バーバリアン・デイズ 第ニ話 「スカウト」 序 「おい、マウスピースは?」 「いらない」 血相を変える中年のトレーナーにそう言い、穂高は背にしていた赤コーナーから進み出 た。途端にざわめいていた客の声が歓声に変わり、場内放送が激しく響き渡る。 『こ、これはチャンピオン、トレーナーの差し出したマウスピースをなんと拒否! 第四 ラウンドに来て、まさかのパフォーマンスだー!』 真夏の太陽のように肌を焼くスポットライトと、真四角のリングを取り囲むカメラが発 する稲光のようなフラッシュの渦。その中に汗の玉を飛ばして右腕を振り上げると、穂高 は赤いグローブに覆われた拳をリング対角線上の対戦相手へと突きつけた。 『KOせんげーんっ!』 「なめやがって……っ」 吐き捨てて、相手は両の拳を顎の前に揃えて構え、リング中央に向かって駆け出した。 低く縮こまるような構えは、しかし腕を引き絞り背筋が山のように盛り上がった弾丸のよ うな突進だ。 あっという間に目の前に迫った相手の顔に、穂高は冷徹な一瞥を向けた。 「酷い顔だ」 「な!?」 失望にも似た冷たい響きに対戦者がまなじりを吊り上げる。その顔は、穂高の言う通り 腫れ上がった痛々しいものだ。髪を短く刈り込んだ頭がいびつにゆがみ、膨れた瞼が目を 覆い隠している。 対して、穂高の顔には打たれた跡が一つも無い。運動量を示すかのようにその身体には 多量の汗が見られたが、整髪料で固めたまるで高速で移動する乗り物から身を乗り出した かのように後ろになびいた刺々しい黒髪は、まったく乱れていない。 「ふざけるな!」 間合いに入った対戦者が引き絞っていた左拳を真っ直ぐに放つ。穂高は頭を軽く横に動 かし、その一撃を避けた。舌打ちして再度繰り返される二発、三発の鋭いジャブを、穂高 はわずかな首の動きと上半身のしなりだけで捌き、 「……ふん」 「がっ!?」 目を細めると、無造作に自分の左ジャブを相手の顔面に叩き込んだ。パァン、と頭の弾 ける音がして、それが短い間隔で連発する。 「ち、く……しょう!」 鼻を打たれ、ほとんど閉じかけた目から涙を流して対戦者はラリアットのように大振り の右フックを放った。誰もがそのまま体当たりで抱きつかれる穂高を想像したが、素早く 背後にステップした彼はそれを難なく避ける。 「シィッ!」 またしても破裂音がして、フックで身体を捻った挑戦者の横面が弾ける。捻りに加力さ れて軋む首に観客が悲鳴を上げたが、挑戦者は血のついたマウスピースを吹き出しながら も凄絶な瞳で体勢を立て直す。 「こ、の……!」 前傾し、ゆっくりと右腕を振り上げる挑戦者を、穂高は両足でリズミカルにステップを 踏みながら待った。見下ろす瞳は冷ややかで、すでに目の前に相手に対する興味を失った 色だ。 対戦者が、足を引きずるようにして、一歩前に出る。それに合わせ、穂高は一歩下がっ た。さらに相手が一歩進む。ため息をつき、彼はもう一歩だけ下がった。 さらにもう一歩。そこで、対戦者は白目を剥いた。身体が硬直し、穂高を睨む形相だけ はそのままに、前のめりに倒れる。 「……根性じゃあ、勝てないんだよ」 盛大な拍手と歓声に、穂高はうんざりしたかのようにリングを下りていった。 1 穂高馨(ほだか・かおる)。 プロボクシングの現ミドル級日本王者。日本での最重量級を制覇した、暫定国内最強の ボクサー。 百八十五センチの長身に約七十キロの筋肉を張り詰めた肉体は、一見細身に見えるほど に絞り込まれた芸術品。長い手足から想像されるものとはまったく真逆の、小刻みなフッ トワークを重視したスピード感のあるスタイルを得意としている。 十八歳でプロデビューしてから二年間で王者となり、それからの二年間で通算五回の防 衛戦をこなし、その全てをKO勝ちしてきた異才だ。一部では強すぎると言われ、相手を 倒しても微笑みの一つも浮かべない様から恐れられすらされ、いずれ挑戦することになる 世界のベルトは獲得間違い無いと誰もが太鼓判を押す大器である。 ――だが。 (つまらない……変われない……) 東京ドームを目の前に置くボクサーたちの戦いの場、後楽園ホールを出た穂高は、着崩 したスーツの上着ポケットに両手を入れて歩きながら、焦燥に溢れた顔をしていた。 それはリングの上での冷徹な顔でも記者の取材を受ける際の嫌そうな顔とも違う、まだ 歳若い青年独特の、何かしなくてはいけないのにやることが見つからない、そういう年齢 相応の表情だ。 革靴の底がコツコツと地面を叩き、穂高は歩き慣れた道を背中にお碗型の東京ドームと、 きらびやかな東京ドームシティの観覧車やジェットコースターを背負って、水道橋駅方面 へと進む。土曜の夜にしては人通りは少なく、ポケットの中に握り拳を隠した思いつめた 様子の青年に声をかけるものは、いない。 (戦ったって感じがしない) 焦燥は、自分の試合にあった。 (それだけじゃない。最近、自分が強くなっている気がしない) ギリ、と奥歯を噛み締める。 停滞の文字が自分の中に見える。 何年もかけて自分の身体を鍛えあげ、強くなったと実感している。世間で強いと言われ ているボクサーたちを一蹴し、まともな打撃さえ受けずに勝利してきた穂高だ。しかし、 最近自分のレベルアップがまるで無い。もっと強くなりたいとは切実に思っているという のに、悲しいかな対戦相手たちはレベルアップを必要としない相手ばかりだった。 どれほど自分の意思が薄弱か、思い知らされた気がした。 楽に勝てるとわかっているせいか、練習にまったく身が入らないのだ。現世界王者です ら、穂高の目には安全牌にしか見えなかった。 (やれば絶対に勝てる。集中し、気を抜かなければ絶対に勝てる) ボクサーとして自分の階級で戦い続けるのであれば、肉体的及び技術的な成長は、もう 必要ない。ずば抜けてしまった彼のレベルに他の者が追いつくのは、まだまだずっと先の ことだろうから。 それでも強くなりたいと願うのは、穂高という青年が他の皆が思っているような無感情 な男ではないからだ。 (もっと、もっと強くなりたい) 何を目標として、と言われると難しいが、とにかく強くなりたいと願う心がある。停滞 は身体を錆付かせ、腐らせていく。 せっかく苦労して強くなったというのに、それは辛かった。 「…………」 短く嘆息する。 結局、明確な目標の無い漠然とした状態では気ばかり急いて、ろくな練習も出来ないと わかっているのだ。 そう思い、穂高が東京ドームシティと外を分ける神田川を渡った時だ。 「?」 水道橋駅の西口前で見かけた小さな人だかりと怒声に、穂高は怪訝そうに足を止めた。 そこから自分の名前が呼ばれた気がしたからだ。 (なんだ?) 見れば、穂高とそう変わらない年齢の若者三人が背の低い中年男を取り囲んでいた。青 年たちは背格好もまちまちだったが一様に険のある顔立ちをしており、興奮状態にあるの は間違いない。穂高の位置から見えるズボンの後ろポケットからのぞく金属の棒が、おそ らく小さなナイフの柄であることを察した穂高は細い眉をわずかに動かす。 (……止めるか) 事情を把握する前に、穂高は歩み出していた。喧嘩を仲裁して二次災害にあうのはよく あることであるが、仮にもボクシングの日本チャンピオンが見てみぬふりはできなかった。 だが、すぐに穂高は歩みを止めるはめになった。 「穂高の坊やを弱いと言ったことが、そんなに気に入らないのかい」 四十歳は近いだろう中年が、そう言って面倒くさそうに肩をすくめる。その言葉に穂高 は興味を引かれ、その小柄な男に視線を向けた。 「それとも、その後のゴミのようなおめぇらよりは万倍マシと言った方かい?」 飄々とした風体の男だった。英字のニュースプリントの開襟シャツを着て、ハーフパン ツ。その身長は百五十センチそこそこの小男だったが、血気盛んな若者に囲まれてもその 顔に焦りの色は無い。むしろ、面白がっているように口元には笑みが浮かんでいた。 頭は四角く、眉は濃く、髪はざんばらに伸びており、髭も剃り残しが目立つ。鼻も口も 耳も大きな作りだったが、唯一目だけは糸のように細く、そこから狡猾にうかがうように して正面の青年を見遣っていた。 穂高が驚いたのは、その中年が『太い』ことだった。半袖から伸びる腕、ハーフパンツ から伸びた足、どれもが分厚い筋肉に覆われたもので、指すらもまるで巨人のもののよう に肉厚だ。 小さな身体に、大きな四肢。異様なバランスの男だった。 しかし、青年たちは見下ろす優位によってそのことに気づけないのか、路上に唾を吐い て包囲網を狭める。 「穂高さんは俺らのガッコの先輩よ。そいつを馬鹿にされちゃあ、黙ってられねぇな」 「こぎたねぇおっさんとどっちがゴミだ? あ?」 青年たちの一人が後ろから中年の背中を蹴り、前にたたらを踏ませる。正面の者が中年 の襟首を掴んだ時、止めるべきだと穂高は思った。 が、遅い。 「ぎ、あぁぁぁ!?」 「ゴミはおめぇらだろう? ん?」 青年の肘があらぬ方向に曲がり、絶叫した。中年は襟首を掴んだ青年の肘を真下から掌 で突き上げた時と同じ何気なさで振り返り、自分を蹴り飛ばした相手の手首を掴んだ。 そして万力のような力で引くと、その肩がごりっと音を立てて外れ、前のめりになった 顎を鋭い膝蹴りが叩き上げる。 「ごっ!?」 歯が噛みあって火花が散り、一瞬の攻防で二人の青年が同時にアスファルトの上に倒れ た。 目を剥いたのは、最後の一人だ。 「お……なん……――のぉっ!」 「ほうほう?」 ナイフが抜かれたことに、穂高は眉根を寄せたが、中年は白い歯を見せて両手で青年を 招いた。 「言っておくが、おれぁ倍返しが基本だぜ?」 「死ね、ジジィ!」 勢い良く駆け込んで突きこんでくる。中年はわずかに軸をずらして斜め前に進み、あっ さり青年を横にかわすと、タイミングを合わせて突き出された腕を小脇に抱えた。 「ほれ」 「うわ!?」 足を引っ掛けると、簡単に青年は倒れる。ついでに腕を捻るとナイフが手を離れ、中年 は変わらぬ飄々とした調子で言った。 「倍返しの意味は、わかるだろ?」 「い――っ!?」 葱を折る鈍い音がして倒れた青年の肘が折れ曲がった。通行人が息を飲むが、中年はさ らに言う。 「おおまけにしても、今ので死ね一回分だよな? 二本目いっとくか」 それに対し、青年は引き付けを起こしたように荒い息で涙をにじませ、ぎこちなく首を 横に振る。 「すん……ません。すんません……でした。すん……ませんでした……っ」 「ほうほう?」 その言葉に、唐突に中年は青年を解放する。折れた腕が地に落ちた時、青年は呻き声を 上げたが、安堵感にボロボロと涙をこぼす。 それを見届けた中年は、無造作に路上のナイフを拾い上げた。 頷く。 「おめぇの言う通りだ。すまねぇんだよ」 「い――てぇ! いてぇええ!」 軽く手首のスナップで投げた刃は吸い込まれるようにして青年の太股に突き刺さり、上 がった悲鳴に中年は自分の顎を撫でてもっともらしく言うのだった。 「腕が折れようと足に何が刺さろうと、人間簡単に死ぬもんじゃあねぇよ。あ〜、人生の 先輩が教えてやるがよ、少しむかついたからっていちいち人に絡むんじゃねぇよ。んなの そこらの小僧っ子だって知ってるんだぜ? 世の中の『常識』ってやつだ」 しゃがみこみ、中年は順番に青年たちの財布を抜き取っていった。あまりのことに周り の誰もそれに文句をつけることはせず、呆然とした雰囲気の駅前に男の意外に通る声が響 き渡る。 「殴り合いなんざ、人生かけた時か、金がもらえる時だけでいいんだよ。じゃなきゃ」 と、膨れ上がった自分のポケットを叩く。 「損するぜ? なあ、坊や」 2 まるで当たり前のように声をかけられ、穂高は冷えた視線でその中年を見た。 わざわざ周りに聞こえるように大きな声でしゃべったりしていたその態度。最初から穂 高を意識していたとしか思えず、彼は判断を迫られた。 相手にするか、しないか。 その時間も与えず、男はガシガシと自分の頭を掻いて言う。 「試合、見させてもらったぜ。赤コーナーの後ろ、坊やの応援席ってやつだ。防衛おめで とうよ」 「……ありがとうございます」 低い声で応えつつ、穂高は不思議な高揚を覚えている自分に気がついた。掌にじっとり と汗を握りこみ、知らず知らずのうちに鼓動が早まっている。息が熱い。 ――感動するほどに見事なものを見たせいだ。 常人ならば眉をひそめる凄惨な戦いを見せた中年だったが、穂高は一格闘技者として純 粋にその強さに胸を打たれた。 (この人は強い……!) ボクシングとは違う、穂高にとっては彼岸の技術を使った戦いだったからこそ、自分と の比較を考えずに感動できた。圧倒的とは、ある意味美しいものだ。見ていてわかりやす く、爽快な気持ちになる。 それこそボクシングにおける自分の人気を支えるものだとは気づかず、穂高は目の前の 小さな相手を見た。畏怖にも似た気持ちが芽生えていた。 中年は「ん〜」と穂高を髪の毛の先からつま先まで嘗め回すように眺めると、満足そう に頷く。 「ふむ。やっぱり、いい素材だ。坊や、どうだい、俺と組まねぇかい?」 「組む?」 あまりにいきなりのこと。無視しても良かったのだが、穂高は即座に繰り返していた。 男はニヤリと笑って歩み寄り、穂高の胸を叩く。 「強くしてやるって言ってんだよ」 間近で言われたことに、穂高は目を見開いた。 強くなる。それは、穂高が望んでいることだ。 「日本中探したんだけどよ、なかなかいねぇもんだ。俺より『殴れ』て、他の技術がまっ さら。それでもって強さに飢えた若い奴なんてな。な?」 わかるだろ、という響き。 「坊や、おめぇ、強くなりてぇなら俺んとこ来い。色々おもしれぇこと教えてやるよ」 「……いきなり、ですね」 胸が高鳴る申し出だったが、穂高は冷静だった。これはいわゆるスカウトだろうか、と 状況をまとめていく。 スカウトであれば、ボクシングをやめて他団体に移れということだろうか。先程の動き を見れば、何か組み打ちありの団体。総合格闘技かもしれない。 ボクシングの日本チャンピオンという肩書きを捨てろ、と言うのだろうか。 「質問をよろしいですか」 「おう」 表面上は淡々と、穂高は尋ねる。 「俺をスカウトして、あなたは何を得ますか」 「当たり前じゃねぇか。カネよ、カネ」 ポンポンとポケットの財布を叩く。わかりやす過ぎるくらいに明快な答えだった。 「つまり、あなたは俺で稼ぐために、俺に勝たせたい。そのために強くしてくれるという わけですか」 「あ〜、半分はな」 「半分?」 「おう。もう半分は、面白れぇ作品ができそうだからよ」 怪訝そうな穂高に、男は両腕を広げて笑う。 屈託の無い、子供のような笑顔だった。 「完全なボクシングスタイルで戦う、オールラウンダー。全局面対応型ボクサーって言っ ておくか? そいつを、作ってみてぇのよ」 「全局面対応型ボクサー……!」 その響きに、穂高は事実震えた。 しかし、彼の中の冷静な部分がその誘惑に対抗する。そう、あまりに唐突過ぎる。穂高 の中の『常識』という大人の部分は、まだ納得はしていない。 一つ、深呼吸する。 「興味深い話ですが、しばらく考えさせて――」 「時間は待っちゃくれねぇよ、坊や。いつまでも自分が最盛期でいられるつもりでいるの か? あ? おめぇにゃもう、一分も惜しんでる暇はねぇんだ!」 穏やかだった中年が突如一喝した。空気に押されるかのような気迫に息を呑み、穂高は 一歩退いて頭一つ以上下にある相手の瞳を見る。細い目の奥には、射殺すような鋭い光が あった。 「こちとら、ダテや酔狂で言ってるんじゃねぇ。時間がねぇ。手っ取り早く、坊やの弱さ を見せてやろうか? 俺の強さを見せてやろうか?」 「……面白い」 棒立ちのままの相手に気圧されつつ、穂高は拳を肩の高さで構えた。革靴がステップを 踏み始め、段々とその動きが速く小刻みになっていく。 穂高が誰であるか知っている見物人たちが顔色を変えた。試合よりも真剣な顔で、穂高 は目の前の男を睨みつけた。 「先程のあなたの弁なら、つまり」 「おう。人生かけてる親父をなめんなよ、チャンピオンっ」 それが口火となった。 先手必勝とばかりに穂高が一歩踏み込んで左ジャブを繰り出した。相手の強さを見た後 だけに手加減の無いそれが、綺麗に中年の顔面を後ろにのけぞらせる。 さらに半歩ずつ踏み込んで連続でジャブを当てていくと、男は両腕を上げてその拳を防 いでいく。 (……痛い) グローブの無い拳で打ち込む感触に舌打ちし、穂高は中年の周りを弧を描くようにフッ トワークする。横に回りこんでジャブを打ち、相手の腕の隙間から頬に拳をめり込ませる。 「ほうほう。さすがに……たまらんなっ」 守りを固めたまま男が身を振って、円を描く穂高に接近する。いきなり目の前に現れた ように見えたのは、背の低さ、足の短さを利用した小刻みな蹴り足のダッシュのせいだ。 そう気づいた時には、分厚い拳がフック気味に放たれており、穂高は慌ててバックステッ プした。 それを男が真っ直ぐに追いかける。 (小回りは相手が上か……っ) 背が低いということはマイナスに捉えられがちだが、こと戦いに関してはそれは絶対で はない。手足の短さは短距離での加速に有利であるし、ステップの小回りに関しては手足 が長いほどに不利となる。いくら穂高がミドル級で圧倒的な速度を誇っていようと、三十 センチ差のある相手では速度で負けるのは自明の理だ。 すぐさま肉薄した男の突き上げるような拳を片腕で外側に弾く。連続して横振りに襲い 掛かるもう片方の肉厚な拳を上半身を反らしてかわし、ぎりぎりのところを掠めていく拳 がかなりの威力を秘めていることを見極める。 しかし穂高は冷静さを失わずにジャブで応戦した。一発拳が当たると男の攻撃が止まり、 ナイフで滅多刺しにするように矢継ぎ早に穂高はそれを繰り返した。身長差が出て、相手 の拳の届かない距離から穂高が押し返していく。体重差による打撃の威力の差もあり、細 かい連打に見る間に男の顔が赤く腫れ、歪んだ。 だが、時には鼻に当たり、時には額に当たる拳は皮が剥け、血が滲む。全力で打ち込め ば骨が砕けそうな痛みに、穂高は左を庇って右を使った。踏み込んできたところに突き上 げるアッパーを合わせると、腕を十字にして受けた男が後ろに弾け飛ぶ。 「つぅ……馬鹿みてぇなパンチ力だな。いーい感じだぁ」 両腕にも痣を作りながら、男はペッと血の混じった唾を吐く。 「だがな、全力で打ち込めてねぇな? 拳が壊れるのがこえぇか。そこのところ、減点だ」 「なら、次は打ち抜きますよ」 自分でも驚くほど冷静に、穂高は右拳を握り締めた。一回の使用で、感覚は理解した。 それでも決着は急がない。自分のスタイルを堅持する穂高は、あくまで軽快なフットワ ークからのジャブを中心に攻め立てる。 「シィッ」 「ほう!」 空気を切り裂くほどの左ジャブが命中した瞬間、それに男の右腕が絡んだ。男が腰を落 とすと肩の上で極められた肘が軋み、穂高は無表情の眉を震わせて大きく踏み込んだ。 「ほう!?」 驚きの声を上げて男が身をくの字にした。穂高の右のボディフックが折り畳み縮こまら せた男の左腕の二の腕で防がれ、だがその威力は防御を貫通してあばら骨に達したのだ。 硬直した男に再度右のボディを打ち込もうとしたところ、腕が解放された穂高は冷や汗 が背筋を伝うのを実感した。 「ふう……」 感じたことのない恐怖に深く息を吐き、呼吸を整えながらステップを踏む。 (次は折られる) ジャブを取られたことは驚きだった。最初から顔面を打たれることを想定していたとし か思えない。それでも、顔面一回の打撃と肘関節の破壊ではお釣りがくるということだろ う。 圧倒的有利に戦いを進めながら、穂高はロシアンルーレットをしているような気持ちに 気力を奮い立たせた。相手がどういう格闘技なのかもわからないが、とにかく組み付かれ ないように集中する。 (冷静に、集中して、自分のリズムで) 自分に課した三つの掟を守り、完勝する。それが穂高馨だ。 対して男は脇腹をさすり、 「たまらんな、実際……」 両手に唾を吐いて、こすり合わせた。左足を前にして膝を屈し気味にし、低い重心で頭 の左右を守るように両腕をこめかみにつける。 まるで頭を抱えて怯える子供のような姿に、穂高は一瞬だが意表を突かれた。 「じゃあ、そろそろ授業開始といくか!」 弾丸のように男が前に出た。それを拳で迎撃しようとした穂高は、その頭の低さに絶句 する。もとから小男が、目一杯低い姿勢で頭から駆け込んでくるのだ。 (拳が届かない!?) 打ち下ろし。いや、真下に充分な威力で打ち抜くことは難しい。 予想外の体当たりにボクシングの定石を破られながらも、穂高は自分の持ち味であるフ ットワークで避ける。 (真っ直ぐ下がっても駄目だ。横に避ける) 闘牛士のように頭突きを食らう直前で横にステップする。 「な!?」 かわしたはずの男が腕を横に広げて穂高の腰を捉え、ついに青年は驚きの声を上げた。 直後に片足を持ち上げられたと思ったら、残った足を払われて背中から路面に落ちる。 「か……!」 「かわしたはず、かい? パンチとは違うんだよ」 それが笑みという表情だと知覚する時間も無かった。視界が握り拳に埋め尽くされ、衝 撃が顔面を襲った。前からだけではない。後頭部がアスファルトに叩きつけられ、寺の鐘 を突く槌で叩かれたような錯覚が頭の中で弾ける火花の形で現れる。 「……ぶっ」 一撃で潰された鼻から熱いものが溢れ、あるいは喉に流れ込む。それにむせた穂高は、 再び振り下ろされる拳に無意識に反応した。寝転がったまま、馬乗りになった相手の顔に 向かって拳を跳ね上げる。それを軽々と弾き、男はもう一発。 「が……っ」 「ほれ、殴りあいだ。坊やの得意分野だよ」 「ちぃ……!」 「ほうほう」 試合の中でも無表情を貫いた穂高が、顔を歪めて拳を突き上げる。しかし、寝転がった 姿勢からの攻撃は全て男にかわされ、そして弾かれる。それでなくとも、馬乗りの男がほ んの少し身を動かすだけで、拳は届かなくなってしまう。 ひとしきり穂高の反撃を眺めた後、中年が攻撃を再開した。今度は避ける、と集中した 穂高は、側面からの見えない一撃にこめかみを打たれた。顔が横を向いたところを、今度 は真上から鈍器のような拳が叩きつけられる。顔を歪めて暴れるが、巧みに重心を移動し ているのか、男は馬乗りのままバランスを崩さない。それどころか、身をよじる穂高の頬 に、鼻に、顎に連続して拳を打ち込んだ。 「どうだい、坊や。こいつぁ、テクさ。技術。坊やの知らねぇ方面のやり方よ」 「ぐ……おぉ!」 「意外に負けず嫌いだわな。だがな、テクの差は根性じゃあどうにもならねぇよ」 何度も殴られ霞む視界の中で、穂高は咆哮してせめて一矢報いようとした。だが、それ すらも軽く掌で受け止められ、穂高は歯軋りをする。 (なんだ? なんだ!?) あまりにあっさりとした逆転劇に、冷静を謳った思考に亀裂が入る。倒されて、殴られ て、負けか? こんなに簡単に、俺の負けか? 根性ではどうしようもならない。勝負は技量が決める。冷静さを失わず、力を存分に発 揮した結果、技量の低い方が負ける。 それは穂高が挑戦者に言ってきたことだった。気持ちの入る余地の無い圧倒的な差を見 せ付けたからこそ言える言葉だった。 (その俺が、殴り合いで――) 思考を一発の拳が寸断する。組み打ちではない。拳が雨のように降ってくる。上かと思 えば横。横かと思えば、頭を手で押さえつけられてから確実に。華麗にフットワークを使 い、無傷で相手を制する青年の顔が赤黒く腫れ上がっていく。 両腕で顔を覆った。その腕ごと殴られる。助かったと思った。間を縫うようにして、狙 いすました拳が口を殴打した。口内の裂傷に鉄の味が舌に絡みつき、鼻血とそれに呼吸が できなくなる。 もう中年も口を開かなかった。組み敷いた穂高に事務的に拳を振り下ろし、細い目で様 子をうかがう。 鈍器が肉を打つ音が止まったのは、二、三分もした頃だった。 結 「ふむ、こんなもんか」 呟いて、中年は立ち上がった。いつの間に意識を失ったのか、穂高は大の字に倒れたま まピクリとも動かなかった。顔は無残に鼻血に染まり、白目を剥いた目が虚空を睨みつけ ている。 周囲でその出来事を見ていた決して少なくはない者たちは、絶句のあまり静まり返って いた。警察を呼ぶなどという考えは、誰にもなかっただろう。 そんな人々の中、男はおもむろに穂高の身体に手をかけると、その長身を自分の背に担 ぎ上げた。 そして。 「つぅ……こんだけ叩かれたのも久しぶりだぜ」 ボクシングの日本ミドル級チャンピオンを連れて、いずこかへと去っていった。 電車ではなく、徒歩で。 青年の知らないどこかへと。 了