ファーブル英雄伝 〜シファ・メノルの冒険記〜 第一章『始まりの宴』 第一話 序 ──十三年前のこと。 それは天災に似ていた。 怒涛のように迫りくる竜の巨体は天を覆い、羽ばたきは街路樹を横倒しにし、その口か ら放たれる炎は街を舐め尽した。 そこは比較的守りが強固であると言われていた街であった。その時戦端を開いていた巨 体のトロール種がまだ前線にまでしか到達していないということもあり、その日も穏やか な昼下がりに子供たちの笑い声が響き渡っていた、そんな時だった。 「あれなぁに?」 幼な子が空を飛ぶ赤い竜を指差した直後、街は陥落した。 たった十匹。それだけの竜の軍勢が振り撒いた破壊により、街はその瞬間間違いなくこ の世でもっとも惨たらしい地獄へと化したのだ。 火竜の炎にまかれ、薪のように燃え盛る若者の音にならない断末魔。 氷竜の吹雪にさらされ、永遠に時間を止められた子供たちとそれをかばう母親の恐怖に 引きつった顔。 地竜が大地を割って現れる際にその牙に捉えられ、生きたまま租借された老人の絶望。 その街の周りを巡回し、羽ばたき一つで雷撃を降り注がせる雷竜の獅子に似た咆哮。 そして――。 「あ……あ……」 幼な子は、見た。 雷が落ちた中、奇跡的に命永らえたその火傷だらけの身体を立ち上がらせ、瓦礫の山の 上で、真っ黒になった自分の手で血みどろの顔を押さえ、阿鼻叫喚の地獄絵図の中でさえ 響き渡る悲鳴を上げた。 「あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!」 雷竜の呼んだ真黒き雷雲を割り、姿を覗かせたその存在。 周囲の雲よりも、夜の闇よりも、この世の何よりも黒い、純粋な黒の鱗に包まれた、見 るだけで畏怖を与える究極の竜。 それはあまりにも天災に似ていた。 それは愛に似ていた。 「俺は愛など考えたこともないが、これは愛に似ているのかもしれんな」 幼な子を脇に抱え、その黒衣の騎士は笑った。 おぼろげな意識の中で、幼な子は心より恐怖した。 なぜ自分がそこにいるのかはわからなかったが、敏感な子供の感性は、その男の持つも のがとても恐ろしいことを悟ったのだ。 「迷わず、恐れず、止まらず、省みず、そして限りない。それが俺が力に向ける想いだ。 そしてあれは、力の象徴。この世界の天に届く存在よ」 そうその男は迷わず、恐れず、止まらず、省みず、そして限りない愛のような何かをこ めて語っていた。 だがそれは愛ではない。幼な子が父母から受けていた、毛布のように暖かく優しい手触 りの愛とは違いすぎた。 「ふん。泣かれた。やはり俺には子供の扱いは無理だな」 すすり泣く幼な子を、しかし意外なほどに丁寧に、騎士はそばに控えていたもう一人の 馬上の男に渡した。その男の胸は鎧越しだというのに不思議と安らぎ、幼な子はきょとん とした。 「傷を癒してやったのは俺だというのにな。ローガン、そいつの面倒をみてやれ。俺はも うひと暴れしてこよう」 「殿下!」 「はははは! 待っている。俺の恋人が戦場で待っているのだ! 俺を天へ、いや、その 向こうにさえ連れて行ってくれるやもしれんぞ!? 見ていろ、ローガン。そして親父殿 に伝えよ。俺は今、人を越えるのだ!」 笑い、黒騎士は馬を走らせた。 幼な子には直感的にわかった。男は、あの黒い竜に挑むつもりなのだと。天災のごとき、 神のごとき力に立ち向かおうとしているのだと。 だから幼な子は恐れた。 あの恐ろしい存在のもとに赴こうという男の笑い声に、迷いも恐れもなく、彼は誰の声 にも止まらず、省みず、そして限りなく真っ直ぐに向かって行くとわかってしまったから だ。 彼がその何かに向ける想い。 それは確かに愛に似ていた。 それは陽だまりに似ていた。 金色の髪をした少年が幼な子を見つめていた。 幼な子といえば、包帯だらけの身体で、良く干された太陽の香りのするベッドで朦朧と するばかりだ。まだ、心身に受けた傷が癒えるには、時間が足りていなかった。 そんな幼な子の手を取り、少年はもう何日もそこにいた。自分がそこで手を握り続けな ければ幼な子がいなくなってしまうと思っているかのような、そんな真剣な表情でベッド の端に座り続けていた。 「大丈夫だよ」 幼な子が目を向ける度に、少年はそう微笑んだ。何度も微笑んだ。それが数日も続くと、 幼な子は、恐怖に止まっていた自分の心が、少しだけ動いたのを感じ取った。 (もう大丈夫なんだ) それを理解した時、幼な子は泣いた。声を殺してすすり泣いた。すると、少年がまだ小 さなその腕で幼な子を抱きしめてくれた。 黒い竜と、黒衣の騎士と、心に刻み込まれた二つの黒い闇が、抱きしめてくれるまだ頼 りない胸の中にすっと消えていく気がした。 そこに黒い色はない。 金色の髪の少年。 それは陽だまりに似ていた。 そして幼な子は少年の弟となった。 それが二人の始まりだった。 1 君よ走れ。 夢を抱き走れ。 例え幾百幾千の困難が山岳のようにそびえていようと、幾千幾万の勇気を武器に走れ。 迷うのも良い。 泣くのも良い。 だが、君よ。諦めずに走れ。足を止めずに走れ。 駆け抜ける一瞬の君こそを人は英雄と呼ぶのだ! ※ そんな歌が騎士の間に流行するような時代であった。 ファーブル――唯一大陸と呼ばれるそこが戦乱の時代に突入したのは、すでに三十年以 上も前のことだ。 あまたの亜人種がそれぞれの生活圏を守って暮らしていたこの世界は、些細なすれ違い が原因で血で血を洗う戦へとなだれ込んだ。国対国ではなく、種族対種族のこの戦争は、 相手の血を絶やすまで収まることはなく、憎しみは他人種の姿を成し、築かれていた多く の盟約は失われた。 だが自分たち人間種はまだマシな方だろうと、アルバートは思う。 赤茶けた土がほとんどを占める大陸南東のガラン山。風が吹けば砂埃が舞う痩せた土地 には炎を吹き上げる火炎樹がまばらに生えている程度で、山の恵みというものを期待する 者にはいささか殺風景な場所だ。良質な火の精霊石が採掘されるという事実がなければ、 それこそ誰からも見向きもされないだろう。 アルバートはその精霊石を採掘するために派遣された、人間の国家の騎士であった。 最後の人間国家ラグーン。他種族との戦いの中消えていった複数の国家を吸収合併した、 大陸南部で最大勢力を誇る国家だ。 別に人間だけがそこまで追い込まれているのではなく、他の種族も多かれ少なかれ有力 な国に統合されることでなんとか生き残っているのが現状である。それができなかった種 族は早々に打ち破られ、勢力として無力なところまで数を減らしている。 実を言えば人間も十数年前に国家間の連携が上手くいかず、一度壊滅の危機にあったの だが、そこに英雄ガノッサが現れて難を凌いでいる。 ラグーンの皇太子でもある彼は、古の魔法により肉体的及び精神的な強化を行い、崩れ かけたラグーンをただ一人で立ち直らせた。トロールと竜人の連合を配下の魔法騎士団で 蹴散らし、神話の時代から無敵を誇っていた四大竜王の一柱である南天の竜王を討ち取っ たのである。 多くの種族は、調和の象徴である竜王を滅ぼしたことを暴挙であると非難したが、竜王 が戦乱を終わらせるために眷属である竜人にトロール種を支援させたのは確かなことだ。 人間種に言わせれば、黙って滅ぼされてやる理屈は無いのである。 そしてその出来事は状況を変えた。各種族は英雄ガノッサを恐れて人間の国に攻め込ま なくなり、その間にラグーンは滅びた国家を吸収して半壊していた軍を再編することがで きた。実際にはガノッサは竜王との戦いで致命傷を負い、今なお目覚めぬ仮死状態にある という話なので、当時の『ガノッサ健在』という誤解に人間は救われたのだ。 以来、人間の国家ラグーンは他種族に対して多少の有利を得ている。トロールの持って いた領土をそっくり奪い、さらには南天の竜王が封印していた数多くの伝説の武具が手に 入ったからだ。 その伝説の武具の一つに<火竜閃筒>というものがあり、それを動かすための精霊石を 求めて、アルバートたち採掘団はガラン山までやって来ているのである。 「それにしても暑ぃな……」 額に流れる汗を拭い、アルバートはこの大地と同じく赤茶けた前髪をかき上げた。 精悍というにはやや足りないくらいの、十七歳という年齢がまだ幼さを引きずっている 顔立ち。目が悪いのか細めがちな目のせいで人相が少し悪くなっているが、青い瞳は若者 らしい純粋さを湛えて澄みきり、鼻筋も唇も町娘が見れば騒ぎ立てること間違いないだろ う造形だ。 もしかしたら、黙ってさえいれば「様」付けで黄色い歓声を受けるくらいはできたかも しれない。 が。 「おい兄貴。本当にこんなクソ暑ぃところに精霊石とやらはあるのかよ。ガセじゃねえの か? 兄貴はその手の連中からはカモにしか見えねえだろうからな」 その形の良い唇が紡いだのは、お世辞にも上品とは言えない言葉だった。 それを受けるのは、前を歩いている銀色に磨かれた鎧を着込んだ金髪の騎士だ。十人あ まりの騎士の集団の中、一人だけ胸に国章以外に鷹の意匠をこらした上級騎士の紋章を付 けている。 「情報は確かな筋からだよ。我が軍は現地の人に多額の賞金を出して精霊石を探してもら っているからね。今回報告してくれたのも、過去何度か報告実績のある村からだった」 「なるほどね」 ちっと舌打ちするアルバートに、兄と呼ばれた騎士は女性と見紛うような繊細な顔に微 笑を浮かべて付け足した。 「だから回収するまでは下山したりなんかしないよ?」 「へ〜い。聖堂騎士ユーリ・ファルシア隊長の命令であれば、やれやれ、だ」 肩をすくめる赤茶けた髪の少年に、金髪の青年。年の頃は金髪の青年が幾つか上であり、 兄と呼ばれても問題は無いのだが、その割には顔立ちに似たところが無い二人だ。 それもそのはずで、二人は義理の兄弟であり、アルバートは騎士の名門ファルシア家に 引き取られた養子なのである。だが二人が家族になったのは幼い頃の話であり、そのこと にわだかまりがないことは、気兼ねないやり取りからもわかる。 「それで兄貴はいつもこんな任務こなしてたのかよ。聖堂騎士様も、やってることは案外 地味なんだな」 「地味な仕事こそ重要なんだよ、アル」 苦笑して、ユーリは義弟に言う。彼自身も汗まみれであったが、さすがに隊長というだ けあって弱音は吐かない。 高山でありながら火炎樹によって尋常でない暑さを誇るガラン山への精霊石発掘隊が組 織されたのは、今年ですでに三回目だ。その全てに隊長の任を与えられたユーリは、慣れ もあるのか、山景を見回して大体の当たりをつけて全体に告げた。 「これより小休止に入る。場所はこの先に見える大岩。そこで新しい水筒を配給する」 「やっとかよぉ〜」 明らかな喜びがアルバートの顔に浮かんだ。それもそのはずで、彼は最初の注意にもか かわらずかなり早い段階で水筒の水を飲みきっていた。周りに隠れてこっそりとユーリが 自分の分を与えていなければ、脱水症状で動けなくなっていただろう。 アルバートだけではなく、十人に満たない騎士たちの間にも安堵の声が漏れる。このよ うな辺鄙な場所に騎士が十人近くもいるなどと異例のことであるが、それだけラグーン軍 は精霊石を確実に持ち帰りたいのだ。 だから、実を言えばアルバートもユーリの仕事を地味などとは思っていなかった。 (強大な力を持つ魔法時代の兵器を起動させる精霊石の採掘護送任務だもんな……そりゃ 人選も限られてくるぜ) そこで名が挙がるのが、誉れ高き聖堂騎士ユーリ・ファルシアである。父である大騎士 ローガンの才を受け継いだ希代の騎士。 (落ちこぼれの俺とは違うわけだしな) 偉大な名前の義父と義兄を持つと、苦労も多いものなのだ。 ※ 「お前、あのなよっちぃ聖堂騎士の弟なんだって?」 一度そう声をかけられたことがある。 確か『一度目』の騎士叙勲を受けるために王城に入った時のことだ。 当時十五歳だったアルバートは、控え室に顔を見せた先輩騎士のニヤニヤとした嫌味な 笑いに困惑した。父親の威光のせいか、従騎士としての下積みも積まずに、騎士の資格を 得られる最年少で叙勲を受ける予定だった彼は、騎士の知り合いも少なかったし、いきな り兄の話を出されるとは思わなかったのだ。 彼の沈黙を肯定と取ったのか、その騎士は続けた。 「そうだよな、今回最年少の小僧がいるっていうから調べてみたら、大騎士ローガンの息 子なら当たり前だ。俺ら凡人とは、出発点が違うわけだよな」 「あの……僕に何か?」 「僕ぅ?」 プッと騎士が吹き出した。それは控え室にいた騎士見習いたちも一緒で、一斉に周りが 笑いに包まれた。 さすがに馬鹿にされたのだとわかったアルバートがムッとした顔になると、騎士はまだ 斜に構えた笑い顔のまま、言った。 「あの聖堂騎士も、自分のことボクだとか言ってたぜ。そんなところも兄弟仲良しさんか い?」 「……それが何か悪いんですか?」 「い〜や。お坊ちゃんはいいねえ、って話さ。手柄も立てられねえ下積み時代無しで一気 に騎士。騎士になってからも、なんの苦労も無くあっという間に聖堂騎士。生まれる家を 間違ったぜ」 「へぇ〜。聖堂騎士ユーリ様って、実はそんなに手柄とか立ててないんですか?」 話に乗ったのは、騎士見習いの一人だった。おそらく興味本位だったのだろう。だがそ れはアルバートの眉をひそめさせた。 そして騎士は頷いたのだ。 「おうよ。騒ぎ立てられちゃいるがな、あいつ自身はたいして苦労もしてねえよ。運よく 勝ち残る部隊に配属されるだけ。そういう才能があるのか、それともあのお綺麗な顔で貴 族連中にケツ振ってるのかは知らねえが――」 最後まで言わせはしなかった。 正装しての騎士叙勲待ちということもあり、その時のアルバートは手甲をしたままその 騎士を殴りつけていた。一撃で歯の数本が折れ、騎士が床に転がった。 目の前が真っ赤になったアルバートは、さらに壁に立てかけてあった剣を鞘から抜き放 った。慌てて周りが止めなければ、死傷事件に発展していたことは疑いようも無い。 結果、アルバートは騎士叙勲を見送ることにされた。正式な騎士を暴行した挙句、城内 で剣を抜いたということが理由だ。だがそこに至るまでの経緯を他の騎士見習いたちが証 言したので、数日間の自宅謹慎以外に下された罰は無かった。 むしろ兄弟美談として騎士団で話題になることになるのだが、そのことを騎士ならぬア ルバートが知ることはなかった。 そのようなアルバートが再び騎士叙勲の機会を得て正式に騎士となったのが、今年の頭 のことである。 ※ (なんか知らねぇが、名前だけは売れてるみたいだよなぁ……。まあ、あの時は派手にや ったからなぁ) 俺も若かった、とユーリの指定した大岩に背中を預けて座りながら、アルバートは苦笑 する。しかし、許せなかったのも事実だ。 アルバートは任務に赴くたびに戦場から傷だらけになって帰ってくる義兄を、何よりも 誇りに思っていたのだ。彼が苦労無しに聖堂騎士などと呼ばれるようになったわけではな いことを、アルバートは血の赤の色で知っている。 「やあ、今回も生きて帰ってこれたよ」 そう疲れきった笑顔で言う義兄を尊敬しているのだ。 と。 「アル、君の分の水筒だよ」 「う……」 「ん? どうしたんだい、顔赤くして。熱?」 尊敬、などと思ってしまったところに義兄の顔が飛び込んできて、アルバートは赤面し た。今では、そのような言葉を面と向かって言うことはできない。その程度の年齢には二 人ともなっている。 「な、なんでもねぇよ!」 照れ隠しにそっぽを向き、アルバートは水筒を受け取った。封を解いて一口だけ水を含 み、すぐに再び封をする。 「そうそう、節約だよ。飲みすぎても汗が出て疲労するから」 「わかってんよ。もう思い知った。思い知りました。もうヘマはしねぇ」 「うん」 水筒の水を分けてもらったことについてアルバートが言うと、ユーリはにっこりと微笑 んだ。女性的で、優雅な笑み。それでいて、人懐っこい、子供のような笑みだ。 アルバートも笑い返すが、そちらはどちらかというと野性的だろうか。もう数年すれば 精悍な美青年になるだろうと予想させる。 「しっかし、本当にここは暑ぃな。鎧なんか着込んでくるんじゃなかったぜ」 「まあね。でも、ここはトロールの生活圏との境目だから、装備は必要だよ」 「トロールね……」 そうは言われても、アルバートは実際にトロールを見たことが無い。十三年前の戦で英 雄ガノッサの活躍で領土の大半を失ったトロールは、すでに勢力としては弱小だ。 人里に現れたという噂も無く、アルバートには実感のわかない脅威であった。 (そういや、父さんもトロールにやられたって話だったっけ) 騎士であったアルバートの実父も、トロールの軍勢の前に散ったという。それも話に聞 いただけで、その場面を見たわけではない。 「矢も剣もロクに効かない化け物だって話だけど、頭はすげぇ悪いらしいな。食うことし か考えねぇんだっけ?」 「そういう話だね」 「兄貴も見たことねぇの?」 「戦ったことはあるよ」 意外な返答に、アルバートは目を輝かせる。 「へえ。感想は?」 「強いよ。動きはそれほど速くないけど、腕力は間違いなくファーブルで一番だろうね。 岩のような肌は騎士の鎧並に硬いし、痛みにも強そうだった。ハルバート(斧槍)を持っ ていかなかったら、危なかったと思うよ」 「うげ……そんなにか。いよいよもって化け物だな」 義兄と試合して一本も取れたことがないアルバートは顔をしかめた。トロールの頑強さ は聞いていたが、ハルバートのような遠心力を生かせる長柄物の武器でしか効果が無いほ どだとは思っていなかったのだ。 「それだけに数も少ないんだよ。どういう仕組みか、個体で強い種族ほど数が少ないから ね。実際十三年前の竜王戦争でも、動員されたトロールと竜人は合わせても五千もいなか ったらしいし」 その五千が三万に及んだ人間種の騎士団を蹂躙したのだ。トロールたちを追い返したの は英雄ガノッサの個人的な部下たちであり、正式な騎士たちではない。 「で、兄貴はどこでトロールと戦ったんだ?」 「ああ、麓の村さ。去年の凶作でトロールも食べる物が無かったのか、二人人ほど流れて きていたんだ。その時、僕はちょうど精霊石を採掘しに来ていたから」 「……なるほど、それであんなに兄貴がモテてたわけか」 ガラン山に入る前に宿泊した村での持て囃しぶりにようやく納得がいったアルバートで ある。村人たちはすっかりユーリを「我らが聖堂騎士様!」と崇める勢いであったし、娘 たちはわかりやすい熱のこもった視線を向けていた。 (兄貴だし、当然だけどな) ニッといたずらっぽく笑い、アルバートは隣に腰を下ろした白皙の美男子の肩を抱いた。 ぐいっとユーリの身体を引き寄せると、その耳元で言う。 「そういや、あの後どうなったんだよ。俺が部屋に戻る時、結構いい女が兄貴に寄りかか ってただろ? しっかりキメたか?」 「き、キメ……!? ど、どこでそんな言葉っ」 ポッと頬を染めるユーリに、これは何かあったな、とアルバートは確信する。笑みがよ り意地悪なものになり、 「キメたな。さすが俺の兄貴」 「そ、そんなこと……ま、まあ、彼女にその気はあったみたいだけれど、任務を前にして ふしだらなことをできるわけないだろう!?」 「えー? つまんねぇの」 どうやら娘が迫るだけ迫って、結局はユーリがかわしたらしい。普通の男なら、むしろ 嬉々として『お相手』していたのだろうが、この生真面目な青年はその辺り融通が利かな いのだ。 「ぼ、僕はいいんだ、僕は。それよりも、アルだってどうなんだい? ずいぶんたくさん の子が君を見ていたじゃないか」 「は? そうだったっけか?」 「気づいてなかったのかい?」 「ん。でもまあ、俺の胸にビビっと来る奴はいなかったからな。やっぱ、田舎くささがあ ると思わねぇ?」 「ビビっと、ね」 義弟の言い草にユーリは苦笑を浮かべたが、彼はまるで女慣れしたかのような口ぶりの 少年が、一度も異性との交際経験が無いことを知っていた。村に逗留した際も、少し村娘 に腕を取られただけで赤面していたくらいなのだ。 女に対して奥手という部分では、二人は兄弟らしく大変似通っているのである。 二人がそのようにじゃれあっていると、なんとなく赤面していた若い騎士が声をかける。 「隊長、そろそろでしょうか」 「うん、そうだね。――全体、小休止を終え、準備! ここから先は火喰い鳥の巣だ。各 自警戒を怠らず、何かあれば即座に全体に知らせるように」 「了解!」 その掛け声と共に、騎士たちが一斉に動き出す。アルバートも重い鎧を着込んだ身体に 力を入れて立ち上がると、ユーリに手を貸して言う。 「とにかく、任務終わらせてさっさと帰ろうぜ。もたもたしてトロールなんかに遭遇した らたまんねぇしよ」 「そうだね。アルの初任務が終わったら、母さんがアルの好きなカボチャのスープで出迎 えてくれるそうだよ」 「そりゃ楽しみだ」 思わず白い歯を見せて笑うアルバートに、ユーリもにっこりと微笑みかけるのであった。 2 火の精霊力の強い山頂が近づくと、いよいよ山の傾斜も厳しくなり、火炎樹の本数も増 えてくる。火の力の強い場所にのみ生えるという木は、葉の代わりに炎をまとい、狭い山 道をアーチのように挟んだ二本の木の下を通り過ぎる騎士たちの肌をチリチリと焦がした。 ケェェィ、という耳慣れない鳴き声にアルバートが顔を上げると、真っ赤な羽毛の鷲に 似た怪鳥、火喰い鳥が美味そうにその炎を嘴でつついていた。 「……火って美味いのか?」 「俺は辛いのは苦手なんだ」 隣を歩いていた騎士に疑問をぶつけると、肩をすくめて返してくる。想像できない味に 二人が鳥を眺めていると、ふと枝の上の火喰い鳥と視線が合った。 一瞬の緊張。 だが鳥は人間になど興味が無いのか、羽ばたいて去っていってしまう。ふうと息をつい たアルバートは、無意識に剣の柄を取っていた手を戻す。 強行軍のために胸部装甲を中心とした上半身の鎧しか装備していない今、家紋入りの剣 はベルトに取り付けた金具に下げている。歩く度に金具と鞘が触れてカチャカチャとうる さかったが、まさか騎士の象徴を置いてくるわけにもいかない。 しかもその剣は、実父が使っていたものを家紋だけ改修したものだ。もっと山歩きに適 した軽い剣はあったのだが、あえて全戦闘対応剣であるナイトソード(両片手兼用剣)を 持ち歩くのはそこに理由がある。 そうして傾斜が終わり、山頂についた時、アルバートは信じられないものを見た。 それは一面の火炎樹の森であり、その規模は大きな村一つ分にも及ぶのではないかとい うくらいだ。 まるで山火事のような有様にアルバートが絶句していると、先頭を歩いていたユーリが 頷く。 「どうやら村人の報告は正しかったようだ。火の精霊石は間違いなく生まれている。ここ からは散開して、精霊石を探すことにする」 そして、あっけに取られているアルバートと若い騎士に言う。 「二人は初めてだね。精霊石は石とは言っているけど普通の鉱物じゃなくて、強い火の精 霊力の中から結晶のように生まれるものなんだ。ここでは不定期に火の力が強まるから、 騎士団は麓の村人に火炎樹の大発生があったら報告してもらうようにしてる」 「はあ。それで、この火事状態の中で探せっわけかよ」 「火傷には気をつけてね。それから、火喰い鳥を刺激しないように。あれは集団で攻撃し てくる習性があるから」 「団長、それで精霊石とはどのような場所に?」 地面に落ちている、とユーリは足元を指差して言った。周り中に火の精霊力が溢れ、出 現しやすい場所などわからないとも。 つまり、地道に探せ、ということだ。それには若い二人の騎士もうんざりした顔になっ た。 「精霊石は拳大の紅玉そっくりだから、わかりやすいと思うよ。せめて五個、できれば十 個ほど見つけてほしい」 「うげぇ、りょーかい」 山頂の広さは、火炎樹のせいで反対側が見えないがかなりのものだ。その村一つ分に等 しい広さから石を見つけるのは、かなり気が滅入る作業になりそうだった。 「それでは、散開。各自何か問題があれば呼子で知らせるように」 「了解!」 ※ 一人になって歩いてみると、火を噴き上げる森が意外なほど静かであることにアルバー トは気がついた。木が燃え盛っているとはいえ、その火は木を燃料にしているわけではな く、木自体が生み出しているものだ。だから、何かが燃える時特有の音も匂いも無い。 (不思議だな) 魔法は何度は見たことがあったが、戦闘演習で見た炎の槍の魔法や雷光の魔法は、どれ も威力と共にその現象を象徴するような轟音を伴っていた。 聞くものを震わせる威圧に満ちた破壊の魔法ではない、自然の中の精霊力の発露に、ア ルバートは感動すら覚えた。耐え難い暑さを無視できれば、御伽噺のように幻想的な光景 なのだ。 「さてと。地面、ね」 視線を地面に落とすと、アルバートは精霊石を探し始めた。課せられたノルマは数個で あったが、その数個が後の戦の結果を変えるかもしれないので、真剣にもなる。 精霊石を力の源とする<火竜閃筒>の一撃は、百の敵兵を一瞬にして蹴散らす。自軍の 被害無しで、しかも時間的に瞬間でそれが可能な伝説の武具の威力は、まさに千の騎士に 勝るであろう。ラグーン軍がわざわざ十名近くの騎士を送り込んでも手に入れる価値が、 精霊石にはあるということだ。 英雄ガノッサがいない今、人間種が他種族に対して優位に立てている理由の半分以上は、 前線に配備された<火竜閃筒>による防衛力である。逆に言えば、それが無ければ条件は 五分五分となり、沈静化した戦況も一気に苛烈なものと発展すると大方の者は判断してい る。 「なるほど、責任重大ってわけか。さすが兄貴ってところだな」 乾燥した空気の中で目を見開いていることは意外なほどに辛い。目をしぱしぱ閉じたり 開いたりして、アルバートは周りの地面を見渡した。 それらしい石はない。 「兄貴も毎回こんなことやらされてたのかよ……」 代わりに枝の上から自分を見下ろしている火喰い鳥を発見してしまい、ぼやく。火喰い 鳥は火炎樹の守り手で、よほど騒ぎ立てたりでもしない限りは襲ってこないという話だが、 やはりジッと見られているのは気分が悪い。 低い唸り声のようなものが聞こえてきたのは、その時だ。 (……獣でもいるのか?) まず思ったのはそういうことだった。低く、オゥオゥと抑揚はあるが意味が取れない唸 り。 一つ二つと重なって地響きにも似た輪唱となったそれに、アルバートは注意しながら木 木の間を進んだ。 不気味な響きに漠然とした不安を抱きながら覗き込むと、そこは小さな広場になってい た。否、思ったよりは広いはずだ。十人ほどの人間が手をつないで円を描けるほどの場所 であったが、そこにひしつめた生き物たちと比べると小さすぎただけである。 アルバートが息を呑んだのは、異常なまでの彼らの肉体のたくましさだ。 背の丈はアルバートの倍ほどもあるだろうか。岩のようにゴツゴツとした硬質な灰色の 肌が筋肉で盛り上がり、山のような巨体を形成している。大まかに見ればそれは巨大な人 間なのだが、横幅が異常にある。人間が長方形だとすれば、彼らは正方形に近いバランス だ。 そして全体から見ても大きめな頭には頭髪は無く、頭突きに強そうな秀でた額と頭より も太い首がその人相を悪くしている。身につけているのは、虎のような大型の獣の毛皮だ。 「トロール……っ」 ファーブル広しと言えど、その豪力に勝るものはないという種族、トロールだ。 「なんでこんなところに」 舌打ちし、アルバートはさらに詳しくトロールを見ようと目を凝らした。 彼らは三角形を描くような位置に立ち、アルバートの手首ほどもありそうな指で紅い宝 石をつまんで、一心不乱に何かの呪文のようなものを唱えていた。練磨されたかのように 綺麗な涙形の宝石からは、赤い陽炎のような歪みが発せられている。 (あれが魔力ってやつか?) 溢れるほどの火の精霊力。魔法に疎いただの騎士であるアルバートにすら見える力の強 大さに、少年はごくりと喉を鳴らした。 その瞳が見開かれる。 (子供? いや、女か) トロールたちの三角形の中心に、小柄な人間が座り込んでいた。癖の強そうな蜂蜜色の 髪をした、十代前半の少女だ。遠目にはわからないが、目は開いているらしい。 (何か魔法でもかけられてんのか? っつーか、あんな状況じゃ、子供は動けねぇか) 再度舌打ちし、アルバートは腰の剣に手を伸ばし――途中でその手を止めた。 広場での怪しい儀式に注意しつつ、一歩後退する。 (……俺一人じゃ、どうにもならねぇからな。相手は三匹。しかも、兄貴が認める強敵だ。 ここはまず兄貴に連絡するのが先だ。それしかねぇ) もう一歩下がりながら、アルバートは動かない少女を見る。 (悪ぃな。すぐに俺なんかじゃない、聖堂騎士が来るからよ。そうすりゃ、トロールの二、 三匹くらいどうとでもなる。妙な儀式も長いみたいだし、すぐにどうなるってこたぁねぇ だろ) うん、と自分を納得させ、アルバートはさらに下がる。カチリと鞘の金具が音を立てる のを手で押さえ込み、乾いた唇を舐めた。 ――よし、逃げよう。 恐怖心が囁いた本音に、アルバートは慌てて首を横に振った。 (違うだろ。俺は、あの子を確実に助けなきゃならねぇんだ。だから、兄貴を連れてきて) 焦燥した彼が思った時、辺りに沈黙が戻った。それにギクリとして、アルバートは広場 を見る。 すると唸るような詠唱を止めたトロールたちのうち一人が、天に向かって紅い精霊石を 突き上げ、残り二人が巨体をかがませて少女に手を伸ばそうとしていた。 「く――」 瞬間、アルバートは思考を失った。考えるよりも先に、身体と喉はありったけの力をこ めて走り出していた。 「くそだらぁああああああああああああ!」 やっちまった。 死ぬほど後悔したのは、一瞬の後であった。 ※ アルバート・ファルシアという少年は、激情家である。 何か、彼にとっての『許せないこと』が目の前で行われた時、彼の感情と肉体は理性を 越えて反応する。 そのせいで人を殴り倒すこと数度。相手に非があると周りが認める場合ばかりだったが、 元来腕力には自信が無く、喧嘩が強いわけでもないアルバートは毎回痛い目にあって後悔 している。 (別に殴ることを後悔するわけじゃねえが、もっと頭のいいやり方だってあるんじゃねぇ か?) まるで、困ったら暴力に訴えているだけのようで、聖堂騎士を義兄に持つ身としては直 さなければいけない癖であった。 義兄の名誉のために。 だが。 (や、やっちまったぁ!) ついに命の危険がある場所でそれをやってしまった自分に、アルバートは恐怖した。 無意識のうちに抜剣し、両手持ちしたそれを思い切り振りかぶり、一番近くにいたトロ ールの横を駆け抜け様に斬りつける。 ガツン、という硬い手ごたえに、アルバートは顔を引きつらせた。 「斬れねぇしよっ!」 それでも、両手を空に向けて突き出していたところに腹を叩かれたことはかなりの痛手 になったのか、トロールが悲鳴を上げてよろめく。 いきなりの乱入者に驚くトロールたちの間をすり抜け、アルバートはへたり込んだ少女 の身体に腕を回して、無理やり立ち上がらせた。 「くそ……こうなっちまったら仕方ねぇ。走るぞっ!」 直後のことだった。 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 「は? ――ごふっ!?」 甲高い悲鳴と同時に信じがたい衝撃を受けてアルバートは空中を跳ね飛ばされていた。 鋼鉄の鎧が軋んだ音すら聞こえたその一撃が何だったのか考える間も無く、彼の身体は赤 茶けた地面に叩きつけられ、転がる。 「い、いてて……な、なんだぁ!?」 「む、む、胸さわったぁっ」 「はぁ!?」 奇跡的に剣を手放さなかったアルバートが立ち上がると、少女の非難が待っていた。耳 に心地好い可愛らしい声に、しかし状況にそぐわない文句を言われたアルバートは大口を 開けて唖然とした。 布に穴を開けただけの粗末な黒い貫頭衣を着た少女は、紫色の瞳を潤ませ、両手で自分 の平べったい胸を隠すようにして顔を真っ赤にしている。 少し幼いが将来充分美人になるだろう愛らしい顔立ちを前にして、アルバートは、 「はぁ? 胸? え? 嘘。俺、触った?」 状況も忘れて、尋ねた。 少女の赤い顔が、今度は別の意味で真っ赤に染まった。 「触ったもん! ぐって、わしづかみにしたもんっ!」 「そ、そうかぁ? 俺はやわらかいもんの欠片も掴んでねぇ……ん、だが……」 アルバートの言葉が尻すぼまりになったのは、少女の目が劇的につり上がったからだ。 何か、悪いことを言ったのかもしれない。 と、その時だった。 「あ〜。オメが悪ぃべ。わびいれとき」 「年頃のおなごっちゅーのは、オイラたちにゃわからんものべさ」 「っ!?」 左右から野太い声が降ってきて、アルバートは一気に現実に引き戻された。 見上げれば、彼はまさに山のような巨体に挟まれている。 (やばっ!) 逃げようとした時には、岩よりも凶悪な拳が腹を打っていた。一瞬にして目の前が真っ 暗になり、鎧など何の役にも立たなかったことを知った。 「か……っ」 胃からこみ上げたものを口から吐き出し、アルバートは地に膝をついた。 (一発……かよ……っ) そのあまりの戦力差に理不尽さえ感じながら、彼は赤い視界の中、炎の赤に染まった少 女を見上げた。 目を見開いて、驚いた顔。 その向こうに見えたものに、アルバートは最後の力を振り絞って剣を振り上げた。 「に……げろ!」 「きゃっ」 「オメ、何を!?」 剣を投げる。 長いナイトソードが少女をかすめるようにしてその背後の火炎樹に突き立った。憤った トロールの手が向かって来るのを失う意識の端で確認しながら、アルバートはため息混じ りに自嘲した。 (情けねぇ) 意識が闇に閉ざされる。 全てが外界から閉ざされる最後の時に聞こえたのは、二つのまったく違う声だった。 ケェェェイ! と猛然と羽ばたく鳥の敵意溢れる鳴き声。 「やめて!」 闇の中でもはっきりと聞こえる、少女の叫び声。 ――そして、少年は意識を失った。 3 それは一面の火炎樹が爆発したかのような出来事だった。 どこかで怪鳥の叫び声が響いたと時を同じくして、ユーリの周囲の木々から一斉に火喰 い鳥が飛び立った。火の中を突っ切り、羽ばたきで火の粉を散らしながらのそれに、森全 体が激しく揺れる。 「く……っ」 あまりの風圧に炎が地面に向かって伸び、騎士の金色の髪をかすめる。身を低くしてそ れをかわしたユーリは、即座に走り出すと首にかけていた呼子を思い切り吹き鳴らした。 ピィィ、と高く鋭い音が木々の間を抜け、その音を追いかけるようにしてユーリは走る。 厚い鉄の鎧を着ているとは思えない速度で駆ける。例えるなら半人半馬のケンタウロス のような健脚ぶりで、彼は上空の鳥たちが急降下していく場所へ飛び込んだ。 「アルー!」 叫ぶ。 近場にいたのか自分より先にその場にたどり着いていた騎士たちがトロールと対峙して いることだとか、そういう状況を一気に抜き去って彼は自分にとって重要な情報を見て取 った。 ケェェッ! 「邪魔だっ」 上空から弾丸のように突っ込んできた真っ赤な鳥を、剣を抜き放ち様に両断する。それ でもたかだか一羽。恐ろしいことに、空は夕焼けのように火喰い鳥に覆われ、森全体が怪 鳥になったかのように四方八方からその鳴き声が上がっていた。 だが、ユーリはそのようなことは気にしない。顔色を変えて彼が見るのは、一人のトロ ールの手に引きずられた、弟の姿だけだ。 「アルーっ!」 もう一度、彼は叫んだ。 しかし、アルバートは死体のように動かない。サッと青ざめたユーリの前に、棍棒を構 えた巨体が立ちふさがる。 「どけっ」 「行かせね」 ゴウ、と空を裂く勢いで棍棒が横薙ぎに振られた。木で出来た棍棒とは言っても、人間 の倍ほどもあるトロールが扱うそれは丸太のような凶器だ。一撃で巨木ですら粉砕する破 壊力に、ユーリは地面を蹴る。 「はっ!」 「うがっ!?」 軽やかに宙を舞って棍棒を飛び越えたユーリの身体が前方一回転し、遠心力を乗せた剣 の一撃がトロールの頑強な額を叩き割った。それだけは人間と同じ赤い血潮が飛び散り、 額を押さえたトロールが膝をつく。 着地したユーリはすぐにアルバートを連れたトロールに追いすがろうとしたが、ちょう ど何羽もの火喰い鳥に襲われて足を止める。 「く……」 剣が閃き、一羽二羽と斬り捨てるが、怒り狂っている火喰い鳥は際限なく降り注ぐ。騎 士もトロールもお構い無しの強襲に、周り中から悲鳴が上がる。 「た、隊長っ。退きましょう! トロールどころではありませんっ」 「馬鹿な! アルが捕まっているんだよ!?」 部隊の副隊長を務める騎士の言葉に、ユーリがカッとなって叫ぶ。しかし、すでに鳥に ついばまれて顔面を鮮血で濡らした男は、残った一つの目でユーリを睨みつける。 「仲間全員見殺しにする気ですか!」 「…………っ」 唇を噛み、ユーリは炎の木の向こう側に消えるアルバートの姿を見た。トロールは鎧を 着た騎士一人と少女一人を抱えても苦もなく走っている。火喰い鳥の嘴さえ致命的な人間 が、頑強な肌で鳥を無視して移動するトロールに追いつくのは不可能に近いだろう。 (アルっ!) 声に出さす悲鳴を上げたユーリは、実際の音となって耳に届く仲間たちの悲鳴に肩を震 わせた。 そして。 「撤退! 総員下山せよ!」 そのひとことを騎士たちは待っていた。頭をかばい、剣を闇雲に振り回して散開する騎 士たちの中、噛み切った唇から赤い血の筋を滴らせながら立ちすくみ、ユーリはアルバー トが消えた方角を見た。 動けない。 「隊長っ!」 副隊長の声に、ユーリは震える拳で自らの顔を殴った。 「ぐっ」 手加減抜きの打撃と衝撃にユーリは頭を振る。 そしてようやく背を向けて走り出した。 (くそ……くそ……っ!) 悔し涙が、落ちた。 ファーブル種族間戦争三十七年。 ラグーンの誇る若き聖堂騎士ユーリ・ファルシアはこの日重大な任務に失敗し、後にそ のことが国境線における攻防で致命的な結果を招くことになる。 だが、ユーリにとってそのようなことは些細なことでしなかった。 してはならない失態を犯したと、彼は独白する。 国にとっては些細なことかもしれないが、それは彼にとって、何よりも重い重責となっ て心に刻み込まれた。 その日、彼は大切な家族を見失ったのだ。 ※ 「こんとこ来れば心配なかんべ」 「んだな」 頭上で交わされる会話に、その蜂蜜色の髪の少女は顔を顔を上げた。紫色の瞳が捉えた のは石の表面のような質感のある灰色の胸板で、さらに視線を上げると少女の倍はありそ うなトロールの顔があった。 ギョロっとした大きな目が少女を見つめる。トロールの脇に木材のように抱えられてい る少女は、真っ青な顔で言った。 「うう、結構辛いで……えう〜」 言い切れなかった。 「おわっ」 「姫さん、そりゃないべさ……」 「え、えう〜」 ぼたぼたと、高い位置から液体が地面に落ちる嫌な音が響く。ツンとした刺激のある匂 いが広まり、いかついトロールたちの顔にうんざりとした表情が浮かぶ。 トロールがニ、三歩移動してから少女を下ろすと、彼女は近くの木の幹に手をついて、 「えう〜」 しつこく嘔吐した。細い身体のどこにそれだけ吐くものがあるのかと驚くところだが、 トロールたちは呆れた目で言う。 「オイラたちの三倍食べてりゃ当たり前だべ」 「え、えう。お……お昼全部出しちゃった……」 「……言わんでええべ」 聞きたくもないことを律儀に報告する少女に、トロールが肩をすくめた。そうすると、 普段凶暴に見える外見もどこか愛嬌を感じさせる。多分には口調と気さくな雰囲気のせい だろう。 ともあれ、長時間に渡る激しい縦揺れによって酔っていた感覚が多少落ち着くと、少女 は口元を拭って周りに視線を向けた。 そこは先ほどまでの火炎樹がまばらにしか生えていないガラン山ではなく、緑の広葉樹 が林立する森の中だ。濃厚な植物の香りが空気全体に含まれており、人間大の高さまで茂 ったシダ植物が見通しを悪くしている。 密林、と表現して良い。 ガラン山を東側に下ると、そこには広大な密林が広がっている。そこが現在残されたト ロールたちの領土であり、他種族が足を踏み入れない秘境だ。土地的に価値があるわけで もなく、むしろ密林特有の危険な生物が多数生息しているため、攻め込む理由も無いので ある。 トロールたちがやって来た方向から草をかきわける音が聞こえ、小枝を折りながら最後 のトロールが姿を見せた。 「待たせたべ」 「あ……」 少女が思わず声を上げたのは、トロールの顔が血で真っ赤に染まっていたからだ。種族 特有の再生力によってすでに傷は塞がっていたが、その血の量は相当な痛手を受けていた ことを予想させた。 そんな少女の心配そうな顔にトロールは自分で額を叩き、牙を見せてニッと笑ってみせ る。そして視線を仲間に向けると、目をパチパチさせた。 「結局連れて来とんのか?」 「あのままにしていたら、死んじゃいますから。この人、わたしのこと助けようとしてく れたみたいですし……」 「あ〜、なんか勘違いしてたべな」 トロールの一人に抱えられた人間の騎士に視線が集まった。強烈な一撃を受けた少年は、 血の筋を口から垂らして気を失っている。 少女は少年のそばに歩み寄ると、ちょうど高さ的に自分の頭の少し上にある唇を指で拭 い、汗で張り付いた前髪をかき上げてやる。すると、アルバートの端正な顔立ちが少女の 目の前にさらされる形になり、初めて彼の顔をじっくり見る機会を得た少女はまじまじと 観察する。 「人間種を見るのは初めてだけど……少し格好いいかも」 「あー」 「あー」 「あー」 「な、なんですかいったいっ!」 いっせいに声を上げたトロールたちに、少女が頬をポッと染める。しかしそれ以上から かうことはせず、トロールたちは顔をつき合わせて相談する。 「どうすんべ?」 「ん〜、こんとこ捨てて行くんは姫さん文句言うし、仕方ないんと違う?」 「んだな。姫さんもそろそろペットの一匹や二匹いてもおかしくない歳だべ」 「マチウの奴が、姫さんが儀式から戻ったら、捕まえてきた風裂き蟷螂をペットにやる言 ってたが、どうすんべ?」 「マチウはおっかねえからな」 「ああ、おっかねえからな」 「やっぱ捨ててくか」 「駄目! 連れてくのっ!」 大声でひそひそ話をしているつもりのトロールたちに、少女が腰に手を当てて怒鳴る。 ぷうっと頬を膨らませる少女に、トロールたちは再度顔を見合わせる。煮え切らない彼ら に、少女は言った。 「シファ・メノルが竜人種の巫女として同盟種トロールの戦士に要請します! 勇敢な人 間種の騎士をわたしのお客としてもてなすこと。いいですか!?」 「……ま、仕方なかんべ」 トロールたちに浮かんだのは、苦笑の表情だ。人間には粗暴で凶悪と言われているトロ ールだが、少女に向ける視線には可愛い妹を見るかのような親しさがある。 「メノル(小さな子)にゃかなわんべ」 了承。 それに少女はホッと胸を撫で下ろした。 同時に、グゥと腹が鳴る。 「…………」 「う、うう……お、お腹が空いちゃったから、早く帰りましょう」 無言で見つめてくるトロールたちに、少女は顔を真っ赤にして言うのだった。 第二話に続く