16 「おおおおおおおおおおおおお!」  ケイタと弦は同時に咆哮を上げ、正面からぶつかりあった。二人の鉤爪同士がぶつかり、 甲高い音が響き渡る。 「があ!」  牙を剥き出してケイタが逆の腕で殴りかかると、弦はそれを獣毛の生えた碧の腕で受け 止め、即座に右手の口を開いた。 「死ねっ」 「死ぬかよっ」  ケイタの手が弦の手のひらの口の中に突きこまれた。意表を突かれた弦が目を見開く間 に、ケイタは相手の舌を掴んで引きちぎった。 「ぐっ」 「……そいつは、昔喰らったからな」 「ふん……そうか」  脂汗を額から流しながら、弦は地面を蹴った。 「嬉しいぞ!」  真上から飛びかかった弦の一撃を、ケイタは腕を十字にして受けた。獣の腕の一撃に衝 撃が足元まで突き抜けたが、ケイタは確かにそれを受け止めた。腕にヒビも入らず、強靱 な皮膚は弦を弾き返した。 「俺は──」  ぶん、と下からすくい上げるような一撃を放ち、ケイタは叫んだ。 「全てを思い出した! だが、それでも俺は高津ケイタだ。てめえもそうだろ、鷲沢ぁ!」 「その通りだ!」  ケイタの一撃を受けた弦が、後ろに吹き飛んだ。堪えようと踏ん張った足の跡が、吹き 飛んだ距離の分だけ刻まれる。  ケイタの力は、決して弦に劣るものではなかった。解放された狩猟者の雄同士の力は拮 抗し、二人は再び正面からぶつかり合って互いに四つの手で力比べの形に掴み合った。 「ぐああああああああ!」 「ぐおおおおおおおお!」  二人の咆哮に呼応するかのように周りの木という木から鳥たちが悲鳴じみた泣き声と共 に飛び立った。満天を満たす羽ばたきの音の中、二人は至近距離で睨み合う。 「目を醒ました俺の前で、夕花ちゃんが死んでいた……っ。お前は、自分を愛してくれる 可能性のある……あんなに優しい子まで殺したんだ!」 「愛だと? そんなものいらん。狩猟者に愛など!」 「昔も今も、お前はどうして認めないっ。お前が認めさえすれば、美冬さんだって、碧だ って、風弥ちゃんだって傷つかずにすんだ。あの子たちが羨ましかったなら、狩猟者なん て形じゃなく、ただの鷲沢弦として会いに行けばよかったんだ!」 「何!?」 「あの高津家の玄関を叩き、腹違いの兄だと……そうひとこと言えば、お前もあの家の一 員になれた。なれたはずだったんだ。腹違いの兄を、あの子たちは笑って受け入れただろ う。従兄の俺を迎え入れたように……あの子たちは親を失い、俺の親父を失い、家族の大 切さを知っていたから──っ」  ぐぐぐ、とケイタの手が弦の手を押し込み始める。だが、弦は吠えるとそれを盛り返し た。 「それがどうした。俺は羨んでなどいない! ただ、壊してやろうと思っただけだ。あの 幸せそうな顔をっ」 「なんで自分がその幸せの中に入ろうとしなかった!」 「羊のような幸せなど、狩猟者には関係の無いものだっ」 「擬態の鷲沢弦が、狩猟者の本能で動くはずがねえだろっ。それはな、鷲沢弦に勇気が無 かっただけなんだよ!」 「ぐ……っ」 「羨ましくて、外から眺めて、近寄って拒否されるのが恐くて……確かにあった絆を信じ る勇気が無かっただけなんだよ!」 「黙れぇぇぇぇぇ!」 「がっ」  猛烈な勢いで頭突きされ、ケイタは背後にたたらを踏んだ。その顔面を弦の獣の腕が殴 りつける。 「貴様に何がわかる。親に捨てられ、一人母を看取った俺の何が!」 「わかるに決まってるだろうがっ。俺も同じだ!」  ケイタの拳が弦の腹を打つ。そこは先程風弥に深く斬られた場所で、弦は激痛に顔をし かめた。 「親父を憎み、絆を見失っていた俺を、美冬さんたちは笑って迎えてくれた。親父が死ん だ悲しみが残っていたのに、俺のために笑ってくれた。だから俺は家族になろうと思った。 彼女たちを守れるように、強くなろうと思った。それを──」  弦の胸ぐらを掴み、ケイタは走り出した。真っ直ぐに、木の幹へと。 「お前がめちゃくちゃにしたー!」  弦の身体が木に叩きつけられる。ケイタと弦は一塊りとなって木を押し倒して進み、そ れが連続した。十数本の木が叩き折られ、轟音が大地を揺るがす。弦はケイタを振りほど いて高く跳躍し、背後を見て舌打ちした。 「湖……」 「もう、後ろはないぜ」 「逃げる気など、無い!」  スーツの上着を脱ぎ捨て、弦はケイタを金色の瞳で射抜いた。弦は両腕を大きく広げ、 目を見開く。虹彩が白目の部分まで一気に広がり、弦の身体に変化が生まれた。 「かつてこの場所で全ては終わった……」  ごぼごぼと、泡立つように弦の身体がシャツの中で流動する。ビリ、と内側から破れた シャツから覗いたのは、赤茶色の硬質な皮膚だ。高津家の庭でのケイタのように、弦の身 体が段々と膨れ上がりつつあった。 「俺は死に、そして貴様は生き延びた。そして、貴様はこの時代に俺たちを再び呼び覚ま した」  鋭角的に張り出した肩、分厚い胸、子供の腰回りほどもある首、そして弦の面影を残し ながらも、まさに鬼と化したその頭部。冗談のように裂けた大きな口を開き、弦はケイタ に言った。 「もはや、残ったのは俺たち二人のみ。羊のまねごとをする必要もない……狩猟者の全力 を持って、貴様を狩り殺す!」 「俺は、昔この場所でお前を殺すことをためらった。自分が信じたことの結果で彼女たち を失い、最後に残ったお前まで失いたくなかったからだ」  だが、とケイタは弦を見る。 「今度は、お前を殺す。今の俺は、高津ケイタはお前に何の絆も感じていない。お前は、 絆を持っていた相手を自分で切り捨てた……美冬さんを、碧を、風弥ちゃんを、夕花ちゃ んを!」  弦の巨体が、一歩踏み出した。それだけで周りの空気が歪むような圧力を発するその存 在は、ケイタを見下ろして顔を歪める。 「過去も、今も、お前は絆を信じる勇気を持たなかった。絆と勇気……それだけがあれば、 俺たちはやり直せた……狩猟者の本能に打ち勝つ、勇気だけがあればっ」  それは、狩猟者の本能を抑えつけ、立ち向かった美冬や碧のような勇気。  己の存在の死を確信しながらも誰かのために狩猟者を解放する、風弥や夕花のような勇 気。 「鷲沢、俺はお前を許さない!」 「俺は、貴様を許さない!」  二人の顔が鬼の形相と化し、二人は再度真正面からぶつかった。そう、二人とも小細工 など無しに、ぶつかりあうしか己の全てを吐き出すすべを知らなかった。  力比べの形に掴み合い、ケイタは頭上にある弦の金色の瞳を睨み付けた。力が込められ たケイタの腕が膨れ上がり、異形化が肩の辺りまで進む。組み合う二人の足元の地面がそ の力に耐えられずに悲鳴を上げた。 「貴様は、所詮貞子の細胞を多少得ただけのまがい物……っ。見ろ、二人の狩猟者を取り 込んだこの俺の──」 「ぐう!?」 「圧倒的な力をぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」 「ぐ……あああああああああああああああああああ!」  バキバキバキと音を立ててケイタの腕にヒビが入った。一回り大きな弦の凶手にケイタ の手は握り潰され、ケイタは悲鳴を上げた。 「俺は……俺は負けるわけにはいかない……俺は!」 「何をほざこうと羊が狩猟者に勝てる道理がない。狩る者と狩られる者の差を、思い知る がいい、この、人間がぁぁぁぁぁ!」 「ぎゃああああっ」  石が砕ける音と肉が潰れる音の両方がしてケイタの手が握り潰された。支えを失ったケ イタの身体が後ろに流れ、弦はそれに対して五本の鉤爪を全力で繰り出した。 「──っ!」 「ぎゃんっ」 「な!?」  凶刃に背中を引き裂かれ、獣そのままの悲鳴を上げたのは、風弥だった。その様子をス ローモーションのように目に焼き付け──。  両腕を失ったケイタは、風弥と一緒に弾き飛ばされ、湖の中に落下した。  水の中に落下すると同時に、ケイタはごぼりと大きな気泡を口から吐き出した。這い上 がらなければ、と瞬時に思ったが、それが不可能なことを自分の両腕を見て知る。 (風弥ちゃん……っ)  自分のすぐ近くを沈んでいく、小さな少女の身体にケイタは近づきたかった。生きてい るか確かめたかった。夜の湖の闇の中でも、ケイタの瞳は風弥の背中から流れるおびただ しい量の血が見て取れた。 (風弥ちゃん……っ)  俺は、またこの子を救えないのか、とケイタは叫んだ。  目の前で、自分を庇って切り裂かれた子を、この腕に抱き留めることも出来ないのか。 (力が……)  力が欲しい、と強くケイタは望んだ。  夕花が望んだように。  風弥が望んだように。  だが、ケイタは力を持っている。持っているが、何も出来なかった。  いや、足りないのはほんの少しなのだろう。  ケイタの絆は目の前にある。戦う勇気も今はある。あと、ほんの少しの力さえあれば、 未来を掴むことが出来る。 (俺に……力を……もう……誰も俺の前で──!)  瞬間、ケイタの目は自分の沈む先にそれを見つけていた。  それは──。                  ※ 「終わった……か」  呆然と呟いた弦は、鬼人の姿のまま湖を見下ろしていた。まだ波紋の収まりきらない湖 面の上では、歪んだ満月の複製が弦を見返している。 「く……は……ははははははははは!」  弦は笑い出した。  その笑いを破るかのように──。  水面が爆発した。 「何!?」  驚愕する弦の前に、風弥を抱えたケイタが着地した。その腕は再生し、ケイタの身体に は傷一つ無い。 「ば……」 「彼女は、俺を待っていた……」  静かに、風弥を地面に下ろしながら、ケイタは涙を流していた。 「こんなにも冷たい水の底で、俺を待っていたんだ……っ」  それはケイタ自身の涙ではなかった。ケイタの中のもう一人が、ケイタに多くの情報を 教えてくれた存在が、涙を流しているのだ。 「俺のために──!」  があああああああああああああああ!  ケイタが夜空に向かって吠えた。血の涙を流しながら吠えた。その身体が内側から弾け るように肥大し、凶悪な武器へと変化していった。鋭い鉤爪を持った、鬼の姿へと。血の 涙を流す鬼の姿へと。  その変化が終わる前に、弦は地面を蹴った。凶獣が圧倒的な力で空気を歪め、鬼の動体 視力すら凌駕する速度でケイタに迫った。 「貞子を……喰ったかぁぁぁぁぁぁぁ!」 「ぐ、おおおおおおおおおおおおおお!」  ケイタの裏拳が弦の巨体を弾き飛ばした。転がった弦の上にケイタは飛び乗り、その顔 面へと鉤爪を振り下ろす。 「がうっ!?」 「ぎぃぃぃぃぃぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」  もはや理性を無くしたような雄叫びを上げてケイタは子供のように何度も弦を殴りつけ た。二百キロを越える巨大な生物同士の殴り合いはあまりに恐ろしく、滑稽で、そして悲 しかった。己の力を持て余すように、力の限り、振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。 振り下ろす。振り下ろす──。  気が付いた時には、弦は、動かなくなっていた。 「俺は……」  拳を止め、頭部の無くなった死体を見下ろし、ケイタは自分の血まみれの手を見て顔を 歪めた。ポツポツと手のひらに落ちる涙がさらに手を朱に染め。ケイタは満月を見上げて 吠えた。 「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」  いつまでも、吠え続けた。                  終章  高津ケイタは、狂気の夜をただ一人生き延びた。後日談的なことを言うと、角屋の経営 の譲渡などケイタには法的に難しいことばかりが待ち受けていたのだったが、その辺りの ことをなんとか切り抜けたケイタは、大学に戻らず高津家に住むことにした。大学は、中 退した。  ケイタは、縁側に座り込んで一人物思いにふけることが多くなった。一度お座敷猫が訪 ねてきて、 「まあ、巡り合わせってのは、たまに不幸を呼ぶものですな」  と、どこまで事件の背景を理解しているのか疑問に思うコメントを残していったが、そ れを確認する気力もケイタには沸いてこなかった。  ただ、ぼんやりと、庭を眺めて過ごす。  瑠璃子は、極度のショックにより部分的な記憶喪失になり、自分を襲った犯人のことな どは憶えていなかった。それを幸運だとは言えないが、ケイタは瑠璃子が心の傷を忘却す る道を選んだことにホッとした。やはり友人には元気でいてほしいものだ。……負い目か ら、もう二度と顔を合わせることが出来なくても。  また、フレキ・オゥディンまだ入院しているという。心身共に受けた衝撃が大きかった せいだが、彼女は自分を襲った相手を憶えており、告訴した。狩猟者が心を壊したと思っ た女性は、想像よりもずっと強い心の持ち主だったようだ。だが、告訴すべき鷲沢弦は、 もはやこの世のどこにも存在しない。  美冬のように。  碧のように。  風弥のように。  夕花のように。  どこにも、いない。 「…………」  静かに、ケイタは息を吐いた。  と。 「ケイタさん、ケイタさん、ほら焼きイモー!」  ぐい、と目の前に差し出された焼きたての芋に、ケイタは目をぱちくりさせた。見ると、 中庭で焼き芋に興じていた少女が串に刺した芋を二つほど持って微笑んでいた。  それは、目を隠すほど長い前髪の、小柄な少女だ。 「一本あげますよ」 「サンキュ、さだこ」  ケイタが小さな笑みを浮かべて芋を受け取ると、少女はどこかホッとしたようだった。  少女は、さだこという名前だった。戸籍上では、高津風弥。だが、さだこ、だ。  さだこが目を醒ましたのは、狂気の夜の数日後だった。傷そのものというよりも多量の 失血で死にかけていた風弥を高津家に連れ帰って治療を施したケイタは、風弥が助かるこ とを祈ってそのそばに居続けた。  だが、目覚めた少女は、さだこだった。 「こんにちわ、ケイタさん」  それが、目を醒ましたさだこの一番初めの言葉だった。少女は風弥としての記憶を何一 つ持ってはおらず、まして貞子の記憶も持ってはいなかった。ただ、少女は言ったのだ。 「あなたはケイタさん。わたしはさだこ。……それだけは、わかるんです」  困ったような、しかしちょっと照れたように言った少女に、ケイタは理解した。  少女は、風弥と、そして貞子の想いを持って生まれた、新しい誰かなのだと。 「あー!」 「……なんだ?」  思考を叫びに邪魔され、ケイタはちょっと不機嫌そうにさだこを見た。さだこは、自分 の焼き芋を見て情けない顔をして、そして愛想笑いを浮かべてケイタを見た。 「あ、あの……交換して下さい」 「やだね。芋うめー!」  焦げた芋を差し出してくるさだこに意地悪に言い、ケイタは自分の芋にかぶりついた。 はう、とさだこが涙目になる。 「酷い……」 「知るか」  言ってから、ケイタは頭をぼりぼりと掻いた。どうも、さだこには意地悪に接してしま うケイタだ。妙に虐めやすいと言うか、何というか……。 「ま、いいか」 「はい?」 「麦茶持ってくる。いるか?」 「はいっ」  いじけていたさだこが、あっと言う間に笑顔になる。まるで幼い子供のようなその反応 に、ケイタは自分の胸が温かくなるものを感じた。  あまりに激しかった数日間。  あまりに辛すぎた数日間。  その傷を、まるで癒してくれるかのような、少女の笑顔。  台所で二人分のグラスに麦茶を注ぎ、居間へと戻ったケイタは、さだこが部屋の隅でご そごそ何かをしていることに首を傾げた。 「……何してるんだ?」 「あ、カメラ」 「カメラ?」  そう言って、さだこが持っていたものを示すと、それは確かにポラロイドカメラだった。 「これって、撮ったらすぐに見れるんですよね」 「だな」 「えい」 「うわっ!?」  いきなり目の前でフラッシュが瞬き、ケイタは危うく麦茶を乗せた盆を落とすところだ った。何とかバランスを取り戻して盆を座卓の上に置くと、ケイタはさだこを叱ろうと顔 を上げ、再び訝しげな顔になった。 「どうした?」 「えと……」  カメラから出てきた写真を手にし、さだこが複雑な表情をしていた。さだこはしばらく 丸っこい目でジッと写真を見つめ、手を動かして様々な角度から見たり、日に透かして見 たりを繰り返した。  ちょっと怪しい光景である。  やがて、さだこはまん丸の目の上の眉を困った形にしてケイタに写真の表を向けた。 「これ……ケイタさんを撮ったのに、こんなのが出てきたんですけど」 「…………」  ケイタは、しばし何も言うことが出来なかった。  その写真。  真ん中にケイタがいて、その左右に四人の姉妹が立っている写真。 「これ、わたしですよね? でも、ちょっと違う?」  さだこは興味津々に後ろからケイタの肩に顎を乗せて写真を覗き込む。 「こっちの女の人、凄く綺麗ですねー。この人も素敵だし、あーん、わたしこんな妹が欲 しいですよ!」  ばたばたと、騒がしくしゃべるさだこを背中に感じながら、ケイタはその写真から目を 放せなかった。あるはずのない写真。おそらくは、さだこの狩猟者の細胞が無意識に機械 に侵食し、作り上げたのだろう虚像。  だが──。 「みんな、本当に楽しそうに笑ってますね」  にこにこと、自分も楽しそうに言うさだこの声に。  ──ケイタは、一粒の涙を写真の上に落とした。  長かった夜がようやく明けたように、ケイタには感じられた。                                      終