サモンナイト3 レックス×ベルフラウSS <サモンナイト3 全編ノベル化計画作品 3>                第三話            「異界と集落と護人と」                 序  ベルフラウが目を醒ましたのは、狭い船室でのことだった。 「朝……」  ぼんやりと呟き、身体にかかったシーツをはだけると、わずかに開かれた窓から入り込 んだかすかな潮の香りが鼻をくすぐる。海賊カイル一家の船で少女に割り当てられたのは、 横向きに接岸する船の陸側の一室だ。  その部屋はこじんまりとはしていたが、二人一部屋が基本の海賊船の中では異例の一人 部屋だった。ベルフラウが狭いと感じる部屋は、実際には充分に広く、今少女が身を横た えている寝台を四つは置くことが出来る。普段は使われていない部屋らしく、寝台と引き 出し付きの書台一つという、生活感というものを感じない部屋だ。  自分がどこにいるのかを思い出したベルフラウは、ため息を一つついて寝転がったまま 蜜色の前髪を掻き上げた。昨夜まで海水でべとべとだった髪は、スカーレルという美貌の 海賊にわけてもらった洗髪剤で本来の艶やかさを取り戻している。サラサラと指の間から こぼれる髪を無意識に弄ぶ少女は、赤味のかかった白のネグリジェ一枚で、着替えなどと いうものは部屋のどこにも用意されてはいなかった。  もう一つ、ため息が出た。  着替えは、嵐に巻き込まれた豪華客船<成功への船出>号と共に海に沈んでしまった。 これまで身に着けていた赤い礼服は汚れが酷いために洗いに出している最中で、今着てい るネグリジェも海賊の少女ソノラがスカーレルに贈られたまま一度も使用していないとい うものを借りている。 (着るものも無いだなんて、初めて)  寝台の上に身を起こすと、思ったよりも身体が重かった。昨日の朝は野宿明けで身体が 痛かったが、今朝の重さは薄っぺらい安物の寝台のせいではなく、むしろ彼女の心をその まま反映しているようだった。 (起きたくない……)  陰鬱に視線を落とす。ネグリジェの胸回りには赤い糸で花の刺繍がしてあり華やかであ ったが、ベルフラウの気持ちはそれとは対照的に暗い。 (部屋を出たくないだなんて、逃げてるみたいで嫌だけど)  自分の乗っていた船を襲った海賊たちに会いに部屋を出るなど、進んで出来ることでは なかった。ある程度事情を聞き、彼らが危険な剣──<碧の賢帝>を回収するためにそれ を行なったと知っても、警戒心はまだある。  それに何よりも。 (部屋を出たら、あの人がいるんだもの……)  微笑むレックスを思い描く。その笑顔は優しくて、頼りがいがある。ベルフラウだって、 素敵だな、と思う。  船が沈み、海賊たちの中に放り込まれ、それでも笑顔で周囲に溶け込んでしまっている 凄い人。海賊たちにとって、すでに彼は恩人に近い扱いであることを少女は知っている。 さらに排他的な島の住人との和解の糸口をも見つけ、今やこの島に漂流した人間の代表の ような立場にまでなっている。 (私とは……大違い)  少女は、部屋に一つだけある窓を見た。窓の向きは北向きで太陽が見えないため、今の 時刻を知る術はベルフラウにはなかった。  かなりたくさん眠った感覚があるので、さすがにそろそろ部屋を出ないといけないだろ う。いかに自分と彼を比べて情け無く思おうとも、周りからも情け無い存在だと思われる のだけは御免だった。  例えそこに自分の居場所など見つけ出すことが出来なくとも、これから努力で作り出す ことは可能のはずだった。  出来ないなら、努力して可能にする。  自分を高めて、周りに認めさせる。  それこそが、彼女が一人きりの屋敷の中で見出した、籠の中から飛び出す手段だ。  折りしも、彼女の行動を促すように扉が叩かれた。浸水などがあった際に、鍵が掛かっ ていても簡単に破壊出来るように薄く作ってある扉は、叩かれた音も安っぽい。しっかり 頭が目覚めていなければ、廊下を誰かが通り過ぎただけと思って気づかなかったかもしれ ない。 「どなた?」 「ソノラ──ってわかるかな? 服乾いたから持ってきたよ」  聞こえてきたのは、少女の声で、ベルフラウはホッとした。同じ女であるし、歳も一番 近いので、警戒心は比較的薄い相手だ。  衣擦れの音をさせて寝台を降りると、冷たい木の床に素足の裏が触れる。  起きよう。外に出よう。  心はネグリジェ一枚の身体と同じように頼りない状態であったが、それでもベルフラウ は扉の鍵を開けるために歩き出した。                 1 「ん。いい天気だ」  爽快な気分で目を覚ましたレックスは、透けるような青い空を見上げて大きく伸びをし た。まだ早い時間、わずかに揺れる船上の甲板には他の誰の姿も見えない。  昨日まで着ていた服は海賊たちの厚意に甘えて洗濯に出し、今朝のレックスは体格が近 かったカイルに借りた黒い半袖にズボンという格好だ。その姿で<碧の賢帝>を収めた鞘 を手にしているのは違和感よりも滑稽さが目立ったが、同じカイル一家の客分であるヤー ドに出来るだけ肌身離さず持っているようにと注意されているために仕方が無い。  船の上を踊るように通り過ぎていく潮風に赤毛を弄ばれながら、レックスは甲板の端に 歩み寄って、目の前に広がる島を見た。 「こうして見ると、やっぱり綺麗な島だなあ」  思わず感嘆の声も出るくらい、その島は美しかった。  船が接岸している場所は島の最南端と思われる岩がちな砂浜で、そこから東西に海岸線 が延びている。西側に進むと砂浜がすぐに岩場に変わり、最初の日にレックスとベルフラ ウが漂着した砂浜に通じる長い岩の通路となる。その通路は内陸側が背の高い岩の壁とな っているのが特徴で、自然の造形にレックスは観光名所に来たかのように目を輝かせた。  東に進むと、今度は長い砂浜が続いており、そちら側はまだ未探索だ。しかし、東西合 わせて言えることは、どちらも一歩内陸に踏み込むとすぐさま緑豊かな大地に出会えると いうことであった。  昨日はその中から森を眺めたが、今遠くからそれを見ると、やはり圧倒されてしまう広 大さ。島の大部分は背の高い木々に覆われ、中でも一際背の高い木が森の北西部辺りにう かがえた。その木は大きいと表現するのも馬鹿らしいほどに巨大で、本来なら見えるはず がない距離であるというのにそれが一つの木であることがあかるほどだった。太い幹の直 径は、下手をすれば海賊船の長さよりもあるかもしれない。  北東に視線を向ければ、今度はあまり標高の無い山が見えてくる。森の緑に対して地肌 の露出した荒れた山で、頂上近くは白雪に覆われている。  それらが、甲板の上から見える島の姿だ。普段の自分の背丈よりもずっと高い位置から 見渡した世界は新鮮で、見える範囲が広いだけに島の全体像を想像しやすかった。砂浜に 打ち寄せる波や、青空の下に息づく鬱蒼とした樹海は、自然そのままの未開の大地本来の 美しさを十二分に宿しており、レックスはその眺望を得られた幸運に感謝したくなった。  そうしてレックスが潮の香りの中で思わぬ眼福に目を細めていると、朝の新鮮な空気を 切り裂く鋭い気合の声が聞こえてきた。何事かと船縁から見下ろすと、桟橋を下りた先の 浜辺で金色の髪をした青年がその逞しい上半身をさらして、突きや蹴りなどの動きを独り 行なっていた。  興味を惹かれたレックスが船を下りるが、海賊の船長は彼に気づかずに何かの武術の独 り訓練を続けていた。一回一回拳を突き出すごとに動きを止め、腰を落として数歩下がっ てから拳を戻し、そして左右の回し蹴りを独楽のように回転しながら交互に打つ。かと思 いきや敵の攻撃を想定しているのか、両腕で守りの型を作り、その後に肩からの鋭い体当 たりの動きを見せる。  何かの決まりごとがあるような一連の流れは舞いのようで、玉のような汗を胸や背から 弾けさせながらの動きは力強く、野生的だった。見ている者の口数を少なくさせる迫力が ある。 「こおぉ……っ」  構えたままカイルが深く息を吐くと、その身の周りに黄金色の光の粒子のようなものが 集い、レックスは目を丸くした。光はカイルの拳に吸い寄せられるように流れ込み、彼が 放った右拳は、鮮烈な衝撃をもって大気を打ち抜いた。  ビリ、と離れた場所にいるレックスの肌が震えるほどの一撃。  それを最後に、カイルは深呼吸をして訓練を終えた。レックスが拍手をして歩み寄ると、 朝に相応しい笑顔で彼は手を振った。 「よお、先生。よく眠れたか?」 「おかげさまで。朝から精が出るね」 「まあな。俺に喧嘩の仕方を教えてくれた人が、朝の空気はストラの力を高めるって言う もんだからよ。それに、朝と晩くらいしかこういう時間はねぇしな」  海賊船の船長という立場の多忙さをぼやきつつ、カイルは下ろした積荷の上に置いてあ った手拭いで汗まみれの顔を拭く。どれほどの運動量だったのか、髪の毛の先まで汗まみ れだ。 「ストラって初めて見たよ。カイルが使えるだなんて、正直驚いた」 「はは。俺のは初歩も初歩だけどな」  カイルはそう言って笑ったが、レックスはたいしたものだと感心した。  ストラとは、人間が本来持っている生命の力のことだ。一般にストラ使いと言われる者 たちは、特殊な呼吸法と強い精神力によってそのストラを増強し、目に見えるほど強い力 にして治癒や破壊へと使用する。  生命の根幹に近いストラによる治癒は、単に傷を消すだけではなく身体に活力自体を注 ぎ込み、召喚術では治すことの出来ない病魔さえも消し去ることが出来ると言われ、スト ラ使いはどこに行っても重宝される。ある意味、医者に近い扱いの者たちだ。  どれほど修練を積んだ武術家でもストラを修得するのは至難の業と言われるほど珍しい 技術であり、目の前の青年がそれを使いこなすことに、レックスは素直な驚きを隠せなか った。  だが、カイルは謙遜でなく言う。 「いくら訓練で使えても、実戦で役に立たねぇうちは自慢出来ねぇよ。実際、先生とやり あった時にも使わなかっただろ」 「そういえばそうだね」  初めて会った時のことを思い出し、レックスは頷いた。その顔前に、カイルは自分の拳 を近づけてみせた。 「ストラは怪我を治したり、拳の威力を上げたり出来て便利なんだけどよ、使うのに強い 精神力がいる。精神力っつーか……平常心か? ま、戦いの中でも決して揺れない水鏡の 心を持てっていうのが、先代の遺した言葉だな」  課題は山積みだ、というふうにカイルは肩をすくめて拳を引く。そして、思い出したか のように言う。 「ストラに興味あるならよ、俺なんかよりすげぇ奴がいるぜ。俺たちカイル一家に喧嘩売 ってくる海賊一家の副船長なんだけどよ、俺の知る限り実戦でストラを使ってる唯一の奴 だ」 「へえ!」  カイルのストラだけでも感心したというのに、そのさらに上の話が飛び出してレックス は再び目を丸くした。しかもそれがまたしても海賊となれば、二重に驚きだ。 「やりあって負ける気はしねぇが、厄介な相手だぜ。この島を出た後も先生がうちの客分 続けるなら、そのうちやりあう機会もあるんじゃねぇか?」 「はは……」  それは遠慮するよと曖昧にレックスは笑い、それから、船から北東の当たる方角の森に 視線を移して尋ねた。 「朝食前に少し歩きたいんだけど、時間は大丈夫かな?」 「ん? ああ、うちの飯の時間はもう少し後だぜ。俺もひと段落したし、ついていってい いか?」 「うん、心強いよ」 「抜かせ」  レックスが快く承諾すると、カイルは白い歯を見せて笑った。汗を拭き終えたカイルが 服を着るのを待ってから散歩に向かうと、やはり二人の会話は剣術や武術に関するものに なった。 「帝国軍にはあんたより強い奴はいるのか? 謙遜はいらねぇぜ」 「うーん……俺はすぐに除隊したから、詳しくはないよ。あ、でも剣の腕なら俺より上の 人が同期にいたよ」 「やりあってみたのか?」 「一応」  興味津々のカイルに、レックスは頷いて応える。 「試合は俺が勝ったけど、苦し紛れの足払いが偶然入ったおかげかな。凄い勢いで前進し てくる攻めの剣で……うん、カイルの戦い方に似ていたかもしれない」 「先手必勝、か」  ふふ、とカイルの笑みが獣じみたものになる。強い相手と戦うことが好きというのは偽 りではないらしく、今耳にした凄腕の剣士の話に食指が動いたようだ。 (ストラが水鏡の心で使うものなら……確かにカイルは苦手そうかな)  レックスは、そう苦笑するのだった。  ベルフラウやソノラのような少女を連れていた昨日とは違い、大人二人の歩幅で進むと 森へは意外に短い時間で辿りつくことが出来、一番最初の木の下をくぐり抜けると、濃厚 な緑の香りにレックスは胸を洗われるようで深呼吸した。 「ん〜。船の上で甲羅干しの後に森林浴って、贅沢だなあ」 「先生そういうの好きそうだしな。これではぐれ召喚獣が出てこなけりゃ、確かにいい島 だぜ」 「カイル……」 「おっと、悪ぃ」  木陰で眉根を寄せる赤毛の青年に、木漏れ日に金の髪を輝かせてカイルは両手を広げた。 みなまで言うな、という合図だ。 「ただ、今のがカイル一家の考えだと思ってくれ。あの護人とかいう奴らも言ってただろ うが、言葉が通じねぇ連中は襲ってくるかもしれねぇってよ。そんな場所で本気でのんび り出来るほど、俺らはのん気じゃねぇのさ」 「……その言い方だと、俺がのん気みたいに聞こえる……」 「違ったのか?」  冗談めかして、カイルは広げていた手を握る。レックスがそれに対してひとこと言おう とすると、 「……待て!」  海賊の目が鋭く反対側を向いた。レックスも、何か大きな生き物が林を掻き分ける音に 気づき、すぐに彼の横に並ぶ。  だが、次の瞬間二人は呆気に取られて棒立ちになった。 「あ……あう……」  草木を分けて彼らの前に飛び出してきたのは、胸元の大きく開いた赤い衣装に身を包ん だ妙齢の美女だったからだ。俗に鬼妖界シルターン風と呼ばれている、植物の蔦にも似た 曲線的な紋様の入った衣装にも驚いたが、その美女が酷く真っ青な顔をしているのにも驚 いた。  さらにレックスを慌てさせたのは、彼女が現れるなりその場に倒れ、ピクリとも動かな くなったことだ。  あまりのことにしばし呆然とした二人の青年は、やがて事態を理解すると素早く女に駆 け寄った。 「だ、大丈夫ですか!? 俺の声、聞こえますか!?」 「う……うう……」  レックスが頬を軽く叩きながら耳元で叫ぶが、女は呻くばかりでまともな返事は返さな かった。触れた肌は驚くほど冷たく、熱を持たない汗が浮かんでいた。 「こいつは……脱水症状だな。ちょっと待ってろ」  症状をすぐさま診て取ったカイルが、訓練用に持っていたらしい水筒を取り出す。それ を受け取ったレックスは、蓋を開けてまずは女のひび割れた唇を湿らす程度に数滴の水を 垂らした。 「水!?」 「うわ!?」  途端に女が目を開き、かっぱらうようにレックスから水筒を奪う。そして顔を真上に向 けて水筒を傾けるのを見るに至り、ようやくレックスはその行為を止めた。 「だ、駄目ですよ! いきなりそんなふうに飲んだら身体に障りますっ!」 「あ、やぁんっ!」 「う、うわぁ!?」  水筒を取り上げて、手が届かないように持ち上げると、女はレックスの身体にしなだれ かかってきた。体力が無くて倒れたのだろうが、そのやわらかな重みにレックスは頬を染 める。 「やぁだぁ、もっとぉ〜」 「だ、駄目です。だ……っ」  座ったまま腕を上に伸ばしたレックスの身体を、木登りのように女がよじ登り、青年は 目の前に迫った豊かな二つの膨らみに言葉を詰まらせた。  彼が硬直しているうちに女は水筒を奪い返し、おしとやかとは言えない仕草で煽り飲ん だ。 「ぷはぁ〜。生き返った〜」 「そいつは良かった。それでよ、あんた、先生からどいてやってくれるか」 「ふえ? あ……こりゃまた失礼」  わかりやすい言葉に対して苦笑混じりにカイルが言うと、女は初めてレックスに気がつ いたというふうに身を離した。それから、ペコリと頭を下げる。 「いや〜、本当に助かったよ。って、あれ? あれれ?」 「今度はなんだよ……」  いい加減その慌しさに呆れたのか、カイルが尋ねる。すると、彼女はそれに応えずに自 分が現れた林の中をまさぐり、 「あったあった」  と、拾い上げた眼鏡を顔にかけた。それでようやく落ち着いた女は、地面に座り込んだ ままのレックスににっこりと微笑みかけ、改めて礼を言った。 「ありがとう、助かっちゃったわ。いやぁ、水分抜けると美味しくお酒が呑めるって話を 聞いたから試してみたんだけど、やりすぎちゃ駄目よねぇ」 「……は?」  何か聞き捨てならないことを耳にした気がして、レックスとカイルは顔を見合わせた。 そんな二人の様子にも気づかないのか、女はさらに続ける。 「いやさぁ、家にいるとお酒の香りでどうしても堪えられなくなっちゃうから、こうやっ て外を散歩していたんだけど、まさかその途中で、ねえ?」 「おい、待てよ。じゃあ、何か。あんた、美味い酒を呑みたいってだけで、自分から水を 絶ってたってことか?」 「うん」 「な……」  そのあまりに軽い物言いに、レックスは絶句した。  そして。 「なんて馬鹿なことしているんですか!」 「ほえ!?」  珍しく柳眉を逆立てて怒鳴る青年に、女だけではなくカイルまで目を丸くした。レック スは、勢いよく立ち上がって言う。 「自分で水を絶ったって……どれだけ危険な状態だったと思ってるんですっ。美味しいお 酒だか何だか知りませんけど、死んだら呑めないでしょう!」 「ほえ……うん。ごめんなさい」  目をまん丸にしたまま女が頷くと、レックスはため息をついて彼女から水筒を受け取っ た。説教臭いことは言いたくはなかったが、その余りの馬鹿馬鹿しさに初対面だというの に叱りつけてしまった。 「まったく……」 「にゃはは。先生はいい人だね」  やがて、女はにっこりと笑みを作ってそう言った。それは驚くほど無邪気な笑顔で、裏 表のない感想を彼女が言ったのだとわかった。 「次は気をつけるから」 「……二度とやらないでください」  そのひとことに、レックスは苦虫を噛み潰した顔になるしかなかった。                 ※  人を食った言動を取る女は、メイメイと名乗った。解けば長そうな黒髪を団子にしてま とめており、眼鏡の奥のとろんとした端の垂れた瞳が神秘的な印象を与える美女だ。聖母 と見紛うほどに優しげで整った顔立ちをしているのだが、だらしなく口を開いて笑う姿で 台無しになっている。  脱水症状からの復活が早すぎるのを疑問に思ったが、彼女の頭から生えた木の枝にも珊 瑚にも似た形の角を見て、なるほどと納得した。 「メイメイさんは、シルターンから召喚されたんですか?」 「そ。あなたたち、島の者じゃないみたいだけど、少しは事情をわかってるみたいね。護 人さんたちには会った?」 「ええ」  レックスが頷くと、メイメイは目を細めて笑った。 「よそ者には少し厳しいけど、根は良い子たちなのよ。仲良くしてあげてね」  それはまるで、メイメイが護人たちよりも遥かに年長者であるというふうな言い方であ った。だが、召喚獣の年齢は外見から察することが出来るのかどうかもレックスにはわか らないので、見たままの年齢ではないかもしれない、程度の想像に留めておく。 (……子供っぽく見えるんだけどなあ)  と考えた途端、やや前方を歩いていたメイメイが振り返ってジロリと睨んできた。 「今、失礼なこと考えたでしょ〜」 「い、いえ、そんなことないです」  心の中を読まれたかのような言葉に、レックスは慌てて首を横に振った。その時、ちょ うど一羽の鳥が頭上の木の枝から飛び立っていく。  三人は森の中を奥へと進んでいた。メイメイがお礼をするというので、彼女の家に招か れたのだ。  メイメイの後をついていくと、森の中にも道と呼べるものがあるのだとレックスは気が ついた。もとは獣道程度だったものを、多くの者がそこを通って利用し、長い年月をかけ て地面を踏み固めて出来た天然の道だ。足を引っ掛ける根っこも無い道は歩きやすく、こ の島には確かに生活する住人がいるのだと感じさせる。  やがて、最初に出会った場所からそれほど歩かずにそれらしい建物が姿を見せた。森の 木々の間に、こじんまりとした赤塗りの木造建築が建っていた。シルターンの竜が彫り込 まれた四つの柱に支えられたその家の屋根は、瓦で出来ている。普通の家というよりも大 きな芸術品という趣のある建物で、レックスとカイルは感心しながらその扉をくぐること になった。 「はい、メイメイさんのお店にようこそ〜!」 「お店……なんですか」  入ってみれば、なるほどそこは幾つかの商品の並ぶところであった。  主に扱っているのは生地らしく、タンスの引き出しが引かれて色彩豊かなそれらが展示 されていた。他には紙袋に入った薬や、その原材料のままの植物、香草など。鍋やスプー ンなどの生活用品も揃っており、雑貨店の印象がある。 「へえ。こんなところで商売になるのかよ?」 「そこは需要と供給。この島のみんなは、それぞれの世界から召喚されてきたから、そっ ちの世界のものを扱えば結構売れるんだな、これが。元手はタダだし、メイメイさん大儲 けっ。えっへん」 「元手がタダって……どうしてですか?」 「それは秘密」  唇の前で指を一本立てて、メイメイは片目を瞑ってみせた。釈然としないものを感じた が、レックスはカイルと一緒になって商品を物色することにした。 「ふうん……」 「なんか普通のもんばっかりだな。はぐれ召喚獣の島って言うから、もっと面白いもんで もあるのかと思ったぜ」 「む、失礼な。じゃあ、お二人にはぴったりな商品を用意してあげるわよ」  すぐに飽きたカイルが言うと、メイメイが店の奥の間に一回消えて、すぐに戻ってきた。 黒い布切れを渡されたカイルは怪訝そうな顔をしたが、すぐにサッと顔色を変えた。 「な……海賊旗。なんでこんなものが!?」 「ふふ……お兄さん、海賊さんでしょ? しかも嵐で旗を無くして困ってるんじゃないか な〜?」 「……どうして知っている」  ケラケラとメイメイが笑うと、対照的にカイルの視線が厳しくなった。それまでの呆れ たりしていた態度が一瞬にして海賊本来のものに戻り、眼鏡の美女を睨みつける。  その剣呑な空気に気がついてレックスがカイルを止めようとすると、それよりも先にメ イメイが店の番台の上に置いてある大きな水晶球に手を乗せた。 「ふふん、不思議? アタシは占いもするのよ。この島のことなら、大抵のことはわかっ ちゃうんだから。凄い? 凄い?」 「……あー、そーかい」  ほんの刹那の間だけ賢人めいた瞳の輝きを見せたメイメイであったが、すぐさまその表 情は褒めて褒めてとねだる子供のものに変わった。その様に暖簾に腕押しだと思ったのか、 カイルはため息混じりに自分の髪を掻き上げる。 「ま、確かに海賊旗がねぇと格好つかねぇからな。ありがたくもらっておくぜ」 「毎度あり〜。あ、お代はさっきのお水で結構だから」 「へへ」  なんやかんや言いつつ、カイルはかなり嬉しいらしく、黒地に白で髑髏の描かれた海賊 旗を眺めていた。続いてメイメイは一冊の本をレックスに差し出した。 「はい、先生にはこれ」 「書き方の本……ありがとうございます」  頁をめくってみると、リィンバウムの共通文字の綴りを扱った本だった。一頁に四つず つ文字が並び、それを手本にして余白に書き込んでいく形式だ。 (でも、ベルフラウにこんなの渡したら怒りそうだな)  初歩的過ぎる本の内容にレックスが苦笑していると、メイメイが意味ありげな微笑みを 浮かべて言う。 「にゃはは。その本は大事に取っておいてね。絶対に必要になるから」 「はあ」  生返事を返して、レックスはもう一度店内を見渡した。カイルは興味を持たなかったよ うだが、レックスには貴重な情報が多かった。それを察したのか、メイメイが隣に並んで、 ちょうどレックスが見ていた扇子を手に取る。 「なに? 先生、こういうのに興味ある?」 「そうですね。これ自体……というよりも、これを買いに来る人に興味があります」 「ほえ?」 「メイメイさんが言っていた通り、ここにある商品って需要があるから置いてあるんです よね。俺、まだ島の人たちのこと全然知らないけど、ここの商品を見ているとなんとなく その人たちの姿が見えてくるような気がするんです」  例えば、とレックスは銀で出来たスプーンに触れた。 「食事をする時、俺たちと同じような食器を使うんだな、とか。別世界の人たちでも、似 たところがあれば理解しあえるでしょうし、ホッとします」 「なるほどね〜……面白いわ」 「ですよね」 「うんにゃ、先生が」 「は?」  思わず小首を傾げてしまうレックスの額を、メイメイは人差し指で突いた。姉が歳の離 れた弟に対してするようなそれに、レックスは憮然とした顔で照れる。 「な、なんですか」 「にゃはは、なんでもな〜い」  言って、メイメイは番台の裏から一抱えもある瓶を取り出して煽る。レックスはまだ水 分が足りないのかと思ったが、ぷはぁ〜と吐かれた息の匂いに呆れるしかなかった。 「お酒……」 「美味しい〜。お水も助かったけど、やっぱりお酒が最高だわ、こりゃ。にゃはは、どう せならお酒を呑ませて起こしてくれたんだったら良かったのにね〜」  どこまでも陽気な美女の様子に、レックスとカイルは朝っぱらから思い切り疲れてしま った表情で店を後にするのだった。                 ※  レックスたちが海賊船に戻ると、浜辺に海賊たちが集まって朝食の準備をしていた。大 人数用の大鍋で魚や乾燥野菜を煮込んでおり、磯の香りと相まってレックスの腹は早くも 音を立てて鳴りそうだった。 「あーもうっ。カイルったらどこ行ってたのよ。センセも」  戻ってきた二人を目ざとく見つけ、小皿にスープを取って味見していたスカーレルが唇 を尖らせた。 「いつまで経っても戻ってこないんだから、何かあったかと思ったわよ」 「……その割には、楽しそうに味見してるじゃねぇか」  他に聞こえないようにカイルが呟き、レックスは苦笑した。  いくら海賊とはいえ、陸地が目の前にあるならそこで食事をしようというのが自然な成 り行きらしく、すでにそこにはほぼ全ての海賊が揃っていた。無意識にベルフラウの姿を 探したレックスは、海賊の集団から少し離れた所に彼女とソノラを見つけて足を向けた。 「おはよう、二人とも。ベルフラウ、よく眠れたかい?」 「おはよ、先生」 「おはよう。ええ、服も洗ってもらったし、助かりましたわ」 「そう、良かった」  朝の元気いっぱいのソノラの笑顔と、感情を読み取らせないようにしているベルフラウ の顔。ことさら強調された丁寧語は彼女からの壁のような気がして、レックスはカイルの 時から引き続いた苦笑をさらに継続した。  と、ソノラがカイルの手にした布に興味を示す。 「アニキ、それ何?」 「おお、実はな、先生が胸のでかい変なねーちゃんを助けたら、そのお礼にってな」 「……アニキ下品だよ」  ニヤニヤ笑って両手で女性の胸を表現するカイルに、ソノラが客分を気にして頬を赤く する。鍋の近くで、スカーレルも額に手を当てて閉口した。  妹の冷たい視線に、カイルはわざとらしい咳払いをすると、もったいぶらずに海賊旗を 広げてみせた。予想もしなかったそれに、ソノラが素っ頓狂な声を上げる。 「海賊旗!? 何それ、なんでそんなものあるの!?」 「へへ、すげぇだろ。おーい、誰かこいつを船に取り付けてこい!」 「へい」  呼びかけるとすぐに海賊の一人が駆け寄ってきて、カイルから新しい海賊旗を受け取っ た。それがマストに掲げられるまでの間に、カイルは森の中で会ったメイメイという美女 について全員に語った。 「そんなすげぇ美女ですか、カシラ」 「おお、酒好きの妙な女だけどよ。胸なんかこう、ばーんって感じでな。あれだけの女は そういねぇよ」 「ほほう」  さすがに海賊たちの関心は、店の内容などよりもカイルの語る極上の美女についての情 報らしく、まだ見ぬメイメイなる女性に皆が鼻の下を伸ばしていた。そのような男たちの 姿にソノラは頭を抱えて恥じ入り、全員が料理を放り出してしまったので仕方なく鍋の番 をしながらスカーレルとヤードは苦笑した。  ベルフラウはソノラの隣で、海賊たちに辛辣な視線を向けていたが、 「でな、その女が先生の身体にすがりついてよ、その時の先生の顔を見せてやりたいぜ。 でかい胸に顔埋めてよ、真っ赤になって悲鳴あげてるんだぜ」 「おお〜」 「へぇ」  ピクンと少女の眉が跳ねた。うらやましがる海賊たちの声に重なるようにベルフラウの 押し殺した声が聞こえ、レックスは思わず身を硬くした。 「べ、ベルフラウ?」 「ずいぶんお楽しみだったみたいですわね、綺麗な方と」 「い……いや、違う。確かに綺麗な人だったけど、別に俺は顔を埋めたりなんかしてない からっ」 「ふぅん?」  レックスは必死に弁明したが、それでもベルフラウの冷たい視線は変わらなかった。心 なしか、ソノラの視線まで強い。 「まあ、別にあなたがどこのどなたと親しくされようと私はかまいませんけど、使用人と してのお勤めに支障が出ない程度にお願いしますわ。あなたは、私の学業の手助けをする ために雇われたんですからね」 「そ、それはもちろん」  嫌味のたっぷり込められた丁寧語の連発に、レックスは乾いた笑顔で頷いた。 (こうなるってわかってたから黙っていたのに……)  ベルフラウの潔癖症を予想しておきながら、カイルに口止めするのを忘れていたレック スの失敗である。そのカイルが面白そうにニヤニヤ笑いながらこちらを見ているので、レ ックスは恨みがましい視線を向けさせてもらう。 「はは。ま、女にはわからねぇって。飯にしようぜ」  そう言って、何事も無かったかのようにカイルは全体に合図を送る。そうすると、空腹 の海賊たちが我先にと鍋へと群がり始めた。  放っておけば具の一欠片も残さずに平らげてしまいそうな勢いに、レックスはベルフラ ウに言う。 「じゃあ、俺たちも行こうか」  だが、ベルフラウは動かなかった。レックスが訝しげに見ると、少女は彼を上目遣いに 睨み、当然のように言った。 「取ってきて」 「ああ、そうか」  ベルフラウの催促に、レックスは納得して苦笑した。帝国有数の商家であるマルティー ニ家の一人娘が海賊たちに混じって朝食の奪い合いをするのは、あまりに似合わない。そ れこそ普段の食事も使用人に運ばせているのだろう、とその豪華な食事風景を想像する。  だから、レックスはそれほど抵抗もなく頷いて請け負ったのだが、小走りに混雑に向か う青年の姿にベルフラウはきゅっと唇を結ぶ。  レックスは知らない。ベルフラウが家では使用人の手を煩わせないことを第一に生活し ていたことを。そうすることこそが大人になることなのだと思っていたことを、知らない。  そのためレックスは、どうしてベルフラウがそのようなことを言い出したのか疑問に思 うことすら出来なかったのだ。                 2  不意の来訪者があったのは、朝食も終わって各自が食後休憩を取っている時だった。 「助けてくださーい!」 「ビビィ〜!」  甲高い悲鳴にレックスが目を向けると、浜辺の上をもの凄い勢いで二つの小さな生き物 が通り過ぎていくところだった。なんとか見て取れたのは、片方が赤色でもう片方が緑色 だったことだけだ。  一番最初にそれが何か気がついたのはベルフラウで、少女は腰掛けていた荷物から立ち 上がって叫んだ。 「オニビ!?」 「ビィ〜!」 「な、な、なんでマルルゥを追いかけるですかぁ!?」  悲鳴混じりに言いながらはぐれ召喚獣に追われてるのは、人間をそのまま小さくしたよ うな若草色の髪の妖精だった。大きさは人間の頭大のオニビと同じほどで、浜辺を一回飛 び越えてから戻ってくる。 「オニビ、やめなさい!」 「ビ?」  ベルフラウの言葉でオニビが止まると、妖精の少女は息を切らしながらベルフラウの背 中に隠れた。ベルフラウを間に挟んで、オニビも胸に抱えられる。 「こら、オニビ。からかっちゃ駄目でしょ?」 「ビィ」  少女に叱られると、鬼妖界からのはぐれ召喚獣は目に見えてしゅんとした。それでもう 危険は無いと悟ったのか、妖精は安堵の息をついてベルフラウの背中から顔を出した。 「驚いたですよぉ。いきなり追いかけてくるんですからぁ」 「ごめんなさい。この子、同じように飛ぶ子を初めて見たらしくて、嬉しくてつい追いか けてしまったみたいなの」 「あやや、そうなのですか」  めっ、とオニビの頭をペシリと叩きながらベルフラウが言うと、妖精は全身を飾る花の 服を翻してその場で一回転した。あどけない顔ににっこりと笑みを浮かべ、気落ちしてい るオニビに言う。 「まんまるさんは、まだ生まれたばかりなのですねぇ。マルルゥでよかったら、いつでも 一緒にお空を飛びますよぉ」 「ビビィ〜!」  オニビの声は、レックスたちにも意味がわかるくらいに嬉しそうなものだった。  突然の来訪者といきなりの騒動に皆が目を丸くしていると、妖精はそんな彼らを見回し て尋ねる。 「すみません。ここに先生さんという人はいますか?」 「え?」  すぐそばで言われた言葉にベルフラウが驚き、皆が一斉にレックスを見た。しかし妖精 はそれではわからなかったらしく、きょろきょろと一同を見回している。 「たぶん、俺のことだと思うけど、何か用かい?」 「あや、こちらの人でしたか。こんにちわ、マルルゥはマルルゥと言うですよ。護人さん に頼まれて、先生さんを呼びに来たです」 「護人たちが?」 「はいです」  はきはきと、耳に快い声でマルルゥと名乗った妖精は頷く。宙に浮いたその姿は絵本の 挿絵くらいでしか見たことがない妖精そのもので、笑顔は人の警戒心を解くほどに愛らし い。自然、レックスだけではなくベルフラウも顔をほころばせていた。 「護人さんのシマシマさんに、先生さんたちを連れて集落を回るようにってお願いされた ですよ」 「シマシマさん?」 「……メイトルパのフバース族のヤッファさん、でしたか。彼のことでは?」  聞き慣れない名前に首を傾げたレックスに、苦笑しながらヤードが耳打ちする。フバー スとは虎を祖とする幻獣界の亜人で、縞模様の毛皮を持っている。昨日会った護人のうち、 亜人はヤッファ一人だけだったので、おそらくヤードの推測は当たっているだろう。 「シマシマさんか……なんだか可愛いなあ」  失礼だとは思ったが、レックスは思わず吹き出した。マルルゥは何故笑われたのかがわ からないらしく、身体全体を斜めにして首を傾げる。その仕草がさらに可愛らしく、その 場に笑いの輪が生まれた。 「ふふ、あの子がどうして呼び出し役になったのか、わかる気がするわね」 「うん。色々気を遣ってくれてるみたいだね」  スカーレルが言う通り、護人自身がやって来たりしたら、海賊たちは緊張せざるを得な かっただろう。昨日森の中で対峙した際の鎧の騎士ファルゼンの存在感と威圧感は、単独 でもこの場にいる海賊全員を圧倒するほどだった。そもそもはぐれ召喚獣の長という肩書 き自体が、人間たちにとっては脅威とも言える。  それに比べ、小さな妖精はいかにも無害で、親しみやすかった。 「そういうわけで、さっそく行くですよ皆さん!」 「うん」  しかし、返事を返したのは赤毛の青年一人だけで、他の者は誘われるや否や曖昧な笑み を浮かべたり苦笑したりして、遠慮の意を示した。 「みんな?」 「悪ぃな、先生。そのだな……船の修理もあるからよ」 「あはは、ちょっとね〜」  人一倍好奇心の強そうなカイルとソノラまでが頭を掻いてそう言い、海賊たちは次々に 休みを終えて解散していった。後に残されたのはレックスとベルフラウのみで、レックス は妖精の少女が悲しそうな顔をするのを見て慌てて言った。 「みんな忙しいんだよ。それに、よく考えてみれば、船を完全に空にするわけにもいかな いしね。大人数で森の中を歩くのも大変だ。今回は、俺とこの子だけでいいかな」 「……ごめんなさい。私も遠慮しますわ」 「え?」  と、レックスは間抜けな声を上げる。  ベルフラウはそっぽを向いてオニビを抱え、感情の読めない声で言った。 「気分が悪いの。今日は船にいるわ」 「どこか悪いのかい? ちょっと顔色を見せて」 「……気分が悪いのっ!」  心配したレックスが振り向かせようとすると、少女は頬をカッと赤くしてその手を振り 払った。手を弾かれたレックスが驚きの顔を見せると、ベルフラウは唇を噛んで彼を一瞥 して背を向けた。 「ベルフラウ!」  呼び止めようとしても、少女は止まらない。呆然と見送り、レックスは衝撃の残る手を 握り締めた。  これまでにない、強い拒絶だ。 (……なんでだろう)  少女とは、自分で考えたなりの距離を保っていたはずだった。教師としての自分を押し つけないように注意し、彼女の望む使用人としての立場から彼女が自分という存在に慣れ るのを待っていた。一つ一つ飾らない自分を見せて、本当の意味で彼女に信じてもらって から教師として接するつもりだった。  だが現実はこれだ。まだ触れることさえも許されない拒絶。 (いや、最初の頃より酷くなってるかもな……)  レックスは重いため息をついた。  思わず考えが口に出る。 「やっぱり俺に家庭教師なんか無理だったのかな……カイルにものん気者とか言われたし」 「先生さん、先生さん、いいんですか?」 「あ……」  気がつくと、マルルゥの小さな顔が目の前にあった。心配げな顔に、レックスは慌てて 笑みを作ってみせた。 「ああ……うん。しょうがないから、今回は俺一人で行くよ。準備してくるから、ちょっ と待ってて」  それだけを言うと、レックスは急いで海賊船に戻り、洗濯の終わった自分の服に着替え た。<碧の賢帝>を腰のベルトに金具で止め、最低限の装備を整えてから部屋を出る。  そして。 「ベルフラウ、聞いてくれ」  隣の少女の部屋の扉を軽く叩いてから、レックスは言った。 「俺は、また知らないうちに君を傷つけていたのかもしれない。船の上でも謝ったけど、 また謝らせてくれ」  応えはなかったが、レックスは扉に額をつけて告げる。 「ごめん」 「ビィ〜」  ベルフラウの代わりに、オニビの声が聞こえた。そのことでベルフラウが中にいること を確信し、レックスは今度は努めて明るい声で言う。 「後でまた話そう。土産話を期待しておいて」  やはり返事は無かったが、それで良しとする。  部屋の中では、レックスが立ち去る足音を聞きながら、ベルフラウが寝台に腰掛けてい た。扉と寝台の間で行ったり来たりしていたオニビは、足音が聞こえなくなるとベルフラ ウの膝に身を寄せて、そのうつむいた顔を見上げた。  少女は、本当に苦い顔をして言う。 「ごめんなさい、オニビ。あなたはあの人と一緒に行ってきてもいいのよ」 「ビビ」  しかし、少女の言葉にオニビは否定の声を上げた。そして、小さな手でベルフラウの頬 をペチペチと叩く。  それは慰めの仕草で、ベルフラウは苦かった笑みを微笑みに変えて、小さなオニビの身 体を両手で挟み込んだ。 「ありがとう。味方はあなただけね」 「ニビィ〜!」  任せろ、とばかりにオニビが何度も手を振る。その打算も何も感じさせない純粋そのも のの姿が嬉しくて、そして同時に胸に痛んで、ベルフラウは不覚にも目頭が熱くなるのを 感じた。 「……馬鹿ね、私」  オニビの優しさすら痛く、それでも他にすがるものがなく、少女は呟く。 「一緒に行くのも怖くて、だけどあの人が気にかけて……土産話を持ってきてくれるって 言ってくれてホッとしてる。本当に馬鹿なんだわ、私は……」  そして思う。  今、何をしたら良いのだろうか。  何をしたら、自分は強くなれるのだろうか。 「……オニビ」 「ビ?」  囁きに、はぐれ召喚獣はベルフラウの瞳を見た。わずかに潤んだ瞳で、少女はオニビの 大きな瞳を見つめていた。 「私に……力を貸してくれる?」 「ビィ!」  おずおずと、その少女には似合わないか弱さで呟かれた言葉に、オニビは元気づけるよ うに力強く頷くのであった。                 ※  浮かない顔で浜辺に戻ったレックスを迎えたのは、もっと浮かない顔をしたマルルゥだ った。元気はつらつとしていた妖精の落ち込んだ様子に、レックスは申し訳ない気持ちで 言う。 「お待たせ。ごめんね、俺だけになっちゃってさ」 「あや、いいですよ。お互い様です」 「お互い様?」  レックスが不思議そうにすると、マルルゥは苦笑して告げる。 「実は、マルルゥもここに来るのにお友達を誘ったですよ。だけど、皆さん忙しいからと か、人間は危ないからとか言って結局来なかったですよ」 「どっちも一緒、か……」  ううむ、とレックスは胸の前で腕を組んで考え込んだ。人間ははぐれ召喚獣を恐れるし、 島の住人たちはかつて自分たちを召喚した人間たちを恐れている。 (みんな、マルルゥを見ても怖がったりしてないのに)  ため息をついている妖精の少女は、これ以上無く愛らしい姿をしている。他の住人も実 物を前にすればそれほど抵抗は無いのではないかと思えてしまう。  そのように考えていると、マルルゥは暗い表情を振り払うように一回転して言った。 「でも、先生さんだけでも来てくれてマルルゥ嬉しいですよ」 「俺もマルルゥだけでも来てくれて嬉しいよ。島の人たちには、俺から行けば会えるわけ だし、そうすれば他のみんなにも会う気になってくれるかもしれないしね」 「はいですぅ。怖くないですよぉ〜って、すぐに皆さんわかるですよ。そうすれば、すぐ に皆さん仲良しになれます」 「うん。じゃあ、早速行こうか」  マルルゥの明るい調子に励まされ、レックスも笑顔で頷いた。周りが動かないのなら、 自分が動けば良い、と思った。 (少なくとも、マルルゥはそう思ってくれてるんだよな)  護人に頼まれたと言い、たった一人でよそ者の場所までやって来た小さな妖精。  その愛らしい姿以外にも、護人が彼女を選んだ理由がわかるような気がした。                 3  マルルゥが最初にレックスを連れて行ったのは、昨日レックスがカイルたちと一緒に訪 れた紫水晶の屹立する森だった。海賊船から北西に進んだ森は昼間から冷気を帯び、強い 太陽の光すら厚い木々の天幕に遮られて届かず、辺りに漂う霧が異様な雰囲気をかもし出 していた。  だが、そうした不気味な森の中だというのに妖精の少女の表情は明るい。不安の何も無 い様子に、レックスも警戒の欠片も無く軽快に森を進んでいった。 「先生さん先生さん。ここは<狭間の領域>というです。霊界サプレスの幽霊さんたちが 住んでいるですよ」 「うん。昨日ここでファルゼンさんやフレイズさんと会ったんだ」 「あや、そうでしたか。ここの護人さんはヨロイさんで、いつもはこっちにいるですよ」  そう言って促すマルルゥについて行くと、森の中に一際大きな紫水晶を見つけてレック スは驚いた。 「凄い……」  それは小さな家屋ほどもある宝石の塊で、他の水晶柱と違って大岩そのものの形をして いる。正面に穴が開いており、洞窟のようになったその中には二人のはぐれ召喚獣が彼ら を待っていた。 「ようこそ。ご苦労でしたね、マルルゥ」  そう丁寧に一礼したのは、長身の天使の青年だ。紫色に妖しく輝く洞窟の中には椅子の 役目を果たす石が一つあるだけで、他には何も無い空洞となっていた。意外なほどに広い 空間で、丸い天井を見たレックスは自分も挨拶を返しながら言った。 「お招き、ありがとうございます。凄い場所ですね……どうやって作ったのか、見当もつ きません」 「はは。外から来たあなたには珍しいかもしれませんね」  微笑む天使は自分の立ち位置をずらし、レックスから椅子に座る鎧の騎士が見えやすい ようにした。巨漢の騎士はそれまで無言だったが、フレイズとレックスが話している間も その存在感は場を支配するかのように強烈だった。それが彼の発する霊界の魔力なのだと レックスが理解すると同時に、その息の詰まるような力は波が引くように収まっていく。 「スマンナ……」 「いえ。お気遣い、ありがとうございます」  相変わらず人間離れした発音でファルゼンが言うと、レックスはその言葉に笑顔で返し た。昨日もそうだったが、この鎧の騎士は見かけによらず細やかな心配りを忘れない。護 人たちの集会にレックスたちを連れて行き、とりなしてくれたのも彼なのだ。 「昨日はファルゼンさんのおかげで本当に助かりました。今日も、俺たちが集落を見て回 れる機会をくださったみたいで、どう感謝したらいいか」 「気ニ、スルナ。オ互イ、様ダ……」  話すことに苦しさすら感じていそうな途切れ途切れな言葉に、レックスはフレイズの言 っていたことを思い出した。ファルゼンは、人間の言葉を話すには適さない存在なのだ。  天使の青年を見ると、彼は頷いてファルゼンの後を継ぐ。 「礼には及びません。何故なら、今回のことはあなたたちに集落を見てもらうというより は、集落の者にあなたたちを見てもらおうという意味合いが強いのです」 「はい」  予期していた応えに、レックスは頷いた。 「お互いの理解のためにも、まずは外から来た俺たちが危険ではないことを皆さんに知っ てもらうことが大切だと思います」 「……アリガトウ」 「さすがはファルゼン様の見込まれた人間ですね。理解が早い」 「そうなんです。もう先生さんはマルルゥともすご〜く仲良しなんですよぉ」  自慢げにマルルゥが胸を張る。  それから、フレイズは<狭間の領域>について説明した。 「ご存知の通り、この<狭間の領域>は霊界サプレスの住人が集う場所です。我々はあな た方のような物質の肉体を持たず、己のマナを集めて仮の肉体を構成している関係で、マ ナの薄いリィンバウムでは大きな行動の制限を受けます」  召喚術に触れたことがある者ならば誰もが知っている知識に、レックスは頷いた。四つ の異界の中でも、霊界の者をこちらの世界で召喚獣として存在させ続けることは最も困難 な作業だ。 「マナは魔力の雫。この<狭間の領域>はかつてこの島が実験場であった頃に、召喚師た ちが人為的にマナを生み出す魔水晶を設置した場所なのです」 「なるほど。それであんなに」  無数の水晶柱を思い出し、レックスは納得した。同時にそれほどの大規模な環境改造を 行なった過去の召喚師たちの力の強大さに驚きもする。  フレイズはさらに続けた。 「しかし、それでも住人の数に対してマナの絶対量が足りず、我々は月からのマナの降り 注ぐ夜以外の時間は眠りにつくことで、なんとか自分たちの身体を維持しています。あな たがここに来るまでに、私たち以外の住人には会わなかったと思いますが?」 「ああ、そういう理由で……」 「もちろん、有事の際は別ですが。例えば、昨日のようなことですね」 「う……すみませんでした」  少しだけ苦笑してフレイズが昨日のレックスたちの侵入に触れると、レックスは申し訳 ない気になって頭を掻いた。 「私は天使なので、太陽のマナを受けることで日中も活動が可能ですが、他の住人はそう ではありません。特にファルゼン様は護人という役目のために消耗が激しく、一日に何度 もこの場所での休息が必要になっています」 「この洞窟ですか?」  言われ、レックスは自分のいる場所を見渡した。魔水晶で作られた洞窟は、確かに他よ りも多くのマナが漂っていそうだった。 「はい。<瞑想の祠>と召喚師たちは名づけていました。本来、傷を負った霊体を癒すた めの場所なのですが、現在では主にファルゼン様が利用されているのです」 「じゃあ、ここで休息すれば、ファルゼンさんは日中外に出ても?」 「鎧ノ、オカゲ、ダ……」  レックスの疑問には、ファルゼン自らが応えた。 「ファルゼン様の鎧は、ある程度マナを蓄えることが出来るのです」  それより、とフレイズが話題を変える。 「あなた方との交流に関してですが、我々霊界の者は本来肉体が無いだけに、あなた方と は生き方、文化からしてまったく異質なものであると言わざるをえません。我々は食事も 必要としませんので、あなた方と同じものを食べて親交を深めることも出来ませんし…… ここは、異質なものと割り切った上で、自然な形で互いを尊重しあう関係を築いては行け ないでしょうか」 「ええ……俺もそう思います」  天使の言葉を充分に吟味してから、レックスも頷いた。妙な話だが、例えば人間と他の 動物の関係のようなものだ。人間と犬では、価値観の基準というものが違いすぎる。人間 がいくら宝石に価値があると言い張り、犬が食べている餌と交換して欲しいと交渉しても、 犬は頑として首を縦には振らないだろう。理解されないことを怒って人間が無理矢理宝石 を押し付けて餌を奪っても、喧嘩になるだけだ。人間にとって「宝石を渡したからいいじ ゃないか」でも、犬にとっては「宝石なんかもらっても」なのだ。  それでも、人間は犬に餌を与えたり世話をすることで、彼らに泥棒避けの大任や狩りの 助手をしてもらうことは出来る。互いの価値観は違っても、互いに求めるものを与え合う ことは出来るということだ。  そういうことをレックスが理解していることを察し、フレイズは改めてレックスに対し て深々と頭を下げた。 「レックス。あなたは本当に賢く、美しい魂をお持ちになっている。漂着した人間たちの 中にあなたという方がいた幸運を、我々は感謝しなくてはなりませんね」 「買いかぶり過ぎですよ」  大げさなフレイズにレックスが慌てて謙遜すると、ファルゼンがどこか愉快と感じられ る調子で言った。 「全テノ、集落ヲ、回リ、終エ、タラ……<集イノ泉>、デ、会オウ」 「<集いの泉>は、昨日あなた方を案内した場所です」 「あの湖ですね……はい、必ず後で!」  言葉に不自由な鎧の騎士が通訳の天使を通さずに語ってくれたことが嬉しくて、レック スは二度三度と頷くのだった。                 ※ 「難しい話はよくわからないですけど、先生さんはヨロイさんたちと仲良しさんってこと ですね。良かったですよぉ〜」 「うん」  <瞑想の祠>を出て森の中を歩いていると、極力会話に口を挟まないようにしていたら しいマルルゥが嬉しそうに言った。まるで自分のことのように喜ぶ妖精に、レックスは微 笑ましいものを感じて微笑んだ。 「この調子でどんどん行くですよ! 次はマルルゥも住んでいる、幻獣界メイトルパの皆 さんの集落です」  意気揚々と進むマルルゥの後ろにレックスはついていった。  <狭間の領域>の森を北に進んでいくと、段々と冷気を含んだ空気が薄くなり、周囲の 木々の種類すら変わっていった。森の緑の厚みが増え、広い葉を持つ木々も増える。しば らくはそれもまばらだったのだが、とある境界線を越えると一気に気候的に暑い地方の植 物に視界が埋め尽くされ、レックスはあまりのことにマルルゥに尋ねた。 「これは……同じ島なんだよね?」 「はい? 当然ですよぉ?」 「はあ……」  身を包む空気すら湿気の強いものに変わっており、急激な気温の変化にレックスは襟元 を緩めた。周囲からは種類もわからない鳥たちの鳴き声が聞こえ、草の揺れる音がしたの で視線を向けると、そこには胡桃を抱えたリスの姿があった。  先程まで滞在していた<狭間の領域>には、そうした動物たちの姿が一切無く、これこ そが森の生命そのままの形なのだろう。青臭い植物の香りの中を進みながら、レックスは そう思った。 (それだけ<狭間の領域>が特殊だったってことだろうけど……それにしてもこの森は凄 いな)  海岸線や昨日案内された<集いの泉>周辺は、気候的に温暖ではあったが暑苦しいと感 じるほどではなかった。しかし、今彼がいる森は明らかに熱帯に属する湿潤さで、同じ島 に存在する場所だとは思えない変化だ。  レックスが額に汗を浮かべていると、マルルゥが肩の高さに浮かんで言う。 「集落はどれも皆さんのもといた世界をまねして作られているんですよ。ここはメイトル パの世界のまねをしてるですから、先生さんの格好だと少し暑いかもですね」 「メイトルパ……ああ、暖かい世界だって話だったね」  幻獣界メイトルパはリィンバウムでいう熱帯が基準の、その地表のほとんどが森に覆わ れた世界だ。そこでは幻獣や亜人がそれぞれの領域を定めて平和な暮らしを送っていると いう。 「亜人の生活形態は俺たちリィンバウムの人間とほとんど変わらないって話だね。やっぱ り村か何か作ってるのかな?」 「はいです。これから先生さんを案内するのは、亜人さんたちのユクレス村というところ なんですよぉ」 「ユクレス村かあ……楽しみだな」  リィンバウムではまず見ることが出来ない亜人の村を見学出来るとあって、レックスは 足取りも軽く木々の間を縫っていった。だが、リンリンの店に行った時とは違い、マルル ゥの選ぶ道は獣道にすらなっていない藪が多い。飛んでいる妖精には関係無いのだろうな、 と苦笑しながら鞘に入れたままの<碧の賢帝>で道を切り開いていくと、ふと視線を感じ てレックスは歩みを止めた。 「先生さん?」 「しっ」  小首を傾げて振り返るマルルゥに指を一本立てて静かにするように指示し、レックスは 神経を研ぎ澄ませた。先程と変わらない鳥の声、虫の声、そして小動物の走る音。  そこに。 「覚悟!」 「あやや!?」  真上から声が降ってきて、レックスは反射的に<碧の賢帝>を振り上げた。同時にガツ ンと体重の乗った重い一撃が鞘に当たり、襲撃者が青年の前に着地する。 「へへん、やるなニンゲン」 「え?」  レックスが目を丸くしたのは、それが十歳にもなっていないような小さな子供だったか らだ。墨を垂らしたような黒い髪に、同じ色の瞳。子供特有の真っ直ぐな視線でレックス を見上げてくるその少年の小さな身体は、紅葉色の薄い着物に包まれていた。  真っ先に叫んだのはマルルゥだった。 「ヤンチャさんっ。いきなり何するですか。危ないですよ!」 「島の外のニンゲンが来るって言うからさ、どんな奴か母上の代わりにオイラが見定めに 来てやったんだ」  頬を膨らませて怒る妖精に、少年は手にした木刀をクルンと回しながら言う。待ち伏せ て木を飛び降り様、その木刀でレックスの脳天を狙ったのだ。 「でも、キュウマが言っていただけあってさすがだよな。オイラの一撃あっさり受け止め るなんてさ」 「どういたしまして」  頭を叩き割りかねない一撃を加えておきながら無邪気な笑顔を見せる少年に、レックス は苦笑いする。そして気がつくのは、少年がどう見ても亜人には見えないことと、彼が口 にした名前だ。 「キュウマ……って言ったね。確かあの人は鬼人だったけど、もしかして君も?」 「おう。オイラはスバル。鬼妖界集落の風雷の郷に住んでる鬼神の末裔だい!」  小さな太陽のように元気良く少年は名乗った。風雷の郷、という言葉に新しい集落を感 じながら、レックスはスバルと視線が合うように身をかがめる。 「ふうん……スバルくん、今のは結構いい打ち込みだったよ」 「へへ、そうだろ。オイラ、母上とキュウマに稽古つけてもらってるんだっ」 「うん。だけど、受け止められたからいいけど、もし当たっていたら大怪我してたかもし れない。マルルゥが言ってる通り、危険だからもうああいうことはしたら駄目だよ?」 「ん〜、でも、母上もキュウマも大丈夫だよ?」 「う……」  やんわりと諭そうとしたレックスは、スバルの純朴な瞳に言葉に詰まった。少し考え、 「君のお母さんやキュウマさんは凄く強いんだね。だけど、みんながみんなそんなに強い わけじゃないんだ。もしマルルゥだったらどうする?」 「オイラ、マルルゥみたいな弱い奴に刀を振るったりなんかしないやい! この刀は、郷 のみんなを守る刀だって母上は言ってるんだぞ!」 「うん、立派なお母さんだね」  会話の糸口に、レックスはまだ見ぬスバルの母親に感謝したい気持ちになった。素直に 尊敬出来る刀を振るう理由に感心しながら、小さな少年に言う。 「じゃあ、俺が弱い相手だったら、スバルくんはどうするつもりだったんだい?」 「ん〜……」  鬼人の少年は腕を組み、首を傾げた。しばらく考えてからレックスを見て、マルルゥを 見て、ふてくされたように言う。 「ニンゲン、強かったじゃないか」 「たまたま、ね」  そこを強調してレックスが険しい顔をしてみせると、スバルは神妙な顔になって頷いた。 「わかった……ごめんなさい。もうやらない」 「うん。じゃあ、改めてよろしく、スバルくん」  その応えに、レックスは満足して少年の手を取った。すると少年は驚いた顔になり、そ れから残った手で鼻の下をこすって「へへ」と笑った。  そこに、マルルゥが鬼の首を取った顔で言う。 「やぁっとわかったですねぇ、ヤンチャさん」 「むっ」  その言い方にカチンと来たのか、スバルが口を尖らせて妖精を睨む。だが、すぐに余裕 を取り戻して言う。 「オイラの名前はスバルだ。ヤンチャさんなんて名前じゃないやい。……そうだ。そっち のニンゲンの名前教えてくれよ、マルルゥ」 「あやや!?」 「どうしたんだい?」  目に見えてマルルゥが焦ったので、レックスは不思議に思って尋ねたが、妖精は口をへ の字にして頭を抱えるばかりで応えない。 (まさか……)  つい先刻教えたばかりの名前を覚えていないのだろうか、とレックスが訝しがると、マ ルルゥは悲しそうに白状する。 「うう……ごめんなさいです、先生さん。酷いですよ、ヤンチャさん。マルルゥが人の名 前を覚えるの苦手なこと知ってるですのに」 「へへん」 「そ、そうなんだ……」  その割には先生さんだのシマシマさんだの、二つ名をつけるのは得意のようだ。レック スは頬を掻いて、スバルに自分の名前を教えた。 「俺はレックスだよ、スバルくん」 「おう、レックス。よろしくな!」  今度はスバルから手を差し出し、二人は握手を交わした。突然の出会いであったが、元 気な少年との遭遇はレックスを大いに心強くしてくれた。 「ファルゼンさんたちといい、スバルくんといい、交流に積極的で助かるよ」 「そうでもないんだよな〜」 「え?」  レックスの言葉に、スバルは意味ありげに背後を見やった。気になったレックスがスバ ル越しにそちらを見ると、白い毛の塊のようなものが木の幹の後ろからこちらを覗き込ん でいた。  気がついたマルルゥが声を上げる。 「ワンワンさん。いたですか!」 「おい、パナシェ来いよ!」 「や、やだよっ。ニンゲンは怖いから近づいちゃ駄目だってお父さんとお母さんが言って いたもん」 「あ……」  白い塊が犬によく似た顔をした亜人の子供なのだとわかり、レックスは声をかけるべき か迷った。少年の言葉はこれから向かうユクレス村の大人の考えをわからせるもので、レ ックスの懸念していた通りの言葉だったからだ。  しかし、子供たちはそんなレックスの不安を吹き飛ばすかのように縮こまる亜人の少年 を引っ張り出す。 「ほら、こっち来いよ」 「先生さんにちゃんと挨拶するですよ」 「あうう〜……」  スバルとマルルゥに連れられてレックスの前にやって来た犬顔の少年は、白い毛並の身 体を頑丈に編み込まれた布で出来た服で覆っていた。分厚い布は、森の鋭い葉や枝から肌 を守るためだろうか。  隠れ場所から無理矢理引き出された少年は身をガチガチに緊張させており、全身の毛が 逆立つようだった。  だから、レックスは極力刺激しないように優しく言う。 「こんにちわ……えーと、パナシェくん?」 「は、はい」  声も裏返るパナシェに、レックスはまるで自分がいじめているような気分になった。気 弱そうで、スバルやマルルゥのような押しの強い友達相手には苦労していそうに見える。 「君は、亜人の子だね? 見たところ、バウナスかな?」 「は、はい。わかるんですか?」 「メイトルパの研究はリィンバウムでも盛んだし、俺も人魚の友達がいるから調べたこと があるんだよ」 「人魚の……そうなんだ」  少年の肩の力が抜けたのが、周りからでもすぐにわかった。  バウナスとは犬を祖とする亜人種で、気性の大人しい者が多い種族だ。比較的大きな集 団で集落を作り、果物などを採取して生計を立てているとレックスの知識にはある。 「俺はまだバウナスの人には会ったことがなかったから、君に会えて嬉しいよ。よろしく、 パナシェくん」 「あ……う、うん!」  青年のやわらかい対応に戸惑っていた少年が、ついに子供らしい笑顔を見せると、マル ルゥとスバルが横から茶化す。 「ほら、大丈夫じゃないですか」 「なんだい、さっきまで怖がってたくせに」 「こ、怖がってなんかなかったってば!」 「ま、まあまあ。それより、二人がここにいるってことは、ユクレス村は近いのかい?」  子供たちの掛け合いが口喧嘩に発展する前に止めると、三人は顔を見合わせてクスリと 笑った。  そして、一斉に駆け出す。 「ここがユクレス村さ!」  森の木々を抜けた先。  そこに亜人たちの村は存在していたのである。                 ※  レックスから見たユクレス村は、森の中に溶け込むようにして作られた集落だった。人 間の村であれば森の木々を切り開いて平地を作り出すところを、ユクレス村では太い木の 枝の上にも板を張って道とし、不思議な二階層の村を作り出している。  地上には平面平屋建ての木造竪穴式住居が転々と建ち並び、密集する木の上には小さな 小屋程度の樹上住宅があるその風景は、リィンバウムのどの場所でも見ることが出来ない、 植物が巨大に生長したメイトルパ独特のものだ。  木々にはどれも階段が立てかけられ、気軽に樹上住宅に昇れるようになっており、もの によっては地上住宅の天井に枝の上へ上がる階段が取り付けられていたりもする。  村の中には広い畑が見え、何人のも亜人たちが鍬を手に野良仕事に汗を流しているのが 見えた。その姿は懐かしい故郷の村のようで、レックスは知らず目を細めてそれに見入っ ていた。 (みんな……どうしてるかな)  両親を亡くしたレックスを支え、軍学校への進学費まで捻出してくれた村人たちを、レ ックスは脳裏に思い描いた。残念なことに軍人という職を失い、胸を張って戻ることが出 来ずにいるが、いつかは必ず戻って恩返しをしたいと思っている。  この村は、その彼の愛すべき故郷と同じ土と汗の匂いがした。 「……いいところだね」 「うん!」 「でしょう?」  無意識に漏れた呟きに、パナシェとマルルゥが満足げに頷く。 「この村の名前は、あのユクレスの木からもらったんだよ」 「へえ……凄い木だね」  パナシェが指差したのは、天まで届こうかという大樹だった。森のどの木よりも太く高 いその木は、海賊船からレックスが眺めたものに相違ない。この世で一番巨大な木なので はないかと思わせる大きさで、広がった枝が作る木の葉の『傘』は村一つを飲み込まんば かりだ。レックスが目を凝らすと、木の根元には祭壇のようなものが作られているのもわ かった。 「村の守り神さんで、お願い事を叶えてくれるんですよぉ」  マルルゥが補足し、レックスをさらに頷かせる。確かに、守り神に相応しい木であった。  三人の子供たちに案内されて村に下りると、住人たちの好奇の視線がレックスに突き刺 さった。物珍しい人間の来訪は、村人たちにとって恐怖よりも好奇心の対象らしく、遠巻 きに眺められてレックスは何とも言えない居心地の悪さを感じた。ただ、パナシェの言っ ていた通り、子供の姿はなかった。 (やっぱり警戒されてるな……)  彼らの立場を思えば当然のこととは言え、やはり少し寂しい気はする。  村にいる亜人の種類は豊富で、まずはパナシェと同じ犬を祖に持つバウナス族。次に、 護人ヤッファと同じ白虎を祖に持つ密林の呪い師フバース族。調停者と呼ばれるレビット 族。狼を祖に持つ草原の覇者オルフル族。神秘なる瞳を持つ有角の亜人メトラル族。レッ クスが名前を知るそれらの種族の他にも、たくさんの種族の人々がいた。  これだけの種族のるつぼの渦中にいる人間がこの世にどれだけいるだろうか。そう考え て、レックスは小さく含み笑いをした。  あちらは果樹園、こちらは花園、とマルルゥの忙しい説明を受けながら進むと、村の外 れの東屋に辿り着いた。支柱に屋根をつけただけの簡素な作りで、壁の代わりに模様豊か なタペストリーで周囲を覆っている。タペストリーに描かれているのは異界の物語のよう でレックスには見覚えの無いものだったが、のどかで平和な絵柄で心を和ませた。  そして、その東屋に護人ヤッファを見つけ、レックスは目を丸くする。 「ヤッファさん……お休み中でしたか?」 「ん? ああ、悪い」  よっこらせ、と口に出して言って、虎のような鋭い面差しの男は寝転がっていた寝台か ら身を起こした。東屋は大きな寝台だけで埋め尽くされるようで、わずかな床には酒瓶や 呪術の道具のようなものが転がっている。  その様を見て、マルルゥがヤッファの耳元で叫んだ。 「シマシマさん! 先生さんが来る前にお部屋の片づけをするって約束したじゃないです かっ。またさぼっていたですね!?」 「うるせぇなあ……ちゃんと片付けてるじゃねぇかよ」  うんざりした口調でヤッファが大きな手で示すのは、床の上に雑多に転がった物たちだ。 どこがどう整理してあるんだろう、とレックスが疑問に思う前に、マルルゥが顔を真っ赤 にして爆発した。 「どこがお掃除してあるんですか! お布団の上のものを床に下ろしたところで面倒臭く なったですね!? お客さんがあるっていうのに、これだからシマシマさんはマルルゥが いないと全然駄目なんですよっ!」 「いてっ。おいこらマルルゥ、放せっ」  妖精がヤッファの耳を引っ張る姿を、レックスは呆気に取られて見つめていた。苦労し てマルルゥを引き剥がしたヤッファは、そんなレックスの視線に肩をすくめて苦笑いする。 「みっともねぇところ見られちまったな。まあ、うちはこんなもんだ」 「はあ……」  生返事も良いところにレックスは応える。まだぶつぶつ文句を言いながら部屋の整理を 始めるマルルゥを目で追っていると、ヤッファが口を開く。 「どうだい、村を見てみて。いい見世物になってきたんじゃねぇか?」 「……まあ、ヤッファさんの予想通りです」 「だろうな」  軽く言ってくるヤッファに、レックスは同じく軽く肩をすくめた。お互いに、村人たち の反応は予想済みのものであった。そしてお互いの意図も同じであると二人の大人たちは 頷きあう。 「正直、オレらはオレらを召喚した召喚師たち以外のリィンバウムの人間ってのを知らね ぇ。その印象だけでお前らを決めてかかるのもなんだからな、集落を回ってもらうことに したんだが……思ったよりも村の連中も関心があるようで結構じゃねぇか」 「ええ。でも、これほどたくさんの人が住んでいるだなんて思わなかったので、驚いてい ます」 「はっ。それだけ大規模な実験だったってことさ」  皮肉げに、ヤッファは吐き捨てる。実験という言葉に、レックスは苦い思いをすると共 に気づいたことがあった。 「まさか……じゃあ、この気候も?」 「話がはえぇな。そういうこった」  奇しくもフレイズから受けたものと同じ評価をヤッファからも受ける。わけがわからな いのは子供たちで、スバルもパナシェもつまらなそうな顔で二人に尋ねた。 「なんの話だよ」 「僕たちにも教えてよ」 「……ガキに話すことじゃねぇよ。こいつやるから、村で遊んで来い」 「わっ」  ヤッファが投げたのは枕元にあった林檎で、レックスが初めて見るくらいに大きく立派 なそれを受け止めてスバルとパナシェが顔を見合わせる。  だが、大人の会話に口を挟んではいけない、という掟でもあるのか結局二人はしぶしぶ といった様子でもと来た道を引き返していった。  そうして人払いをしてから、亜人はレックスに言う。 「悪いな、話が途切れてよ」 「いえ……聞かせたくないのは、わかります。マルルゥから各集落はそれぞれの世界を模 しているって聞きましたけど、その環境を用意したのは召喚師たちなんですね?」 「そういうこった。オレらは文句を言いつつも、オレらをこの世界に放り捨てた連中の用 意した場所でしか生きられねぇ。実際、メイトルパにいるのと変わらねぇ生活が出来るの は助かるしな」  そう言うヤッファの笑みが、歪む。 「……この村が出来る前は、身体の弱いガキ共は冬とかいうもんを越せなくて次々と死ん でいったもんよ。娘たちは子を産めなくなり、オレは何も出来ない自分に嫌気が差したぜ。 だからよ、敵が作ったものだってわかってんのに、オレはここを離れろと皆に言えねぇ。 なさけねぇ話だ」 「立派……だと思います」  目の前に立つレックスという人間。その向こうに過去の憎しみを見出し、憤りと悔しさ を皮肉な口調に込めて語る護人に、レックスは心からそう言った。  ヤッファは、良い意味で長なのだ。昨日の一件でもそうだが、ヤッファの召喚師への憎 しみは並大抵のものではない。だが、その一方で彼は己の怒りを制御し、ユクレス村の住 人に住処を変えようとは提案しないでいる。自分のことよりも、全体を見る忍耐力を持っ ている。  そういう思いを込めて告げた尊敬に、ヤッファはボリボリとざんばらな髪を掻いて笑っ た。 「よしてくれや、痒くなっちまう。悪かったな、いきなりこんな話してよ」 「これだけ聞かされれば、悪さしようだなんて誰も考えられませんよ」 「はは。マジで話がはえぇな! まあ、そういうこった」  一転して大声で笑い、ヤッファは寝台の上に寝転がった。頬杖をついた姿は、言うべき ことは言い切ったという意思表示だろう。  強く頷いて、レックスは約束する。 「ヤッファさんがどれだけ集落を大切にしているか、理解しました。俺は決して集落に迷 惑をかけるようなことはしませんし、もし何か集落が危険にさらされるようなことがあれ ば、島に滞在している間、集落を守るために力を貸すことを約束します」 「上等だ」  その約束こそが同じ島に住むためには必要なのだ、とヤッファは笑うのだった。                 4  忙しく掃除していて話が終わったことにも気づかなかったマルルゥに再び案内してもら い、レックスは今度は森の中を東へと進んでいった。 「ヤンチャさんもワンワンさんも、いつの間にかいなくなっていたですねぇ」 「マルルゥって、一つのことに夢中になると、他のものが何も見えなくなる感じだね」 「あやや、先生さんにも言われてしまいましたぁ……」  他にも何人かに言われたことがあるのだろう。妖精はため息をついてレックスの肩の上 に座る。  次に二人が向かっているのは機界ロレイラルの集落であるラトリクスという場所で、そ こは護人の中の紅一点であるアルディラが治めているという。全てのものが機械で出来て いるという世界を思い描こうとして上手くいかないレックスは、百聞は一見にしかずと足 早に目的地を目指していた。  レックスの肩の上で前を指差し、マルルゥは説明する。 「ここから少し行った所にラトリクスはあるですよ。おしゃべり出来るのはメガネさんと お人形さんだけですけど、いっつもクルマさんやカナヅチさんたちがお仕事している賑や かな所ですよ」  マルルゥの説明では、百聞してもわかりそうもない。そう考えて苦笑していたレックス は、やがて森が切れて姿を見せたものに、レックスは大口を開けて絶句した。 「うわ……」  それは巨大な建造物が建ち並ぶ異様な場所で、村と表現して良いのかもわからない場所 だった。何かの遺跡のように石や鉄で作られた細長い背の高い建物は、リィンバウムのど の国の建造物とも似ておらず、三階から四階分の高さはある。集落の周りは外壁で囲まれ ており、門と思しきものを一箇所だけ見つけることが出来た。 「さあ、行くですよ!」 「う、うん」  いきなり度肝を抜かれてしまったレックスは、開いた口が塞がらないままその集落へと 足を踏み入れた。その途端にのけぞるはめになり、レックスは驚いたら良いのか呆れたら 良いのかわからなくなった。  集落の中は、道以外隙間無く建物で埋め尽くされていた。誰かの家だとか、庭だとかそ ういう概念が無いらしく、四角い入り口の開いた建物にはひっきりなしに人間大の機械た ちが出入りしている。 「四角い箱が動いてる……」  レックスの視界の先、身体の大部分が入れ物になっている機械がたっぷりの鋼の板や何 かの配線を積んで建物に入っていく。その後を追いかけて、両腕が杭のようになった人型 の機械や兜に手足のついたような機械が続いていく。  土でも煉瓦でもないもので舗装された道の上では、馬のいない馬車が他の機械たちを乗 せて走り、集落の各所へと送り届けているようであった。 「す、凄いなあ」  それ以外の言葉が無くレックスが佇んでいると、清潔そうな白い装束に身を包んだ少女 が歩いてくるのが見えた。従軍看護婦の服装によく似た服だ。  少女は、まだ驚きに固まっているレックスの前までやって来ると、両手を揃えてペコリ とお辞儀した。 「はじめまして。従軍看護医療用自動人形、形式番号AMN−7H、クノンと申します。 クノン、とお呼びください、レックス様」 「あれ? 俺の名前を?」  たどたどしく、どこか空虚な声音で挨拶する少女に、レックスは小首を傾げた。すると、 少女は表情の変わらない澄まし顔のまま応える。 「はい、アルディラ様からデータをいただいております」 「でーた?」 「情報、という意味にお取りください。正確には違うのですが、そのような理解で差し支 えないと思われます」 「は、はあ……」  釈然としないものを感じつつ、レックスは少女の動かない顔を見た。十五、六歳くらい の少女で、看護婦を名乗るだけあって髪は短く清潔にしてある。肌には染み一つ無く、身 体つきも華奢で充分に美しい少女なのだが、奇妙に人間的な温かみを感じさせない佇まい をしていた。それが無気力にも見える瞳のせいなのか、整いすぎた外見のせいなのかは、 レックスには判断がつかなかった。 (いや……人形?)  ふと気がついて注意して見れば、少女のそれは布ではなく鉄板で作られた服だった。た だの少女がそのようなものを身に着けて平然と歩けるはずもなく、本人の名乗りと合わせ てレックスは再び驚きに口を開けることになった。 「君……機械なのかい!?」 「はい。従軍看護医療用自動人形、形式番号AMN−7H、クノンと申します。クノン、 と及びください、レックス様」  先程とまったく同じ調子、同じ言葉をクノンは繰り返した。呆気に取られるレックスの 肩の上で、マルルゥがクスクスと笑う。 「お人形さんは、メガネさんのお手伝いさんで、お薬やお注射をする人なのですよ」 「そ、そうなんだ……ロレイラルの人形の噂は聞いたことがあったけど、実際に見るのは 初めてだよ。こんなに人間みたいで、綺麗だとは思わなかった」 「……恐縮です」  レックスの賛辞に、クノンは軽く会釈して応えた。相変わらず表情は動かず、声にも起 伏は無かったが、確かに会話出来るだけの判断力はあるのだ。 (これが人形……とてもそうは見えないなあ)  機械と言われても戸惑ってしまう。周りを行き交う四角かったり丸かったりが目立つ機 械たちとクノンを同列に見ることに拒否感を覚えてしまい、レックスは複雑な気持ちで少 女を見た。  すると、少女はレックスの視線に気がついてゆったりとした動作で首を傾げる。 「何か?」 「いや……なんでもないよ」  難しく考えるのはやめよう、とレックスは苦笑した。見た目が人間のようで、人間とし か思えないならば、無理して機械として扱うこともないだろう。  レックスがそう結論づけると、クノンは王宮の一流の従者のように胸に手を当て優雅な 一礼をした。 「それでは、改めまして、ようこそラトリクスへ。我々機械の民は、島への漂着者を歓迎 いたします」  そうしてクノンに先導されて向かったのは、集落の中央にある一際高い建物だった。ユ クレスの木に負けないほどの高さがあり、最上部の作りは他の建物に比べて独特だった。 「竹とんぼ?」 「似てますねぇ」  ほとんど真上を見るようにしてレックスとマルルゥが呟くと、クノンは「電波塔です」 と説明した。 「このラトリクスの中央管理施設は、中央制御室、電波塔、リペアセンターの複合施設で す。電波塔から送受信されるデータでラトリクスの全存在、全施設を集中管理し、必要が あれば修理復元することが可能な設備を整えています。他のどの区域が失われても、この 中央管理施設さえ残っていれば、ラトリクスは復元可能なのです」  淡々とした言葉は聞き取りやすかったが、意味を理解することは困難だった。かろうじ てわかったのは、その建物がラトリクスの都市機能を支えている重要な施設だということ だけだ。 「どうぞ」 「わ!?」  促されるままにガラスを使った扉に近づくと、突然それが左右に開いてレックスは飛び すさった。だが、機械人形の少女は何事も無かったかのように開いた扉を通り抜け、 「自動扉です。驚かせてしまい、申し訳ありません。事前に説明すべきでした」 「自動扉……」  さらに内部に入ってからレックスは驚くことになる。建物の中は外に比べて格段に涼し く、また密林の中の集落だというのに湿気もなく乾燥していた。一階部分は巨大な機械た ちでも自由に動き回れるように天井が高く、今も幾つかの機械たちが頭をつき合わせてピ コピコとレックスには理解出来ない会話を繰り広げていた。 「ここではあのように補給、個体レベルでのデータ交換が行われます」 「補給?」 「キカイさんたちは、黒いお水や電気ビリビリがご飯なんですよ」  マルルゥに言われて目を凝らすと、機械たちは一様に身体に太い縄のようなものを繋い でいた。その中をガソリンというものや電気が流れているのだとクノンに言われ、レック スは味を想像してみたが、電気の味など想像出来るはずもなくやめた。  好奇心で尋ねる。 「なあ、クノン。質問していいかな」 「どうぞ」 「電気って、美味しいのかな?」  クノンの歩みが止まった。  機械の少女はレックスの顔を見上げ、その無表情だった顔に初めて戸惑いの色が浮かぶ。 「電気の味、ですか?」 「うん。あ、それともクノンの食事は違うのかな?」 「いえ。私も電気を利用して動いています。ただ、口――味覚を通して摂取しているわけ ではありませんので、味わうという感覚は私たちには無いのです」 「ふうん……そういえば、身体に直接入れてるみたいだね」  機械たちの食事の風景を眺めながら、レックスは頷く。なら、と続けた。 「食べてお腹一杯がとかそういう感覚は?」 「……どうしてそのような質問をされるのですか?」  探るように、クノンは問いを返す。さすがに失礼だったか、とレックスは反省しつつ、 それに応えた。 「実は、<狭間の領域>の人たちは食事をする必要が無いから、俺たち人間とはそういう 楽しみを分かち合えないって話をしてきたんだ。この集落の人たちも機械だし、だったら 食事はどうなんだろうって気になってさ」 「食べる喜びを分かち合えるか、ですか?」 「うん」  それに対し、クノンはしばし考えてから、 「補給を終えると、しばらくの間は活動停止を気にせず作業を行うことが出来ますので、 あなた方でいう安心の感情に近い感覚があります。ただ、それは自らの存在意義である作 業を行うことが出来ることへの安心であり、補給行為自体を楽しんでいるわけではありま せん。このような答えでよろしいのでしょうか?」 「うん。質問に応えてくれてありがとう」  レックスが微笑んで礼を言うと、クノンは澄まし顔で言う。 「アルディラ様から、レックス様からの質問には全てお答えするようにと命令されていま すので、当然のことです」 「全てって……女の子があんまりそういうこと言ったら駄目だよ」 「アルディラ様の私への命令権を否定する権限は、あなたには無いと思われますが」 「そ、そういうわけじゃなくて……う〜ん」  会話が上手く噛み合わず、レックスは眉根を寄せて頭を捻った。そうこうしているうち にクノンに壁際に連れて来られ、再び扉をくぐる。 「あれ?」  考え事をしていたために、入ってからその部屋が何も無い空っぽであることに気がつい て、レックスは質問の意味を込めてクノンを見た。機械の少女は軽く頷いて、部屋の壁に あるボタンを押す。 「これから十二階にある中央制御室に向かいます。この部屋はエレベーターといって、部 屋ごと階を移動する機械です」 「部屋ごと!?」  驚くのが早かったか、それが動き出すのが早かったか。突然部屋自体が唸るような音が 聞こえ、レックスは慌てて周囲を見回した。しかし、何か変化があるわけではない。強い て言うならば身体が下に引っ張られるような独特の感覚があり、部屋が上へ向かっている のだということは察することが出来た。 「到着しました。窓の外をご覧下さい」  開いた扉から出たレックスは、クノンに言われて廊下の窓を覗き込み、呆気に取られた。 そこはすでに遥かな高みにあり、レックスの眼下にはラトリクスの機械仕掛けの集落が広 がっていたからだ。 「便利ですねぇ」  すでに慣れているらしいマルルゥに乾いた笑いを見せ、レックスは気を取り直してクノ ンの後ろに続いた。その階層は、どちらかというと殺風景であった一階とは違い、足の踏 み場も無いくらいに機械に埋め尽くされた場所だ。機械と機械の間を何本もの配線が通り、 レックスがおっかなびっくりついていくと、クノンは一つの部屋の前で足を止めた。 「こちらが中央制御室。アルディラ様のお部屋です」  扉には『中央制御室』とリィンバウムの文字で書かれていた。もともとはこの島を実験 場にした召喚師たちが利用していたのだろうか、とレックスは思う。  重い鉄扉が自動的に開くと、中はまさに機械で出来た居城という有様だった。灯りが落 とされた暗い部屋の中、壁、天井、床に至るまで各所に設置された機械がひっきりなしに 明滅して、無音であるというのに騒々しい雰囲気があった。四角い箱の中に映っているラ トリクスの様子や、どこかの建物の様子、そしてその中に今ここにいる自分たちの姿も見 つけることが出来た時、部屋中央の椅子に座った人物がレックスに声をかけた。 「ようこそ、機界集落ラトリクスへ。歓迎するわ」  回転椅子をクルリと回して言ったのは、波打つ栗毛色の髪の美女だ。彼女は椅子の上で 足を組み、値踏みするようにレックスを見つめてもう一度口を開いた。 「改めて自己紹介するわ。機界ロレイラルの機械人、この集落の護人を務めるアルディラ よ」 「こちらも改めまして、レックスです。この度はお招きありがとうございました」 「気にしないで。必要なことをしているまでよ」  まるで彼女自身も機械のように、アルディラは淡々と言う。彼女が手を軽く挙げると部 屋の照明が点灯し、レックスの目でも全てが見渡せるようになった。そこは人が何十人も 入れるほどに広い部屋で、しかし足場のほとんどは廊下と同じで機械の配線で埋まってい る。アルディラの椅子周辺が、どうにか人間がくつろげる唯一の場所だ。 「他の護人がどう言ったかはわからないけれど、このラトリクスでは人間の仕打ちなどに ついてあなたが悩む必要はないわ。ここにいるのは感情を持たない機械ばかり。楽にして」 「は、はあ……」  恨み言を言われるのも辛いが、逆にそう言われるのも居心地の悪さを感じて、レックス は苦い顔をした。 「例え機械でも、こちらは感情を持った人間なんですから、完全に気にしないってわけに も」  目につく機械の一つ一つが召喚されたものだと思うと、いたたまれない気分になってく る。そう告げるレックスに、アルディラは感情を抑制していた顔に、わずかな苦笑を浮か べて頷いた。 「それもそうね。スイッチ一つで記憶も切り替えられる機械とは、違うのよね。ごめんな さい、私はこの子たちとばかり一緒にいるから、感情のあり方というものを時々見失って しまうみたいね」  ふう、とため息を一つして、美貌の護人は顔の眼鏡のずれを指で直す。初めて会った時 の険のある表情ではなく、穏やかで優しい表情がレックスに向けられた。 「とりあえず、お茶にしましょうか。クノン、お願い」 「はい」 「あ、お構いなく」  と、レックスは辞退しようとしたのだが、アルディラは艶然と微笑んで言う。 「何のおもてなしもせずにお客様を帰したりなんてしたら、いい笑いものだわ。それとも、 私の話し相手は嫌かしら?」 「そ、そんなことないです。ご迷惑でないなら、ちょうど喉も渇いていたところですので」 「マルルゥも、もう喉がカラカラですよぉ……」  こんな笑い方が出来る人なのか、とレックスがアルディラに見惚れながら言うと、肩の 上でマルルゥが疲れた様子で言う。三つの集落を説明しながら島を回れば、さすがに疲れ るものだ。 「お待たせしました」  戻ってきたクノンが盆に乗せて運んできたのは、氷の入った冷たい紅茶だった。ガラス のコップを受け取ったレックスは、クノンの支える盆の上にマルルゥが飛び乗ってコップ に抱きつくのを見て、思わず吹き出した。 「あははっ。マルルゥには大きすぎるんじゃないかな」 「ひやっこいですよぉ〜」  うっとりとした顔で呟く妖精に、レックスとアルディラは顔を見合わせてもう一度笑っ た。  飲み物を口にしながらアルディラはレックスに島の外の話を聞きたがり、求められるま まに彼はそれに応えた。例えば、リィンバウムでは今どのような技術が存在するのか。ど のような国家があり、どのような関係にあるのか。そして、その中でレックスやカイルた ちはどのような立場にあるのか。 「発想の違いね……召喚術をそんなふうに使うだなんて」  召喚獣に車両を牽引させる召喚獣列車の話をすると、アルディラは呆れたように肩をす くめた。ロレイラルでは考えられない、と。  また、レックスが元帝国軍人であることや、カイルたちが海賊であること、そして昨日 無体を働いた者たちが帝国軍に籍を置くことを知った時には、さすがに顔をしかめた。 「あなたが彼らに敵対してみせなければ、私たちは決してあなたたちを受け入れなかった でしょうね」  でも、と口元だけで微笑む。 「今のあなたには、島の同胞の命を救われた恩があるわ。機械であるラトリクスの住人は、 自らあなたたちを助けることはないけれど、乞われれば助力を惜しまないわ。そういうふ うにプログラムされているから。力仕事で何か困ったことがあったら、適当な子に声をか けてちょうだい」 「はい。助かります!」  思いもかけなかった協力的な言葉に、レックスは顔を明るくして頷いた。それだけでは 足りずに頭まで下げる青年に、アルディラは微笑ましげに目を細める。  そして。 「クノン、いらっしゃい」 「はい」  アルディラはクノンを呼びつけて隣に並び、レックスに示して言った。 「この子……もう知っていると思うけれど、従軍看護医療用機械人形のクノンよ。出来れ ば、島に滞在する間、時々でいいからこの子の話し相手になって欲しいの。構わないかし ら?」 「ええ。それは構いませんけど?」  いきなりの申し出に、レックスがアルディラとクノンの顔を順番に見ると、彼女はクノ ンの両肩に手を置いて言う。 「この子は、ラトリクスで唯一私以外で実用的な対話機能を持った子なの。でも、ロレイ ラルの技術でも完全に人の心を再現することは叶わず、この子に搭載されているのは、不 完全な感情プログラムなのよ」 「不完全な、感情?」 「そう。この子は、私たちと同じで喜んだり悲しんだりすることが出来る。だけれど、そ のほとんどはまだ引き出しに眠ったまま。どのような時、どのような感情を引き出したら いいのか……それがわかっていないの」  自分のことを話されているというのに、クノンの表情には何の変化もなかった。自分の こと、他者のこと全てに興味がないという顔をしている。  だから、とアルディラは言う。 「この子に必要なのは、一つでも多くの感情サンプルなのよ。幸い、あなたは私の見たと ころ健全な精神の持ち主だわ。一日に一言二言でいいから、会話をしてあげて欲しいの」 「ええ。そういうことでしたら、喜んで」  快くレックスは了承した。  過去の召喚師たちとレックスたちを切り離して考え、労働力の提供までしてくれると約 束してくれたアルディラへのお礼には、それでも足りないくらいだった。                 ※ 「最後は、ヤンチャさんやニンニンさんたちの住んでいる鬼妖界の集落ですよ」  ラトリクスを出ると、マルルゥは再びレックスの肩を下りて先導を始めた。今度は真っ 直ぐ南に向かって進んでおり、各集落が島の中の南西、北西、北東、そして南東の四箇所 にあることがわかった。 「確か、スバルくんの話だと風雷の郷って所だったかな」 「はいです。お姫様さんが治めてる、お米のご飯の美味しい所です」 「お米かあ……ということは、田んぼがあるのかな」  レックスの育った帝国はパン食が主流であったが、南部では稲作も盛んに行われていた。 軍学校に通っていた時代、幾度か寮の食事に米のご飯が並んだこともあり、レックスは図 書館でその初めて口にした穀物について調べた経験がある。 (水を張った畑……って実物がどういうものか、興味あったんだよなあ)  それにしても凄い島だ、とレックスは思う。霊界サプレスの霊たちがいると思えば、幻 獣界メイトルパの樹上住宅がある。機界ロレイラルの機械の街並みがあれば、今度は鬼妖 界シルターンの田園風景が見られるかもしれないのだ。  しかし、すぐに苦笑する。 「あや? どうしたですか、先生さん?」 「……ちょっと自分が不謹慎だなって。この島はとても興味深い場所だけど、ヤッファさ んたちはそれを喜んでいないわけだし」  レックスにとっては様々な世界の文化に触れられて楽しい場所でも、それぞれの世界か ら召喚された者にとっては、ここは牢獄にも等しい場所なのではないか。  だが、そんな心配をする彼に、妖精の少女は笑顔を見せる。 「そんなことないですよ。たくさん楽しんでもらえると、マルルゥも嬉しいです」  ふふ、とマルルゥは秘密を打ち明ける表情で言った。 「この島は、昔戦争で大変なことになったそうです。人間さんと喧嘩して、どの集落も住 めないくらいに壊されちゃったって聞いたですよ」  それはレックスも聞いた話だ。だからこそ、住人たちにとってこの場所は嫌な思い出の ある場所なのでは、とレックスは思ったのだが、 「でも、護人さんや島の皆さんが一生懸命がんばって、ちゃんと人が住める集落に戻した ですよ。最初は人間さんが作ったものでも、今は自分たちの作った故郷だって、シロクマ さんが言っていました。きっと、シマシマさんも同じ気持ちですよ」 「そうなんだ?」  目をパチパチさせて、レックスは小さな妖精と目を合わせた。青年の顔の前に浮かび、 マルルゥは頷く。 「シマシマさん、先生さんの前だからあんな意地悪なこと言ったですよ。後でマルルゥが たっぷり叱っておくですよ」 「はは……」  ぷん、と頬を膨らませて拳骨を作るマルルゥに、レックスは苦笑いを浮かべてヤッファ との会話を思い出した。ヤッファがわざわざ過去のことを引き合いに出したのは、レック スたちへの警告だ。繰り返すようなら、許さない、と。  それは裏返せば、現在の生活を気に入っているということだろうか。  もちろん、どちらにしてもレックスに彼らの生活を妨げるつもりはない。むしろ、漂着 者を受け入れてくれた礼を返すための努力は惜しまないつもりだ。 「だから、先生さん」 「え?」  終わったと思っていた会話が続いていて、レックスは顔を上げた。  そこには、妖精の優しい笑顔がある。どのような人間でも抱えているはずの感情の黒い 部分が無い、妖精特有の純粋な瞳。 「集落を見て楽しいところがあったら、隠さないで楽しんでくださいです。がんばって作 った集落を褒めてもらえると、皆さんきっと喜ぶですよ」 「……うん」  本当に、とレックスは思う。 (本当に……マルルゥを案内役にしてくれた護人たちには感謝しないと)  これ以上の案内人はいない。  そう確信して、レックスは自然と笑いをこぼすのだった。                 ※  鬼妖界集落である風雷の郷は、森の中に開けた村の姿をしていた。集落の規模的には他 の集落と変わらないのだが、土地が起伏に富んでおり歩きがいがある。  家屋は木造のものが建ち並び、その作りはレックスの故郷のものとそう変わらないよう に見えた。四角を基本とするラトリクスの次に見るだけに三角屋根が味わい深く感じられ、 庭先に干された洗濯物が生活感を感じさせた。  レックスの目を惹いたのはやはり水田であり、畑と田んぼの並ぶ一画では彼は足を止め てその風景を眺めた。頭に角を生やした鬼人や人間がズボンの裾をまくって水田に入り、 横一列に並んで腰を曲げて一つ一つ稲の苗を植えていく姿は、異文化の農耕の営みの姿と して彼を感動させた。 「凄いな……来て良かったよ」 「あは。その調子ですよ、先生さん」  楽しめるなら楽しんでくれ、というマルルゥの言葉通りに見学を楽しむレックスは、足 取り軽く風雷の郷を散歩した。どちらかと言うと建物を押し込んだ感の強かったラトリク スに比べ、風雷の郷はその半分近くを田畑に譲っており、建物の無い広い地面が続く様は 心に不思議とゆとりを与えてくれた。ゆっくりとして良いのだ、と言われている気がして、 レックスはじっくりと各所を堪能した。  自分の知識でわからないものがあると、すぐにマルルゥに尋ねる。 「あれは?」 「あれは……鎮守の杜ですね。戦争で亡くなった皆さんを祀っているんだってニンニンさ んが言っていましたです」 「なるほど……」  小さな丘になった場所に見える、家屋とは一風変わった瓦屋根の建物についての説明に、 レックスは神妙な顔で頷いた。丘を上るための石階段の左右にはシルターンの鬼神と竜神 の像が並び、神聖な場所に不心得者が侵入しないように睨み付けているようだった。 「……俺が入っても大丈夫かな?」 「はいです。亡くなった皆さんも喜びますよ」 「ありがとう」  笑顔で背中を押してくれる妖精に思わず感謝の言葉を向け、レックスは長い石段に足を かけた。数えてみると百六段あった階段を上りきって境内に入った青年は、マルルゥに示 されるままに一つの建物の前に立った。  資料で見たことがあるシルターン式の祭壇の前で、レックスはどのように祈ろうかと考 え、結局帝国軍で行う黙祷の礼を取る。 「?」  しばし瞼を下ろしていると、何やら金物がぶつかる音が聞こえてレックスが見上げると、 妖精の少女が太い縄に抱きついて身体を揺らしていて驚いた。さらに注目すると、その縄 の上部には大きな鈴が二つついているのがわかった。 「……鳴らすのかい?」 「が……ガラガラ、ぐー、ぐー、パンパン、ぐー、なのですよ」 「は?」  いったい何の呪文かと訝しがるレックスの前で、なんとか鈴を鳴らしたマルルゥが宙に 浮いたまま二回頭を下げて礼をした。それから二回手を叩き合わせて拍手し、最後にもう 一度頭を下げる。 「これで大丈夫です」 「今のがここの作法?」 「はいです。お姫様さんに習ったですよ」 「ふうん」  少し考え、レックスは自らも同じ作法に準じることにした。  鈴を鳴らし、見よう見まねで頭を下げる。二回拍手し、一礼した。 (ぐーは、頭をぐーっと下げる、かな?)  とりとめのないことを考えながら鎮守の杜を後にすると、階段の途中でマルルゥが眼下 の一際大きな屋敷を指差した。 「それでは、そろそろお姫様さんとニンニンさんの所に行くですよ」  それは、レックスが今まで見てきた木造建築の中では破格の大きさの建物だった。瓦屋 根のついた壁に囲まれた城のような建物で、幾つかの独立した家屋が渡り廊下で繋がって 一つの屋敷を構成している。マルルゥはそこを「鬼の御殿」と紹介した。 「たのもー、ですよ〜」  屋敷の門の前でマルルゥが声を張り上げると、閉ざされていた門がゆっくりと開いて、 その中から二人の武装した鬼人が顔を見せた。二人とも槍を持っており、それを十字に交 差させて門を塞いでいたが、レックスの姿を視界に入れると槍を引いて頷いた。 「レックス殿であらせられますね? 我らが主ミスミ様と、護人キュウマ様がお待ちです。 お通り下さい」 「失礼します」  軽く会釈してレックスが門を通ると、母屋と思しき建物の引き戸を開けて、深い緑の着 物に身を包んだ鬼人の少女が現れた。額に二本の角を生やした小柄な少女で、混じりけの 無い黒い髪を肩口で切り揃えている。色の違う布を幾つも重ね合わせた着物の生地は今朝 出会ったメイメイの店で見かけたもので、レックスはクスリと笑ってその少女に挨拶した。 「お招きありがとうございます。あなたが鬼姫様でしょうか?」 「え?」  レックスの丁寧な挨拶にきょとんとした少女は、しばらく彼の顔を見つめ、それからぷ っと吹き出して袖で口元を隠した。 「ふふ。とんでもございません。わたくしはこちらで奉公させていただいている者です。 本物の鬼姫さまは奥の間でお待ちになられておりますので、どうぞお上がり下さい」 「ど、どうも」  自分の勘違いに赤面するレックスに、少女はいつまでもクスクスと笑い続ける。靴を脱 ぐように言われてその風習に従って屋敷に上がると、板張りの床の上はひんやりとしてい て歩き心地が良かった。  建物の外周を回るようにして廊下を進んでいくと、通り過ぎる部屋の中から何人かの鬼 人の少女が顔を覗かせてはレックスを見てひそひそと小声で話し、青年を先導する少女と こっそりと手を振り合った。しかしそうして見かけるのは少女ばかりであり、男の姿がな いことをレックスは疑問に思って尋ねた。 「ここに男の人はいないんですか?」 「そういうわけではございませんが、血気にはやった若武者が外の人間に無体を働いては いけないと、本日に限りキュウマ様が人払いをなさりました。まあ……もともと鬼姫様は 警護の者など必要とはされないお方ですし」 「それって……」  どういうことですか、と尋ねようとした時、ちょうど目的の部屋に到着したようだった。 足を止めた少女に倣い、レックスも部屋の内部に向き直る。 「ミスミ様。お客人がお見えになられました」 「うむ。入れ」 「どうぞ、お入り下さい」  部屋の中から良く通る女の声が届き、少女は入り口で膝を折った。そこで待機するらし い少女に促され、レックスは自分の知識にある畳という敷物が敷かれた部屋に踏み入った。  そして、生まれて初めて青年は美しいものに目が霞むという経験をした。 「ふむ……そなたがキュウマの話していた男じゃな。なんでも、たいそうな力の持ち主だ とか」  そう言って微笑む女の姿から、レックスは目を離せなかった。墨で描かれた竜の絵のつ いたてを背景にして座っているのが、何度か話に出てきた鬼姫であろうことはすぐにわか った。だが、朱と白の組み合わせの着物に身を包み、興味深げな視線を向けてくるその鬼 姫の美貌は、これまでの常識を打ち破る衝撃を彼に与えていた。  流れる黒髪は櫛など必要としないくらいに細く真っ直ぐで、着物の裾と一緒に座る鬼姫 の周りに広がっている。額から突き出た二本の角の下にある瞳は黒真珠さながらで、その 瞳に見つめられるだけでレックスは胸の動悸が激しくなった。肌は絹よりも滑らかで白く、 染み一つ無い。何よりもその美貌といったら、彼女が実際に生きて呼吸をしていることす ら奇跡と思えるほどだ。 (綺麗だ……)  素直に、そう思っていた。それ以外の感想は無かった。  が。 「ミスミ様!」 「お?」  鋭い男の声が思考に割り込み、レックスは自分の頭にかかっていた靄のようなものが瞬 時に晴れるのを感じた。気がつけば、知らないうちに二十畳ほどある部屋の真ん中辺りま で進み出ていた。 「あ、あれ?」  自分でそこまで歩いた記憶が無く、レックスが戸惑っていると、正面のミスミから見て 斜め右に控えていた護人キュウマが、能面のような顔の中で視線だけは鋭く自分を見てい るのが見えた。 「キュウマさん?」 「レックス殿、正気に戻られましたか。――ミスミ様、あれほどお戯れはおやめください と申しましたのに!」 「お戯れ?」  わけがわからないレックスが首を傾げていると、絶世の美貌はそのままに、しかし年端 も行かない少女のように無邪気に鬼姫ミスミがコロコロと笑い出した。 「ふふふ。良いではないか、キュウマ。お客人、許されよ。少々たぶらかしの妖術を使わ せてもらったのじゃ」 「たぶ……!?」  その言葉の意味を悟り、レックスは目を丸くした。その視界の端でキュウマが表情を崩 して額を押さえ、ため息をつく。  そんな男たちの反応が楽しいのか、さらにミスミは愉快そうに笑う。 「わらわたちシルターンの物の怪を理解してもらうには、これが一番手っ取り早かろうと 思うてな。皆人を化かすのが大好きなのじゃ」 「……お客人にまで妖術を使うなど、ミスミ様だけですっ」  苦々しげに言い、護人はなんとレックスに向かって深々と頭を下げた。畳みに額が触れ るほどのそれに、レックスの方が慌ててしまう。 「ちょ……頭を上げてください、キュウマさん!」 「いや、申し訳ない! 自分がもう少しミスミ様にきつく言っておけば……っ」 「なんじゃ、キュウマ。人を子供のように。のう、お客人」 「え、ええと……」  双方から言われ、レックスはどう応えたら良いか迷った。  するとさすがに見かねたのか、それまで黙っていたマルルゥが呆れたように言う。 「お姫様さんもニンニンさんも、先生さんが困ってるですよ。ヨロイさんもシマシマさん も、メガネさんだってちゃんとご挨拶出来ましたですよ?」 「う……」  小さな妖精のひとことに、鬼人の青年の頬に朱が散った。それとは対照的にミスミは気 にした様子もなく、 「おお、マルルゥではないか。ちこう寄れ」  笑顔で膝の上を叩いた。  それを見てさらにキュウマはため息をつき、レックスももはや苦笑するしかなかった。  だが、妖精を膝の上に座らせたミスミは、次のように言う。 「ふん……キュウマ。そなたのことじゃから、お客人を呼んで堅苦しいことでも話すつも りだったのじゃろう?」 「ええ。護人として、郷の安全を彼に約束させるのが自分の仕事――」 「あー、聞きとうない!」  あろうことか、郷の代表者である護人の言葉を遮って、ミスミは彼を睨みつけた。その 視線は陽気さが消えた今、まさに鬼のように鋭い。 「良いか、キュウマ。郷、郷、ではいかんのじゃ。聞いた話では、お客人たちは困ってお るのじゃろう? だったら、まずはお客人の立場になってからものを考えよ」 「俺たちの……立場で?」 「そうじゃ、お客人」  レックスの呟きが聞こえたのか、ミスミは目を細めて赤毛の青年を見た。もう魅了の妖 術はそこになかったが、魅力的な面差しはそれだけでレックスの息を詰まらせる。  果たして、ミスミは言った。 「そなたたちは船を失い、人数はせいぜい三十あまりと聞く。食料も乏しく、飲み水にも 不足するじゃろう。そのような状況で、この郷……いや、島の集落全てを敵に回すことは 得策か?」 「いえ、愚考ですね」  即座にレックスは応えた。それに、ミスミは満足げに頷き、膝の上のマルルゥを撫でた。 「ふふ、そうじゃろう? そういうことじゃ、キュウマ」 「は、はあ……」 「そもそも、死にかけた郷の者を救った恩人故に、この御殿に上がるのを許可するように とわららに進言してきたのはそなたじゃろうに」 「そ、それは……っ」  もう能面の欠片もなく焦ってチラリと自分を見てくるキュウマに、レックスは悪いが頬 を掻いて笑みを返してしまった。昨日見た鋭い刃のような鬼人の戦士は、思いの外に恩義 に厚い男だったのだ。 「ありがとうございます、キュウマさん」 「い、いや、自分は……困りましたね」  はあ、とついに観念してキュウマはため息混じりの苦笑いをした。  居住まいを正し、彼はミスミに真摯な瞳で言う。 「お言葉、ごもっともでございます。レックス殿をはじめとする漂着者の方々を受け入れ ることは、護人の決議で決定したこと。どうかミスミ様も郷を治めるお方として、彼らと 郷の者の架け橋となられますよう、お願い申し上げます」  そこまで言って、下げていた頭を上げる。 「――と、そういう流れにするつもりだったのですが」 「たわけ。そのようなこと、いちいち言われんでもわかっておるわ」 「そのようで」  ふん、と鼻を鳴らすミスミに、キュウマは再度苦笑を浮かべる。ずいぶんとやわらかく、 そして思ったよりもずっと若者らしいキュウマの表情に、レックスは親近感を覚えた。  挙手して質問が出来たのも、その親近感故だろう。 「一つ、質問してよろしいですか?」 「はい」 「キュウマさんは護人ですよね? ですが、ここまで聞いた話だと、郷を治めているのは 鬼姫様なんですか?」 「ミスミで良いぞ」  質問の最後にミスミが被せ、レックスは苦笑して「ミスミ様なんですか?」と言い直し た。  キュウマは頷き、手短に説明する。 「ええ。自分は戦いに能があるという理由で護人になったに過ぎません。一忍びごときが 郷を治めるなど言語道断。もとより、ここはミスミさまと今は亡き主君、リクト様が治め られていた土地なのです」 「こやつ、そう言って聞かんのじゃ。夫はな、以前の戦で討ち死にしたのじゃが、その後 もことあるごとに主君への忠義、忠義と申してこやつはわらわを立ててくれる。忠義と申 すなら面倒なまつりごとも肩代わりして、わらわに楽隠居させてくれれば良いのにのう?」 「ミスミ様……」 「あはは」  手短な説明に対して茶々を入れるミスミに、キュウマが恨みがましい視線を向ける。レ ックスはおかしくなって笑うばかりで、もはや意見の一つも言えそうになかった。  わかったのは、風雷の郷にはレックスたちリィンバウムの人間と何ら変わらない人々が 住んでいる、ということだけだ。それも、最初から友好的に接してくれたミスミのおかげ だとレックスは思う。 「お客人に笑われていますよ、ミスミ様っ」 「なんじゃ? 笑われておるのはキュウマじゃろう。のう、お客人?」  ミスミは、そう言ってこれ以上ない微笑みで言った。 「仲良くしようぞ、レックス殿。もう戦はこりごりじゃからな」  それこそ彼女の一番の望みなのだと、レックスは頷いた。                 5  レックスが海賊船に戻ったのは、彼の腹の虫が栄養の補給を要求しだした頃だった。朝 食の直後に出かけたというのにすでに時間は昼食時で、浜辺では釣り上げられた魚を中心 とした網焼きが行われているところだ。 「あらセンセ、お帰りなさい。ほらね、お腹が空けば戻ってくるって言ってたでしょ?」  決して大口を開けず、上品な仕草で焼き魚を食べていたスカーレルがレックスに手を振 って出迎えた。後半はソノラに向けて言われた言葉で、その内容にレックスは憮然とする。 「そんな子供みたいな……」 「でも、そうでしょ? はい、センセの分」  艶やかに笑いながら、美貌の青年はレックスに串の通った魚を差し出した。それを受け 取ると、レックスは香ばしい香りに自分が意外なほどに空腹であること気がつき、すぐに 魚にかぶりつく。 「ほらね?」 「う……」  クスクスと笑われ、レックスは反論の余地を失った。  浜辺は今朝と同じく、ほぼ全ての海賊が揃っての昼食会となっていた。違うのは地面に 切られたばかりと思われる太い木が、枝を落とされて転がっていることで、カイル一家が 船の修繕を始めたということだろう。 「船の修繕、手伝えなくてごめん」 「いいてことよ。こっちも、先生に押し付けちまったからな」 「え?」 「あー……そのだな。集落巡り、とかよ」 「ああ」  燻製肉を噛み千切りながら言うカイルに、レックスはポンと手を叩き合せて納得した。 しかし、青年は周りの者が驚く笑顔で次のように告げる。 「俺の方は充分に楽しんできたから、気にしないでいいよ。一気に全世界を旅行した感じ かな。もの凄い美人にも会えたしね」 「おお、そういう話を待ってたんだ! な、どうだったんだ?」  途端に、レックスの周りに人だかりが出来る。質問攻めにあうレックスを遠巻きに眺め ながら、海賊の少女は唇を尖らせて隣の美男に言った。 「ぶーぶー。何さ、先生も美人美人って。結局男ってみんなああなわけ?」 「ふふ、なぁにソノラ。焼き餅?」 「そ、そんなんじゃないけどっ!」  スカーレルにからかわれ、ソノラは頬を朱に染めて膨らませる。それを微笑ましげに見 つめ、スカーレルは言った。 「そうね、男なんて大抵あんなものだけど……でも、センセは少し違うみたいね」 「違う?」  わからない、というふうに首を傾げる少女に、スカーレルは皆に囲まれるレックスを指 差す。 「あの人は、ああやってカイルたちの関心を惹きつけてるのよ。興味のある話題なら、み んながセンセの話を聞くでしょう? そういうこと」 「え? わ、わからないんだけど……」 「センセの話を聞いてあげなさいってことよ」 「わわ!?」  背中を叩かれてソノラが逞しい男たちの集団の中に放り込まれる。押し潰される悲鳴を 聞きながら含み笑いをして、スカーレルは自分の背後を振り返った。 「あなたも、そんな後ろにいないで行ってきたら?」 「……大きなお世話ですわ」  大きな樽を椅子にして座っていたベルフラウは、自分を促す青年の言葉にジロリと鋭い 視線を向けた。膝の上には焼いた魚と乾燥果実の乗った皿があり、オニビが喜んで甘い果 実を選んで頬張っていた。 「ビービッ」 「あなたこそ、お行きになったら? さぞかし面白い土産話が聞けるでしょうから」  視線は厳しく、手だけはオニビの身体を撫でながらベルフラウは言う。だが、スカーレ ルはその言葉が土産話という部分で、わずかに迷いというか言い慣れないものを言う響き を持ったのを聞き逃さなかった。 「ふうん。センセは、あなたに土産話を持ってきてくれるって言ったのね」 「な……っ」  少女が怯んだ顔を見せる。それを逃さず、スカーレルは滑り込むようにしてベルフラウ の隣に腰を下ろした。突然近づいた大人に、ベルフラウの瞳に恐怖に近い色が宿り、それ まで幸せそうに昼食を食べていたオニビがキッと顔を上げる。 「おっと……お待ちなさいな、小さな騎士くん」 「ビ?」  ツン、と額を指で突かれ、オニビが目を白黒させた。スカーレルはそのまま自分の長い 指を伸ばし、色を乗せてある爪の艶を確かめるように目を細める。  言葉は、ベルフラウの胸をドキンと鳴らした。 「綺麗でしょ? 良ければ、あなたの爪にも塗ってあげるわ。……火傷が治ったらね」 「あ……」  反射的に、ベルフラウは両の手を後ろに回して隠していた。だが、スカーレルの目は白 かった少女の手の所々についた赤い火傷を見逃さなかった。より険しい目で睨みつけてく る少女の瞳をやんわりと澄まし顔で受け止め、懐から透明な小瓶を取り出して二人の間に 置く。 「火傷に効く軟膏よ、つけておきなさい。女の子なんだし、跡が残ったら大変でしょう?」 「あなた……」 「センセには、言わないでおいてあげる。だから、受け取ってちょうだい」 「ビィ」  スカーレルの手が、少女の細い肩を軽く叩く。オニビにも胸をポフポフと叩かれ、ベル フラウは渋々ながらその小瓶を受け取った。 「……一応礼は言っておきますわ」 「どういたしまして」  うつむいてボソボソと言う少女は、他人に礼を言うことに慣れていないのだろう。スカ ーレルは、そんな少女を極力見ないように海賊たちに囲まれるレックスに目を向けてやり、 独り言のように呟いた。 「センセ、不思議な人ね。まだ出会って一日やそこらだっていうのに、あの人はカイル一 家に溶け込んでる。いつも笑顔で、ああいう人がみんなに好かれるんでしょうね」 「……そんなこと、わかってますわ」  少女は顔を上げた。  そこには、身振り手振りまで使って海賊たちに集落の様子を伝える赤毛の青年がいる。 その表情は明るく、楽しそうで、周りの皆がどっと笑い声を上げる度に彼も微笑んでいた。  その少女の背中を、スカーレルはそっと押す。 「あ……」 「センセはね、きっとあなたにこそ土産話を聞いて欲しいんだと、アタシは思うわよ。約 束したんでしょ?」 「え、ええ……」  樽から降り立ったベルフラウは、しかしそこから一歩も踏み出せなかった。  スカーレルも、それ以上は何も言わなかった。                 ※ 「俺に来て欲しい?」  昼食後、作業のために散っていく海賊たちの中からカイルを捕まえて、レックスは頷い た。 「うん。出来れば他にも何人か。こっちの代表者と護人たちが話をしたいっていうんだ」 「そりゃかまわねぇが、急だな」  金色の髪を無造作に掻き、海賊の船長は渋い顔をする。船の修繕は始まったばかりで、 カイルの指示を必要とする部分がまだ多いのだろう。彼は手近な海賊を一人呼び止めて、 スカーレルを呼んでくるように言った。 「ま、船のことはスカーレルに任せておけば心配ねぇか。――ソノラ、ヤード、ちょっと いいか!」  さらに二人を呼びつけ、カイルは手早く用件を言う。 「これから先生と一緒に島の代表と話し合いに行って来る。帝国軍の連中のこともあるか らな、ヤードには船の守りを頼みてぇ。いいか?」 「ええ。微力を尽くします」  客分という立場であるヤードは、迷うそぶりもなく了承した。召喚術の使い手がいる帝 国軍相手では、海賊カイル一家の面々だけでは心もとないというカイルの意図を察したの だろう。 「それから、ソノラ。お前は――」 「もちろんついて行く、だよね」 「――だな。先生、俺とソノラの二人でいいか」  もちろん、とレックスが頷くと、小走りにスカーレルがやって来る。彼に事情を説明し、 レックスたちは再び集落のある森の中へと入っていった。  一行が向かったのは<狭間の領域>で、レックスがキュウマに聞いたところでは、そこ から天使のフレイズが泉まで案内してくれるという。昼間の<狭間の領域>は住人も隠れ ており、海賊たちも気軽に踏み入れるだろうとの配慮からである。 「島の人たちも、こちらのことを色々考えてくれているんだよ」  風雷の郷でのミスミのことも語り、レックスはカイルとソノラの反応をうかがった。二 人は神妙な顔で話を聞き、やがて笑みを浮かべて言う。 「わかってるよ。先生がそれだけいい顔して戻ってきたのが、何よりの証拠だ」 「海賊カイル一家の掟の一つ。礼儀には礼儀で返すべし! だよね」  ああ、とカイルは頷く。 「あっちがそれだけ本気で俺らのことを考えてるなら、こっちもそれ相応の対応ってのを しねぇとな。今からなんの話があるのかは知らねぇが、俺らに出来ることなら何でもする ぜ、先生」 「カイル……うん、ありがとう」 「あはは、変なの。どうして先生がお礼言うの?」  それもそうだ、とレックスは苦笑した。いつの間にか、カイルたちと島の住人の間に立 つような役回りになっているようだ。  ところで、とレックスはソノラに尋ねる。 「ベルフラウだけど、俺がいない間、特に問題はなかったかい?」 「うん。だけど、どうして?」  森の獣道を並んで歩きながら、ソノラは斜め上にあるレックスの顔を見る。何故ソノラ に尋ねるのか、という疑問に青年は曖昧な笑みで頬を掻いた。 「いや、その……今朝少しね」 「はは〜ん。先生、さてはあんな小さな子に変なことしたんだ」 「へ、変なこと!?」  ニヤリとソノラが笑って言ったことに、レックスは飛び上がるほどに驚いた。その反応 が怪しい、と少女はレックスにさらに言う。 「あの子、綺麗だからさ〜」 「ち、違うって。そういうのじゃなくてさ――」 「あ、そっか。先生は今朝の胸の大きなお姉さんとかが好きなんだっけ?」 「な……っ!?」 「おいおい……あんまり先生をからかうなよ」  意地悪な顔で言うソノラにいちいち大きく反応するレックスに呆れ、カイルが助け舟を 出した。  が。 「男ならそういうことの一回や二回はなあ、先生」 「だから〜!」  助け舟は泥舟だったらしく、レックスは二人の海賊の間で肩を落とした。その様子を見 て、カイルとソノラは腹を抱えて笑う。  ひとしきり笑うと、カイルは目の端の涙を拭って、まだ肩を震わせながら言った。 「あの娘のことなら心配いらねぇよ。カイル一家は約束したことは必ず守る。あんたがう ちの客分をやっている限り、あの娘のことは俺ら一家が何があっても守ってやる」 「ま。とは言っても、ずっと部屋に閉じこもっちゃってるから、あたしらは信用されてな いみたいなんだけどね」  自信満々なカイルとは対照的に、ソノラは残念そうな顔だ。なんでも、食事の際なども ソノラから話しかければ無視はされないが、ベルフラウから周りに話しかけることは一切 無いという。 「無理もねぇがな」  どちらかと言うと、カイルはそのことを普通と思っている節があった。 「俺だって……そうだな。ソノラ、お前、例えばジャキーニ一家に船を沈められて、お前 だけが捕まってその日のうちに連中と仲良く飯喰えるか?」 「えー!? 無理無理。絶対に無理!」 「だろ? そういうこった」  どのような経緯であれ、カイルたちが<成功への船出>号を襲った事実は消えない。ソ ノラは「そっか……」と複雑な顔をして、足元の石ころを蹴った。  そして、少女は不意にレックスを見る。 「でも、だったらさ、先生こんなに気軽に外に出てていいの?」 「え?」  非難さえ含んだ響きに、レックスは目を瞬かせた。そんなレックスに、少女は両腕を広 げて主張する。 「だってそんな状況だったら、あたしだったら誰かにそばにいて欲しいもの。スカーレル とか……百歩譲ってアニキでもいいや。とにかく、そばにいて欲しいもの」 「百歩譲ってかよ……」  カイルがぼやくが、ソノラはそちらは一瞥もしないでレックスを見つめた。それに対し、 レックスは自分でもそうだと思いながら頷いた。 「うん。俺もそう思うんだけど……でも、俺だってベルフラウにそれほど信用されている わけじゃないんだ」 「は?」  瞬間、ソノラの目が点になった。 (何を言ってるの、この人?)  という顔だ。  一呼吸置いて、青年の言った言葉を理解した少女は、ため息をついて首を横に振った。 「先生、あの子のことこんなに気にかけてるじゃない。それで信用されてないはずないよ」 「でも実際、俺はあの子に拒絶されてるわけだし」 「ん〜」  それはもっと別の要因があるんじゃないだろうか、とソノラは言いたかったが、不意に 視界に飛び込んできたレックスの奥にあるカイルが首を横に振る姿に、口を閉ざした。 (他人事にあんまり口出しするなって?)  船長の無言の合図に、ソノラは頬を唇を尖らせて拗ねた顔をした。だが、納得出来る部 分もある。 (あの子、先生のこと好きだったりして恥ずかしがってるなら、あたしが茶々入れたら悪 いもんね)  私の方が少しお姉さんだし、と少女は今度はふふふと笑う。それにカイルは額を押さえ て嘆息し、間に立つレックスは二人の無言の会話がわからずに首を傾げるばかりだ。  とにかく、と会話の最後にレックスは言った。 「俺は、ベルフラウを傷つけたくないんだ。あの子はしっかりしているようで、俺が思っ ていたよりもずっと繊細だから……彼女が俺のことを信じてくれるようになるまで、俺は ゆっくりと待つよ」 「ふうん……優しいね、先生」  赤毛の青年の優しいところをまた一つ確認し、ソノラは嬉しくなって彼の周囲をクルリ と回った。回り終わったところにちょうど腕があったので、ついでにそれに抱きついてみ せる。 「わ!?」  ぐいっと引っ張られて体勢を崩すレックスに愉快に笑いながら、しかしソノラは頭の端 で思うのだった。 (でも、それって優しすぎるんじゃない?)  部屋に閉じこもったベルフラウ。  部屋から出てくるのを待つレックス。  それでは何も変わらないのではないか、と海賊の少女は思うのだ。                 ※  合流したフレイズに案内されて集いの泉に到着すると、すでに護人たちは四人とも席に 着いて待っていた。改めてレックスがカイルとソノラを紹介すると、カイルは自分から手 を差し出して握手を交換した。 「アニキが利き腕の右手で握手するのって、この場では絶対にこの腕を使わない、ってこ となんだよ」  ソノラにそう耳打ちされ、レックスはカイルの歩み寄りを実感することが出来た。  漂着者たちが席に着くと、先日と同じようにアルディラが会議の始まりを告げる宣言を 行い、まず最初にレックスたちに言った。 「実は最近、この島で食料が盗まれる事件が起きているの。昨日は、そのことに関して意 見をまとめるためにここに集まっていたわ」 「そこにファルゼンがお前らを連れてきて、お流れってわけだ」  ヤッファが後を継ぎ、申し訳なさそうな顔をするレックスに肩をすくめる。 「別に責めてるわけじゃねぇよ。むしろ、ちょうどいい時期だったぜ」 「どういうことですか?」 「人間……ダ」  聞き取りにくい声で、ファルゼンが言った。単語の意味は明快だったが、事情をまだ把 握していない三人は顔を見合わせて困惑する。  そこに、キュウマが挙手をして発言した。 「ここは、一つ一つ順を追って説明する必要があると思います。よろしいか」  それからキュウマが語ったのは、一月ほど前からユクレス村を中心に作物が荒らされる 事件が起きているということだった。最初のうちは集落に属さない言葉の通じないはぐれ 召喚獣の仕業かと思ったが、それにしては被害が大きすぎ、また現場に残された足跡や匂 いは人間のものに違いないという話だ。 「つまり、俺らや帝国の連中以外にも、この島に人間がいるかも知れねぇってことか?」 「そういうことです」  カイルが驚きの声を上げて、キュウマが能面の顔で頷く。レックスにはミスミの前での 醜態を見られていたが、他の護人の前では冷静沈着な忍を貫くつもりらしい。  次に発言したのはソノラで、引きつった笑いを浮かべながら彼女は護人たちに尋ねた。 「はは……それで、あたしたちが疑われるとかはないよね」 「ソノラ。キュウマさんはしっかり一ヶ月前からって言ったよ。時期をはっきり言ってく れたのは、俺たちには犯行は無理だとわかってるって言ってくれてるのと同じなんだ」 「あ、そうなんだ」  ソノラが抱くような不安を与えたくないからこそ、敢えてキュウマは自分たちにとって わかりきっている事件の発生時期を説明に加えたのだろう。 (気を遣わせてるなあ……)  続いて、奪われた作物の種類や量、犯行の間隔などが実際に被害にあっているユクレス 村のヤッファから説明され、レックスはカイルと相談してその集団の規模を推測した。レ ックスは軍学校で、将来的に部隊を指揮するために兵糧に関する知識を修めていたし、カ イルはそれこそ略奪を行なっている海賊でその上一家を率いる船長なのだ。その辺りは二 人の得意分野であると言える。  二人の出した結論は、 「二十人強、三十人弱。選んでいる作物の種類からすると、帝国出身者が多いと思う」 「同感だ。残ってる足跡の数と奪われたもんの量で考えると、なかなかガタイのいい奴ら が揃ってるな。食いもんってのはかさばるもんだ。そいつをまとめて運ぶためのやり方っ てのをわかってやがる。こいつはカタギの人間じゃねぇな」 「あ、あはは……全然わかんにゃい」  すらすらと述べるレックスとカイルに、話題に乗り遅れたかのようにソノラがごまかし 笑いを浮かべる。四人の護人は、人間である二人の言葉を聞いてお互いに頷いた。  アルディラが、探るようにレックスを見る。 「帝国ということは、あなたたちとは同郷ということね。少なくとも言葉が通じる相手だ と思って良いのかしら?」 「ええ、それは間違いなく」  まるで人間の大部分は言葉の通じない化け物のような言われ方で、レックスは苦笑気味 に応えた。すると、もう一度護人たちはお互いの意思を確認する視線のやり取りを交わし、 代表してヤッファが口を開いた。 「なら、こちらから提案があるんだが、いいか」 「ええ。俺たちに出来ることなら、何でも」 「そう言ってもらえると助かるぜ」  亜人の護人は笑い、気軽な調子で言った。 「つまりだな、オレたちはその連中の説得をお前らに任せちまおうってつもりなわけだ。 人間の説得は、人間の方が向いてるだろうからな」 「私たちでは、話し合いにすらならない可能性が高いのよ。もちろん力ずくで問題を解決 するのはたやすいけれど、あなたたちがいるしね。一応、平和的な解決方法も試す価値が 出てきたというわけ」  アルディラは栗毛色の髪を指で弄びながら、レックスを見る。相変わらず探る瞳は、彼 の反応を何一つとして見逃すまいという姿勢のようだ。  そのアルディラの視線を真正面から受け止め、レックスは席を立ち、円卓に手をついた。 全員の注目を集めて、はっきりと頷く。 「わかりました。その交渉役、やらせていただきます」 「だな」  同じように、カイルも立ち上がった。全員が次々と席を立ち、一人遅れたソノラがレッ クスたちに囁く。 「なになに、協力するの?」 「ああ。これから食い物やら水やらもらうんだ。その分は働かねぇとな」 「俺たちが島の人たちに認めてもらうための、一番最初の大仕事ってところかな」  ニッ、と赤毛の青年と金髪の青年は笑い会って、お互いの拳を軽く打ち合った。  ソノラは肩身の狭い思いで、 「……ぶーぶー。スカーレルに代わってもらえばよかった」  学が無い自分を呪うのだった。                 6  結局、交渉には不向きということでソノラを帰し、スカーレルとヤードを加えて一行は ユクレス村へと向かった。案内役は護人たちが直接行ない、もしもの時のために海賊船の 護衛には天使のフレイズが就くことになった。 「これも交流の一環ということですね」  と笑ったフレイズの姿に海賊たちは驚いていたが、船長であるカイルから共闘するよう に指示が出ると、すぐに彼らは天使を仲間として受け入れた。その辺りはカイル一家の結 束の強さに思えて、レックスは感心した。 (帝国軍の正規部隊並みだな……いや、違うな。言われた命令に従うように徹底した結果 の軍隊と違って、全員がカイルの言うことには間違いが無いって信じてるからの統率なん だ)  職業軍人とも、ただの野盗とも違う人々。お互いの実力と信頼関係によってのみ成り立 つ集団というものに、レックスは強い魅力を感じ始めていた。 (帝国軍にいた頃とは……違うな)  昨日遭遇した帝国軍人たちを、レックスは思い出した。<碧の賢帝>ともう一本の剣を 護送するために<成功への船出>号の護衛艦に居合わせていた彼らは、レックスたちと同 じく嵐に巻き込まれてこの島へと漂着していた。  彼ら軍人は与えられた命令を忠実に実行することを一番の美徳とされ、軍学校を出た優 秀な指揮官によって率いられた彼らは、知略計略の限りを尽くして最良の結果を出そうと する。私情を消して命令に従うからこそ生まれる一糸乱れぬ統率力は、聖王国や旧王国と いった外敵を退け続けている帝国軍の強みだ。 (どうにか和解出来ないかな……)  望んだわけではないが、<碧の賢帝>の力で帝国軍を退けてしまったレックスは、彼ら からは敵と思われているだろう。魔剣を取り返すため、近日中に彼らが何らかの行動に出 るのは明白だった。 「はあ……」 「あら、どうしたのセンセ。憂鬱そうなため息なんかついちゃって。あの子のことが気が かり?」 「う……それもあります」  一度船に戻った際にも、ベルフラウはレックスと顔を合わせようとはしなかった。朝の 拒絶がまだ後を引いているようで、レックスはより重いため息をついた。 (俺は、あの子に何をしたんだろう?)  直せる部分ならば直したいと思った。  護人たちに連れられてユクレス村に入ると、レックスたちは実際に被害にあった畑や果 樹園を調査してからさらに北に向かった。前回の略奪から時間が経っているので、調査自 体は現場を見ておくという形式的なものに過ぎなかったが、その過程でレックスたち漂着 者はユクレス村を見学することになり、ヤードなどは興奮を隠し切れないで言った。 「これは凄いですよ。異界の環境を再現し、それを半永久的に持続させるなど、いったい どのような技術が使われているのか。召喚術の応用には違いないとは思うのですが……」  その視点は召喚師らしいもので、亜人たちの暮らしの文化そのものに興味を抱くレック スとは少々違っていた。召喚術は使えても専門で研究しているわけではない者にはわから ない、高度な段階でヤードは興味を惹かれたようだ。  そうしてユクレス村を通り過ぎると、ヤッファは一同を振り返って言う。 「連中はここから北西にある海岸を根城にてやがる。マルルゥが偵察したところ、でかい 船があるらしいぜ」 「その船でこの島に流れ着いたんでしょうね。迷惑な話だわ」  アルディラが嘆息し、それは護人全員の思いのようだった。  そして森の木々が切れて目の前に海が広がるようになると、そこは一段高くなった場所 で、眼下に件の集団の野営地が設けられているのが見えた。予想通り三十人近くの男たち が思い思いの場所でくつろいでいる。 「ここまでは予想通り……かな。カイル?」  レックスはカイルと頷きあおうとして、海賊の船長が額を押さえて閉口しているのを見 て怪訝な顔をした。見れば、スカーレルも同様のうんざりした顔で視線を眼下の集団に向 けている。 「ドウシタ」  こちらの様子に気がついたファルゼンが声をかけてきたが、レックスも首を横に振るし かない。だが、カイルはすぐに顔を上げると真っ直ぐに野営地の奥にある船を指差した。 「あの船」 「ええ」 「あの旗」 「ええ」 「あの暑苦しさ」 「ええ」 「間違いねぇよなぁ……」 「間違いないわ、ジャキーニ一家ね」  一つ一つスカーレルと確認し合い、最後にカイルは思い切り疲れたため息をついた。  彼が指差したものを目で追っていったレックスは、ようやく彼が何を言いたいのかわか った。 「海賊……だね」  砂浜でもない陸に乗り上げている船は、複数の大砲を備えていた。それだけなら軍艦と も思えるかもしれなかったが、一本だけ折れずに残ったマストに大きな海賊旗が掲げられ ては見間違いようもない。激しい戦いの後のように破損した船の上で誇らしげに風に揺れ ているその旗が、髭を生やした髑髏という滑稽なものであることに、レックスは肩の力が 抜けるようだった。 「なんだい、あれ……」 「なんですか、あのふざけた旗は」  奇しくも声を揃えたレックスとキュウマに、カイルは肩をすくめて言った。 「あんな趣味悪ぃ海賊旗は広い海でも一人しか使わねぇよ」 「ジャキーニ一家。アタシたちカイル一家を目の敵にする、正真正銘の海賊よ。道理で略 奪の手際がいいわけだわ」  スカーレルが手短に説明し、自分たちでは説得は逆効果になりかねないとも付け足した。 「先代の時にたまたま同じ港に居合わせたことがあってな。その時にふっかけられた酒の 呑み比べでうちが勝って以来、何かとちょっかいかけてくるようになったんだよ」 「つまり、あなたたちにとって彼らは敵、というわけね」 「まあな」  確認するアルディラに、カイルは苦笑して応えた。説得に協力すると言ってついてきな がら、役に立てそうもない。  そのような会話が少し離れた場所でされているとは知らず、海賊ジャキーニ一家の面々 は大声で駄々をこねるように叫んでいた。 「腹ぁ減ったのぉ?」 「へい、船長!」  最初にぼやいたのは、海の潮と陽射しに焼けた赤茶けた髪の男だ。海賊旗を象徴するよ うな立派な鼻髭を生やした、壮年の精悍さを抽出した男臭い顔立ちで、周りの海賊たちの 言葉から彼が一家の長であるジャキーニであることがわかった。  ジャキーニは自分の周囲に座る、白地に青の縁取りをした昔ながらの水兵服を着た海賊 たちを眺め、もう一度ため息をついた。心なしか、大柄な身体がしぼんで見えた。 「酒ぇ……呑みたいのぉ?」 「へい、船長!」  海賊たちの返事は並の軍隊よりも統制の取れた重なったものだったが、その声は投げや りで、疲労のにじみ出たものだ。表情には精彩を欠き、皆が気だるそうにしている。  そんな部下たちの姿に歯軋りし、自らも疲れた顔のジャキーニは腰を下ろしていた樽か ら立ち上がった。大きく腕を振って叫ぶ。 「だから陸に上がるのは嫌なんじゃっ! 普通、港に停泊させていた船が嵐に巻き込まれ て漂流するか!? しかも、乗り上げた島がこんな化けもんの巣だったりするか!? こ れは誰のせいなのかのう、オウキーニ!?」 「はいはい、ワイのせいや。もう聞き飽きましたで、あんさん」  癇癪を起こした船長にギロリと睨まれたのは、ジャキーニに負けないくらい体格の良い 男だ。どちらかというと恰幅が良いと表現した方が良さそうな丸みを持った身体だったが、 濃い緑色の半袖から覗いた腕はその場にいるどの海賊よりも太い。ジャキーニに睨まれて も苦笑するだけで済ます、どっしりとした地に根が生えたような印象のある男だった。  相手が怯まないことが面白くないのか、ジャキーニは髭の奥の唇を尖らせ、今度は子供 のように拗ねた声で言う。 「義兄弟。お前が新鮮な食材が欲しいからどーしても! と言うから、わしは陸に上がっ たんじゃ。責任取れ、責任」 「そないなこと言いましても、船がこないなことになっては島を出ることもかないません わ」 「メシ作れ、メシっ!」  ジャキーニは断言した。 「最近、お前がメシの量をケチケチするから力が出んのじゃ! 材料はあるんじゃから、 好きなだけ使ったらええじゃろうがっ」 「あんさん……化け物の村に行って野菜盗むの、もうやめましょうや。危険ですわ。海の 魚を釣ればええやないですの」 「うるさい。わしはお魚が大嫌いなんじゃ!」  そう叫んで地団駄を踏むジャキーニの姿に、レックスはあ然としてカイルを見た。護人 たちも呆れたようで、全員がカイル一家に説明を求めていた。  カイルは、苦笑だけが選びうる唯一の表情という気持ちで言う。 「ああいう奴らなんだよ」  仕方ねぇなあ、とカイルはスカーレルに耳打ちする。 「どうする?」 「真正面からやりあっても勝てると思うわよ。こちらには今ヤードがいるし、もちろんセ ンセもね。護人さんまで計算に入れれば、充分おつりがくるわよ」  美男はサラリと応えたが、カイルの求めた答えはそれではなかった。そのことも承知し ているスカーレルは、口元に笑みを浮かべてレックスに話を振る。 「あなたはどうしたいの、センセ。アタシたちはジャキーニ一家とは敵同士だから、ここ は第三者の意見を聞きたいわね」 「俺は……」  問われ、レックスはもう一度ジャキーニたちに視線を戻した。  思い出すのは、昨日の戦い。帝国軍に襲われていた風雷の郷の妖怪たち。 (戦えば、あの中の何人かは死ぬ)  カイルもスカーレルも、戦いになれば相手が人間でも容赦しないだろう。護人たちも同 様だ。 (それは……避けたい。避けないと)  しばし沈黙し、レックスは全員に自分の考えを告げた。 「俺は、やっぱり話し合いによる解決にしたいと思います。船で海に出ることも出来ず、 食料も尽きて最後の手段として盗みを働いているのであれば、逆にそれを提供することで 彼らは問題を起こさなくなるんじゃないでしょうか?」 「ま、島から追い出すにしたって、船がなけりゃ無理な話だしな」  カイルが相づちを打ち、護人の中でも特にヤッファを見た。ユクレス村の護人は、険し い顔で海賊たちを睨んでいる。 「だがよ、実際被害にあってるうちの集落の穴埋めはしてくれんのか、あいつらはよ」 「さあな。船を漁りゃそれなりのもんは出てくるだろうが、あんたらに価値があるものか まではな」  報復権はヤッファにある、とばかりにカイルは言う。ヤッファはそのカイルの姿勢が気 に入ったようで、野性味のある笑みで鋭い牙を覗かせた。  だが、レックスはそれに良い顔をしない。 「……出来れば、暴力沙汰はやめて欲しい。俺たちは、降伏勧告するわけじゃないです。 あくまで対等の立場で説得したい」 「はっ。やられたことを忘れて、笑ってあの連中に飯をくれてやれって言うのかい。笑わ せるんじゃねぇ」 「同感です。それこそ、話し合うことすらせず姑息に窃盗を働く輩に何を遠慮することが あるというのです」  すぐに反発したのがヤッファで、同意を示したのがキュウマだった。二人の護人はすで に今にも浜辺に下りて戦いを始める気配を放っていた。  それは、集落を荒らされた者の正当な怒りだ。  それでも、とレックスは繰り返す。 「それでも、どうにか出来ませんか。畑を荒らされてるなら、俺が元通りにするのを手伝 います。俺田舎育ちですから土いじり得意ですし、なんとかなると思うんです」 「土いじり? あなたが?」  それまで男たちの会話を見守っていたアルディラが、端整な顔にきょとんとした表情を 浮かべてレックスを見た。  そして。 「そう、それは見てみたいわね」  肩を震わせて笑い出した。 「え?」  レックスが驚くと、その笑いは伝播して周りの皆に広がった。小さかった笑いは次第に 大きくなり、最後にはカイルとヤッファという大爆笑をする二人が加わって浜辺にまで届 く大音声となって響き渡った。 「え? え?」  戸惑うレックスの耳に、何者かと騒ぎ出すジャキーニ一家の声が聞こえてくる。話がま とまらないまま状況が進んでしまい、レックスは焦ったのだが、 「しゃーねーな。それでいくとするか」 「ええ、ヤッファ殿がそれでよろしいのでしたら」 「アア……」 「ここはあなたの土地だもの。あなたの決断で結構よ、ヤッファ」  ヤッファ、キュウマ、ファルゼン、そしてアルディラの四人が浜辺に向かって歩き出す。 慌ててレックスがその後ろについていくと、カイルが青年の背中を叩いて言う。 「いいところで笑ったあのねーちゃんに感謝するんだな、先生。お人好しなあんたのやり 方に一回だけ付き合ってやるぜ」 「アタシに考えがあるわ。カイル、合わせてちょうだい」  海賊たちも意気揚々とレックスを追い越していく。困惑気味のレックスの隣に、ヤード は並んで苦笑して耳打ちした。 「あなたは、本当に誰かが傷つくのが嫌なんですね。剣の力で帝国軍の兵士まで癒した時 も驚きましたが……消耗を避けるわけではなく、戦いそのものを嫌って勝てる戦いすら避 けようとする人間を、私は初めて見ました」  それは非難ではなく、微笑ましいものを見たという穏やかなもの。 「彼らの遭遇した一月前の嵐というのは、おそらく私が追っ手から逃れるために剣の力を 開放した際のものでしょう。ここで彼らが傷つけば私も気にせずにはいられませんし、感 謝します」 「……どうも?」  首を傾げつつ、レックスは皆と一緒に歩く。  段々と近づくジャキーニ一家を眺めながら、レックスは心が高揚していくのを感じてい た。 (みんなが、戦わない方向で考えてくれているんだ)  それだけは、確信出来た。                 ※  全員で浜辺に下りていくと、ジャキーニがカイルを見て目を剥いた。 「貴様は……憎きカイル!」 「あんさんら、どうして!?」  続いて恰幅の良いオウキーニも驚き、護人たちを下がらせたカイルは肩をすくめて苦笑 した。 「ま、同じようなご身分ってわけだ。もっとも、俺らはこそ泥なんてせこいマネはしてね ぇけどな」 「黙らんかいっ。略奪は海賊の浪漫なんじゃいっ!」 「……海賊の品位を落とさないで欲しいわ」  自信満々に吼えるジャキーニに、スカーレルがボソリと呟いた。そこで、ジャキーニは カイルの後ろに控えている面々に気がついたようだった。不意の遭遇に驚いていた顔が、 見る見る険しい海賊のものへと変わっていく。 「ほお? なんじゃ貴様、そこの化けもんとグルになって、わしらをどうにかしようって わけか。そうなんじゃなっ」  化け物、と言われてアルディラの流麗な眉がピクリと動いたが、彼女は黙ってカイルに 交渉を任せる。怒鳴られたカイルは、怖気の一つも見せずにジャキーニの前で大きく腕を 開いてみせた。 「頭冷やせよ。ま、確かにこっちがその気になりゃ、お前らジャキーニ一家をぶっ潰すく らい、わけねぇんだけどよ」 「なんじゃとう!?」 「あんさん、落ち着いたってや。――カイルはん、それはウチらとやりあう気は無いちゅ うことでっか?」  腰の剣を抜きかけたジャキーニを制し、オウキーニが確認するように言った。さすがに 話が早い、とカイルは満足げに頷く。 「やりあいはするぜ。だけどな、今日の主役はこいつじゃねぇ」  右の握り拳を突き出し、カイルは後ろを振り返った。それを合図にして、スカーレルが 進み出る。 「はぁい、ジャキーニ。お久しぶり」 「なんじゃい、スカーレルか」  美男の姿を見ると、ジャキーニはこれ以上ないくらい嫌そうな顔をした。苦手なんだろ うか、とレックスが思っていると、スカーレルが含み笑いをして言う。 「ふふ、嫌われたものね。でも無理もないわ。何せあなたの記念すべき一敗目は、アタシ と先代に呑み比べで負けたことですものね」 「それを言うんじゃない!」  途端、ジャキーニが顔を真っ赤にして怒鳴った。先程までも大声だったが、今は恫喝と いうよりも悲鳴に近い。 「あれはたまたま身体の調子が悪い日だったんじゃ! わしが気持ちよく呑んどるところ に喧嘩売ってきおってっ。だからわしは貴様らが嫌いなんじゃ!」 「……喧嘩売ってきたのはそっちだろうがよ」  カイルのぼやきは、スカーレル以外の耳には届かない。  スカーレルは、かかったという微笑を浮かべて人差し指を立てる。 「じゃあ、もう一回やればあなたは勝つ自信があるわけね?」 「当然じゃい!」 「ならやりましょうか。カイル一家とジャキーニ一家。お互いの名誉をかけた呑み比べを」  それは男ですら見惚れるような妖しい魅力に満ちた笑みで、海賊たちの間からため息の ような声が漏れる。ただ一人、 「望むところじゃい!」  船長一人は、その魅力さえも目に入れていないようだったが。  ともあれ、そのような話の流れになって、再びカイルが口を開く。 「よぉし、話は決まった! 酒はこっちで用意してやるから、塩はそっちで用意しな。勝 負に出るのは……そうだな、先代の時と同じで二人ずつといこうか」 「塩?」  酒はともかく塩を用意する意図がわからずレックスが疑問に思うと、スカーレルが教え てくれる。 「塩は、気つけ用兼仕込み用よ」 「仕込み?」 「片方が酒を用意したら、自分たちに有利なように何か薬でも盛っているかもしれないで しょう? だから、もう片方は気つけ用の塩を用意するの。そうして、お互いに仕込みを 入れられるものを用意することで、実際の仕込みが無いように牽制し合うのよ」 「はあ」  他にも、酒を用意する方は呑みなれている酒で有利だとか、逆に塩に毒が盛ってあると 警戒すると、用意した方が気つけを使用するまで相手は迂闊に手を出せないだとか、だ。  海賊たちの競技をすっかり観戦する気になっていたレックスは、だからカイルが言った 言葉に大声で驚くことになった。 「こっちの代表は俺と……こっちの客分、レックス先生だ!」 「な……カ、カイル!?」  一気に自分に視線が集まり、レックスは慌ててカイルに詰め寄った。しかし、カイルは そ知らぬ顔で言ってのける。 「だってよ、スカーレルがザルだってのはバレちまってるからな。ここに来て勝負引かれ るわけにはいかねぇだろうがよ」 「そ、そうなんだ?」 「ザルだなんて美しくないわね。うわばみって言ってよ」  農耕器具は駄目でも、蛇ならば良いとスカーレルは長い指で髪を掻き上げた。続いてレ ックスはヤードを見たが、召喚師は無言で肩をすくめた。酒は強くないということだろう。 「俺だってそんなに飲めるわけじゃないんだよ。正直自信無いんだけど」 「そうなのか? だがよ、他にいねぇしなあ」  チラリと護人たちに視線を向けても、彼らは興味深そうに人間たちのやり取りを眺めて いるだけだ。そもそもカイル一家という範疇にはいない。  結局、押し切られる形でレックスは了承し、勝負はユクレス村で行うということになっ た。  ヤッファ曰く、 「面白そうだからな。酒はこっちで用意してやる」  ということだ。  そして、ユクレスの広場という巨木の前の広場に計四つの樽が運ばれるに至り、レック スは自分がとんでもないものに巻き込まれているのだと悟った。 「おし。まずはこんなもんだな」 「……まずは?」  いきなり村の中に現れた海賊の集団に、何事かと亜人たちが広場に集まってくると、そ んな彼らにヤッファが張りのある声で事情を説明した。すると、ざわめきは次第に歓声へ と変わっていった。 「がんばれー!」 「泥棒に負けるなー!」  さして広くない広場に集まった、数十を越える亜人たちに囲まれ、レックスは乾いた笑 いで自分の席についた。席といっても地面の上に直接茣蓙を敷いたもので、隣にはカイル、 正面にはジャキーニでその隣にはオウキーニという形で向かい合う。 (ど、どうしてこんなことになったんだろう?)  確か、平和的に話し合いで解決するという話だったはずだ。  青年が悩んでいると、カイルが横からこっそりと言う。 「平和的、だろ?」 「……だね」  レックスは、苦笑して頷くのだった。                 ※  呑み比べは、まずは酒を用意した方ということでカイルが一杯呑むところから始まった。  ユクレス村の酒は果樹園の葡萄を使ったもので、紫紺の色が美しいワインだ。まろやか なアルコールの香りと、それ以上に甘い香りに誘われて、カイルは指を広げた掌ほどの大 きさの盃を一気に傾ける。 「……かぁ〜。うめぇなあ、おい」  むしろ驚いたようにカイルは言った。続いて盃を取ったオウキーニも目を丸くし、順番 が回ってきたレックスも一口舐めるように飲んでみて絶句した。 「お、美味しい……」  酒など軍学校卒業時の送迎会くらいでしか口にしたことがなかったレックスは、その時 高級品と言われて振る舞われた酒と、今口にした酒のあまりの味の違いにびっくりした。 「あ……」  気がつけば、大きめの盃は空になっていた。 (……もっと呑みたい)  そう思わせる酒だ。  最後に呑んだジャキーニは、 「久しぶりの酒じゃあー!」  と叫んで一口で呑んでいたので、レックスは酒に対して失礼だと思った。  そこから再び頭のカイルに戻って、呑み比べは再開される。カイル、オウキーニ、レッ クス、ジャキーニの順番で呑み、最後まで酔い潰れずに残った者の所属する一家が勝利と なるわけだ。  一杯目以降も、レックスは順調に盃を重ねていった。一杯ごとにそれまで知らなかった 酒の魅力に気づかされるようで、ワインの芳醇な味わいに唇を舐める。 「これならいくらでも呑めそうだなあ」 「なになに? そんなに美味しいの?」 「あ」  レックスの呟きを聞きつけたスカーレルが盃を奪って新しく注いだ酒を呑み、あらまあ と声を上げる。 「本当。セレンの二十年物だってこれほどのものじゃないわよ?」 「いい味してんだろ? うちの自慢の一品よ」  言いつつ、ヤッファは誰よりも大きな盃を傾ける。そうなると他の護人たちも食指が働 いたようで、まずはアルディラがひとこと断ってから口をつけ、キュウマも失礼と言いな がら盃を手にする。 「まあ……ヤッファ、あなた確か今年の巡り始めで持ってきたワインを村一番のものと言 っていたわよね?」 「明らかに、あれより上ですね。いや、驚きました」 「はは。そういうこともあったかも知れねぇなあ!」  そんな酒で呑み比べなどして良いのだろうか。  少しだけ回り始めた酒に身体を火照らしながら、レックスはスカーレルから盃を返され る。すぐに順番が来て、今度は味わう間もなく胃に流し込む。 「なかなかいい呑みっぷりじゃねぇか、先生。その調子で頼むぜ」 「うん」  酒の勢いというもので頷いたが、それが安請け合いだと思い知らされたのは二十巡目ほ どに突入した時だった。  いかに美味い酒でも、大量に呑めば当然のように酔いは深まっていく。ほろ酔い気分で 高揚して油断していたのか、気がついた時には目が熱ぼったくなり、身体がふわふわ浮く ような力の抜けた状態でレックスは酒を呑んでいた。かと思えば腕を上げるのも億劫なほ どに気だるくもあり、純粋に胃が膨れたことによる苦しさも出てきた。 (……この人たち、なんで平気な顔をしてるんだ?)  カイルは顔を赤くしながらも平然としていたし、ジャキーニは大笑いしながら豪快に盃 を傾けている。オウキーニも目元が多少落ちてきているだけで、まだまだ潰れる気配はな かった。 「……大丈夫、カ?」 「はい……うぐっ」  一人酒を呑めない鎧の騎士のファルゼンがレックスの隣に立って言ったので、彼は大丈 夫と頷こうとしたのだが、頭を下げたまま首が持ち上がらなくて顔面から地面に突っ込ん だ。 「おいおい、先生頼むぜ」 「つ、続けてて」  呻きながら、レックスは危機感を覚えた。 (これは……まずいかも)  口当たりが良いからと調子に乗っていたが、実際には酒にそれほど慣れていない人間が 呑んで良い量ではなかった。額を打ちつけたおかげで多少身体の自由を取り戻して身を起 こすと、目の前に山盛りの塩が差し出されていた。 「どぞ。使ってぇな」 「あ、ありがとうございます」  塩の盛られた器を支えているのは、オウキーニの節くれだった太い指だ。人の良い笑み を浮かべる海賊に礼を言って、レックスは塩を一掴み口の中に放り込んだ。 「う……っ」 「あー、そんなにいっぺんにやったらあかんですわ。手に乗せて舐めるもんです」  それもそうだ、と赤毛の青年は閉口する。酒のせいか、どうにも頭の働きが鈍かった。  その様子を見ていたスカーレルは、 「あっさり口にしたわね……あれだけ毒が盛ってあるかもって言ってあげたのに」 「ええ。面白い人ですね」  ヤードも目を細めて一人顔を真っ赤にしているレックスを見る。 「元帝国軍人で、おそらくは軍学校をかなりの成績で卒業した人でしょう。正規の学問を 修めた幅広い知識、論理立てた思考を出来る理知性、己の考えを実行する行動力、そして 人の心を掴む協調性……」 「そして、そこまで揃っていながら驚くほど無防備に他人を信用する、お人好し、ね」  お人好しは、四十巡目で目を回して倒れた。                 結  廊下が慌しくなったのは、陽が落ちてしばらくした頃だった。  火傷した手に軟膏を塗っていたベルフラウは、薄い扉に対する遠慮の無い大声の笑い声 が海賊の船長であることに気がついて眉根を寄せる。壁にかかったランプの使い方を覚え て何かといじくり回していたオニビも、ドタバタとうるさい足音にベルフラウの隣まで戻 ってきた。 「ビ?」 「野盗を説得しに行くって言っていたけれど……戻ってきたみたいね」  部屋に閉じこもりきりだったが、大体のところはスカーレルやソノラに聞いている。彼 女が望まなくても、海賊たちは勝手に情報を持ってきてくれるのだ。 (あの人は……今度は何をしたのかしら)  複数の男たちが廊下を歩く音を聞きながら思うのは、そればかりだった。 (どうせまた、大きなことをしてみせたんでしょうね)  いけない、とはわかっているのだ。それでも、考えてしまうのは止められない。 (あの人は……私とは違うから)  彼はベルフラウの欲しい全てを持っている。  知識も。  力も。 (他人を信用する勇気だって……)  全てが美徳で出来ているような青年だった。初めて顔を会わせてからそれほど日が経っ たわけではないが、この短い時間でも彼がどれほど優れた人間かは身にしみて思い知らさ れている。  だからベルフラウは、その騒ぎもレックスが新しい手柄を立てたためだと思い込んでい た。ささくれ立った心は廊下でどういう会話が交わされているかも聞き取らず、自分の中 の大嫌いなものが膨れ上がっていくのを感じて、いたたまれない気持ちで目を扉から背け ていた。  扉が叩かれたのは、まさにそのような時だ。 「ベルフラウ、いいかしら?」 「え? ……ええ」  安っぽい扉は誰が叩いても安っぽい音しかしないと思っていたが、声をかけた美男の場 合だけは別のようだった。コツでもあるのか、最高級の木材にも負けない人の気を引く叩 き方。  ベルフラウが鍵を外して扉を少しだけ開くと、予想通りそこにスカーレルという海賊の 男がいた。 「……何か御用かしら?」  それが他の海賊であれば無視を決め込むところだったが、ソノラとスカーレルの二人だ けにはベルフラウも返事を返す。ソノラは歳も近いし同じ女ということで親近感があった し、スカーレルはおどけた女言葉に最初は面食らったが、そのせいか男に対してベルフラ ウが抱く警戒心が彼に対しては弱いからだ。  さらに女心というものにも彼は強いらしく、今もスカーレルは少女の部屋に入り込もう としないで扉から距離を置いて立ってくれている。これが他の海賊であれば、鍵が解かれ た瞬間に扉を勢い良く開け放っていただろう。  だが、そこに立っている彼はいつもとは違っていた。常ならば余裕のある妖しい笑みを 刻む口元に苦笑を浮かべ、ベルフラウを見ていた。先程まで廊下を騒がしていた者たちは 奥の食堂に行ってしまったらしく、そこにいるのはスカーレルだけだ。 「お暇かしら?」  と、彼は言った。その意味を吟味し、ベルフラウは大きく肩をすくめる。 「皮肉かしら? やることが無くて退屈していたところですわ」 「あら、ごめんなさい。船の上は娯楽が少なくてね」 「ご用件をどうぞ」  少女が促すと、スカーレルは苦笑のまま視線をベルフラウからは見えない横に向けた。 「実はね、隣なんだけど」 「隣?」 「センセ、酔い潰れちゃったのよ……アタシたち忙しいから、あなたが面倒を看て上げて くれないかしら?」 「はあ!?」  何それ、とベルフラウの目は大きく見開かれた。  スカーレルの説明によると、こうだ。  説得しに行った相手はカイル一家が敵対している海賊で、説得は非常に難しい状況だっ た。それでも実際の戦い以外の方法での解決を望んだレックスの要求に応え、カイルたち は呑み比べという方法での決着を求めた。  それにレックスも参加することになり、酒に強くない彼はあえなく一番最初に酔い潰れ るはめになったというのだ。 「呆れた……それでどうなりましたの?」 「勝負には勝ったわよ。うちの船長のカイルがね」  ジャキーニとオウキーニは島での野盗生活で体力を消耗しており、久しぶりの酒という こともあって勝算は充分にあったという。 「並よりちょっと呑めれば勝てるって勝負だったのよ。センセが予想よりも呑み慣れてな かったのは、意外ね」 「意外?」 「ええ。センセ、付き合いのいい人でしょ? だから、学生時代もさんざん人に付き合っ て呑んでた口だと思ってたのよ」 「それはありますわね……」  確かに、とベルフラウも頷いた。人から誘われたら断れなさそうな人なのだ。 「それで、勝負に勝ってどうなりましたの?」 「納得出来ないってジャキーニが駄々をこねたけど、オウキーニ……あっちの副船長ね。 彼が説得して、ジャキーニ一家はユクレス村で野良仕事を手伝って償いをすることになっ たわ。三食つきで、船の修理が終わったら島を出てもいいってことだから、処置としては 甘すぎるくらいね」 「それでみんな納得したんですの?」 「いいえ」  クスリとスカーレルは笑った。面白いものを思い出してしまった、という顔にベルフラ ウは一つの予感がした。  何したのだ、彼が。 「……何がありましたの?」  内心恐る恐る、しかし表情には出来るだけ出さないようにして、ベルフラウは尋ねた。 すると、スカーレルは笑いを堪えて言う。 「彼らの待遇をどうするかって話し合いが始まった時ね、やっぱりもっと酷い案がたくさ ん出たのよ。そうすると、ジャキーニ一家が呑み比べなんか無効だって言い出して騒ぎ出 すし、島の住人たちは化け物扱いされて怒るし、結局戦いになるなってアタシ思ったのよ」  そこに、と。 「そこにセンセが立ち上がってね」 「……立ち上がって?」 「倒れたの、ばたーんって」 「はあ!?」  今度こそ、目が点になる。あ然とする少女に、スカーレルは心底おかしそうに笑いなが ら続きを教えた。 「酔い潰れた人間が立ち上がるだけで一苦労なのに、いきなり立ったものだから立ちくら みしたんでしょうね。それでみんなが目を丸くしてるとセンセが転んだまま言ったのよ。 やめましょうよ、子供も見ているんですから……って」 「あ……」 「それでみんな黙っちゃってね。ふふ、あのジャキーニまであんな顔するとは思わなかっ たわ」  どのような顔を見てきたのか、スカーレルは本当に楽しそうだった。少しだけ自分もそ れを見てみたかったと思い、ベルフラウは慌ててその考えを掻き消す。  笑い続ける美男に、ベルフラウは不機嫌な顔で確認することにした。 「それで、あの人は隣で倒れているわけですわね」 「ええ、お願い出来るかしら」 「酔い潰れたくらいで、使用人の面倒をなんで私が看ないといけないんですの?」  それは精一杯の虚勢だったが、スカーレルは人差し指を左右に振って真剣な顔になる。 「甘く見ちゃ駄目よ。酔い潰れた人間が仰向けに寝ていると、自分の吐いたもので窒息す ることもあるんだから。出来るだけ横を向かせて、もし吐いたら口の中に指を入れてでも 中のものを吐き出させなさい」 「そうなんですの?」  初めての知識に、ベルフラウは眉根を寄せた。さすがに命に関わると言われては、無視 するわけにもいかなかった。 「よろしくね。はい、バケツ」 「……バケツ?」  ひょいと足元に置いてあった木製のバケツを手渡され、ベルフラウはそれを何に使用す るかしばし考え、想像に思い切り嫌な顔をした。スカーレルは少女の気持ちがわかるのか、 もう一度苦笑してから小走りに去っていった。忙しいというのは、嘘ではないのだろう。  バケツを受け取ったまま佇んでいたベルフラウは、大きく深呼吸をしてから隣の部屋に 向かった。応えられる状態ではないだろうと思いながらも、礼儀として扉を叩く。 「――――」  声をかけようとして、ベルフラウは迷った。  これまで自分は、レックスのことを何と呼んでいただろうか。  使用人。  あの人。  それとも? 「……レックス、聞こえるかしら。入りますわよ」  取っ手を回すと、扉には鍵がかかっていなかった。自分の部屋と変わらない軽い扉を開 きながら、不意にベルフラウは世話係のサローネの言葉を思い出した。 (……仕方ないじゃない。淑女でも、理由があれば男の部屋くらい入るわ)  謝るよりは理由づけて自分を正当化するのは、少女の癖のようなも