バーバリアン・デイズ 第五話 「渋谷デビュタント」                 序  酒盛りの翌日というのは身を起こす気力に乏しいものだ。  そう考え、九頭宗助は顔にかかる陽光のまぶしさから逃げるように寝返りを打った。す ると、枕の横に横たわっていた温かいものにぶつかり、彼は頬に走った痛みに顔をしかめ る。 「いつぅ……」  渋谷ハチ公前で殴られた顔は、おそらく夜が明けて酷く腫れ上がっていることだろう。 夜の時点で熱を帯びていたのでアルコールは遠慮したのだが、再会した旧友の強引な勧め に負けて一口呑んでしまったのが運の尽きだ。 『はは! いい呑みっぷりじゃ。どうじゃもう一杯』 『う〜、じゃあもう一杯だけ』  旧友がやけに上機嫌だったことと、宗助の押しに弱い性格が災いして、結局彼の引っ越 し祝い酒宴に巻き込まれてしまった。お酒は二十歳から、などと口をすっぱくするつもり はないが、それにしても――。 「呑み過ぎた……」  放っておいてもじくじくと痛む腫れた頬と、二日酔いなのか鈍い重さのある頭。これか ら起きて、昨夜引越し後の何も無い部屋で食べ散らかした菓子やつまみの山を片付けるの かと思うと、うんざりする。 (温かいし、このまま寝てようかな……)  自分の寝返りの邪魔をした温かいものに手を伸ばし、宗助は怠惰な考えに身をゆだねた。  部屋の荷物か何か知らないが、その温かいものにくっついていると、とても気持ち良い。 ホッとするというか、収まりが良いというか、抱き枕というものはこういうものだろうか、 と思う。 (自分の部屋にも一個欲しいなあ……)  温かいものが身じろぎしたのは、その時だ。 「んあ?」 「え?」  それが発したぼんやりとした声に、宗助は寝起き頭のまま疑問を浮かべた。  声?  他人の家、酒盛りの後床に転がった二人、自分の抱きつく温かいもの。  理解すると同時に、宗助は顔を赤くして身を離そうとした。 「ご、ごめ……え?」  その手が、はしっと掴まれた。掴んでいるのは、旧友――小笠原源一郎。昨日上京して きたばかりの青年だ。  空手道場に籍を置いてはいるがどちらかと言えば華奢な宗助に比べ、黒いタンクトップ 一枚の源一郎の肉体は見事のひとことだった。長身に負けないだけの筋肉を必要最低限だ け身につけたとでも表現すればいいのか、その身体は逞しいというのに肥大せずに引き締 まっている。一箇所に筋肉が集中することなく、全身くまなくにどのような運動にも耐え うる機能美を詰め込んだかのようだ。 (モデルみたいだ)  一瞬考え、その思考により顔を赤くしてしまう宗助を見る、寝ぼけた瞳。  照れ隠しに、宗助は笑顔で言うのだった。 「お、おはよう、源一郎」  さわやかな朝の挨拶。  再会した旧友たちの迎えた初めての朝。  それに対して、源一郎は無言で宗助を見つめ、 「え……っていたたたたたた!?」  問答無用で、その腕を抱え込んで腕ひしぎ十字固めに極めてみせたのだった。                 1 「ミシっていった……絶対にミシっていった……」 「すまんと言っておるじゃろうが」  未だに痛む左腕を抱えてぐちぐち言う宗助に、風呂場から出てきた源一郎が口をへの字 にした。白い無地のトランクス一枚に濡れた頭にバスタオルを引っ掛けただけの格好で、 フローリングの床に転がっているビニール袋を拾い上げる。  部屋は思ったよりも散らかってはいなかった。ゴミは誰かが片付けていてくれたらしい。 渋谷の隣、恵比寿駅から徒歩二分という立地条件にあるマンションは、八畳の洋間が二つ に和室が一つ。それにキッチン、バス、トイレ完備というもので、磨かれたフローリング が生活感の無さを示していた。  さすがに引越し翌日ということで家具の一つも無く、窓にはカーテンもかかっていない。 二人は源一郎が被っているバスタオルを敷いて眠っていたのだが、男の腕枕で一晩明かし てしまった宗助は羞恥に愚痴ることしかできなくなっていた。 「なんでよりによって腕枕……」  腹の上だとか足の上だとか、どこでも良さそうなものなのに、よりによってである。ま るで恋人同士のように寄り添って寝ていた自分たちを想像し、宗助はもう一度赤くなった。 「まだ顔が赤いのう。ひとっ風呂浴びて、酒を抜いてこい」 「……そうする」  ペットボトルの烏龍茶のボトルキャップを噛み、ねじって開封した源一郎に促され、宗 助は頬を押さえて風呂場へと向かった。痛む頬を冷やしたかったし、酒気まみれの身体を さっぱりもさせたかった。  そうして宗助の姿が見えなくなると、源一郎は素足でペタペタと廊下を渡って向かいの 和室の襖戸を横に動かす。中には、先に到着していたらしいダンボール箱が三つほど。 「ふむ」  そこに昨夜早々に席を外した幼馴染三人組の最後の一人の姿が見えないことに、彼は烏 龍茶で喉を鳴らしながら考える。  まず向かったのは、キッチンだ。 「八重〜」  使い手がおらず清潔なままの台所は、本来ならばガスコンロが置いてあるだろう場所も 空の台のままで、閑散とした寂しい空間となっていた。換気扇と蛇口だけのその場所には 人の姿も無く、源一郎は次の場所へと向かう。 「八〜重〜」  ノックもせずにトイレの扉を開くと、ウォッシュレットつきの便器と管理会社が置いた らしい香剤の香り。当然のように求めた相手の姿は無い。というか、あったら問題だ。 「出かけたか?」  早くも飲み干したペットボトルを床に置き、源一郎が大儀そうに腹をさすった時だ。  鍵を鍵穴に通す音がして、玄関の扉が開いた。そこから顔を見せたのはお茶会の帰りの ような紫の着物姿も似合う佳人――木月八重だ。  その姿が見えるや否や、源一郎はひとこと。 「腹が減った」  あまりにぶしつけなその朝の挨拶に、しかし八重は不快を示すことなく控えめに微笑ん で、自分が手にしたビニール袋を掲げてみせた。 「おむすびでよろしければ」 「さすが八重じゃ。良くわかっとる!」  『京樽』とプリントされたビニール袋を持って八重が家に上がると、源一郎は当たり前 のようにフローリングの床にあぐらをかいて座る。その前に八重が風呂敷を敷いて、取り 出した十個の握り飯を置いた。  すぐさま手を伸ばしかけ、源一郎が止まる。それに、八重が目をぱちくりさせた。 「どうなされました?」 「ふむ……宗助を待つ」 「それがよろしいですね」  八重が目元を優しくし、「お召し物を」と和室から黒の開襟シャツとズボンを持ってく る。連日の黒着用だが、深い理由は無く単純に源一郎の好みだ。  服に袖を通していると、風呂上りで火照った宗助が戻ってきた。こちらは他人の家とい う配慮なのか、さすがに下着一枚ということはない。八重を見つけると、宗助はようやく 動き始めた頭で誰が部屋のゴミを片付けたのかを知ったのか、朝の挨拶ついでに言う。 「おはよう、八重ちゃん。ゴミ、ありがとう」 「おはようございます、宗助くん」  八重も微笑んで軽い会釈を返し、朝に相応しい笑顔があるというのならそれなのだろう、 と宗助は見惚れながら思った。独特の、笑顔と言うにも弱い本当に微かな笑み。何かに特 別にはしゃぐわけではない、日常の中の何気なさを形にしたような挨拶の笑みだ。 (綺麗になったなあ)  板の間に正座し隙の無い佇まいを見せる八重は、着物美人を地でいっている。その整っ た顔立ちや落ち着いたやわらかな受け答えは、同い年とは思えないほど『大人』を感じさ せる、他の知り合いの異性たちとは一線を画すものだ。  それから、と今度は握り飯を手にとって具の表示を眺めている青年を見る。 (格好良くなったなあ)  再会したやんちゃ坊主は、どこに出しても恥ずかしくない偉丈夫となっていた。均整の 取れた肉体はもちろん、それだけは子供の頃から変わらない古風な態度が独特の魅力を放 っている、生命力が全身から溢れ出ているような男だ。 (俺に勇気をくれる二人)  日本を恥の文化だと美しく表現した者がいる。他人の目を気にし、恥をかかないために 正しい行いをとろうとする、一種の倫理観を表現した言葉だ。しかしそれは日本人は恥を かくことを恐れ、何かにつけて消極的になりがちということもである。  宗助も例外なくその文化に染まっており、例えば街中でヤクザにからまれている者がい たら、まずは可哀想だと思う。助けたいと思う。だけれど、自分が痛い目にあうことや、 『おせっかい』をして恥をかくことを恐れて、それができない。何をするのが正しいこと なのか、正義なのかはわかっていても、それをするための勇気が出てこない。  正しいことをするための恥の文化が、恥を恐れるあまりに臆病になる方向に作用してし まう。  ――否、もしかしたら、痛いことにあうかもしれないという、他人よりも自分を優先す る卑怯な考えを文化のせいにしているだけかもしれない。  しかし。  源一郎と八重に関することでは、正しいことをしない恥が他の全てを上回る。二人に対 して恥をかくことこそ最優先で宗助が避けるべきことであり、倫理観だ。  二人に見捨てられないためなら、痛みなんて怖くない。自分より強い相手に大衆の前で 無様に敗北する恥ずかしさなんて、問題じゃない。昨日、確認したばかりだ。  それが宗助の恥の文化なのである。  だから、そんな大好きな二人が自分を頼って東京にやって来たことに、宗助は握り飯を 受け取りながらさりげなく尋ねた。 「東京暮らしをするって話だけど、生活費とかは自分稼ぎ?」 「もふ」 「長男が道場を継ぐ前に自活するのは小笠原流宗家の伝統で、本来は全国を武者修行する というものだったらしいです。ですが、近年お郷と外界に格差が出てしまったため、生活 力を養うという意味での一人暮らし修行に変わったという話です」  握り飯をいっぱいに頬張っていた源一郎の代わりに八重が説明する。  つまり。 「世間を知って来いってこと?」 「簡単に言えばそういうことですね」 「う〜ん……なんだか納得できるような」  と、宗助は指についたご飯粒を食べる源一郎に苦笑する。その視線に、源一郎が自分用 に確保した四つの握り飯を後ろに隠す。 「なんじゃ、やらんぞ」 「いやいや」  手をハタハタと振って、宗助はやっぱり納得できると頷いた。小笠原流の面々、という か宗助も良く知る小笠原家の父や祖父たちも、田舎で純粋培養されたこの青年に世間とい うものを見せておく必要があると思ったのだろう。 「それで、八重ちゃんは引越しの手伝い?」  確か一歳年下の弟もいただろうに、と思って訊くと、 「いえ。私は御曹司のお目付け役としてここにご一緒します」 「は?」  なんでもないことのように八重が言い、宗助は目を丸くした。  おや? 「それって、ここに一緒に住むってこと?」 「おう。八重がいると便利じゃなからな、正直助かる」 「え? え?」  源一郎まで当たり前のように頷いたので、自分が何か間違っているような気がしてくる。  それは年頃の男女にとってはなかなか大問題なような、魅惑的なような、そういう響き の言葉やら状況であるような気がするのであるが。  おや? 「それって……二人が同棲するってこと?」  恐る恐る確認すると、やはり二人はごく普通に肯定するのだった。 「おう」 「簡単に言えば」  と。  その余りにも平然とした様が、自分の知らない十年の歳月に裏打ちされたものなのか、 それとも田舎ならではの素朴さからのものなのか。 (う〜ん……わかりにくい)  都会育ちの宗助には、判断がつかなかった。  ともあれ、宗助が源一郎を羨ましがりつつ、ちまちまと五目握り飯を食べていると、い ち早く食べ終わった青年が待ちきれない様子で言った。 「さて、今日はどこに遊びに行く、宗助? わしはアレじゃ。昨日見たでかいテレビがま た見たいぞ。映画じゃな、映画!」 「昨日? ああ、渋谷のアレは映画じゃないよ。宣伝とかのための大型ビジョンだよ」 「おう? そうなのか?」  どうやら渋谷ハチ公前の俗に三大ビジョンと言われるQFRONTの『Q’SEYE』、 大盛堂商事ビルの『スーパーライザ渋谷』、SHIBUYA109の『フォーラムビジョ ン』のことらしいと、宗助は誤解を解いておく。 「だが、でかかったぞ?」 「別に大きいから映画ってわけじゃ……それじゃ本物を見に行ってみる? 渋谷まで歩い てすぐだし、駅周りに映画館たくさんあるから」 「うむ。う〜、楽しみじゃのう。アレよりでかいのか。でかいんじゃろうなあ」 「いや、だから大きさは関係ないって」  関心は大きさそのものにあるのか、顔をわくわくさせながら源一郎が言うのに、宗助は 苦笑気味にそう言っておいた。源一郎は宗助よりも背も高く体格も良いのだが、何故か子 供のような落ち着きの無さがある。  自然、次のような言葉が出てしまう。 「はしゃぎすぎて、迷子にならないでね?」 「無論」 「うわっ。その顔、笑顔過ぎて心配だ……」  まるで年下の弟を相手にしているような、不思議な気分。  そこに釘を刺したのは八重だ。 「失礼ですが、あまり遊び呆けられても困りますよ、御曹司。渡されている生活費は一月 分ありませんので、早めにお仕事を決めていただかないと」 「あ、そうか。源一郎は職探しだっけ」 「あ〜、固いこと言うな。一日くらい良いじゃろう? な、八重。な?」  やんわりと言い含める八重に、源一郎は両手を合わせてお願いする。八重は思案顔で源 一郎と宗助を順番に眺め、やがて微笑みに近いため息を一つ。 「そうですね。久しぶりに宗助くんにも会ったことですし、今日くらいは構いません。そ の代わり無駄遣いを避けるためにこちらの映画をご鑑賞ください」 「……なんじゃ?」  着物の併せから八重が取り出したのは、懐紙ならぬ二枚の映画チケットだった。手渡さ れた源一郎が見れば、どこか雪国を背景に燻し銀な魅力のある中年男優が薪を運んでいる シーンがプリントされている。  横からのぞきこんだ宗助は、見覚えのあるタイトルに思わず口を動かす。 「『マタパ』」 「なんじゃそれは?」 「アイヌの言葉で冬って意味だってさ。CMでやってるよ。八重ちゃんチケット買ってた んだ?」  流行の映画を見るんだ、という意外性をこめて尋ねたのだが、それに対する応えは否だ った。 「奥方が――御曹司のお母上が餞別にくださいました。母と一緒に選んでくれたそうです。 下見にこちらにもきたそうで」 「それか。母上が『都会だきゃっほーい』とか言いながら出かけていった時に見たという 映画は」  なるほど、と納得しつつ、宗助は脳を揺さぶった言葉にひとこと。 「きゃっほーいって、使う? 普通?」 「結構使うぞ、母上は」 「頻繁ですね」 「う〜ん……」  あっさりと流されてしまった。どうやら彼らにとっては日常的なことらしい。  しかし、わざわざ『二枚』用意されているチケットを、自分が受け取って良いのだろう か。宗助が悩んでいると、源一郎がさっさと一枚を彼に渡してくる。  仕方なく受けながらも、宗助は正座のまま穏やかな表情を崩さない八重におずおずと尋 ねた。 「いいの、かな?」  少し臆病な問いかけ。  すると、八重はこれ以上無い満面の笑みで言うのだった。 「ええ。私は私でやることがありますから、お二人で楽しんできてください」  本当にいい子だなあ、というのが宗助の素直な感想だった。                 ※ 「なんだか甘えすぎじゃない?」 「そうか?」  六階建てのマンションを下り、恵比寿と渋谷を結ぶJR山手線を横目にできる通りに出 た二人は、向かって左手側にある恵比寿駅ではなく、右手側となる渋谷駅方面へと移動す ることにした。  駅側には先程八重が握り飯を購入した『京樽』などの店が連なっており、電車を使えば 五分もかからずに渋谷に着くのであるが、地理を把握したい源一郎が徒歩を希望したので ある。 「無駄遣いできないからってチケットくれたのに、結局拝み倒してお小遣いまでもらっち ゃって」 「金が無くてはメシも喰えんじゃろうが」 「そりゃそうだけど、それだったら俺が奢るのに」 「寿司を奢られよう」 「決定!?」  手を合わせてご馳走様をする黒服の青年に、宗助は額を押さえて空を仰ぎ見た。左右を 建物に挟まれた道から見える細長い空には雲一つ無く、隣を歩く青年を思わせた。  カラッと晴れ上がっていて、湿り気の欠片も無い。 「ははは! これで昼飯代が浮いたな。甘えすぎなら、その分で八重に土産でも買ってや ればいいじゃろう。饅頭とか、饅頭とか、饅頭とか」 「饅頭以外の選択肢無し!?」 「八重じゃしなあ。あれは饅頭女じゃぞ?」 「まんじゅうおんな?」  思い浮かぶのは、ほっぺたをつやつやさせて巨大な饅頭に頬ずりする無邪気な着物美人。  ――いや、それは無いだろう。  つまり。 「気兼ね無くなったところで、今日は思い切り遊ぶぞ! きゃっほーい!」 「う、うわー! 使った!? 恥ずかしい台詞使ったー!?」  馬鹿騒ぎしながら、肩を組まれて宗助は人通りの多い街を歩く。それはなかなかに羞恥 心を刺激されるものだったが――。  不思議と、不快ではなかった。                 2  ドキュメンタリー映画『マタパ』は良作であると宗助は思う。  北の大地で自然と戦いながら力強く生きる人々。動物たちが見せる厳しくも公平な世界 の摂理。純粋な、生きるということの難しさ。  それらを地味目の出だしからは想像もできない、静かな中にメリハリのある展開性で、 見る者を退屈させずに九十分間画面に釘付けにする。 「いい映画だったね……」  ため息をつくように、宗助は隣に座る源一郎に呟いた。ここ最近映画など見に来ていな かったが、これは良作だと胸を張って言える出来だった。 「源一郎?」  反応が無いので横を見て、宗助はぎょっと目を丸くした。源一郎は映画館の赤い椅子に どっしりと座り、口をへの字にして、いかつい顔のままたっぷりと涙を流していた。胸を 張り、堂々として、そのままの姿で感無量の視線を流れるスタッフロールに向けていた。 「――良いものを見た」  ひとこと。  それが彼の感想だった。  パンフレットは、当然購入したのだった。                 ※ 「『この大地には生きようとする者しかいない。勝者は敗者の魂の火を食して冷たい冬を 越していく。食べられないものはない。例え血の一滴、毛の一本であろうとも、そこには 生きる意志がこめられているのだから』……くぅ〜あぁ〜っ!」 「み、見てる。みんな見てるってば!」  いたく気に入ったらしい語りの一部を引用して頭を掻きむしる源一郎に、宗助は慌てて 制止をかけた。渋谷ハチ公口から道玄坂に入って少し、SHIBUYA109と道路を挟 んで向かい側にある地下二階地上十階の大型ビル、シネタワーの前は日曜日に行き交う人 人で溢れている。その中での雄たけびは、注目を集めるに充分だ。  だが源一郎はそんなことなどお構い無しに、映画のポスターの前で両手を広げる。 「うむ、感動した。映画とは良いものじゃな!」 「そこまでかあ……そう言えば、初めてだもんね。初めてでこれって運いいよ」 「『春は待つものではない。我々は、春に向かわなくてはならない』」 「それはもういいから」  玩具売り場の親御さんの気持ちがわかる気がした。  携帯電話を取り出して確認すると、すでに時間は十二時に差し掛かろうとしていた。朝 が握り飯数個だけだったので、そろそろ空腹を感じてくる。それは源一郎も同じようで、 シネタワーのフロアガイドを見る目が怪しい。食事ができる店も豊富なビルだ。  わかりやすいなあ、と微笑みながら、宗助は提案。 「ご飯にしようか」 「寿司じゃな」  地下二階の店を指名する。 「覚えてた……」  そうして二人が移動しようとした時だった。。  不意に、源一郎が宗助の腕を引いた。いきなりのことに宗助はつんのめり、力任せに彼 の背後に庇われる。 「な、なに?」 「都会は物騒じゃな」  いきなりのことに目を白黒させていると、低い声で源一郎が呟いた。視線は、近くに立 っていたスーツ姿の男に向けられていた。  ――上質のスーツを着崩した、身長百八十センチの源一郎よりもさらに十センチは背の 高い男。 「あれ?」  特徴的な白髪が印象的なその人物を、宗助は知っている気がした。それが誰だか思い当 たる前に、相手が口火を切る。 「自分に向けられた殺気には無関心でも、友人だとそれですか。鈍いのかと思いましたよ」 「なんじゃお前は」  どこか皮肉げな口調に、顔をしかめて源一郎が促すと、白髪の青年は「失礼」と懐から 名刺ケースを取り出した。二枚をそれぞれ源一郎と宗助に差し出す。 「EDGEのプロデューサーの獅子殿という者です」 「あだるとビデオならいらんぞ」  ――――。  ――――。  ――――。  その時の脳味噌が真っ白になった沈黙を、宗助は一生忘れないと思った。  何がどう転んでそういう受け答えがあったのか、理解したのはたっぷり一分ほど経って からだった。思わず、源一郎の耳元で小声で叫ぶ。 「エッチじゃないよ。エッジっ。ストリート式異種格闘技戦の主催団体!」 「お〜、新聞で見たことがあるような気もするな」 「……ご存知とは光栄です」 「あー! すみません、すみません。こいつ田舎から出てきたばっかりで!」  もはや常識レベルで有名な団体への知識の欠如を隠しもせずに源一郎があっけらかんと 言うと、プロデューサーだと名乗った獅子殿がさすがに複雑な顔で会釈した。それこそ格 闘技ファンにとっては雲の上の存在である人物のいきなりの登場に、宗助は動転してぺこ ぺこと頭を下げる。  が。 「なんじゃ、男が簡単に頭を下げるものではないぞ」 「うわ、自分はお小遣いくれって八重ちゃんを拝み倒したくせにっ」 「む……ねだるのと、へりくだるのとではまた違うじゃろう」 「子供じゃないのにねだらないっ」 「……話をしていいでしょうか?」 「す、すみません。どうぞ」  幼馴染二人の賑やかな掛け合いに獅子殿のやや冷たい声が水入りし、宗助はサッと青く なって直立不動になった。対して、源一郎は未だに警戒を解かない目で白髪の青年を見据 える。 「嫌われましたか?」 「やる気も無いのに危険な気を出せるような輩にロクな奴はおらん」 「それには同感です。では本題に入りましょう。――とは言っても、君の昨日の喧嘩につ いてです」  あくまで物腰は大人の態度で、獅子殿は用件を告げた。  それは次のようなものだ。 「実は、昨日の喧嘩をうちの撮影班が撮っていまして。EDGEの横で起きた実際のハイ レベルなストリートファイトとして配信したいのですけど、まず本人の許可が欲しいんで す。君だけではなく、そちらの君にも」 「俺ですか?」  すっかり源一郎だけの問題だと思っていたところに声をかけられ、宗助は首を傾げて疑 問を表現した。しかし説明されてすぐに納得する。 「自分が喧嘩でやられているシーンを全国配信されるのは嫌だという人もいるでしょう?」 「それはまあ……」  だが自分の敗北無しに源一郎の勝利も輝かないだろう、と考えて了承の頷きを返す。  次に返事を求められたのは源一郎で、彼は「ふむ」と顎に手を当てて考え込み、 「テレビか……」 「ネット配信ネット配信」  何やら勘違いしているようなので、すかさず訂正しておく。宗助が手短にインターネッ ト上での番組配信について説明すると、源一郎は特に悩みもせずに合意した。 「減るものでもなし」  というのが答えだ。  二人の答えに獅子殿は満足し、それだけで去るのかと思ったら、興味ありげに宗助を見 て言う。 「次に、ビジネスの話になるんですが、君――すみません、名前は?」 「小笠原源一郎」 「小笠原くん、EDGEに正式に参戦してみませんか? これはスカウトです」  スカウトと聞いて宗助は源一郎をうかがったが、彼は怪訝そうな顔をするだけで状況を 理解してはいないようだった。それでも獅子殿は構わないのか、続ける。 「私も君の戦いは見させてもらいましたが、EDGEには君のような古流の選手の参加は 非常に少ない。実はそれはEDGEに限らずルールが近代格闘技用に調整されている格闘 試合全てに共通することで、メディア露出するエンターテイメント性を含んだ試合に古流 の選手が出ないことで、世間での古流への認知度が低くなっているのは残念なことです。 一部のマニアがその実質を知るのみ、が現状ですから」 「そうですね」  その辺りのことは自分も常々思う宗助は何度も頷いた。  古流と言わず、空手やキックボクシングなどの打撃系を抜かした格闘技は未だに大掛か りなテレビ放送の前に姿を現さないのが現状だ。テレビ放送されるキックボクシングルー ルや総合格闘技ルールの、いわゆる獅子殿の言うようなエンターテイメント性のある試合 に、『ルール』レベルで適さないからである。  例えば、ボクシンググローブを着用する打撃系の試合に、相手を掴むことが前提の柔道 家が出場するだろうか。答えは否で、そうした柔道家は相手を掴めるオープンフィンガー グローブを着用する総合格闘技の試合に出場することになる。それだけで、出場できるテ レビ露出試合が一種類減るのである。  そうした制約を突き詰めていくと、人の目に触れる格闘技というのは本当に少なくなっ ていく。背面から後頭部を叩くことを禁じ、金的への攻撃を禁じ、そして武器の使用を禁 じる。定められたルールの中で十割の力を出せる格闘技と、五割の力しか出せない格闘技 があるならば、同じ程度の力量ならば十割の格闘技が勝利するに決まっているのだ。 「ルールに負けるのが不本意で参加しない流派も多く、また中には試合のような模擬戦を 繰り返すと本番――実戦で身体が動かなくなるからと参加しない流派もあります。どれも 納得できる理由ですので説得が実に難しい。ですが、EDGEは違うと私は主張します」  もちろん、と彼は言う。 「もちろんルールはあります。ですがそれはあくまで戦いを速やかに続行するためのルー ルであり、ある意味選手を逃がさないためのルールです。後は、銃器と刃物さえなければ 何をしようが結構。警棒や木刀の使用も自由です。最低限の枠はありますが、できる限り 何でもありの、いわゆる路上ルールです。少なくとも、古流の術利で相手を制するのを妨 げるものではありません」  だが、それでも参加格闘技の数が少ないことは獅子殿が明言している。宗助も配信を見 ていて思うが、結局強い人気選手は空手やキックボクシング、それから総合格闘技畑の選 手ばかりなのだ。  マンネリを危惧しているのだろうか、と宗助は獅子殿の意図を読む。 「私はそうしたEDGEの中で戦ってくれる、ハイレベルな古流の選手を探していたんで すが、そんな時に君――小笠原くんの戦いぶりを拝見させてもらいました。それでこうし てお話をさせてもらっているんです。もっとも、今ここで見かけたのは偶然ですが」 「……ふむ」  それまで黙って聞いていた源一郎は、一通り理解はできたのか獅子殿を見て顎に手を当 てる。 「つまり、わしに試合に出ろ、ということじゃな?」 「そういうことになります。もちろん正式な選手となればマッチメイクの関係で実力に見 合ったファイトマネーをお出しします」 「うわあ……凄いよ、源一郎。あのEDGEからのスカウトだよ? どうする?」 「どうすると言われても、難しいのう。実物を知らんし、何より八重が怒る」 「八重ちゃんが? どうして?」  どちらかと言えば源一郎よりも浮ついている宗助だったが、その言葉を聞きとがめて尋 ねる。すると源一郎は渋い顔で言うのだった。 「わしの拳は鬼殺しじゃからな。みだりに人に振るうものではないということじゃ。八重 はそういうしきたりにうるさいからのう」 「古流のしきたりということですか」 「おう。そこなんじゃが、さっきから気になっておるんじゃが、わしは古流とかいうもの なのか?」 「どういうことですか?」  唐突に源一郎が言い、獅子殿が初めてその表情をわずかに崩し、困惑を見せた。なんだ か彼の言いそうなことがわかり、宗助は心構えをする。  結果。 「古流ってなんじゃ?」  現代に息づく古流伝承者は、自分が身に宿す技術が『古い』ものだとはまったく思って いないのである。                 3  とりあえず実際にEDGEを見てから判断して欲しいと獅子殿に言われ、昼食を終えた 二人は渋谷駅ハチ公口前に行くことにした。土日はEGDEの興行が昼間に行なわれてお り、だいたい午後一時から三時までの間に各試合は進められている。  まるで複数の浮き島を結ぶ橋のような横断歩道を渡りながら、宗助は人波の間からすで に駅までに大きな人だかりができているのを確認した。道行く人々はそこをチラチラと眺 め、ある者は足を止め、ある者は興味なさそうに足早に去っていく。  そうした路上ライヴと同レベルの扱いをされているのが、現在では全国知らぬ者が無い ストリート式異種格闘技戦――通称EDGEだ。 「そう言えば、昨日も何やら賑やかにやっておったのう」 「源一郎が見たのは、マッチメイク試合の間にある自由参加の試合だよ。有名じゃない選 手とか、喧嘩自慢が名乗りを上げて戦うってやつ。そっちは賞金とかないんだけど、いい 試合とかはホームページで配信されるし、これから売り込もうって人にはいいかもね」  そこは都会者の強味というか、事情に疎い源一郎に対して宗助は説明役に徹することに した。何せ、源一郎はそのEDGEのマッチメイクを行なう獅子殿プロデューサーに目を かけられたのだ。友人としては、この機会をふいにするのはもったいないと思ってしまう のである。 「EDGEでランキング上位になれば、世界レベルの格闘家って認められるようなものだ よ? いきなりそこまでってわけにはいかないだろうけど、今から試合を積んでいけば源 一郎なら期待大だって」 「う〜む、期待されるのは悪い気はせんな」  勢い込む宗助に、源一郎は余裕をもって白い歯を見せた。大きな口は、ついさっき二人 前の寿司を平らげたものだ。 「まあ、祭りと思えば気軽に参加する分にはかまわんじゃろ。自由参加もありじゃったな。 そちらで楽しませてもらおうか」 「選手登録はしないの?」 「わしは明日から職探しじゃぞ? 毎日遊んでおるわけにもいくまい。八重はああ見えて 怒り出したら手がつけられんぞ?」 「そ、そうなの?」  むう、と眉間に皺を寄せて言う源一郎だったが、宗助には怒った八重というのが想像で きなかった。 (怒る? あの八重ちゃんが?)  幼い頃、クラスで一番大人しかった少女を思い出す。成長した今も、清楚を代名詞にす るかのような佇まいで、我が侭を言う源一郎に対してもたしなめる程度のことしかしない。 「……仏さまみたいだけど」 「見ざる、聞かざる、言わざる。究めとるぞ」 「む、無視攻撃ってこと」  それは静かな怒りで怖いかも、と苦笑する。どうせ源一郎がやんちゃし過ぎたんだろう なあ、とわかってしまうのが笑い話だ。  そして「八重〜、八重〜」とかまって欲しそうにしている青年の姿だけは、たやすく想 像できてしまうことも。 (無視されるの、嫌いだったもんな)  十年も前の小学生時代の思い出は、この幼馴染とのことばかりだ。  そのように雑談しながら、人波を掻き分けてどうにか試合が見える位置まで進むと、 「うぉおおおおおお!」 「えっ!?」  もつれあった二人の巨漢の背中が目の前に迫り、宗助は慌てて身をかわそうとした。し かし、無理矢理人の間に割って入ったために、左右は塞がり後ろも行き詰まっている。 「うわっ」 「『りんぐ』とやらは無いのか?」  言うが早いか、宗助の頭を上から掴んで下げさせ、後ろにいた源一郎が前に手を伸ばし た。タックルを喰らって倒れこんでくる広い背中を、その手で受け止める。  その、計二人分の体重に対し、 「ぬんっ!」  一瞬の気合。筋肉の上にわずかに脂肪を乗せた百キロはありそうな選手が、今度は前に 押し出されてたたらを踏んだ。タックルを成功させたはずの選手はありえない位置から押 し返されて驚き、倒されたはずの選手に逆に上に乗られて地面に倒れ伏した。 「ら、ランバージャックデスマッチじゃないんだから」  そこから馬乗りになった選手が数発のマウントポジションでのパンチで相手からギブア ップを奪い、試合は終了した。他の公式試合ならばありえないが、EDGEは観客もロー プなどと同じ試合場のオブジェクトとして扱われているので、このような続行も有効なの だ。  それこそ宗助が呟いた、カナダの木こり(ランバージャック)を起源とする、選手が逃 げないように人垣を作り、逃げる選手を無理矢理試合場に押し返す野蛮なファイトに近い ものがある。 「おーきに!」  金色に染めた髪を汗でびっしょりにしたプロレスラーが、宗助にウィンクして投げキッ スを贈る。それを見た周囲は笑いに包まれたが、次の試合の合図にすぐに注目は別に移っ た。 『次の対戦カードは皆さんご存知、昨年の誠神会館全国大会優勝――上原皆二(うえはら ・かいじ)。ランキング十三位!』  マイクを持った司会者がそう言うと同時に、脇で控えていたスタッフがラジカセのスイ ッチを入れて選手のテーマ入場曲が流れ始める。誰もが知っている一世を風靡した海外の 有名ロックバンドの歌に合わせ、人込みの割れた通路を通って青いジャージ姿の選手が中 央に進み出た。  髪をざんばらに伸ばしっぱなしにした、不精という印象の男だ。顎には山羊のように長 い髭を生やし、こけた頬には陽気な笑みが浮かんでいる。ぎょろっとした大きな目が自分 を囲む観衆を見渡すと、彼は感謝感謝とでも言いたげに両手を挙げて歓声に応えた。 「上原先輩!? 昨日の今日で!?」 「お、知り合いか?」 「う、うん。誠神会館って、俺の通ってる道場だよ。先輩はそこの全国優勝の人。……昨 日は源一郎の家に泊まったから配信見てないけど、もしかしなくてもノーダメージで瞬殺 だったのかあ」  呆れたように宗助がぼやく。上着を脱いで素裸の上半身をさらす上原は、天才の名を欲 しいままにする強豪だ。EDGEの他にもいくつかの格闘技ルールで好戦績を示す彼は、 実際のところまだ二十五歳の若手である。  身長にして源一郎と同じ百八十センチ。だというのに体重が百三キロと重めなのは、盛 り上がるような広背筋のせいだ。背骨の部分が深い谷になるように左右バランス良く鍛え られた背中は、まるで仮装用の肉襦袢でも身につけているかのようで、思わず宗助は唾を 飲む。空手の突き技――パンチ力には様々な技術的要因が絡むが、やはり拳を打ち出すた めに使用する背筋が鍛えられていることは威力の底上げに繋がる。その異様に発達した広 背筋は、上原の秘めた破壊力を雄弁に物語るものだ。 「へっへー。一分ね、いっぷ〜ん」  持ち前の明るさで宣言すると、今度は怪獣映画のテーマ曲が鳴り響いて対戦者が向かい 側に現れる。  そちらはタンクトップシャツにスパッツという格好の男で、上半身よりも下半身の筋肉 が目立つ選手だった。丸太のようにと表現できる太股は見事のひとことだ。 『対するは、連戦連勝。現在EDGEで負け無しのアマレスラー。次回五輪金メダル候補 ――田丸慎(たまる・しん)! ランキング三十八位!』 「なんじゃ、ずいぶん数字に差があるのう」  源一郎がボソリと呟くと、 「ランキングは完全に入れ替え制だからね。他でどれだけ有名な人でも、EDGEでラン キングが上位の人に勝たないと良い数字はもらえないんだ。田丸選手はEDGE五戦目で、 今回初めて二十位以内の人とやるんだよ。俺が見るところだと、実力的には十分あるとお 思う」 「良い勝負ということか?」 「多分。贔屓入れると上原先輩の勝ちだと思うけど、簡単じゃないと思う」  物知り顔で宗助が予想を含めて伝えると、源一郎が「ふむ」と興味深そうに二人の選手 を見た。自分と同じほどの背丈の空手家に、やや低いが俊敏そうなアマレスラー。自分で あればどう戦うだろうかと考えているのかな、と宗助は想像する。  だが。  開始のゴングが鳴ると同時に観客はどよめいた。アマレスラーがまずは様子見と相手の 周りを旋回しようとしたところ、空手家がいきなり距離をつめて拳を突き出したからだ。 「ほうっ」  源一郎が感嘆の声を上げる。それがその奇襲をかけた上原の背筋の凍るような正拳突き に対してか、それとも頬のすぐ横を掠めながらもかわした田丸に対してかは宗助にはわか らなかった。二人とも凄かったからだ。  田丸はそのまま相手に組みついて自分の土俵に持って行こうとしたが、上原が近距離か ら腹を狙った下突きを繰り出したので両腕を交差させて受け止めた。  目を見開く。 「な……ん!?」  腹への重い圧迫感と同時に、八十キロ以上はある田丸の鍛え上げられた身体が後ろにズ レた。二人の間にわずかな間合いができたと思った瞬間、上原が景気の良い声を発する。 「行・く・ぜ!」  右の正拳突き。田丸は首を横に倒してギリギリで避けた。  左の正拳突き。今度は両腕で顔を庇って受けた。  右の中段突き。無防備な胸に突き刺さって肺の中の空気が搾り出された。  左の下突き。肋骨ごと内臓が抉られるような痛みが脳天に突き抜ける。  右の正拳突き。苦しみで跳ねた顔に、分厚い拳が迫る。 「が……っ!」  頭蓋ごと叩き割られそうな硬い拳を振り切られ、田丸の頭が、全身が後ろに弾けた。無 意識に太い両足をふんばって倒れるのを拒否し、両腕を広げて抱きつくように前に出る。 「タックルが入るっ」 「いや、雑じゃ。寝ておる」  半ば気絶しながらのタックルに、上原のつま先を使った前蹴りが突き刺さる。長い足が 槍のように腹を打ち抜き、届かなかったアマレスラーの腕は何も無い空間を掻き抱いた。  ――倒れる。  勝者は、人差し指を立てて叫んだ。 「いっぷーん!」  爆発するような拍手がその場を呑み込んだ。  あまりにも早い決着。あまりにも圧倒的な勝利。それが同門の先輩ということもあり、 宗助は感激に全力で両手を叩き合わせた。胸が高鳴るほどの強さ。  これを見たくて、人々は集まるのだ。一方的にしろ、接戦にしろ、心を熱くしてくれる ものを求めて。  源一郎も驚いたのは同様のようで、口元に笑みを浮かべて言う。 「呑み込みおった。波のような男じゃな」 「お、わかるんか、兄ちゃん」 「え? あ……し、志村選手!?」 「おーきに。わいも有名人やな」  後ろから会話に割り込んだ巨漢に、宗助が目を丸くする。先程の試合で宗助たちの方に 倒れこんできた金髪の選手だ。  確実に百九十センチは越えている身長に、ゴムでも詰め込んだようなはち切れんばかり の筋肉の鎧を装備した青年である。そのせいか、身体の表面の印象は筋肉で丸い。それだ けの肉体派だというのに顔は人の好さそうな面長タレ目で、長い金髪を後ろで束ねて尻尾 にしている。身体つきまで観察できるのは、試合上がりの彼がまだ上半身裸だったためだ。 「上原の奴、組まれたらやばい思て一気に自分のペース押し付けよったわ。きわどいで〜、 あの下段突きか? あれが上手いこと入らんかったら、最初のタックルで終いや」 「下突きで突き放せる自信があったんじゃろうな。ビビらせて対処が入る前に手数で圧倒 する。しかもあれだけの腕力自慢では、たまらんな」  顎鬚を整えるパフォーマンスをしている上原を見遣り、源一郎はそう評する。まったく だ、と大男は一緒に頷いた。 「アイツの細かいパンチはホンマきついで〜? 受けた手の上からズンときたわ。それで な、わい一発投げるまでに肋骨三本持って行かれたんやで? 大損やん、それって。シャ レにならんわ」 「あの男とやったのか」 「確か時間切れ引き分けでしたよね?」  興奮気味に宗助が身を乗り出す。 「あの試合感動しました! 大損って言いますけど、バックドロップ一発でチャラだった じゃないですか。ダメージは互角でしたよ! 「おーきに。なんや坊主はずいぶん観とるみたいやなあ。あの頃のわい、ぺーぺーやで?」 「そんな! 志村さんは一般参加の時から注目されてましたよ。デビュー戦が、ラリアッ ト一発……凄すぎでしたっ。そんな人が、どこにも所属していない大学生だなんて、ED GE人気の火付け役の一人じゃないですか」  ファン丸出しで、宗助は語る。それを聞いて源一郎も上から下まで志村を眺め、怪訝そ うに尋ねる。 「大学生?」 「まあ、うちは親父おらんわりにガキの多い家でな。わいガキの頃からこういうの好きや ったんけど、道場なんぞ通っとる金なかったんや。それでかーちゃんの行っとった現場の 砂袋とかな、ああいうのマネっこで蹴ったり叩いたりしとるうちに身体ばっかりでかくな ってな……っと、ええか? ここからが泣き所やで?」 「うむ」 「そういう趣味は横に置いておいて、かーちゃんに楽させたるために、わい高校も大学も 特待生入学したんや。頭ええんやで? 本当やで? それでまあ、上京して一人暮らし。 わいはそれまでと同じで、授業無い時間はバイトして仕送りするつもりやった。そこに、 かーちゃんが言うたんや」 「うむ」 「もーええよ。お前の好きなことやり、ってな」 「うむ、良き母上じゃな」  ぐっと拳を握り締める志村に、源一郎も何度も頷いた。なんだか息の合った二人だなあ、 と宗助は思いつつ、知られざる一流選手のエピソードに耳を傾ける。 「わいのやりたかったことって格闘やん。せやけど、どこぞの団体入っとったら今度は大 学の授業が出られへん。わい、格闘好きやけど、大学出て会社入ってかーちゃんに楽させ たげなあかんのよ。『一流商社マン』って奴や。素人がこの歳で格闘始めて、充分な稼ぎ 出せるまでいけるとは思っとらんかったからな」 「うむ、武は一日にしてならずじゃ」 「大学で格闘サークルでも入ろうかとか思っとった時、わいはここで見た。EDGEや。 しかもちょうど客の中から参加者探しておってな」 「出たんじゃな、当然」 「せや。そして気がついたんや」  一拍の間。  白い歯を見せる笑顔。 「わい天才やったわ」  一撃勝利のデビュー。それからの連戦勝利。幼い頃からのトレーニングは、偶然にも彼 にプロ以上の体力と破壊力を与えていた。そして勤勉な脳は格闘技を研究し、その技術を 急速度で覚え、鍛え上げられた肉体はイメージ通りにその技を実践した。  天才というのは言い過ぎではない。学んだ技を短期間で身につけるだけのセンスを、彼 は持っていたのだ。 「ここに来て、わいの天才は花開いた。それもこれも背中押してくれたかーちゃんのおか げや。だからわいは、EDGEに選手登録した。勝ちまくって金貯めて、かーちゃんやク ソガキどもにえーもん食わしたる。そう決意したんや」 「うむ! おぬしの才は母上を助けよとの、親父殿からの授けものであろう。良き話を聞 かせてもらった」 「おーきに。おーきにやで、兄ちゃん」 「うーわー……」  意気投合してお互いの肩を叩き合う男たちに、宗助は知らず拍手していた。この二人は 何か同調するものがあるらしい。それは男気だとかそういうものかもしれない。  しかし、何故いきなり志村がそうした話をし始めたのか、疑問に思うところもあった。 それが顔に出たのか、志村がニッと笑って試合場を挟んで反対側にいるスーツ姿の青年、 獅子殿を指差した。 「――て、そういう話でもしてその気にさせてくれってプロデューサーに頼まれたんや。 成功報酬で五千円」 「そ、そうなんですか」  ガクッと肩を落として宗助は獅子殿を見る。彼は隣に擦り寄ってきた小さな少女を邪険 に振り払っているところで、その視線には気づかなかったようだ。  少女の姿に、志村が短く口笛を鳴らす。 「『スパイラル』の登場やな。今日のカードには名前無かったやん。ホンマ、プロデュー サーにべったりやな」  声を潜めて、宗助に囁く。近づいた有名人の顔に宗助は臆したが、 「あの二人、デキとるってホンマ?」 「え? え? え?」  質問の内容に頬を赤らめて動揺した。  少女――八巻明良は、十代半ばにしてEDGEランキング五位を定位置とするトップラ ンカーの一人だ。『スパイラル』の異名を持ち、そのアイドル並の容姿と荒唐無稽な空中 戦で人気を博しているが、確かにプロデューサーである獅子殿との間でそういう噂が絶え ない存在でもある。  五位から落ちないのは上位と戦わず、ほとんど二十位以下の相手としか獅子殿がマッチ メイクしないからだと陰口を叩く者もいる。 「だ、誰と誰が付き合っていても、俺は構わないと思いますけど」  とりあえず無難に言いつつ、頭の端で源一郎と八重のことを思う。  そういえば、この二人は付き合っているんだろうか?  心の端を掠めるような疑問は、しかしすぐにその片割れの声によって掻き消される。 「ふむ、少し遊んでみるか?」  その言葉を聞いて、志村がサッと高く手を挙げる。すると、向かいの獅子殿が合図を出 し、司会が高らかに言った。 『それでは、ここでチャレンジターイム! 観客の皆様がEDGE登録選手と戦い、その ランキングを奪うビッグチャンス!』  基本的にEDGEは登録した選手がマッチメイクに従って試合をするが、興行のどこか で必ずプロ以外の選手を参加させるイベントを組み込んでくる。それがEDGEならでは の『味』であり、志村のようにそこから人気選手にのし上がった者も何人かいる。  一般参加者同士で戦うことが普通だが、今回のようにランキング下位の選手との入れ替 え戦のような形で行なわれることも多々あり、本来ならばそうした者と戦う機会が得られ ない参加者たちにとっては、貴重なイベントだ。 (今回は誰だろう。ランキング四十から五十くらいだろうけど)  きっと様々な道場から挑戦者が集まっているのだろうと宗助は辺りを見渡す。思った通 り、明らかに身体を鍛えている若者が多かった。  そして、誰もが気になる選手名が発表される。 『今回のEDGEからの壁は、なんと! ただ今試合を終えたばかりの上原選手です!』 「嘘っ!?」 「申し分無しっ」 「わ、わあ!? げ、源一郎ぉー!?」  悲鳴じみた声が周囲から上がる中、顔を輝かせて進み出る青年に宗助は顔を真っ青にさ せた。志村も目をパチパチとさせており、 「そこまでして欲しいんか、あの兄ちゃん。上原の奴も、よくオーケーしたもんやな〜」  などと感心した。  意気揚々と人の輪の中に入った源一郎の姿に、悲鳴だった声が「お〜」という驚きの声 に変わる。誰もが尻ごみ足を前に踏み出さない中、むしろ気軽な様子で現れた青年に見覚 えのある者もいたのだろう。 「昨日のアレだよ。すげぇ奴」  そんな言葉の混じったざわめきに、宗助は真っ青な顔のまま自分の胸を手で押さえた。  高鳴る。  怪我の心配で? それもある。  勝利の期待で? それもある。  だけれどもっと深い場所、戦いの結果うんぬん以外の場所で、彼の胸は高鳴り、掌にじ っと汗が滲み始めていた。  ――源一郎がそこに立つ。  彼にとって気まぐれだろうが何だろうが、構わない。  それはとても『わくわく』することだった。 (俺の『神様』が本当はどれくらい強いか、今わかるんだ!)                 4 「もし勝てたら五万」  顎鬚を指で弄びつつ、上半身剥き出しの空手家は唇を尖らせた。 「『もし』って何だと思う? 『もし』? 『IF』? 『仮定形』?」  大仰に肩をすくめ、ため息をつく。  昨日から数えれば、プロの格闘家としてはありえない三連戦。だが、前の試合で無傷だ ったのは誰もが知るところだ。 「何だと思う?」  彼――上原は、目の前に立つ黒ずくめの青年に向かって問いかけた。  それに対し、源一郎は生真面目に応える。 「終わってもいない戦いの結果を断定するのを避けたんじゃろう?」 「おー、そーっすね。そりゃそーっすね。まあそりゃそうっすよ。そうさ。でもさ、そう いうふうに言われたら、帰れないっすよこっちも」  やれやれ、と上原は大儀そうに視線を白髪のプロデューサーに向けた。その無表情に、 チッと舌打ちする。 「気に喰わねぇツラしてやがる」 「同感じゃ」  朗らかに源一郎が笑うと、上原も少しだけ表情を和らげた。  二人とも初見ではあったが、 「昨日の、見たっすよ。うちの道場の馬鹿ぶっとばしてたの。爽快だね。格好いいよ、ア ンタ」 「世辞はいらんぞ」 「マジ、マジ。でもさ、知ってるっすか?」  ぱん、ぱん、とゆっくりと彼は両手を叩き合せた。そのパフォーマンスに、周囲の視線 が上原に集まる。  そうして、彼は指を一本だけ立てて、青い空に掲げた。 「次も一分ね、いっぷ〜ん!」  すると湧き上がる歓声と、幾重もの口笛の音。誰もが彼の勝利を確信する中で、彼は自 分が引きずり出した相手に告げた。 「オレ、アンタより格好いいっすよ?」 「はは! 宗助が贔屓するだけはあるのう。気に入った!」  あっぱれ、とばかりに源一郎は自らも右手を空に差し上げる。五本の指を広げ、自分の 心のような雲一つ無い空を支えるように。 「おぬしが空手日本一というのは聞いた。ちょうど良い。わしもな、まだ未熟ゆえに気に なることがある。親父殿にしばかれるこの身、さて、小笠原流とは、鬼殺しの拳とは、こ の日の本でどれほどの位置にあるのか」  拳を握る。  否、一本だけ残すのは人差し指。  静かな言葉の後、彼は天を突く人差し指の意味を叫ぶ。 「こちらも、一分じゃ!」  渋谷の街が揺れる。  怒涛のような、期待と嘲笑の入り混じった歓声。  最前列の席でその様子を眺めていた志村は、隣に立つ宗助に漏らす。 「た、たまらんわぁ……わいも出てえーか?」 「無茶苦茶になりますよ、それ……」  顔を引きつらせてそう言いつつ、宗助の視線は二人を離れない。それは他の誰もが同じ だっただろう。  一方は、全国に名を知られた有名選手。  一方は、誰一人その真価を知らない一般参加。  だというのに、何故か皆がその二人の勝負に固唾を呑んでしまっていた。  上原も源一郎に何か感ずるところがあるのか、感無量というふうに彼の宣言を受け取り、 大きく深呼吸した。 「なら、そろそろ行くっすか」 「うむ」  上原が構えた。  源一郎が見た宗助や喧嘩相手のものと良く似た、左拳が肩の前で、右手が鳩尾の前に添 えられたもの。両足は自然な肩幅で前後に開き、膝のやわらかいフットワークを重視した もの。伝統派の空手が他の流派に対応するために、破壊力を残しつつ素早く立ち回るため に進化した構えだ。  源一郎も構える。  こちらは周囲の者が見慣れない、弓を引くような異様な構え。開いた両足を中腰にし、 左半身を向ける極端なサイドスタンス。左手は真っ直ぐに相手に伸ばし、右手は見えない 弦を引き絞るように顔の横。 「八重には後で誤魔化しておけばよかろう」  そして。 「小笠原流鬼沓術宗家、小笠原源一郎――参る!」  試合開始を告げるゴングが高らかに鳴り響いた。                 ※  互いに一分宣言。見合う余裕などあるはずもない。  同時に間合いを詰めた二人のうち、しかしかなり手前で上原が横にステップする。 「ちっ」  伸ばされた源一郎の左手が強い圧力を感じさせていた。本来腕はガードのために身に引 き付けているもので、そこからパンチは飛んでくる。だが、最初から突き出された左手は、 まるでそこからさらに拳が伸びて飛んできそうな、背丈は同じなのに源一郎の方が間合い が広そうな印象を与えていた。  横に移動した上原を、源一郎は慌てずに自分を支点にして方向を変えることで追う。方 向転換の間、足の裏は地面からほとんど浮かず、バランスは一切崩れない。  そこに、腕よりも遠い間合いを選んだ上原が右のローキックを放ち、源一郎の左足を斜 め上から振り下ろすように蹴る。軸足にまともに入ればバット三本をへし折る蹴りは骨を 砕いただろうが、源一郎がわずかに足を浮かしたために、威力がわずかに殺される。 「ぬっ」  それでも充分な手応えに、上原が蹴り足を下ろさずに二発目の中段回し蹴りを放つ。  だが。 「ぐう!?」  蹴り足を左膝と左肘で挟み潰され、上原は苦痛に顔をしかめた。即座に源一郎が一歩前 に踏み出し、蹴り足の戻る前で体勢の崩れた上原の懐に飛び込む。  左肘が鋭角に曲げられ、突き出される。そこからの変化を承知している上原は、肘を支 点に鞭のように『上』から飛び出してくるハンマーのような拳を左手で受け止めた。  ずん、と鼻先で拳が止まる。 「お……りゃあ!」 「ぬおっ」  強引に、近距離から上原が右の拳を横振りに相手の腹に叩き込む。人体の内臓にまで達 する打撃に源一郎の身体がくの字に折れ、上原は凄絶な笑みを浮かべて叫んだ。 「死・ね!」  盛り上がった広背筋がうねる音が聞こえるような正拳突き。後の連打に繋がるその初撃 を、源一郎は前に出した左掌で正確に相手の拳を捉えて斜め下に叩き落とした。 「返すぞ」  低い言葉で、拳を叩き落した左腕の肘を鋭角にして上原に向けた形から再度の上からの 裏拳。拳を流された上原は、攻防一体のそれを頭を横に倒して避けたが、突き抜ける衝撃 が鎖骨を襲った。 「真っ直ぐに飛ぶ拳やない。刀の軌道に近い振り下ろす動きや。ヘッドスリップは無意味 やで」  志村が真剣にその戦いを見つめ、口早に言う。  その言葉が終わるよりも先に、源一郎の拳が『返』った。 「なんすかそれ……っ!」  拳を引かず、叩き込んだ状態から、肘を支点に今度は拳が『下』を回って上原の鳩尾を 打つ。息がつまり、口から泡を飛び散らして上原は地面を蹴って後ろに下がった。  源一郎の拳は、肘を曲げた状態から肩の動きと腕のしなりだけで鞭のように上下に打ち 分けられる。それは『パンチ』とは種類の違う別の種類の打撃技だ。  逃げる上原を源一郎が追う。上原がローキックでその足を止めようとするが、源一郎は 肉を切らせて骨を絶つつもりで右拳を固める。  瞬間、ローキックが膝を支点に跳ね上がってハイキックに変化した。意表を突かれた源 一郎が目を見開くが、蹴り足は止まらない。 「源一郎!」  凄まじい音がして源一郎の身体が揺れる。会心の蹴りを受けて膝が崩れ、地面に手を着 いて、 「ぬ、あああああああああああ!」  握っていた右拳で地面を弾くようにして立ち上がった。  ほんの刹那のダウン。  絶句した上原の顔面を斜め下から殴り飛ばし、そこで二人は両足で地面を踏みしめる。 「オレと打ち合うっすか!?」  馬鹿め、と上原が避けにくい胸を狙って拳を突き出そうとした時だ。  源一郎は、それから身を隠すように背を向けた。正確には、繰り出された拳を左手で掴 み、自分に引き寄せながら身体を入れ替えて自分の背中を上原の身体に密着させた。 「は?」  疑問。  上原が源一郎を後ろから抱き締めているような形。  直後、『肩』で顎を叩き上げられて上原は大きくのけぞった。 「そん……なの……っ」  パンチ、キック、タックル、サブミッション、どれでもない攻撃。  竜巻のように回転して放たれる裏拳を左腕で受け止め、ミシリと骨が軋む音に上原は悟 った。 「オレの拳受けた奴ら、こんな感じだったんすかね……っ!」  迫るのは凄絶な刃のような瞳。  反射的に、上原は自分が絶対の信頼を置く拳を打ち込んでいた。連打に繋げるものでは ない。拳を引いてから全力で打ち出す、本物の正拳突きだ。  それは顔の前で受けた左手を打ち抜いて、源一郎の頭を弾き飛ばす。掌越しに殴られた 源一郎は、唇の端から血の筋を垂らしながら言う。 「ぬう……っ。やはり、この拳は『いらん』な……っ」 「今度は……っ」  上原の拳の戻しに合わせて密着し、源一郎の左腕が上原の右脇の下に入る。そのまま肘 で彼の腕を跳ね上げ、開いた二の腕の内側に右手の人差し指と中指が突き刺さる。 「なん!?」  電気のようなものが指先まで走り、上原は理解不可能に困惑した。至近距離で相手の肘 が鋭角に曲がるのを見て、両腕で顔と腹を庇う。 (打たれる二点を両方とも潰す!)  つもりだった。  右腕は肘の部分が硬直して動かず、さらけ出された顔面に拳が埋まる。鼻血を噴き出し ながら、上原は腕の機能をほんの数秒だけ殺されたことを知った。 「ア、ン、タ……っ」  未知の技に対する恐怖よりも、してやられたという怒りの方が強い。上原の視線を受け る源一郎も蹴りと拳で顔の左半面を腫らした必死の形相だ。  動かない上原の右腕を取り、軽く内側に捻る。それだけで、上原の身体が上昇した。手 首を捻ることで肘、肩が極まり、関節を砕かないように反射が彼に背伸びをさせたのだ。 「ば――」 「おぉぉ!」  気合一閃して、弓のように引き絞られていた右拳が上原の腹を打ち抜いた。鍛え抜かれ た腹筋さえ無効化して、凄絶な威力が通り抜ける。  胃からこみ上げるものに喉を埋めながら、上原は前のめりに崩れ落ちた。しかし、先程 源一郎がそうだったように、左腕を着いて完全なダウンを拒否する。  まだ戦える。  そこに、源一郎が踏み込む。  何が来ても、もう上原は驚かない。寝技に来るのであれば、屈みこんだところを跳ね起 きて顔面を拳で砕いてやる。  しかし相手の顔は降りて来ない。  代わりに降って来た足の裏に左肩を踏み砕かれて、上原は自分の敗北を知った。                 ※ 「踏み……つけ?」  それを見ていた全員が、絶句していた。  およそ近代格闘技の決着では類を見ないその光景。凄まじい、地面に亀裂さえ生まれる ほどの、それは強烈な踏みつけによる決着だった。  静まり返ったそこで、勝者は空に人差し指を突きつける。 「一分じゃ!」 「げ、源一郎ー!」  宗助が絶叫に近い歓喜の声を上げた。それに呼応するようにして拍手が生まれ、それは 駅前にいた誰もが振り返るほどの、嵐のようなうねりとなった。 「すご……いって言うか、うわあ、源一郎だあ!」 「わ、わけわからん評価やけど、ホンマわけわからんけど、わかるわ、とんでもないのは」  志村がカラカラに乾いた唇を舐める。医療スタッフが即座に駆け込んで、上原の治療に 入る。その間に、司会による勝者宣言が高らかに告げられていた。 『名前は? ――勝者、小笠原源一郎ー!』 「うむ! 見たか宗助!」 「み、見た見た! うわ、凄いよ源一郎! ──って!?」  空に指を突き上げたまま傾いだ友人の姿に、知らず宗助は飛び出していた。倒れかけた 彼の身体を抱きとめ、その重みをしっかりと支える。  そして、宗助の腕の中で源一郎は満面の笑みを浮かべた。 「はは! 効いたわ。さすがに、なかなかやるのう」 「な、『なかなか』どころじゃないんだけど……おめでとうっ」  歓声は収まりそうもなかった。それは全て驚きと、興奮と、そして新しいランキング選 手の誕生を祝う声。  その場の全員が自分を見て目を輝かせている姿に、源一郎は打たれた左顔をさすりなが ら言う。 「なるほど、悪くはないな」 「え?」 「この『見世物』は、金になるんじゃろう?」  そのような会話で顔をきょとんとさせている宗助を横目に、志村は向かい側に立ってい たプロデューサーのもとに足を運んでいた。  親指と人差し指で円を描き、 「成功報酬よろしくやで」 「ああ」  顎に手を当てて考え込んでいた獅子殿は、声をかけられて初めて彼の存在に気がついて 顔を上げた。財布を取り出そうとしてスーツのポケットを探り、 「カードだけだったな──明良、くれてやれ。五千円」 「私ですか!?」  いきなり話を振られて、彼の隣にいた眼鏡の少女──『スパイラル』こと明良がすっと んきょうな声を出した。それを冷徹に見下ろし、獅子殿は言う。 「ファイトマネーを貯め込んでいるだろう。出せ」 「あ、あのお金は一樹くんの誕生日プレゼント用に──」 「出せ」 「うう……」  強く言われ、しぶしぶと少女は財布を取り出す。小さな手に五千円紙幣を差し出された 志村は、汗を一筋垂らして尋ねずにはいられなかった。 「も、もらってええんか?」 「どうぞぉ……」  はうう、と未練たっぷりに紙幣を見つめる目から慌ててそれを隠し、志村はもう一度獅 子殿と少女を交互に見て、それから大きく肩をすくめる。 「ま、ええわ。ツッコミどころ多すぎるで、あんたら。それで、あんたはどう見るんや、 あの兄ちゃんの戦いっぷり」 「いいものが見れた、と言うしかないな」  ふん、と鼻を鳴らし、源一郎たちに見せた礼儀正しさの欠片も漂わせずに、獅子殿は横 柄に腕を組んで先程の思案顔に戻った。  呟くように、言う。 「あの構え、おそらくは二刀の短刀術から発生したものだろう。左を牽制に使い、右で強 力な一撃──そこだけ見れば近代格闘技とも変わらないが、そこに繋げる技術が異質過ぎ る。だから上原とお互いに技が読み合えずに相打ち的な、殴り殴られの展開になった。も う少し互いに研究すれば、より奥深い技が見える長い時間をかけた戦いになるだろうな」 「ほ〜。つまり、今はお互いに出せば当たる状況での試合だったってわけやな」 「そうだな」  志村の言葉に相槌を打ちながら、獅子殿はさらに言う。 「特筆すべきは、あの突き出した左腕の使い方。相手の打撃を内側に落とす……言うのは 簡単だが、自分に近い位置に手がある構えの者には無理だ」 「ま、軌道の関係上、落としとる途中でぶち当たるわな。それを落とす起点をあれだけ離 れた場所にすることで可能にすると。あ〜、なるほど、防御は顔面固めるとかじゃなく、 全部落として相手のバランス崩すか〜。よくできとるわ。踏みつけも、なんや時代劇じゃ 武士がそうやってから相手に刀でとどめさしとるしな」  ふむふむ、と今度は志村が相槌を打つ。  では、と意地悪に笑う。 「ほんなら、上原のあのハイキックで落ちんかったの、なんでやろうな? 普通死ぬで」  その質問に、獅子殿はチラリと志村に視線を向け、それから彼にしては珍しいことに苦 笑混じりに言うのだった。 「インパクトの瞬間に首の筋肉を緊張させ、脳が揺れるのを防いだ……と言いたいが、あ れは根性としか言いようがないな」 「せやな。そこは、わいらと一緒やね」                 ※  上京して金を稼ぐ方法を探していた源一郎。  彼が他人に勝つ姿を見てみたい宗助。  面白い選手に目を輝かせる志村。  そして、EDGEプロデューサーの獅子殿。  ──思惑はそれぞれあるかもしれないが。  小笠原源一郎は、EDGEの舞台に立つ決意をした。  それだけは、確かなのであった。                 結 「八重、履歴書とやらはあるか?」  その日の夕方、帰宅するやすぐさま八重に湿布とガーゼを貼り込まれた源一郎が尋ねた のは、そのようなことだった。  八重は意外そうな顔をしたが、 「少しお待ちください」  自室にする予定らしい和室に入り、すぐに数枚の紙を持って戻ってきた。用意がいいな あ、と宗助は思ったが、彼女の言葉はそれ以上だった。 「必要事項は記入してありますので、すぐにご利用になれます」 「い、いたせりつくせりだね」  宗助は驚いて良いのか呆れて良いのか迷ってしまった。  呆れると言えば、一日遊んで戻ってきた恵比寿のマンションはすっかり様変わりしてい た。出かけている間に引っ越し業社が来ていたらしいのだが、彼らが設置してくれるタン スなどの大型の家具はともかく、ダンボールの中に詰まっていただろう食器なども全て棚 の中に収納されていた。  酒盛りに使用していた洋間には真新しい丸角の木のテーブルに、それを挟むようにして 四人掛けのソファーが二つ。部屋の隅には大型のテレビが置かれ、踏み心地の良い毛長の カーペットが一面に敷かれていた。居間兼応接間として利用するようで、来客に堪える見 栄えにされている。  少しのぞいたキッチンも、使用したトイレも、小さな備品に至るまで完全に生活環境が 整えられていた。あろうことかもう一室の洋間、つまり源一郎の部屋には後づけで畳が運 び込まれており、部屋の半分ほどが床が一段高い作りになっている。聞けば、そちらが彼 の寝所になるらしい。  それを、彼女は一人でこなしていたのである。  だというのに、源一郎は「ご苦労」のひとことでそれを済ませ、映画のパンフレットと 渋谷のれん街で購入した一個ニ百円の饅頭五個詰めの箱を渡すだけで、後は何も言わなか った。 (それで……いいの?)  宗助は八重の顔色をうかがったが、彼女は不快の欠片も見えないお澄まし顔である。こ れも一種のポーカーフェイスなのかもしれない、と宗助は今更ながら八重の本心が気にな ってきた。  が、源一郎の方はそのようなことは露ほども気にしていないのか、履歴書を受け取って 首を傾げる。 「ふむ、これと判子と、後はなんじゃった?」 「医者の健康診断書だけど、うちの親に診てもらえばいいよ」 「うむ。久しぶりに先生にも挨拶せんとな」 「……失礼ですが、何のお話ですか?」  楽しそうに一個一個必要なものを確認する源一郎に、さすがに気になったらしい八重が そう尋ねる。すると、源一郎は特に隠しもせずに答えた。 「職を見つけた。見世物に近いが、悪くは無いぞ。なかなかやりがいはありそうじゃ」  浮かんでいる笑みは、嘘をつかない彼の本心。  源一郎の言葉を受けた八重は、一度瞼を下ろして「そうですか」と呟き、 「では、今夜はお赤飯にしましょう」 「それだけ!?」  思わず、宗助は叫んでしまっていた。いきなりのそれに、しかし源一郎はうなずく。 「そうじゃのう、他にも欲しいところじゃ」 「いえ、おかずは御曹司と宗助くんのお好きなものを言っていただければ作りますよ」 「い、いや、そうじゃなくて、それだけでオーケーなの? どういう仕事か聞かないの?」 「そうですね……」  宗助のもっともな疑問に、八重は源一郎の顔を見上げた。彼の方でも言われて気がつい たとばかりに八重に視線を向けており、しばし二人の視線が交錯する。  一拍。  彼女は小さな、主張しない笑みで我が侭な幼馴染に言った。 「御曹司が胸を張っておられるなら、私が異を唱えることはありません。ご存分に」  彼は大きな、周りを包み込むような朗らかな笑みで慎ましい幼馴染に言った。 「うむ。自分と八重の二人くらい養えんで何が男か! わしは稼ぐぞ。見ておれ」 「ええ。常におそばに」  ニッコリと、それだけは満面の笑みで八重は手を自分の胸に当てた。  うわあ、と宗助が顔を赤らめてしまうような笑顔。  本当にわからなくなる、二人の関係。  ──幼馴染なのか。  ──主従関係なのか。  ──それとも、別のものなのか。  しかし。 「では、宗助くんはおかずは何がいいですか? 御曹司は──」 「鳥の唐揚げ」 「──ですね。昔から変わらないんですよ」  ふふ、と宗助に向かって笑う姿は、三人の幼馴染としての八重だ。何となくホッとして、 宗助は相好を崩した。 (うん……これから知っていけばいいよな)  自分は過去の二人を知っていて、それと同じ二人と、違う二人を色々見つけることがで きるだろうから。  彼と彼女。その関係を把握するのは、それからでも遅くは無いだろう。  だから、宗助は昔のまま、『可愛い八重ちゃん』に向かって言うのと変わらない調子で 次のように言った。 「僕は八重ちゃんの食べたいものでいいよ」  好きな子の好みに合わせようとしていた、あの頃のように。  それは少し気恥ずかしかったが、時間をあの時からやり直す一番の方法のように思われ た。  ──のだが。 「こちらになりますよ?」 「……饅頭女じゃろ?」 「ご、ごめん。お蕎麦茹でてくれるかな……お赤飯にお蕎麦合わせるの好きなんだ……」  饅頭の箱を示された宗助は、あっさりと折れるのであった。                                    了