二次創作に戻る


サモンナイト3 レックス×ベルフラウSS
カルマEDルート



 人が生きるということは、鳥が空を飛ぶことに似ている。
 親の姿を見て飛び方を学び、時には風に逆らい翼をはためかせ、またある時は気流に身
を任せてどこまでも空を翔けていく。
 何のために鳥は飛ぶのだろう、と聞けば、鳥はこう答えるに違いない。
 それが与えられた移動の手段だからだ、と。
 明快に、当たり前に、それが定められた宿命であるが故に。
 人間だって、同じだ。
 何故生きるのかと問われれば、そのように出来ているからだ、としか答えられない。個
人の哲学はどうであれ、人は生まれることを拒むことは出来ず、そして生まれれば生きる
ものだ。
 生きるのが嫌であるとか、人は死ぬために生まれてくるだとか、賢しい大人たちは様々
なことを言うが、それでも人は皆知っているのだ。
 赤子の時、自分が全力で生きようとしたことを。
 人が自ら命を絶とうとしない限り、その肉体は生きるために頑なであることを。
 人の意志というものを排した部分では、命は命を繋ごうとするこということを。
 だが、それでも画一に命のためだけに生きられないのが人間というものだ。鳥がそれぞ
れ違う翼を持ち、それぞれにあった方法で飛翔するのと同じように、人はそれぞれの生き
方でその命を空へと運び、天翔ける。
 ある者は器用に美しく。
 ある者は不器用に、無様に足掻きながら。
 それぞれに一生懸命に空を飛び、時には疲れた翼を舞い降りた泉で癒し、人生という長
い旅路を進んでいくのである。
 だが。
 だがもし、翼が折れてしまったら、鳥は――命はどうなるのだろう。
 力強く生きる一方、大空を翔ける翼は脆く、ちょっとしたことでその形を永遠に失うこ
とがある。ほんの一時、飛ぶことに疲れて羽根を休めた隙に、誰かの手で引きちぎられ、
毒蛇のひと噛みで腐り爛らせられ、その翼が失われてしまうことがある。
 一斉に飛び立つ、無数の鳥。
 一羽だけ残される、哀れな鳥。
 見送る絶望と、美しかった自分の翼を嘆く心。もう戻らない。傷ならば治るかもしれな
い。しかし、失われたものは、もう戻りはしない。
 そこにあるのは、諦観か。怨嗟か。
 だが、どちらにしろ失うことは、一回しかできない。
 人は、それを、一つしか持っていないのだから。

                ※

「死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ!」
「あ……」
 思考を手放していたのは、ほんの一瞬のことだった。皮肉にも、そうなる原因を作った
意識にまで突き刺さるような鋭い憎悪の声が、彼女に正気を取り戻させたのだ。
 そして、色を取り戻した彼女――ベルフラウの瞳が捉えたのは、正視し難い地獄絵図だ
った。
 一人の赤毛の男が、豪奢なローブを着た男を──<無色の派閥>の大幹部と呼ばれた男
を足蹴にし、碧に輝く魔剣を振り下ろし続けている。
 それも惨いかもしれない。だが、そんなものはすでにベルフラウの感覚では驚くに値し
ない。
 まるでそれ自体が生きているかのように明滅を繰り返す、忘れられた島の中心部にある
遺跡の床。その、何かの祭壇のように階段状になった場所のいたる所に、完膚なきまで破
壊された人間の成れの果てが転がっていた。
 ある者は、果敢にも『それ』に挑んで、真正面から斬り捨てられた。すでに剣とも言え
ぬ光の束に変化した魔剣の切り口は、炭化を通り越して触れた部分を真っ白な灰に変えて
いる。
 その灰が遺跡に吹き荒れる魔力風に吹き散らされるよりも早く、逃げた者は『それ』に
捕まって、頭と胴体と足を一直線に床に叩きつけられた。
 かつて、殺される彼ら――<無色の派閥>が作り上げた遺跡の床は軋みながらもその圧
力に耐えたが、それは幸運ではなかった。床が抜ければ助かっただろうその者は、自分の
肩回り分の直径を持った円に姿を変えて、その床を飾る。腸詰を縦に潰した時のように、
その者に存在した穴という穴、圧力の出口から噴き出した生物の中身は、ベルフラウの認
識が記憶に映像を残すことを拒んだ。
 『死霊の女王』とさえ言われた女が、自ら召喚した悪魔の牙にかかり、細い首から鮮血
を噴き出してよろめいた。彼女は信じられないという顔で悪魔を見遣り、次の瞬間には千
の茨に首を、腕を、足を引きちぎられて消えた。『それ』に二重契約され、支配権を奪わ
れた悪魔に、かつて捧げてきた多くの命の最後に自分の命を明け渡して。
 一番冷静だったのは、『赤い手袋』と呼ばれる暗殺者たちだった。否、だからこそ、彼
らは道具でしかない職業的暗殺者の義務で、無謀にも『それ』に挑んでしまい、結果とし
て最大の被害を受けることになった。
 血袋が破裂する、とでも言えば良いのだろうか。数で見ればそれは多勢に無勢。十数の
暗殺者たちが『それ』に――碧の烈光に包まれた男に襲いかかった直後、彼ら全員が弾け
た。刹那のずれも無く、同時に微塵にまで分断された暗殺者たちは、まるでいきなり液体
に変わってしまったかのように、血の赤を空間に映えさせて床に落ちた。
 暗殺者を束ねる女は、それを見て遠間から短剣を投擲したが、正確に喉を抉るはずだっ
た刃は男に近づくほどに削れて消えた。男が何をしたわけでもなく、ただ男の傍に在るこ
とこそに恐れたかのように、消失した。
 返しの魔剣の剣圧で吹き飛ばされ、祭壇の高みから突き落とされた彼女は、まだ幸せな
方だっただろう。少なくとも、人の形は残して死ねたに違いない。
 そう思わせる何かが、敵対する者に『尊厳』というものを認めずに否定しきり、滅しき
る、天をも焦がす憎悪がその男にはあった。立ち塞がった者は、誰もがその憎悪を向けら
れる。人間一人に抱えられるはずもない、大きすぎる、暗く深すぎる憎悪を。
 その、混濁しすぎて真っ直ぐすぎる黒を意志と呼ぶのならば、それはこの上なく強大な
意志だった。迷わず、他の全てを置いて憎み、怒り、殺すための意志。
 故に――。
「は……は、あはははは! ようやくその気になったんだね、先生。あれだけ殺さないっ
て、あれだけ話し合おうって言っていたあなたが、ようやく。これで、条件は五分ってわ
けだね」
 碧の魔剣に伍する唯一の力。紅の魔剣を持つ少年がその力を解き放っても、もはやそれ
は遅すぎた。
「え?」
 その程度の時間でしかない。無造作に一閃した碧の魔剣は、少年の腕ごと紅の魔剣を半
ばから切りとばし、その力を無に変えていたのだから。
 それらの剣は、意志を喰らって力と為す。ならば、すでに人を越えてしまったその男の
持つ力は、人一人の生み出す刃など問題にはしない。
 何故なら、その憎悪は、痛みは、何十、何百という魂の叫びなのだから。
(何故我ラガ死ナネバナラヌ)
(タダ静カニ暮ラシテイケレバソレデ良カッタノニ)
(力ノ振リカザス理不尽ガ憎イ)
(<無色ノ派閥>ガ憎イ)
(人間ガ憎イ)
(リィンバウムノ者タチが憎イ!)
 かつて、忘れられた島で理不尽な死を迎えた者たち。ささやかな幸せを蹂躙され、蔑ま
れ、子供を焼き殺された者たちの叫び。
 すれ違う一瞬の間にそれを見て取った少年は、命の最後の時にだけ痛ましげな表情を浮
かべて呻く。
「ごめん、先生……だけど、これで僕は――」
 肩が触れ合い、少年は散った。それでも男は止まらない。他人の死を虫を踏み潰したほ
どにも感じず、自分が殺すべき最大の敵を見据えていた。
 後退る、<無色の派閥>の大幹部。多くの者を踏みにじり、その上に君臨する、理不尽
の元凶。
(ソイツヲ生カシテオケバ、マタ誰カガ不幸ニナル)
(言葉ノ通ジナイ悪。他人ノ痛ミヲ知ラヌ者)
(滅ボセ!)
 男に、否やは無かった。
「死ネ」
 オルドレイクは、確かに他の者よりも強い力を持っていたが、それも人を越えたものに
対しては無意味だった。象の前で蟻と猫の力の大小を比べるようなものだ。どちらにしろ、
叩き潰されるものでしかない。
 その一連を、ベルフラウは見ていた。途中、どこで意識を手放したのかは覚えていない。
倒れたオルドレイクを男が足で踏み押さえ、その魔剣の切っ先を突き下ろしたところまで
は、映像として残っていた。
 断末魔の声を聞いても、すでに事切れた相手の上に延々と剣を振り下ろし続ける男を見
ても、すでに残酷だとは思えなくなっていた。
 短い間に、自分の中の何かが壊れてしまったのか、無意識に必要以上の刺激を受け取ら
ないように自衛策をとっているのか、麻痺した心の上を冷静に状況だけが理解されていく。
 現実を言葉にすれば、簡単だ。
 だが、それを口にすれば、ぎりぎりで保たれている均衡が崩れ、決壊した現実が一気に
自分に押し寄せてくるような気がして、ベルフラウは躊躇った。
 あれは違うのではないか。
 あれは彼――彼女の家庭教師の所業ではなく、彼を操る魔剣のやらせたことではないの
か。
 そう信じたがっている、一人の少女が、いる。
 だけれど。
 永かった、本当に永かった剣が肉を打つ音が途絶え、動くものの何も無くなった場所で
彼が不意に、偶然に視線を向けた方向。
 ベルフラウと男の視線が絡んだその時、その熱に浮かされたような瞳に浮かんだ痛み。
 それは彼――レックスそのままの瞳だった。
 現実が、襲ってくる。背筋を這い登った悪寒に、ベルフラウは叫んでいた。
「先生!」
「来るな!」
 周りが目を見開く劇的な変化だった。それまで憎悪のみを宿して殺戮を尽くした魔人が、
途端に苦しげに顔を歪めて後退った。剣を持たない手で顔を押さえ、吐き気を押さえる気
配。
 制止の声に踏み出しかけた足を止めたベルフラウは、急かされる思いに心を焦がす。
(駄目……このままじゃっ)
 予感がある。その人が、誰よりも優しく、傷つきやすいと知ってしまったが故の予感が。
一番彼の身近で、教え子として、一人の少女として過ごしてきた彼女だから感じるものが。
 誰も、その場を動こうとしない。四人の護人たちも、海賊たちも、大人たちは誰一人動
こうとはしなかった。
 彼の決断の意味を、彼らは知っている。
 仕方がないと、よく最後まで戦ったと、彼らは認めている。
 世の中の悲しみを、諦めなければならないことがあることを、大人たちは知っているの
だ。
 だから――彼は、ベルフラウだけに、言った。
「こっちには、来ちゃ駄目だ。きっと俺は……君も殺してしまう」
「そんなこと――」
「危ない、ベルフラウ!」
 交錯したのは、碧の魔剣の光と無数の幾何学模様。自然に、それが当然とでも言うよう
な仕草でレックスが右手の剣を一閃し、その力の軌道上にアルディラが割り込んだのだ。
 拮抗するまでもなく砕けた魔力障壁と、迫る閃光。
 反射的に突き出したベルフラウの両手の前に、危機を見て取った召喚獣、オニビが飛び
出してくる。
「ビィーッ!」
 雄叫びとも悲鳴ともつかない叫びを上げて、オニビがその人間の頭大の身体に炎を纏う。
小さな身体は即座に巨大な獅子に転じ、鬼妖界の炎の神獣はその全力を以って閃熱の破壊
力を碧の光へと叩き込んだ。
 が、それすらも、大地さえも融かす力を以ってしても魔剣の力は止まらず、赤い力を貫
通した剣圧が見上げるような巨体となったオニビを殴り倒す。
「ビ!?」
「オニビっ」
 身を盾として主を守った護衛獣が地響きを立てて遺跡の床に倒れ、盛大な砂煙が舞う。
(違う……っ)
 視界を遮る白いものに、ベルフラウは嫌悪感を覚えて息を止めた。それは灰と化した人
間の成れの果てだ。
「ベルフラウ、無事か? ベルフラウ!」
 灰を掻き分けて、カイルが走ってくるのがわかった。他にも、ヤッファが倒れたアルデ
ィラを抱えている。ファリエルとヤードは協力して魔法障壁を展開し、ソノラは戸惑った
表情で銃口を一方に向けている。
 どちらへ?
「やめて……っ。なんで先生に銃を向けてるのよ! 他のみんなも、どうして……」
 言葉が途切れたのは、見上げた大人たちの顔を見てしまったからだ。全員がやるせない、
辛さを隠しもしない表情を浮かべていた。全員が状況を理解し、一斉に同じ行動を取って
いた。
 言ったのは、油断無く短剣を抜き放った美貌の青年だ。
「センセのために……あなたをあそこに行かせないために決まってるじゃない」
 スカーレルの押し殺した声には、普段の陽気さは欠片も無い。<無色の派閥>との決戦
で負った傷でボロボロの身体を鞭打っているのだ。立っているだけで、気が遠くなるほど
のはずだ。それでも彼は立つ。
 ――彼らは立つ。
「それがオレたちがあいつに……先生にしてやれる最後のことだからよぉっ」
 歯の根が軋むほど噛み締めて、カイルが真っ直ぐに眼下のレックスを見る。逃げたオル
ドレイクを追ったレックスは、階段状の祭壇で彼らよりも下の位置にいる。出口に近い方
向だ。
 つまり、彼らが遺跡を出るためには、レックスを越えていかなければならない。
 だが、戦いになるとは彼らは思ってはいなかった。彼らは自分たちが対峙する男のこと
を信じている。
「殴りあう以外の戦い方を選んでいたあいつに」
 カイルは、拳を握り締めて言う。
「体制に従うことなく、己を貫く彼に」
 ヤードは、目を伏せて呟く。
「どんな汚れ者でも、罪は贖えるものだって言えるあの人に」
 スカーレルは、決意を刃のように走らせて囁く。
「仲間だけは殺させるわけにはいかねぇよな」
 最後を持ったのは、アルディラをそっと床に下ろしたヤッファだった。彼とキュウマは
素早く視線を交わすと、ファリエルを加えた三人で最前列に立った。
「もしレックスに何かあっても、私たちなら、そう簡単には死にませんから」
「もちろん、引き際は心得ております。ヤード殿、アルディラ殿の治癒をお願いします」
「ちょ……ちょっと待ちなさいっ」
 そこまでの一連の流れ――『全員で納得済みの行動』を断ち切ったのは、ベルフラウの
声だった。
 悪寒がする。取り返しのつかないことを彼らはしようとしている。
 皆が皆、何か勘違いしている。
「あなたたち、あの人をこのまま行かせる気なの!? 正気!?」
「ああ。あいつの自制がまだ残っているうちに、行かせる。手遅れになれば、全員オダブ
ツだ」
 神妙に応えるヤッファ。状況が状況だけに、彼は子供を侮らない。黙っていろとは言わ
ず、詳細に説明した。
「嬢ちゃん、あんただって見ただろ、遺跡の周りにいた悪霊どもを。レックスは、そいつ
を魔剣を通して取り込んだ。理不尽を憎み、<無色の派閥>を憎むだけならいい。だが、
あいつらは生きてる奴全部、見境無く憎んでいるんだ」
 それはベルフラウも知っていた。遺跡に入るためには、その悪霊たちと戦う必要があっ
たのだ。その際に受けた憎悪の波は、まだ記憶に新しい。
 レックスは、忘れられた島で猛威を振るう<無色の派閥>の圧倒的な組織力に対抗する
ために、その憎悪の意志を受け入れた。もう誰も死なせないために、理不尽の行使を断ち
切るために、暴力を打ち砕く最強の暴力を得るために。
 ──自分の身を捨てて。
 ファリエルが、唇を噛み締める。かつて同じ決断をした人を、彼女は知っている。
 皆のために。
 悲しみを終わらせるために。
「一度それをしてしまったら、もう元には戻れない……人には戻れない。そのことを、あ
の人はわかっていたはずなのに。私たちのために、兄さんと同じで……」
 優しい人たちは、いつも優しい決断を下すのだろうか。ファリエルは目の奥が熱くなる
のを感じた。
 涙が、溢れる。霊体となってもまだ許された行動の一つ。しかし、それさえも、彼はも
うできなくなる。憎悪に飲み込まれ、レックスという青年の心は押し潰され、消えて行く。
「なんでこんなことに……っ」
 それこそ理不尽なのだと、ファリエルの慟哭が広い遺跡の中を反射する。
 誰もがそれに共感した。
 ベルフラウ意外は、だ。
(だから……っ)
 想いは口を突いて出た。
「そうじゃないっ。そうじゃないのっ!」
「ベルフラウ!?」
 止めようとしたソノラの手を振り払い、ベルフラウは皆の間を縫って前に出た。彼の姿
を視界に入れる。それだけを考えて、壁になっている背中よりも、一歩前へ。
「どいてっ」
 小ささを生かしてヤッファとキュウマの隙間から身を乗り出したベルフラウは、最後に
皆をその瞳に焼き付けようとしていた一人の男を見下ろす形になった。それは、先ほど彼
女に向けて恐ろしい一撃を放った者であったのだが。
「せん──」
「さようならだよ、ベル」
 全ての先手を打つように、白く長い髪の魔人は言った。すでに戦いは終わり、脅威は去
ったというのに、魔剣の力の解放は終わらない。もはや、彼の意志で制御できるものでは
なくなってしまったということだろう。
 それ故に、彼は寂しげな苦笑を浮かべて首を横に振った。
「ベル。俺はね、君の言いたいことはなんとなくわかるんだ。それは俺が言い続けたこと
だから。言い続けて……だけど捨ててしまったものだから」
 争いは、お互いの誤解から生まれるものだと信じ、人の善意を信じて会話の重要性を説
いてきた。世の中に正義はいくらでも存在し、その対立の中に妥協点を見つけて争いを収
めることができると、信じてきた。
 人は間違いを犯す生き物だと理解し、それを許すことを己に課してきた。償えない罪は
無い。それを確信してきた。
 しかし、それら全てを否定する、<無色の派閥>の暴力に直面した時、レックスは限界
を見てしまった。正しいはずの言葉すら通じず、論理ではなくひたすら利己のために他者
を踏みにじる暴力に、告げる言葉を失ってしまった。
 そして、迷いは最悪の形、戦う牙を持たなかったレックスをアズリアが庇い、命を失う
結果となって現れた。
 死。
 もう、その人が戻ってこないということ。
 それを意識した時、レックスは己の手を見た。考え得る限り、この世でもっとも強大な
力を持つはずの魔剣を見た。
 魔剣は言った。
 ──力ガ欲シイカ。
 何度も聞いてきた言葉だった。レックスは、それを受けて何度も力を引き出し、理不尽
な力を跳ね除けてきた。その度に、忘れられた島の過去に宿る憎悪に心を侵食されそうに
なったが、強固な意志は力を自分の正しいと思うことのみに使うように律することに成功
していた。
 だが、それでは足りなかった。<無色の派閥>の暴虐に対するには、あまりに非力すぎ
た。レックスは知っていたのだ。その憎悪に身を任せれば、この戦いを終わらせることが
できると。なのに、それをレックスは由としなかった。圧倒的な力で、無理矢理従わせる
のが正しいとは思えなかったからだ。
 ──ソレガ、アノ女ヲ殺シタ。
 アズリアの死が、彼に決断させた。次に窮地が訪れた時は、迷わないと。
 簡単な比較なのだ。
 前までは、きっとそうではなかったのだろうけれど、今は。
 この島で、皆と暮らした日々は。
「俺は、俺の信念なんかより、みんなの命の方がいい」
 怒ったように唇を引き結ぶベルフラウに向けて、レックスは苦笑のまま言った。
 素晴らしい仲間たちの笑顔は、そう思わせてくれるに充分だったのだ。
 信念とは、自分を成り立たせるものだ。自分の骨となり、自分を支えるものだ。それが
あるからこそ、レックスは傷ついても立ち上がれた。譲れない、『彼自身』だった。
 だけど、自分を捨てる決意をしてでも、守りたいものが、この世にはあった。
「そういうものがあるんだって最後に知れて……良かった」
 誰にでも優しく、誰でも許す笑顔。かつて、スカーレルやメイメイに『無理をしている』
と言われた、傷だらけで信念にのみ支えられた笑顔は、もう無い。
 ただどこまでも透明で、肩の荷を下ろした疲労の果てのような力の抜けた笑みがレック
スの顔に浮かぶのを見たベルフラウは、むしろ苛立ちが募ってさらに前に出た。ヤッファ
たちが慌てるが、構わない。
「ベルフラウ……!?」
「先生、こっちを見なさい!」
 両手を広げる。赤い服がひるがえり、それはまるで広げられた赤い旗のように、目的地
を失った誰かのために掲げられる目印のように。
 もちろん、レックスは彼女を見た。誰よりも忘れまいとした姿。自然と目で追っていた
相手。
 彼の、初めての教え子の姿。
 これが見納めになるのであればもっと目を凝らして──。
「何を勘違いしてるの、先生も、それからみんなも! 『絶対に諦めない』ことを、『取
り返しのつかない』ことなんて無いって教えてくれたのは、先生じゃないの!?」
「……ベル」
 言葉は、矢の様に胸に突き刺さった。
 ドクン、と痛みが、広がる。
「悪霊たちが何よ。島の意志が何よ。そんなもの知るものですか! 先生っ。先生はもう
諦めたの? 戦うのを諦めちゃうの? 私の先生は……」
 少女は蜂蜜色の髪を振り乱して叫んでいる。その言葉が、切り込んでくる。悲しみに、
憎悪に、憤怒の渦巻く場所を揺るがしてくる。
「私のたった一人の先生は……間違ったって、もう一度やり直せばいいって言ってくれた
わよ!」
 考えた果ての結論。
 一番大切だったものを切り捨てた自分。
 信念を捨てるということは、レックスが敗北したということ。力に屈し、己も力に頼っ
たということ。
 そこで彼は己の意志を支えるものを失い、それまでの持論をも放棄したことになる。
 だから、ベルフラウの言葉は、かつての彼の言葉をなぞる言葉は今意味を成さないとい
うのに。
 何故か、胸が痛い。
(攻メテ来ル者デアレバ殺セ)
「く……っ」
 衝動的に腕が動きそうになり、レックスは慌てて左手で右腕を押さえた。動作は間に合
ったが、先んじて溢れた魔力が足元から風を生み、彼の周囲に小さな渦が発生する。小さ
くとも、離れたベルフラウの前髪を揺らすほどの力だ。
 ──己を捨てて、得てしまった力だ。
(駄目だ、このままじゃ……っ)
 傷つけてしまう。守るために得たはずのもので。
 言い知れぬ恐怖に、レックスはベルフラウから逃げるように一歩後ろに下がった。逆に、
ベルフラウは一歩を詰める。両腕を開いたまま、赤い道しるべは言葉を続けた。
「先生は捨てても、私は捨ててない。先生の言葉を、捨ててないわ」
 どんなに大切にしてきたものでも、捨てるのは一瞬。失うのは一瞬。
「……もう、駄目なんだ。俺が貫いてきたものは、結局最後の一線では捨てることができ
るものでしかなかったんだよ。一度自分から剣を抜いてしまったら、もう終わりなんだ。
どんなに言葉を尽くしても、最後は力ずくになることを、俺はもう否定できない」
 それは、相手の首に刃を突きつけて言葉で説得するに似ている。今までのレックスは、
無手で説得していた。これから同じことをしようとしても、それは魔剣の力を背にした説
得でしかない。
 そのことを、どうベルフラウに伝えようと彼が思っていると、彼女がかぶりを振る。
 それこそが勘違いなのだと。
 大人たちは、誰一人気づいていない。賢しいからこそ、気づいていない。
「だから、どうして一回だけ間違ったら駄目なのよ。先生はそれを許したのに。私の間違
いだって、許してくれたのに」
 初めて出会った頃、酷いことを言って、迷惑をかけて、それでも彼女を受け入れてくれ
た家庭教師。
「簡単に捨てて、それで終わりにしないで」
 教えてくれたことを、捨てないで欲しい。嘘にしないで欲しい。
「捨てないでっ」
 心から、ベルフラウは叫んだ。心に届くのは、心からの言葉だけだと、それも彼に教わ
ったことだから。
「捨てて……いかないで」
 感極まって、涙が出る。ああ、本音はこんなものなんだわ、と思う。
 単純なのだ。
「私の家庭教師のくせに……勝手に……行っちゃわないで……」
 ポロポロと、ついに大粒の涙をこぼしてベルフラウはうつむいた。駄目だ。泣き顔は駄
目だ。
(『先生が行っちゃう』のはわかるんだから……っ)
 言いたいのは、彼が彼でいられるように、『彼』を思い出して欲しいこと。それだけの
はずなのに。
 それが諦観ではなく、未来に通じる別離ならば、まだ堪えられると信じているからなの
に。
「う……ああ……」
 結んだ口から、堪えられない嗚咽が漏れる。
 皆の前で両腕を広げ、顔も隠すことができない姿で、誇り高い少女は泣いた。子供だと
呆れられていい。顔をくしゃくしゃにして、おそらく初めての、人前で見せる弱さと我が
侭を、その全身で主張した。
 致命傷にも近い亀裂がレックスに奔ったのは、その時だ。
(アレハ我ラヲ妨ゲル者)
「ぐっ!?」
(殺セ!)
「お……っ」
(滅ボセ!)
「オオオオオオオオオオオオオ!」
 魔剣がこれまでにない強烈な碧の光を放出する。
 流れ込んでくる激情。憎悪。目の前の少女に対する──有り得ない憎悪。
「ウウウアアアアアアアアアア!」
 振り上がる魔剣。他の誰でもなく、レックスの腕が、それをベルフラウへと狙いを定め。
 護人たちが動くよりも先に、鮮烈なものが世界を染めた。
「せんせえぇぇぇぇぇぇぇ!」
「!?」
 その瞬間、レックスは我を取り戻した。振り下ろされた剣の力はベルフラウを逸れ、遺
跡の床を打ち抜き、大爆発がその場にいた全員を、遺跡全体を揺らした。
「きゃっ」
 粉塵の舞う中、ベルフラウが崩れる床に巻き込まれ落下するのを、レックスは考えるよ
りも先に抱きとめていた。そうするのが当然のように、『レックス』のまま。
「……ほら見なさい。何も変わってない」
 爆発の余波を受け、意識を朦朧とさせながら、ベルフラウは呟いた。
「鳥の翼は、もげたら終わりだけど……」
 人の命は、生き方は、鳥の飛翔に例えられるけれど。
「人は、鳥じゃない。そうでしょ……先生」
 そして少女は。
 ──最後の力を振り絞って、無言の彼の頭を掴んで、引き寄せた。





                結


 忘れられた島での一連の戦いは、こうして幕を閉じた。島は平和を取り戻し、護人たち
は各々集落へと戻り、協力して<無色の派閥>に受けた傷を癒していくことにした。
 戦いで失われたものは、決して少なくは無い島民の命と、そして作られたばかりの青空
学校の教師が一人。
 最後の戦い──その時以来、レックスを見たものはいない。魔剣の力によって半ば破壊
された遺跡の外に寝かされたベルフラウを仲間たちが発見した時には、彼はすでに姿を消
した後だった。
 島の亡霊たちに依存する魔剣の憎悪に身を浸している以上、彼が島を出ることは有り得
ない。だから、彼が島のどこかにいるのは間違いないのだが、そのことに関しては皆が口
をつぐみ、言及することはなかった。
 ただ一人、彼の教え子たる少女以外は。
「本当に残るのか?」
「ええ。私はここに残って、先生を探すわ」
 カイル海賊一家が島を出る日、ベルフラウは見送りに海岸線にまで出向いていた。オニ
ビを連れた少女は、甲板の上から声をかけてくる金髪の船長に笑顔でそう告げる。
「先生が今も先生のままでいるかはわからないけど、私はもう一度先生に会って、言って
やらないといけないことがあるの」
「そうか。ま、がんばんな」
 さっぱりとした、むしろどこかすがすがしいほどに迷いの無いベルフラウの笑顔に、カ
イルはそれ以上一緒に船に乗れとは言わなかった。彼女に渡された手紙を掲げ、ニヤリと
白い歯を見せて笑う。
「親父さんへの手紙は、確かに届けるぜ。──先生によろしくな」
「近くを通ったら、絶対に会いに来るからね!」
 ひょっこりとカイルの脇から顔を出したソノラが、元気一杯に声を張り上げる。それに
自分も両手を上げて応え、ベルフラウは出航する船を見送った。その横顔をもしレックス
が見たならば、目を丸くして驚いたことだろう。少女の横顔は、ほんの十数日の間に見違
えるほどに大人びていた。
 やがて、大きかった船が小さく遠ざかり、自分の目では甲板のソノラを見分けることも
できなくなると、ベルフラウはその場で大きく伸びをして、深く息を吐いた。
「──はあ。これで、一人、ね」
「ビィ〜」
「ふふ、ごめんなさい。あなたがいたわね、オニビ」
 頬を膨らませて抗議する護衛獣に冗談めいた笑顔を向け、ベルフラウは海から空へと視
線を転じた。海鳥が海賊船を追いかけるように天翔けて行き、その鳴き声に心洗われなが
ら少女は思う。
(そうよ。人は、鳥じゃないわ)
 傷ついても、翼を失っても、人には足がある。
 自由に理想という空を翔ける心が折れても、人は地面を這いずって目的地に向かえるは
ずなのだ。
 それに。
「先生の翼は、まだ完全に無くなってなんかいないわ。そうでしょ、オニビ」
「ビー!」
 憎悪に呑まれたレックス。しかし、悪霊たちではなく、『レックスが憎んだ』ものは何
だろう。彼が自分自身を捨てた理由は、何だろう。
 彼は、彼が憎んだ理不尽とは違う理由で、憎悪を受け入れたはずなのだ。
 ──それが『優しさ』という名の想いであることを、ベルフラウは知っている。彼らし
い理由であることを知っている。
「片方でいいわ。人は、翼一枚ずつで空を飛べる。鳥じゃないんだから。ね」
「ビィ?」
 一人で一枚。二人で二枚。
 肩を貸せあえば、それは二人で一対の翼になってくれる。
 レックスがいなくならなければ、少女はそんなことは考えなかっただろう。彼が弱くな
らなければ、そう考える必要もなかっただろう。
 しかし、彼が自分の前から姿を消した時、ベルフラウの心は動き出したのだ。
「あの人を……私が見つけ出してあげなくちゃ」
 いつだって自分を救ってくれた、人を。
 今度は、自分が救うのだ、と。
「さ、行くわよ、オニビ。これから、忙しくなるんだから。まずは、遺跡の跡から情報収
集よ」
「ニビィ〜!」
 そう言って、ベルフラウは水平線に消える海賊船に背を向けた。自分でやるべきことを
定めた瞳は真っ直ぐで、力強くさえある。自分がするべきことを見つけるまでの道程が子
供時代であるというのならば、今ベルフラウの子供時代は早すぎる終わりを迎えたと言っ
て良いだろう。
 それくらい強い歩み。それくらい強い意志。
 最後の別れを思い出して、ベルフラウは宣言した。
「私を泣かした責任、取ってもらうんだから!」
 そうして、涙と唇の仇をとるために少女は進みだした。間違いが重なって訪れてしまっ
た悲しい現実。それを越える、新しい未来のために。


 人の人生は、鳥の飛翔に例えられるけれど。
 翼と違い、心は何度でもやり直せると信じてる。
 それを教えてくれたのは、他の誰でもないあなたなんだから!


                     終 → To be continue another future!




二次創作に戻る