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        四.会食


 その夜はドナウに約束させて早々と眠ってしまった。翌朝起きたユフィールは朝食もと
らずに宿を出て、待ち合わせの場所に行く。
 すると、ドナウはちゃんとそこにいた。ユフィールよりも早く。
(意外だなあ)
 感心してユフィールが近づくと、ドナウは不機嫌そうに黒眼鏡を顔からはぎ取った。
「ユフィール」
「なに?」
「ここは普通、遅れてごめん、待ったっていうもんだ」
「? 遅れてごめんなさい」
「いや、今着いたところさ」
「なによ、それ。あ、しかも今、時間ちょうどじゃないっ。謝り損しちゃった」
「世の中には約束事ってものがあるのだよ」
「じゃあ、男が朝御飯奢ってね」
「約束事に縛られる生き方に疑問を感じないうちは人として一人立ちしたとは言えないな」
 早朝から疲れてしまうユフィールだった。とりあえず、二人で近くの食堂へ。朝の出勤
前の男たちがまばらに席に着いている。
 そこにやって来た天使のユフィールと、仕事人らしくない格好のドナウの二人は、やは
り目を引いた。
「嫌だな、見られるの」
「そうか? なら、見ないようにする」
「ドナウじゃないよ」
 ユフィールは苦笑して言った。ドナウが冗談で紛らわしてくれているのがわかった。意
外と、優しい。
 翼が誰かの食器にでも入ったら大変、ということで、朝食はドナウがカウンターまで取
りに行く。客層通り勤め人向けの食堂なので、基本的に食器の運び手は自分だ。その分割
安になっている。
(いつもここで食べてるのかな)
 ドナウは親しげにカウンターの中の中年女と話している。一緒にいて気がついたが、ド
ナウは人付き合いが上手い。相手に合わせているわけではないのだが、あの独特な話し方
で相手を自分のペースに引き込んでしまうのだ。
 大将と呼ばれていた技師やマクドリンとは特に親しいらしい。
「嫌いなものは無いよな?」
「あるけど、この中にはない」
「よし、さあ食え、これなんか美味いぞ。うん、美味い」
「って、どうして私の食べるの!」
「不思議だな」
「うん」
「あ、それ、俺の好物っ!」
「知ってるよ。この前、聞いたから」
「か、確信犯か。くそっ、警察は何をやってるんだ」
「……ありがと」
 と、ユフィールは言った。ドナウはわめくのをやめ、黒眼鏡を指で正した。
 ドナウが選んだユフィールの朝食は、教えた好物ばかりが並んでいた。
「ドナウって、もしかして、女の子にモテるでしょ」
「そうでもないぞ。会う度に食事に誘われる程度だ」
「それって凄いと思うけど……本当?」
「だったらいいな」
 妙にあっさりと否定する。それがむしろ怪しいと感じるのは、ユフィールがひねくれて
いるのか、それともドナウの日頃の言動のせいか。
 ドナウの手は早い。ユフィールが半分も食べないうちに食後のコーヒーに移っていた。
「で、訊きたいことって? ただ朝飯を奢ってくれるだけじゃないんだろう?」
「うん……って、どうして私が奢るのっ」
「わがままだなあ」
「どっちが!」
「昨日、妹にあっただろ」
 ドナウはコーヒーを含んだ。そして、呆れたように言う。
「なにテーブルと抱き合っている。そういう趣味があるのかね?」
「と、唐突に言うんだから……」
 心臓に悪い。気を取り直して、ユフィールは軽く咳をした。
「風邪なら、眠っていたまえ」
「……もしかして、話したくないとか」
「いいや。妹を捜しに来たんだろう? 始めは気がつかなかったけど、翼と顔を見比べて
みれば、どう見たって姉妹だったよ。まあ、俺はあまり彼女の顔を近くで見たことはなか
ったけどね」
「エイファ、何をしてるの? ずっとシェダルにいたの?」
「一つずつ答えていこうか」
 食べて食べて、と促され、ユフィールは食事を再開する。いくつかの視線が向けられて
いたが、ユフィールが見ると、それは逸らされた。
 ドナウは背もたれに身を預けるようにしてコーヒーを啜る。
「ええとだな。彼女の名前はエイファか、それは俺も知らなかった。彼女がいつからこの
街にいるかは知らない。俺が知ったのはつい最近だからな」
「いふ?」
「いふ?」
「……いつ?」
「一ヶ月前」
 本当につい最近だ。なら、ドナウに詳しいエイファの様子を期待することは出来ない。
それでも期待の目をしてしまうのは、仕方ないことだったが。
「彼女のしているのは、ボトルス社の社員。現在はもと社員。……昨日の話を聞くと、や
っぱり社員か?」
「エイファが社員……なんだかなあ」
「? 別におかしくない年齢だろう」
「そうだけどさ」
 そうだけどさ、とユフィールは繰り返した。に、とドナウの口元が笑う。
「さてはユフィール、無職だな」
「……正解。双子の片割れが就職してるのに、情けないよね」
「せっかくだから、俺のところに永久就職でもするか」
「はいはい、続き続き」
「うわあ、ひでえ。──で、そのボトルス社だが、聞いたな? 社長がこの前死んだ。そ
れで一応会社は解体したんだけどな、その息子がもと会社員を集めて、蒸気機関反対運動
を始めてるんだ、これが」
「それそれ。どうして?」
「蒸気機関は、空気を汚すんだとさ」
 それは正論なのだろう。納得してしまい、ユフィールは頷いていた。蒸気機関が発達し
たシェダルの街を見ていればわかる。
 燃やすことによって生まれる、黒い煙。
 蒸気で生まれる、白い煙。
 二色の煙が空を覆い、青い空など見えない時間帯がある。それほど煙を出し、空気が汚
れないはずがない。匂いすら、他の土地と違う気がするのだ。
 ユフィールが頷いたのを見て、ドナウが表情を消す。黒眼鏡がそれを助け、何を考えて
いるのか、まったくわからなくなる。
「そう、その問題点を突き、現ボトルス社は活動を開始した。抗議文を書き、街の人たち
から署名を集め、時には昨日みたいに直談判に来る。さすがに実力行使はなかったが」
「でも、そんなことして、何になるの? 蒸気機関が今さら無くなるはずがないのに」
「世界中から無くならなくたっていいんだろ。自分たちが住んでいる所に蒸気機関が無け
れば」
「それって──」
「自己満足だよ。社長のテオリアってのは、綺麗な空気じゃないと生きていけない奴か?」
「私に訊かれても困るけど……綺麗な空気がいいっていうのには賛成。この街で飛んだら、
すぐに翼が汚れちゃうよ」
 すると、ドナウは立ち上がってカウンターで果物を盛った皿を受け取ってきた。二人の
間に置き、自分も食べ始める。
「まあ、そういうことだ。彼女も、テオリアの下で働いてるんだろう。《属性》が使える
中位天使を二人も抱えているんじゃ、けっこうな組織だ」
「エイファは《属性》で人を傷つけたりしない。……《属性》ってそういうものじゃない
もの」
 悲しげにユフィールは言った。その響きに、ドナウが果物を摘む指の動きを止めた。
 《属性》は中位以上の天使が持つ、特別な力だ。かつての永年戦争では多くの天使がこ
の《属性》を武器として使用せざるを得なかった。
 武器として使用しても、誰も文句は言わないだろう。
 だが、ユフィールは嫌だった。
「お母さんが言ってた。《属性》は力だけど、傷つける力じゃないって。剣みたいに始め
から武器として作られたものと違って、もっと大切な使い方が出来る力だって」
 ユフィールが意識した以上にまっすぐな瞳だったのだろう。ドナウは呆気にとられてい
た。珍しく口を半ば開け、沈黙していた。
「エイファは、《属性》で人を傷つけないよ。お母さんの子だから」
 恥ずかしいことを言ったのかもしれない、とユフィールは思った。だが、思ったままの
ことを言ったつもりだった。
 しばらくして、ドナウが黒眼鏡を取り、ため息をついて髪をかき上げた。
「……参った」
「ドナウ?」
「本気になりそうだ」
「……本気で話してないと怒るけど?」
「はいはい、本気で話してるよ。ボトルスがそれなりの組織だって話だったな。実際に先
頭に立ってるのは、ユフィールも見たあの天使。名前は知らない」
「ベイ、だって。エイファが言ってた」
 確信はないが、たぶんそうだろう。ドナウも名前にはこだわりがないのか、軽く頷いた
だけだった。
「なら、そのベイだ。そいつが《属性》を使って色々とマクドリン社の営業妨害をしてく
る。工場に火をつけたり、とかな」
「この前でしょ? あの時、どうしてドナウはあそこにいたの?」
「あの工場で、蒸気機関車の新しい部品を作ってたからな。まあ、危ないと思って見回り
してた」
「ふうん」
 話が段々と繋がってくる。では、ドナウがあそこでユフィールと逢ったのも、偶然では
ないわけだ。
(私があそこにいたのは偶然だけど)
 などと考えていると、
「あそこでユフィールと逢ったのは運命だけどな」
「やな運命……」
 思いっきり嫌そうにユフィールは言った。ドナウは黒眼鏡を掛ける。そんなに何度も付
けたり外したりするのなら、どちらかにすれば良いのに、とユフィールは思うのだが。
 その後も二人でマクドリン社やボトルス社について話したが、これといってユフィール
の気を引くような内容はなかった。
「マクドリン社はボトルス社と喧嘩してて、エイファはボトルス社の社員。そういうこと
ね」
「そういうことだ。簡単な構図だな」
「ボトルス社の本部ってどこなの?」
「もと本社ならわかるけどな。実質、会社はなくなったわけだから、今はどこかで集会み
たいにやってるんじゃないか? それだけ人が集まれば目につきそうなものだけどな」
 見つからないんだ、とドナウは言う。それくらいは出来るだろう、天使が連絡役になれ
ば。
(夜のうちに飛んで連絡すればいいんだから)
 この街で飛ぶ気にはなれなかったが、夜ならば煙もおさまっているし、それほど気には
ならないはずだ。ユフィールとしては、そんな役目にエイファがなっていないと良いのだ
が、と思ってしまう。
「ユフィールはどうする? ここは、問題がおさまるまで《上》に戻ってたらどうだ」
「何言い出すかな。エイファが見つかったのに戻る理由はないじゃない。ようはエイファ
に会社を辞めさせればいいんでしょ」
「素晴らしいご意見です、お姫様。どうやって妹と会って話をつけるつもりですかな?」
「……ドナウ、マクドリンさんと仲いいんでしょ?」
「このデザートをユフィールの奢りにしてくれたら考える」
「奢ればいいんでしょ」
「交渉成立。まさか、こんなにあっさりと婚約してくれるとは……」
「してない、してない」
 なんだか乗せられたような感はあったが、ユフィールは笑って果物を咀嚼した。ドナウ
は胸の隠しから紙切れを取り出してユフィールに渡した。
「これを持ってマクドリンの本社に行けば、社長に会える。面接があるかもしれないけど、
まあ、ユフィールなら大丈夫。面接官は慧眼で評判な色男だからな」
「……ドナウが男の人を褒めるのって、初めて聞いた」
「正当な評価だからな。会ってみればわかる。うん、惚れるかもしれんな」
「好きになるはずないじゃない、会ったばかりの人を」
「いや、惚れるな。いい男なんだ、あれが」
「好きになんてならないよ。初めて会う人を好きになるより──」
「なるより?」
「う……なんでもない」
「好きになるより?」
「奢んないよ」
「じゃあ、俺はおいとましようか」
 手を広げて、ドナウは席を立った。ユフィールは意外そうにドナウの動きを視線で追っ
た。
「一緒に来ないの?」
「警備員の仕事がある。昨日《属性》使われたから、車庫の警備が厳重になるんだ」
「そうだよね。がんばってね」
「むしろ、がんばるのはユフィールだけどな」
「うん。がんばる」
 じゃ、と軽く手を振ってドナウは食堂を出ていった。一人残されたユフィールは最後の
果物をかじりながら自分の頬に手を当てた。
(恥ずかしいこと言おうとしちゃった……)
 初めて会う人を好きになるより──
(うわあ……)
 危なかった、とユフィールはテーブルに突っ伏する。同時に、行ってしまったドナウに
不満も感じた。
(マクドリン社の本社がどこにあるのか知らないんだけどな)
 甘えていることはわかった。だから、ユフィールは顔を引き締めて自分も席を立った。
 甘えてはいけない。人の好意に溺れてはいけない。《上》から降りてきたばかりで不案
内なのは当然なのだから、しっかりと自分で経験を積まなければならない。
 ユフィールが会計をすませようとすると、予想よりも金額が高かった。
「あの……私、こんなに食べてないんですけど?」
「? 連れのお兄さんの分も入ってるからね」
「や、やられた……」
 今度は絶対にドナウに奢らせてやる、と誓うユフィールだった。

                               ※

 マクドリン社の本社はそれほど探す必要もなかった。道ばたの人に聞けば、すぐにわか
ったのだ。
 受付でドナウに渡された書類を見せると、しばらくして奥の部屋に通された。面接をさ
れるのか、とユフィールは思う。
 マクドリン社に来るまでの道すがら、ユフィールはずっと空を眺めていた。
 黒と白の煙に覆われた、青くない独特の空。それは、発展途上の蒸気機関を早く広める
ための実験によって生み出される、ある意味必要なものだ。
(確かに、あまり気持ちのいい眺めじゃないけど。でも、それをやめさせようとか、その
ために工場に火をつけたりするのは違う気がする)
 工場では、ドナウがいなければ、人が死んでいたかもしれなかった。
 思い出すのは、白い翼の天使。
(あの人は、どうして《属性》をあんなことに使うんだろう)
 座り心地の良いソファーに座って待つと、扉が開いて面接官がやって来た。さまざまな
書類を脇に抱えて入ってきたのは、
「ドナウ!」
 であった。


「──で、ユフィールには一時的にマクドリンの警備員になってもらうとしてだな」
「嘘つき」
「社長の方にはもう話は通してあるから、今日の午後からでも俺と警備に当たってもらう」
「嘘つき」
「まあ、昨日の今日だからボトルスも何もしてこないと思うが、見回りは必要だからな」
「嘘つき」
「……その単語以外の言葉をしゃべってくれないかね?」
「じゃあ、詐欺師」
「嘘つきがいいな」
「嘘つき」
「なんだか、だんだん快感になってきた」
「変態」
「それは困るな」
 いい加減に疲れたので、ユフィールは大きく息を吐いた。何のことはない。ユフィール
の応対をするのはドナウということにマクドリンが決めていたらしい。
「じいさんは心配性だからな。若い娘さんの相手は、若い知り合いがいいだろうってよ」
「……なら、始めからそう言ってくれればいいのに」
「言っただろ、慧眼な評判の色男だって」
「全然事実と違うんだけど」
「惚れない?」
「惚れない」
「それは困った」
 ふむ、と腕を組むドナウに冷たい視線を送り、ユフィールはさらに問いつめる。
「警備の仕事があるって言ってたのは?」
「うん、午後から」
 確かに、すぐにとは言っていなかった。絶望的なため息がユフィールの口から漏れる。
(勝てない……絶対に勝てない)
 悔しいが、ドナウの方が一枚も二枚も上手のようだった。年はそれほどか変わらないと
いうのに、ドナウにはどんな相手でも言いくるめてしまいそうな雰囲気があった。いった
いどういう育てられ方をしたのか。
「……ソファーに座る時くらい、それ外したら?」
 謎と言えば、背中の象牙のようなもので作られたカタールのようなもの、というその曖
昧なものも謎だった。ユフィールが見た限り、ドナウがそれを外したことは一度もなかっ
た。かなり重そうなのだが。
「あ、そう言えば、立て替えたんだから、食事代返して」
「あれは、面接官への印象を良くする賄賂と考えてくれないかね?」
「考えない」
「じゃあ、昼飯は俺が奢ろう」
「うん」
 ようやく機嫌を直してユフィールは笑顔を見せた。ドナウは黒眼鏡を指で押して立ち上
がる。促されて、ユフィールも立った。
「社内を案内しようか。社長にも会った方がいいだろうし」
 マクドリン社は近郊でもっとも蒸気機関の研究が進んでいる会社らしい。その技術はす
ぐに国に採用され、その際の報奨金だけでも会社が運営できるほどだそうだ。
「何しろ、出来たばかりの技術だからな。やればやるほど新しいものが出来る。つまり、
今商売にするなら蒸気機関の研究が一番なんだよ」
 廊下を歩きながらドナウはユフィールに解説した。
 マクドリン社の本社にはそれほどのものは無く、工場などにほとんどの社員はいるとい
う。受付の控え室などを覗くと、社員が驚いた顔でユフィールを見た。
 ここでも感じる奇異の目と、微かな敵意にユフィールはドナウの腕を取った。
「ユフィール?」
「もしかして、エイファたちって有名?」
「ああ。ボトルス社に天使がいるって話はここの会社の奴なら全員知ってるな」
 それでか、とユフィールは視線を落とす。天使は嫌われているわけではないが、警戒は
されている。
(嫌だな……)
 社長室に入るとマクドリンが笑顔で迎えてくれた。ユフィールはほっとしてようやく肩
の力を抜いた。
「慣れない場所で疲れたかい?」
「はい。会社って、初めてなんです」
「少し前の商会と基本的には何も変わらないよ。気どって名前を変えただけさ。ドナウ、
彼女に何か飲み物を」
「俺ですか? 誠意を示したいなら自分でやったらどうですか」
「お前の作った茶が一番美味しい」
「老い先短いじいさんの頼みだからな、いいでしょう。不味いのを用意してあげます。ユ
フィールには最高のを、な」
「……さりげないいびりは老人の心に消えない傷を作るんだぞ」
「それが目的だからねえ」
 軽く笑いながらドナウは給湯室へ入っていく。社長と 警備員の会話とは思えなくて、
ユフィールは笑ってしまった.
「……何かね」
「あ、すみません。ヴァレルとマクドリンさん、まるで親子みたいですよ」
「親子、か」
 その言葉に、マクドリンは遠い目をした。ユフィールは気がつく。独身でないなら、マ
クドリンにも子供がいる可能性は高い。マクドリンの年齢を考えれば、その人物が社長に
なっていてもおかしくはないのだ。
「あの……もしかして、失礼なことを言いましたか?」
「いや、いいんだ。息子が一人いてね。まあ、君からみたら──君が見たとおりの年齢な
ら、息子はすでにおじさんと呼ばれていい年齢だがね」
「おいくつですか?」
「四十はすでに越えているよ、ずいぶんとね。君はいくつだい。失礼でなければ教えて欲
しいね」
 ユフィールは微笑んで答える。
「見たままですよ。十九です。妹も双子ですから一緒です」
「若いな……ヴァレルも、それより少し上程度だが、若いというのは良いことだ。蒸気機
関が発展しようという今、それを望んできた私はすでに先が短いからな」
「それは……」
「な〜にじじむさいことを。これでも飲んでさっさと仕事してください」
 ドナウがやって来て、マクドリンの机にカップを置いた。ユフィールの前にも同じもの
が出される。ユフィールが茶を一口含むと、それは驚くほど美味しかった。
「凄い。ヴァレルって、こんな特技があったんだ」
「感心したまえ。これぞ日々の研鑽の結果なのだよ。まずは朝早く起きて雑巾掛けをして
だな──」
「マクドリンさん、私が会社に入ったりしていいんですか?」
「かまわないよ。名前を貸すだけだからね。なんなら、時給も払おうか?」
「これって迫害だよなあ……」
 ドナウはその場にしゃがみ込んでぶつぶつ呟いた。ユフィールとマクドリンは顔を見合
わせて笑った。
「愛が芽生えては困るぞ。ユフィール、老人は放っておいて、そろそろ行くか」
 強引にドナウがユフィールを引く。
「あ、まだ飲んでない!」
「カップなんて持ち出せばいい」
「い、いいの?」
「では、がんばってきたまえ」
 マクドリンに見送られて、二人は部屋を退出した。
「あ……」
 扉が閉まる瞬間、マクドリンがため息とともに額を押さえたのをユフィールは見た気が
した。

                 ※

「マクドリンさんの息子さんって……」
「死んだ」
 簡潔に、ドナウは言った。やっぱり、とユフィールは暗い表情を作る。
(悪いこと訊いちゃった……)
 そんなユフィールに、ドナウは微かに唇の端を吊り上げて言う。
「気にするな。知らなかったなら、悪くもない。知るためには訊かないといけないんだし
な。それにしても、ちゃんとヴァレルって言ってたな、偉い偉い」
「だって、そう言っておいた方がいいんでしょ?」
「失礼な。それじゃあまるで、俺がすねに傷もつ身のようではないか」
「なるほど! そう考えれば全部つじつまが合うじゃない」
「うっわあ……本気で言ってるよ」
「うん」
「参ったね、これは。激しく誤解されている気がする。その誤解を解くにはどうしたらよ
いのかね?」
「簡単だよ」
 と、ユフィールは言う。高い位置にあるドナウの顔を見る。その顔には黒眼鏡が掛けら
れていて、瞳は見えない。だが、それでも優しげな表情をしているのはわかった。
「お昼ご飯をドナウが奢ってくれればいいの」
「それは難しいな」
 ドナウが歩き出す。ユフィールは、その隣に並んでドナウの腕を取った。
 連れ添って歩く。
 たまには、そんな気分にもなる。










        五.間唱


「眠れないのか?」
「テオリア……」
 夜の街を屋根の上で眺めていたエイファは、やわらかい声に振り返った。そこには、わ
ずかに赤みのかかった金色の髪の青年が立っている。
 エイファが頷くと、テオリアは黙ってエイファの隣に腰を下ろす。エイファは自分の翼
がテオリアの移動の妨げにならないように、その間中小さくまとめようと努力した。もっ、
とも広げるならともかく、小さくまとめようとしてもそう変わるものでもないのだが。
「星が、霞んでるな」
「ええ」
 夜空に星は輝いている。だが、その輝きは昼間のうちに空に上っていった煙のために、
霞んで見えていた。早朝までには風で流されて消えるのだろうが。
 テオリアは、真剣な顔でその空を眺めている。
「ねえ、テオリア。あなたがすることは正しいと思うの。でも、そのためにベイに《属性》
を使わせるのは、もうやめにしましょう」
「……ベイか。あいつにも無茶をさせているな。でも、ベイの《属性》以上に警告になる
ものはないと思うんだ」
「そうね……社員の人たちには、危険なことはさせられないから」
「これは、俺たちの個人的な問題だからね」
 テオリアの表情は硬い。エイファはそれを見て悲しい表情になった。
(そんな顔、しないで)
 思い、立つ。何事かとテオリアが見つめる中、エイファはゆっくりとした歌を唄い始め
た。

          どこにいたの?
          どこにいるの?
          どこにいくの?

          大切な私の一対
          忘れられぬ翼の片割れ
          忘れられぬ心の欠片
          私の落とした想いの雫

          どこにいたの?
          どこにいるの?

          そして、どこにいくの?
 
(ユフィール……)
 双子の片割れの久しぶりに見た顔が、今も目に焼き付いていた。 

                 ※

 夜遅くまで車庫の警備につき合わされたユフィールは宿に向かって歩いていた。さすが
に近郊でもっとも大きな街だけあって、日が落ちても出歩いている者は多い。水色の翼を
出来るだけ目立たないようにさせながら歩いていたユフィールは、ふと目についたものに
足を止めた。
「あなた……ベイさん?」
「君は……」
 一対の純白の翼を持つ青年は少し驚いたようだった。ユフィールはベイが食べ物などの
入った袋を抱えているのを見て、クスリと含み笑いした。
「……なんで笑う」
「ううん、似合わないなって。買い物帰りなんですか、こんな夜に?」
「昼間は翼は目立ちすぎる」
 もっともなので、ユフィールは頷いた。
 ベイの表情は、蒸気機関車で会った時よりもずっとやわらかかった。おそらく、これが
ベイの本当の顔なのだろう。
「何かようか? 君は関係ないんだから、早く《上》に戻るといい。君の妹も、そのうち
戻ることになるだろう」
「あ、それですけど、私、マクドリン社の社員になりました。臨時ですけど」
 そう言うと、さすがにベイの目が鋭くなる。袋を抱え直し、ベイは言った。
「君は何を考えている。いや、それもいい。自分でマクドリンに味方したいと思ったのな
ら。しかし、私の前でそれを言うことが危険だとは思わないのか?」
 ユフィールは困って、眉根を寄せた。ベイは正しい。しかし、ユフィールには同じ天使
のベイをそれほど危険視できないのだ。
「ベイさんは、怖い人じゃないと思いましたから」
「君は……」
 とベイはため息を洩らした。そのベイに、ユフィールは問う。
「どうして《属性》をあんなことに使うんですか」
「《属性》……武器を使った、それではいけないか」
「《属性》は武器じゃありません!」
 ユフィールはベイを真っ直ぐ睨みつけて叫んだ。ベイは目を細めて、ユフィールを見る。
「君も、エイファと同じことを言うな。もちろん、私も好きで《属性》を使っているわけ
ではない。必要だから、使っているんだ」
「蒸気機関を使わせないためですか?」
「いや」
 意外にも、ベイはユフィールの言葉を否定した。それにはユフィールの方が目をぱちぱ
ちさせてしまう。
 ベイは、ユフィールに背を向けて言った。
「もっと、個人的な問題だ」
 と、唐突に振り返り、袋からリンゴを取り出してユフィールに放る。ユフィールが慌て
てそれを受けると、軽く笑う。
「餞別だ。明日、マクドリンの車庫で会おう」
「あの……」
 だが、もうベイは止まらずにその場を去っていった。ユフィールは両手でリンゴを包み、
やがてそれを一口かじった。
(……美味しい)
 夜空はユフィールの見たことがない霞んだ星空だった。










        六.走り出すもの


「これでこなかったらユフィールの責任重大だなあ」
「それはわかってるから」
「何せ、戦力の全部をここに集中させたからなあ」
「って、私とドナウだけでしょうが!」
「うむ。俺個人の戦力全部」
「私を数に入れないでね」
「つれないねえ」
 ユフィールとドナウはマクドリン社の蒸気機関車の車庫にいた。ベイの言葉が確かなら
ば何かしらの行為がこの場で行われるはずだった。
 ユフィールに伝えられたベイの言葉を信じきれないのか、ドナウは始終乗り気でない発
言を繰り返していた。
「何よりも気に入らないのは、ユフィールが俺に黙ってこっそりと他の野郎と密会してる
ことだよなあ」
「仕方ないでしょ、帰りにばったり会ったんだから」
「しかも、親しげにお茶までして──」
「してない、してない」
「さらには、解読に時間のかかる情報まで──」
「簡単にそのままの意味でしょ」
「ついには黄金色の菓子まで賄賂として──」
「リンゴのこと?」
「それで疑うなって方がおかしい」
「そこまでひねくれたドナウの思考の方がおかしいと思うんだけど」
「なんだか、俺とあの天使との間で、ずいぶんと扱いが違くないか?」
「ベイさんはまともな人だから」
 ユフィールが肩をすくめていうと、ドナウは口元をわずかに歪めて苦笑した。指で、働
いている技師たちを示し、言う。
「まあ、野郎は信じないが、ユフィールは信じよう。大将には一応言っておいたから、い
ざという時は技師たちは素早く逃げることが出来る。機関車はちょっとやそっとじゃ壊れ
ないから、無視してボトルスの連中を追い払うことに集中すればいい」
 蒸気機関車を無視して良いという言葉に、ユフィールはドナウを見たが、ドナウはこと
もなげに言う。
「人は死んだら終わりだけど、機関車は設計図があれば作り直せる。社長が言ってた言葉
だけどな」
 改めて、ユフィールはマクドリンを良い人だと思った。
 そして、同時に寂しげな表情にもなる。
「やっぱりそうかな」
「ユフィール?」
「死んじゃったら、終わりかな」
 少しの間。
 ドナウの指が、黒眼鏡を押さえる。ユフィールはドナウを見ない。だから、ドナウもユ
フィールを見ないで応えた。
「終わる人もいるだろうし、終わらない人もいる。終わりにしたくなかったら、しっかり
と周りの連中に自分のことを憶えさせておくのも一つの手かな。終わりの基準にもよるけ
どな。まあ、自分の行動という点においては、死なないに越したことはない」
「…………」
 ユフィールはドナウの横顔をこっそりとうかがった。横からだと、黒眼鏡との間からド
ナウの珍しいはしばみ色の瞳が覗く。いつもは隠れているが、黒眼鏡を取ると現れる瞳。
 唐突に、ユフィールはドナウの瞳を正面から見たいと思った。
「死んでも終わらない。人が憶えていてくれる限り?」
「都合いいか?」
「ううん。好きだよ、そういう考え方」
「好きか! よし、わかった!」
「っきゃあ!」
 前振りもなく押し倒されてユフィールは悲鳴を上げた。何ごとかと技師たちが振り返る
が、ユフィールとドナウだと知って、作業に戻る。
 しかし、今回ばかりは冗談ではすまなかった。
「痛いっ、痛い!」
「ユフィールっ?」
「翼、痛いっ!」
 慌ててドナウが退くと、ユフィールは床に座り込んで背中に手を回し、目には涙を浮か
べて痛みに耐えた。背中の翼が、身体と床に挟まれたのだ。そのことに気がつき、ドナウ
が口に手を当てる。
 息を飲んだ。
「ドナウ?」
 顔をしかめながらドナウを見上げたユフィールは、その初めて見るドナウの姿に、目を
見開いた。いや、初めてではない。以前に一度、ユフィールが翼を掴まれて悲鳴を上げた
時にもドナウは似たような表情をした。
(本当に驚いてるんだ……)
 しばらくして出たのは、つとめて冷静なドナウの声だった。
「……悪い」
「ううん。ドナウは人間だから。わからないよね、こういうこと、普通は」
 気まずい空気。
 ユフィールは思った。
(きっと今なら、ドナウは何でも教えてくれる)
 ドナウが珍しく素の状態である今なら、名前のことなどを訊けば、応えてくれるだろう。
そんな気がした。
 そして、再び思った。
(ドナウの眼が見たいな……)
 ドナウがどんな表情をしているのか、見たかった。どんな瞳でユフィールを見ているの
か。どんな顔をしているのか。
 口元だけでなく。ドナウの顔全てを。
 どれくらいの時間二人で見つめ合っていたのか、気がついてユフィールははっとした。
「見せ物じゃありません!」
「なんだ、つまらない」
「こら、ちゃんと仕事しろ!」
 集まっていた技師たちは大将の怒鳴り声にそれぞれの持ち場へと戻っていった。頬を赤
くしてユフィールはドナウを見る。ドナウはいまだに何も言わずにユフィールを見ていた。
「ドナウ?」
「おい、ヴァレル、邪魔だからあっち行ってろ」
 無視。さすがに怪訝に思ったのか、大将はドナウに近寄って、声をかけた。
「ヴァレル、どうした?」
「いや、ユフィールとにらめっこ」
 ユフィールは肩を落とした。いつの間にか、ドナウは口元を意地悪く吊り上げていた。
「いやあ、ユフィールに挑戦されたんだが、これが意外とはまるはまる」
「あんたも大変だな」
「あ、わかります?」
「わかってるから、退いてくれるか?」
「はい……」
「あ、大将、なに人の女追い払ってるんだ」
 ユフィールは拳を震わせてドナウを見た。
「誰がドナウの女なのよ!」
「ふむ、その辺りにずいぶんと誤解があるようだな」
「ない、全然ないっ!」
 怒鳴り合いながら歩いていく二人を見送って、大将はため息をついた。
「仕事にならんな」
 どこにいても人の目を引いてしまう二人だった。
 誰も近くにいなくなってから、ドナウはボソリとユフィールに言った。
「翼は掴まない。ユフィールの背中が下にならないようにする。注意しておく」
 本当にあっさりとした言葉で、ユフィールは一瞬言われたのが自分だとは気がつかなか
った。
 だが、間を置いて頷く。
 微笑んで。
 斜め前を歩くドナウも、少しだけ微笑んだ気がした。

                 ※

「やっぱり来るとしたら夜かな」
 訊いたユフィールに、ドナウは首を横に振って、今までボトルス社の者たちが現れた時
間を表にした紙を机に広げた。
 表に示された時間は、どれも昼間ばかりだった。
 それに、ユフィールは首を傾げる。
「あいつらは社長がいる時間しか狙ってこない。だから、昼間になる」
「あ、なるほど」
 蒸気機関の大部分を握っているのはマクドリンだ。社長のマクドリンがひとこと言えば、
マクドリン社は蒸気機関を使用しなくなる。効率的で、その辺りから、ボトルス社のいた
ずらに被害を大きくしたくないという考えがわかる。
「……エイファ、来るかな」
「来るだろうな」
 遠慮がちに訊いたユフィールに、ドナウは頷きながら応える。
「野郎天使が《属性》で混乱させて、ユフィールの妹がその脱出を助ける。これが典型的
なやり方だな。飛ばれたら、こっちは何も出来ないからねえ」
 お手上げ、と手を開いてドナウはおもしろそうにユフィールを見た。黒眼鏡越しなので
本当に見られているかどうかはわからなかったが。
 と、視線を感じてユフィールは振り返った。数人の女性社員が慌てて目を逸らして去っ
ていく。視線にあからさまな敵意を感じたユフィールは、もしかして、と思う。
(天使だからじゃなくて、ドナウといるからかな……?)
 実は以前ユフィールが感じたように、異性に人気があるのかもしれない。
 なんとなくおもしろくない。
「ユフィール、見とれるのはわかるけど、目を吊り上げて見つめられるのは嫌なんだけど」
「ヴァレルさん、次の質問してもいい?」
「きっつう……俺、何かしたか?」
「別に」
「ふむ、では、何かしよう」
「ひゃあっ」
 唐突に身を乗り出されて、ユフィールは情けない声を出した。ぐいぐいとドナウの顔が
迫る。
「何がして欲しい?」
「ちょ、ちょっと!」
 肩に手が触れる。黒眼鏡を通して、瞳が見える距離まで二人は接近した。焦るユフィー
ルに、ドナウはさらに顔を近づける。
「前はここで邪魔が──ぶっ! ……頭突きするかあ?」
「不用意に近づかない!」
 きっぱりとユフィールは言った。頭突きは見事にドナウの顔面に当たり、痛そうにドナ
ウはうずくまっている。少しやりすぎたかもしれないが、自業自得だ。
「用意すればいいのか?」
 呻くような声が下から聞こえたが、無視。無視していると、
「そうか、いいのか」
「駄目! もう近づかないで、しっしっ」
「俺は犬かい……餌で釣られるのはユフィールの方なのにな」
「私?」
「飯って言えばついてくる──だっ!」
 今度は右の拳だ。誰に見られていようがもはや関係はない。その辺りまでは慣れてしま
ったユフィールだった。
(エイファはこういう所で二年も暮らしてたんだ……)
 歩けば人に見られ、何かをすれば人に見られる街。《上》ではない場所。
 天使は、《上》以外では異質なのだ。その他大勢には決してなれない。
 天使というだけで優しくしてくれる人もいる。天使というだけで嫌う人もいる。
 そんな、場所。
(でも不思議だね)
 心の中で、双子の妹に話しかける。
(私は、寂しくないよ。《上》とは全然違うけど、不思議な人がいるから)
 ドナウが顔を押さえながら立ち上がる。
「いてて。眼鏡が割れたらどうするんだ」
「……ごめんなさい」
「いや、いいって」
 ひょい、とドナウは肩をすくめる。そこには、怒りも何もない。ドナウが冗談を言って
くれるのは、いつもユフィールが何かを考えている時だった。
「ありがとう」
 会話の繋がりも何もない、礼。しかし、ドナウは慌てもせずに軽く頷くだけだ。
(不思議だね、エイファ。こんな人もいるんだよ)
 何もわからない人。名前も、二つ。本当の名前と、嘘の名前。そして、背にしたよくわ
からないもの。
 意識せず、ユフィールは口にしていた。
「ドナウは、本当は何なの?」
 言ってしまってから、ユフィールは口を押さえた。それは、訊いてはいけないことだっ
た。
 お互いに、本当に秘密にしたいことには触れない。
 そう暗黙の了解が出来ていた。
 ユフィールが言わないこと。
 ドナウが言わないこと。
 だから、じゃれ合っていられる。
「俺か?」
 ドナウが、黒眼鏡に指をかけた。いけない、とユフィールは思った。黒眼鏡が、外され
る。
 はしばみ色の瞳が、ユフィールを見ていた。真剣な瞳。ユフィールは動けなかった。
「俺は──」
 いけない。
「俺が本当は何なのかか……哲学だな──いってえ!」
「真面目になった私が馬鹿でした!」
「何怒ってるんだよ、人がせっかく真面目に答えようとしたのに。暴力症かね?」
「……ドナウに会ってからはそうかもしれない」
「俺のせいにするかね、普通?」
「知らない」
 頬を膨らませて、ユフィールは大将の所にでも行こうと歩き出した。
 その時だ。
 何かが破裂する音が響いたのは。

                 ※

 走り出したのはユフィールの方が早かった。だが、現場に着いたのはドナウの方が早か
った。
 ドナウが前方で何かを叫んだ。だが、走るのに必死なユフィールには何を言っているの
かわからなかった。
 再び、破裂する音。
 それがどこから響いているのか、確認してユフィールは愕然とした。
 蒸気機関車の車両の幾つかが、燃え上がっていた。
「そんな……」
 燃えるにしても早すぎる。ユフィールたちが来るまでにそう時間は経っていないはずだ
った。
「《属性》か」
 聞きたくもない言葉だけは、はっきりと聞こえた。
 数人の男たちと共に蒸気機関車を前にしているのは、確かに純白の翼を背に有する天使
だった。
 《属性》が使われた。そのことが、ユフィールには嫌だった。
「ベイさん!」
「君か。怪我をしないようにしているといい」
「燃えてるねえ、お兄さん」
 火事を消そうと忙しく立ち回る大将たちの声を抜けて、ドナウの声はしっかりとユフィ
ールの耳に届いた。
「ここまでのことをするとなると、話し合いはこの前でもう終わりか?」
「言ったな、交渉は決裂だと。社長もしびれを切らしたらしい。あの男から全てを奪うま
で、私たちの怒りはおさまらない」
「じじいを恨んでも、意味はないと思うんだが」
「貴様?」
 意外そうに、ベイはドナウを見ていた。ドナウの表情は、後ろにいるユフィールには見
えない。
「知っているのか?」
「もの知りな警備員なものでね」
 そして、ドナウは蒸気機関車を指さした。ユフィールが、ベイがそちらを見る。
「残念ながら、今日は社長は予定変更でね。機関車の中にはいないんだな、これが」
「なに!」
「無駄だったな、ボトルスの諸君」
「そうでもない」
 言ったのは、ベイではなく、ボトルス社の一人と思われる男だった。赤みのかかった金
色の髪の青年だ。
「テオリア。下がっていろ」
「ふむ、これはこれは社長自らかね。うちのじじいも連れてくるべきかな」
「出来るならそうしてもらいたいな」
 テオリアの視線が、ドナウを、ユフィールを見る。ユフィールを見た時、その目が大き
く見開かれた。
「エイファ?」
「私はエイファの姉ですけど……」
 恐いくらいに見つめられ、恐る恐るユフィールは応えた。ああ、とテオリアが肩の力を
抜く。
「聞いてはいたけど、そっくりだな。違うのは髪くらいか」
「エイファはどこですか!」
「彼女は──」
 テオリアが言いかけた時、再び車両の一つが破裂するような音と共に燃え上がった。外
からではない。内側から発火していた。
 そして、ユフィールは見た。
 蒸気機関車の上。車庫の高い屋根のぎりぎりの辺りに浮かぶ、妹の姿を。


 エイファが声を張り上げて唄う。女声にしても高い声。
 歌声が車庫に反響して全てを包み込むと、その歌声は段々と何かの力に満ちていく。
 エイファの視線が、蒸気機関車の車両に落ちる。歌声がその動作の時だけ力強くなった。
 響く、破裂音。
 ユフィールは信じられない思いでその光景を見た。
「エイファ?」
 唄う、二対四枚の翼の天使。ドナウですら、絶句してそれを見ていた。
 《唄》の《属性》。
 しかし、それでこのようなことが可能なのか。
「なんだ、あれは……ユフィール?」
「蒸気機関車が、エイファの歌を聴いてる……」
 無機物ですら、聞き惚れる歌。無機物にすら干渉する《唄》の《属性》。
「あんなこと、私には出来ない」
 呆然とユフィールは言った。ユフィールでなくても出来はしないだろう。《唄》は精神
に干渉するもの。蒸気機関車の外壁を覆う鉄などに干渉するのは《金》の《属性》だとユ
フィールは聞いたことがある。
 なのに、エイファは《唄》を無機物に聴かせることによって、無機物自体に己を破裂さ
せていた。
 信じられないことだった。
「水はいい。下がれ、巻き込まれるぞ!」
 ドナウが技師たちに叫ぶ。技師たちはいっせいに蒸気機関車を離れていった。ベイが技
師たちを素早く見る。
「……マクドリンはいないな」
「エイファ、そこまででいい!」
 テオリアが言うと、エイファは唄うのを止めた。そして、浮いたまま自分の顔を両手で
覆ってしまう。
 ユフィールにはわかった。エイファは、泣いている。
「どうして……」
 ユフィールは信じられない思いで呟いた。
「どうして、嫌なのに《属性》なんて……」
「俺が、頼んだ」
 テオリアが、苦々しい顔で言った。キッとユフィールが表情を険しくした。前に出よう
とするユフィールに、慌ててドナウが腕を出して遮る。
「なんで、なんでエイファにあんなことをさせるんですか! エイファが《属性》を使い
たがらないことを知ってて!」
「……これで、終わりにするためなんだ。エイファも、頷いてくれた」
「どうして……」
 額に手を当て、ユフィールは目を閉じた。
 《属性》は武器ではない。そして、何よりも《唄》は。
 ユフィールとエイファの《唄》は、《属性》などではなく、ただの歌として唄うものの
はずだ。
 楽しい思いを、唄うことの幸せを、それを表現するはずの手段のはずだった。
「お母さんが……」
 と、ユフィールは言った。
「言ったの。《属性》を武器にしちゃいけないって、毎晩子守歌を唄ってくれながら」
 言葉は、放心した者独特の響きを持っていた。ドナウでさえ、ベイとテオリアに背を向
けてユフィールを見ていた。
「なのに……」
 裏切られた、とユフィールは思った。
 妹に。
 絶対に《属性》を武器として使わないと、誰に言われても使わないと二人で決めていた
のだから。
「エイファ……」
 同じく、エイファも放心していた。
 使ってしまった。約束を破ってしまった。
「ごめんなさい、ユフィール……」
 母の言葉も全て、双子の片割れ、エイファに《属性》を使わせないためのものだったと
いうのに。
 奇妙な静寂がその場に生まれた。静かなわけではない。燃え上がる炎が、技師たちの声
が、車庫の中には充満している。それでもその場は静かだった。
 ユフィールとエイファ。二人の放心が、その静寂を作り出していた。
 だが、その静寂を破ったのも、二人だった。
「ドナウ、ここお願い」
 ユフィールは翼をはためかせて舞い上がった。燃える蒸気機関車の熱で汗が流れるが、
気にしない。エイファはユフィールが近づくまでその場で待っていた。
「さて、お姫様たちは感動の再会だ。俺たちは俺たちですることをしようかね」
「マクドリンがいないのなら、用はない。行くぞ、ベイ」
「じじいならいるさ、そこら辺に。あのじじいもなかなか元気だからな、さっきまで消火
にも参加してたんじゃないか?」
 ベイは冷たい視線をドナウに向ける。そこには、信用の色は全くない。
「どこまでが本当だ。あの中にいなかったというのは本当か。消火には参加していなかっ
ただろう。そして、どこまで知っている」
「全てを知っているなら、俺たちに正当性があることも知っているはずだな」
「おや、全て? どこまでが全てだろうな。それに、正当性って、もしかしてお前たち、
蒸気機関以外にも何かあるのか?」
 ドナウはニヤニヤと笑っている。ベイは舌打ちし、テオリアは無視することにして舞う
二人の天使に注意を向けた。
 ユフィールと目が合うと、エイファは涙をためた目で呟いた。
「ごめんなさい」
「どうして……《属性》を使ったの?」
「テオリアが望んだから。テオリアが好きだから……」
 流れるのは、涙。
 ユフィールの知らない二年間が作った、知らないエイファの涙。
「私、テオリアが好きなの。だから、戻らないし、彼のために《属性》だって使う。今日
で、全部終わりにするの」
「終わりって、何を?」
「彼を苦しめた原因を」
 そして、エイファは胸に手を当てて瞼を下ろした。何をしたいのかわかったユフィール
は、自分も目を閉じて、息を整えた。
 二人が同時に唄い始めた。
 よく似た声。歌い方も似ている。
 見上げるドナウたちの横から、マクドリンが歩いてきた。疲れたように、テオリアを見
て言う。
「もういいだろう。あのお嬢さんに無理なことをさせるのはやめなさい」
「マクドリン。やっと来ましたか」
 エイファが唄ったのは、マクドリンを呼ぶ歌。
 ユフィールが唄ったのは、それを防ごうとする歌。
 しかし、マクドリンは出てきた。自分の意思か、それとも、エイファの歌に誘われてか。
(駄目、私じゃ、相手にならない!)
 唄うのを止め、ユフィールはマクドリンに叫んだ。
「マクドリンさん、逃げて!」
 理由はわからない。誰がどういう思惑で動いているのかも。それでも、ユフィールは叫
ばずにはいられなかった。
 何かがずれている。そういう直感があった。
(私の全然わからない方に動いてる!)
 マクドリンは技師たちと変わらないツナギを着て、顔にはいくらかすすけていた。おそ
らく、消火作業に混じっていたのだろう。見落としていたベイは眉をひそめる。
「私を恨むならいい。だがな、それならただお前が来れば良かった。コウガのことだろう」
「はい。認めて欲しいんですよ、あなたが父を殺したと」
 ユフィールはゆっくりと舞い降りた。何を言っているのか、わからなかった。いまだに
降りてこないエイファを気にしながら、ドナウに訊く。
「どういうこと?」
「いやまあ、大人の世界は難しいな、と。三歩進んで二歩下がるって感じかねえ」
「……何それ」
「その男は、俺の父が邪魔だったんだよ」
 ユフィールに教えるためか、吐き捨てるようにテオリアが言う。
「俺の父は蒸気機関の拡大をずっと前から危惧していた。君だって見ただろう、この街の
空を覆う煙を。あれが人の身体にいいものだと思うか? いいわけがない。蒸気機関は確
かに画期的だったかもしれないけど、使用するには大量の燃やすものと水がいる。効率と
引き替えに、物を燃やして、煙を作っているんだ。今はまだいい。この街くらいだろうな、
こんなに蒸気機関が乱用されているのは。でも、マクドリンは蒸気機関を他の街にも普及
させようとしている。大量にだ。父は、マクドリンにそれをおさえるように忠告した。そ
して、死んだ」
 息を継いで、言う。
「殺されてだ」
 マクドリンは何も言わない。ただ、息を吐いた。深いため息だった。テオリアは憤りを
抑えて目の前の老人を見ていた。
 ボソリとドナウが呟く。
「嘘は言ってないな。八十点」
「ドナウ?」
「社長、ではひとことどうぞ」
「テオリア。どうして、私が殺したと思う」
「俺はあなたと父が何度も口論していたのを知っている。父が死んだ時、その場にあなた
がいたことも!」
 前社長のコウガが死んだのは二ヶ月前だとユフィールは聞いた。父が死んでから、たっ
た二ヶ月しか経っていないのだ。
 ユフィールの瞳がかげった。
(終わってないんだ、コウガさんは)
 息子が憶えている。だから、彼の存在は終わってはいない。
 復讐という形で。
 ユフィールはマクドリンが否定してくれることを望んだ。マクドリンは人殺しなどしな
い。人にそれをさせもしない。そう思う。
「コウガの死は残念だった」
 マクドリンは否定も肯定もしなかった。ただそう言った。
「残念だと!」
「ベイ、よせっ」
 ベイが純白の翼を大きく広げ、腕をマクドリンに突き出した。慌ててテオリアが止めに
入るが、一瞬早く赤い炎が腕から放たれた。
「きゃあっ!」
 至近距離で燃え上がった炎に、ユフィールが悲鳴を上げる。他にも、誰かが悲鳴を上げ
たが、ユフィールの知らない技師たちだった。
「ベイ、落ち着け!」
「落ち着いていられるか! コウガさんを殺しておいて……殺してなくても、残念だ、だ
と!」
 初めて見せたベイの激怒の表情から、ユフィールは顔を背けた。背けた場所に、マクド
リンを抱えたドナウが立っていた。
「やっぱり夏向けじゃないな」
 ドナウが口に指を当て、高く指笛の音を鳴らした。それに反応して、何人かの技師たち
が駆け寄ってくる。
「大将、社長を任せた」
「社長に無理をさせるな!」
 軽口を叩いて、老人の身体を渡す。マクドリンは気絶しているようだった。技師たちは
ボトルスの社員たちを囲むようにする。
 テオリアが舌打ちした。
「ベイ、ここで終わりにするんだ」
「そのつもり出来た。エイファも」
「エイファ」
「はい」
 テオリアの呼びかけに頷き、エイファが胸に手を当て、瞼を下ろす。無駄と知りつつ、
ユフィールも唄う準備をした。
「マクドリン!」
 テオリアが叫んだ。同時に、ベイが大きく翼を動かした。《属性》が発現し、炎がボト
ルス社の者たちの周囲にいる技師たちを薙いだ。悲鳴が上がる。
 唄いながら、ユフィールは泣きそうになった。
(どうして!)
 何かが変だった。何かがずれていた。ついさっきまでは、ドナウと馬鹿騒ぎをしていた
というのに。
(誰がいけないの?)
 再び、蒸気機関車の車両が内側から破裂した。
(もう嫌!)
 涙が頬を伝う。技師たちが走り回り、マクドリン社とボトルス社の男たちが殴り合って
いる。ベイが《属性》で人を傷つけ、テオリアは何とかしてマクドリンのもとまで行こう
としている。
「終わっちゃうよう……」
 ユフィールは呟いた。
「エイファが、どこかに行っちゃう……」
 ユフィールの視界の中に、エイファがいる。しかし、遠い。
 きっと、このままだと二度と話せないところまで双子の片割れは行ってしまう。
「私には何も出来ない……」
「なんとかしてやろうか」
「え?」
 喧騒の中、聞こえた声に、ユフィールは振り返った。そこには黒眼鏡を掛けたドナウが
いた。
 長身に、青いコート。初めて逢った時と変わらない格好だった。指は黒眼鏡を押さえ、
表情は隠されていてわからない。
「終わりにしたくないんだろ? 妹とのこと」
「ドナウ?」
「後でけなしてくれていい。俺は、ユフィールを利用したよ」
 表情が読めない。瞳が見たい。
(あなたは、誰?)
 ドナウの顔が、ベイに向いた。
「さて、始めるか」
 軽いひとこと。
 ドナウの手が、背中のものに触れた。
「────!」
 空気を裂く音がした。同時に複数の悲鳴が上がった。鮮血がユフィールの視界を染めた。
 ベイが目を見開き、ユフィールを、いや、ドナウを見た。ベイだけではない。テオリア
も、大将も、技師たちもドナウを見ていた。
 ベイの周囲にいたボトルス社の男たちが、血の中に倒れた。
「ドナウ?」
 声をかけてはいけない。だが、声をかけずにはいられなかった。
 ドナウの手には、常に背にしていた、象牙のようなもので作られたカタールのようなも
のが握られていた。
「じゃあな」
 ドナウが走った。動けたのはベイだけだった。ベイが腕を振ると《属性》の《炎》が現
れてドナウに向かった。
「おお!」
 ドナウが吠えた。無造作にカタールを一閃させる。炎が裂け、それを越えて何かがベイ
の頬を浅く切った。見えない何か。再びドナウがカタールを振るう。
 空気が裂けた。
 ベイの胸に大きな切り傷が生まれ、車庫の壁に斜めに破壊が走った。
「ベイ!」
 叫んだテオリアが吹き飛ばされる。ドナウが周囲を薙ぐようにすると、マクドリンの技
師たちも吹き飛ばされて転がった。
 一瞬のうちに、立っているのはユフィールとベイ、そしてドナウだけになっていた。
「貴様……騎士か!」
 ドナウは応えなかった。ユフィールは、初めてドナウの背中を見た。隠されていない、
背中。
 全ての者の視線を集め、ドナウはエイファを見上げた。エイファも唄うのを止め、ドナ
ウを見下ろしていた。
「エイファさん、君は高位天使だな」
「あ……」       
「君のような子は、《上》から降りてきちゃいけない」
 風。風が走った。エイファが悲鳴を上げて車庫の天井に叩きつけられ、落下した。
「いやああ!」
「エイファ!」
 ユフィールの悲鳴と、テオリアの悲鳴。ベイが翼を広げ、素早く飛翔してエイファの身
体を抱き止めた。そして言う。
「テオリア、逃げるぞ!」
 言いつつ、炎を放つ。ドナウがカタールでそれを散らすが、その隙にテオリアたちは車
庫の入り口まで走っていた。
「エイファ……!」
 追いかけようとして、ユフィールは蒸気機関車が目に入って足を止めた。誰も消火に動
かない。
(唄わないと……)
 だが、それより早くドナウから吹きつける風が蒸気機関車を走り抜け、炎はその中に消
えていった。
「ドナウ……」
 青年は何事もなかったかのようにその場に立っていた。そして、歩き出す。
 ユフィールに、背を向けて。


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