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バーバリアン・デイズ

第五話
「渋谷デビュタント」


                序


 酒盛りの翌日というのは身を起こす気力に乏しいものだ。
 そう考え、九頭宗助は顔にかかる陽光のまぶしさから逃げるように寝返りを打った。す
ると、枕の横に横たわっていた温かいものにぶつかり、彼は頬に走った痛みに顔をしかめ
る。
「いつぅ……」
 渋谷ハチ公前で殴られた顔は、おそらく夜が明けて酷く腫れ上がっていることだろう。
夜の時点で熱を帯びていたのでアルコールは遠慮したのだが、再会した旧友の強引な勧め
に負けて一口呑んでしまったのが運の尽きだ。
『はは! いい呑みっぷりじゃ。どうじゃもう一杯』
『う〜、じゃあもう一杯だけ』
 旧友がやけに上機嫌だったことと、宗助の押しに弱い性格が災いして、結局彼の引っ越
し祝い酒宴に巻き込まれてしまった。お酒は二十歳から、などと口をすっぱくするつもり
はないが、それにしても――。
「呑み過ぎた……」
 放っておいてもじくじくと痛む腫れた頬と、二日酔いなのか鈍い重さのある頭。これか
ら起きて、昨夜引越し後の何も無い部屋で食べ散らかした菓子やつまみの山を片付けるの
かと思うと、うんざりする。
(温かいし、このまま寝てようかな……)
 自分の寝返りの邪魔をした温かいものに手を伸ばし、宗助は怠惰な考えに身をゆだねた。
 部屋の荷物か何か知らないが、その温かいものにくっついていると、とても気持ち良い。
ホッとするというか、収まりが良いというか、抱き枕というものはこういうものだろうか、
と思う。
(自分の部屋にも一個欲しいなあ……)
 温かいものが身じろぎしたのは、その時だ。
「んあ?」
「え?」
 それが発したぼんやりとした声に、宗助は寝起き頭のまま疑問を浮かべた。
 声?
 他人の家、酒盛りの後床に転がった二人、自分の抱きつく温かいもの。
 理解すると同時に、宗助は顔を赤くして身を離そうとした。
「ご、ごめ……え?」
 その手が、はしっと掴まれた。掴んでいるのは、旧友――小笠原源一郎。昨日上京して
きたばかりの青年だ。
 空手道場に籍を置いてはいるがどちらかと言えば華奢な宗助に比べ、黒いタンクトップ
一枚の源一郎の肉体は見事のひとことだった。長身に負けないだけの筋肉を必要最低限だ
け身につけたとでも表現すればいいのか、その身体は逞しいというのに肥大せずに引き締
まっている。一箇所に筋肉が集中することなく、全身くまなくにどのような運動にも耐え
うる機能美を詰め込んだかのようだ。
(モデルみたいだ)
 一瞬考え、その思考により顔を赤くしてしまう宗助を見る、寝ぼけた瞳。
 照れ隠しに、宗助は笑顔で言うのだった。
「お、おはよう、源一郎」
 さわやかな朝の挨拶。
 再会した旧友たちの迎えた初めての朝。
 それに対して、源一郎は無言で宗助を見つめ、
「え……っていたたたたたた!?」
 問答無用で、その腕を抱え込んで腕ひしぎ十字固めに極めてみせたのだった。





                1


「ミシっていった……絶対にミシっていった……」
「すまんと言っておるじゃろうが」
 未だに痛む左腕を抱えてぐちぐち言う宗助に、風呂場から出てきた源一郎が口をへの字
にした。白い無地のトランクス一枚に濡れた頭にバスタオルを引っ掛けただけの格好で、
フローリングの床に転がっているビニール袋を拾い上げる。
 部屋は思ったよりも散らかってはいなかった。ゴミは誰かが片付けていてくれたらしい。
渋谷の隣、恵比寿駅から徒歩二分という立地条件にあるマンションは、八畳の洋間が二つ
に和室が一つ。それにキッチン、バス、トイレ完備というもので、磨かれたフローリング
が生活感の無さを示していた。
 さすがに引越し翌日ということで家具の一つも無く、窓にはカーテンもかかっていない。
二人は源一郎が被っているバスタオルを敷いて眠っていたのだが、男の腕枕で一晩明かし
てしまった宗助は羞恥に愚痴ることしかできなくなっていた。
「なんでよりによって腕枕……」
 腹の上だとか足の上だとか、どこでも良さそうなものなのに、よりによってである。ま
るで恋人同士のように寄り添って寝ていた自分たちを想像し、宗助はもう一度赤くなった。
「まだ顔が赤いのう。ひとっ風呂浴びて、酒を抜いてこい」
「……そうする」
 ペットボトルの烏龍茶のボトルキャップを噛み、ねじって開封した源一郎に促され、宗
助は頬を押さえて風呂場へと向かった。痛む頬を冷やしたかったし、酒気まみれの身体を
さっぱりもさせたかった。
 そうして宗助の姿が見えなくなると、源一郎は素足でペタペタと廊下を渡って向かいの
和室の襖戸を横に動かす。中には、先に到着していたらしいダンボール箱が三つほど。
「ふむ」
 そこに昨夜早々に席を外した幼馴染三人組の最後の一人の姿が見えないことに、彼は烏
龍茶で喉を鳴らしながら考える。
 まず向かったのは、キッチンだ。
「八重〜」
 使い手がおらず清潔なままの台所は、本来ならばガスコンロが置いてあるだろう場所も
空の台のままで、閑散とした寂しい空間となっていた。換気扇と蛇口だけのその場所には
人の姿も無く、源一郎は次の場所へと向かう。
「八〜重〜」
 ノックもせずにトイレの扉を開くと、ウォッシュレットつきの便器と管理会社が置いた
らしい香剤の香り。当然のように求めた相手の姿は無い。というか、あったら問題だ。
「出かけたか?」
 早くも飲み干したペットボトルを床に置き、源一郎が大儀そうに腹をさすった時だ。
 鍵を鍵穴に通す音がして、玄関の扉が開いた。そこから顔を見せたのはお茶会の帰りの
ような紫の着物姿も似合う佳人――木月八重だ。
 その姿が見えるや否や、源一郎はひとこと。
「腹が減った」
 あまりにぶしつけなその朝の挨拶に、しかし八重は不快を示すことなく控えめに微笑ん
で、自分が手にしたビニール袋を掲げてみせた。
「おむすびでよろしければ」
「さすが八重じゃ。良くわかっとる!」
 『京樽』とプリントされたビニール袋を持って八重が家に上がると、源一郎は当たり前
のようにフローリングの床にあぐらをかいて座る。その前に八重が風呂敷を敷いて、取り
出した十個の握り飯を置いた。
 すぐさま手を伸ばしかけ、源一郎が止まる。それに、八重が目をぱちくりさせた。
「どうなされました?」
「ふむ……宗助を待つ」
「それがよろしいですね」
 八重が目元を優しくし、「お召し物を」と和室から黒の開襟シャツとズボンを持ってく
る。連日の黒着用だが、深い理由は無く単純に源一郎の好みだ。
 服に袖を通していると、風呂上りで火照った宗助が戻ってきた。こちらは他人の家とい
う配慮なのか、さすがに下着一枚ということはない。八重を見つけると、宗助はようやく
動き始めた頭で誰が部屋のゴミを片付けたのかを知ったのか、朝の挨拶ついでに言う。
「おはよう、八重ちゃん。ゴミ、ありがとう」
「おはようございます、宗助くん」
 八重も微笑んで軽い会釈を返し、朝に相応しい笑顔があるというのならそれなのだろう、
と宗助は見惚れながら思った。独特の、笑顔と言うにも弱い本当に微かな笑み。何かに特
別にはしゃぐわけではない、日常の中の何気なさを形にしたような挨拶の笑みだ。
(綺麗になったなあ)
 板の間に正座し隙の無い佇まいを見せる八重は、着物美人を地でいっている。その整っ
た顔立ちや落ち着いたやわらかな受け答えは、同い年とは思えないほど『大人』を感じさ
せる、他の知り合いの異性たちとは一線を画すものだ。
 それから、と今度は握り飯を手にとって具の表示を眺めている青年を見る。
(格好良くなったなあ)
 再会したやんちゃ坊主は、どこに出しても恥ずかしくない偉丈夫となっていた。均整の
取れた肉体はもちろん、それだけは子供の頃から変わらない古風な態度が独特の魅力を放
っている、生命力が全身から溢れ出ているような男だ。
(俺に勇気をくれる二人)
 日本を恥の文化だと美しく表現した者がいる。他人の目を気にし、恥をかかないために
正しい行いをとろうとする、一種の倫理観を表現した言葉だ。しかしそれは日本人は恥を
かくことを恐れ、何かにつけて消極的になりがちということもである。
 宗助も例外なくその文化に染まっており、例えば街中でヤクザにからまれている者がい
たら、まずは可哀想だと思う。助けたいと思う。だけれど、自分が痛い目にあうことや、
『おせっかい』をして恥をかくことを恐れて、それができない。何をするのが正しいこと
なのか、正義なのかはわかっていても、それをするための勇気が出てこない。
 正しいことをするための恥の文化が、恥を恐れるあまりに臆病になる方向に作用してし
まう。
 ――否、もしかしたら、痛いことにあうかもしれないという、他人よりも自分を優先す
る卑怯な考えを文化のせいにしているだけかもしれない。
 しかし。
 源一郎と八重に関することでは、正しいことをしない恥が他の全てを上回る。二人に対
して恥をかくことこそ最優先で宗助が避けるべきことであり、倫理観だ。
 二人に見捨てられないためなら、痛みなんて怖くない。自分より強い相手に大衆の前で
無様に敗北する恥ずかしさなんて、問題じゃない。昨日、確認したばかりだ。
 それが宗助の恥の文化なのである。
 だから、そんな大好きな二人が自分を頼って東京にやって来たことに、宗助は握り飯を
受け取りながらさりげなく尋ねた。
「東京暮らしをするって話だけど、生活費とかは自分稼ぎ?」
「もふ」
「長男が道場を継ぐ前に自活するのは小笠原流宗家の伝統で、本来は全国を武者修行する
というものだったらしいです。ですが、近年お郷と外界に格差が出てしまったため、生活
力を養うという意味での一人暮らし修行に変わったという話です」
 握り飯をいっぱいに頬張っていた源一郎の代わりに八重が説明する。
 つまり。
「世間を知って来いってこと?」
「簡単に言えばそういうことですね」
「う〜ん……なんだか納得できるような」
 と、宗助は指についたご飯粒を食べる源一郎に苦笑する。その視線に、源一郎が自分用
に確保した四つの握り飯を後ろに隠す。
「なんじゃ、やらんぞ」
「いやいや」
 手をハタハタと振って、宗助はやっぱり納得できると頷いた。小笠原流の面々、という
か宗助も良く知る小笠原家の父や祖父たちも、田舎で純粋培養されたこの青年に世間とい
うものを見せておく必要があると思ったのだろう。
「それで、八重ちゃんは引越しの手伝い?」
 確か一歳年下の弟もいただろうに、と思って訊くと、
「いえ。私は御曹司のお目付け役としてここにご一緒します」
「は?」
 なんでもないことのように八重が言い、宗助は目を丸くした。
 おや?
「それって、ここに一緒に住むってこと?」
「おう。八重がいると便利じゃなからな、正直助かる」
「え? え?」
 源一郎まで当たり前のように頷いたので、自分が何か間違っているような気がしてくる。
 それは年頃の男女にとってはなかなか大問題なような、魅惑的なような、そういう響き
の言葉やら状況であるような気がするのであるが。
 おや?
「それって……二人が同棲するってこと?」
 恐る恐る確認すると、やはり二人はごく普通に肯定するのだった。
「おう」
「簡単に言えば」
 と。
 その余りにも平然とした様が、自分の知らない十年の歳月に裏打ちされたものなのか、
それとも田舎ならではの素朴さからのものなのか。
(う〜ん……わかりにくい)
 都会育ちの宗助には、判断がつかなかった。
 ともあれ、宗助が源一郎を羨ましがりつつ、ちまちまと五目握り飯を食べていると、い
ち早く食べ終わった青年が待ちきれない様子で言った。
「さて、今日はどこに遊びに行く、宗助? わしはアレじゃ。昨日見たでかいテレビがま
た見たいぞ。映画じゃな、映画!」
「昨日? ああ、渋谷のアレは映画じゃないよ。宣伝とかのための大型ビジョンだよ」
「おう? そうなのか?」
 どうやら渋谷ハチ公前の俗に三大ビジョンと言われるQFRONTの『Q’SEYE』、
大盛堂商事ビルの『スーパーライザ渋谷』、SHIBUYA109の『フォーラムビジョ
ン』のことらしいと、宗助は誤解を解いておく。
「だが、でかかったぞ?」
「別に大きいから映画ってわけじゃ……それじゃ本物を見に行ってみる? 渋谷まで歩い
てすぐだし、駅周りに映画館たくさんあるから」
「うむ。う〜、楽しみじゃのう。アレよりでかいのか。でかいんじゃろうなあ」
「いや、だから大きさは関係ないって」
 関心は大きさそのものにあるのか、顔をわくわくさせながら源一郎が言うのに、宗助は
苦笑気味にそう言っておいた。源一郎は宗助よりも背も高く体格も良いのだが、何故か子
供のような落ち着きの無さがある。
 自然、次のような言葉が出てしまう。
「はしゃぎすぎて、迷子にならないでね?」
「無論」
「うわっ。その顔、笑顔過ぎて心配だ……」
 まるで年下の弟を相手にしているような、不思議な気分。
 そこに釘を刺したのは八重だ。
「失礼ですが、あまり遊び呆けられても困りますよ、御曹司。渡されている生活費は一月
分ありませんので、早めにお仕事を決めていただかないと」
「あ、そうか。源一郎は職探しだっけ」
「あ〜、固いこと言うな。一日くらい良いじゃろう? な、八重。な?」
 やんわりと言い含める八重に、源一郎は両手を合わせてお願いする。八重は思案顔で源
一郎と宗助を順番に眺め、やがて微笑みに近いため息を一つ。
「そうですね。久しぶりに宗助くんにも会ったことですし、今日くらいは構いません。そ
の代わり無駄遣いを避けるためにこちらの映画をご鑑賞ください」
「……なんじゃ?」
 着物の併せから八重が取り出したのは、懐紙ならぬ二枚の映画チケットだった。手渡さ
れた源一郎が見れば、どこか雪国を背景に燻し銀な魅力のある中年男優が薪を運んでいる
シーンがプリントされている。
 横からのぞきこんだ宗助は、見覚えのあるタイトルに思わず口を動かす。
「『マタパ』」
「なんじゃそれは?」
「アイヌの言葉で冬って意味だってさ。CMでやってるよ。八重ちゃんチケット買ってた
んだ?」
 流行の映画を見るんだ、という意外性をこめて尋ねたのだが、それに対する応えは否だ
った。
「奥方が――御曹司のお母上が餞別にくださいました。母と一緒に選んでくれたそうです。
下見にこちらにもきたそうで」
「それか。母上が『都会だきゃっほーい』とか言いながら出かけていった時に見たという
映画は」
 なるほど、と納得しつつ、宗助は脳を揺さぶった言葉にひとこと。
「きゃっほーいって、使う? 普通?」
「結構使うぞ、母上は」
「頻繁ですね」
「う〜ん……」
 あっさりと流されてしまった。どうやら彼らにとっては日常的なことらしい。
 しかし、わざわざ『二枚』用意されているチケットを、自分が受け取って良いのだろう
か。宗助が悩んでいると、源一郎がさっさと一枚を彼に渡してくる。
 仕方なく受けながらも、宗助は正座のまま穏やかな表情を崩さない八重におずおずと尋
ねた。
「いいの、かな?」
 少し臆病な問いかけ。
 すると、八重はこれ以上無い満面の笑みで言うのだった。
「ええ。私は私でやることがありますから、お二人で楽しんできてください」
 本当にいい子だなあ、というのが宗助の素直な感想だった。

                ※

「なんだか甘えすぎじゃない?」
「そうか?」
 六階建てのマンションを下り、恵比寿と渋谷を結ぶJR山手線を横目にできる通りに出
た二人は、向かって左手側にある恵比寿駅ではなく、右手側となる渋谷駅方面へと移動す
ることにした。
 駅側には先程八重が握り飯を購入した『京樽』などの店が連なっており、電車を使えば
五分もかからずに渋谷に着くのであるが、地理を把握したい源一郎が徒歩を希望したので
ある。
「無駄遣いできないからってチケットくれたのに、結局拝み倒してお小遣いまでもらっち
ゃって」
「金が無くてはメシも喰えんじゃろうが」
「そりゃそうだけど、それだったら俺が奢るのに」
「寿司を奢られよう」
「決定!?」
 手を合わせてご馳走様をする黒服の青年に、宗助は額を押さえて空を仰ぎ見た。左右を
建物に挟まれた道から見える細長い空には雲一つ無く、隣を歩く青年を思わせた。
 カラッと晴れ上がっていて、湿り気の欠片も無い。
「ははは! これで昼飯代が浮いたな。甘えすぎなら、その分で八重に土産でも買ってや
ればいいじゃろう。饅頭とか、饅頭とか、饅頭とか」
「饅頭以外の選択肢無し!?」
「八重じゃしなあ。あれは饅頭女じゃぞ?」
「まんじゅうおんな?」
 思い浮かぶのは、ほっぺたをつやつやさせて巨大な饅頭に頬ずりする無邪気な着物美人。
 ――いや、それは無いだろう。
 つまり。
「気兼ね無くなったところで、今日は思い切り遊ぶぞ! きゃっほーい!」
「う、うわー! 使った!? 恥ずかしい台詞使ったー!?」
 馬鹿騒ぎしながら、肩を組まれて宗助は人通りの多い街を歩く。それはなかなかに羞恥
心を刺激されるものだったが――。
 不思議と、不快ではなかった。





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