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           王立メファーナ幼稚園!


 不幸とはある日突然やってくるものだと、旋音律子(せのん・りつこ)はその日実感し
た。
 律子にとっての不幸は、兄の形をしていた。
「すまん、借金作ったわ」
 それだけを言って大爆笑する兄の歩武(あゆむ)のエルフ独特の長い耳を思い切り引っ
張ってやろうと思いながら、そのタイミングを逃して律子は目の前に差し出された借用書
を呆然と眺めた。
「よんせんごひゃくまん、とんで、にじゅういちエン?」
「どうだ、兄ちゃんの盛大な借りっぷりは!」
「じ、自慢しないでくださいっ。だ、誰から借りたんですか!?」
「ロムセン」
「あの国王から借金したんですか!」
 律子はクラリとして額に手を当てた。
 ロムセン・ハイ・メファーナは、歩武の無二の親友にしてこのメファーナ王国の国王で
ある。たまにお忍びで遊びに来た彼と顔を会わせたことがある律子は、その性格が破綻し
ていることも理解している。
 嫌な予感がした律子は、慌てて立ち上がって兄に言った。
「逃げましょう」
「大丈夫大丈夫。兵隊が来たりしないって。借金をチャラにする条件があるんだから」
「はい?」
 チャラ? と不思議そうな顔をする律子に、歩武は頷いて言った。
「メファーナ幼稚園あるだろ?」
「王立のですか?」
「そう、それ。そこの園児の相手する人員が足りないそうでさ」
「わたし、しばらく友達の家にやっかいになります」
「待て」
 逃げようとした律子の腕を、歩武はむんずと掴んだ。
「そこにバイトとしてお前が行くなら、借金はチャラだ」
「どうしてわたしなんですか!」
「……この世でたった二人の兄妹だろ?」
「う……」
 不意に寂しそうな顔をした歩武に、律子は息を飲んだ。
 幼い頃に両親を亡くし、兄妹二人だけで必死になって生きてきたのだ。親戚など、頼り
にしなかった。一杯のかけそばを二人で分けたことも十回以上ある。かけがえの無い、己
の半身と言ってよい兄だった。
 その兄が、すがりついてくる。
 口にするのは、いつも妹思いな言葉である。
 例えば、
「俺の借金のカタになってくれ」
「やっぱり他を当たってください」
「俺の稼ぎで一杯のかけそばを分け合った仲だろう!?」
「それはそれ、これはこれです」
 無情にも兄に言い渡し、律子は腕を振りほどこうとした。
 しかし、そこで躊躇してしまう。自分の腕を掴む歩武の手に、ほとんど力が込められて
いなかったからだ。
「……もう! それで、わたしはどうすればいいんですか!」
 結局、いつも通り律子は折れて振り返った。歩武はさもありなん、と頷いて、にこやか
に微笑んだ。
「何にしろ、人手が足りないんだよ。だから、子供の相手が出来る人が欲しいらしい。お
前、子供嫌いか?」
「……嫌いじゃないですけど……」
「なら、決まりだな」
「一つ訊いていいですか?」
「何だ?」
「お金……何のために借りたんですか?」
 その質問に、歩武は鼻で笑って髪を掻き上げた。
「ふっ。いずれわかる」
 深く、深く律子はため息をつくしかなかった。

                 ※

 そういうわけで、律子は王立メファーナ幼稚園で働くことになった。
 前日に渡された制服に着替えた律子は、鏡の中の自分を見て少しはにかんでみた。
 用意されたのは、黒い上下と白いエプロンという、地味なものだったが、どことなくデ
ザインがお城のメイドに似ているような気がした。エプロンの裾の刺繍などはさすがに王
立だけあって見事なもので、これだけで相当な値段になるのだろうと律子は思う。カチュ
ーシャも、付けたのは初めてだ。
 鏡の中の律子は身長百五十五センチ。肩にかかる程度の黒髪と、そこからピョンとはみ
出たエルフの長い耳。可愛い可愛いと近所の人が褒めてくれる顔立ちは、少し目の端が垂
れているかもしれない。その目に収まった瞳の色は、黒に見えるほど深い青である。
「うん、大丈夫」
 鏡に映った自分に微笑みかけ、律子は頷いた。
「旋音さん、園児の紹介をします。こちらへ」
「はい」
 園長に呼ばれ、律子はパタパタと園長室を出た。外で待っていた園長のエリザベス・マ
クリアーナは、少し太り気味な五十歳過ぎの女性だ。自分を出迎えた穏和な微笑みを頼も
しく感じて、律子は尊敬のまなざしでエリザベスを見た。
「園長先生って、公爵夫人ですよね」
「はい、それが?」
「公爵夫人なのにお仕事をなさってるなんて、凄いと思います」
「あら、そうかしら? でも結婚する前から私はここで働いていたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。それに、私がやめたらこの幼稚園は潰れてしまいますから」
 律子も人手が足りないと言われてやってきて初めて知ったのだが、王立メファーナ幼稚
園に職員はエリザベスしかいないのだ。子供のほとんどを私営の幼稚園に取られてしまい、
予算を回されなくなってしまったという。
「大変ですねえ……」
「でも今日からは安心ね。旋音さんがボランティアでお仕事してくれるって聞いた時は、
本当に感謝したわ」
「はあ、ボランティアですか……」
 ちょっと後ろめたくて、律子は頬を染めてうつむいた。仕方なしにやってきたというの
に好意的に感謝されては、自分が恥ずかしくなる。
(でも、今はお兄ちゃんに感謝かな)
 こっそりとエリザベスの横顔を見て、律子はきゅっと胸の前で手を組み合わせた。
(こんな素敵な人に出逢えたんだもの!)
 実は結構律子は単純である。
 感動屋さんなのだ。
「わたし、がんばります!」
「そう? でも、気楽にね。子供は気負いなどを鋭く見抜きますから、からかわれてしま
いますよ」
 律子が連れて来られたのは『菊組』と書かれた扉の前だった。施設の中心に小さな運動
場があり、その周囲を覆うようにして部屋がある王立メファーナ幼稚園の他の組は無い。
園児の数が少ないためだ。
 そういった説明を事前に受けていた律子は、襟を正して澄まし顔を作った。中にいるの
は、全園児なのだ。
 エリザベスに頷くと、園長は扉を開けてほがらかな声で言った。
「はい、皆さん、おはようございます」
「おはようございます!」
 一斉に返った挨拶に、律子はうんうんと頷いた。エリザベスの人気に納得である。
 菊組にいる園児は全部で六人。ざっと見て顔見知りを見つけた律子は目を見張った。園
児の方も、驚いたようだ。
「律子ねーちゃん?」
「あら、央希(おうき)くんは旋音先生とお知り合い?」
「旋音せんせー?」
 央希が不思議そうな顔をする。律子も先生という言葉にくすぐったい気分になって身を
よじった。
「はい。今日から私と一緒に皆さんの先生をする、旋音律子さんです。旋音さん」
「は、はい、旋音です。皆さん、よろしくね」
 精一杯の微笑みを浮かべた律子だが、成功したかどうかは定かではない。むしろ、引き
つり気味の感があった。
 なぜなら、律子の視界の端では、おかっぱ頭の黒髪の少女が小さな木刀をぶんぶんと振
り回しているのだ。
「え、園長先生、あの子木刀……」
「あら、夕梨ちゃん。今日も元気ね」
「…………」
 エリザベスが声をかけると、少女はさらに木刀をぶんぶんと振る。
 と、ストレートの黒髪を腰の辺りで束ねた少女が律子のスカートを引いた。
「はい、何かな?」
「夕梨がね、よろしくお願いしますって言ってます」
 ぶんぶんぶんぶん。
「でも、先生が二人になるの? って言ってます」
「皆さんのお勉強は旋音先生にお願いします。もちろん、お昼は私もご一緒しますよ」
 ぶんぶんぶんぶん。
「わかりましたって、言ってます」
「夕梨ちゃんは照れ屋さんなのよ」
「はあ……」
 何か違う、と律子は思ったが、会話が終了すると同時に夕梨が木刀を振るのをやめたの
で、あれが少女なりの話し方なのだと理解した。
「よろしくね、夕梨ちゃん? それから、皆さんも」
 にっこりと律子は微笑んだ。先程よりも、ずっと自然に。その律子の背に手を添え、エ
リザベスが室内に誘導する。
「では、皆さん一人ずつ紹介しましょうね。あの木刀を持った子が、新月夕梨(しんづき
・ゆうり)さん」
 ぶんぶんぶんぶん。
「よろしくお願いします、って言ってます」
「通訳をしてくれているのが、チャン・チャチャンさん」
「よろしくです、律子先生」
「よろしくね、チャンちゃん」
 思わず首を傾げる律子だ。妙に言いにくい。それがわかるのか、チャンは声を出して笑
って言った。
「律子先生、チャンでいいです。チャンちゃんなんて、変でしょ?」
「う、うん。じゃあ、よろしくね、チャン」
「はいっ」
 元気の良い笑顔と返事に、律子も頬が弛む。チャンの髪から覗くのは、長いエルフの耳
だ。同族ということがさらに親近感を生む。
「次に、壽屋央希(ことぶきや・おうき)くん。お二人はお知り合い?」
「律子ねーちゃんは俺んちのお隣です!」
「あら、奇遇ね」
「はい。よろしくね、央希くん」
「おう」
 生意気そうな顔だが、予想しなかった知り合いは心強い。
「そちらで浮いているのが、魔道ポワさん」
「ほえ?」
 呼ばれてようやく辺りの状況に気がついた、という感じでその少女は律子に目を向けた。
うっ、と律子は頬を赤らめる。
「可愛い……」
 有翼種ユナンの血を引いていると一目でわかる翼を背中に生やし、ポワはふわふわと宙
を漂っていた。一房だけピンとはねた金色の髪、緑色の瞳、そしてぷにぷにとした指でつ
つきたくなる頬。天使然とした愛らしさだった。
「せんせー?」
「はい、よろしくね、ポワちゃん」
「はい」
 ほわぁ、と幸せオーラが感じられるような微笑みに、律子は感動した。来て良かった、
と無条件に思わせるものがその微笑みにはあった。
「その隣にいるのが、新井大(にい・まさる)くん」
「よろしく」
「あ、はい、よろしくね、まさるくん」
 角眼鏡を指で押し上げながら言った少年に、律子は慌てて挨拶した。賢そうな子だな、
というのが第一印象だ。子供らしからぬ、というのだろうか。まさるもエルフのようだが、
耳はそれほど目立たない。ハーフなのだろう。
「最後が、アル・ロ・バイエスくん」
「よろしくね、アルくん……バイエス?」
 聞き捨てならないことを聞いた気がして、律子はエリザベスを見た。エリザベスは、そ
うです、と肯定の頷きを見せて説明した。
「アルくんは隣国バイエスの第一王位継承者……平たく言えば王子さまです。親交の
証としてこちらの幼稚園に通うことになったんですよ」
「お、王子さまって、いいんですか?」
「何がですか?」
「悪い人が来たりしたら……」
「悪い人、ですか」
 クスリとエリザベスが笑った。
「今はどこの国も平和なものですよ。それに、もし政治に関係するようなことでアルくん
を傷つけようとする人がいたら、私が許しません」
 一瞬キラリとエリザベスの瞳が鋭い光を放ったようで、律子はコクコクと頷くことしか
出来なかった。
 しかし、すぐにエリザベスはほんわかした顔に戻って言う。
「もちろん、王子さまだからと言ってひいきする必要はありませんよ。もっとも、大怪我
などをさせたら国際問題になりますから、注意してくださいね」
「国際問題……」
 なんだかいきなりおおごとになった気がする律子である。だが、相手は子供なのだし、
と気を取り直して挨拶を試みる。
「よろしくね、アルくん」
「このような女に余の世話が出来るのか?」
「…………」
「まあ、アルくん。旋音先生に失礼ですよ」
「ふん、まあいいだろう。よろしく頼むぞ、旋音」
「よ、よろしく……」
「はい、皆さん元気に旋音先生に挨拶出来ましたね、偉いですよ」
(元気に?)
 一部絶対に違う、と律子は思ったが、エリザベスに文句を言えるはずがない。
 ポン、と手を叩くと、エリザベスは名簿を律子に渡して言った。
「では、園長先生は行きますから、皆さんで旋音先生に色々と教えてあげてくださいね」
「はーい」
「旋音先生、施設内のことなどは、チャンちゃんやまさるくんに訊けば大抵のことはわか
りますから、相手が子供だからって恥ずかしがらないで質問してくださいね。ちゃんと応
えられるかどうかも、立派なお勉強になりますから」
「は、はい!」
 さすがだなあ、と律子は部屋を出ていくエリザベスを見送った。
 その律子のスカートを、先程のようにチャンが引く。
「律子先生、先生の紹介して」
「え? うん。先生はね──」
「うちの隣の貧乏ねーちゃん」
「あぐ……っ」
 ぐさっ。央希に言われて、律子は胸を押さえた。
「ついでに言うなら、名前は音楽っぽいのに音痴で、さらに運動音痴。貧乏だけに貧乏く
じを引くのが上手いねーちゃん」
「お、央希くん!」
「神社で大凶三枚引いた時は声をかけられなかったね」
「み、見てたのね……」
 秘密まで暴露されて律子はその場に座り込んだ。
「いじけるなよ、みっともない」
「大吉を引く央希くんにわたしの気持ちなんかわからないのよ……」
「すぐ落ち込むし」
「律子先生、凄〜い。大凶引いたことあるの?」
「え、う、うん」
「私まだ引いたこと無いの。すっごく少ないんでしょ? いいなあ〜」
「そうかな」
 チャンに言われ、律子はほんの少し復活した。顔を上げると、チャンがうんうんと頷い
ている。それを見ていると、本当に良いことのような気がしてきて、律子は胸の前で手を
組んで神様に感謝した。
(神様、大凶でもそれを気にしない前向きな考え方があるんですね)
「おまけに、すぐに神様に感謝するんだよ、律子ねーちゃん」
「ふーん」
 ぶんぶんぶんぶん。
「あ、律子先生。夕梨がね、好きな食べ物は? だって」
「白いお米かなあ」
「ねーちゃん……」
 ぶんぶんぶんぶん。
「夕梨もお米大好きだって」
 ぶんぶんぶんぶん。
「お米と緑茶があれば他はいらないって、言ってます」
「先生もお米と牛乳があれば他にいらないかな」
「ねーちゃん……」
 ぶんぶんぶんぶん。
「何歳ですか? って言ってます」
「わたし? わたしは十八歳。みんなは何歳かな?」
「四歳です!」
 元気良く応えたのはチャンである。
 他の反応はと言うと。
 木刀を振っているのが一人。何を今さら、という顔が一人。浮いているのが一人。無関
心が二人である。
 その無関心二人と話をしないといけないと思って、律子はチャンに耳打ちした。
「ねえ、あの二人はどんな子?」
「呼んでみましょうか?」
「お願い」
「まさるちゃん、馬鹿王子、ちょっと来て」
「何か用か?」
「余を馬鹿王子と呼ぶな」
 むっつりとした顔で二人がやってくる。態度に似たようなところがあるが、二人の違い
がはっきりとわかって律子は苦笑した。
 まさるは、とても大人びた少年だ。返事一つでそれがわかる声音だった。
 それに対して、アルは背伸びしているような、そんな子供じみたところが感じられる返
事だった。
(返事一つでも、個性って出るんだ)
 小さな発見を嬉しく思う律子の前に、二人の少年はやって来た。
「園長先生がまさるくんに色々訊きなさいって言ったんだけど、まさるくんは幼稚園に詳
しいのかな?」
「僕に訊くより、チャンに訊いた方が楽しいですよ。僕、愛想を振りまけない子供ですか
ら」
「そう? でもチャンだけだとわからないこともあると思うの。だから、まさるくんも一
緒に教えてね」
「……はい」
 自分はどんな人間だ、と自分で自分の定義を口にする。
 それは周りとのギャップにコミニュケーションが上手くいかない時に人が陥る、定義癖
だ。人に合わせることが出来ず、そのことをストレスとして溜め込まないために、自分は
こうだから、自分は何だから、と責任を自分の中でありながら自分は痛くない場所に転嫁
する。
 何となく、まさるがそんなふうに見えて、律子は自分を省みてみた。
 かつて、自分は貧乏だから、といじけていた時がある。それに近いのだろう。
(普通の子だよね)
 そういうふうに考えれば、賢いが故の態度にも微笑みを持って対応出来る。
 そして、アルだ。
「余に何か用か?」
「ううん。アルくんたちのことを知りたいと思って」
「知りたい?」
「そう。例えば、アルくんはどんな食べ物が好き?」
「さあ。出される物を食べるだけだからな」
「王子はね、園長先生のお弁当だと他の人のまで食べちゃうんだから」
「う、うるさいっ」
「きゃっ、馬鹿王子が怒った〜!」
「こ、この……!」
 べーっと舌を出したチャンを追いかけて、アルが教室中を走り回る。きゃっきゃっと騒
がしい園児たちを座って眺め、律子は楽しいかもしれない、と思った。
(最初はどうしようかと思ったけど……)
 要は、幼稚園に勤めるだけなのだ。
 思い切り楽しもう、と。
 律子は手を組んで神様に感謝した。
「律子先生〜。あんまりにも頭来たんで、馬鹿王子木刀で撲殺しましたあ」
「って、いきなり国際問題!?」
 神様わたし何か悪いことしましたか、と律子はキラキラと涙を散らしながら天を仰ぎ見
た。
「う〜ん、やばいから埋めちゃおうか」
「央希の案を採用。夕梨、そっち持って」
 ぶんぶんぶんぶん。
「埋めちゃ駄目ええええええええええええええええええ!」
 叫んで律子は園児たちの輪の中に入った。そこには目を回したアルがコロンとのびてい
た。
「アルくん? 王子さま? 殿下?」
 ぺちぺちと頬を叩くが、なかなか目を醒まさない。これはまずい、と律子が思った時だ。
「?」
 ふにふにと自分の胸に触る手があって、律子は注意深くアルを見下ろした。
 瞼が微かに震えている。
「……気づいてるのね、アルくん」
「ふっ、苦しゅうない」
「この手は何かな?」
「今まで触ってきた中で一番小さいな」
 無言で律子はアルの頬を左右に引っ張った。
「ひゃにをふるうううううう! うちくびりゃあああああああ!」
「それはわたしの台詞! まだ誰にも触らせたことなかったんだから!」
「はっはっはっはっ! ならば余が旋音の初めての男だということだな!」
「そういう言い方はしないの、四歳なんだから!」
「まあまあ。とりあえず、馬鹿王子が全面的に悪いってことで、夕梨!」
 しゃき。
 寝転がったアルの顔の上で夕梨が木刀を上段に構えた。さすがにそれはまずいだろう、
と律子がアルを抱えて避けると、直後木刀の切っ先が床に打ち付けられてシンと静寂が広
まった。
「……本気だったな」
 まさるが冷静に分析すると、律子とアルは汗を流してその場にへたりこんだ。
「死ぬかと思ったぞ……」
「こ、国際問題……国際問題……」
「あ、逃げたな、女の敵!」
 ぶんぶんぶんぶん。
「ねーちゃん、とりあえずアルを捨てて逃げろ!」
「僕もそれが賢明だと思います」
「そ、そんなこと言われてもっ」
 腕を回してきているのは四歳の子供なのである。律子に見捨てられるわけがない。
「チャン、夕梨ちゃん、ありがとう。もういいから」
「あ、そうですか?」
 ぶんぶんぶんぶん。
「律子先生がいいならいいです、って言ってます」
「先生のために怒ってくれたのね、ありがとう」
「ふん、騒がしい連中だ」
「アルくん!」
「う……余が悪かった」
 強く言われると、アルは渋々と頷いてそれだけ言った。
 ふう、と律子は一息ついた。
「これで全員紹介は終わったかな」
「ねーちゃん、まだポワがいるぜ?」
「ポワちゃん?」
 そう言えば、と見ると、つい今のごたごたも気にせずに、羽根の生えた少女はマイペー
スに宙を漂っていた。
「おーい、ポワ。律子ねーちゃんに挨拶しろ」
「ほえ?」
 首を傾げ、ぼんやりとした返事を返すポワに、まさるが歩み寄って襟首を掴む。そのま
ま強引に宙を引っ張ってポワは律子の前に差し出された。
「あ、ありがとう」
「いえ、ポワが自分で動くまで待つと時間がかかりすぎですから」
「ふに〜?」
 目の前に来て、なおもポワはぼけっとした顔で律子を見る。浮いているので目線の高さ
は一緒だ。
 どんな言葉よりも、その綺麗な緑色の瞳がポワの性格を語っているような気がして、律
子は微笑んだ。
「ポワちゃんは、どんな食べ物が好き?」
「にんじんすき〜」
 くるくると律子に目を合わせながら回転する。どういう理屈で浮いているのかはわから
ないが、浮いているのがポワならば可愛いのひとことで済む。
「先生はね、お米が好きなの」
「おこめすき〜」
「可愛い……」
「俺に向ける目と違うぞ、ねーちゃん……」
「だって、こんなに可愛いんだもの」
 ふに、とポワの頬を手で挟んで、律子はほんわか笑顔を浮かべた。
 だが、それに央希の顔が引きつる。
「ねーちゃん逃げろおおおおおおおお!」
「はい?」
 くるり、とポワの身体を回転させて抱き寄せた律子は、理解できないで首を傾げた。
 直後、
「余に向けるなああああああああああああああああああああああ!」
 ポワの目から発せられた光線が、教室の壁を消滅させて運動場までの広い空洞を作りだ
した。

                 ※

「疲れたあ……」
 たった一日で疲労し尽くした律子は、家の方向が同じ央希と一緒に帰路につきながら、
深いため息を吐いていた。
 反対に央希の足どりは軽く、歩幅の狭い園児だというのに律子よりもずっと前を歩いて
いる。
「ねーちゃん、だらしないぞ」
「だって、みんな元気だから……」
「でも教室たくさんあって良かったよなあ」
「…………」
 ポワの放った光線──本来は『ふぁいやー』というかけ声と共にユナンが発射できる特
殊能力らしい──によって壁の消滅した菊組は、余っていた百合組の教室を使わせてもら
うことになった。
 園児が一組しかいない王立メファーナ幼稚園でなければ、大問題になっていたところだ。
 いや、普通は大問題なのだろうが、エリザベスが特に怒らなかったところを見ると、以
前にも同じ様なことがあったのだろう。
 一癖も二癖もある園児たちを相手に本を読んだり、昼食を食べたり、ドッヂボールをし
たり、律子は大変な一日だった。
「とにかく、明日からよろしく頼むぜ、律子ねーちゃん」
「先生、でしょ?」
「はいよ、律子先生」
 そう言って、央希は大声で笑い出した。はは、と律子も力無く笑い、夕焼けの空を見上
げて胸の前で手を組んだ。
(神様、明日からの生活が、平穏なものでありますように……)
「無理だって」
「…………」
 園児に簡単に思考を読まれる自分は、もしかして同レベルなのだろうか、と律子がさら
に落ち込んだのは、央希の無邪気な突っ込みのせいであろうか。
 ともあれ、こうやってエルフ・旋音律子の王立メファーナ幼稚園勤務は始まった。
 このことが後に歴史書に載るほどに重大な出来事になろうとは、まだ律子は欠片も想像
してはいないのだけれど。


 ──追記。
 アル王子はポワの光線を紙一重で避けたそうである。

                                終

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