4  親が死んだと聞かされた時に特に感慨は無かった。それは形式上の親であり、俺にとっ て意味のあるものではない。  ただ、愚かだとは思った。  聞けば、酒を飲んで海に落ちただと?  下らない。  それほどまでに己の血から、狩猟者としての本能から逃げたかったのか。お前は羊の群 とは違う。れっきとした俺と同じ狩猟者であり、事実何人もの家畜どもをその手にかけて いたではないか。  ……だというのに、親は死を望んだ。愚かの極みだ。  命とは、そのように軽く捨てるようなものではない。命は貴く、気高いものだ。狩猟者 は命に敬意を示す。だからこそ、家畜を狩るのにも己の肉体を使うのではないか。だから こそ、本人の知らぬ間に殺す力がありながら、恐怖を味わせ、死というものを、命という ものを高めてから殺すのではないか。  親よ。お前のしたことは、命への冒涜だ。  その行為は、家畜どもにも劣る……狩猟者の恥だ。  俺は誇り高く生きよう。  目の前の女のように。                ※  目の前に美冬がいるのを、ケイタはしっかりと視覚で捉えていた。場所は駅からさほど 離れていない位置にある緑地公園だが、いつもならば夜の闇を退ける灯りが今日に限って は一つもついていない。別段電力が届いていないわけではなく、単純にそれが何者かによ って著しく破壊されているからであった。よって、辺りは暗い。月も雲に隠れる夜だ、遠 くに立つ人影を、幾ら知人だとは行ってもはっきりと認識するのは不可能に近いことであ る。  ──だが、そのような漆黒の闇の中、雲からこぼれるわずかな月光を頼りにケイタは美 冬の姿を確認していた。人間の眼の作りとはかけ離れた狩猟者の瞳だからこそ、可能なこ とだ。  否。  常人でも、そこに立つ者を発見することだけは用意だったかもしれない。何故なら、闇 にとけ込みそうな黒髪を夜風になびかせた美冬の両の瞳は、紛れもなく人外の光──夜の 狩りを行う獣の光を宿していたのだから。 (何だ?)  とケイタは疑問に思った。 (美冬さんの目が……光ってる? 猫じゃあるまいし)  思わず呆れるケイタである。夢にしても──夢だからか。 (寝る前に美冬さんのこと考えてたからな……だから夢に美冬さんが出てくるのか)  美冬は、美しかった。  闇の中に浮かび上がった美冬の姿はまるで頼りない月明かりを凝縮したかのように際立 つものだ。夜にさらに艶を深める長い黒髪。輝く瞳を宿す、怜悧にして切れ長の目。鼻梁 から唇までのラインなどは、生まれながらにして美を与えられた者の特権だろう。  美しい。  だが、近寄りがたい美しさだった。  常に美冬は、親しみやすい微笑みをその顔に浮かべている。その微笑みが無くなった瞬 間、それがどれほどの変化を見せるのか、ケイタは知っていた──美冬だって笑っていな い時くらいある──つもりだったが、その認識が誤っていたことを今知った。  昼間の美冬が輝かんばかりの美女だというのなら──眼前の美冬は、凍りつかんばかり の美女であった。 (いや……)  夢の中、ケイタはその感想を訂正した。 (悲しそうな……美女、か)  そう思った直後、声がした。 「美冬、か。何の用だ」 「あなたを止めにきました」 「まだそんなことを言っているのか、下らん。狩猟者に狩りを止めろということがどうい うことか、お前にはわかっているのか?」  それは。 「家畜になれということだ」  吐き捨てるように、言う。  夢の中で、ケイタは言う。 「家畜に成り下がることなど、俺の誇りが許さん。お前は二人の狩猟者を家畜におとしめ、 その命を奪った。狩猟者を狩る者……いいぞ、お前は。己の親さえも狩り、己の種を守ろ うとする意志。己の役目への絶対の誇り──全てが表沙汰になる前に処分し、大多数の家 畜に殺されることを避ける狩猟者の女の本能……美しいぞ」  それは、理路整然とした語りではなかった。思いつくことを羅列しているだけのような、 思考がそのまま漏れているかのような語りであった。 (夢……だからか?)  口は勝手に言葉を紡ぎ続ける。 「だがな、だが、俺は家畜にはならん。家畜としての仮の顔が己をさいなみ、ついには自 分を殺す……そのような愚行は犯さん。何故かわかるか? わかるか? それはな、すで に、昔に決まったことだからだ。俺の『俺』は──」  足元に転がっていたものを、蹴り転がす。 「何年も前に、俺を望んで受け入れたのだからな!」  重くやわらかいそれは、服ごと胸を引き裂かれた男の死体であった。 (う……)  夢ではあるが、生々しいその男の死に顔に、ケイタは呻いた。苦悶に歪んだ顔の筋肉は 硬直し、生前の恐怖と苦しみを顕著に示していた。大きく口を開き、白目を剥いた、半分 発狂して死んだのであろう顔は、死してなお、人間という感覚がした。そう、人形などで は、この表情は生まれない。  人の死体、だ。  死体は、胸を引き裂かれていたが、その引き裂き傷は一種異様と言って良い。  五本の、引き裂き傷。  夏用とはいえ、スーツの上から一撃で人間の身体を引き裂いた平行な五本の凶器。 (まるで……獣にやられたみたいだ)  ケイタが思う。  すると、最初の一声以来沈黙を保っていた美冬が、静かに息を吐いた。  嘆息。 「仕方ありませんね」  と。  ──直後。 「あなたを、殺します」  激痛が右腕に奔った。 「!」  その痛みを堪えながら、右腕を前に伸ばす。大きな男らしい手に──否、腕全体に異変 が起こっていた。ザワザワと肌の一枚下を大量の虫が這い回るような感覚。それは肉を割 って肩から指先まで進み、生爪を剥がし、肌を引き裂き、ついには肌の上を集団で埋め尽 くす。そして、そこから。  ──爆ぜる!  そう錯覚するほどの爆発的勢いで、皮膚の下から這い出たそれは増殖し、腕を覆い尽く した。それは、細胞だ。信じがたい速度で生成された細胞が内部から腕を引き裂いて新た な腕を生み出そうとしていた。 「ぐるるるるるるるるるる」  獣のような声が洩れる。それが自分の口から洩れているのだとケイタは気づき、口を押 さえようとしたが、身体は自由にならなかった。 「殺す……だと?」  嘲笑が漏れた。 「貴様が、死ね」  ついに腕は完全に変形を終えていた。  それは、人の──否、生物の腕であっただろうか。  腕は、人間で言うところの肌色はしていなかった。どこか硬質さを感じさせるそれは赤 茶色で、質感としては象亀などのあの分厚い肌に近い。肩から肘まではあまり変化らしい 変化は見られなかったが、肘から先──そこは、元の腕の二倍以上の太さを見せるまった く新しいものに入れ替わっていた。強いて言うなら、戦闘用とでも言うのか。節くれ立ち、 繊細な作業などもはや求めるべくもない巨大な鉤爪状のその手。生物の爪というよりも、 その形状は刃と称した方が適切だろう。明らかに自然界では生まれそうにない、人工味を 感じさせる形状であった。 「があ!」  動く。  腕と同時に身体全体の能力も飛躍的に向上しているのか、ただの一歩の跳躍で美冬まで の十メートルあまりの距離を埋める。その速度はまさにビデオの早送りそのものだっただ ろう。瞬間移動のようなその動きから、彼は動かない美冬の頭に無情な一撃を振り下ろし た。  ブン!  空気が裂ける音がした。 「ちぃっ」  外した。  そして熱。 「もう一度言います──あなたを、殺します」 「ぐおおおおおおおおおお!」  胸に奔った痛みに彼は雄叫びを上げた。ケイタは胸に奔った五本の溝と、そこに宿る熱 に、相手も同じ武器を持っているのだと悟った。  そう。  美冬も。 「ぐうう……」  呻き、だが激痛を噛み殺して彼は背後に回った美冬に振り返った。その後ろでメキメキ という音がした。  メキ……メキメキメキメキメキ!  ズダーン!  樹齢数十年の公園の木が、先程の鉤爪での一撃で刻まれた傷に耐えきれず、傾き倒れた のだ。まさに驚愕すべき威力である。その威力を持ってすれば、人間の身体を引き裂くこ となど、児戯にも等しいだろう。 「狩猟者と戦うのは、初めてですか?」 「貴様……」 「あなたには……あなたの言う家畜しか狩れない」  凄絶な瞳で言う美冬の両の手は、同じように異形へと変化していた。だが、それは巨大 な鉤爪といったものにではなく、指の延長としての、細い細い針のような刃だ。  カシャン。  美冬は五指を揃え、五本の針を一本の刃と化す。その長さを考えれば、一本でも人の命 を奪うには充分だろう。  彼は、それを見て顔を歪めた。痛みもあったが、何よりも愉悦が先に来た。 「くく……そう、美しいな。その顔でもっと俺を蔑めばいい。もっと俺をなじるがいい。 狩猟者の雄と雌は表裏一体。狩るために狩るか、守るために狩るか、だ。どちらも種の存 続のため。そして、刷り込まれた過去の記憶のため。俺は俺と『俺』の両方の意志で動い ているが──」  指差す。 「貴様は、誰の意志で、動いている?」 「私は、私の意志で動きます。あなたの言う狩猟者の本能など、理解する気はありません」 「ふん、家畜に狩猟者は狩れん」 「──あなたの言う家畜に憧れ、そして子をなした狩猟者もいたんですよ」 「戯れ言を」 「……あなたにも、その血が流れていると言うのに」 「家畜に成り下がった先祖のことなど、知らん。狩猟者は俺。ここにいる俺だ!」 「っ!」  一気に間合いをつめた横振りの一撃を、美冬はバックステップしてかわす。そして、バ ックステップしながら、相手の横振りを逆になぞるように自分の腕を振るう。  パァン!  鞭やジェット機が音速を超過した時に発生する破空音が響き、二人の狩猟者の間でそれ ぞれの真空斬が対消滅した。  それを知り、舌打ちする。 「貴様……戦い慣れているな」 「父と、叔父様と……二人が残してくれたものです。戦闘力において劣る私でも、あなた を相手に戦うことは出来る」 「だが、そこまでだ」  胸を押さえていた左手を、下ろす。すると、そこには先程の美冬の斬撃の痕は無かった。 ただ、裂けた服と血の筋だけがそこで与えられた傷が存在していたことを示すのみだ。 「一撃で、引き裂いてくれる。誰よりも美しい命の輝きを持つ貴様をな!」  が。  サイレン。 (?)  ケイタが訝しがると、それは段々と近づいてくるようであった。パトカーのサイレンだ。 さすがに木が倒れた音に誰かが通報したのだろうか。 「ちっ」  彼は地面を蹴り、手近な木の枝に飛び乗った。あ、と美冬が声を上げるが、振り返らず に再度跳躍する。 「邪魔が入った。だが、貴様は必ず俺が殺す。待っていろ!」  跳躍が木々を抜けると、ケイタの視界がパッと開けた。  高い。  民家の屋根から屋根を飛び移りながら、彼は人家の灯りを冷めた目で見下ろした。 「……まるで、狩られるのを心待ちにし、自らの位置を知らせているようだな」  月の隠れた夜空に、人の形をした狩猟者が再び舞い上がった。                ※  高津家でケイタが割り当てられた部屋と玄関はかなり離れている。  だから、ケイタがその音に気づいたのは、よほど神経を尖らせていたからだろう。 「美冬さん?」  呆然と、呟く。  ケイタは、今自分が見た夢を、反芻していた。  そう、夕食の時に、美冬が仕事先から姿を消したという電話があり、ケイタと碧はすぐ に家を飛び出して手近な所を探して回ったのだ。だが、美冬は見つからず、碧が「まあ、 美冬姉なら心配ないよ」と、散々心配した挙げ句に言い、家に引き返したのが夜の十一時 過ぎ。それから、美冬自身から電話があり「今日は戻らないかもしれませんから、ケイタ さんも先にお休みになっていてください」と言われたのが、夜中の十二時。「恋人の家に でも行ったのかな……」と少しいじけて布団に入ったのが、夜中の一時。そして、今は。 「夜中の三時……か」  夢見のせいか、あまり眠気はなかった。むしろ、引きつったものが胸にある。 「これは……なあ?」  顔までも引きつらせ、ケイタはシャツの上から自分の胸をさすった。そこには、五本の、 まるで線で引いたかのような痣があった。 「夢だろうに……」  人間、それが本当だと思いこむと、熱くないものでも熱いと感じたりするというが、そ の類だろうか、とケイタは思い、しかし苦笑する。 「夢で見て本当に痣が出るなんて……シャレにならない」  何か、漠然とした不安があって、ケイタは寝床を起き出すことにした。美冬を迎えよう。 そして、お帰りなさい、と言おう。そうすれば、きっと全ての不安は消える。自分は彼女 たちと家族になるのだ。平和な、家族に。  静かに扉を開いたケイタは、玄関に向かう途中で碧が扉から顔を出しているのを見つけ、 声をかけた。 「よ。お前も起きてたのか」 「ん、悪い夢見てたからね……たぶん、風弥も起きてるよ」 「……どうして?」 「姉妹だから、さ」  少し歯切れ悪く言い、碧は部屋を出た。名前の通り緑色のパジャマを着ていて、普段の ボーイッシュな格好よりも女の子らしく見えた。まあ、ボーイッシュなパジャマというの があまり無いのかもしれないが。  そんなことを考え、ケイタが見ていると、碧が自分の腰を抱くようにして身をすくめ、 言う。 「じろじろ見てるなよ。ほら、あんたは美冬姉を迎えに行ってこい。あたしは夜食作るか らさ」 「何照れてるんだよ。パジャマだろ」 「いいから行け!」  がしっと蹴られ、ケイタは釈然としないものを感じながらも歩き出す。 「男同士なのになあ……つあっ!?」  後ろから飛んできたスリッパが後頭部を痛打し、ケイタはしばしその場で苦悶した。具 体的に言うと痛い。 「あ、あの野郎……」  振り返った時には、碧はすでに廊下にいなかった。言葉通り台所に向かったのだろう。 「ったく……夜中だってのに騒ぐなよなあ」  ぶつぶつ言いながらケイタは玄関に向かった。すると、途中で美冬を見つけることが出 来、ケイタは明るく、しかし夜中なので押さえた声で言った。 「お帰りなさい、美冬さん」 「ただいまです、ケイタさん」  朗らかに笑った美冬は、やはり美冬で、ケイタは夢のことはやはり夢なのだとわかって ホッとした。  だが、その時だった。 「ケイタさん、その胸の痣は?」  美冬が、声を固くした。  ケイタも、ぎくりとした。だが、平静を装って、言う。 「ええ、変な夢を見て……たぶん、寝ながら自分で掻いてるうちについたんですね」 「……そうですか」  苦笑するように、美冬は呟いた。 「そう……ですか」  呟いて、その場に、泣き崩れた。                5  小さな少女が助けを求めていた。  助けて、助けて! と。  無力。あまりに無力。俺は何も出来ず、その子は水の底に沈んでいった。 『駄目だ!』  叫んでいた。 『死んじゃ、駄目だ!』  もう誰も俺の前で──。                ※  朝、目が醒めるとケイタは鈍い頭痛に額を押さえた。熱はない。おそらく、寝不足のせ いなのだろう。昨日昼寝までしておいて何を、と言われるかも知れないが、昨日から今日 にかけて、ケイタの眠りは決して深くはない。むしろ、眠っている間に激しい運動をして いるかのような疲労感がある。 「参ったな……」  チラリと見下ろすと、胸の痣はまだ残っていた。小さく嘆息すると、ケイタは布団をそ のままにして障子戸を開けた。  サァっと音がしそうな朝の光がケイタの顔に降りかかる。夏らしいその温かさはじんわ りと肌に染み込むと、ケイタに快い熱を与えた。  数秒。  快さが浮いてきた汗の玉による不快さに変わる頃、ケイタは下ろしていた瞼を上げて、 廊下に一歩踏み出した。充分に陽光を吸った床は、温かい。窓越しに見える庭の植え込み の青さが鮮烈だ。  そうしてケイタが洗面所に向かうと、そこには先客がいた。 「おはようさん」 「ぶっ」  碧が水を吹いた。 「だから下着で歩き回るなあ!」 「何言ってる。変な奴だなあ」 「あたしは正常だあ!」  びゅん、と碧の蹴りが飛び、ケイタは昨日の教訓からそれを見事にかわした。 「何!?」 「ふ……お前の蹴りは見切った」 「えい」 「ぐあっ」  無造作に繰り出されたパンチでグーがケイタの鼻面を打ち、言葉にならない痛みにケイ タはその場にうずくまった。 「さっさと顔洗えよ」 「さ、さらりと言いやがって……」  涙が出てきてケイタは呻くように言ったが、碧はツンとした表情で洗面所を出ていって しまう。  それを見送り、ケイタはふうと息を吐いた。 「何も変わらない……か」  意図的に口に出した言葉ではない。ただ、ケイタは無意識に安堵の言葉を口にしていた。 肩の荷が下りたような、そんな感覚があった。  碧は変わらない。  美冬が泣き崩れ、廊下から立ち上がろうとしなかったことに驚きこそしたが、すぐに平 静を取り戻して言ったのだ。 「わかりきってたことだろ」  と。  その後、ケイタは「火をみといて」と台所に行かされ、二人の間にどのような会話があ ったのか知らない。だが、居間で軽い夜食を食べた美冬はいつも通りの美冬で……。 (忘れよう、昨日のことは)  ケイタは、そう決断した。  高津家の長女と次女が、何事も無かったことにすると、態度で示したのだ。ならば、ケ イタもそれに倣うべきなのだろう。  ケイタには守るべき家族がある。彼女たちが何も言わないのならば、それを信じよう。  洗面を終えたケイタは、一度部屋に戻って着替えを済まし、それから朝食のために居間 へと向かった。  居間には、すでに高津家の姉妹が全員揃っていた。 「ほら、さっさと食べちゃいなさいよ。後片づけもあるんだから。あ、ケイタ、髪の毛立 ってるって。ちょっと待ってなさいよ」 「あー、碧お姉ちゃんいいなあ。私もケイタお兄ちゃんにブラシ掛けしたい」 「夕花、あんたは食べるのが遅いんだから急いで。……風弥、少しは噛んで食べなよ」 「うきゅう……」 「美冬姉は夜食食べたから朝は食べないとかって自分で言ったんだから恨めしそうにケイ タの飯を見ない! ケイタ、夕花からおかずをもらわない!」 「あ、朝っぱらからうるさいやつだなあ……鍋奉行どころか飯奉行かお前は」 「あんたらがだらしなさ過ぎるんだよ。はい、夕花はもう時間。遅刻するよ。美冬姉もさ っさとスーツに着替えてきなよ」 「へ? あ、そ、そう言えばまだパジャマだったわね……嫌だわ」 「寝惚けてたのか! もう一回顔洗ってこい!」 「ごちそうさま。お姉ちゃん、お兄ちゃん、行ってきます!」 「行ってらっしゃい」  と、最後の一言が全員分重なり、まず最初に夕花が居間を出ると、次いで風弥、美冬と いなくなっていく。最後に碧が「ごめん、食器お願いね」と言って居間を出ると、ケイタ も食事を終えて食器を一度水道水でざっと流してから、溜めてある水の中につける。朝食 の後に食器を洗う時間が無いので、高津家では最初に学校なり会社なりから帰ってきた者 が洗う風習になっていた。  今日は、学校も会社も無いケイタが洗うことになりそうだが。  ケイタが廊下に出ると、玄関で靴を履いていた碧が振り返って一言。 「じゃあ、留守を頼んだからね」 「任せろ」 「碧、それ私の台詞……」  ちょっといじけたように美冬が唇を尖らせて玄関にやって来る。玄関の靴を見てみると、 残っているのはケイタと美冬、そして風弥の分だけだ。それなりに長い間履いているケイ タの靴は、普段男友達同士では目立たなかったが、こうして女性の靴と並ぶとやはりサイ ズが一回り大きい。美冬よりは一回り、風弥よりは二回り、だろうか。  風弥の靴は、小さい。身体に比べて足の大きな生き物は大きく育つと言う。ライオンや 虎の赤子が猫と変わらない大きさなのに数倍する大きさの足を持っている。ふむ、では風 弥ちゃんはあまり大きく育たないなあ……などとケイタは考え、苦笑した。 「動物じゃあるまいし」  下らない連想にストップをかけ、靴から視線を外したケイタは、目の前に美冬のドアッ プがあって思わずのけ反った。 「うわっ」 「うう……碧、ケイタさんが私を見て逃げたぁ」 「いじけるなっ!」 「な、何ですか、美冬さん?」 「はい。行ってきます。家のことをお願いします。鍵をどうぞ」 「確かに」  昨日と同じ、約束事のような手続き。幾つかの鍵が束になったそれを受け取ったケイタ は、ジャラリとした音に信頼と責任を感じ、微笑んでズボンのポケットにしまう。 「任されました。じゃあ、行ってらっしゃい」 「はい」  少し照れたような美冬の微笑み、そして、朝に似合う碧の爽やかな笑みを見送り、ケイ タはふうっと息を吐いた。  一日一日、彼女たちとの距離は縮まっていく。視界に入った、父の大きな靴を、ケイタ は無理矢理意識から閉め出して、口元に小さな笑みを浮かべた。  気持ちの良い朝だ。  と。  チーン、と人の注意を引く音が聞こえた。空気を渡ってきた音は、どこかもの悲しい音 だ。忘れかけていたチクリとした何かが一瞬胸にぶり返してきて、ケイタはそちら──仏 壇のある部屋に足を向けた。  あまり足を運びたくないそこは、ケイタの父である高津浩次の部屋だ。ケイタは、その 部屋の前で、足を止めた。  障子戸が、ある。  薄い障子一枚。  だが──。 「…………」  ケイタは、ためらった。果たして、それを自分が開いていいのだろうか。自分を、母を 見捨てた、憎みさえした父の部屋への戸を……。 (ここは、彼女たちのための場所……だよな)  ケイタが守るべき四姉妹が、父に語りに来る場所。  だから、ケイタは触れるのをためらった。  ほんの薄い紙を挟んだ場所が、ケイタにはとても遠く、侵しがたいものに感じられた。 (だけど……)  唇を、噛む。どれだけの力でそれをおこなったのか、唇からは血の気が退け、白くさえ なっていたが、ケイタは痛みは感じていなかった。 (開けよう)  決断。  震える指が障子戸に掛かった時、部屋の中で衣擦れの音がした。中にいた者に気付かれ たのだろう。それでケイタは肝が据わった。少々荒っぽい仕草で戸をスライドさせる。  ガタン、と音が鳴った。 「──風弥ちゃん、そろそろ時間だよ」  開けた、と思った瞬間からケイタはどっと吹き出てきた汗に、内心焦った。  そこは、こじんまりとした部屋だった。おそらくケイタの部屋よりも狭い畳敷きの部屋 には、タンスが一つに、文机が一つ。そして、49日も明けていないために設置してある、 遺影。  部屋の中には、線香のほのかな香りが満ちていた。つい今つけられたばかりだろう線香 は、まだまだ長い。静かに侵食されるように白くなっていく緑色の線香が、やけに目に飛 び込んできて、ケイタはそこから視線を外した。  風弥が、いた。  綺麗に正座し、仏壇に向かって直角、つまり仏壇とケイタの間に控えるようにして、風 弥は顔を伏せていた。そのせいか、それほど長くない髪で目元が隠れて、ケイタには表情 がわからない。  が。 「はい」  静かに、消え入りそうな応えがあり、風弥が立ち上がる。  動きが、ケイタを落ち着けてくれる。  この部屋の主は、もういない。ケイタが憎む相手は、もういない。  いない。 「ケイタさん、すみません、手を……」 「あ、ああ。ごめん」  言われ、ケイタは障子戸を押さえていた手をどけた。風弥が静かに戸を閉めると、吹き 出ていた汗がすっと冷えていく。 (まだ……かよ)  まだ、ケイタは何も吹っ切れていないのかもしれない。  例え父がいなくても──。  憎しみは、消えない。  恨みは……母のことは……。 「──ます、ケイタさん」 「え? あ、うん、何? ごめん、聞いてなかった」  自分でも間抜けだと思う返事を返し、ケイタはバツの悪い顔になった。廊下に立つ風弥 は、登校に使用しているらしい手提げ鞄を身体の前で持ち、ケイタを見ていた。  その顔に、心配げな表情がある。 「大丈夫ですか?」 「ああ……ちょっと考え事をね。それで、何?」 「……学校に行ってきます」 「あ、そうだ。うん、行ってらっしゃい」  何かちょっとぎこちないケイタだ。ぺこりと会釈し、風弥が背を向けたが、ケイタはそ の横に並んで玄関まで付き添った。 「…………」 「…………」  玄関までの、沈黙。 「えーと」  何か話題を振ろうとして、ケイタは口を開いた。 (何か無いかな……)  共通の話題、と。  例えば、昨日のことなどは?  美冬が帰ってきた時、風弥も起きていると碧が言ったことなどは? 『姉妹ってそういうものなのかな?』  気軽に言えば良かったのだろう。だが、ケイタは思っただけで、それを口に出すことは 出来なかった。 (忘れろ)  昨日のことは、昨日美冬が帰ってきてからの短い時間でのことは、全て、忘れろ。 「え〜〜〜と……」 「何ですか?」  ひたすら「えーと」を繰り返すケイタに、風弥が斜め下からちょこんと見上げてくる。 あーちっこいなあ、と妙に納得して、ケイタは誤魔化しの笑いを浮かべた。 「いや、風弥ちゃん可愛いなあ、とかね」 「…………」  うわあ、エロ親父くさっ! などとケイタは自分で思った。  風弥は唇をキュッと閉じ、うつむいて照れた。やはりそうしてしまうと髪で顔が隠れて しまい、少しもったいない。  ──なので、ケイタは思わずその場にかがみ込んだ。 「…………っ!」  下から風弥の顔を覗き込むようにすると、ボッと風弥の白い肌に朱が散った。小さな手 が鞄を持ったまま顔を隠す。 「な、何ですか!?」 「ご、ごめん。もうしません!」  思い切りびっくりしたうわずった声で風弥が叫んだ──ちなみに、風弥が叫んだのをケ イタは初めて……いや、昨日もあったか? とにかく、はっきりしとした叫びは初めて聞 いた──ので、ケイタも反射的に謝った。  すぐに立ち上がったケイタから見える、うつむいた風弥のつむじ。癖っ毛。そして、セ ーラー服に消えるうなじから細い肩。 (……いけないな。学校あるし)  瞬間頭に浮かびかけた男らしい好奇心さんに足払いをかけて転ばし、お兄さんケイタは NHKからスカウトが来るくらいの笑みで風弥の肩をポンと叩いた。 「悪かった。ごめん──」  ね、という語尾が消えた。  肩を叩かれると同時に顔を上げた風弥が、うるんだ目でケイタを見上げていた。 (は?)  半開きにされ、何かを待つかのような、色合いの薄い花びらのような唇。目に飛び込ん で来たそれは、可憐でいて濡れたように艶めかしく──。 (え? オーケー?)  ひたすら男とは悲しい思考パターンを持っているものである。具体的な流れを解説する と、相手の仕草に対して期待を持ちながら、しかし自分の勘違いを警戒して思いとどまる。 だが、それでも期待はあるもので……。 (ぐ……っ)  なまじ相手が従妹の少女であることで、ケイタは躊躇した。そして、一つ深呼吸する。 (……そういえば、昨日風弥ちゃん、俺のこと良いお兄さんと思ってるって言ったよな?)  それが自分が間違いを犯さないための、無意識の抑制として思い出した言葉でも、ケイ タがその行為をしないための理由には充分だった。  ふ、と軽く自分への呆れの混じった苦笑を浮かべ、ケイタは風弥の髪にポンと手を乗せ た。ぴくっと風弥が震え、そして──。  きゅっと、唇を閉ざした。 「ほら、学校に遅れるよ」 「はい……すみません。困りますよね」 「は?」 「今のは、忘れて下さい」  丸めた手で唇を押さえながら、恥ずかしそうに、照れるという意味ではなく恥じる表情 で背を向けた風弥に、ケイタはしばし絶句した。 「……は?」 「でも、一ついいですか?」 「な、何だい?」 「ケイタさんはここに来て、何を得ましたか?」 「……え?」  話題の急変に、ケイタは困った顔をしたが、その答えは結構あっさりと出た。 「家族、かな」  少し照れくさそうに言う。  そうだ、家族だ。風弥は守るべきもので、従妹──否、妹だ。そう考えると、先程先走 って下手なことをしないで良かったと納得できた。  そのケイタの言葉に、風弥は振り返らなかった。靴を履きながら、風弥は、その小さな 背中越しに言う。 「……そうですよね」  玄関の扉が、開く。 「ここにいる人は、みんなそうなんです。家族を……高津家の平穏な姿を守るためには、 どんなものからでも目を背ける」  固い、声。 「ケイタさん」  ケイタは言葉が無かった。  風弥は、何を言っている? 「ここは箱庭なんです。必要なものしかないし、必要でないものは排除される……みんな、 気付いているのに、何も言わない」 「何……を?」 「お父さんと叔父さんは、殺されたんです。そして、ケイタさんもその道を歩み始めてる。 生き延びるためには、箱庭の中にいたんじゃ駄目なんです」  扉の向こうに、風弥が消える。  残るのは、言葉だけだ。 「わたしは……箱庭を出ます。せっかく、また、会えたんですから」  扉が閉まる。  ケイタの耳に、どこかで、誰かが水に落ちる音が聞こえた。                  間3  今の今まで、夢を見ていた。  正直昨日は久しぶりに表に出ての行動だったため、少々多くの力を使いすぎた。もう一 人の俺は何も見ぬふりをして行動しているが、それの何と愚かなことか。俺が動いている 間のことを羊としての、疑似人格としての俺がある程度知覚出来るということには俺も焦 ったものだが、所詮は羊だ。俺に対して何をしてくるということもなく、こうして俺はゆ っくりと身を休めることが出来ている。  昨日は、実に様々な発見があった。ただの家畜だと思っていた者たちが、俺と同じ狩猟 者であったということが、その最たるものだ。なるほど、身近に同族がいるということは、 悪いことではない。しかも、奴らの家畜としての顔は、家畜どもの世界では有意義なもの だ。地位や金というものが、時として圧倒的な暴力をも越える強い力であることを、俺は 知っている。  ……そうだ、知っていた。知っている。憶えていなければならない。それが狩猟者であ れば。  鬼と呼ばれ、羊どもに狩られた過去の過ちを、繰り返してはならない。そのためにも、 俺は潜む。  羊の、心の闇の中に──。 『忘れて下さい』  忘れるものか。  忘レルモノカ。  ワスレルモノカ!!!  俺は狩猟者であることを忘れない。狩猟者は家畜を狩るものであり、家畜に狩られるも のではない。俺は狩ってやる。狩られてなどやるものか。  そうだ、狩らせてなど、させるものか。  そのためにも力を蓄えねばならない。  夢の中に、沈みながら……。                  ※  それは、夢の光景。  月が出ていた。  金色の、大きな月だ。  踏みしめる大地はぐにゃぐにゃと安定が悪く、強めに踏むと口から内臓を吐き出して、 辺りに異臭が漂い始める。 「……醜い生き物だ」  鎧で武装したオサムライサマの死骸の山の上に立ち、俺は呟いた。俺の割り当てはわず かに十数人。この雨月山へと送り込まれた討伐隊の数を考えるに、まだまだ多くの家畜が 入り込んでいるはずだった。  だが、それらも今頃は全滅していることだろう。狩猟者は家畜になどやられない。耳を 澄ませば、山中に家畜どもの断末魔の叫びが木霊して満ちているような気さえする。  と。 「ぐ……」  俺でも注意していなければ聞き漏らすほどに小さな呻き声がした。 「ほう」  まだ生き残りがいたようだ。  大地を埋める死骸の中、俺は呻き声を頼りに最後の生き残りを探した。確かに、斬り裂 いた時に少々手応えが甘かった相手が一人だけいた。  重なる二人の死骸の、上に乗る方を足で退かすと、下の死骸──それは、まだ息があっ た。だが、虫の息だ。 「……ふん」  痛めつけ、苦しめ抜いた時に生命は最高の輝きを見せるが、これはすでにその散華を見 せるほどの命の灯も残されていない。ならば、ひと思いにとどめを刺してやるのが俺の生 命への敬意だ。 「家畜に宿ってしまった生命よ。次は、我らと同じ狩猟者として生まれ来ることを祈る」  右腕の鉤爪を振り上げる。  その腕が振り下ろされることはなかったが。 「?」  俺の腕は、一人の雌によって止められていた。 「何のつもりだ」  問いかけると、雌は俺を見上げてきた。片方の目は髪に隠れ見えなかったが、それだけ にもう一方の目の放つ光は強烈だった。狩猟者の雌のみが持つ、同族を守る時にだけ発せ られる迫力だ。 「……ほう?」 「もう、この人は動けません。やめてあげて」 「苦しみを長引かせるだけだ」 「それでも……お願いします」 「ふん」  ここで同族と争うのは愚かなことだ。どうせ死にかけの家畜一人程度、放っておいても 問題ではない。 「いいだろう」  俺が腕を引くと、雌が安堵の息をついた。そして、雌はかがみ込む。その気配を感じな がら、俺は背を向けて歩き出した。  お優しいことだな、貞子。我が妹よ。  だが、必ずお前はその甘さのせいで命を縮めることになる。  『その時』には……そう、俺がお前の生命を散華させてやる。  家畜と成り下がった、お前の生命を。  ──それは、夢の中の光景。                  6  姉妹全員を家から送り出したケイタは、昼まで寝直そうかとも思ったが、しかし不吉な 予感にそれを否定した。どうも、昨日から眠っても疲れが取れないし、むしろ疲労ばかり 重なっているような気がする。  そして、何よりも夢見が悪い。 「箱庭……か」  ぽつりとケイタは風弥の言葉を繰り返し、昨日の出来事を反芻した。  やって来た刑事。  旅先で出会った瑠璃子。  二人で調べた鬼の伝承──。 「鬼?」  そこに何か引っかかるものを感じて、ケイタは居間の椅子に座ったまま考え込んだ。一 人の時間の静けさを払うためだけにつけているテレビのワイドショーの司会の声が耳を通 りすぎる。 (鬼──それを退治したのは、高津家の先祖……だったよな)  夢を見たはずだ。  夢を。  その夢を、ケイタは昨日から無意識のうちに思考の外に追い出していた。だが、今はそ れを意識的に呼び覚まそうとした。  昨日。  夕花の笑顔の中に消えていった。  悪夢の残滓。  姉妹たちへの、家族への思いが忘れさせる、自分の男──雄としての本能丸出しの醜い 夢は──。 「う……」  ぞわり、と背筋を駆け昇るものがあって、ケイタは思わず両腕で自分を抱き締めた。残 暑の、肌にまとわりつく湿気さえも冷ややかに感じさせるほどの、悪寒。生々しい暴力の 記憶が、確かにあった。 「俺は……瑠璃子を? いや、夢だよな……寝てたわけだし。夢遊病なんてのは有り得な いし」  それはそうだ。ケイタが夢遊病で高津家から離れた角屋まで移動し、瑠璃子を襲ったな どということは有り得ない。そもそも、夢の通りなら、ケイタは階段もエレベーターも使 わずに、角屋の外から旅館内に侵入したことになる。 「夢……だ」  荒唐無稽なバイオレンスな夢と判断できる。常識……否、良識でだ。自分が超人的な身 体能力を以て婦女を暴行した夢を見て、自分は夢遊病なんだと嘆く人間がいたら見てみた い。嘆く者がいるなら、それは普段からよほど変身願望に蝕まれた人間で……むしろ喜ん でいる人間だろう。 「だけど、あれは?」 『美冬お姉ちゃん、今日は遅くなるって。何だか角屋で事件があったみたい』  その言葉を夕花が発した瞬間、何かの符号がケイタの中で合ったはずだった。あまりに タイムリーな、その事実。 「うーん……でも、それでも俺がジャンプで角屋に侵入って話は無いぞ、絶対」  人間には無理だ、確実に。  その後、再びの電話で美冬が角屋から姿を消したとの連絡があり、美冬が帰ってきたの が夜中の話で──。 「その間に、もう一つ夢を見たんだよな……」  思い出す。  ──まず最初に、人間の死体が来た。 「ぐ……今思うに、かなりやばげな夢だった……」  そう、確か、ケイタは人を殺していたのだ。確か、狩猟者が何だとかそういう独白があ ったように思える。行動は鮮明に憶えているのだが、妙にその夢は瑠璃子を犯していた夢 に比べて独白の部分の印象が弱かった。自分の内側から発せられるどす黒い本能の塊…… それが、弱かったと言うか……。 (その分、バイオレンスはパワーアップしてたけどな)  現れた美冬と、戦う。  それこそ、失笑してしまいそうな荒唐無稽な戦いだった。ケイタは自分の右手を顔の前 に掲げて見るが、それが化け物のような鉤爪に変わるはずもない。 「変身!」  小声で気合いを入れる。  ……沈黙。  ちょっと恥ずかしかった。 『あんたアホやなあ』 「黙れ!」  思わずテレビに逆ギレするケイタである。たぶんテレビに罪はない。  そうして一人でボケておきながらも、ケイタの目は笑ってはいなかった。そう、昨夜の 夢に記憶が進んだ。ならば、次に確認しないといけないことがある。  ケイタは、自分のシャツをまくりあげた。 「…………」  胸に横一文字に走る、赤い筋。  痣……だ。 「リアルな夢で身体が勝手に動いたりとかはあるけどな……これは──」  泣き崩れた美冬。  わかりきってたことだろ、と美冬に言った碧。  彼女たちは何を知っていて、何をわかっていたんだ?  ケイタの胸の痣を見て、何を確認した? (この現実の……妙な夢からの繋がりは、何だ?)  戦いが終わって、ケイタが起きて、美冬が帰宅して、と。その一連の流れ。だが、ケイ タが夢の中のように美冬と戦っていたはずがない。何故なら、ケイタは部屋で眠っていた からだ。 (……でも、夢ならこの符号は何だ?)  現実。  夢。  昨日からそれらがごちゃ混ぜになっているように感じた。寝ると、夢を見る。悪夢だ。 ケイタは狩猟者という凶悪犯になり、人間を狩る思想を持って行動する。そして、実際に 事件は起きた──のか?──。だが、ケイタは確かに寝ているのだ。 「だー! わかるか!」  思考放棄。ケイタはリモコンでテレビの電源を消して立ち上がった。台所の洗い物を済 ますことにする。 「悲しい主夫の仕事だなあ……」  軽口一つ。鼻歌一つ。そうして脳内を清掃し、ケイタは水で皿の泡を落としながら頷い た。 「確認……してみるか」  そうして、ケイタは動き出した。  全てが無かったかのように振る舞う美冬と碧──そしてここが箱庭だと言う風弥の真実 を見極めに。                  ※  街に繰り出したケイタは、昨日とは打って変わって真夏とさえ思わせる太陽の光に目を 細めて早足で歩いた。基本的な住宅地である高津家の近所では、子供や夫を送り出した主 婦が軒先に水を撒いていたりと、いかにも日本らしい風情を感じることが出来る。ふと空 間が揺らいだと思えば、撒いた水が生み出した蜃気楼である。秋を感じさせた昨日とは、 本当に違うらしい。季節の変わり目とは、こういうものだろうか。  ケイタが向かったのは、夢の中に出てきた公園である。見覚えがあるそこは街の緑地公 園に違いない。 「歩いて二十分ってところか……」  公園内では、木々が生み出す自然の涼を求めて近所の老人たちがベンチに座っていたり した。夏の前後しか水を吹き出さない噴水もあり、小さな子供たちが下着姿で水で戯れて いた。 「あ……」  それらの日常的な風景から少し離れた場所に、小さな人だかりがあった。買い物袋を提 げた主婦を主としたその人だかりの中では、警官たちが険しい顔で立ち回っている。  立入禁止のロープが張られたその一角には、ケイタが実際には初めて見るチョークで引 いた人型があった。 「何があったんですか?」 「殺人ですって。恐いわねえ」 「この辺りって、昔から殺人事件ばかり起こるのよねえ。他の事件は少ないのに」 「殺人事件……死体はどんなふうでした?」 「さあ……私は見てないけど、酷かったらしいわよ」  ゴクリ、とケイタの喉が鳴った。警官たちの肩越しに見えるその場所は、記憶が確かな らば美冬とケイタが戦っていた場所だ。また符号がカチリと合い、夢はその存在感を段々 と主張し始めていた。 「そう言えば……」  切り倒された木があるはず……とケイタが首を巡らせると、そこも夢の通り、鋭利な刃 物で切り倒された──実際にはどのような鋭利な刃物でも一刀で太い木を切り倒すことは 不可能だろうが──木が痛々しい姿を見せていた。幸いなのは、公園内ということで、倒 れた木が家屋に被害を与えていたりしていないことだろう。 「…………」  ため息すら出ない。  と、その時ケイタの背中を叩く者がいた。 「君、高津くん?」 「え?」  振り返ったケイタの前に、本格的なカメラを抱えた眼鏡美女が立っていた。男ならとも かく女──しかも美女の顔をそうそう忘れるものではない。名前は確か──。 「フレキさん?」 「おはよう。変なところで会うわね」  微笑んだのは、ペンネーム『フレキ・オゥディン』だ。本名は知らない。 「フレキさん、こんなところで何してるんですか?」 「取材よ」 「あ、それもそうか……って、殺人事件が載るような雑誌ですか?」 「温泉街の連続猟奇殺人事件から、引退した大物女優の優雅な生活まで、全部フォローす るわよ」 「つまりゴシップ誌ですか……」 「総合情報誌って言って欲しいわね。──それより、君、高津会長とのアポはとれた?」 「──すっかり忘れてた」 「少しは期待してたのに」  唇を尖らせるフレキに、ケイタは申し訳なさそうに肩をすくめた。事情を言えば、それ どころではなかったのだが。 「まあ、いいわ。ダメもとだったんだし、こうして別のネタが転がり込んで来たわけだし」 「殺人事件ですか?」  フレキは頷いた。もう取材は終えているのか、人ごみの輪を抜けて、近くのベンチに腰 掛ける。ケイタは座らずに、フレキの前に立つことにした。 「でも、殺人事件って言っていいのか微妙なところね」 「は? 人が死んでいるんだから殺人事件じゃないんですか?」 「素直だけど、短絡的よ。人が殺すから、殺人事件なの。じゃあ、聞くけど、ライオンが 人を襲って殺したら、それは殺人事件かしら?」 「うーん……確かにそれは殺人事件とは言わないかな……」 「でしょ?」  眼鏡の奥に知性の煌めきとイタズラっぽい子供の輝きを同居させ、フレキは足を組んで 思考の態勢に入る。 「昔から、この街では人の死体が多く発見されるのよ。敢えて殺人事件が多い……って言 わないのは、それが必ずしも人間の手によるものとは限らないからよ。今回の死体は、明 らかに獣の爪か何かで引き裂かれたような感じだったって話だし──」  違うな、とケイタは内心で呟いた。 (あれは、刃物でも獣の爪でもない──もっと戦闘用に洗練された、危険な武器だ)  だが、フレキの言葉に、ケイタは関心を引かれた。 「昔から……って、いつ頃から何ですか?」  フレキはその質問に、よくぞ聞いてくれました、というような顔になる。 「何百年も昔から……って言ったら、信じる?」 「何ですか、それは……」  少々呆れるケイタ。フレキは、知識を語るのが楽しいのか、上機嫌に言う。 「記録を調べてみると、昔からこの地域では神隠しだとかそういうものが多いみたいなの よ。ただの神隠しと違うのは、いなくなったと思われた人間が、後に死体で発見されるケ ースが多いこと。神隠し発生から、本人の死体発見までの間に、何人もの人間が死んでい ること──」 「うーん、それって、つまり神隠しされた奴が殺人鬼になってるってオチじゃ?」 「まあ、そうね。でも、その本人もだいたい殺された姿で発見されているのよ」 「ほう……」  フレキの話を聞きながら、ケイタは彼女が誰かに似ていると思った。  知識を得るのが大好きな、子供のような瞳の輝きを持った女。 (……瑠璃子に少し似てるかな?)  フレキは、さらに言う。 「それらの死体のほとんどは、今回のように獣の爪に引き裂かれたものらしいわ。焼死体 とかも結構あるみたいだけど」 「でも、何百年も前からって、誇張ですよね?」 「いえ、そうでもないのよ」  眼鏡の奥で目を細めた表情は、魅力的だ。快活な表情、動作の中に潜む、女らしい艶や かさ。甘い体臭──。 (うん? 体臭? 何だそりゃ……)  ベンチに座るフレキとの距離は、遠くはないが体臭が感じ取れるほどの近距離ではない。 その割りに空気に甘い匂いを感じるのは、気のせいだろうか? (気のせいだ……な。犬じゃあるまいし)  フレキの言葉が続いていたので、ケイタはその疑問をとりあえず終わらせた。 「鬼よ」 「鬼?」 「そう。知らない? この地域の伝承で、雨月山の鬼を退治する話があるんだけど、その お話の鬼って猟奇殺人を好んだらしいのよ」 「山賊でしょう、それは」 「そうでしょうけどね。でも、手口が似ているのは本当よ。だから、こう考えたら面白く ない?」  試すように見上げる、女の目。  それは実に艶美で──。 「現代に生き残っている鬼が、殺人鬼として夜な夜な街を徘徊している……少し、モダン ホラーな雰囲気があって面白いでしょう?」                  ※  フレキと別れたケイタは、その足で角屋に向かった。さすがに角屋まで歩く気力はなか ったので、途中でバスに乗って移動する。それで、到着まで公園から二十分といったとこ ろだ。  バスに乗るまでの時間を考えると、高津家から角屋まで、最初から車に乗っていたとし て二十分程度かかるだろうか。その距離を、ケイタがまともに歩けば一時間以上はかかり そうだ。  フロントで瑠璃子の知り合いであることを告げると、にわかに従業員たちがざわめいた。  ザワリと肌が泡立つ感覚に、ケイタが何事かと尋ねると、一番聞きたくない答えが返っ た。                  ※  そうして、ケイタは病院に向かうことになった。同じように受付で瑠璃子の部屋を尋ね ると、不審そうな視線がケイタに向けられる。学校の友人だと説明して、ようやくケイタ が部屋を教えてもらった時、ケイタは知った顔を見て、目を丸くした。 「あ……確か、刑事さん?」 「おやおや、君は確か……誰だったかな」  そう言ってわざわざ警察手帳を取り出した相手に、ケイタは憮然とした顔になった。 「ケイタだよ。高津ケイタ。昨日会っただろ」 「そうそう、高津家の美人姉妹と一緒に生活しているんだったね、いやあ、羨ましい」 「……ちっ」  にこにこと笑顔で言われ、ケイタはさらに憮然とする。病院のロビーでケイタが顔を会 わせたのは、昨日美冬を取り調べに来た刑事二人だった。確か、年長の警部がお座敷猫、 若い眼鏡の方が鷲沢だったはずだ。  あまり印象の良くない人物の登場に不機嫌になりかけたケイタだったが、彼らがここに いるという意味に気づき、ハッとした。 「そうだ、瑠璃子……あんたら、瑠璃子のことで来たんだろ? どんな様子だった!?」 「おや? 知り合いかね?」 「……同じ大学のようです」  手帳を見て鷲沢が横から言い、ケイタも頷く。ほうほう、とお座敷猫が目を細める。 「偶然もそこまで行くと美しいね。旅先で顔を会わせた親しい友人が事件に巻き込まれる ……かね。あー、一応、君のアリバイでも聞いておこうか? 昨日の午後四時頃、どこで 何をしていたね?」 「……俺を疑うんですか」 「何、捜査の一環ですよ。良い市民として協力をお願いしたいですな。いや、市民ではな いですか」  もっともらしく眉間に皺を寄せて言いながらも、どこかお座敷猫には人を喰ったような 雰囲気があった。だが、アリバイを聞かれるというのは、ケイタにとって思ったよりも響 くものがあった。自分が警察に疑われている……というのは、身が潔白でも不安になって くる。それとも、そうやって重圧をかけて情報を引き出そうというのが、彼のやり口なの だろうか。  結局、ケイタは呻くように答えるしかなかった。 「家で寝てたよ」 「それを証明出来る人は?」 「夕花ちゃん──高津家の四女が、一緒に家にいた」 「なるほど……あの子には出来るなら手荒なまねはしたくないのですがね」 「手荒な……って何する気だ、あんたっ」 「君、よせ」 「いやいや、これは失礼。口が軽いのは、警官としていかんことですな」 「からかってるのか……っ」  お座敷猫に掴みかかろうとしたのを鷲沢に止められ、ケイタは目尻を吊り上げてお座敷 猫を睨み付けた。お座敷猫は、ふむ、としばしニヤニヤ笑いのままケイタを眺めていたが、 やおらその笑みを収め、言う。 「家族なんだなあ」 「は?」 「いや、先程のは冗談ですよ。我々は市民の味方ですからな、いたいけな少女に無粋なマ ネはしませんよ。それに、捜査を外れて遊ぶ暇も無いのでね」 「遊ぶって……やっぱり人をからかって……っ」 「いえいえ、すみませんでしたね。ああ、あまり被害者に精神的な負担をかけるような会 話は避けて下さいよ。女性はナイーヴでしてね。──鷲沢、行くぞ」 「はい」  またニヤニヤ笑いを残して去っていくお座敷猫プラスワンに、ケイタはべーっと舌を出 して見送った。 「まったく──」  と、足を瑠璃子の部屋に向けようとして、気付く。 「あの警部……捜査を外れて、って言ったな。つまり、俺とかは、容疑者の対象外ってこ とか?」  置きみやげのように、ケイタが憶えた被容疑者の事態への不安を消していった辺りは、 大人なのだろうか。 「いや、きっと嫌な奴だ」  とりあえず、自己認識は改めず、ケイタは瑠璃子の部屋の前にやってきた。 「うん?」  ふわり、と香るものがあり、ケイタは首を傾げた。そう、フレキとはまた違い、だがど こかで嗅いだことがあるこの香りは──。 (だから、俺は犬じゃないって……)  自分に呆れ、ケイタはドアノブに手をかけた。表札は沢上瑠璃子だけの、個室だ。  ドアノブを回す。  その段階で、ケイタは気が付いた。 (そういや、瑠璃子は実際に誰かに襲われたんだ)  夢との合致──だが、それはケイタではない。先程も刑事たちに言ったが、ケイタは寝 ていたのだ。 (……何て言って慰めようかな)  ただ知り合いに会うだけでも、心の薬になってくれれば、と。  そう思い、ケイタは扉を開いた。 「!」  途端、むせ返るような甘い香りに、ケイタは顔をしかめた。部屋の中に閉じこめられて いたものが、一気に流れ出るようなそれは、錯覚か、それとも……。 「ひ──」  ベッドの上。  呆けたような顔をして半身を起こしていた瑠璃子がケイタを視界に収め。 「ぃやあああああああああああああああああああああああああああああああ!」  甘い香りが、一層濃くなったような気がした。