10  鷲沢弦は、闇の中で足を組んで椅子に座っていた。一介の若手刑事が住み込むにしては 豪華過ぎるマンションの一室で、かつて弦はそこに母親と共に住んでいた。 「あなたのお父様が、お金を用立ててくれているのよ」  儚げな、息子の弦から見ても守りたくなるような母は、このマンションに疑問を持つ弦 にそう言っていた。わかれた昔の恋人にどうしてそこまでするのか、弦にはわからなかっ た。未だに愛人関係が続いているわけでは、無かったのだ。 「あなたがいるからよ。やっぱり、自分の息子だもの」  母は誇らしげに言った。父は──高津憲斗は、母を妻とすることは出来なかったが、そ れは政略結婚のせいだ。憲斗の心は、自分たちにある、と。  そう言い続けて、母は病気で死んだ。  母が死んだ夜、弦は母の亡骸に向かって、彼女が生きていた時にどうしても言えなかっ た言葉をようやく口にすることが出来た。 「あの人は、あんたのことなんか愛していなかった。あの人の心は、あの子たちのもとに ある」  中学の頃、弦は一度だけ母に黙って父の顔を見に行ったことがあった。夏休みを利用し てのことで、同じ市内にある高津家に向かった。もちろん周りの目もあるだろうから名乗 り出るつもりはなかった。ただ、一度写真でしか知らない父の顔を見てみたかっただけだ。  高津家の塀を眺め、そこからどうしようと迷っていた弦だったが、父との遭遇は意外と 簡単に叶った。小さな子供たちをたくさん連れ、憲斗が門から出てきたのだ。  弦は、憲斗に自分がわかるはずがないと思いながら、しかしやはり子供心に親ならば一 目で息子をわかってくれると、どこかで期待もしていた。  だが、初めて見る本当の父親の姿に緊張し、唾を飲み込んだ弦の横を、憲斗は一瞥もせ ずに通り過ぎた。  わかっていても、それでも傷ついた弦は、振り返り、そして見た。  元気の良いやんちゃそうな少年。その少年にじゃれつく、三人の幼い姉妹。一歩退いた ところで微笑む、自分よりやや年下の少女。  それらを優しい目で見つめる、父の姿。  その時、弦は理解したのだ。  憲斗には家族がある。自分たちへ送っている金は、愛情などではなく、やはりただの金 なのだと。  その時見た父親。幸せそうな子供たちのことを、弦は絶対に忘れない。──眩しすぎる 微笑みだった。  それから母が死に、刑事となっても弦には一つの疑問があった。母が死んでも──それ こそ憲斗が死んでも、弦の口座に対する仕送りは終わることがなかった。振り込み人は叔 父に代わっていたが、そのことが弦に疑問を与えた。  何故自分に金を与えるのか。  叔父も死に、そして、最近になってようやく弦はその理由を知ることになった。 「くくく……常に俺の居場所を確認し、監視していたのだろうが、もはやその監視も俺に はない」  明かり一つ無い部屋で、窓にもカーテンを引いて弦は一人口元を歪めた。 「俺は、狩猟者の力を手に入れた……圧倒的な力……屑どもとは違う力を……」  静かに、弦は椅子から立ち上がる。シャッとカーテンを勢いよく開けると、朝の街並み が一望出来た。マンションの下を駆け抜ける、小さな子供たちの姿に弦は顔を歪める。  ──笑みの形だ。 「屑どもめ」  弦は昨夜のスーツのまま、そこに立っていた。スーツの上半身は血にまみれ、弦の顔に 眼鏡はない。 「美冬、風弥、夕花……」  笑みのまま、彼は言った。 「兄さんが、お前たちに教えてやる。同じ血を持ちながら、同じ場所で育つことが出来な かった俺が、可愛い可愛いお前たちに」  それは鬼ではなく、弦の言葉だ。 「憎しみを」  それは狩猟者の本能ではなく、一人の人間の感情──憎悪の言葉であった。                  ※  さすがに仕事を休むことは出来ない美冬が家を出ると、高津家にはケイタと風弥だけが 残された。朝から連続した衝撃にすでにケイタは疲れ切っていたが、風弥を一人残すわけ にはいかず、居間でテレビを見続けた。もっとも、その目が画面に向かっていても、内容 はまったく脳に届いていなかったが。  風弥もケイタと同じ気持ちなのか、側を離れずにじっとテレビを見つめていた。やはり 上の空のようだが。 「……ケイタさん」 「ん? なんだい、風弥ちゃん」 「碧姉さんのことなんですけど……」 「…………」  風弥は真っ直ぐテレビを見ながら言った。ケイタは、チラリとその横顔を見て、自分も テレビを向いたまま、促す。 「……碧の、こと?」 「はい」  風弥はその長い前髪の下で瞳を迷いに揺らしていた。自分が言おうとしていることが本 当に言ってよいことかどうか、自信が無いのだ。  画面の中が、CMに切り替わる。そのタイミングで、風弥は迷いを持ったまま口を開い た。 「碧姉さんは、ケイタさんのことが好きでした」 「……ああ、俺も碧のことが好きだったよ」 「家族としてだけじゃなく、一人の女として」 「え?」  口を開け、呆けた顔で風弥の横顔を見るケイタ。風弥は瞼を下ろし、膝の上で拳を握り 締めながら言う。 「本当は、こんなこと言わない方がいいのかもしれませんけど……きっと、碧姉さんはケ イタさんにそのことを知ってもらいたかったから。恋人同士になれたらいいなって、きっ と碧姉さんは思っていたから……だから、言います」  ケイタは開いた口が塞がらなかった。何とか受け入れようとしていた碧の死。しかし、 それは死体も何も見ていない、風弥たちの悲しみと、座る者の無い空席だけが示していた 事実だった。 (碧が俺のことを好きだった?)  馬鹿な、とケイタはその言葉を一蹴しようとしたが、出来なかった。  碧の顔を思い出す。  怒った顔。  呆れた顔。  そして、笑った顔。  もし彼女が自分に恋をしていたと言うのなら。その想いを秘めたまま、ケイタの話を聞 き、独り狩猟者との戦いに向かったのだとしたら。 (俺は、あいつに、何をしてやれた?)  開いていた口を今度はきつく閉ざし、ケイタは自分への嫌悪に顔を歪めた。 「もっと早く気がついてやっていれば……もしかしたら……」 「……それでも、碧姉さんは行ったと思います」  ケイタの胸に、風弥の言葉が刺さる。 「ケイタさんのことが、好きだったから……」  守るために。 「碧……」  風弥の言葉が、碧の顔をケイタの脳裏に描かせ、その笑顔が二度と自分の前に現れるこ とがないのだと自覚した時。  ケイタは、顔に当てた指の間から、涙をこぼした。  それは、ケイタが碧のために流した初めての涙だった。                  ※ 「涙?」 「会長、どうかされましたか?」 「い、いえ、なんでもありません。今日はいい天気ですにゃー」  思わず運転手はハンドルを切り損ねて事故を起こしそうになった。 「会長……あんた誤魔化すのが壮絶に下手だよ……」 「あはは」  照れ笑いを浮かべて頭を掻く美冬は、運転手が視線を前に戻したのを確認してから、不 思議そうに自分の目元に手をやった。 「私じゃない? 誰?」  涙の感触があったそこに、涙はない。流れる街の風景を眺め、美冬は小さく呟いた。 「そう言えば、私ももう絶対に泣かないと叔父様に約束したのに……駄目ね。家族を亡く す悲しみに慣れることは出来ないわ」  その瞳は、愁いから、段々と鋭さを増していく。 「私から大切な妹を奪ったもの……覚悟しなさい。あなたの居場所はわかっている。どこ に逃げようと、この私が狩り殺してあげるわ……っ」  一瞬煌めいたのは、人ではありえない金色の輝き。  普段の美冬からは想像も出来ない、深い憎しみの瞳であった。                  ※ 「あ……っ」 「おはよう、夕花。……って、どうしたの?」 「う、ううん。なんでもない」  学校の教室で、鞄から教科書を出しながら目元を押さえた夕花に、クラスメイトが訝し げな顔をする。夕花は慌てて手を振って誤魔化したが、目に走った痛みに、もう一度その 目を押さえる。 「痛い……っ」  ゴミが入ったのかと夕花は思ったが、刺すような痛みは経験したことがないものだ。大 声で悲鳴を上げなかっただけ、夕花の自制心は大したものだと言える。  だが。 「……っ!」  再度目に激痛が走り、夕花は声にならない悲鳴を上げてその場に座り込んだ。 「夕花!?」  クラスメイトたちが驚く中、夕花は手で目を押さえて悲鳴を上げた。その痛みは、まさ に針で目を刺したかのような、神経を引き裂かれるような壮絶なものだった。 (痛い……助けて──!)  わけもわからず、夕花は心の中で救いを求めた。 「っ!」  だが、その心の叫びさえも、三度目の激痛は吹き飛ばし、夕花は大声で悲鳴を上げての たうち回った。 「い……やあああああああああ!」                  ※ 「……なんだ?」  シャワーを浴び、新しいスーツを取り出していた弦は、自分の目に感じた違和感に眉根 を寄せた。 「涙……か?」  縁の無いものだが、流した経験が無いわけでもない。指で目元に触れた弦は、しかしそ こに濡れたものがないことに、訝しげな顔をした。 「……ふん」  あまり気にすることなく、弦は手早くスーツを着込み、予備の眼鏡を顔にかけた。そう すれば、もはや誰も弦が鬼を内に秘めた殺戮者だとは思わない。 (羊の群に混じるための擬態……か)  そのことすらおかしく感じ、弦は唇を歪める。 「狩猟者よ。お前は羊を愚かと言う。確かにその通りだ。だが、お前もその羊の群に混じ らなければ生きていくことが出来ない生き物だ」  自分の内側へと、彼は語りかける。 「お前が存在するには、俺という表の顔が必要不可欠。俺たちは対等だ。俺の目的のため に、お前の力、役立ててもらうぞ」  笑うその顔はすでに狩猟者そのものであり、語る弦とそれを聞く狩猟者の間に明確な違 いを見いだすことは、すでに彼自身にも出来なくなっていた。  二つは、すでに一つと化していたのかもしれない。                  ※ 「……っ!」  テレビを見ていた風弥が唐突に目を押さえた。ガタン、とテーブルを揺らしたその動作 に、涙を流していたケイタはハッと風弥を見る。 「風弥ちゃん!?」 「な、何でもありません……つうっ」 「なんでもないってこと無いだろっ。見せて」 「あ……」  強引に風弥の手首を掴み、ケイタはその細さにためらった後、風弥の目を見た。その目 は充血し、白目の部分が真っ赤になっている。 「いきなり……どうしたんだ?」 「わかりません……あの、大丈夫ですから」  風弥の視線が自分の手に向かっていることに気づき、ケイタは慌ててそれを放した。思 いの外強く握っていたのか。風弥の手首はうっすらと赤くなっていた。 「ご、ごめんっ」 「いえ……」  わたわたと意味もなく手を動かすケイタに、風弥はほんの少し照れたように首をすくめ た。そして、言う。 「あの……ケイタさん」 「な、何かな?」 「碧姉さん、ケイタさんのことが好きでした」 「ああ……」  目を伏せて、頷くケイタ。涙はまだその目にある。風弥は、ケイタが碧のために流した 涙をどこか羨ましそうに見つめながら言った。 「でも、碧姉さんだけじゃないんです。美冬姉さんも、夕花も、それにわたしもケイタさ んのことが……」  ためらいを切り捨てなければならない時を、少女は知っていたのか。  勇気を出しての告白でもなく、恥じらいもなく、ただ事実を伝える声音で風弥は言う。 「好きです」 「あ……」 「だけど」 「え?」 「わたしだけは、わかりません」  それは、不思議な言葉だった。好きだと言いながら、自分だけはわからないと言う風弥。 ケイタが理解しないうちに、風弥は無表情に続ける。 「わたしの想いがわたしの想いと、わたしには言えません」 「風弥ちゃん?」  告白された喜びなど微塵も感じることが出来ず、ケイタは風弥に手を伸ばした。だが、 風弥はかぶりを振ってそれを拒む。 「ごめんなさい……今は、黙って聞いて下さい」 「あ……うん」  拒絶とも取れるその言葉に、ケイタは戸惑った。少なくとも、風弥はケイタを嫌っては いなかったはずだ。むしろ、ケイタを慕っていると美冬や風弥本人の口から聞いていた。 そして、今も風弥はケイタのことを好きと言ったのだ。  なのに、風弥の雰囲気はケイタが触れることを拒んでいた。 (あ)  ケイタは少女の拒絶がどこから来ているのか、理解した。 (戸惑って、怖がってる?)  無表情を保とうとしている風弥の瞳が、不安定に揺れていた。その戸惑いは、今ケイタ が感じているものよりもずっと大きい。 (何にそんなに戸惑っているんだ?)  口にしたいと思ったが、言葉はすでに風弥によって封じられている。しばらくして、風 弥が再び語りだした。 「……風弥は、昔からケイタさんのことが好きでした。夏に遊びに来てくれた、頼りにな るお兄さんを、風弥は大好きでした。一緒に山を駆け回ってカブトムシを捕ったり、川で 泳いだり、釣った魚を食べたりしたお兄さんを、好きでした」 「……は?」  違和感。 「お父さんがいなくなって、叔父様がやって来て、叔父様が色々としゃべってくれるケイ タさんの話が、風弥は大好きでした。一緒に過ごしたのはほんの短い時間だったケイタさ んが、大好きなお兄さんが、成長してどんな人になったのか、叔父様の教えてくれたこと から想像して、自分の憧れにしていました」  語りながら、風弥は寂しそうな顔をしていた。その寂しさがどこから来るのか、ケイタ は知らない。 「どうしてそんなに好きなのか、風弥はわかりませんでした。漠然と、恋というのはそう いうものだと、そう思っていました」  だけど、と。 「だけど、何かが違う、と思ったのはケイタさんがここに来てからでした。ケイタさんは 風弥が思った通りの人で、風弥は嬉しかったです。恥ずかしくて、なかなか話すことも出 来なかったけど……近くにいられるだけで風弥は幸せでした。そんな時、みんなで、ケイ タさんが夏に来た時の思い出話をしました」 「あ、ああ。確か」 「その時、気付いたんです。自分の記憶が、随分と間違っていたことに」  その通りだった。ケイタが感じた違和感は、風弥の思い出。  一緒に山を駆け回った。  カブトムシを捕った。  川で泳いだ。  釣った魚を食べた。  ──そんなことは、風弥とはしていない。碧と一緒に泳いだのも、湖でのことだ。  ケイタがそのことに気付いたことがわかったのか、風弥がフッと小さな笑みを浮かべる。 その笑みが妙に疲れたものに見えて、ケイタはドキッとした。 「ケイタさん。自分の中に、自分以外の人の記憶があったら、どうしたらいいんでしょう か? 誰かのことを好きだという記憶が、自分の記憶じゃないとしたら、どうしたらいい んでしょうか? わたしはケイタさんのことが好きです。だけど……温めてきた思い出が、 自分の記憶じゃないとしたら、この想いはどこに行ってしまうんでしょうか……?」 「風弥ちゃん……」  ごく、とケイタは唾を飲み込んで無理をして笑った。 「そんなの、気にしなくていいんじゃないかな。記憶間違いなんか、誰にだってあるよ」 「『ほら、手を貸せよ、貞子』」 「は?」  いきなり意味不明のことを言った風弥に、ケイタは呆けた。風弥は、顔を歪め、泣き笑 いのような顔になった。 「優しい言葉に胸を高鳴らせたことも、握った手の温かさも……全部、覚えているんです。 忘れられない、死んでも忘れないと思った大切な想いなんです。だけど、わたしは……」  一歩、風弥は歩を進めた。小さな身体がケイタの胸に当たり、反射的にケイタはその肩 に手を添える。 「風弥ちゃん……君は……」 「わたしは、貞子じゃない。風弥なのに……風弥なのに、貞子の記憶がわたしにはあるん です。思い出が、優しくて……苦しくて、捨てられない。大好きなんです、ケイタさんが。 わたしも、貞子も、大好きなんです。大好きなのに……二人とも大好きなのに、貞子の好 きだけがはっきりしてる。わたしの、風弥の好きは、どこから来たんでしょうか。貞子の 好きが移っただけなんでしょうか? そんなの……っ」  小さな手が、ケイタの服を掴む。その手が震えていることに、少女があまりに小さく、 消えてしまいそうなことに、ケイタはたまらない気持ちになった。 「そんなの、わたしは……っ」 「なんで君が苦しむんだ! 風弥ちゃんが苦しむことなんかない。君は、君だ。貞子じゃ ない、風弥ちゃんだろう!?」 「だけど……わたしの中には、貞子の想いがあるんです。好きだ、好きだって……わたし の想いとまったく同じで……わたしには、どこからどこまでがわたしの想いなのか、もう わからないんです……っ」 「じゃあ、今の俺は貞子の思い出にあるのか!?」 「!」  小さな肩を掴んで風弥を引き剥がすと、ケイタは目を見開いた風弥の顔を上から覗き込 んだ。ガクガクと、等身大の人形のように揺すられ、風弥はようやく口を動かす。 「今の……ケイタ、さん?」 「昔の思い出が混乱してるのはわかった。なら、今の俺は? 風弥ちゃんは、子供の頃の 思い出が無いとしたら、今の俺を好きになるか!?」 「そ、そんなこと……わたしは、ケイタさんが好きで……」 「その好きを全部取っ払って、今こうやって風弥ちゃんの前でしゃべっている俺だけを見 て、風弥ちゃんは好きになれるのか……答えてくれ」 「ケイタさんは……」  呆然としていた風弥の顔が、くしゃりと歪んだ。ケイタが見つめる中、風弥はケイタの 視線を真っ直ぐに受け止めて、そしてやはり堪えられずうつむいて瞼をぎゅっと閉じた。 その目からポロポロと涙がこぼれていく。  ケイタに肩を掴まれ、逃げることすら封じられた風弥は、うつむいて泣きながらその言 葉を言う。 「好き……です。嫌いでも、今ここでわたしの前にいてくれるケイタさんを、きっとわた しは好きになります。貞子も、ケイタさんが好きです。だけど……」  何度目かの『だけど』で。 「高津風弥は、誰よりも、高津ケイタを愛しています──」  風弥は、迷いなくケイタの唇に口接けた。  柔らかい、小さな唇だった。                  11  風弥の身体は、ケイタの手に意外なほどやわらかな反応を示した。その身を隠す服を脱 がす時も、膨らみのあまり見られない胸に指を這わせた時も、少女は恥じらいこそすれ、 抵抗らしい抵抗はまったくと言って良いほど見せなかった。しっかりと閉じた両の足を開 かれた時にはさすがに力が入っていたが、それもケイタに頬を撫でられてすぐに開かれる ことになった。  少女の身体は、甘かった。可憐な唇も、白く細い首筋も、薄い桃色の胸の突起までが全 て甘く、香しい香りがケイタの鼻をくすぐった。舐める度に、舌で転がす度に、指で掻き 回す度に風弥は甘く、ケイタを駆り立てる芳香を放つ。女として未熟なはずのその身体は、 しかしケイタの雄を刺激する雌の香りを持っていた。甘く、甘く、ケイタは恍惚として少 女の身体を貪った。  一つになった時、風弥は声を押し殺して涙を流したが、その少女に促されてケイタは腰 を動かした。奥へ、奥へと。それは、彼女が長年望んでいたことであった。ベッドの上で シーツを握り締めながら、風弥は自分の上で汗だくになって身体を動かす男を涙目で見上 げていた。痛みすら甘美な想いを、風弥は全身を使って男に伝える。成長しきらない身体 は重い男の身体に苦しみを覚えたが、下腹部を内側からこすられる何とも言えない感覚を 共有しているという思いが、少女を気が狂うほどに喜ばせていた。  嬉しいです、と繰り返し自分の名前を呼ぶ風弥に、ケイタは手加減らしい手加減をしな かった。風弥のような未熟な少女を組み敷く罪悪感も、他の従姉妹たちへの想いも、風弥 の肢体の魅力の前には小さなものだった。ただ、けなげに自分を受け入れる風弥が愛おし く、ケイタはどんどん動きを速めていく。自分のものが少女の濡れた膣を押し開き、何度 も何度も犯していくことに、ケイタは堪えようの無い恍惚感を感じていた。誰かを抱くと いうことに、ケイタは夢中になった。 「ひぁ……っ!」  声を上げ、何度風弥が身体を震わせて絶頂に達しても、ケイタは構わずにその身体を抱 き続けた。絶頂の余韻にひたる間もなく自分の中で動くケイタのものに、風弥は泣きなが ら笑みを浮かべる。ケイタはその風弥の口元から流れる唾液を舐め取り、獣のように唸っ た。  絶頂が重なり、少女は自分の中の最後の部分まで男に犯し尽くされた。                  ※  ──夢を見た。  森の中に、一人の少女が立っていた。顔が隠れるほどに前髪を伸ばした少女。わずかに 覗くその瞳の色は、金。  少女の後ろには、具足を身につけた男がいた。はだけた胸には斜めに大きな傷跡があり、 見る者が見れば、それは決して治癒するはずがない致命的な傷であることがわかっただろ う。  だが、青年は立ち、背を向ける少女を見つめていた。  長い沈黙。 「来ないでください」  青年が踏み出したわずかな音を聞き取ったのか、少女が鋭く言った。その言葉にある拒 絶に、青年はためらいの表情を見せる。 「これは、気まぐれです。狩猟者の雌が、雄の種を求めただけ。そして、わたしと交わっ たあなたは狩猟者の力を得ました。狩猟者は、狩猟者を狩ったりはしない。だから、あな たを逃がします。人の村へ、帰りなさい」 「……なんで、俺を選んだ」 「気まぐれだと言ったはずです」 「違うだろう、貞子っ」 「!」  ビク、と少女の肩が震えた。その細い肩に向かって、青年は手を伸ばした。逃げようと する動き。その動きを封じ、青年は少女の両肩に手を置き、抱き寄せる。青年には見えな い、前を向いたままの姿勢で、少女の瞳は大きく見開かれ、揺れた。 「……戻ってきたんだ、俺は」 「……でも……」 「今は何も言うな」  青年の裸に胸を後頭部に感じ、少女は瞳を潤ませる。 (違う……わたしは狩猟者で……)  悲しみなど知らない生き物。  殺戮の本能のままに生きる生き物。  事実、少女はそのように生きてきたのに。  彼を、助けてしまった。一目で、彼だとわかった。思い描いていた、成長した幼なじみ。  掴まれた肩が、熱い。 「すぐに、お前だとわかった」  こんな再会でなければ、素直にその顔を見つめることも出来たかもしれない。 「例えお前が何であろうと、俺の想いは変わらない」  聞いてはいけない。  この手を振りほどき、この男を切り裂き、殺さなければ、狩猟者である自分を否定する ことになる。  少女の手が、手刀の形に伸ばされる。その手は瞬時に硬質化し、鉤爪を有する異形のも のへと変化する。青年は、そのことに気付かない。 (……わたしは……っ)  迷いを振り切るように、少女は振り返ろうとした。  だが。 「約束を、果たそう」  振り返ることが、出来なかった。  青年の腕の中で、背を向けたまま少女は泣いた。声を押し殺して泣いた。  二人は、いつまでもそうしていた。  ──夢の中の光景だ。                  ※  夢から醒めると、目の前に風弥の顔があった。一瞬驚いたケイタは、しかしすぐに微笑 んでその安らかな寝顔の頬に口接ける。一糸まとわず動物のように身体を丸めて眠る風弥 を横に上半身を起こしたケイタは、部屋を見回して時計を探した。  風弥の部屋のベッドから見つけた時計は、午前十二時を示していた。 「風弥ちゃん」 「ん……」  細い肩を揺すると、風弥は小さくむずがるような声を上げて薄目を開けた。そして、直 後にその目がバチっと開く。 「あ……っ!」 「え?」  いきなり真っ赤になってシーツをかき寄せた風弥に、ケイタは何事かと目を丸くしたが、 すぐにその事実に気が付いて自分も照れた。 「いや、その……ごめん」 「いえ……」  カーッと首まで朱に染めて風弥がうつむくと、ケイタはチラリとシーツから覗く風弥の 肢体を盗み見た。 (やば……)  白い風弥の身体には、胸といわず腹といわず、内股、背中、さらには服を着ても隠すこ とが出来ない首筋にまでくっきりと口接けの後が残っており、少女に何があったのかを端 的に示していた。 「あ、あの……風弥ちゃん」 「な、なんですか?」 「えー」 「は、はい」 「うー」 「は、はい」 「ご、ごちそうさまでした」 「お、お粗末様でした」  ペコリ、と何故か正座してお辞儀してしまう風弥である。  こほん、とケイタは咳払いをして、不意に真剣な顔になった。 「その……風弥ちゃん。本当に、俺なんかでいいのか?」  その問いの意味を、少女は理解したのだろう。少女は、微笑んで頷いた。 「はい。わたしは……ケイタさんが好きです。貞子のことも、何も関係なく、わたしが」  それは、ケイタが初めて見る、風弥の晴れやかな笑顔であった。                  間5  夢。  夢を見ている。  遠い過去の夢だ。  俺は過去にいったい何と呼ばれていただろう。俺は過去に誰を愛していたのだろう。狩 猟者が誰かを愛するなど笑止だが、確かに俺は誰かを愛していたはずだ。  しかし、それが誰かはわからない。  狩猟者である俺が愛することが出来た理由も、わからない。  狩猟者に愛はない。  では、何故俺は愛することが出来たのだろう。                  ※ 「知らんな」 「どうした、鷲沢」  小さく呟いた弦に、隣を歩いていたお座敷猫が尋ねた。まさか聞こえるとは思わなかっ た弦は、少し驚いて応える。 「いえ、暑いなと」 「脱げばいいじゃないか」 「そうですけど、警部のように袖までまくるのはどうかと思いますよ」  苦笑を見せ、弦はスーツの上着を脱いだ。それだけで随分と涼しくなるが、照りつける 夏の陽射しは相変わらずだ。九月になっていても、それは暦だけのことである。  腕時計を見て、弦はお座敷猫に言う。 「警部、自分はこれから例の情報の提供者と会ってきます。その後に食事を摂ってから署 に戻りますので、先に戻っていてください」 「ああ、高津家の前会長が夜に徘徊していたという情報を提供した女記者か。また新しい ネタでも見つけたのかね」 「らしいですよ。まあ、半分ガセだと思いますけどね。高津家のアレは事故でしょう」 「お前はそう思っているのか?」  普段凡庸なお座敷猫の目が、一瞬鋭く輝いたのを、弦は見逃さなかった。お座敷猫は、 顎を撫でて面白そうに言う。 「あれはな、他殺か自殺だよ。どんなに綺麗な仕事をしていても、大手会社ってのは知ら ないところで恨みを買うもんだ。その線の他殺か、まあ、今言った通り自殺だな」 「ですが、自殺する理由など、ありますか?」 「あるんじゃねえのか。周りには秘密にしていた精神的な病気で発作的に、とかよ。その 辺りのことをあの高津のお嬢さんから聞きたいんだが、ガードが堅い。若いのに大したも んだぜ」 「精神的な、病気、ですか」  知らず、弦はお座敷猫よりも前を歩いていた。無意識に、表情を見られることを避けた のだ。 「おう、精神的な病気だ。そればっかりは、遺体からじゃわからんからな。そうだな、そ の病気は遺伝性のもので、たまーにこの街で起こるわけのわからねえ殺人事件。あれの犯 人が歴代の高津家の当主だ、なんて話なら、伝奇物として本でも作れるんじゃねえのか?」 「……警部、真面目に考えて下さいよ」 「ははは。すまんすまん。おう、じゃあがんばってこいよ。相手は妙齢の美女だ。妙な気 を起こすんじゃねえぞ」  苦笑して肩をすくめ、弦はお座敷猫に一礼してその場を去っていった。そして、お座敷 猫の気配が感じられなくなると、弦は舌打ちする。 (あの男……どこまでが本気だ。警察学校を出たエリートだが、上司に逆らって左遷。署 でも無能の厄介者扱いをされているが、奴の部下になってこの数年、奴が事件の先を読み 間違えたことは無い)  普段の言動を見ていると、名前ばかりの警部に見えるというのに、時折見せる鋭さを弦 は知っている。 (俺に黙って裏で何かを探っているのか? 俺には、高津家から金を送り込まれていた過 去がある。そこから探りを入れられると、面倒だな……)  無能ならば良い。だが、無能だと思っていた相手が自分を脅かす存在であれば──。 (羊の仮面を見破られる前に、消すか)  悩むこともなくその結論に達すると、弦は脱いだ上着のポケットから一枚の名刺を取り 出した。目を通し、相手の名前を確認する。 「フレキ・オゥディンか。鬼の伝説と高津家の秘密を探ったりしなければ、長生き出来た ものを。半端な好奇心は、死に繋がることを、教えてくれる」  ゴリ、と口の中で牙をすり合わせて弦は呟いた。 「さあ、狩りの時間だ」                  12  朝に目に激痛を感じて気を失った夕花は、ちょうど昼に保健室のベッドの上で目を醒ま した。連絡を受けた美冬が迎えに行くというのを、彼女の仕事の邪魔は出来ないと遠慮し、 夕花は一人学校を早退することにした。 「なんだったのかな……」  実を言うとすっかり痛みはなく、早退するのも後ろめたい夕花であったが「図書委員の 仕事? そんなもの先生から交代してもらえるよう頼んでおきます」と、追い出されるよ うに早退させられてしまった。  だが、首を傾げながらも夕花は前向きに考える。 (帰ったら、ケイタお兄ちゃんにお昼御飯を作ってあげよっと)  風弥が家に残っているが、実を言うと風弥は料理が下手である。それはもう下手である。 美冬には絶対に作らせるな。出来るなら風弥にも作らせるな。それが高津家の暗黙の了解 になっている。 (食べられないってほどでもないんだけど……)  なまじ、碧や夕花の料理が見事な分だけ、見劣りしてしまうのだろう。その意味では、 風弥などは年相応の料理の腕前なのかもしれない。  そのようにして、昼の献立を考えながら歩いていた夕花は、唐突に感じたものに手で口 を押さえた。 「……え?」  いきなりの、不快感。嘔吐感にも似たそれに、夕花は顔からサッと血を引かせてその場 に立ち止まった。 「やだ……何……これ……」  朝の激痛と同じような、原因不明のそれに、夕花は苦しそうに瞼を下ろした。すぐそば にあった民家の壁に背を預ける。 「気持ち……悪い……」 「どうかしたか」  声に、夕花は顔を上げた。霞む視線の先に、眼鏡をかけた青年の姿を認め、夕花は思わ ず呟いた。 「ケイタ……お兄ちゃん……?」 「違うな」 「あ……」  青年は、ケイタではなかった。だが、見覚えのある顔に、夕花は苦しげな顔を和らげる。 「……刑事さん……」 「どうした、苦しいのか?」 「大丈夫……です……」  無理に微笑みを作り、膝に力を入れて壁から背を離そうとした夕花は、しかし膝がカク ンと折れて前のめりに倒れた。その身体を、青年──鷲沢弦は眉根を寄せて受け止める。 「……大丈夫には見えないな。日射病か」 「わかりません……急に……」 「急に、か」  弦は、自分の腕の中で苦しげに呼吸する夕花の細い身体を見下ろして、口元を歪めた。 「俺も今わけもわからず頭痛がする。奇遇だな」 「そう……ですね」  冗談を言われたと思い、夕花は口元をほころばせた。どんな相手だろうと、自分を気遣 って何かをしてくれた人には、微笑みを返す。夕花らしいそれに、弦は微かに不快そうな 顔をした。 「ちっ」 「刑事さん?」 「いや。立てるか?」 「はい……大丈夫です」  辛そうにしながら、しかし真っ青な顔のまま夕花は頷いた。夕花の性格なら頷かないは ずがないと弦はあらかじめ思っていたので、ためらいもなく支えていた手を外す。 「あ……っと」  倒れそうになり、だが夕花は自力でバランスを取り戻した。そして、ニッコリと笑う。 「ありがとうございました、刑事さん」 「いや。一人で帰れるか?」 「はい。ご迷惑をおかけしました」 「通りすがっただけだ。仕事の途中だしな」 「お仕事、がんばってください」 「ああ。気をつけてな」 「はいっ」  花のような笑顔が、弱々しく咲いた。相手に心配をかけまいとする、弱々しいながらも 強い笑顔だ。それを見た弦は、ギリッと唇を噛んだ。 「ふん……」  背を向けた夕花に、弦の鋭い視線が向かう。昼時の時間、辺りには他に歩く人間はいな い。それを確認した瞬間、弦の右手がビクンと痙攣した。  右手の肌を割り、爆発的な勢いで腕が異形へと再構成されていく。信じがたい細胞増殖 はCG映像でも見るかのような速度で腕を変形させ、その手には凶悪な鉤爪が生み出され た。  タン、と弦の革靴の底がアスファルトを蹴って夕花へと向かった。静かなそれに、夕花 は気づきもしない。  鉤爪が振り上がった。 「…………」  だが、弦はその腕を振り下ろさなかった。小さな少女の後頭部は、鉤爪で瞬時に消し飛 ばすことが出来るはずだ。それでも、弦は夕花の髪に触れるか触れないかの場所で爪を止 め、ゆっくりとその手を握り締めた。  一歩、二歩、と夕花の身体が遠ざかる。鉤爪が届かない位置に達するのは、すぐだ。  その少女の後ろ姿を凝視しながら、弦は握り締めた拳をゆっくりと自分の胸元に戻し、 その手の異形を解いた。  そして、ぎこちなく、唇を歪めた。 「つまらん……な。狩猟者の力も持たぬままの小娘を殺しても、何の意味もない」  ふん、と今度は見下したような表情になり、弦は夕花とは逆の方向に歩を向けた。 「うん?」  気づき、弦は自分の額に手を当てた。 「頭痛が、消えたか。同族同士の共鳴とでも言うのか?」  答えはわからなかったが、妙に晴れ晴れとした気分で、弦は歩き出した。  一人の記者を処分するために。                  ※  彼女は、山の中でも最も背の高い木の先端に立ち、唄っていた。  夜空へ向け、どこまでも、どこまでも届くその声。時には人間の耳には届かない、動物 のための音域さえ使い、彼女の歌は山の全ての場所へと響き渡っていた。  唄う少女の姿は、月に重なり、影になっている。だが、その特徴的な影は、少女が人間 と呼ばれるべき生き物ではないことを示していた。  髪から飛び出した、長い耳。影の中、そこだけが異様に輝く、黄金の猫の瞳。その背に は細長い、飛ぶには用いれそうもない翼のようなものが伸びている。  魔物。人々は少女のことをそう呼んでいた。もっと直接的に鬼と呼ぶ者もいた。  雨月山の、唄う鬼。その歌が響き渡る日、必ず村の誰かが姿を消し、そして数日後に無 惨な死体が発見されるのだ。  だが。 「……来たんですね」  歌が、止まった。  少女が見下ろすと、木の下には一人の青年が立っていた。具足を身につけた、逞しい上 半身をさらした青年だ。その胸には、冗談と思うくらい大きな傷跡があった。  険しい顔の青年に、少女は静かに告げる。 「貞子姉さんは、あなたに会いません。お引き取り願えますか」 「唄っていたのは、お前だったのか……」  苦い、あまりに苦い青年の言葉に、少女は猫の瞳の上の眉毛をピクリと動かした。 「私なら、何なんですか?」 「……もうこんなことはやめろ。あの村は、お前のふるさとだろう!」 「ふるさと?」  ク、と少女は唇の端を持ち上げた。同時に、その顔を星が落ちてきそうな夜空へと向け る。 「私のふるさとは、遠い遠い場所なんです。きっと、あなたにはわからないでしょうけど」 「遠い……? 村に移ってきたとは聞いていないが……」 「生まれたのは、村ですよ。……あなたたちにわかるとは、思いません。村とか、国とか、 そういう範疇の故郷じゃない、生命のふるさと。そこ以外に、わたしたちにふるさとと言 える場所はありません」 「……だから、幾ら殺しても構わないって言うのか」 「当然です」  ばさり、と少女の背の翼が広がった。月の真円の中、少女の影は、巨大な十字架のよう になる。 「私たちは狩猟者。あなたたちは羊。狩り、狩られるもの。愚かな羊、この私がその魂を 散華させてあげます」 「俺は、お前たちとは……っ」 「道は、もう分かれたんです。あなたが、村からいなくなった時に……だから、貞子姉さ んはあなたの妻になることを拒んだんです!」  木を蹴り、少女が夜空に舞った。闇夜に金色の瞳と、白い翼の軌跡を描き、一回転。  遠心力を破壊力に加えた鉤爪の一撃が、青年の肩に叩き込まれた。 「ぐうっ」  ギリ、と青年が歯ぎしりし、異形に変形させた腕で受け止めた少女の一撃を、力任せに 跳ねのける。身軽に空中で身をひねって着地した少女は、鋭い視線を青年に放った。 「貞子姉さんの最後の優しさを、無駄にしないでっ!」 「……お前も、まだ人間だ。戻って──来い!」  銀光が、交錯した。                  ※  高津家の寸前。玄関の前で、夕花は一人うずくまっていた。 「う……あ……」  辛い思い出。  思い出したくない過去。  ずっと続く頭痛は、夕花に少女の体験したことのない幻のような記憶を見せていた。  野山の記憶。  仲の良い五人兄妹。  憧れた、大好きだった人。  そして──決別。 「違う……そんなの、知らない。だって……」  顔を上げ、玄関の表札に夕花は苦しげな笑みを浮かべた。 「私は……高津夕花だもん……」  あと少しで家に辿り着く。玄関の戸を開けて、ただいまと言えば、腹を空かしたケイタ と風弥がいるはずだった。  ケイタと、風弥が。  彼と、貞子が。  大好きな人と、彼に選ばれた女が。 「違う──っ」  ガシャーン、と派手な音がした。夕花がガラスを使った戸に額を叩きつけたのだ。その 音に家の中で慌てたような足音が聞こえたことに、夕花は泣きそうな笑みを浮かべた。 「ケイタお兄ちゃん……ちゃんといるよね……ここは、私の家だよね……」  ──故郷は、違う。  ──遠い、遠い場所。  ぞわり、と這い出るように自分を犯していく何かに、夕花は頭を抱えて悲鳴を上げた。  そしてそれは、 「夕花ちゃん!?」 「ケイタお兄──」  玄関から飛び出してきたケイタと、 「夕花!?」  その隣に立つ、風弥の姿を見た時に、夕花の中で弾けた。  ──狩猟者という、一つの名前が。 「違う──っ!」  パァン、と夕花が自分の頬を両手で叩いた。  瞬間、全てのどす黒い思念が消し飛んだ。 「あ……ゆ、夕花ちゃん?」  驚いたケイタが目を丸くする前で、夕花はへたりこんだまま、疲れた笑みを、しかし晴 れやかな笑みを見せた。 「うん、大丈夫。──ただいま」  ケイタも、風弥も気が付かなかっただろう。  夕花が、狩猟者の本能を叩き伏せたことに。 「私ね」  何故か玄関先に座り込んだ少女が、にこやかな笑みを浮かべる理由に。 「ケイタお兄ちゃんや、風弥お姉ちゃんや、美冬お姉ちゃん……それから、碧お姉ちゃん のこと、大好きで、本当に良かった!」  末っ子の少女が、一人で戦い、そして勝つことが出来た自分たちの絆の深さに。                  ※ 「あ……うう……」 「……ふん」  ベッドの上でわけのわからない声を上げるフレキを一瞥し、弦は裸の上半身にシャツを 着込みながら、床に転がっていたポシェットを拾い上げた。 「資料は、この程度か。俺の機嫌が良くて良かったな」  牙を見せて笑い、弦はベッドの上で力無く股を広げて仰向けになっているフレキの上に、 手に持った資料の紙をバラバラと散らばせた。すでにフレキの目の焦点は合っておらず、 その心が何かに引き裂かれたことを示していた。  ただの強姦などではない、死に勝る恐怖。 「羊の心の何と弱いことか。恐怖に、恐怖を。痛みに、痛みを。ただそれを塗り重ねるだ けで屈する、弱き心よ」  くくく、と心底楽しそうに弦は笑う。  笑いながら、弦はこの部屋をどうするのか。自分がフレキに会うと知っていたお座敷猫 がこの状況からすぐに自分を犯人と思うだろう、などといったことは考えもしなかった。  殺人を繰り返す度に大胆に、己の力を過信して、身を隠すことをおろそかにする。  今、弦の中から人間らしい警戒心というものは消えかけ、狩猟者らしい暴走が始まろう としていた。                  13  美冬は、角屋の会長執務室で一人椅子に座り、窓の外を眺めていた。地元で一番目立つ 角屋の八階から上の部屋からは、山と海を同時に見渡すことが出来た。時間は夕方の六時 ということもあり、そろそろ日が沈もうとするこの時間、美冬は処理しなければならない 書類を机の上に放り出したまま、一つの考え事にふけっていた。 「…………」  考え事もまとまらず、キュッと眉根に皺を寄せて難しい顔をしていると、その机の上の 電話が控えめなコール音を響かせた。 「高津です」  と。 「ああ……風弥。──そう、夕花が。やっぱり、朝に話したのが刺激になってしまったの かしら」  小さく嘆息し、美冬は空いている手で自分の長い髪を弄んだ。 「──ええ。そのことに関しては、私が帰ってから話しましょう。ケイタさんの鬼を目覚 めさせるのは、やっぱり危険だと思うけど……」  自分の言葉に対する風弥の返答に、美冬は目をパチクリさせた。 「まあ……風弥、随分と自信があるのね。あなたのこんなに明るい声、久しぶりよ。あら、 照れなくてもいいのに。何があったのか、お姉さんに話してほしいにゃー。はっ!?」  頬を朱色に染めて受話器に話していた美冬は、掴んだ髪を見て顔を引きつらせた。  ぶち。 「痛っ。……え? ううん、ちょっと枝毛が……って、何でもないわ。じゃあ」  がちゃ。 「ふう……やっぱりダイエットがいけないのかしら……」  思い切り暗い表情の美冬である。抜き取った、先端が二つに分かれた髪の毛を秀麗な指 で摘んで目の前に持ち上げ、美冬はやおら表情を改めた。 「夕花が、目覚めた……やっぱり、刺激が強すぎたのかしら。それとも、ケイタさんの鬼 との共鳴?」  カリ、と親指の爪を噛んで美冬は窓の外に視線を戻した。  わずかの間に、街は茜色から闇の帳を受けたものへと移り変わっていた。 「……来る」  確信を持って、美冬は呟く。  夜は、狩りの時間だ。                  ※ 「…………」  がちゃりと受話器を下ろした風弥は、後ろに控えていたケイタと夕花に振り返って首を 横に振った。 「美冬姉さん……一人で全てを終わらせるつもりです。いつもそうなんです、何かを隠そ うとする時、わざと明るく振る舞って……傷ついても何でもない顔で戻ってきて……」  ケイタも夕花も、そんな美冬のことは知らなかった。美冬の笑顔の裏に何があるかなど、 考えたこともなかった。しかし、美冬の笑顔の意味を知った今、ケイタは美冬を助けたい と思った。 (俺たちは……家族のはずだ)  家族として、男として、ケイタは美冬を助けたい。 (力になってやりたい……)  思い出すのは、浩次の遺影の前で言っていた美冬。  ──叔父様……私にみんなを守っていける? (力が欲しい)  その時、初めてケイタは切実にそう思った。夢という形で見た、強大な力。腕を異形と 化して戦う美冬と、鷲沢弦。人間など入る余地の無いその戦いに美冬だけをさらすことな ど、ケイタはしたくなかった。 「……なあ、風弥ちゃん」 「はい」  ボソリ、とケイタが風弥を呼び、少女はそれを待っていたかのように、落ち着いた顔で 頷いた。 「力が……欲しい。鬼の力が俺にもあるのなら、俺はそれが欲しい。何か、少しでもいい から力を引き出す方法はないのか!?」 「だ、駄目!」 「え?」  叫んだのは、夕花だった。夕花に腕を掴まれたケイタは、必死な顔で言う夕花に目を丸 くする。 「駄目……だよ。ケイタお兄ちゃん、危険だよ。あんなの……もしケイタお兄ちゃんがケ イタお兄ちゃんじゃなくなっちゃったら、私……」 「夕花ちゃん……」  何かを思い出したのか涙を目にためる夕花に、ケイタは視線を伏せた。夕花は、優しい。 誰も傷ついて欲しくないと願う、本当に心優しい少女だ。そして、自分はどんなに傷つい ても、辛い思いをしても微笑むことが出来る。 (ああ……姉妹なんだな、美冬さんと……)  美冬と夕花だけではない。碧も、風弥も、皆がそうなのだ。家族を大切に思う心。他人 を元気づける微笑みが出来ること。 「本当に……みんなそっくりなんだな」 「え?」  フワリ、とケイタに前髪を掻き上げられ、夕花がケイタを見る。ケイタは、夕花の目の 涙をそっと指で拭い、その涙を口に含んだ。 「ケイタ……お兄ちゃん?」  そして、ケイタはニッとやんちゃ坊主のような笑みを見せるのだった。 「俺に、みんなを守らせてくれ。俺に力があるのなら、それを引き出してみたい。伯父さ んも、親父も、自分の中の狩猟者と戦ったんだろう?」  ケイタの言葉に、風弥は頷いた。 「……でも、お父さんも、叔父様も、最後には……」 「ああ。だけど、風弥ちゃんには何か考えがあるんじゃないのか?」  先程の美冬との電話を後ろで聞いていたケイタは、風弥をジッと見た。風弥は静かに頷 いて、ケイタに言う。 「まだ……ケイタさんの中の鬼が弱いうちに、私の鬼を使って無理矢理力だけを引き出し ます。ケイタさんが完全に目覚めていない鬼を支配することが出来れば……」 「なるほど、鬼に不意打ちかますわけか」 「そういうことになります」  コクリ、と小さな頭が上下する。夕花はまだ心配そうだったが、ケイタは風弥の意見を 採用することに決めた。 「いつ始められる?」 「すぐにでも──」  風弥は、そこで瞳を伏せた。 「叔父様の部屋で」 「……ああ」  ケイタにとっても、一つの区切りをつける時が来た。  それは、父をずっと誤解していた過去との決別。  父がずっと苦しんでいた理由である鬼と向かい合うことは、ケイタには父の戦いを引き 継ぐような思いであった。 (だけど……)  鬼。  狩猟者。  その言葉に、ケイタはたまらない嫌悪を覚えて顔を歪めた。  あのどす黒い本能の塊。人間の欲望を肯定し、助長する何か。鬼同士のテレパシーのよ うなもので垣間見たそれらは、ケイタにとってどうしても受け入れられない、本能的に危 険を感じるものであった。 (そうだ……あれは、普通じゃない)  圧倒的な、暴力。人の心を踏みにじり、人間を狩られるだけの羊と豪語する、傲慢な精 神。本能なのか思想なのかわからないあの考え方は、およそ人間とはかけ離れているよう に思えた。  と。  ケイタの思考は、父の部屋を前にして、途切れた。 「ケイタさん……」  気遣うように風弥が戸に手をかける。それにケイタは首を横に振り、自分で戸を開けた。  以前は、ためらいにためらったその戸を、ケイタは迷いなく開く。 「…………」  部屋に入った瞬間、ケイタが感じたのは後悔だった。綺麗に荷物がまとめられ、四十九 日も終わっていない仏壇の上の父の遺影が、真っ直ぐにケイタの方を向いていた。  複雑な気持ちだった。どんなに誤解していたとしても、ケイタが父に対して抱いていた 憎悪は本物だったのだ。今更誤解だと言われても、頭で理解して、心で涙を流しても、や はり写真を前にしては気後れするものがあった。 「……親父」  小さく、ケイタはその言葉を口にした。  あまり似ていない父親だ。そんなことも今更思い、ケイタは唇を噛む。 (……あまり、話さなかったしな)  ケイタの中で、父としての彼の存在は幼い頃の記憶の中にだけある。その頃の顔を思い 出そうとして、しかしそれが出来ずケイタは知らず拳を握り締めていた。 「ケイタさん」 「ケイタお兄ちゃん」  そんなケイタの両拳に、二人の少女のやわらかな手が添えられる。  答えは、そこにあった。 (親父……俺たちは、やっぱり親子だよ)  そう。 (親父はこの子たちを守ろうとした……俺も、この子たちを守りたいと思った。そうだろ。 俺たちは、親子だ!)  断ち切れていた親子の絆はそこにあった。ケイタと浩次の絆は、四姉妹の形でケイタの 目の前にあったのだ。  だから、ケイタは一歩その部屋の中に足を踏み入れ、父の写真の前に腰を下ろした。 「親父……久しぶりだな」  そして。 「ありがとう」  今はそれが精一杯だったが、ケイタは万感の思いを込めてそう言った。  ──襲撃は、直後だった。                  ※  それが庭に降り立った時、ケイタは言葉に出来ない悪寒に即座に振り返っていた。すぐ に風弥も振り返り、夕花もそれに習う。  彼は、上りかけた満月を従えて、そこに立っていた。  爛々と輝くのは、瞳の黄金。無造作に立つその姿は人間を形取り、しかし肘から先ばか りが巨大なその腕。象皮のような硬質化した異形の腕のその鉤爪はどんな肉食獣も持ち得 ない人工美さえ感じさせる凶悪さ。  人間らしいスーツを着ていることが、より違和感を感じさせる、その存在。 「────!」  ケイタが口を開くよりも先に風弥が動いていた。ギン、と見開いた少女の瞳が金色に染 まると同時にその姿が霞み、一瞬の後には少女は凶悪な敵の目の前で貫手を打ち放ってい た。  カァン! と金属を金属で叩いたような音がして風弥の身体が凄絶な勢いで地面に叩き つけられる。回転しながら地面にぶつかった身体は勢いを失わないで跳ね、芝生を散らし て少女の身体は灯籠に激突した。  石の塊が砕ける音を、ケイタは生まれて初めて耳にした。 「か……」  それは、一瞬の出来事だった。 「風弥ちゃん!」 「まずは……一人」  倒れる風弥の下から広がるおびただしい鮮血に満足するように彼は唇の端を吊り上げ、 そして鋭い鉤爪で己の眼鏡の位置を正す。  その嘲笑を見たケイタの中で、耐え難い怒りが膨れ上がった。 「わし……ざわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  咆哮が、夜の月を震わせた。  それが解放の瞬間だった。                  間6  俺の目の前が真っ赤に染まっていた。俺は過去の教訓に従い、擬態にすら自分の存在を 悟らせずに潜んでいたつもりだった。擬態が狩猟者の存在を知り、俺の存在を知ったこと は計算外だったが、俺がすでに活動を開始していたことには気付かれずにすんでいたはず だった。  俺は、今もそうするつもりだった。同族の雌が目の前で叩きつぶされようが、俺には関 係の無いことだ。本能を押さえ込んだ羊にも等しい哀れな同族を助けてやらねばならない 理由は無い。  だが俺は今吠えていた。  強く強く吠えていた。  そう、俺は忘れてなどいない。 『忘れて下さい』  忘れるものか。  忘レルモノカ。  ワスレルモノカ!!!  二度と、俺の前で──!                  ※ 「ぐ……おおぉぉぉぉぉぉぉ!」  立ち上がったケイタは血走った眼差しを庭に立つ狩猟者に向けた。叫びのために開かれ たその口からは鋭い牙が覗き、力を込められ張った両腕の筋肉が見る見る膨れ上がってい く。肌を内側から食い破った虫のような細胞たちが腕を這い回り、それを新たなる形に作 り変えていく様は、異様と表現してよかった。その変化は腕に始まり肩に達し、膨らんだ 肩はケイタの薄い上着をいとも簡単に引きちぎる。それでも変化は終わらず、全身を駆け 回った細胞はケイタの身体を逞しく、硬質的な筋肉で覆い、そして──。  金色の瞳を持ったケイタは、常人の三倍以上の大きさの、ナイフのように鋭利な鉤爪を 有する腕を振り上げて狩猟者に向かって飛び上がった。 「ごおおおおおおおおお!」 「ちぃっ」  それは、驚愕すべき質量と迫力を伴った存在であった。ごう、と真上から落下してくる 巨獣に弦はその鉤爪を閃光のような速度で一閃させる。肉を裂く確かな手応えが弦の手に 返り、残像さえ残す一撃にケイタの巨体が弾き飛ばされる。だが、ケイタは落下の寸前に 逆立ちのような形で地面に手を突き、両腕の力だけで再び空に舞い上がる。  だん!  屋敷を揺るがし、ケイタの足が高津家の屋根を踏む。その足元で瓦が砕けたが、無論ケ イタは気にもしなかった。 「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」  咆哮が空間を渡って弦の髪を揺るがした。ビリビリと、肌に直接感じるほどのその威圧 感に、弦は舌で唇を潤した。 「く……くくく。面白い。これが高津ケイタの鬼というわけか。この姿、記憶には無いが ……──」  目を細め、鬼人と化したケイタの姿を観察した弦は、視線を泳がせて夕花の姿を探した。 夕花は、最初の位置で固まったように足を止めていた。 「刑事……さん?」 「まだ何も知らなかったか。では、改めて自己紹介しよう」  これから少女が受ける衝撃が楽しくてしょうがない、というふうに弦は笑みを浮かべた。 「俺の名は鷲沢弦。お前の父親、高津憲斗の息子。そして、正真正銘お前の腹違いの兄だ」 「……え?」  呆然とする夕花に、弦は執事がするように深く腰を曲げ、胸に手を当てて最上級の一礼 を夕花に送った。 「ようこそ、我が妹よ。狂気の支配する夜へ」