夜の天使番外編
蒼天の女神
ここからでも届くかな、私の唄が
一.四枚羽根の天使
「うん」
遠くに見えた噂通りの白い空に、ユフィールは軽く頷いて荷台の上に立ち上がった。一
頭の馬に引かれた荷台はそれなりに揺れるが、数時間の行程ですっかり慣れてしまったユ
フィールはバランスをとって、両脚を大きく開く。
御者席に座って馬の手綱を握った老人は、振り返って、少し呆れたような顔をした。
それはそうだろう。
ユフィールはぱっと見た目で二十歳前後。若草色を基調としたツーピースに身を包み、
その腕や身体には色とりどりの飾り布を掛けている。まるで、どこかのステージで歌って
きたばかりのような格好なのだった。
さらに、その背から伸びた、何よりも人の目を惹くもの。
翼だ。
二対四枚の、細長い水色の翼。
それは、天使の証であった。
ディオス大陸の上空に浮かぶ、《上》と呼ばれる場所に住む種族。数はそれなりにいる
が、わざわざ《上》から降りてくる天使が少ないので、実際に本物に出会う機会はなかな
かない。
その天使が今、仁王立ちで額にひさしを作るようにして前方にようやく姿を現した街を
眺めているのだから。
「おじいちゃん。あの街にいるって言ったんですよね」
「ああ。二年前だね。同じ顔だから、すぐにわかったよ」
天使なんて、めったに見るものじゃないしね、と老人は口の中で付け足す。
風が吹く。心地よい初夏の風に綺麗な青色の瞳の目を細め、肩に届きそうで届かない、
濃い青の髪をユフィールは押さえて、段々と近づく街を見た。
街から伸びる、幾筋もの白い煙。黒い煙。それが、蒸気機関の使用によって生まれるも
のであることを、ユフィールは《上》からやって来て知った。
「ここ数年で、ずいぶんと変わったもんだ」
老人の呟きを耳に拾い、ユフィールは再び荷台に腰を下ろす。
「空が灰色だね……」
雲一つないはずの空は、人工の雲に覆われてその青空を人々の目の届かない所へと追い
やられていた。
「エイファは、こんな所にいるんだ」
どこよりも蒸気機関の発達した街、シェダルが目の前に迫っていた。
「うわあ……」
シェダルの街並みを見たユフィールの第一声がそれだった。
「凄い」
何となく、無意味に頷いてしまう。シェダルは永年戦争の頃から続く、昨今では蒸気機
関の開発で有名な街だ。どこよりも早く蒸気機関を発明し、どこよりも早く蒸気機関を実
用化して世に送り出している。
昨年は、世界で初めての蒸気機関車が発表されて、世界中の注目が集まった場所でもあ
る。
《上》と大陸を行き来する知り合いにそれなりの情報ももらってから降りてきたユフィ
ールだったが、さすがに本物の『街』というものを見ると、驚かずにいられない。
ユフィールが降りてきて立ち寄った街は、シェダルが初めてだった。降りたのは田舎の
農村で、そこから荷馬車に乗せてもらってここまでやってきたのだった。
(おじいちゃんには大丈夫って言ったけど……)
すっかりおのぼりさんだ。と、ユフィールは気がついた。いつの間にか、馬車の行き交
う道の真ん中に立っていた。慌てて端に退く。クスクスと笑い声が聞こえて見ると、小さ
な子供たちの集団がユフィールを指さして笑っていた。少し頬を赤くして、ユフィールは
胸を張って歩き出した。
(最初が肝心!)
ぴくぴくと四枚の翼が動く。歓声が上がる。見ると、先程の子供たちが珍しそうにユフ
ィールの翼を見ていた。女の子が言う。
「綺麗……」
気を良くして、ユフィールは世話になった老人が渡してくれたメモを頼りに今夜の宿を
捜し始めた。老人の知り合いが経営する宿だという。
十数分も歩いて、ユフィールは呻くように言う。
「……わからないや」
大きな街だ。宿の名前だけでは、そう簡単に見つかるはずもない。いつの間にか、ユフ
ィールは工場の建ち並ぶ区画に入っていた。
工場という工場から、白や黒の煙がモクモクと空に向かって立ち上っていた。詳しい話
は知らないが、話によると蒸気機関とは石炭を燃やしてものを動かす力にする『仕掛け』
一般のことを指すらしい。
絶え間なく立ち上る煙に、ユフィールは思う。
(こんなに燃やしてると、そのうち空気が不味くなるかもね)
ふむ、と考えて、きびすを返す。さすがにこんな所に目的の宿はないだろう。
「やっぱり、おじいちゃんの所に行ってこようかな」
老人は、別れる時に、自分が野菜を届ける場所の名前を教えてくれた。そこに行けば、
まだ老人はいるはずだ。
そう思って、ユフィールが伏せていた顔を上げた時だ。
「あっ」
「おっ」
いい音がして、ユフィールは反対側からやって来た男とぶつかった。額に痛み。
「いったぁっ!」
「いってぇ!」
声は同時だった。額を押さえながら見ると、ユフィールの向かいで、男も額を押さえて
顔をしかめていた。苦虫を噛みつぶしたような表情で、男が口を開く。
「あんた、大丈夫か?」
「あ、は、はい……」
はう、とユフィールは涙をこらえる。男のはしばみ色の瞳はずいぶんと上にある。
「こちらこそ……って、どうして額押さえてるんですか!」
「え? だから、額打ったから」
男はかなりの長身だった。ユフィールよりも頭一つと半分背が高い。青いコートのよう
なものに身を包み、背中には大きな象牙の板のようなものを背負っている。
男は、相当強く打ったのか、赤くなった額をユフィールに示す。
「ほら」
「あ、ほんとだ。──じゃなくて! どうやったら私の額とぶつかるんですか!」
「ほう」
感心したように男は呟き、胸のポケットから黒い丸眼鏡を取り出して、顔に掛けた。
「それは盲点だった」
ユフィールは脱力しそうになった。男は、まいったね、といった感じで両手を広げて見
せた。
「まさか、身長差三十センチを埋める方法がこの世に存在したとは……」
「もしもし?」
「あんた、俺がどうやったらあんたと額をぶつけられるか、わかるか?」
「え……ええと」
突然の質問に、ユフィールは思わず考え込んでしまう。結論はすぐに出た。
「わざとぶつけたんでしょ……」
「それは悪意ある誤解だな」
ふ、と男は鼻で笑う。ムッとしてユフィールは気づく。これは、絡まれているのではな
いだろうか。ざんばらと言ってよい伸ばしっぱなしの髪で、顔に黒い丸眼鏡をした男は、
あからさまに怪しかった。
「あの、私、急いでますから」
「あ、そうなの? なら、いいや。実は、俺も急いでたんだ。奇遇だな」
「はい?」
言うと、男の姿がユフィールの視界から消えた。通り過ぎた風に振り返ると、男はユフ
ィールを越えて遙か彼方まで走り去って行くところだった。
「…………」
一人残されたユフィールは首を傾げた。
「なに、今の?」
答えは、誰もくれなかった。
代わりに、遠くで爆音がした。
「え?」
と思う間の後、ユフィールが眺めていた工場の壁が、盛大に破壊されて瓦礫を道にばら
まいた。
「きゃあ!」
小さな破片がユフィールの身体に降り注ぐ。同時に、数人の男たちがその瓦礫を乗り越
えて道に躍り出た。
その中の一人の明らかな特徴にユフィールは思わず、あっ、と声を上げていた。声に気
がつき、相手もユフィールを見る。若い男だった。その目が、微かな驚きに見開かれる。
男の背には、二枚の白い翼が生えていた。
だが、男がユフィールに気を取られたのは一瞬だ。男は数人の男たちが工場から出るの
を確認し、大きく両腕を前に突き出した。
(いけない!)
ユフィールは思ったが、止める時間はなかった。
天使の両手の間に一瞬閃光が走り、そこから巨大な火柱が工場の中へと叩き込まれた。
爆音が轟き、工場から火の手が上がる。そこで天使は叫んだ。
「巻き込まれたくなかったら逃げろ!」
自分が言われたのだと理解するには少しの間が必要だった。天使たちは集団でユフィー
ルとは反対の方向に走っていった。同じ様な服装の男たちの中で、天使の白い翼ははっき
りとその背中が誰のものであるか主張していた。
ぼうっと、それを見送ったユフィールは、はっとして燃え上がる工場に視線を移した。
耳には、微かに人間の悲鳴のようなものも聞こえる。
「もう!」
一言、自分のおせっかいに苦情の声を上げながら、ユフィールは壊れた壁から工場を覗
き込んだ。中は火の海だった。凄まじい炎が炸裂したのだろう。
中位以上の天使は《属性》と呼ばれる特殊能力を発現させる。先程の天使の使用したの
は、まさに《炎》の《属性》だった。
ユフィールは工場の中には入らず、壁沿いに入り口に向かう。そこから、工場の人々が
逃げ出していた。
「おい、大丈夫か!」
「まだ何人か中に……」
人々は怯えたような視線を交わし合う。まだ間に合う。だが、炎の中を戻るには、相当
な勇気がいる。
その時だった。
「退け!」
一人が工場に飛び込んだ。横を通り過ぎられたユフィールは、確かにその顔に黒い丸眼
鏡を見た。
「あの人……!」
ユフィールは大きく息を吸い込んだ。そして、迷わず女声としても高い音で一曲の歌を
唄った。
工場の人々の視線が、ユフィールに集まる。場違いな歌。唄っているのが天使だという
ことに驚いた者もいた。
高く、高く歌声は遠くまで届く。この場にいる全ての者に。炎の中にいる者に。
それが、どんな効果を現したのか。
一人が言った。
「水だ」
簡単なひとこと。その言葉は伝染し、止まっていた全ての者がいっせいに動き出した。
井戸から水を汲んでくる者。近くの工場に走り込み、水をもらってくる者。応援を呼んで
くる者。ただ眺めているだけだったのが嘘のように、人々は消火活動に全力を傾けた。
そして、
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。煙が割れる。唄いながらユフィールは、大柄な男二人を抱えて黒眼鏡の
男が工場から出てくる、それを見た。
ほっと息をつき、歌の最後の部分を唄い、終える。拍手が黒眼鏡の男を迎えた。男は黒
くなった顔を渡された手拭いで拭いながら酸欠気味に汗をかいているユフィールに手を振
った。
ユフィールは、肩をすくめて、しかし小さく手を振り返した。
(変な人……)
人という人が男に注目している隙に、ユフィールはその場をそっと抜けだし、道に戻っ
た。後ろを見るが、誰もついてこない。
「よしっと」
ユフィールは歩き出した。今度こそ、宿を見つけるために。
「《唄》の属性か……珍しい」
「あ? なんだって」
「なんでも。良かったじゃないか、全員五体満足で」
黒眼鏡の男は愛想笑いを浮かべて周りに集まった男たちに言う。男たちは頷きながらも、
複雑な顔で言った。
「だがな、工場がやられたらなあ……」
「何言ってんだ。しばらくしたら、本社から連絡が来て、他の工場に移れってことになる
さ。ここはマクドリンの工場だろ」
黒眼鏡はシェダルでもっとも大きな会社の名前を出して、おどけたように手を開いてみ
せた。違いねえ、と男たちもホッとした顔になる。
何人かは気がついて訊いた。
「その社章、マクドリンの本社のやつじゃないか?」
「まあ、本社の警備員その一、だ。本社へは、俺が連絡しておくよ」
黒眼鏡の男は、近づいてくる男たちの肩をぽんと叩いて、ふと目に付いたものにしゃが
み込んだ。
「どうした?」
「いや、いい頭突きをする女の忘れ物」
なんだそりゃ、と不思議そうに見る男たちに構わず、地面に落ちた飾り布を拾い上げる。
そして、
「じゃ」
と片手を挙げてゆっくりと歩み去った。
しばらくして、男たちは気がついた。
「あいつ、背中のアレ、ずっと背負ったままだったか?」
その言葉は沈黙を生み、やがて、誰かが呟いた。
「変な奴」
奇しくも、それはユフィールの感想と同じものだった。
二.子供たちは踊る
シーツをどけようとして、シーツが無いことに気がつき、ユフィールはうつぶせのまま
四枚の翼を動かした。
「う、ん……」
もぞもぞと動き出し、ユフィールは寝ぼけた顔のまま服を着て、用意しておいたパンを
のろのろと食べる。食べながら水差しに入ったミルクをコップに注いで、飲む。その段階
で、ようやく目が覚める。
「あふ……」
あくびを噛み殺してユフィールは部屋の窓を開けた。
空は、雲一つなく青い。思わず、にっこりと微笑んでしまう。
(なんだ、《上》と変わらないや)
これで、朝まで空が灰色だったらどうしようかと思っていたのだが。
老人の紹介してくれた宿は、あの後すぐに見つかった。老人と同い年くらいの老婆が出
迎えてくれて、他に客もいなく、静かな夜を過ごせた。正直、慣れない旅行に疲れていた
ので、やわらかいベッドで眠れたのはユフィールにとって、老婆の心尽くしの夕飯よりも
ずっと嬉しかった。
(おばあちゃんの料理も美味しかったけどね)
心の中で呟き、ユフィールは三部屋しかない小さな宿を出た。早朝だというのに、街の
中心部から少し離れた小さな路地にはたくさんの人がいた。
「みなさん、どこに行くんですか?」
「仕事だよ」
洗濯物を干していた女性に訊くと、そう答えが返ってきた。
「ここら辺の人は、みんな工場さ」
「たくさんありましたね、昨日見ました」
「あんた……」
そこで、女性は初めてユフィールを見て、驚いたように目を丸くした。
「天使?」
「はい」
クスリと笑って、ユフィールは背中の細長い四枚の翼を動かしてみせた。珍しそうな視
線が辺りから向けられる。
やがて出たのは、短い言葉。
「珍しい」
「はあ……」
もっと別の言葉でも出てくるかと期待していたユフィールは眉を垂らした。女性は、俄
然ユフィールに興味を持ったようだった。
「旅行かい? それとも?」
「妹を捜してるんです。双子の。訊いたら、ここに来たって話なので」
「いつ?」
「二年前です」
「それは、もういないかもしれないよ」
眉をひそめて女性は言う。がっかりもせず、ユフィールは頷いた。
エイファ。それが、ユフィールの双子の妹の名前だ。二年前唐突に《上》から去り、行
方のわからなくなった妹を尋ねて、ユフィールは自分も《上》から降りてきたのだ。
「見つけて、どうするのさ」
「妹に会ったら、いけませんか?」
にっこりと笑う。そうされては、それ以上女性に訊けることはなかった。
ユフィールは小さく会釈して、同時に小さく翼を動かして女性たちに背を向けた。女性
たちは、ほう、と息をつく。
水色の翼の、なんと美しいことか。人間には無いもの。だから、余計にそれは美しく感
じられた。だが、その美しさは、人間の背にあっては失われるものだ。天使の背中にある
からこそ、その翼は天上の美しさを現す。
おそらく、女性たちは一生その水色の翼を忘れないだろう。
自分がそれほどの印象を与えたのも知らず、ユフィールは難しい顔をして大通りに向か
って歩いていた。
(いないかなあ……)
ユフィールも、エイファが都合良くこの街にいるとは考えていない。しかし、他に手掛
かりは無い。
「う〜ん……」
「おっ」
「へ?」
聞き覚えのある声に顔を上げた途端額に衝撃を受け、ユフィールは崩れ落ちた。
「────!」
声も出ないほど痛かった。涙を滲ませた目を吊り上げて見ると、昨日と同じく、青いコ
ートのようなものを着た男が額を押さえて顔をしかめていた。
「またあんたか」
「うっ」
まるでユフィールが悪いかのような先制攻撃だった。思わず引きそうになったユフィー
ルは、しかし勇気を出して男に詰め寄った。
「それはこっちのセリフですっ!」
「なんだ、そのまるで俺が悪いかのような言い方は」
「違うんですか?」
冷たい目でユフィールが睨むと、男は頬を掻いて言った。
「俺は知った顔があったから会釈しただけだ」
「思いっきり頭突きしたじゃないですか!」
「重いんだよ、これが」
示されたのは、背負った象牙板のようなものだ。ユフィールはビシッと男を指さした。
「認めたわね」
「う、誘導尋問か。嘘がつけない善良な小市民にえげつない手段を……」
「……もういいです」
朝からどっと疲れて、ユフィールは男の横を通り過ぎた。この男に関わっていると、ろ
くなことがなさそうだった。
と、男が無造作にユフィールの翼の一枚を掴んだ。
「ちょい待ち」
「ひゃっ!」
背筋に悪寒が走り、慌ててユフィールは男の手を振り払った。
「ち、痴漢!」
「痴漢って……そうなのか?」
さすがに意外そうに男がユフィールと翼を交互に見る。嘘でない驚きがその顔にはあっ
た。
(わざとじゃないなら、許してもいいかな)
一瞬思ったが、問題が違うと気づき、ユフィールは男にきつい口調で言った。
「いきなり女の子の身体に触るなんて、痴漢じゃない!」
「身体……あ、そうか。本物だっけ」
偽物の翼なんてあるのか、とユフィールは頬を膨らませた。そんな顔をすると、年齢よ
りずっと幼く見えることに、本人は気がついていない。
「なるほど。そういうことなら、不本意ながら謝っておこう。だから、次からは確認をと
ってから触る」
「触るな!」
なんなのこの人、とユフィールは泣きそうになった。男は胸ポケットから例によって黒
眼鏡を取り出して掛けた。そうすると、表情はほとんど見えなくなってしまう。
「まあ、冗談はともかくとしてだ」
冗談だったんかい、と無言で拳を握りしめるユフィールに構わず、男は唐突に上を指さ
した。
「上?」
「──から来たんだろ?」
訝しがりながらユフィールは頷いた。天使が他のどこからやって来るというのか。やは
り、少し変な人なのかもしれない。
男は満足したように口元に笑みを浮かべると、腰を曲げてずいっとユフィールに顔を近
づけた。
「無意味に近づかないでください」
「この世に意味のない行動なんかないね」
「……じゃあ、頭突きも?」
「意味のないことに意味を求めることが愚かだとは思わないかね?」
げんなりとしてユフィールは男を見た。この口は、自分の言ったことすらすぐに忘れて
しまうようだった。
「あの、急いでるんですけど」
「安心しろ。今日は俺は急いでない」
ずいずい、と男の顔が近づいてくる。逆にユフィールは上半身を後ろに反らしてそれか
ら逃れようとした。
ずいずい。ぐっ。当然、ユフィールが不利だ。自明の理である。男の目が、眼鏡越しに
見えるくらいにまで近づいた時、男の口が動いた。
「あんたの顔、どっかで見たな」
「!」
ユフィールが目を見開く。その意味を問おうとした時だ。
「ぶっ」
飛んできた拳大の石にこめかみを直撃され、男は横様に倒れた。ユフィールの目がぱち
ぱちと数度まばたきされる。
横を見ると、数人の子供たちが腕を組んで立っていた。
「そこまでだ、痴漢野郎!」
なんだか弁護する気も起きず、ユフィールは頭を掻いて男を見下ろした。
「ふ〜ん。おねえちゃん、妹を捜しに来たんだな。結構苦労してんじゃん」
「はは」
「めちゃくちゃ痛いんですけど」
愛想笑いしたのはユフィール。憮然とした顔で座り込んでいるのが黒眼鏡の男だった。
子供たちは全部で五人で、石段に座った大人二人を囲んでやはり思い思いの場所に座って
いる。女の子が一人いて、その子のことはユフィールは覚えていた。
昨日、ユフィールの翼を綺麗と言ってくれた少女だった。微笑みかけると、少女は顔を
真っ赤にして目を逸らしてしまう。可愛いなあ、と純粋にユフィールは思った。
「すっごく痛いんですけど」
黒眼鏡はしつこく言う。結局、ユフィールが痴漢説を取り消してくれたおかげであれ以
上の暴行は受けずにすんだ。それでも、けっこう痛かったらしく、いまだにこめかみをさ
すっている。
「おっさん、女じゃねえんだから、いいかげんぶつぶつ言うのやめたら?」
「おっさん……」
黒眼鏡はにっこりと笑って少年に脇固めを掛ける。少年はすぐに降参して地面を叩いた。
「お、大人げねえ兄貴だ」
「若いっていいぞ」
さわやかに微笑む歯は白い。雑談が始まってしまってから、すでに一時間は経過してい
る。ユフィールは横目で黒眼鏡を見ながら思った。
(結局、なんなわけ?)
「なんだ?」
黒眼鏡越しに男がユフィールを見る。出来るだけ冷たい視線を作ってユフィールはそれ
に応える。
「いつまでいるつもりですか。つきまとはないで欲しいんですけど」
「つきまとうって……意外と自信家だなあ」
心底驚いたように言う。ユフィールはがっくりと首を落とした。ぬかに釘。のれんに腕
押し、だ。
子供たちは面白そうにそんな大人たちを見ている。視線がユフィールの翼に行きがちな
のは当然だろう。
「ねえ、触ってもいいかな。ちょっとだけ」
「うん。あまり強くしないでね」
「では、遠慮なく」
「あなたは駄目!」
「けち」
わあ、と子供たちはおっかなびっくりユフィールの翼に触った。軽く動かすと、その度
に歓声が上がる。子供たちをじゃれつかせておきながら、ユフィールは隣の男に訊いた。
「珍しいかな」
「珍しいんじゃないか? 俺だって、子供の頃に天使に会ったら、まっさきに羽根に触ら
せてもらうな。大人になった今では気軽に頼めない、子供の特権だな」
「……触ったくせに」
「頼んでない」
「はいはい」
段々と黒眼鏡のパターンも読めてきた。横からのぞく瞳は、はしばみ色。横顔と、眼鏡
を掛ける前の顔を思い出す限りでは、それなりに男らしく整った容貌だとユフィールは思
う。軽薄そうな口調がそれを台無しにしているが。
「いたっ」
翼に走った痛みに、ユフィールは顔をしかめた。振り返ると、少女が怯えた顔で手に水
色の羽根を一本持っていた。
「ご、ごめんなさい……」
「馬鹿! ほら、おねえちゃんに羽根返せ」
「いいよ。あげる」
苦笑してユフィールは言った。少女の頬が赤く染まって、胸に羽根を抱きしめる。相当
欲しかったのだろう。年上らしい少年は困ったような、うらやましそうな顔でユフィール
と少女を見る。
「いいの?」
「いいのいいの。私も、小さい頃近所の花壇の花を抜いたりしたし」
「で、怒られたんだ?」
「うん」
小さな笑いが起こった。クスクス笑いながらユフィールは黒眼鏡を見たが、黒眼鏡も口
もとをほころばせていた。何も冗談を仕掛けてこないのは意外だったが、会ったばかりの
人間の性格を決めつけるのも早計だと思い、少し反省する。
「あなたはそういう経験ないんですか?」
「俺か? 俺は、そうだな。いや、ない。良い子だったからな」
ニヤリと笑う。そして、
「さっきから、話し方が一定してないな。丁寧語か、地でしゃべるか、どっちかにしない
か?」
「出来る限り丁寧に人と接するつもりなんです」
「頭突きするくせに」
「まだ言うか!」
「そうそう。そっちの方がユフィールらしいって」
「会ったばかりで、何わかったように言ってるんですかっ」
「会ったばかりだから先入観無く言えるんだよ」
もっともらしく言う。反省した自分に、さらにユフィールは反省した。
(決めつけてもいいやっ。こいつは性格悪い!)
ちょいちょい、と少年たちは囁き会う。
「会ったばかりにしては息が合ってるよな」
「うん。すっごく」
「何か言った?」
「子供の純粋な言葉に何を怒ることがある。なあ、少年たちよ」
「殴るわよ」
「早く謝った方がいいぞ、少年たち」
「あなたよ、あなた!」
「あなただなって……照れるな」
無言でユフィールは拳を黒眼鏡の男の顔面に叩き込んでいた。子供たちは拍手喝采だ。
ユフィールはため息をついて立ち上がった。両手で腰をはたく。
「じゃあ、私は行くから。その人の面倒お願いね」
「妹捜しに行くのか?」
「そう」
にっこりと笑って、ユフィールは手を空に差し伸べるようにかかげた。そして、高い音
階をなぞる声で唄う。
一つ目の夢は 小さな頃にあこがれた夢
二つ目の夢は 聞かされた両親の夢
三つ目の夢は 叶うと信じた涙の向こうの夢
四つ目の夢は 風と共に消えた夢の中の夢
五つ目の夢は 差し伸べた手の上に輝く
六つ目の夢が 終わるともう一度同じ夢が始まる
あなたが見つけた 幸せの夢に触れる優しい誰か
微笑みを浮かべ 虹のもとにあなたたちは向かう
光と風の歌が 夢の国に満ちて青空には鳥たちがはばたく
清涼な風が吹き抜けた。ゆるやかな、鮮烈な印象を与える旋律。知っている者のほとん
どいない、天使たちの古い子守歌。
子供たちはしばらくぼうっとし、歌が終わっていることに気がついて、一生懸命拍手を
した。最高の歌をプレゼントした天使は、小さく手を振ってそれに応える。
ユフィールが見えなくなるまで手を振っていた子供たちは、いつの間にか黒眼鏡の男が
上半身を起こしているのに気がついたが、顔を見合わせて、その場でユフィールのように
歌い始めた。
つたない合唱は、やがて歌いながらの踊りに変わる。
楽しそうな子供たちを見ながら、男は黒眼鏡を外して目を細めた。
「《属性》か……そうだな。人を幸せに出来るなら、たいした力だ」
微笑ましげに子供たちを見る男は、しばらくして、その場を立ち去った。気がついたの
は、羽根を握りしめた少女だけだった。
※
「つれないねえ」
「あ、また来たな」
後を追ってきた黒眼鏡に対して、ユフィールは遠慮の欠片もない地で返す。満足そうに
笑って、黒眼鏡は大股に歩いてユフィールに並ぶ。
道は地元の人間の家が建ち並ぶ区域から、商店街の辺りに移動していた。子供たちと話
して時間を潰しただけ、人通りも多くなっている。
「本当に暇なの?」
「暇だよ。仕事ないからな」
「嘘。だって、胸のそれ」
さっきから気になっていたのだが、男のコートの合わせ目からのぞく胸には、ユフィー
ルも見た覚えがある会社の名前入りの社章が付けてあった。読むと、マクドリン、と書い
てある。
「ああ、これか。勤め先のだ。今日は非番だけどな」
「非番でも付けてるの?」
「役に立つんだぞ、この街では。マクドリンの関係者なら、たいていの所には入れる。俺
のは警備員用のものだから、蒸気機関車にだって乗れる」
「え、本当?」
蒸気機関車と聞いて、ユフィールは驚きの声を上げた。一般の者が蒸気機関車に乗れる
のは、まだまだ先の話だ。無意識に、うらやましげな顔になってしまう。
「乗ったことあるの?」
「二回ほど」
「わあ……」
まいった、とユフィールは手を広げる。
「凄い人だったんだ」
「凄い人なのだよ」
ふふふ、と黒眼鏡の縁を指で持ち上げる。調子の良さに、ユフィールは呆れてしまう。
と、視線を感じてユフィールは居心地悪げに翼を動かした。
「どうした?」
「……なんだか、見られてる」
「仲のいい恋人だなって──ぶっ」
「あ、ごめん。痛かった? もう少し強くぶっておけば良かったね」
「……さりげなく笑って言ってくれるな」
音が静まり返っていた。しまった、とユフィールは顔を赤くする。頬をさする黒眼鏡を
置いて、早足で歩き出す。
(うう……目立っちゃった)
ただでさえ、天使ということで注目を引いていたのに、だ。天使と黒眼鏡の二人連れで
は、嫌でも目立ってしまう。
「おい、迷子になるぞ」
「他人の振りしてくれない? しっしっ」
「……人間としての正当な扱いを要求したいんだが」
複雑な顔をして、しかし次には男は手を叩いて言った。
「よし、わかった。他人の振りをしよう。他人じゃない、深い関係だからな」
おお、と道を行く人々がどよめく。顔を真っ赤にしてユフィールは振り返って叫んだ。
「誤解を招くような発言はしないの!」
「誤解とは、お互いの意思を正確に伝え合えないことから生じる。人が二人いれば、そこ
には誤解が生じてしかるべきではないかね?」
こいつ嫌いだ、とユフィールははっきりと悟った。苦手だ、こういう人間は。遭遇した
ことがない種類の人間だった。
(目立ってるし)
それが一番恥ずかしい。ユフィールはがっくりと肩を落とし、翼も力無く垂らし、歩い
た。特にあてはない。エイファの知人がいれば、自分の顔を見て声でもかけてくれるだろ
うという楽観的な考えがユフィールにはあった。
(そんなに簡単じゃないだろうけど)
それ以外に方法が思いつかないという切実な理由もある。不意に、ユフィールは黒眼鏡
が話しかけてこなくなったことに気がついた。
見ると、黒眼鏡はきっかり数メートル離れて、そっぽを向いて歩いていた。
(……意外と、律儀なんだ)
他人の振りと言うには無理がある距離だったが、なんとなくおかしくて、ユフィールは
クスリと笑った。
空にはもくもくと黒い煙が立ち上っていた。
結局その日は街中を歩いて、二人で目にとまった食堂に入った。
日が暮れるまで歩いたユフィールは、さすがに疲れてだらしなくテーブルに突っ伏して
運ばれてきた果物を口に運んでいた。対照的に、黒眼鏡は疲れた様子も無く、コーヒーを
含んでいる。
「見つからないなぁ」
「妹だったか? 双子の」
「うん」
シャクシャクと果物を噛み砕きながらユフィールは男を見た。いい加減、黒眼鏡の前で
は丁寧語はやめた。そして、そのことを相手も望んでいると感じたからだ。
不思議と、気が合うのかも知れない。思って、ユフィールはぶんぶんと首を横に振った。
「なんだ?」
「なんでもない」
「じゃあ首の運動だな」
「その発想がどこからくるのか教えてくれない?」
「ふむ……」
黒眼鏡はカップを置き、腕を組んだ。やおら黒眼鏡を外し、真剣な目でユフィールを見
つめる。
真剣な顔だった。ユフィールの口の動きが止まる。ゆっくりと、男は語りだした。
「人間には脳というものがあるらしくてだな──」
「やっぱりいい」
「残念だ」
肩をすくめる顔は、全然残念そうではなかった。久しぶりに覗いた男の素顔を、ユフィ
ールはさりげなく伺う。真っ正面から観察するのは失礼だと思ったからだ。
(失礼には変わりないかな)
男の顔をじっくり見るのはこれが初めてだった。考えてみれば、名前も知らずに一日一
緒に歩き回ったのだ。
「ねえ」
「名前か?」
「わ、凄い。どうしてわかったの?」
「経験と勘と予想と愛」
「最後の以外はわかったから、名前。考えてみたら、これ以上不審人物もいないわ」
「善良な一般市民に向かって失礼な」
「善良な一般市民はそんなもの背負ってないもの」
呆れたことに、男は椅子に座ってコーヒーを飲みながらも、いまだに象牙の板のような
ものを背負っていた。何度かユフィールが後ろから見たところによると、その板は半ばま
でくり抜かれて握りが作られ、先に行くほど収束している。つまり、最端部は剣先のよう
になっていた。象牙製のカタール。そんな単語がユフィールの頭に浮かんだ。
しかし、どうやら材質そのものも象牙とは違うらしい。似ているが、ユフィールの全く
知らない材質のようだった。
「……これを背負ってたら、善良の範疇を抜けるのか」
「善良じゃ駄目なら、まともな一般市民」
「それはユフィールだろう」
「誰がまともじゃないって?」
「市民じゃない」
「…………」
駄目だ、口では勝てない、とユフィールは拳を握りしめた。今日は一日でずいぶん似た
ような状況に陥ったユフィールである。
「────だ」
「え?」
「名前だよ」
「あ、聞いてなかった」
「苛めてないか、俺のこと?」
「苛めてないって」
悪く思って、ユフィールは果物を食べる手を休めた。背筋を伸ばし、促す。
「ドナウ・ヴァレルだ。ドナウが名前」
「ヴァレルは姓ね」
「うんにゃ。嘘の名前」
「はあ?」
ユフィールが眉根を寄せるのも無視し、黒眼鏡ことドナウはコーヒーを啜る。はしばみ
色の瞳が、ブラックのコーヒーを映して揺れる。揺れているのはコーヒーの方だが。
しばらく会話が途切れ、ユフィールは果物を食べる手を再び動かし始めた。そして、言
う。
「この街って、ずいぶんと工場が多いんだね」
「ああ。蒸気機関が発達すれば、他の街だってそうなるさ。一度は通る道ってやつだ。蒸
気機関が流入して、その研究に四苦八苦して、その後どうなるかはそれぞれ別々だろうけ
どな」
会話は、先程までと繋がっていない。だが、ドナウは気にもせずに応えてみせた。ユフ
ィールはやや大げさに翼を動かす。
「蒸気機関って、そんなにいいものなの? あんなに空を汚して」
「ユフィールは蒸気機関がどれほど画期的な発明か、ちゃんと勉強してないからそう言う
んだな」
「勉強したの?」
「知りたくもないことを勉強して、何が自分のためになると思うのかね?」
「……あなたの勉強嫌いはよくわかったわ」
「勉強は好きだぞ。道ばたの奴をつかまえてだな、そこ行くお兄さん、ここを通るにはち
ょっとものが入り用でね、財布の中身を勉強してみないかい、とかな」
「勉強が違うでしょ!」
「うむ。言葉の定義を始めにしっかりさせておかないと、こういう誤解が起きるわけだ」
「誤解以前の問題じゃないっ」
「あんまり怒鳴ってると、目立つぞ」
はっとしてユフィールは店内を見渡した。椅子から立ち上がってドナウに怒鳴りつける
ユフィールが目立たないはずがなかった。
集まった視線の語りかけてくるものは幾つかあるが、一番多いのは、
「なんか、呆れられてるぞ」
「うう……」
椅子に座って、小さな声でユフィールは呟いた。
「ドナウの馬鹿っ」
「ば、馬鹿ってなんだ。馬鹿ってのは、こういう顔の奴を言うんだ」
「ひゃっ?」
言うが早いか、ドナウの指がユフィールの頬をむんずと摘んだ。ユフィールの目が驚き
に見開かれる。ニヤリとドナウが笑う。
「ほら、馬鹿だ」
「むー!」
「うぐっ」
反撃にユフィールも頬を摘もうとしたが、腕の勢いが良すぎて、ドナウの顔面に思い切
り当たる。
「て、テーブル越しにクロスカウンターかよ……」
「天罰!」
「天罰ね……まあ、その資格はあるな。天使だし」
「天使だって、人間と一緒だよ」
顔を押さえながら、ドナウはユフィールから視線を外さなかった。ユフィールは最後の
果物をかじって言った。
「変わらないよ、ドナウも、私も」
黒眼鏡が、ドナウの顔にかかる。表情は隠され、しかしドナウは笑った。
「そうだな」
ユフィールは微笑んだ。たわいもないやりとりが、なぜかとても楽しかった。
三.蒸気機関車と天使
翌日、ユフィールは痛む頭を抱えて朝を迎えた。
(飲み過ぎたかな……)
普段酒などは飲まない方なのに、昨夜はドナウに誘われるまま調子よく杯を重ねてしま
った。そして、けらけら笑いながら宿の前で別れ、部屋に入ると同時にベッドに倒れ込ん
だ。
色々なことを話した気がするが、思い出してみると、それほど深い話はしなかった。
(好きな食べ物とか……意味無いことばっかり)
大きくあくびをしてもそもそと朝食のパンを食べる。
(まあ、そうだよね。会ったばかりの人に家族のこととか言ってもしょうがないし)
妹のことは必要だから話すとして、他のことは、知り合っただけのドナウには語る必要
のないことだ。その辺りのことをドナウもわかっていて、変に追求したりしなかったのだ
ろう。
ふう、とユフィールはため息をついた。
(大人の会話って難しい)
《上》では子供で良かった。だが、一人で旅をするのなら、大人でいなくてはならない。
と、ユフィールの視界の端に、飾り布が入った。ドナウが別れ際に渡していったものだ。
(縁があるのかな)
用意をすまし、宿を出る。
「よう」
そこに、見慣れてしまった黒眼鏡が立っていた。
※
ドナウが許可をもらったと言うので、ユフィールは彼と二人でマクドリン社が行ってい
る蒸気機関車の試運転に乗せてもらいに、街の外れまでやって来ていた。
「わあ……!」
大きな工房のようになっている車庫に入ったユフィールは目を丸くして口に手を当て
た。
「大きい」
「今日は貨物をたくさん運ぶみたいだからな。何両も連結してるんだ」
黒光りする車体の先頭はユフィールたちの立っている場所からほど遠く、いったい何両
連結されているのか、機関車自体を初めて見るユフィールにはわからない。
とにかく、ユフィールには驚きだった。黒い車体、大きな車輪、その長大な物体を、馬
やロバでは無く、蒸気機関で動かしてしまうというのだから。
だが、驚いていたのはユフィールだけではなかった。車庫で作業していたマクドリン社
の技師たちも、やって来た天使の姿にざわめきを隠せなかった。その中に、あからさまな
敵意を感じて、ユフィールはドナウを見た。
高い位置にあるドナウの顔は、黒眼鏡で表情はわからないが、代わりにドナウはユフィ
ールの肩を軽く叩いて前に進ませた。
そして、車体にとりついている技師に声をかける。
「よう大将。出発はいつだい?」
「……ヴァレルか」
口元をへの字にした技師が振り返る。年はユフィールたちとあまり変わらないだろう。
少し上か。
「夜中に人んちに乗り込んできて、今日の試運転に乗せろ、と言って眠り込んだ奴が許可
を得もしないで、何のようだ?」
「許可ならもらったな、大将。追い出さなかったっしょ?」
「酔っぱらいを一晩泊めただけだ」
「二晩だなぁ」
「前は酔っぱらっていなかった」
「……駄目か?」
「酔っぱらいのたわごとならな」
そう言って、技師はぎょろっとした目をユフィールの方に向けた。思わず身をすくめて
しまったユフィールをしばらく見て、技師はため息をついてドナウに何かを放る。
「確かに羽根付きだな、酔っぱらい」
「俺が人に嘘をついたことがあったかね?」
「許可をとったからついて来いって言ったじゃない」
「それはユフィールの幻聴だよ」
しれっと言うドナウに、ユフィールは拳を握りしめたが、無駄なので何も言わない。呆
れたように技師が言うのみだ。
「お嬢ちゃん、誘拐されないようにな」
「……はい」
「誘拐なんて人聞きの悪い。騙してつれてきただけじゃないか」
「それが誘拐じゃない!」
「それこそ被害妄想というものだよ」
「被害があったのね、私……」
「自覚していない以上、それは被害ではないのだよ」
「けっきょくどっちなのよ」
「任意同行で罪を問うのは愚かしいことだとは思わないかね?」
「逃げたな……。つまらないことを言ってないで、社長に挨拶してきたらどうだ」
言われると、ドナウは頷いてユフィールを見た。瞳は見えないが、笑っていそうなこと
はわかった。
「さて、お待ちかねの蒸気機関車に乗り込もうか。史上初、天使のお客様だ。歴史の教科
書に載るぞ」
「え、え? そうなの?」
「そうなのだよ」
とまどうユフィールをしり目に、ドナウの長身が機関車の中に消える。ユフィールは少
し緊張した面もちで、機関車への短いかけ板を踏んだ。
「ほら」
「うん」
差し出された手を取る。ドナウが勢い良くユフィールを車内へと引き込んだ。軽い拍手
がユフィールに向けられる。
「おめでとう。初めての天使のお客様」
それは短い髪も真っ白な、しかし体格はドナウに劣らなく立派な老人だった。技師たち
と同じ作業服を着て、にこにこと笑っている。
「あなたは?」
「エドワール・マクドリン。マクドリン社の社長で、俺の雇い主。自分の姓を会社に付け
た、目立ちたがり屋のじいさんだ」
「だまらっしゃい。それくらいのお茶目で何を言う」
「お茶目って……そんなに可愛いもんじゃないでしょうに」
マクドリンは眉根を寄せて頭を掻き、ドナウの隣のユフィールに苦笑を見せた。
「まったく、こいつの相手をすると、ついつい遊んでしまう。お嬢さん、名前は?」
訊かれ、先程の技師にも名乗っていないことに気がつき、慌ててユフィールは頭を下げ
て言った。
「ユフィールです。ただのユフィール。社長さん、ですか?」
「ほら見ろ、可愛らしいものじゃないか。ヴァレル、お前もだな、これくらい殊勝にして
いても罰は当たらんぞ」
「俺はこんなにも殊勝にしているってのに、ずいぶんなお言葉で」
「……まあ、お嬢さん、こちらにいらっしゃい。良い席がある」
客が一人もいないのだから、それも当然だ。普通ならいくらお金を払っても入れないだ
ろう貴賓専用の両につれられて、ユフィールは居心地の悪さに翼を動かした。
「さあ、座って」
「はあ……」
四人掛けの向かい合った椅子に座る。ユフィールの向かいにはマクドリンが座り、
「しっしっ」
「……嫌われたみたいなんで、老人の隣で我慢しよう」
マクドリンの隣にドナウが腰を下ろす。
間にはテーブルが置かれ、食事も出来るようだった。マクドリンが手を叩いて合図する
と、コップとボトルが運ばれてくる。
「社長、俺は水がいいな」
「あ、私も水でいいです」
「なんだ、ヴァレルは飲める方だと思ったが?」
「昨日堪能しました」
苦笑混じりにドナウは言う。そんなやりとりに、ユフィールはそっとドナウの顔を伺う。
(ヴァレル、なんだ)
出会う人は、皆ドナウのことをヴァレルと呼ぶ。親しげに、ヴァレルと。だが、ユフィ
ールは知っている。ヴァレルの方を嘘の名前と言ったドナウを。
それにしても、だ。
「すみません、ヴァレルさんって、何をしている方なんですか?」
「なんだ、知らないでこんなに怪しい奴についてきたのかね?」
ドナウが口に含んだ水を吹きだしそうになっているのを見ながら、ユフィールは頷いた。
「警備員の方と聞きましたが……」
「警備員だよ、ヴァレルは」
「でも、その割には、社長さんと仲がいいみたいですし」
「別に愛はないぞ、断じて」
「お前は黙ってなさい。ええと、何かな? ヴァレルは確かに警備員だよ。ただ、この蒸
気機関車の警備員なので、よくここに来る私とは仲がいいがね」
「あ、そうなんですか」
種明かしすれば簡単なことだ。しかし、そう頻繁に機関車見物に来るとは、社長という
のもけっこう暇なのかもしれない。
「暇なじいさんだろ?」
「これは仕事だ!」
「ほら、愛がない。だから、安心して俺をそっちに座らせてくれってばさ」
「……別にそこまで言うならいいけど」
「愛だな──ぶっ!」
立ち上がりかけたところに、見事に顔にコップの水をかけられる。ユフィールはそっぽ
を向き、マクドリンは声を殺して笑った。
「……やるか、ここまで」
「変なこと言うから」
「嫌よ嫌よも好きのうちという言葉を勉強させてやろうか」
「しっしっ。やっぱり来ないで」
「悲しいねえ」
肩をすくめてドナウは、それでもユフィールの隣に座る。そのずうずうしさにはさすが
にユフィールも呆れるしかない。マクドリンは慣れているのか、笑うだけだったが。
「さて、そろそろかな」
マクドリンが言うと、ユフィールは窓の外に目を移した。技師たちが手を挙げて合図し
ている。
と、
「あ……」
甲高い汽笛の音が響き渡り、ゆっくりと、窓の外の技師たちが動く。
いや、動いたのは、ユフィールたちだ。
ガタン、と車輪の一回目の回転が終わった音がした。
動く。
「え?」
ユフィールはドナウを見た。ドナウの大きな手が、ユフィールの緊張で強ばった手を力
を込めずに握っていた。
ドナウは口元だけで笑い、顎で外を示す。照れた微笑みを浮かべ、ユフィールは動き出
した風景に顔を向けた。
車庫を抜け、シェダルの街の外の緑色の大地が窓の外一杯に広がった。遠くに村を眺め
ることが出来、しかもそれは普段ではありえない高さからの風景だった。シェダル上空の
煙も街の外にはなく、青空がどこまでも続いている。
汽笛が、連続して三回鳴った。
全開された窓からは初夏の暑さを流し去る心地よい風がユフィールの髪を揺らし、翼を
くすぐる。
「わあ……」
ユフィールは窓から上半身を乗り出した。いつの間にか、ドナウの手は離れている。そ
んなことにも気がつかないで、ユフィールは夢中になって蒸気機関車という乗り物が生み
出す風を身体全体で感じ取った。
「凄いです!」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
マクドリンはにっこりと微笑んだ。ユフィールは興奮して言う。
「空を飛んでいるのとは違うんです、風景が。でも、風はとってもよく似てて……気持ち
いい」
「空を飛ぶって、どんな感じなんだ?」
「高い所から飛び降りてみたら?」
「なんだ、社長に向けるのとは違うその目は……何か、俺を誤解しているな、ユフィール。
もしかして、俺のことを顔がいいだけの完璧な美青年だと思っているな?」
「……思ってないけど」
「隠さなくてもいい」
「隠してないって」
「君たちは昔からの友達か?」
ユフィールとドナウは同時にマクドリンを見て言った。
「一昨日絡まれました」
「一昨日絡まれました」
「どっちがよ!」
「ユフィールがって続けるつもりだったんだよ」
「認めたわね」
「しまった、また誘導尋問に!」
「なるほど、よくわかった」
何がよくわかったのかわからないが、とにかくマクドリンは納得したように何度も頷い
た。ユフィールは赤くなってうつむく。ドナウといると、恥ずかしいところばかり人に見
られてしまう。
(あれ? でも、ドナウはどうして私に絡んだりしたんだろう?)
やはり、天使だからだろうか。ドナウを見ると、その目は黒眼鏡に隠れて、表情を読む
ことは出来ない。
「ド──ヴァレル、昨日、私に何か言わなかったっけ?」
「色々言ったな、うん」
「子供たちが来る直前のこと」
「……何か言ったか?」
「憶えてないの?」
「普通は言われた方が憶えているもんだ」
「あ、そういうこと言う」
「これこれ。私にもわかるように話したまえ。ヴァレル、何か言ったのか?」
「はい。どこかで見た顔だなって」
「憶えてるじゃないのっ」
「自分で言ったことを忘れるかよ。無責任な」
やれやれ、とドナウは肩をすくめが、ユフィールがコップを握ったのを見て、慌てて手
を挙げた。
「降参降参。言ったよ、どこかで見た顔だなってな」
「それって……」
期待にユフィールはドナウの袖を掴んだ。ドナウは神妙に頷き、ユフィールに顔を近づ
ける。
「似てるな。うり二つだ」
「誰に」
「向かいの家のリシュカ姉さん」
がく、とユフィールは頭を落とした。
「何よそれ……」
「いやあ、会った時から似てると思ってたんだ。近所でも美人で通ってるぞ」
「褒めてくれなくていいよ。私、性格ブスだもん」
「おお?」
ドナウとマクドリンは思わず顔を見合わせた。そして、笑い出す。遠慮のない笑い方だ
った。ユフィールが不思議そうに見ると、ドナウは黒眼鏡を指で押さえながら言う。
「そんなことないって。可愛い可愛い」
「なっ……」
カッとユフィールは赤くなった。だが、それ以上ドナウは何も言わず、ひたすら笑いを
こらえていた。ユフィールは頬を両手で覆ってしまい、マクドリンはおもしろそうにそん
な二人を正面から眺めている。
不快でない、しかし気まずい沈黙が流れた。気まずがっていたのは、ユフィール一人か
もしれないが。
しばらく、機関車が走るゴトゴトという音しかしなくなる。予想以上にその音が大きい
ことにユフィールは気がつく。風景は止まることなく流れ、おそらく、街からはもうずい
ぶんと離れただろう。
と、ドナウが手を叩いた。ぱん、と一回大きな音が響く。
「さて、冗談はここまでにして、だ」
「じょ、冗談……っ!」
「見たことがあるについてだが──ぐ、参った、参った、いや、なんで俺が謝ってる」
「自業自得!」
「自業自得なら、今頃俺は一国の国王でもなってると思うんだが」
「そうなったならば私も苦労せずに大臣にでもしてもらうな」
「まかせてください、宰相に採用してみせます。税金は低めにしましょうか」
「いや、最初から低いのより、始めは高くて、低くしたという事実が印象に残るようにし
た方がいいな。その方が人気が出る」
「さすがは社長。あくどいですな」
「ド──」
「待った待った、それ以上言うな」
「ど……何かね?」
マクドリンはきょとんとした顔をしたが、ユフィールは口を押さえて眉根を寄せた。ド
ナウ、と呼ぼうとしてしまったのだ。冗談でなく焦ったらしく、ドナウは黒眼鏡のずれを
指で直す。
ユフィールが目で謝ると、ドナウは口元を歪めて苦笑した。
「ユフィールと同じ顔なら、確かに見た。天使だったから、あれがユフィールの妹だろう
な」
「本当! ……でも、どうして昨日言ってくれなかったの?」
「石が飛んできた」
ごもっともだ。ユフィールは畳みかけるように訊いた。
「いつ見たの?」
ドナウは、言い辛そうに口を開きかけ、手で頭を掻いた。
「ええとだな……最後はいつだったっけ」
「最後?」
「五日ほど前、か」
「ヴァレル、そうなのか?」
驚いたようにマクドリンがユフィールを見た。ユフィールはその視線に首をすくめた。
鋭い視線だった。
(五日前。じゃあ、この街にずっといたんだ)
手掛かりを掴んだことよりも、マクドリンの目が恐かった。優しそうな老人が、いきな
り企業の社長の顔になってユフィールを見ていたのだ。
緊張を解いたのは、ドナウのひとことだった。
「終点だ」
キィィ、と甲高い耳に響くブレーキ音が場を通り過ぎた。
「本当なら隣の街まで行けるんだが、とりあえずここまでだ。後は折り返して、終わり」
「あ、そういえば、この車どのくらい人が乗ってるの?」
それにはマクドリンが答える。
「私たちの他には、技師が数人。後は、運転手くらいだね。石炭と水さえあれば、とりあ
えずは動くから」
「凄いですね。ちょっと煙は出ますけど」
「…………」
沈黙。ドナウとマクドリンは顔を見合わせた。そして、ドナウは気だるそうに席を立っ
た。ガタン、と蒸気機関車が折り返し始める。
「まあ、そういうことだな」
「やはり、そういうことかね」
「?」
わけがわからない。すると、ドナウが窓の外を指さした。促されるまま青い空を見上げ
たユフィールは、そこに見た。
舞い降りてくる、純白の翼の天使を。
※
「え?」
その天使に見覚えがあったユフィールは目を見開いた。それは、一昨日工場でユフィー
ルが見かけ、《属性》を使用した青年だった。
ユフィールの後ろで、ドナウが言う。
「来ましたよ。ボトルスの残党もしつこいですね」
「うむ……コウガ亡き後、もはや暴走するだけだな」
「話が見えないんですけど」
「言葉が見えるのか」
無言でユフィールは翼を大きく開いた。四枚の翼で打たれて、ドナウがくぐもった悲鳴
を上げる。
そうこうしているうちに、段々と高度を下げた天使は、機関車の屋根に達し、窓からは
見えなくなってしまった。
「上にいますよ」
「まあ、いつも通りだ」
「そうなんですか?」
慣れている、と表現するマクドリンに、ユフィールも少し安心する。実害はなさそうだ。
が、次の瞬間、窓枠を越えて天使が車内に飛び込んできた。マクドリンがのけぞる。
純白の一対二枚の翼。髪は短く狩った金。瞳は髪と同色。表情に乏しい青年だった。手
には短剣を持っている。
「おや? 積極的な……」
ドナウが困ったように手を広げた。天使は短剣を下げたままマクドリンを向いた。
「マクドリン社の社長ですね」
「いかにも」
役職の誇りか、マクドリンは胸を張って応えた。そうか、と天使は呟き、次にユフィー
ルを見た。
「なぜ君がここにいる」
「なぜって……」
「危険だ、下がっているといい。マクドリン氏の返答次第では、ここは戦場になる」
ユフィールは息を飲んだ。天使は淡々と言ったのみだ。だが、恐かった。それはこの青
年が《属性》を使用したところを目撃したからだった。
「ユフィール、掴まない」
「え、あ、ごめん」
無意識の内にドナウのコートを掴んでいた。慌てて放したユフィールをかばうように立
ち、ドナウが唇を歪めた。
「お姫様がいるところで手荒なまねは勘弁だな」
「お姫様を連れ込んだ者が何を言う」
「お姫様って……ユフィールに気があるのか、てめえ」
「先に言ったのはお前だが……」
ふむ、とドナウは顎に手を当て、次に天使を指さした。
「へりくつ魔」
天使は無言で息を吐いた。相手をする気も失せたのだろう、視線をマクドリン一人に向
ける。その瞳には、何の感慨も含まれてはいなかった。
「我々の要求は一つ。蒸気機関の完全廃止です」
さらりと言う。ユフィールは驚くよりも呆れの方が強かった。
蒸気機関は、マクドリンの会社だけではなく、多くの会社で、それこそ国ぐるみで開発
しているところもある。ようやく広まり始めた新技術を完全廃止するなど、出来るはずが
ない。
「社長も苛立っている。良いご返事を頂きたい」
「社長って……?」
「あいつはボトルス社の社員だ。ただし、もとだけど」
「ボトルス社は二ヶ月前に解散しました。前社長のコウガさまの死によって」
青年はその一瞬だけ表情を苦々しいものに変えた。
「今は、ご子息のテオリアさまが社員を導いてくださってます」
「会社がないなら、社員とは言わないんじゃないのかね、天使くん」
「……私たちは会社のつもりですが。会社を名乗る自由さえ、マクドリン社の許可がいる
のでしょうか?」
「そんなことはない」
言ったのはマクドリンだった。真剣な顔で天使の言葉を聞いていたマクドリンは、軽く
咳払いをして天使に歩み寄った。
「コウガの訃報は私にとっても残念なことだった。だが、彼の死後に、彼の言葉を曲解し
て騒ぎを起こそうとするのは、故人に対して失礼ではないのかね?」
「曲解ですか」
ばさり、と天使の翼が開いた。ドナウがマクドリンを押し退けて前に出る。天使は舌打
ちしてマクドリンに言った。
「コウガさまが蒸気機関の無制限使用に反対していたのは私もよく知っています。そして、
そのために誰かに殺されたことも。ですが、我々が今しようとしていることは、コウガさ
まの遺志によるものではないのですよ。ですから、ご安心を」
「コウガは関係ない? では──」
「現社長テオリアさまの意志です。そして、私はそれに従うしかない」
交渉は決裂ですね、と天使は呟いた。交渉と言うほどでもなかったが、もしかしたら天
使は始めから話し合う気など無かったのかもしれない。ユフィールはそう思った。
ゴトンゴトン、と機関車の走る音が沈黙した天使の周りを過ぎていく。天使は無言のま
ま片手をドナウに向けた。
「危ない!」
知らずに叫んでいたユフィールはドナウが何をしたのかわからなかった。天使の手が弾
かれたように逸れ、そこから発現した《炎》の《属性》が車内から壁を焦がす。凄まじい
熱気がユフィールを包んだ。
「熱っ」
「夏向けの戦いじゃないな」
ぼやきはドナウの声だった。ドナウは一歩も動いてはいない。炎が、壁の窓枠に、椅子
に燃え移る。天使は腕を押さえて頷き、ユフィールを見た。
「関わらないことだ」
「あなた、待って!」
止める暇もなく、天使は窓を越えて舞い上がっていった。ドナウが追いかけて窓枠に足
をかける。あっとユフィールが声を上げるが、ドナウが危なげなく屋根の上に登ったのを
見て、自分も翼をはためかせて舞い上がった。
「ドナウ!」
「さて、届くか?」
意地悪く笑ったドナウの手には細長い投げナイフがあった。舞い上がったまま蒸気機関
車と平行して飛翔している天使に狙いを定め、投げる。
「きゃっ」
「あ、外した」
「驚かせないでよ! あの人に当たるかと思ったじゃない」
「当てようとしたんだって……」
ユフィールはドナウの隣に足をつける。直後、飛んでいるのとは違う風圧にのけぞった
が、その背中にドナウの手が回って抱き寄せた。ユフィールは真っ赤になってドナウを突
き放そうとするが、腕力では勝てない。
「放してぇ」
「危ないって、こら、ひっかくな、いたっ、……静かにしてろ」
「ひゃあっ!」
翼を握られて、ユフィールは悲鳴を上げた。そうこうしているうちに、天使の姿は離れ
ていく。天使が速度を落としたのだ。
「こっちが離れていくってのは、嫌味だよなあ」
「だから、もういいから、放してっ」
「いや、この抱き心地が何とも。翼ってのは初めてで」
「火事、火事だからっ」
「大丈夫。死んでもじいさん一人だ。若者の語らいとは引き替えにできんわな」
それでも、いいながらドナウはユフィールを放して、自分は車内へと戻っていった。驚
くほどの身軽さだ。
ため息をついて、ユフィールは翼を動かし、浮いた。すると蒸気機関車がユフィールを
置いて進んでいく。ユフィールはそれに追いつこうと速度を上げ、窓から入ろうとし、ふ
と振り返った。
天使がいた。そろそろ見えなくなろうとしている。その天使に、近づく者がいた。
(あれは──)
空を舞い、天使に並ぶ、もう一人の天使。二対四枚の水色の翼。見間違えようのない、
その翼。
ユフィールは叫んでいた。
「エイファぁぁー!」
羽ばたき、一気に機関車とは逆の方向に飛ぶ。一瞬の間に距離は詰まり、そして、二人
は目を合わせた。
「エイファ!」
「ユフィール!」
見間違えるはずなど無い。同じ顔。双子の妹。より驚いていたのはエイファの方だった。
信じられないという顔が、ユフィールを見つめた。
「あ……」
エイファの手が伸びる。ユフィールも手を伸ばした。
そこに、青年が間に入った。
「ベイ! あれは私の……」
「わかっている。見ればわかる。だから、巻き込むな。君もだ」
エイファは息を飲み、悲しげに頷いた。ユフィールは言われたことがわからない。ただ、
マクドリンと話していたことに関係があるのだろうとは思った。
「ごめんなさい」
小さく言ったのはエイファで、二人の天使たちはその場にユフィールを残して飛び去っ
ていった。
「なにそれ……」
理不尽さに、ユフィールは叫んでいた。
「なによ、それ!」
会いに来て、会って、そしてどうして再び別れなければならないのか。
ユフィールにはわからなかった。
「……黙っていたからって、俺が殴られたりしないよな」
「なんだ、ヴァレル?」
「なんでもありません。社長、休んでないで手伝ったらどうですか。いい運動ですよ」
「火事場仕事は若い者に任せる。どうせ、死んでも若者の語らいとは引き替えにできない
程度のじいさんだしねえ」
「……耳は若いですね」
黒眼鏡を指で正しながら、汗をかいてドナウは技師たちが運んでくる水を燃えている車
内にかけ続けていた。
「まあ、ユフィールなら大丈夫か。あっちとは合わなさそうだし」
「だからなんだ」
「明るい人生設計」
あくまでドナウは手を止めないで笑った。