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Blue Eden Project後編
             「青空の下で」


                序


「痛っ」
 その小さな声を、聞き流さなければよかったのだ。
 チラリと振り返ると、少女は顔をしかめて、しかしまだしっかりと脚を動かしていて、
だから南は気にせずに規則正しい走りを続けた。
 数分後に、少女が脚を抱えて、一度も見せたことのない涙を見せることも知らずに。





                1


 倭学園の高等部、その中の普通科に在籍する伊東南の日課と言えば、早朝から第二音楽
室に向かうことだった。
「おはよう」
「おはよっ」
 今日も今日とて第二音楽室の人口密度は高い。
 ふるさと演歌倶楽部高等部二年生全員集合、という状況だ。ふるさと演歌倶楽部の二年
は四人しかいないのだが、その中の一人が南の親友である三神常久なので、南はわざわざ
朝早くから足を運んでいるのである。
 もし南が来なかったりしたら、常久が「今日は客が一人少なかった……」などと愚痴り
だすからだ。
 ピアノという楽器を使って自分のエゴイズムを思う存分に表現する、と常久は言うが、
南にはその辺りのことがまったくわからない。そもそも、音楽に興味が無い人間なのだ。
「おはよう」
「おはよう、今日は遅かったね」
 相変わらず細目の常久が鍵盤に指を置いて微かに笑う。その言葉の端から指が動き、音
を紡ぎ出す。
 音は連なって曲となり、常久はその曲にさらに己の情感の全てを込める。
 それを聴くのは、ふるさと演歌倶楽部の面々である。
 見る者が首を傾げたくなる振り袖姿で、さらに鮮やかな赤毛というこれ以上ないくらい
目を惹く少女──神楽坂栄美(かぐらざか・えみ)が目を閉じて曲を噛みしめる。その隣
では一目で西欧の血が混ざっているとわかる彫りの深い顔立ちの、目つきの悪い少年──
高坂柊(こうさか・ひいらぎ)が楽譜を睨んで眉根を寄せている。さらにその隣では小柄
な、可愛いと言われそうな顔立ちの栗毛の少年──納馬悠(なんま・ゆう)がやはり難し
い顔で楽譜を見つめていた。
「……よくわからんが、難しい曲なのか?」
「凄く、です」
 悠が言い、柊も頷く。柊は舌打ちさえして言う。
「なんで『ぱたぱたママ』がクラシックもどきになってんだよ」
「面白いじゃない」
 クスクスと笑って常久は弾く。笑いながらも指が止まらないのが大したものだと南は思
う。しかし、凄いとは思うが、弾けるのが凄いと思うだけで曲がどう凄いのかは南にはわ
からなかった。
「神楽坂、コメントは?」
「部屋のお掃除をしたくなるかな」
 意味不明である。
 南は肩をすくめると、音楽室の中を見回した。ほんの少し前までは、この場所には南と
常久しかいなかったのだ。
 だが、五月の陸上競技大会を境に常久がふるさと演歌倶楽部に入部し、第二音楽室はふ
るさと演歌倶楽部の練習場になった。
(潮時かな……)
 音楽の話題ばかりが出るようになった場所。正直、南にはついていけない。今まで通り
につきあってはいるが、朝と放課後の練習に南が顔を出す必要はもうないだろう。
(というか、疲れる)
 和太鼓のように、常久のピアノは身体に響く。心臓に直接響いてくるようなその暴力的
な、鼓動を早くする魔力。
 似ている、と思う。
 何度立っても慣れない、あの場所に。
「伊東くん?」
「ん」
 少し自分の想いに沈んでいた南は、栄美に声をかけられて片目を閉じてみせた。大丈夫、
と仕草で示す。
 その間にも、常久の演奏は続いていた。信じられない早弾き。それに柊や悠は驚き、感
心する。
(なんかなあ……)
 音楽で楽しむ、目の前の四人。
 簡単な趣味の違いと言ってしまえば、それだけのことだ。
 だが、南は仲間外れにされてしまったかのように寂しくて、そっとため息をついた。

                ※

 南の高等部での二年目が始まってから、三ヶ月。季節はすっかりと夏になり、制服も夏
仕様のものとなった。
 南は一人高等部校舎の屋上でフェンスにもたれかかって、空を流れる入道雲をぼうっと
眺めていた。洗ったばかりの真っ白なYシャツから伸びたたくましい腕を、夏の陽射しが
容赦なく焼き、布に隠された部分との間にはっきりとした区別を作る。もともと日焼けし
やすい南は、すでに海で泳いできたかのように小麦色の肌となっていた。
 もちろん、海に行こうと思えばすぐに行ける。倭学園は四方を海に囲まれた島上に存在
する学園だからだ。
(一人で行ってもな)
 今日も常久はふるさと演歌倶楽部の次の公演のための練習を行っている。今頃は第二音
楽室で殺人音波──と南は思っている──を奏でていることだろう。
 暇な時は常久と無駄にしゃべる、というのが当たり前になっていた南は、苦笑して鞄か
ら雑誌を取り出した。フェンスに寄りかかっているのは、ベンチをどこかの倶楽部の一団
に占領されているからだ。
「先輩、こんな感じですか?」
「まだまだだな。もう少し身体の力を抜いた方がいい」
「でも、これ以上だらだら出来ないですよ」
「がんばれ。今日の目標はだらだら三十分だ」
「はい!」
「力むな、だらだらだ、だらだら」
 あまりに意味不明で、南は雑誌の影で怪訝な顔をした。
「何やってるんだ、あれは?」
 雑誌を読むふりをしながらしばらく観察を続けていると、ベンチに腰掛けたまま目を閉
じていた一年生の女子が、安らかな寝息を始めた。陽射しが痛い夏とはいえ、風通しの良
い屋上なら、気持ちよく眠れるだろう。
 と。
「ふんっ」
「うきゃあ!」
 三年の投げた水の滴るコンニャクが少女の顔面に直撃し、少女が悲鳴を上げて覚醒する。
目を見開く少女に、三年は言う。
「せっかくだらだらしているというのに、眠る馬鹿がいるか!」
「す、すみませんっ」
「だらだら出来る時間は貴重だ。有意義に過ごすように」
「はい、一生懸命だらだらしますっ」
「ふっ。返事だけはいいな」
 そう言う三年の顔には、さわやか過ぎる微笑みが浮かんでいた。
 ぱたん、と南は雑誌を閉じると、無言でベンチに歩み寄った。ベンチを占領しているの
は、全部で六人の少年少女だ。三年の男子が二人。二年の男子が二人に、女子が一人。一
年の女子が一人。
「すみません」
「手短に頼む。だらだら中だ」
「はあ……ここ、何の倶楽部ですか?」
「興味があるのかな?」
 キラン、と三年の瞳が輝き、同時に南の腕を掴む。あまりの早技に、南は反応できなく
て引きつった。
「いい身体をしている。君ならすぐにレギュラーだ」
「内藤先輩。この人、私たちが何の倶楽部かって……」
「そうだったな」
 一年の少女に言われ、内藤と呼ばれた少年は南を放した。そして、ベンチから立ち上が
って真っ直ぐに南を見つめる。
 内藤は背がかなり高かった。百八十後半、百九十センチに達しているかもしれない。そ
れだけの長身だというのに、身体が細いという印象は受けない。正しく成長した身体に、
正しく筋肉を付けた。そういうイメージがある。短い髪を、さらにオールバックにしてい
て、精悍さを感じさせる少年だった。
 その均整の取れた身体に南が感心していると、内藤は言う。
「俺たちは、高等部のボクシング倶楽部だ。見てわからなかったか?」
「全然」
 きっぱりと南は言った。ベンチに座った一団も、うんうんと頷く。すると、内藤は髪を
指で掻き回し、
「おかしいな……一目でわかる練習だと思うんだが……」
「何の練習なんすか?」
 相手が体育会系とわかると、南は先輩である内藤に向ける言葉遣いを微妙に変えた。意
識したものではない。癖のようなものだ。
 内藤は指で後輩たちを示して説明する。
「だらだらする練習だ。正確に言うと、意識的にだらだら……リラックスする練習だ」
「へえ?」
「身体を鍛えても、試合の時に身体が動かないとかがあるからな。自分でリラックスして
いる状態を覚えて、コントロール出来るようにしておく。近代スポーツだと、ごく当たり
前だと思うんだが……」
「私、内藤先輩に教わるまで知りませんでした」
「そりゃ、お前が素人だったからだろう」
 ベンチに座ったまま言う一年の少女に、内藤は苦笑する。
 ふむ、と南はベンチに座る一団をもう一度眺め直した。内藤の言うことを、南は理解で
きた。
 スポーツとは、要は身体のコントロールだ。己の身体をコンマ単位で制御し、望む行動
を取らせる。そのためには「身体」ではなく「心体」の鍛錬が必要になる。
 内藤が後輩たちに行わさせている「だらだら」も、そういったメンタル・トレーニング
の一つなのだろう。
 しかし、と南は言う。
「だらだら倶楽部だ、とか言われても納得したっす」
「同じく」
 ベンチ上の二年が手を挙げ、同時に内藤にボディフックを喰らってのたうち回る。
「終わったらロードワーク二十キロだ。今の内にだらだらしておけ」
「はい!」
 返事だけは威勢が良いのは、またしても一年の少女だ。
「で、君は何か倶楽部には入っているのか? 入ってないなら、どうだ、ボクシングとか
は」
「いや、俺倶楽部には入らないつもりっすから。中等部の頃入ってた倶楽部で、ちょっと
ありまして」
 特に表情も変えずに言った南だが、内藤は頷いて南の肩を叩いた。
「まあ、気が向いたら来い。その身体を埋もらせるのも何だろう?」
「…………」
 軽く会釈して、南はその場を離れた。鞄を置いてあるフェンスまで戻ると、
「水森(みずもり)、寝るな!」
「きゃひっ」
 内藤の怒鳴り声と、一年の少女の悲鳴が南の耳に届いた。一見して、少女はボクシング
などの格闘技に向いているようには見えない、ごくごく普通の体格だった。
「それでも入るもんだな、倶楽部に……」
 南は感心してしまう。
 その時だ。
 甲高い、空気を切り裂く笛の音が運動場から響き渡る。反射的に音源を目で探してしま
った南は、そこに陸上部の集団を見つけて目を細めた。
 百メートル、二百メートル、四百メートル……一万メートルまでのランナーたち。
幾つかの集団に分かれ、ある集団は順番に百メートルを駆け、ある集団はまとめて一万メ
ートルを計測する。
 そのトラック部分の内側──フィールド部分に南の目を引きつける少女がいる。
 走り高飛びのために用意されたエバーマットとバー。二メートルにも近いそのバーに向
かって助走するのは、陸上部の羽崎翼(はざき・つばさ)だ。
 八歩。走り高跳びの理想と言われる七歩から十一歩のうちに収まる助走の後に、翼が地
面を蹴る。
 ふわり、と。
 その名前の通りなのかもしれない。
 危なげなくそのバーを背面飛びでクリアした翼は、背中からエバーマットに落ちる。
「…………」
 ふう、とため息をついて、南は雑誌に視線を落とした。『現代陸上』という雑誌名がさ
らに南に深いため息を吐かせる。
「阿呆……」
 誰にともなく呟いて、南はフェンスに寄りかかって雑誌を開くのだった。

                ※

「海に行こう!」
 唐突に言い出した栄美に、南と常久は顔を見合わせた。購買で買ってきたゆで卵サンド
という謎のパンを食べようとしていた南は、振り袖姿の少女に訊く。
「海って、どこの海だ?」
「ここの海」
「なら、自転車でも借りるか」
 関心無さそうに言って、南は丸い形のパンにかぶりついた。栄美が不満そうに頬を膨ら
ませる。そうしていると、まるでハムスターのようだ。
 常久は無言でパックの牛乳をストローで啜った後、
「僕はいいけど、他のみんなはどうするの?」
「柊も納馬も大丈夫だって。三神くんと伊東くんで最後」
「ふうん」
 常久が南を見る。なんだ、と視線で南が訊くと、常久は肩をすくめる。
「南がいい身体してるから、並ぶと情けないんだよ、僕」
「なら少しは鍛えろ」
「腕立てとかしても指が太くなりそうで嫌なんだよ」
 そう言う常久の指は、繊細で長い。ピアノと常久を繋ぐ役目を果たす指だ。その指を傷
つけられるくらいなら顔を殴られる方を選ぶ常久であることを、南は知っている。
「手、大きいね」
 ぺたり、と栄美が常久の手に自分の手を合わせる。関節一つ分以上の長さの差があり、
しかし常久は南を示す。
「南の方が大きいよ」
「伊東くん、手出して」
「おう」
 パンを食べながら手を出してやる。栄美はその手に自分の手を合わせ、少し目をしばた
たいた。
「何かやってた?」
「ん、ああ……槍投げとか」
 ことさら無表情に南は言う。常久が一瞬細目を広げたが、すぐにもとに戻す。
「槍投げなんてやってたんだ?」
「あ、三神くんも知らなかったの?」
「うん。南って秘密主義者だから」
「だれが秘密主義者だ」
 むすっとして南は登場したゆで卵に眉をしかめた。しかも二つだ。どうりで大きいと思
った。
「僕、南に会ったのは高等部になってからだから、中等部の頃は知らないよ」
「ふうん。伊東くん、陸上部だったんだ」
 丸い頬をつやつやとさせ、興味深そうに栄美は南を見る。
「中等部時代だけな。今はフリーだ」
「どう見ても伊東くんってスポーツ科の生徒に見えるのに普通科にいるから不思議だった
けど、大学の方面が普通科だと有利だとか?」
「別に。何も考えてない」
 ワクワクと栄美が訊くのを、南はサラリと流す。それより、と言う。
「海って、いつだ?」
「今週の日曜」
 栄美が即座に答えると、少年二人は顔を見合わせる。
「明後日か、空いてる。常久はどうする」
「行くよ。でも、明後日って聖火祭の打ち合わせじゃなかった?」
「それも兼ねて、鋭気を養うために海!」
 えいえいおー! と少女は腕を突き上げる。
 じーっとその姿を見つめた南は、
「アレは海に行きたいだけだな」
「僕もそう思う。アレはね」
「目の前にいるのに『アレ』はやめてよ……」
 ともあれ、そういうことに話がまとまって、そこで南は首を傾げた。
「聖火祭で何かやるのか?」
「演歌」
 あっさり過ぎるほどあっさり栄美は言う。
 聖火祭とは倭学園の七月最大の行事だ。文字通り、聖火の祭りである。
 園長の用意した火種によって聖火が灯されると同時にその祭りは開始され、生徒たちは
思い思いのことを紙に書き込んでその火に放り込む。夕方に灯された聖火は深夜まで燃え
続け、全校生徒の願いを受けたところで消火され、祭りは幕を閉じる。
 何事も行事の時には何かしらの倶楽部が出し物をする倭学園のこと、毎年のごとく聖火
祭の日には騒動が起こっていた。
 当然、その騒動を巻き起こす倶楽部の名前の中には、ふるさと演歌倶楽部の名前も含ま
れる。
 正規の出し物なら良いのだが、ふるさと演歌倶楽部を始めとする、人数が少ないために
──もしくはあまりに異色過ぎるために──生徒会から要請の無い倶楽部は奇襲をかける
ことによって強引に自分たちの出し物を行うのだ。
 それを阻止するために風紀倶楽部や治安倶楽部も奔走することになるのだが、南には関
係無いと言えば言える。
 そう言えば、と南は思い出した。
「紙もらったんだったな」
「あ、伊東くん願い事書かないならちょうだい」
 聖火に放る紙は、正式な物は生徒一人につき一枚しか配布されない。何枚も書きたい者
は書かない者からもらうか、裏で買い取るしかない。
 ああ、と頷こうとした南は、紙を寮の部屋に置いているので、肩をすくめた。
「そのうちな」
「やった! これで九枚目」
「そんなに書くの?」
「色々と、ね」
 そう言って微笑む。そんな栄美の微笑みを、南は嫌いではない。今まで自分の周りにい
なかったタイプだけに、栄美の存在は南にとって楽しいのである。
 なにせ目立つ赤毛に、目立ちすぎる振り袖姿。それに加えて演歌を唄い、ハムスターの
ような顔でくるくると表情を変える。
 だが、そういうことを抜きにして、南が栄美を気に入ったのは、もしかしたら栄美が常
久に似ていたからかもしれない。
 己を表現するために、唄を使う。己の欲求を満たすために、あらゆる事柄を利用する。
 唄とピアノという違いはあっても、最終的に二人が望んでいることはとても似通ってい
る。
 観客に自分たちの唄を、演奏を聴かせること。自分を知ってもらうこと。
 そのことを、南は五月の陸上競技大会で見せられた。
 音楽はわからないが、舞台の上で楽しそうにしていた二人を見て、そのことがわからな
いはずがなかった。
 二人は、自分の望むことをしている。実行に移している。
 ならば自分はどうだろう。
 考えて、南は苦笑した。

                ※

「で?」
「あ?」
 放課後、寮へと向かう途中で常久と合流した南は、唐突な「で?」に面食らった。常久
は相も変わらずの感情の読みにくい細目のまま、南を見ている。
「……陸上部のことか?」
「そう。僕も初めて聞いたよ」
「聞いても面白くも何ともないと思うんだが。中等部の頃だしな」
「どうしてやめたのかな?」
「あのなあ……」
 南は顔をしかめて常久を見た。だが、常久の顔に好奇の色は無い。細目だからわかりに
くいだけかもしれないが、南はそれなりに常久の性格を把握しているつもりだ。
 果たして、常久は言った。
「僕ばっかり手の内明かしているのは不公平じゃない?」
「そういう問題か?」
「そういう問題なんだよ」
「そうか」
「うん」
 はあ、と南は深く息を吐いた。鞄を肘にかけ、頭の後ろで腕を組む。
 寮までの長い道を歩きながら、南は夏の陽射しに目を細めた。常久は無言で、南が口を
開くのを待つ。
 ごくごく普通に見える下校の風景だった。最近は常久が倶楽部で残るようになったので
一緒に下校する機会も少なくなっていたが、その前はいつも二人で下校していた。
 一年間ほど、そうしていたのだ。
「一年間、何も言ってなかったな」
「かなり悪人だよ、それは」
「そういうものか?」
「そういうものなんだよ」
「そうか」
「うん」
 まあいいか、と南は足を止めた。常久がそれに従うと、運動場を振り返って目をさまよ
わす。その視線が陸上部を見つけると、南は指で示した。
「俺はな、陸上部で百メートルを走っていた」
「ふうん。足速かったんだ? でも、槍投げとか言ってなかったっけ」
「それもやった。十種目競技だから、槍投げとか幅跳びも必要なんだ。まあ、俺は百メー
トルの個人競技をメインにやってたけどな」
 そう言って、南は他人事のように続ける。
「それで、練習の最後に整理体操で長距離走った。その頃同じチームだった女が一緒に走
っていて転んで、アキレス腱を切った」
「それで?」
「やめた。俺はそいつが痛がっているのに気づいていたんだが無視してて、それで陸上部
が居心地悪くなってやめた。それだけだ」
 簡単に、肩をすくめて言う。そう単純なことではないことを、常久はわかっているだろ
う。だが、常久は特に何も言わないで呟いた。
「へえ」
「帰るか」
「うん。あ、一つ言いたいな」
「なんだ?」
「南も結構馬鹿だね」
「…………」
 何に対して馬鹿なのか、常久は最後まで言わなかった。





                2


「う〜み〜!」
 と、海に向かって叫ぶ初等部の児童を眺め、南は小さく頷いた。
「なるほど、海だな」
「海だな、確かに」
 頷き返したのは、柊だ。長身の少年は、白いシャツに青いパーカーを引っかけてサング
ラスをかけている。ハーフというだけに彫りの深い顔立ちは、否が応でもビーチを占める
少女たちの視線を集めてしまう。サングラスも、顔を隠す役には立たず、むしろワイルド
さを際立たせている感がある。
「その格好、わざとだろう」
「まあな。まあ、俺は適当にやってるから、お前らは好きに泳いでな」
「じゃあ、柊はここでスイカを死守。いいわね?」
「ちょっと待てええ!」
 言うが早いか、栄美はその場で常通りの振り袖を脱ぎ始めた。ほう、と南が見ると、そ
の下にはスクール水着を着込んでいた。
「またそれか……」
「またなのか?」
 呟く常久に、南が苦笑する。横では柊が一人たそがれていた。
「期待した俺が馬鹿だった……」
 などと周りが騒がしい間に、悠が手際良くシートの上にパラソルを立てる。そうして生
まれた日陰に、クーラーボックスをドンと置く。
 準備が整うと、栄美が一同に言った。
「今日は、肺活量のアップのために素潜り大会を実施します。異議のある人」
「はい」
「おう」
「三神くんに柊、素潜り嫌い?」
「そういうわけじゃないけど」
「意味あんのか、それは」
「仕方ないわね……」
 しばし栄美は腕を組んで考え、
「じゃあ、拾ってきた海産物は各自の自由に……」
「いらねえよ……」
「僕もいらないよ」
「なら僕にくださいね」
 にっこりと悠が微笑む。と、悠は南を見て訊いた。
「伊東くんはどうするんですか?」
「俺か? まあ、適当にしてる」
 つまらなそうに南が応えると、悠が栄美に直訴する。
「ふるさと演歌倶楽部外からの参加の伊東くんが素潜りに参加出来ないのでつまらないそ
うです。栄美さん、行事の再考をお願いします」
「あ、そう? そうだよね、伊東くんも楽しめないとね……」
「ナイスだ、納馬」
「僕泳げませんから」
 さらりと言う悠である。
 そうこう言っているうちに、南はズボンを抜いでトランクスタイプの水着一枚になって
いた。さっそくクーラーボックスからジュースを取り出す。
 そのいきなりくつろぎだす様に、栄美は唇を尖らせた。
「もうっ。伊東くん、早い!」
「神楽坂は常久と高坂の自転車に便乗してたからいいがな、俺は自分でこいで来たんだ」
「うぐっ」
「そう言えば、喉乾いたな」
「あ、僕も」
「神楽坂さん以外は喉乾いたみたいだね」
 最後の常久の言葉がとどめである。頬を膨らます栄美を放っておいて、男四人は思い思
いのジュースを手にとって飲み干す。
「ふう」
 満足そうに息を吐くのも、少しは栄美に対する苛めかもしれない。
「で、お前ら本気で素潜りするのか?」
「しない」
 南の質問にきっぱりと柊が言い、栄美を手招きする。栄美が荷物から数枚の紙切れを取
り出して、その場にいる全員に配った。
 紙に書いてる文字を見た南は、訝しげに柊を見た。
「俺もか?」
「一応な」
 ニヤリと柊は笑う。部員に引き込まれる予感がして、南は眉根を寄せた。
 が、栄美が言う。
「伊東くんは特別ね。倶楽部の人じゃないけど、いつもお世話になってるから」
「そういうことだね」
 常久も頷く。
(入っても、いいけどな)
 倶楽部になど、入ってはいない。入る気もなかった。だが、友達つき合いするようにな
った栄美、柊、悠の三人がいて、さらに親友の常久がいる倶楽部になら、名前を貸すくら
い良いかもしれない。
 しかし、だ。
 南は、中等部の頃を思い出した。陸上部で起きた、小さな事件。それ以来、南には倶楽
部活動する資格など、無いのだ。
 だから、南は興味なさそうに尋ねるだけだった。
「これがお前らの次の公演か?」
「だな。聖火祭での強行ライブだ」
「またそんなのか、お前らは……」
「だって、許可がおりないんだもん」
 拗ねたように栄美が言う。南が常久を見ると、ピアニストの少年はすでに予定曲として
書いてある曲を思ってか、真剣な顔だ。
「僕の出番が一番多いね。嬉しいな」
「三神のピアノでまだ本番唄ってないから、俺たちは」
 柊が笑って言う。
 でも、と悠が呟いた。
「陸上競技大会みたいに一曲目でストップさせられるかもしれないですから、有利なのは
一曲目の唄い手ですね」
 そのひとことが、栄美、柊、悠の間に緊張を生み出した。
「じゃんけんだな」
「私唄いたい」
「じゃんけんですね」
「私唄いたいんだけど……」
「出さないと負けな。じゃ〜んけ〜ん」
「私唄いたいんだけど!」
「ポイ」
「私の勝ち!」
「結局出しやがって……」
「ポイ」
「は?」
「僕の勝ちですね。じゃあ、高坂くんは三番、と」
「ま、待て納馬。今の卑怯だろ、お前!」
「出さないと負けって言ったのは誰ですか?」
「…………」
 どうやら、決定したようである。
 ひねくれた柊はその場に座り込み、海の方を向いてしまった。
 波の音に目を向けた南も、吹いてくるやわらかい風に顔をほころばせた。
 島の海岸線の中で、ビーチとして使用可能なのは南側の砂浜だけだ。北側には日本本土
との交通船が着港するための港がある。
 七月始めの今日はかなりの数の生徒が遊びに、もしくは肌を焼きに来ている。中にはナ
ンパだけを目的にした者もいるだろう。もっとも、波が穏やかなために、サーフィンやボ
ディボードに興じる者は少ない。いるのは、初心者だけだ。そのため、ナンパの道具とし
てボディボードなどを抱えた生徒は、かなり間抜けである。
「小道具使い連中が。自分の口だけでどうにかするつもりはねえのかよ」
 柊の呟きに、南はふむと顎に手を当てる。
「高坂もナンパか?」
「そんなつもりは無いけどな。伊東は誰かお目当てがあるのか? 手伝ってやるぜ」
「自分の方どうにかしたらどうだ」
 ボソリと南が言うと、柊が引きつる。二人が同時に栄美を見ると、栄美は目をパチパチ
させて首を傾げた。
「何?」
「神楽坂、常久はどうした」
「ジュース買ってきてもらってるわよ」
 さも当然のように言う少女に、南は閉口する。
「なんでお前たちは神楽坂に甘いんだ?」
「俺は別に甘くはないが……」
 う〜ん、と柊は頭を掻いて立ち上がった。そして、栄美に向かって言う。
「おい、栄美。せっかく来たんだ。泳ぐぞ」
「三神くんが戻ってきてからね」
「男心をわかってくれ……」
「まあ、がんばれ。常久の邪魔にならないくらいにな」
「お前はしょせん三神の味方か……」
 孤立無援の柊は首をがっくりと垂らした。
 と。
「見たか、今の」
 唐突に顔を上げる。南が首を傾げると、柊が海の方を指さして言う。
「どこの生徒だ? 芸能科か?」
 それは、艶やかな黒髪を腰の辺りまで伸ばした、スレンダーな美少女だった。美少女と
言うよりも、美人と言った方がしっくりとくる、大人びた容貌。身長は百八十センチを越
えているように見える。
 あまり興味は無かったが、南は合わせて頷いた。美人だとは思った。すると、横から悠
が覗き込んで、
「ああ、藤森奈々香(ふじもり・ななか)さんですよ。芸能科じゃなくて、スポーツ科の
三年生の方です。確か、一組だったはずですね」
「妙に詳しいな……」
「ファンなんです」
 薄い胸を張る美少年である。
「お前、この前まで同じクラスの木谷のファンだとか言ってなかったか?」
「木谷さんはファンって言うか……」
 モゴモゴと、珍しく悠が口ごもる。柊が目を見開き、次に納馬の頭を軽く叩いた。
「がんばれよ!」
「近寄るのも大変なんですよ、ファンの女の子が多くて。せっかく同じクラスなのに」
「そうよね」
「!」
 真後ろからの栄美の声に、柊と悠は慌てて振り返った。常久に渡された缶ジュースに口
をつけながら、残念そうに言う。
「芹ちゃん、いつも忙しそうで、遊びにも行けないのよ」
「し、知り合いか?」
「去年同じクラス」
「や、倭学園は狭い……」
 心底恐れ入ったというふうに柊が苦笑する。
「じゃあ、三神くんも戻ってきたし、泳ごう!」
「ああ、荷物俺が見てるから、しばらくしたら交替しろ」
「わかった」
 常久が頷き、栄美に手を引かれて行ってしまうと、残された南はパラソルの日陰にも入
らずに、肌を焼く陽射しの下で目を閉じた。
 先程考えた、倶楽部のこと。
 今の自分は、もはやふるさと演歌倶楽部に入っているも同然だ。なのに、少し違う。
 南がしたいのは、演歌ではないのだ。
 音楽など、わからない。良い曲がわかっても、どのように技巧的に優れているのかなど、
常久のようにわかったりはしない。
 自分の脚を見れば、わかることなのだ。
「いい脚をしているな」
 不意に、南の上から声がかけられた。その声の主が白一色のワンピースの水着を着込ん
だ少女──藤森奈々香だと知った南は、怪訝そうに眉根を寄せた。
「失礼する」
「はあ」
 一応先輩ということで、南が生返事を返すと、奈々香はパラソルの陰に優雅に座り込ん
だ。何と言うのか、動作自体が綺麗だと南は思った。隙が無い、と言うのだろうか。
「さっき、ふるさと演歌倶楽部と一緒にいたが、友達か?」
「まあ、そうです。藤森先輩ですか?」
 問いかけに、奈々香は頷く。
(納馬がいたら喜ぶな)
 しかし、南にとっては意外すぎる相手で、何を話したら良いのかわからない。南が無言
でいると、奈々香は面白そうに訊く。
「ふるさと演歌倶楽部は、この時期は聖火祭の公演ばかり考えていると思ったがな」
「公演も何も、全部あいつらは遊びですよ」
「真剣にやっていることを遊び扱いしたら、怒られるぞ?」
「あいつら、真剣に遊んでるだけですから、大丈夫です。怒らしてどうなるわけでもない
ですし」
 その応えは、奈々香に感銘を与えたらしい。なるほど、と奈々香は形の良い顎に手を当
てて頷く。
「真剣に遊んでいる、か。面白いな。お前は何か倶楽部は?」
「何も」
 不思議と、初対面で「お前」扱いされても気分が悪くなったりはしなかった。年上とい
うこともあるが、奈々香の持つ雰囲気がそうなのだろう。
「その脚は、陸上やサッカーをやっているように見えるんだが。私の見当違いかな?」
「昔やってました」
「やっぱり」
 ちょっとホッとしたように奈々香は微笑む。腰の辺りで切り揃えられた黒髪がサラリと
揺れる。肌にも濡れた所が無いので、まだ海には入っていないようだ。
「藤森先輩は、倶楽部はやってないんですか?」
「特には。似たようなことはしているよ」
「委員会とか?」
「近いな」
 自らは答えず、はぐらかすように微笑む奈々香に、南も参った、と頭を掻いた。
「秘密ですか」
「それがヒントだな」
 そう言って、奈々香は立ち上がった。その動きに合わせて南が顔を上げると、奈々香は
にっこりというよりもニヤリと表現した方がよい笑みを浮かべて手を挙げた。
「答えは自分で考えるといい。それから、その脚、もったいないぞ」
「…………」
 それだけ言うと、奈々香は再び海の方へと歩いていってしまった。
「?」
 栄美に渡された曲目の紙が無くなっていることに気づいて、南は苦笑した。
「風に飛ばされたか……俺には関係ないけどな」
 それに、曲目だけなら誰に拾われてもさして困るはずがない。腕を枕にして、南は敷い
たシートの上に寝転がって瞼を下ろした。
「もったいない、か……」
 他人に言われた無責任な言葉など、気にするつもりもないが、納得してしまう自分の気
持ちを気にしないわけにはいかない。
 自分は何がしたいのか、と南は自問して、海で遊ぶ常久を見た。
 常久は、栄美に水をかけられて憮然とした顔で水をかけ返す。栄美が悲鳴を上げて柊の
後ろに隠れ、栄美の代わりに水を受けて何かわめき出す。そして、悠はそれを笑みを浮か
べた顔で眺めるのみだ。
(楽しそうだな……)
 趣味を同じくする倶楽部の仲間と馬鹿騒ぎする。
 そんな楽しみを、確かに南も持っていたのだ。
 倶楽部に入らずに一人ピアノを弾いていた常久は、ふるさと演歌倶楽部という仲間を見
つけた。自分で決断して、加入した。
(それが寂しいだけか……)
 そう思って自分を誤魔化しても、自分の好きなことをしている常久を見ていると身体が
うずくのだ。
 思い切り、身体を動かしてみたい、と。





                3


「おっちゃん、ブラックサキュバスパン一つ!」
「こっちはダブルソーセージサンド!」
「タコタコグルメパン二つ!」
 今日も今日とて怪しいパンの名前が乱れ飛ぶ倭学園高等部の購買。授業が長引いて出遅
れた南は舌打ちして財布から数枚の硬貨を取り出した。
 突入してから財布を取り出しては遅いのだ。最初に手にした金額分ぴったりに買い物を
するのがこの戦争で打ち勝つ一つのテクニックである。
「常久みたいに寮で買えば良かったか……」
 つくづく要領の良い奴だと思う。
 そうして、混沌とした人海に飛び込もうとした時、南はその周りを所在なげに歩いてい
る少女に気がついた。
「…………」
 一瞬、ためらう。しかし、少女がどうしても列に並べないのを見て、仕方なく歩み寄っ
た。
「何やってるんだ、並ばないと買えないぞ」
「南くん?」
 振り返ったのは、陸上部の羽崎翼だ。久しぶりに近くで見た南は、身体に力が入ってし
まうのを無理矢理押さえ込んだ。
 翼が口を開く前にぶっきらぼうに言う。
「何が喰いたい」
「え? あ……じゃあ、カツサンド」
「待ってろ」
 それだけ言うと、南は購買の戦いの中に身を投じた。売り切れの声がする度に怒号やら
悲鳴やらが生まれるのを無視して、自分の分を買うついでにカツサンドを手に取ってカウ
ンターに小銭を叩きつけるように置く。
「カツサンド締め切り!」
 再び悲鳴が上がる。自分が原因だと悟られないうちに南は人波をかき分けて翼のもとへ
戻った。
「ほら」
「ありがとう……」
 カツサンドにツナサンド、さらにサラダにテトラパックの牛乳。それだけを南に渡され
ると、翼は驚いたように南を見た。
 南はその視線が嫌で、いつも通り芸能科の教室で昼食を食べようと背を向けた。
「待って」
 翼が呼び止め、苦笑して言う。
「そこの席が空いてるから、一緒に食べない?」
「…………」
 無言で頷き、南は翼に従って席に着いた。どさどさと買ったパンをテーブルの上に置く
と、さっそく一つの袋を破く。
「何か用か?」
「お金」
「ああ……」
 なるほど、と南は翼の差し出した小銭を受け取った。ただそれだけのことなのに、南も
翼も表情を固くしていて、まるで危険な物の受け渡しのようだ、と南は思った。
 南が無心でパンを食べていると、翼が微かに微笑んで言う。
「久しぶり」
「ああ」
 本当に久しぶりだった。南が陸上部だった中等部時代からまともに話していないので、
こうやって真っ正面に座ったのは二年ぶり近くだった。
(変わったか?)
 チラリと翼を見た南は、中等部の頃の翼と今の翼を比べてみる。確かに、背は伸びた。
顔立ちも当時よりは大人びてきているような気がする。だが、ポニーテイルにした金に近
い茶色の髪や、よく陽に焼けた小麦色の肌は、南の記憶に残っている翼と大差ない。
 何を話せば良いのか。
 今の陸上部の人間に、陸上をやめた南が言うことなど、無い。
 気まずい空気が流れ、翼も袋を破いてカツサンドを口元に寄せる。沈黙のまま二人が食
べ続けると、その人物は南の前──翼の後ろから手を振ってきた。
「なんだ、こんな所で食べていたのか。今までは見かけなかったが」
「あ、どうも」
 それは奈々香だった。手には弁当を持っているので、飲み物を買うためだけに購買まで
やってきたのだろう。味気ない自動販売機の飲み物ではなく、購買で買える購買のおじさ
ん流コーヒーや紅茶を飲みたいがためにここに足を運ぶ生徒も少なくない。
「そっちは、翼か。お前、やっぱり陸上部に入ることにしたのか?」
「藤森先輩、そういうわけじゃないんです。南くんは、元陸上部なんです」
 翼が慌てたように言うと、大人びた上級生はそういえばと南を見る。
「そう言えば、名前を聞いてなかった」
「伊東南です」
 あからさまにホッとした様子の南に、奈々香は目を細めて、次に翼を見た。さらに、二
人の間に置かれた大量のパンを見て、ひとこと。
「よく食べるな」
「運動しますから」
 短く翼が応えて、奈々香はふむ、としばし考え込んだ。そしてやおら翼の隣の椅子を引
き、
「座らせてもらう」
 と自分の弁当を置いて包みを広げる。ただそれだけのことだが、南と翼の間に漂ってい
た緊張がほぐれた。
「昔やっていたというのは、陸上か。あれだけの脚をしていたんだ、やめたのにはそれな
りの理由があるんだろう?」
「先輩、南くんとお知り合いですか?」
 不思議そうに翼が訊くと、奈々香は意地悪そうに笑って頷いた。
「先日、裸のつき合いをした」
 南はストローで吸っていた牛乳を吹き出しそうになった。翼が口を半開きにして、呆気
に取られて奈々香と南を見て、理解して首まで真っ赤になった。
「そ、そうなんだ?」
「違う! 海だ海。昨日海に行ったら会ったんだよ!」
 慌てて南が叫び、奈々香は必死に笑いを抑えていた。うみ、と翼の口が音を辿り、赤い
顔のまま奈々香を睨み付ける。奈々香は心底おかしかったのか、未だに肩を震わせていた。
「からかわないでくださいっ」
「いや、言葉をそのまま受け取るのはよせという教訓だ」
「それは嘘だな」
 南が突っ込むが、奈々香はどこ吹く風である。
「早く食べないと、ツナサンドが冷めるぞ」
「ツナサンドは冷めません」
 ムスッとした顔で翼がツナサンドを頬張る。南も苦笑して食事を再開した。いつの間に
か、随分と自分がリラックスしていることに気がつく。
 奈々香をうかがうと、年上の少女は綺麗な顔に微かな笑みを浮かべていた。
「南は、陸上部では何をしていた」
「……主に百メートルを」
「何秒だ?」
「十一秒〇六」
 小さく言ったのは、翼だった。奈々香はますます面白そうに翼を見る。
「元陸上部員の記録を、よく憶えているな。それにしても、大した記録だ。中等部の頃だ
ろう?」
「まあ」
 南は関心無さそうに返事をする。奈々香は今度は翼に訊いた。
「翼は高跳びの選手だから、二人が一緒に練習したことは?」
「同じチームでしたから、ありますよ」
 先程とは逆に、南が代わりに応える。同時に、南はパンを食べ終わって袋をくしゃりと
握り潰して、席を立った。
「その頃の翼は、百メートルの選手でしたし」
 自分に言い含めるように言って、南は背を向けて購買を去った。あっ、と口を開いた翼
は、奈々香に腕を取られてそちらを見た。
「『翼』、か。それなりに親しくはあったのだろう? どうしてあいつは陸上をやめた」
「言わないと、いけませんか?」
 きゅっと唇を結んで、翼は奈々香を真っ直ぐに見た。その視線に、奈々香は目を細めて
首を横に振る。
「生真面目で通ったお前だけに、何かあると悩むからな。もうすぐ聖火祭だというのに、
先程の調子では困るぞ?」
「……はい」
 うつむいて、翼は小さく返事をした。
 奈々香は、南の去っていった方向に顔を向けて呟く。
「伊東南か……中等部の記録に残ってるかな?」
 翼の耳に聞こえないその呟きは、少し意地悪な雰囲気があったかもしれない。

                ※

「はあ……」
 最近の自分はどうしようもない状態だと南は思う。残り短くなった昼休みの時間、屋上
に上がってベンチに腰掛けると、南とは反対に弁当を食べ終わって教室へ戻る生徒が立ち
上がる。
「どうした」
「内藤先輩……?」
 不意に声をかけられた南は、ベンチの前に数日前に見かけたボクシング倶楽部の部長を
見つけて軽く会釈した。名前が合っている自信は無かったが、訂正されないということは
合っていたということだろう。
「ここで飯喰ってたんすか?」
「ああ、今は減量もしてないしな。こいつにたらふく喰わせていたところだ」
 そう言って内藤が後ろを振り返ると、そこにはお腹を抱えて苦しそうにしている一年の
少女──水森がいた。内藤は、ため息混じりに水森の髪を撫でて言う。
「こいつ、喰っても喰っても大きくならなくてな」
「無茶言ってないっすか?」
 小さな水森にどれだけの量を食べさせたのか、想像して南は戦慄した。
「もしかして、自分くらいその子が大きくなるとか思って……」
「ない」
 あっさりと内藤は言う。
「だがまあ、今のうちに少し脂肪を付けさせようと思ってな。明日は今日よりも脂肪にな
るものを喰わせるつもりだ」
「はうっ」
 水森が涙目になって口を押さえる。南は心から同情した。
 ところで、と内藤が南に話を振る。
「何か、後悔したか?」
「……何すか」
「そういう顔をしている。相手が苦しんでいるかどうかくらいはわかるぞ、格闘技やって
るんだからな」
 内藤の瞳は真摯だ。ほんの少し話しただけの南の相談に乗ってやろう、という先輩気質
なのだろう。
 人を強引にでも引っ張っていく、そんな自信にあふれた顔。
 どこかで見たな、と南は思って、お祭り倶楽部の部長である志木菜子(しき・さいこ)
の顔を思い出して納得した。部長とは、責任を負うだけに皆こういう顔になるのかもしれ
ない。
(逆か。こういう人が部長になるんだな……)
 カリスマ、と言うのだろうか。
 少しそれに寄りかかる気になって南は口を開いた。
「昔の倶楽部の友人に会ったんすよ。それで、ろくに何も言わないで逃げたもんで」
「ほう。いい身体をしているから、運動部だろう」
 パンパンと南の肩を叩く。先を促されたようで、南は続ける。
「合わせる顔が無い相手なんすよ、そいつ。でも、言わなくちゃいけないこともある。ま
だ、一回も謝ってないんです」
「謝る、か」
 真剣な顔で、内藤は腕を組んだ。気軽に聞いてもらうだけのつもりだった南の方が驚く。
「……別に、俺の問題っすから」
「いや、これも何かの縁だ。謝るというからには、相手もそれを気にしているのか?」
「さあ。ただ、俺が顔を見せられないだけです」
「難しいな。君の気持ちの問題か」
 言われて、南は頷いた。
(俺の気持ちの問題……)
 その通りなのだ。
 だからこそ問題は重く、南には答えが出せない。
「……話からすると、その謝らなくてはいけないことのせいで倶楽部をやめたか?」
「そうっす」
「謝ったら、倶楽部をもう一度始める気はあるのか?」
「はあ?」
 話が違う方向に進んだようで、南は眉根を寄せた。しかし、内藤は真剣な顔だ。質問に
どういう意味があるのかわからず、南は応えた。
「そういうわけじゃないっす。今さら……」
 走りたいと問われれば、走りたいと応えることが出来る。だが、倶楽部に入ってまで走
りたいかと言うと、そうでも無い。
 陸上部に戻る理由が無い。
 南の応えに何を感じたのか、内藤は大きく頷いて笑った。
「なら、まず謝ってみるんだな。顔が会わせられないなら、電話でも何でもいいだろう。
とりあえず謝ってしまえ。その相手に謝る必要が生まれる前は、君はその倶楽部にいたん
だろう?」
「はあ、まあ」
「その頃は、どうしてその倶楽部にいたのか、それを思い出させてもらえ。例えば、俺な
ら自分の力を試すためで、その方法で一番性が合っていたのがボクシングだったってこと
だ」
 そう言って、内藤は水森を連れて去ろうとして、水森が動けないので仕方なく背負って
去っていく。
「もう少し重くなれ」
「……はい」
 普通と逆のこと言ってるな、と南は二人を見送って肩をすくめた。腕時計を見ると、も
う授業が始まる。屋上にも、もはや人はいなかった。
「陸上部にいた頃は、どうして走っていたか?」
 わからない。ただ、足が速かったから、という理由で入部したような気がする。
 そして、中等部三年まで走り続けたのだ。
「…………」
 目を瞑って、南はベンチに寝転がった。授業一つくらい、サボっても出席日数は充分足
りている。
 ただ、久しぶりに疲れたと思った。





                4


 夏の大会前だからこそ、その事故は起きた。選考会で優勝し、全国大会への切符を手に
入れた後だったから、南も練習に力を入れていたのだ。
 南は百メートルの選手だが、学園の方針で大学レベルの十種目競技の練習をさせられて
いて、それでは百メートル専門の選手には適わないと思った。だから、別に自分だけの百
メートルの練習もしていた。
 スタートダッシュの練習を、ひたすら繰り返す。それに付き添ったのが、同じ百メート
ルで全国大会に進んだ翼だった。
 翼は、速かった。男子の中に混じっても遜色の無いその速さは、全国でもトップクラス
のものだった。だから、南も競争相手に翼を選んだ。
「まだ走れるか?」
「……だい、じょうぶ」
 さすがに体力では男の南に適わない翼だったが、南は翼が大丈夫という限りはそれを尊
重して自分の練習につき合わせた。
 いや、尊重したのではない。ただ、南が他人にあまり気を遣わない性格だっただけだ。
 大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう、と責任を相手に負わせて、自分は自分のペースで
練習する。
 マイペースなのだ。
 そういう練習を繰り返して、最後の百メートルダッシュの時に、翼が転んだ。軽く足首
を捻っただけで、翼も平気だと言うので、保健室にも行かせずに整理体操の一環のランニ
ングを始めた。
「痛っ」
 その小さな声を、聞き流さなければよかったのだ。
 チラリと振り返ると、少女は顔をしかめて、しかしまだしっかりと脚を動かしていて、
だから南は気にせずに規則正しい走りを続けた。
「羽崎、どうした!」
 誰かがそう言うまで、南は翼がかなり後方で座り込んでいるのに気づかなかった。南と
いつも一緒に走ってきた翼が、右脚を抱えて、苦しげに顔を歪めていた。
 何よりも南が驚いたのは、翼が見せたことのない涙を流していたことだった。
 翼はすぐに保健室に連れて行かれて、右脚のアキレス腱が切れていることがわかった。
「大会は棄権しなさい。これくらいなら、無理をしなければ元通りになるから。原因は、
足首に負担のかかる練習のしすぎ。男の子に混じって同じ練習をするのをこれからは控え
なさい」
 その言葉を、付き添った南も聞いたのだ。
 怪我をしたのは翼だった。大会に出れなくてショックを受けたのも翼だった。
 しかし、南もショックを受けた。
 一緒に走ってきた翼が、紛れもない少女だったということをはっきりと教えられて。

                ※

「で、やめた」
 朝の短い時間。まだふるさと演歌倶楽部の面々がやって来ていない第二音楽室で、南は
常久に中等部の頃の話を聞かせていた。
 一通りのことを聞いた常久は、鍵盤を叩く指を止めずに小さく頷いた。
「羽崎さんが怪我をしたの、自分のせいだと思う?」
「…………」
「羽崎さんも、大会の前だから少し無茶をしただけだと思うよ」
 珍しく、常久が奏でているのは静かなバラードだ。心を傷つけない、むしろ優しい旋律
が朝の空気に流れる。窓が全開にされているために外にまで流れ出したその曲に、何人も
の生徒が第二楽室を見上げた。
「それでどうするの? そんな前のことを謝りに行っても、羽崎さんの方が困ると思うん
だけど」
「そうだな。常久ならどうする?」
「僕? 僕だったらこうするな」
 長い指の動きが急に激しくなる。それに合わせて常久は言った。
「結局僕はピアノが好きなんだから、それで表現するしかないよ。南は走れるんだろ? 
だったら陸上部入ればいいんだよ。そうやって南も吹っ切れたってところを見せれば、羽
崎さんも安心するんじゃないかな?」
「そういうものか?」
「そういうものなんじゃないかな……僕にもわからない。羽崎さんが特に足のことで怒っ
てないとすれば、の一つの方法だよ」
「翼が怒ってるかどうかなんてな、わかるか」
「わからないの? 昨日しゃべったんだろ?」
 南は髪を掻き回して頷いた。
(止まってるのは、俺だけか?)
 常久はふるさと演歌倶楽部に入った。南は、それを寂しいと感じた。うらやましいと感
じた。
(俺のしたいことをする)
 さして好きなわけでもないふるさと演歌倶楽部に入っても良いと思えるのは、常久がい
るからだ。
 なのに、陸上部に入りたくないと思うのは、そこに誰もいないからだ。
「もう、あそこに俺の居場所は無い」
「速ければ、居場所は作れるよ」
 ハッとして南は常久を見た。ピアノは速く、どんどん速く音を紡ぎ出していく。
「走ってきなよ」
 親友からの言葉は、短くて、的確だった。

                ※

「入部したいだ?」
「はい」
 職員室で、やって来た南に言われた陸上部顧問の武藤大悟(むとう・だいご)は上から
下まで南を眺めてから頷いた。
「いいだろう。そう言えば、見たことあるな。中等部の方で走ってなかったか?」
「百メートルをやってました」
「ああ、あの伊東か。全国の切符を捨てて部をやめたって、仁志田(にしだ)がやけ酒し
てたな」
「…………」
 かつての中等部陸上部の顧問の名を出された南は、少し顔を暗くした。それを見た武藤
は、小さな紙切れを南に渡す。
「そいつに学科と学年、クラス、氏名を書いて、部長の梶原(かじわら)に持っていけ。
スポーツ科の四組だ」
 入部届け、と書かれた紙を受け取った南は、それを真剣な顔で見つめた。
 書き込めば入部は出来る。
 書き込む資格が自分にあるのか、まだわからないのだ。
「二年の今から入るからには、それなりにあるんだろうが、まあ気負わずにな。お前なら
絶対に結果を残せる。どうしても駄目ってくらい頭がこんがらがることがあったら、俺の
所に来い。グランド二十周くらい一緒に走ってやるぞ」
 そう言って、武藤は豪快に笑った。武藤は生真面目で、授業などでは遅刻にうるさいが、
それだけに生徒のことを親身に考えてくれる教師だ。その片鱗を見せた武藤は、五時間目
の授業があると言って職員室を出てしまった。
 南も職員室を出ると、自分の教室に向かおうとして、職員室の扉の前で足を止めた。
「藤森先輩?」
「ちょっといいか、話がある」
 授業までまだ少し時間のある南は、腕時計を見て頷いた。ちょっといいか、と訊きなが
ら、奈々香には無理矢理にでも話をする強引さが感じられた。
(内藤先輩といい、藤森先輩といい……)
 妙に強引な先輩に縁のある最近だ。これで志木菜子まで出てくれば完璧だな、と密かに
思う。
 奈々香が南を連れていったのは、職員室近くの自動販売機だった。
「何か飲むか?」
「昼飯喰ったばっかです」
 南がそっけなく応えると、奈々香は面白そうに口元を弛める。
「翼がな」
「?」
「今日も購買で昼食を食べていた。昨日は弁当を忘れただけだったみたいだが、今日はわ
ざと持って来なかったみたいでな」
 南は唇を結んだ。奈々香が何を言いたいのか、わかりそうでわからない。
 好奇の視線が、自動販売機の前の南と奈々香に注がれる。文句無しの美人の奈々香と、
無骨な南の組み合わせは、人の目を引くようだ。
 その奈々香は、黙ったままの南をじっと観察して、ひとこと。
「可、といったところか」
「か?」
「優や良とまではいかないが、翼と並べて眺めて、可、だな」
「……何が?」
 南は閉口しつつ尋ねたが、奈々香は意味ありげに笑うだけでそれには応えなかった。代
わりに、次のように言う。
「翼も、高等部に入ってから色々あった。それを考えてから、その紙切れを出すことだな」
 まるで陸上部への入部をやめさせようとしているかのような言葉だが、奈々香の瞳には
もっと別な色がある。
「楽しんでませんか?」
 それには応えずに、奈々香はポンと南の胸を叩いて微笑んだ。
「いつかお茶につき合ってもらおう。翼も一緒にな」

                ※

 授業中も、南はずっと入部届けを眺めていた。
 ただの紙切れ。ペンで必要な事項を書き込む。それだけで良いはずだ。だが、それを出
来ない。
(本当に、陸上部で走りたいのか?)
 その資格があるのか。
 まだ、翼に何も言っていないというのに。
 翼が怪我をしたあの日に、ごめんのひとことも言っていないというのに。
 奈々香の言葉が、時を置くほどに響いてくる。
 確かに、翼にも色々あったのだろう。
 足の怪我が治ってから、百メートルではなく高跳びの選手になった翼。そして、見事に
学園一の高跳びの記録を持つようになったのだ。
(百メートルは、翼にも嫌な思い出だしな……)
 翼の怪我以来、ほとんど顔を会わせていない。高等部での翼を、南は何も知らない。
 翼と会わない時間の中で、南は常久と出逢ったのだ。下校の時に、第二音楽室から聞こ
えたピアノの音に気になって顔を覗かせたら、常久が「聴いていってくれる?」と誘った。
 一通り聴いた南が心臓に悪い曲を聴いた後に「お前、へたくそだな」と評して、それ以
来南は無理矢理常久にピアノ曲を聴かされるようになった。
「耳が腐ってるんだよ」
 自分の演奏が悪いはずが無い、という常久の自負。それが、中等部時代の自分の足の速
さに対する自負と重なって、なんとなく一緒にいた。
 そうやって、今までの時間が流れたのだ。
 そのような出逢いが、翼に無かったとは思わない。翼も、南の知らないところで、親友
や恋人を見つけたかもしれない。
(今年で十七だもんな……)
 南の頭の中にあるのは、十五歳の翼だ。心底楽しそうに走る、俊足の少女。
 たった一度だけ見た泣き顔と──。
『私は馬鹿だったけど、南くんは大会がんばってね』
 うつむいたまま言われた、その言葉。
(ああ、そうか……)
 結局自分は全国大会の前に退部してしまった。
 南は、そこで止まってしまっていたのだ。

                ※

「梶原先輩」
 五時間目と六時間目の間の休み時間にスポーツ科三年の教室で南が声をかけると、陸上
部部長の梶原政孝(かじわら・まさたか)は驚いて目を見開いた。
「伊東、どうした?」
「ご無沙汰してました」
 梶原は、南が中等部の二年の時の陸上部の部長だ。順当に高等部でも部長になったとい
うことは南も知っていた。
 梶原は、伊東が握り締めている紙に目を止め、顔を輝かせた。
「お前、陸上部に戻ってくるのか?」
「……入りたいんです」
「どうせあの頃のメンバーはほとんど揃ってるんだ、戻るでいいんだよ。そうか、ようや
くか!」
 梶原は喜びを抑えられないという感じで南の両肩をバンバンと叩いた。その歓迎ぶりに
南が面食らったくらいだ。
「とまあ、俺個人としての喜びは抑え気味にするとして、だ」
「……抑えてたんすか、今ので……」
「入部届け、いいか?」
「はい」
 これ以上なく真剣に、南は入部届けを梶原の手に渡した。梶原はそれを受け取り、じっ
と記入されたことに目を通し、頷く。
「確かに、受け取った。だが、入部には条件がある」
「は?」
 うって変わって険しい顔になった梶原に、南は眉根を寄せた。
「俺はいいが、お前と同学年の奴らはお前と羽崎のことを憶えてる奴もいるからな。始め
は何かとあるかもしれん。それでもいいのか? それを我慢できるか?」
「そのくらい、わかってるっす」
「そうか……なら、シューズとかはもうあるのか?」
 問われ、南は初めてそのことに気がついた。入部するかしないかで頭がいっぱいで、そ
の先に必要な道具のことなど考えもしなかったのだ。
「いや、昔のはもう小さくなってます」
「なら今日か明日買ってこい。倶楽部には明後日から出ればいい」
「はい」
「羽崎に、教えてやれよ」
「……はい」
 三年の教室の扉から離れると、南は知らずに深いため息をついていた。がくがくと身体
が震え、自分がどれだけ緊張しているのかを今さらながらに知った。
 そして、梶原の最後の言葉を口の中で反芻する。
「翼に教える、か……」
 六時間目が終わり放課後になると、南はさっそく学生街にシューズを買いに行くことに
した。
「神楽坂、自転車借りるぞ」
「うん、いつもの所に戻しておいて」
 練習を始めようとしていたふるさと演歌倶楽部の所に顔を出して言うと、全部承知して
いる、という笑顔で栄美が頷いた。常久がクスクスと笑い、手を振る。
「あ、ついでに差し入れ買ってきてくれないかな」
「……俺にもう一度ここに来いっていうわけか」
 仕方なく了承して、南は街のスポーツ店で自分の足に合うシューズを買った。特に金を
使うような生活はしていなかったので、金の心配は無かった。
 そういうふうに一つ一つ必要なことを片づけていくと、南の足は次第に重くなった。
「翼に、か……」
 差し入れを持って戻れば、学園のどこかで翼に会うかもしれない。そうなったら、陸上
部に復帰することになったと報告しないわけにはいかない。
「…………」
 怖くない、と言えば嘘になる。
 だが、南は自転車を前に進めた。
 すでに南は陸上部への入部届けを出したのだ。今さら、後戻りは出来ない。
 したくなかった。
「よう」
「内藤先輩、ロードワークっすか?」
「軽く、な。──遅れてるぞ!」
「は、はい!」
 南の自転車と併走する内藤が後ろに怒鳴ると、すでに返事もままならないボクシング倶
楽部の部員たちが顔を上げる。ただ一人返事をしたのは、最後尾の水森だ。
「相変わらず、返事だけはいいんだがな」
 内藤は、余裕たっぷりの顔で苦笑する。
 と、内藤が南の顔を見て言う。
「やることは決めたな?」
「……はい」
「なら、二度と後悔するな。……いや、したらうちの部に来い」
「行かないっす」
 サラリと言って、南は自転車をこぐ足を早めた。内藤が遠ざかり、後ろを振り返ると手
を振っているのが見える。
 本当に先輩たちに面倒をかけたな、と南は心の中で感謝した。
 面倒をかけた分は、いつか返したいと思った。
「伊東!」
「はあ?」
 またしても唐突に呼び止められて、南は首を傾げてそちらを見た。高等部への校舎に続
く道に立っているのは、お祭り倶楽部部長の志木菜子だった。放課後のユニフォームと化
している法被を着込み、長い髪の尻尾を揺らしている。親指を立てて立っているその姿は、
まさしくヒッチハイクである。
「なんですか」
「高等部の校舎まで頼むよ」
 そう言うと、返事も待たずに菜子は南の後ろに乗ってしまう。南はため息をつくと、仕
方なく重くなったペダルをこぎ始めた。
「街に行ってたんですか?」
「あたいたちの方も聖火祭の準備で物が入り用なんだ。そっちはどうなんだい?」
「そっち?」
 さも当たり前のように尋ねられ、南はしばし首を傾げた結果、
「演歌倶楽部ですか?」
「そう」
「適当にやってますよ。志木先輩が顔を出せば、神楽坂も喜ぶんじゃないですか? あい
つ、先輩のファンみたいですし」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ」
 言葉そのままに嬉しそうに菜子は微笑む。それが背中を向けていてもわかって、南は自
分も少しだけ笑った。
「伊東は、陸上部に入るんだって?」
「……早いですね」
 少し驚く。
「栄美から電話があった」
「どうしてそっちから話が行くんですか?」
「うちでもガタイのいい伊東が欲しかったから、それにストップかけられたんだよ」
「なるほど」
 栄美までが自分のために行動を起こしてくれている。
 南がしたいことのために、皆が道を開いてくれようとしている。
 それに応える証を、南はどうやって見せれば良いのか。
「がんばりな。あんたなら、大丈夫だよ」
 菜子はちょっと笑って、弟に言い聞かせるように言った。
「決めたんなら、後はやるだけだよ」
 単純明快な答え。
 南は、吹っ切れた顔で頷いた。

                ※

 第二音楽室に入った南は、一斉に振り返ったふるさと演歌倶楽部の面々に首を傾げた。
「どうした?」
「南くん」
 理由は、すぐにわかった。部屋の中に、体操着姿の少女、翼が立っていたのだ。
 スラリと長い手足をさらした翼は、額に白いハチマキを巻いて、髪が邪魔にならないよ
うにしている。随分ぶりのその姿に南が目を見張ると、翼は困ったような顔で言った。
「部長に入部届け出したって話だけど……」
「出したが、どうかしたのか?」
「明日、部長と百メートルで勝負して、それで南くんが勝ったら入部を認めるって」
 南は誰もが意外に思ったほど冷静にそれに頷いた。
 翼を前にして、言う。
「勝てばいいわけだ、先輩に。それだけだろ?」
「梶原先輩が去年インターハイで優勝してるの、知ってる?」
「知ってる、雑誌で見た。だから、勝てばいいんだろ?」
 正直、勝てるとは思わなかった。南を快く思わない部員が、無茶な勝負を企画したのだ
とわかる。
 だが、だからこそ南はその勝負を受ける気になった。
「全国大会だろ?」
 小さな呟きに、翼が瞳を揺らす。
 真っ正面から翼を見つめて、南ははっきりと言った。
「全国大会を、うちのグランドでやってやるよ」
 今はまだ翼に何も言えない。
 だから、それだけを南は口にした。





                5


 陸上部の部長が新入部員の入部をかけて競争をするという話は、運動部を中心に倭学園
の高等部全体に広まっていた。勝負は午後三時三十分。その日の授業が五時間だったので
早めの時間帯となった。
 運動場に出た南は、屈伸運動をしながら心を落ち着けていた。二年間近く本気で走って
いない身体なので、圧倒的に不利だ。しかも、相手の梶原は、今年もインターハイへの出
場権を手にした、倭学園最速の短距離走者である。
「おかしいです。入退部は自由のはずじゃないですか!」
 目を吊り上げて翼が睨み付けているのは、梶原だ。梶原は肩をすくめて、言う。
「二年が納得しないって言ってるわけだからな。俺だって引っぱり出されたクチだ。それ
に、伊東が拒否するなら、俺は降りてもいい。部長命令で南の入部を許可する」
 そうして、南に視線を向けるが、
「走ります」
 短く南は言う。夏の厳しい陽射しで早くも汗をかきながら、微笑みさえ浮かべる。
「けじめはつけます。俺のまいた種ですから」
 その言葉に、翼が表情を曇らす。コツン、と梶原が南の頭を小突いた。
「そういう言い方はよしておけ。羽崎は生真面目だからな」
「知ってます」
 そんなところは、変わっていない。
 生真面目に、マイペースで走る南を追い続けた翼のままだ。
 梶原は、南と一緒に身体をほぐしながら周りを見回して笑った。
「見ろ、凄い観客だ。これでお前が勝ったら、大波乱だな」
「手を抜いたりしないで欲しいんすけど」
「馬鹿、誰が抜くか。俺は今年で最後なんだぞ」
「そりゃ、先輩は三年っすけど、ここで負けてもインターハイがあるじゃないっすか」
「お前と走れるのが、今年で最後ってことだ」
 南が梶原を見ると、梶原は射抜くような瞳で南を見据えた。常の優しい梶原ではない。
負けられない、という想いを抱いた少年の瞳だ。
 息を飲みそうになって、しかし南はそれを見返した。
「勝ちます。俺も、これで負けたら最後っすから」
 最後にしないために、走るのだ。
「すみません、面倒ごとに巻き込んで」
「いいさ。お前がもう一度走るってだけで、俺は嬉しいぞ」
 鋭い視線はそのままに、梶原が口元を弛める。
 翼は、そんな二人を少し離れた所から見ていた。ポン、と翼の肩を奈々香が叩く。
「来い」
「は? ちょ、ちょっと先輩!」
「お前はこっちだ」
 奈々香の力は細い身体からは想像できないほどで、翼は抵抗することも出来ずに引きず
られていった。何をするのか、とムッとした翼に、奈々香は不敵な笑みで訊く。
「翼、お前は南のことを恨んでいるか?」
 翼は首を横に振った。
「なら、当時のことを引きずっているか?」
 二つ目の質問に、翼は首を横に振れなかった。奈々香は頷き、翼を引きながら南を指さ
す。
「引きずらせているのは南だ。だから、お前はしっかりと見届けるんだな」
「だから、どこに行くんですか?」
「迎えるなら、ゴールが一番じゃないか」
 何を当たり前のことを、と奈々香が言う。翼はしばしためらってから頷き、奈々香の手
を解いて、自分の足で歩き出した。
「……しかし、お前も物好きな。一途なのも問題だな……」
「はい?」
 呟きに振り返った翼の純朴そうな顔に、奈々香は肩をすくめるのみだった。
「しかし、南の周りには問題児ばかりだな」
「そうですね」
 それにはちょっと困ったように、翼は眉を垂らすのだった。
 大多数が梶原の走りを見に来ている中、南の応援にやって来たのは、ふるさと演歌倶楽
部、お祭り倶楽部の菜子、ボクシング倶楽部の内藤などだ。
 だが、その中にもウォーミングアップに集中している南に話しかけられる者はいない。
いつもよりもピリピリとした雰囲気をまとった南に、しかし、一人だけ──常久が声をか
けた。
「実際速いのか見せてもらうけど、そうだな、負けたら聖火祭まで毎日倶楽部に差し入れ
持ってきてもらおうかな」
「なんだそれは。なら、俺が勝ったら俺の弁当代、聖火祭までお前持ちだな」
「それは高い。せめてジュース一本」
「俺が差し入れしたら、ジュース一本分の値段じゃ足りないだろうが」
「毎日ジュース一本なんだから、いいじゃない」
「そういうものか?」
「そういうものなんだよ」
 何か騙されている気がする、と南は思ったが、笑って常久と手を打ち合わせた。
 常久が観衆の中に戻ると、梶原が南に言う。
「雰囲気変わったな、お前」
「そうっすか?」
 梶原に言われて、南は首を傾げた。梶原は、静かに微笑んで、ふるさと演歌倶楽部の中
に戻る常久を見送った。
「昔、お前一人で走ってただろ」
「百メートルですから」
「どこまでもマイペースで、羽崎以外眼中に入ってないように見えたんだが、今は違うな」
「…………」
 確かに、と南は頷いた。
「そうだ。お前、俺が羽崎に走り高跳び勧めたこと知ってるか?」
「先輩が?」
「ああ、あいつ、アキレス腱治っても陸上やらないって言い出してな。なんとか説得して
高跳びをやらせたんだ。百メートル走らないのももったいないが、お前とのこともあるし
な。陸上やめなかっただけ良かったよ」
 梶原はスタートラインに進み、ふう、と息を吐いて南にゴールを示した。南は、そこに
翼を見つけて、瞼を下ろした。
「あいつも止まってる。羽崎は学園一のハイジャンパーだが、全国一じゃない。あいつが
全国一になれるのは百メートルだ。わかるな?」
「わかります」
 フッと鋭く息を吐き出し、南は自分もスタートラインに進み出た。
 真上を見上げれば、南が陸上をやめた日と全く同じ季節を感じさせる青い空が、どこま
でも広がっていた。
 太陽が、熱い。
 スタートラインに立つと、あと少しで開始の合図がされるという緊張に、心臓の鼓動が
激しくなる。
「気持ちいいか」
「……はい」
 見透かされたように言われ、南は返事を返した。もう、二度と立たないと思っていた場
所だ。梶原をけしかけた陸上部の二年たちも、今は黙って二人を見ていた。誰も彼もが見
覚えのある顔で、南は苦笑した。
 全部、二年前に置いてきたものだった。
「正直、うちの部に俺と張り合える奴はいないよ。中等部最後のお前の記録、それを見て
から、楽しみにしていた」
 ぐっと親指を立てる。
「真剣勝負だ」
「俺、忘れ物したんです」
 南も、言った。百メートル先、固唾を飲んで見守っている翼を見つめて。
「コンマ一秒でも速く、取り戻します」
 笛が鳴る。
 二人が同時にクラウチングスタートの構えをとる。
「よ〜い」
 シン、と一瞬静寂が広まる。
 それも刹那の時間の空白だ。
 パンッ、とスタートの合図と同時に、二人は駆け出していた。
『走ってきなよ』
 常久が勧めてくれた。
『やることは決めたな?』
 親身になって考えてくれた内藤。
『決めたんなら、後はやるだけだよ』
 菜子は最後の迷いを消し去ってくれた。
 栄美も、奈々香も、何かと言っては南に道を開いてくれた。
 そして──。
『私は馬鹿だったけど、南くんは大会がんばってね』
 中等部の頃の、果たせなかった約束。
 それら全てに対して恩返しするために。
 もらうだけではなく、返せる自分になるために。
 後悔からではなく、思い出した走る理由のために。
(コンマ一秒でも速く!)
 そう考えているうちに、勝負はついていた。

                ※

「ったっ!」
 地面に転がって二転三転した南は、砂まみれになって顔を上げた。どうやら、新しいシ
ューズがまだ足に馴染んでいなかったらしい。
 歓声が上がる。同時に、南は差し出された手に目をしばたたいた。
「先輩……」
 手の持ち主は、汗の玉を額から滴らせた梶原だ。反射的に南がその手を取ろうとした途
端、彼は言う。
「負けたよ。一緒にタイム聞いてみるか?」
「十秒二一です!」
「だとさ。オリンピック、狙ってみるか?」
 それだけ言うと、梶原はその場で大爆笑を始めてしまった。掴むべき手を引っ込められ
てしまった南が呆気に取られていると、今度は顔に影が降ってきてそちらを見た。
「翼……」
「おめでとう、南くん」
 嬉しそうに、だが恥ずかしそうに翼がタオルを渡すと、南はそれで顔を隠すように汗を
拭った。翼もしゃがみ込んで、静かに訊く。
「もしかして、ずっと隠れて練習してた?」
「するか」
 ぶっきらぼうに南が応えると、翼が頷く。タオルを顔から外した南は、翼を真っ直ぐに
見て言った。
「ずっと、お前の怪我のことで陸上やってなかった。いや、怪我じゃなくて……」
「?」
「……お前が女だから、俺と同じ練習メニューじゃいけないって、保健の先生に言わ
れた時、思った」
 言い辛そうに、南は言葉を続ける。
「ああ、翼は女だったんだなって」
「な、何それ……」
 まじまじと翼は南を見る。南は、手で顔を押さえて、消えそうな声で、言葉を紡ぎだし
た。
「それまで、女の子として見てやってなくて、わるかったなって……思った」
 カアッと翼が首まで赤くなる。南が何を言いたいのか、わかったのだ。
 南は、座り込んだまま、翼から目を逸らさずに言った。
「百メートル、全国大会、行こうか?」
「うん!」
 満面の笑顔こそ、翼の返事だった。


「コンマ一秒でも速く、か」
 頭を掻いた梶原に、奈々香が歩み寄ってニヤリと笑う。
「二年に負けたな」
「これは奈々香嬢。格好悪いところを見られたな」
 そう言って梶原は肩をすくめたが、表情はすっきりとしていて、むしろ先程の大爆笑の
余韻をまだ残していた。
「まあ、負けたのも当たり前かな」
 クスクスと笑う梶原に、奈々香は興味を引かれたように首を傾げる。そんな彼女に片目
を瞑り、梶原は翼を指さして言った。
「あっちには勝利の女神がいたんだからな」
「翼が女神、か」
「もちろん、俺の女神さまも募集中だけど?」
「そういうセリフは、しっかりと汗を拭いた後に言うんだな」
 まんざらでも無さそうに奈々香は返し、もう一度嬉しそうに微笑む翼を眺めた。
 からかうネタが増えたかな、と。
 奈々香は微笑ましげに思って、青い空を見上げるのだった。


                                  終







                後日談


 放課後、初めての倶楽部活動に行こうとした南は、教室の外で待ちかまえていた栄美に
眉根を寄せた。
「どうした、神楽坂」
「聖火祭の願い事の紙、ちょうだい」
「悪い。それ、翼が欲しいって言ったから渡した」
「ええぇ〜!」
 ぷうっと栄美が頬を膨らませる。すっかり栄美のことを忘れていた南は、しかし栄美な
どどうでも良いようにその横を通って廊下を進む。ハッと栄美が気づいた時には、南はか
なり先まで行っていた。
 走って南に並んだ栄美は、ぶーぶーと言う。
「彼女が出来たからって、約束破るなんて酷い」
「常久のオブジェを買い取った覚えはないんだが」
 しつこい少女に閉口していると、廊下の先に常久を見つけた南は早足で急いだ。
「あれ、どうしたの?」
「常久、引き取れ」
 彼の親友は、栄美の姿を見つけたと同時に状況を理解した。
「耐久消費財は引き取りにお金がかかるんだけど」
「幾らだ?」
「そうだねえ……」
「誰が耐久消費財よ……」
 と、栄美は気がついて唐突に頬を染めて足を止める。男二人が怪訝そうに振り返ると、
栄美は南を見てうつむいた。
「?」
「南くんのお願いの紙って、寮の部屋にあったんでしょ?」
「ああ」
「それを翼ちゃんの練習が終わった夕方以降に渡したってことは……」
 両頬に手を当てて、栄美が後退る。
 何かとんでもない想像をされている気がして、南はうんざりした。
 そのタイミングで、翼が廊下の向こうからやってきた。南を迎えに来たのだろう。
 だから、よけい騒がしくなった。
「つ、翼ちゃん! 特治なのに不純異性交遊していいの!?」
「な……っ!?」
 ボッと一瞬にして翼が赤くなる。日焼けしていてもわかるその変化に、周りの生徒が一
斉に好奇の視線を向けた。いや、栄美の叫びが問題だろう。
「い、いいじゃないですか、手を繋ぐくらいっ」
 翼の純朴過ぎる応えがさらに笑いを巻き起こし、倭学園普通科二年の廊下は翌日の学園
新聞に載るくらいの騒動に発展した。
 この騒動が原因で翼は一時的に特治としての活動を停止され、聖火祭では一般生徒とし
て南と一緒に聖火に願い事の紙を投げ入れることが出来るのであるが。
 彼女が何を願い、炎に投げ入れたのかは、秘密である。


                                  全終





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