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Blue Eden Project前編
            「海を唄うピアノ」


                序


 音階が跳ねる。そこから息継ぎをせずに浮上し、今度は大きく羽ばたいて大空に舞う。
 心臓が破裂しそうに動悸が激しく、しかし羽根を休める陸地さえ見えないで音は飛翔し
続ける。
 無理で当たり前なのに、休むのを許されない苦しさ。
 それが苦しい道のりであると知っていながら羽ばたかせた者が憎い。
『殺してやる』
 そう音が言うような気がする。
『ここは高すぎる……』
 弱音を吐いた音は見捨てられる。
 音階が直角に落ちる。
 誰も振り向かない。
 落ちれば、消えるだけだ。
 鍵盤の端から端までを指で流し、常久(つねひさ)は全ての指で同時に音を生み出す。
 計算された不協和音が視聴者に最後のとどめを刺す。
 ジャンッ! と。
 静寂が訪れてから、誰も反応を返さなかった。
(失敗した?)
 疑問に思う暇さえあった。
 だが、
「────────!」
 間を置いて盛大な拍手がステージに叩きつけられ、常久は安堵の息をついて客席に一礼
した。
 その拍手が得られれば、後はコンクールの結果に興味はない。





                1


 日本列島の東側、太平洋上の島に広大な敷地を持つ倭(やまと)学園。
 有名無名の生徒たちで溢れ、二十四時間人の声が途切れることがなく、その敷地のどこ
かではそれこそ夜にのみ活動する生徒も存在している。生徒とは名ばかりで、まったく授
業に参加しない者もいる。そこはあらゆるジャンルの人間が集い、一つの空間でノンジャ
ンルで過ごす場所──そんなふうに表現すればよいのだろうか。
 とりあえずの枠組みとしては、初等部、中等部、高等部、大等部、特殊専攻学部の五つ。
 初等部から大等部までを倭学園で過ごし、そして卒業後に倭学園の教師になる者も少な
くない。倭学園はまるで小さな国家のように存在し、その中で多くの有用な人材を育てて
きたのだ。
 高等部の芸能科、二年二組に在籍する三神常久(みかみ・つねひさ)もそんな環境の中
で才能を伸ばしてきた生徒の一人だった。
 常久という少年を表現するなら、まず挙がるのがピアノを弾くのが上手い、ということ
だろう。幼少時から専門の教師に学んだ常久は、外部から倭学園の中等部に入学してきた
時には、すでにあらゆる国内コンクールで賞を総なめにしていた。
 曰く『天才児』『ピアノ界のアマデウス』『音律のパイオニア』等々。幾らでも評する
言葉はある。
 当然音楽専攻の学校に通うとばかり思っていた周りは、常久の倭学園入学に当時とても
驚いた。だが、倭学園が多くの学生芸能人を抱える場所であり、独立した学園都市モデル
校であったことが、最終的には周囲の大人たちを納得させた。
 特殊な場所には、特殊な才能の看板が必要なのだ、と。
 そして、現在常久は高等部の二年だ。危惧されていた技術の衰えもなく、むしろ鋭利さ
を増した常久の演奏は、聴く者の心臓を鷲掴みにするほどの、一種暴力的なものに進化し
ていた。
 暴力的な、感動。無理矢理胸をこじ開けられる快感。
 ピアノというものが持つ魔性をそのまま体現させたような常久の演奏の評価は、これ以
上ないくらい高い。
「要はみんなマゾなんだよ」
 とある記者がそう言ったが、それに皆が頷いてしまう。それだけのものが込められた演
奏なのだ。
 そんな記事があったな、と思いながら、常久はピアノを前にして新しい楽譜を眺めてい
た。
「なあ、楽しいか?」
「うん」
 後ろから言われて、常久は頷いた。眉にかからない程度の所で切り揃えられた髪に、糸
のような細目。どこかボーっとして見えるその少年の名前を聞くと、ステージ上での常久
しか知らない者はとても驚く。
 しかし、見慣れている伊東南(いとう・みなみ)はその顔に注意も向けずに後ろから楽
譜を覗き込んだ。
「音符が並んでるだけだろうが。わざわざ書店から取り寄せたって聞いたから何かと思え
ば……」
「人気あるんだよこれは。学園を通さなかったら手に入らなかったかもしれないんだよ?」
「世の中物好きがそんなにたくさんいるのか?」
 むう、と南は顎に手を当てて難しい顔をする。常久は楽譜から顔を上げないで、鍵盤の
カバーを外した。
「例えばさ、ここ見てて」
「おう?」
 自分が示した小節に南が目を向けたのを確認してから、常久は鍵盤に指を走らせた。
 ほんの短い小節。だが、確かに曲の一部が紡ぎ出される。
 それを聴いた南は、首を傾げて言う。
「それが?」
「楽しくないか? こういうふうに単なる記号の集まりが、旋律になるんだよ」
「俺にはわからん……」
 肩をすくめると、南は指を鍵盤に伸ばした。たどたどしく、ドレミと叩く。常久と違っ
て肩幅が広く筋肉質な南がそうすると、妙に愛嬌がある。
「弾けるじゃないか」
「すっげえ嫌味……」
「ドレミが基本だから、それさえ弾ければ後は慣れだよ。結局、鍵盤を叩くだけの技術な
んだから」
 軽く言うと、常久はチラリと壁にかかった時計を見た。短い針は八を少し越え、長い針
は四に乗ったところだった。
 南を見ると、まだ難しい顔で楽譜を睨んでいる。
「なあ、これは?」
「フォルテくらいわかるだろ?」
「ああ、これがフォルテか……」
 さすがに苦笑して、常久は楽譜を閉じて立ち上がった。南も腕時計を見てピアノの片づ
けを手伝う。
「今日の朝練はここまで……っと」
 ピアノの蓋にしっかりと鍵を掛け、常久はその鍵をポケットに入れた。倭学園の高等部
第二音楽室を自由にする許可を、常久は持っていた。
(まあ、期待された分はちゃんと返すけどね……)
 正直、コンクールで賞を取ることにあまり興味は無かった。どちらかと言うと、自分が
弾き終わった後の拍手が欲しくて、だからコンクールにも出場している。付随する賞は、
自分の人気のバロメーターということにすれば良いだろうか。
「なあ、南」
「なんだ」
「僕って、凄い?」
「はあ?」
 真剣に問いかけてくる常久に、南は面食らって、音楽室の扉を閉めながら言った。
「まあ……凄いんじゃないか? 俺は知らないが、凄いんだろ?」
「そうらしいね」
 しれっと言う晃久に、南は閉口して彼の頭にペシッと手刀を落とす。
「……お前、俺を馬鹿にしてるだろ?」
「そんなことないよ」
 心外と肩をすくめて、常久は自分の教室へと向かった。南も横に並んで、言う。
「俺は音楽とか全然わからないが、何か悩みでもあるのか?」
「別に。音楽の悩みだったら、南なんかに訊かないよ」
「……まあな」
 どこまでも歯に布を着せぬ友人に、再び南は閉口する。そんな少年の不機嫌な顔も、常
久には慣れっこだ。すぐに、日常の会話に戻る。
「それより、今日の一時間目は何だったっけ?」
「知るかっ。お前は芸能科だろ!」
 普通科の南は軽く常久を小突き、階段で手を振って別れた。南の背中を見送った常久は、
苦笑して再び歩き出す。
「そりゃ、音楽の悩みだったら訊いたりしないよ……」
 悩み事は、他にあるのだ。それは、毎朝南と別れた後にやって来る。
 芸能科、二年二組の教室の前。
 いつも通り目立つその姿に、常久は頭を抱えた。
「あ、おはよう!」
「……おはよう」
 真っ赤な短い髪。なのに、もみあげだけ長く、肩過ぎまである。およそ学校の廊下に相
応しいはずがない若草色の振り袖を着たその少女に、常久は半分諦めながら朝の挨拶をし
た。
 少女の名前は、ふるさと演歌倶楽部所属、神楽坂栄美(かぐらざか・えみ)という。

                ※

「で、何か? お前、ストーキングされてるって?」
「そこまでは言ってないけど……」
 昼休み、朝に寮で買っておいたサンドイッチを食べながら常久は眉根を寄せた。芸能科
の教室で食事をとるのは、南との約束事のようなものだった。その南は、戦場である購買
で手に入れてきたヒレカツサンドパンを大事そうにパクついている。
「ふるさと演歌倶楽部って言ったらアレだろ、今年の入学式で校歌のテープと演歌の伴奏
を入れ替えた所」
「そう、それ」
「なんでお前、そこに勧誘されてるんだ?」
「さあ?」
「だって、三神くんピアノ上手いから」
 会話に割り込んだのは、赤い髪が派手な小柄な少女──栄美だ。一つの机に向かい合っ
て座る常久と南の横で、にっこりと営業用の笑みを浮かべている。
 そんな少女を、南は怪訝そうに指差す。
「なあ、これ何?」
「最近仕入れたオブジェ」
「これもらっていい?」
 そう言ってそぼろパンに手を伸ばす少女を押し止め、南は憮然とした顔で、サンドイッ
チを頬張り続ける常久に言う。
「こっちにまで被害が来てるから、何とかしろ」
「そんなこと言われても……」
 せっかく無視していたのに、と常久は頭を掻く。ようやく眼中に入れてもらった栄美は、
自前のおにぎりに噛みつきながら人差し指を立てた。
「無視しないでよ。こっちは休み時間の度に来てるんだから」
「……嫌がらせか」
「うん、ほとんど」
「そういう言い方しなくても……」
 ぼそっと南が言い、常久が頷くと、ぷうっと栄美が頬を膨らませる。少々丸顔気味の栄
美は、そうするとまるでハムスターのように愛嬌のある顔立ちをしていた。可愛らしい容
姿かと尋ねれば十人中七、八人くらいは可愛いと言うだろうが、常久は栄美を上から下ま
で見てため息をつくのだ。
 真っ赤に染められた髪。若草色の振り袖。それが問題だ。どこに校内を振り袖姿で闊歩
する生徒がいるというのか。その姿はあまりに奇異で、愛嬌云々を差し引いてもお近づき
になりたいとはあまり思えなかった。いわゆる、変なのだ、全体的に。
「なあ、毎日その格好で授業受けてるのか?」
「そうよ?」
 南に訊かれると、何がおかしいの? と逆に瞳で問いかけてくる。南が視線で助けを求
めるが、常久は首を横に振って肩をすくめた。
 栄美は、長いもみあげを揺らして振り返って言う。
「だから、私たちの倶楽部に入らない? 三神くん、まだ何も倶楽部に入ってないんでし
ょ?」
「まあ……」
 事実なので、常久は頷いた。
「でも、入る気がないから入ってないんだよ。 僕、ピアノで忙しいから」
「その点は大丈夫!」
 やけに自信満々に栄美が常久に笑いかけた。
「私たち、行事とか無い時は自由参加だから。音あわせなんかも全然やらないし」
「音あわせって……演歌倶楽部って何やってるの?」
「演歌」
 あっさりと言われ、常久は眉をしかめてサンドイッチを飲み込んだ。栄美はパックの麦
茶を吸いながら人差し指を立てる。
「古今東西の演歌を唄うの。簡単でしょ?」
「で、ふるさと演歌倶楽部の何がふるさとなんだ?」
「演歌って言ったらふるさとでしょ?」
 尋ねる南に答えて、栄美は常久を見る。常久は迷惑そうに次のサンドイッチに手を伸ば
した。
「僕は倶楽部に入るつもりはないよ。誘うなら南でも誘ったら?」
「ピアノが欲しいの!」
 声を荒げて栄美は常久にぐっと顔を寄せる。常久は逃げようとするが、椅子に座ったま
まではそれも不可能だ。身体を後ろに反らした分だけ、栄美も身を乗り出してくる。
「次の舞台で、三神くんにピアノ弾いて欲しいのよ」
「ピアノって言ったって……」
 常久は南と顔を見合わせて困った顔になった。
「演歌だろ?」
「演歌にピアノの伴奏って、結構あるんだから」
「そう言えばそうだな」
 南がおざなりに言う。常久はとりあえず栄美の肩に手を当てて押し返し、頬を掻く。
「だから、僕は倶楽部に入る気も無いし……ピアノなら他にも弾ける奴はたくさんいるだ
ろ?」
「三神くんより上手い人いる?」
「いない」
 合わせるように南が言い、常久は恨めしそうに南を睨んだ。南は我関せずで昼食を続け
る。それ見たことか、と栄美はやけに自信満々に頷いた。
「ほらね?」
「ほらね、じゃなくてさ……」
 最後のサンドイッチを食べ終えると、常久は立ち上がって手を振った。
「じゃあ、僕は練習だから」
「おう」
 南が返事を返し、栄美も立ち上がる。常久の後について教室を出ていく栄美を見送り、
南はふむ、と頷いた。
「アレが神楽坂か……」
 倭学園では結構な有名人である。その際立った格好はもちろん、高等部に入学してきた
時からのあばれっぷりは、学園新聞でも何度か一面を飾っている。ふるさと演歌倶楽部の
主力として、幾多の舞台で主役を張ってきた少女だ。
「また変なのに絡まれてるな」
 呑気に、他人事ならではの落ち着きぶりで呟き、南は大きくあくびをした。
「ま、がんばれ」
 問題が倶楽部勧誘では──しかも、別に嫌うような問題のある倶楽部でなければ──友
人と言えども、口出しする必要はない。
 何より、と南は思う。
「まんざらでもないくせに」
 基本的に、ピアノを弾くのを嫌がるような少年ではないのだ。

                ※

 ピアノを弾くということは曲を奏でるということだ。
 旋律はそのまま曲であり、他のどの楽器も加える必要なく一つのまとまりとして表現さ
れる。
「僕のピアノはさ、誰かに合わせて弾くものじゃないんだよ」
 ピアノの蓋鍵を外しながら常久は言った。派手な振り袖姿でついてきた栄美は、行儀良
く膝の上に手を揃えて椅子に座っている。
「一つ弾くから、聴いてて」
「もう何度も聴いたよ」
「…………」
 ちょっと嬉しくなってしまった常久は眉根を寄せ、鍵盤に指を置いた。
 そして、弾き始める。
「『子犬のワルツ』」
 小さく呟き、曲名を教える。
 同時に、音が跳ねた。何本もの指が同時に鍵盤を押さえる不協和音。
 ゾクリ、と栄美は鳥肌を立てて顔をしかめた。
 しかし、すぐにそれは鳥肌よりも酷いものに変わる。
(子犬のワルツ?)
 どこが、と思わせる曲。信じられないほどの早弾きで音階を『外して』なぞり、それで
も旋律だけは元曲の姿を残す。だからこそ感じる違和感。子犬が首輪をはめられ、無理矢
理走らされる感覚。
 アレンジにしても、激しすぎる。すでに他の曲で通じる曲だった。
 曲が終わると、常久は息を吐いて言う。
「こんな感じ。僕の曲って、歌に合わせるのは無理だよ」
「そんなこと無いよ」
 自信たっぷりに栄美は笑みを浮かべた。鳥肌の立ったままの腕を見せ、嬉しそうに言う。
「こういうピアノが欲しいんだから、ぴったりなのよ」
「こういうピアノって……」
「雑誌で言うなら、人を傷つけるピアノ」
 うっ、と常久は顔をしかめた。
「雑誌まで調べたの?」
「部員になる人の情報くらい知っておかないと」
「ならないって。何度言ったらわかるのかな……」
 舌打ちして、常久はピアノに顔を戻した。そこに栄美がピアノ上の楽譜を開いて指で示
す。
「これ弾いてくれない?」
「……いいけど」
 仕方なく、常久は開かれた『乾杯』を弾く。
 それと同時に、栄美がすうっと息を吸い込んだ。
 唄う。
 常久は驚いて指を止めかけ、しかし栄美と目が合って、その視線に演奏を続ける。伴奏
にならない演奏。歌など必要ない。
 それでも、歌はそこに入り込んだ。ごくごく自然に。
 旅立ちを祝う歌は、傷つけるようなピアノと、微笑むようなやわらかい歌によって、二
つの心を表現する。
 旅立ちを共に喜び、励ます歌。
 旅立ちを寂しく思い、引き留めようとする曲。
(おめでとう)
(このままここにいた方がいい)
 ジレンマを抱えた人の想い。
 それを表現するには一つの楽器では足りない。
 ピアノと、もう一つ。
 人という楽器から生まれる歌というもの。
 それが、完成している曲をさらに別のものに変える。
「どう?」
 唄い終えると、栄美は息を吐いて微笑んだ。
 常久は真剣な顔で楽譜を睨み、ページをめくった。
「これは唄える?」
「『ドナドナ』ならわかるわよ。替え歌で唄ってみよっか?」
「そのまんまでいいよ」
 一曲終わると、常久は栄美を見て言った。
「歌、上手いね」
「それが取り柄の一つだから」
「あ、そう……」
 ただ一つの取り柄とは言わない。ちょっと新鮮で、常久は小さく笑った。
 再び鍵盤に指を乗せる。
「じゃあ、これは?」
「……『白鳥の湖』なんて歌詞知らないよ……」





                2


 基本的に常久の一日は寮で目覚めることから始まる。
 周りより早めの朝食をとり、校舎の第二音楽室で朝練に励む。特に目標があるわけでも
無く、ただそうするのが好きだからだ。
「朝ってさ、音が凄く通らない?」
 その日の朝は、南の他にもそのピアノを聴く者がいて、唐突に口を挟んだのもその少女
だった。
 南は新聞を読みながら首を傾げ、軽い口調で応える。
「不純物が混じってないからじゃないか?」
「そっかあ」
「うるさいよ、そこ……」
 眉根を寄せて常久は南と栄美に注意した。それでも曲は途切れることなく、信じられな
い早弾きを行っている。
「それなんだ?」
「『メリーさんの羊』でしょ」
 南に栄美が教え、常久が頷く。南は呆れて新聞を折り畳んだ。
「どこがメリーさんだ? それくらい俺だって聴いたことあるぜ」
「三神くんバージョン。この前は『子犬のワルツ』が子犬の調教になってたよ」
「その感覚も良くわからなんがな……曲聴いて、そうやって何がどうとか、どうやったら
わかるんだ?」
 心底不思議そうに南が言うと、栄美の方も目を丸くして驚いた。
「だって、普通聴いたら頭の中にイメージが涌かない?」
「涌かないな。よくわからん。歌ならよく聴くが、曲だけってのは興味ない」
 あっさりと言って、南は栄美の格好に目を細めた。
 栄美はやはり振り袖姿で、今日はほとんど花の残っていない桜の木が意匠の中心だ。春
も終わり、ということだろう。
「次は葉桜とか?」
「え?」
 突然言われ、間抜けな声で聞き返した栄美は、すぐに気づいて首を横に振った。
「陸上競技大会が近いから、次はスポーティーなのを着るかな」
「スポーティな着物……?」
 南には想像できない。
 そうこうしているうちに常久の演奏は終わり、同時に少年は脇の二人に向けて言った。
「凄くうるさいんだけど」
「俺一人ならうるさくない」
「私一人だとうるさくないと思うけど」
「…………」
 二人揃っていれば充分にうるさいのであるが、常久は頭を掻いて時計を見た。まだ時間
はあるが、今日はここまでにする。
「今日は早いな」
「残念ね」
 南と栄美は互いに妙に話しやすいらしく、一緒にいるとうるさくてたまらない。常久が
ピアノを弾いている時に横で雑談できるのは、この二人くらいだ。
「どうして静かに聴こうって気にならないのかな?」
「俺、音楽に興味無いからな」
 堂々と胸を張って南が言い、それはもともとわかっているので、常久は栄美に視線を向
けた。栄美はきょとんとし、
「だって、練習でしょ?」
「まあそうだけど……」
 常久としては、周りに人がいればちゃんと聴いてもらいたいのである。
 聴いてもらいたい、という欲求があるから、弾く。
 一瞬の常久の表情にそれを読んだわけでもないだろうが、栄美はハムスターチックな顔
を笑顔にして人差し指を立てた。
「聴いて欲しいなら、ふるさと演歌倶楽部が舞台を用意するけわよ?」
「それは魅力的なんだけど……僕は、他の倶楽部からも声がかかってるから」
「あ、そうなんだ? じゃあ、うちだけに入ったら角が立つよね……」
 初めて聞いたというふうに栄美が困った顔をする。そこに、南が興味深そうに尋ねた。
「で、どんな倶楽部から声がかかってんだ?」
「クラシック演奏倶楽部とか、ピアノ倶楽部とか、他には倶楽部外のバンドとかその辺り」
「バンドか」
 南は栄美を見て言った。
「演歌倶楽部だって、何人かでやるならバンドだろ」
「私の場合は、後ろで三神くんに弾いてもらいたいだけだけど……」
「バンドだって」
 南はにべもない。その容赦なさに、常久は苦笑して頷く。
「そうだね。演歌倶楽部もバンドみたいな感じか。神楽坂さんの他には、どんな人がいる
のかな?」
「他に? ええと……部長とか、柊(ひいらぎ)とか、納馬(なんま)くんとか」
「名前だけ言われてもわからないけど……ええと、特にそのナンマって何?」
「名字だよ」
「珍しい名字だね……」
 そう言って、常久はピアノの蓋鍵をかけた。手早く楽譜をまとめると、部屋を出る。南
と栄美はそれについていく。
 三人が三人ともマイペース気味なので、誰かが動けばそれについていくのが三人の当た
り前だ。いちいち行動に断りの言葉など入れない。ついてこないならそれで構わないと思
うから、何も言わないで行動するのだ。
 いつも通りに芸能科と普通科の分かれ道に来ると、二つに分かれる。
 が、今日は常久が栄美の袖を掴んだ。
「?」
「少しいいかな」
「じゃ、俺は行くな」
 気にせずに、南が自分の教室に向かうと、常久は栄美の袖を掴んだまま言った。
「僕、演歌倶楽部には入れないから、あまりちょっかいかけないで欲しいな。一緒にいる
と、演歌倶楽部に入ってるように見えるかもしれないし」
「ふうん?」
 特に表情も変えないで、栄美は常久を見た。
 常久は、その視線を避けて目を逸らした。
「三神くんはさ、倶楽部に入る気は無いんだよね?」
「ん、そうだけど」
「だったら、今はそれでいいでしょ」
 笑って、栄美は言う。
「私たちがその気にさせてあげるから、入りたくなったら入って。入る気になったら、他
の倶楽部なんか気にならないよ」
「あのねえ……」
「私はね」
 と、栄美はその場で両腕を横に伸ばした。振り袖が広がり、散り終わる寸前の桜の柄が
常久の前で一杯になる。
「好きだからこういう格好もするし、好きだから唄うの。三神くんは人にピアノを聴いて
もらいたいんでしょ? だったら、うち以上の倶楽部は無いと思うの」
 自信たっぷりなその態度。
「最高の舞台を用意してあげるから、期待しててね」
 倭学園という場所で、何度も目立つ舞台に立ってきた少女。
 この特異な学園で目立つということは、生半可なことではない。
 生来の性格に、舞台に立つ歌手という道。その二つが揃ったから、栄美はこれほどの自
信に溢れた表情をできるのだろう。
 同じように舞台に立ち、万単位の客の前でピアノを弾いたこともある常久ですら感心し
てしまうほどの態度だった。
 知らず、常久は訊いていた。
「最高の舞台って、陸上競技大会で?」
「そう。楽しそうじゃない? 全校生徒の前でピアノの演奏と演歌を同時にやるの!」
 ピアノを伴奏でなく演奏と言う。
 思わず頷きかけ、しかし最後の所でやはり常久は深く息を吐いていた。
「その気になったらね」
「うん」
 全校生徒の前。
 その一言に一番胸を躍らせたのは、やはり常久が根本的に多くの人に聴いてもらいたい
欲求によって行動を決めているからだろう。

                ※

「栄美」
 栄美は教室への途中で呼び止められ、クルリと振り返った。
「なに?」
「三神はどうなってる」
「これ」
 栄美は顔の前で腕をクロスさせて苦笑した。それを見た少年は、頭を掻いて肩をすくめ
る。
「お前が言うから止めてないけどな、あんまりかまけてるなよ? もうすぐ本番なんだか
らな」
「わかってる」
「……本当か?」
 眉根を寄せるのは、長身の少年だ。百八十センチは越える背丈に、その腰まである長い
髪を首の後ろでくくって尻尾にしている。目つきは良いと言うよりは悪く、瞳はやや茶が
黒に勝っていた。彫りの深い、一目で西欧の血が混ざっているとわかる容貌をしている。
 栄美はクスリと笑うと、少年の腕に抱きついて言った。
「大丈夫。もし三神くんが駄目でも、その時は納馬に弾いてもらうから」
「納馬で大丈夫か?」
「柊よりは上手いじゃない」
「俺よりはな。三神と比べものにならないなら一緒だろう」
 少年──柊は栄美をぶら下げながら廊下を歩き、しぶい顔をする。
「正直、三神が入ってくれればこれ以上ない舞台になるんだがな」
「ほらそうでしょ? どうしていつもはそうやって三神くんを素直に褒めないのかな」
「あいつはメジャー過ぎる。今さら褒めても意味無い」
「ふうん?」
 栄美の教室である普通学科の二年十組の前で柊は栄美を下ろし、その頭をくしゃりと掻
き回して見下ろした。
 まだ早い時間のため、生徒が見えない廊下で二人はしばし睨み合う。
「どうしても三神の勧誘を続けるんだな? それを前提にして練習して、駄目だった時に
恥をかくのはお前だぞ」
「当然でしょ。だから私も一生懸命なんだから」
 パン、と柊の腰を叩いて、栄美は自分の教室に入り込んだ。
 と、不意に思い出したように言う。
「それだけの価値があると思うよ、三神くんのピアノ」
「…………」
 チッと舌打ちして、柊はポケットに手を入れて歩き出した。尻尾を揺らし、吐き捨てる
ように呟く。
「アホ」
 通り際に十組の扉を蹴り飛ばしたのは、ちょっと情けない男の嫉妬かもしれなかった。

                ※

「これは何だ?」
「最近仕入れたオブジェ」
 南が訊き、常久が応える。オブジェ扱いされた栄美は、モナカを食べる頬を膨らませて
常久を睨んだ。
 昼休みの栄美は、珍しく振り袖ではなく体操服のブルマ姿だった。
「誰だ、それは」
「さあ……たぶん知り合いだとは思うんだけど……ここまで出かかって名前が出ないんだ」
「俺もそうなんだけどな……こんな地味な女の子が知り合いにいたか?」
「悪かったわね、いつもは派手で」
 栄美は食事中の二人を仁王立ちして眺めると、近くの机から椅子を奪って腰掛けた。常
久は珍しげに栄美の体操服を見て、ボソリと言った。
「ジャージは?」
「着ない」
 昼休みなのだからジャージを着ていれば良いのだが、栄美はかたくなに首を横に振って
みせた。妙なこだわりだ、と常久は苦笑する。
「さすがに体操服まで振り袖じゃないんだ?」
「生地が傷んじゃうから……」
 不満そうに言う栄美は、ごてごてした振り袖姿でないというだけで、以前よりも小柄に
見えた。伸びた手足はいつも振り袖に隠れているからか、白くほっそりとしている。
 南は地味と言ったが、赤毛の少女は、体操服姿でも充分に目立つ容姿をしていた。
(本当に、どうしてこれでモテないんだろう?)
 常久は不思議に思うが、じっと見ていると栄美が顔を赤らめて肌を隠そうとするので慌
てて視線を逸らした。
「ご、ごめん」
「あ?」
 南はわけがわからずに二人を見るが、どうでも良いと思ったのか、購買で残っていたち
くわサンドにかぶりついた。何故か動揺してしまった常久はストローをくわえて牛乳を吸
い、チラリと栄美の方を見る。
 栄美はその視線に気がつかないで、しきりに剥き出しの腕や脚を縮こまらせていた。
「やだよね、こういう服……布が少なくてすーすーする」
「そうかあ、俺は結構好きだぜ? 運動するって気になるだろ」
 体育会系の南はそう言うが、常久はコメントできなくて沈黙した。
「運動は嫌いじゃないけど、ブルマって好きじゃないの」
「ならスパッツでも何でもいいだろ。うちってそういうの自由だよな?」
「うん」
 話を振られて、常久は頷いた。基本的に、どんなものでも身体に合っている体操服の着
用は黙認されている。黙認ということは、本当はいけないということなのだが。
「でも私、着物にお金使ってるから指定の体操服以外持ってないの」
「そういう問題なのかよ」
 同情の余地無し、と南が食べ終わったパンのカスを机の上から払い落とす。常久もパッ
クを握り潰して立ち上がった。
「今日はどこ行くの?」
「今日は初等部の方で演奏を頼まれてるんだ。桐生綾(きりゅう・あや)ちゃんっていう
子の歌の音合わせだってさ」
 常久が言うと、栄美は不満そうな顔をした。
「初等部に行くんなら、私はいいや。三神くんの演奏聴いてたら、時間無くなっちゃう」
「……もしかして、武藤先生?」
「ああ、あのチェックの厳しい……」
 南はげんなりして栄美の肩を叩いた。
「初めて同情した」
「じゃあ、がんばってね」
 栄美は微笑むと、小さな手が常久の胸を叩いた。頷いて栄美を見送った常久は、知らず
にため息をついていて南に笑われた。
「なんだ、神楽坂がついてこなくて残念か?」
「ん、少し。客が減っちゃったな……」
「そういう残念かよ」
 つまらなそうに南は肩をすくめ、頭の後ろで腕を組んで教室を出た。それに小走りに追
いつき、常久は訊く。
「で、桐生綾ってどんな子なのかな?」
「子役タレントだとよ。レッスンにつき合わされるんじゃないのか?」
「へえ、詳しいね」
「まあな」
 ニヤリと笑って、南は常久を見た。常久は感情をうかがわせない細目のまま、南の横を
歩いているが、その眉に力が無いことに長い付き合いの南は気づいた。
「客が一人減ると、そんなに寂しいのか?」
「……まあね」
 自分でも意外そうに常久は苦笑した。
「目立つ客は特に、ね」





                3


 五月に入るとゴールデンウィークで休みの日が多い。寮にいてもすることが無い常久は、
南でも誘って遊びに行こうとしていたところに電話がかかってきて、携帯電話を耳に寄せ
た。
「はい、三神です」
『あ、三神くん』
「……神楽坂さん?」
『うん。今日暇?』
 暇すぎるので、常久は正直に返事を返した。
「暇だよ」
『じゃあさ、どこか遊びに行かない? 寮にもあんまり人いないでしょ』
「神楽坂さんは帰らなかったの?」
『家に帰ってもまたすぐに戻ってこないと行けないんだし、倶楽部もあるし』
「ふうん」
 倭学園の生徒は寮住まいがその大部分を占めている。ゴールデンウィークのような連休
には皆実家に帰るなり、友達同士で旅行に出かけているなりしていて、常は騒がしいほど
の寮がいきなり静まりかえっていた。
 栄美と同じ様に、すぐに戻ってくるのが面倒で寮に残っていた常久は、軽く頷きながら
言った。
「いいよ。どこで待ち合わせしようか」
『もう来てるよ』
 コンコン、と部屋の扉が叩かれ、常久は目を丸くして扉を開けた。すると、そこにはピ
ースしている栄美と、笑いを噛み殺している南の姿があった。
「よう」
「じゃあ行こ」
「ちょ、ちょっと待って」
 慌てて常久は出かける準備をした。特に用意するものは無いが、財布をズボンのポケッ
トにねじり込み、チェーンで止める。それから栄美の方を見て、
「夕飯は?」
「外で食べよ」
「わかった」
 ゴールデンウィーク中は寮の食事が人数分だけしか作られないので、食事を外で済ませ
る外食届けを手早く書く。
 と。
「入らないでくれる?」
「ピアニストの部屋だね」
 いつの間にか入り込んだ栄美が常久のベッドに座り込んで言った。栄美の言う通り、部
屋の書棚には楽譜が並べられ、CDラックにはピアノ独奏の曲が多数。机の上に音叉があ
り、音を洩らさないで練習できる電子ピアノがそう広くない部屋の一角を占有していた。
枕元には小さな液晶テレビがあり、栄美は珍しげにそれのスイッチを入れた。
「あ、ちゃんと映るんだ。でも目が疲れそうね、これ。枕の下にえっちな本とかは無い?」
「神楽坂さん!」
 たまらず怒鳴って、常久は栄美を後ろから抱え上げた。
「え?」
 思わず栄美が固まり、その隙に常久は栄美を部屋の外に放り出して鍵を掛けた。
 部屋の外で、栄美はびっくりした顔で南を見る。
「どうした?」
「……なんでもない。三神くんも、けっこう力あるんだ……」
「あんまりあいつをからかうなよ? キレると一番怖いタイプなんだからな」
 栄美は胸に手を当て、深く深呼吸した。さすがに、後ろから抱えられるのは少し驚いた。
 しばらくすると、常久は着替えを済ませて部屋から出てきた。スラックスズボンに青い
開襟シャツ、その上に白いパーカーだ。
 栄美は大して変わらない振り袖姿で、手には品の良い小さなバッグを持っている。南は
ジーンズズボンに、緑のポロシャツ一枚だ。
 常久は南を見て、少し苦笑した。それを見とがめて、南は栄美に聞こえないように耳打
ちした。
「どうかしたか?」
「なんでもない」
「……お前も神楽坂もなんでもない、か」
 ふむ、と南は顎に手を当てる。次第に、その唇の端が吊り上がり、笑みへと変わってい
く。なるほど、と。
「何それ?」
「なんでもない」
 ニヤリと笑って、南は二人に訊いた。
「で、どこに行く」
「……君たちが考えてるんじゃなかったの?」
「私はどこでもいいけど」
「なら街だな」
 南がまとめ、二人にも異存はなかった。
 倭学園は南北に七キロ、東西に八キロの大きさの島の八割を敷地として有する巨大な学
園だ。その中で寝起きする大部分の寮生徒のために、島にはあらゆるものが揃った学生街
が用意されている。大抵のものは寮や学園の購買部で足りてしまうが、少し大きな買い物
や、娯楽関係の楽しみは学生街に出て探すのが学生たちの定番となっていた。
 学生のための街であるから、当然飲酒の類の店は無いように思われるが、倭学園は大等
部もあるので探せばそういった店も見つかる。見回りの教師に年齢を偽って飲酒していた
学生が捕獲される、などのドラマも毎日のように繰り広げられる賑やかな場所であった。
「どうする、運送倶楽部でも呼ぶか?」
「帰郷してるんじゃないかな」
 男二人が相談していると、
「うちの倶楽部の自転車があるから」
 栄美が常久と南を寮の外に連れ出すと、そこには自転車が二台駐輪してあった。それを
見た常久と南は無言で顔を見合わせ、じゃんけんをした。
「何してるの?」
「神楽坂、お前はそっち。常久の方な」
「…………」
 肩をすくめて、常久は自転車にまたがった。振り袖で自転車をこげない栄美は、その常
久の背中に背負われる。常久も栄美もかなり疲れる態勢であるが、それ以外に方法が無い
ので仕方ないだろう。
 一人、南だけは涼しげな顔で街への道を進む。
「伊東くんの方が体力ありそうだから、あっちに行こうか?」
「……いい。こぐから」
 眉根を寄せて常久は言い、自転車のペダルを動かした。それは、かなり奇妙な光景だっ
ただろう。
 ゴールデンウィークとはいえ、学園の敷地内では、どこであっても何かしらの倶楽部が
活動している。陸上競技大会を控えた陸上部がランニングをする横を自転車で通り過ぎる
と、栄美は手を振ってそれを応援する。陸上部にも手を振り返す生徒がいて、栄美はにっ
こりと微笑んだ。
 そういった栄美の動きを背中で感じ、常久は流れていく風景を見つめていた。
 倶楽部で活動する者たちの姿。陸上部にも、他の運動系倶楽部で充分に通用する選手は
幾らでもいるだろう。当然、最初は他の倶楽部からの誘いもあったはずだ。
 それでも彼らは今、陸上部にいる。
 おそらく、と常久は思った。
 おそらく常久がどこの倶楽部に入っても、そう角が立つということは無いだろう。皆が
わかっている。他の倶楽部に入ったからといって角を立てるような心の狭さなど、何の意
味も無いことを。
 それでも文句をつけるようなら、他の倶楽部が失笑する。多くの倶楽部が存在する倭学
園だからこそ、倶楽部同士のメンツというのも重要な位置を占めてくる。
 学園は、一つの国のようなものだ。生徒たちが営むことのできるルールによって形作ら
れた国。その中で倶楽部は干渉し合い、時には不干渉を義務づけ、共存する。
 常久を多くの倶楽部が勧誘するのは、まだ常久がその枠組みに入っていないからだ。
(入っちゃえば、収まるんだろうな)
 当面の問題は、どこの倶楽部に入るか、だ。
 しかし、その問題もあまり深刻なものではない。
「?」
 肩を強く握られて、常久は首を傾げた。瞼を下ろした栄美が、息を吸い込んで青空に歌
を唄いあげる。
 特別な発声から生まれる、演歌独特の通る声。
「ほう」
 初めて間近で聴いた南が感嘆の声を上げる。
 常久も、栄美の演歌をこんなに近くで聴いたのは初めてで、純粋に感動した。
 他の歌とは違う、こぶしの回っていることによるその響き。
 身体に染みいるようで、それでいて高い所を通り過ぎているような低音と高音の絶妙な
混合。
 そして、唄い手の力量を感じさせる豊かな情感。
 背中に触れる栄美の身体から、それ以上の響きをも受けているような感覚に、常久はク
ラリと眩暈を感じた。
 無理矢理心に押し入ってくる、その歌。声。想い。
(どこかで聞いたな、そんな評価……)
 常久の演奏にも似た、その歌。
 どんなピアノにも、この歌なら負けないだろう。同じ強さで聴かせることができるだろ
う。
 そう、栄美は常久にサポートを頼んでいるのではない。
 一緒に一つの舞台を行おうと誘っているのだ。
 栄美くらいの実力を持っているからこその誘いだったのだろう。それだけの自信があっ
たのだろう。
「……けっこうな自信家だね」
「そう?」
 唄い終えた栄美は、にっと白い歯を見せる最高の微笑みを浮かべた。

                ※

 三人で買い物などをして時間を潰すと、南が時計を見て常久に言った。
「俺寮で飯喰うから、帰るな」
「は?」
 面食らって常久が見るが、南は財布の中身を常久に見せて肩をすくめる。
「金がない」
 とても現実的な一言に、常久と栄美は顔を見合わせてから南に手を振った。南は思い出
したように栄美を見て、
「自転車、借りるな」
「寮の駐輪場に置いておいてくれればいいから」
「おう」
 南が行ってしまうと、常久は頬を掻いて横目で栄美を見た。栄美は常久の腕の時計を見
て、次に茜色に染まってきた空を見上げた。
「そろそろ御飯、食べようか?」
「そうだね。何がいい?」
「ピアノがある場所」
「…………」
 それは無茶な注文であると思ったが、常久は仕方なくそういった店を探すことにした。
 学生街にはたいていのものが食べられるレストランや食堂が揃っている。その中でピア
ノがあるとしたら、食堂よりはレストラン。レストランよりはスナックのような場所だろ
う。
「先生に見つからないかな?」
「大丈夫よ。お仕事で来たって言えばいいんだから」
「お仕事?」
 常久は疑問に思ったが、栄美に腕を引かれてそれ以上言えなかった。
 学生街は、やはり常よりも人が少なくて、それでも寮にいるよりは賑やかな空気が常久
に快い。そのざわめきは、ピアノの演奏会の本番直前のものにも似ていると思った。
 自分の出番が近づくと、いきなり静まるその空間。
 皆がピアノを聴くためだけに神経を張りつめ、全身を耳にする。
 それがわかるからこそ、快感なのだ。
「神楽坂さんは、高等部だけで何回舞台に出たの?」
「……まず入学式。次に陸上競技大会──これは治安倶楽部に邪魔されたから知らないと
思うけど。それから夏休み前のコンサートに、夏休みの花火大会……って、ほとんどの行
事で唄ってると思うけど?」
「凄いな……」
 常久が感心の声を漏らすと、いえいえと栄美は手をヒラヒラと振る。
「柊とかより私の方が上手いから、私の出番が増えるの。あいつらももっと練習すればい
いのに」
「練習してるんだ?」
 少し意外な気がして常久は栄美を見た。栄美は何を当たり前のことを、と肩をすくめる。
「毎日発声練習とか唄い込み欠かしてないんだから。放課後は柊たちと次の舞台の予行も
してるし」
「ゴールデンウィークが終わったら、もうすぐか」
「陸上競技大会はね」
 いったいどんな演歌を唄うつもりなのか、常久にはわからない。そもそも、陸上競技大
会で演歌を唄おうというのは、かなり無謀な気がする。
「本当に舞台を用意できるわけ?」
「当然。去年失敗したから、今年はぬかり無いわ」
 ふふふ、と人差し指を立てて自信ありげに笑う。これは犯罪者の笑いだ、と常久は引き
つった。これ以上深いことを訊けば、共犯にされそうで怖い。
 ほどなくして一軒のスナックの扉を二人は開いた。まだ早い時間帯のためか、客はちら
ほらと見えるのみだ。
「ほらほら、グランドピアノ」
「ピアノだね」
 適当に応えておいて、常久は席に着いた。スナックというのはもっと暗い場所というイ
メージがあったが、内装はごくごく普通のレストランと変わらない。学生街にある店だか
らかもしれないが。
 客も、同じ高等部か大等部の学生だろう。入ってくるなりやはり目立つ栄美の姿に、訝
しげな視線を向けてくる。
「お嬢ちゃん、残念だが後数年したらもう一度来な」
 やたら格好良い言葉を発したのはタキシードにシルクハットを被った青年で、手には冗
談のようにステッキを持っている。
 常久は思わず呟いた。
「イギリス紳士?」
「ご名答」
 フッと笑った青年はシルクハットを取って一礼した。様になっているほどの美青年なの
だが、常久は変人だと思った。
「イギリス郷土研究会、天野誠司だ。ここはアルコールもあるので、高等部の来る所じゃ
ないな」
 格好はイギリス紳士だというのに、言葉遣いは学生そのままである。あまりこだわりは
ないのだろう。
 それに対して栄美は、
「別にお酒を飲みに来たわけじゃないです。舞台を探してるんですけど」
「舞台?」
 栄美が常久を指さした。
「三神くんは、有名なピアニストですから、将来のためにこういう所でも弾かせて欲しい
んです」
「ちょっと……」
 予想していたとはいえ、常久は眉根を寄せてメニューから顔を上げた。天野誠司は常久
を見て、一瞬目を見開いた。
「三神……三神常久くんか。確かに有名人だな」
「知ってるんですか?」
「少しな」
 誠司は小さく笑うと、元の席に戻っていってしまう。常久が栄美を見ると、栄美は常久
を促して片隅にあるピアノに近づいていった。
 それなりの時間帯になれば、少しは覚えのある者が弾いたりするだろうピアノは、調律
もしっかりとしてあるらしく、常久は数回鍵盤を叩いてから周りを見回した。店員が肩を
すくめると、常久はそれを了承と受け取って指を動かし始めた。
 と。
「違う」
「え?」
 栄美に言われ、常久は出鼻をくじかれた。
 眉根を寄せる常久に、栄美はピアノの上にあった楽譜をめくって示す。
「こういう店なんだから、それなりのものを弾かないと駄目でしょ? お客さんのジャン
ルってものがあるんだから」
「クラシックじゃ駄目って?」
「そう」
 客のジャンルか、と常久は思い出した。つい先日アイドルの桐生綾の音合わせに協力し
たが、その時は少女の仕事に合わせた曲を弾いた。
 それと同じだ。
 求められたものを弾く。
 自分だけが気持ちの良い曲ではなく、周りも楽しめる曲。それは、場所によって変わる。
「いつもそんなこと考えて唄ってるんだ?」
「だって、大切なことよ。聴いてもらうための工夫じゃない」
「聴いてもらうための、工夫……?」
 弾くのが楽しいというのもある。だが、本当に嬉しいのは聴いてもらうこと。
「私は一人じゃ聴いてもらえる舞台を用意できないから、倶楽部にも入ったんだし」
「……そういう考え方もあるんだ」
 ただ単にふるさと演歌倶楽部があったらか入ったのではなかったわけだ。常久は栄美を
見直して笑った。
「倶楽部を利用してるんだ?」
「そうね」
 ばれたか、という感じの、しかし楽しげな笑顔。それを見て、常久は広げられた楽譜に
集中して弾き始めた。
 楽譜のタイトルは『Forever Love』。
 弾いたことのない曲だからたどたどしく、アレンジも無くただ弾く。それでも常久らし
く激しく、たどたどしい中にも自分なりの情感が混じる。リフレインの多い曲だから段々
と慣れが入り、繰り返す度に進化するその音色。刃物を研ぐにも似たその行為は、わずか
な客たちを振り向かせ、飲食の手を休ませる。
 最後のフレーズまでに最高の進化を遂げた音は、ゾクリとさせる響きすら持って店の中
に鳴り響いた。
「……と」
 常久の指が鍵盤から離れると、ささやかな、経験した舞台よりもずっと少ない拍手が寄
せられた。それに満足して、常久は笑顔で笑みを振り返った。
 栄美もにっこりと笑い、いつの間にか手にしていたマイクに向かって口を開いた。
「はいはい。次は私の演歌をよろしくお願いします!」
「いいぞ姉ちゃん!」
「私の地元の名歌……『雪桜』」
 最初に常久を使って注目を集めてから唄う辺りも上手いと、常久は思って苦笑するのだ
った。

                ※

「ああ、気持ち良かった!」
 スナックを出た栄美の第一声がそれで、常久は自分も同感で頷いた。
 あの後立て続けに三曲栄美が唄い、その後に常久が二曲のピアノ曲を演奏した。そのお
ひねり代わりに他の客たちに奢ってもらい、夕食代は浮いてしまった。
「これなら、南くんも帰らなければ良かったのに」
「そうだね」
 二人で並んで歩きながら、常久は空を見上げた。すっかり夜になった空は、月が明るい
ためにかかっている雲まで見て取れる。
 自転車置き場に向かっていると、栄美が不意に言った。
「明日だけど」
「なに?」
「明日は暇?」
「暇だよ。ゴールデンウィーク中はずっと」
「ふうん。だったら、明日も私につき合ってくれる?」
 常久は横を見て、栄美の顔を見た。はにかんでいる栄美は、何かを企んだハムスターと
いった感じの顔に見える。夜では、あまり赤い髪も目立たない。
 先程聴いた栄美の演歌を思い出した常久は、考えることもなく頷いた。
「いいよ。神楽坂さんの演歌聴くの楽しいし、どこでも。南も、俺が誘おうか?」
「明日は伊東くんは誘わなくていいでしょ」
「でも、今日も南の方を先に誘ったじゃないか」
 ムスッとして常久は言う。その言い方が拗ねているようで、栄美は悪いと思ったが笑っ
てしまった。
「だって、駄目だったら伊東くんの名前を出そうと思って。私は用意周到なのよ」
「…………」
 常久が黙っていると、栄美はもったいぶった口調で言う。
「明日は、私が陸上競技大会で唄う歌を教えてあげてもいいよ。今は教えられないけど、
明日なら大丈夫」
「どうして明日?」
「もう夜だから」
 空を指差して、栄美は言う。吊られて見上げた空には、都会を離れた、夏らしい無数の
星々が瞬いており、一瞬常久はそれに見とれた。
 が、すぐに気を取り直して尋ねる。
「夜だと駄目って……何?」
「秘密」
 クスクスと笑って、栄美は目を細めるのみだった。





                4


 翌日、栄美に誘われるままに待ち合わせ場所に行った常久は、先に待っていた栄美を見
て目を丸くした。
「なにそれ?」
「水着セット」
 栄美は、一目で水着その他が入っているとわかる半透明のショルダーバッグを持ってい
た。振り袖姿はそのままなので、違和感がある。
 意図が読めない常久は首を傾げ、
「どうして水着なんか……」
「プール行くから」
「はあ?」
「じゃあ、行こっ」
 有無を言わせずに栄美は常久を自転車にまたがらせると、自分は昨日と同じように少年
の背中におぶさった。
 栄美が常久に向かわせたのは、学園立の市街プールである。わけがわからないまま更衣
室に入らされた常久は、貸し水着を借りてプールサイドに出た。
 幾つものプールが並ぶ施設であるが、この季節ではまだ客も少ない。夏になれば、その
利用代金の安さもあって、毎日のように泳げないほどの数の学生で溢れるのだが。
「なんでプール……」
 不満そうに言いながらも、栄美の水着に少し期待してしまうのは、やはり常久も年頃の
少年だということだろう。
 さすがに振り袖を着ていた栄美がやって来るのは遅く、一人で佇む常久は先に消毒槽に
入ろうかと思った。そこに、栄美が声をかけた。
「三神くん、待った?」
「…………」
 常久は振り返り、無言で首を横に振った。少しがっかりした表情になっている。
 栄美は、飾り気の無い学園指定のスクール水着だった。
「……どうしてスクール水着?」
「だって、他の水着持ってないから」
 体操服の時にも似たようなことを言っていた気がして、常久はため息をついた。
「プールで遊ぶなら先にそう言ってくれれば用意したのに」
「陸上競技大会で唄う歌を教えてあげるって言ったでしょ? ここで教えてあげる」
「?」
 常久には何もわからなかった。しかし、栄美はマイペースに身体の消毒を済ませ、波の
あるプールの方に行ってしまう。慌てて追いかけて来た常久に、言う。
「私が唄いたいのは、これ」
「……波?」
「本当は少し違うけど、海まで行ってもまだ寒くて潜れないから、ここでね」
 言うなり、軽く跳んでプールに入る。少し進んで、水の中から手を振ってくる。
「三神くんも来たら?」
「いいけど、結局泳ぐんだね……」
 苦笑して、常久はゆっくりと足からプールに入った。すると、波のプール独特の弱く押
されるような感覚が身体にかかる。
「っと」
 ふわりと身体が浮く。と、ばしゃりと栄美が常久の顔に水をかけた。
「ここだと弱いけど、これを唄いたいの」
「これ?」
 不思議そうな顔をする常久に、栄美は泳いで波の出口に近寄って振り返る。
 波が生まれて、力を抜いた栄美の身体が常久の方に流される。それを躊躇してから受け
止めた常久に微笑みかけ、栄美は目を閉じた。
「この感じ。私を船にして、波に流される感じ。私はね、船を唄いたいの」
「船? 流される船を唄うんだ?」
「そう。だから私はね、三神くんに海を弾いて欲しいの」
 静かに言われた言葉。
 たぶん、どこかで待ち望んでいた言葉に、常久はドキッとした。
「私が船を唄って、三神くんには海を弾いて欲しいの。こんなふうに優しかったり、荒れ
ている時には船を壊しそうになったり、そんな色んな海の様子を一曲の中でピアノで唄っ
て欲しいの」
「海を……唄う?」
「面白いと思うよ、凄く。私の歌と三神くんのピアノって、きっと似てるから。海が波を
起こして流そうとしたって、船の方もそれに抵抗するって感じが出ると思うの」
「合わせてもいないのに、わからないよ」
「合わせなくてもわかるから」
 自信満々に言われると、常久は呆れてしまう。それが栄美なのだと思うが、どこまでも
その自信は揺るぎがない。
「私は自分の歌も知っているし、三神くんのピアノも聴いてるから。でも、もし合わなか
ったら、一緒にみんなにごめんって言えばいいし」
「ちょ、ちょっと! 僕はまだ……」
「こんなに面白そうなのに?」
 ある意味、確信犯的な言葉だ。
 陸上競技大会という、全生徒が参加する行事で、二人の他の追随を許さない歌とピアノ
が合わさる。一人のピアニストとしても胸が躍り、常久の聴いてもらいたい欲求も満足さ
せられる、最高の舞台だ。
 それを断る理由は無い。
 断れるほど、我慢強く無い。
「……弾きたい」
「でしょ?」
 ほらね、という声音。ムッとして、常久はそっぽを向いた。
「卑怯だよ。こんなに材料を揃えられたら、断れないじゃないか」
「三神くんがいなくても実行はする予定だったから、卑怯じゃないわ」
「……去年は失敗したんでしょ?」
「去年は私も一年だったから」
 今年は去年とは違うのだと、言ってから、栄美は頬を赤くした。
「三神くん、放してくれる?」
「ご、ごめん」
 受け止めたままに栄美の身体を掴んでいた常久は、慌てて放して、顔を真っ赤にした。
 その慌てぶりに、栄美は頬を掻いて苦笑する。女の子は、男の子よりも大人なのである。

                ※

「これだけね」
 ゴールデンウィーク明け、芸能科の常久の机に、早朝から数枚の楽譜が置かれた。鮮や
かな青い振り袖の栄美は、同じ枚数の紙を手に持って常久を見る。
「これが楽譜。三神くんの好きなようにアレンジしていいよ。音合わせは、陸上競技大会
当日!」
「当日!?」
 驚いて常久が聞き返すと、栄美は当然と頷いて笑った。
「この歌は一発で決めるから。同じ海を何回も渡るわけじゃないの」
「……なるほど」
 それは技巧などを越えた、情感にかける栄美の意気込みだった。専門家として、その気
持ちがわかる常久は、しばしためらった後に首を縦に振った。
 後ろから楽譜を覗き込んだ南は、首を傾げて言う。
「演歌にも楽譜ってあったんだな」
「そりゃあるよ」
 常久は苦笑したが、栄美は南に笑いかけて言う。
「この歌の楽譜は世間には無いよ。私たちのオリジナルだから」
「へえ」
 さすがに感心して南が楽譜を手に取る。見ると、譜面は全て手書きのものをコピーして
あり、栄美が手に持っているものがコピー元だ。
 作曲は柊、作詞は神楽坂、編曲は納馬となっている。
「そうだ、部員にも紹介しないと……」
「ま、がんばれ」
 適当に南が言い、常久の肩を叩く。特にどうして倶楽部に入る気になったのか、などは
訊かないその態度が嬉しくて、常久は細い目で南を見て笑った。
 そこに、南が言う。
「でもよ、陸上競技大会の練習もあるだろ」
「だから、この楽譜で……」
「競技の方だ」
「…………」
 常久と栄美は顔を見合わせた。先に口を開いたのは常久だ。
「俺は二百メートル走に出るよ」
「私は幅跳び」
「ビリだけは取らないようにしろよ」
 ため息をついて、運動系の少年はそう言うのだった。それに対し、栄美は唇を尖らせる。
「そういう伊東くんは何に出るの?」
「砲丸投げ」
 肉体派の南ならではだと常久は思う。体力に恵まれた南だが、今までの常久と同じで倶
楽部には入っていない。その辺りの理由は、常久も知らなかった。
 とりあえず、陸上競技大会はすぐである。

                ※

 その放課後。
「アホ」
 柊の言葉は間違ってはいなかった。他の生徒に聴かれない秘密特訓のために、カラオケ
スタジオまで来て練習していたふるさと演歌倶楽部の納馬は、柊に小突かれた栄美に同情
の苦笑を浮かべた。
「ぶっつけ本番だ? いくら三神でも、お前のわがままにつきあえるのかよ」
「三神くんなら大丈夫だよ、きっと」
 ぐっと握り締めた拳を突き出す栄美に、柊は額を押さえて言う。
「あのなあ……唄い手に合わせる分だけ、三神の方が大変なんだぞ?」
「そういう曲じゃないから、今度のは。そう言ったのは柊じゃない」
「う……」
 そう言われて柊が言葉を詰まらせると、栄美は真っ直ぐに柊を見つめて続けた。
「私は柊の作ったこの曲、好きだよ。だから、成功させてみせる。私たちの、初めてのオ
リジナルでしょ?」
「……ああ」
 その通りなので、柊は厚い唇を歪ませて頭を掻いた。やれやれ、とため息をつく。
「言い出したら、止まらないんだからな、このアホは……」
「アホで結構。柊こそ、自分の歌の練習したら?」
「……ったく。おい、納馬、次俺なっ」
「はいはい」
 二人の騒ぎに慣れた様子で、納馬と呼ばれた栗毛の少年がカラオケセットを操作する。
流れ出すイントロに、柊は納馬の手からマイクを奪って栄美にも一本放った。
「お前も唄え。音ずらしたら、三神と音合わせ一回はしろ」
「いいわよ」
 自信ありげに栄美は微笑みを浮かべた。
 むっつりとした顔で、それでも楽しそうに唄う柊の様子に、納馬は一人肩をすくめて苦
笑した。





                5


 陸上競技大会の朝が来ると、一般の生徒が集まるよりかなり早く常久は陸上競技場に足
を運んだ。
 わざわざ時間を合わせてくれた南と共にジャージ姿で歩いていると、二人を見つけた栄
美が振り袖姿で歩み寄ってきた。
「おはよう!」
「おう」
「おはよう。言われた通りに来たけど、何をすればいいのかな?」
 常久が訊くと、栄美は陸上競技大会の冊子を取り出して常久に渡した。
「これ、私たち用ね」
「何それ……?」
「何時頃どこにいればいいとか、書き込んであるから。ピアノは三神くんが第二音楽室で
使ってたやつでいいのよね?」
「あれで充分だよ」
 頷くと、常久は競技場を見渡した。至る所で準備委員が立ち回り、運動系の倶楽部もそ
れを手伝っている。
 と、栄美の懐から呼び出し音がして、栄美が携帯電話を取り出す。
「はい、神楽坂です。あ、菜子(さいこ)さん。……うん、こっちは大丈夫です。はい、
手はず通りに。じゃあ」
 ピ、と通話を切る。その断片的な会話を聞いた常久と南は顔を見合わせ、
「犯罪者の会話じゃないか?」
「そんな感じだね……」
「こらっ」
 呟く少年二人の腰を、栄美がぺしりと叩く。
「お祭り倶楽部の部長さんなんだから、失礼なこと言わないの。先輩なのよ」
「お祭り倶楽部……」
 さらに常久と南は顔を見合わせた。お祭り倶楽部と言えば、行事を中断させてまでお祭
りを画策したりと、ふるさと演歌倶楽部と共に騒ぎを起こす学園新聞の常連倶楽部だ。三
月の卒業式以来、しばらく静かだったのだが、考えてみればこんな大きな行事で何かの動
きが無い方がおかしい。
「私はこれから準備があるけど、二人は適当に出番まで休んでて」
 それだけを言うと、栄美は忙しそうに行ってしまう。
 南は横目で常久を見て、
「大変だな」
 と言ったが、その常久が楽しそうに笑っているので肩をすくめた。
「楽しいか?」
「楽しいよ。それだけ注目が集まるわけだからね」
「俺にはわからん」
 目立ちたがり屋ではない南には、わからない感覚だった。

                ※

『──組がんばれがんばれ! ……先程のレースの結果を発表します。一位、スポー
ツ科二年五組篠原勝矢くん。二位、普通科遠藤周作くん。三位──』
 アナウンスが一瞬止まる。
 そして、
『な、なにごとですか!? やだ、彰くん! きゃっ!』
 ガガガ、と銃声のような音が聞こえ、椅子の倒れる音がそれに続く。
 悲鳴と叫び声の交錯する放送の果てに、高らかな笑い声が競技場に響き渡った。
『ははははははは。放送室は我ら報道二部が占拠した! 以後の実況は我らが行う!』
『どういうことだ! 見張りのみんなはいったい……っ』
『差し入れのモナカは美味しかったかな、物部彰くん? 今頃君のお友達は深い眠りの中
だ』
『くっ……この外道があ!』
『では、引き続き男子三千メートルの結果を発表します。一位、スポーツ科──』
 何事も無かったかのように放送は再開され、常久と南は早めの弁当を食べながらトラッ
ク競技を眺めていた。
「賑やかだな」
「そうだね」
 高飛びの測定が始まり、南がそちらに目を向ける。その視線が何かを探しているようで、
常久は気になって尋ねた。
「高飛びに誰かいる?」
「ああ……」
 と、南の食べる手が止まった。常久が見ると、一人の少女が走り出すところだった。
 よく陽に焼けた、小麦色の肌の少女。ポニーテイルにした髪を揺らして助走した少女は、
綺麗なフォームで難なくバーを越えた。
「誰、あれ?」
「羽崎翼(はざき・つばさ)」
 短く、南が言った。それでもその視線は少女──翼から離れないで、常久は珍しいそん
な南に興味を引かれた。
「知り合いだったりする?」
「一応な」
 それ以上は口を閉ざして何も言わない。
 仕方なく、常久は自分の弁当に戻ることにした。
 南と翼にも、色々あるのだろう。倭学園はあまりに大きく、そして、あまりに狭い。生
徒間で何があろうと不思議ではない。一人一人にドラマがあり、そして、南が常久の友人
である限り、南の問題を常久が知る機会もあるだろう。
 だが、それは今ではない。
 常久には、自分が集中しなければならない問題が目の前にあるのだ。

                ※

「第一小隊からの連絡が途絶えた?」
 チッと舌打ちして、サバイバル部の部長の三嶽戦(みたけ・いくさ)は腰の木刀に触れ
た。銃器を装備してはいるが、慣れ親しんだ武器だけは常に身につけている。
「現状を報告しろ」
「はい。第一小隊と最後に連絡を取ったのは本日一〇:四五(ひとまる・よんご)時。そ
の直後に第一小隊は三番通路に突入、五分前に定期連絡のはずが、それがありませんでし
た」
「交戦中か……」
 迷彩服を着込んだ隊員を見て、戦は腕を振った。
「三人第一小隊の応援に行け。すでに敗北していたなら偵察にとどめろ」
「はっ」
「そこまでです」
「なっ」
 突然の声に、八名からなる隊員全員が真上を見た。競技場の施設内の廊下。その天上の
配管空間に通じる柵から、一人の少女が顔を覗かせていた。
 ショートカットで瞳の大きな少女。
 その外見のせいか、隊員の反応が一瞬だけ遅れた。
 ゴト、と何かが落ちた音。手榴弾が景気良く炸裂した。
「これでいいかな……」
 すぐに拡散してしまう催眠ガスをふりまく手榴弾を投下した少女は、ガスマスクを外し
て再び廊下を覗き込んだ。
 その瞬間、
「きゃっ」
 下から突き上げてきた木刀を紙一重でかわす。否、木刀は最初から少女を外して突き上
げられていた。
「やられたよ」
 苦笑気味に言ったのは、一人だけガスマスクを被って難を逃れた戦だった。戦は倒れた
隊員たちに肩をすくめて、訊いた。
「君の名前は? 一年生だろう」
 しばしの沈黙。応えたのは、少女も今の木刀の一撃に引き分けと感じたからだろう。
「普通科一年四組、駆除係り、国道加世(こくどう・かよ)です」
「スポーツ科三年二組、三嶽戦だ。いつでもうちの倶楽部に来いよ。歓迎するぜ」
 それには応えずに、少女──加世は柵を閉じてその場を去った。
 戦はその場に座り込み、どこか楽しそうに口元に笑みを浮かべた。
「駆除係り……か。再侵攻は十分後だな」
 こうしてサバイバル倶楽部による実行委員本部の襲撃は遅れることになる。そのことに
よって実行委員が弁当中の不意を突かれるという事態は避けられたのだが、それはまた他
で語られるべき物語である。
 これは、倭学園に『駆除係り』という名称が初めて登場したエピソードであると追記し
ておく。

                ※

「実行委員本部が落ちた? 治安倶楽部も今回ばかりは手が追いつかないみたいね」
 携帯電話を忙しくかけながら、栄美は柊に言った。柊は楽譜を見ながら、
「今回は連合して勝負をかけてるからな。サバイバル倶楽部の三嶽さんも予告通りに仕事
をこなしてくれてる」
 と言ったが、栄美はすでに別の人物へと携帯電話をかけていて、その言葉を聞いてはい
なかった。
「あ、菜子さん? 対抗勢力はほぼ片づいたみたいです。噂の特治は出てきてないですけ
ど、この調子ならリレーまでにはなんとかなりそうです」
 その栄美から離れ、柊はヘッドホンを耳に当てて瞑想している納馬の肩を揺すぶった。
「あ、はい、何か?」
「起きてるか?」
「起きてますよ。僕らはいいとして、問題は栄美さんでしょう。三神くんは、さっき二百
メートル済ませましたけど、栄美さんまだ測定済ませてませんよ」
 なるほど、と柊は頷く。眠っているように見えても、納馬は常に彼らの倶楽部の状況を
把握しているのだ。
「おい、栄美。お前、さっさと測定済ませてこい。こっちは俺たちでやっておく」
「でも……」
「少しは頼れ」
「……うん」
 微笑んで頷くと、栄美は体操服を持って控え室を出ていった。栄美の代わりに携帯電話
を手に取った柊に、納馬がボソリと言う。
「少しは頼れ……って、言ってて恥ずかしくないですか?」
「あれくらい言ってもわからない女なんだよ、あいつは……」
 手早く体操服に着替えた栄美は、そろそろ終了になる走り幅跳びの列に並び、順番を待
って跳んだ。
「運動神経は並だな」
 それを眺めていた南が呟き、常久が頷く。常久は鞄を持って席を立った。
「行くのか?」
「行ってくる。終わったら、この冊子で赤丸の所にいるから」
「おう、しっかりな」
 その声に背中を押されて、常久は競技場の施設内に入った。誰もいない場所で演奏会用
の服に着替え、ジャージを鞄に詰め込む。
「三神くんっ」
 待ち合わせの場所に着くと、栄美もちょうどやって来たところだった。ただし、栄美は
幅跳びを終えたばかりなので体操服姿だ。
 常久が後ろを向き、その場で栄美が振り袖に着替える。背後で衣擦れの音がする度に常
久はドキッとしたが、それは舞台を前にした快い緊張に紛れさせる。
「いいよ」
 声に振り返ると、そこには若草色の振り袖を着た栄美が立っていた。いつもと変わらな
いが、それは栄美がいつでも舞台に上がれる格好をしているということだ。
「少し、時間が余ったね」
 静かな廊下に、栄美が言う。頷いて、常久は自分の指を見つめた。
 男のものにしては、細く長い指。生まれた時に与えられた、自分を表現するための手段。
 ピアノを弾くということ以上に常久が自己主張できることは無い。自己主張ができるか
らこそ、常久はピアノを弾くという行為が好きだった。
(みんなに聴かせたいんだ。僕はこんなピアノが弾けるんだって)
 誰にも負けたくない。
 そういうことを考える人物が、もう一人いる。
 栄美だ。
 常久は、栄美を見つめた。どこまでも自信を持って、己を主張する栄美。赤い髪も、振
り袖姿も、そして歌も強烈に皆の心に刻み込まれる。
 だが、常久は気づいた。
「……震えてる?」
「あ、うん……やっぱりね」
「意外」
「私はね、こういうのに慣れないの」
 少し紅潮した頬も気にせずに、栄美はそわそわと落ち着きがない。
「舞台の上に立てば気にならないんだけど、待ってる時間は少しね……」
「人前に出るのが恥ずかしいとか思う方?」
「ほんのちょっぴり」
 くすり、と常久は笑った。意外だが、知らなかった栄美の一面を見ることができて、少
し嬉しい。
 おそらく、ふるさと演歌倶楽部の部員は、常久の知らない栄美をたくさん知っているの
だろう。それが悔しいので、絶対に負けたくないと常久は思う。
「僕に流されないようにね」
「当然。そっちこそ、船員を濡らしもしない嵐だったら笑われるからね」
 微笑み合えるのも嬉しくて、常久は深く深呼吸した。
 今まで弾くだけだった常久にとって、こういった共演者は新鮮なものだった。一人では
なく、二人で舞台を作るのだと、実感できる。
「神楽坂さん、僕──」
 常久が言いかけたその時、耳を貫くような大音声がその廊下に突入してきた。
「菜子さん!」
 それ以上耳にも入らず、力強い腕に首根っこをつかまれる。気がついた時には巨大な神
輿の上に常久は乗せられていた。
「な、なんだ?」
「お祭り倶楽部の御神輿! ピアノあるよ!」
 あまりに巨大なために、お祭り倶楽部以外からも担ぎ手を集めた神輿だった。高さは無
いのだが、何せグランドピアノが乗っているのである。無茶もいい所だった。
 さらに、「わっしょい」というかけ声も凄いので、神輿の上の栄美と常久の会話も自然
と怒鳴り声になる。同時に、どこからか和太鼓の音が聞こえてきた。
「競技場から?」
「あっちでも色々始まってるはずだよ!」
 その通りで、慌てて立ち上がって、固定されたピアノに捕まった常久は、入場門から自
分たちの神輿が入場すると同時にそれらの光景を見た。
 リレーの最中だというのに、フィールドに並べられた和太鼓。そして、それを取り囲む
サバイバル部の面々。トラックの外側では、治安倶楽部が機会をうかがっていて、そして
現れた神輿に全ての視線が集中する。
 神輿は巧みにリレーの選手が通り過ぎたのを見計らってフィールドに入り、和太鼓の中
心に陣取る。揺れが収まると、常久はすぐにピアノの椅子に腰掛けた。
 そして、音階を端から端まで一気に下らせる。機材によって増幅された音が競技場に響
き渡り、その瞬間リレーに送られる歓声すら途絶えて空間が静まり返った。和太鼓すら止
まる。リレーの選手たちがゴールすると同時に振り返る。
 と。
「みなさん、陸上競技大会も大詰めになってまいりました。リレー予選に乱入させて頂き
ましたが、ここで幾つかの催しものをお見せしたいと思います。日本文化保存倶楽部雄志
による和太鼓『風林火山』──ただ今お聴きになられたのがそれです。次に、ふるさと演
歌倶楽部より、演歌『人生航路』……お聴きください」
 袖から取り出したマイクに向かって栄美が言い、スタンドから控えめの拍手が贈られた。
大部分の生徒はとまどい、事態の急変について行けてない。
 その心の隙を狙って、常久はピアノのイントロ部分を開始した。
「!」
 叩きつけるような始まりの音。演歌と聞いて予想したものからかけ離れた出だしに、意
表を突かれてお祭り倶楽部の面々も振り返る。
 誰も聴いたことのない演歌の出だし。
 体操服の上に法被を着込んだ、長い髪を尻尾にした少女──お祭り倶楽部部長、志木菜
子が合図をし、一斉に紙吹雪が舞台の上に舞う。
 周りを取り囲んだ治安倶楽部ですら手出しできないその光景の中、栄美が囁くように語
る。
「私たちは、海に囲まれて過ごしています。大きいようで小さいこの島の中、どこへ向か
って歩いても、最後には海にたどり着いてしまいます。でも、私たちはその向こうがある
ことを知ってる。学園を卒業して、いつかその向こうに行くと知ってる。私たちを船に例
えれば、きっと出航もしてないで、船場に繋がれている船です。私は、いつかちゃんとい
かりを上げて海の向こうに行きたい。どこかはわかりませんけど、私が行くべきその場所
にたどりつきたい。広い海の上、気ままな波に揺られて、時には向かい波と戦いながら、
時には追い波に助けられながら……そうやって、進んでいきたい」
 栄美が、常久を見る。常久は頷いて、微笑んだ。
「そんな私の想いを唄います」
 そうして、歌が始まる。
 ピアノが手助けをして入り込ませたわけではない。ピアノはむしろ排他的な音色を続け
ていたというのに、それに抗って歌は無理矢理入り込む。
 一瞬の不協和音。だが、それを不快に感じさせない不協和音。
 ピアノは一心に海を奏でる。
 激しい海。
 時には船を助ける海。
 栄美は一心に己を唄う。
 海に負けない自分。
 海を眺めながら、目的地と同じくらい海を愛していると微笑む。
 どこまでも高まる不協和音は、しかし失敗などではありえない。
 それは調和だった。拮抗した二つの音が、互いに高い位置を求めて競い合う。
 栄美が最後の息を吐き、少し遅れて常久が指を止める。
 競技場を埋め尽くした拍手こそが、全ての結果を物語っていた。

                ※

 弾き終えた時、常久はその余韻に、自分が指を止めていることに気がつかなかった。指
を動かしている時と変わらない高揚感。指が鍵盤を離れたことに気がついたのは、身体に
衝撃を感じた時だった。
「やったね!」
「あ……」
 首に絡みついてきたのは、栄美の腕だ。理解した常久は、立ち上がってスタンドに一礼
した。栄美がマイクに叫ぶ。
「ありがとうございましたー!」
 拍手。胸がいっぱいになって、常久は、瞼を下ろした。
 これが好きだった。皆が満足した拍手。皆が耳を傾けてくれた証。
「歌、神楽坂栄美。演奏、三神常久でした!」
 そう栄美が言って、もう一度頭を下げる。
「栄美ちゃ〜ん!」
 栄美のクラスの女子がクラッカーを鳴らし、黄色い声を上げた。
 栄美は常久を見て、満面の笑みを浮かべて言った。
「楽しかったでしょ?」
「まあね」
 反論できなくて、常久は頷いた。
 だけど、と付け足す。
「一度きりじゃ、物足りないな」
「ふうん」
 目立ちたがり屋の少年に、栄美は最高の笑みを見せて頷くのだった。
「私も同じだよ!」
 この後、拍手に酔いしれる面々の隙を突いて風紀倶楽部と治安倶楽部が特攻をかけ、仕
事屋やサバイバル倶楽部の善戦も虚しく、次の柊たちの演歌は披露されることなく全員お
縄ということになるのだが──。
 この時点では全員が幸せの絶頂で騒いでいるのであった。


                                 終





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