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バーバリアン・デイズ

番外編
「八重さんのお仕事」




 富士の麓の朝には黎明という言葉が良く似合う。
 せいぜい百戸が良いところの寂れた寒村の、それだけは誇らしげに咲き誇っている庭先
の桜の薄紅の花びらをようやく顔を出した陽の光が照らし、その日一番最初の影を大地に
刻む頃、木月八重は紅地の着物の上に白い割烹着を着込んで一人台所に立っていた。
 作っているのは、祖父母に両親、それから弟二人に自分を含めた七人分の朝食と、彼女
の幼馴染であるところの青年のための『おやつ』。
 二年前に母から管理を任された家伝の糠床から三日漬けの大根を取り出して端を切り、
その一切れを口に含んで良く吟味した八重は、満足げに頷いてそれを食卓に並べることに
する。
 味噌汁の鍋の火を調節する傍らで、釜炊きした米の一部で握り飯を作り始めると、それ
はかの青年には似合わない小さなものだ。慣れた手つきでおやつ用の可愛らしい握り飯を
量産すると、丸みを帯びた三角はどちらかというと『おむすび』という表現が似合いそう
に思えてくる。
(おむすび一号には梅干、二号には山菜漬け、三号には佃煮)
 手早く一つずつ海苔を巻いていく。幼馴染は、握り飯全体に海苔が巻かれた真っ黒な爆
弾のようなものが好きなのだ。しかも、多少湿気を吸ってしんなりとさせたものが一番良
い。
 そうこうしていると、ヤマメの網焼きの匂いに釣られたのか、あくびを噛み殺しながら
三つ年下の弟がやって来る。八重も古風な着物姿だが、弟も負けずに乱れた浴衣姿だ。
「ねーちゃん、おはよ〜」
「おはよう。もう少し待っててね」
「ん〜」
 寝癖をつけたぼんやりとした顔のまま、弟は洗面所へと歩いていく。
 それを皮切りに次々と家族が顔を見せて朝の挨拶を交わしていく。母と祖母が顔を見せ
ると朝食の味見をされ、緊張の面持ちで先達の評価を待つと、いつになく高得点をもらえ
て八重は深々と頭を下げた。
「精進の賜物ですよ。これからも怠らないように」
「はい、お婆様」
「でも、御曹司にはもう少し濃い目の味がいいわね。あの子がジャンクフードに走らない
ように注意しときなさい」
「ジャンクフード、ですか。わかりました」
 母に言われ、八重は神妙な顔になる。実は噂はかねがね耳にしているのだが、未だにそ
れがどういう味なのか体験したことはない。とにかく都会生まれの母の忠告を胸に刻む。
「いただきます」
 厳格な祖父と柔和な父が揃うと木月家の朝食は始まり、まだ六歳の弟が箸を置くと終了
となる。今朝の料理は他の面々にも評判が良く、滅多に人を褒めない祖父ですら「悪くな
い」と口にした。
「お粗末さまでした」
 畳の上に正座する八重に、祖父はあぐらをかいたままぶっきらぼうに言った。
「励めよ」
「はい、お爺様」
 それから、八重は家族一人一人に出立の挨拶をした。木月家も名を連ねる古武術小笠原
流の宗家嫡男である源一郎。彼の武者修行という名目の東京社会勉強に八重も同行するこ
とは、ずいぶんと前から決定していた。
 首都で自活し己を鍛え上げていく修行は本来ならば嫡男一人で行なうものであったが、
時世がすでに古武術だの武者修行だのというものではなく、また里の皆に愛される源一郎
という青年の性格がその進出に限りない不安を抱かせ、今回の特例のことになったのであ
る。
「いい、八重。あなたがしっかりしないと駄目よ? 御曹司――源ちゃんはとにかく危な
っかしいから」
「兄ちゃん馬鹿みたいに強いけど頭の中まで馬鹿だから、ねーちゃんが世話してやらねー
と変なもの拾い食いしそうだよな〜」
「おんぞーし、バカだから!」
 母に心配され、弟二人にまで馬鹿馬鹿言われれては源一郎も立つ瀬が無い。とにかく自
分も会話に参加しなければと挙手までして言った下の弟を抱え上げ、八重は困った顔でた
しなめる。
「あまり馬鹿馬鹿言わないの。御曹司は立派な方よ」
「そう思ってんのねーちゃんだけじゃねーの?」
「こら」
 コツン、と軽く上の弟の頭を叩く。そうしていると、母が伝票を持ってやって来た。
「とりあえず、あちらの家にお味噌送っておくわね。足りなくなったら電話してちょうだ
い。お米も心配しなくていいわ」
「これは私とお爺さんから。足しにしなさい」
「はい、大切に使わせていただきます」
 母から言われ、祖母から紙幣の入った封筒を渡され、八重は遠慮することなく礼を返し
た。遠慮することこそ、無粋というものだろう。
 最後になる食器の片づけを終えると、八重は着物を改めて小さな鞄を手に取った。壁掛
け時計を見れば午前七時で、出立の時間には三十分早かったが、少し早めに行動するのは
癖のようなものだ。
 大部分の荷物は引越し便で済ますので鞄と風呂敷包みだけを持って玄関に出ると、見送
りは家族全員だった。自分が住み慣れた家を離れるのだと実感し、八重は少ししんみりと
した。
 では一人っ子の源一郎はどれほど別れを惜しまれているだろうと想像する。
 きっと、自分など及びもつかないほど惜しまれ、悲しまれ辟易していることだろう。そ
れを振り切って出て行くことは、彼でも辛いに違いない。
「――では、行って参ります」
「行ってらっしゃい」
 最後に全員揃った家族の姿を瞳に焼きつけ、八重は背を向けた。心配をかけたくはない
ので、未知の都会への不安は封じ込めている。そのための準備は、何ヶ月も前からしてい
た。
(『八重』、しっかりできた?)
 自分の中にある、理想の姿に問いかける。
 背筋をしゃんと伸ばし、常に落ち着いて余裕のある対応で。家族の印象に残るのが笑顔
で出発したしっかり者であるように。家族が心配しないような自分であるために。
 ガラガラと音を立てて戸を開いて外に出ると、桜の木がその花を咲かせていた。二本の
桜に挟まれるような道を通りぬけ、八重はその先の畑前にいる青年に気がついた。
「……御曹司?」
「おう、早いな八重。おはよう」
 そう言って、源一郎は腰掛けていた地蔵から立ち上がる。時間を守るという言葉が悲し
くなるくらいにルーズな青年の思いがけない姿に、八重は小首を傾げてしまった。
「おはようございます。どうなさいました?」
 なかなか失礼な質問だったかもしれないが、源一郎は快活に笑っていやいやと頭を掻く。
「実はな、昨夜親父殿に闇討ちを仕掛けて家を蹴り出されたんじゃ。それで一晩ここで待
っとったんじゃが、予想よりも早かったな」
「蹴り……そうですか……」
 道理で彼は手ぶらだった。事前に購入していた切符等の全てを八重が管理していたのは
先見の明だろう。
 それにしても、これから村を出て修行が始まるというのに、ずいぶんといつも通りの顔
だと八重は感心する。大物だとは思っているが、未知の場所への不安の欠片も無いのだろ
うか。
 表情に出さずに考えているうちに、大きく伸びをした源一郎が誘った。
「よし、では行くか」
「はい」
 大股で歩き出した彼に小走りに並び、八重はやや躊躇ってから尋ねた。
「御曹司は、外に出ることに不安は無いのですか?」
「不安? 何故不安になる」
 彼は白い歯を見せて笑う。
「確かに少々『面倒くさい』場所に行くようじゃが、別に化け物の巣窟でもあるまい。道
を尋ねれば応えるじゃろうし、おまわりさんだっておるんじゃろう? 困ったら誰かを頼
れば良いだけじゃ」
 あっさりと、頼るという言葉を使ってみせる。自分には無理だな、と八重はなるほどと
頷きながら思う。
 自分は――。
「それに、そもそも小難しいことは八重に任せるつもりじゃしな。はは!」
「御曹司、それでは社会勉強になりませんよ」
 ――頼られている方がいい。
 そこで気づいた。
「そういえば、一晩ずっということはお食事はまだですか?」
「おお……まあな。腹ぺこじゃ」
「『おやつ』でよろしければ、用意してありますが」
「さすが八重、見事じゃ!」
「御曹司、これが『おやつ』ですからね。電車の中で食べる分はありませんからね」
「え〜、なんじゃせこいのう。どうせ金もらっとるんじゃろう? 菓子の一つや二つくら
い、ケチケチするな」
 風呂敷を受け取りながら唇を尖らせる源一郎に、八重は神妙な顔で注意する。
「いいですか、御曹司。これから御曹司は都会でご自分の収入で暮らしていかなければな
らないのです。安定した職が見つかるまでは――御曹司!」
「小言はバスの中で聞く」
「乗り物に乗るとすぐに寝てしまわれるではないですかっ」
 笑って走っていってしまう幼馴染に嘆息し、八重は彼の通った後を辿る。まだ早い時間
のために畑にも人の姿は無く、日曜日のために離れた高校に通うためにバス停に向かう学
生の姿も無い。
「まったくもう……」
 育った村。思い出の村。それらを胸に刻みながら、八重は歩く。
 これから忙しくなるだろう。何せ源一郎のことは自分に一任される。村一番の暴れん坊
で、奔放という言葉が良く似合う青年だ。
「八重、八重! 先にいただくぞ!」
「御曹司。お手拭きをお持ちしますから、少しお待ち下さいっ」
 遠く、干からびたバス停から手を振る問題児に八重は声を返した。
 本当に、不安に思う暇も無くなるくらい忙しくなりそうだった。


                                   了





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