14  弦とケイタのどちらが先に動いたのか、夕花にはわからなかった。瞬きする度に彼らの 場所は移動し、その動きは夕花の動体視力を完全に凌駕していた。  ブゥン、と霞みそうな速度でケイタの巨腕が振り抜かれ、顔面すれすれでそれを避けた 弦の髪がブワリと逆立つ。風圧だけで頬に切り傷さえ生まれるそれに、弦は歓喜の声を上 げた。 「これが……これが狩猟者が自制心を失った姿か。哀れだな、高津ケイタ。この力、確か に凄まじいが──」  振り下ろされる鉤爪。その爪の内側、ケイタの大ぶりな腕の弧の内側に弦は疾風の速度 で踏み込んだ。 「──あまりに幼稚!」  ズダァン、と信じられない音がして弦の掌底がケイタの顎を跳ね上げた。人間ならば頭 部が消し飛ぶほどの一撃を受け、体重にして二百キロを越えるだろうケイタの巨体が確か に浮いた。 「まずは腕だ!」  叫びと共に弦は突き上げた腕をそのまま横に振るう。抵抗も無く振り抜かれた鉤爪に、 ケイタの左腕が夜空に舞った。 「ひっ」  畳の部屋の床に落下した異形の腕に、夕花が息を飲む。 「次は、足をもらおうかぁ!」  閃光が走る。ケイタはその斬撃を避けて間合いを取ったが、その足がガクンと落ちた。 「ごあああああああああああ!」  その右足は、太股の半分以上が切り裂かれ、もはや皮一枚で繋がっている有様であった。  自分の力が相手を圧倒していることに弦は金色の瞳に愉悦を浮かべて、膝をつくケイタ を見下ろした。 「今の貴様は狩猟者でも何でもない、ただの獣。見えるぞ、貴様のさして美しくもない命 の炎が」  残忍な笑みと共に、ケイタの太い首に鉤爪を当てる。ケイタは獣のように唸ったが、す でに抵抗する力も残されていなかった。 「同族のよしみだ。その首、ひと思いに切り落としてくれる!」 「やめてー!」  その瞬間、我を取り戻した夕花が走った。どん、と自分の背中に体当たりした少女の姿 に、弦は意表を突かれ、 「……ふん」  おざなりに振られた鉤爪が、夕花の胸を深く切り裂いた。 「あ……」  あまりにあっさりとし過ぎて、夕花は何が起きたのか理解出来ない顔をした。鋭すぎる 鉤爪の付けた傷は、すぐには血を吹き出さない。一拍の時間を置いて、夕花の身体がその 事実を知った直後、噴水のような鮮血が夕花の胸から吹き出した。  夕花の身体が、力を失って背後に倒れる。それは、スローモーションのように緩やかな 動きだった。 「死に急ぐな、愚か者が」  夕花の耳に弦の言葉が届き、夕花は自分が切り裂かれたことを知った。  地面が、夕花の背中に触れた。  それを見届けたケイタの瞳が見開かれる。 「ぐ──」  刹那の、しかし永遠にも感じられる、咆哮の予感。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」  ほとばしった咆哮と共に、ケイタの目から流れるものがあった。振り返ってそれを見た 弦はあ然として、それから呆れた。 「なんだ、貴様……涙、だと? 獣に成り下がった貴様が涙? ……笑止!」  今度こそ、弦はケイタの首に鉤爪を振り下ろした。  夕花はその様子を、開ききった瞳孔で見つめていた。先程まで見ることも適わなかった 弦の鉤爪の動きがコマ送りのような速度に感じられ、その秘めた威力が確実にケイタを殺 すことが理解出来た。 (私は……)  自分が抑えつけていたもの。  それが今欲しいと、夕花は思った。 (私は高津夕花だけど……ケイタお兄ちゃんや風弥お姉ちゃんが助かるなら、力が欲しい)  恐怖した、どす黒い負の感情を思い出すと、夕花は自分の心が震えるのを感じた。 (恐いけど……それでも……)  心の中、夕花は叫んだ。 (大好きな人たちを守れる力が欲しい……っ!)  キィィン、と甲高い脳に響く音が空間を貫いた。 「がぁ!?」  まさにケイタの首を切り落とそうとしていた弦は、その直撃を受けて思わず両耳を手で 塞いだ。 「な、何だこの音は!?」  音の発信源を探し、それが倒れた夕花だと知った弦は、驚愕の視線をそちらに向ける。 「この音……憶えているぞ、唄う鬼か! 再生などさせるかっ」  ザン、と鉤爪が地面に突き刺さった。振り下ろされた凶刃を跳ね起きて避けた夕花の、 鉤爪がかすった三つ編みがバラバラになって散った。 「貴様……」  憎々しげに弦が見つめる中、髪の短くなった夕花が顔を上げる。  その瞳は、夜に輝く金色の猫の瞳と化していた。上半身を血に染め、しかしその胸の傷 はすでに塞がっている。 「千年……」  と、夕花は口を開いた。 「やり直すために選んだこの時代でも、私の想いは叶わないみたいです。今から私の力を 使えば、私の傷ついた身体は助からないでしょうから……だけど」  微笑みは、少し夕花のものとは違っていた。 「今この場で全てを終わりにしないことを、夕花は望んだから」 「かつて、狩猟者を人間に狩り殺させた裏切りものがぁぁぁぁぁ!」 「忘れないで。夕花は……ケイタお兄ちゃんのことが好きでした!」  叫びが交錯した。  弦が慌てたように繰り出した一撃が届くよりも早く、夕花の口からは人間に聞き取るこ とが出来ない音が放たれていた。 「ぐうぅああああ!?」  それはいかなる力だったのか、弦は斬撃の途中で身体をのけ反らせて目を見開いた。そ の瞳から金色の光が失われ、人間の黒と化す。異形の腕もあっと言う間に縮小し、もとへ と戻っていく。  それはケイタも同じことであった。巨体と化していたケイタの身体が見る見る縮んでい き、同時に失っていた腕から赤い血が噴き出し、ケイタは前のめりに倒れ伏す。畳の上に 転がっていた腕も、同様だ。  一瞬にして、異形たちの戦いの場は人間のみが存在する高津家の庭へと姿を変えた。  そして。  夕花の瞳が人間のそれに戻ったと思った途端、その身体が傾ぎ、倒れた。 「く……これ……では……っ」  ただ一人、意識を保っていた弦が呻いたが、それを聞く者はいない。  否。 「──私は……あなたを許しません」  聞き、語る者が、現れた。  柏木家の、塀の上から弦を冷たい金色の瞳で見下ろす者が。  その者に、弦は最大の焦りと憎しみを込めて叫んだ。 「高津……美冬ー!」                  ※ 「ちぃっ!」  顔色を変えて弦は高い位置にいる美冬に身体の向きを直した。腕を一振りし、異形へと 変化させようとして、顔を歪める。 「変わらん……っ。これでは……っ」  焦る弦を冷たい目で見下ろし、美冬は静かに塀を蹴って庭へと舞い降りた。すぐに倒れ ているケイタと風弥、そして夕花を確認し、瞼を下ろす。  次いで、開かれた金色の瞳には、表情らしい表情が浮かんではいなかった。 「あなたは、私の妹たちに何をしました」  一歩、美冬は踏み出した。 「ケイタさんに、何をしました」  二歩、美冬は踏み出した。 「私の家族に……何をしました!」  ガァン! と凄まじい音がして美冬の裏拳が弦の顔面を弾き飛ばした。無造作とも言え るその一撃に、弦の身体が芝生を撒き散らして転げ回る。 「がはっ!?」  顔の半分をほとんど陥没するほどに変形させ、弦が血反吐を吐きながら立ち上がった。 ぶるぶると震える腕で身を起こした弦を、美冬は汚らわしいものでも見るかのように顔を しかめて見る。 「なんで生きているんです?」 「く……っ」 「碧が死んで、夕花が死んで、なんであなたが生きているんです!?」 「ぎっ!?」  美冬の左の拳に無事だった方の顔を殴られ、弦はまたしても大地に転がった。 「ぐ……おお……っ」  両手で顔を押さえて弦はのたうち回った。顔を押さえるという行為自体がさらなる苦痛 を生み出し、人間のものとは思えない悲鳴が美冬の耳を貫く。しかし、美冬はそれに表情 をピクリとも動かしはしなかった。 「本当を言うと、あなたなんてどうでもよかった。私たち家族に手を出さない限り、何人 死のうが、私には関係無かった」  凍りつくような、その表情。  瞬きすら忘れたように、その瞳は這いつくばる弦だけを捉えていた。 「私は、自分の周りの人達が大切。家族が、角屋の人達が、それが私の守るべきもの。み んなで……たわいもないことで笑って、たまに喧嘩して、そんな当たり前の生活を守れれ ば、それで良かったのに。そのためなら、あなたが何人の人を殺そうが、一人で狂い死の うが、見逃してあげるつもりだったのに」  拳が軋むほどに強く握り締められ、開いた時にはそれは鋭い針のような爪を備えたもの に変わっていた。 「あなたは狩猟者の……高津家の鬼の存在を明らかにしかねないほどに暴れすぎた。だか ら止めようとした。そうしたら、今度は碧を……私の家族を……」  誰が死のうが構わない、と美冬は言った。  ただ、自分の目の届く範囲にいる人々──家族や、友人の微笑みが守られれば、どこで 誰が死のうと構わない、と言った。  自分勝手で、しかし、誰もが考えるようなこと。  周りの人間が大切で大切でたまらなく、本当に大切すぎて、だから他の知らない人々と の間に大きな落差が生まれてしまった美冬。  それは、美冬が自分に出来る限界を知っているからでもあった。狩猟者が人を殺してい るからといって、美冬はその被害を全て防げるわけではない。また、防ごうとした場合に 守りが手薄になった家族に犠牲者が出ないとも限らない。  家族だけなら、守りきれる。  全てを守ろうとすると、全てを失う可能性がある。  だから、美冬は弦が街の人々を殺そうが本気になることはなかった。まず説得をし、そ れで駄目ならば処分する。その程度の心づもりだった。  その美冬が、碧を殺されて、倒れた夕花を見て、最初から殺すつもりで弦の前に立った。  砕けた眼鏡の破片が突き刺さった顔を奇妙に動かし、弦が歯の欠けた口で呟く。 「美しい……」  おそらく、弦は笑ったのだろう。  言葉通り、笑顔を失った美冬には凄絶な美しさがあった。氷の中で乱反射する月光のよ うな、限りなく幻想的で冷たい美しさ。  その美冬を前にして、弦は震える手でどうにか拳を作った。わずかに、拳が痙攣した。 「──許さない」 「許しなど乞おうとは思わんよっ」  ズザ、と弦の身体が地面の上を転がった。踏みつけようとした美冬の足をかわしたのだ。 そのまま弦は素早い身のこなしで跳ね起き、左拳で自分の右腕を殴りつけた。 「ぐおおおおおおおおお!」  叫びが右腕の痙攣を激しくした。ゆっくりと、ぎこちなく腕が波うつように硬質化して いく。 「俺は貴様には負けん。高津美冬、妹の貴様になどは──!」 「あなたを兄などと、認めない!」  美冬が牙を剥いた。地面を蹴り、風さえも凌駕する速度で駆けた。それを受け、弦はニ ヤリと笑みを浮かべ、 「!?」  美冬が目を見開く前で、背を向けて跳躍した。 「逃がさないっ」  美冬も即座にその後を追い。  その場所には、静寂が残された。                  間7  俺は今消えかけている。  同族の雌──夕花が放った音には、狩猟者の活動を停止させる強制的な命令が含まれて いた。その力は圧倒的で、感情の波に飲まれていた俺は抵抗することも出来ずに力の全て を押さえ込まれた。  力の喪失。それは、身体の再生の不可能を示す。  傷ついた俺の身体は今も血を流し、緩やかに死への道を辿りつつあった。  死は、恐ろしくない。  狩猟者は死を恐れない。命の尊厳を知る狩猟者は、死とは終わりではないことを知って いる。  死とは、区切り。  死と同時に、次が始まるのだ。  死は恐ろしくない。  恐ろしくない。  なのに今、俺は身を震わしおののいていた。何故かはわからない。だが、まだ死にたく はないと叫ぶ俺がどこかにいた。  どこに?  俺は狩猟者。愛も悲しみも恐怖も持たない生き物だ。  死を恐れることはない。恐れるとしたら、それは擬態の心だ。羊のまねごとをするため に俺が生み出した、精神的に切り離している存在の心だ。  確かに、擬態は死が恐ろしいのかもしれない。羊たちはあまりにたやすく死ぬので、死 を避けるために古来よりそれを恐ろしいものとして考えてきた。擬態が羊に混じる存在で ある以上、死を恐れるのは当然と思える。 『死にたくない』  自分という存在に固執する、愚かな羊。愚かな擬態。 『誓ったんだ』  誓いか。誓いのために死を厭うか。  遠い昔、俺も誰かに何かを誓ったような気もする。  遠い昔に。 『家族を……絶対に守るって……』  もう誰も、俺の前でと──。                  ※  そして、彼は夢を見た。 「鬼たちは、皆死んだ」  その男は、吐き捨てるように目の前の男に向かって言っていた。  湖には満月の光が白く反射し、おぼろげな揺れるもう一つの月をその表面に生み出して いた。どこか遠くからは山狩りの声が聞こえ、今も松明を持った男たちが無力となった鬼 たちを狩り殺していることを知らせる。 「まさか、妹が貴様の手助けをするとはな。貴様の心は貞子にあるというのに、けなげな 娘だ。その自分が真っ先に捕らえられ──」  ギ、と歯ぎしりをして男は具足姿の男を睨み付けた。 「陵辱され、挙げ句に殺されるとは、思いもよらなかっただろうな」  その言葉に、青年は視線を足元に落とした。 「妹が、俺が唯一愛したあの娘が最後まで何と言っていたか、貴様は知っているか。あの 娘は、貴様の名を呼んでいた。自分を利用するだけ利用して切り捨てた、貴様の名を」 「違う、俺は彼女も含めて皆を助けたいと──」 「言葉はもういらん!」  叫び、男は腰に吊していた鞘から刀を抜きはなった。月光を反射し、その白刃が怪しい ほどに闇に映え、青年は顔を歪めた。 「どうしても……やるのか」 「鬼の力などなくとも、貴様には負けんっ。子供の頃に戻る? 約束を果たす? 貴様の その言葉のおかげで、誰が死んだ。もはや残っているのは俺とお前、そして貞子のみ。貴 様さえ戻ってこなければ、何事もなかったものを!」  刃よりも先に、言葉が青年の胸を抉る。丸腰のまま、ジリジリと下がり、青年は唇を噛 んだ。 「それでも、俺は……俺たちの絆を信じたかった……」 「俺たちは狩猟者。羊のごとき絆など、ありえんっ」 「お前も愛した妹がいただろう……お前もまだ人間だ!」 「黙れぇ!」  ザ、と男の足が地面を蹴り、振り上がった刀の軌跡に青年はそれを避けられないことを 知った。  その瞬間だった。 「やめて!」 「──さだこぉぉぉぉぉ!」  横から二人の間に飛び込んだ少女に、男は刀を止めることも出来た。だが、止めずに少 女の名を叫んでそれを振り抜いた。  確かな憎しみを持って。 「!」  鮮血が闇夜に舞った。 「貞子!」 「く、はははははは! 貴様も、己の大切な者を失う悲しみを、思い知るがいいっ」  哄笑が響き渡り、刀で横に払われた貞子の身体が水しぶきを上げて湖に落ちる。青年が 手を伸ばすが、遅い。 「あ……こんな……」 「はははははははは! これが結末か、これで終わりか。これでは、誰も救われないな。 誰もむくわれないな。貴様も、お前を信じた妹たちも、そして──」  青年は、男を見た。  男は、血の涙を流して笑い続けていた。 「この、俺も!」 「お前……」 「どうした、来い。俺と戦え! 貴様の命の散華、この俺が導いてくれる!」 「違う……お前……やっぱりお前も狩猟者なんかじゃ……」  青年は、自らも涙を流して言った。 「お前も、妹を失って人間の心を取り戻したんじゃないか!」 「ほざけぇ!」  刀が振り上がり、青年が顔を背けた。  その目の前に、男が倒れた。 「……え?」  男の背中には、何本もの矢が突き刺さっていた。あっと言う間に、背に赤い染みが広が る。 「やったぜ、大将。これで鬼は最後だ」  晴れ晴れとした顔で言う、やって来た男たち。  呆然とそれを眺め、青年はカクンと膝を落とした。 「違う……俺は……」  手を伸ばし、もはや動かない男の頬に触れる。 「死ぬなよ……おい……死なないでくれ……」  何度も、何度も。 「もう、誰も俺の前で──っ!」                  ※  そして、彼は、全てを思い出した。                  ※  ケイタは、空の満月を眺めて縁側に座っていた。  気が付いた時、すでに身体の治療は行われており、切り飛ばされた腕は包帯できつく巻 かれて接続されていた。まだ痛んだが指が動くからには神経が繋がる程度には回復したの だろう。常軌を逸した再生力であった。  そのケイタの膝の上には、夕花の頭がある。少女は瞼を下ろし、安らかな顔をしていた。 寝息すら、無い。  ──あるはずがない。少女は、すでに生きてはないのだから。  ケイタの動く手は、ずっと少女の髪を撫でていた。長かった髪は、今は肩の高さ程度ま でしかなく、ケイタは時折惜しむようにざんばらな髪の切り口を見る。 「長い三つ編みだったのにな……」  頬に触れると、少女の肌は冷たかった。自分の指先から温もりを奪うその冷たさに、ケ イタは静かに目を伏せる。  夕花の上半身は、血にまみれてはいなかった。切り裂かれたものとは別の服を着て、何 事もなかったかのように、ケイタの膝の上にいる。だが、表面の傷が癒えていても、体内 に達した傷はそう簡単には治らない。  最後の瞬間、自分の身体の回復も待たずに、夕花はあの場にいた全員の狩猟者の力を封 じ込めたのだ。  そのことが、自分の死を招くとわかっていながら。 「……ありがとう」  優しく、ケイタは夕花に語りかけた。夕花の最後の言葉をケイタは狩猟者に意識を飲み 込まれた状態でもしっかりと聞き取ることが出来た。  ──忘れないで。夕花は……ケイタお兄ちゃんのことが好きでした! 「忘れないよ……」  何度も、飽きることなくケイタは夕花の髪を撫でる。そうすることが、少女の眠りをよ り安らかにすると信じるように、繰り返し。 「…………」  庭を見ると、荒れ果てたそこには、誰もいなかった。  ケイタは、自分の治療をしてくれたのが風弥だと確信していた。だが、その風弥は庭か ら姿を消している。おそらく、弦を追ったのだろう、とケイタは思った。 「美冬さんは……どうしたんだろうな」  自分が気絶した後のことを知るすべは、ケイタには無い。しかし、直感で美冬も戦って いるはずだとケイタは感じていた。  しばし、思いにひたる。  思ったのは、ほんの数日前のことだ。  ケイタがいて、美冬がいて、碧がいて、風弥がいて、そして夕花がいて、楽しく笑って いた、ほんの数日前のことだ。 「随分と……遠いところまで来たみたいだな」  同じ街で、高津家で、同じ様な夜なのに、随分と違う場所のような気がした。一家の団 らんではなく、荒れ果てた庭、流れる血の世界。 「だけど……みんなとの絆をずっと強く感じるのは、何でだろうな……」  満月に向かい、ケイタは呟いた。  ケイタがどす黒い邪悪な夢を見て。  そう、今ならばそれが自分の仕業とわかるが、ケイタの中の狩猟者が瑠璃子を襲い。  弦が現れ、美冬が戦い、その結果高津家に流れる鬼の血のことが発覚していき。  鬼の血の宿命から家族を守ろうとする美冬たちの態度を風弥が箱庭と称し。  その箱庭を……いや、ケイタを守るために、碧が犠牲になり。  そして、ケイタは父親の真実を知った。  自らも宿命と戦おうと、目の前の敵と戦い、家族を守ろうとした。  それら全ての結果が、今、ケイタの膝の上で眠る夕花だ。 (それでも……感じるんだ、絆を。お互いを大切にして、守りたいと思う絆を、はっきり と)  夕花の示した、絆。  あれほど恐れていた狩猟者の力を自ら呼び起こした夕花の勇気。  その勇気が自分たちのためだとわかったから、ケイタは夕花の髪を優しく撫でた。 「……ありがとう」  もう一度囁き、ケイタは静かに夕花の頭を膝から下ろした。 「…………」  月を見上げる。  まだ夜は続いていた。  狂気の支配する夜が。 「行って来るよ」  自らの中の確信──己の中の何かが教えてくれる最後の場所へと、ケイタは走り出した。                  15  闇夜を駆ける二つの影の戦いは市街地から離れた山の中に場所を移していた。 「待ちなさい!」  自分よりもわずかに速い美冬の追撃を、前を走る有利を利用して変幻自在に方向を変え て何とかやり過ごし雨月山に入った弦は、背の高い木々の太い枝を蹴ってその上を移動し ていた。 「……あと、十秒」  自分の身体の回復度合いを、弦は的確に捉えていた。枝を蹴り、高い位置の枝に鉄棒の ようにぶら下がって逆上がりの要領でその上に乗る。そうして跳躍して隣の木に移り、背 後を見ると、美冬は軽々と木から木を段差などものともしないで跳躍のみで追い掛けてき ていた。今の弦が高い位置からでないと隣の木に飛び移れないのとは、やはり速度に差が 出る。 「5秒……」 「はっ」  追いついた美冬の鉤爪が閃き、一瞬前まで弦が立っていた枝を粉砕する。身を翻して別 の枝に移った弦は、細い枝が体重を支えきれずに折れ、ガクンと下がった足場に舌打ちし た。 「ちぃっ」  弦は何とかそこだけは変化させることが出来ている右手の鉤爪を木の幹に突き刺し、落 下を止めると同時に幹を足の裏で蹴ってその木から一気に飛び離れた。遠い位置の地面に 向かう弦に、美冬も木から飛び降りる。 「二秒……一秒……」  着地と同時に、弦は牙を剥き出して振り返った。 「零!」  叫びに弦の両腕が爆発するように変化を開始した。だがその変化は今までとは違い、右 腕と左腕、別々の変化だった。右腕はこれまでと同じように鉤爪を持つ異形。そして左腕 は、無骨な獣毛に覆われたまったく違う種類の、しかし充分な破壊力を持った凶腕だ。 「制約は解かれた……あの娘がいない今、俺の力を止める者はもういない。そして──」  血みどろであった顔すらすでに無傷のものと化し、弦は迫る美冬に獣の左拳を繰り出し た。 「貴様の妹から喰らい奪ったこの力、見るがいい!」 「!?」  反射的に腕を十字に組んでその拳を受けた美冬は、衝撃と石にヒビが入るような音に目 を見開いた。 「あう……っ」  異形と化した美冬の腕に、弦の拳を受け止めた腕にヒビが入ったのだ。肌が引き裂かれ る痛みに美冬は思わず呻き声を上げ、その声に弦は舌なめずりした。 「この力……俺も苦戦したぞ。鬼の身体すら砕く、受けることすら痛手となるこの力。碧 は言っていた。そう──」  そのまま左腕で美冬の腕を掴み、弦は美冬の身体を大きく振り上げた。 「き──」 「自分は、貴様よりも強いとなー!」 「きゃああああああ!」  小枝のように振り回された美冬の背中が太い木の幹に叩きつけられる。重い衝撃音と共 に木が薙ぎ倒され、それでも弦は美冬の腕を放さなかった。 「そら!」 「ぎゃっ」  地面に叩きつける。遠心力にブチブチと肩の腱が千切れる音がして、美冬の肩の関節が 不自然に伸びた。美冬の口から、一塊りの血が吐き出される。 「こふ……っ」 「前に貴様は言ったな。自分の父と、叔父と戦った経験があるから、力で劣るお前も俺と 戦うことが出来ると」  ようやく美冬の腕を放し、弦は彼女を見下ろして言った。 「その言葉、理解できた。確かに、狩猟者と戦った経験があるか無いかでは、大きな違い のようだな。碧は、良い犠牲になってくれた」  その言葉に、美冬が汗で髪を頬に貼り付けながらも弦を睨み付けた。金色の瞳が闇の中 に燃え上がるように色合いを増す。 「碧を……あなたなどうしたの」 「言っただろう、喰らったのさ。こう──」  と、弦が右手をかざすと、その手のひらがガパリと上下に割れた。鮫のような細かく鋭 利な歯が羅列する口の中、真っ赤な舌がチロチロと唾液を垂らして美冬を覗き込んでいた。 「この口で、な」 「──っ!」  跳ね起きた美冬の手刀が弦の頬を掠め、浅い切り傷を作る。ギリギリでかわした弦は歓 喜の表情で美冬から距離を取った。 「そうだ、抵抗しろ。貴様は戦えば戦うほどに美しくなる。羊どもなどにはわかりもしな い……貴様のその命の炎の美しさ。まさに、輝くような……。俺は、貴様の命の炎がもっ とも輝く瞬間を見てみたい。その散華を見てみたいっ」  恍惚に身を震わせすらして、弦は美冬を見る。美冬は、左腕をだらりと垂らし、右腕の みを構えてジリジリと間合いをはかる。 「俺にはわかるぞ。貴様の中の狩猟者の力は大したことがない。それはそうだ。貴様の狩 猟者は貴様の意志によってほぼ完全に支配されている。弱い狩猟者だ」  開いていた右手の口を閉じ、鉤爪の手で美冬を手招きするようにしながら、弦は言った。 「貴様がこれほどに美しいのは、狩猟者すら押さえ込むその魂の高潔さ。貴様は、狩猟者 ではないかもしれない。だが、貴様が羊であるはずもない」  美冬が、荒い息のまま、動く。それを認めながら、弦は最後のひとことを放った。 「貴様は、最高の雌だよ!」 「はあああ!」  美冬の手刀が弦の喉を狙い、弦はそれを避けて左腕を大きく横殴りに振るう。美冬は深 く踏み込んでそれを弦の肘の部分で受けることで威力を消して、接近状態で自分の額を弦 の顔面に叩き込んだ。 「ぎあっ」 「碧の痛み……っ」  鉤爪が一閃し、弦の胸に深い溝が刻まれる。血すら吹き出さない一瞬の間に、さらに美 冬の爪が弦の顎を下から裂き上げる。  そして、美冬は動く右手で弦の喉を鷲掴みにした。 「夕花の痛み……っ。思い知りなさい!」 「何を……!?」  弦が警戒する間もなかった。弦の喉を掴んだ美冬の手が、何の前触れもなく真っ赤に変 色し、弦の喉は急激な加熱に白煙を立てて焼け始めた。 「……なあ──っ」  悲鳴が肉が焼ける音にかき消される。美冬の腕が赤熱化し、溶鉱炉のような圧倒的熱量 で弦を焼いた。否、触れた部分はほとんど気化するように失われていった。 「きさ……っ」 「このまま……っ」 「ぐおおおおおおおおおおお!」  首と胴が半ば分かれた状態で弦は吠えた。右腕の口が美冬の肩に食らいつき、大きく肉 をえぐり取った。 「っ」  顔を歪め、しかし美冬は力を緩めない。痛みなど些細なものでしかないとでも言うよう に、射るような視線を弦に注ぐ。  弦は、碧に相対した時のような恐怖を、今再び感じていた。 (なんだ、こいつらは。何故俺は恐怖する!? 力か? 違う、俺は力に対して恐怖など しない。俺はこいつらの何が恐い!?)  美冬の手が首の骨を通り過ぎた。支えを失った弦の首が傾きかけ、しかし細胞は再生し ようと首を菌糸のような筋でつなぎ止める。 「狩猟者なんて、私は認めない……っ。鬼の血なんて、あっても不幸になるだけなのよ! 家族を守るために……消えてもらいますっ」 「そ……か」  美冬の言葉に、弦は自分が何に恐怖しているか理解した。理解して、碧から奪った左腕 で美冬の赤熱化した右腕を掴む。じゅ、と焼ける音が響いた。  美冬の腕は柔らかかった。自らの熱がすでに自分の腕すら融解させ、半ば液状化してい るのだ。骨にまで届く激痛を感じている美冬は額から汗を流している。何が美冬にそれほ どの意志力を与えているのか、弦にはわからない。  だが。 「ぐ……おおっ」  ぐちゃり、と融解した美冬の右腕を握り締めるようにして弦はそれを自分の首から引き 離していった。美冬は必死に力を込めるが、弦の力の方が圧倒的に強い。 「俺に……恐怖を与えたな、美冬っ」 「ぐっ」  跳ね上がった弦の蹴りが美冬の腹に突き刺さり、伸びた右手の口が美冬の右腕を肩から 食いちぎった。 「っ」  美冬は悲鳴を上げなかった。歯を食いしばり、腱の切れているはずの左腕を動かして弦 の胸に手刀を放つ。 「俺が恐怖を感じたもの。それは!」  鮮血が舞った。  美冬の手刀が弦の胸に突き刺さり、背中まで貫通する。そして弦は、自分のその千切れ かけた首の上にある口で美冬の喉に噛みついていた。  ぶちぶちぶち、と美冬の喉が引き裂かれ、弦は口の中いっぱいに広がったその甘美な血 をすすり上げた。肉を咀嚼し、浴びるほどに顔に降りかかる真っ赤な血を、赤子のように 無心ですする。 「あ……く……」 「美冬。俺が恐れたもの……それは、狩猟者を支配するほどの、貴様らの意志の強さ。狩 猟者との共存を望んだ俺とはまったく逆の、それだ」  瞳孔を見開き、しかしそれでも足を屈しようとしない美冬に、血をすする音を響かせな がら弦は囁いた。 「俺は貴様らの強さが理解出来ん。だから貴様らを狩る。貴様らが、俺を認めないと言う のと、その点だけは同じだ」  口の周りを血で染めながら、弦はさらに噛みついた歯に力を込めた。鈍い音がして、骨 が砕ける。 「あ……う……あ……」  ごぼり、と美冬の口からおびただしい血が流れ、瞳から金色の光が消えていく。 「貴様は憶えてなどいないだろう。あの日、俺が父に会いに行った日のことを」  一目でよいからと高津家の前に足を運んだ日、弦は知ったのだ。父に愛されていない自 分のことを。 「あの日、父も俺を見なかった中、家の前にいた俺に対し、美冬、貴様だけが目を向けた。 ひとこと、こんにちわ、とな」  美しい微笑みだった。 「幸せそうな、微笑みだった──っ!」  叫びと共に弦は美冬の首の肉をごっそりと噛み切って身体を逸らした。どん、と美冬の 身体を押すと、ずるりと弦の胸から美冬の腕が抜け落ちる。  倒れた、息絶えた美冬に向かい、弦は叫んだ。 「あの日から貴様が……美冬が、俺の壊すべき高津家の象徴となった!」  弦は笑い出した。  愉快そうに笑い出した。  笑いはエスカレートし、弦は手で額を押さえ、天を振り仰いで笑い続けた。 「終わった! 全て終わった! 美しい、なんと美しい散華だったことか! 最後の最後 まで戦い続けた我が妹! 母を捨てた父の娘! 高津美冬は死んだ! 憎かった雌が、壊 したいとずっと願っていた雌が、死んだ!」  ついには地面に転がり、それでも彼は笑い続けた。 「そうだ、ずいぶん昔にも俺は自分の妹を殺したものだ! 仲間を売った妹! 俺の愛し た妹を奪った男の女! ははっ、そうか、思い出してきたぞ。ここだ、この場所だ。この 山で、俺たちは遊んでいたのだったな!」  本当に楽しそうに、目を輝かせて弦は半身を起こした。ぐるりと闇の中の木々を見渡し、 子供のような笑顔になる。 「こうして見ると、変わらないな、本当に」  膝に手をついて立ち上がると、弦は笑顔のまま木の一本に近づき、それに手を当てた。  そして。  顔を伏せると、押し殺した笑いに肩を震わせる。 「く……くくくくく。本当に、変わらなかったな。時を経ようが、生まれが変わろうが」  開かれた瞳は、金色。手を一閃させると、木は刃物に切り裂かれたかのような綺麗な切 り口を見せ、ゆっくりと倒壊していった。メキメキメキという音が加速し、隣の木を巻き 込んで倒れていく。  弦の手は、美冬がそうであったように、針のような細く鋭い爪を持つものに変わってい た。 「そうだろう、貞子?」  振り返った場所には、青い顔をした風弥が立っていた。風弥の視線は、倒れている美冬 に向かっていた。 「美冬姉さん……」 「安心しろ、すぐに貴様の命も狩り取ってくれる。全ては繰り返しだ、貞子っ」 「くっ」  地面を蹴って接近した弦の爪の一撃を、風弥は美冬のものに酷似した異形の手で払った。 そのまま手を弦に押しつけようとする風弥に、弦は口元に笑みを浮かべて距離を取る。 「思い出しているぞ、貴様の力。自らの細胞を相手に植え付け、侵食する力……かつて、 貴様はその力で一人の男を救った。──それが間違いだった!」 「あうっ」  高津家での時と同じように裏拳で殴られ、風弥が吹き飛ぶ。広さがあるためになんとか 体勢を立て直して膝をついた形で着地する。 「ふん……戦いに慣れていないようだな。どうした、貞子の記憶を解放してかかってこい」 「記憶はあります……だけど、わたしは貞子じゃないっ」 「貞子ではない……か。ならば、貴様はなんだ。貞子の記憶を持ちながら、風弥を名乗る か。それもよいだろう。だが、貴様が貞子であることに違いはない。いや、貞子を名乗っ た狩猟者であることに違いはない」  狩猟者は、と弦は言う。 「狩猟者はその時その時に応じての擬態を生み出す。貞子も、風弥も、一個の狩猟者の作 り出した擬態にしか過ぎない。狩猟者が過去の擬態の記憶をこれほど新たな擬態に送るな どなかなか無い例だ。そう、まるで貞子を、俺を、甦らせようとしているようだな」 「記憶があっても、わたしは高津風弥ですっ」 「随分なこだわりようだ。風弥としての擬態が、貞子としての記憶は受け入れても人格は 受け入れなかったようだな。美冬もそうだったが、それが貴様らの意志の強さか」  くだらん、と弦は吐き捨てた。 「その意志の強さが狩猟者の本能を封じ込め、力の解放を阻んでいると、気付かないのか。 あの夕花のように意志の全てを狩猟者に明け渡せば、まだまともに戦えるだろうに」 「自分の意志を……身体を明け渡すことなんか、出来ませんっ」 「それで自分が死んでは何にもならんぞ、貞子ぉ!」  鉤爪が風弥の二の腕を浅く切った。逃げる風弥を追い掛けながら、弦は言う。 「我々狩猟者は、遥かな昔にこの大地にやってきた。母なる生命のふるさとを離れ、幾星 霜の時を経て辿り着いたこの大地で我々がまずしたことは、小さな生物に自分たちを喰ら わせることだった」 「くっ」 「我々を喰らった生き物は他の生き物に捕食され、その生き物はさらに捕食され、その連 鎖の果てに我々はこの身体を手に入れた」  言葉を放つごとに風弥の身体に切り傷が増える。服が裂け、白い肌を闇にさらしながら、 風弥は必死で逃げ回った 「羊の身体を手に入れた我々は、知性ある生き物に混じる必然性から擬態という存在を生 み出した。赤子として生まれてくる擬態を羊どもは自らの子と思い育ててくれたので、時 代ごとの学習はたやすかった。そうやってある程度の学習を果たすと、我々は狩猟者とし ての意志を解放し、擬態と本来の姿を使い分けてその時代時代を生きてきたのだ」  弦の手が、風弥の腕を掴んだ。風弥がハッとし、鋭い目で弦を見たが、弦は唇の端を吊 り上げ、 「細胞など、侵食させるか」 「き……きゃああああ!」  赤熱化した弦の手により風弥の肌が焼けた。融解するほどの熱ではなく、しかし焼くに は充分な熱量だ。 「狩猟者は、群体生命体。細胞レベルの高度情報体が集まり、我々の身体を構成している。 我々が羊の姿をしているのは、読みとった羊の情報からそれを忠実に再現しているからだ。 だから、外部から他の狩猟者の細胞……情報を取り入れることによって、我々はその力を 取り入れることが出来る」  風弥には理解出来ない言葉だった。ただ、自分が人間ではないと言われたことだけはわ かり、焼かれる痛みに涙目になりながら叫ぶ。 「わたしは……人間……っ」 「くくく……何故我々の記憶が、情報が今の時代に残されているか、わかるか? 子孫を 残せなかった我々の情報を、肉を、あの男が、お前が愛した男が喰らったのだ!」 「なん……!?」  目を見開く風弥に、弦は息がかかるほど顔を近づけた。 「お前の情報を、あの男はお前を抱くことにより手に入れた。お前が生かすためにそうし たのだったな。そして、他の姉妹の、そして俺の情報を、あの男は肉を喰らい手に入れた。 より強い力を手に入れるためか……」  いや、と弦は自分で否定した。  否定し、憎悪を込めた瞳で風弥を見る。 「再び、全てをやり直すためか」 「ぎゃっ」  弦が額を風弥の額に打ち付け、悲鳴が上がった。痛みに歪む顔に、弦は二度、三度と頭 突きを繰り返す。  霞む視界で、風弥は弦を見つめて疑問をぶつけた。 「あなたは……鷲沢弦じゃ、ないの?」 「俺か? 俺は鷲沢弦だ。貴様の兄の、な」  そこにいるのは誰だろう、と風弥は思った。自分を鷲沢弦と言い、しかし狩猟者として の自分を語る者。擬態と狩猟者、両方が同時に存在することなど、有り得るのか。擬態が 狩猟者らしい言動をしては、擬態としての意味をなさない。だからこれは狩猟者なのだ、 と言うには、弦は鷲沢弦としてのこだわり──高津家への憎しみを根強く有しているよう な気もする。 「もういい。死ね」  弦の手が、腰だめに引かれて風弥の胸に狙いを定めた。  死にたくない、と風弥は思った。 (せっかく夕花がくれた命なのに……)  すぐそばで息絶えた美冬。  死の姿を見ることも適わなかった碧。  目の前で、自らの命を捨てて助けてくれた夕花。 (わたしまで死んでしまったら……っ)  脳裏にケイタの顔が浮かんで、風弥は自分を掴む弦の腕を掴み返した。赤熱化した腕が 風弥の手のひらを焼き、焦げ臭い匂いが広がった。ほう、と弦の目が小さな少女を見下ろ す。 「まだ、戦うか」 「わたしは……ケイタさんを守りたいっ!」  明るい、楽しい箱庭の家庭。それを壊し、真正面から見つめ合うことを望んだのは、風 弥だ。  姉たちだけに傷ついて欲しくなかったから。  本当の家族になりたかったから。 (力が欲しい)  力なら、あるはずだった。  夕花がそうだったように。  目の前の弦がそうであるように。  強大な、力が。 (貞子……力を、ちょうだい!)  風弥の意識が弾けた。                  ※  風が吹いていた。  なびく髪を手で押さえ、強い風に目を細めた風弥は、山の木々の中に立っていた。鬱蒼 とした木々に囲まれた風弥は、自分の前に立つ人物に微笑みかけた。 「こんにちわ、貞子」 「こんにちわ、風弥」  微笑みを返したのは、風弥と同じ顔をした少女だった。長い前髪に目を半ば覆い隠した、 時代錯誤な格好をした少女だ。  二人は、同じ顔をしていた。  だが、少し違ってもいた。  向かい合う二人の少女──風弥の手は、やわらかな少女の手。貞子の手は、血にまみれ た異形の手。風弥の瞳は微笑みながらも動揺を隠せず、貞子の瞳は微笑みの中に運命を受 け入れる諦観のようなものが漂っていた。 「お願いがあるの」  と、口火を切ったのは風弥だった。 「わたしに、力をちょうだい。あなたの持っている力を……ケイタさんを守れるくらい強 い力を」 「力……」  ふ、と貞子は微笑みを苦笑に変えた。どこか、幼子を諭す母親のような表情に風弥には 見えた。 「力を得て、どうするの。ケイタさんを守ると言っても、すでに二人の狩猟者を取り込ん だ彼には勝てないわ」 「ええ、きっと。だけど、少しでも傷をつけられればいい。何もしないよりは、ずっとま しよ」 「……ずいぶん変わったのね」  力強く言う風弥に、貞子は少し意外そうだった。風弥は、ふわりと微笑んで頷く。 「うん」 「……一つだけ」  と、貞子は指を立てた。血にまみれた指だった。 「一つだけ、言うわ。狩猟者としての貞子の人格は、長年風弥に押さえ込まれたことで、 消滅しかかっている。擬態が擬態ではなく、擬態こそが主となっているのが、あなたや美 冬姉さんたち。だから、人格らしい人格の無い狩猟者の本能だけを表面に出すと、その瞬 間に風弥の人格は壊れて──ううん、風弥だけじゃなく、貞子も消えて、獣のような本能 だけが残ることになるわ」  それでいい? と貞子は確認する。  ためらわず、風弥は頷いた。  静かな吐息。 「ケイタさんのことが、好きなのね」  貞子は、一歩踏み出して、風弥の頬に手を触れた。血の跡が自分の頬につくのも構わず、 風弥はそれを受ける。 「……そうね、愛すると強くなれるわ。風弥も、貞子も。あなたはケイタさんを愛して、 そして愛してもらって、幸せね」  少し寂しそうに、貞子は笑う。 「わたしも、愛してもらいたかったな……」 「あ……」  風弥は、言葉に詰まった。  そう、貞子はケイタに再会するはずだったのだ。全てをやり直すために。  その機会を、風弥は奪った。自分は貞子ではないと、貞子の記憶を持ちながら風弥とし てケイタに愛された。 「そんな顔しないで」  こつん、と二人の額が当たる。  囁くように、貞子は風弥に優しく言った。 「貞子の再会は、彼のことをずっと待ち続けた貞子に任せましょう。わたしは……あなた と一緒に消えるわ」 「わたしと一緒に……」 「ひとりぼっちのままで消えると思っていたから、心強いわ」  クスリ、と貞子はいたずらっぽく笑う。 「さようなら」  呟きが、そばなのに遠く風弥に聞こえ、 「わたしだけ、再会できずに終わり……か」  自分の中の貞子の願いを叶えてやりたいと、風弥はそう思った。                  ※ 「ああああああああああああ!」 「面白いっ」  目の前で黄金の瞳を輝かせる風弥を前に、弦は少女を掴む手に力を込めた。赤熱化した 手は、風弥の腕を焼きながら握り潰そうとする。それを、掴まれていない手で掴み返した 風弥は、ぎりっと歯を噛み締めて手に力を込めた。  ばきり、と先に砕けたのは──。 「ぐっ」  弦の腕だった。赤熱化させた分だけ脆くなった腕にヒビが入り、弦が離れる。風弥はそ れを追って異形化させた手を一閃させる。  風さえも切り裂きそうな斬撃が、弦の腹を横一文字に切り裂いた。  直後。 「……貴様の覚悟、見せてもらった」  弦の右腕の牙が、風弥の腹の肉をごっそりと食い破っていった。  がふ、と大量の血を吐いて風弥が前のめりに膝をついた。しばらく身体を震わせ、しか し風弥は身を支えることが出来ず、ついには倒れる。  真っ赤な血が、少女の身体の下から地面に広がっていった。 「己の消滅すら恐れない意志……やはり姉妹か。命の散華……その美しさを、俺は忘れる ことはあるまい」 「う……」  その時、風弥が呻いた。ピクリと弦の眉が跳ねる。 「まだ生きている? 力を解放しただけあって、大した再生力だ……」  腕を、振り上げる。 「苦しませず、逝かせてやろう」 「待てよ」  背中にかかった言葉に、弦は振り上げた腕を止めていた。思わず漏れてしまった笑いに、 弦は口元を押さえて振り返る。  そこに、ケイタが立っていた。                  ※ 「次から次へと、よくも」  半ば呆れた様子すら見せ、弦は目を細めてケイタを観察した。そして、ケイタの姿がい たって普通の人間であることに、失望の色を瞳に浮かべる。 「貴様は、何をしに来た」 「……風弥ちゃんから離れろ」 「こいつらを助けに来た、か。ご苦労なことだ」 「こいつら?」  疑問を表情に浮かべたケイタに、弦は親指で背後に倒れる美冬を示した。ケイタの目が 見開かれ、憎悪を孕んだ視線が弦に向けられる。 「てめえ……」 「何を怒る。殺人の禁忌か? そのようなもの、俺たち狩猟者には関係のないことだ」 「自分の妹だろうがっ」  肩をすくめ、弦はボロボロになったスーツの中から、一挺の銃を取り出した。激しい戦 いの中でも奇跡的に無事だった銃のセーフティーを解除し、弦は無造作にその引き金を引 いた。 「妹?」  口元に笑みを浮かべる。銃弾が掠った頬から血の筋を垂らすケイタを馬鹿にするように 見て、弦はケイタの恐怖をあおるように銃を構え直した。  さあ、怯えろ、逃げろ、と。  銃という人間の恐怖を突きつけ、弦は言う。 「羊たちの作った世界。道具に法。関係」  家族などと。 「そんなものに、意味が?」  貴様にはわからんよ、と。  優越感さえ持って。 「俺たちに、意味が!?」  答えられるはずがない。羊などに。羊の世界の関わりにこだわる、狩猟者の本能を封じ 込めた男に。  そう思って、弦は言葉を叩きつけた。  だが。 「だったら──」  ケイタは、弦を真正面から見据え、言った。 「……だったら、てめえが手にもってるそれには、何の意味が?」 「!」  弦はケイタを見た。ケイタは、銃を前にまったく怯んだ様子を見せていなかった。  むしろ、憎悪を含んだ視線は強く、弦という銃器以上の狂気を前にしても、衰えること がなかった。 「く」  だから、弦は理解して唇の端を吊り上げた。歪みが顔全体に及び、酷く違和感のある笑 みが形作られ、弦は声を上げて笑った。 「ククククク……ハハハハハ……」  そして。 「これは失礼」  手の中で拳銃をクルリと回転させ、弦は瞬間的に異形に変化させたその巨大な手で人間 の武器を握り潰した。砕けた銃器が内部の部品を散らばしながら地面へと落ちる。 「そうだったな」  ケイタの視線の力に、弦は気付いたのだ。相手が、ただの高津ケイタではないことに。  狩猟者のことを否定しない、弦の狂気に正面から言葉を放った男が、同類であることに。  ケイタが何を思い、そうなったのかは、弦にはどうでもよかった。ただ、ケイタの存在 が弦にとって大切なものを思い出させたのだ。  二重の、過去を。 「俺たちの間にあるのは、結局これだけだ」  目の前の男が、かつて自分がいなくてはならない位置で妹たちと微笑んでいたことを。  目の前の男が、かつて自分の愛する妹を騙し、狩猟者を壊滅させる原因を作ったことを。  思い出した。 「なあ」  だから、弦は異形と化した腕をケイタに向けながら、最大級の侮蔑の言葉を発した。 「兄弟──っ」  それが戦いの合図だった。