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               悪魔でポンッ
    〜悪魔権が欲しいなとその悪魔が思ったかどうかはさだかではない〜



                「召還編」


                 1


 大学生近江脩平(おうみ・しゅうへい)はプロレスが好きである。具体的に言うと、プ
ロレスの技が好きである。
「五百円やるから、コブラツイストかけさせてくれ!」
 ごくごく真剣にこのセリフが言える二十歳の青年など、この世を捜してもそういるもの
ではない。
 そんな脩平が大学でプロレスサークル『烈士会』に出会ったのは偶然──と言ってもそ
のサークルがあることを知っていたから脩平が入ったことを考えれば全然偶然ではないの
だが、入試のパンフレットを見たら載っていたことを考えれば偶然である──であった。
 身長百八十六センチ。筋肉はついてはいるが、プロレスラーと言えるほどの厚みは無い。
もっとも、脩平はプロレスラーになりたいわけではないから良いのだが。
 髪は長すぎず短すぎず、眉にかかる一歩手前程度。濃い眉が印象的な青年だ。
 そんな脩平は、今日も今日とて大学の食堂でその言葉を口にしていた。
「恵美(めぐみ)、俺に押し倒されてくれ」
「絶対に嫌だ」
 同じように今日も今日とて冷たく返したのは、長めの髪に眼鏡をかけた、鋭い刃物を思
わせるきつい印象の青年である。
「ついでに、俺を名前で呼ぶな」
「んなこと言われても……恵美は恵美だからな」
「二度と技喰らってやらないぞ」
「すまん、俺が悪かった、この通りだ」
 と、素直に頭を下げる脩平を一瞥し、恵美──園田(そのだ)恵美は割り箸を割ってカ
レーうどんをちゅるちゅるとすすり始めた。
 それを見た脩平も、プラス五十円で大盛りにしたきつねソバをずるずると音を立てて啜
る。
「最近さあ」
 チラリと恵美をうかがって脩平が言う。
「欲求不満なんだ」
「それだけ世の中が平和だってことだな」
「サークルでリング使えるのが週二回って、少なくないか?」
「俺は満足してる。運動不足解消にはなってるな」
「ここは先輩に掛け合ってサークル活動を週五回にまで引き上げてもらいたいんだ」
「したら殺すぞ」
 水を口に含みながら恵美が目を細める。脩平は広い肩をすくめて、あっと言う間に無く
なったソバの汁を胃に流し込んだ。
「最近、つき合い悪いぜ、園田」
「先週人の肩を外したのは誰だ」
「すぐに戻したからいいだろ」
「あの痛みがお前にわかるか!」
「……まあ、あれは俺が全面的に悪かった。謝る」
「つき合いも何も、お前に一ヶ月以上続いた友人がいるとは聞かないな」
 無言で脩平は恵美を指さしたが、恵美は無視して話を進める。
「プロレスが趣味なのはいいが、ところかまわず人に技を掛けたがるのはよせ」
「実戦で使ってこその技だろ!」
「日常が実戦かお前は!」
 そう言われると、脩平はフッと口元を歪めてニヒル──のつもりらしい──に笑った。
「技を掛けたくなった時が実戦なんだよ」
「俺帰るわ」
「恵美、俺を捨てないでくれ……」
「名前で呼ぶな!」
 すがってくる脩平の大きな身体を腕で払って、恵美は席を立った。慌てて脩平が後を追
い、青木21のホールに出る。
 青木21とは脩平たちの通う大学の別館で、一階と五階に食堂、その間の階には各サー
クルの部屋がある学生のための建物である。一階の食堂の前では、生協の購買があり、恵
美は昼休みそこで雑誌を立ち読みする習慣がある。
 今日もそうだろうと思った脩平は、恵美が生協に目もくれずに青木21を出るのに首を
傾げた。
「何かあるのか?」
「俺は午後講義が無い。先生が学会の発表でな」
「……なのに飯喰ったのか?」
「お前につき合わされたんだ。悩みがあるっていうから……ったく」
 眼鏡を外して、恵美は前髪を掻き上げた。脩平は見慣れているが、男にしてはちょっと
珍しいくらい綺麗な顔が露わになる。前髪を切ってコンタクトにすればいいのに、と脩平
などは思うのだが、恵美は意固地なまでに今のぼさぼさ髪に眼鏡のスタイルにこだわって
いる。
 舌打ちした恵美は、それで、と訊く。
「押し倒すってことは今度はグランドでの技か?」
「おう。足四の字固め覚えたんだ」
「関節は本気で痛いから俺は嫌だぞ。先輩にでもやってこい」
「今日やりたいんだよ」
 手を合わせて拝んで脩平が言う。サークルの日は水曜と土曜で、金曜の今日はサークル
のメンバーが集まらないのだ。
(こいつは重病だな……わかってたが)
 はあ、と恵美はついにため息をついた。それがしぶしぶの承知であることを知っている
脩平は、パッと顔を輝かせる。
「軽くなら、五百円で手を打ってやる」
「本当か? やっぱり持つべきものは理解のある親友だな! 軽く、な? 軽く」
 ふふふ、と脩平は手をワキワキさせて言う。
「足を完全に決められた相手の苦しげな顔……くう、よっしゃあ!」
「他を当たってくれ」
「恵美ぃ」
「次に口にしたら冗談じゃなく殺す……」
「この人の身体を破壊せずにはいられない欲求をどうしたらいいんだよ?」
「知るか。恋人でも見つけて掛けさせてもらえ」
「んな無茶な」
「お前が俺に頼んでることは無茶じゃないのか? あ?」
 段々と恵美に目が据わってきていることに気がついて、脩平は頭を掻いた。
「……無茶です」
「そういうことだ。彼女でも出来たら俺に紹介してくれ。楽しみにしている」
 まるっきり棒読みで恵美は言い、運動場を挟んで向かいにある大学の本舎への連絡通路
に進んでいってしまった。むう、と腕を組んだ脩平は、ためらってからその後に続く。
「今度奢るからさ」
「くどい!」

                 ※

 帰宅する恵美と別れた脩平は、エントランスホールで休講掲示板を見て顔をしかめた。
「休みか」
 午後の講義は全て潰れていた。それならば恵美と一緒に帰れば良かった、と休講の札を
睨む。
「あ〜あ……どっかに『技掛けてもいいかな?』『ええ、全力でやって』とかオーケーな
恋人がいないかな……」
 かなり望み薄なことを思わず口にする。すぐ隣で掲示板を見上げていた女がギョッとし
て離れていくのも当然である。
「……帰るか」
 そう呟いた時だ。見慣れた姿を見つけて、脩平は小走りに駆け寄った。
「桜(さくら)、暇か?」
「なに、今日は園田くんとは別?」
 そう言って首を傾げたのは、脩平たちと同じ高校出身の女──朝倉(あさくら)桜だ。
おどろおどろしいほど長くウェーブのかかった髪に、涙滴型の髪飾りをつけている。一見
大人しそうに見えるが、かなりマッド入っているのを脩平は充分に承知している。
「恵美は帰った。なあ、頼みがあるんだけど、いいか?」
「お金以外なら」
「俺に押し倒されてくれ」
「…………」
 じーっと氷点下まで落ちた視線が脩平に注がれた。何か値踏みするような視線に、脩平
は背筋が寒くなった。
「な、なんだ?」
「近江くんには悪いけど、あたしにも好みってものがあるのよ」
「た、立ち技の方がいいか?」
「そういう心無い一言であたしのこと女と見てないってわからされて嫌なのよね」
 さらに冷たくなる視線。最初の視線は試す意味もあったのだとはっきりわかるレベルの
違いだ。
「お、俺がわるうございました」
「技を掛けたいなら、頑丈な人を探して頼み込んだら? あたしなんかに掛けても面白く
ないでしょ」
「いや、桜なら一発でブチブチっと筋が──」
 脩平の視界に火花が散った。顔面を押さえて悶絶する脩平を冷ややかに見下ろして、髑
髏付きの杖を手に持った桜は言う。
「誰の筋がブチブチ?」
「殴るか普通……」
「近江くんの技も一緒よ。掛けられる人にとってはね」
「…………」
 そのひとことは効いたようである。脩平は顔を押さえたまま黙り込んでしまい、端から
見てわかるくらいに意気消沈したため息をついた。
「はあ……」
「しかられた犬みたい……」
 思わず感想が口に出てしまう桜だ。犬は犬でも、強靱な肉体と破壊力を有するドーベル
マンのごとき脩平である。
「だよなあ。なあ、桜。どっかに『君の関節砕いていいかい?』『ええ、今日もボッキボ
キね』とか言ってくれる女の子いないか?」
「この世にそんな子はいないわ」
 きっぱりと桜は言った。だあ、と脩平は頭を抱えてしまう。
「俺の理想は遠い」
「理想も善し悪しがあると思うけど……本気でそんな女の子がいいの?」
 興味深そうに桜に訊かれ、脩平ははたと気づいて考え込む。
 そして、
「嫌だな、そんな女の子……んん、じゃあ、ちょっと変えて、プロレスに理解のある子」
「それはいくらでもいるだろうけど、プロレスに理解があっても、技を掛けられることに
理解のある子はたぶんいないわよ」
「だよなあ。なら、さらに譲って頑丈な壊れない女の子!」
「それでも技は掛けられたくないものよ?」
「どうすればいいんだよ……」
「どうしようもないのよ」
 冷たく言う桜だが、この場合は桜の方が正しい。脩平は反論出来なくて腐った。
「別に彼女でなくていいんだよ。技掛ける相手がいれば」
「ならそう言ってよ。妙に恋人にこだわるから、何かと思ってたのに」
「いや、それは恵美がだな……」
「今から、暇?」
「ああ?」
 唐突に話題を変えられたようで、脩平は目を見開いて頷いた。桜は、何やら考え込んで
から手に持った杖を脩平の前に掲げてみせた。
「別に恋人ってわけじゃないなら、あたしにも提供できるかもしれないわ」
 そうして、脩平が連れて来られたのは、桜の所属する魔術師サークル『ファントム・ア
イズ』の会室だった。扉を開けて中を覗くと、カーテンは締め切られ、明かりもついてい
ない室内から生暖かい風が脩平に吹き付けてくる。
「……お前んところの誰かでも貸してくれるのか?」
「誰が破壊魔に数少ない会員を貸すのよ。近江くんに貸すのはこれ」
 そう言って、桜は壁のスイッチを入れて明かりを灯し、部屋のほとんどを埋めている散
乱する本の中から一冊を拾い上げて脩平に渡した。
 首を傾げた脩平が表紙を見ても、長い年月で摩滅したようで読みとることが出来ない。
例え文字がはっきりしていたとしても、脩平には読むことの出来ない文字であっただろう
が。
「なんだ、これ?」
「悪魔召還の魔術書」
 サラリと桜は言って、置いてあったとんがり帽子を頭に被る。そうすると、本当に魔女
のように見えて、脩平はゴクリと喉を鳴らした。
「それ一冊に、一匹の悪魔を呼び出す力が秘められているわ。本のタイトルを訳したら、
『望ムコトアル者ノタメニ』だったから、願いを叶えてくれる悪魔でも出てくるんでしょ
う」
「悪魔ってな……」
「その悪魔に、出してもらいなさいよ、頑丈な相手」
「ああ、なるほど」
 合点がいったというふうに脩平は大きく頷いた。悪魔など信じてはいなかったが、願い
を叶えてくれるというのなら、一時的に信じても良いだろう。
「どうやって使うんだ?」
「火種を表紙に落とす……そうね、火を付けたマッチを表紙に落とせばいいでしょ」
「で、悪魔が出てきて願いを叶えてくれるわけだ?」
 わくわくして脩平は顔をほころばせた。どんなことであれ、もし悪魔が出ないにしても
秘密儀式めいたことに心が躍ってしまうのは、脩平も好奇心旺盛な二十歳青年だというこ
とだ。
 脩平の言葉に、桜は頷いて、手に取った紙にサラサラと文字を書いていく。
「とりあえず、悪魔の嫌いなものを幾つか書いておくから、もしもの時のために揃えてお
いて」
「わかった。ありがとう」
 と、心底嬉しそうに脩平が言うので、桜はちょっとだけ口元を弛めて微笑んだのだった。





                 二


 大学から電車を乗り継いで一時間と少し。そこからさらに自転車で二十分ほど行った所
にある自分の部屋に脩平は帰宅していた。
 コーポLOという白壁赤屋根のアパートの二階の一部屋が脩平の城だ。親の仕送りで暮
らしているとはいえ、部屋を選んだのは脩平自身なので、脩平はこの部屋を自分の城と呼
んではばからない。大学から遠いのは、手頃な値段で納得できる物件を探していたら場所
が遠くなってしまったという理由からだ。
 ストレッチや筋トレが出来るくらいの広さがあれば、多少大学から遠かろうが、それは
脩平の問題にはならないのである。
 ともあれ、帰宅した脩平はさっそく近所のスーパーで『悪魔が嫌いな物』を買い込んだ。
意外と簡単に手に入る物で、夜まで時間を持て余した脩平は軽く運動をすることにした。
 まずはストレッチ。これには三十分をかける。それくらいの時間をかけて身体をほぐさ
ないと、ちょっと無理な動きをしただけで筋を痛めることがあるのだ。
 そして、次に筋トレをワンセット。こちらはそれほど大したことはしない。脩平は筋肉
が必要ではないし、プロレスではなくプロレスの技が好きなだけだからだ。
「よしっと」
 良い感じで身体が重くなってきた辺りで、シャワーを浴びて身体をマッサージする。
 運動不足とは無縁な生活を送っているのがわかる姿だ。
「ええと、マッチだっけ……」
 桜に言われた通りにマッチの箱を用意した脩平は、部屋の時計を見て頷いた。
 午後九時。充分に夜と言える時間帯だ。
 すでに古びた召還書は二部屋あるうちの一部屋の中心に置かれ、摩滅した表紙を上に脩
平の次なる行動を待っている。
 脩平はやはり火は怖くてバケツに水を入れて部屋の隅に置いておいた。
「これで火事も良し。火種良し。悪魔が苦手なアイテム良し。点火!」
 度胸が良いと言うか、何と言うか、最後の確認をすると脩平はあっさりとマッチを擦っ
て火種を召還書の表紙へと落とした。
 すると、火種の落ちた箇所から段々と火が広がって行くはずが、召還書は一瞬にして炎
に包まれて弾け飛んだ。
「!」
 跳ねた火の粉に脩平が顔を庇う。そして、目を疑うようなことが起こった。
 床の畳の上に、炎が円を描く。
 二重の円の間に様々な、脩平には理解できない文字が浮かんでは消え、紅の炎が紫炎と
変わる。紫炎は浮かび上がり、部屋の中に立体的な円──召還円を描き出す。
 その円の中、だ。
「人?」
 そう脩平が呟く間もある。その呟きに吸い込まれるかのように紫炎は渦を巻いて収縮し、
数秒の後には跡形も無く消えた。
 ただ、畳に残った焼け焦げだけが炎が実際に起こったのだという証拠となって刻み込ま
れる。
 それで、だ。
 脩平は無言で目の前に現れた悪魔を見た。
「……悪魔さんですか?」
 なんとなく、丁寧口調になってしまう。
 それに対して、
「はい、楓(かえで)と申します」
 にっこりと微笑んで行儀良く頭を下げたのは、どう見ても小学校高学年になるかならな
いかの子供であった。
 頭を下げたその動作が、やわらかそうなおかっぱの髪を揺らす。染み一つ無い白い肌。
世の中の汚れを全く知らないような大きな瞳。厚すぎず薄すぎずの控えめな唇。思わず触
りたくなる顎のライン。少し力を込めたら折れそうな首。名前の通りの楓模様の女物の着
物の上からでも、その華奢さを感じさせる身体。
 文句があるなら言ってみろ、という可愛らしさだ。
 とにかく成功した驚きから立ち戻った脩平は、次にポンと手を叩いて、悪魔──楓の両
肩に手を置いた。
「なるほど、悪魔さん。さっそくだが俺の願いを叶えてくれ」
 と、その言葉に目を丸くしたのは楓の方である。大きな瞳をパチパチとしばたたかせ、
こめかみに指を当てて難しい顔をする。
「え……と。初心者の方じゃないんですか?」
「初心者?」
「召還の、です」
「初めてだなあ」
「凄く慣れていらっしゃるようにお見受けしましたので」
「聞き取りにくいからもう少し普通にしゃべってくれない?」
「はあ……」
「まあ、座ってくれ。ちょっと焦げ臭いけど」
「あ、すみません……私が出てくる時のですね」
「いや、安いもんだ」
「そうなんですか?」
 すすめられるままにその場に正座する楓に、脩平は機嫌の良い笑みを見せて自分もあぐ
らをかいて座った。
 では、と楓がもう一度頭を下げる。
「改めて、楓と申します。でーもんの方とは少し違いますが、日本の悪魔として皆様の現
世での望みを叶えるお仕事に携わっている者です」
「近江脩平。で、願いを言っていいか?」
「はい」
「壊れない相手が欲しい」
「は?」
「プロレス技を掛けても壊れない頑丈な知り合いが欲しい」
「…………」
 沈黙。
 ええと、と楓が頬を掻く。
「プロレスの技を掛けても壊れない頑丈な知り合い……ですか?」
「おう。ぱぱっと出してくれ」
「あの、言いにくいんですけど、悪魔にも出来ることと出来ないことがありまして」
「ぱぱっと頼む。ぱぱっと」
 あう〜、この人目が本気だよ〜、と楓は笑顔のまま頬に汗を一筋流した。
 本気も本気、脩平は本気である。
「やっぱり最初に足四の字だろ? それからアキレス腱固めで足を壊して……いや、壊れ
ないのか。でもって第三段はテーブルの上からニードロップ……くう、燃える!」
「し、死んじゃいますよっ」
「だから、壊れないの頼む」
「無茶なことして壊れない人間なんていませんよ」
 たしなめられるように言われて、脩平はぐっと詰まった。
「まあ、そうだろうなあ……」
「悪魔でも無いと、絶対死なないとかは──きゃっ」
「悪魔さん、お願いがある」
「は、はい?」
 両手首を押さえられ、ぐっと脩平に顔を近づけられた楓は身を引きながら先を促した。
 脩平は真剣な顔で言った。
「俺に押し倒されてくれ」
「はあ?」
 言うが早いか、脩平が腕を振って楓を畳の上に転がす。その拍子に着物の裾がまくれ上
がってしまい、楓は慌てて白い足を隠そうとした。
「あ、あの……わ、私そういうのはちょっと……っ」
「大丈夫大丈夫」
 そう言って脩平が足首を掴むと、楓が息を飲んで口を押さえた。
「わ、私初めてなんです──っていたああああああああ!」
「っしゃあ! いい感じぃっ!」
 一瞬にして足四の字固めを極めた脩平が瞳を燃え上がらせて天上に向かって拳を突き上
げる。
 楓は悲鳴を上げてバンバンと畳を叩いた。
「どうした、もうギブかあ!?」
「ぎ、ぎぶってなんですかあああああ!?」
「降参ってことだ!」
「こ、降参です、降参! やめて下さい、脩平さんっ」
「──ってわけで、あと三十秒でやめてやる」
「やあああああああああああああああああああああ!」
 結局、二分近く足四の字固めをくらい続けた楓は、あられもなく着物をはだけさせて畳
の上に伸びてしまった。
 ふう、と脩平は満足のため息をつく。
「今日もいい運動したぜ」
 これ以上なく輝いている顔であった。これこそ、自分の好きなことをしている時の人間
の顔であろう。
 ……もっとも、やって良いことと悪いことがあるが。
「おう? どうした」
 その時点になってようやく脩平はダウンしている楓に視線を向けた。さすがに心配にな
って剥き出しの脚を覗き込んで調べる。特に折れているということもなく、脩平はホッと
息を吐いた。
「悪魔さん、丈夫だな」
「ど、どうも……」
 ひ〜ん、と泣きながら楓は身を起こした。そうしてから自分の格好に気がついて顔を真
っ赤にして着物を整える。
「あうう……お婿に行けなくなっちゃう……」
「なんだ、男だったのか」
「そうですよ!」
 涙目で楓は脩平を睨み付けた。キラキラと涙の似合う美少女そのものの姿だが、どうや
ら楓は性別的には男性らしい。
 だが、だからと言って何が変わるわけでもない。
 どん、と脩平は自分の胸板を拳で叩いて天を指さした。
「男ならその程度で泣くな! いつもお天道様に胸を張って生きるんだ!」
 今さらながらに言うが、脩平は馬鹿である。どこまでも真剣な顔でこういうセリフを言
ってのける男なのである。
 楓はその言葉にあ然とし、こぼれる涙を拭いもしないで脩平を凝視した。あどけない美
童の顔に、脩平は満面の笑みを持って応えた。
 とことん、そういう人間なのであった。
 毒気を抜かれてしまった楓は、少ししてから涙を拭い、恥ずかしそうにうつむいて立ち
上がった。
「……お願いごとはどうするんですか?」
「あ? さっき技掛けさせてもらったけど」
「あ、あれでいいんですか?」
「なんだ、あれはカウント無しか。なら……頼んでいいのか?」
「はい」
 そっかあ、と頭を掻く脩平に、クスリと楓は微笑んだ。
「私も何人かの人間の方に会いましたけど、脩平さんみたいな方は──」
「うん、悪魔さんでいいな」
「はい?」
 言いかけた楓を遮って、脩平は一人頷いて言った。
「悪魔さん──楓? 楓が俺の技の相手してくれればいい。これはありなんだろ?」
「え? あ、あの……」
「うっし、なら今日は徹夜だな」
「ちょ、ちょっと脩平さん?」
「ふっ」
「──ってきゃあああああああああああああああああああ!」
 全身のバネを生かしたドロップキックを喰らい、楓の小柄な身体が部屋の壁に叩きつけ
られて盛大な衝撃音が辺りに響き渡った。
 畳の上に受け身を取った脩平は、拳をぷるぷる震わせて恍惚の表情となった。
「さいっっっっこう! さあ、次はプロレスが生んだ芸術品、バックドロップを……って、
おい、悪魔さん? 楓?」
 くるくると目を回して気絶している楓の目の前で手を振りながら、脩平はふむ、と呟い
た。
「じゃあ、起きるまで夜食の準備でもするか」
「あ〜う〜……」
 しくしくしく、と。
 悪魔ながらの回復力であっさりと復活した楓は、脩平の鼻歌を聴きながら寝転がったま
ま忍び泣きした。
「私どうなっちゃうのぉ……?」
 こうして、人間一人と悪魔一匹の共同生活が始まることになったのだった。


                                終

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