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   4.死神見習いの恋「ほらぁ〜、ここなんて赤ちゃんみたいですよ〜」


                 1


「──と、言うわけですじゃ」
「そうですか」
 魔界のとある一室。髑髏の仮面からの報告を受けた犬耳の少女は、手にしたじょうろを
傾けながら頷いた。サー、と霧雨のように細かな水滴が温室の一面に置かれた一抱えもあ
る卵たちに降り注ぐ。それらの卵は、一つ一つが鳥の巣のような枯れ枝枯れ草の寄せ集め
の上に乗せられて温められており、その巣には年月日が書かれた札がかけられている。
「ネルリもコルネも、楽しくやっているようで結構です。これからもあの子たちをよく導
いてあげてください」
「は。──しかし、どうですか、新しい孵化の予兆はありますでしょうか?」
 チラリ、とブラフォードは居並ぶ黒い卵たちに視線を向かわせる。犬耳の少女──くろ
はじょうろの水が均等に降りかかるように、歩を進めた。
「いえ、相変わらずですよ。ネルリが生まれて以来、再びここはただの卵置き場へと変わ
りました。静かなものです」
「お嬢様がお生まれになった時は、この場所がまるでパーティー会場のようになったもの
でしたがなあ……」
「ええ。何百年も新しい命が生まれず、荒んだ魔界と天界にとって、ネルリとコルネの誕
生は本当に喜びでした。生まれてくる命の大切さを……新しい風を、あの時に私たちは思
い知りましたね」
「そうですな……まさにお嬢様は魔界の宝。死神長が少々過保護になってしまわれるのも、
致し方ないのかもしれません」
「過保護は皆同じですよ」
 クイッ、とくろが天井からぶら下がっていたヒモを引っ張ると、温室の天井が開いた。
もあっとした古い空気と外の新鮮な空気が循環し、くろがヒモから手を放すと天井はゆっ
くりと、しかし目に見える速度で閉まり始める。適度な時間で自動で閉まるようになって
いるらしい。
「ですが、私には少し不安もあるのです」
「不安とな?」
「ええ。ネルリたちの誕生は、魔界と天界にとって喜びでした。それは、久しぶりに生ま
れた子供、ということだけではなく、ようやく卵が孵化する時が来た、と心のどこかで期
待していたからではないですか?」
 くろは、一つ一つの卵に手を触れ、耳を寄せる。「調子は良いですか?」「寒くはない
ですか?」と、聞こえるはずもない赤子たちに語りかける。ブラフォードは、くろがその
行為を毎日──この数百年毎日続けていることを知っていた。
「ネルリたちが生まれ、そしてまた沈黙した卵たち。私も時々思わずにはいられません。
もしかしたら、ネルリとコルネ、あの二人が本当に最後の死神と天使なのかもしれないと」
「ク、クリスティ−ヌ様、滅多なことは!」
「思っているのは、私だけでしょうか?」
 淡々と、表情を変えずにくろは言う。魔界でもくろの表情を読めるのは死神長だけだと
いうので、ブラフォードがそこから何も読みとれなくても責めることは出来ない。もっと
も、くろの言葉は裏に何も含むものの無い本音なのだろうが。
「再びあの生命の喜びの無い時間が来るのではないか。今度こそ、もう卵は孵化しないの
ではないか。ネルリたちを見る度に、そう思う者もいるはずです。恐いですね。私たちは
長い時間を生きてきたがために、その沈黙の時間の苦しさがわかってしまう。このままで
は、ネルリたちが生まれる前の、魔界と天界の不和も再来するでしょう」
「否……断じて否ですぞ! そのようなこと、このアダモド・ブラフォードの目が黒いう
ちには許しませんぞ! 今そのようなことになれば、お嬢様がいったいどうなることか!」
「そうです。まだ何の力も持たないネルリが巻き込まれ、傷つくことは避けないといけま
せん。あの人も、きっとそう思っているでしょう」
「ふむ。まあ、死神長はお嬢様のことを本当に可愛がっておいでですからな。誰よりもそ
う思っていらっしゃるのではないでしょうか」
「少し妬けますね」
「は?」
 ブラフォードは目を丸くしてくろを見たが、その表情は、おそらく死神長にしか読めな
い無表情なのであった。


                 2


 ぼうぼうぼう、と犬が鳴いていた。愛犬檸檬(レモン)の手綱を放さないようにしっか
りと握り締めながら、寿命間近のお兄さんこと祥平さんは走る。トレーナーの上に羽織っ
たジャンパーがはためく音がうるさいが、とにかくそれほどに全力疾走ということである。
 檸檬はセントバーナードで、大きな身体と悠然とした気構えからそうは見えないが、走
り出すとさすがに人間などとは比べものにならないほど速い。さらに馬並に引く力もある
ときて、祥平は引きずられないようにするので精一杯だ。
 鳴きながら走る檸檬は、普段のぼーっとした彼からは想像出来ないくらいに必死である。
その理由としては、
「待てー!」
 と鎌を振り上げて追い掛けてくる死神見習いの少女の存在が妥当だろうか。
「待つかー!」
 叫び返す祥平に、昼下がりの散歩の皆さんは何事かと振り返る。だが、その目の前を通
り過ぎるネルリに気付く者は誰一人としていない。いや、ベンチに座ったお祖父さんなど
は、
「元気でいいのう」
 などと悠長に目を細めていたりしたが。
「そうですね〜」
 老人に相づちを打つのは、フリルを散らした少女趣味の服を着た天使見習い──光を発
するかのような淡い金髪も公園に似合う、コルネだ。パチン、とコルネが王手をかけると、
老人は眉間に皺を寄せて将棋盤に見入る。
「む……これは、難しいのう。タイトル防衛戦でも、これほど厳しい攻めはなかなか……」
「そうですか〜? では〜、明日までに次の手を決めておいてくださいね〜」
「むう……」
 顎に手を当てて考え込んでしまった老人に、コルネはにっこりと微笑みかけてベンチを
降りた。見ると、ネルリたちはすでに公園を出ていってしまっている。
「では、明日も来るか?」
「はぁい〜。指切りげんまんですよ〜」
 ぴ、と差し出された小さな指に、老人は一瞬のためらいの後に自分の節くれ立ったカサ
カサの指を絡めた。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本のましますよ〜。嘘じゃないですよ〜」
「わかっとるよ」
 天使見習いとの約束に、ちょっとぶっきらぼうに老人。そうしてパタパタと飛んでいく
コルネの姿に、呟く。
「わしは……明日も生きられるか」
 そんな老人に、周りは「最近徘徊癖が」やら「時々一人で宙に向かってしゃべってるん
ですよ」やら「もうすぐなのかしらね」などと勝手なことを噂しているのだが──。
 本当のことは、老人と天使見習いだけが知っていれば、きっといいのだろう。

                 ※

「はあ……はあ……ったく、しつこいぞお前」
「どうせ死ぬんだし、最後にちょっと苦しいくらい我慢しなさいよ」
「ぜ、絶対に嫌だっ」
「う……」
 ぶぅん、と死神の鎌がまたしても空を裂く。今日何度目かのそれに、祥平は逃げるのも
忘れて、言った。
「お前、下手くそだな」
「う、うるさいわね、いいでしょ」
「違いますよ〜。死神の鎌は〜、相手が自分から命を放棄しないと当たらないんです〜」
 背伸びするようにして祥平に怒鳴ったネルリの隣で、コルネが合掌して言う。そう言え
ば、と祥平はここまでの追いかけっこを思い出して、頷いた。決定的な場面はあったのだ
が、その度にネルリの方が鎌を外していたような気がする。
「ふーん。じゃあ、俺が死にたいと思わない限り、お前って無害なのか」
「そんなことないもん。死神は、死にたくなる気分にさせる魔力が使えるんだから」
「ネルリは使えませんけど〜」
「ううう〜」
「はぇぇぇぇ〜」
 びろーん、と頬を引っ張られて、コルネが情けない声を出す。よく伸びる頬である。
 ぼう、わう、と檸檬はネルリから逃げるように祥平の陰に隠れる。どうも動物にはネル
リたちがどういう存在かわかるらしい。
「お前が来ると檸檬が怯えるんだから、散歩してない時にしてくれよ。──何か飲むか?」
「苺ミルク」
「お水がいいですわ〜」
 連日の同じ解答に、祥平は肩をすくめて自動販売機に硬貨を入れた。そして、思う。
(何で俺、自分の魂奪いに来てる奴らにジュース奢ってるんだろうな……)
 死神見習いに、天使見習い。二人が祥平のもとを毎日のように訪れるようになって、数
日が経過していた。初めのうちこそ自分の寿命がもう少しという事実にショックを受け、
怯えもした祥平であったが、こうも死について考える時間も無いほどに追いかけ回されて
は、もう「どうでもいいか」的な思考に陥っていた。
「と言うか、高校出てからこんだけ運動したのは初めてだって……」
 筋肉痛などもう一生経験しないだろうと思っていたというのに、その一生の最後にこう
まで運動を要求されるとは、予想外も良いところである。
「だけどまあ……悪い気分じゃないな」
 んぐんぐと、甘い苺ミルクの缶を両手でしっかりと持って傾けるネルリを眺め、祥平は
車道との間のガードレールに腰掛けて髪を掻き上げた。冬だというのにジャンパーの前は
全開にされ、パタパタとトレーナーを摘んで中に空気を送り込むと、汗がサッと冷えて快
い。
「はぇぇ〜、祥平さぁん、開け口がありませんわ〜」
「あ、コルネ、あたしやる。──あれ?」
「ばーか。それはプルトップじゃないんだよ。ペットボトルの口は、蓋を捻る」
「ん〜!」
「逆だ」
 言われた通りにネルリが蓋を捻ると、今度は口が開き、コルネは嬉しそうに水を飲む。
自動販売機に入っているレベルの飲み物では、コルネは水が一番のお気に入りらしい。そ
の理由は、祥平にはわからないが。
 ともあれ、祥平は今の不思議な状況を受け入れていた。いきなり降ってきた、死神見習
いと天使見習い。冗談と取るには彼女たちはあまりに神出鬼没で、さらに空も飛ぶ。信じ
るしかなかったというのが本当かもしれない。
 だが、信じて、毎日のように追い回され、こうして一緒にジュースなどを飲んでいる現
状を楽しんでいるのは、まぎれもなく祥平だ。
「お前、自分の缶ジュースの口を開けるのにも苦労してるくせに他人のペットボトルの口
を開けようなんて、百年早い」
「ま、まだ十二歳だもん。だからいいじゃない」
「……お前って、普段子供扱いするなとか言いながら、こういう時は子供ってことに逃げ
るよなあ……」
「まったくですじゃ」
「う〜」
 正面と頭の上の二方向から言われ、ネルリは唇を尖らせた。自分でもわかっているが、
他に言い返せる言葉がないのだから、しょうがない。自分の性格、思想云々が無い子供た
ちにとって、会話とは「言い返せるかどうか」が台詞選択の重要な要素なのである。だか
ら意地っ張りな台詞も多いし、嘘だって多い。
「わかってるわよぉ……」
「そうか?」
 ネルリは表情がわかりやすい。祥平にも、ネルリが自分が子供であることでのコンプレ
ックスを抱いていること、それがコルネとの差によるものであることが、わかっていた。
 だから、お兄さんぶりたくもなるものである。
「わかってるなら、がんばりな」
「だ、だからどうして顔を近づけるのよー……っ」
 両頬を手で挟まれて、額をこつんとぶつけられ、ネルリはカアッと顔を赤くして祥平を
押し退けようとした。てーい、と力を込めるが、まあ、お笑い程度の抵抗である。それが
面白く、祥平が意地悪な顔で首根っこを掴んでくすぐると、ネルリはぎゃーぎゃーと暴れ
出す。
「くすぐったいー!」
「あははははは」
「ぬうう、下郎、お嬢様に無礼を働くか!」
「ぎゃー!」
 がぶりと手を噛まれて祥平が悲鳴を上げる。それを見てネルリは赤い顔で「ふんっ」と
そっぽを向き、コルネは「あらあら〜」と頬に手を当ててのんびりと言う。
 そんな毎日が、続いていた。


                 3


「ローマ法王が死ぬ?」
 祥平が目を丸くしたのに、ネルリは得意顔で頷いた。その日もその日で散々追いかけっ
こをした後での、祥平の部屋でのことである。
「そういやテレビでそんなこと言っていたような気もするけど……死神が言ってるなら確
実なのか?」
「うん」
 祥平が愛鳥のオウムの山葵(わさび)に餌をやっているのを横目に見つつ、ネルリは人
差し指を立てる。
「これがね、何十年かに一度の大きな捕り物になるんだって。ローマ法王みたいに徳の高
い人間の魂って、やっぱり貴重らしいの。だから、その日は死神も天使も相手に取られな
いように、普段は出てこないような大物まで参戦するんだから」
「ほー……大天使ミカエルとか?」
「誰それ?」
「天使長様の芸名ですわ〜」
「ふーん」
「げ、芸名なのか……」
 ピコピコとテレビゲームのコントローラーを操作しながらコルネが言うと、祥平は何だ
か聞いてはいけないことを聞いてしまったような顔になった。
「天使長様は〜、昔から人前にお姿を現す時には仮装をなさいますの〜。とっっても恥ず
かしがりやさんなんですよ〜。宮殿の中でもぬいぐるみを着ていたりしますわ〜」
「あたしがお勉強教わった時って、普通だったけど?」
「ネルリは天使長様のお気に入りですから〜」
「死神長様もよく天使長様のことを言うけど、ぬいぐるみのことなんかは言わないけど?」
「それはぁ、きっと死神長様も天使長様のお気に入りなのですわ〜」
「???」
 死神長は、いつも天使長に嫌味ばかり言われるとぶつくさ言っている。その天使長が、
死神長のことを気に入っているとは、どういうことか。
「う〜ん、あたしにはわからない」
「そのうちわかるようになりますわ〜」
「生意気」
「はぇぇぇぇぇ〜」
 二人のやりとりが一段落したのを見計らって、祥平は自分の疑問を解消することにした。
「……なあ、死神長様とかって、何だ? 一番偉いのか、名前からすると?」
「うん。でも、くろ先生の方がたまに偉いように見えるけど」
「誰だよ、くろ先生って……」
「それはね──」
 ネルリは、秘密をうち明けるように得意気にくろについて語りだした。死神長がくろの
どんな言葉に弱い、だとか、セスほどの手練れでもくろには一目置いている、だとかをで
ある。
 優越感にひたるように語りながら、しかし時折ネルリは祥平が退屈していないか確認す
るようにチラリチラリとその顔色をうかがい、大丈夫なことを確認してまた語りだす。
 それは、まるで幼い子供が、親の目が自分を見ているかどうか確認しているかのような、
相手の愛情を確認するかのような行動であった。
 そんなネルリのことを祥平は、
(猫みたいだな)
 と思い、コルネはカメラのシャッターを押しながら、
(ネルリ可愛いですわ〜)
 と思い、テーブルの上に置かれたブラフォードは、
(自分の育った場所のことを知らない相手に対して知識をひけらかすとは……じいはお嬢
様をそのような次元の低い快楽に満足する子に育てた覚えはありませぬぞ! しかも、じ
きに死ぬとはいえ、人間にここまで語るのは規約違反ですじゃ。決まりにうるさい天使長
に知れたら、どうなるか……)
 などと心配していた。
 話がくろの容姿のことに入ると、祥平は微妙なところに反応した。
「犬耳? ふーん……それは一度会ってみたいな」
 その反応の仕方──口元がだらしなくにやけた顔を、ネルリは見逃さなかった。
「……なんかいやらしい顔してる」
「そうか? でも、男として、やっぱり犬耳の人がいるなら見てみたいぞ」
「くろ先生は〜、とっっっっても綺麗ですよ〜。天界と魔界で一番綺麗なんです〜」
「へえ」
 ますます興味深そうになる祥平。
「そんな綺麗なのか……俺も死ぬ前に一度はそういう人と──」
 続けようとした言葉を、祥平はネルリとコルネの顔を見て飲み込んだ。お子さまに聞か
せる言葉ではないと判断したらしい。
 だが、そうされて気になるのはネルリだ。すぐに祥平にまとわりついて尋ねる。
「ねえ、一度は……何?」
「コルネはゲームとかも上手いよなあ。俺、この面どうしてもクリア出来なかったんだけ
ど」
「無・視・す・る・な!」
「耳を摘んで怒鳴るなっ」
 鼓膜に叩き込むように怒鳴られ、キーンと耳鳴りがする耳を押さえて祥平は顔をしかめ
た。そして、おざなりに手を振って言う。
「死ぬ前に一度、そういう人を恋人に出来たらなあ……だよ」
「ふぅん?」
 あまり深く考えず、ネルリは納得する。むしろネルリよりもコルネの鋭さを祥平は懸念
していたが、コルネは何を考えているかわからないほやほやの笑顔だったので、表情を読
む努力を祥平は放棄した。
 果たして、コルネの反応だが。
「あらあら〜、いけませんわ〜。では祥平さんに恋人が出来ましたら〜、それで満足して
死神に魂を渡してしまうのですね〜」
「え? そうなの?」
「死神は、時にそういう方法で相手の生への執着を断ち切ります。願いを叶え、交換条件
で死を納得させることもありますじゃ」
「ふーん……じゃあ、祥平に恋人が出来たら、あたしに魂をくれるんだ?」
「勝手に話を進めるな!」
 怪しい方向に話が進んでいったので、慌てて祥平は止めた。このままでは、コルネの台
詞が発端になって、またネルリがドタバタを始めるかと思ったのだ。
 だが、祥平の制止くらいで止まるお子さま達ではない。
「ん〜、恋人かあ……普通は魔力で人間の女の人をたぶらかせばいいんだよね」
「た、たぶらかすなど、お嬢様、どこでそのような言葉を!」
「でも〜、ネルリは魔力はまだ使えませんわよね〜」
「ぐっ」
「ですから〜、わたくしも安心ですわ〜」
 ニコニコと、悪意がないにしてもネルリの胸にザクザクと刺さる言葉をコルネは言う。
ネルリはムッとして、言い返す。
「ふん、安心なんか出来ないわよ。魔力なんか使えなくたって、方法は幾らでもあるんだ
からっ」
「例えばどんな方法ですか〜?」
「う……あ、そうそう! くろ先生に祥平の恋人になってもらうとか──」
「それならクリスティーヌ殿が魔力でこの男を死ぬ気にさせた方が早いですじゃ」
「それじゃあ、あたしが魂取ったことにならないじゃない」
「そうですわね〜」
「てめえら……人を殺す相談してるんじゃねえよ……」
「うるさいわね、祥平は黙ってて」
「黙ってられるかー! 出てけー!」
「ぎゃー! 腰に腕回さないでよ!」
「あら〜、名案がありますわ〜。ネルリの手柄になる方法がありますよ〜」
「え、本当?」
 怒った祥平に、脇に抱えられて玄関から捨てられそうになっていたネルリが、コルネの
言葉に反応した。そして、
「放しなさいよ!」
 と、両手足をバタバタと動かして祥平の腕から逃れ、ネルリはコルネの前に正座した。
「それでそれで、その方法って?」
「魔力もいりませんし〜、ネルリ自身の力ですし〜、完璧ですわ〜」
「へえ」
 ネルリは感心した。しかし、そこにブラフォードが言う。
「コルネ嬢、よろしいのですか? 死神見習いのお嬢様にその方法をお教えして……あま
りわしが言うことではありませぬが、お二人は競争する相手なのですぞ」
「はぇぇ? そうでしたか〜? わたくしはぁ、一度もネルリと競争したことなんてあり
ませんわ〜」
「ぬ?」
「だって二人は──」
 コルネはネルリの手を両手で取り、自分の胸の前で合掌する。
「生まれた時からずっと一緒のお友達ですもの〜」
「う〜、なんか恥ずかしいよぉ……」
 幸せ絶頂というか、「もうこの手を放しませんわ〜」とでも言うように手を握り締めら
れ、ネルリは嬉しいながらも恥ずかしかった。
 そんな二人、特にコルネを見た年長者二人は、ゾクリと何か悪寒が走って自分の身体を
抱き締めた。
「こ、これは友情なのか?」
「わ、わからんですじゃ……」
 ともあれ、ネルリが引っ張ったので名残惜しそうに手を放したコルネは、両手を合掌し
て頬に当て、首を傾げて可愛らしく言った。
「それで方法ですが〜」
「うん」
「ネルリが祥平さんの恋人になってしまえば何の問題もありませんわ〜」
「ええ!?」
 コルネの提案にネルリは驚きの声を上げた。
「ど、どういうことよそれ!?」
「祥平さんは恋人を欲しがっていますわ〜。でもネルリには魔力が使えませんでしょう?
くろ先生にお願いするのもネルリは嫌ですわよね〜。だからぁ、自分が恋人になってしま
えば魔力もいりませんしネルリ一人のお手柄ですわ〜」
「うぅぅぅ〜〜〜〜〜ん……」
 ネルリは両手で髪の毛を掻き回した。悩む。確かに、ネルリの独力ではそれくらいしか
方法は無いと言える。
 だがしかし、だ。
「で、でも恋人って……その……するんでしょ?」
「何をですか〜?」
「チューとか……」
 ごにょごにょと言う。あまりのことに呆けて反応出来ていなかった祥平は、ネルリのそ
の台詞にプッと吹きだした。
「は……はははははははっ」
「な、なによー!?」
「ち、チューって……くくく、まあ、確かにするよな。チューか、チュー……くくく」
「な、何笑ってるのよ……」
 笑いのツボに入ってしまったのか肩を震わせる祥平に、ネルリは自分が何か間違ったこ
とを言ったのかと困惑した顔をした。
 祥平は、ようやく自分のスタンスを取り戻し、正座して見上げてくるネルリの前にしゃ
がみ込み、笑いの収まらない顔で言った。
「チューするか?」
「し、しないわよっ」
「遠慮するなって」
「ぎゃー!」
 頭を掴まれて顔を近づけられ、ネルリは悲鳴を上げた。ネルリがぎゅっと目を瞑ると、
こつんと額に触れるものがあり、目を開けるとすぐ前に祥平の顔があり、それが相手の額
だとわかった。
 ぐりぐり、と額をこすれあわされ、もう一度ネルリは悲鳴を上げる。
「ぎゃー!」
「あはははははは、もうちょっとでっかくなったら恋人にでも何でもしてやるよ! チビ
の死神見習いさん!」
「そんなこと仰るのは酷いですわ〜。ネルリは今でも素敵なレディですのよ〜」
「へ?」
 祥平に掴まれたままだったネルリは、後ろからコルネに抱きつかれ、意表を突かれた。
そして、
「ひ、ひあ!?」
「ネルリはこんなに肌が綺麗なんですよ〜」
「げっ」
 ペロッと、ネルリの服がたくし上げられ、下着も何もない真っ白な胸が目の前にさらけ
出され、祥平が引きつった。
「あ……」
 と、ネルリは一瞬呆け、
「え? え?」
 と長手袋をした手で、自分の胸をペタペタと触り、
「ぎゃー!」
「ぐあああ!」
 ネルリの平手突きが祥平の鼻っ面を叩き、祥平は顔を押さえてのけ反った。しかし、ネ
ルリはそれどころではない。身をすくませてコルネに振り返ろうとし、その背中にコルネ
が張りついて動きを封じ込められる。
「コルネ、こら、やめてよっ」
「わたくしはもう羽根が生えてしまいましたけど〜」
 コルネはネルリの素肌の背中、特に肩胛骨の辺りに頬ずりして言った。
「ほらぁ〜、ここなんて赤ちゃんみたいですよ〜」
「触るなっ」
「ど、どこだ?」
「見るなー!」
 思わず顔を上げた祥平の顔面に、今度は死神の鎌の柄が横振りに叩き込まれた。再度の
け反る祥平。
「じゃあ〜、下も脱ぎましょうね〜」
「じい、じい助けて!」
「あう……あう……ブクブクブク」
 その頃、ブラフォードはあまりのショックに白目で泡を吹いていたが、そのネルリの叫
びに己の使命を思い出した。髑髏の仮面がテーブルの上から浮き上がる。が、そこまでだ。
「う、うむ。こ、このブラフォード、お嬢様を毒虫から守るのが使命! し、しかしお嬢
様のお相手がコルネ嬢では……うおお、死神長、わしはどうすれば良いのですじゃー!?」
 役に立たない。
 その時だ。
 コルネの手がネルリのキュロットに伸びた時、その頭をぐしっと押し退ける大きな手が
あった。痛そうに顔をしかめた祥平である。
「はい〜、なんですか〜?」
「そこら辺にしておけ。嫌がってるだろ」
「そうですか〜?」
 コルネがネルリに尋ねると、ネルリはコクコクと頷いた。すると、残念そうにコルネは
ネルリから手を放す。
「せっかく祥平さんにも〜、ネルリの綺麗な肌を見てもらおうと思ったんですが〜」
「見せなくていいのっ」
「もう見せてもらったから、そこまでで、な」
 ははは、と鼻をさすりながら祥平が言うと、ネルリはその言葉の意味に顔をカアッと朱
に染めた。慌てて床にたくし上げられていた服を元に戻す。
「み、見たんだ?」
 おずおずと切り出すと、祥平も気まずそうに頷く。ちょっと沈黙。その後、祥平は立ち
直ってポンッと手を叩いた。
「いや、でも、気にするな。大丈夫だから」
「え?」
「俺、ロリコンじゃないから」
「ろりこん?」
 ネルリは健全に育った良い子である。なので、祥平は付け加えた。
「俺、お前みたいなガキに興味無いし」
「……………………………………何?」
「ほら、さっきも言ったけど、もっとでっかくなったら恋人にでも何でもしてやるから、
胸も何もない裸見られたくらい気にするな。胸が、こう、バイーンって感じになったら、
見たり見られたりしたら大変だが、今なら──」
「──かったわね……」
「うん?」
 小さく、呻くように、だが恥ずかしさに赤くしていた顔を段々と別の意味での朱に染め
ながらネルリが言った言葉を、祥平は聞き取れなかった。
 ネルリが怒鳴る。
「ガキで悪かったわねっ。どーせ、胸も何もないわよ! 祥平の馬鹿っ」
「お、おいおい……」
「あたし……恥ずかしかったんだから。死神長とかくろ先生以外に裸見られたの初めてだ
ったんだから。なのに何よ。ガキの裸で胸がないから興味ない? 祥平はそうでも、あた
しは恥ずかしかったんだもんっ!」
「あー、悪かった。そうだよな、十二歳って言ったら、もう中学生だもんな。悪い」
 それにしても、こいつって動揺したりすると語尾に「もん」が付くよな、と祥平はちょ
っと思ったりした。
 祥平の謝罪も聞かず、ネルリは毛を逆立てる猫のように祥平を睨み、その顔にびしっと
人差し指を突きつけた。
「決めた!」
「な、何だ?」
「もう、あたしが大きくなって胸が大きくなっても祥平には触らせてあげないもんっ。チ
ューだってしてあげないもん!」
 祥平さんの膝がカクンと折れて転んだのは、誰にも責められないと思う。プーッと頬を
膨らませて言うネルリを床から見上げ、祥平は今日何度目かになる爆笑の予感に口を押さ
えた。
 肩を震わせながら、祥平は思った。
(こいつ……俺がもうすぐ死ぬってこと、わかってないのか?)
 その場の感情で、自分の思ったままを吐き出してくるネルリ。
(もうすぐ死ぬって言われて……死ぬまでの時間がこんなに賑やかって、みんなそうなの
か?)
 おそらく、それは違うのだろう。祥平にも直感で理解出来た。こんなにも毎日が賑やか
で、楽しいとさえ言える時間が与えられているのは、この二人の子供たちが自分のもとへ
やって来たからなのだと。
 他の死神や天使では、こんな感情は覚えない。
(可愛くて……見守ってやりたくなるよな)
 ついに、堪えきれずに祥平は爆笑した。

                 ※

「不・愉・快!」
 魔界へと続く花畑をコルネと一緒に歩きながら、ネルリは言葉通りに不愉快を隠しては
いなかった。プンプンと擬音がつきそうなほどに頬を膨らまし、肩を怒らせて歩くネルリ
に、コルネはニコニコと尋ねる。
「でも〜、怒ったからチューしないってことは〜、怒らなければ祥平さんとチューしてい
たんですの〜?」
「そ、それはわからないけど……でも祥平あたしのこと子供扱いするし……」
 頬を染めてごにょごにょと言うネルリに、コルネは名案を思いついたという顔で言う。
「では〜、いつチューするかわかりませんから〜、チューの練習をしないといけませんわ
ね〜」
「チューの練習?」
「はい〜。わたくしとネルリでチューをしてみましょう〜」
「別にいいけど……でも、祥平とする練習じゃないからね」
「はいはいですわ〜」
 やはりニコニコとコルネは笑顔のままだ。これも一種のポーカーフェイスなのかもしれ
ない。
 ともあれ、花畑の中で二人は顔を寄せてキスをした。
「ん〜? 何だかよくわからない」
「ではもう一度しましょう〜」
 背丈もほとんど変わらないため、正面から抱き合うようにして二人は唇を重ねた。真っ
直ぐに顔を近づけて鼻と鼻がぶつかったので、ネルリが少し首を横に傾げると今度はすん
なりと唇が触れる。
 しばらく、二人で唇を合わせたり、相手の唇を舐めたりして時間を使うと、ネルリは疑
問に難しい顔をした。
「よくわからない。チューって少し恥ずかしいかと思ってたけど、そうでもないかな?」
「それはぁ、きっと相手がわたくしだからですよ〜。好きな殿方とのチューなら〜、ネル
リもドキドキしますよ〜」
「そういうものかな? コルネって、好きな人とチューしたことある?」
「ありますよ〜」
「う……あるんだ。いつ?」
「つい最近ですよ〜。とてもドキドキしました〜」
 ほわほわと幸せそうに言うコルネを、ネルリは羨ましいと思った。
(好きな人……かぁ。死神長やセスはお父さんだもんね。あたしの好きな人──)
 祥平の顔を思い出し、ネルリは自分の頭をポカポカと叩いた。イコールそれは被った髑
髏の仮面を叩くことであり、ブラフォードは理不尽な暴力に呻いた。
「か、家庭内暴力ですじゃ……」
「それではネルリ、また明日〜」
「うん。じゃあね、コルネ」
 互いに手を振って別れ、ネルリたちはそれぞれ別々の方向へ歩いていった。


                 4


「ねえ、くろ先生はチューしたことある?」
 夕食時、唐突に尋ねたネルリに、死神長は口の中のものを吹き出しそうになった。対し
て尋ねられたくろであるが、チラリと死神長の顔を見てから、
「ええ、ありますよ」
「誰と? 好きな人?」
「そうです」
「じゃあ……」
 と、ネルリは上目遣いになる。
「あたしより、好き?」
「さあ……それはわかりません。ネルリへの好きと、その方への好きは、きっと違うもの
ですね。私はその人のことをいつか嫌いになるかもしれませんが、この先何があろうと私
はネルリのことを嫌いにはならないでしょう。ですが、私はネルリとその方のどちらを選
ぶのかと言われ、その方を選ぶでしょう」
「???」
 よくわからない、という顔をネルリがしたため、くろはその無表情をわずかに崩して微
笑みを浮かべた。
「私にも、よくわかってはいないんですよ。恋をしているんですから」
「恋……かぁ」
 ふわぁ、とネルリは頬を林檎のようにしてくろを見た。非の打ち所がない美少女である
くろに恋されているのは、誰だろう。大好きなくろ先生が恋をしていると聞いて、ネルリ
は自分のことのように胸が高鳴った。
「うおっほん」
 その時、わざとらしく死神長が咳払いをした。ネルリが顔を向けると、死神長は引きつ
り気味の顔で尋ねる。
「いきなりどうした、ネルリ。チューがしたいなら、オレが幾らでもしてやるぞ」
「いい。恥ずかしいもん」
「ガーン」
 死神長は口を開けて真っ白になった。生きること三千年以上。これ以上のショックはな
かったかもしれない。
「ど、どうしたんだ、ネルリ。恥ずかしいって……それじゃあお休みのチューも出来ない
ぞ?」
「お休みのチューもいい。くろ先生にしてもらう」
「ガガーン!」
 この時の死神長のショックを表現するとしたら、彼の背後に『ネルリと死神長☆』の写
真を全て並べ、それが崩壊するといったものが相応しいだろう。
 とにかく、口をぱくぱくさせて何も言えなくなった死神長を置いて、ネルリは食事を終
えて食堂を出ていった。それでも復活しない死神長に、くろはため息をついて、歩み寄っ
た。
 パァン、と死神長の顔の前で、両手を打ち合わせる。すると、死神長の焦点が現実に戻
ってきた。
「ね、ネルリは!?」
「部屋に戻りました」
「あ、あう……あうあうあう」
「言葉まで忘れないでください。ネルリも成長しているのですから、いつまでも子供扱い
してはいけないということです」
「だ、だが、いきなりお休みのチューが駄目って……まさか、おはようのチューも、行っ
てらっしゃいのチューも無しか!?」
「そのようですね」
「ガガガーン!」
 またしてもショックを受ける死神長に、くろは冷静に次のように言った。
「ネルリのことは、しばらく私に任せて下さい。あなたは、もうじき法王の魂で忙しくな
るんですから」
「そ、そうだな……お前に任せる」
「…………」
「な、何だ?」
 じっと見つめてくる犬耳の少女に、死神長はショックの冷め切らない表情のまま促す。
くろはそんな死神長に対し、
「いい気味ですけど、やっぱり妬けますね」
 犬耳を動かして、そう言うのだった。

                 ※

「何をいじけてるんですか、あんたは」
「セスか……」
 黄昏たように、自室でネルリの成長の記録を眺めていた死神長は、自らの右腕と信頼す
る死神の登場にフッと切なげに唇を歪めた。
「久しく忘れていたが、子供とは成長するものだな」
「本当に忘れてましたよ、俺たちは。誰も歳を取らない、成長し切った死神と天使ばかり
の、時間の止まったこの世界でね」
 セスは、ネルリの写真の一枚に目を細めた。まだ小さなネルリにびりびりに切られてし
まったマントを着ている死神長と、それを見て笑っているセス。
 セスは、死神長たちのことをネルリが生まれてから変わったとことあるごとに言うが、
そのセスもネルリによって随分と変わった。そのことを、死神長は知っている。
「そう言えば……お前は最近オレを殺すとは言わなくなったな」
「そうでしたっけ? まあ、今でも狙ってはいますけどね」
 ニカッと白い歯を見せて笑うことが、それを冗談だと告げている。
「あんたには、一番欲しかったものを奪われた。だけど、あんたが悪いわけじゃない……
って、最初からわかってたことを、認める余裕が出来たってことですかね」
 その心の余裕が、心のゆとりが、誰のおかげで得られたかセスは理解している。だから、
セスにとってもネルリは宝だ。手間のかかる妹という名前の。
「……まあ、ネルリのことはいいとして、だ。ローマ法王の魂はどうするんです? 天界
はかなりの人数を出してくるだろうし、こっちもそれなりの対応を見せないと」
「そうだな。何にしろ、前回のローマ法王の魂の時には、多くの死者が出た。ネルリたち
によって、ある程度天使との関係が和らいだとは言え、今回もそれなりの被害は出るだろ
う」
「それなんですがね……俺はむしろ今までよりも今回の方が危険だと思ってますよ」
「お前もか」
 死神長は、苦笑した。その顔はすでに子煩悩パパから、魔界の最高責任者のそれに戻っ
ている。コリコリと、牙をすり合わせながら死神長はネルリの写真を見る。
「期待とは、恐いものだな。ネルリとコルネが生まれて十二年。期待が落胆に変わるには
充分な時間だ」
「十年なんか、以前はすぐだったんですがね。あいつらが生まれてから、長かったですよ、
本当に」
 この長さがずっと続くことに堪えられない奴が出ないといいんですがね、とセスが呟き、
死神長も頷くのであった。

                 ※

 かぽーん、という桶を床に置いた音が浴室の壁に反響する。広い大理石の湯船に肩まで
浸かったネルリは、湯に爪先をつけるくろを見上げていた。
「くろ先生、胸大きいね」
「普通ですよ」
「……触ってもいい?」
「ええ」
 許可をもらい、両手でくろの乳房に触れたネルリは、ふうとため息をついた。
「あたしもこれくらい欲しいな〜」
「あと数年もすればネルリの胸も大きくなりますよ」
 湯が気持ちよいのか、くろの耳はいつもよりもずっと力無く垂れていた。無表情なこと
が多いくろだけに、耳は重要な判断要素だ。
「それで、私に相談とは、何ですか?」
「ええっと……」
 実は、風呂に入るところに死神長が「一緒に入ろうか」と言ったのを「くろ先生と入る
から、いい」と泣かせてきたネルリである。
「コルネがね」
「はい」
「コルネに……ちょっと気になる男の人がいるみたいなの。あ、別に好きってどうかはわ
からないけど、裸見られて恥ずかしかったり、ちょっとチューしてもいいかな〜、とか、
そんな感じみたいなんだけど……」
 もじもじと、湯を見ながら言うネルリに、くろは微かに口元をほころばせただろうか。
「そうですか。コルネ、ですか」
「う、うん。コルネの話なんだけど!」
 上目遣いに、
「それって……その男の人が好きなのかな?」
 尋ねられ、くろは答えた。
「ネルリは、どう思いますか?」
「え? あたし? あたしは……わからない……かな?」
 途切れ途切れに言うネルリの手を、くろは引いた。
「そうですね。恋なんてわからないものですよ。いつどこで誰を好きになるかわからない。
絶対に好きになってはいけない人に惹かれることも、あるんですよ」
「好きになっちゃいけないって、わかっていても好きになるの?」
「ええ。それが、恋なんでしょうね」
 膝の上にネルリを乗せて語りながら、少しだけ、くろは悲しむような輝きを瞳に浮かべ
たが、背中を向けたネルリには見ることが出来ないものであった。





   5.死神と天使と「まるで……死神に憧れた、一人の天使のようですよ」


                 1


 その日、青空は黒と白の色に二分されていた。
 イタリアはローマの上空、数百の単位で塊を作っているのは、死神と天使である。
 向かって西側に死神。骨で組み上げられた玉座の上に座る死神長を中心とする、黒い塊。
 向かって東側に天使。大理石で組み上げられた玉座の上に座る天使長を中心とする、白
い塊。
 二つの塊は一定の距離を保って睨み合い、しかし互いに動きを見せはしなかった。その
理由は、ローマ法王の死を待っているからだ。ローマ法王ほど徳の高い人間に、死神たち
の魔力は通用しない。そのため、死神たちも天使たちも、法王がその命を終えて魂が空に
浮かんでくるのを待つしかないのである。
 無論、両陣営とも、地上に降りて法王の枕元で魂を獲得したい。だが、牽制し合う両勢
力はそれを許さない。どちらかに動きがあれば、すぐに戦いが始まる。そのような状況だ。
 ネルリは、黒い塊の中心──死神長の隣に控えていた。かなり遠くであるが、目を凝ら
せば白い塊の中心にコルネの姿を認めることも出来る。死神長も天使長も、ネルリやコル
ネに魂を奪わせるのは不可能だと思っての配置である。特にネルリはまだ自分の翼すら無
く、死神の鎌を手放せば遙か下方の地上へ落下する可能性もあるため、死神長が手元に置
きたがったのだ。
 両陣営の雰囲気は、決して良くはなかった。
「偽善ばかり口にする天使どもに魂を渡すな!」
「高慢な天使どもを殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
「命の秩序を乱す死神どもに、崇高なる我らの意志を理解出来るとは思ってはない」
「法王の命だけは死神どもに渡すな!」
「殺せ!」
「殺せ!」
 それは、まるで黒い塊と白い塊の二つの生き物が震え、唸り声をあげているかのような
雄叫びであった。それぞれの陣営が、相手の陣営をけなし、その抹殺を声高に叫ぶ。ネル
リは、そのような姿を初めて目にしていた。
「な、何?」
 ぎゅっと、死神長の手を握り締め、ネルリは怯えた顔をしていた。
「みんなどうしちゃったの? ねえ、死神長様」
「心配無い。法王の魂という、滅多にないイベントに皆熱くなっているだけだ。お前はオ
レのそばで見ているだけでいい」
 言う死神長がコリコリと牙をすり合わせていることに、ネルリは気がついた。それは、
苛立っている時の死神長の癖だ。ネルリは、死神長の手を握る力を強めた。
「なんだか……恐いよ」
「大丈夫だ。オレがいる限り、お前には何の危害も加えさせない。天使だろうと……死神
だろうとな。──セス」
「はいよ」
「暴れてこい。どれだけの天使が集まるかはわからんが、法王の魂が上がってくる前に戦
場を作る。天使の目をそこに引きつけ、魂が上がってきたところを速度に自信のある者た
ちで奪い、一気に魔界の『魂の間』へと運ぶ」
 右腕を呼びつけた死神長は、手短にセスに言う。何人連れて行け、などとは言わない。
セスはニヤリと笑い、胸に手を当てて一礼をする。
「了解。よっしゃぁ、行くぜ野郎ども!」
「おお!」
 鬨の声が響き渡り、黒い塊がごっそりと動いた。陽動のための人数ではない。黒い塊全
てが動いたのだ。それは、死神たち全員がその声を待ちわびていたという証である。
「死神どもが動いた。こちらも出るぞ! 一同前へ!」
 天使長の横に控えていた、両耳に赤と青のピアスをした男の天使が号令をかけ、白い塊
も一斉に動き出した。
 黒と白。二つの羽ばたきは千に近い鳥が羽ばたくよりも大きな音と化し、黒と白はつい
に混ざり合った。それは、青空のキャンパスの上で二色の絵の具が混ざり合ったかのよう
であった。
「くろ」
「ここにいますよ」
「オレのそばに。時期が来たら、オレも出る。その時は、ネルリを頼んだぞ」
「御武運を」
 玉座の前に跪き、死神長の手の甲に口接けるくろの姿に、ネルリは驚きに目を見開いた。
「行ってらっしゃいのチュー? くろ先生がするの……初めて見た」
「この人が私の前を去ることは、この時くらいしかありませんからね」
 ネルリではなく、今は黒と混ざってしまった白い塊に目を向け、くろは応える。その目
が、やはり初めて見る悲しげなものであることに、ネルリは不安を覚えた。
「くろ先生……どうしたの?」
「ネルリは、この争いをどう思いますか?」
「え? うん……恐い」
「そうですね、恐いです。愚かな──皆、何のために争っているのでしょう」
「だが、それを抑えきれないオレもまた愚かだ」
 神妙に、死神長が言った時だ。
 ネルリは、これまで感じたことがないほどに甘美な芳香が立ち上ってくるのを捉えた。
「魂が来るっ」
 ネルリの言葉を受け、くろが死神長を見る。死神長は首を横に振るが、ネルリの頭の上
でブラフォードがカタカタと言う。
「お嬢様の鼻は、確かですじゃ。お急ぎを!」
「オレが出る。皆の者、続け!」
「おお!」
 それは、まさに黒い疾風であった。突然、黒い塊の後方の一部が地上へ向けて落下を始
めたのだ。目にも止まらぬとはそのことで、戦闘に集中していた天使たちがそれに気付い
た時にはもう遅かった。死神長の全速に追いつける者など、魔界天界を合わせて一人しか
いない。
 反応したのは、その一人のそばに控えるコルネだった。
「ネルリが魂の香りを嗅ぎ取ったみたいです〜」
 コルネは、望遠カメラを覗き込んでいた。せわしなくその指が動いているのは、珍しく
ちょっと怯え気味のネルリを写真として残すためだろう。
「偉いですよ、コルネ」
 コルネを褒めたのは天使長──と言うか、巨大な猫の着ぐるみであった。白い毛皮の猫
だが、その背中からは立派な白い翼が生えている。翼のある、猫である。
「死神長が動きましたね……ならば、私が出ます。コルネ、チャックを」
「はぁい〜」
 返事をするが早いか、コルネが着ぐるみの背中のチャックを一気に下ろす。くにゃ、と
猫の上半身が前に倒れ、その下から現れたのは銀──否、白い髪の美少女だ。卵形の顔の
輪郭や、切れ長の目、そして鼻梁から唇の形まで、くろによく似た少女である。強いては
っきりとした違いを言うならば、くろは髪が短く、天使長は長いということだろうか。無
論、天使長にも頭の上に耳があり、それはくろの犬耳に対して、猫の耳であった。
 まるで、くろと対に生まれついたかのような、そんな容姿の天使だ。
「行きますわよ!」
 怜悧な瞳を煌めかせ、天使長が錫杖を振り上げ翼をはためかせると、従っていた天使の
精鋭たちが一気に降下を開始した。死神長たちに優るとも劣らない動きだ。
「ち……っ。さすがに天使長は引っかからなかったか。──しつこいぜ、アーセル!」
「セス、長年の決着をつけてくれる!」
 セスは天使長の一団を追おうとしたが、天使長の右腕と呼ばれるアーセルに阻まれ、舌
打ちした。
 お互いに、周りの死神天使とは比べものにならない速度で斬り合いながら、セスは言う。
「しかし……この盛り上がり、異常じゃねえか? お前はどう思う」
「確かに。天使長も懸念されておられたが、これは……考えたくはないが、コルネたちに
対する感情のせいかもしれんな」
「ああ。ネルリたちの存在を、久しぶりの子供として歓迎するか、最後の子供として嘆く
べきか、皆悩んでいたんだろうぜ。そして、十二年だ。お前はどう感じた」
「……長かったな。コルネの世話をして」
「だろうよ。俺も同じだ。ネルリたちは、俺たちに時間の長さを確認させた……もしこれ
から卵が孵化しなければ、どれだけの長い時間を誕生の無い世界で生きていくのかと、絶
望の意味でな」
「それは……理不尽というものだ。コルネたちの存在は、両世界にとって喜ぶべきものだ。
忘れていた誕生の大切さを教えてくれたあの子たちの存在を」
「それを、周りの奴ら全員に言ってやりな。やべえぜ、この状況……こいつら、俺たちが
何のために魂を持って帰ろうとしているのか、忘れてやがる」
「確かに。だが、私たちのみが戦いを止めて呼びかけても仕方あるまい。答えは己の心で
掴むものだ。口で言ってもわからぬ者にはわからぬ。『全ては子供たちが教えてくれるで
しょう』と……天使長は言われた。私はそれを信じる」
 一際強い剣での打ち込みを、セスは死神の鎌の柄で受ける。口元にこれ以上ない笑みを
浮かべ、セスは至近距離からアーセルに言った。
「惚れてるな、お前」
「だ、黙れ!」
 笑いながら剣をかいくぐり、セスはチラリと下方の死神長たちを見た。
「さて……こっちは俺がなんとかするぜ。そっちが速攻でカタをつけりゃ、何も問題は出
ずに終わる。さっさとしてくれよ、大将!」
 そうして、魂が上がってきたことに全ての者が気付いた頃、死神長と天使長は光り輝く
魂を見下ろし、対峙していた。
「来たか」
「毎回のことですけど、最後は私たちの勝負です。覚悟はよろしい、死神長?」
 神妙な顔で、天使長は錫杖を構えた。死神長も、長大な鎌を手に顔を引き締める。
「手加減は無しだ。来るがよい、しろ!」
「シルフィーヌとお呼びなさい!」
 戦いの幕が切って落とされた。

                 ※

「凄い……」
 死神長と天使長の戦いに、ネルリはそう感想を漏らすことしか出来なかった。輝く魂を
取り巻くように舞いながら戦う二人の周囲に、他の死神や天使はいない。黒い蝙蝠の翼と
白い鳥の翼が羽ばたく度に生み出される力が、何者をも寄せ付けない空間を作りだしてい
るのだ。
 錫杖と鎌が触れ合う度に甲高い金属音が戦場を突き抜け、二人は打ち合っては離れ、離
れては打ち合う。魂に合わせて上昇して行く二人の戦いの空間に巻き込まれるのを恐れ、
白と黒の混ざった戦場が左右に割れていった。
「あれが……死神長様なんだ」
「そうです。魔界、天界……二つを合わせて最も強い人。あのしろでさえ、彼には一度も
勝ったことが無いんですよ」
「強いんだ……でも、死神長様が戦ってるのを見ても、あたし恐くないよ。何だか──」
 弾ける黒と白の長たちの姿に、ネルリは呆けたように呟いた。
「綺麗……」
 くろが頷く。
「それは、あの二人が正しい理由で戦っているからですよ」
「正しい理由?」
「ええ。皆が忘れている理由のために……でも、私には少し辛いです」
 力無く、犬耳を垂らしてくろは呟く。
「あの二人が戦う姿は……過去を、抉ります」
「過去?」
 ネルリが詳しく尋ねようとした時だ。
「いけねえ……天使に渡すな!」
 戦場が割れたために傍観に回っていたセスが叫んだ。ハッとネルリとくろが視線を戻す
と、死神長と天使長の二人はお互いの力で大きく弾かれ、両陣営のちょうど中心に法王の
魂が無防備に浮かぶ形になっていた。
 そこに、再び黒と白の塊が飛び込んだ。バサバサという翼の音が空を埋め尽くし、あま
りに密集したために互いに邪魔になり、全員が魂を見失った。
「く……っ」
 鎌を振り上げた形で死神長が止まる。魔力により皆を吹き飛ばすことも出来たが、それ
は愚かな行為だ。
「魂は……どこだ!?」
「ここ!」
 全員が魂を見失った中、転がり落ちるようにして手元へとやって来た魂を前に、ネルリ
が声を上げた。くろの横を鎌に乗って離れ、魂に向かって手を伸ばす。
「死神に渡すな!」
 天使の誰かが叫び、ゾクリと背筋に走った悪寒に、ネルリは引きつった。それは、今ま
でネルリが感じたことがない、殺気というものだ。それを自覚するよりも先に、投げつけ
られた錫杖がネルリの目の前に迫っていた。
「き──」
「ネルリ!」
 くろが飛び立つが、遅い。
 ネルリが鎌からの落下を覚悟した瞬間、白いものがその視界を覆い尽くした。
 鈍い音。
「あ……」
 ネルリを庇い、背中に錫杖を受けたコルネの小さな身体が、力を失って、落ちた。
 その事実にネルリは気が付くと、
「コルネー!」
 目の前にある魂に振り返りもせずに、鎌を操って落下するコルネを追っていった。くろ
がその後に続く。
 一瞬にして、戦場は静まり返っていた。

                 ※

「これが……答えですわ」
「いいからコルネのところに行け、しろ!」
 冷静に言う天使長に、死神長は苛ついた声で怒鳴った。ピクリと天使長は眉を動かした
が、素知らぬ顔で言う。
「私にはこの場を預かる責任があります。大切な子とはいえ、コルネ一人のために場を投
げ出しては、指揮に関わります。そうでしょう?」
「……お前もいい加減に意地っ張りな女だな。ええい、セス、法王の魂を持ってこい!」
「はいよ」
 誰もが動きを止めた中、死神長に指示されたセスが魂を掴み、天使長の前に差し出した。
「それをコルネに渡せ。──今期の法王の魂は、天使見習いコルネがその手にした。死神、
天使両陣営戦いはここまで! そして、考えるがよい。貴様らが争うのは、何のためだ。
天使に負けたくないからか? 死神に負けたくないからか? 否! 我々は、魂をそれぞ
れの世界へと持ち帰るために争うのだ。各々、神より与えられた役目と私事を混同してい
なかったか、自問しろ。解散!」
 叩きつけるように死神長が言うと、黒と白の塊は困惑したように揺れ、そして散ってい
った。それを見届け、死神長が振り返ると、すでに天使長はそこにいなかった。
「血相変えてコルネを追いましたよ。アーセルの奴も行きましたが、あいつらも相当な親
馬鹿ですね」
「さっさと行けばいいものを……オレが同じ立場なら、すぐに行ったぞ」
「そうでしょうね。じゃあ、俺も行きますよ」
 口振りよりもずっとセスが真剣な顔をしていることに、死神長は行動を許可した。すぐ
にセスは地上に向かって舞い降りていく。
 そして、死神長は青空の中に一人浮かび、より高い場所を見上げて言うのだった。
「神よ。オレたちは再びカルマと戦う日が来ることを覚悟していた。だが、一つだけ願い
がある。カルマを送りつけるあなたに願うのは間違いかもしれないが、オレには他に願う
相手がいないので、あなたに願う」
 祈るように。
「ネルリたちに、あなたの祝福を」


                 2


「ネルリは?」
「ようやく寝付きました。コルネが意識を取り戻したと教えたら、すぐに。よほど気を張
りつめていたんでしょうね」
 魔界のネルリの部屋の前で待っていた死神長に、くろは静かな声で言った。そうか、と
死神長は安堵の息を吐く。
「今回のことは、ネルリには相当ショックだったようですね。コルネとは姉妹のようなも
のですし、そのコルネに庇われたんですから」
「自分の苦痛よりも、か。皆同じだな」
「ええ。愛する者が傷つくのは……誰も、見たくないはずです」
 無表情なくろの顔に何を見たのか、死神長は目を伏せた。
「すまなかったな」
「いえ……天使長と戦うのは、あなたの役目。そして、あなたは相手を憎まず、ただ役目
のために戦っている。理想的な死神……見事です」
「理想的な死神、か」
 死神長は、苦笑を浮かべた。ばさり、と黒衣を広げ、マントに引き込むようにしてくろ
を抱き寄せる。
「かつてカルマを送り込まれた男に言う言葉じゃないな」
「お世辞ではありませんよ。死神の中の死神……それこそがあなたです」
 淡々と、しかしわずかな哀しさを秘めた微笑みを浮かべるくろの、それこそ黒い髪に死
神長は唇を寄せた。ピクリ、と犬耳が動くが、くろが示す反応はその程度のものだ。
「ここでは……ネルリが中に」
「む、そうだな」
 囁くように言ったくろに、あっさりと死神長は離れた。
「…………」
「どうした、くろ」
「妬けました」
「何故怒る、くろー!?」
 珍しく唇をへの字にして去って行こうとするくろに、死神長は追いすがった。
 実は、死神長にも理解しきれていないのが、くろ先生なのかもしれない。

                 ※

 同時刻、天界の天使長の城では、コルネがベッドから半身を起こして窓の外を眺めてい
た。天界には夜というものがないので、窓の外には青空が広がっていた。コルネが大きな
トロンとした目を凝らして見ると、今日は特に多くの天使たちがその青空に舞っている。
「みなさん〜、どうかされたんですの〜?」
「コルネが目を醒ますまでは静かにしていたのだがな。法王の魂を持ち帰ったことを喜ん
でいるのだろう。ここ数回は死神に奪われてばかりだったからな」
 そうコルネに言ったのは、椅子に腰掛けて分厚い本の頁をめくっていたアーセルだ。天
使長の右腕は、銀色の髪を窓の外から吹き込むそよ風に揺らしながら、コルネの視線を追
う。
「まったく……コルネの姿に何も学ばなかったのか」
 コルネは、その言葉が聞こえなかったのか、窓の外を見つめたまま口を開く。
「──ネルリ、どうしていますかしら〜」
「あの子には傷の一つもない。コルネが心配する必要はないさ。それよりも、まだ起きて
はいえけない。さあ」
「はぇぇぇ〜」
 パタンと本を閉じたアーセルに肩を押されて、コルネは再びベッドに横になった。肩ま
でしっかりと冷えないようにしてやり、アーセルは満足して微笑んだ。
「早くコルネが元気になることが、ネルリにとっても良いことだ」
「そうですわね〜。これでネルリがもっとわたくしのことを好きになってくれていると良
いのですけど〜」
「まったく……お前は、それさえ無ければな」
 アーセルが苦笑する。見回せば、コルネの部屋はネルリの写真で埋まっていた。それは
死神長の部屋さえも凌駕する写真だらけの部屋である。しかも、その写真の中にはネルリ
の無防備な裸など、明らかに盗撮したようなものまであったりした。
 コルネは、ベッドの中から天井で微笑む水着姿のネルリにホウッと、うっとりとした息
をつく。
「この部屋にいればすぐに元気になれますわ〜。ネルリがお見舞いに来てくれるともっと
良いのですけど〜」
「それは無理だろう。天使と死神が交流出来るのは狭界の花畑だけだ。天使長様はあの子
に甘いが、決まりには厳しい方だからな」
「そうですわよね〜」
「…………」
 いかにも残念そうにコルネが目を伏せたので、アーセルは一瞬だけ「ネルリを連れてき
てやろうかな」などと思ったが、ちょうど扉が開いたことに、ギクリと顔を向けた。
「て、天使長様!」
「あら、ネルリを連れてきてやろうかな、などと考えていたのですか?」
 鋭い一言と共に部屋に入ってきたのは、巨大な白い猫であった。否、猫の着ぐるみであ
り、天使長だ。猫の口に当たる場所から顔を出し、天使長はその切れ長の目を優しくして
コルネを見る。
「傷が深くなくて良かったです。傷跡も残りませんが……このようなことは、二度としな
いように。良いですね」
「はぇぇぇ〜、申し訳有りません〜」
「それは、どういう意味の申し訳ありませんです?」
「天使長様?」
 コルネの謝罪に対してさらに言った天使長に、アーセルが不思議そうな顔をする。天使
長にじっと見られ、コルネは観念して言う。
「はぁいぃ、わたくしまた同じようなことがあれば〜、同じことをします〜……」
「本当に……呆れたものです。まるで──」
 と、天使長は言いかけ、ハッとして肉球のついた手で口を押さえた。コルネが目をパチ
クリとさせるが、質問より先にアーセルが動いて窓を閉める。
「さあ、コルネはもう寝るように。天使長様、『魂の間』ですが、法王のためにもう少し
掃除をした方が良いかと」
「そうですね。──お休みなさい、コルネ」
「はぁい〜」
 パタン、と天使長は扉を閉めると、廊下の壁に背を預けて小さく呟いた。
「まるで……死神に憧れた、一人の天使のようですよ」

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