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               悪魔でポンッ
    〜悪魔権が欲しいなとその悪魔が思ったかどうかはさだかではない〜



                「日常編」


                 1


 鶏の声が聞こえると朝である。
 そんな早い時間に近江脩平(おうみ・しゅうへい)が起きることは、今までそうはなか
ったのだが、ここ最近は違っていた。
 じゅ〜、っというフライパンの上に溶き卵が乗せられた音が、今日も脩平の耳と鼻を刺
激して目を醒まさせる。
「んあ?」
 寝惚けまなこでギュムギュムと歯ぎしりした脩平に気が付いたのか、台所に立っていた
小さな影は振り返って極上の笑みを浮かべるのであった。
「おはようございます、脩平さん」
 何を隠そう、悪魔さんの楓である。
 ようやく小学生高学年に達しようという楓の身長では台所を扱うのが難しいので、今は
その足元には週刊誌を積み重ねた踏み台が作られている。小さな手で大きなフライパンを
操っている姿は微笑ましいものがあるが、脩平が布団の中で思うのは、まず一つのことで
ある。
「悪魔さん今日も早いな……」
「嫌です、楓でいいですよ。それに、早いのは脩平さんの講義じゃないですか。今日も一
限からあるんですよね? お弁当、今からじゃないと間に合わないんです」
「楓の弁当美味いからなあ。今日も期待してるぜ」
「そんな……美味しいだなんて恥ずかしいです。本当に、どうしてもっと美味しくできな
いんだろうって思うんですから」
 ほんのりと頬を染めてうつむいてしまった楓に、脩平は布団の中でもぞもぞと動きなが
ら首を横に振る。
「いやいや、本当に美味いって。恵美……友達だけど、そいつらにも凄い驚かれてるんだ
って」
「お、お友達に!? ど、どうしましょう、今日まずかったりしたら脩平さんの恥になっ
ちゃいます……」
 いきなり消え入りそうなくらい不安な声になる楓に、ついに脩平は布団から身体を起こ
して、大きなあくびを一つつきながら言うのだった。
「大丈夫だって。俺が保証する。楓の弁当は美味いっ! 馬鹿にする奴はいないし、馬鹿
にする奴がいたら俺がぶん殴ってやるからさ──だから、今日も美味いの頼むぜ」
「は、はい」
 フライパンを持ったまま、背を向けたまま顔を頷いた楓は、背後で脩平が動き気配にチ
ラリと横を見た。水道で水を出してばしゃばしゃと顔を洗うその横顔に、トロンとした微
笑みを浮かべる。
 と、
「脩平さん!?」
「ん?」
 唐突に顔面をパンパンと叩き始めた脩平に、楓が驚きの声を上げると、脩平は小首を傾
げて、今度は手の平で顔を揉みしだいた。
「何しているんですか?」
「ああ、眠気覚まし。科学的に言うとだな、起きたての時、目を醒ますには幾つかの方法
がある」
 脩平の解説は次のようなものである。
 起きたての時、眠った状態の身体と脳を起こすには適度な刺激が良いらしい。特に、身
体全身に対する弱い刺激である。
 方法の一つとしては、ぬるいシャワーを全身に浴びること。他には、果汁百パーセント
のジュースを胃に入れること……などなどだ。
 その中で、脩平が刺激として主に利用しているのが、洗顔の時に顔をマッサージするこ
とであった。顔には身体全身に作用するツボが密集しており、それを刺激することにより、
もっとも効率よく目を醒ますことが可能となっているのだ。
「はあ……そうなんですか」
「俺も午後二時の奥様番組で見たんだけどな。偉い先生が言っていたからそうなんだろ。
本当に目、醒めるし」
 水を滴らせながら、軽い調子で言う脩平に、感心した様子で頷く楓の姿は、はた目には
兄妹と映ったか、どうか。
 とにかく、ここ最近の近江家の朝は、早いのである。

                 ※

「俺が思うにな」
「はい」
 と、脩平が切り出したのは、小さな座卓を挟んで二人が朝食を食べていた時であった。
 本日の朝食は、白いお米に大根の味噌汁、鮭の切り身に生卵、それに二人共用のボウル
にガーリックチップの振り掛けられたサラダが用意してある。脩平の希望と楓の嗜好が混
じった、二人らしい朝食であった。
「その私ってのが女の子っぽいんだ。俺とか、僕とかにしてみたらどうだ?」
「はあ……ですけど、俺とか僕っていうのはもともと自分を低くする言葉ですし、あまり
良い言葉ではないのですけど」
「そうなのか?」
「僕っていうのは、しもべってことですよ。俺は、ここに居れ、から生まれた言葉ですね。
昔は二人称だったそうですけど、今ではすっかり一人称に定着したようです」
「楓詳しいな……俺がものを知らないのか?」
「さあ……最近の人間の方のことはよくわかりませんので」
「楓、何歳?」
「十二ですけど」
「ホッとした……年上だったらどうしようかと思った」
「それは無いですよ」
 クスリ、と楓は笑った。そこで脩平は気が付いたのだが、楓はしゃべっている時は、箸
を手放している。脩平などは手に箸を持ち、ついでに茶碗を持ったまましゃべっているの
だから、行儀の良さに随分と差があると思った。
「楓、行儀いいな」
「え? あ、はい。お姉さま方に、どこに出されても恥ずかしくないようにと、これだけ
は教わりましたので」
「姉さんいるんだ?」
「はい、上に四人。あの……」
 と、楓は口を動かしかけたが、そのタイミングで脩平が味噌汁を啜ったので、口を閉ざ
した。そして、楓も箸を取る。
 その様子に、脩平は眉根を寄せた。
「いいよ、言えよ。言いたいことを言えないと立派な男にはなれないぞ」
「立派な男、ですか……」
「楓ぇ!」
 どん、と脩平が座卓を叩いた。ビクリ、と楓が目を丸くした。
「は、はい!?」
「立派な男になりたいか!」
「え? え?」
「なりたいか!」
「ええと……な、なりたいですっ」
「よし、言え。男なら言え」
「はあ……」
 目をパチパチさせる楓である。
 そのまま、一瞬の間。
 ふっと、楓は力が抜けたように笑みを浮かべた。
「脩平さんは面白い方ですね……言うというより、訊いていいですか?」
「おう」
 そして、楓はちょっと頬を染めて言う。
「脩平さんには、ご兄弟はいらっしゃるんですか?」
「ん、いるぞ。上に兄貴が一人。今は中学で教師やってる」
「先生ですか。それは凄いですね」
「まあ、俺よりはずっと頭のいい人だな」
 うんうん、と頷いて、脩平は箸を置いた。
「ごちそうさま。じゃあ、行ってくるな」
「あ、お弁当です」
 時計を見て腰を上げた脩平に、慌てて楓も台所から一抱えもある風呂敷包みを持ってく
る。楓には一抱えでも、脩平なら軽々のサイズだ。
「サンキュ」
 うやうやしく差し出された風呂敷を受け取り、脩平は低い位置にある楓の綺麗なおかっ
ぱの頭を撫でた。楓は恥ずかしそうに、少しうつむいて目を伏せて、それを受ける。
「そうだ、今日も帰ったらするからな」
「え? 今日もですか?」
「おう、やっぱり楓が一番具合がいいんだな、これが。ちょっとサイズ小さいけど、まあ
それはそれでいいって言うか……って、まだ慣れないか?」
「は、はい……まだちょっと辛いですけど……でも、大丈夫です」
 けなげに、楓は白い肌を紅潮させてこくりと頷くのだった。
「脩平さんが望むのでしたら、一晩中でも……お相手させてください」
「かあ! 可愛いこと言ってくれるよなあ! どっかの誰かとは大違いだ!」
「き、きゃっ。脩平さん!?」
 がばっと大男に抱きつかれ、楓は目を白黒させた。その小さな鼻をピンと指でつついて、
脩平は笑顔で手を振って家を出ていった。
「今日は早めに帰るからなあ!」
「あ、い、いってらっしゃい!」
 玄関の外に出た楓も脩平が階段の下へと消えていくのを見送ると、少々着崩れた楓模様
の着物を正して、頬に手を当ててそっと呟いた。
「──いってらしゃい」
 どことなく、男らしいとはかけ離れた仕草ではあった。





                 2


「──と言うわけで、昨日も明け方までバッキバキだ」
「むしろお前が悪魔だろう」
 講義の合間、大学の校舎内にある購買でジュースを買った脩平と園田恵美(そのだ・め
ぐみ)は、広い購買内で空席を見つけて腰を下ろしていた。
 購買は物を売るスペースよりも、喫茶スペースの方が遙かに大きく、綺麗なものになっ
ている。校舎自体が近年作られたものであることが、その綺麗さの理由だろう。だが、白
いことは白いが、ゴミが床やテーブルに落ちていたりして、それがいずれ落ちない汚れと
なって校舎の年期となって行くのかもしれない。
 ともあれ、大半は同じ授業を選択している脩平と恵美は、次の授業までのほんの十分あ
まりの時間を、購買で過ごしていた。
「俺はその悪魔の子が哀れでならないな……およそ考え得る最悪の相手に喚び出されたも
のだ」
「うあ、そこまで言うか」
「反論有るか? 悪魔捕まえてプロレス技の実験台に毎日している男が」
「実験台じゃないって、実践だって。マジがけしてるから」
「尚悪い。よく我慢できるな、その悪魔も……」
「恵美とは根性が違うんだって」
「ほう、ならもう俺は技の実験台にはいらないな。手切れついでにこの前貸した金を返し
てもらおうか」
「嘘ですごめんなさい、園田に捨てられたら俺生きていけません、でも借りた金はもう少
し待って下さい」
「お前、時々救いようが無いくらい卑屈になるな……」
 ジト目で脩平を見て、恵美はぼさぼさの髪に埋もれそうな眼鏡を正した。その奥には男
には珍しいほどに綺麗な顔があるのだが、もちろん今日もそれは露わになってはいない。
 時計を見て、恵美は目で合図をした。脩平も頷き、缶を持ったまま席を立つ。
「でも、園田に理解があって嬉しいぜ。悪魔だってすぐに信じてくれたもんな」
「……まあ、他の人間が言ったら信じないだろうがな」
「それって俺が親友だからだな、さすが恵美ちゃん」
「殺すぞ……理由は他にある」
「ほう」
「お前の機嫌がいいからだ」
「……それが?」
 脩平は不思議そうな顔をした。長身の青年が、まるで小学生のようなあどけない顔をす
るのに、恵美は呆れた顔をして言う。
「お前の機嫌がいいからには、誰かがプロレス技の犠牲になっているんだろう。それも毎
日、夜遅くまでだ。そんな生活に耐えられる人間がいるとは思えないからな。それこそお
前の言葉を信じるしかないだろう」
「それって要約すると、俺の趣味に耐えられる人間はいないってことじゃないか?」
「その通りだ」
「うわ、あっさり頷きやがった、ひでえ」
「事実だ」
 肩をすくめ、恵美は、そこで思い出したように言う。
「三限のレポート、出来たか? お前、朝倉に頼んで見せてもらうとか言っていたな」
「ああ、あれか。そうそう、桜に見せてもらった。あの先生その辺り大丈夫だからな」
「自慢するな」
 ごく普通の、大学生たちの会話である。

                 ※

 同時刻、楓はアパートの掃除を終え、絞った雑巾を座卓の上に置いてホッと息をついて
いた。
「そろそろお茶にしようかな……」
 脩平がアパートを出てからずっと掃除をしていたのなら、かなりの時間労働していたこ
とになるのだが、楓の顔に疲労の色はない。むしろ元気がありあまっているようにも見え
た。その辺りの体力は、やはり悪魔だということだろう。
 楓は、台所に置いてあった茶葉入れを手に取ると、
「脩平さん、お茶をいただきます」
 と、そこにはいない部屋の主人に断りを入れてから茶の準備を始めた。
 楓の動きには、よどみがない。茶を煎れる動作そのものも、決して早いものではないの
だが、流れるような動作は見ていて気持ちのよいものである。
 やがて、奇跡的に脩平が所持していた来客用の湯飲みに茶を注いだ楓は、安物ながらふ
んわりと香る茶の香りにとろけるような微笑みを浮かべた。
「はぁ〜。お仕事の後のお茶は美味しいです」
 きちんと正座。
 湯飲みも右手が持ち手、左手が添え手。
 そうしてズズズ……。
 随分と和風で人間くさい悪魔である。
 否、和服を普段着とする人間の稀少さを思えば、やはり悪魔なのかもしれない。
 そんな時だ。
 突然鳴り響いた電子音に、楓はビクリと身体を震わせた。顔を上げると、モノトーンの
電話の受信ランプが点滅している。一瞬迷った楓は、しかし思い直してその受話器を取る
ことにした。
(知らない人だったら困るけど、脩平さんだったら取らないわけにはいきませんし)
 がちゃ。
「はい、近江──」
『楓! 脩平だが、聞こえるか!?』
「はい、聞こえます」
『れ、レポート忘れた。部屋のどこかに転がってるから、持ってきてくれ。校門のところ
で待ってるから』
 がちゃ。
「は?」
 楓はしばらく理解できなかった。
 しばらくしたら理解した。
 少しだけ、困った。

                 ※

「これでよし」
 受話器を下ろした脩平に、恵美は呆れた顔を向けるしかできなかった。
「何がこれでよし、だ。そもそもレポートを家に忘れる馬鹿がいるか」
「俺はしょっちゅう忘れるぞ」
「自慢するな」
「それにな」
「ああ」
「今日は水曜日だろ?」
「そうだな」
「烈士会のリングが使えるんだ」
「確かに」
「こういう日こそ悪魔さんにいてもらわなきゃな」
「悪魔かお前は」
 ジト目になる恵美とは対照的に、脩平は輝く笑顔を浮かべていた。





                 3


「…………」
 楓は困っていた。
 かなり困っていた。
 困りまくっていた。
 その理由は簡単である。
 そもそもが、まず自転車で駅まで三十分あまり、そこから電車で一時間以上の道のりで
ある。いきなり楓に来いというのが間違っている。
 ──かと思えば、そうでも無い。
「脩平さんの大学までは、どのような服を着ていけば良いのでしょう?」
 変なところで楓は困っていたりした。
 楓の前には数種類の服が並べられていた。床に広げられたのは通常楓が来ている着物か
ら、洋服まで様々だ。その中で、もっともシンプルなTシャツにホットパンツの組み合わ
せに楓は目を止めた。
「これ……かな?」
 着物などよりは、ずっと妥当なのだが、しかし、だ。
「こんな格好で……脩平さんが周りの人に笑われたりしたらいけないし……」
 そこが困りどころである。
 脩平に隠れてあまり目立たないが、実は楓も結構馬鹿なのである。驚愕の事実──かは
わからないが、とりあえず、否、むしろ馬鹿である。
 結局三十分あまり悩んだ挙げ句、その組み合わせを悲壮な覚悟で着込む事にしたあたり、
さらに馬鹿である。
「全責任は私が持ちますっ。いざとなったら力を使って……」
 やわらかなパンのような拳を握り締めて言う楓は、一見普通の小学校高学年の少女であ
る。ありきたりな英文をプリントされた白いTシャツに、水色のホットパンツ。いかにも
お子さま臭い格好ではあるが、楓が着るとまた新鮮であった。
 これまで、着物のせいで露わになっていなかった、白い首回り。だぶついたシャツから
覗いた鎖骨は、あまりに頼りなさげで、見ていることが恐いほどだ。薄い布に覆われた身
体は、これまでよりもずっと細く見え、元気いっぱいの格好がむしろ儚さを強調している
ように思える。伸びた白く細い足の先は、草履を履くだろうことを思うと、微妙なアンバ
ランスを感じさせる。
 見事な女の子っぷりな、少年である。
「じゃあ、脩平さんのところに──」
 その言葉が終わるか否や、楓が手を目の前の空間に滑らせた。自分の身体より大きな円
を描く動きに、まるでそれに従うように細い紅が走る。
 火だ。
 楓のしなやかな指先が通り過ぎた空間に、火が走った。
 音もなく。
 存在感もなく。
 ただ見えるだけの火が、走った。
 走り、描いた。
 それは円だ。
 楓の指が描いた通りの、円。
 楓が積層魔法陣を書き終えるまで、数分もかからなかった。

                 ※

 ボボボボボ、と校門の前に突然紅が走った。もちろんそれは楓のもたらしたもので、だ
が驚いたのは脩平及び恵美であった。
「何だ!?」
 と恵美が叫ぶ間も無い。
 空間に描かれた火の魔法陣はその内側を歪め、背後の風景ではなく、別のものを映し始
めた。そこに人影が浮かんだと思った時には、火は一気に弾け、シャワーのようにその場
に降り注いだ。
 現れたのは、当然のごとく楓である。
 呆気に取られる恵美の前で、可愛らしい悪魔さんは、脩平にぺこりと頭を下げて言うの
だった。
「お待たせしました、脩平さん」
「楓早いなあ。なあ、恵美」
「そちらが恵美さんですね? 初めまして、楓と申します」
「……ああ」
 かろうじてそれだけを言った恵美は、ずり落ちた眼鏡を正し、脩平の肩に手を乗せて言
った。
「うん?」
「……今日ほど、お前の知り合いで後悔したことはない」
「なんだよ、大丈夫だって。俺は恵美愛しているからさ」
「何が大丈夫だっ」
「あはは。恵美の気の抜けた顔久しぶりに見たぜ。桜に自慢してやろ」
「したら殺す……」
「ところで脩平さん」
「おう?」
 遠慮がちに話に割って入った楓に、脩平は顔を向けた。顔の位置に差があるので、ほと
んど真下を見るようなものだ。
 楓に差し出された原稿用紙を、脩平は頷いて受け取った。
「サンキュ。これで首が繋がった」
「すまんな、こんな馬鹿に付き合わせて」
「誰が馬鹿だ」
「お前以外いるのか?」
「うわ、ひでえ」
「あ、あの……喧嘩はやめましょう。では、私はもういいんですか?」
「いや、そうそう、楓もこのまま大学にいていいぞ」
「は?」
 首を傾げる楓に、脩平はにこやかに言った。
「今日、リングが使えるんだ。ツープラトン技は、好きか?」
「ツープラトン?」
 わけがわからない楓である。

                 ※

 楓は、目立つ。
 サークル烈士会のリングが用意されている学生サークル集中舎の青木21の五階にある
展望ラウンジで、ぼーっと窓の外の眺めている楓の姿は、当然のことながら人目についた。
 授業の合間、これから授業に行く者、様々な者が飲食に訪れるラウンジだったが、かつ
てこれほど若い客があったかどうか。
 もっとも、その客は注目を集めていることなど気にせず、外の風景に見入っていたが。
「ふわあ」
 青木21の五階から見える風景は、ラウンジが展望ラウンジと名付けられいる程度には
慢出来るものである。
 横浜と東京の間ほどにある立地上、見えるのは住宅地が大半なのだが、その住宅地は多
くの緑に彩られ、美しいと言えるものだ。遙か遠くに横浜の街並みが見え、段々と住宅の
数が減り、手前に大学がやってくる。大学から青木21の間には抉れたような広い盆地が
あり、そこが大学の運動場として使われている。二面ある運動場は、片方がサッカー用、
もう片方が野球用に整備されていた。その盆地の周りには桜の木が植えられ、大学の隣は
大きな緑地公園となっている。大学自体も完成してまだ十年も経っていない校舎のため、
白く綺麗だ。そもそも、街中で盆地の土壁が見れる場所など、そうそう無いだろう。
 それらの風景を一望出来るのが、青木21の五階ラウンジなのだ。
 と、
「あ、いたいた。悪魔、ね」
「?」
 突然声をかけられ、楓は顔を窓から戻した。見ると、窓際の席に、一人の女がやって来
たところだった。
 おどろおどろしいほどに長く、膝下まで伸びた波打った黒髪に涙滴型の髪飾りをつけて
いる。落ち着いた、大人しい外見の女だ。特筆するのは、他の女たちが羨むほどにきめ細
かい綺麗な肌をしていることだろうか。
「座らせてね」
 楓が何か言う前に、女は楓の向かいの席に座った。その拍子に香った香りに、楓は女を
まじまじと見てしまった。
「金木犀(きんもくせい)のお香を焚きましたか?」
「よくわかったわね。やっぱり鼻もいいのかしら。香水じゃなくて、お香を焚いて、髪に
香りをつけたの」
 にっこりと微笑んだ笑顔も魅力的な女は、自分の名前を告げる。
「あたしは朝倉桜。近江くんに言われて見に来たのよ、悪魔」
「あなたが桜さんですか! 脩平さんに召喚書を差し上げた方ですよね?」
「そ」
 と、ウィンクを一つ。楓はそれを特に意識しないで受けたが、実は桜がそうしたサービ
スを誰かにすることは、とても珍しいことなのだ。脩平が見たら、驚いただろう。
 コト、と桜がテーブルに置いたのは、水の入ったグラスだった。楓は自分のグラスを見
てもう空なのを知ると、桜が持ってきてくれたそのグラスを、恐縮して受け取った。
「ありがとうございます」
「いいのよ、この程度でお礼を言っちゃ駄目よ。悪魔なんだから」
「はあ……」
 よくわからない理屈である。
 楓が何か言って良いのか迷っていると、先に桜が口を開いた。
「あなた、楓、ちゃん?」
「はい。楓と申します。よろしくお願いします」
「ふうん……でもちゃんと悪魔が出たのね。近江くんみたいな素人でも大丈夫だなんて、
お手軽だわ」
「そ、それは……」
「いいの、わかってるから」
「え?」
「でも、よりによって近江くんねえ……」
 ふっと、面白そうに桜が口元を歪めた。どことなく邪悪な笑みに、楓は一瞬身を引いた
が、しかしそれよりその前の桜の言葉が気になって、桜を見た。
 視線に、桜はふふふと当たり障り無く笑う。
 楓は、困った顔で、両手の指を弄んだ。
「……人間の方でも、わかっている方はいらっしゃるんですね」
「あたしは専門なのよ。だけど、わかっているからって近江くんに何か言ったりはしない
わ。約束する」
「ありがとうございます」
 ホッとして、楓は頭をぺこりと下げた。
 すると、その下げられた顔に、桜の手が触れた。
「桜さん?」
 指が、楓の顎を軽く掴み、顔を上げさせる。
「可愛い顔をしているわよね、楓ちゃん。こんな可愛い子が近江くんの犠牲になっている
かと思うと、責任を感じるわ」
「い、いえ……あの、契約ですし……」
「人間、やっていいことと悪いことがあると思うのよ」
「そこまで言うと、脩平さんが可哀相じゃないですか……?」
「大丈夫、あれは猿だから」
「さ、猿って……」
「だから、楓ちゃんもアレを甘やかしちゃ駄目よ。調教すれば、ちゃんと言うことも聞く
ようになるから」
「え、ええ!?」
「具体的にはそうねえ……あたしみたいにレポートで調教するとか──」
「あ、あうあうあう」
 何やら始まってしまった怪しい講義に、楓は戸惑うばかりであった。

                 ※

「い、いたあああああああああああ!?」
「つまり、ツープラトン技とは、二人がかりの技のことだ。……園田、手加減するなっ」
「お前は手加減しなさ過ぎだ……」
 青木21三階、烈士会リングにいたいけな絶叫が響いていた。二人がかりでアキレス腱
固めを仕掛けられた楓の絶叫である。
 本日は他に会員もいなく、三人のリングだ。
 短い楓の足に技をかけるのは意外にも難しく、技術が要求されることであった。形だけ
マネすることが出来ても、効果的な、ダメージを与えるような固め方は、難しいのである。
「よっし、次これな、これ」
 と、寝転がったままの楓の両足を、脩平は両脇に挟んだ。
 そして。
 リング中央で回転した。
「ひゃあああああああああああああ!?」
 遠心力というか扇風機というか大回転というか、とりあえず大変なものである。身体の
中身が頭に寄っていくような感覚に楓は悲鳴を上げた。
「ほーら、いーち、にーい、さーん、しー、ごー、ろーく、しーち、はーちぃぃぃ!」
 八回転目で脩平が手を放し、景気良く楓の身体がすっとんだ。ぼぐ、と鈍い音がして受
け身も取れずに落下した楓に、同じように回転で目が回った脩平が、頭を一振りして駆け
る。
「おおお!」
「きゃうっ」
 猛烈なジャンピング・ニーが落ちた。鳩尾を貫かれた楓が首を絞められたイヌの声を上
げた。半分白目を剥いた楓を、続いて脩平は腕を引いて無理矢理起こして、自分と向かい
合わせに肩を組ませるようにした。楓の頭が脩平の肩の上に乗るようなその構えを見た恵
美が叫ぶ。
「あ、やめとけっ」
「だっしゃああ!」
「ぐきゅるっ」
 頭上に、逆さに持ち上げられた楓の脳天が、脩平が地面から足を浮かしたと思った直後、
垂直落下でリングに叩きつけられた。
「これぞ、見せ技みたいに弧を描かない、殺し技の垂直落下式ブレーンバスター! これ
が言葉通りの本当のブレーンバスターだ、憶えとけ楓!」
「ふ、ふぁぁい」
「おう、まだ元気だな。じゃあ、今日はスペシャルメニューだ。部屋と違って広いしな」
「にゃ、にゃにを……?」
 言うよりも早く、楓の小さな身体が横殴りに投げられる。否、加速をつけるように、押
されたというのが正しい。
「あの馬鹿、まさか!?」
 恵美が心配する間もある、そのプロレスらしい時間。ボウンと固いロープに弾かれた楓
が戻ってくるのに、脩平は目を細めた。
 強いて言うなら、殺るしかない、という目だ。
「殺るなっ」
 ツッコミは無視。弾かれてくる楓の背中に精神集中。
 タイミングは一瞬。難度はC! 必要なのはしなやかな背筋と、しっかりとマットを噛
む強靱な足腰!
「せあぁ!」
 楓の背中と脩平が重なった瞬間、楓の腰を両腕でロックした脩平の身体が海老ぞりに反
った。受け止めるから投げるの二動作ではない、一連の一動作だ。
 描かれたのは弧。
 虹のような綺麗な弧だ。
 スパーン! と早く鋭い音がその空間を貫いた。
 誰も、何も言うことが出来なかった。
 リングの中央、楓をロープ・ウェイ・ジャーマンスープレックスホールドに極めた脩平
は、ブリッジの姿勢のまま、静かにその両腕のロックを外した。
 ゆっくりと、楓の身体がリングに横たわった。
「むんっ」
 と、脩平はブリッジから強引に腹筋と背筋を酷使して身体を逆戻しに戻す。
 そして、涙を拭って拳を空に突き上げた。
 当然ながら、楓は気絶しているのだったが。





                 結


 じゅー、と肉がフライパンの上で焼ける音と匂いが脩平の耳と鼻を刺激していた。座卓
に座った脩平は、ニコニコと幸せそうな顔でプロレス雑誌を眺めている。
 そんな脩平を振り返るのは、普段通りの着物姿に戻った楓だ。
「脩平さん、もうすぐですから、お皿お願い出来ますか?」
「おう。あ、園田、お前は座ってろって」
「すまんな」
 鼻歌混じりに立ち上がった脩平に、夕食に呼ばれた恵美は苦笑して頭を掻いた。楓に視
線を向けると、その足元の積み上げられた雑誌に、さらに苦笑する。
「なに笑ってるんだよ、恵美」
「殺すぞ精神性破壊症候群が」
「んなこと言ってるとメシ出さないからな。……というか、俺最近思うようになったんだ
よ」
「何だ」
「俺は破壊が好きってわけじゃないな、うん」
「ほう?」
「なあ、楓」
「はい? 私ですか?」
 首を傾げて楓が脩平を見ると、脩平は満足しきった顔で、それはもう輝かしいばかりの
笑顔で言うのだった。
「俺、壊れない楓がいて嬉しいもんなあ。だから、破壊が好きなわけじゃないんだ」
「いやです、嬉しいだなんて」
 ポッと頬を染め、楓は男二人に背を向けた。照れ隠しだろう。
 何なんだこれは、と恵美は眉根を寄せて、次に何も考えてなさそうな脩平の笑顔に視線
を戻した。
 そこには、いつも暴力的で、すぐに人に技をかけたがる男のあどけない笑顔があった。
 破壊魔と、それに懐いているように見える悪魔。
「馬鹿みたいにお似合い……か。しかし──」
 その時、ピンポーン、と玄関から音が響いた。食器を用意していた脩平が、はいはい、
と小走りに玄関に向かうと、聞き慣れた声が恵美の耳に聞こえた。
「こんばんわ、御飯まだ? 手伝いに来てあげたわよ」
「桜。って、お前んち、やたら遠いだろ」
「ここに入るのも久しぶりね。楓ちゃん、会いに来たわよ」
「目的はそれかよ……」
 ボソリと桜のマッドさを知る脩平が呟き、恵美は桜に軽く手を挙げて挨拶をし、その桜
はすぐに持参のエプロンをつけて楓の隣に進んでいった。
「焦げてるわよ」
「あ、ああっ」
 慌ただしくなってきた部屋に、恵美は戻ってきた脩平を見ながら思った。
(馬鹿騒ぎだけならいいんだがな……)
 その恵美に、脩平は言うのだ。
「何難しい顔していのかな、恵美ちゃん」
「もう知らん、もう心配してやらん」
「し、心配? 何かあったか?」
「だから、もう知らん」
「ふっ、大丈夫大丈夫」
「……何が大丈夫なんだ?」
 訝しげな顔を恵美はした。もしかして、理解していたのか、と期待を持って脩平に問い
かけたのだが──。
「桜そんなに食わないから、量は充分足りるって」
 ──やはり理解していなかった。
 盛大なため息をついて、恵美は畳に寝転がった。眼鏡を外し、秀麗な顔で天井に、もう
一度ため息。
(どうなっても、知らないからな)
 脳天気な脩平。
 人間関係の微妙な混乱を心配する恵美。
 何を考えているのかわからない桜。
 そして、楓。
「よっしゃあ。楓、後で今度はコブラ教えてやるコブラ。上手くいけば身体の骨が砕ける
音が聞こえるぞっ」
「あ、あうう……」
 まあ、楽しそうだからもう俺は何も言わん、と。
 恵美は、結論づけて、だが最後にもう一度ため息をつくのだった。


                              終


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