考えがわかっているからこそ、ウルグアンの国民から非難されること──
もちろん、自分の領民からの非難も覚悟で引き渡しに応じた。だが、護送中にディラック
・フォーマンスが脱走したら、どうなりますか?」
「……引き渡そうとしたことでドノヴェ公の人気は落ちる。そして、ウルグアンからもデ
ィラックを逃がしたことで非難されることになるだろう」
「そこで、僕たちはディラック・フォーマンスに脱走してもらったわけです。もちろん彼
に生き延びられては困りますので、逃げ切った後に僕たちが始末することになりますが」
「…………」
リダイルはアミトの顔を見るのも嫌だというふうに背を向けた。二人の周りには、数人
の黒衣の男たちが警備に当たっている。他の者たちは、村に火をつけて回っていた。
「僕はカガルーンでクレストを手に入れ損ないましたからね……この仕事が終わったら、
報告しなければ」
その言葉に、リダイルが反応を示した。
「お前の言い訳にあった、ストライク・セブンを持った剣士か」
「冗談ではありませんよ。あの方たち以外にストライク・セブンを持つ者が生き延びてい
るなどと、聞いてはいません。幾ら僕でもストライク・セブンに正面から挑むことなど、
考えられない」
「ストライク・セブンだろうが、対抗できないものではないだろう。もし許されるならば、
俺が斬って捨ててみせる」
「頼もしいことですね」
そう言ってアミトは口元を歪めて笑った。
(あれに勝てるものですか。ストライク・セブンを持っているのは、全員人間を殺すため
の化け物ですよ)
内心で、呟く。
(化け物には化け物……それ以外にはありませんよ)
それは、黒い未来へと続く何かを見いだした者の暗い笑みであった。
※
『ウルグアンの兵士』が見えなくなって、ディラックはホッと息を吐いた。だが、まだ
だ。村につけられた火を消さなければならない。仲間を助けなければ。
その時、母親らしい女性をかばうように立った幼い少年に剣を振り上げる黒衣の男が目
に入った。
「やめろお!」
喉も傷つくほどに叫んだディラックは全力で駆けて斧状槍を一閃させた。目を見開いた
黒衣の男の受け止めようとした剣ごと斧状槍は相手を切断した。
凄まじい威力に、他の黒衣の男たちの間に動揺が走る。
「構わん、殺せ!」
「相手は一人だ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
「おおおおおおおおおおおお!」
狂った。
ディラックの中には、すでにかつてのウルグアン国軍との戦いの場しか残されてはいな
かった。
※
「酷い……っ」
ギューイに乗り、上空から村の惨状を見たアリエスはモウモウと立ち上がる煙を避けな
がら目を吊り上げた。
「どうしてこんな……」
そうして、アリエスはギューイの声に促されて一部分だけ人が集まっている場所がある
ことに気がついた。
黒衣の男たちが、子供を守る長身の男を取り囲んでいる。
「ディラック?」
説明されていた脱走者の特徴に当てはまる人物に、アリエスは首を傾げた。ならば黒衣
の集団はドノヴェ公領の兵士か、と思うが、その可能性をアリエスは否定した。
明らかに、ディラックは子供を守っている。
そこで、アリエスは大胆な行動に出た。
急降下。
ギューイの鳴き声に気づいた黒衣の集団が、驚きに目を見開いて武器をアリエスに向け
た。
問答無用。ならば、敵だ。
「《火蜥蜴の吐息》! 放て!」
急降下しながら、アリエスはワレイアナに教わったばかりのクレストの名を唱えた。
アリエスの前に文字円が生まれ、そこから一条の炎が放たれる。その炎に飲み込まれた
黒衣の男が、悲鳴を上げて地面に転がる。死ぬほどの炎ではないが、無視出来る炎ほど弱
くもない。
その時だ。
横振りの斧状槍の一撃が、アリエスの横腹を捉えた。
※
痛い、と思う余裕も無かった。着地しようとしたギューイの隙をついての一撃は正確に
アリエスの右横腹を捉え、勢いよくグリフォンの上から振り落とした。幸いだったのはそ
れが斧状槍の斧部分の背側だったということだ。
ほぼ同時に悲鳴もなく黒衣の男が倒れる。斧状槍の一撃は、黒衣の男に斧部分での一撃
を加え、そこから振り子のように戻したものだったのだ。
一拍置いて、アリエスの身体が地面に叩きつけられる。その事実に、アリエスの『つが
い』が怒りの声を上げた。
暗い瞳を燃やしたディラックはグリフォンを見て斧状槍を構えた。ギューイも怒りのま
まにディラックに向かって地面を蹴った。馬の後ろ足は地上においてもグリフォンに凄ま
じい速さを与える。
「おお!」
迎え撃つディラックが斧状槍を斜め下から振り上げた。だが、ギューイは跳び上がると
鷲の翼をはためかせて大きく軌道を変えた。まさに鷲が地上のネズミを襲うかのような角
度で、獅子の前足でディラックを狙う。
ディラックが地面に転がってそれを避けると、しかしギューイはアリエスに黒衣の男た
ちが近づくのを見てディラックを放って後退した。
「…………?」
初めて、ディラックの顔に疑問符が浮かぶ。
(グリフォン? あんな猛獣を軍は用意したのか。だが、グリフォンを飼い慣らせるとは
聞いたことがない。そんなことが出来るのはロモス王国の……)
幻惑にヒビが入る。
ここはどこだ。ウルグアンではないのか。戦っていたのは国軍ではないのか。
グリフォンの鳴き声に黒衣の男たちが牽制され、ディラックが動きを止めたために、そ
の場に一時的な空白が生まれた。あまりに激しい戦いに、泣くことすら許されていなかっ
た子供が、ついに泣き出した。
「痛……っ」
顔を歪め、目に涙をにじませてアリエスが四つん這いになる。何が起きたのか、アリエ
スにはまだわかっていなかった。ただ自分が何かに払い落とされたことだけはわかった。
グリフォン使いの村の出身だけに、どんな状況でも受け身だけはしっかりと取って落下
したアリエスは、脇腹の痛み以外は怪我の無いことを確認した。
「槍……」
地面に落ちた投げ槍を拾う。だが、まだ動けそうになかった。
ディラックも、混乱の中にいた。
子供の泣き声がその混乱の中に突き刺さる。
「──させるか」
動き出す。
「殺させるか!」
殺させない。奪わせない。そのためには相手を殺す。人々を虐げる国を倒す。
(俺を英雄と呼んでくれた人たちのために!)
動きの止まったディラックに斬りかかろうとしていた男たちに、ディラックは突然動き
出して斧状槍を大きく振り回した。円を書くような軌道に、同時に数名の男たちが傷を負
う。
子供の泣き声が激しくなる。
(泣かせない……泣かさせない……)
ディラックは奴隷ではなかったが、裕福ではない家庭に育った。両親はとある領主の家
の下働きで、奴隷たちにも対等に接する人柄だった。
「大丈夫、いつか奴隷などというものはなくなりますよ」
それが父の口癖だった。父が後にディラックが参加することになる革命団体に所属して
いたことをディラックは知らなかったが、その頃にも奴隷解放のための活動は行われてい
て、そのことを知った領主はディラックの両親を見せしめとして殺し、事前に逃がされて
いたディラックにも追っ手を差し向けた。
幼いディラックはすぐに捕まりそうになったが、それを助けた人物がいた。その人物は
ディラックを革命団体に引き渡し、去っていった。
絶望の淵にいたディラックを凄まじい剣技で救い、そして両親と同じ志を持つ者たちの
もとへと連れていってくれた人物。
ディラックは誓ったのだ。自分は、その人物のようになろうと。
弱き人々のための剣になろうと、自分の英雄に心の中で誓ったのだ。
「おおおおおおおおお!」
斬る、払う、叩き伏せる。
黒衣の男たちは次々と大地に倒れ、動かなくなった。誰も勝てない。近づくことさえ出
来ない。ついに黒衣の男は背を向け、逃げ出した。その背中に、ディラックは斧状槍を振
り上げた。
(死ね!)
衝撃と共に斧状槍が弾かれたのは、次の瞬間だった。
※
馬から飛び降りたウリックがディラックの斧状槍を腰から抜いた剣で受け、弾いた。長
い斧状槍をディラックが構え直すよりも早くウリックは踏み込み、斧状槍の柄を斬り裂い
た。
両手の握りの間を分断されたディラックは、急激に片手にかかった斧部分の重みに、反
応が遅れる。
ウリックの剣が閃き、ディラックは恐怖に固まった。
(死んだ)
思った時、ウリックの剣は斧部分を叩き、ディラックの手から弾き飛ばした。
※
ディラックは何もすることが出来なかった。突然走り込んできた青年は、いとも簡単に
ディラックの斧状槍を無力化し、ディラックの横を通り過ぎたのだ。
自失しそうになったディラックを再び動かしたのは、子供の泣き声だった。後ろには子
供がいる。振り返ると同時にディラックは後ろ腰から銃を抜き取った。
革命団体が発掘した喪失技巧で作られた銃だ。火薬による破壊をもたらす武器は、斧状
槍に劣らない威力を持つ。
子供の前にかがみ込んだ青年の後頭部に狙いをつけた瞬間、青年が言った。
「もう、大丈夫だ」
子供が青年の胸に飛び込んだ。
銃が、地面に落ちた。
ディラックは、その光景に目を見開いた。既視感があった。自分では見ていない。だが、
確かにそれはディラックが知っている光景だった。
もう大丈夫だ、と。
言ったその青年の胸に飛び込んだ子供。
青年は、子供の背中を軽く叩くと、ディラックを振り返った。気づかないうちにその青
年を凝視していた自分に、ディラックは混乱した。
(敵? 違う……こいつは……)
銃を取って戦え、と誰かの言葉が命じる。だが、身体はそれに従わなかった。
憶えている。幼い自分の命を救ってくれた人物。そう、追っ手を殺すのではなく追い払
った人物。
ディラックの目指した英雄。
「人々のために剣になるんじゃない……君は、本当は人々のための盾になりたいんじゃな
かったのか? 守るために戦うな。守るために……守れ!」
ディラックの中で何かが砕け散った。
5
「術が解けた……!? あいつ、何でこんなところに!」
アミトが悲鳴じみた声を上げた。そして、すぐに命令を下す。
「退け! 目的は充分に達した。ディラック・フォーマンスの始末など必要ない」
「しかし、リダイルさまが……」
「放っておけ。リダイルなら自分一人でどうとでもなる」
言い、アミトは撤収の準備を始めた。
(キラー・ドラゴン二十匹で殺せない化け物をこんな部隊で殺せるものか!)
一方、ウリックが現れたと同時にリダイルは行動を開始していた。離れていてなおその
青年の危険性がリダイルにはわかった。
(あれは化け物だ)
そして、純粋に戦いたいと思った。もともとリダイルはアミトとは違い、作戦にしても
正面から挑むのを好む男だ。ディラックの力にも魅力を感じていたが、それ以上の強さを
見せたウリックの存在は、ついにリダイルの衝動を解放した。
村につけられた炎も、そろそろ全ての建物に広がろうとしていた。そのような場所に残
されたウリック、アリエス、ディラック、そして子供の前に、リダイルは長大な剣を持っ
て姿を現した。
「『ストライク・セブン』リダイル・カドモン。名前を聞こうか」
「……ウリック・イモータル」
それが戦いの始まりだった。
※
凄まじい戦いが展開された。ウリックの剣をリダイルが受け止め、リダイルの剣をウリ
ックがかわす。二本の剣がぶつかる度に金属音が響き渡り、空振る度に空気の裂ける音が
する。
「『ストライク・セブン』……何故その名前を名乗る!」
「ストライク・セブンを持つ者ならわかるのではないのか? だが、今はそのような話を
する時ではない。さあ、楽しもうか!」
言うなり、リダイルの右腕に異変が起きた。腕の筋肉が孤立した生き物のように脈動し
たかと思うと、それが一気に肥大したのだ。一瞬の後に、リダイルの右腕は巨大な鉤爪の
ついた異形の腕と化した。人間の頭を楽に包み込めるほどのその手で、リダイルは普通の
剣よりも長い柄の剣を持つ。
「抜け!」
一閃が、空気を裂いた。それは空間を渡って、離れたウリックの左目から左足までを一
直線に斬り裂いた。
「ウリック!」
だが、ウリックは倒れなかった。ぱっくりと裂けた傷から血を流しながら、無事な右目
で信じられないという顔でリダイルの異形の腕を見る。
「それは……」
「抜かぬのか!?」
言うとリダイルは動いた。踏み込んできたリダイルの剣を受け止めようとしたウリック
は、その威力に顔をしかめた。直後、膝蹴りがウリックの腹を打ち、息を詰まらせてウリ
ックは背後に跳んだ。
「遅い!」
間合いの外からの真空斬撃がウリックを襲おうとした。その時、銃声と銃弾がリダイル
の右腕を弾いた。
「ぬうっ!?」
「うおおおおおお!」
ディラックが銃を連射した。さすがにリダイルも右腕を盾にして下がる。そこに、アリ
エスが叫んだ。
「《火蜥蜴の吐息》! 燃やして!」
アリエスの前に生まれた文字円から放たれた業火がリダイルを包み込んだ。
「ぐあああああああああ!」
防ぎようの無いクレストの炎に、リダイルが悲鳴を上げた。だが異形の右腕が剣を振る
うと炎が薙ぎ払われる。
「邪魔だ! 剣士の戦いを汚すか!」
リダイルがアリエスに剣を向けた。
アリエスは逃げない。恐怖に負けない。アリエス風の結論は簡単だ。
ウリックがいる!
「!」
リダイルが振り返ると、ウリックが背中の剣の柄に手を伸ばしたところだった。ウリッ
クは、言った。
「その子に……触れるな!」
剣を抜く。
変化が訪れた。リダイルが、ディラックが目を見張る。
まず皮膚の色が赤黒く変わる。硬質化したその肌の末端部の指から爪が鋭く伸び、口か
らは凶悪な牙が覗いた。黒髪の中から天を突くように二本の角が生える。
開かれた目は、白目と黒目の境の無い黄金の色だ。
「確かに……ストライク・セブン!」
リダイルの顔が喜びに彩られた。瞬間的に踏み込んできたウリックのストライク・セブ
ンによる斬り下ろしを、リダイルは正確に右腕の剣で受け止める。
獣のごとき咆哮がウリックの口から放たれ、リダイルの剣は切断、さらにストライク・
セブンは何の抵抗も感じさせない勢いで異形の右腕を斬り飛ばした。
「ば……っ!」
リダイルの悲鳴は飲み込まれた。
勢いのまま地面に叩きつけられたストライク・セブンが紫色の閃光を放ち、爆裂した。
生み出されたすりばち状の穴に、リダイルは悲鳴すら上げることが出来なかった。
※
圧倒的な力を見せた赤い魔物の剣士は、リダイルを見ようとして、しかしすぐに横を見
た。すると、そちらの方向の空から飛来した鋭角的な姿の爬虫類がリダイルを鳥に酷似し
た足で掴んで再び舞い上がった。
「ウィング・ドラゴン?」
「ウリック!」
「え?」
ウィング・ドラゴンが飛び去った方向を眺めていた赤い魔物の剣士は、突然横から飛び
込んできたアリエスに目を丸くした。抱きつかれるままに腕でアリエスを支えようとする
が、片手には剣を持っているし、手には鉤爪だし、赤い魔物の剣士は情けない顔で両腕を
さまよわせた。
異形の姿でのあまりに情けないその様子に、アリエスはクスリと笑った。身体が固いが、
確かにウリックだ。
あはは、とアリエスは微笑んで言う。
「またストライク・セブンのおかげで助かったね」
ウリックの身体がピクリと震えた。だが、構わずにアリエスはウリックの身体を叩いて
言うのだった。
「ウリックが何を気にしているのかわからないけど、こうしない?」
「?」
脇腹の痛みに、崩れ落ちながら。
「これから、ウリックが気にならなくなるくらい、わたしがストライク・セブンを褒め続
けてあげるね」
相変わらず、唐突な少女なのであった。
そして、その唐突がウリックの心に突き刺さるものであるのも、否定できない事実なの
であった。
結
「話がある」
とハイマンに誘われたウリックは、城の庭に連れていかれ、ハイマンが切り出すのを待
った。
ディラック・フォーマンスの脱走事件から、五日が過ぎた。街を見てみたいというアリ
エスを、肋骨にヒビが入っていることを理由になだめて数日を過ごしたウリックは、戦い
の後よりも疲れた顔をしている。
「怪我を考えない子供ほど厄介なものはないか?」
「まったくね」
苦笑するウリックに、ハイマンは一枚の書類を手渡した。『ストライク・セブン』を名
乗る集団に関する書類だとわかり、ウリックは一転して表情を引き締めた。
「随分と広い範囲で活動しているな……だが、全部ドノヴェ公領で?」
「ああ。ディラック・フォーマンスの件を考えても、ここと隣接した相手……ウルグアン
かヒシュハが裏で糸を引いている可能性が高い。お前はどう思う?」
「あれは……」
とウリックは瞼を下ろして言う。
「あれは『反転の呪法』によく似ていた。簡単に言うなら化け物を作り出す喪失技巧……
確かに並の組織じゃ不可能な技だ。国が絡んでいるか、それとも……」
拳を握り締めるウリックを見て、ハイマンは目を細めたが何も言わなかった。
代わりに、ウリックを促して歩き始める。
「『ストライク・セブン』が私の領土で活動しているのは間違いない。ディラック・フォ
ーマンスの件でもウルグアンにわざと逃がしたのではと非難された。気持ちの良いもので
はないな」
そこで、とハイマンは前方を示した。そこにいる人物にウリックは目をパチパチさせた。
無精髭を剃り、ざんばらだった髪をある程度整えたその青年は、ディラックに他ならな
い。だが、その瞳に宿っていた暗いものはもうどこにもなかった。いるのは、ただひたす
らにストイックな面差しを持つ青年だ。
さらに、そのやや後方に得意気な顔で胸を張るアリエスが立っていることに、ウリック
は不吉なものを感じた。
「どういうことだい?」
「私は『ストライク・セブン』専門の部隊を作ることにした。正規の軍を動かすには手続
きも面倒だし、何よりも時間がかかる。少数精鋭、迅速な対応が出来る特殊部隊だ。彼ら
はその隊員だよ」
ウリックは諦めて天を仰ぎ見た。空は青く、グリフォンで飛べばさぞ気持ちよいことだ
ろう。
「ウリック、お前に率いて欲しいんだ」
『ストライク・セブン』を名乗る、お前に関わるに違いないその者たちとの戦いを。
言葉にされない意思に、ウリックは頷いた。
ウリックの心はまだ過去から動き出してはいない。
だが、彼の周りでは過去がゆっくりと動きだそうとしていた。
終