バーバリアン・デイズ 第三話 「スパイラルガール」                 序  夜空にどれだけの星が瞬いていようと、それら全てを集めても昼間の太陽の輝きのひと 欠片にも及びはしない。それどころか、星々は太陽の光を反射しているだけの月の明るさ にも押され、より儚い明るさしかないものなど、それだけで人の目では捉えられなくなる。  人の輝きというものもそれと同じであると、生きてきた二十三年の間、獅子殿一樹(し しどの・いつき)は常々感じてきた。  人にはそれぞれ放つ輝きがある。町を歩くだけで誰もが振り返る眩しさを持つ者もいれ ば、舞台の上ででも誰にも気に留められない地味な者もいる。掠り傷で大騒ぎされる者が いれば、ゴミ溜めでのたれ死んでも誰も気にしない者もいる。例外も多いが、とりあえず 一樹は、人の輝きとはそのようなところで表現できると考えていた。  タチの悪いことは、太陽のそれと同じように、人の輝きは他人のそれを掻き消してしま うことだ。星々が必死に己を輝かせようと、太陽の光はそれをあざ笑うかのように、否、 気づきもしないで身を現すだけで彼らを消し去ってしまう。そうして見えるのは暗闇の薙 ぎ払われた青空であり、そのすがすがしさに人は本来そこにあるべき星の姿など想像もし たりしないのだ。  そして、各分野に必ずいる太陽のうち、自分を掻き消す太陽がごく至近にいたことは、 一樹にとって不運以外の何物でもなかった。                 1 「……ここまで来ると、本当に化け物だな」  脱色した白い前髪の間から覗く冷徹な視線をノートパソコンのディスプレイに落とし、 低く無感動に獅子殿一樹は呟いた。彼が見下ろしているのは自分が運営するホームページ の管理画面であり、そこに表示されている無数の人名の列の上下を入れ替える作業に、慌 しく指を動かしていた。  渋谷はハチ公像に背中を預けてのそれは、立ちながらとは思えないくらい手馴れていて、 最新最軽量のノートパソコンの小さなキーを正確に打つ。  何かのランキングらしいそれは、単純な入れ替え制度らしい。下位の者が上位の者を負 かせばその順位を引き継ぐ。だが、下位の者が上位に挑んで敗北した場合、失うものがな いということはない。その場合、ランキングからの消滅が待っているのだ。  つまり、上位に優しく、下位に厳しい仕組みである。しかし、その分ランキングによる 挑戦の限界枠が存在せず、例えば最下位の者であろうと、一位に挑戦することができる。  ここで表現されているのは、自由な闘争。  そして、挑戦とは大きなチャンスとリスクを同時に孕んでいるという事実である。 (オール・オア・ナッシンだ。挑戦者はそれくらい追い詰める必要がある。そして、負け ても順位が落ちる程度の心構えに上位者を置くことによって、油断を生み、順位の変動を 激しくする。守りに入れば喰われる。常に上への挑戦を繰り返し、牙を研ぐ者だけが勝ち 続けられる)  そう考えてこの形式に辿り着いたのは、一樹だ。 「っしゃあ! 入ったぁ!」 「よいしょぉーっ!」  歓声が湧き、一樹は自分が主催するイベント――ランキングを賭けた肉弾格闘試合へと 視線を向けた。  渋谷の象徴とも言えるランドマークQFRONTのビルの壁面全てを使った巨大な大型 ビジョン、そしてSHIBUYA一〇九の丸い塔が見下ろす、駅ビルと巨塔たちに挟まれ た始点であり行き止まりでもあるような煉瓦敷きの公園。夜の十時を回った渋谷駅ハチ公 口前。  そこで彼の目の前を舞台として繰り広げられるのは、小柄な少女と巨人のような大男の ストリートファイト、ルール無用の喧嘩マッチだ。  目にした場面は、よく日焼けした青年がその丸太のような腕で、少女の両足を脇に抱え 込み、自分を支点に横回転を繰り返すプロレスのジャイアントスイングを開始したところ だった。  途端、一樹の口元には嘲笑の笑みが浮かぶ。 「馬鹿が」  二メートル近い青年にぶん回される少女は、対照的に百五十センチもないような小柄だ。 歳の頃は十六歳も行っていないだろう。黒いタンクトップに薄手の白いシャツを合わせ、 紺色のスパッツの先の細い足首を青年にがっちりと抱えられている。髪は長く、束ねてポ ニーテールにしているが、始まった回転の遠心力にそれがびゅんびゅんと鞭のように空を 切る。 「いーち、にーい!」  二十や三十ではきかない見物客、それも肉体派の若者の多い中で回転の回数を数える大 合唱が始まり、その八回目で青年が少女を放り投げた。充分な勢いを乗せられたそれは、 回転で三半規管を狂わされた少女に受身を取らさせずに、致命打になり得るアスファルト の地面へと激突させるはずだった。  が、びゅんと飛ばされた少女の手が地面に触れると、その予想を裏切る。跳ねて転がる はずだった少女の身体が、その瞬間に縦に倒立した。それだけではなく、足を百八十度近 くまで開いてヘリコプターのように振り回してぎゅるんと、逆さのフィギュアスケート選 手のように回転した。  そして、もう一度少女が地面に手を着くと、ポンと本来吹き飛ばされるはずだった方向 に足をついて着地する。スニーカーの裏がしっかりと大地を踏み、上げた顔に目を回した 様子もないことを見て、周りからは失望のため息が漏れる。 「『スパイラル』相手に回転が何の役に立つ。研究不足だ」  一樹が言うと同時、少女が『かっ飛ん』だ。  助走とも言えない一歩の踏み出しで地面を蹴る。オリンピックの幅跳びのように鋭い前 方への跳躍が、五メートル余りの距離を一気にゼロにして青年の『横』を通り過ぎる。  ただそれだけに見えたが、青年が呻き声を上げた。 「ぐぁ!?」  少女の手が、青年の右手首を掴んでいた。蔦に掴まるターザンのように、あるいは子供 のブランコ遊びのように少女は揃えたつま先を上方向へと向けた。少女一人分の体重と、 それを倍化させる凄まじい速度に対応しきれず、青年の腕がありえない方向にまで回り、 ついにはその肩が砕ける音がした。  ほぼ真上まで上がった青年の腕を放し、それでも勢いを失わずに少女は青年の真上数メ ートルにまで達する。 「せい――やあぁぁぁぁ!」  そこで初めて気合を入れた少女のコマのような回し蹴りが、青年の頭を後頭部から打ち 抜き、その巨体を弾き飛ばした。顔面からアスファルトに突っ込んだ青年はそのまま一回 転し、背中から叩きつけられる。  少女は蹴りの余韻である横回転のままつま先を地面に着け、数回転の後にスニーカーの 先から煙を出して止まった。  沈黙。  そして、少女が綺麗に腰を折ってペコリと頭を下げると、嵐のような拍手と喝采が、他 のどのような騒音よりも激しく、熱く夜の空を焦がした。まるでコンサートの終焉のよう うにアンコールの声まで飛び出し、その度に少女がペコペコと頭を下げる。  頭の後ろに手を回してリボンを抜き取ると、解けた長い黒髪がスポットライトの光の中 で踊る。ぶん、と一回頭を振り、少女はもう一度歓声に応えて一礼した。  一樹はそれを見届け、面白くなさそうに二十五位の『南原海里』をランキングから消去 した。自然、それ以下のランキングが一つずつ繰り上がる。戦績の勝ち星が一つ増えたの は、そのランキングで五番目に高い位置にある名前。  ──八巻明良(やまき・あきら)。  そこまでの操作で、一樹はひとまずノートパソコンを閉じた。  地面から、格闘技の試合でおなじみのゴングを拾い上げてカーンと鳴らすと、その場に いた全員の熱狂がその音に吸い込まれるように沈静化した。彼はハチ公像から背を離して 進み出ると、少女に小さく頷いてみせた。すると、少女がそそくさと人垣の中に紛れる。  そこからは彼が主役だった。 「お集まりの皆さん。ただ今の決着を持ちまして、本日のEDGE興行は全て終了となり ます。本日行われた三試合のトップランカー戦は、例によってEDGE公式サイトにて動 画で配信いたします。今回初めてこちらの興行をご覧になった方は、チラシのURLのホ ームページをご覧になり、是非本興行の趣旨をお確かめ下さい。皆さんのご理解と有志の 方のご参加を心待ちにしております」  だが、それを最後まで聞いている者は稀だった。ほとんどの者は見世物が終わると同時 にさっさとその場を散り始め、少々の拍手が散発的に注がれるだけだ。彼らの正直な姿に、 一樹は思わず苦笑する。いつものことだ。  しかし、それでも興行を取り仕切る彼に敬意を表する何人かは歩み寄り、声をかけてく る。主に格闘系雑誌の記者たちだ。 「獅子殿さん、今日も素晴らしい試合の連続だったね。見事なマッチメイクだったよ」 「はあ、どうも」 「お父さんの獅子殿会長から興行を任されて半年、選手としての君を見れなくなったのは 寂しいけれど、プロデューサー姿も様になっているじゃないか。会長の教育のたまものか い? お父さんは天才だが、君も負けていないね」 「買い被りですよ」  ただ、そうした者に対する一樹の返事はおざなりだ。一樹自身の手腕を褒める言葉には、 実は大して興味が無い。三十代と見える格闘通を自認する男にあれこれと言われて、適当 に相づちを打っていると、一樹は筋骨隆々とした男たちの中から逃げるようにして走って くる少女に気がついた。 「どうした、明良」 「た、助けてください、一樹くん」  情けない声を上げて百九十センチ近い一樹の背にスルリと隠れこんだのは、先ほど戦っ ていた少女だ。やや端下がりの大きな瞳に小ぶりな低い鼻。その鼻からずり落ちそうな丸 い眼鏡をかけたその顔立ちは頬の細い端正なもので、QFRONTの大型ビジョンのCM に映る少女アイドルにも負けていなかったが、今はそこに怯えの色を濃く宿している。  何事かと一樹が見れば、デジタルカメラやビデオを構えた青年たちが少女――明良を追 いかけている。思わず頭痛がした額を押さえ、一樹は投げやりに言う。 「取材だと思って、撮ってもらえばどうだ」 「い、嫌ですよ、また掲示板にアップされて『萌え』とか書かれるのっ」  ひしっと後ろから抱きつかれ、一樹は邪魔そうに明良の頭を掴む。引き剥がそうとする が、意外なほどに少女の力は強い。  そうこうしているうちに、カメラを構えた青年たちが言う。 「獅子殿プロデューサー、『スパイラル』の写真一枚いいっすか?」 「掲載する時にはプロデューサーの顔切りますから」 「……どうぞ」  諦めたように一樹が頷くと、パシャパシャと数回フラッシュが焚かれる。いやいやする ように明良は一樹のシャツに顔を埋めていたが、わずかな隙間を縫って目標を撮影するこ とにかけては、青年たちの技量はかなりのものである。 「ありがとうございました〜」  上機嫌に去っていく彼らを眺め、一樹はこれもファンサービスだと肩をすくめる。彼は 自分の運営するストリートファイトの人気上昇のためなら、大抵のことには目を瞑るつも りだ。逆に、彼の後ろにいる少女にはその辺りの配慮がまったくない。 「人気はあるうちが花だ。せいぜいちやほやされていればいいだろう」  と言っても、 「あの人たち、小さい子なら誰でもいいんですよ。そういう『ジャンル』で好きって言っ てもらっても嬉しくないです」  と眼鏡の奥の目元を歪めてにべもない。  だからその『ジャンル』を上手く活用すればいいだろうに、と一樹などは思うのだが、 潔癖症の気のある少女にはそれが受け入れがたいらしい。  すると、先程から熱心に一樹に話しかけていた自称格闘技通の記者が戸惑った様子で尋 ねる。 「前から気になっていたんだが、君らはいったいどういう関係なんだい?」  それに、一樹と明良は顔を見合わせ、 「一樹くんとは、幼馴染です」 「赤の他人です」  まるで違う答えを返した。                 ※ 「赤の他人ってなんですか、赤の他人って」  ヘッドライトをつけた車が行き交う渋谷駅東口バスターミナル前の交差点。地を這う国 道二四六号線と、頭上を通る首都高の境である歩道橋を渡りながら、明良はその小さな唇 を尖らせていた。  隣を行く一樹のつむじを見下ろしているのは、明良が歩道橋の壁の上を歩いているから だ。他人ならいざ知らず、大の大人をも一蹴する体術の持ち主である明良には、一樹も危 険を注意するつもりはない。  二人はストリート式異種格闘技戦(ミクスドマッチ)の代名詞であるEDGEの行なわ れるハチ公口とは対角線上にある、東口を経由して帰途についていた。昼間陽光で温めら れたアスファルトは夜になっても都会の空気を熱し、春の夜でも気温は夏と変わらない。 さらに歩道橋の上にまで路上のゴミ溜めのような臭気が及んでおり、この道を通る度に明 良は顔をしかめて不機嫌になる。そのとばっちりだろうか、と一樹は少女の言葉に曖昧に 頷いた。 「記者の前ではあくまでプロデューサーと選手の関係だと同意していたはずだな」 「それはそうですけど、『赤の』までつけたら、仲が悪いって誤解されるじゃないですか」  明良は頬を膨らませ、腰の後ろで両手を組んで不満顔だ。真下をトラックが通り過ぎる が、少女の歩みに躊躇いは無い。  渋谷警察署前に下りる階段に達すると、明良は一樹の無表情に近い横顔を見て嘆息し、 クルリと背中を見せる。そうして背面を向いたまま足場を蹴ると、バック転の要領で階段 の細い手すりの上を下っていく。一回、二回と回転し、三回転めで強く蹴って、体操の選 手のように横捻りの回転を加えて、明良はアスファルトの上に着地した。つま先から地面 に着き、螺旋を描くように横回転を加えながら接地すると、縦方向の力が相殺されてほと んど音も無い着地となる。  その間ずっと後ろで組んでいた両手を広げ、明良は大きな荷物を抱えてゆっくり階段を 下りる一樹に言う。 「私たち、仲良しの幼馴染ですよね?」 「お前はそう思ってるんだろうな」 「……っ! 一樹くんはひねくれ者ですっ」  何を言っているんだこのガキは、とでも言いたげな視線を受け、明良はアスファルトを ダンダンと足の裏で叩いた。警察署のマスコットキャラクターの巨大な看板が彼女を見下 ろしていたが、同情の言葉をくれるわけでもない。  そんな八歳下の幼馴染の子供じみた癇癪に付き合うことはせず、階段を下りた一樹は渋 谷警察署の前を通り過ぎて、向かって左側の六本木通りに沿って歩き出す。商店の並ぶ右 側の明治通りに比べて活気に乏しく、車の走る道路の横に歩道があるだけという程度の道 であったが、渋谷区渋谷三丁目――つまり六本木通りと明治通りの作る三角地帯に帰るべ き家のある一樹にとって、活気の多寡は関係ない。むしろ、人気に乏しい道の方が気楽で 良いと考える性分である。 「待ってくださいっ。話は終わってませんよ!」  無視されたことに気がついた少女がすぐに駆け寄って来るのを一応待っておいてやり、 一樹は背負っていた機材一式を抱え直す。脇に抱えたノートパソコンはともかく、照明器 具や撮影器具、その他もろもろの機材を背負った彼はまるで高山に挑む登山者のように重 装備だ。ほとんどの機材は集まっていたスタッフが車で持って帰るが、一部の私物とも言 えるものに関しては、家が近いこともあって自分で運ぶのが習慣となっている。  だが、並んだ明良が軽快に歩く横を、一樹は苦もなく同じ速度で進む。見る者が見れば、 白髪の青年が百九十センチ近い長身を華奢に見せないだけの筋肉を身につけていることに 気がついただろう。分厚くは無いが、均整の取れた体格だ。着崩してはいても人前に出る ことを考慮したスーツ姿で、私服姿の少女と並んで歩くには不似合いな青年である。  明良が首が痛くなるほど上を向いて一樹の横顔を見ると、そこにあるのはいつも通りの 無表情だ。明良は、大きすぎる眼鏡を中指で押さえて言う。 「一樹くん、おじ様の言葉を忘れたわけではないんでしょう? 二人で仲良く──」 「力を合わせて修行に励むように」 「そうです」  言葉の後を継いだ一樹に、明良は神妙な顔で頷く。真夜中と言ってよい時間帯の闇を切 り裂く車のヘッドライトが、眼鏡の表面で弾かれる。 「私はおじ様に一樹くんのことを任されました。何があろうと一樹くんを支え、護身獅子 殿流の技を完成させてみせると、約束したんです」 「確かに、ずいぶん昔にそういう約束をしたな」  興味なさそうに、一樹は車道沿いの道から右の細い道に曲がった。二本の太い道路に挟 まれたそこは個人経営の店や民家の立ち並ぶ渋谷三丁目で、そこに入るともはや遅い時間 ということもあり、二人以外に歩いている者はいなかった。 「あの約束がある限り、わたしたちは仲良しじゃないんですか? そりゃ、同門というこ とはお互いにライバルですから色々あるかもしれませんが、それだって別に仲が悪い喧嘩 ってわけじゃないじゃないですか。力の比べ合いです。獅子殿をより高みに持って行くた めの、切磋琢磨です」  生来の癖で両腕を広げて話す明良に、どう言ったものかと一樹は冷めた脳で思考する。  自分の虚しさを、どう言葉にしたらよいのだろうか。 「お前の強さは……」  小さく呟き、言葉を切る。  いや、と首を横に振る。 「そうだな」 「そうです!」  肯定した青年に、我が意を得たりと少女が両手を広げたままクルリと回る。ステップは 軽く、その表情が一気に明るいものとなる。 「そうです、私と一樹くんはいつまでも仲良しなんですよ。それは大事な約束なんですか ら、しっかり守らないと駄目なんです。『私だけは敵になってはいけない』んですよね」  グルグルと衛星のように一樹の周りを移動する明良は、まるで幼い子供のように無邪気 な笑顔を見せる。その一言一言を皮肉に感じ、一樹はわずかだがその口元を歪めた。 「そうだな」                 2  そのまましばらく歩いた所で右折して三角地帯に入っていくと、二人は金王八幡宮の前 に出た。  八幡宮は渋谷区内では最古の木造建築物で、緑色の瓦屋根と朱塗りの社殿が半ば闇に沈 みながらその存在感を主張している。かつて江戸八所八幡として崇敬の高かった場所で、 社殿から鳥居までは長い参道が続いている。  八巻家──明良の家はこの金王八幡宮と面する場所にあり、一樹の家はここからさらに 住宅地の中を走り抜ける八幡通りの信号を一本越えたマンションだ。いつもの別れの場所 に辿り着くと、明良は一樹に尋ねる。 「うちに寄って行く? おじさん、今日も戻ってこないんでしょ? 御飯作るけど」 「いや、いい」  それより、と一樹はおもむろに抱えていた機材を地に下ろした。 「もう少し付き合ってもらえるか」 「あ……」  一樹の緊張を孕んだ表情に、明良は大きな眼鏡の奥で目を見開いた。  そして。 「もしかして、告白ですか?」 「お前は一度病院に行け」  もじもじと身をよじって上目遣いに言った少女に、一樹は氷よりも冷たい視線を落とし た。「え?」という顔になった明良がようやく気づけば、十人からなる男たちが彼女たち を遠巻きにしていた。全員が身長の平均よりも一回り以上大柄に見える体格の持ち主の、 屈強な男たちだ。 「私たちは――」 「山の手プロレスの面々ですね」 「――そうだ」  代表らしい男が口を開いたところに、一樹が見透かしたように言葉を挟む。囲まれなが ら動揺の一つも見せずに彼は続けた。 「若手のホープ、南原選手が『スパイラル』に破れた映像の配信差し止めを要求するため の直訴と見ましたが、その通りでしょうか? 熱田社長」 「……その通りだ。話が早いな、獅子殿くん」  苦々しげに、三十代にかかろうというほどの男が頷いた。身長は一樹と変わらない百九 十ほどであったが、身体の厚みは倍ほども違う。筋肉だけではなく、厚い脂肪にも守られ た巨躯だ。  山の手プロレスの熱田社長と言えば、大手プロレス団体を脱して新規団体を作った鋭才 である。巨躯を裏切るアマレス仕込みの素早いタックルと、その体格に見合った膂力で総 合格闘技で高い戦績を誇り、社長職に就いた今でも団体のエースとして活躍している。  プロレスのリングでは各下相手でもピンチを演出する『魅せる』試合を好むが、本気の 戦いの際にはを緻密な計算に基づいた『詰め将棋』のごとき封殺戦を実行する、頭脳派の プロレスラーだ。 (南原に比べれば、格は三つ上といったところか)  世界に通用する日本最強クラスの選手。一樹はそう評価していた。  視線を巡らせれば、正面の熱田の他にも見覚えのある団体の主力選手から若手の門下生 まで揃っている。ほとんどが緊張と戸惑いの入り混じった、少数を多人数で囲むのには慣 れていない様子だったが、正規の選手たちのうち何人かは食い入るように一樹の後ろの空 間を睨みつけていた。  つまり、南原を一蹴した『山の手プロレスに勝った』明良をだ。 (戦いたい、か)  面白い、と一樹は内心冷笑した。これは面白い。  ――大物が釣れるかもしれない。 「……一樹くん?」  彼が何を言ったわけでもない。何か雰囲気が変わったわけでもない。しかし何かを感じ たのか、どこか怯えたように明良はその大きな背に呼びかけた。  だが背中は応えず、余所行き用の声が発せられるのみだ。 「熱田社長、私も一人の経営者として団体のイメージの大切さはわかっているつもりです。 団体の人間が小娘一人に負ける。それでは、次の興行でどれほど強さを謳おうが客は醒め るでしょうね」 「ああ。このようば場所で待ち伏せてすまんが、それなりの謝礼はさせてもらうつもりだ。 それに試合結果の公表までをやめろとは言わない。……人の口に戸は立てられないという ことだ」 「映像配信があるかないかで、『一般』への認知度は随分違いますからね」  お互いに相づちを打ち、団体を代表する二人は話を進める。一見和やかなそれに明良が 警戒を解いた瞬間だった。  一樹の声に、冷徹さが生まれた。 「ただ、それはそちらの事情だ。こちらは――EDGEは、プロの選手を頭の悪いガキが 負かすからウケているんでね」 「!」  唐突な態度の変化に、プロレスラーたちの顔色が変わる。礼儀正しい青年から、傲慢な 青年へ。藪の中の猫を手招いていたつもりが、唐突に蛇が顔を出したかのような心臓への 威圧。 「か、一樹くん、地が出てますよ、いいんですか!?」 「問題ない。全員すぐに口が利けなくなる。『スパイラル』によってな」 「私ですか!?」  すっとんきょうな声を上げる明良に、プロレスラーたちの視線が集まった。その中で、 熱田だけが社長の顔のままで言う。 「獅子殿くん、どういうつもりだ?」 「社長はともかく、他の奴らの意志を尊重してやりたいと思ってな。――どいつもこいつ も、プロレスがあんな小娘に負けるはずがないと思ってる顔だ」  小さな、唇に浮かぶ失笑。 「たかがプロレスが、何を思い上がってる」 「挑発に乗るな!」  熱田が叫んで制止したが遅かった。一樹の一番近くにいた若手が遅いかかり、スーツの 襟を掴む。背の高い一樹の頭を下げさせようと下に引いた時、若手の膝がガクンと折れた。 「『スパイラル』……!?」 「一樹くんに悪さする人は、私が許しませんよっ」  真横に回り込んでからの蹴りで男の膝の裏を打ち、いわゆる『膝カックン』させた少女 が怯えと決意に満ちた瞳でそう言い放った。 「やれ」 「い――やぁぁぁぁ!」  胸倉を掴まれたまま青年が言うが早いか、少女の動きが早かったかは定かではない。た だ、どちらもが当たり前のように言い、動いた。  横に二回転して勢いをつけた肘打ちが膝を崩した若手の背脇腹に突き刺さり、声も無く 男が海老のようにその背を反らした。背中合わせの状態で真上に反って来た相手の喉に両 手を伸ばし、それにぶらさがる形でしっかり指を組み合わせると、明良は思い切り上半身 を前に屈した。 「…………っ!?」  背負い投げの要領で投げられた若手は脳天から参道の石畳の上に落ち、歯の噛み合わさ るガチンという音が頭蓋が叩きつけられる音に紛れる。口と目から火花を散らした男は一 撃で意識を失い、その場に大の字に寝転がった。  静まりかけた場に一樹はわざわざ言う。 「プロレス、か?」 「貴様っ」  今度前に出たのは山の手プロレスの正選手の一人、川村だった。豪快なダッシュから右 腕を広げ、自分よりかなり低い位置にある少女の顔面を狙ってラリアットを振り抜く。 「おお!」 「……馬鹿が。『良いマト』だ」  雄叫びを上げる川村に、一樹は呟く。  重量級のラリアットに巻き込まれて薙ぎ倒されたように見えた明良が消える。駆け抜け た川村が目を剥いて自分の腕を見ると、今まさに振り切ろうというそこに少女はいる。手 首に絡みついた明良が身体全体を伸ばしたままローラーのように横回転すると、川村の手 首、肘、肩までが瞬間で捻れ、嫌な音を立てた。 「肩が外れたな」  何でも無いように一樹が状況を告げ、川村の手首を解放した明良が地面にスニーカーの 裏を着ける。  すぐさま横から駆け込んだ三人目がローキックを放ち、明良の両足を刈ると、少女の軽 い身体は側転のようにグルリと回転した。頭から落ちるかと思った瞬間両手を地面に着く とその身体はもう半回転して『もとの位置』に立ち上がった。ただ立っただけではなく、 側転の勢いを殺さず地面とつま先の間で変化させてそのまま横回し蹴りに乗せて、その若 手の足に叩き込んだ。  膝のやや上を叩かれて男が崩れ落ち、低くなった頭を見た明良は地面を蹴って前方宙返 り。大きな弧を描いた前回り踵落としが相手の後頭部を捉えて、その頭を地面に叩き落と す。 「相手にならないな」  すでにプロレスラーたちには一樹の嫌がらせのコメントも聞こえてはいなかった。皆が、 熱田でさえが目を丸くして少女の戦いに見入っていた。  そうだろう、と一樹は今度は演技ではなく皮肉げに唇の端だけの笑みを浮かべる。 (『荒唐無稽な強さ』はエンターテイメントだからな)  屈強の男たちを平均よりも小柄な少女が瞬殺していく様は、何かの冗談にしか思えない。 だからこそ『スパイラル』と呼ばれる少女の戦いは、格闘技の試合独特の緊張感や面白さ とは別の、『痛快な』感覚を見るものに与えてくれるのだ。 「……なるほど、EDGEに人気があるわけだ」  やがて、納得したように熱田がため息をついた。 「ここまでいいようにされて、まだ社長することはないな」  呟く。  その顔から経営者という仮面が剥げる。  社会のしがらみの中で身につけてきた、自分の団体のための大人の部分が消えていく。 「乗せられてやるよ、小僧。お前の親父は温和な指導者として成り上がったが、お前はど ちらかというと、喧嘩向きらしいな」 「親父? ふん……猫かぶりが上手い男だよ」  こちらを見る目に明確な敵意が宿ったのを確認し、一樹は斜め後ろに手を伸ばした。 「何です?」  するとその場所にはそここそが定位置という自然さで明良が立っており、小首を傾げる。 少女の肩に腕を回して引き寄せた一樹は、耳元で二三小声で言った。 「今までの相手と同じに思うなよ。これまでの戦績全てと比べても二つは格上だ。気をつ けろ」 「…………」 「どうした」  返事が無いので不審に思って覗き込むと、少女は『ぐー』にした拳を口に当て、丸い眼 鏡の奥で瞳をキラキラと輝かせていた。頬を染め、信じられない思い、夢見るるような思 いで呟く。 「一樹くんが、私の心配を……!」  感極まった声が漏れる。 「初めてですよ! 今日は二人の記念日ですよ! ご馳走にしないと駄目ですね!」  ふふふ、と幸せにそうに笑い、ポケットからリボンを取り出した明良は長い髪をそれで ポニーテールに纏め上げる。トロンとした目の上から眼鏡を外すと、畳んで一樹に手渡し た。 「あの人を倒せば、いいんですね?」 「ああ。もう一ついいか」 「何です?」  一樹は、真顔で言った。 「お前は病院に行け」 「……ぷうっ。本当にひねくれ者なんですからっ」  甘い気分を一掃されて頬を膨らませる少女に、様子をうかがっていた熱田は頭の中で疑 問を浮かべていた。 (ただの女の子に見えるが……)  プロレスラーたちに対する容赦無い関節破壊や投げ技と、その明るくはしゃぎまわる姿 が、印象として一致しない。それでも、熱田はプロの格闘家らしく気持ちを一瞬にして切 り替えた。 (女の子? 違うな。あれは『敵』だ)  ――目標捕捉。  棒立ちで、少し不機嫌な顔で立つ『敵』。  その無防備さに惑わされずに、熱田は相手に左半身を向けるサイドスタンスに構えた。 右手は胸の前で、左手は軽く肘を曲げて腰から鳩尾の辺りでフリーにする。 「!」  直後、一歩の助走で少女が弾丸のように飛んでくる。  ――分析――南原戦。  真横を通り過ぎるようなそれに、熱田は左腕を自分の身体に引きつけながらその場から ステップして離れた。彼の腕を掴もうとしていた明良の手が素通りし、少女は相手の後方 一メートルに着地する。  ――分析――軌道。 「わわっ」  着地位置を予測して振り返った熱田がサイドスタンスのまま接近し、腹の上の左拳で鋭 いジャブを放つ。それを危うく首の動きで避け、少女はさらに繰り出された拳を掴もうと したが、 「あうっ」  打撃が明良の頬で弾けた。掴まれるよりも先に顔を打って引き戻した腕で、熱田は続け てジャブを連発する。  ――分析――川村戦。 (あれができるのはボクサーだけかと思ったが……なるほど、パンチも一流だな)  決して深追いせず、軽く当てるだけのジャブのみで攻める熱田の戦法に一樹は目を細め る。どこまで理解しているのかはわからないが、熱田は明良の攻撃の主な起点が『受け』 にあることに気づいている。  ――分析良好。  熱田の見たところ、少女はいくつかの格闘技に見られる『浮き身』の技術を非常に高い レベル、否、極限レベルで身につけていた。  暖簾に腕押しではないが、少しでも大振りだったり長い時間触れて『押す』動きになっ てしまう打撃は、少女には通用しない。少女は受け流すどころか、こちらの打撃に『乗っ て』攻撃してくる。  それを避けるには、投げを除く組み技か、ジャブのような打ち抜かずに相手の表面で弾 けるような打撃のみだ。 「そして、それで充分だ」  バックステップで距離を取り、熱田は闘気と冷静さを混ぜた言葉を吐く。その言葉でさ らにリズムを作り、腹の前で左拳を小刻みに揺らす。  睨みつける先の『敵』は、唇から血の筋を垂らしてこちらを見ていた。細い腕には赤紫 色の痣が浮き出ており、肩を上下させる様子はすでに大きなダメージを受けていることを 示している。  ――分析――定石。  基本的に体重が重ければ重いほど打撃の威力は上がる。それは耐久力に関しても同じこ とで、少女の体重を四十キロ程度と考えると、熱田との差は七十キロ以上だ。  この体重差だと、普通ならば勝負にすらならない。ジャブ一つでも、少女にはKOパン チを喰らっているようなものだろう。 「分析すれば、お前は格闘家として穴だらけだ」  体重が軽い。  そのため、打撃は主に回転の遠心力を加えてのもの。  回転は隙が多いため、相手の攻撃を受けてから発生する技が多い。  得意とする相手と、苦手とする相手がはっきりしすぎている。 「拍子抜けだ」  とどめを刺すため、熱田がジャブを打つ。少女は変わらずの棒立ちで両手で顔を覆って いた。  ――分析――体重差。  ガードの上からでも、威力は充分過ぎる。  その拳が外側に弾け飛んだ。 「蹴り!?」  ジャブに合わせ、明良が全身で回るような左回し蹴りを放ったのだ。回し蹴りは蹴り抜 いた後に地を踏み、支点となっていた足が動く。  足を替えた竜巻のような後ろ回し蹴りが、弾けた左拳をさらに追撃し、その手首を踵で 打ち据えた。  コンマ数秒の早業に、痛みは後から来た。脳天にまで抜ける激痛に熱田の顔が歪み、慌 てて腕を引くが、手首を破壊された拳はもはや握りこむこともできない。 「弱点を同じ方法で攻めてくるとわかるなら、どうとでも対策が可能なのが格闘家だろ?」  それに、と一樹は付け足す。 「『スパイラル』は攻撃型だ。敵意に反応するだけの『明良』とは違うぞ」 「それはどういう――」 「せ――ぇぇぇい!」  熱田の疑問は明良の気合に掻き消された。一歩の低い跳躍で少女が飛び込んでくる。熱 田の直前で足を着いて、先程も見た前回り蹴りを放つ。奇襲技の軌道は熱田の脳天で、鋭 い弧の踵を両腕を交差して受け止める。思った以上に強い打撃に砕けた手首が痛んだが、 大技を失敗した少女が着地してからの攻めを熱田は組み立てる。  ――分析――着……!?  オーバーヘッドキックで顎を横様に蹴り抜かれて熱田の分析が止まった。最初の蹴りを 受けられた明良が背中から落下しながら身を捻り、両腕の上がった熱田の無防備な顎に一 撃加えたのだ。  脳の揺れやすい位置を蹴られた熱田の視界が大きく歪み、刹那の反撃のチャンスを逃す。 手を着いて着地した明良はそのまま地面で前転して熱田から離れる。そして前転の回転を 横回転に移しながらネジのように回って立ち上がり、地面を蹴ってさらに横回転。前転か らの一連の回転エネルギーでの肘打ちを相手の鳩尾に叩き込んだ。 「ぐっ」  呻き、熱田が一歩後退する。追いかけようとした明良に、しかし気がついた時には熱田 は自ら間合いを詰めていた。  下がると見せかけるフェイントで体当たりした熱田にさすがに明良が巻き込まれる。背 の低い明良よりもずっと低いタックルで、明良の身体にしっかり右腕を回して押し倒す。 そうなると体重の軽い明良には抵抗のしようもなく、二人は折り重なるようにして石畳の 上に倒れた。 「上手い」  明良のペースに移りかけた流れを一瞬で巻き返した熱田に、思わず一樹が舌を巻く。明 良がジャブに対応するにはしばらくかかったが、熱田が『荒唐無稽』に対応する時間はあ っという間だ。 (想定外の状況に対する精神のタフさと対応力が桁違いだ。百戦錬磨はやはり違うな)  だが、と。 「『スパイラル』はそこからでも戦え――なに?」  言いかけ、初めて青年の目が驚きに見開かれた。それは周りの者も同様だった。  熱田が怪訝そうな顔で自分の押さえ込む少女を見る。 「あ……あ……」  カチカチと小さな音が鳴っていた。それは震える少女の歯が立てる音。熱田を見上げる 瞳は瞳孔が開き、その震えは次第に大きくなって少女の全身を覆い尽くした。  そして――。 「い、やああああああああああ!」  甲高い悲鳴が夜の空気を貫いた。 「もう痛いの嫌ぁっ。何もしないでぇ……っ。触らないでっ。触らないでぇ……っ」  両手で頭を抱え、地面に丸まるようにして少女は叫んでいた。呆然と見下ろす熱田に明 らかな怯えの視線を向け、流れ出した涙が頬を濡らし始める。 「な……に?」  ――分析――錯乱――分析不能。  明良のいきなりの錯乱は、演技ではなかった。油断を誘うためのものであればそれなり の気配というものを熱田は感じ取る自信がある。それが一切無く、少女は覆いかぶさる熱 田に怯え、ただ泣きじゃくり始めていた。 「なんだ?」  疑問を口にした時だ。 「社長!」 「な……!?」  誰かの叫びに顔を上げた熱田は、目の前に迫る蹴り足を反射的に腕で受け止めていた。 地面に両膝を着いているために衝撃が逃げずに身体の芯まで響き、ほんのわずかの時間だ が意識が真っ白になった。それでも身体は訓練の通りに動き、新しい敵に対して立ち上が って構えていた。  白い靄が失せた後に見えたのは、明良を庇うように立つ一樹の姿。  ──分析──獅子殿一樹──EDGEランキング暫定一位。 「獅子殿」 「勘違いするな。お前の相手はあくまで『スパイラル』だ」  手を伸ばし、青年は明良を抱え起こした。嗚咽する少女は死体か気絶した者のように力 が抜け、膝は立つことに耐えられずにすぐに崩れ落ちた。膝を着く少女の耳元で、一樹は 言う。 「そう言えば、寝技は俺としかしたことがなかったな」 「ひっく……かず……き、くん……?」 「俺がわかるか。俺の名前は」 「かず……きくん。かずき、くん。かずきくん」 「ああ」 「一樹くん、です」 「そうだ」  段々と落ち着いてくる声。震えが止まる肩。  ――分析――状況――分析不能。  何が起こっているのか、熱田にはわからなかった。しかし少女が本来の自分を取り戻し つつあるのはわかり、『その時』に向けて呼吸を整えておくのを忘れない。  やがて、明良の状態を見て取った一樹は静かに告げた。 「行け、『スパイラル』。今度は確実に潰せ」  熱田に振り返った少女は、先程とはまた別物の瞳を持っていた。  一番最初、熱田以外の者と戦っていた際は、いやいやながら防衛のために戦っているよ うだった。  次に熱田と戦った際は、燃え上がるような使命感で積極的に戦っているようだった。  それらに比べ、今少女が向けてくる瞳は、さらに一段戦闘向きに進化しているように見 えた。 (こいつの気持ちの切り替えスイッチはいくつある?)  まるでその違いは『命令が変わったから』のようだった。  ――潰せ、と。  あれほど表情豊かだった少女が能面のように自分を見ていることに、熱田は背筋が寒く なるのを感じた。  まだ幼い少女が驚くほどの戦闘力を持っていることとその表情の変化が合わさって、余 計に『得体が知れない』。  それでも。 「『敵』が立っていれば、沈めるのが礼儀だな」  格闘家としての熱田は沸き立つものに笑みを浮かべていた。『エンターテイメント』は 対戦相手を楽しませてくれる。次に何が飛び出すか、不安と共に期待感が募る。 「お前は他に何ができるっ」 「なんでもできるさ」  明良に踏み込んだ熱田に、一樹が少女の代弁をした。  左手を壊しているために右の拳での突きから入る熱田の攻撃を、明良はやや身を屈めて 避ける。身長差を利して交差法の回転肘打ちを繰り出すと、大きな膝が明良の肘を跳ね上 げようとする。  それを待っていたかのように明良は彼の膝に片手を乗せ、そこを支点に前回り踵落とし を熱田の顔面に叩き込んだ。 「ぐっ!?」  後ろにたたらを踏む熱田を着地した明良が追う。  先程と同じ展開。  熱田は強打された痛みに耐えながら再びタックルを狙い、愕然とした。  少女がいない。  否、明良は熱田よりも低いタックルで彼の左足に組み付いていた。 (関節技? ――違う!)  明良が熱田の足を抱え込んだまま身を捻って宙に投げ出した。タックルの途中だった前 進の力を利用され、熱田の巨体が浮く。走るということは片足を浮かすということだ。そ の絶妙のタイミングを突かれ、二人は錐揉み状に回転して落ちる。  身体の側面を地に着いた熱田は、手首の痛みを無視して両腕で地面を押して半身を起こ し、四つん這いで振り返る。 (寝技は俺の得意な――)  少女はいない。  思ったと同時に、少女の蹴りが地面擦れ擦れから熱田の右手首を刈った。まだ完全に半 身を起こしていなかったために、彼の身体がガクンと落ちる。  ――分析――状況。  驚愕が熱田の顔に張り付く。 「それほどか、お前は……っ!」  熱田を転ばせた明良は、そのまま前転と横回転で寝たまま移動していた。体操の鞍馬か ブレイクダンスのように手一本を地面に着いて蹴りを放った明良は、バランスが崩れるの に任せて地面に背中から落ちる。そこから寝そべった子供がするように横に回転し、尖っ た肘を相手の下がった肩口に叩き込んだ。 「グラウンドで打撃……だとっ」  肘打ちの流れのまま、少女は熱田の背中の上、右側面から左側面を転がる。半回転する とちょうど明良の腹が熱田の後頭部を押し潰している形になり、細い腕が隙間を縫うよう にして太い首にかかる。 (フロントチョーク!?)  慌てて自分の手を明良の腕と自分の首の間に差し入れようとする。しかし、なまじ細い だけに少女の腕は首に食い込み、そのような空間は生まれない。  少女の腕に力が入る。的確に頚動脈が絞まり、熱田は自分が気絶させられることを知っ た。  小さな少女。自分の年齢の半分ほどの少女。  ――分析――『スパイラル』。 (いるのか、こんな子供がっ!?)  それは、確かにエンターテイメントだろう。  意識に黒いカーテンが下りる寸前、熱田は自分の首が横に捻られるのを感じた。                 結  熱田の首を絞めたまま横に回転していた明良が動きを止めると、一樹は内心安堵の息を ついた。 (正直、研究されてからならこちらが負けていた)  二転三転した戦いの状況の中、一度は一樹が水入りしたことを考えれば、一勝一敗とい ったところだろうか。 「そこまでだ。『明良』良くやった」 「――あ」  ひとこと。  それで、熱田の首を絞めていた少女の能面に表情が戻った。「あれ?」という顔の後、 次にバツの悪そうな顔になって腕を放す。 「……やりすぎ?」 「こいつなら大丈夫だろう。良くやった」  良くやった。  その言葉が胸に染み込むと、少女の中のわずかな罪悪感は溶けて消えていった。すぐに 頬を染めて嬉しそうな顔になると、髪を結わいでいたリボンを抜き取り、長い黒髪を闇夜 になびかせる。  もう一度、少女の顔に眼鏡をかけてやりながら、一樹は言う。 「良くやった。良くがんばった」  ――それで、少女の眼中からは周りの惨劇は消え去った。ふふ、と胸を躍らせた明良は 頬を手で押さえて一樹の周りの子犬のように回り始める。  そこにおずおずと声をかけたのは、プロレスラーたちだ。 「お、おい……獅子殿プロデューサー」 「ああ、すまん」  一様に覇気を無くし、息を呑むような様子の彼らに一樹は氷よりも冷たい視線を向け、 余計ないさかいを避ける言葉を選択する。 「なかなか良い試合だった。そうは思わないか」 「あ、ああ……」 「雪辱戦ならばEDGEで受ける、と熱田社長に伝えておけ。社長ならば初戦から十位以 内、好きな選手を希望してくれ。相手への交渉は俺が担当する。試合の借りは試合で、だ」  普段ならば、偉大な先輩を叩きのめされた若者たちをこの程度でやり込められるはずも ないが、今は普通の状況ではない。彼らは、『エンターテイメント』に呑まれたままなの だ。  案の定曖昧に頷くプロレスラーたちに、一樹はダメ押しを告げる。 「今後は山の手プロレスの選手も積極的に取り入れていくつもりだ。熱田社長のコネだけ では資金繰りに苦しいと聞いた。全国配信のEDGEへの出場は悪くない話のはずだ」 「つ、伝えておく」  経営者レベルの話題にまで押し上げられ、自分で判断する権利は無いプロレスラーたち はついに引き下がった。中には不満げな者もいたが、仲間になだめられて、怪我をした者 たちを連れて去っていく。  あっという間に、金王八幡宮前はもとの静かな空間に姿を戻していた。  否、一人だけ、激しい戦いの後だというのに疲れも見せずにはしゃぎまわる少女が一人。  その光景を虚しいと一樹は思う。  『二年』前に一樹が引き合わされた少女は、常軌を逸した速度で成長し続けている。  長年獅子殿の技を磨いてきた自分や、人生を格闘技で生きてきた熱田たちをもあっさり と追い越し、荒唐無稽な世界へと突入してもその成長は未だに止まってはいない。 「ふふ〜。今日の一樹くん優しいですよ。もしかして、ちょっとは素直になったですか?」 「俺はいつも正直だ。犬のようにはしゃぐな」 「い、犬……!? か、可愛くない。一樹くんやっぱりひねくれ者ですっ!」  少し自覚があったのか、周りを駆け回るのをやめて明良が顔を赤らめる。両腕を広げて がなる少女の言葉を無視し、一樹はその姿を観察して虚しさをわずかだけ口元に乗せる。 (二年前は、人形だったがな)  とある事件の『被害』にあった少女を、武道を通じて社会復帰させるという名目だった はずだ。  閉ざされた心に薬物で刺激を与え、そこに反復的に一つのことを教え込んだ、と父―― 全国に支部を持つ護身獅子殿流の総帥は言った。 「もうっ。一樹くん、聞いてるんですか!?」  価値観の一元化が成されれば、人は全てのことをそれのためだけに行なう。他を認めず 狭量にはなるが、ひたむきで純粋にそのことのみにのめり込む。  武道が全てという価値観を刷り込んだのか、と最初一樹は思った。  武道のために生きる? それはくだらない、と父は言う。  『何かのための武道』であるべきだ、と。  格闘家ではなく、一般人の護身術として武道を教える組織の長としては正しい言葉だが、 やっていることは吐き気がする、と一樹は少女の姿の向こう側に浮かぶ父を睨みつける。  全国に名前を知られる格闘技界の太陽のような男。  いつでも主張が激しく、息子である一樹の意見すら一蹴する男。  ――彼を、自分の不出来なコピーと嘆いた男。  父の言葉など詭弁でしかない。 「一樹くん!」 「近所迷惑だ」 「う、一樹くんが反応しないからですよっ。さっき、うちに寄るって言ってたじゃないで すか。早く行きましょう。日付変わっちゃいますよ」 「……そうだったな」  していない約束に、青年は頷く。  病んだ心に『一樹』を与えられた少女は、彼の役に立つためだけに全てを習い覚えた。 運動能力も並以下だった少女が、まるでオリンピックの代表選手のように高い『性能』を 見せた際には、父は手放しで喜んだ。  『価値観の一元化による強い目的意識』という、強要ではない自身望むことによる健や かな成長。どの程度の効果があるかの実験は、成功したと言ってよいだろう。  ――最強の格闘家はいても、最強の格闘技は存在しない。それぞれ一長一短があるし、 強くなるということには人の資質というものが関係するからだ。  だが、誰もが強くなれる方法があれば?  どんな怠惰な人間であっても、その方法さえ使えば強くなれるとしたら?  人はその方法こそを求めるだろう。厳しい修行のいらない、最短である程度の強さを得 られる道を。  もちろん、明良ほどの成果が出るのは、同じように極端な刷り込みをした場合のみだろ う。『弊害』も、実用段階では無いに違いない。  弊害――『一元化された価値観の対象への欲求が満たされないことに対する自己補完』 とでも言うべきものだ。  明良という少女といるのがいたたまれなくて、一樹ができるだけ関わらないように距離 を取って接していたのがいけなかったのかもしれない。  能面のような表情の少女は、彼に慣れ慣れしく接するために、まず『子供時代』を捏造 した。存在しない『過去』の世界で育った少女は『現在』に至って明るく口うるさい幼馴 染になり、ある日いきなり現れた。  道場の隅でこちらをチラチラうかがうだけの少女が、たった一日で別人になった。それ からも、少女は何かあるごとに記憶を捏造する。『ご褒美を与えない一樹の代わりにご褒 美を作る』。  今の状況が、まさにそうだ。 (熱田に勝った褒美は、褒めてやった程度では足りないか……)  それでも『思い出』を増やされるよりは幾分マシだと一樹は心の中でのみため息をつく。  下ろした機材を抱え直して、二人は歩き出す。  青年の横を軽い足取りで少女が歩き、それは長年連れ添った相棒の距離。  ――これは何の嫌がらせだろう。  そばにいるだけで一樹の心を虚しく辛くさせ、離れればまた勝手に『思い出』を捏造し 続けるだろう少女。かといって積極的に戦わせるには心根が優しすぎ、言い含めることに よって戦闘中に感情を停止させた『スパイラル』を生み出させるのが一樹にはやっとだ。 いずれ、『スパイラル』越しにでも残った記憶によって、少女は罪の意識に苛まれるだろ う。それを優しい言葉で掻き消すのにもいずれ限界が来る。 「……泥沼だな」 「はい?」 「俺とお前の関係だ」 「なんです、いきなり?」  皮肉げに言った青年に、明良は小首を傾げる。それから、ハッと気がついたように背の 高い幼馴染を見上げた。 「まさか、浮気ですか!?」 「お前は一度病院に行け」  冷たく言う。少女は頬を膨らませる。  それはいつものこと。 (本当に、病院に連れて行きたいんだがな)  真実は欠片しか口から出ない。  全てを白日の下に晒すことは、少女の心にどのような悪影響があるかわからない。  好きではなかいかもしれないが、哀れに思う程度には、一樹はこの少女のことを気にか けているのだ。 (だから)  子犬のような少女のために父と戦う準備を始めて一年あまり。明良のEDGE参戦も全 てはその布石。 (親父、お前にも一度『痛い目』見せてやる)  誰よりも冷め切った青年の心の奥底には、そんな子供じみた『熱さ』が潜んでいた。                                    了