戻る


              「スクリーン」





「アキ、待ってよ〜っ!」
「うん?」
 サークル勧誘の貼り紙ばかりが目立つ大学の階段を下りながら、安芸(あき)は降って
きた声に顔を上げた。すると、二階の手すりから身を乗り出すようにして皆瀬唯(みなせ・
ゆい)が顔を見せていた。
「わたしも帰るから、ちょっと待ってて!」
「何だお前、午後の講義あるんじゃないのか?」
「休みだって。先生はご高齢」
 ニカッと白い歯を見せて笑って、唯はトトトと階段を下りてくる。白いブラウスに黒い
ジャンパースカートというシンプルな格好だったが、シンプル過ぎてどこかお嬢様然とし
た格好でもある。ことに唯は長い黒髪が自慢の、黙っていればお嬢様で通じる容姿を持っ
ているため、よく似合っていた。
「たたたたたっっとうっ」
 ぴょんっとジャンプして、唯は安芸の隣に着地した。百七十センチの安芸より十センチ
少々低い位置から顔を見上げ、猫口をして言う。
「今日、安芸の誕生日でしょ? お姉さんが何でも奢っちゃうよ」
 そんな唯さんは、緒方安芸の一歳年上の『彼女』だった。

                 ※

 人と人との出逢いというのは唐突なものだとよく言うが、確かにその通りである。
 それまで何も繋がりがなかった安芸と唯の出逢いは、安芸が大学に入る前に偶然にもあ
った。
 大学の学園祭。当時高校生だった安芸は、大学の見学も兼ねてそこに顔を出したのだが、
そこで陶芸サークルの展示室に足を運んだのがきっかけだった。
 有名な陶芸家の作品が一つ二つ置かれ、その他は学生が焼いた作品が展示されていたそ
こで、安芸は唯に声をかけられたのだ。
「この作品などいかがですか?」
 いきなり声を掛けられた安芸は驚いたが、にこやかに茶碗を差し出してくる唯に、流れ
でその茶碗を受け取ってしまった。
「これはですね──」
 と色々うんちくを言われた気がするが、安芸はあまり憶えていない。ただ「これはわた
しが焼いたんですよ」という言葉に、随分と感心したことだけは憶えている。
 結局長々と話を聞かされた安芸だったが、後で自分で調べてみたところ、唯が語ってい
たのは初心者レベルのことだったのだと知り、それを偉そうにうんちくされたことにおか
しくもなった。
 そうして大学に入学し、少しだけ興味を持った陶芸サークルに入った。
 その時、唯が言ったのだ。
「ああ、学園祭の人! 他にお客さんなんてこなかったから憶えてる!」
 きっかけは本当に些細なことだったのだろう。だが、そんな些細なことで唯は安芸にと
って話しやすい先輩になり、唯にとっても最初から面識がある新しい後輩という特別な存
在になった。何かとサークル活動での行動も一緒になったのは、そういうわけだ。
 一緒にいる時間の中で、安芸は唯が見た目に反してとても行動的な、むしろ考え無しな
性格をしていることを知り、自分のこともたくさん知られたと思っている。話して、笑っ
て、怒って、そうしているうちに、もっと相手のことが知りたくなる。そんな感覚を自覚
するようになった頃、安芸は唯に言ったのだ。
「先輩、俺と付き合わない?」
 それに対し、唯は目を大きく見開いた。意外、という顔に安芸は後悔しそうになった。
 良い後輩という自分を、壊してしまったと思った。
 唯は言った。
「あ、まだ付き合ってなかったっけ?」
 安芸はコケた。ボケられたのかと思った。だが、違った。
「そうだよね、ちゃんとしないと駄目かもね。じゃあ、さ」
 照れを隠すようにニカッと笑い、唯は自分を指差した。
「今度から、わたしのことを唯って呼んで欲しいな」
 それから、二人は付き合い始めた。
 恋人として。

                 ※

「腕が鳴るなあ。サキちゃんよりわたしの方が料理の腕が上ってことを見せつけないと」
「咲と喧嘩するなら俺のいないところでやってくれ」
「今日の主賓がいなくてどうするの。妹の味より彼女の味よね」
 むんっとガッツポーズを決める唯と並んで歩きながら、安芸は両腕にずしりと重いスー
パーのビニール袋にうんざりとしていた。
「俺の誕生日に二人でごちそう作ってくれるのは嬉しいんだけどさ、出来れば徹底して買
い物も私たちでするからアキは家でゴロゴロしていて、とか言って欲しかったな……。何
が悲しくて自分にプレゼントされる料理の重みを今から感じないといけないんだか」
「サキちゃんは家で用意をしてるし、わたしが運べる量じゃないし、そうなるとアキしか
いないでしょ? その分美味しくしてあげるから」
「へいへい」
 くるくると指先を回す──意味はないのだろう──唯に生返事を返し、安芸は商店街の
店々を眺めた。その中の一箇所に目を奪われる。
「…………」
「どうしたの? 松屋? 吉野屋?」
「誰も牛丼なんて言ってないっ」
 きっぱりと切り捨て、はあっと安芸はため息をついてからぶつぶつと計算を始めた。
「……バイトの給料が十万ちょいで、今月は何もゲーム出ないし、咲の誕生日も三ヶ月後。
そっちを多少簡単にするとして……って、ああ、今月隔月本でるか。立ち読みで済ませば
……いや結局買うか。食事に一万ちょいで途中に色々で三万くらい、それからだから──」
「? あ、綺麗」
「目に毒だろ。行くぞ」
「ちょっとくらいいいのに」
 ジュエリーショップの前で足を止めそうになった唯を促した安芸は、チラリとその店を
振り返ってもう一度眉根を寄せた。
「安いものは安いけど、それなりになると高いよなあ……」
「松屋? 吉野屋?」
「俺が悩むとそれしか無いのかよ……」
「だって、いつもお昼それで悩んでいるじゃない」
 あっけらかんと本当のことを言う唯である。だが、安芸はその唯の鈍さというかそうい
う部分に少しだけ感謝して──時折腹立たしいのだが──歩くのを再開した。
 そう、唯はにぶい。別に頭が弱いというわけではないのだが、人の言いたいこと、その
場の空気というものがまったく読めないのではないかと安芸は思っている。
「天然か? こういうのを天然って言うのか?」
「天然? あ、天然の反対ってなーんだ」
「なんだいきなり……人造だろ。唯より受験から時間が経ってない人間を舐めるなよ」
「ぶぶーっ。答えは養殖だよ」
「……俺は今手が塞がっているのを泣きたいくらいに口惜しく思っている……」
 なんだそれはっ、とぶっ倒れそうになりながら絞り出すように言う安芸である。
 あははっと自分ばかり身軽な唯は、安芸の横でぐいっと身体を折り曲げ、下から覗き込
むようにして見上げてくる。
「ねえ、アキ」
「うん?」
「お誕生日、おめでとう」
 ふんわりと視界に広がるような微笑み。
 あう、と安芸は反応に詰まった。
 元気で鈍くて時折謎な行動をとる唯の、唐突な行動の一つ一つが結局は困ってしまうく
らいに自分には可愛いのだと、安芸は再確認するしかなかった。

                 ※

「ごちそうさまでした! いやあ、食べたなあ、全員」
 ふうう、と満足の息をつきながら言ったのは安芸で、正座して食後のお茶を飲んでいる
のが唯、そしてすでに空になった皿を持ってすぐそこある台所と行ったり来たりしている
のが咲である。
 何てことはない普通のアパートの一室であるが、安芸が大学に通うために、そして咲が
高校に通うために両親が出費して借りている場所だ。兄妹二人暮らしだが、咲が早めに家
事を覚えたので、安芸はあまり不自由はしていない。洗濯当番──全自動だ──やアイロ
ンかけ当番──二人分などすぐだ──がたまに──たまに、だ──回ってくる程度である。
「しかし、あれだけあったのによく綺麗に無くなったよな」
「一番食べていたの、お兄ちゃんじゃない」
「そりゃそうだ。男の俺はともかくお前らが、だよ」
「今日はいっぱい働いたからね。ね、サキちゃん」
「うん。唯さんに負けてなかったでしょ、お兄ちゃん」
「まだまだだもんね。ね、アキ」
「俺にどう答えろと……」
「カノジョを気遣うのもいいけど、本当のことを言うことも大切だと思うの」
「兄妹の絆って、ちょっとのことじゃ壊れないよね。だから、本当のこと言ってあげて」
「松屋の方が美味え」
 空の二リットルペットボトルが安芸の頭を薙ぎ払った。
「おにぃぃちゃぁぁん……」
「冗談だ冗談っ。美味かったよ、二人とも。お前らだってお互いの美味い美味いって言っ
てただろ。そもそも品目違うのにどっちが美味いも無いだろ」
「ううーん、それでいいかな」
 首を横に傾げて、咲は納得する。
「ごちそうさま、二人とも」
「どういたしまして」
「お粗末様でした」
 唯、咲の順番に返事が返る。唯も後片づけのために立ち上がり、エプロンを身につける。
二人が働く様を眺め、安芸は満腹も手伝って微笑みを浮かべた。
「サキちゃん、わたしが洗うから、どんどん持ってきて」
「はい……お兄ちゃん?」
「いや、お前ら、そうしていると本当に姉妹みたいだよ」
「あはは、お揃いだもんね」
「どうしてお揃いなのか私は聞きたいんだけど……これ、お兄ちゃんにプレゼントしても
らったものなのに」
「二人に、同じ店で同じ会計で買ったからそりゃ同じものに決まってる」
「ペアルックなら、お兄ちゃんと唯さんでしていればいいのに」
「……俺と唯がエプロンでペアルックしている姿を見たいか?」
 三人が沈黙した。
 一瞬の間。
 ぷっと唯が吹き出した。
「あはははは、似合うよアキ! 今度一緒にしようね!」
「に、似合う……かなあ? 貸す、お兄ちゃん?」
「もう一生してたまるか……」
 低く唸るように安芸が言い、しかし堪えきれずに笑い出す。三人の笑いが唱和し、三人
しかいない部屋に電気以外の明るさが咲いた。
 二十歳の誕生日の夜を、安芸は楽しく過ごしたのだ。

                 ※

「じゃあ、そろそろお父さんが心配するから帰るね」
 と、唯が時計を見て言ったのが夜の十時頃だった。安芸も唯の父親と面識がある──陶
芸を趣味にしているナイスミドルだ──ので、唯の父親も安芸と一緒なら多少は融通をき
かせてくれるのだが、やはり父一人娘一人の家族だとある一定の約束事は守らなければな
らない。少し違うが、安芸も咲という妹と二人の生活をしているため、その辺りのことは
承知している。
「送ろうか?」
「すぐそこまででいいよ。せっかくの誕生日に、わたしなんかが御邪魔しちゃったんだか
ら」
「え、唯さん帰るの?」
 ちょうど茶を入れ替えてきた咲が言う。唯は頷くと、少しいたずらっぽい顔になって、
人差し指を立てた。
「サキちゃん、だいぶ髪伸びてきたね」
「うっ」
 ボッと咲の顔が赤くなった。
「そ、そう? あ、お兄ちゃん、唯さんを送ってあげて!」
「あ、ああ。押すなって」
 ぐいぐいと咲に押され、唯と一緒に玄関から出た安芸は、バタンと閉まった扉に顔をし
かめて首を傾げる。
「何だアレは」
「サキちゃんって、癖っ毛でしょ? だから、ずっとショートだったんだよね」
「ああ、そうだな」
「でも、最近伸ばし始めたの。わたしくらいにしたいんだろうね」
「そう言えば、ここ数ヶ月髪を切りに行ったようには見えないな……伸ばしてたのか。ま
あ、いいんじゃないか。癖っ毛のくせに苦労するのはあいつだ。自分の髪くらい好きにさ
せてやらないとな」
「そうだね」
 ふふ、と夜風に揺れる髪を押さえながら微笑む唯がどこか普段よりも優しげで、安芸は
その理由がわからなかった。こういうふうに微笑んでいる分には、とても外見相応に綺麗
だとは思う、がすぐにその微笑みは猫口の笑みに変わった。
「あ、そうそう。アキに誕生日プレゼントを上げる」
「え? 食い物以外にもあったのか?」
「わたしを何だと思ってたの」
 たしなめるように──むしろ誇るように自信ありげに──言いながら、唯は鞄の中から
小さな掌に乗る程度の箱を取り出した。赤と白のチェック模様の包み紙で綺麗に包装して
ある、いわゆるプレゼント仕様だ。
「何だ?」
「それは開けてのお楽しみ。じゃあ、上げる」
「ありがとな」
 くいっと箱を乗せた手を頭上に上げる唯。
「はい、上げた」
 安芸は死にたくなった。
 そこにひょいっと背伸びして唯が唇を重ねた。
「□○×△!?」
 完全な不意打ちに安芸は目を白黒させた。唐突な優しい口接けは一拍余りの時間。だが、
充分過ぎる余韻を持って、それはゆっくりと離れた。
 そして。
「はい、上げる」
 ポンッと安芸の掌に、小さな箱が置かれた。心持ち頬を赤くした唯は、一歩後ずさって
言う。
「お誕生日、おめでとう。こんな時だし時効だと思うから、言うね。わたし、アキに付き
合おうかって言われた時、本当に頭の中真っ白になったよ」
 いきなりのそれ。
 いきなりの告白。
「慌てて誤魔化した反応したけど、あれじゃ、なんか違うよね。だから、今度はわたしか
ら言うよ」
 笑顔は、きっと照れ隠しで。
「これからも、わたしと付き合っていってね」
「あ、ああ……」
 トンッと小さくステップする唯に、安芸は思わず手を伸ばそうとした。今、とても重要
なことを言われた気がしたのだ。
 これからのままで、しかし少し違う二人の関係が生まれたのだと、そう思った。
「唯──」
「また明日ね」
 赤い顔のまま、ニカッと笑って唯は安芸に何も言わせないで走り去った。追うことも出
来ず見送るしかなかった安芸は、呆然として自分の唇に触れた。
 今さらながら、ちょっとだけ照れた。
「また明日、か」
 明日会ったら、普通の挨拶をするだろう。
 それだけはわかって、安芸は妹の待つ自分の家へと戻っていった。

                 ※

 電話が鳴った。
 安芸にもらったプレゼント──小さな魔法少女のようなマスコット人形のついたキーホ
ルダーを眺めていた安芸は、受話器を取るために立ち上がった。その拍子に、お茶を片づ
けていた咲がそれを見て言う。
「確かラベンダー人形だよね? 色々なところで売ってるけど、こんなに小さいの初めて」
「そんな名前だったのか。道理でラベンダー色だと。──はい、緒方です」
「可愛いよね。お兄ちゃん、携帯のストラップに付けておいたら? ラベンダーの香りが
して、素敵だと思うけど。……それでね、私もお兄ちゃんにプレゼントがあるんだけど。
──お兄ちゃん?」
 電話に構わずしゃべっていた咲は、気付いて口を押さえると同時に安芸の様子にも気が
付いた。
 安芸はただ黙して、受話器からの声を聞いている。
 そして──。
「はい、わかりました、すぐに向かいます」
 言うが早いか、受話器を叩きつけるように置いて顔を上げた。
 直後、その膝が折れた。
「つっ」
「お兄ちゃん!?」
 突然転んだ安芸に、咲が驚く。だが何よりも驚いたのは、そのまま安芸が顔を押さえ、
立ち上がれなかったことだった。
 声もない。
 咲も、何も言えない。
 と。
「唯が死んだそうだ」
「は?」
 間の抜けた声が、痛いくらいだった。
 今度は吐き捨てるように安芸は言った。
「唯が死んだそうだっ」
「な、何それ……」
 咲は笑おうとした。しかし、笑えなかった。
 がばっと顔を上げた安芸が玄関に向かい、咲はそれに近寄ることが出来なかった。
「……明日には戻る。病院についたら一度電話する」
 背を向けた安芸の表情を見たくないと咲は思った。
 見たら、駄目だ。
 絶対に駄目だ。

                 ※

 人と人が出逢うのは唐突で、そして別れも唐突だ。
 交通事故。
 飲酒運転。
 そんな簡単なありふれたものが、人から人を奪っていく。
 アパートの自室で、安芸は天井を見上げていた。安芸の葬式が終わってから、もう一週
間が経とうとしていた。早いと考えるか遅いと考えるかは人それぞれだろうが、安芸にと
っては早送りのような日々であった。
 思い出せるものは、何だろう。
 病院の、やけに白いベッドに寝かされた唯。幸いにも、とでも言うのか一切外傷の無か
った顔は恐いくらいに静かで、綺麗だった。確か眠っている時の唯がそんな感じだったと
思った安芸は、その頬にそっと触れた。
 温もりがあるはずだと思った。いつも触れると気持ちのいい頬だった。
 だが、冷たかった。
 その冷たさは、安芸の心を凍らせた。安芸にとってその冷たさが死の実感だった。
「また明日ね」
 くさびが、胸に、打たれた。
 以来、安芸は待っている。
 ──明日という日が来るのを。
「お兄ちゃん。私学校行くけど……どうする?」
「うん?」
「……良かったら、私も一緒にいるけど」
「馬鹿。高校生が学校サボるな。……大丈夫、腹が減ったらちゃんと食べるよ」
「うん……絶対だよ?」
「ああ」
 気まずい会話だと安芸は思った。何度も振り返りながら玄関から出ていく咲さえも、以
前より遠くなってしまったような気がする。
「どこかよそよそしい……よな。気を遣わなくていいのに」
 それは安芸が気を遣わせてしまうような状況だからなのだが、そんなことも安芸は考え
もつかない。
「俺は、大丈夫……思ったよりは、な」
 言葉にして安芸は再び横になった。その指に、小さなマスコットキーホルダーが触れる。
「…………」
 人形は、今の安芸のように景気の悪い表情を浮かべてぶら下がっていた。
 苦笑する。
「不思議だよな。唯がいなくなって、いきなりで、それで世界まで遠くなっちまったみた
いだ。映画のスクリーンに映ったのを見てるみたい……だな」
 大の字になって、安芸は寝た。
 明日というものは、寝てやってくるものだからだ。


 だが、違うかもしれない。そんな夢を、安芸は見た。
「安芸」
「……唯か」
 唯は、安芸が見たこともない辛そうな顔をしていた。夢の中だとはわかっていたが、安
芸は唯に手を伸ばした。唯は一歩下がろうとしたが、安芸はためらわなかった。
「……前は、ここでお前を逃がしたんだよな……」
「…………」
 抱き締められ、唯は何も言わなかった。安芸もそれ以上何も言わなかった。もう止まっ
ているはずの心音が触れた肌を通して感じられ、安芸は抱く腕に力を込めた。
 トン、と安芸の胸を押したのは唯だ。
「ゆ……」
 涙に、安芸は言葉を飲み込んだ。唯は大粒の涙を流し、安芸を真っ直ぐに見ていた。
 そして言う。
「わたしは、死んじゃったね」
 噛み締めるように。
「だけどアキは生きているよね。そういうものだよね」
 確かめるように。
「忘れて、なんて言わない。ううん、忘れたら承知しないから。だから、忘れないで」
 涙から笑顔までの道のりを、ほんの少しずつ作って。
「死んじゃったものは仕方ないの。わたしはアキの方が心配。アキは大丈夫? 大丈夫っ
て言える?」
「俺は──」
「世界は遠くなってなんかいないよ。アキが背中を向けてるだけ。そうでしょ?」
「──そう、か」
「うん。それに、わたしもアキのそばにいるよ」
「は?」
「死んでるの反対ってなーんだ?」
「い、生きてる……のか!?」
「ぶぶーっ。答えは──」
 ふんわりと視界いっぱいに広がるような、最高の笑顔が最後に見えた。
「死んでも死に切れてない!」


「起きてよ。朝だよ」
「ん……」
 覚醒した安芸は、直後それがわかってがばっと起き上がった。
「唯!?」
 確かに自分を起こした声は唯のものだったと確信した安芸は、しかし周りを見渡しても
誰もいないことに、苦笑のため息をついた。よくよく見れば時計の針は午前十一時を刺し
ている。朝と言うより昼だ。
「あーあ……眠ってたか──?」
 と、小さな感触に足元を見るとマスコットキーホルダーが転がっていた。位置からする
と、もしかしたら寝ている間腹の上にでも乗っていたのかもしれない。
「悪いな」
 人形をテーブルの上に乗せてやると、微妙にその表情が変わっているように感じられた。
「こんな顔だったっけ?」
 人形は、確かに明るい顔で微笑んでいたのだ。その笑顔を見ていると、安芸も笑いたい
気分になってきた。
 そうして、小さな笑みだが久しぶりの笑みを安芸は浮かべた。少しだけ心が軽くなった
ようだ。
 同時に腹が減っているのも自覚し、安芸は財布を手にとって玄関に向かった。そう、世
界は遠くなっていない。行こうとすればすぐに行ける場所に全てあるのだ。
「松屋か、吉野屋か、どっちにするかな」
 呟き、玄関を出る安芸の心はまだ晴れたとは言えない。だが、明日が少しは近づいたの
は確かなようだった。
 なので。
「行ってらっしゃい」
 と、ラベンダー人形は小さく言うのだった。


                                 終

戻る