バーバリアン・デイズ 第四話 「HIGH」 目が覚めて一番最初に感じたことは、自分の顔が酷く変形しているということだった。 全体的に腫れぼったくて熱を持ち、瞼が重くて上手く開くことができず、所々皮膚が引 きつるような違和感がある。呼吸をしようとすると鼻が詰まっており、口を開いて息をす ると唇の端がかさぶたになっていたようで、ピリッとした鋭い痛みが走った。 「つ……う」 錆びた鉄じみた血の匂いのする酸素を肺に送り込み、穂高馨は思考を鈍らせる頭の中に 重く残るような痛みに、寝転がったまま額に手を置いた。すると指は肌以外の綿布の手触 りを感じて、穂高はその正体を憶測した。 (湿布、か) 治療がされている。そのことを知り、穂高は自分がここに寝転がるまでに何があったか を思い出した。 (負けたか……) 日本ミドル級防衛戦の後、水道橋駅の前で彼を待ち構えていた一人の中年男。その巧み なグラウンド技術の前に、地面に背をつけたままとはいえ殴り合いで自分が負けたという 事実に、穂高は例えようも無い屈辱を感じ、顔を歪めた。 「……くそっ」 冷静沈着を常にし、感情をほとんど表に出さない男。そうマスコミに評される口から、 堪らない悪態が漏れた。 (ボクサーが拳での殴り合いで……っ) 額を押さえる指に力が入る。 自信があったのだ。 拳での殴り合いならば、自分は世界チャンピオンにも勝利することができる。日本には すでに相手になる選手が存在せず、圧倒的なレベル差で自分は王者として君臨している。 そう確信していた自分が、背丈で頭一つ分も低い小男に気絶させられるまで好きに殴ら れた。確かに寝転がって戦う技術は学んだことはないが、それでも殴り合いだったのだ。 ダウンまでは対応できない技術の差で良いが、そこからは関節を極められたわけでも首を 絞められたわけでもなく、ただの殴り合い。 両腕が動かせていたのだ。 なのに、いいように殴られた。飛んでくる拳に顔を打たれ、こちらの拳は空を切った。 しまいには、自分は何をした。両腕で顔をかばって、身を守るのが精一杯だった。 「……くそっ」 再度悪態。 堪らない。情けない。不甲斐ない。 (負けたのは……何年ぶりだ) デビュー以来、公式戦無敗。デビュー前にジムの先輩たちに打ち負かされたことしかな い青年は、事実上初めての真剣勝負での敗北に、腫れた顔が痛くなるほど指を食い込ませ た。 何故負けた? 簡単だ。 (レベルが違った) それがわかっても、噛み締めた奥歯の力は抜けることはなかった。 ――気持ちのよくなる完敗がこの世に存在するなど、嘘に決まってる。 どれほど圧倒的な差があろうとも、負けたくはない男が負けて悔しくないはずがない。 考えるのは一つのこと。 (どうやれば勝てた?) 穂高がそのように考え始めた時だった。 コンコン、と薄い壁が叩かれる音。 「起きたなら、出て行ってもらえないかしら」 深く沈みこむような声をかけられた穂高は、自由にならない瞼に力を込め、寝転がった 自分の真正面を見上げた。真正面――つまり天井の木目がまず目に入り、そこから吊り下 がった丸みを帯びた六角形の型に収まった電灯、それからさらに吊り下がったスイッチの 紐。 灯りはついておらず、しかし視界が明るいことに、穂高は今が朝であることを知った。 開かれたカーテンから朝の東日が入り、ちょうど穂高の顔を差している。その眩しさを感 じ、青年は目を醒ましたのだ。 「ここ、は?」 「あなたに暴行を加えた男の家よ」 長時間寝ていたためか、酷くかすれたしゃがれ声で穂高が尋ねると、先程の声の主が淡 淡と応えた。畳の上を歩く音が数歩分震動の形で穂高の背中に伝わると、天井と顔の間に ぼやけた水の塊が現れた。 「染みるかもしれないけど、飲めるなら飲んでおきなさい 「……すみません……」 透明なコップに入った水に手を伸ばし、穂高はほっそりとした指だけが見える相手―― 女に礼を言った。空いている手を畳の床に着いて上半身を起こすと、視界が一瞬闇に落ち る。次に頭からサーと血が引く音が聞こえ、穂高は真っ白な顔でしばし動きを止めた。 「く……」 眉間に皺を寄せて押し寄せる不快感を抑え込み、穂高はどうにかコップに口をつけた。 喉が渇いて仕方が無かった。 と。 「ぐ!?」 「それだけ動けるなら飲みなさい。消毒と気付けよ」 口の中の裂傷を思い切り刺激した塩水に穂高が顔をしかめると、女の声がなんでもない ことのように降ってくる。 見下ろされていると感じた穂高は、無言で塩水で口の中を洗いながらその女の姿を求め、 周囲を視界に入れた。そこは八畳ほどの畳の部屋で、穂高の寝かされていたのはその中央 だ。隅にはタンスや食器棚があり、おそらく食事の際に使用されるちゃぶ台が足を折り畳 んで立てかけてあった。 窓からは同じ高さに線路が見え、折りしもやって来た電車の音が耳に響き始める。ガタ ンゴトンと速度を落としたそれは、駅が近いということだ。 駅周辺の、線路沿いの家。おそらくは、アパート。 そのような場所で、居間と台所の境に相手は立っていた。 朝の横日を浴びて立つ、夕焼けの似合う女。穂高が最初に思ったのは、そういうことだ った。 腰までもある長く真っ直ぐな黒髪と、それとは対照的な、驚くほど白いまるで白磁のよ うな肌。切れ長の瞳は怜悧と言えるもので、だが端整な顔に浮かぶのは何事にも興味の無 さそうな、気だるそうなもの。 怠惰ではない。 退廃もしていない。 だが、弛緩はしている。 そう思わせる立ち姿。身長は百七十センチを越え、ジーパンに覆われた足の長さは特筆 に値するが、その中に芯が無い。 くらげのようにやわらかそうで、押せば倒れそうな、奇妙な佇まいの女だった。 「……失礼ですが、あなたは?」 「あなたに暴行を加えた男の娘よ」 「そうですか」 自分と同い年ほどの彼女の受け答えに、穂高は一応の納得を見せた。自分が敗れた後に どうなったかは記憶に無かったが、あの中年男の家で介抱されたのは間違いないようだ。 「ご迷惑をおかけしました」 「こちらの台詞よ」 軽く頭を下げる穂高に、抑揚の無い声で女は返す。その顔立ちは細く、儚げですらあっ たが、その背後に穂高の相手をするのを面倒くさがっているような響きが隠されているよ うに感じられた。 ――早く帰ってくれないかしら、と。 無言の棘に促されたわけではないが、穂高も状況を理解した以上は長居するつもりはな かった。膝に力を入れて立ち上がると、痛む後頭部をひと撫でしてから、改めて頭を下げ る。 「本当にご迷惑をおかけしました。……あの人は?」 挨拶、と言うのかはわからなかったが、とにかく顔も合わせずに去るのも気が引けて穂 高は尋ねていた。勝敗は別として、一晩部屋を借りた以上は、社会人として礼を言う必要 がある。 腹に重くのしかかる屈辱とは別に、頭の冷静な部分でそう考えられる程度には、彼は冷 静だった。 だが。 「父なら交番よ」 そのひとことに、穂高はギクリと女を凝視した。 まさか、昨夜の喧嘩のことで? という疑問が通じたのか、女は変わらぬ抑揚の無い声 で言う。 「父は、警官なの」 ※ 「父に会いに行くなら、ついでに銀行でお金を下ろしてきて」 有無を言わさず通帳と暗証番号を書いた紙を押し付けられ、穂高は呆然とした表情で自 分が追い出された部屋の扉を見た。 (……信じられない女だな) 結局名前も聞くこともできなかった。渡された赤い通帳を見下ろした穂高は、嘆息して それをズボンの後ろポケットに入れ、その家を示す表札に視線を走らせた。 (『三浦』、か) その名を胸に刻み、穂高は山手線の電車の走る音を聞きながらアパートの階段を一階に 向かって下りていった。三浦の娘の話ではそこは渋谷と隣の原宿の間であり、三浦の勤務 先である渋谷ハチ公口交番までは歩いても二十分かからないという。 初めての場所であったが、道端の標識を頼りに朝の宮下公園を左手に眺めながら歩く。 朝の七時という時間帯なので、まだあまり人通りはなかったが、時折ジョギングで通りが かる者が自分の顔を見てギョッとするのに穂高は笑いたくなった。 (そんなに酷い顔か……) 防衛戦の翌日であることを考えれば不思議ではないが、実際に打たれたのはその後、三 浦との路上戦である。しかも、ベルトの防衛に成功している勝者であるはずの穂高は、今 敗者として勝者を訪ねようとしている。 (マスコミが大喜びだな) そもそも、ボクサーが路上で喧嘩するなど言語道断だ。空手の有段者や、プロのボクサ ーが人を殴った場合、それは武器を使ったことと同じ扱いで犯罪となる。特に日本チャン ピオンの事件となれば、スキャンダルも良いところだ。 (負けた……けどな) 相手の武器の方が、自分より上だった。昨夜の戦いの詳細を思い出し、穂高は口惜しさ に無表情の奥で腸が煮えたぎる想いだった。 三浦は、最初穂高のボクシングに付き合った。攻撃を一方的に喰らいながらも、それを かいくぐって攻める方法を模索していたようだった。そして、それが困難だと悟ると、本 来の自分のスタイルであろうタックルを仕掛けてきた。 そこからは、まさに完封だ。 問題は三浦が最初からそのスタイルを取っていれば、穂高は何もすることができずに戦 いは終わっていたということである。 (遊ばれた) 三浦の言を借りれば『授業』ということだろう。 言葉が蘇る。 ――手っ取り早く、坊やの弱さを見せてやろうか? 俺の強さを見せてやろうか? 見せつけられたのはまさに、根性ではどうしようもない技術の差だ。 「どうやれば……」 歩きながら考えるのは、そればかりだった。 「どうやれば、あの人に勝てる?」 思考がまとまらないまま、道は渋谷の中心へと辿り着いていた。 さすがに早朝であっても、渋谷駅の周辺は賑わっていた。日曜日ということもあり、辺 りには徹夜で遊んだ後に解散する若者たちや、休日出勤のサラリーマンの姿が目立つ。 渋谷駅の交番は、地方の交番では考えられないことであるが、十人ほどが並んで順番待 ちしていた。地方から出てきた者や、無くし物、盗難にあった者が朝早くから相談にやっ て来ているのである。 急ぎでもない穂高はその列の最後尾についたが、並んで間もないうちに交番の中から背 の低い小男が顔を出し、彼のそばにやってきた。 思わず、下腹に力を込めて穂高はその相手を見る。同じように顔に湿布を貼った、ボロ ボロの顔の男。警官の象徴的な青い制服姿の三浦だ。 「三浦さん、でよろしいですか?」 「おう、三浦だ。坊や、意外に早く起きたみてぇだな、いい子だ」 「昨夜はご迷惑をおかけしました」 「お?」 まずは礼を、と深々と頭を下げる穂高に、三浦は太い眉毛を怪訝そうに動かした。 不思議そうに言う。 「それはこっちの台詞じゃねぇのかい?」 娘さんにも同じことを言われました、とは穂高は口にしない。ただ、深呼吸一つで感情 の抱え込んだ屈辱を制御し、冷静さを保って頷く。 「ええ。ですが、勉強にはなりました」 「ほうほう。なかなか謙虚じゃねぇか、チャンピオン」 チャンピオン、という言葉に穂高の前後に並んでいた少年たちが彼を見上げたが、何の 王者なのかはわからなかったようで、顔を見合わせた。少しでも格闘技に通じる者がいた ならば、そこにいる喧嘩後という顔の青年が穂高馨であることに気づき、驚いただろう。 「ま、立ち話もなんだな。来いよ、スタバでいいなら奢ってやる。年長者だからな」 「お仕事はよろしいんですか?」 「あ?」 生真面目に穂高が尋ねると、何をつまらないことを、と三浦が顔をしかめる。そして、 交番に向かって手を挙げるとその場所から見えるQFRONTビルを指差した。 「ほれ、オーケーだとよ。ちなみに俺ぁ警部で、あそこにいるのはペーペーのガキよ」 大きく腕でバツを作る警官に肩をすくめ、三浦が穂高の背中を叩いて促す。 仕方なくそれに従い、歩き出したところで穂高は思い出して通帳を取り出した。 「娘さんに渡されました」 「気が利かねぇ坊やだな……下ろして来いよ」 どういう親子だ、と穂高は呆れるしかなかった。 ※ 三浦が穂高を誘ったのは、QFRONTビルの二階にある喫茶店だった。八階に及ぶこ の駅前のランドマークは、地下から最上階までがCDやビデオ、書籍の商品で充実し、連 日購買客で賑わっている。七階には全席指定制のシネマフロントも存在し、総合的な音楽 映像作品を購入、鑑賞することができる建物だ。 他の階の営業開始にはまだ早かったが、二階の喫茶店のみは七時から利用することがで き、早番の警官たちも重宝していると三浦は語った。 「見な、坊や。特等席だぜ」 エレベーターと壁の間に位置する狭い喫茶店は、QFRONTの弧を描く壁面に沿って 作られている。壁面は全てがガラス張りになっており、どの席からでも渋谷駅前を見下ろ すことができる、一つの観光スポットになっていた。 「ここからなら、渋谷ハチ公前は一望よ。何かありゃ、すぐに駆けつけられるってわけだ」 得意げに語る三浦は、コーヒーの上のたっぷりとした白い山のようなフォームミルクに 口をつける。それに倣い、穂高も三浦の奢りで注文したアイスコーヒーを一口啜る。 二人が顔をしかめたのは同時だ。 「つぅ……しつけぇパンチだな、おい。喰らったのは昨日だってのに、追い討ちかよ」 「お互いさまです」 苦笑され、穂高も口内の痛みに閉口する。 「慣れっこじゃねぇのかい、ボクサー」 「普段はマウスピースをしているんで、切ったりはしません」 そもそも、巧みなステップワークで相手のパンチを外し、ほぼ無傷で勝利するのが日本 ミドル級チャンピオンである穂高のスタイルだ。KOされるほど顔面に拳を叩き込まれた 経験は無い。 「三浦さんは、その気になれば打たれずにすんだんじゃないですか?」 顔を合わせた時から言いたかったことを、穂高は切り出した。腫れた目を細め、飄々と した中年男を睨みつける。 「遊びのつもりですか? 正直、プライドが傷つきました」 「あのよ。坊やんちじゃあ、プライド傷つける時に俺ぁあんたのプライド折りますって断 り入れんのかい?」 「…………っ」 やれやれ、とため息と共に言われ、穂高は無意識に拳を握り締めていた。いつでも相手 を殴れるように。いつでも最速の一撃を放てるように。 瞳に彼独特の燃え盛る炎を氷の器で包んだような戦意が宿るのを見た三浦は、ペロリと 唇の周りのミルクを舐めとって頷く。 「そうよ。若者はそれくらいやる気じゃぁねぇとな。負けるけどよ」 笑う。 「弱いからな、坊やは」 「どこが……っ」 気がついた時、穂高は拳をテーブルに叩きつけて叫んでいた。 「どこが弱いですか、俺の!」 魂の底から。 自分の一番深い場所から、叫んでいた。 「俺のどこが弱いですか! 教えてください。あなたは……っ」 唇を噛み締め、青年は拳を震わす。テーブルが揺れ、アイスコーヒーが波を立てた。 「あなたは、俺より強いんでしょう!?」 プライドが悲鳴を上げる瞬間があるなら、それがまさしくそうだった。 沈着冷静を謳われ、国内最強、世界戦も安泰、そう言われた男が、自分でもそう思って いた男が、それを一気に否定された時に上げた叫びだった。 同時に、それはプライドの復活を求めるための叫びでもあった。 ――どうすれば俺は今より強くなれますか。 自分の成長に停滞を感じ、悩んでいた二十代の若者の、年長者に教えを請う純粋な叫び でもあった。 睨み付けるのは、警官の制服を着た小男。 答えをくれるのは、その男のはずだった。 が。 「ほうほう。悩んだな、坊や?」 むしろ面白いものを見たという軽い口調で、三浦はコーヒーに口をつけた。 「先人は偉大だぜ。優れた問いはすでに半分答えを含んでいるってのは良く言うが、まさ にだな。なあ、坊や」 「……どういう意味ですか」 「坊やがどうして弱いかって、坊やが自分で答え出してるじゃねぇか」 それは青年が求める具体的な答えではないけれど。 大正解に至るまでの、正解の入り口ではある一つの答え。 「坊やが弱いのは、俺が坊やより強いからだよ」 何よりも強い説得力。すでに彼はその実力を示したのだから。 そこから続くのは、昨夜の続きだ。 「なあ、坊や。昨夜も言ったが、俺ぁ坊やを鍛えてぇのさ。俺より強くな」 「あなたより強く?」 「おぅよ」 大仰に、逞しい両腕を広げて三浦は笑った。打たれ、湿布臭い顔だったが、その楽しげ な笑みは少しもかげりが無かった。 「技術を教え込む。坊やに、俺の技術の全部をな。それだけでいいんだぜ? それだけで 坊やは強くなる」 どこまでなのか。 「ボクシングだけじゃぁ行けねぇ場所まで、連れて行ってやるぜ?」 遥か上まで。 漠然と青年が抱く、ただ強くなりたいがために強くなるという目的。 終着点が無いその目的を達成するほどに。 「坊や。おめぇはボクシングだけじゃねぇ。地上最強の男になってみねぇかい?」 進むべき道を、その時穂高は教えられたのかもしれなかった。 三浦が口にしたその単語。それこそが聞きたかったという感情の誘惑に、穂高は理性を 振り絞って必死に堪えた。 (まだだ) 頷くのは、たやすかった。 自分の持っていない技術の持ち主に教えを請い、より完成度の高い総合的な技術を身に つける。それは理に適っている。 しかし、まだ足りない。 実力は見た。 だけれど。 「……俺は、あなたの本気をまだ見ていな――ぐぅ……っ!?」 口にした瞬間、穂高の頭は鷲掴みにされてテーブルに叩きつけられていた。ガン、とい う凄まじい音と、コップの倒れる音、液体のこぼれる音が重奏し、それを理解する前に穂 高の頭は今度は真横にあったガラスの壁面へと押しつけられていた。 悲鳴が上がる。 「死ぬなよ、坊や」 「な……っ」 思考が吹っ飛んだ。 思い切り引かれてから頭をガラスに打ち付けられた穂高は、甲高い破砕音に、自分の頭 が分厚いガラスを打ち破ったことを知った。視界が真っ赤だった。額が切れ、滝のような 出血が顔を染め始めた。 首根っこを掴まれ、商品の展示されたカウンターに放り投げられた。肩からショーケー スに突っ込み、それを支えとしてどうにか立ち上がる。 直後、コップが来た。腫れと出血の中で奇跡的に見えたそれを瞬時に構えて左ジャブで 打ち落とすと、驚くほど低く、床擦れ擦れに三浦がもぐりこんでいた。 「ほう!」 「がっ!」 斜め下から突き上がるような体当たりを喰らい、穂高の背中がショーケースを砕く。跳 ね返ってくる穂高の顔面を三浦の右フックが一閃し、身が浮いた状態で受けた貫く衝撃に、 青年の身体は大きく横にたたらを踏む。テーブルに激突し、床に倒れた。 それは、ほんの数秒の出来事だ。 カウンターの奥の女性店員が泣き顔で震えているのに軽く手を挙げて挨拶し、三浦はピ クリとも動かない穂高に歩み寄ってしゃがみ込んだ。 「本気、だぜ?」 「は……はは……」 反応は、あった。 覗き込む三浦の前で、穂高は今にも途切れそうな笑い声を上げていた。 血まみれで、朦朧とした意識の中で、最高に高揚した気分で笑い続けていた。 (いい、先生だ……) 強い。 本当に強い。 身近な目標にするには充分過ぎるほど、その人は強かった。 地上最強、それは具体的なようで、漠然としている。だが、その人の強さは具体的だっ た。わかりやすい圧倒的さだった。 (強くなってやる) 理性すら納得できる師事への理由。 この人に学べば、確実に自分は強くなれる。 今、最高な気分で、これ以上無い気分の良さで、クールな穂高馨は笑い続けた。 その様に満足し、三浦は懐から赤い通帳を取り出し、ひとりごちる。 「いつも佐和子は正しいぜ……ったくよ」 弁償代を考え、頭を悩ませた。 了