マケット娼戯館            「窓辺のコーディーリア」  あたしは、窓の外を見る。  煉瓦敷きの通りには雑多に店が並び、マケット娼戯館もそんな羅列する店の一つでしか ない。  ちょっと洒落た、剣を持った女神の絵の看板を掲げた店は、決して街から浮くことはな く、しかし寂れてしまうこともなく……ただ、ある。  開館していない昼の時間にすること言ったら、ただぼうっとこの通りを眺めていること だけ。  リスタやシェリルのように昼間は外に遊びに行ったり、ギィナのように館内の掃除に走 り回る趣味もない。あたしと同じように隣の部屋で外を眺めているだろうナッツだって、 まだ周りにうち解けていないのが理由で、そのうちには自分なりのすることを見つけて行 動するようになるだろう。  あたしだけが、何もすることがなく、外を見ている。  いや、することはあるか。 「さてさて、今日のニュースは、と」  何度も読んだ新聞をまた広げる。これで今日何回目だろうか。朝になって客が帰ると、 あたしはまず一階の食堂に届いている二部の新聞のうち、一部を手に取る。二部とも同じ 新聞なのだが、あたしがいつも部屋に持ち帰るもんで、ギィナが二部宅配してもらうよう にしたのだ。  悪いね、ほんと。  一面の記事を見ると、そこには大きな絵入りで大きな見出し。 『北の勇者フェイヴ、邪竜を討ち滅ぼす』  世間は凄いことも起きている。  あたしはため息をついて、ばさりと新聞を頭に被った。 「勇者……か」  凄いねえ、ほんと。                ※  あたしは鏡を覗き込んだ。夕方が近づくと、一度湯に浸かってから化粧をし、今夜の仕 事に挑むわけだが、少々お腹が苦しい。朝までものが食べられないので、入浴の前には食 事をとるのだけど、こんな不規則な生活だと太りそうだ。 「腹が出たら売れなくなるかも」 「運動してるんだから大丈夫じゃないですか?」  あっけらかんとタオルで頭を拭きながら言うのは、シェリル。タオルが下りると、波打 ったボリュームのある金髪が、豊かな──あたしの方がでかい。たぶん──胸にかかる。  美女だ。違うか、まだ十七って話だから、美少女だ。ただ未成熟という感じはまったく 無く、身体の線も雰囲気も、すっかりと大人の女のものだ。あたしにはちょっっっと及ば ないけど顔がよく、あたしにはちょっと及ばないが胸が大きく、あたしよりちょっっっっ っっっっっっっとだけ腰が細く、あたしにはちょっと及ばないがよい尻をしている。で、 悔しいがあたしより四つ若い。  これだけ揃っていれば他の女から嫉妬もされそうだけど、シェリルの性格はその嫉妬心 を抱かせないほどに良い子だ。うん、良い子だ。  今もショーツを履きつつあたしに向かって言ってくれる。 「それにコーさん、太らない体質ですよね。身体なんて凄い綺麗ですし……北方の雪の肌 ってコーさんみたいな人のことを言うんですよ、きっと」  にこにこと、裏の無い言葉。裏を考えればありそうな言葉にだって、この子には裏がな い。世渡り下手そう……とも思うけど、たぶんうちの娼戯館で一番世渡りが上手いのはこ の子だろう。世間がこの子を助けてしまうんだ、たぶん。  そう言うシェリルの肌は、あたしの白いものよりは、少し濃い色をしている。別にあた しが日に当たらない生活をしているのではなく、生まれつきの色だ。シェリルは北方とい うよりも西方に近い地方で生まれたという。それだけの差だ。  それだけの差なのに、とても素晴らしいことのようにシェリルは言ってくれる。 「そう? でもシェリルの肌も素敵よ」 「ひゃあっ!?」  思わず、抱き締めて胸の谷間に顔を埋める。まだ湿った温かい肌に顔を寄せると、シェ リル独特の甘い香りがした。あたしがつけるような香水をシェリルはつけないので、この 子自身の香りだ。  と、 「?」  ガラガラと風呂場の扉を横にスライドさせて脱衣場に入ってきたナッツが、訝しげな顔 をした。  そして、 「泣いてる……の?」  見当はずれのことを言う。あたしは笑ってシェリルの胸から顔を上げ、小さな同僚に笑 顔を見せた。 「違うわ。シェリルの肌が素敵よって言っていたの。ナッツも触ってみる?」 「触ってみるって、わたしの肌なんですけど」  カクンと頭を落としてシェリルが苦笑し、だけどナッツを見て微笑む。ナッツは戸惑っ た顔で頭の上の耳をピクピクと動かし、尻尾を固くしていた。  獣相を持つオロス人の少女が、ナッツだ。今年で十三になったばかりなので、まだ背も 胸も足りない。だけど、真っ白な髪から突き出たやはり真っ白な耳や、同色の尻尾などは、 とても手触りが良く、あたしは気に入っている。顔立ちも愛らしいし、将来は美人になる んだろう、たぶん。  ただ、欠点と言っては可哀相だけど、この子の首には外れない革の首輪がついている。 鍵穴もなく、切れもしない、魔法の首輪だという。苦しくないか、と尋ねたら、ずいぶん 前につけられたのでもう慣れたって返事が返ってきたことがある。その首輪から垂れ下が った鎖もあるが、そちらは鎖骨少々のところで断ち切られている。 「遠慮しない遠慮しない」  あたしは動かないナッツに歩み寄り、その小さな身体を抱えた。まだ湯を拭いてない身 体に触れて塗れてしまったが、まあいいだろう。一瞬固くなった身体が力を抜いて重みを あたしに任せてくるのが、快い。 「どう思う? あたしの肌」 「……気持ちいい」 「そう。ありがと」  クスクスと笑って、あたしはナッツを解放した。ナッツは不思議そうにあたしとシェリ ルを見て、だけどちょっと距離を置いた場所で身体を拭き始めた。随分とうち解けてきた けど、まだまだ本当に信頼してくれるようになるまでは時間がかかると思う。  あたしが、シェリルに初めて会った時にその純粋さを信じられずに色々意地悪したみた いに……ってそれは例が違う。  一息をつき、あたしは改めて身体をタオルで拭き、鏡を覗き込んだ。あたしの髪は、シ ェリルほどじゃないけど豊かな金。肩にかかるくらいの髪は、どっちかというと蜂蜜色っ て感じかもしれない。顔は美人だ、間違いなく。ただ、少し目つきが恐いと客に言われた ことがある。吊り上がり気味、切れ長の目と言って欲しい。  化粧は、念入りに行わないといけない。自分を過度に飾り立てる必要があるからだ。仕 事の時、あたしは裸になるが、それまではドレスを着ている。大金持ちの家のお嬢様でも そうそう着ないようなドレスを身に纏うのが、あたしたちマケット娼戯館の特徴だ。 『安価ではないが故に特別なマケット娼戯館の女たち』  支配人がそう言っているのだと、あたしはギィナに聞かされた。まあ他に比べて目立っ て流行っているわけでもないのだけれど。  でも、少しだけ助かっている。  着飾っているあたしは、日常を離れたあたしになるのだから。  着飾った瞬間から、あたしの中の「あたし」は守られるのだから。                ※ 「どうして君のような人が娼館で働いているんだ?」  ことの後に今日の客が言ってきた。軍人さんらしく、二度目の客だ。名前はよく憶えて ないけど、確か名前の最後は『ス』だったはずだ。 「言っては何だが、この店なら収入は良いかもしれないが、楽しい仕事では無いだろう」  なら抱きにこなけりゃいいのに、と思うけど、そうなると商売あがったりになるから、 言えない。客商売って言いたいことが言えない時がある。  言いたいことが。 「良ければ私のところに来ないか? 第二夫人ということになるが待遇は決して悪くはし ない」  軍人の『ス』さんがそう言った。呆れた。たまにいるが、こうやって身体の相性云々で 身請けだの申し込んでくる客がいる。自分のところだとここよりマシ、とか本気で思って いるのだろうか。  しかも第二夫人と。お偉いさんなわけだ。 「残念ですけど」  とあたしは断る。嫌いじゃないが、好きでもない。ただの通りすがりの客なので、丁重 にお断りする。 「第二夫人とは言え、娼婦を妻に持っては醜聞となるのでは? お客様にそのようなご迷 惑をおかけするわけにはいきません」  お客様、とそういう単語を使えば大抵の客はその程度のものなのだと諦めてくれる。そ れにあたしの言っていることは間違いではない。  娼婦を妻に持ったら、それなりに醜聞にはなるだろう。                ※ 「お、おはよう」 「おはよう〜」  客を見送りして、シーツを身体に巻いたままの身体で廊下を歩いていると、ナッツに会 った。  と、気付く。 「ナッツから挨拶してくれたの、初めてよね」  言うと、ナッツは赤くなってうつむいてしまう。とりあえずその柔らかい髪を撫でて、 あたしはナッツの頬にキスをした。  キスをして、眉根を寄せた。 「ちょっと匂うから、顔洗ってきなさい。あ、香料洗剤も上げるから」 「う、うん」  てきぱきと──朝のあたしにしては珍しい。相手がナッツだからだろう、たぶん──洗 剤を渡して、風呂場に向かわせる。少し嫌な気分になって乱れた髪を掻き上げると、コン コンと扉を叩く音に振り返る。  振り返った先には、自分の部屋の扉を開いたリスタがいた。腰までもある長い黒髪の、 巨乳の女──あたしは自分より胸が大きな相手をこう表現することにしている──だ。瞳 の色が左右で違い、右が赤玉、左が青玉と、宝石のような瞳をしている。歳はあたしより 一つ上なのでおばさんだ。 「よ」 「よ」  二人して、同時に手を挙げて挨拶する。まあ、こんなものだ、この女とは。悔しいこと に、端からみたらあたしと一番仲がよいのはリスタらしい。何故かな。  そのリスタは、嫌味ったらしくタオルを肩からかけて、豊満な胸をつきだして言う。 「あの子も大変よ。聞いてよ、今回の客やたら変態入っててさあ」 「あたし寝る。お休み」 「一緒に湯に浸かって一休みしましょう。今日の朝食、あなたの好きなメロン半分あげる わよ」 「……お風呂くらいなら」  リスタと一緒にいると胸で負けているから嫌なんだけど。それがわかっているからこの 女もあたしと一緒にいたがる。  嫌いじゃないんだけど。                ※  入浴の後に食堂に向かうと、シェリルとナッツはもう食事を終えて部屋に帰っていた。 仕事の後は部屋の後片づけがあるから面倒臭い。 「ナッツは私の部屋だから片づけはいいのに」  とリスタが言う。どうやらナッツはリスタの『おまけ』として働いたらしい。次はあた しにナッツを預けて欲しい。片づけが楽になるからだが。 「ほら」 「ありがと」  席につくと、リスタが新聞を取ってあたしに手渡してくれた。  見ると、一面の見出しは『フレキ大臣急逝』なので、読まずに他の面を見ることにする。 同じ作業を繰り返すと、ようやく読みたい記事に出会った。 「『勇者フェイヴの冒険もこれで通算三十五』……か。これ凄いの?」 「凄いんでしょ。確か、普通の冒険者なら一ヶ月に五件も仕事をこなせば凄いはずよ。そ れを大冒険ばかり三十五……しかもここ数年で、でしょ?」 「凄いのねえ」  あたしは頬杖をついた。  凄いねえ、ほんと。                ※  一つ思いついて耳を甘噛みすると、ビクリとナッツの身体が震えた。そのナッツが重そ うにしているので身体の位置をずらすと、あたしは胸をナッツの顔に押しつけた。あたし の意図がわかったらしく、舌が胸に触れてくる。  下手だ。でも、そのうち覚えるだろう。しばらくそうさせておいて、また身体をずらし て、頬に何度もキスをしてやる。キスをされるのが好きらしく、ナッツは頬を染めてそれ を受ける。 「ほら、可愛くできた。嘘じゃないのよ? ナッツは可愛いわよ」 「……そう?」 「そう」  ギィナに指示された『教育』をしていると、ナッツはやっぱり可愛いと思う。人間と動 物の可愛らしさの両方を持っているとでも表現すればいいのか……とにかく、本能にクる 可愛らしさだ。 「はむ……っ」 「あら、初めてだった?」  唇にキスすると、そこを押さえたナッツがコクコクと頷く。少し驚きがあったのか、耳 が立っている。 「ごめんなさい、好きな子とが良かった?」  しばらく沈黙し、ナッツは答えた。 「ううん。コー好きだから大丈夫」  あたしは微笑んだ。ベッドの上にあぐらをかいて座り、その上にナッツを乗せる。する とナッツが訊いてきた。 「コーは、好きな人とした?」 「う〜ん……」  まあ、いいか、と思った。言っても問題は無いだろうし、ナッツがそれで落ち着いてく れるんだったら、必要なのだろう。  だから、あたしは頷いた。こういう商売をしているんだからナッツの将来のために「そ んな甘いもんじゃないんだよ」くらい言わないといけないんだろうけど、今のナッツのた めに、あたしは頷いた。 「好きな人と、したよ。ずっと前に」 「どんな人?」 「かなりバカ。むしろアホ。手が早くて、行く先々で彼女作りまくり。あたしの唇十一の 時に奪ったクソ野郎」 「……………………………………」  ナッツが困った顔をした。どう言ったらよいか、わからないのだろう。でも、あたしは 本当のことを言った。そういう奴なんだ、あたしが好きになったのは。 「だけど、好きになったの。それでいい?」 「……うん」 「生まれた時から家が隣で、唇奪われたのが十一で、故郷出るっていうんでいきなり家に 押し掛けてきてあたしを抱いたのが十六の時。それから一度も戻ってこないで……またど こかで別の彼女作っているんじゃないかな」 「酷い人?」 「酷くて、だけど……そうだね。酷い奴だけど、いつも馬鹿なくらいあたしのことばかり 見ていてくれた。他の女と付き合っててもお前だけ見ているんだ〜とか男のクズな台詞も 言われたことがあるわよ」 「……よくわからない」 「わからないでもいいわよ。結構特殊なんだから、このケースは」  剥き出しの肩が寒くて、あたしはナッツを抱き寄せて体温を求めた。客が相手じゃ、こ んな静かな抱きかたは出来ない。ナッツや、他のみんなと肌を合わせる時、あたしはとて も安心出来る。  それは、信頼しているからだ。  どのくらいそうしていたか、ナッツが小さな声で言う。 「ねえ」 「ん?」 「もっと教えて」 「エッチな子ね」 「ち、違う。その人のこと」 「もうネタ切れ。よって、お姉さんはナッツを食べます」  頂きます。                ※  客が帰り、朝が来て、湯に浸かり、朝食を食べて、部屋の片づけをする。その後は自由 時間なので、何をしてもいい。街に遊びに行ってもいいし、読書をしていてもいいし、昼 寝してもいいし、ギィナのように館内の掃除をしていてもいい。  あたしは、窓の外を見る。  窓の外を見ながら、新聞を広げる。  今日の新聞は、いらないので捨てよう。                ※ 「ギィナ。新しいシーツが欲しいんだけど」  ノックしながら扉を開くと、ギィナは部屋にいなかった。別の場所を探そうと扉を閉め ようとしたら、後ろから声をかけられて驚く。 「シーツですね?」 「ギィナ! ……驚かせないでよ」 「すみません」  苦笑するのは、ギィナ。マケット娼戯館の支配人から館内の全てを任された責任者だ。 本人も娼婦なのだが、あまり仕事をしている姿は見ない。身体があまり丈夫ではないこと と、目が見えないためにそれが『特殊料金』として追加され、尋常でない値段がついてい るからだ。  普通、目が見えないなどの障害を持った場合、料金としては安くなるのが相場なのだが、 マケット娼戯館は『特別』を売りにしているので、このような結果になっている。  ギィナは銀色の髪を背の半ばまで伸ばした美女──あたしも素直に言える。ギィナはあ たしより美人だ──で、だけど胸は無い。目は見えないけど、瞼を上げるとそこには珍し い赤い目があるのをあたしは知っている。  白子、というらしい。髪も銀というよりは白なのだろう。当然ながら、肌も白い。歳は あたしより四つ上で二十五。残念だがおばさんだ。  箒を持ったギィナが自分の部屋の扉を開けると、振り返りざまに言う。 「シーツですね。後で部屋に届けます」 「ありがと。そうだ、随分とお酒も飲んでいないから、持ってきてちょうだい」 「はい」  年下のあたしに対しても、ギィナは礼儀正しい。目が見えないというのに館内では自由 に歩き回り──だけど街では他の誰かに手を引いてもらっている──、管理作業の一切を 取り仕切っている。いわゆるあたしたちの上司なのだが、どういう身の上なのかは、知ら ない。  知らないけど、あたしたちはギィナを信頼している。  信頼できるのが、ギィナなのだ。                ※ 「帰りましたあ」 「ただいま」  と、二人の声がして扉が開いたと思ったら、あたしの部屋にシェリルとリスタが入って きた。二人とも腕一杯に袋を抱えているので、街での買い出しの帰りなのだろう。  汗をかいているシェリルの袋を見ると、果物が山のように積み込まれていた。それに驚 いていると、リスタがボトルを取り出してグラスをあたしに差し出してくる。 「とりあえず一杯」 「仕事前」 「大丈夫、一杯だけって言っておいて酔いつぶれるだけだから」 「それはいかんでしょうが」 「大丈夫大丈夫。あ、シェリル、ナッツも呼んできてね」 「はい」 「美味しそうな果物ですね」 「……ギィナ、あなたまでね……いいの?」 「お仕事に差し支えない程度でわたしが止めますので」 「なるほど、だから来たわけなのね」  はあ、とあたしはため息をついて、手に持っていた新聞を置いた。たまにはこういうの もいいだろう。遅いナッツの歓迎会みたいなものかもしれない。  それにしても、グラスに酒をついでくるリスタを見ていると思う。 「…………」 「何?」 「あたしってさ、友人に恵まれないなあって」 「お互い様ね」  コツン、とグラスを触れ合わせ、あたしたちは飲み始めた。ナッツを連れたシェリルが 戻ってきて「ああ、もう始めてしまったんですか、酷いです!」とか言ってきたが、笑う。  笑って、二人にもグラスをつきだした。                ※  さすがに酒を飲んだ後の仕事は辛い。あたしの仕事は、ただ寝ていれば良いというもの ではない。もらう金の分だけ相手を満足させなければいけない。そうしなければその客は 二度とこの娼戯館には来ないだろうし、全体としての評判の下落にも繋がる。  他の二人──シェリルとリスタ──はともかく、ナッツは大丈夫だろうか。酒は初めて ではなかったそうだが、客の前で吐かれたら困る。  朝になったことを意識しながらそういったことを考えていると、客が何やらごそごそと 動いているのが見えた。 「何をしているんですか?」 「いや、指輪が──」  そう言えば、最初薬指に指輪をしていた。そんなものつけて来るな、と言いたいことも 言えずにいたが、確かベッドの端に置いたはずだ。そこに無いということは、枕の下にで も入ったのだろう。  見当はずれに床を探している客に肩をすくめ、枕の下に手を入れると、すぐに指輪は見 つかった。盗むことも出来るが、それはあたしの良心が許さない。 「お客様──」 「新聞?」  見つかった、と言おうとしたら、客がベッドの下の新聞を引っぱり出した。そして、後 ろに放り投げる。 「出ていけ阿呆が!」  あたしは客の股間を蹴り上げて、指輪を投げつけてやると部屋から叩き出した。                ※  新聞は、ベッドの下に束にしてしまってあった。窓の外をぼんやりと眺め、今日の新聞 を読みながら、あたしは引っぱり出した三年分の新聞の束の存在を横に感じていた。  もう読まないでも内容は全て暗記している。  今日の見出しを、読む。 「『北の勇者、故郷に向かうか』……ね」  口を尖らせる。  勇者様の故郷は、邪竜に襲われて壊滅している。その内容も、新聞に載っている。農園 の広がっていた村で、牛があくびをしているような田舎で、勇者の物語を聞いて子供たち が胸を躍らせるような場所だ。 「そんな場所に帰って、どうするのよ」  あたしみたいに、帰る故郷もない人間にはわからない。何もない場所に帰って、あたし なら肩をすくめるだけだけど、勇者なら別の感想が生まれるのだろうか。だから勇者なの だろうか。 「立派な立派な勇者様〜っと」  ばさりと頭に新聞を被ると、あたしはため息をついた。朝の客に放った蹴りはいけなか った。これは責任問題である。  だというのに、誰も文句を言ってこないのが、また困った。リスタ当たりに「サービス 業の心得がなっていないわねえ」などと言われた方が楽だ。  と、扉が叩かれて開かれる。 「コー」  入ってきたのはナッツだ。でも、ナッツはすぐにベッドの上に置かれた大量の新聞の束 に目を丸くした。 「全部?」 「そう」 「……触ったら、ぶつ?」 「ぶたないわよ。ナッツは好きだから」  すると、ホッとしたように胸を撫で下ろし、ナッツは一年と少し前あたりの新聞を手に 取った。確か、その頃の一番の記事は『北の勇者、不死王を退治』だったはずだ。 「『……の……、……を……』」 「あ、それたぶん『北の勇者、不死王を退治』。挿し絵があって、教会で洗礼された剣が 載ってるでしょ?」 「うん」  目をパチパチさせて見てくるナッツに、あたしは微笑んだ。手招きすると、ナッツはす ぐに腕の中にやってくる。  心が寂しい。そんな時は、誰かを抱いているに限る。 「……コーは、この人が、好きなの?」 「たぶん」 「どうして?」 「さあ」  笑って、あたしはちょっと遠い目をした。どうして自分が生きているかなあ、などと考 えてみても、答えは見つからない。好きでもない男に抱かれる道を選んだのは、何のため かなあ、などと考えても、答えは見つからない。  まあ、抱かれているのは「あたし」じゃないあたしで、飾り立てられたものだ。『特別』 で固められたそのあたしを、傷つかない「あたし」は見ているだけ。  本当に抱いたり、抱かれたりしているのは、今ナッツを抱いているみたいな、普通のあ たしだけだ。  そんなことを、ナッツには言わなかった。ナッツは、ナッツなりにこの仕事をやってい く上での保身──言葉悪いかな──を見つけだすだろう。  そう考え、あたしは窓の外を再び眺め、窓枠に後頭部を痛打した。  とても痛かった。  かなり酷い音がした。  ナッツが目を丸くした。 「コー!?」 「────!」  ナッツが悲鳴を上げてあたしの腰を抱いた。あたしは身体が落ちそうなほどに窓枠から 身を乗り出していた。  ば──。 「や。コー。コーディーリア」 「馬鹿野郎!」  叫んだ。  路上にはそれなりに人がいたが、目に入ったのはその男だけだった。ニカッと頭に来る 笑いを浮かべて手を振っていたのは、間違いなくあたしの知っている男だった。  何も変わっていない。バカだ。  ──泣けた。 「っわあ……」 「コ、コー?」  あたしが窓枠の内側に、窓枠に額をつけるようにして座り込むと、ナッツが慌てたよう に声をかけてくる。あたしは右手で顔を押さえ、左手でナッツを制して、しばらくそのま まで止まった。  立ち上がる。 「そんなとこで何してんだバカ!」 「勇者故郷に帰るとか新聞に載ってなかった?」 「そんなもん見るか! あたしは新聞見ない女よ。それに何よ、勇者様がこんなとこで何 ほっつき歩いてるの」 「いや、故郷に帰るんだし……ここ通り道だし」 「その故郷は竜に襲われてもう無いわよ」 「だから、その竜をぶっ殺してきた。ちょっと前の新聞に載ったんだけどなあ、邪竜退治 とか」  載っていた。確かに載っていた。……嬉しかったから憶えている。  くそう、ちょっと待て、何であたし泣いているかな。  何であたし、今に限って着飾っていないのかな。 「……と、まあ、そういうわけだから」 「何が」 「故郷に農場くらい作れる金が貯まったから、一緒に行かない?」  ……バカだなあ。ほんとにバカだ。たぶんじゃなくほんとに。  某国のお姫様だとか、パーティ内の恋愛だとか、幾らでも新聞に載ってたのに、何であ たしにその台詞言うのかな。  涙が止まらない。  だから、最終兵器を出して、戦いを終わりにしよう。次で終わりだ。  何回も言ってきた言葉を、言う。 「あたしは娼婦で──」 「俺のためにそんなことまでして生き延びてきたんだろ? 幸せにする」  膝が砕けた。 「それに、仲間に吟遊詩人がいてさ。そいつが面白おかしく歌にしてくれるよ。勇者が戦 って来たのは、娼婦になっても変わらない、大切な女のためだったって歌にさ。ほら、英 雄にまでなればさ、昔話でも娼婦が正妻とかあるし──」  ベラベラと往来でしゃべり続ける馬鹿の声を聞きながら、あたしはベッドに座り込んで 泣いていた。本当に久しぶりに、ナッツを抱いて、声を上げて、泣いた。  この泣き声が外の馬鹿に聞こえなければいいと思った。                ※  あたしがマケット娼戯館を出ることになった時、皆の反応は次のようなものだった。 「お子さんが男の子だったらつれてきてくださいね」  と本気だかよくわからない笑顔で言ったのがシェリル。 「これで私の方がプロフェッショナルだってことが実証されたわけね」  と言いつつ、自分のコレクションの指輪の一つをあたしにくれたのがリスタ。 「本当はいらないのですが、お金持ちの勇者様だから身請け代を頂いておいてください」  と請求書渡してきたのがギィナ。  そして、 「新聞、ちょうだい」  とあたしの部屋をそのまま受け取ったのが、ナッツ。あたしの数年間を、ナッツは全て 欲しいと言ってきた。大切だった新聞だが、ナッツには譲ってもいい、とあたしも思った。  あたしはナッツを抱き寄せて、その額と頬、それから唇に順にキスをして、最後にもう 一度だけ唇にキスをした。赤くなったナッツに、言う。 「いつかあなたが本当に大切なキスをする時まで、このキスを忘れないでね」  あたしがナッツに渡せる、それが最後のものだ。  皆に見送られて館を出ると、不思議な気がした。いつも客を送っていたこの場所から、 あたしが出ると、とても明るい、だけど少し寂しい感じがした。客たちも、こんな気分を 味わっていたのだろうか。あたしには、そこまではわからない。わからないんだろう、た ぶん。  そうして、あたしは外で待っていた馬鹿に嫌みったらしく一礼して言った。 「それではあたしを買って下さる勇者様、フェイヴさま、どこへなりと」 「そうだなあ。俺の一生で、コーの一生を買うよ。娼戯館って初めてだけど、こういうふ うに買うのか」 「甘〜」  後ろでリスタが呟き、あたしは真っ赤になった。この馬鹿のこういうところは一生治ら ないだろう、ほんと。 「じゃ、行こうか」 「う──っ」  サラリ、と髪に触れられたと同時に唇を奪われたあたしは、不覚にも固まってしまった。  男とのキスなんか、慣れていないのだ。  着飾らない、素のあたしとしてのキスは、この男としかしたことがなかったのだから。 「痛っ」  とりあえず顎を殴り上げて、あたしはそれを照れ隠しにして娼戯館を見上げた。  あたしの部屋の窓は、開いていた。                         「窓辺のコーディーリア」  終