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2004年残暑見舞い短々編

             南の海のボートより


 ボボボボボと自分には聞こえるエンジン音を聞きながら、真洋(まひろ)は海面を割っ
て進むボートの舳先に立っていた。
 片足を縁にかけ、遥か先を見通すように手で額にひさしを作って水平線を見つめる様は、
海賊映画のワンシーンをそのまま十歳の少年が演じているかのような印象がある。
 真洋の目は、洋上に浮かぶ大小の島々を見る度に輝いていた。夏休みに祖父に連れて来
られたフィリピンの海は、七千以上もの島が存在している、世界でも有数の『海の大混雑
地帯』だ。とにかく、ボートなどの海上を移動する手段さえあれば、どちらの方向に進ん
でも島があるし、中には文明を拒否したかのような小集落のみの島や無人島もあるという
話を聞けば、浪漫大好きな幼い少年の心を捉えるには充分だ。
「うおー、すげえー」
 車並の速度で進むボートの上であるというのに、肩で風を切る真洋の身体は一向に危な
げない。最初こそ初めて乗る船の意外な揺れに、手すりにしがみつくしかなかった彼は、
十分もすると二本足で立ち上がるようになった。若さの偉大さというよりも、単純に真洋
のバランス感覚が優れているのだろうと、顔を真っ青にした少女の背中を撫でてやりなが
ら祖父の海里は感心した。
「大丈夫かい、宇美ちゃん」
「は、はぁう……」
 さすりさすりとワンピースの薄い布越しに平らな背中をさすってやるが、外孫はもはや
声にもならない呻きをひねり出すのみである。
 まだ小学五年生の小さな身体で一時間の間に三回も嘔吐した後だ。体力的にも限界に近
いのだろう。
 普段漁船として利用されているボートは、あらゆる場所から潮と魚の混ざり合った臭い
がして、慣れている海里ですら臭気を意識すると気分が悪くなる。
 魚を積まない場合でも乗れるのは十人が精一杯という、優雅な観覧船とは比べものにな
らない小型船は、波の揺れをダイレクトに搭乗者に伝えてくるのだ。例えるなら、車高の
低いスポーツカーが地面すれすれの位置に座席があり、車と人の一体感を生み出すように、
この船も『無駄』に船と人の一体感がある。
 昇っては下り。下っては昇り。エンジンのパワーで波に逆らって真っ直ぐに進もうとい
う行為の代償は、乗り心地の悪さという一点に尽きる。それも、最新型とは言い難い、む
しろ操縦している海里の友人の相棒に相応しい、ボートで言う還暦を越えた『古強者』で
ある。
 幾ら洗っても取れない潮や、魚の血とおぼしき染み。それらの臭い。まずこれをもって
快適な船旅とは行かないことは最初からわかりきっていたのだが……。
「ん?」
 外孫を気遣う祖父の声を聞きつけた真洋は、ようやく従妹の有様に気がついて「あらら」
と目を丸くした。そして、大股数歩で少女の前に屈み込み、ぺちぺちとその天使の輪っか
の乗った頭をはたく。
「おーい、宇美〜? 大丈夫か?」
「ま、まーくん……気持ち悪い……」
 その疲労しきったしゃがれた声に、真洋は「おおう」と少し驚いた。普段ほよほよした
声――真洋の表現である――で話す少女の憔悴ぶりに、「うむ」と一計を講じた。
 それは。
「座ってるから気持ち悪くなるんだよ。ほら、立てよ」
 実に自分感覚で根拠のない台詞である。海里が口元で苦笑を浮かべるが、少年はためら
いも無しに少女の手を取って、無理矢理立ち上がらせる。ぐいっと引っ張られる形になっ
た宇美は、立ち上がった瞬間にボートの揺れで転びそうになったが、すかさず真洋が後ろ
から抱きついてそれをフォローした。
「あ、ありがとう、まーくん」
 同い年の従兄に後ろから腰に手を回された宇美は、青かった顔にやや赤味を差して礼を
言ったのだが、
「重っ。宇美、少しでぶっただろ」
「あうっ」
 お子ちゃまは色気の欠片も無くストレートに思ったままのことを口にして、少女の心に
ナイフを突き刺した。
「ふえぇ……まーくんのいじわる〜」
「だってマジだもん。宇美、前はもっと軽かった」
「う〜」
 無造作に言う内孫と、情けない顔で唸る外孫の会話を聞いていた海里は、
(そりゃ成長期だからだ)
 などと内心でツッコミつつ、孫娘の健やかな成長にうんうんと頷いた。
 真洋が重く感じるということは、真洋の腕力の成長速度を少女の身長体重の伸びが上回
ったということだ。女子は男子よりも先に成長期に入る傾向があるので、早くも心身で真
洋に対して追い越しをかけているのだろう。
 子供じみたプライドだけは一丁前の真洋が、妹のように扱っている宇美に身長で越され
たらどういう顔をするか、想像して海里はサングラスの奥で目を三日月にした。
 そんなことを想像されているとは知らない真洋は、抱え込んだ宇美をずりずりと引きず
るようにして、先ほどまで自分が立っていた舳先へと連れて行く。いきなり近くなった船
が水を引き裂く音に、宇美が「ひっ」と息を飲む。
 そんな宇美を、唐突に真洋が持ち上げる。
「わ、わぁ!?」
 バックドロップでもするかのように浮かされた宇美は、足がつかない状態に動転したが、
すぐに真洋の意図を悟って顔をより真っ青にさせた。
「だ、駄目っ。真洋ちゃん、それだけは駄目っ……やぁ……やだやだやだぁ!」
「へへ。ほ〜ら、出すぞ出すぞ、もう出すぞ〜。あ〜。でも中にしとこうかな。外がいい
けどな〜」
「なかなかなかなかなかぁ〜っ。中にしてぇ〜っ。そ、外は駄目! 外嫌外嫌外嫌ぁ〜中
がいいのぉ〜っ!」
「ど〜ち〜ら〜に〜し〜よ〜う〜か〜な〜」
 バタバタと足を振って怯える少女を後ろから押さえ込み、真洋は「いひっ」と小悪魔の
ような笑みを浮かべる。
 なんともそれはわざとらしい笑みなのだが、必死の宇美にとってはまさに地獄の笑みで
あろう。
 やがて、宇美の半泣きが本泣きに変わり始めた頃、真洋は前ぶりもなく告げた。
「んじゃ外」
「きゃぁぁぁぁ!」
 とすん、と落とされて、宇美は目をぎゅっとつぶった。しかし、いつまで立っても自分
の身体は海に落ちず、しかも尻が何かに乗っかっている感触に、彼女は恐る恐る瞼を開け
る。
「――は、やめて、真ん中」
「わぁ……」
 宇美は、思わず声を上げた。
 彼女の前には、海が広がっていた。それも、ただの海ではない。ボートに乗る前に浜辺
から眺めた、寄せては返す波が印象的な碧い海。あれも美しかったが、それとも違う、日
本では見たことがなかった海。
 ――自分に切り裂かれていく海。
 真洋が宇美を座らせたのは、舳先の縁も縁だ。船の一番外側。そこより前にはもう船が
ない。そういう場所。
 だから、そこに座った宇美の視界には、海しかない。
 ボートは『無い』。
 そこで感じられたのは、凄まじい速さで海を切り裂いていく『自分』。
 浜辺から見えた海は、平べったく見える、遠くから眺めるための海だったように思える。
水際に立ってもそこは浜辺にしか過ぎず、海の入り口でしか過ぎなかった。
 だけど、今、宇美は海の中にいる。
 見下ろせば、怖いくらいに青い海が足下にある。それは厚みがある、そう、分厚いゼリ
ーの塊を見下ろしているような感じ、と幼い少女の感性は不思議な表現を選びだす。
 自分は、その上を、飛んでいる。
 海という対象物が目の前にあるから、自分がいかに速いかがわかる。
 風を切る。
 魚を追い越す。
 視線を向ければ、最初は遠かった島々が、もうなんだかすぐにでも到達できるような気
になってくる。
 さらに見上げれば、空。
 八月。
 日本の夏休みは、この赤道下の国の夏でもある。帽子が必要なくらいカンカン照りの太
陽が、青くて存在感のある空の中に浮かんでいる。
 近い、と思った。
 日本よりも、ずっと太陽が近い。空が近い。
(手を伸ばしたら、届くかな?)
 ふと思う。
 思ったら、手を伸ばしていた。
 真上に昇った真っ赤な太陽を掴むように伸ばされた手。
 物理的に、届くはずはない。
 それでも。
「届くだろ」
「――うん」
 自分の背中から聞こえた声に、宇美は無条件に頷いていた。
 届いた。
 ――届いた!
 ぱぁっと宇美の顔に花のような笑みが浮かんだ。風が彼女の長い髪を踊らせ、その髪に
顔をくすぐられる真洋も、少女の笑みの気配に「うむ」と満足げに頷いた。
「気持ちいいだろ」
「うんっ」
 人一倍恐がりなところがある宇美であったが、この瞬間だけは海面に落ちそうな危ない
場所にいることを忘れ、興奮を隠しきれない返事をした。
「気持ちいいっ」
「元気なことだ。あの若さこそ宝だな」
 すっかり船酔いのことなど忘れてしまった子供の回復力に、海里はボートの後ろに腰掛
けていた老人――大樹に笑いかけた。子供たちに遠慮して離れた場所でタバコを吹かして
いた老人は、一目で現地人とわかる日焼けぶりだ。
 タンクトップに膝丈のハーフパンツという格好の大樹は、海里の昔からの友人である。
 純粋な日本人だが、四十年も前にフィリピンの小島で現地の妻を持ち、以来そこに定住
している。現在では日本人でありながら現地の若手漁師に教えるくらいの名漁師として、
それなりに知られた人物だ。
 海里はそんな彼の『家』でこの一夏を過ごそうと、二人の孫を連れてやって来たのであ
る。
 まあ、そんな連絡をした親友に対し、この老人は「ガイド代とるぞ」と言い放ったりも
したのだが。
 大樹は、舳先の子供たちを眺めて言う。
「なんだな。お前の孫、たいしたもんだ。ありゃスズと張るな」
 多分に感心の意を込めてタバコの煙を吐き出す。「しー」と歯と歯の間から吹き出され
た煙は勢いよく老人の腹の上へと落ちる。
 独特な煙の吐き出しを見て海里が手を伸ばすと、何も言わずに大樹はタバコを一本彼に
渡す。二人は、ヘビースモーカーとしても友人だ。
「スズか。あの子も大きくなっただろう」
「んまぁな。ガキは目を離せばでかくなるさ。特にスズはほっときゃ勝手に森のもん食っ
てでかくなってたぜ。手間はかからねぇが、おもしろくねぇ孫だ」
「いいことだろ。あの子らが生まれた時、お前のところの神様に二人で願ったこと覚えて
るだろ?」
 と、二人は視線を合わせて笑い、同時に言った。
「わんぱくでもいい。たくましく育って欲しい」
 それはとても大切な願いだったのだが。
「わんぱくすぎた」
「うちのクソガキもだ」
 そういうオチをつけて、二人の老人は戯れる子供たちを眩しそうに目を細めて見つめた
のである。
 子供たちは、これから出会う島の子供と仲良くなるだろう。それは、確定した未来だ。
 わんぱくな少年と、少し弱虫な少女。出会うのは、太陽と海を目一杯に身に浴びた少女。
 きっと、素敵な友達になる。大切な思い出ができる。夏というのは、そういう季節なの
だから。長い休みは、そのために用意された時間なのだから。
「よ〜し、遊ぶぞ!」
 正面からの風に前髪を逆立てながら、真洋が叫ぶ。うん、と宇美が頷きながら、しかし
その腕の中で言う。
「で、でも宿題も……するんだよ?」
「…………」
「あぁぁぁ〜!」
 少年が拳をぐーにして、少女の頭を挟み込む。グリグリといびられ、少女は情けない悲
鳴を上げた。
 とにかくわんぱくに。少しだけ勉強もしながら、彼らは大人になっていく。
 蒼い空と碧い海に挟まれたボートは、そんな希望に溢れ、波を切り裂いて行った。


                                  了





 この短々編を、今年度の残暑見舞いに代えさせていただきます。





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