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レィディ・カリーシャに関する書片

           「エドワード・ローソンの旅行記」


 その日、私ことエドワード・ローソンが訪れたメランスは、ニューコルディージャー州
にあるほどよい田舎町だった。歴史の深い町の例に漏れず、水源であるクシャラ湖の湖畔
に発展した町であり、その湖の輝きは町を丘の上から見下ろした私の目をくらませた。ク
シャラとは旧信仰の太陽神の名前だとは聞き知っていたが、夏の日差しを照り返す湖の様
子に、私は深い感慨を覚えた。
 わざわざ停車してもらっていた乗り合いバスに戻って、いよいよメランスに至ると、私
はこの旅の出発時に抱いていた、一日一本の定期バスという交通の不便さに対する不満を
自ら恥じることとなった。何せそこは、古式ゆかしい我が魂の故郷の古典風景。遥か海を
隔てた旧大陸で生涯を過ごした我が祖先の肺を満たしたものと同じ空気が流れているかの
ような、時の逆流を疑わざるを得ない趣のある町の姿があったのだ。
 見よ、あの古典様式(バロック)のアパートメントを。見よ、この発展時代(エポック)
に捨て去られた赤土瓦の屋根を。湖畔のなだらかな丘の上に見る名士の館こそ近世の影響
をちらつかせるが、電線の一つも無い馬と牛で踏み固められた道は、その館こそこの土地
の精一杯の背伸びであると私に確信させる。だから私は恥じ入ったのだ。この町には、例
え日に一本であろうとバスなどという無粋な乗り物の侵略は相応しくない。無知の何と恐
ろしいことか。
 だが、無知のおかげで思いもよらぬ驚きを得たことも確かだった。驚きとは知らぬこと、
つまり無知が生み出すものであると常々思い、驚きを克服することを人生の大いなる目標
としている私であるが、こうして驚くたびに、驚きの快感に戸惑うばかりだ。人は、無知
である方がより楽しめるのであろうか? いやいや、そうではない。保持する知識を余人
と交えることもまた、私にとって至上の楽しみであるからだ。
 そのようなことを考えていると、丘の上の館から蛇のように伸びた道の上を、我が意を
得たりとばかりに一頭の牡馬に牽かれた馬車がやって来た。私の前に止まったその馬は、
競走馬種(サラブレッド)に見慣れた目には、無駄に肉がつき足が短い不恰好なものに見
えたが、それを余って充分な力強さを持っていた。何より駄馬とは思えない知的な瞳が印
象的であり、私は即座にその馬を気に入った。御者台についていたのは、着古した薄手の
上下の老人だったが、相棒である馬と同様に賢者を思わせる瞳を持った人物だった。先ほ
どまで乗っていたバスの運転手には気軽に停車を頼めた私だが、この老人にはそのような
ことは出来ないかもしれない。いや、私の要求を先に読み取って、自然と脇道に馬を休め
てくれるのではないだろうか。
 私が想像をたくましくしていると、覆いに囲われた馬車の扉を開き、黒の三つ揃いを着
込んだ娘が姿を見せた。まだ二十歳にも達していない少女が迎えに寄越されたことも意外
だったが、彼女の身に着けた男物のブラックスーツが私にある種のおかしさを感じさせた。
 現代の礼服(フォーマル)でも通じる格好であるというのに、馬車から姿を見せた瞬間
それは十七世紀の礼服、しかもパンツがキュロットである頃を連想させる。少女がそれを
まるで着こなしておらず、夏日に額に汗していたのも微笑ましかった。
 少女は、町の名士であり私の訪問先でもあるエヴァンス家に奉公する、ミラ・マレット
と名乗った。烏の羽のように黒い髪も短く、男装もしているのだが、むしろそれが彼女の
女を際立てていた。例えば、スーツの布を余らせている幅の狭い肩の頼りなさであったり、
ベストを押し上げる胸の膨らみだったりである。男では有り得ないことが、ミラの女を証
明している。顔立ちは生真面目さがにじみ出たものだったが、田舎娘らしい純朴な様子が
気に入った。都会的で場慣れた美女に美辞麗句を並び立てることに飽きを感じてきた今は、
緊張でしゃちほこばったこの娘の方が魅力的に映った。
 ミラに促されるまま馬車に乗った私は、紳士の礼としてミラが席に着くのに手を貸した。
彼女は一度断ったが、再度手を差し伸べると恐縮しながらも私のこだわりに付き合ってく
れた。おお、紳士よ。古き十七世紀の男たちよ。あなた方が海を渡り新大陸と呼んだこの
地で、その生き様は未だ息づいています。
 御者の掛け声と共に馬車が動き出すと、私はミラに許可を求めてから窓を開けた。二人
乗りの車内は狭く、湖のそばとはいえ、その暑さは私にネクタイを弛めさせるほどだった。
私はミラに上着を脱ぐことを勧めたが、彼女は滝のように汗を流しながらも頑として頷か
なかった。
 馬一頭での牽引であったが、馬車は軽快な速度で坂を上っていった。坂の両脇を固める
ようにして民家が立ち並び、個人経営の商店も幾つか見かけることができた。どれも古い
時代の建築様式が興味を引いたが、目を見張るべきはそのどれもが年代物ではない、とい
うことだ。もちろん、どこの町でも見かけるいつの時代の作とも知れぬ老朽化した廃倉庫
もあったが、特筆したいのは民家のほとんどが新しい時代に建てられた古典様式というこ
とだ。だからこそ、私は自分が時の流れに逆行し、かの時代に己の王に謁見するがため馳
せ参じた一人の騎士になったかのような錯覚に陥った。ならば隣に座る少女は、騎士物語
を読みすぎて気の狂った喜劇の騎士ドン・キホーテ。男の格好をした滑稽なこの娘にはそ
れが相応しい。
 含み笑いをしながら町を眺めていたが、強い日差しを嫌って町人は軒先に引っ込んでし
まっていて、あまりよく観察することはできなかった。代わりといっては何だが、坂の上
から左手側に湖を望んだ際、幾つかの小船が浮かんでいるのが見えた。私が興味を持った
ことがわかったのか、横からミラが子供たちが素潜りの遊びをしているのだと教えてくれ
た。
 館に着くと、玄関の前まで馬車が乗り入れられるように作られていた。遠間からの見た
目だけが近代的という予想は当たっていたようで、館には馬小屋が隣接していた。資産家
の証として馬を揃える時代はとうの昔に過ぎ去り、その位置に自動車が置かれるようにな
って久しい。
 それにしても、エヴァンス氏の館の広大なことには畏れ入る。広陵とした丘の上を丸々
使ったその場所には、母屋の他にも前述の馬小屋、年季の入った焼却炉、美しく竜や騎士
の形に刈り込まれた庭木の美しい庭園、それから用途のわからない小さなホールほどの建
物が見えた。ついでに呆れたことは井戸の不在であり、もちろん水道も無いだろうこの町
では、湖から飲み水を汲んでこの坂の上まで運んできているということだ。その作業には
何頭もいる馬たちが活躍しているのだろう。
 御者の老人にチップを渡そうとして断られ、ミラに案内されて館の中に通された私は、
不覚にもまたしても心を時の旅へと誘われるはめに陥った。なんとも時代遅れなスロフ朝
風シャンデリア。なんとも時代遅れなミレー風の階段装飾。このカーペットはかの巨匠ラ
ミレーの作ではないか。大はそれとして、細部まで調べれば床の塵一つでさえ歴史を感じ
ないではいられないだろう特異な空間である。しかし、下手な好事家の時代も不揃いな悪
趣味な館とは違い、この館には一目見て美しい統一感があった。どれも同一の時代に並べ
られるものであり、エヴァンス氏の祖先が海を渡って来た際に持ち込んできたものである
と容易に想像される。真なる良品は量産品など比べ物にならないほど長持ちするが、数百
年を越えたこの調度たちを守り抜いた氏の系譜に私は尊敬の念を抱かずにはいられない。
 先導するミラに続いて応接間に通されると、私は「サン・バルステロの虐殺」で王朝の
失われる激動の太陽王国に活躍したスレイニーの晩年のデザインが窺えるソファに身を沈
めて、この館の主を待った。氏とは、私の奇矯ぶりを聞き及んだという彼と、数度手紙に
よるやり取りを行っただけの間柄ではあるが、その正確な筆致に表れる几帳面な性質や、
引用には必ず注釈をつける慎重さ、文中に登場する私が興味を持ちそうな史料などの入手
方法まで記してくれる細やかな心遣いを、私は氏として受け取っている。そして、文通に
て得た印象が大きく外れた経験を私は持たないので、二年来の遠い友との会見に私は胸を
躍らせて挑んだ。
 しかし、結局期待は叶わなかった。友人は急な仕事で遥か旧大陸のセーラムに赴くこと
になり、今朝にはすでに館を後にしていたのだ。その事実は私を落胆させたが、氏が残し
た謝罪の文を読むに至り、それは興奮に変わった。氏がかの聖都に足を運ぶ理由は、当地
の知人にかねてより探してもらっていた、エヴァンス家の秘跡が発見されたからだそうだ。
エヴァンス家がかつて神の威光を掲げ異教徒と戦った、勇敢なる十字軍の長であったこと
は知らされていた。十二世紀当時に建造された騎士団の砦のうち、エヴァンス家の建てた
ものは長らく行方知らずになっていたのだが、事業に失敗した名士が手放した幾つかの家
具からエヴァンス家の印が見つかり、そこからついに秘密の場所へとたどり着くことがで
きたというのだ。
 時を経て祖先の遺したものを氏が受け取る機会を得たことを私は素直に喜んだし、手紙
の中に私ならば必ず我がことのように喜んでくれるだろう、と書かれていたことには思わ
ず声を出して笑った。まだ見ぬ友人もまた、私の人となりを少ない手紙のやりとりの中か
ら読み取っていたようだ。
 手紙にはさらに、私さえ良ければと前置きをして、主不在の館の管理を願う意思が書か
れていた。彼の一人目の妻との間にできた息子はすでに成人しており、実業家として成功
を収めているが、館の財産の文化的価値を売り物にしようと考えているので、この役目に
は相応しくない。また、二人目の妻との間にできた娘はまだ幼く、長い航海の旅とどれだ
けかかるかもわからない秘跡の調査につき合わせるのは不憫であり、信頼できる奉公人の
ミラと共に館に残していくが、その教師役としても私ほど適した人材はないこと、などが
したためられていた。
 さすがに躊躇ったが、最後に添えられていた、滞在中は氏の蔵書を自由に閲覧して良い
という一文に、してやられたと思った。なんと、庭に見えたあの謎の建物は、丸々氏の蔵
書を収めた書庫だというのだ。駄目押しに一度は目を通したいと思っていた書名を並べら
れては、この用意周到な理解ある策士の思惑に乗らないわけにはいかなかった。
 氏の要望を快く承諾する旨をミラに告げると、件の娘と引き合わされた。男装の少女に
連れられて現れた少女は、何とも挑戦的な目つきをしていたが、私を見るとすぐに驚きを
露わにした。挨拶よりも前に年齢を尋ねられたのは不愉快だったが、私よりも先にミラが
少女をたしなめた。私の答えた数字に、少女は自分の年齢と倍しか違わないと言って、私
を老齢の氏の友人本人であるか疑ったが、二三の身分証明をすると引き下がった。そして
無礼を詫びると、スカートの裾をつまんで膝を折る完璧な作法で挨拶し、改めて自己紹介
をした。
 彼女はアルフレッド・エヴァンスの娘、カリーシャ・エヴァンスと名乗った。初めの印
象とは違い、カリーシャは理知的で礼儀を知る少女であり、あの一瞥は些細な誤解があっ
たのだと肩身を狭くした。少し話してみると、十の歳を少し出ただけのこの少女が、驚く
ほど古式に通じているのがわかり、私は氏の教育の確かさに感心した。同時になるほど、
古式に偏り過ぎて現代に必要な知識が足りていないのも事実だった。それら双方を教えら
れる者となると、自惚れではないが至近には私の他には氏ほどしか思いつかない。そして、
無知なまま信頼の置けない者に任せられないのも頷けるくらいに少女が美しいのも確かだ。
 例えるなら、同量の金と等価にすらなるだろう細く長い髪。色は混じりけの無い黒で、
他のどのような色よりも印象的だ。緑柱石よりも透明度のある緑の瞳は大きく、生き生き
とした生命力を感じさせる。控えめな瞳を美徳とする声もあるが、私はその強い光を好ま
しく思う。肌の白さなど、手入れに余念の無い貴婦人たちが終ぞ得ることができない、高
山の白雪のよう。健やかに伸びた手足は未だに棒のような細さであったが、そこばかりは
見慣れた子供らしさと思い、むしろ安堵を覚えた。氏がどのような意図を持って、奉公人
と娘の衣服を定めたのかは計り知れないが、好対照と評価できる程度にカリーシャのドレ
スは少女的かつ異端的だった。肩の膨らんだ袖の短いブラウスは、彼女の黒髪になぞられ
たかのように黒い。胸から腰まではやはり黒いコルセットによってしっかりと締め付けら
れ、腕は黒い長手袋。スカートにはふんだんにフリルを使い、広がりがあるというのにそ
の丈は膝にようやく届くといったところ。足には股まで届くニーソックスで、小さな爪先
を包むのもやはり黒いレースを編みこんだ靴であった。このように書いていくと、まるで
彼女が黒尽くめのようであるが、少女自身の肌の白さ、複層構造のスカートのフリルの白、
果ては靴、手首、コルセット等に散らされた白いリボンが、単調になりがちな衣服の色を
引き締めていた。明らかに古典のドレスを我流に作り変えてありながら、本来の豪奢な気
品を失わずに保つこの服装を表す語彙を私は持たない。古典式ではないので、古典風とで
も言うのか。色合いをシックに抑えながら、少女的な美しさの探求に挑む意欲的な様は、
一種求道的な部分も見て取れる。一昨年その中年男の少女愛を描いた内容から出版が許さ
れず、私も愛読する同好紙ナックラーヴ・サービスの紙上でのみ連作されたエイゲ・シュ
バーコフ氏の傑作によって知識人の間に流行する表現を用いるなら、古典風少女服(ゴシ
ック・ロリータ)と名づけるのが良いかもしれない。ともあれ、帰結すべき結論はカリー
シャなる少女が一定以上に魅力的であるということだ。
 彼女の自己紹介が終わると、次に私はカリーシャの質問攻めにあうことになった。その
質問の多くはたわいなく、ナックラーヴにある私の住まいのことであったり、私の友人関
係についてであった。彼女は子供なりに、自分が託された相手が果たして善人であるかど
うか見極めようとしているのだ。もし私が下賤で邪な男であれば、幼い娘の質問の意図を
理解した上で、彼女の望むもっとも安心する答えを返し、その信頼を安易に勝ち取ってい
ただろう。しかし私は、彼女が眉をしかめるような内容の答え、私が学に触れる機会の得
られなかった者を哀れみ、また機会を得ながらその深遠の入り口にさえたどり着けなかっ
た者を意識的に軽んじる傾向にあることなども、正直に隠さずに伝えた。私が己の知識欲
を満たすためならばある程度の違法行為、例えば禁書とされている、狂気の詩人リッチ・
モルクの【深海に潜む魔王の詩】。キャンドル・エイネの【エイネの禍言】。その他の危
険極まりない魔導書の類にも目を通していることもだ。そして私がそうした行為に恥ずべ
き気持ちの無いことを明言し、その上でそれらの魔性に憑かれることなく、純粋な趣味人
であり続けていることを理解してもらえるよう願った。最終的に誠意は通じ、カリーシャ
の表情はよりやわらかいものになったようだった。ただ、今度は私が色々と質問して良い
と言われたのを辞退すると、彼女は子供らしく不満そうに頬を膨らませた。何せ、私は彼
女に質問された際に、好きなものを答えれば少女も自分はこれが好きといちいち反応して
くれていたので、質問を探すのにも苦労したくらいだったのだ。
 そうした儀式を一通り済ますと、ミラによって館内を案内された。その間に私の受けた
衝撃は、語り尽くすことができない。現代風の服装で歩く私を包み込む、懐広い旧大陸の
育んだ芸術品たち。名画を並べてみせる美術館は数多くあるが、同時代の様式で作られた
館の中で見るそれらは格別だった。いや、まったくの別物であった。そうか、ダンの描い
た庭とは、この壁越しに見えるものだったのだ。見ろ、マッケネンの水辺を模した壺は花
を生けるためにあったのだ。
 あてがわれた部屋も、充分に満足がいくものであった。一番上等な部屋を用意してくれ
たらしいが、それよりも書机と空の本棚があることが、館の主の私への最高の心遣いだ。
ただベッドのシーツと、テラスに通じる広い窓のカーテンが取り付けてなかった。ミラの
話によると、私の好みの色を用意してくれるという。いたせりつくせりとは、このことだ
ろう。
 館に住んでいるのは四人で、主のアルフレッド、娘のカリーシャ、奉公人のミラ、馬車
の御者であり庭師を兼ねるモラード老だけだという。広い館が寂しくなる人数だが、通い
のコックや掃除女たちが町からやってくるので、人の声に枯れる日は無いようだ。町の子
供たちの来訪が禁じられているのは、氏が子供嫌いというわけではなく、一度貴重な調度
をこっぴどく破壊されたことがあるからだそうだ。それ以来、子供たちの親の方で注意し
て、この価値の高い館から彼らを遠ざけている。そのような事情は、この部屋で静かに読
書に励むには好ましいことに思えた。そして私のまずすべきことは、最大の関心である書
庫に赴き、そこから今夜褥を共にする本を選び出してくることであった。
 大人気ないが、渡り廊下で繋がった書庫に向かう間、私の足は実に早足であった。少年
の時分、憧れた十五も年上の貴婦人のもとへ、待ち受ける運命も知らずに初々しく愚かに
急いだあの頃のように、小走りなミラの手を取って進んだ。ミラが困惑し、私の横顔と掴
まれた手の間を、何度も視線で往復させているのにも気づいていたが、敢えてそれは無視
した。さあ、共にいざゆかん道化の騎士よ。風車を怪物と信じ馬で突撃し、晩年それを思
い出しては恥じ入り死にゆくその日まで。書庫の真新しい扉の前に、呆れた顔のカリーシ
ャを見つけなければ、私はそのまま踊りだしていたかもしれない。だが、少女の姿は私に
大人の良識を思い出させ、気まずい咳払いを一つして歩く速度を落とした。ミラの手を離
す必然性は感じず、驚かせた無作法を謝罪する意味も込めて、最高の女性をエスコートす
る要領で彼女と共に進む。突然うやうやしく扱う私に、ミラは戸惑うよりも先に照れを見
せた。噂になるほどの私の奇矯さに呆れられるかとも思ったのだが、それ以上に彼女は初
心(うぶ)なようだった。可愛らしく思う。
 私の趣味を聞き先回りしていたカリーシャを交えた三人で書庫に入ると、私は歓喜の声
を噛み殺すのに苦労した。その場所の馴染み深いくしゃみを誘発する空気の匂い。壁とい
う壁を埋め、吹き抜けの二階層となった書庫を彩る本棚の数。整理も完璧と見え、それぞ
れの棚には識別標が貼り付けられている。しかも、そこに並ぶ書名ときたら、有名な辺り
でコールマンの【新世界への旅路】、ゲヘナの【南北における原住民の生活様式の違いと
その原因】、オルガノの【東洋・竜の島】。禁書を挙げるなら、ポーの【蛇の王冠】、ド
ヴォルクの【狂人のための覚書】、ペイパーの【教会魔術】、もちろん前述したモルクや
エイネの著作もあった。何より期待していた古典時代の雑書の揃えが素晴らしい。著名な
作家のものではなく、同人紙的に書かれたものや、当時の新聞などが原本でここにはある
のだ。飛び込むなり本棚に張り付いた私を、カリーシャが父にそっくりだと評したが、そ
れはおそらくその通りだ。私たちは同好の士なのである。
 晩餐の用意ができたら呼びに来るというミラがカリーシャを伴って出て行くと、私は溜
め込んだ喜びを吐き出すように感謝の言葉を呟いた。それは「ベルーネ・ラッセル・ラッ
・ラッ」というもので、一つの不運の間に二つの幸運を得られた、ありがとう、という意
味だ。また、気がつけば、書机の上にこの場所の鍵が置いてあった。信頼の証として受け
取っておくことにする。そして私は、今夜の友を選ぶのにも困難な名書の森の中で遭難し、
ミラが呼びに来るまでの間、贅沢な悩みを抱えて苦しんだのである。
 晩餐は、贅をこらしたものではなかったが、田舎らしい素朴な味わいが香辛料に慣れた
舌に新しかった。主が老齢のせいか、塩味も抑え気味で、育ち盛りのカリーシャには物足
りないのではと思ったが、彼女は生まれた時からこの味つけで育ったから問題ないという。
特に美味に感じたのは庭の釜で焼いたというパンで、これは御者のモラード老の作であり、
これほど味わい深いパンを私は食べたことが無かった。合わせた冷たいコーンポタージュ
もコックの最新の注意が伺える一品で、メインの香草を抱いたローストビーフもそのまま
一級のレストランに並べても良い出来栄えだった。それらのものに舌鼓を打ちながら観察
したところによると、やはりカリーシャの作法は完璧だった。その点に関しては、私がと
やかく言う必要はなさそうだ。ミラは、奉公人の常として一緒に食事を摂ることはなかっ
た。
 食事の後は、書庫に駆け込みたいのを我慢して、今後のことについて語り合った。私は
一週間ほどの滞在しか想定していない荷物だったし、物書きの仕事をしている以上、契約
している出版社に住居の移動を伝えなければならない。しかし、聞けば例のカリーシャの
腹違いの兄が、どこで主の不在を聞きつけてやってくるかもわからないので、できれば町
を離れないで欲しいというのがミラの言い分だ。生真面目な顔に不安を滲ませた様子に、
私はさすがに女二人と老人一人だけを広い館に残すのは危険だと納得した。しかも、一人
は子供であるが、この二人は充分に魅力的な容姿の持ち主たちなのだ。詳しくは知らない
が、麓の町にも彼女たちを想う男は十指に余るだろう。
 結局、私は一時の帰宅を諦めた。同じ町に住む弟にことの次第をしたためた手紙を書き、
それを明日乗り合いバスの運転手に頼んで最寄の郵便局から届けてもらうことにする。仕
事に必要なものや、貴重な本の郵送も同時に手配する予定だ。
 やがて客である私から入浴を済まし、ガウン姿で与えられた自室でくつろいでいると、
すでに部屋に引き上げたはずのカリーシャが、ワインのボトルを片手に訪ねて来た。彼女
は私のグラスに一杯分、自分のグラスに三分の一杯分だけ注ぐと、たしなみでしょうと確
認を取り、私が頷くのを待ってから口をつけた。しかし呆れたことに、彼女は持参したワ
インを咳き込んで無駄にし、残りを私に押しつけることになった。飲酒経験はなかったら
しい。それから、少し話をした。彼女が聞きたがったのは他の町の話で、特に何が時代遅
れで何が新しいのかを気にした。それは子供ならば抱いて当然の好奇心であり、絵に描い
た田舎町で成長した少女には、私の拙い語りでも充分に刺激的だったようだ。しばらくす
ると、まだスーツ姿でいたミラが、部屋にいないカリーシャを探してやって来て、幼い少
女に夜中に男の部屋に忍ぶはしたなさを説いた。賢しいカリーシャは年齢を盾にとって居
座ろうとし、追い詰められたミラを助けるために私は子供は寝る時間だと告げた。
 長い一日は、そうしてようやく静寂を得た。追記するならば、この夜寝所に持ち込んだ
のは、偉大なる教育の父ラミレス・ウォードの【紳士淑女に宛てた手紙】の初版本であっ
たということだ。


 見慣れない天井を見つめて朝を迎えるのは旅の醍醐味だが、これからしばらくは、この
朝目にした天井を友にすることになる。翌朝目覚めた私は、階下に複数の人の動く気配に
部屋を出た。すると、朝食を運ぶ三人の中年の婦人を見ることができた。昨夜も晩餐の用
意をしてくれた婦人たちで、その料理の腕前には早くも一目置いている。挨拶もそこそこ
に、私は身支度を整えることにした。
 食堂に入ると、まだカリーシャもミラもいなかった。カリーシャはともかく、ミラは彼
女の生真面目な性格上、常に主よりも先に目を覚まして身支度を整えているはずだと私は
考える。果たしてその通りで、朝やってくる優秀なコックたちのために門を開くのは、ミ
ラの仕事なのだという。婦人たちに聞けば、彼女は氏の二人目の妻の遠縁に当たり、カリ
ーシャが生まれる前からこの館に住んでいるという。何とも遠い縁ではあるが、妻亡き後
も氏は天涯孤独のミラを放り出すようなことはしなかった。我が子と同等の教育を与え、
カリーシャのそばに置いたのは、自分の老い先の短さを感じてのことだろう。また、話好
きな婦人たちは私にも興味を示して質問を投げかけてきた。その多くは昨夜受けたものと
似通っており、愛想良く答えておくことにした。
 ミラに伴われてカリーシャが食堂にやってくると、朝一番の楽しみが始まった。町の農
家が運んでくる新鮮な夏野菜の、陽光と大地に育まれた瑞々しさ。取り皿をいくつも用意
し、各種のドレッシングを試せる心遣い。人参と玉葱のスープは胃腸を活性化させ、もち
ろん例のパンが食をさらに進めさせる。そのような躾なのか、食事中はカリーシャは一切
私に話しかけることはなく、物足りなくなった私は給仕として立つミラに本日の予定を確
認した。乗り合いバスがやってくるのは昼を回ってからで、それまでは町を散策してみよ
うというのが私の考えだ。
 馬車を用意するというのを断って町を見下ろす丘を下りていくと、クシャラ湖畔のメラ
ンスの町の時代錯誤なたたずまいを堪能することができた。眼福とはこのことだろう。幾
度か夢に見た、旧時代の素朴な街並み。例えば、セーラムのような大きな都市が旧建築を
残すことはよくあることだが、こうしたささやかな田舎町が最低限の利便さすら捨てて古
式を残すのは、珍しいことだ。発展に取り残されたのか、それとも、この趣を愛する人た
ちこそがこの場に集まったのか。案外両方かもしれない。
 昨日よりは陽射しが弱いためか、町には人の流れがあった。店の軒先を覗き込むと、閉
じた町らしく売られているのは雑貨や食品が中心だった。聞けば、各食品を作る工房も同
種につき一軒二軒しか存在せず、しかしそれで全体の需要がまかなわれているという。人
口は約八千人で、半数ほどが六十歳を越えている町であり、わずかな働き手が農業と漁に
勤しんでいる。机上での仕事に就く者が少ないせいか、見かける若者は皆体格に恵まれた
者が多かった。驚いたのは識字率の低さで、全体の九割は文字の読み書きができない、も
しくは不自由がある、ということだった。そのような場所であるから、余所者である私は
歓迎されないのではという一抹の不安もあったのだが、町の人々は概ね私に好意的であっ
た。アルフレッド・エヴァンスという人物は大変親しまれているらしく、その客分である
だけで私に親切にしてくれたのだ。私も帽子を脱いで、でき得る限りの気さくさを持って
対応した。好意的でなかったのは一部の男たちで、その視線に嫉妬を見ることができたた
めに、だいたいの理由は知ることができた。
 町は平地ではなく、湖を底辺として、エヴァンス家へのゆるやかな坂を上る形で形成さ
れている。散策してみたところでは、坂に面した場所では幾つかの段に分けて建物が建て
られ、裕福な者が多い。一つの段に一つの血族がまとまって暮らしているのが、表札から
見てとれた。識字者の大半もここにいる。変わって、町の下の方では密集するように小さ
な民家が連なっている。家と家の間の路地を通れば、そこがすぐに別の家という有様だ。
一つの家屋に住む人間の数は少ないらしく、子供が成人すると別の家を建て、そこに住ま
わせるという。古式とは違うそうした風習も、民俗学もかじった経験のある私には興味深
かった。ここでは、子供は成人すると即座に親から切り離されるわけだ。
 湖に寄ってみると、だいたい一周一マイル半ほどであることがわかった。岸には小型船
が多数停留されており、昨日見かけた子供たちの素潜りの遊びに使われていたものと同じ
に見えた。帆も無く、完全にオールで漕ぎ出す仕組みのものだ。魚くさい匂いが、生活感
を感じさせる。
 そこで面白かったのは、漁を営むチャールズ・ウッズ青年との出会いだ。私がささやか
な港に近寄った際、彼はちょうど船から下りたところで、無口な彼は私に会釈すると立ち
去ろうとした。私が目を留めたのは、彼が一切漁の結果を手にしていなかったからで、尋
ねると立派な体躯に似合わぬボソボソとしたしゃべり方で、湖の上で昼寝をしていたと答
えた。なるほど、船の上で波を感じながら昼寝とはまた風流であり、どことも知れぬ場所
に流される可能性もある海ではできない遊びである。さっそく私が体験を懇願すると、彼
は私の言葉に困惑したようだったが、結局は彼の船を提供してくれた。大人二人が乗れば
手狭な船に横になり、青空と波の狭間に置かれた私は、湖の中心で視野に人造の建物の一
つもない世界を堪能した。空しか見えないため、船の動きは感じる揺らぎで把握するしか
なく、もし一人であれば不安で起き上がってしまっていただろう。だが、経験豊富な漁師
であるチャールズ青年がいたため、私は安心してまどろむことができた。私のことを変わ
った人間だと言う彼と話すと、私はすぐに彼の持つ高い教養に気がついた。彼は敢えて無
口を装っていたが、言葉の端々に知り得た知識を語りたがる学者のような気配が感じられ
た。実際彼は私が会話に混ぜた難解な言い回しや、皮肉、冗句などにも反応し、抑揚の無
い声で対応した。興味の無い振りをしているが、私の存在を彼が気にしているのは確かだ
った。新しい友人の予感に、彼の家の所在を尋ねると、彼もそれを待っていたかのように
一つの住所を告げた。また、彼も坂の上の館の住人に関心があるようなのでミラの名を挙
げてみたが、どちらかというと彼は幼いカリーシャが好みのようだった。もちろん、例の
ボソボソという話し方で、彼自身は隠していたようであるが。
 それなりの成果を得て館に戻ると、カリーシャが柳眉を逆立てて私を待っていた。どう
やら、彼女は自ら町を案内するつもりだったらしい。だが、そうなればエヴァンス家に関
する忌憚無い意見を人々から聞き出すことはできなかっただろう。少女をなだめて自室に
戻ると、すぐにミラが冷水の入った桶を用意してくれた。ありがたく身体を拭かせてもら
ったのだが、背中を拭く際にミラが手伝いを申し出たのには困った。彼女自身そうした機
会は多くないらしく、客といえば氏と同齢の老紳士ばかりであったので、若い男の肌に恥
じらいを見せた。結局、彼女の手を借りることにしたが、恐れるように手早だったのがお
かしかった。彼女はそれが無礼になったかと心配したが、私は正しく誤解を解いた。しか
し、できれば緊張をやわらげて欲しいとも付け足した。
 昼食の段になると、私は午後一番に出さなければならない手紙を用意していないことに
気がついて、カリーシャとは別に摂ることにした。意外なことに、カリーシャは私の滞在
が氏の無理な希望であることを証明する書状を書き終えており、一緒に弟に送って欲しい
と渡してきた。この気配りは、氏の教育の賜物だろうか。急ぎで必要な手続きを記した手
紙をしたためると、私はモラード老に馬車でバス停まで届けてもらった。
 それで憂いは無くなったと思ったのだが、食堂ではすでに食べ終えたカリーシャが待ち
構えてた。淑女らしく笑顔で嫌味を向ける彼女に、私は散歩に時間を忘れたことを謝罪す
るしかなかった。それから私はミラを誘って二人で食事を摂ろうとしたが、彼女はやはり
頑として受け入れなかった。美味なはずの食事が味気なく感じられたのは、華の不在に違
いない。親睦を深めるためには、できるだけ多く彼女たちと食事を重ねようと思った。
 午後になり、カリーシャの授業を始めるに先んじて、私は彼女の修学段階を探る幾つか
の問いをした。国語や歴史などについては年齢としては優れすぎているほどなのに、数学
などの数字計算の分野に関しては、酷く未熟であることを知ることができた。今後しばら
くの主な授業を数学と決定すると、カリーシャは目に見えて嫌な顔をしたが、そこは生徒
の従順さで従った。逆に、興味本位で試してみたが、ミラの知識は数字計算や経理の方面
に偏っていた。館の主の描く将来像が見えるようだ。
 子供に基礎的な知識を教えるのは初めての経験だったが、教職の知人の話を聞いていた
限り、カリーシャは優秀な生徒だった。私語を控え、与えた課題には文句無く取り組み、
目を離しても怠けるようなことはなかった。ただ静かなわけではなく、難解な箇所を質問
するのに躊躇わない向学心も持っていた。
 一回目の授業を終えると、私は素直にカリーシャを褒める感想を述べた。彼女は得意そ
うに淑女の礼で応えてみせた。その背伸びをした仕草を見れば、余人は格式で塗り固めら
れた厳しい教育を連想したかもしれないが、彼女に関してはそのようなことはなかった。
礼儀を習得しながらも、カリーシャは子供らしい部分も失ってはいない。それも氏の方針
だろうか。カリーシャやミラ、町の人々と接すると、未だ見ぬ歳の離れた友人の姿が垣間
見えてくる気がする。
 さて、夕飯を終えると、待ちに待った読書の時間だ。預かっている鍵で書庫を開けると、
私は使い込まれた安楽椅子に身体を預けてしばし古紙の手書きの文字に酔った。サン・テ
モン寺院の僧侶が収賄。まったく、いつの世も人の心は変わらない。マッケンニー夫妻が
事故で死亡、調査中。歴史に残らぬ人の名を見つけては、黙祷を捧げる。当時の著名人が、
そうでない者が、どれだけの者が、この新聞を見たのか。空想を飛躍させ、新聞執筆者の
聞き込み調査。後に偉業を達成する工房の新人を訪ねる。数年後には、その少年が近隣で
は知らぬ者の無い芸術革命を起こすことを彼は知らない。
 読書を楽しんでいると、いつの間にか書庫にいたカリーシャが、チェスの盤を見つけて
勝負を挑んできた。片手間に相手をするつもりだったが、小賢しい手を打ってくるので、
思わず熱中してしまった。チェスとはいかに効率よく手駒を捨て駒にし、相手の王を討ち
取るかを競う遊戯だ。だというのに、彼女には兵士を軽んじ、女王のような強い駒を庇う
癖がある。どれも王の前には等価で捨て駒であることを理解しない限り、私には勝てない
だろう。そう説明すると、彼女はミラを連れてきて、私と勝負させた。侮った私に舌を巻
かせる巧みさで打つミラに、私は惜敗した。我がことのように喜ぶカリーシャに、私は改
めて彼女の幼さと愛らしさを確認した。ミラに雪辱戦を挑んで勝利を収めたのは、言うま
でもないだろう。


 未だ見慣れぬ天井を見上げて目覚めた三日目の朝、若い陽射しがようやく現れ始めた頃
に寝床を抜け出した。懐中時計で行き帰りの時間を定め、散歩のために階下に下りると、
浴室から音が聞こえて私は足を忍ばせた。ノックをして誰何すると、案の定ミラであった
ので、慌てる彼女を私は散歩に誘った。しばし逡巡したが、ミラは仕事が始まる前であれ
ばと了承した。
 浴室から出てきたミラは、常通りの三つ揃い姿だった。しかし髪は濡れ、女らしい香料
の香りが漂っている。ふと気になり、彼女の頭を引き寄せてその髪の香りを吟味すると、
彼女に胸を押されて引き離された。即座に無礼を詫びたが、彼女は外で待っているとだけ
言って走り去ってしまった。己の失態に後悔しながら、私は香りに思いを馳せる。それは
銀木犀の香りで、かつて憧れた女性の香りだった。
 館の前で待っていたミラは、平常を取り戻していたが、私は気まずいものを感じた。な
ので、場を和ませるためにもわざと冗長に馬を借りたい旨を申し出た。彼女は理解できな
いまでも客である私の意向に沿って、馬舎の馬を一頭貸してくれた。私は乗馬倶楽部で学
んだ通りに鞍を取り付けると、ミラを馬上に誘い、遠慮する彼女をやや強引に引き上げた。
そして、改めて侘びを入れ、銀木犀にまつわる私の思い出をほのめかした。賢い彼女はそ
れで納得したらしく、私の胸も晴れた。だが、どのような女性にもこのように礼を尽くす
のかという質問に肯定を返したのは失策だったらしく、可愛らしい不満を残すことになっ
た。
 私が馬で目指したのは、朝の湖だ。早朝ということもあって、まだ夏の暑さはこの水辺
にたどり着いていない。船を操縦できるかとミラに尋ねると、肯定的な返事があったので、
エヴァンス家で所有している小船で湖上に乗り出すことにした。一人であれば周囲を歩く
程度で済ませようと思っていたので、ミラの技能には感謝した。早い時間は魚たちも活発
なのか、浅い場所に多くの魚影を見ることができた。オールを動かす彼女の姿に、男とし
ての矜持が力仕事を求めたのだが、危険だからと断られた。そこでの私はただの初心者で
あり、私の命運はミラの細腕にかかっているのだ。若き王を救い出し、聖女とさえ言われ
た勇敢なる女騎士。その最後は魔女と呼ばれ火にくべられるとは、哀れの極み。だが見よ、
歴史はそれを悔い、今再び彼女を聖女と崇める。正しき者は、いつか必ず正しきとされる
のだ。そうしてミラに伝説の少女を被せ、私はしばしの遊覧を楽しんだ。
 館に戻り馬を下りると、私はミラの手の甲に口接けし、女性に礼は欠かさないが、共に
馬や船に乗った女性は他にはいないことを主張した。ミラは無言だった。代わりに囃し立
てたのはコックの夫人たちで、彼女たちの相手という困難な役目をミラに押し付け、私は
早々に部屋に逃げることにした。
 三日目ともなると、館の中をゆっくりと見て回る余裕も出るもので、昼食後のカリーシ
ャの授業を終えると、私は興味を町から寝泊りしている建物に向けた。さし当たってと刈
り込みの美しい庭に出ると、ロト族の英雄アシュバルが竜に向かって突撃している場面に
出くわした。正しくは、御者であり素晴らしいパン職人であり、そして庭師でもあるモラ
ード老が、腰までの庭木を竜の形に刈り込んでいた。その巧みの技は見事であり、老人が
無為に時間を過ごしてきたわけではないことを思わせた。他にも騎士や、グリフォンなど
の幻想の怪物が主だった作品だ。静かな作よりも動きのあるものが好まれているのは、田
舎町の退屈を紛らわすためだろうか。羨望を込めて眺めていると、初めて老人が自分から
私に話しかけてきた。私は喜んだが、賢者のごとき老人が口にしたのは、私の心の準備を
越えるものであった。曰く、カリーシャを嫁にもらってくれないか。ミラでも良い。とに
かくこの館の主が命を失う前に、彼女たちを庇護下に置いて欲しい、というものだ。その
真剣な口調に理由を尋ねると、老人はカリーシャの腹違いの兄のことを挙げた。彼は異常
なほどカリーシャの母、そしてカリーシャ本人を嫌っており、このまま主がこの世を去れ
ば、必ず不幸なことになる、と言う。興味を引かれた私は、カリーシャの兄について聞け
るだけのことを聞いた。彼の名前がセルジオであること。現在四十を少し越えた辺りであ
ること。近郊のバーバスの町で金融業を営んでいること。父の好古趣味を毛嫌いしている
こと。中でもカリーシャの首を絞め、ミラが咄嗟の行動に出なければそのまま殺害してい
ただろうという事実が、私を戦慄させた。他の部分を聞けば、父の後妻親子を不満に思う
だけ、田舎の環境に馴染まぬ上昇気性のある男というだけだ。だが、一度だけ及んだ凶行
が、彼の抱く思いがそれだけにとどまらないことを示していた。私が一度家に帰る希望を
出した際に、ミラが不安を見せたのも無理は無い。何が彼にそこまでの憎悪を抱かせたの
だろう。
 庭の観賞のつもりが、思わぬ事情を知らされて、私はミラを探した。カリーシャに話を
聞くのは適さないと判断したからだ。しかし、ミラを見つけた時に、その近くにカリーシ
ャを認めた私は落胆はしなかった。テーブルに昨夜のチェスの晩を挟んで談笑する二人の
間に、余人を交えぬ絆を見出したからだ。例え血を分けた兄がその命を狙っていようと、
彼女には姉のようなミラがいる。それこそが、氏がミラに求めたことだったのではないか
と、この時私は気がついた。だから、私は黙って悩むカリーシャの騎士の駒を適切な場所
に動かしてやることで、その場を終えた。
 カリーシャが眠りにつく時間を確認すると、私はミラの部屋を訪ねた。彼女は極度の緊
張の面持ちで私を招きいれようとしたが、私がそれを辞退して居間での会談を希望すると、
明らかに安堵の息をついた。彼女が私の人となりについてどう考えていたか気になるとこ
ろではあったが、第一の問題であるセルジオについて話題に出した。この件に関してミラ
の口は重く、主の息子を悪し様に言ってよいか悩んでいたが、ついには語り出した。その
内容はモラード老と大差なかったが、一つ違うのは言葉の端々にカリーシャを気遣う以上
に、彼女自身セルジオの脅威にさらされているかのように身を震わせるところだ。そこの
ところを追求し、ミラが告白することを聞いて、私ははっきりとこのセルジオなる人物を
嫌悪した。その類のことは、私がこの世でもっとも憎むことであったからだ。青いまま終
わってしまった、私の若い恋の顛末と重ね合わせていることもある。私の剣幕に驚いたの
か、ミラはそれが未遂であったことを繰り返したが、この腹立たしさは収まりそうもなか
った。その罪は近いうちに贖わせることを、私はミラに約束した。
 夜も深まり、館の灯りを落とす彼女を手伝ってから部屋まで送ると、私は就寝の挨拶に
彼女の手の甲に唇を寄せた。男装の少女と自分の姿を省みて、見知らぬ者が遠目に見れば
どう思うだろうかと想像するのも楽しいことだ。
 この夜の憤りを冷ますために寝所に持ち込んだのは、ダートリーの【闇に潜むもの】で
あり、この世ならざる外道の蠢きに、私はセルジオの名を思い出さずにはいられなかった。


 そこからの数日は、セルジオなる人物について情報を集めることにした。もちろん、そ
れだけに時間を費やすわけにもいかないので、その活動は午前中の涼しい時間だけに留め、
午後は館の中でカリーシャの授業に力を注いだ。一週間も経つと、集中的に授業を進めた
カリーシャの数学能力は目に見えて向上し、果たして私の子供時代はそうであったかと首
をひねらせる。ませた彼女は、私がミラに紳士の礼を取っているのを見咎めると、自分に
も手の甲への口接けをせがんだり、子供相応のわがままも見せてくれたが、全体で見れば
手間のかからない、理知的な子供だった。
 そんな折、ナックラーヴに住む弟から返事の手紙が届き、私は同包された数冊の貴重な
本を、さっそく新しい自室の本棚に整理した。出版社からの回答も届いており、好古趣味
で売っている私のこの町での体験をかの紙面でのみ発表することを引き換えに、休載を受
け入れてくれた。以上で故郷に対する憂いは無くなり、私は弟に感謝すると共に、バーバ
スで金融業を営むセルジオ・エヴァンスという男について調べてもらえるよう、再び手紙
をしたためた。
 前回と同じく、私がモラード老に配達を願うと、馬車の出発に滑る込むようにしてカリ
ーシャとミラが飛び込んできた。そしてわけもわからない私を押し込むと、二人乗りの馬
車に三人という無茶を冒して、町に下りたのだった。
 その日は、漁師たちが町の子供たちに素潜りを教える日であり、カリーシャは週に一度
のそれを夏の楽しみにしているという。習慣であれば私も文句を言える立場にはないのだ
が、経験も無いというのにつき合わされたのには閉口した。そもそも、私は泳いだことが
ないのだ。屈強の漁師たちや、水に慣れた子供たちの中、一人だけ無様を晒すことになっ
た私は、あわや溺れるというところを例のチャールズ青年に助けられ、九死に一生を得た。
チャールズは例のボソボソという声で私の無謀を叱ったが、私も子供に挑まれて逃げるわ
けにはいかないと反駁した。しかし、これを機に子供たちが私を軽んじ、ともすれば格下
に見ようという雰囲気があったので、私はすかさず漁師たちに湖の規模や摂れる魚の種類、
漁の時間帯などを尋ね、同規模の場所で近年成功を収めた時間差による撒き餌法を提案し
た。これで結果が出れば、信用も回復することだろう。カリーシャは、私が溺れた際には
死人のような青い顔をしていたのだが、命に別状はないとわかった途端、子供たちの先頭
に立って私をからかった。ちなみに、その報復は午後の授業で完了した。
 学問を教え、寝食を共にして思うが、カリーシャという少女は実に自然に古典的だ。現
代のものが現代の作法を前提に古典を学び、それを身に着けるのに対し、彼女は古典の作
法を前提にしており、それに私が現代的なものを教えていく形になっている。ゾッとした
のは、それを意図して氏が彼女を育てたのだとしたら、ということだ。古典に心を向ける
ものならば、自らの子供でそれを体現させる欲求は少なからずある。いや、それは考えす
ぎだろう。これはこの町そのものの性質なのだと思う。この町の住民たちは、古きを愛し、
外の世界を知りながらもここに留まっている。中には外で自分を試してから戻ってきた若
者もいる。そうさせるだけの魅力が、この町にはある。皆があくせくせず、緩やかに、穏
やかに過ごしている。
 そうした和やかな時間を壊したのは、都会的なクラクションの音だった。二度三度と鳴
り響いたそれは、この町にとって騒音でしかなく、自室でくつろいでいた私の神経を逆撫
でした。初めてこの町にやって来た際に、乗り合いバスの少なさを嘆いた自分に恥じ入っ
たように、私はそれが許されざる文明の侵略だと感じたのだ。
 急いで館の前に出ると、四輪自動車が一台止まっており、立派な体躯の中年が待ち構え
ていた。マイニーのスーツに身を包み、肩幅があり背筋の伸びた姿は大きな壁を思わせる。
話に聞いていたセルジオに相違なかった。彼は威圧的な二人の付添い人を連れていたが、
その者たちもまっとうな職についているとは思えない風体だ。私が館の主の代理であるこ
とを説明すると、彼は嘲笑した挙句、自室の使用の許可を求めてきた。私と共に飛び出し
たモラード老は、馬舎からフォークを取り出して、普段の知性を秘めた瞳に憎しみの炎を
燃やして彼を見つめていたので、私はこの館の主の息子を簡単に受け入れるわけにはいか
なかった。しかし、彼は氏から勘当されたわけでもなく、氏の身に間違いがあれば館の第
一の相続者であるのは疑いようもないので、その入館の主張を完全に無視するわけにもい
かない。私は不本意ながらも、彼という人物をより深く知るためにも彼の生家への帰参を
受け入れた。だが、それは彼に限ったことで、付き添いの二人にはささやかな酒宴の用意
をして、外での待機を願うことになった。
 応接間に通したセルジオは、単刀直入にカリーシャの受け渡しを要求してきたが、私は
首を縦に振ることはなかった。彼はメランスの時代遅れや、カリーシャの類稀な器量を理
由に、彼女の住まいを最先端の町へ移すことによる彼女の幸せを主張した。曰く、父であ
るアルフレッド氏は好古趣味に囚われた偏屈であり、カリーシャはその犠牲者なのだと。
しかし、それが詭弁であることは周知の事実だ。腹違いの妹の将来を憂う賢兄の顔の裏に
潜む悪意は、冷徹に市場を見据える金融業者のそれよりも黒く、彼の臓腑の中に渦巻いて
いるようであった。私が騙されないと知ると、今度は私個人に対する買収に出た。私が金
銭的な欲に薄いと知ると、氏の蔵書の分配を餌にした。だがそれは氏の死後の話であり、
私の嫌悪を強める結果にしかならなかった。どのような交渉を持ちかけられようと、それ
を受け入れることは、愛すべき生徒カリーシャの身の危険に結びつくのだ。この時の私は、
例えそれが悪魔の誘惑であろうと跳ね除ける自信があった。業を煮やした彼は社会的地位
を用いての私の排斥をほのめかしたが、それに対し、私も本位ではなかったが、我が生家
の名を挙げざるを得なかった。明らかに彼は鼻白んだが、彼の培ってきた経験が私のよう
な若輩者に怯むことをよしとしなかったようで、無礼を詫びた上で、再度カリーシャの引
渡しを要求した。それまでの兄としての態度を消し去った彼が語る内容は、私に正気を疑
わせるものだった。カリーシャとその母はエヴァンス家に隠された秘宝を知り、それを奪
いに来た賊である。それを撃退するのは主の息子である自分の使命である。そもそもこの
町の起源はその秘宝を守るためのものであるが、町の者はそのことを知らない。エヴァン
ス家の当主のみがその秘宝を目にすることができる、等々。熱を帯びた様子で語ったその
一端には真実があるとも感じられたが、その真実が彼の思い込みである可能性は大きかっ
た。また、その話を前提としても、彼がカリーシャを手にかけようとしたことは行きすぎ
だ。そのことについて攻めると、彼は途端に口を重くした。そこで私は会談を打ち切り、
預かった当主の娘に害意ある者であれば、例え正当な息子であろうとも受け入れるわけに
はいかないことを告げた。感情によらず理論的に判断した私に、セルジオも不満げではあ
ったが了承し、体裁を繕うために自室から幾つかの私物を選んで持ち帰った。去り際に近
いうちの再訪を約束したが、私としては嬉しくない挨拶だった。もちろん、飲酒運転を咎
めて彼の滞在を長引かせるような愚行は犯さなかった。
 そのような急な対決を終えると、張り詰めていた気が弛んで、私は居間のソファに深々
と身を沈めるはめになった。正直な話、彼が私の掲示した拒否の理由に納得する理性的人
物でなければ、荒事に慣れた二人の男によって強引にカリーシャが連れ去られる可能性も
あった。言論とは、それを受け入れる素地のある者にしか意味は無いのだ。直接的な暴力
に対し、私は無力である。
 しばらく、次の訪問が行われた際の対処法について悩んでいると、カリーシャが感激の
面持ちで私の胸に飛び込んできた。ミラも深い信頼の瞳を向けており、私は今回のことで
真に彼女たちの信頼を得たのだと悟った。私自身としても、我が身を張って彼女たちを守
ったことで、一時の滞在先以上の感情を彼女たちに抱いたように思われる。やはり、苦楽
を共にする以上のコミュニケーションは存在し得ないらしい。
 この日は、カリーシャの希望もあって、幼い少女を私の寝台へと招くことになった。少
女の我が侭を、ミラは私に謝罪したが、私は一夜の光栄な騎士役を快諾した。困ったのは
風呂上りの彼女が芳しい銀木犀の香りを漂わせていたことで、白いネグリジェ姿の彼女が
ベッドに潜り込んだ様は、私に過去の出来事を思い出させた。わざわざ寝る前に過度な香
りを身に纏う意図を図り、そのませ過ぎた考えに私は彼女の子供を笑うと、彼女は憤慨し
て私を罵った。だが、そうした彼女の態度が、会見にささくれた私の心を癒し、彼女を寝
付かせた後の読書を豊かなものにしてくれた。そうでなければ、私はその本の妖しい魅力
に取り憑かれていたかもしれない。持ち込んだのは、十九世紀を代表する最悪の魔術師セ
トの【二二二の秘法】だったからだ。


 翌日の午前、私は一つの考えを持って湖畔の家へと足を運んだ。教えられていた住所を
頼りに探すと、家よりも先に湖での昼寝から帰ったチャールズ青年を捕まえることができ
た。彼は陰気を装いながらも私の来訪を喜び、彼の家へと招待してくれた。そこは、都会
の場末のアパートメントの方が、いくらかまともではないかと思わせる、荒廃したあばら
家だったが、外から見た印象よりずっと中は整えられていた。むしろ、内部は壁紙も明る
い都会的な色調であり、さして古くない懐中時計も机の上に見ることができた。それらは
この古典の町とは趣を異にするもので、私の無言の問いかけに彼はついに自分が他の町か
ら移り住んできた者であると明かした。
 彼の語るところによると、チャールズ・ウッズという青年がこの町にやって来たのは、
十三年前のことだという。当時まだ十歳に一つ足りなかったチャールズ少年は、母に連れ
られて、この町の土を初めて踏んだ。あばら家同然の家を借り、母が縫い物をして得た食
物と周囲の厚意のおかげでどうにか飢えを凌いだ。それは裕福ではなかったが、それまで
の転々と移動を繰り返す生活よりは遥かに安定し、居心地の良いものだった。読み書きは
記憶に無いほど幼い頃からできたため、おそらく父か母に学んだのだろうと彼は考えてい
る。ほとんど金になりそうなものはなかったというのに、古めかしい当時の彼には理解で
きない本を多数母が所持していたことから、両親のどちらかがかなりの知識人だったので
はないか、とも彼は予想する。だが、それを確認できる歳になる前に、母は彼を置いて失
踪した。打ちひしがれた少年は、しかしそこでも町の住人の優しさに救われ、一人前の漁
師へと成長することができた。その十数年の間、母の行方の手がかりになるのではと難解
な書物の解読作業も続けていたのだが、そのおかげで彼はかなりの知識を得ることになっ
た。彼に母の残したという書物を見せてもらったが、驚いた。壁一面を埋める本棚を占め
るそれらは、私も目を通したことがある名著禁書が多かったからだ。クックの【法治論】
があるということは、何かしらの団体を率いる立場にあったということか。マギー夫人の
【淑女考】を極めたならば、理想の女性の佇まいであろう。恐ろしいのはヘイレンの【魔
女の礎】であり、この禁書を所持していたのがどのような人物だったのか考えるだけで寒
気がする。そして、私をそれ以上無く興奮させたのは、書名の書かれていない滑らかな皮
張りの一冊であった。人皮を用いたと噂され、わずか十冊を写本されただけに終わった禁
書中の禁書、「神よ、神よ、知られざる者よ」で始まる【無銘聖典】だ。思わず手にとっ
て中を検めようとしたが、その異様な気配に躊躇った。かと思いきや、思い出の旅から帰
ったチャールズ青年は、気軽にその本を抜き出して中の一頁を開いた。わずかに覗いたそ
こから、言葉こそ古めかしいが、それが書かれた十四世紀本来のものとは違う近代の筆を
見た私は、邪悪な威力を発するそれが写本につぐ写本を重ねたものであることを知ったが、
なお消えない外道の香りにより戦慄することになった。チャールズ青年も内容の汚らわし
さを理解しているようで、自らの母は魔女だったのかもしれないと、ボソボソと言った。
私はそうと思い込むことはないと励まし、魔女以外にも禁書をたしなむ者はいることを教
えた。私がそうであるし、かのアルフレッド・エヴァンスもそうだ。すると、彼は氏が禁
書に関しても深い造詣を持っていることを知っていた。狭い町のことであるのでそういう
こともあるのだろうが、たまたま氏と話す機会を得た際に、彼のその隠された知識を氏に
見抜かれたのだという。その辺りは、私の時と同じのようだ。以後、二人は町でもっとも
裕福な者と、もっとも貧しい者という差はあったが、時折その知識を交わしていたのだ。
 彼の知識の背景と、禁書にも呑まれない理性的な頭脳を確認した私は、さっそく彼に訪
問の本題を述べた。つまり、エヴァンス家の護衛として彼を雇いたいということである。
彼が説明を求めたので、セルジオのことについて隠すことなく教えると、彼は激昂してテ
ーブルを叩いた。カリーシャの危機となれば、この男が見過ごすはずがないという見込み
は的中し、二つ返事で協力を約束してくれた。ただ、漁師としての仕事もあるので、早朝
と夕方前後は忙しく、館にいることはできない。謝罪までされたが、私はそれで充分だと
頷いた。少し話したところ、セルジオは第三者が間にいる限り、形ばかりでも会話には応
じる男だ。屈強なチャールズが、町に似合わぬ自動車の音に気がついてやって来るまでの
間くらいは、私の口でどうにかなるだろう。
 話がまとまると、私は館での昼食に彼を誘った。彼は遠慮したが、私はやや強引に彼を
丘の上の館へと連れて行った。予想通り、肉体的な頼もしさを体現する彼を紹介すること
は、カリーシャたちの不安を和らげることに繋がり、特に彼が氏とも交流があったという
事実は、彼の人柄を証明するよりも簡単に彼の館への出入りを認めさせた。私自身も、書
庫でカリーシャたちにはできない会話を楽しむ相手ができたことは、喜ばしいことだった。
 だが、私が対決に用意を進めたというのに、その後一週間経ってもセルジオの再来はな
かった。仕事面で忙しくなったのか、彼自身それほど行動に焦っているわけではないとい
うことだろうか。
 その分、カリーシャの授業は順調に進んだ。当初に定めていた数学の進度の倍を行く彼
女の吸収力に舌を巻きながら、私は新たに近代史を彼女に教えた。歴史に登場する人物た
ちのささやかな逸話や、こっけいな話を彼女は喜び、同時代の人間の意外な繋がりに興味
を示した。暇な時間になれば、早くも兄のように慕うようになったチャールズ青年に手伝
ってもらい、書庫の本を調べるようにもなった。私はと言うと、授業以外の時間は禁書を
開き、簡単な呪術の幾つかを実践できるようになるまで幾度も試行した。もちろん、大そ
れた邪悪な儀式を執り行うつもりはなく、歴史の中に埋もれてしまった、聖とも魔とも言
えない秘術の類だ。例えば、豊作を祈願するセム族の祈りの文句であったり、失せ物を探
すようなささやかなものだ。中には、人間の方向感覚を狂わせる特別な模様の描き方もあ
り、賊の撃退に有用なものは全て学び取るつもりだった。
 また、時間を見つけては、カリーシャやミラと共に過ごすことにした。自室に閉じこも
ることなく居間のソファにいると、膝の上にカリーシャが乗ってくるので困ったが、ミラ
の淹れてくれる紅茶は私好みの渋みのあるものだったし、談笑は素直に心の棘を抜いてく
れた。真面目な眉を寄せてミラが帳簿をつけているのを覗き込み、より効率的な財政を一
緒に考えることや、突然カリーシャが始めた写生のモデルになることも、楽しい出来事だ
った。
 他に特筆すべきこととなれば、ミラまでもが書庫に興味を持ち始めたことだろうか。そ
れまでのカリーシャやミラは、氏が書庫にいる間は館で思い思いのことをしていたらしく、
書庫で遊戯盤で遊ぶようなこともなかったという。だが、ミラは何を読んでいるのか私に
教えてはくれなかった。カリーシャも無粋な質問はしないようにと私に釘を刺すだけで、
女二人の秘密に私は疎外される思いだった。


 さらに一週間が経つと、弟に頼んでいたセルジオに関する調査書が送られてきた。どう
やら、最近事業が不振らしくカリーシャのことにかまっている余裕はないというのが現状
のようだ。しかし、ならば何故、先日は無理を押してまでこの町を訪れたのか。首を傾げ
ざるを得ない。氏からの手紙にあったように、館にある芸術品の歴史という価値を売り物
にしようと企んでいるのであろうか。
 ミラが熱心に目を通していた本が何だったのかがわかったのは、この頃だった。気にな
った私は、彼女が通う本棚に調査を入れ、彼女が本を取るのと入れ替わりに抜き取られた
本を検めたのだ。それはラミレス・ウォードの【紳士淑女に宛てた手紙】であり、私も何
度となく目を通したものだ。十七世紀後半の啓蒙時代に書かれたものであり、勉学の育む
論理的思考力について深く考察がなされている。何かを身につけるために学問することで
はなく、学問することによって普遍的に得られるものがあることを述べた、初めての作だ。
確かに名著であるとカリーシャとミラに語った記憶はあったが、何故彼女がそれを隠れて
読み進めているのかは、わからなかった。
 そのようなある日、ミラは私に前述の本を読んだことについて語り、難解な言い回しや、
それが書かれた時代背景などを質問してきた。私は快く答えたが、彼女はより広い知識を
求め、私はカリーシャの授業と同時に彼女の授業も行うようになった。古典から現代知識
を与えるカリーシャとは逆に、ミラには従来通りに現代知識を前提とした古典を教える。
ミラは勤勉であり、課題とした本を夜通しで読破することも珍しくは無く、時には夜中に
私の部屋を訪れ、鋭い質問をすることもあった。それでいて、彼女は館の誰よりも早起き
することも忘れず、本来の職分を守ったまま、貪欲に知識を吸収していく。それに触発さ
れてカリーシャも次々と課題を求め、教師冥利に尽きると言える。
 だが、無理が祟ったのか、二週間が過ぎた頃にミラが貧血を起こして倒れた。チャール
ズ青年が、未明に行った漁の収穫を館に運んできた際に、門の前で倒れている彼女を発見
したのだ。そのせいでカリーシャが顔面蒼白になって取り乱し、見たことも無い狂乱ぶり
でミラを揺さぶろうとしたので、私は慌ててカリーシャをミラから引き剥がした。むしろ、
その時は倒れたミラよりも、カリーシャの方が問題だった。彼女の様子は明らかに尋常で
はなく、ミラが目を覚ますまで、血の気の一つもない肌の色をしていた。その割には、ミ
ラが目を覚ませば、あっけらかんとした顔で彼女の無茶をたしなめる姿も見せており、私
は自分が溺れた時のことも思い出し、カリーシャという少女が内に抱く何かしらの恐怖の
存在を感じざるを得なかった。
 そしてその翌日、朝の散歩にミラを誘うと、私は彼女の勤勉すぎる姿勢に注意を促した。
資質のある者であれば誰しもが通る道であるが、学問は寝食を忘れさせて熱中させられる
魅力のあるものだ。本の一文字一句から、筆者の意図が読め、新しい知識がそれをさらに
膨らませてくれるようになると、一冊の本がこの世のあらゆる謎を解決する奇跡の本のよ
うに見えてくる。しかし、実際は一冊の本に書かれた内容など微々たるもので、それを理
解してしまうからこそ、さらに止まらず本を読み続けてしまう。私は、ミラがそのような
状態にあったのだと思ったのだが、彼女はそれを否定した。理解したいものは他にあり、
書物はその回りくどい手段にしか過ぎないのだと彼女は告げた。これ以上を書くことは、
カリーシャの弁の通り、無粋だろう。ただ、今も昔も私の胸を高鳴らせたのは銀木犀の香
りだということだ。何年かを経て、再び私はその香りに包まれて生活を送っている。それ
だけのことなのだ。
 昼になり、私とミラが多少の秘密を抱えて館に戻ると、カリーシャが不機嫌な様子で待
っていた。文句の付けようもないくらいに優雅に足を踏み抜かれた時は、褒めたら良いの
か叱ったら良いのか迷ったくらいだ。結果は、もちろん叱ったのだが。
 その後、私がミラに行う特別の授業の内容を、彼女は驚くほど要領良く身に付けていっ
た。何度も述べてきたが、彼女は大変真面目で、勤勉で、冗談の通じない女性だったので、
その行為に関してもその性分を十二分に発揮した。例えば、初心の彼女は、互いに了承済
みであっても、特別な用件のために私の部屋を訪れるのに恥じらいを見せた。むしろそれ
を意識してからは私の部屋を避ける傾向にあった。だが、彼女が夜に忍び込んでくること
を望んでいることを私がほのめかすと、彼女はすぐに私の部屋に日参するようになった。
少しでも私に気に入られようとする彼女の努力は、目を見張るものがあり、その甲斐甲斐
しさには頭が下がる思いだった。
 一方で、彼女が周囲に二人の関係を隠すために行った努力は、全てが無駄に終わった。
意味も無く私の腕を取り、またしなだれかかってくるその仕草は場所を選ばず、館の中だ
ろうと、町の中だろうと、明らかに目立っていた。彼女本人はさりげなく、人目につかな
いでしている私への合図のつもりなのだろうが、それはついにカリーシャまでもが呆れる
ほどに稚拙でたどたどしい、言うなれば世慣れない姿だった。かくして、私は町の若者た
ちの嫉妬を一身に浴びる身分を手に入れたのである。例外はチャールズ青年で、彼は私と
ミラのことを特別に喜んでくれた。聞けば、表には出さないようにしているが、彼はミラ
に他人とは思えない親近感を持っているのだと言う。館に通うようになってからのことだ
が、確かに二人にはどこか顔立ちにも似たところがあった。チャールズ青年もミラも、同
じように町の外からやって来た身であり、もしかしたら故郷が近いのかもしれない。また、
私たちには全員カリーシャの保護者であるという連帯感があり、そのことも祝福に一役買
っていたようだ。
 ミラは毎日のように浮かれ、照れ、それが重なるほどに女らしく美しくなっていると優
秀なコックの婦人たちのお墨付きだ。最後にカリーシャとミラを子供の頃から見守ってい
た御者のモラード老に一日こき使われる目にあい、一連のことに関する私の儀式も終了し
た。さて、何度足を引っ掛けられ、何度頭から水を被せられたか、数えるのも面倒くさい。
 訝しいのはカリーシャで、彼女は傍目にもミラの幸福を喜んでいたが、同時に酷く不愉
快そうでもあった。ませた彼女らしい嫉妬かとも思ったが、それよりも遥かに意味が深そ
うな、時折気を緩めた際にふっと現れる酷く冷たい瞳。しかも、その瞳は私に向けられて
いるのだ。気になって尋ねようにも、彼女は並の大人よりも余程頭が回る。礼儀正しい言
葉で真実を笑顔の奥に隠されて、うやむやの中でかわされるのがせいぜいだろう。チャー
ルズ青年に探ってもらおうにも、彼はカリーシャの前では犬のように従順だ。彼女の不況
を買うような質問はできないだろう。
 忌まわしい自動車のエンジン音が聞こえてきたのは、以前それが去ってから一ヶ月以上
経ってからだった。今度は昼間の来訪だったが、目つきの悪い供が二人ついているのは同
じだった。そして私とセルジオの、二回目の会談が始まった。



                                 続く




注:
 ここまでの文章は「落書き」であり、一本の作品としか完成するものではありません。
 なので、「続く」はシャレです。あしからず。
 イラスト・CG系サイトで習作などを掲載するのと似たようなもの、と解釈ください。

 妄想ネタとしては、
  「エドワード・ローソンの旅行記」 現在・導入
  「ミラ・マレットの日記」 過去
  「チャールズ・ウッズの独白」 背後関係
  「エドワード・ローソンの旅行記2」 現在・決着
 みたいに話を繋いでいけたら楽しいだろうな、などと考えます。
 あくまで妄想です。





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