アニマル・メイト 〜Animal Mate〜 Prelude Story 1 例えば偶然に過ぎるその出会いが後の全てを狂わしたのか、それとも全てを『調律』し たのかは未だにわからないのだけれど。 それでも、結構幸せな今があればそれで良いんじゃないと、俺はそう思ったりもするの だ。 ※ 「ん〜」 こじんまりとした喫茶店の隅、一番陽当たりの良い席で八草(やぐさ)は鼻歌交じりに 手元の大和人形の髪に櫛を入れていた。 上機嫌の少女が手入れをするのは、市松人形という種類のものだ。木屑を練り固めて作 られたもので、手足が動くように仕立てられた大和人形の芸術品である。もっとも、その 由来を知らなくても精巧な顔立ちや紅を引いた唇、綺麗に切りそろえられた艶髪を見れば、 それが大変な貴重品であることは一目でわかったことだろう。着せられた紅葉柄の着物も、 一流のものだ。 また、その人形を扱う少女も一流の芸術品である。 訪れた秋口の涼しさに黒一色のハイネックセーターを着込んでいるその姿は、中学生に 上がるか上がらないかというほどだろうか。テーブルの上に置いた人形の髪を梳く櫛を持 つ手は小さく繊細で、折れそうに細い指の先の爪は研がれたかのように鋭利なのが少し剣 呑かもしれない。喫茶店に負けず劣らずこじんまりとしたその身体は、大人向けの椅子に 座っているために足が床に届かずぷらぷら揺れるに任せっぱなし。やはり黒いスカートに 隠されているために足を伺うことはできないが、靴のサイズも小さいの一言だ。 店内に流れるジャパニーズポップスに反逆するような古風な旋律の鼻歌を生むその鼻梁 は低いが、形は良い。白さの目立つ肌の中で唇の桃色が妙に目立ち、年齢不相応に艶かし いくらいだ。さらに上に視線を持って行けば、やや端が吊り上がり気味の目がある。 「ん。綺麗になった」 誰にともなく、おそらくは人形に向かってそう言うと、口の中から八重歯にしては鋭く 長い歯が覗く。最後に加えれば腰までも届く長い黒髪には天使の輪っかが綺麗に浮かんで おり、清潔なその髪の中からひょっこりと二つの三角形が上に向かって伸びている。 ──犬の耳、である。 髪と同じ色のその耳は精巧な作り物のようにも見えたが、間違いなく少女の頭から生え ていた。かといって人間の耳が無いというわけでもなく、髪の間から覗く丸い耳は確かに 存在する。 一対の人耳と、一対の犬耳。それを持った少女、八草の横顔を眺めていた青年──橘真 樹(たちばな・まき)は、自分の座る四人がけカウンターの奥にいるマスターに向かって 言った。 「ふええ、可愛いもんですね。八草さんて、あれですよね? この前店の前にタバコの灰 落とした高校生半殺しにした八草さんですよね? 同一人物ですよね?」 「ああ、まあ、そういうこともあったかもしれないが……同一人物だよ」 禁煙用薄荷タバコをくわえて頷くのは喫茶店『アニマル・メイト』の若主人である錦耕 介(にしき・こうすけ)だ。まだ二十七歳の彼が全席10席にも及ばないとは言え一店舗の 主であることを、真樹は少なからず尊敬している。大学を卒業して二年経つというのに未 だにぶらぶら自由業を名乗っている自分とはえらい違いだ、と。 「ふーん……何かイメージ違うなあ。人形遊びなんか縁の無い人かと思ってたっすよ」 「真樹ちゃん、あんまりそういうこと言うと拗ねるから……」 「言ってていいぞ」 「うっ」 突然横合いから言ってきた八草に、真樹は息をつめる。言葉だけではなく、少女はその 鋭い視線を青年に向け、あろうことか寒気のする殺気めいたものまで発していたのだ。 ぞくり、という感覚が爪先から頭の先まで駆け抜けた真樹は、反射的に椅子から腰を浮 かしかけた。 だが、その肩をカウンター越しに耕介が押さえて立ち上がらせない。 「駄目駄目。八草は動くものしか襲わないから。動いたら死ぬよ」 「こ、こわーっ!」 「本人のいる前で中傷するその根性の方が怖いとわたしは思うがな」 ニヤリと、八草が少女らしからぬニヒルな笑みを浮かべると、口元で牙──もはや八重 歯と表記する必要は無いだろう──がギラリと光る。 人形を扱う手だけは優しく、彼女は告げた。 「その性格をどうにかしなければ、そのうち死ぬぞ」 「だね。うちには複雑な人多いから。ね、真樹ちゃん?」 「は、はい」 ぐっと肩を強く掴んで言ってくるマスターにも怖いものを感じてしまう。優しい彼であ るが、言外に「ええと、何かあっても俺には助けられないからね? ごめん」と言われて しまった気がする。 「はぁ……」 改めて自分のいる場所の怖さを確認してしまった真樹は、頭の中で復習しておく。 (ここは『アニマル・メイト』。耕介さんの喫茶店で、ペット連れ込み可。人間もペット も食べれるものを用意してるから、ペットと同じものを食べたいっていうブリーダーに結 構人気で、それなりに繁盛してる。だけど、その正体は──人外の溜まり場) 力を抜いて椅子に身を任せ、真樹はため息をつく。 飼っていたペットが、なんというか、その『人外』の範疇に入るものであったおかげで この店と縁が出来た真樹であるが、まだ馴染んだとは言い難い。 『人外』──人間にあらず、動物や何かが人に『化け』た者たちは基本的に彼に無害だ ったが、先ほどの八草のように突然殺気を向けてくる存在も少なくは無いからだ。 「正直、俺、自分の軽すぎる口を呪うようになりました」 「その軽さを直す良い機会だと思え」 耕介に言ったのだが、答えたのは八草だ。すでに殺気は収まっており、真樹は恐る恐る 小さな笑みを浮かべている少女に向き直った。 どう見ても小さな子供である八草が、その実彼の生きてきた歳月を十倍しても足りない 年齢の『狗神』であることを知る身としては、相対するのは生唾を飲み込む気合が必要と なる。 普段から根性なしを自覚している真樹が先ほどのような軽口を叩けてしまったのも、実 を言えば耕介の存在があるからなのだ。 唯一この店に顔を出す人外全てに一目置かれている耕介がいてくれるなら、彼女らも無 茶なことはしないだろうと、甘く考えてのことなのだが。 そんな真樹の考えがわかるのか、八草は厳しく言う。 「お前は弱い。弱すぎる。ハクの主とは思えない腑抜けだ。どうしようもない。そもそも 生活の糧すら自分で得ず、ハクをバイトに出す自堕落。なんだお前は。言ってみろ。なん だお前は。なんだお前は。なんだお前は」 「な、なんなんでしょう」 いきなり言われ、真樹はしどろもどろに答える。だが、そこに八草の目がさらに辛辣を 増す。 「自分のことは自分が一番わかることが出来るのに、それをしようとしていない。自分を 理解しようとしていない。曖昧に自分を誤魔化している。言ってやる。そんなお前はクズ だ。クズだ。良いか、クズなのだ。ハクという存在がいなければお前は一生クズなのだっ」 「あ、あうあうあうあうあうあうあう」 「あー、落ち込まない落ち込まない。八草も拗ねていじめるなよ、大人気ない……」 「す、拗ねてるんですかぁ、あれが!?」 「コウは黙ってろ」 「だーまーるーのはお前。そのねちっこい性格直せよ。それから、耳出てる。機嫌がいい とすぐに出るんだから、気をつけとけ。真樹ちゃんのこと言えない。自分の状態がわかっ てない」 「く……っ」 言い含めるように耕介が指摘すると、八草はカッと頬を赤くして自分の頭を叩いた。す ると、そこにぴゅこっとあった耳が消えてなくなる。 ああ、あれは何かの失敗だったのか、とわかってしまった真樹は、落ち込みモードから 復活して。 口を滑らせた。 「なんだ、八草さんも俺のこと言えないじゃないっすか」 ──沈黙。 突如そこに生まれた静けさに、真樹は「あれ?」と首を傾げた。 見れば、耕介は額に手を当てて「馬鹿」とばかりにため息をついていた。 見れば、八草は「何もわかっていなかったようだな」とばかりに拳を握り締めていた。 「……あれ? もしかして、俺、また?」 「本当に直そうよ、その癖。命に関わるからさ」 「もう遅いがな」 トン、と。 飛び降りるようにして床に足を下ろした八草の、小学生のような小柄な姿。 ──右拳一発分で気絶しなければどうなっていたのだろうと、後になってから真樹は猛 省するハメになった。 ※ 「至極不愉快だ」 やって来たハク──アルビノの化け猫──に担がれて去って行く真樹を見送った後、カ ウンターに座って八草は吐き捨てた。子供の姿には似合わない鋭い表情を見た耕介は、少 女の言葉にまで表れた不愉快さに苦笑しながら、倒れた椅子を立て直す。 素早く確認すると、八草が暴れたにしては店内は綺麗なままだ。相手が一撃で昏倒した こともあるが、八草がその辺りに配慮したのだろう。 そんな八草の『大人になった部分』を微笑ましく思い、耕介は太い眉毛の下で目を優し くした。昔の癖でくわえている禁煙用薄荷タバコの噛み口を歯で押し潰して、彼はくしゃ りと少女の頭をかき混ぜる。 その手を、八草は口をへの字にして払いのける。 「お前のそういう癖も、至極不愉快だっ」 「そうか? 俺は至極愉快だけどな」 払いのけられたことも気にせずに耕介が今度は八草の頭を後ろから抱え込む。「わ!?」 と驚いた声を八草が上げ、耕介は自分の顎を黒髪の上に押しつけた。 「おーまーえーはー」 「拗ねんなよ。俺が他の奴と話してても」 「────」 狗神は、唇を引き結ぶ。 しばし間を置いて、 「わたしは、お前のような自信過剰な男は見たことが──」 「ちゃんと愛してるから」 「────」 唇を引き結ぶ。 耕介の顎の横を掠めるように、ピンと犬耳が生えてくる。 「だから、お前はいつもそういうふうに言えばわたしを黙らせることが出来ると──」 「愛してる」 「────」 引き結ぼうとした唇の奥で、牙がこりこりとすり合わされる。落ち着かない時にいつも するのだが、ともあれ、彼女はそうしていた。 「だ、だからわたしは言いたいのは──」 「愛してる」 「────」 犬耳がぴくぴくと動く。椅子の上で身体をもじもじと細かく動かし、八草は目を伏せて なおも続ける。 「わ、わたしの話を──」 「愛してる。お前のさ、全部が俺のものってのと同じで、俺の全部、言霊もお前のものだ って言いたいんだろ?」 「────」 もう、唇を引き結ばない。頭を押さえ込まれて少女の上半身が折れ、カウンターに突っ 伏すような形になる。覆いかぶさられ、顔を真っ赤にして八草は怒鳴った。 「わ、わかってるなら早くそう言えっ」 「ん」 最後に一回力を込めて彼女の頭を抱き、耕介は身を放した。視界には、人耳を赤くした まま顔を隠して身を起こさない八草の姿がある。 香りの薄くなった薄荷タバコを手に移し、耕介は「ほら」と言った。 「俺は至極愉快だ。お前の焼き餅には慣れっこだし」 「お、おーまーえーはーっ」 「はいはい、愛してる愛してる」 「おま──わぐぅ!?」 そのあまりの適当な言い方に八草が顔を上げかけて、口を押さえて呻く。 「……舌を噛んだか」 「わ、わんわんわんワンワンワンっ!」 「あー、何を言ってるかわかりませんな」 「ワン……っ」 別に犬がいきなり現れたわけではなく、ワンワン言っているのは八草である。顔や手な ど肌が見える場所全てを朱色に染めた少女は、大きく深呼吸をしてから言う。 「わたしを馬鹿にするなー!」 「言い渋ると怒るのお前だろう」 「い、言いすぎも駄目だ! 言い過ぎは駄目だ! 言わないのはもっと駄目だが、わたし が望む時に言えっ」 「お前のその我が侭っぷりを、他の奴にも見せてやりたい……」 「そ、そういうことを言うのは──」 「!?」 不意に、八草が椅子に座ったまま手を伸ばし、耕介の服を掴んだ。さして力を込めてい るようにも見えないのに耕介の身体が強引に引き寄せられ、少女の唇が噛み付くようにし て耕介のそれを奪う。 面食らった耕介から顔を離し、至近距離で八草は十二分な照れをこめて言う。 「──この口か」 その行為と表情に、耕介はふうとため息を洩らし、 「……可愛い奴」 「わ、わ、わわわわわわワンっ! わ……しみじみ言うなー! お前は──んぐっ」 今度は自分から八草の唇に口づけ、耕介の手がセーター越しに少女の胸に伸びる。小さ な手がそれを押しとどめようとするが、抵抗無く指は胸に到達する。ビクリと椅子の上で 身体が震え、合わせて八草が唇を開く。 だが、耕介はその求めに応じないで唇を離し、空いている手で少女の唇を拭う。そうや って一つ間を置いてから、 「この口だ」 コツン、と二人の額がぶつかる。 むーっと膨れるのは犬耳の少女で、ニッと笑うのは人間の青年。 しばし、二人はそうしていただろうか。やがて、根負けしたように八草が身をよじり、 耕介の手を掴んで自分の胸に押しつける。その唇は屈辱と照れくささにすっかりへの字 で、吊りあがっていた目も勢い無く斜め下を見て視線を合わせないようにしている。 それに応じて耕介は――。 「ニーハオ。差し入れ持ってきたヨ!」 「わ、わわワウっ!」 「ぐはっ!?」 チリーンと涼やかなベル音と共に店にやって来たドテラ娘が目撃したのは、慌てて右フ ックをマスターに叩き込む八草の姿であった。 ※ 「コースケさん、いー、いー、いた? あ、痛くありませんカ?」 「も、もう大丈夫。ありがとう、シェシェ、星花(シンファ)ちゃん」 「イエイエ」 カウンターに二人並び、耕介の頬を手で包み込んでいた緑色のドテラの少女――星花が にっこりと微笑む。その名の通り花の咲いたような笑みに耕介がらしくもなく見とれると、 黒の上下の上にエプロンをつけた八草がコーヒーを入れながら苦々しい顔になる。 星花の手が頬から離れると、そこから伝わっていた温かい癒しの力もまた離れ、耕介は 痛みの引いた自らの頬に触ってみた。先ほどまでは赤く腫れ、奥歯もぐらついていたのだ が、すっかり治っている。 「さすが麒麟」 「ソレほどでもありませン」 最近覚えた日本人らしい謙遜の言葉を使ってみせ、中国から渡ってきた麒麟兼大学留学 生は照れた。一族の中で落ちこぼれで、一人前になるための試練に落ち続け、ついには親 の情けで大学を卒業すれば合格、とされたこの麒麟は褒められるということに極めて慣れ ていない。 服装こそ万年ドテラであるが、星花は瑞獣に連なる者だけあって希有な美しさを持って いる。中国系の日本人とは少し違う顔の彫りに、墨を落としたような真黒の瞳。相手の心 の中を映し出すその瞳は、至近距離で覗かれると相手にもそれが見えてしまうので、誤魔 化す意味合いもこめて度のない伊達眼鏡をかけている。モデルのように頭が小さく、長い 髪は太い三つ編み。背も百七十少々と高めで、ドテラの下のシャツを程よく膨らんだ胸が 押し上げている。腰も細く、尻が小ぶりなのは少々残念だがそれを抜かせば見事な曲線美 と言えるだろう。スリムジーンズズボンをはいた足は、身長が高めなのはこれのせいか、 と思わせるくらいにスラリとしている。 ドテラ姿なのがやぼったく、もったいない少女だ。 ウォは、と星花は両手の指を胸の前で絡ませて言う。 「ウォは、わ、わたしは、そう言ってくれるコースケさん、すー?」 すー? と首を傾げてから言って、続ける。 「好きでス。ウォアイニー。あー、あー、愛、してまスヨ」 「な、なんか照れるな……って、おい、八草、それはホウ酸団子だ」 「ちっ」 出来るだけ日本語で話そうとはしているらしいが、大学でも日本語の成績の良くない星 花はたどたどしく言うことしか出来ない。それでもほんわかとした笑顔で素直に言ってく る彼女に頭をぽりぽりと掻きながら、耕介はコーヒーに毒を仕込もうとした八草に制止を かける。 舌打ちした八草は、唇を尖らせて言う。 「その麒麟なら、幾ら毒を盛られても死ぬものか」 「そういう問題じゃないだろ」 「ふん。お前はいつも麒麟を庇う。そうだな。瑞獣に選ばれれば、地位も富もお前の思う がままだ。人を呪うだけしか能のない狗神など、眼中にないだろうよ」 「う〜ん……」 ドリップした液体をカップに注ぎながらぶちぶちと言う八草に、耕介は何故だかいじめ たい気分になった。明らかに拗ねて、また耳を隠すのを忘れているこの少女は、耕介に自 分の言葉を否定してもらう気満々だ。それ前提で卑下してみせている。そうすることで、 星花に優越感を持ちたいのだ。 「……そこまでわかる俺も慣れてきたなあ、焼き餅焼きに」 「焼き餅、好きですヨ」 「あー、美味いね」 「お前らは人の話を聞け!」 ガシャッとティーカップが割れそうな勢いでカウンター席に置かれる。先ほどから漂っ ていた挽いたコーヒー豆の胸のすくような薫りに、それを凝縮したようなまたひと味違っ た薫りがそのカップから立ち上る。 八草がコーヒーを作るようになってから五年の歳月が流れたが、その腕前はかなりのも のだ。同じ豆を使っていても耕介が作るコーヒーとは制作手順が違い、『アニマル・メイ ト』でも客の人気を二分している。 特に星花は八草の作るコーヒーの大ファンであり、一度飲んでからは八草が不在でない 限り彼女のコーヒーを所望していた。 「飲め」 そうぶっきらぼうに言う八草がその辺りを理解し、決して不快には思っていないことを、 耕介はわかっている。 麒麟の少女は、行儀良く手を合わせて「イタダキマス」と日本の風習に則って言い、自 分が持ってきた差し入れの月餅を茶請けにして午後のおやつを開始する。月餅にコーヒー とは邪道のようだが、ここではありふれた光景だ。 しばし、静かな時間が流れる。星花はものを食べている時には絶対にしゃべらないし、 八草が残っていた洗い物を始めると耕介も茶々を入れることはなくなる。 いつもならばどのような時間であれ一人二人はペット連れの客がいるところなのである が、今日に限ってそれはない。 本日――毎週木曜日は、喫茶店『アニマル・メイト』の定休日なのだ。この日だけは、 ブリーダーたちの憩いの場所も人外たち専用の店となるのである。 耕介は、ゆっくりとコーヒーを味わう星花と、小さな身体で背伸びしながら手際よく食 器を水洗いする八草を眺め、自分も新しい薄荷タバコをくわえた。 タバコをやめたばかりの頃は煙が恋しくてたまらなかったが、七年経った今ではこの薄 荷の香りが無いと落ち着かなくなってしまった。他人の煙を「いいなあ」ではなく「煙い なあ」と思うようになったのは、いつ頃からだったか。 そもそも、当時は自分が禁煙出来るとは思っていなかった。絶対に無理だと思っていた のにそれが出来てしまったのは、やはり――。 「ヤグサさんの、せ、責任? ため? ヤグサさんのためですカ?」 「え?」 不意に言われ、耕介はついていた頬杖からずり落ちた。見れば、すでに星花は月餅を食 べ終わり、コーヒーをカップの半分ほど残して耕介を見ていた。ふとその墨のような瞳の 中に数年前の自分の姿が見えたような気がした耕介はドキリとする。 そんな耕介に、星花はドテラの裾で口元を隠し、 「ツェン……ほん、本当に、好きだから出来るんですネ」 「うわ、凄いわかってるって顔っ」 「見たのか、見られたのか、どこまでだ馬鹿者!」 瞬時に、何が起こったのかわかった二人は真っ赤になった。しみじみとした星花の言葉 に、耕介の『思い出していたこと』が垣間見られたことがわかったのだ。 それは――。 「や、焼き餅、でいいんですカ? それを焼いてしまいそうな約束ですネ」 「全部かぁ!」 「づぁっ」 カウンター越しの、八草の恥じらいパンチが耕介の顔面を殴りつけた。 ※ そう、それは偶然だったのだけど。 わたしたちは、今に続く約束を交わしたのだ――。 2 「死にかけだな」 とその青年は言った。 黒いスーツに黒いコート。黒髪に黒い瞳。そして、黒い気配。それは、本当に黒づくめ の男だ。短くまとめた髪で前髪は立てており、顔はどちらかと言えば四角い方。眉毛も太 く、男臭い顔立ちだ。 そんな男の問いかけに対し、女は応えることが出来なかった。 無視したわけではない。実際、死にかけで声も出せなかったのだ。 何が悪いと言えば、今冬一番の冷え込みとテレビの天気予報で厚着を勧めていた美人ニ ュースキャスターが悪いのか、それとも曇天からハラハラと舞い降りてくる白い雪が悪い のか、それとも腹に突き刺さった刃渡り六十センチにも及ぶ野太刀が悪いのか、もう女に はわからなかった。 寒いし、冷たいし、痛いのだ。 ただ、今もう一つ悪いものが加わったことはわかった。 臭い。 弱った身に追い打ちをかけるようなタバコの臭いに、彼女――八草は鼻と口を押さえよ うとした。だが、刀を抜こうと添えた手は、もうピクリとも動こうとはしなかった。 (……臭い) 雪が、八草の肌の頬に落ちてすぐに溶けた。いずれ冷たくなりきったら、雪が溶けなく なって自分は雪に埋もれてしまうのだろうか、と少し心配になる。 (その頃には、もう心配もしないようになっているのだろうが。――しかし臭い) 八草は、狗神だった。 人の世には本来実在しないとされる人外の者であり、だからこそ人の世の影で生きる者 だ。 昔から器用で、気まぐれで人の願いを叶えてやったりして、報酬の割の良さにそれを生 業とした。その願いが偏っていたせいか、いつの間にか人を殺すことに長けた者だ。 人は、表では人外をいないことにしても、裏では人外の力を利用したがった。だから彼 女も食いっぱぐれることはなかったし、それが自分と人間の関係なのだと割り切っていた。 人は、彼女に人を殺させて、彼女をお腹一杯にしてくれる。 だが、世の中にはそうした影だとか闇だとか、そういうものを憎まずにはいられない人 間もいる。そうした者がいるとは知っていたが、自分には関係の無いことだと思っていた。 自分は、自分を祀る人間のいる場所でゴロゴロと過ごし、頼まれた時だけ少し人を殺す。 悪いとするなら頼んでくる人間で、彼女ではないはずだ。 なのに、彼女は。 わたしは。 (臭い) 最後の力を振り絞って、八草は瞼を開いた。すると、ぼんやりと真っ黒な人型のシルエ ットと、その口辺りに灯る火を確認することが出来た。 やはりタバコだ。 男は身体を丸めて動かない彼女の前にしゃがみ込んで、軽い口調で言ってくる。 「何か、言うことはあるか? 助けてとか。助けないけど」 近づいた臭みに、八草は嫌で嫌でたまらなかったが、口を開いた。 「……た……」 「た?」 「たばこ……を、消せ」 苦労して、言う。血を吐くほどに辛かったが、言った。 すると、きょとんとした男が自分がくわえたままのタバコを見て、苦笑してそれをアス ファルトの上に落とす。それが踏み潰される音に、八草はホッと息をつき、 「や……めろ……っ」 「ん? あ、悪い」 新しいタバコをくわえて火をつけようとした青年が、地獄から響くような女の声にジッ ポをしまう。ただ、タバコはくわえたままだ。 「これくわえてないと落ち着かなくてさ。でもって、くわえてると無性に吸いたくなるわ け。わかる?」 わかるものか、と八草は声に出さずに毒づいた。タバコは嫌いだ。臭いから嫌いだ。タ バコを吸う奴も嫌いだ。やっぱり臭いから嫌いだ。 そもそも、この人間はなんだ。 何をしにここに来た。何故わたしの人払いの術の中にいられる。何故わたしが逃げた先 がわかる。 敵だろうか。 思った時、ちょうど答えが降ってきた。 「お前を痛めつけた奴に教えたりはしてない。ここは俺んちのすぐ近くでさ、酒飲んでタ バコ買った帰りにお前を見かけたわけ。でさ、たまの休みに実家に帰ってきて、それでも お前みたいな人外に遭遇するってのはさ、どういうわけ」 知るか。 ともあれ敵ではなさそうな男に、彼女は警戒をやめた。警戒しても意味はなさそうだし、 危険な相手でも、もう抵抗も出来ない。 応えないでいると、彼は一人で話し出す。 「俺さ、最近疑問なわけよ。お家のお務めってことで無条件で国家公務員になれたのは、 そりゃ悪くない。正直、俺頭悪いし、金がもらえる仕事に就けただけでもこのご時世あり がたいってのはよくわかる。でも、やってることって獣狩り。こんなふうに人外の身体に 武器を突き刺して殺す仕事。馬鹿みたいだろ?」 何が馬鹿なんだろう。 彼が人間側の狩る者ならば、それは普通に仕事のはずだ。 何が馬鹿なんだろう。 「何が馬鹿って、自分が危険な仕事なんかやってられるかっての。あなたは全力を出せば 熊に勝てますから、お好きな武器を選んで戦ってきて下さい……でどれだけバイトが来る っての。本当に困って金がない奴以外はそうそうやらないと思うんだがなあ……俺の考え が間違ってるのかなあ……」 首を傾げる男。 なんだか、仕事の内容自体は自分と変わらない。 ただ、自分は普通の人間を相手にする分には危険はないが、彼の場合は常に人外の相手 で死と隣り合わせということだろう。 よくもまあ、今まで生きてこれたものだ。 「でさ、俺は思うんだが、俺一人が生きる分にはバイトだけでも充分なんじゃないか? ある程度たまったら短大とかに入って……いや、もちろん勉強して受かる。受かってみせ る。それで、それから何かまともな仕事を探すわけだ」 うんうん、と男は勝手に頷いている。せわしない男だ。もう少し落ち着けば良いのに。 「この世には、探せば幾らでも誰も悪くない仕事があるはずだもんな」 そう自嘲気味に笑った彼がどういう経験をしたのか、その時の八草にはわからなかった けれど、その言葉には感じるものがあった。 (ああ、そうか……わたしは、危険で、誰かが悪い仕事ばかりしていたんだな……) 今の痛みこそ、襲ってきた危険だ。 もしかして、人からの願いもえり好みしておけば、ささやかでも食べるものは手に入り、 こうして痛い思いをすることもなかったのだろうか。 (……嫌なことに気づかせるな) タバコ臭いし、不愉快な男だ、と彼女は思った。 思っただけで、憤りの力はわいてこなかった。腹からドクドクと流れる赤い血が、彼女 から力と熱を奪っていく。冷気が身に染みて、アスファルトは氷の上に寝ているように辛 い。 はあ、と彼女は最後の息をつこうとした。 その時だ。 「でも、一人じゃなかなか踏ん切りがつかなくて、こう、同じ境遇の道連れが欲しいとこ ろなんだけど、お前どうする?」 ――最後の吐息にはるはずだったものは、くぅん、というか弱い鳴き声に変わった。 ※ 記憶が飛んだ。 次に目覚めた時、耕介は実家の居間で毛布にくるまって横になっていた。 「んあ?」 居間と言っても、何もない部屋だ。家財道具が一切無い部屋の床にはビニールが張られ、 売却準備が終了していることを示している。もう住んでいる者はおらず、耕介も最後の記 念にと眺めるためにやって来ただけのはずだった。 しかし、現実として彼は寝転がり、一晩を過ごした自分に気づく。 (ああ、昨夜は飲んだか……ら!?) 半身を起こし、耕介は顔を引きつらせた。 あまり離れていない場所に、白と赤の布の塊が落ちていた。 否、それは白い上着と赤いスカートのようなもので、さらに言うなら白衣赤袴の、わか りやすく言うなら世間一般のイメージの巫女服のような格好をしていた。 服であるからには、着ている者もいるわけで。 そこに自分とそう変わらない歳に見える美女が寝転がっていることに、彼は毛布を跳ね 上げて起きあがった。 「な、な、な!?」 動転した耕介は、まず玄関に言って鍵を確認した。さすがに酔っていただけあって開い たままだ。施錠する。次に居間にもどって台所に通じる扉を閉める。密室状態を作り出し、 それからもう一度女を観察する。 「なんでまた……」 ため息。 密室を作り出したのは、何か悪いことをしようとしたわけではない。女の頭にある犬の 耳にしか見えないものと、やはり犬のものにしか見えない尻尾が袴から覗いていたからだ。 「人外……良かったのか悪かったのか」 どちらにしろ、あまり良くはないと思う。 うーん、と腕を組んで昨夜のことを思い出そうとするが、覚えているのは高校時代の友 人たちと居酒屋で酒を飲んでいる場面だけだ。 (まさか、人外とは。俺、何したんだ? 無意識に人外狩るくらい腐ってきたか? そう でなくても、帰省先で人外に会うくらい運命は馬鹿げてるのか?) 苦いものが唇に浮かぶ。 自分は、一時的とはいえ、逃げてきたはずだ。 ――仕事ノタメニ追イツメテ殺ス者ト。 ――死ニタクナイカラ必死ニナリ抵抗スル者ト。 ――悪イノハドッチダ? (悪いのは……殺される理由を作った奴と、そいつを殺せと言い出した奴。俺じゃない。 俺じゃないのに、後味悪くて、危険な仕事なんて、もうやってられないのに) だというのに、目の前に人外がいるのは、嫌がらせだろうか。 ともあれ。 「さて」 耕介は考える。 横になっている人外は、まだ静かな寝息を立てていた。ほっそりとした頬はやや血の気 が失せ、唇も精彩を欠く。伏せられているので瞳はわからないが、長いまつげ。形の良い 頭、怖いくらいに整った怜悧な美貌。 駄目だと思いながら見てしまうと、襦袢と白衣の二枚を経てもわかる豊かな胸。 (うわ、好みだ……) 顔かたち、身体の線に至るまで、その人外は耕介の理想に近かった。いや、そういうも のが理想だと考えたことはなかったのだが、実際目の前にしてみると、そう思ってしまう。 考えようとしていたのは、人外が眠っているうちに殺してしまうか、それとも起きるま で待つか、だったはずなのだが。 (……なんだそれ) 首を横に振る。 違う。 自分は、そういう考え方をしてはいけない場所に、今いるはずだ。 「うん」 起こそう、と決断する。 何があったかはわからないが、横に眠っているくらいだ。即座に危険な人外ということ はないだろう。 「失礼、君?」 と、おずおずと眠る女を覗き込んで、その肩を揺する。 すると、女の瞼がわずかに上がり、濡れた瞳が耕介を見る。 (……綺麗だな) 耕介は素直にそう思った。 瞬間。 「わう?」 「は?」 寝ぼけ眼の女が口にした言葉――鳴き声に、彼は目を丸くする。 美女が、わう? そんな彼の表情に、女がハッとする。 「忘れろー!」 「ぐはぁ!?」 真下からのパンチが耕介の頭を跳ね上げた。ゴロンと後ろに転がった耕介に、凄まじい 速度で人外がまたがってくる。 (殺されるっ) 咄嗟に、耕介は抑え込まれたまま手首から先だけを動かして、スーツの袖口から二十セ ンチあまりの鉄針を取り出した。急所を貫けば象をも殺す毒を仕込んである『蝮針(まむ しばり)』だ。 交差法で、生死は五分五分か、と腹をくくった時だ。 「い、いいか、忘れろ。わたしは寝姿を見られるのが嫌いだ。至極不愉快だっ」 その人外は殺しそうな強烈な視線を残したまま、彼の上から身をどけた。それがあまり に意外で、耕介はしばし動くことが出来なかった。 「え? あ、あの、俺を殺す気はないのか?」 「何を……昨夜言っただろう。わたしたちは二人で新しい道を生きると」 「なにぃ!?」 またしても耕介は跳ね起きた。 愕然として目の前の女を眺め、その吊り上がり気味の目を見つめ、犬耳を見て、視線を 下げて胸を見て──。 「お、覚えてない。もったいなぁー!」 実に正直な雄たけびを上げた。 3 状況を理解した耕介がまずしたことは、居間の床に無数の針を打ち込むことだった。床 から生えている針の数は万にも及ぼうというものだが、それだけの数をどうやって用意し たのか八草にはわからなかった。 「これは針か?」 「床に本物は無いから、気にしないで座ってていい。天井の四隅のだけが本物で、この部 屋を外から隔離してるから」 「なるほど、面白い技を使う。針使いか」 「手習い程度だよ」 耕介がスーツの袖を振るうと、幻の針が壁や床に突き刺さる。無害であるとわかってい てもそれを踏むのは抵抗があったが、眉をしかめながら八草は床に腰を下ろした。きちん とした正座だ。 一通りの作業を終えた耕介は、自分もあぐらをかいて座ると、神妙な顔で言う。 「まず、お前を狙った奴だけど、確かに刀を使ったんだな?」 「八草だ」 「八草? それが相手の名前か?」 「わたしの名前だ」 「あ……なるほど」 苦笑して、耕介はくわえたタバコの煙を深呼吸の要領で胸いっぱいに吸い込む。匂いの ついた煙が肺に満ちる感覚を得てから、ゆっくりと吐き出す。八草が白衣の袖で鼻と口を 覆ったが、彼は気にもしない。 「俺は、耕介。錦耕介。二十歳」 「わかった」 それまで自己紹介すらしていなかった。それだけ状況が異常だったということだが、人 外と名乗りあうという経験が一度もなかったせいもあるだろう。 なんだろうな、と耕介は思う。 (変な感じだ) 名乗った時、妙に心がくすぐったかった。人外に名乗るということがおかしくて、含み 笑いしてしまいそうになる。 (今、確実に俺、やばいことしようとしてるな) 人外を助けようと。 だが、それが当然のように感じるのは、何故だろう。 「で、刀は?」 「使った。お前の針と同じだ。いくらでも現れる」 「なるほど……」 立ち上る煙に眉根を寄せながら言う八草に、耕介は手首を返して針を取り出してみせた。 ピン、と指で弾くと、針は床から生えている針の一本の上に止まり、方位磁針のように回 転をし始める。 「これは?」 「誰かが術を使うか、人外がいれば──」 針が止まって、八草を指した。 ジト、と女に辛辣な目で見られ、コホンと耕介は咳払いする。 「まあ、役に立たないわけだが」 「この結界もどれほどの効果がある。わたしがつつけば壊れそうだが?」 皮肉げに唇を歪ませて言う八草。耕介は、肩をすくめてそれに応える。 「守りの結界じゃなく、中のものを隠すための結界だ。まずは、お前の傷を癒さないと。 俺の予想だと、相手は俺の同類。誰かが国に告げ口して、お前を殺すために派遣された んだな。それでもって、俺の他に銃以外の武器で戦う奴を俺は一人しか知らない」 「知り合いか」 「名前だけだよ」 「そうか」 それだけで、説明は事足りる。簡単だな、と思う反面、手ごたえを感じることが出来な いで耕介は不満に思った。もう少し、会話がしたい。 「あ、あの、特技とかある?」 「ん? 人殺し……かな?」 「…………」 訊いてはいけないことを訊いてしまった気がして、耕介はタバコの端を前歯で噛み潰し た。灰皿の上に灰を落とし、新しいタバコをくわえる。さらに女が嫌な顔をするが、これ ばかりはやめられないので、耕介は「失礼」とジッポで火をつけた。 「ふう……」 「美味いのか?」 「まあね」 「わたしはそれが近くにあると至極不愉快だ」 言うなり、八草は正座のままずりずりと後ろに下がった。露骨な態度に、耕介は煙交じ りのため息をつく。 「そんなに駄目か? 狗神の鼻じゃ仕方ないだろうけど……これも俺には必要なものだか ら、少し我慢してくれ」 「嘘をつけ」 と、八草は目を攻撃的に細める。 「別段タバコを吸わずとも、人は生きていける。だというのに快楽に溺れ、挙句に他人の 迷惑を前にしてその快楽を盾にして了承を得ようなどと、恥知らずの極みだ。この恥知ら ずが。お前は何様のつもりだ。何様のつもりだ」 「そこまで言う」 淡々と、わざと嫌味に言う八草の言い様に、耕介もカチンと来る。反論するにはやや材 料が乏しかったが、彼が愛煙家のための反駁を開始しようとした時だ。 ピンポーン、とインターホンが鳴り、二人は顔を見合わせる。素早く耕介が口の前で人 差し指を立てて、一人立ち上がる。 耕介が部屋を出て行くと、八草は緊張を保ちつつ、手で腹を押さえてうずくまった。前 のめりに、床に頭が着くくらいに身を倒し、額に脂汗を流して牙を噛み締める。 「……く、う……」 そこは、昨夜野太刀が突き刺さっていた箇所だ。耕介に抜いてもらえたが、人外の驚異 的な回復力を持ってしても、一晩で癒える浅い傷ではなかった。治ったのは表面だけ。そ ういう段階だ。 「はぁぁぁ……」 深く息をついて、痙攣を始めた身体を落ち着かせる。その拍子に煙の残滓を吸い込んで しまい、彼女は小さく咳き込んだ。 「くそ……っ」 痛かった。熱かった。貫かれた左脇腹を中心に熱が広がっていくような感覚。そのくせ 頭には血が届いていないのか、時折寒気にも似た目眩がする。 (まだ眠っているべきなのだろうが……) 狗神としての誇りが、それを許さなかった。一人ならば休息するが、彼女から刺客の話 を聞くなり部屋に針結界を敷き始めた耕介を前にして、自分だけが休むわけにはいかない。 いかない。 「──おい、大丈夫か、お前!?」 「わ、わう?」 気がつくと、男の声が耳元で聞こえた。自分がどういう姿なのか、わからない。うずく まったところまではわかるのだが。 「そんなに苦しいなら、やせ我慢してるなっ。寝てろ。お前は寝てろ。腹が減ってどうし ようもなくなるまで、たっぷり寝てろ」 わけがわからないうちに、身体の上下がひっくり返っていて。 毛布だと思うものが身体にかけられた途端、意識がどこかに飛んでいった。 ※ 八草の一番古い記憶は、神社の境内に佇む自分だ。 時間帯は夜で、真上に丸い月が顔を見せていた。そこは小さな村で、陽が落ちれば皆が 眠りにつく、そんな寂れた農村だった。 それまで確か犬というものの人外であった彼女は、年月を経て得た力で人に化ける術を 身につけていた。同時にものを記憶する力が強くなり、それからの歳月のことはしっかり 覚えておくことが出来るようになった。 初めて人間に関わったのは、狗神になって数ヵ月目だったと思う。 毎日神社に顔を出しては泣きじゃくる子供がうるさくて、さらに言えば毎日お供え物を 持ってきてくれてた男が来なくなったために少々小腹が減っていて、その状況を作った元 凶に対して憂さを晴らそうとした。 それはセキガハラの合戦の落ち武者崩れの野党だとかで、なかなか数も多かった。昨今 の人間に比べると危険な手合いだったのだけど、彼女は確実に一日一人ずつ減らすことで 彼らを全滅させた。 村の脅威となっていた者たちが野犬に食い殺された、という噂は子供の耳にも届いたの か、その日から子供は毎日彼女の神社にお供え物をしてくれるようになった。 彼女は、それで満足だった。 満足だったのだ。 やがてその噂に尾ひれがつき、恨み晴らしのお狗さま、復讐狗神などと呼ばれるように なる必要は、きっとなかったのだ。 ※ 目が覚めたのは、空腹のせいだった。 「ん……くっ」 あくびを噛み殺して身をよじらせた八草は、脇腹に走った痛みにすぐさま頭がはっきり した。「う〜」としばし腹を押さえて毛布の中で丸くなった彼女は、近くに人の気配が無 いことに薄目を開けた。 一瞬恐怖で顔を引きつらせてしまったのは、顔のすぐ横にあった無数の針のせいだ。し かし、すぐにそれが本物を隠すための幻であることを思い出し、詰めた息を吐く。 (針使い……耕介は?) 腹の皮が引きつるような感覚を不快に思いながら身を起こすと、八草は部屋の中を見回 した。家具の一つも無い殺風景な部屋はびっしりと針で覆われ、気持ちの良い光景ではな い。だが、自分が意識を失う前にはなかったものが見つかり、彼女は首を傾げてそれに鼻 を近づけた。危険な匂いはしない。 「ふむ」 それは、コンビニ袋に入った数種類の握り飯とパックの牛乳、ペットボトルの緑茶だ。 八草はそれと自らの身体にかけてあった毛布を交互に見て、コリコリと口の中で牙をす り合わせる。 (食って良いのか? ……良いのだろうな、これは) 図らずもぐうと腹が鳴り、八草は猛烈な勢いで握り飯に手を伸ばした。 が。 「……なんだこれは」 包み紙の正しい開け方がわからず、握り飯と海苔が分離した状態で取り出してしまい、 彼女は首を傾げる。 「海苔は食えないのか?」 納得出来ず、包みを牙で引きちぎって海苔を取り出す。パリパリの海苔を握り飯に巻く と、八草は一口でそれを口の中に放り込んだ。 もぐもぐと頬張って噛み、緑茶のボトルキャップをやはり開け方がわからず苦戦して取 り外し、あおるようにして飲む。天を仰ぎ、ペットボトルを真逆さまにして飲むため口の 端から溢れた液体が頬や喉を伝ったが、気にせずに飲み干す。 「……はぁっ!」 呼吸すら忘れてむさぼっていた狗神は、ペットボトルを放り捨てると人心地ついた。酷 く久しぶりに食べ物を口にし、水分を取った気がした。 その後は残りの握り飯を味わって食べ、牛乳も残らず胃に流し込んでから、彼女は再び 横になる。 (どこに行ったかは知らないが、あの男が帰ってくるまでは身体を休めておかないと) 弱みは見せられない、と思う。 狗神としての誇りもあるが、何より、自分と彼は利害の一致により共に同じ道を行くこ とにしたのだから。 (まあ、覚えていないとか言っていたが) 急速な眠気に、八草は逆らわなかった。 ※ いつしか、八草は人を殺すことを生業とするようになっていた。 知り合いの人外の中にはその行為に眉をひそめる者もいたが、八草が自分のためではな く、あくまで願い事としてそれを処理していることで、納得はしていたようだ。 八草が欲しいのは常に温かい寝床と腹の満たされる環境であり、その他のことには一切 興味を向けることはなかったのだから。 それは無欲とは違うだろう。欲の方向性が人とは多少違っているだけだ。だから、お互 いがお互いを利することが出来る。欲の取り合いにならない。人間と自分の関係は上手く いっていると、八草は一人頷いたものだ。 そんな八草が拠点としていた村が発展し、八草への願い事を独占する人間が現れても、 彼女はまったく気にしなかった。そのせいで願い事の数が減ったのだが、彼女の食生活は むしろ向上したからだ。 毎日だらだらと過ごし、時折頼まれて人間を殺す。それだけで、彼女の衣食住は満たさ れた。そうして、幾世代かをその血筋のもとで過ごした頃だろうか。少し変わったことが あった。 その家の娘だと思うのだが、家の中で迷子になって泣いているところを八草が親元へ届 けてやった。すると、幼い少女は何を思ったのか、彼女の社に人形を持って遊びに来るよ うになった。 別段人間の子供に特別な感情を持たない八草は、少女が遊ぶのに任せて惰眠をむさぼる ことが多かった。しかしある日少女が言った言葉のせいで、その態度が改まることになる。 「変な顔」 寝起きの顔をそう言われ、八草は至極不愉快になった。その日は子供の襟首を摘んで社 の外に放り捨てたくらいだ。 翌日から、彼女は少女の前で眠ることはなくなった。そうなると、仕方なく人形遊びの 相手を務めるはめになり、自然とその奥の深さにのめりこんだ。 なるほど、たかが人形とは言っても、生きている人間と同じように手入れが必要だった。 髪は毎日櫛で梳いて油をつけないと痛んでしまうし、唇に紅も差さないといけない。服だ ってもちろん着せ替える。名前もつければ愛着が生まれるし、そうなると手入れするのが 当たり前になって、しないと落ち着かなくなってしまう。 そうこうして何年かが過ぎて娘が嫁にいく時、八草は彼女から一体の市松人形を受け取 った。 「可愛がってあげてくださいね」 そう言われて手渡された人形の手入れを怠ったことは、一日たりともなかった。 ※ (そうだ、人形は……) ぼんやりと天井を見上げ、八草は自分の人形の行方が気になった。 人形は回収しなければならない。彼女が受け取ってきた報酬品の中では特別高価な物で はないが、食べ物にしか興味の無かった彼女に趣味らしい趣味を与えてくれた貴重な一品 だ。 (そのためには、早く身体を治さないと) 香ばしい匂いに寝転んだまま鼻をヒクつかせると、何故か枕元に大きなピザが置いてあ った。誰が持ってきたんだろう、と考え、一人しかいないことにすぐに気づく。 「いるのか」 自分の感覚に自信が持てずに、八草は思わず声を上げる。しかし返って来るのは静寂の みで、八草はバツの悪い表情になる。 (またどこかに行っているのか。わたしが寝ている間に戻ってきているようだが、それな ら起こせば良いものを) そもそも、あのタバコの匂いがあれば寝ていても嫌でも目が覚めそうなものなのだが。 「?」 耕介の来訪に気づけない自分に、八草は小首を傾げるしかなかった。 そして、ピザもなかなかいけるものだと発見する。 ※ 歳月が経つと、八草への願い事は極端に減った。それでも慣習なのかお供え物だけは減 ることがなく、彼女は相変わらず気ままに生きることが出来た。 だが、ある日のことだ。 社で暇な時間を潰していた八草のもとに、彼女を祀る家の者がやって来た。一人ではな く剣呑な雰囲気をまとった時代遅れの虚無僧姿を連れており、いぶかしむ彼女にその虚無 僧は言った。 「人を喰い物にする人外は滅ぶべし」 と。 逃げて。反撃して。一撃を加えて。その代償に脇腹に痛撃を受け。 敗北した。 そこから、記憶がごちゃごちゃになっている。 痛くて寒くて、そういう時に黒づくめに遭遇した。 刀を抜いてもらい、手当てをしてもらった。 当面の寝床と食事。 寝た。 起きた。 寝た。 起きた。 繰り返して。 ──今は、どうなってる? ※ パチ、と目が覚めた。 「お?」 「わう?」 二人は同時に声を上げた。それは、耕介が新しいコンビニ袋を持って居間に入ってきた タイミングだ。寝転がった八草と立っている耕介の視線がぶつかり、二人は面食らう。特 に八草は、バッと袖で顔を隠して声を尖らせる。 「見るな」 「……まあ、もう見飽きるくらい見たからいいけど。食うか?」 「な……っ」 あっさりと言う耕介に、八草が牙をのぞかせてあ然とする。次にむすっと唇を引き結び、 牙をすり合わせた。 「ま、まあ、それは仕方ない。許そう。わたしが寝ている間に食事を運んでくれたのはお 前だろう? その恩の分は、許す」 「ありがとうでいいのか、これは?」 八草の言い分に、耕介は苦笑する。そして、彼に三日間寝ていたことを告げられ、さす がに八草も驚いた。 「それは……さらに恩を感じないといけないな。感謝する」 「気にするな。お前を引き込んだのは、まあ、酔ってたけど俺なんだろうし、その責任は 取るよ」 「頼もしいことだな」 言葉が皮肉げになってしまうのは、仕方ないだろう。すっかり死ぬ気になっていた自分 を救ってくれた約束を忘れられれば、不愉快にもなる。 (……いや、からかいたくもなる、か?) 一応助けてもらった恩もあるし、八草は耕介自身に敵愾心は持っていない。強いて言う ならばタバコが嫌だったが、三日三晩の宿と食事を与えられては、文句も消えるものだ。 (わたしは、生きている) それはつまり彼が彼女をかくまってくれたおかげであり、おそらく彼が危険をおかして くれているおかげである。 別に八草は彼に恩恵を与える存在ではないというのに、すでに様々なものをもらってし まった。今までは仕事の対価として得るものだと思っていた、寝床と食事もだ。 (これ以上寝ているわけにはいかないな) 身体はまだ本調子ではなかったが、これまで自分が築き上げてきた『生き方』をいきな り否定するような『もらうだけ』の状態でいるのは正直苦痛だ。彼女の感覚では、それは 怠惰である。 だから、八草は真正面から耕介の黒い瞳を見て尋ねた。 「では、状況を聞こうか。この数日、わたしに食事を運んでいただけではないだろう?」 「ご明察」 ニヤリと我が意を得たりという会心の笑みを浮かべ、耕介はスーツの袖から三枚の写真 を取り出した。うち二枚は、彼女にも見覚えのあるものだ。 一枚は、今時では珍しい平屋作りの屋敷だ。どこかのビルから取ったのか、斜め上から の写真になっている。時代劇の舞台を思わせる古い建物は、一帯でも有名な名士のものだ。 (つまり、わたしに貢ぐ血族の家だな) それから、と八草はもう一枚の写真を見る。 朱塗りの柱の際だつ、唐造りの神社だ。やはり斜め上からになっている。境内の狭さの 割に掃除は行き届き、建て替えも頻繁に行っている。町がまだ村であった頃から、ずっと 大切にされてきた場所だ。 (こちらは、わたしの家) 最後の一枚は、新しく撮ったものではなく色あせたモノクロの写真だった。目の落ちく ぼんだ、骨と皮だけのような男が写っており、八草はそれを掲示された意味がわからなか った。しかし、すぐに尋ねるのも悔しいので考えてみると案外簡単に予想はついた。 「これは、あの虚無僧か」 「頭の回転が速くて助かる。至極愉快だ」 「あなどるな。マネをするな。それから、タバコはやめろ」 「っと、失礼」 無意識だったのか、くわえかけたタバコを指に挟んだまま、耕介は唇を舐める。そうし てから、 「おい」 「くわえるだけ、くわえるだけ」 結局、くわえた。 八草は耕介が手にしたジッポが非常に気になったが、彼はこういう男なのだと諦めて写 真に視線を戻す。成果の上がらない注意をするより、お互いに有意義な話を進めた方が良 い。耕介もそのつもりなのか、身を乗り出して言う。 「こいつは、まあ、見た通りの昔の写真なわけだが、お前の言ったような刀使いは現在知 られているだけでこいつだけだ。この道の生き字引というか……鬼だな」 「だろうな」 意識せず、八草は脇腹を撫でていた。人ならぬ人外を追いつめる人間だ。ならばそれも ある意味人外だろう。 「本名は不明。一応本人の言をとって屍(しかばね)って呼ばれているみたいなんだがな」 「……わたしを追うのは屍か」 ニィ、と唇の端に牙が覗いた。 屍なら、たくさん作ってきた。今襲いかかってくるのが自分の生業の業ならば、望むと ころだ。 黙って写真を床に戻す八草を耕介はジッと見ていたが、自分の手が勝手にタバコに火を つけようとしているのに気づいて、危ない危ないと慌てて止めた。 それを見て、そう言えば、と八草は思い出す。 「タバコの匂いがすればわたしはすぐに目が覚めたはずだが、この三日間どうしていた?」 「ああ、やっぱり? だから俺ずっと外にいたんだ。起こしちゃ悪いし、だけど吸いたい し」 「……なるほど」 明解な答えに、八草は肩をすくめた。耕介がタバコを我慢したなどと言ったら、どうし て普段は我慢出来ないのか、などとなじってやるつもりだったのだが、当てが外れた。 彼は彼女に気を遣いつつも、我を殺さない。 なるほど、と八草は口の中で反芻した。 「悪くない」 そういう距離も、悪くないと思った。 4 すぐにでも行動しようとする八草の回復力に驚きながらも、耕介は冷静に彼女に告げた。 「まずその服を替えよう。目立ちすぎる。それから、耳と尻尾、消せるか?」 「まあ、言いたいことはわかる。至極もっともだ。服はあるか?」 まあね、と耕介が彼女に渡したのは、自分用の黒いスーツだ。 八草は渡されたスーツと耕介の服を交互に見て、自分がそれを身につけた姿を想像した のか、眉根をきゅっと寄せると、 「断る」 「却下」 「ちっ」 しぶしぶと従った。 だが、八草がその場で袴の帯を解き始めると耕介は「げっ」と後ずさった。スルスルと 生き物のように床に落ちていく帯端。狗神が手を放すと、袴はパサリと床に落ちて布の山 となった。 「洋物に袖を通すのは初めてだ」 と何も気にしていない八草が言って、ようやく耕介は自分を取り戻した。 つまり、じっくり観戦することにしたのである。 「うっし」 などと青年が拳を握りしめているのをわかっているかわかっていないのか、八草はつま らなそうに眺めて袴の山から足を引き抜く。スラリと長い足が露わになるかと思いきや、 足下まで届く白衣に隠され、見ることが出来ない。 (惜しいっ) などと考えることが出来る分だけ、余裕があったのだが、 「う、うあぁ……」 八草が無造作に白衣と襦袢の前をはだけた瞬間、彼の脳味噌はぐるぐるになった。思わ ず手で額を押さえ、言ってしまう。 「あ、あのな、ちょっといいか」 「なんだ」 「は、恥ずかしくないのか?」 「わたしには、恥ずかしがっているのはお前の方に見える」 「だ、だってなぁ……」 白い布を放り捨てる八草に、耕介は頬を染めて唇をへの字にする。 彼女は完全な裸身になっていた。それはもう潔い脱ぎっぷりで、色気の欠片もないこと 甚だしい。だが、二十歳の健全な男を刺激するにそれは充分すぎる破壊力を持っていた。 自分の前に立つ、とびきり好みの女の裸。 ゆとりのある白衣に身を包んでた時にはわからなかったが、剥き出しになったその肢体 は驚くほど細い。青白かった肌の色も血色を取り戻してほのかに桃色づき、張りのある、 それいてやわらかそうな質を見せている。 吸い付くように視線が向いてしまうのはやはり胸、というか乳、というか、まあ、それ であり、遠慮無く目の前にどんとさらけ出された二つの丸みに耕介はゴクリと唾を飲み込 んだ。触ってそのやわらかさとか温度とか確かめてみたいそれの先端の赤い突起がツンと 上を向いていて、ああ上向きってやつかな、などと考える。 だが、その視線は八草がスーツを拾うために屈み込んだために外され、誘導されるよう に下に向かう。 (あ、肩細い) などと新たな発見に感激するよりも早く彼女が立ち上がり、目の移動が追いつかなかっ た耕介は意図的に避けていた箇所を見てしまう。 「うわぁ……」 思わず声が出た。 「?」 いぶかしげに八草が耕介を見ながら、スラックスに足を通す。それに耕介が叫ぶ。 「ノーパンですか!?」 「な、なんださっきから!?」 いきなりのそれにさすがに八草がびっくりする。素裸にスラックスを履いただけ、しか も本当に足を通しただけでホックもかけずに前面を開きっぱなしのその姿に、耕介は慌て て首を横に振る。 「い、いやいや、なんでもない。なんでもないよ。なんでもないですよー。さっさと着て 下さい。着れ」 「なんだかわからないが至極不愉快な態度だな、お前。恥ずかしいなら外に出ていろ」 「は、恥ずかしいとはまた違うんだが」 「ならなんだ。手短に言え」 ぽりぽりと赤い頬を掻く耕介に、いらついたように八草は言う。そのまったく男を意識 していない態度に、なんだか少し期待して耕介は正直に言った。 「胸触らせて下さい」 「死ねっ!」 人外の右フックが耕介を殴り飛ばした。 ※ 「も、もしかして手短過ぎたか……?」 「だ、黙れ。なんだお前は。わたしに欲情するのか。そうなのか。なんなんだお前はっ!」 八草はカァーッと顔を赤くして胸を隠した。床に這いつくばって折れた奥歯を吹き出し ている耕介を見下ろし、自分の軽率を悟る。 (そ、そうだった、こいつは雄だったんだ) 狗神にだって男女の別はある。無造作だったのは人間と人外なら問題はなかろうと勝手 に思っていたからだ。だが、それが耕介の一言で自分の思いこみだったと悟り、八草はそ れまでの自分の姿を思い出して顔が熱くなった。 (わ、わ、わたしは肌を、胸を、あまつさえ……!?) こみ上げてきたのは全身の火照りで、羞恥だ。彼女はみっともないことが嫌いだ。寝起 きの顔は見せたくないし、無様な姿も見せたくない。 だから何よりも先に言葉が出た。 「お、おい」 「いつつ……折れた、奥歯が……って、なんだ?」 「わ、わたしの身体は……その、大丈夫か?」 「は?」 「変ではなかったか?」 四つん這いの姿で、耕介が固まる。 凍り付いた表情に、八草は聞かなければ良かったと思ったのだが、 「……凄かった……」 「な、なに?」 ボソリと青年が呟いた言葉に、耳を疑った。意味がわからなかった。 (凄い? 凄い悪い?) 悪い方に思考を進める。だが、それを打ち砕くように耕介は取り出したタバコをくわえ て言った。 「凄い……って言うか、いいもの見せてもらったと言うか……まあそんな感じ」 「は?」 今度は、八草が固まった。 照れくさそうに言う青年の表情と、殴られて赤くなった頬だけでなくまんべんなく赤い 顔と、その言葉の意味を吟味し――。 「そ、そうか。それなら良いんだ」 背中を向けて、着替えを続行した。 始終耕介の視線を感じてぎくしゃくしたが、どうにか全てを身につけて八草はあぐらを かいた彼の方に向き直る。痛そうに頬をさすっていた耕介がぽかんと口を開け、それに八 草はドキリと胸の動悸が激しくなった。 「へ、変か? 変なら言え。怒らない。至極不愉快になるだろうが、怒らない」 「よ……よく似合っていますです、はい」 「こ、こら。そういうしゃべり方はよせっ。何か変だぞ」 「そ、そうでございますか?」 「わ……ワウゥ……そういう目で見るな」 呆けたような、明らかに自分に見とれている耕介の視線に堪えきれず、八草は吊り上が った目を斜め下に向けた。床を見る。だけど、耕介は自分を見ている。 知らず、両手で自分を抱いていた。 「と、とにかく着たぞ。これで外に出て良いのだろう?」 「ま、まあ、そういうことだな。行くか」 「あ、ああ」 そうして、二人は同じように深呼吸した。 同じように顔を手でパチンと叩き。 同じように極力相手を見ないで部屋を出た。 気づかなかったが、手足が一緒に出ているのもやはり同じだった。 ※ それでも、家の外に出た時には二人とも冷静さを取り戻していた。気持ちの切り替えと 言うか、そういうものが出来ない二人ではないのだ。もちろん、八草が命を狙われている という事実あってこそのことだが。 (まあ、問題無いだろう) チラリと夜道を歩く八草を覗き見て耕介は頷く。男物のスーツに身を包んだ八草の姿は 珍妙ではあったが、白衣袴よりは目立たない。 スラックスの裾は何重にも折りたたんで針で留め、ワイシャツも同様。上着はそのまま で袖を余らせていたが、それはそれで可愛いげがあるのではないかと耕介は思う。長い黒 髪と希有な美貌だけは隠しようも無いが、本来の八草を知っていて、しかも一回遭遇した 程度の相手ならば先入観もあってかなりの目くらましになるはずだった。 (うん、可愛いし) 冷静な考えの中に心の声が横槍を入れてきて、耕介はくわえたタバコを無意味に口だけ で上下させた。くいくい動く煙の発生源に八草がわずかに身を遠ざけるが、今はその方が 良いだろうと耕介は思う。 正直、裸を見たばかりの女と一緒に歩いていて平静を保つには耕介はまだ若すぎたのだ。 思考の表面は緊張を孕んで臨戦態勢なのだが、心の奥底で動揺している。この調子では、 頭で考えて反応出来ない反射の世界の戦いでは後れを取る可能性が高い。 「ふう……」 その不安を打ち消すために、耕介は煙で肺を満たす。ニコチンは高い運動性能の敵だが、 それを上回る恩恵を彼に与えてくれる。 嫌な顔ばかりする狗神に、耕介は一つ思いついて口を開いた。 「タバコなんだけどさ」 「ん?」 「悪いとは思うけど、やめられないんだ。俺の一番尊敬する人が、これまた凄いヘビース モーカーで、いつもタバコってのがその人の印象でさ。つまり、そういうこと」 「そういうこと、では納得出来ないがな」 ニカッと笑って言う耕介に、横を歩いていた八草は呆れたような視線を向ける。その程 度でわたしが納得するとでも? というそれに、耕介は火のついていないタバコを取り出 してみせた。 いつもそうだが、耕介の袖からは何でも出てくるのである。 「お前が説得されなくてもいいんだ。ただ、俺が吸い続ける理由知ってもらおうと思って さ」 「ただの快楽ではないと言いたいわけか」 「まあね」 「では、わたしも一つ話そう」 「お?」 意外にも八草が話を受け取って続けたので、耕介は驚いた。狗神は、歩きながら斜め上 にある耕介の顔に牙の見える笑みを向ける。 「わたしが人を殺していたのも、別に快楽というわけではない。わたしはそれを生業にし ていたのだし、後悔もない。わたしは自分が人を殺めることは悪ではないと思っている。 人間には納得出来ないかもしれないがな」 「納得……ね」 タバコの返礼にしてはずいぶん重い話題だ、と耕介は苦笑する。何故いきなり八草がそ んなことを言い出すのか意図がわからなかったが、すぐに問い返しても馬鹿にされる気が した。 しばし考え、タバコの灰がポロリと落ちるのを見ながら言う。 「──お前が悪く思ってないなら、多分そうなんだろ。だけど、これから誰か殺すなら、 俺は邪魔するな。やっぱり、邪魔するよ。うん、するな」 「そうだな」 うん、と八草も頷く。 そうして八草が浮かべた笑みは、牙も見えていた。皮肉げなものだった。どこか、自嘲 的だったかもしれない。 だけれど、不思議と耕介が受け入れやすい、彼に近しい笑みのように思えた。 「邪魔されない生き方を、してみたいものだ」 と。 ああ、と耕介は目を細める。紫煙が雪の降りそうな星の無い曇天に上っていくのを追い つつ、そういう言葉を最近聞いたような気がしていた。 もしかしたら、酔っている時に自分が言ったのかもしれない。 「そうだな」 うん、と耕介は八草の真似をするように頷いた。 そうだな、と繰り返した。 「そういう生き方も、俺たちに出来たらいいな」 そして、彼は語り始めた。 ※ 錦耕介が生まれたのは、生活上の何事にも針を使うという、今思えばおかしな家系だっ た。 もともとは日本古来から麻酔師の役割を担っていた一族で、薬物と針の術に長けていた という。しかし、長い歴史の中で一族は日本全国に散らばり、耕介に繋がる家系に伝えら れていたのはその中の針の業のみであった。 「針で何でも出来ると思え」 と耕介に針の業を教えてくれた人物は言った。別に両親でもなく、死んだ両親に代わっ て彼を育ててくれた叔父だ。 明かりをつけるのにも、扉を開けるのにも針を使った。ボタンを押すという簡単なこと から、針でドアノブを引っ掛ける方法まで、本来手でやることの全てを針にやらせた。 それは、刷り込みだったのだという。 幼い頃にあらゆることは針で行なうと叩き込まれた耕介は、誰よりも上手に針を扱える 男になっていた。だが、それは縫い物をするという平和的な利用方法よりも、動物への麻 酔や地脈への刺激などの、およそ尋常とは言い切れない範囲での話だ。 つまり、自分は人殺しの業を身につけた者なのではないだろうか。 そう思ってしまうと、針を人間に使ってみたいという欲求が自分の中に生まれた。 正直に言って、少年には常識が欠けていた。もちろん学校には通っていたし、友人もい た。人付き合いは苦手な方ではなかった。 しかし、それと『基本的倫理の欠損』は別の話だ。 幼い頃から針で生物を弄り回してきた耕介には、人間の友人に針を刺すことも悪いこと には思えなかったのだ。針に関係する行為では彼にためらいや戸惑いという感情は存在せ ず、悪意は無い。 悪意は無かったので、彼は試した。 毎晩家を抜け出して小さな街の繁華街をさ迷い歩き、『動かなくなっても良い』人間を 探した。倫理的な欠損があっても、『友人と今後話せなくなるのは嫌だ』という感情はあ ったのだ。 そして、一人のホームレスを取り囲んで暴行を行なっていた者たちを見つけた時、耕介 は実行した。 遠い間合いから、歩み寄りながら袖口から取り出した針を投げる。十メートル以上離れ てのそれは少年一人の背に刺さり、一撃で背骨の中の神経を傷つけた。 次に五メートルまで来たところでもう一人に投擲。両目に針を突き立てられた少年は、 痛みが無いのに盲目になるという事態に半狂乱になった。 最後に、いきなり倒れた二人の仲間に驚いて振り返った少年のナイフを弾きながら、両 腕両膝に一本ずつ。すると、その少年は勝手に歩く手足に泣きながら仲間を引きずって去 っていった。針で神経系に命令を下す、耕介の得意の業だ。 それらのことはあまりに簡単に済んでしまい、耕介はむしろ拍子抜けした。達成感も何 も無く、感じたのは単純作業をこなしたという感覚だけだ。 (なるほど。ちゃんと人間にも効くんだ) ただ、出来るから試しただけのこと。それだけのことだったので、耕介はそれ以上人を 殺すために針を打つ気は無くなった。人間三人を再起不能にしておいて、やはり彼には罪 悪感はなかった。 そうして、いつでも相手を好きなように出来るという特殊能力を持って、彼は成長した。 体育祭では仲間の運動力を高め、文化祭では満腹の人間を空腹に変えた。 それでも耕介が自分の欲望のために針を乱用することはなかった。たわいの無いことに は使ったが、自分が好きだった相手にフラれた時にも、彼は相手に針を使わなかった。 (使ってその気にさせても、嬉しくないしなあ) 針を使う彼は、針の限界もまた知っていた。 針は手の代わり、武器の代わりにはなったが、それ故に人の心までは変えられない。あ る程度食欲や性欲を調節することは出来たが、それはあくまで肉体に依存する欲求に過ぎ ない。 (俺はなんだか周りに比べて危険人物だけど、それってあんまり役に立たないんじゃない のか?) 勉強の役にも立たないし、人には言えないから就職の役にも立たないし、と。 そう思った頃、叔父が彼に人外という生物を紹介した。 叔父は彼のトレードマークであるタバコをくわえながら、耕介に言った。 「あまり勧めはしないが、自分の針の業が気になるのなら、一度試してみるといい。お前 みたいな人間にしか出来ない仕事もあるもんだ」 叔父を通じ、耕介は『国から給料が出る仕事』として人外狩りを請け負った。別に国は 人外を脅威とは考えておらず、しかし狩ることを希望する者は無条件で雇っているという。 それはまだ若い彼には不思議な話だったが、生活費を稼ぐ必要から耕介は人外と対峙した。 ──奇跡的、とでも言うのか、耕介は二年間で三回の人外を捕獲することに成功した。 凶暴な力で立ち向かってくる人外を相手に手加減など出来るはずもなかったので、全員殺 すつもりだったのだが、結局は人外は驚異的な生命力で生きながらえ、捕獲という結果に なっていた。 なるほどと思ったのは、確かにそういう仕事は自分のような人間にしか出来ないという ことだ。 同時に、思った。 (でも、こんなに痛い思いはしたくないな) と。 (確かに俺みたいのにしか出来ない仕事だけど、別に俺がやりたい仕事じゃないしな) と。 (う〜ん。もしかして、針って本当に……俺のやりたいことには関係ないんじゃないか?) 人の心を変えること。 勉強で良い結果を出すこと。 就職。 必要なことに役に立たず。 人外狩りという、針を扱う者にこそ出来る適職にすら釈然としないものを感じ。 青年になった彼は、首を傾げるのだ。 (なら、こんな殺伐とした業を使わなくていい生き方を、針無しで手に入れる努力が必要 なのか?) 自分の手足である道具を捨てる決意は、なかなか出来そうになかった。 ※ 「結局、俺にとって針は手足なんだ。何をするにもこれを使った。だから、これなしで生 きていくとなると、やっぱり違和感があるんだ。だけど、人外相手にするの怖いし。針の ことバラして就職するのも無理だし。こう、平和的に生きていくために、やっぱり針はい らないわけで、そう思っても不安はあるもので、一人よりは二人の方が心強いから道連れ が欲しいなあ、と」 タバコを口から離し、長く白い息を吐く。その青年の横顔を見ていた八草は、彼の視線 がチラリと自分に向いてくるのに対して、吊り上がり気味の目で応える。 意味深に言葉を途切れさす耕介を「それで?」と促すと、彼は申し訳なさそうに笑った。 「つまり、俺は覚えていないけど、お前に対して俺はそういうふうなことを考えて一緒に 行こうって言ったんじゃないかな」 「ふむ」 歩きながら八草は腕を組む。袖がすっきりしている洋服を着るのは初めてだったので何 か頼りなさを感じたが、それは街中を人と並んで歩くために仕方ないことだと思っておく。 (そうだ) 道を見る。 民家に左右を挟まれた道を、二人は歩いている。夜の九時を過ぎたばかりという時間は まだ帰宅する仕事人の姿も多く、すでに何人かのそういった者とすれ違っていた。だが、 彼らは八草を見ても多少の好奇の視線を向けてくるだけで、大げさに驚いたりはしない。 洋装のおかげだ。 そして、洋装は耕介と一緒に歩くためのものであり、虚無僧から自らを隠すためのもの でもある。 (このわたしがこそこそ逃げ回るというのも無様な話だがな……仕方ない) 仕方ない、と何度も繰り返す。 本当に仕方ないからだ。 そうしないと、一緒に生きていけない。 「わたしも、そんなところだな。一人だと、さすがに決断出来たかどうかわからない。そ もそも今までの生き方をやめようと考えもしなかったかもしれない。だからお前の提案に は感謝している」 自分たちには、共通するものがあると思う。それはまだ曖昧で上手く言葉に出来ないが、 あまりに今の時代に適応していない業ばかりに達者で、そのせいで共通してしまったもの だ。 だから、八草はニッと牙を見せて笑ってみせた。 「煙は不愉快だが、存外わたしたちは良い連れ合いとしてやっていけるのかもしれないな」 ※ 「連れ合いか……」 色気の欠片も無い、さっぱりとした気持ちの良い笑顔で言われたことでも、耕介はその 響きに頬を掻いた。今まで異性とは友達以上の付き合いが無かった身だけに、余計な期待 をしてしまう言葉だ。 (うう……情けない。相手は人外だし) 違う生物だしなあ、と思うのだが、隣を歩く八草の容貌が見惚れるほどに美しいのも確 かだ。男の欲望を満たすに充分すぎる肢体と、そして妙に耕介と調和するその性格。 (相性いいけど……なんだか良すぎるような) お互いに必要とした時に、お互いに必要な存在に出会ってしまった。 そんな気がする。 ふと、じっくり観賞してしまった狗神の裸体を思い出す。 「どうした?」 「なんでもないです、はい」 いきなり頬を染めた耕介に八草が眉根を寄せたが、さすがに説明する気にはなれない。 そもそも、二十歳を越えて女の裸くらいで何をこんなに浮つくんだ俺は、と胸の中で叱咤 するが、そんな自分に動揺は広がるばかりだ。 (凄かったもんな……) その白さ。 その細さ。 その丸み。 その美しさ。 目に焼きついて離れないものがある。 高圧的で、だけど意外と素直な人外の、裸が変ではないかと問いかけてきた表情。 まずいなあ、と耕介は新しいタバコに火をつけた。 (こういうのも、一目惚れに入るのか?) 美しい上に性格も自分にぴったりの連れ合い。 そんな相手に特別な好意を抱けないほど、彼は大人にはなっていなかったのである。 5 神社の境内で待っていたのは、時代錯誤な格好の虚無僧だった。「おい」、と隣を歩く 耕介の脇腹を肘で突き、八草は出来たばかりの相棒に確認した。 「まさかわたしをハメたなどということはないな?」 「それはない」 「だろうな」 くいっと八草は唇の端を持ち上げる。誇り高く、相手が抱く負い目の感情を見逃さない 彼女であるが、この時はその観察眼を働かせる前に呟いていた。 それな無防備な――信頼だ。 (ふん……わたしも甘い。まあ、こいつがその気になれば、わたしの命はもう無いわけだ しな) 今更裏切りもあるまいと、理論足す直感足す希望でそう結論づけておく。食べることに 人生を費やしてきた狗神は、無条件に食べ物を運んできてくれた青年に思いの外に感謝し ているのだ。 「さて」 と八草は慣れないスニーカー――革靴は高いしサイズが合わないので、寝ている間に耕 介が買ってきていた――の爪先で自分の『領土』である境内の地面をトントンと叩いた。 次に地面を蹴って身体を上下に揺らすように小刻みに跳躍し、身体の調子を確認する。 (問題なし) 多少の引きつりを肌に感じたが、人外の回復力はそれこそ人智を越えている。もともと 犬である彼女は、人外になることによって肉体を人に近しいものへと変化させているわけ であるし、その意味で肉体の修復は根性に等しい速さで進んでいく。 ニヤリと笑って、八草は先日不覚を取った相手に告げた。 「借りを返させてもらおうか」 同時に地面を思い切り蹴った。前屈みの前進は瞬間移動のように速く、八草があっと言 う間に未だ語らぬ虚無僧の目の前に出現する。その速さに虚無僧が身をのけぞらせて回避 を試みると――。 「屈辱という形でな」 その動きをあざけるように、八草が虚無僧の横をただ通り過ぎた。 ――相手に、しない。 向かうのは社。無防備にさらけ出された背中に、虚無僧が腕を振るう。すると、袖口か ら一振りの刀が現れてその手に握られた。続いた金属音は、虚無僧が無数の針を弾いた音 だ。 それを背後に聞き、八草は素早く社の扉を開いて身を躍り込ませる。後ろ手に入り口を 閉めると、外から激しい戦いの始まった音がした。 あらかじめ、虚無僧が現れた場合は耕介が先に戦うことに決めていた。虚無僧が対八草 用の強力な限定装備をしているかもしれないというのがその理由だ。まずは人間である自 分が様子を見る、という青年の主張は理に適ったもので、八草はあまり不満を覚えること もなくその提案に頷いた。 だが。 何やら大きな刃物同士がぶつかるような音やら、巨大な土塊が弾ける音やらが視界外か ら聞こえてくると、八草は急に漠然とし不安を感じて、さっさと目当ての物を探すために その物置のようになった社の中をまさぐった。 (理には適っているが、あいつに危険がないわけではない) そう思うと、自然と手が早くなる。あれでもないこれでもないと高価なガラクタを引っ かき回し、数日前の記憶を頼りに探す。 他人の心配などあまりしたことがない彼女は、表での戦いの音が激しくなるにつれて大 きくなる、心に迫ってくるような、胸に何かがつかえるような感覚に首を傾げた。 (う〜む……面倒なものだな) 自分一人だけならばどうにでもなる、といつも考えているだけに、誰か連れ合いがいる 際の心配りの経験に乏しいのだ。だから余計に心配になるし、もし彼に万が一があったら 困るという思いが指先を焦らせる。 やがて目当ての市松人形を見つけた八草は、幼児ほどもあるそれを抱き抱えて嘆息した。 (一緒に生きていくとは不便なものだ。あいつにとってもそうだろうがな) 発見される前に街を出ようと言った耕介に、市松人形を回収していくと頑として譲らな かったのは彼女だ。待ち伏せも充分予想されただけに耕介は渋ったが、最後には苦笑して 了承してくれた。 八草が、 「人殺し以外でもらった、ただ一つのものだ」 と言ったから彼が折れたことは、彼女にもわかっている。 それは、思い出だけではない。 これからの新しい生き方を象徴する人形なのだ。 ※ 耕介が針を地面に突き立てると、その地面がまるで水面を撥ねる魚のように盛り上がっ て虚無僧に襲いかかる。大地のツボを突き大きな刺激を与えることによる局地的な変異だ。 だが、それも虚無僧が一振りにつき一刀、十回で十振りの刀で切り込むと勢いを失って 地面に横たわった。ズン、と凄まじい重みを予想される落下音の土蛇に一瞥も与えず、虚 無僧が迫る。 (なるほど) 細い針で斬撃を受け流すと、耕介は目まぐるしい攻防に気を抜かないようにしながら一 人頷いた。 「やっぱり同じ穴のムジナか」 袖から針を取り出す青年と、袖から刀を取り出す虚無僧ではどちらがより危険なのかは わからない。わからないが、何かを取り出せるという点では同じだ。 「刀そのもので生きてきたってやつか」 「針、か」 初めて虚無僧が言葉を発したが、それはひび割れて聞き取りづらいしゃがれ声だった。 かろうじて言われた言葉の意味を取れた耕介は、空中に針を突き刺してその上に立ち、高 い位置から相手を見下ろして言う。 「俺は、今日で終わりだよ」 そして宙を走る。あまりのことに虚無僧の動きが遅れ、極細い針を無数に配置して駆け た針使いの蹴りが深編み笠を弾き上げる。その下から現れた虚無僧の素顔に、耕介は嫌悪 を露わにした。 その一瞬の感情の動きを突いて、虚無僧の手が彼の足を掴んで背中から地面に叩きつけ る。 「くはっ!」 肺の空気が呻きとなって全て吐き出され、瞬間的な酸欠に耕介の視界が真っ黒に染まる。 上から伸びた手が青年の喉を鷲掴みにし、余った手が刀を振り上げた。 目の前にある虚無僧の表情の無い顔――否、肉がそげ落ち骨と皮だけになった死者の顔 に向かい、耕介は言った。 「人外に恨みがあるのか、それともただ殺してたら習慣になっちまったのかは知らないが」 このまま進んでいたら自分がそうなっていただろう姿に。 「妄執に憑かれたあんたのその顔は、完璧に人外だぜ」 言うなり、口から数十センチはある針を吹いた。本来なら両眼があるはずの空洞にそれ を受けた虚無僧は苦悶の声を上げてのけぞり、そこへ――。 ガウッ! 社の扉を破壊して飛び出した巨大な黒狗が、喉笛に喰らいついた。人間大の獣が噛みつ いた勢いそのままに首を回すと、けして小さくはない虚無僧の身体が宙を舞って社に叩き つけられる。 「こちらの用件は終わったぞ」 いつから人の姿になっていたのか――おそらく、虚無僧を投げた辺りで変身したのだろ うが――、大きすぎるスーツに身を包んだ八草が言う。腕には精巧な和人形を抱えており、 彼女が目当てのものを見つけたことを耕介は理解した。 (どうしても持っていきたいものがあるって言ったからついてきたんだが……それが人形 か) なんとなく可笑しくなって、黒衣の青年は含み笑いした。その笑いが段々と大きくなり、 クスクスと声が洩れ始め、ついには寝ころんだまま腹を抱えて笑い出す。その反応に八草 はきょとんとした顔になったが、すぐに憮然とした顔になって耕介を見下ろした。 「何がおかしい。その笑いは至極不愉快だ」 「い、いやいや。イメージのギャップがさ。どう言えばいいのか……お前って女の子だっ たんだなって思ってさ」 「ふん……見たままだ」 「そうだな」 上半身だけ起こしてタバコをくわえ、耕介は頷いた。 そう、見たままなのだろう。 (俺好みの迫力美人、か) それだけで、良いような気がした。 (世の中には人外どころか生物捨ててる奴もいるし) チラリと耕介は社の上で起きあがりつつある虚無僧を見た。すでに血の一滴も無いくら いに乾ききっているのか、噛みちぎられた喉からは何も流れない。 きっと、と耕介は思った。立ち上がり、スーツの上着を脱ぎ、無造作に肩にかける。 「きっと、あんたにはあんたなりの理由があったんだとは思うんだけど、そんなこと俺に は関係ないから一方的に言わせてもらう。何せ、あんたもあんたの都合で俺の連れを襲っ たんだろうから文句は無しだ。いいか」 空洞の目を向けてくる虚無僧に、耕介は肩にかけていたスーツの上着を振りかぶる。 「やるなら人に迷惑かけないようにしてやりやがれ!」 虚無僧の両手に刀が現れるが、傷ついたその身体の動きは遅い。耕介は思いきり、埃で も振り払うかのように上着を振り抜いた。 瞬間、どざぁ! と雪崩のような大量の針がその境内を飲み込んだ。何万本、何十万本、 何千万本という無数の針がスーツの内側からほとばしったのだ。 八草が目を見張る暇さえ無く、あまねく全てを針は押し流し、突き刺さり、蹂躙する。 降り注ぐ大質量から、八草は逃げようとした。だが、その腕を耕介が取り、逃がさない。 ――それだけで、彼女は理解した。 「ふんっ」 青年の手を振り払い、八草は胸の前で腕を組む。針は即座に狗神を滝のような轟音で叩 きつぶした。 否、そのように見えた。 数秒後、針一つ落ちていない境内に八草は立っていた。鼻を鳴らして一瞥すれば、全身 をサボテンのように針ぶすまにされて社の床に縫いつけられている虚無僧がいる。 「本気はあれだけというわけか」 八草は『本物』とは言わなかった。それこそが本質であり、真実だ。 さすがにそこまで見抜かれるとは思っていなかった耕介は驚いた顔をしたが、狗神の女 は「侮るな」と唇だけの笑みを浮かべる。 ふむ、と顎に手を当てて耕介は詳しい解説をすべきかと考えたが、 (まあ、今日で終わりだし、意味無いか) あっさりと自慢をやめることにした。 それよりも重要なことがあったので尋ねる。 「それで、どうする?」 言外に行動不能になった虚無僧の処理についての質問だったのだが、八草はあっさり、 「放っておけ」 と応えた。 「このままにしておけば、人間がこいつを見つけてどうにかするだろう。人外として処理 されるかもしれんが、そこまで面倒は見れん」 「まあ、殺すことはないよな」 「殺すつもりなら、お前はもう先ほどので殺していたはずだ」 「うん……恨みもないしな」 「わたしは多少あるが、お前の顔に免じてやるんだ」 「……それは感謝しないといけないのかな」 「いらん。気を遣うのは当然のことだ」 「お」 肩をすくめる八草に、耕介は皮肉られたことに気がついた。苦笑してタバコを地面に捨 てると、革靴の底で踏み潰す。狗神は満足そうに頷きかけ、無意識に耕介がタバコの箱を 取り出したのにまなじりをつり上げた。 「何もわかっていないようだな」 「い、いや、反射、反射っ」 ギロリと睨まれ、耕介は慌てて箱をしまった。それでも警戒したように八草は彼を見て いたが、やがてその目が虚無僧に向けられる。 生気の欠片もない、恩讐のみで動いていた人間の姿に、人外は呟く。 「……しかし、恐ろしいものだ、人間も。死ぬほど痛い目にもあったしな。お前ではない が、わたしも今日で終わりだ」 「終わりだな」 今までの生き方。それを込めた苦笑を一つ。 それだけで、二人は吹っ切ったように顔を見合わせ、どちらともなく破顔した。 (まあ、どうにかなるだろ) そうして、耕介は一般人になったのである。 ※ さて、それから数十分ほど後のことだ。 「終わりじゃなかったのかよっ」 その町の名家の家から財布だとか金庫の中身だとかをごっそり盗み出して夜道を走りな がら、耕介は隣を走る八草に怒鳴った。 狗神の女は宝石のついたネックレスやらを腕に引っかけ、いかにも当然だというふうに 応えるのだった。 「痛い思いをさせた報復だ。七代祟らないだけでもマシだと思え。それに」 と、八草は視線をそらす。 言うべきか言わざるべきか、悩むようなその数瞬。 「……これから二人で生きていくのならば、多少の蓄えは必要だろう」 それは、未来へ続く言葉だったのだろう。 生き方を変えることを決意し、これからの生が自分にとって不慣れで難しいことをよく 把握した上での、だからこそ出た言葉だったのだろう。 だから、耕介は目をまるくしてから頷いて、約束した。 「任せとけ」 力強く約束した。 自信はなく、自分もこれからに不安を抱いていたが、不思議と一人で決意するよりもず っと希望があるような気がして、約束した。 「絶対に幸せにしてやる」 ──それは、二人が本当に未熟だった頃の約束。 まだ恋人でも何でもなく、ただの相棒であった時の約束。 だけど、とにもかくにも二人はそこから出発したのである。 結 「ごめんあそばせ」 夜であるのに日傘を差した貴婦人――葬式でもあったのかと思わせる墨色のドレスの美 女が入り口のベルを鳴らした時、『アニマル・メイト』はディナータイムの真っ最中であ った。 たいした収入もなく他ではろくなものを食べられない人外や、人外に関わった人間が気 兼ねない話題に花を咲かせる、店で一番忙しい時間帯だ。せっかくの休日を、そういう半 ば施しのようなサービスに費やすあたり、この店の主人たちの性格がうかがえる。 (周りのことを大変気にかけ、共にある時間を多くしようとする――そういう出逢いの場 を少しでも作ろうという、素晴らしく素敵な方々ということですわ) まあ、人格者という言葉が似合う落ち着きはないのですけど、と女吸血鬼のレティ・モ ーガンは金の巻き毛をかすかに揺らして、クスリと微笑んだ。 その笑いの気配がわかったのか、エプロン姿の犬耳少女――八草が険しい目つきで振り 返る。 「今、至極不愉快な笑いを浮かべなかったか?」 「気のせいでしょう。まあ美味しそうなオムレツ。わたくしもそれをいただこうかしら」 「ん」 少女が頷いて、小さな身体ではもてあます大きなフライパンを皿の上で返す。すると横 から店主である耕介の手がさっと伸びて、他のサラダなどと一緒にカウンター席へと運ぶ。 「こんばんわ、レティさん。ちょうどあと一席でしたよ」 耕介がカウンター席を指さすと、確かに四人掛けのテーブルはすでに埋まっていた。 もとより一人でやって来たレティは否やもなく、優雅に椅子に腰を下ろす。 手際よく湯気を立てるおしぼりと水の入ったグラスが置かれ、レティは先ほどの注文に 追加する。 「ケチャップは多めでお願いしますわ」 「はい、血のように赤いやつ、ですね」 苦笑する耕介のくわえた薄荷タバコの先が、くんと持ち上がる。レティはタバコの煙が 嫌いな方で、喫茶店などは鬼門だったのだが、この店は平常に動物を迎えるので全面的に 禁煙となっている。 (マスターはヘビースモーカーだったというお話ですけれど) 名残のような薄荷タバコだけで、彼にタバコの煙の匂いは微塵も無い。 視線を横に向ければ、カウンターには自分と同じような歳を重ねた古株が。四人掛けの テーブルでは、麒麟の星花や化け猫のハクのようなまだ若輩のものが談笑している。 普段あまり集まることのない人外たちがフラリと集い、たわいのない話題に花を咲かす。 不思議なことにそれは都会のど真ん中にある人間の店なのだ。 (不思議ですわね) ――不思議なほどに、ここは居心地の良い場所だ。 幸せになれるというか、皆が無事にやっているのを確認出来るというか、表現には色々 あるが、とにかく自分はこういう場所が欲しかったのだ。 (仲間がいる場所、かもしれませんわね) 「コウ、上がり」 「おう。――レティさん、どうぞ」 また一つこの場所を好きになれそうな香りに、レティは顔をほころばせた。思わず言っ てしまう。 「始めの頃は、八草さんのお料理など食べられたものではありませんでしたのに」 「……お前、喧嘩売ってるのか」 「お褒めさしあげているのですわ」 心外な、とレティは眉根を寄せる。 ふん、と鼻を鳴らしてコーヒーの準備に取りかかる少女を眺め、そう言えばとレティは 思い出す。 (縮みましたわね) 初めて会った時は、この人外はしっかり大人の姿だったはずだ。この姿になってから一 年ほどだろうか。 そろそろでしょうか、と少しワクワクしながらレティは尋ねる。自分には縁のないこと だったから、未知との遭遇のような気分だ。 「ところで、お腹のお子さんはそろそろでしょうか?」 空気が、真っ白になった。 そして。 「ええええええええええええ!?」 カウンターの古株以外の全員が絶叫した。 「なん……ちょ……耕介さん、あんた『ロ』!?」 信じられねえ! というのが化け猫ハクの飼い主である真樹の叫びであり、 「おな、おな、お腹のお子さんって……や、八草お姉さんのかにゃ!?」 八草を姉と慕う白子のハクが両頬を押さえて叫んだのは単純に驚きの声であり、 「あー、あー、あかーちゃん? 赤ちゃん早く見たいデスネ」 さすがに麒麟らしく悟っていた星花はおっとりと微笑んでいた。 だが、騒然となる店内で一番動転したのは当の八草だ。 「わわわワウッ! バ、バラすな!」 少女は顔を真っ赤にして、カウンター越しにレティに向かってコーヒーカップを投げつ けたが、レティはあっさりと至近距離からのそれを受け止める。たおやかな指がカップの 取っ手を絡み取り、女吸血鬼は嫣然と微笑んだ。 「あらあら、おいたはいけませんわ。もうお一人のお身体ではないのですし」 「って、ま、マジなんすか!?」 「あ〜、真樹ちゃん落ち着いて。そういうふうに性犯罪者見る目は良くないと思うよ」 どこか引いた感じに見つめられ、耕介はカクンと気落ちした感じに頭を落とした。冗談 めかしたその仕草に、真樹はなんとか平静を取り戻す。 「い、いや、そっすよね。耕介さんが、そんなこと……子供に手を出すなんて」 「お姉さん、落ち着いて。落ち着いてにゃっ! これ以上歯を折られたら歯医者行くお金 もう無いにゃっ!」 セーターの袖をまくって殺気を放った八草に、髪も肌も白いアルビノのハクが必死に言 う。 血を見るかと思ったが、 「まあ、いい機会だから言うけど」 という耕介の言葉で、全員が動きを止めて彼を見た。 「今は見た目若くなってるけど、こいつ実際はこんなのだから」 ぴらりとレジから取り出してみせたのは、いつも通りに不機嫌そうな八草と、彼女と一 緒に店の前に立つ耕介の写った写真だ。店は今よりも新しく、新装開店の看板が写ってい る。 「うわ、すげぇ美人っ!」 「にゃ」 素直すぎる反応をした真樹の顔面にハクの裏拳が入り、彼の身体が半回転気味に床に沈 む。きっと歯の一本くらいは折れただろう。 無造作に凶悪な一撃を放ったネコミミ少女は、わぁ、と口に手を当てて言う。 「耕介さんわかーい。八草お姉さんも耕介さんとお似合いですにゃー」 「う、うるさいっ。そういうことを言うな。わたしが許可しない限り言うなっ」 「は、はいにゃ」 「えー、つまりだね。もともと八草は犬なわけで、こういう姿には変化してるわけだよね? それでね、子供が出来た分、そっちに力を持っていかれて全体的に小さくなったってわけ なんだよ」 と、逸れかける話題を耕介は引き戻す。 いつも優しげな耕介が少し照れ気味に話すのに、ハクと星花、そして床の上の真樹は顔 を見合わせ、 「なるほどにゃ」 「なーるーほど?」 「なるほど」 一斉に頷いた。 そこから続いたのは単純なひとことだ。 「おめでとうございます」 ボッと八草の顔に火がついたのはその時だ。 「わ、わう……」 らしくもなく照れた狗神は、困ったように耕介を見て、彼の微笑みに促されて頬を掻く。 「そ、そのだな……ま、まあ、こういうことを祝われるのは初めてなのだが、不愉快では ない」 むしろ、と滅多に見せない、危険の一つもない嬉しさだけを込めた笑みを浮かべる。 「至極……愉快だ」 その言葉を合図にしたかのように、店内に拍手が響き渡った。それは、あまり多いとは 言えない客たち全員からのもので、とてもささやかではあったのだけれど。 「こ、こら、コウっ」 「今だけ今だけ」 思わず耕介が八草の小さな身体を抱きしめてしまったほどに。 「お、お前ら、何をしているっ。携帯!? 携帯で撮るなっ! わたしの許可無しにそう いうことをするな! ふ、不愉快だ。至極不愉快だ!」 周りの皆が申し合わせたかのように携帯を取り出してしまったほどに。 それほどに、八草は嬉し恥ずかしげな顔をしたのである。 ああ、とレティは自分の振った話題での騒動にゆったりとした微笑みを浮かべながら思 った。 (やっぱり、ここは居心地が良いですわ) もう少し経てば、小さな人外がこの店の中に加わる。それは、どんなに楽しいことだろ う。どんなに素晴らしいことだろう。 (ここには、本当に幸せだらけ) たまに何かあって、人外や人間のために皆が危険なことに力を使わざるを得ない時もあ るけれど、それすら尊い記憶になるような、この日常の時間。 毎日を楽しくしてくれる、そういうふうに感じさせてくれる、魔法でもかかったかのよ うな場所だ。 それはきっと、誰かを幸せにするために誰かが努力した余波なのだろう。 誰かを幸せにするために、たくさんたくさん積み重ねたものが、他の皆をも幸せにして くれている。 (いつかお聞きしたいですわね) 店の主がその妻と出逢った時の話。自分以外の皆と彼が出逢った時の話。 いくらでも物語はありそうで、レティはじゃれる若者たちを目を細めて眺めた。 (いったいどうやってマスターが『幸せを作る人』になったのか……ですわね) 彼女は知っている。マスターが袖に手を入れれば、そこから泣いている子供をあやす道 具が出てくることを。嘆く誰かを救う何かが出てくることを。 そんな『人外な人間』を生み出すまでの時間を、数百年を生きる彼女は覗いてみたいと 思うのだ。 (まあ、きっかけはおそらく八草さんなのでしょうね) 「お、お前、絶対に何か不愉快なことを考えているな!?」 にっこり、と満面の笑みを浮かべるレティに、携帯を奪うために若手たちに襲いかかろ うとカウンターに足を乗せた八草が牙を剥く。 それに「いやですわ」と素知らぬ顔をしてみせ、最年長の人外は耕介に美味しいコーヒ ーを注文するのであった。 ※ とにかく、それは路上で交わされた、たわいない約束だったのだけれど。 あれから数年。不幸になるはずだった幾つかのものを幸せにし、今もその約束は続いて いる。 それが『調律』なのかどうかはわからないけれど、今がそれなりに幸せなら、わたしは それで良いのだろうと思っているのだ。 終