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ファーブル英雄伝 〜シファ・メノルの冒険記〜

            第二章『英雄の条件』


                序


 そこは光で作られた殿堂のような場所であった。
 戦争が始まる前に設計された、他国の賓客を迎え入れることを考慮して飾り立てられた
豪奢な一室は、巨人が背伸びしてもまだ余裕がありそうな高い天井に銀と金で彩られたシ
ャンデリアが吊り下げられ、雄々しい戦士や可憐な乙女たちを装飾された無数の柱がその
天井を支えている。
 そして城の奥深くにあるということを忘れさせるかのように、壁という壁には黄金時代
といわれるファーブル創世期の物語をつづった広大な空と大地の絵画が掲げられていた。
「殿下。騎士ユーリ・ファルシア、ただ今戻りましてございます」
 跪いて騎士の礼を取るのは、その彫刻や英雄絵画から抜け出してきたかのような美麗な
青年である。
 やや線が細く、遠めには女と見紛うほどの美貌。およそ戦いを生業とする騎士とは信じ
られないその青年は、しかしその鎧の胸に上級騎士の鷹の紋章を輝かせていた。
 その美しくも威風堂々とした姿を見れば、最後の人間の王国ラグーンの民ならば皆同じ
ように呼ぶ。
 若き英雄、聖堂騎士ユーリ・ファルシア、と。
 百の兵が入ってなお広々と感じられる謁見の間には、他にも二十人余りの白銀の鎧を身
に着けた騎士たちが並んでおり、全員がその場に控えることのできる自らの身分に誇りを
抱いた表情をしている。
 だがその中でただ一人表情に陰を落としているのは、最上位の玉座に向かい礼を取るそ
の場の主役、ユーリ本人であった。
 そのようなユーリに向かい、玉座の横に立った人物が鷹揚に頷いて言う。
「ご苦労様でした、聖堂騎士殿。ご無事で何よりです」
「王命を果たさず舞い戻った身には、もったいなきお言葉にございます」
 薔薇で染めたかのような赤い絨毯に視線を落とす騎士を見下ろすのは、二十歳にわずか
に届かない程度の少女だ。しかし、その場にいる騎士や老齢の文官たちの誰よりも強い立
場にその少女があることは、文字通りその立つ位置が示している。
 空席の玉座の横に立つ、白い少女。宮廷婦人の流行らしく肩の膨らんだドレスや、細い
腰を締める装飾を兼ねたコルセット、幾重にもレースが重なったスカート。だというのに
その上から長い真紅のマントを身につける姿は、ただの貴婦人ではありえない。
 エルザ・ラ・シード・ラグーン。
 現在病床の父王に代わり政務の一切を取り仕切っている、ラグーン王国国王代理だ。
 月の光を束ねたような銀髪の少女の、紅玉のような瞳で見つめられたユーリは顔すら上
げられずに息を詰めた。
 可憐な外見に反して、エルザは公正かつ冷酷な治世者だ。簡単に言えば合理主義であり、
無能であったり国にとって害悪でしかないと判断した者であれば、裁判無しで即座に首を
刎ねる。
 十三年前の戦の後、彼女が政治の表舞台に立つようになって粛清された貴族や騎士は多
い。エルザに言わせれば「無駄飯食らいはいらない」ということになるのだが、意外なほ
どにその政策に対する批判は少ない。
 エルザは粛清した者の私財を国庫に貯めこむことはせず、戦で被害を受けた国民の救済
にそれらを使用したのだ。その結果、トロールと竜人の連合軍によって蹂躙された国土は
早い段階で復興を遂げ、滅びた他の王国の国民を受け入れる新しい街も建設できた。
 長い戦の中でも飽食を貪っていた者には厳しく、傷ついた弱き国民には優しいこと。ま
た、かの竜王殺しの英雄ガノッサの実妹であり、十三年前の戦で活躍した希代の大魔法使
いでもあることから、王宮で畏れられている彼女の国民人気は高い。
 自らに魔法処理を施して、三十五歳になる現在でも若々しい姿を保つその姿から、聖エ
ルザと信奉されるラグーンのカリスマ的な存在だ。
 幼き日に父の凱旋に並んで挨拶を交わしたその頃から変わらないエルザを前にすると、
さしものユーリでも身を硬くせずにはいられない。
「この度の精霊石採掘は残念な結果になってしまいましたが、トロールがガラン山の頂に
姿を見せたという報せは有意義でした。早馬にて届けられた南部への兵員増強という提案
は受け入れましょう。充分とは言えないでしょうが、二百の兵とできるだけ多くの人足を
送りたいと思います」
「は」
 絨毯を見つめて硬い表情をしながらも、ユーリはさすがとエルザのことを評価する。西
をゴッブリィン、北をケンタウロス、東をエルフと国境を接する今、少しの兵も他に割く
余裕はないはずだった。
 それが寡兵とはいえ、さして重要度の高くない山地へと派遣してくれるという。しかも
人足つきということは、村落の防衛のための柵や物見矢倉を建設するということだろう。
 異を唱えたのは、見事な口髭をたくわえた初老の騎士だ。
「お言葉ですが殿下。今はエルフどもに不穏な動きがあり、そのような兵は……」
「あの地域はもとトロール領。前回の戦の消耗から回復したトロールたちが取り戻そうと
考えているのかもしれません。ですが、今あそこに住んでいるのは、国を奪われ行く先の
なくなった人々。二度と彼らを流浪の民にすることはできません」
「ですが……」
「デギン殿。次の交替で国境線に赴くのはあなたですから、そのお気持ちは察します。聖
楯将軍とさえ呼ばれるあなたの戦果を支えているのが、その慎重さであることも」
 穏やかに、笑みさえ浮かべてエルザは言う。顔を伏せたままのユーリは、自分へ向けら
れた言葉ではないというのに背筋がゾクリとするのを感じた。
「ですが残念なことに、これは決定事項です」
「ぐ……っ」
 歴戦の勇士であるデギンが息を呑む音をユーリは耳にした。他の騎士たちもそうだろう。
 そして決定をエルザが絶対に覆さないことを知るが故に、デギンはそこで引き下がる。
 もしそれがただの貴族の台詞であれば、騎士たちは憤ったかもしれないが、エルザはも
っとも苛烈であった十三年前の戦において、デギンをはじめとする列強の騎士たちと共に
戦場を駆けた魔法使いだ。
 ユーリは目にしたことがないが、彼女は常に最前線で、英雄ガノッサの傍らに立ってい
たという。
 知能は低いがその肉体の強大さでは本物の竜にも匹敵する亜竜の群れを、空から燃える
岩石を落とす大魔法で壊滅させたというのは、すでに伝説的な話だ。
 だから、彼女の言葉には力がある。
「二百の兵が欠けるのであれば、他の二百の兵が一人で二人分の働きをすれば良いことで
す。そして、我が国の騎士はそれができる猛者ぞろいであると信じています」
「――は!」
 一同が、床に拳を立てる騎士の礼で応じる。そこまで言われて食い下がれば、臆病者の
そしりを受けるしかないからだ。
 決意の表情の騎士たちに満足の笑みを返し、エルザは再び視線をユーリに戻した。
「さて、聖堂騎士殿。二つ目の提案――いえ、こちらは要請ですね。トロールに連れ去ら
れた騎士の救出に関してですが」
「……はい」
「申し訳ありませんが、今語ったような状況です。騎士一人のために貴重な兵力を割くこ
とはできません」
 それはわかりきっていた答えであったが、ユーリは床についた拳を痛いほど握り締めて
衝動を抑える。辛うじて、平静を装った声で言う。
「では、どうか私めにしばしのお暇をお与えください」
「まあ」
 クスリ、とエルザが笑ったのが気配でわかった。ユーリはそこで初めて顔を上げ、正面
から白衣の少女と瞳を合わせた。
 美貌の騎士のこの上なく真剣な表情を受け止めるのは、優しげな、しかし氷の冷たさを
宿した笑み。国民に対しては暖かい慈悲の心を向けるこの国王代理の、騎士たちを相手に
する際の化粧のような薄氷。
「聖堂騎士殿。聞けば、捕らわれたのはあなたのご兄弟とのこと。確か、アルバート殿と
言いましたね」
「は。年初めの叙勲式にて殿下より騎士の誉れを賜った愚弟にございます」
「愚弟などと。あなた方兄弟の仲むつまじさは伝え聞いています。さぞ心配でしょうね」
「……は」
 にこやかなエルザに、ユーリは躊躇いながらも頷いていた。
 すると、彼女は静かに瞼を閉じる。
「そうですね、仮にも聖堂騎士殿の弟殿。あなたのこれまでの功績に免じ、妥協案を出し
ましょう」
「妥協案? それはどういう……」
「聖堂騎士ユーリ・ファルシア。あなたにはこれから東の国境線に向かってもらわなけれ
ばなりません。あなたの提案を受け入れ派遣する二百の兵の代わりを、あなたに務めても
らうからです」
「……は」
 重々しく、ユーリは承諾する。エルザの言葉は、ユーリを南部に送ることはしないとい
う決定だ。だがそれでは妥協案の意味がわからない。いぶかしげなユーリに、エルザは瞼
の奥に紅玉の瞳を隠したまま続ける。
「その代わり、あなたの弟殿の価値に等しいだけの兵を救出に派遣しましょう。言ってく
ださい、聖堂騎士殿。騎士アルバート・ファルシアは、兵士何人分の働きをしてくれます
か?」
「な……っ」
 ユーリは思わず立ち上がりそうになった。それはあまりにも合理的で、残酷な言葉だっ
た。
 どれほどユーリが大切に思おうと、騎士一人の戦力などたかが知れている。例え贔屓目
に見てアルバートが騎士二人分の働きをすると進言したとして、たかが二人の兵を救出に
向かわせても、無駄に死地に送り出すようなものだ。
 そして自分だけならともかく、他人をそのような危険な目にあわせることなど、ユーリ
にできるはずもなかった。
「ア、アルは……」
 唇を噛む。拳が傍目にも震えて見え、エルザの変わらぬ笑みにユーリは言葉を繋ぐこと
ができなかった。常に穏やかで沈着冷静と言われる聖堂騎士のその姿に、同僚の上級騎士
たちは意外なものを見る目だ。
 と、その背中に声がかかった。
「そこまでだ、ユーリ。控えよ」
「父さん……」
「ローガン殿。そうですね、捕らわれの騎士は、あなたの息子でもありましたね」
 まるで今気がついたと言わんばかりの言葉。だが甲冑を揺らして進み出たその壮年の騎
士は、僅かに皺のある厳格を絵に描いたような顔で答える。
「御意。畏れながら申し上げますと、愚息はまだ騎士として半人前。それはこの度トロー
ルごときに不覚をとったことからもおわかりでしょう」
「それはどうでしょう。相手は複数だったのでしょう?」
「無謀にも己の腕が足りぬというのに複兵相手に単身挑むは、それこそ誉れあるラグーン
の騎士失格。戦の道理を知らぬ愚か者でしかありません」
 きっぱりとローガンは言い切ると、膝を折っているユーリを見下ろす。戦場を渡り歩く
うちに自然と身についた歴戦の威厳を漂わせる男と、女のような優男。だが後ろに撫でつ
けて樹脂で固められたローガンの金色の髪は、二人が親子であることを正しく示している。
「このような時期に貴重な騎士を減らすことになったのは、監督者であった我が息子ユー
リの不徳であり、ひいては父である我が不徳。次の戦にて必ずや戦功を立て、この不始末
の穴埋めといたしますゆえ、この場はどうかご容赦を」
「戦で、ですか。それが騎士の本道でありましょうね」
 頷き、エルザはローガンとユーリを順番に眺めた。
 一人はラグーン騎士団を束ねる、大騎士ローガン。
 もう一人は次代の騎士団長の最有力候補、聖堂騎士ユーリ。
「では、聖堂騎士殿。デギン殿の副官としてエルフの森との国境線の防衛任務に就くよう
に。弟殿のことは残念に思いますが、すでにトロールに連れ去られて五日、絶望的である
と言わざるをえません」
「……は」
 やはり変わらぬ微笑に、ユーリはもう見つめることも諦めて視線を落とした。
 エルザには最初から、アルバート救出のために人員を割くつもりなどなかったのだ。即
断即決が信条の彼女の手の上で踊らされただけのような気がして、ユーリは唇を青くなる
ほど強く噛み締めた。
 望みは絶たれた。自分が赴くこともできず、誰かを送ることもできず、ユーリは遠く東
の国境線へと向かうことになる。
 謁見の終わりを告げる文官の声をどこか遠くに感じながら、ユーリは立ち上がることが
できなかった。その肩を、手甲に包まれた大きな手が叩く。
「自分を責めるな。運というものはある」
「父さん……」
 見れば、エルザや他の騎士たちは早々に立ち去り、きらびやかな謁見の間はがらんとし
た広さの目立つ場所になっていた。先ほどまでは緊張のためか圧迫感すら感じていたとい
うのに、今度は広い世界に一人ぽつんと取り残されたような気がして、ユーリはため息を
つく。
「……守れなかったよ」
「ああ」
「僕が守ってあげるって、子供の頃から決めていたのに」
「ああ」
「母さんになんて言ったら……」
「ああ」
「父さん?」
 同じ応えを繰り返す父に、ユーリはうつむいていた顔を上げた。すると、ローガンはそ
の手で額を押さえ、深いため息をついて苦笑した。
「いや、すまんな」
 いつも通り、軍議や謁見以外では口数の少ない父親。
 だがその表情に戸惑いのようなものがあるのを、ユーリは見つけていた。
 大騎士は、もう一度ユーリの肩を叩き、背を向ける。
「私も、息子を亡くすのは初めてでな」
 その言葉に、ユーリは言葉を失った。
 そして去っていくローガンの背中を直視できずに、床を殴りつけた。
「……くそっ。くそ……っ。なんで、なんで僕は守れなかった。なんで僕は助けに行くこ
ともできないんだ……っ」
 何度も床を殴りつけ、涙を流す。
「何が聖堂騎士だ……僕はアルの兄貴なんだ。それ以上の何かじゃないんだ。なのに、な
んでこの名前はただの兄貴にさせてくれないんだ……っ」
 父の後を追い、当然のように騎士になった少年がいた。
 義弟の尊敬のまなざしに応えるために、必死になって戦場を駆け抜けた少年がいた。
 それが成長して青年になった今、彼は己の胸の紋章に指を立てて泣く。
「僕は、守りたい者すら自由に守れない騎士になりたかったわけじゃない……!」
 慟哭は聖堂騎士の心に闇を落とす。
 その様を遠くから見つめる目があることに、その時のユーリは気づくことができなかっ
た。





                1


 ユーリがタファルでエルザに謁見していた頃、その義弟であるアルバートは窮地に陥っ
ていた。
「ち……くしょう……っ」
 肩で荒い息をつく少年は、すでにそこかしこがへこんだ胸部鎧を身につけ、自分の身長
ほどもある長剣を構えていた。正面に立つのは厚布に無数の鱗を貼り込んだ独特の軽装鎧
の竜人で、そちらも同様の剣を手にしている。
 違いと言えば、一振りの剣を必死に両手で支えているアルバートに対し、その竜人は二
つの手にそれぞれ一振りずつを持つ、いわゆる二刀流であることだ。
「終わりか?」
「誰がっ」
 涼しげに言った竜人の声は、まだ若い。緑色の鱗も色艶が良く、夏の若葉を思わせた。
 アルバートが最後の力を振り絞って斬りかかると、竜人はそれをあっさりと片方の剣で
弾く。二度三度上段から斬りかかるが、剣の重さに振り回されてその速度はお粗末なもの
だ。
「ふっ」
「笑うな……っ」
 鼻で笑われたアルバートは、カッとなって振り下ろした剣を振り子のように斬り返した
が、それも上半身をそらすだけでかわされる。憎らしいことに、髪の毛一本ほどの隙間し
かない紙一重の見切りだ。
「では行くぞ」
 ひとこと断ると、今度は竜人が攻勢に転じた。長大な剣をまるで小枝のように自在に操
り、アルバートを追い詰めていく。
「うっ、わっ、たっ!?」
 一撃目は後ろに下がって避け、追いかけてくるようなニ撃目の突きを剣で受け流したと
ころに、大きく踏み込んだ前蹴りがアルバートの胸を打った。胸骨が軋むような衝撃に吹
き飛ばされ、したたかに地面に背中を打ちつける。
「ぐうっ」
 肺の中の空気が全て吐き出されたかのような目眩を覚えながら目を開くと、鋭い剣の切
っ先がアルバートの喉元に突きつけられていた。
「……参った」
「うむ」
 アルバートが悔しげに言うと、竜人は大儀そうに頷いて剣を左右の鞘に収めた。長剣は
人間では背負っても地面に届いてしまう長さだが、倍近い竜人の長身ならばちょうど良い。
 そして彼は転がったままの少年にその鱗のついた手を差し伸べる。
「立てるか、人間」
「……アルバートだ」
 通算二十回目の敗北に、アルバートは口をへの字にした。

                ※

 アルバートがトロールと竜人の村に滞在するようになって、五日が過ぎていた。
 初めこそ異種族の中で暮らすことに緊張を覚えたアルバートだったが、蓋を開けてみれ
ばそこは気の良い田舎の村のような、牧歌的な空気すら感じるのどかさで彼を迎え入れて
いた。
(こんなんでいいのか……?)
 思わずアルバートが難しい顔をしてしまうほどに、そこは平和だった。
 竜人の巫女であるシファのペットとなった彼を待っていたのは、騎士団にいた頃と変わ
らない訓練の日々だ。
 シファのペットである以上、彼女の身の安全を守れる程度の強さは必要であるとセツに
言われ、一人の竜人の若者に引き合わされた。それが当面の戦闘教官であり、不慣れな異
種族の村に放り出されたアルバートのお目付け役であった。
 以来、アルバートはその竜人の若者──リューガの指導のもとに昼間は剣の技や密林の
心得を学び、夜はシファに人間の街のことを語って聞かせる毎日を送っている。
「くそっ、今日もかすりもしねぇ。まるで兄貴とやってるみてぇだぜ」
 手も足も出ないで叩きのめされたアルバートが鎧を脱いで悪態をつくと、こちらは汗一
つかいていないリューガが目を細めた。
「いや、なかなかどうして良い動きだ。初めて手合わせした時のことを覚えているか」
「……思い出したくねぇ」
「恥ではないぞ? 誰にでも最初はあるものだ」
 拗ねたように少年が言うと、リューガが落ち着いた笑いを見せた。それは恐ろしげにす
ら見える爬虫類の顔でありながら、アルバートに親しみを与える。
 セツはリューガを竜人一の剣士であり、公平な真竜の心の持ち主であると言っていたが、
それは真実なのだろうとアルバートも思う。まるで高潔な騎士のような堂々たる武人の姿
に、少年は無条件でこの男に尊敬の念を抱くまでに至っているのである。
「初めての時に俺の剣を一合も受けられなかったとは思えないほど、今のお前は腕を上げ
ている。慣れもあるのだろうが、小さな身体でその剣を振り回せるようになっただけ、た
いしたものだ」
「小さなってな……あんたらが馬鹿でかいだけじゃねぇか」
「はは、そうかもな」
 トロールと竜人はファーブルに存在する種族の中でも、巨人種を抜かせばダントツに大
きな部類だ。比べて人間はエルフやラホビットを始めとする主流の体格の種族である。な
ので、この場合はリューガが巨大な剣を扱える特別な存在ということになる。
 しかし、とアルバートは自分が長杖のように支えている剣を見た。
「実際、こいつを俺が使うってのは無理があるぜ……」
「すまんな、この村には人間に扱える大きさの武具はない。いずれ木剣でも用意しよう」
「へ〜い」
「それにその剣を扱っているだけで当面の身体作りにはなる。お前にはまだ鱗が足りんか
らな、人間」
「アルバートだっ。人間に鱗はねぇよっ」
 筋肉の比喩だとはわかったが、アルバートは唇を尖らせてリューガの高い位置にある顔
を睨む。その視線を余裕を持って受け止め、竜人の青年は彼に背を向けた。
「はは、そうだったな。よし、では人間。次はシファ様の昼飯作りだ。ガリィ殿にしっか
りと学ぶんだぞ」
「ア、ル、バ、ア、ト、だっ!」
 少年の怒声が、抜けるような青空に吸い込まれていく。
 それは全ての悩みを飲み込むような広い空で、アルバートは声の限り叫んだ勢いで真上
に差し掛かった太陽を見上げる。
 目を焼くような眩しい光は、人間領では真夏でしか見られないもの。
 汗まみれの身体でその光を受け止め、少年は大きな深呼吸を一つ。
「……よし、シファが腹を空かせて待ってんな」
 充実した表情で鎧を掴み、走り出した。

                ※

 食事の作り方としてアルバートが最初に学んだのは、米を扱うということだった。村の
食糧事情を支えているのは密林を切り開いて作った水田による稲作であり、パン食に慣れ
たアルバートには新鮮な食物だった。
「なかなか筋がええべ。この調子なら、姫さんの食うもん全部任せても大丈夫だべな」
「ども」
 ガリィというトロールが炒め飯の味見をして言うと、アルバートは満足げに笑って頷い
た。隠れた才能というほど大袈裟ではないが、こと料理に関して彼の物覚えは良かった。
 数日目にして今までシファの食事の面倒を見ていたガリィの免許皆伝を得て、これで少
しはペットの仕事をこなしていると胸を張れる気がして、アルバートは密かに拳を握りこ
んだ。
(うっし)
 だがすぐに脱力する。
(いや……違うだろ。飯作って喜んでんな、俺)
 ため息をついているアルバートをよそに、ガリィは自分が作っていたスープを大きな漆
塗りの椀に入れると、炒め飯と共にトロール用の盆に乗せる。
「持ってけ」
「おう」
 慎重に盆を受け取ったアルバートが共用の炊事場を出ようとしたところに、周りから声
がかかった。
「ん? 姫さんとこ持って行くなら、これ持ってけ」
「あんら、アル坊でねぇの。オメちっこいんだし、これ喰いな」
 炊事場を埋めていたのはトロールの女たちで、次々と食べ物の乗った小皿で盆が埋めら
れていく。それもいつものことで、アルバートは礼を言ってその場を後にした。
 アルバートが向かったのは、当然のようにシファの家だ。
 高床式住居の並ぶ中を抜けていくと、白い毛並みを持つ一角の虎が寝そべる家屋が目に
入る。アルバートが近づくと獣はチラリと目を向けて来たが、すぐに昼寝に戻ってしまう。
トロールの女王マチウのペットであるビューは、まさに彼女に絶対服従だ。マチウが通行
を許可したアルバートに対しては、最初の時のような警戒はまったく抱いていない。
 それこそがペットの鑑の姿なのだが、アルバートの場合はやはり動物ではなく人間とい
うことで事情が違ってくる。
 扉代わりの緑葉の前に立ち、彼は中に声をかけた。
「昼飯」
 すると。
「アル、いらっしゃい!」
 大きな葉を押しのけるようにして、蜂蜜色の髪をした少女が笑顔で彼を出迎えた。

                ※

「いつになったらアルと一緒に暮らせるのかな?」
「ぶっ」
「わわ!?」
 シファの何気ないひとことに、アルバートは含んでいた生卵を吹き出した。
 食卓の上に並んでいるのは五人分はある昼食であったが、そのうち四人分はすでにシフ
ァの小さな身体の中に消えている。同じ卓で食事をすることを許されているアルバートは、
最後に取っておいた鶏の卵を口にしたところだったのだが、そこに今のひとことだ。
「ご、ごほごほっ。な、なんだってぇ?」
「だから、ペットは一緒の家に住むのが当たり前なのに、アルは外に家をもらってるでし
ょ? それって変だもん」
「変って……一緒に暮らす方が変だろ」
 そう言って、アルバートは赤くなった頬を掻いた。
 だがシファは食後の果汁をくぴくぴと飲みながら、首を傾げる。
「変なの? ペットなのに?」
「俺は普通のペットとは違ぇだろ。ビューやカマキリみてぇに動物とか虫じゃねぇんだ。
大切な姫さんと一つ屋根の下に俺なんかが住んでみろ、速攻で殺されちまう」
 あえて男と女が一つ屋根の下、とは言わなかった。そこまで言うとあまりに生々しかっ
たし、シファに男女の理論は通じないと予想してのことだ。
 しかし本質的なことを説明していない言葉では納得できないらしく、シファはさらに首
を傾げて戸惑いを見せた。
「ふーん……残念」
「そ、それより、今日は儀式のやり直しとかがあるんだろ? そっちの準備はいいのか?」
 長い間この村で暮らしているためか、人間というよりもトロールに常識が近いシファの
言動にどぎまぎしながらアルが話を逸らすと、少女は再び果汁をくぴっとやりながら頷い
た。
「火の精霊との儀式が中途半端になっちゃってるんだって。そろそろ鳥さんも落ち着いて
るだろうから大丈夫だろうってガリィさんが」
「あー、そりゃ俺のせいか。悪ぃ」
「あはは。そう言えばそうだったよね」
 ガラン山での山頂での出来事を思い出し、二人はしばし笑いあった。アルバートの勘違
いからの事故であるが、山頂は火喰鳥が荒れ狂い、頑強なトロールでも立ち入れない場所
になっていたのだ。
 再びの儀式は、トロールの中で司祭を務めるガリィが吉日を選んで行なうことになって
いたが、今回竜人の長老であるセツの要請があり、予定を前倒しして本日行なうことにな
ったとアルバートは聞いている。
「その儀式ってのは、なんのためにやるんだ? 竜人じゃなくて、トロールと一緒にやる
んだろ?」
「うん。火の精霊の扱いはトロールの方が上手なんだって」
「そりゃ初耳だ」
 アルバートのこれまでの常識では、トロールは魔法などに縁のない粗暴な種族だった。
それが魔法に長けるという竜人よりも上だと言われれば、驚きもする。
「俺、ここに来てから驚いてばっかりだな……」
「わたしもアルのお話には驚いてばっかりだけどね。人間の街には何万人もわたしと同じ
人間がいるんだよね。一度行ってみたいなー」
「そ、そのうち俺が連れてってやるよ」
「本当!?」
 目を輝かせるシファに、アルバートはぎこちなく笑った。
 アルバートはこの数日間でトロールや竜人たちがどのような種族であるか、多少は理解
した。それは今まで人間領で教えられてきたようなものではなく、多少の価値観の違いは
あれど、彼らが人間と変わらない話し合いの通じる人々だということだ。
 だがそれとは別に、アルバートには自分とシファがどうにか人間領に戻れないかという
思いもあった。
 自分にはラグーンの王都タファルに家族がいる。シファにも人間の国を見せてやりたい。
(だけど、今の俺にはそんなことできやしねぇ)
 シファは竜人の祭事に必要だという巫女だ。村を自由に出歩けるようになったアルバー
トだけならともかく、シファをつれて村を脱出することはまず不可能だろうし、そもそも
シファがそのようなことを承知するとは思えなかった。
(この子にとって、故郷はここみたいだしな……)
 胸の前で合掌して喜んでいる少女を見つめ、アルバートは内心ため息をついた。一度行
ってみたいだけ、というのがシファの本音だろう。
 と。
 不意にシファが開いている窓の方を見た。同時に陽が翳ったかと思うと、ポツリポツリ
と雨粒が地面に染みを作り、それはすぐに土砂降りの大雨へと変わった。途端に叩きつけ
るような雨で舞い上がった砂が村の空気に混り、埃っぽい匂いが鼻につく。
 村の家屋が高床式住居になっているのは、この毎日の豪雨のためだ。近場に水捌けの悪
い岩石地帯があり、そこに溜まった水がこの土地に流れ込んでくると、一時的に人間の膝
程度まで水に浸かってしまうという。
 シファが手早く窓を葉で塞ぐと、アルバートは感心して言った。
「シファは雨が降るのがわかるんだよな。やっぱり巫女だからなのか?」
「ん〜、そうなのかな? 普通にわかるけど」
 さも当然そうなシファに、アルバートは彼女がやはり巫女なのだと納得した。密林の中
では毎日のように激しい雨が降ったが、シファはその予兆を感じるのか、明らかに雲が頭
上に集うよりも先に反応する。
「水の精霊の儀式をすれば、もっと詳しくわかるようになるってセツ様が言ってたよ」
「そりゃすげぇ。なら火の精霊の儀式の後は、火の魔法とか使えるのかもな」
「うん。儀式の護衛役お願いね」
「おう、任せとけ。シファは俺が守るぜ」
 少しだけ照れながら、アルバートは約束するのだった。





                2


 雨が上がるのを待ってから村を出発したアルバートたちは、陽がさして傾かないうちに
ガラン山に辿りついていた。
 意外なほど近いというのがアルバートの感想であったが、密林の中をそれだけの時間移
動することを考えれば、村の位置を知らない人間にとっては決して近い距離ではない。
 森の各所には野生動物の縄張りや、トロールや竜人が仕掛けた人為的な罠も多く、その
どれかに引っかかれば命すら危うい。今も先導するトロールたちがいなければ、アルバー
ト一人では陽が暮れても辿りつけなかったことだろう。
(妙な気分だな……)
 前回は騎士に囲まれて山の北側から登山を始めたが、今回は東側から頂を目指す。しか
も会いたくはないと呟いていたトロールと共に歩いている自分に、アルバートは肩をすく
めて皮肉げに笑った。
 一行はアルバートを含め四人だ。
 まず所々が破損した不恰好な鎧姿のアルバート。儀式を行う司祭役のガリィ。竜人の剣
士であるリューガ。
 アルバートはシファのペットとしての同伴であるし、リューガはそのお目付け役兼実質
的なシファの護衛だ。儀式には決まった人数しか参加できないというので、外れた二人の
トロール護衛の代わりをリューガが務めることになった。
 そして当然最後は儀式の主役であるシファだ。
 相変わらず火炎樹がまばらに生えているだけの殺風景な山道を登りながら、少女は髪を
なびかせながらアルバートたちの前で踊るように回る。
「護衛お願いね、アル!」
「お、おう。シファは俺が守るぜ」
「うふふっ」
 何が楽しいのか無意味にクルクル回るシファの姿に、リューガが不思議そうにアルバー
トに尋ねる。
「何の遊びだ?」
「なんか気に入ったらしくて……」
 すでに何十回も繰り返したやり取りに、最初は赤くなっていたアルバートもうんざりし
ている。その声に疲労でも感じ取ったのか、ガリィが大きな手で背中をポンポンと叩いて
くれるのが、慰めのように感じた。
「姫さんが楽しそうなのは、ええことだべ。こん前はぐずってたもんで、半分無理矢理連
れてきたべな」
「は? そうは見えねぇけどな」
 アルバートにはシファが儀式を心待ちにしているようにすら見えた。そうでなければ、
これほどはしゃぐことはないだろう。
 だがガリィの言葉をリューガが継ぐ。
「大小を問わず、シファ様が関わる儀式は危険を伴うのだ。シファさまはそれが原因で村
を燃やし尽くしたことがあり、以来儀式を嫌っておられる」
「燃や……ってどういう儀式だよっ!?」
 驚くアルバートに、リューガは口の前に人差し指を立てた。慌ててアルバートが口を噤
んでシファを見ると、少女はかなり先行していて二人の会話には気づいていない。
 小さく頷いたリューガは、慈しむような瞳をシファに向けて言う。
「人間。お前が来たことで、シファ様の心に何かしらの変化があったのだ。嫌いな儀式に
嬉々として挑むような変化がな」
「…………」
 言われても、アルバートにはシファの心境をそこまで変えるようなことをした覚えがな
い。むしろアルバートの方が彼女の進言で命を救われたようなものだ。
「姫さん、そんなに急いどったらすぐにバテるべさ。儀式失敗は困るべ?」
「大丈夫ですよ。今日、わたしとっても調子いいですから!」
 ガリィに注意されたシファは、振り返ってにっこりと微笑み、
「わわっ!?」
 後ろ歩きで石につまずいて尻餅をついた。それを見て三人が笑うと、耳を赤くしてすぐ
に立ち上がる。
 そろそろ休憩にしよう、とリューガが言ったのは山頂までもう一息というところだった。
頂には火炎樹の森があるので、比較的涼しい場所で体力を回復させたいという意見には全
員が賛成する。
「ふう……相変わらずクソ暑ぃとこだぜ」
「アルは着込んでるから。わたしは涼しいよ」
 手ごろな岩を椅子にして座り込んだアルバートの横に、シファも腰を下ろす。その言葉
通り、彼女は初めて会った時と同じような貫頭衣を着ており、袖なしで裾も短いそれは実
に涼しそうであった。
 しかし丈の短い裾から、健康そうな足が無造作に伸びているのを見たアルバートは、極
力そちらを見ないようにして頷く。布自体かなり薄いので、一枚の服を隔ててシファの肢
体が透けて見えそうな錯覚さえ覚えた。
「アル、顔が赤いけど……お水飲む?」
「あ、ああ、悪ぃ。ここ暑ぃからな。火照ってたまらねぇ」
 若者らしい想像力を働かせていたところに瞳を覗き込まれ、アルバートは真っ赤になっ
てシファが差し出した牛皮の水筒に口をつけた。義兄の言葉を思い出して飲みすぎること
はせず、軽く二回喉を鳴らすとシファに返す。
 そこで気がついた。
「お? シファ、水飲んでなかったのか?」
 とめどなく溢れる汗で失う水分を補給するため、アルバート自身の水筒はすでに半分以
下になっている。だが今口をつけたシファの水筒はなみなみと水で満ち、最初の量から減
っていないように見えた。
 アルバートの疑問に、シファは近くに腰を下ろしているガリィとリューガに視線を向け、
二人も水筒に口をつけているのを見て首を傾げる。
「うーん、そういえば、前に来た時は水筒十杯くらい飲んだんだけど……」
「そりゃ飲みすぎだろ」
「う……そ、そうかな。でも今は汗もあんまりかいてないの。暑さは感じるんだけど」
「邪魔が入って中断したとはいえ、儀式を途中まで行ったからではないか?」
「悪ぃ、邪魔したの俺だ……」
 リューガの推測に、アルバートはさらに自分がこの集団の中にいる不思議を噛み締めた。
それは他の者も同じなのか、顔を見合わせて笑う。
「アルはお兄さんの聖堂騎士様と一緒にここに来たんだよね。聖堂騎士様、素敵よね〜。
会ってみたいな〜」
「俺も興味はある。ベウル殿に一太刀浴びせた騎士なのだろう?」
「らしいな」
 ベウルというのは、シファの儀式に付き添ったトロールの名前だ。ガラン山を下りる際
に、追いかけようとした騎士と対決して一撃で額を割られている。
「ベウル殿はトロールでも屈指の戦士。それを苦もなく倒すとは、人間にしておくには惜
しい男だ」
 口調に楽しげなものが含まれているのは、剣士の性なのかもしれない。
 ふとアルバートは考える。
(兄貴とリューガなら……どっちが強ぇんだ?)
 両者と手合わせしたことがあるのは、現在世界でアルバートただ一人だ。普通に考えれ
ば竜人でも最強の剣士であるリューガなのだろうが、トロールすら倒すユーリの剣技はそ
れに匹敵している。何よりもアルバート自身の腕前がこの二人と差がありすぎて、二人の
差となるとまったく思いつかないのが現実だ。
「う〜ん」
 腕を組んで悩んでいる少年の横で、シファは頬に手を当ててうっとりとしていた。
「英雄絵画から抜け出したような白皙の美貌。そのたたずまいは堂々かつ高貴。剣の腕前
は竜人と渡り合えるほどに冴え渡り、なのにその瞳には優しさを湛えた銀色の鎧のアルの
お兄さん……わたし、アルが羨ましいな〜」
「お? へへ、まぁな」
 その美辞麗句を並べたのが自分だということに照れたが、シファの羨望の視線にアルは
胸を張った。
「兄貴は俺の目標だぜ。落ちこぼれの俺と違って、騎士の中の騎士だからな。いつだって
兄貴は戦場で手柄を立てて帰ってくるんだぜ。しかも決まって誰かの部隊を救う武勇伝つ
きだ」
「へ〜」
 キラキラと輝きだす少女の瞳に、アルバートは調子に乗って言う。義兄の話は、彼にと
って何よりも楽しいことの一つだ。
「兄貴のすげぇところは、そこだな。ただ強ぇだけじゃねぇんだ。いつも周りに気を配っ
て、危ねぇ奴がいたら助ける。ガキの頃に一緒に街で遊んでた時も、兄貴は自分が大人に
殴られてでも弱い奴を助けてた。誰も見捨てねぇ兄貴のことを、俺たち周りのガキはすげ
ぇ尊敬してたんだぜ」
 タファルでの幼少時代をアルバートは脳裏に描く。今でも鮮明に思い出せるのは、いつ
も同年代の子供に囲まれているユーリの姿。年上の横暴に泣かされる仲間を庇い、真っ直
ぐな瞳で立つその勇敢な姿。
「俺なんか、あの頃の兄貴にもまだ及んじゃいねぇ。守りたい者を守るためならいくらで
も勇気が出るって兄貴は言ってた。言うほど簡単じゃねぇのはわかるだろ? でも兄貴は
やるんだ。騎士になって、さらにそれを極めてる」
「守りたい者を守る騎士……」
「ああ。それが兄貴、ユーリ・ファルシア。ラグーンの英雄、聖堂騎士だ」
「キャー! 素敵すぎー!」
 ついに堪えきれなくなったのか、シファが手で頬を押さえたままぶんぶんと頭を横に振
る。期待通りの反応に、アルバートもニヤリと口元を弛める。
 ペットになってから、アルバートはシファに乞われるままに人間の生活や家族について
の話をしてきた。その中でシファが一番興味を持ったのがユーリの武勇伝であり、いまや
彼女もすっかり聖堂騎士に心酔している。
 見れば、リューガも感じるところがあるのかしきりに頷いていた。ただ人間でも武人で
もないガリィだけは苦笑混じりになっていたが。
「ぜひ一度手合わせしてみたいものだ」
「やめてくれよ。あんたと兄貴の斬り合いなんか、ゾッとしねぇよ」
 アルバートは本気でそう言ったのだが、
「その時はリューガ、格好良くやられてね!」
「シファ様がそうおっしゃるなら」
 シファの聖堂騎士贔屓に、さすがのリューガも苦笑する。
 そういえば、とアルバートはリューガの巨体を見た。彼に限らないが、竜人はトロール
に比べてずいぶんと細身に見える。実際はトロールに筋肉がつきすぎているだけなのだが、
他に人間の倍もある種族を知らないアルバートにはそう見えてしまう。
 そしてトロールと竜人のもう一つの違いが、シファに対する態度だった。
「あんたら、シファ様って呼ぶよな。やっぱり巫女ってのはそんだけ偉いのか?」
「……ふむ」
 大事にすることと偉いということは違う。例えばトロールはシファを娘や妹のように扱
っているが、竜人の大部分はリューガのように主に仕える騎士のように接している。
「あんたらにとって大事な巫女って言っても、シファは人間だろ? 竜人は年功序列の社
会って聞いたわりには、一番若いシファがまるで姫様扱いだ」
「お姫様?」
 シファが嬉しそうな顔をしたが、アルバートは軽く相づちを打つだけで視線はリューガ
に固定する。しばらく見つめ合うと、リューガは膝に手を当てて腰を上げた。
 出発の合図にアルバートもそれに従うが、応えない竜人の若者に訝しげな顔をする。
(そんなに変なことを訊いたか?)
 ちょっとした好奇心のつもりだったのだが、思いのほかの反応に戸惑ってしまう。それ
はシファも同じだったのか、二つの紫の瞳がリューガを見る。
 するとリューガは肩をすくめて言う。
「シファ様はそれだけ尊いお方ということだ。南天の竜王さまが最後にお選びになった巫
女なのだからな」
 一応納得の行く説明ではあるが、竜人が珍しく見せた躊躇いを感じ、アルバートとシフ
ァは小首を傾げた。
「日が暮れる前に帰らねばならない。行くぞ、ガリィ殿、シファ様、人間」
「だべな」
「うん」
「アルバートだ」
 一同は目前に迫った山頂を見上げ、再び歩き出した。

                ※

「へへ、やっぱこいつがねぇとな」
 山頂についたアルバートは、火炎樹の幹に突き立ったナイトソードに手をかけ、軽く力
を込めて引き抜いた。数日振りに戻ってきた慣れ親しんだ柄の感触に安堵の息が漏れる。
(一応形見だしな)
 よく磨かれた剣身に対し、どこか薄汚れた柄。新米騎士には似つかわしくない使い込ま
れた歴戦の汚れに、リューガが目を細める。
「ほう……なかなかの業物だな」
「まあな」
 アルバートには不釣合いな名剣だ。もはや顔も覚えていない実父の遺した剣であるが、
剣の質だけならばユーリにも負けてはいない。
「ま、いい剣だけ持っててもしょうがねぇってことはわかってるんだけどな。形見なもん
だから、似合う奴にくれてやるわけにもいかねぇ」
「え〜、そんなことないのに。アル、似合ってるもん」
 ニコニコと言ってくれるシファに、アルバートは自分を見下ろした。
 リューガにやられてあちこちへこんだ鎧に、親の七光りの名剣が一振り。
(格好悪ぃ……)
 思わず心までへこみそうになる。
 だが剣を取り戻したことで余裕が生まれたのは事実で、アルバートは空のまま腰に下げ
ていた鞘に剣を収めた。
(よしっ)
 騎士の象徴を取り戻し、気が引き締まる。これで装備だけはトロールにさらわれる前に
戻ったことになる。
(……立場はシファのペットなんだけどな……)
 苦笑いしていると、ガリィが儀式の指示を始めた。だがそれはアルバートに既視感を与
える指示だ。
「まず火の精霊石を集めんべさ。オラと姫さんは準備あるんで、二人に頼んでええべ?」
「ああ」
「承知」
 アルバートとリューガが請け負うと、シファは軽い足取りで二人の前に立った。何事か
とアルバートが怪訝に思うと、
「えいっ」
「う、うわあ!?」
 いきなり抱きつかれてアルバートは悲鳴を上げた。鎧の上からなのだが、状況そのもの
が少年の声を上擦らせる。
「シ、シファ!?」
 見下ろして髪のつむじに向かって声をかけても、少女はしばらく返事をしなかった。そ
の沈黙がむしろ重圧に感じ、アルバートは息をするのも忘れてシファの反応を待った。
(な、な、なんだ!?)
 しかし少年の動揺をよそに少女は小さく唄うように囁く。
「南天の王よ。高みより下界を治(し)らす竜界の王よ。星より高き其の御身は黒く、万
色混ぜたる其の御身は黒く、数多の種族を愛する慈悲深き黒き心を掲げる万民の王よ。我
は王が臣。我は王が手足。どうか愚かなる我をお導きたまえ。どうか愚かなる我の道を照
らし教えたまえ――」
 それは小鳥の歌声よりも通る声。全ての吟遊詩人がうらやむだろう美しく耳に快い歌声
に、アルバートは恥ずかしさも忘れて聴き入った。
 祈るような響きが波紋になって身体に染み入る感覚に少年が動けないでいると、シファ
はチラリとアルバートを見上げて花のような笑みを見せる。
 正直、その瞬間アルバートは年下の少女に見とれていた。
 その事実に気がつくと、いきなり顔が熱くなり、少年はシファの肩を掴んで自分から引
き剥がした。
「きゃっ」
 シファが驚いた声を上げるが注意を払えない。片手で自分の顔を押さえ、アルバートは
一歩二歩と逃げるように後ろに下がり、火炎樹の幹に背中と後頭部をぶつけて立ち止まっ
た。
「い、いや、これは違……ってそうじゃねぇっ。え、え〜とだなぁ、精霊石探してくれば
いいんだろうがっ!」
 ついに照れ隠しに叫んで、少年は背を向けた。
 その背中にシファが、
「がんばってね〜」
 と声をかけてきても、振り返らずに手を上げるのが精一杯だった。
 高鳴る胸を鎧の上から押さえながらアルバートは、鎧を着ていて良かった、と思った。
もし鎧を着ていなかったなら、激しい鼓動がシファの耳に届いていただろう。
 だが同時に鎧を着ていなかったならば、シファの身体の感触を、温もりを直接感じられ
たのではないかと、惜しくも思えてくる。
(どっちなんだよっ!)
 自分を叱っても答えは出ない。そうこうしているうちに、心臓はより早く鼓動を刻み、
吹き出る汗が彼の額を濡らした。
「って、そりゃクソ暑ぃからだっ」
 思わず声に出し、アルバートはわざとらしく額の汗を拭った。
 大きなため息をつくと、自分の顔を二度三度と平手で叩く。
(落ち着け落ち着け、みっともねぇ。よくわからねぇが、祈ってくれただけじゃねぇか)
 おそらく竜人のものだと思われる、竜王に対する祈り。
 人間にとって南天の竜王は侵略者であるが、黄金時代からある竜王信仰が失われたわけ
ではない。未だに東西北の竜王は偉大なる存在として教えられているし、南天の竜王も竜
人やトロールにたぶらかされただけ、という意見もある。
(慈悲深き王か。まあ、南天の竜王は知らねぇけど、竜人たちはそうかもしれねぇな)
 その彼らの王なのだから、人間のトロールや竜人への見解に大きな誤解があるように、
南天の竜王と人間の戦いにも何かしらの背景があったのかもしれない。教えられている
ような、いきなりの侵略ではなく、もっと別の理由が。
 そう考える程度に、アルバートは公平な思考ができるようになっていた。
 敵となった相手のことを悪し様に子供に教えるのは、竜人の長であるセツ風に言えば、
戦乱の常、というものだろう。
 とりとめもなくそう考えていると、後ろから大股で近づいてくる足音を聞き取り、振り
返る。リューガが地面に素早く視線を走らせながら追いかけてきていた。
「あ、そっか。精霊石探すんだったな」
「いや、お前はここまでだ、人間。シファ様はお前を人間の里に帰すことに決めた」
「な……っ」
 あまりにいきなりのことに、アルバートは目を見開いて絶句した。さらにリューガは付
け足す。
「このことはセツ様も了承済みだ」
「ど、どういうことだよっ!?」
「シファ様がお決めになられたことだ。お前の話す、人間の街や家族の話を聞いてな」
 リューガのどこか咎めるような視線に、アルバートは二の句が告げなかった。
 脳裏に浮かんだのは、街にあって村にはないものの話をした時のシファの感心した顔。
義兄の話をした時のうっとりとした顔。家族の話をした時の暖かく優しい顔。
 そしてそこにあった羨望の色。
「お前は人間だ。だから人間のいる場所で生きるのが筋だと、シファ様はおっしゃられた。
人間、あの方の慈悲を受け取るがいい」
「ま、待てよ。じゃあ、セツ爺さんが吉日を待たずに儀式やれって言ったのも?」
「火の精霊力が年で一番満ちる時期はすぎた。次の吉日は一年先。だが、シファ様は今な
らば必ず儀式を成功させることができる、とおっしゃられて嘆願されたのだ」
 そこにある意図は明らかだ。
 アルバートを人間領に一番近いガラン山にまで連れてくるために、彼女は無理を押し通
したのだろう。嫌いな儀式に強気な態度を見せていたのも、辻褄が合う。
「慈悲深きお方なのだ。その心にお前がつけ入ったのならば、ここで斬り捨てるところだ
が、お前に二心の無いことは俺も見極めている。短い時間だったが、良い弟子だった。お
前はお前の夢を追うが良い」
「俺の夢?」
「お前は兄のようになりたいのだろう?」
 その言葉にアルバートはハッとした。顔を上げ、リューガの竜顔を見ると、彼は静かに
頷いていた。
 義兄であるユーリのような騎士になる。それは確かにアルバートの夢だ。普段から自分
は落ちこぼれ騎士であると自嘲しているが、憧れた存在に近づきたいとも思っている。
 そして聖堂騎士がその名を馳せたのは戦場であり、同じ場所に立つためには騎士団にい
なければならない。
 少年の肩を、リューガの大きな手が叩いた。
「はは。シファ様が成功を祈られたのだ。お前の道は開けたも同然。迷い無く進むが良い
さ、人間の騎士!」
 大きな笑いだというのに下品ではなく、男が惚れ惚れとする笑い。
 師事したのは短い時間だったが、自分が種族を越えてこの武人を尊敬していることは、
もはや疑いようもなかった。
「い、いや、その……ちょっと待ってくれよ。いきなりすぎるだろ、色々……」
 それでも戸惑って、アルバートは数歩下がった。
 家族の顔が浮かんだ。
 密林の村に滞在したのはほんの数日の話だ。大切な家族の待つ国へ帰れるというのなら、
もちろん迷いはない。
 蜜色の髪をした少女の顔が浮かんだ。
 無邪気な笑顔。驚いた顔。はしゃいだ顔。どれもこれも感情が大きく現れた顔。優しい
トロールと竜人の中で何不自由なく育ったお姫様。
(……違ぇな。あの子は笑顔で俺に嘘をついた)
 シファはアルバートを自分の意図に気づかせずにこの山まで連れてきた。事前に彼が知
れば迷いを見せると思ったからだろう。
(俺よか大人じゃねぇか……っ)
 最後の抱擁を思い出した。
 次に最後の顔を思い出そうとして、アルバートは愕然とした。
 見なかったのだ。
 背中に声をかけてくれたシファの顔を、見なかった。
 聞いたのは言葉だけだ。
「……がんばってね、か……」
 これ以上ない応援だと思った。





                3


 火炎樹の間からリューガが姿を見せると、シファは眉の垂れた力の無い微笑みでそれを
迎えた。
「アルは行った?」
「うむ」
「そっかー」
 あははと笑う少女に、リューガは眉間に皺を寄せた。竜人の顔の皮は厚く、表情に乏し
いのだが、その歪みだけはシファにもわかるほどだった。
 シファは身体の後ろで腕を組み、足元に転がっていた石をサンダルの爪先で蹴るまねを
して言う。
「リューガもごめんね、見送りさせちゃって。アル怒ってた?」
「いや。シファ様との別れを惜しんでいたが、最後には納得して下りた」
「そっかー」
 もう一度シファは笑った。
 笑みの力は弱かったが、そこには満足げなものがある。
「アル、お兄さんたちに会えるといいね」
「うむ……一ついいか」
「なに?」
 滑らかな鱗に覆われた手に頭を撫でられ、シファは護衛役の竜人を見上げた。ほとんど
真上を見るような形になっても、その顎の下しか目に入らなかったが、それに気がついた
リューガが地面に膝をつく。
 リューガは一瞬躊躇うそぶりを見せたが、意を決したのか言った。
「シファ様は、もう少し我が侭をおっしゃっても良いのではないか? 俺にはシファさま
があの人間を手放したがっているようには見えなかった。マチウ殿も言われていたが、シ
ファ様の友にするには、あの人間の状況は都合が良かったはずだ」
 俺は、とリューガは呟く。
「俺は村が燃えて以来、シファ様が声を上げて笑うのを初めて見た。あなたはあれ以来儀
式を恐れ、だというのに俺たちへの罪滅ぼしのつもりなのか、勤勉な巫女であろうと努力
されていた。俺たちがどのような贈り物をしようと、部屋に宝物が積みあがるようになろ
うと、あなたは微笑むばかりで、心からの笑みは見せてはくれなかった」
「…………」
「もしあの人間がシファ様の笑顔になるのであれば、俺は手放すべきではないと思う。そ
れがあなたのためだ」
 感情を込めて言うリューガに、シファは気圧されたように目をパチパチとさせた。そし
てやおら、ふっと口元に微笑みを浮かべると、かがみこんでも自分よりも大きなリューガ
の足に手を置いた。
「心配してくれてありがとう。でも、わたしのためにアルに寂しい思いをさせるのはどう
かな?」
「む……」
「わたしにとって村での生活が一番なのと同じで、アルにはアルの一番の場所があるの。
そのことを知っちゃったのにアルを引きとめ続けたら、それはただの我が侭? それは酷
いことって言わない?」
 特に大げさなことは言ってないよね、とシファはリューガに目配せする。リューガは頷
かないわけにはいかなかった。
「アルはわたしを助けようとしてくれたいい人だから、わたしもそれを返したの。お母さ
んたちがペットにしちゃったのは予想外だったけど、これで大丈夫」
「欲のない子だべな」
 赤茶けた地面に精霊石を幾何学的に並べていたガリィが呆れたように言うと、シファは
リューガの手から抜け出してそちらに向かった。
 剥き出しの膝をつき、祈るように合掌する。
「それじゃ儀式の方をすませちゃいましょう、ガリィさん。アルのこと関係なく、絶好調
なんです!」
 それは明るい、勤勉な巫女の表情であった。

                ※

 傾斜の緩やかな山道を、アルバートは一人肩を落として歩いていた。見覚えのある道を
探し出し、数日前に他の騎士たちと共に通ったのとは逆方向に進む。
「はあ……」
 漏れるのはため息だ。
 久しぶりに自由になったことへの解放感はもちろんあったのだが、それを素直に喜べな
い自分がいることに少年は気がついていた。
「まさかこんなに早く帰れるとはな……へへ、黙ってるなんてシファも人が悪ぃぜ」
 シファ・メノルという少女の優しさを実感することは、嬉しいことだ。助けようとした
甲斐がある、と思う。
 竜人の巫女であり、トロールの女王を母と呼ぶ少女。
 確かに一介の騎士である自分とは掛け離れた世界の住人であり、まるで英雄物語に登場
するような肩書きだ。
「兄貴なら、名前負けしねぇんだろうな」
 結局、アルバートはシファの厚意を受け取って下山していた。リューガを通じて言われ
た夢を追いかけるには、人間領にいる必要があったからだ。
 心残りとなっているのはシファのことであるが、それも理性では納得している。彼女が
初めからアルバートを人間領に帰すつもりで命を助けたのなら、このまま下山することが
少女の希望に沿うことになるだろう。
 だというのに、アルバートはとぼとぼと元気ない足音で歩く。自分の調子の悪さに首を
傾げるばかりだ。
「くそっ。なんだってこんなに足が重いんだ」
「そりゃ、疲れてるか帰りたくないからじゃない?」
「うげ!?」
 いきなり耳元で言われ、アルバートはのけぞった。慌てて辺りを見回すが、火炎樹の山
景があるだけで誰の姿も見あたらない。
「こっちよこっち。あんたの頭の上」
「は?」
 空耳かと思ったところに降ってきた声に頭上を見上げたアルバートは、そこに小さな少
女の姿を見つけて目を丸くした。
 小柄、なのではない。本当に小さな、ちょうどアルバートの広げた手ほどの大きさの栗
毛の少女が、パタパタと黒い羽を動かして宙に浮いていたのだ。
「よっ」
「よ……よっ。って、妖精か、お前?」
「まあね、あたしはイビル。北天の竜王の遣いで、南天の竜人族の隠れ里に行く途中。あ
んたは?」
 手を挙げる少女に吊られて挨拶を交わし、アルバートは驚きの冷めない表情で言った。
すると少女は空中でグルンと宙返りし、これ見よがしに皮膜の張った蝙蝠のものに良く似
た羽を強調する。
 思いがけない単語に、アルバートは面食らった。
「俺はアルバート。しっかし、竜人ってマジかよ……縁があるどころじゃねぇな」
「だろうね。あんたからは、南天の加護が感じられる。竜人の魔法を受けたんだろ?」
「……ああ」
 それがシファの祈りであることを察し、アルバートは苦い顔で頷いた。
 暑い火炎樹の中だというのに、妖精に合わせた外套つきの旅装束を着込んだイビルは、
汗一つ無い顔でアルバートの瞳を覗き見る。
 心の底まで見透かされるようなその視線に、アルバートは思わず目をそらした。
 ファーブルでも数少ない妖精種は、あらゆる真贋を見極める真実の瞳を持っていると聞
いたことがあった。御伽噺と考えていたが、イビルのその真っ直ぐな瞳を目にすると、あ
ながち噂だけとは思えなかった。
 イビルはしばらくアルバートを見ていたが、彼に顔を上げる気がないことに諦めたのか、
肩をすくめて空中で足を組む。腕も頭の後ろに回し、まるで寝台に寝そべっているような
姿だ。
「ふうん。ま、あんたにも事情があるんだろうね。あたしもさぁ、ここに来るまでに二年
がかり! 竜王も一発びゅーんって飛ばしてくれりゃいいのに、ファーブルの北端から南
端まで徒歩だよ、徒歩。犬に追い掛け回されるし、亜竜にも追い掛け回されるし、途中で
連れとははぐれちまうし、散々だったよ」
「そりゃ大変だったな。じゃあな」
「って、待てこら!」
「づっ」
 後頭部に体重を乗せた前回り蹴りを食らい、アルバートがつんのめる。小さな身体で驚
きの威力を見せたイビルがすかさず顔の前に回り込んだ。
「な、何しやがるっ」
「見捨てんなっ! こちとら三日も何も食ってないで気が立ってんだっ!」
「おお……」
 頭を押さえたままイビルを見たアルバートは、そこでようやく気がついた。元気そうに
振る舞ってはいたが、イビルの顔には濃い疲労の影がある。服もよれよれで、肌の色も精
彩を欠いていた。
 つまり。
「何か食わせろってか」
「心からお願いします」
 器用に空中で土下座した。
 さすがに哀れに思ったアルバートが、間食用にと渡されていたバナナを提げ袋から取り
出すと、それまで冷静さを保っていた妖精の瞳がギラリと輝いた。
 まるで体当たりでもするかのように青いバナナに襲い掛かり、両足で抱え込んで両手で
分厚い皮を剥く。
「肉弾戦みてぇだな……」
 呆れたアルバートが呟いたが、イビルは気にせず自分よりも大きなバナナの腹に大口を
開けてかぶりついた。
「バナナうめー!」
「うわ……」
 歓声を上げて頬張るイビルの前に、バナナは数秒も待たずに皮だけを残して彼女の胃の
中に消えていた。アルバートが半歩引いてしまうほどの食べっぷりだ。
「げぷ……あ〜、食った食った。恩に着るよ、アル」
「そりゃ良かった」
 よほど空腹だったのだろう。心底満足かつ感謝した顔で腹を撫でさするイビルに、アル
バートも苦笑してそう言う。いつの間にか名前を略されていたが、気にはならなかった。
 同時にその異様な食欲にシファのことを思い出して、知らず山頂の方を見上げていた。
 その時、アルバートは異変に気がついた。
「……火喰い鳥がいねぇ?」
 前回登山した際には、うるさいほど目についた鳥だ。しかし今はあのケェェイという独
特の鳴き声も聞こえなかった。
 するとイビルがどこから取り出したのか、楊枝をくわえながら、当然のように頷く。
「そりゃそうだ。野鳥は脅威に対して敏感だからさ、逃げたんじゃないかな」
「逃げた? 何から?」
「あたしを追っかけてた亜竜」
 瞬間、猛烈な羽音が巨大な影を落としながら、アルバートの上を通り過ぎていった。
 唖然と見上げる視線の先で、赤い鱗をしたそれが頂上の火炎樹の林に舞い降りるのを見
た少年は、反射的に叫んでいた。
「なんだそりゃあ!?」
「あれ? あたしのとこ来ないってことは、あたしより魔力が強い奴が上にいるのか?」
「……おいっ」
 聞き捨てならないことを耳にして、アルバートが表情を険しくする。疑問を感じ取った
のか、イビルは頷いて言う。
「亜竜は竜の作る魔力を食って竜に似た姿に進化した動物の成れの果てだからさ、自分で
魔力作れるわけじゃないんだ。だから、各元素精霊の力の強い土地とか、魔力を持ってる
生き物を好物にしてる。それであの身体を保ってるわけ。ま、そういう事情で亜竜は秘境
に密集してるわけだな」
 必要以上の知識をすらすらと述べる。
 姿に似合わない博識ぶりに驚きながらも、アルバートは舌打ちしてもう一度山頂を見た。
「シファ……っ」
 確信があったわけではないが、何故か狙われているのはシファだと感じた。胸騒ぎがし
て、無意識に足が山頂に向いていた。
 だが弱気が心の中で呟く。
(……駄目だ、俺が行ってどうなるってんだ)
 いつも誰かの危機に反射で動いてきた。そして後悔してきた。ただの暴力に走ってしま
ったり、勘違いであったり、アルバートが動くとろくな結果にならなかった。
「……リューガがいるってのに、俺なんかが行っても意味ねぇよっ」
 吐き捨てる。
「兄貴だったら、そりゃ亜竜だってどうにかしちまうさ。だけど、俺にはそんなことでき
ねぇ。トロールに負けた、竜人にだって負けた、なのにあんな化け物に勝てるわけねぇだ
ろ!?」
 震えていた。カチャカチャと鞘の金具が耳障りな音を立て、奥歯が触れ合ってカチカチ
と逃れられない臆病の証が響いていた。喉はカラカラに乾き切り、火を飲み込んだかのよ
うに熱い。眉間に痛いほどに皺が寄り、瞼は固く閉ざされていた。
 行ったら死ぬかもしれない。
 しかもあの場には自分よりも強い者がいる。
 夢を追いかけろと言われたばかりなのだ。
「……くそっ」
 少年は意気地なしだった。いつだって義兄に頼っていた。何でもできる強い義兄がいた。
 トロールの時は、義兄に任せようとした。逃げようとした。
 ゆっくりと考えて、少女を見捨てたのだ、あの時は。
 今もそうだ。しかも今度は目の前で脅威が振るわれているわけではない。今まで少年を
走らせた反射はそこにはない。
「俺は兄貴みてぇになりてぇんだ。英雄になりてぇ。本当の息子でもねぇ俺を育ててくれ
た親父とお袋に喜んでもらいてぇ。みんなに胸を張りてぇんだっ」
 だから死ねない。
 だから戦場で手柄を立てなければならない。
 義兄のようにならなければならない。
 それでも、心が怖気づき、理性が理由を見出しても、アルバートの足は山頂を向いたま
まだった。何故か、そうなっていた。
 と、総毛立つような巨獣の咆哮が轟き、身をすくませたアルバートの顔を、軽く叩く者
がいた。
「おい、目を開けろ」
 イビルだった。
 小さな妖精の少女はうって変わって真剣な瞳で少年を見ていた。何の用かとアルバート
が思っていると、
「まず気合っ!」
「ぐあっ!?」
 錐もみ回転したイビルの後ろ回し蹴りに鼻面を蹴飛ばされて、悲鳴を上げる。
 涙目になって抗議の言葉を口にしようとしたその目の前で、イビルは小さな拳をぐっと
突き出して怒鳴った。
「男がうじうじしてんじゃねぇっ! 兄貴兄貴って、ここにいるのはあんただけだろ!」
「俺……だけ?」
「あんたの兄貴がどんな奴かなんてあたしは知らない。だから現実だけ見て言う。亜竜は
マジ危険だから別に守りたい奴でもないなら、上にいる奴のことは諦めろ。マジ死ぬから」
 それは前に出された拳で顔面を殴られたかのようなひとことだった。
 当たり前のことなのに、臆病風に吹かれた心があえて無視していた言葉だ。
「まも……りたいに決まってんだろうが!」
 噛み付くように叫んだアルバートは、大きく広げた手で自らの顔面を叩いた。気合を入
れる儀式に、イビルがニヤリとする。
 憧れていたのは何だっただろう。
 夢見ていたのは何だっただろう。
 それは子供が憧れる英雄。英雄は戦場で強いから憧れられるのではない。
 胸を高鳴らせたのは、義兄が誰かを救い、聖堂騎士と呼ばれるようになるその過程では
ないのか。
「……できねぇから逃げるのか? そりゃちげぇだろ。兄貴は逃げねぇんだ! 守りたい
者がいれば、どんな相手からも絶対に兄貴は逃げねぇんだっ!」
 それが少年の憧れた英雄だった。決して、戦場で手柄を立てただけの男ではない。
「よしっ」
 前を向いた顔は、開き直った少年のものだ。
 へへ、とイビルは嬉しそうに笑う。
「あたし、そういう顔好きだぜ。よし、一発夢をぶちかませ、英雄候補!」
「おう。俺は守りたい者を守れる騎士になる!」
「よっしゃ、サイコー! いつの時代もあんたみたいなのがいるから、あたし退屈しない
よっ」
 生き生きとしたイビルの声に背中を押され、アルバートは駆け出した。
 実際に守れるのかとか、役に立つだとか、そういうことはもう考えなかった。
「俺はシファを守りてぇっ。惚れてんだ、悪ぃかこんちくしょう!」
 格好悪い台詞かもしれなかったが、それは無限の勇気を与えてくれるようだった。
 そして少年を追いかけて飛びながら、イビルは歌う。
 それは騎士ならば誰でも知っている流行歌だった。

 君よ走れ。
 夢を抱き走れ。
 例え幾百幾千の困難が山岳のようにそびえていようと、幾千幾万の勇気を武器に走れ。
 迷うのも良い。
 泣くのも良い。
 だが、君よ。諦めずに走れ。足を止めずに走れ。
 駆け抜ける一瞬の君こそを人は英雄と呼ぶのだ!





                4


「の、呪われてるのかなぁ?」
 どちらかというと呆れた感じのシファの呟きに、木製の杖を手にしたガリィが額に汗を
浮かべながら頷いた。
 トロールの息は荒く、腰を下ろして意識も途絶え途絶えの様子だ。シファが彼の口に水
筒を寄せているが、それでも激しい呼吸のせいでなかなか飲み込めていない。
「ぎ、儀式で……疲れた……とこに……亜竜ってのは……何べさ……ね……!」
 よほど憤慨しているのか、苦しさが割り増すこともお構いなしにガリィは言う。まった
くだとシファが思って見れば、目の前には巨大な亜竜がいた。
 いや、目の前というには距離があるのだが、その小山のような巨体のせいでまるで間近
に迫られているかのような錯覚がある。
 獅子とも虎とも違う唸る声を上げるのは、赤い鱗の亜竜だ。蜥蜴をそのまま巨大にして、
身体を支える下半身を思い切り逞しくしたらそのようになるだろう、という姿。翼も巨体
にふさわしく広く大きい。
 その真の竜を別にすればファーブルでも最強に近い化け物を、ただ一人で牽制している
のがリューガであった。
「ガァッ!」
 亜竜の咆哮に負けじと叫んでリューガが両手の剣を振るう。横振りの亜竜の前足を飛び
越えてその腕に斬りつけると、板金のような鱗が嘘のように爆ぜた。
「しょせんは真竜のまがい物。シファ様のお力を食らおうなどと、片腹痛いっ!」
 アルバートが見ていたなら、驚いただろう。口の端に笑みを浮かべたリューガの剣は、
その防御力こそ恐れられている亜竜の鱗を、いともたやすく斬り裂いていた。
 巨体だけに避け切れないと悟ったのか、亜竜が後ろ足で立ち上がり、その胸を膨らませ
る。その口からチロリと漏れ見えた赤いものに、ガリィがシファを突き飛ばして立ち上が
った。
「炎は我らが友。盟約に従い我が身を守れど、傷つけることはなし。<火中聖域>!」
 淀みない詠唱に掲げた杖が赤い光を発し、同時に亜竜の口から炎の渦が吐き出された。
 後退したリューガがシファのそばに着地すると、炎はガリィを中心として円を描くよう
に彼らを避けて通る。
 それらの攻防を、シファは尻餅をついて眺めていた。
 心臓は激しく動悸を繰り返し、胃の中でむかついた何かが食道を通って込み上げてきそ
うで、必死にそれを抑え込む。
 前回アルバートに邪魔された、司祭から火の精霊石の魔力を付与される段取りを行った
直後から、シファは生理的な衝動を抑える努力を強いられていた。
「う……」
 口を押さえて呻いたシファに、思わずリューガが視線を向けた瞬間、それは来た。
 自らの吐いた炎を突っ切り、亜竜が聖域の中に顔を入れてきたのだ。開いた口にはすで
に二度目の炎があり、舌打ちしたリューガが剣を十字に交差させて口早に詠唱を紡ぐが、
間に合わない。
「や……!」
 炎に焼かれる自分を想像し、シファが両腕で身体を庇う。無意味な行動に、胸のむかつ
きも最高潮に達した。
 不快感に堪えられず、ついにシファは吐き出す。
「アルーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 我慢し続けた少年の名前を。
 その声が爆発した。
「な……!?」
 リューガが目を見張った。
 シファの叫びが、少女を中心として波紋を呼んだ。それは音の速さで走る衝撃となり、
地面を舐め、炎を蹴散らし、半円を描く破壊の力で口を開いた亜竜に叩きつけられる。
 凄まじい悲鳴が轟き、亜竜の目や鼻から鮮血が噴き出した。リューガも余波に巻き込ま
れて吹き飛ばされたが、大きな被害はない。
 中途半端に炎を撒き散らし、火炎樹を押し倒して亜竜がのたうち回る。明らかな苦痛の
声にシファがハッと正気を取り戻した時、視覚に頼らず魔力を襲うのか、その巨大な牙が
少女に迫っていた。
「きゃあああああ!」
「くそだらぁああああああ!」
 そこに弾丸のような速度で、一人の少年が降ってきた。亜竜の頭の真上から、妖精の風
の魔法で加速された凄まじい速度。
 轟音を立てて亜竜の頭が地面に叩きつけられた。大きく開いていた口は鼻から顎まで剣
によって貫かれ、地面に縫い付けられている。
 その上から転がり落ちた少年は、拳を突き上げて叫んだ。
「リューガ、いけえぇぇ!」
「ガアァ!」
 リューガの雄叫びが呪文となり、力を倍加させる<強力>の魔法が竜人の筋肉を鱗がは
ちきれんばかりに膨れ上がらせる。
 そしてその破壊力での二剣は、いともたやすく亜竜の首を斬り落としたのだ。

                ※

「よっしゃあ!」
 亜竜の首が落ちるのを確認すると、アルバートは砂埃にまみれた姿で立ち上がった。
 そうするとちょうど目を丸くしていたシファと視線が合い、少年は照れてはにかんだ笑
みを浮かべた。
「助けに来たぜ」
 それは素直な、本当に飾らない言葉だった。むしろ口にしたアルバートが驚いたくらい
自然に、その言葉は出ていた。
 すると目を丸くしていた少女は自分を指差し、それに少年がコクコクと頷くと、次に泣
きそうな顔になってうつむいた。
「アル?」
 震える声が名前を呼び、アルバートは自信を持って頷いた。
「ああ」
「……アル?」
「あ、ああ」
 声がさらに震えると、ギクリと少年の頬が引きつった。
「……ア……ル……?」
「あ……ああ! 俺だ俺!」
 ついにそれが涙に湿ったものになると、アルバートは動転気味に何度も頷いた。手をわ
たわたと無意味に動かし、矢継ぎ早に言う。
「な、なんて言ったらいいのかわからねぇけど、いいかっ。俺は兄貴みてぇな騎士になる
こたぁ諦めてねぇからな! お、俺がここに戻ってきたのはなぁ」
 どん、とアルバートは鎧に覆われた胸を叩いた。
 堂々と胸を張っていた。
「お前を守るって約束したからだ。守りたい者を守れる騎士になるために、俺はお前を守
……」
 言葉尻が弱くなったのは、その胸にシファが飛び込んだからだ。ほとんど体当たり同然
のそれを、しかしアルバートはしっかりと受け止める。
 が。
「い、いったーいっ!」
 胸甲に思い切り額を打ちつけたシファが、情けない声を上げて頭を抱え込んだ。
 思わずアルバートたちは叫んでいた。
「そりゃねぇだろっ!」
「だ、だってぇ〜」
 涙目のシファが上目遣いに見てくると、その額は赤くなっていた。脱力してしまったア
ルバートが手を貸して立たせると、少女は頬も真っ赤にしながら額をさする。
 そして、
「こういう時って、額にチュッてしてくれるんじゃないの?」
「できるかっ」
 唇を尖らせるシファに、アルバートも顔を赤くして怒鳴った。
 斬り落とした亜竜の頭の上に腰を下ろして、それらのやり取りを見ていたリューガは、
静かに目元を優しくして言う。
「ふむ……シファ様。アルバートはペットとしての役目を放り出す気は無いらしい。そい
つ自身がシファ様のそばにいることを望むのなら、わざわざ人間の里に帰してやることも
ないのではないか? そうだろう──アルバート」
「……そうなの?」
「へへ、やっと名前で呼びやがったな」
 リューガの言葉に嬉しそうに頷くと、少年は自信なさげに見上げてくるシファに白い歯
を見せて笑った。
「ああ。ラグーンに帰るのは延期だ。その時は、シファも連れてってやるよ……って変な
意味じゃねぇぞ!?」
 言ってからアルバートは、その言葉が深読みできることに気がついて慌てた。
 少女は意味がわからなかったのか、しばしきょとんとしていたが、やがて目の端に残っ
ていた涙を拭って改めて、アルバートの身体に腕を回した。
「アル……いつか、わたしをアルの生まれた国に連れて行ってね」
「あ、ああ」
 今度こそアルバートもその小さな身体を抱き返し、茹でタコのようになりながら請け負
った。
 出る機会を失って浮いていたイビルは、不器用な少年たちを見下ろしていたが、
「そういえば、きぼぢばる……えう〜」
「う、うわあああ!」
「こういう奴らかよ……あ〜あ、今回は苦労しそうだよ、竜王のみんな。あたしもさっさ
とホーリィ探さなきゃな〜」
 嘔吐にまみれるアルバートの鎧を見て、イビルは肩をすくめてそう言うのだった。





                結


 硝子が割れるような音がして、金属板が燃え上がった。その不自然さは、それが魔法で
生み出された物であることを証明する。
 月光にかざしてその絵札を眺めていた少女は、炎が自分の指を焼くのも構わずに見つめ
続けた。黄金色の炎は白い手袋を黒く侵食し、やがて手袋にも負けない白い肌に達したが、
滑らかな肌は焦げることなくその炎をまとわせ、従える。
 パチン、と少女が指を鳴らすと、炎は黄金色をそのままに鳥の形に変わり、腕を辿って
肩に乗ると良く調教された動物がそうするように、その身体を少女の顔にこすりつけた。
 窓から差し込む月光だけが唯一の明かりであった中に、火炎鳥の明かりか加わって、ほ
のかに室内に視覚の余地が戻った。
 そこは広い部屋だ。
 部屋の主の趣味なのか、床も天井も全てが白で統一されていた。硝子のシャンデリアが
炎の揺らめきに輝き、上質な絨毯もそこが高い身分の者のみに許された部屋であることを
示している。
 部屋の中央には大きな天蓋つきの寝台があり、それ以外に調度品らしいものはない。私
室というよりも、まさに寝室なのだろう。
 少女は寝台の端に腰かけ、一人思索にふけっていた。鳥がせわしなく左右を見やったり
可愛らしく囀ったりと、精一杯の愛想を振りまいているのも無視し、呟く。
「まさか亜竜を滅ぼすなんて……妖精一匹と侮ったかしら」
 月光が身を震わすような美声は、人間最後の王国ラグーンの民に愛されているものだ。
 魔法の炎の光に照らされた国王代理、王女エルザは余人の前では絶対に見せない戸惑い
の表情で、手袋が無くなって剥き出しになった人差し指の根元を口に含んだ。
 軽く噛んでしまうのは、癖のようなものだ。
「北天の竜王の遣いが南天に向かったのは気になるわ……できれば捕らえて起きたかった
けど、逃げ切られたのなら仕方ないわね」
 他に誰かがいるわけでもないのに、エルザははっきりとした口調で言う。
「北天の竜王は人間の娘と恋に落ちたことがあるって噂、知ってる? そんな竜王だった
ら、少しは人間を贔屓してくれるんじゃないかって思うのは甘すぎるかしら?」
「それから、騎士団に面白い人材がいるわ。前も話したけれど、聖堂騎士。能力的には申
し分無いから、いつもの通りにするわね。せいぜい良い英雄になってもらいましょう」
「桜の花は、もう散ってしまったわ。これからは段々と暑くなる時期ね。この部屋にいれ
ば関係ないけれど……やっぱり少しは季節が感じられた方が落ち着く?」
 政治のこと、日常のこと、織り交ぜてエルザは語る。
 そこに彼女の言葉を聞く者はいないというのに、明確に相手を定め、語っていた。
 相手は寝台で眠る、一人の精悍な男だ。
 炎の明かりが男の姿を映し出す。
 均整の取れた余分な肉の無い筋肉質な長身。整いながらもどこか野性味を感じさせる顔
の造作。エルザのものと同じ、部屋に注がれる月光のような銀糸の髪。
 素裸で眠る男の厚い胸板に、エルザはうっとりとした表情でそのたおやかな指を這わせ
る。清楚な指先が一瞬だけ淫靡にその胸をなぞり、エルザは無言のまま自らも寝台に倒れ
こんだ。
 驚いて飛び立った炎の鳥に照らされる寝台の上、衣擦れの音をさせてエルザが男の頭を
白いドレスの胸にかき抱いた。
 二人抱き合うようにして横になり、エルザは夢見る瞳でその名を呟く。
「待っていてね、兄さん。もうすぐ私が兄さんを起こしてあげる。南天の竜王復活の儀式
を叩き潰して、全ての力は兄さんのものに」
 ふふ、と少女は無邪気に微笑んだ。
「そして兄さんはより高みに、ファーブル至高の存在になるの。その時──」
 とろけるように。
「私は、兄さんの花嫁になれるんだわ」
 少女は謳う。
 それは人間の英雄の名前。
 竜王を殺した男の名前。
「そうよね、ガノッサ兄さん……」
 永遠の夜が続く部屋の中、少女が一人身じろぎする音だけが微かに空気を震わせる。
 炎の鳥はしばしその様子を見守っていたが、やがて魔力の力を失い姿を消した。
 だがそのようなことは、愛を囁くことに忙しい少女にとって、露ほどの関心を払う必要
も無い出来事にすぎなかった。


                                   終


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