バーバリアン・デイズ 第一話 「御曹司参る」 序 拝啓 九頭宗助殿 春風駘蕩の季節、いかがお過ごしでしょうか。貴殿に於いてはめでたく大学に進学し、 益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。 さて、私も十八の歳を数えるにあたって古き因習により都会に進出することとなりまし た。筆不精の私がこうして筆を取りましたのは、都会の世情に疎く無作法な私に、都会で の生活の長い貴殿からの助言を賜れないかという思惑あってのことです。 恥知らずとは存じますが、幼き日の交友に免じ、このぶしつけな願いを聞き入れてはい ただけないでしょうか。 積もる話もありますが、生来の筆不精のため、用件のみの手紙で失礼します。 乱筆お許し下さい。 敬具 小笠原源一郎 1 旧友からの手紙を受け取った四日後、九頭宗助(くとう・そうすけ)はまるで祭りのよ うな雑踏の中にいた。 赤になる度に百人単位で人ごみが生まれる信号が幾つも集まった分岐点。駅の出口から 顔を出せば車の音さえ掻き消す大人数の足音と、ラジオのノイズのように意味の取れない 四方八方からの人の声。 日本でもこれほど連日人間が集まる場所はあるまいという大繁華街、渋谷だ。 ハチ公口から出た宗助は、向かって左手側にある有名なハチ公像に背中を預けて、十年 ぶりに会う友人――小笠原源一郎(おがさわら・げんいちろう)を待っていた。 土曜日の渋谷は予想通りに混みあい、交通の要所であるハチ公前広場には宗助の他にも 無数の人間が足を止め、待ち人顔をしていた。待ち合わせのメッカとは、よく言ったもの だ。人々はこのハチ公口で合流し、繁華な渋谷の町に繰り出すのである。今も仲間を見つ けた女学生が笑顔を見せながら、人が連なる横断歩道前に歩いていく。 この駅前を始点として、道は大まかに五方向に伸びている。左右に進めば駅をぐるりと 回りこむことができるし、人のたまる正面の大枝状路の信号を渡っていけば、それぞれテ レビで何度も名前を聞くショッピングストリートに進むことができる。 さしあたって宗助がすべきことは、自分の出てきたハチ公口、それから左右の別の改札 からの道を注意しておくことだった。JR山手線を利用してやって来ると連絡されていた ので、それで間違いないだろう。 「源一郎か……どんな感じになったんだろ?」 午後一時五分。昼飯時で一番人が混む時間帯だ。時刻を確認したブルーメタリックの携 帯電話を白いTシャツの上に羽織った緑の開襟シャツの胸ポケットにしまい、宗助は旧友 のことを思った。 九頭宗助と小笠原源一郎は、世間で言うところの幼馴染だ。日本一の霊峰富士山を見上 げる小さな山間の村に二人は生まれ、八歳になる時まで一緒に過ごした。観光地から微妙 に外れた村は閑静だったが自然豊かで、昔ながらの美しさを十二分に残し、隠れ場所の多 い森は自分たち子供には最高の遊び場だったことを覚えている。 『よし宗助、八重(やえ)、わしについて来い!』 陽に焼けた裸の上半身に、薄っぺらい胸板。小学校低学年の少年が白い歯を見せて二カ ッと笑う。 ずいぶん昔のことであるのに鮮明に覚えているのは、村に子供が少なかったからだろう。 ほんの十人足らずの同年代の中、宗助と源一郎、それから木月八重は特別に仲が良く、 いつも一緒にいた。生まれつき身体が弱く、周りより一回り小さかった宗助を源一郎は連 れ回し、喧嘩の時には代わりにその幼い拳を振るってくれた。 『わしの友達をいじめる輩は、わしが許さんぞ』 ガキ大将、そう表現するのが似合う少年だった。家が古武術の道場で活発な彼と、家が 医者で大人しく内向的な自分だったが、不思議と話題は合った。一緒にいるのが楽しかっ た。 親の都合で宗助が村を出る際、大泣きしたのは源一郎の方だ。釣られて、おかっぱ頭の 八重や親に手を引かれた自分まで声を上げて泣いた。 今思えば可愛らしい子供時代だ。 それから十年が過ぎ、なんとなく村に帰る機会も無いまま成長した宗助は、自分には当 時の面影はほとんど残っていないと思っている。 低かった身長は人並みに伸びて百七十センチちょうど。中学の時に一念発起して入門し たフルコンタクト系空手のおかげで、薄っぺらだった身体にも多少の筋肉もついた。適度 な長さの髪を中分けにしており、顔立ちは中性的で子供の頃の大人しさの欠片が残ったや わらかさがあって、本人は少し気にしているがそれも許容範囲だ。眼鏡はシャープなメタ ルフレームのものを愛用している。 「そろそろかな?」 待ち合わせは午後一時。大幅に遅れる場合は携帯電話に連絡してくれるという話なので、 宗助は目を凝らして落ち着かなげに左右を見渡した。 同時にワッと歓声が上がったのは、広場の一部を占拠して行なわれているストリートフ ァイトだ。 人垣の間からわずかに見えたのは、宗助より二回りも大きな男が痩せ型の男を抱え上げ、 いわゆるプロレスのブレーンバスターで落としたところだった。それで決着がついたのか 拍手とマイクによる放送が入る。 「そういえば、土曜日はEDGE(エッジ)の日だったっけ」 Equal Duel Gallant Equality――通称EDGEという団 体が主催する異種格闘技戦がエンターテイメントとして世間に認知されたのは、ここ数年 のことだ。 プロ格闘家だけではなく広く一般からも自由参加の選手を集め路上にて雌雄を決する方 式で、意外にもプロ格闘家が街の喧嘩自慢に敗れるという事態が多く起こるために、格闘 技ファンは注目せざるを得ない。屋外での戦いは事実上ルール無用であり、刃物や銃器、 スタンガンなどを除けば武器の使用も禁じられていない。体重による階級制度も存在しな いため、まさに技術云々ではなく正直に『強さ』を比べることになる競技である。 そのために時折過剰なまでに凄惨な試合が生まれ、それを非難する声もあるが、主催者 側も現場に一流の医療スタッフや制止スタッフを揃えている。場所が常にハチ公口などの 交番前であることも、妥協の結果だ。何より、未だに死人や再起不能者の一人も出ていな いことが、管理体制の確かさだと主催者側は言う。 路上であるために観戦費も無料で、収益は試合の映像のネット配信契約料で得ていると いう話だ。 おりしも、土曜日は平日夜に行なわれているEDGEが昼時に行なわれる曜日だったの である。 「……ちょっと見たいかも」 好きな選手でも来ていないか、と背伸びしてしまう宗助は、月五百円のネット配信契約 をしっかり結んでいる。自分の所属する空手流派の選手も参戦しているため、応援してい るのだ。 だが遠路はるばるやって来る旧友を待つ身ではおいそれと動くわけにもいかず、宗助は 未練を残しつつも視線をハチ公口に戻した。すると、目についた人物に思わず視線が釘付 けになってしまった。 萌黄色の着物に紫陽花の帯を巻いた女がいた。気付けば他にも何人かがその人物に注目 していたが、それも当然だと思った。大都会渋谷のこと、着物を着ている者は少ないとは いえ全くいないわけではない。しかし、着物を見事に着こなしている者となると、さすが に珍しいのだ。 しかも、宗助と変わらない年齢に見えるその女は、男たちの目を引き寄せるに充分な容 姿も兼ね備えていた。肩にかかる程度の黒髪の端整な顔立ちの美人で、日焼けなど知らな いかのような肌の白さが印象的だった。落ち着いた表情のせいか大人びて見え、前に合わ せた手に小さな無地のモノトーンバックを提げている姿には清楚さすら漂っている。 そこだけ雑音の消え去る静けさと、柔和な人好きのする微笑み。 「って、あれ?」 なんで微笑まれているんだろう、と思った時には、その美人が目の前に来ていて宗助は 目を白黒させた。そんな宗助の混乱に構わず、着物の女は綺麗に腰を折って頭を下げる。 「お久しぶりです、宗助くん」 「は? はあ、すみません、どちらさまですか?」 優雅な一礼に会釈を返して尋ねると、美人は「ふふ」とその笑みを深くした。そうする と歳相応の幼さが見え隠れする。 その笑顔には、見覚えがあるような気がした。 「もしかして、八重ちゃん?」 「はい。改めて、お久しぶりです」 「うわあ、びっくりした。久しぶり!」 間違いなくそれはもう一人の幼馴染、木月八重だった。懐かしさに相手の中に昔の面影 を探すと、確かに日本人形そのままだった少女の成長した姿だ。源一郎を真ん中にして、 彼の左右の手をそれぞれ握った仲である。 「源一郎と一緒に来たの? あいつは?」 冴えない青年になった自分に対し、ずいぶんと美しくなった八重に照れて頬を掻きなが ら訊くと、彼女はふと表情を暗くした。 「それが、少し目を離した隙に逃げられてしまいまして」 「逃げっ!?」 目を剥く宗助に、八重は真剣な顔で頷く。 「電車を下りたところまでは良かったのですけど、そこから人に紛れてしまって……どの 改札から出たのかもわからないので予定通りこちらに来たのですが、いないようですね」 「それっぽいのは見てないよ。さすがにハチ公くらいはわかるだろうし」 呆れながら、宗助は八重の長いまつげに見入る。近くで見ると、本当に綺麗な顔をして いた。 「あの方の奔放ぶりにも困ったものです」 ため息をつく姿も様になっている。 不意に不安になるのは、自分の立場である。 いきなりやって来た着物美女。天下のハチ公前での合流。明らかに見劣りしているとわ かる自分の容姿。面白くなさそうな周囲の視線は当然として、今はEDGEによって血気 盛んな若者が集まっている時間帯だ。 「うわ、やばっ」 「何がですか?」 唐突に嘆いた宗助に、八重が控えめに首を傾げる。細い首だなあ、と思った途端、嫌な ものまで見えて宗助は天を仰いだ。 「最悪だ……」 「よう、九頭。お前もEDGE観戦?」 宗助を見つけて親しげに声をかけてきたのは、空手道場の同輩だった。背は宗助と変わ らない程度だが、筋肉のつき方が一回り近く違う。その割りに顔にはその逞しさがなく、 セミロングの髪を流した優男だ。確かに顔見知りではあるが、宗助の方で親しくした覚え は無く、どちらかというと疎遠な相手である。 「俺は上原先輩が出るって言うから見に来たんだが、こっちは彼女? まさかな。はは。 どうも、海老名です」 すぐさま自分を無視して、やや強引に八重と握手した男に宗助は顔をしかめた。ほとん ど会話らしい会話もしたことはなかったが、道場ではその腕前と共に問題のある性格で有 名な男だ。 今も八重の手を握ったまま放す気配は無く、彼女に戸惑った視線を送られて宗助は下腹 に力を込めた。 (ビビるな……――よしっ) 幼馴染が絡まれているとあって、気合を入れて進み出る。 「なあ、EDGE見なくていいのか?」 出た言葉は、そんな穏便な言葉だった。本当はもっと勢いのある言葉で無礼を咎めたか ったが、口論や殴り合い、つまり喧嘩にしたくはないという気持ちが表に出てしまった。 海老名の表情が明らかに小馬鹿にしたものになり、彼は肩越しに背後を見やって言う。 「まだ先輩の試合じゃないだろ? お前見たいなら見てきたら?」 「いや……俺、この子と一緒に人待ってるから」 「ならいいじゃん。ちょっとしゃべってようぜ」 「あ、うん。別にいいよ」 顔をぐいっと近づけて言われた宗助は、思わず曖昧な笑みで頷く。互いの息も届く距離 で、海老名が失笑したのを目にし、頬がカッと赤くなった。 「あの……失礼ですが、手を」 「お、すみません。触り心地が良かったもので」 いけしゃあしゃあと言い放ち、ようやく八重の手を解放する。それでどうするのかと思 えば、今度は宗助の肩に腕を回して耳元で囁いた。 「お前、あっち行ってろよ。気を利かせろ、な?」 「な……おいっ」 「サンキュ」 EDGEの方向へ背中を押され、宗助は呆然とした。 追い払うどころか、あっさりと追い払われてしまった。その意図は極めてわかりやすく、 引き下がって良いわけはなかった。 「海老名、お前何考えてるんだよ」 それでも出たのは軽い非難の言葉だけだ。相手の嘲笑がさらに濃くなり、彼は右の拳を 宗助の胸に押し付けて目を覗き込んできた。 「何考えてるって、なんだよ?」 「それは……」 声は優しいくらいだったが、押し付けられた拳は予想以上に押す力が強い。両手でその 拳を掴み、笑みさえ湛えた強い視線から目を逸らすと、不意に不安げな八重の顔が見えた。 (何してるんだ、俺?) 連れが絡まれているというのに、ちょっと強い態度に出られただけでどうして注意の一 つもできないのか。曖昧な笑みを浮かべるだけで、上手い言葉が浮かんでこない。婉曲な 言い方では相手には通じないとわかっていても、それをするには足に痺れにも似た感覚が こびりついて一歩を踏み出せない。 「わかってるのに訊くなよ。めんどくさいよ、お前」 萎えた足は、振るわれた軽い拳を避けることもできなかった。ごつ、と音がしてつつく 程度の正拳が鼻面を打ち、宗助は後ろにたたらを踏んだ。足が滑って尻餅をつき、力の抜 けた表情で海老名を見上げる。 怖い、と素直に思った。海老名個人というよりも、街中で誰かを注意するというのがこ れほどに怖いことだとは、宗助は知らなかった。 ただ相手が自分より強いと知っているだけで? 喧嘩になれば確実に負けるとわかっているから、腫れ物に触るようにして接しなくては ならない? 海老名は、もう宗助のことなど見てはいなかった。彼が馴れ馴れしく八重に手を伸ばす のを、宗助は情けないというよりも現実味のない気分で見ているしかなかった。 その時だった。 見上げる海老名の向こう側、彼を挟んだハチ公像の上に誰かが立っているのが見えた。 始めはぼんやりとした背景にしか見えなかったそれが、焦点が調整されてど真ん中に飛び 込んでくると、自分と同い年くらいの青年であることがわかった。 把握できたのは、その苛立ちの表情。 瞬間。 「喝っ!」 爆弾のような大音声が宗助の耳を貫いた。渋谷の喧騒を破壊し、歩みを止めた人々が耳 を押さえて振り返る。耳鳴りすら残るほどの一喝に、宗助だけではない、全ての者がハチ 公像を見た。 「情けないっ。宗助、おぬし都会での暮らしで腑抜けたか!」 その鮮烈な印象。忘れるはずもない時代錯誤な言い回し。 「いつまで呆けておる。さっさと立って決めよ!」 他人の尻を叩く、その言葉。 意識せず宗助は地面に手を突いていた。力を込める。足を伸ばそうとすると、しっかり その足は動いた。 「戦うか、それとも戦わざるか、今すぐに決めよ!」 「――戦うっ!」 知らず大声が出ていた。 注目を浴びたが、どうでも良かった。海老名がこちらを見たのがわかったが、そんなこ とは些細なことだった。 心が高揚する。意気地なしの、喧嘩を避けたがる青年が、負けず嫌いで野を駆け巡って いた少年に戻る。 それだけの影響力が、彼との子供時代にはあった。 ――覚えてる! 「戦うよ、源一郎……っ」 負けてはいけない思い出が、鮮明に蘇った。 2 誰にでも、心の中には原風景と呼ばれるものがある。 今の己を形作った原体験。その思い出の風景は、宗助にとって頬や膝の痛みと泣き声の 中にあった。 宗助は、いわゆる病弱な子供だった。医者の家に生まれたのは幸いだったのか、皆で遊 んでいても学校にいても何かと貧血を起こしては家に担ぎ込まれていた。 田舎の村でのこと、子供たちは野山を駆け回ることが遊びだ。自然と足手まといは淘汰 され、宗助は仲間外れにされるようになった。一度など、猿蟹合戦のように柿の木の上か ら実を投げつけられたこともある。どん臭い少年は、他の子供たちにとって楽しいからか いの材料だったのだろう。 だけれど、そんな宗助を源一郎は引っ張りまわした。 「おぬしと仲良くしていれば宿題には困らん」 よく冗談めかして彼は言っていたが、ただの子供らしい打算だとは言いきれない。 「おぬしは身体は弱いが頭がいい。わしなど、親父殿にもっとマシな点を取ってこいと殴 られっぱなしじゃ。おぬしはクラスで一番じゃからな。わしらバカよりも上ということじ ゃ」 そう高らかに笑っていた姿は、本当に小学生だろうか、と今では思う。おそらく、彼は 酷く早熟だったのだ。 楽しい思い出は、どれも彼と共にあった。八重と共に彼の手を取って山を歩き、木登り を教わっては膝を擦りむいた。夏の陽射しに貧血を起こして倒れても、彼らが一緒ならば それも笑い話だった。 しかし、宗助が他の子供たちから厭われていたのは変わらなかった。特に源一郎は人気 があったし、八重もクラスの男子皆がほのかな想いを寄せる相手だったことが影響してい たかもしれない。 田舎のいじめは陰湿さは無いが、直接的だ。 気がついたら殴られていて、呆然としたことを覚えている。色々言われた気がするが、 記憶に留めてあるのは悪口の類ではなく、それらを全部聞いた後に源一郎が言った言葉だ った。 「腑抜け」 その言葉は、何よりも効いた。 わかってしまった。 源一郎がそう言ったのは、自分がひとことも言い返さなかったからだと。 身体が弱いだとか頭が良いだとか、そういうものとは関係ないところで自分が『弱い』 ところを見せてしまったからだと。 そんなのは嫌だった。 村でたった二人の友達を失うのだけは、嫌だった。それくらい二人のことを、宗助は好 きだった。 だから、去ろうとしていた子供たちの中に突っ込んだ。がむしゃらに腕を振り回して喧 嘩をした。色々なところを叩かれ、痛くて涙が出たが、突き飛ばされて転んでも宗助は立 ち上がった。ボロボロで、嗚咽しながら喧嘩したことなど、それが人生の中でただ一回だ けの経験だ。 すると、源一郎が肩を並べて言ったのだ。 「できるではないか」 と。 「度胸があって、頭もいい。誰が宗助をバカにできる。今後――」 その時の彼の言葉を、忘れない。 「わしの友達をいじめる輩は、わしが許さんぞ」 以後、宗助に対するいじめはなくなった。宗助が段々と丈夫になったこともあり、遊び にも参加させてもらえるようになった。 子供たちは、別に源一郎に言われたから宗助を仲間に入れたのではない。彼がただいじ めを甘んじて受けるだけの弱虫ではないことを証明したからだ。 故郷で宗助は認められた。 でも、と宗助は思う。 果たして、一人であの反撃ができただろうか。自分がいじめられることだけが原因で、 あれほど気持ちの入った喧嘩ができただろうか。 答えは、否だ。 結局自分は弱虫で、普段は喧嘩なんてする気にはなれない。誰かに意見するのも苦手だ。 あの時の力は、あの時だけ発揮できた特別な勇気だったのだろう。友達に見捨てられたく ない。それだけのことに切羽詰り、もう後が無いほどに追い詰められたからこそ出た力な のだろう。 そう、自分全部が百なら、自分の弱虫は九十九はあるのだと思う。 だが一つだけ。 本当に一つだけでも、自分の中には勇気の欠片があることをその出来事は教えてくれた。 どんな弱虫でも、自分の中の本当に大切なものを守るためならば、ひねり出す勇気はある のだと教えてくれた。 そして、それを発揮する時は――。 ※ 「――今だろっ」 ハチ公の上から見下ろす源一郎の姿に、宗助は拳を握り締める。 髪を後ろで短い尻尾にしている青年が、試すような鋭い瞳を自分に向けている。その豪 放な語り方が良く似合う狼のような覇気のある立ち姿。十年の歳月はガキ大将を一流の美 丈夫に仕立て上げていた。 やや吊り上がり気味の目は切れ長で、鼻は高くも低くもないが形は良い。引き締まった 口は大きめで、時代劇のような髪型もあり武士を思わせる清々しい容姿だ。背丈は百八十 センチに届くか届かないかといったところ。黒の無地の開襟シャツの袖を二の腕までまく り上げ、そこからのぞく分だけで服の下に田舎の生活で育まれたしなやかな肉体があるの だと予想させた。 間違いない。小笠原源一郎。宗助の旧友の成長した姿である。 「なんだよ、やるのか?」 いきなり空手の構えを取った宗助に、海老名が面倒くさそうに両足を前後に開く。二人 とも拳は左が肩の前で右が鳩尾の前。世間で想像される空手の型の構えよりも小ぶりで膝 のやわらかい、フットワークも重視する二人が所属する総合格闘技への進出も多いフルコ ンタクト空手流派の構えだ。 ──心がハイになっている。 やるかやらないかの問答の前に、宗助は大きく踏み出していた。震えていた足で、一歩 前へ。 「お!?」 牽制も何も無い右の拳が驚いた海老名の胸を強く打った。息を詰めた海老名が後退し、 宗助はそれを追って右の回し蹴りを放った。脇腹に入る寸前で海老名がそれを受け止め、 脇に抱える。 「こ……の!」 宗助の右足を掴んだまま海老名は前に出て、彼の眼鏡を叩き割るように拳を打ち込んだ。 不十分な体勢だったが腕の力だけでも充分に威力はあり、フレームの曲がった眼鏡が宙を 舞った。 「つっ」 一撃で仰向けに倒れた宗助が、顔をしかめて鼻を手で押さえると、ぬるっとしたものが 指を濡らした。少しぼやけた視界で見れば、赤い色だ。 「いつ〜っ」 しかし、それでも宗助は頭を振って立ち上がった。拍手が上がったのは、いつの間にか それが見世物になっているからだろうか。 ──そんなことは、どうでもいい。 もう一度、宗助は同じ構えを取った。海老名が舌打ちし、なんなんだよと吐き捨てる。 「お前、なんなんだよ。うぜぇよ、いい加減っ」 「!?」 言いながらのローキックが、宗助の足に叩きつけられた。痛みを堪えて顔を上げると、 拳の鋭い打突部が目の前にあって頬にめり込んだ。視界が歪む。さらに襟首を掴まれると、 頭を下げられ、真下からの膝蹴りが連発した。 「くうぅ……っ」 顔面を庇った両腕が折れるように痛い。だが、宗助は攻められながらも思考がすっきり していくのを感じていた。 身体は痛いけれど、心は痛くない。 隙を突いてつま先で海老名の脛を蹴る。弁慶の泣き所に、海老名が目を吊り上げて宗助 を突き飛ばす。ふらついたところに右の上段回し蹴りが襲い、どうにか腕で受けた宗助が 薙ぎ倒される。 ──心は痛くない。 「……気持ちわりぃ。何見てやがんだ」 ボロボロな四つん這いで見上げてくる宗助に、海老名は得体の知れないものを見る目を 向ける。先ほどまで喧嘩などとんでもないという顔をしていた弱虫の瞳ではない。まるで、 試合場で自分の前に立つ選手のような、覚悟を決めた瞳だった。 挑むような、自分の全てを出し尽くそうとする瞳。 (だが、もう立たねぇだろ) 手ごたえを感じ、海老名は宗助に背を向けた。 途端に周りが、お〜、と感嘆の声を上げて海老名は信じられない思いで振り返った。 「……気持ちわりぃ」 立ち上がった宗助は、ひたすらに同じ構えを取っていた。 「意味ねぇよ、お前!」 大きく右拳を腰だめに引き、海老名は満身創痍の宗助に全力の一撃を繰り出した。 それは威力はあるが、予備動作の大きい動き。 実力で遥かに劣るとはいえ、同じ道場で学ぶ宗助に狙えない隙ではなかった。自然に身 体が反応して、交差法──ボクシングのカウンター気味に宗助の正拳突きが海老名の顎に 炸裂する。 「がっ!? んな……っ!?」 踏み込みすぎたせいで勢い良く喰らってしまった海老名が後ろにふらつく。だが、宗助 はそれを見て前に進もうとして、クラリと目眩がしてその場に膝をついた。薙ぎ倒された 時に頭を打っていた影響だ。 ──吐き気がするけど、気持ちいい。 その宗助を、横から伸びた手が支えた。眼鏡が無いので目を細めて見れば、それは微笑 んだ八重だった。 「お見事です」 白いハンカチが、躊躇いも無く宗助の鼻に当てられる。宗助はしばらく、たおやかな指 が自分の介抱をするのに目をパチパチさせていたが、既視感の正体に気づいて自分も切れ た口元に笑みを浮かべた。 「あの時も、八重ちゃんにこうしてもらったっけ」 幼い原風景の再現。幼馴染のハンカチは、あの頃よりも甘い香りがするようだった。 それを引き裂くように、海老名が顎をさすりながら歩み寄ってきた。 「九頭、調子に乗るんじゃねぇぞ……っ」 頭に血が昇り、怒りを隠さずに浮かべた表情。 立ち上がろうとした宗助を、八重の腕が引き止め、さらにもう一人の人物が彼らの前に 立つ。 黒く、大きな青年だ。 「調子に乗っておるのはおぬしじゃろう」 「源一郎?」 「できるではないか、宗助。変わっておらんようで、安心した」 「……うん」 背を向けたまま肩越しに大きな口から白い歯を見せてニカッと笑う源一郎に、宗助は痛 みも忘れて満面の笑顔を浮かべた。 変わっていない。自分の弱虫の部分の多さも、この二人に軽蔑されないためだけには振 り絞れる勇気があることも。 進路を邪魔された形になった海老名は、目の前の源一郎を血走った目で睨みつけて低い 声で言った。 「どけよ」 「さて、おぬしに言っておくことがある」 「ど、け、よ」 「わしの友達をいじめる輩は、わしが許さんぞ」 ゆっくりと海老名が構えを取り、源一郎の笑みが刃のような鋭く険しいものに置き換わ る。 そして、宗助は十年ぶりに源一郎の学ぶ武術の構えを目撃した。ピクリと海老名の眉が 跳ねたのは、それがあまりに特異だったからだろう。 「なんだそりゃ。何かの古武術か?」 まず両足を開いて、やや中腰で左半身を相手に向ける形。伸ばした両手を相手方向に合 わせ、ゆっくりと右手を頭の上を通して引き絞る様は、見えない弓矢を構えるかのようだ。 左手は開手。右手も開手。 (掴み技?) 初めて見る構えに海老名も警戒心を煽られたようで、膝を軽くしてその場で身体を上下 に揺らし始める。 それを見て、源一郎が眉根を寄せる。 「落ち着きのない輩じゃな」 「リズムとってんだよっ!」 的外れなことを言われ、海老名が怒鳴る。 「調子狂うぜ、この時代錯誤がっ」 様子見に焦れて海老名が飛び込んだ。宗助の際には見せなかった素早い踏み込みだった が、同時に地面を蹴った源一郎の接近に海老名は息を飲んだ。 「合わせやがった!?」 牽制の左拳を海老名が繰り出す。対して、源一郎は全身で飛び込んで左肘を鋭角に曲げ る。 もし自分の拳で止まらずに相打ちになったら、肘で鳩尾をえぐられた自分の方が不利。 海老名はそう判断し、拳を引き戻して身体の軸を肘からずらそうとした。 瞬間、海老名の顔面が後ろに弾けた。 「なぅ!?」 何かがいきなり目の前に飛び込んできたとしか思えなかった。混乱する脳に、源一郎の 侮蔑の声が届く。 「ビビりおったな」 「が……っ」 ダァン! と凄まじい音が響いた。それが源一郎の踏み込みの音だとも気づけず、海老 名は自分の顔面に相手の右拳がめり込んだことだけは理解した。 視界が真っ赤に染まる。 「なん……何……がっ!?」 「御曹司!」 「加減はするが、許せよ八重。わしは少々……怒っておる!」 悲鳴のような八重の声。それすら振り切り、獣のように歯を剥き出しにして源一郎が動 く。なんとか目を開いた海老名が見たのは、自分の胸に迫る肘。痛手は覚悟で両腕で受け ようとすると、そこから鞭のように源一郎の『肘から先』がしなりながら現れる。 「そ──」 裏拳が海老名の鼻を叩き潰す。目に見えてへこんだ鼻から、トマトを握り潰したように 鼻血が吹き出し、溢れた涙の切れ間に再び相手の肘が見えた海老名は悲鳴を上げて顔を庇 った。 「ごっ!?」 衝撃は鳩尾にきた。左の肘をさらに右手で押し込むようにした全体重を乗せた肘打ちが、 海老名の身体を瞬間だが確実に浮かした。こみ上げてきた熱いものを口からほとばしらせ て身をくの字に折った海老名は、自分が見たものが理解できずに必死に否定する。 (本命を混ぜた肘のフェイント……しかもなんだ、ハンマー並の近距離裏拳!?) ありえない。思いつつも、顔と腹部の激痛。流れる血と胃液が全てを証明していた。 「なん……だ、おま……えっ」 「小笠原流鬼沓(きとう)術──宗家小笠原源一郎、古き因習により日の本が首都東京に いざ参った!」 それは宣言。 宗助が身を走った痛快さに思わず震えてしまったほどの堂々たる宣言。 最後の意地を振り絞って海老名が得意の右上段回し蹴りを放ち、明らかに遅れて出した 源一郎の回し蹴りの方が先にその側頭部を蹴り抜いた時、大歓声は約束されたのだ。 「成敗!」 ──渋谷の街が震えた。 結 「御曹司、探しましたよっ」 「すまんすまん。上手く逃げたつもりが、出口を間違えたみたいでな。何やらモヤイ像と やらを見てきたぞ?」 「……楽しかったですか?」 「おう」 どうやら渋谷駅を一回りしてきたらしい源一郎に、たしなめようとした八重がため息を つく。無理矢理険のある顔を作ろうとして失敗し、首を横に振る。そのやり取りは、何や ら二人の関係を表しているような気がして宗助は腫れた顔のまま苦笑した。 海老名をまさに一蹴した源一郎が軽い足取りで戻ってくると、宗助はまだ自分が見たも のが信じられないで、しかし何か納得して座ったまま手を差し出していた。 引き合う磁石のように、二人は握手する。 「久しぶりじゃな、宗助。殴られて男前になっとる」 「ったく……なんだか源一郎は、そのまんま源一郎だなあ」 「なんじゃそれは」 ニカッと笑い、源一郎は宗助を引き起こした。 二人並ぶと、身長差は昔とあまり変わっていないようだった。十センチほどの視線差で 二人は正面から見つめあい、宗助は万感の想いを込めて言う。 「──久しぶり」 「おう」 握った手が、熱かった。ただの握手だというのに、そこから何か胸の中の勇気を起こす 不思議な力が流れ込んでくるような気がして、宗助は自然と背筋を伸ばし胸を張っていた。 殴られ、蹴られ、全身が痛かったが、戦っていた時と同じで心だけは高揚して誇り高い 気分だった。 十年間離れていた『本当』が戻ってきたのだと感じる。血液の流れすら把握できそうな、 自分が今生きていると実感できる、『自分への』存在感。自分自身がどこにでもいる『一 般人』ではなく、この世にただ一人の『自分』なのだとわからせてくれる。 そのような友人、他にいるだろうか? いるはずがない。 「何を泣いておる」 「え?」 唐突に呆れた声で言われ、宗助は自分が泣いていることに気がついた。それまで気づい ていなかったのが疑問なくらいたくさんの涙が目から溢れ、頬を伝っていた。 「あ、あれ?」 拭っても拭っても涙は涸れなかった。見かねた八重が新しいハンカチを渡してくれたが、 焼け石に水だ。 「傷が痛むか? もう少し早く割って入れば良かったか……いやしかし、それは無粋とい うものじゃしな。あれは良い喧嘩じゃった。気持ちの入った良い拳じゃったぞ。友達とし て誇らしい」 「ええ。お見事でした」 その言葉は、さらに宗助の涙を増やすものでしかなく、源一郎は困ったように頭を掻き、 八重は優しく背中を撫でてくれた。 (戻ってきた) 安堵が心を占めていた。 (取り戻した) 忘れていた勇気が、身体中に満ちていた。 宗助の中で眠っていた何かが長い眠りから醒めた日。 渋谷は、小笠原源一郎を迎え入れた。 聞ける者がいたならば高らかなゴングの音を聞いただろう。 ──つまり、それは『始まった』ということなのである。 了